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時事ネタ『吉本問題』について

2019.12.23 Monday

第101号   2019年7月23日配信号

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■1 今週のオープニングトーク
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼今週は休刊のつもりだったのですが、、、▼▼▼

メルマガ読者の皆様、こんにちは。
実は今週、メルマガは休刊するつもりだったのですよね。
執筆時間が全然取れなかったので。
3回目ぐらい(?)の休刊かぁ、
というつもりでいたんです。一週間。

そういう週もあります。

そもそもロングスリーパーな私は、
毎日9時間〜10時間寝ているので、
他の人よりも2〜3時間、1日が短いのです。
そのぶん、スマホを持たないことにより、
1〜2時間ぐらい「稼いでいる」のですが、
それでもやはり、
6時間とか7時間睡眠で大丈夫な人よりも、
「人生が短い」と思っています。
私に与えられた時間は、他の人よりも短い。

だから、
「無駄なことをしている暇はない」のです。
「人生は短い。
 そんな暇はない。」
と思うことが、私は多分他の人よりも多い。
あれもこれもできない。

だから、レーザービームのように、
自分が本当にすべきこと、
自分にしかできないこと、
そして自分がしていて生き生きすること、
それによって社会の役に立つこと、
そういったことに集中したいと思っています。

SNSの「いいね」を数える時間はありません。
メッセンジャーアプリで即レスする時間もありません。
そもそも「通知」が嫌いなので、
なるべく人にはアカウントを教えません笑。
Facebookでそんなに仲良いわけでもない人の、
近況をチェックする時間もありません。
面白くもないテレビを見る時間もありません。
社交場に行って、どうでもいい人の、
面白くない話を聴く時間もありません。
名刺を100枚交換して、
2回目に会う人はそのうち1人、
というような人間関係構築をする暇もありません。

私は家族と大切な友人と、
濃密な交わりを過ごすことに、
短い時間のすべてを使いたい。

教会と社会に自分の能力を還元し、
世の中に自分が生かされていることへの感謝を、
神に対して表現することに、
短い時間のすべてを注ぎたい。

そんなわけで、
「短い人生」の一部を使って、
執筆に当てるほどには、
このメルマガは重要なものなのです、私にとって。
わりとFVIの「預言的な働き」の、
とても大切な場所を占めているとすら思っている。

それでも執筆時間が取れない、
ということはあります。
年に何度かは。

先週めでたく100号を迎えたことだし、
まぁ、一週間ぐらい、休んでもいいかな、
と思っていました。

しかし、
なんか、これは今書いとかなきゃな、
ということができたので、
本日、火曜日の午前中に、
急いで書いています。
他にもすることがあるので、
1時間以上は書きません。

でも、なんか、
これは書かなきゃ、と思ったので。

そうです。

吉本のことです。
そっちかい!
という人もいるかもね笑。

参院選じゃないんかい!って笑。
参院選についても、もちろん語りたい。
二階幹事長の「安倍首相四選」発言について、
特に語りたいし、問い詰めたい。
でも、まぁそれは別の機会に譲りましょう。

なぜ吉本のほうなのか?
陣内はバカなのか?

そうかもしれませんが笑、
そうじゃないんです。
この問題って、
現在の日本社会の膿といいますか、
病理が濃縮されていると思うんですよね。

私は獣医ですが、
なかでも「病理学」という分野は特殊で、
死んだ動物しか相手にしません。
なかでも珍しい死に方をした牛は、
その死体にたくさんの情報が含まれている。
一体の解剖から、
臓器の写真を撮り、
組織切片を作り、
様々な染色を施し、
あらゆる角度から分析する。

尊い命をもって牛が教えてくれたその「情報」は、
獣医学という学問を前進させ、
よりよい明日のために、
大切な考察を与えてくれます。

吉本は「死体」ではありませんが、
今この組織が経験していることは、
病理解剖することで私たちが貴重な情報を得られる、
そういった「サンプル」だと思うのですよね。
なので、私なりの角度で語ってみたくなりました。

というわけで質問カードは割愛し、
さっそく本編にいきましょう。
「モリカケ問題」以来の、
「今週の時事ネタ」のコーナーです。



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 今週の時事ネタ

今週の「時事ネタ」のコーナーです。

実はブログに限界を感じメルマガをはじめた
理由のひとつはここにあります。
べつに私は「炎上」するほどの影響力があるわけではないのですが、
この手の話題というのは、英語で言うなら「Touchy」であり、
何気ない「意見の表明」が、ある読み手にとっては、
神経を逆なですることになりかねない。
逆にある受け手にとってその「意見の表明」は、
「これこそ自分の政治信条の代弁だ」みたいになって、
変な形で拡散されたり、「シンパ」のように思われたりしかねない。

だからこそ「政治の話はタブー」なのでしょう。

有吉弘行が、父親から唯一言われたアドヴァイスが、
「人気商売をするにあたって、
 政治の話と宗教の話はぜったいするな」
だったと彼は著作に書いていました。
彼はそれを忠実に守っているように見える。
そして成功しているように見える。
私も非常に限定された意味においては、
「人気商売」的な側面もありますから、
本当に「成功」したければ、
ここには立ち入らないのが「正解」です。

私は教会に関する仕事をすることが多いですが、
教会でも多くの場合「政治の話はタブー」です。
読者の皆様の多くは会社などで働いておられると思いますが、
職場でも「政治の話はタブー」と推察されます。
学校に行っている人ならば、
「学校でも政治の話はタブー」でしょう。
近所づきあいをしている人なら、
「地域社会でも政治の話はタブー」でしょう。

、、、とすると、
今の日本社会で、政治の話がタブーでない場所って、
どこにあるんでしょう?

なんと、現実世界にはそんな場所はないのです。
ではどこに、「政治の議論」はあるのか。
じつはインターネットです。
そして端的に言って、インターネット上の「政治の話」は、
悪臭が漂い、魑魅魍魎が跋扈する危険な領域であり、
首を突っ込むと、あなたの首ごと強烈に腐敗します。
または耳や鼻を持って行かれかねない。
いつか説明しますが、「あの界隈」は非常に危険なので、
首を突っ込まないのが正解です。

そうすると、ハーバーマスのいうような「公共圏」で、
政治について開かれた議論を安全に聞くことは、
まず不可能ということになる。
そして良識的な人が沈黙すると、
やがて非常識な人の声が相対的に大きくなる。
クレーマー問題がそうですね。
「ノイジーマイノリティ効果」とでも呼べる。
、、、だとすると、良識的な人が、
ときにはリスクを背負い、ある種の覚悟をもって、
「何の得にもならないけれど」発言しなければならない。
有吉弘行には鼻で笑われるでしょうが、
私はそう考えます。
その「発言」をする場所として、
メルマガを発行することにした、というのも、
このメルマガを刊行する一つの理由です。

じゃあ私が「良識的な人」なのかどうか?
それはお読みいただいて、
その判断は読者のあなたに一任いたします。
ちなみに私はフランスの思想家ヴォルテールの、
次の言葉をたいせつにしています。
「私はあなたの意見に反対だが、
 あなたがそれを言う権利は死んでも守る。」
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼論点は二つある。▼▼▼

早速今回の吉本興業の問題を振り返りましょう。

まず、この問題には論点が二つあります。
「フタコブラクダ型の問題」になっています。
ひとつめは、宮迫さんたちが、
反社会勢力、具体的には振り込め詐欺グループの、
パーティに出席し事務所を通さない報酬をもらったことの是非、
といういわゆる「闇営業問題」です。

ふたつめは、宮迫と亮の会見によって明らかになった、
吉本興業の「隠蔽体質・ブラック企業疑惑」ですね。
土曜日に宮迫さんたちが会見し、
それを受けて松本人志が吉本本社で社長・会長と直談判し、
日曜日の朝にはワイドナショーが生放送され、
それを受け昨日(月曜日)に岡本社長が会見をしました。
最初の会見の論点は、
「闇営業問題」であり、
宮迫と亮がどう責任を取るのか、というところにありました。
2番目の会見の論点は、
「吉本という企業の体質/
 タレントと事務所のパワーバランス/
 テレビ業界と芸能事務所の暗黙ルール」
というあたりにあります。

わずか2日間で、
世間の「批判の的」は、
宮迫さんから、
一気に岡本社長にシフトしました。

宮迫と亮は、
どれだけ確信的だったか分かりませんが、
見事に「論点をずらす」ことに成功したのです。
これを意図的にやったとしたら天才ですが、
多分意図的じゃないです。
「世論」って気まぐれなので、
「このようにコントロールしよう」
と思ってできるものではないからです。

とにかく、2日間で、
論点はスライドしました。
1.闇営業の是非
2.吉本の企業体質
1から2へと、論点がずれたわけです。


▼▼▼いや、論点は三つある。▼▼▼

ここでもうひとつ論点が出てきました。
これは「メタレベル」の論点です。

どういうことか?

1から2へ、論点がスライドした背景に、
今の日本の「世論」の気まぐれさと、
その傾向があるわけです。
宮迫と亮の会見までは、
「宮迫憎し」という大衆心理があったわけです。
嘘をついたのがいけない。
不倫疑惑のときから嘘をついていた。
100万円をもらって覚えてないとかあり得ない。
他にも「黒い交際」があるのではないか。

自分が詐欺被害者でもあるかのように、
(なぜか)詐欺被害者を代弁して、
彼らを糾弾する論調が多かった。

どうしてそうなるのか?
現代の日本で「最強の正義の根拠」は、
「被害者」だからです。
「被害者が一番強い国」だから、
被害者じゃない人が、
「被害者はどう思うと思ってるんだ!」
と、虎の威を借る狐のように、
「代弁型正義」を振り回す。
これが昨今の日本の悲しいところです。
一神教的な世界では起こりえない状況です。
「絶対的な正義の尺度=超越的な神」がいる世界では、
「被害者かどうか」ではなく、
「あなたが神の前に正しいかどうか」が大切ですから。
ルース・ベネディクトが言った、
「罪の文化と恥の文化」の違いです。
恥の文化の日本には「正義の根拠」が、
被害者性ぐらいにしか求められないわけです。

話が多少それました。

とにかく、
会見前の状況は、宮迫という人気芸人が、
袋だたきにあって、
「凋落」していく、
それを見るのを世論が「楽しんでいた」きらいがあります。
ベッキーの不倫騒動以降、
ワイドショーのネタは「こればっか」です。
他にねーのかよ、と思う。
でも、これはワイドショーがバカだからじゃないんです。
それを見る人が多いから、
彼らは資本主義の原理に基づいて、
視聴率が上がるものを創り続けているだけなので、
「視聴者がバカ」だからこうなるのです。

つまり「一番見たいものは集団リンチ」
という、異常な社会状況になっている。
この背景には長く続く実質賃金の地盤沈下、
雇用の不安定性、福祉の維持困難など、
今の日本のあらゆる社会階級の人間が、
「生きづらさ」を抱えていることと関係があります。

「生きづらさ」というフラストレーションに対して、
「生きづらさを取り除く」という原因療法とは別に、
「対症療法」も存在します。
それは、フラストレーションに対するカタルシスを与える、
という方法によってなされます。
「溜飲を下げる」というやつです。

このときに「サンクション」という概念が、
役割を果たします。
サンクションとは「制裁」を表す英語ですが、
辞書でこのように定義されています。

「社会的規範から逸脱した行為に対して加えられる
心理的・物理的圧力をいう。社会的制裁ともいう。
それは単なる嘲笑(ちょうしょう)といった程度のものから
死に至るまでのものを含む。」

まさにベッキー以降の、
ワイドショーの状況です。
ワイドショーは今、
「サンクション劇場」になっているのです。

この「サンクション」がなぜ劇場化するのか?
サンクションの現場には、ある感情が伴います。
それは「シャーデンフロイデ」という感情です。
ドイツ語で「他者の不幸を見て得られる喜びの感情」を意味します。

今の世界では、
政治家もサンクションを利用し、
「外敵を作る」ことで票を得ます。
原因療法、つまり人々の生きづらさを取り除くよりも、
対症療法、つまり人々の溜飲を下げることのほうが、
簡単だからです。

アメリカ人の問題を解決するよりも、
「メキシコ人からアメリカを守る」と言った方が、
コストが安いからトランプはそう言ったし、
それは成功しました。
原因を取り除くには痛みが伴いますが、
症状を取り除く麻薬は快楽をもたらすからです。
韓国政府は国内政治のあまりの混乱に、
それを覆い隠すために、
「日本憎し」という外敵を作ることで、
国民の溜飲を下げさせ政権を延命させます。
これはもはや韓国の慢性的な病になっています。

日本の政治もそうですね。
昨今の日本で保守の政治家が勝ち続けている理由は、
彼らが基本的にはサンクションを満たすからです。
「外敵から日本を守る」という方向性のほうが、
「社会保障制度を見直す」という方向性よりも、
集票効率は良いに決まっているのです。
排外主義的な政党が世界で人気なのには、
こういった理由があります。

マスコミも、
「シャーデンフロイデがよく売れる」
ことをよく知っていますから、
すべての報道が「ベッキー化」するわけです。
今回の宮迫さん問題も、
シャーデンフロイデの格好の餌食になったのです。
芸人として成功し、
きっと良いお金を稼いでいた「成功者」が、
落ちるところまで落ちる、という「見世物」を、
世間は楽しんでいた。

ところが2日間で状況は一変します。
どう一変したのか?

それが1→2への論点のシフトです。
つまり「サンクションの対象」が、
芸人から芸能事務所へと移ったのです。
これを「手のひら返し」だと批判する人もいます。
私も手のひら返しだと思います。
しかし、世論が賢かったためしなんて、
今まで一度たりともないわけですから笑、
私は今さら腹も立ちません。
「まぁ、そうなるでしょうね」というだけです。
いっさいの価値判断を留保します。
世論は自然現象と同じですから、
「昨日晴れてたのに、
 今日雨じゃねーかよ!」
と怒っても仕方ないのです。
世論は気まぐれです。
そして論理なんてありません。
ただただ、そういうものとして受け入れるしかありません。

受け入れた上で、
自分はそれに巻き取られないように、
「自分の頭で考える」という習慣を身につけ、
世間の空気に流されないように、
思考の足腰を鍛えておくしかありません。

エーリッヒ・フロムが、
ナチズムという空気に人々が流された果てに、
『自由からの逃走』で書いたのが、
まさにそういうことです。

ところが今の日本で、
「思考の足腰を鍛えよう」としている人は、
たぶん人口の5%ぐらいで、
95%ぐらいの人は、
世間の空気という暴風に吹き飛ばされている。
もしくは吹き飛ばされていることにすら気づいていない。

現在の日本でナチズム的なるものが吹き荒れても、
私はまったく驚きません。
そのとき私はボンヘッファーのように、
この世から消されるでしょう。
「サンクション」の餌食となって。


▼▼▼私が論じるのは「二つ目」。▼▼▼

ここまでの議論を整理するとこうなります。
論点は3つある。
1.闇営業の是非
2.吉本興業の体質
3.世論の「シャーデンフロイデ問題」

私が論じたいのは「2」です。

時間がありませんから簡潔に。

私はいつも仕事しながらラジオを聴いているので、
宮迫と亮の会見も、
岡本社長の会見も、
両方ともYouTubeの生放送で、
全部ではないにしても、
仕事をしながらではありますが、
1時間ぐらい「視聴」しました。
ワイドナショーも録画して、
久々に見ました。

1→2へと論点がスライドし、
サンクションの対象が、
宮迫から岡本社長へと、
移っていく様子をリアルタイムで目視したわけです。

ひとつ言えるのは、
宮迫に対するサンクションと、
岡本に対するサンクションは、
質的にも量的にも次元が違う、
ということです。

前者は「ベッキータイプ」であり、
後者は「日大アメフト部タックル問題タイプ」
と整理できます。

つまり、宮迫へのシャーデンフロイデは、
「成功した個人が凋落するのを見る喜び」であり、
岡本社長へのシャーデンフロイデは、
「大きな組織からの抑圧に対する怒りから来る、
 社会構造に向けた憤り」なのです。

過去にYouTubeで私は、
「シャーデンフロイデ」について話しています。

▼参考リンク:ひとりビブリオバトル『シャーデンフロイデ』
https://youtu.be/dZ6InVgRQXg

この動画でも言っているとおり、
私たちはシャーデンフロイデという感情が、
自分にもあるのを自覚し、
そしてそれに流されないように気をつけねばならない、
と自戒していますから、
前者のシャーデンフロイデに、
まったく感情移入できません。

いや、したくない。
したらダメだ、と思う。

姦淫の現場で捉えられた女性に、
石を投げる群衆のひとりに、
私はなりたくないから。

しかし、後者の、
「社会構造に向けた憤り」に関しては、
私はかなりの部分で共感し同意する。
もちろん内部にいる人間にしかわからない、
岡本社長なりの内在的論理があり、
そして彼なりの正義があるのでしょう。
問題解決のために奔走した1ヶ月だったというのは、
宮迫たちと同じで本当なのでしょう。

しかし、宮迫と岡本の間に、
決定的に、質的に異なる要素があります。
それが「組織に守られリスクを取らない人間」か、
「個人としてリスクを取りながら生きている人間」か、
という違いです。

前者は芸能プロダクションで、
後者がタレントです。

前者は球団やプロ野球連盟で、
後者がそれぞれの選手です。

今まで一度でも会社を辞めて、
独立したことのある人なら、
全員が激しく同意してくれると思うのですが、
日本社会における、
組織の強さは異常であり、
個人の弱さは異常です。

パワーバランスがあまりにも違いすぎる。
村上春樹は、
エルサレムの大学でのスピーチで、
『卵と壁』について語りました。
生卵は壁とぶつかるといつも壊れる。
どちらが正しかったとしても、
私はいつも卵の側に立ちたい、
と村上春樹は言いました。

壁とは「システム」です。
卵とは「個人」です。
システムは、
巨大企業、中央官庁、学問の象牙の塔、
宗教組織ならば「教団」、
そういったものを指します。

個人は「生身の個人」を指します。

宮迫と亮の会見は人の心を動かし、
岡本の会見は人の心を逆なでした。

なぜか?

それは、宮迫と亮の会見が「生卵の声」であり、
岡本の会見は「システムの声」だったからです。

岡本社長は、
「1年間の報酬50%カット」
ということで、責任を取るとする、
と言いました。
日大アメフト部問題の「大人たち」と同じで、
自分の立場は安泰です。
50%カットされた報酬の額は、
多分普通の会社員の年収よりはるかに多いでしょう。

芸人はどうでしょう?

解雇されたら、
彼らの人生はどうなるのでしょう?
たけしやさんまや松本人志や太田光が怒っているのはそこです。
芸人は「裸一貫で、あらゆるリスクを負って」芸人しているのです。
芸人から舞台を取り上げるのは、
会社組織に守られた人間の「降格や減給」といったリスクとは、
同じテーブルに並べることのできないほど大きなリスクなのです。
両者では、
リスクのレベルが違いすぎます。
なので当然、「腹のくくりかた」が違う。


▼▼▼「フラジリスタ」と「反脆弱性」▼▼▼

ナシーム・ニコラス・タレブは、
『反脆弱性』という本のなかで、
こんなことを言っています。

▼▼▼アポロン的なるものディオニュソス的なるもの
→位置No.340 
〈私は、ニーチェが『悲劇の誕生』で
取り上げている中心的な問題を理解するまでに、
ずいぶんと時間がかかった。
彼は「アポロン的」と「ディオニュソス的」の
ふたつの概念を提唱している。

アポロン的なものとは、安定していて、
バランスがとれていて、合理的・理性的・自制的なものを指す。
一方、ディオニュソス的なものとは、
あいまいで、直感的・野性的・自由奔放で、理解しにくく、
身体の内側から湧いてくるようなものを指す。

古代ギリシアの文化では、
このふたつがバランスを保っていたが、
ソクラテスがエウリピデスに影響を及ぼすと、
アポロン的なものの占める割合が高くなった。
ディオニュソス的なものは破壊され、
合理主義は過剰な高まりを見せた。
これは、ホルモンを注射して
身体の化学的なバランスを壊すようなものだ。
アポロン的なものばかりでディオニュソス的なものがないのは、
中国の言葉を借りれば、陽ばかりで陰がないようなものだ。〉


、、、読者の皆様はここで、
アポロン的なもの=システム(芸能事務所)
ディオニュソス的なもの=個人(タレント)
という概念の類似性に気づかれると思います。

ナシーム・ニコラス・タレブは、
アポロン的なもののことを、
別の箇所で「フラジリスタ」と呼んでいます。
フラジリスタとは何か?
タレブの定義によりますと、
「リスクをすべて外部に押しやり、
 自分(たち)の安定を至高の価値として保つ人々」です。

フラジリスタには、
大企業の役員、正社員、
象牙の塔の終身雇用された学者、
中央官庁や地方の公務員、
ある種の政治家などが含まれます。

なぜ彼が「フラジリスタ」と呼ばれるのか?
フラジリスタはフラジャイル(脆さ)から来ています。
つまりタレブは彼らのことを、
「脆弱なヤツら」と呼んでいます。

どこが?

と思うでしょ。
むしろ彼らは「最強」に見えますから。
「反脆弱性」を全部読むと分かりますが、
タレブがフラジリスタというとき、
彼ら自身が脆弱だという意味でもありますが、
彼らが「社会を脆弱なものにしている」
という意味合いを込めています。

金融工学モデルに基づき、
デリバティブ商品を売りまくり、
リーマンショックをもたらした、
ウォールストリートのトレーダーたちはフラジリスタです。
彼らがその後、満額の退職金をもらい、
今も涼しい顔でウォールストリートで働いているのは、
全世界が知っています。
彼らへの「サンクション」が、
ヒラリー・クリントンを落選させた、
というのも一つの見方として存在します。
民主党は金融業のシンパですから。

フラジリスタは常にリスクを外部に押しやります。
彼らが引き起こした脆弱さにより、
リスクを押しつけられたのは誰か?
リーマンショックによって傾いたGMを、
国庫資金で救ったことにより、
納税したアメリカ国民全員が、
損失を被りました。
あるいは金融業の手痛い失敗により、
資金が焦げ付いた地方の零細な事業主が。

東京電力もフラジリスタです。
彼らは誰もが知る「高給取り」です。
彼らがフラジリスタだったおかげで、
福島第一原発は事故を起こしました。
そのリスクは誰が取ったのか?
東電の社員ではありません。
福島県民全員と、
「高騰した電気代と復興税」によって、
その補填をし続けている、
日本の全国民が損失を埋め合わせています。

フラジリスタは常にリスクを外部に押しつけ、
自分たちは安泰であることを至上の価値とします。
皆さんもおわかりのように、
芸能事務所や大手メディアはフラジリスタです。
フラジリスタの至高の価値は「リスクを負わない」ことです。

岡本社長の会見があんなにも見るに堪えなかったのは、
彼がフラジリスタとして行動したからです。
YESかNOで答えて下さい、
と言われているのにもかかわらず、
質問に答えず、
もごもごと長い割に内容のない話をし続け、
はぐらかし続けた。
結論だけを言えば良いのに、
何が言いたいのか分からない、
言語的にも破綻した言い訳を繰り返した。
日大アメフト部のときと同じです。

彼らがなぜあのように振る舞うのか?
それは「壁の中で生活している」からです。

彼らは自分という個人を主語にして、
何かを語る事が出来ません。
彼らは「ポジショントーク」以外に何も語れない。
自分という個人を組織に売り渡すことで、
自らの安泰を守ってもらう、
という「互助会組織」が、
日本の企業文化ですから、
責任者の謝罪会見は、
いつも「似たようなグダグダ」になるわけです。

何が言いたいのか??

タレブが書いた本は、
「反脆弱性」です。
アンチ・フラジリティが英訳になります。
「アンチ・フラジリスタ」として生きることを、
タレブはこの本の読者に啓発しています。

なぜか?

21世紀が「不確実な時代」であり、
そのような時代は、
フラジリスタは必ず失敗するからです。
「壁の中で生活することのリスク」が、
ますます高まってきている。

私たちはどこかで「安定」を確保しつつ、
一方で挑戦し続けなければならない。
「リスクを冒さないことがリスクである時代」
に生きているのです。

ここが、20世紀と21世紀の一番の違いです。
20世紀というのは、
岡本社長的な生き方をしていれば、
本当に安泰だった時代です。
それには
「パイの拡大・人口ボーナス・二次産業主導型経済」
など、いろんな要素が絡んでいます。
とにかく20世紀は時代がフラジリスタに味方した。

21世紀の今、岡本社長的なふるまいは、
多くの論者が口をそろえるように、
「時代を読み間違えた」ふるまいとなります。
その背後にはインターネット、人工知能、
パイの縮小、人口オーナス、産業構造の転換があります。

私はやはり、
「リスクを取っているほうの味方」です。
私自身が「壁の外側」で生きているので、
きっと余計にそう思うのでしょう。

今回
1.闇営業の是非、
2.吉本興業の体質
3.シャーデンフロイデの問題

3つのうち、2について重点的に語りました。
1と3についても語るべき事はありますが、
またいつか、別の機会に。

さて。

ではどうすれば良いのか?

実は、社会を前に進めるのは、
「アンチ・フラジリスタ」です。
つまりリスクを取る人こそ、
「反脆い存在」へと社会を強くする。
イノベーションを起こす存在です。
起業家、芸人、芸術家、在野の活動家、
そういった人が不確実な時代に、
社会を前に進めるのです。

フラジリスタは彼らのイノベーションに寄生しているに過ぎない。
吉本興業が芸人の才能に寄生しているのであって、
芸人が吉本興業に寄生しているのではない。
価値の創出があって、富が生まれるのです。
逆ではありません。

人生をリスクに賭けて、
ゼロから1を生み出す芸人たちがいるから、
吉本興業が存在できているのです。

岡本社長はじめ、
吉本の上層部が勘違いしているのはそこであり、
彼らが「もっとも時代錯誤的な部分」はそこです。
そして会見により世間に彼らが見せたのは、
自分たちは本当にその失敗が分かった、という悔恨ではなく、
「勘違いし続けている」という事実であり、
時代錯誤的な企業であるということの露呈であり、
そして自分たちが時代錯誤なことというその事実にすら、
多分気づいていない、悲しくなるぐらい見苦しい、
フラジリスタ流の自己防衛でした。

この問題がどういう収束を見せるのか分かりません。
個人企業主のあつまりである芸人たちは、
雇用関係にあるわけではないので、
法律的に団体交渉権を持っていません。
「労働組合」が作れない。
しかし、プロ野球の「選手会」のようなものは作れるはずです。
ハリウッドの俳優たちも作っていますし、
NBAにもそういったものがあります。

そういった「職能による連帯」を作ることが、
私は急務だと思います。
「アンチ・フラジリスタ」の多くは、
宮迫さんらと同じく、
自分の人生をリスクに犯すことで、
自分たちの創造性を担保していることが多いので、
そのリスクを緩衝するような仕組みが必要です。
これって実は、ジャニーズの圧力問題ともつながってます。
「壁」が卵を押しつぶすのをこれ以上私は見たくない。

日本からイノベーションが死んでいくのを、
私はこれ以上見たくない。
「壁」には勝てないとしても、
卵のインキュベーターは作れる。
実は吉本興業の今回の問題って、
そういった社会のグランドデザインに関わる話です。

最後にひとつ。

会見のときに宮迫に、
「不倫の時はオフホワイトと言っていましたが、
 今回は何色ですか?」
と聞いたリポーターは、
とりあえず謝罪会見を開いて欲しい。
きっと彼(彼女?)もまたフラジリスタなのでしょう。

加計学園問題について

2017.12.14 Thursday

+++vol.018 2017年6月20日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 今週の時事ネタ

今週の「時事ネタ」のコーナーです。

実はブログに限界を感じメルマガをはじめた
理由のひとつはここにあります。

ブログで最も書きづらいのが「時事ネタ」です。
べつに私は「炎上」するほどの影響力があるわけではないのですが、
この手の話題というのは、英語で言うなら「Touchy」であり、
何気ない「意見の表明」が、ある読み手にとっては、
神経を逆なですることになりかねない。
逆にある受け手にとってその「意見の表明」は、
「これこそ自分の政治信条の代弁だ」みたいになって、
変な形で拡散されたり、「シンパ」のように思われたりしかねない。

だからこそ「政治の話はタブー」なのでしょう。

有吉弘行が、父親から唯一言われたアドヴァイスが、
「人気商売をするにあたって、
 政治の話と宗教の話はぜったいするな」
だったと彼は著作に書いていました。

彼はそれを忠実に守っているように見える。
そして成功しているように見える。
私も非常に限定された意味においては、
「人気商売」的な側面もありますから、
本当に「成功」したければ、
ここには立ち入らないのが「正解」です。

私は教会に関する仕事をすることが多いですが、
教会でも多くの場合「政治の話はタブー」です。

読者の皆様の多くは会社などで働いておられると思いますが、
職場でも「政治の話はタブー」と推察されます。

学校に行っている人ならば、
「学校でも政治の話はタブー」でしょう。

近所づきあいをしている人なら、
「地域社会でも政治の話はタブー」でしょう。

、、、とすると、
今の日本社会で、政治の話がタブーでない場所って、
どこにあるんでしょう?

なんと、現実世界にはそんな場所はないのです。

ではどこに、「政治の議論」はあるのか。
じつはインターネットです。

そして端的に言って、インターネット上の「政治の話」は、
悪臭が漂い、魑魅魍魎が跋扈する危険な領域であり、
首を突っ込むと、あなたの首ごと強烈に腐敗します。
または耳や鼻を持って行かれかねない。
いつか説明しますが、「あの界隈」は非常に危険なので、
首を突っ込まないのが正解です。

そうすると、ハーバーマスのいうような「公共圏」で、
政治について開かれた議論を安全に聞くことは、
まず不可能ということになる。

そして良識的な人が沈黙すると、
やがて非常識な人の声が相対的に大きくなる。
クレーマー問題がそうですね。
「ノイジーマイノリティ効果」とでも呼べる。

、、、だとすると、良識的な人が、
ときにはリスクを背負い、ある種の覚悟をもって、
「何の得にもならないけれど」発言しなければならない。
有吉弘行には鼻で笑われるでしょうが、
私はそう考えます。

その「発言」をする場所として、
メルマガを発行することにした、というのも、
このメルマガを刊行する一つの理由です。

じゃあ私が「良識的な人」なのかどうか?

それはお読みいただいて、
その判断は読者のあなたに一任いたします。

ちなみに私はフランスの思想家ヴォルテールの、
次の言葉をたいせつにしています。

「私はあなたの意見に反対だが、
 あなたがそれを言う権利は死んでも守る。」

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼加計学園問題について▼▼▼

先日、北海道のラジオネームbrotomさんから、
「獣医師としての加計学園問題に関する私見を聞きたいです」
というご質問をいただきました。

Q&Aコーナーでお答えしようと最初は思ったのですが、
「時事ネタコーナー」を久しくやっていなかったので、
今回はこちらで語っていきたいと思います。

ちなみに前回の「今週の時事ネタ」のコーナーで、
私は「森友学園問題」を扱いました。

そして現政権を思想的に支えている、
「日本会議」といった保守勢力の思想を分析し、
その思想的ルーツが、「成長の家」という、
新興宗教の創始者である谷口雅春氏の「生命の実相」という
「教典」にある、といったことを紹介しました。

▼参考リンク:「日本会議の研究」
http://amzn.asia/iDFkZVK

、、、私はキリスト教徒なので、
彼らの「国家神道的な世界観」にまったく同意できませんし、
与するつもりはまったくありません。

かといってそれを「禁止」するのにも反対です。

「森友学園」にかかる問題でもっとも重要な論点は、
極右的な「思想そのもの」ではないと私は思っています。
むしろ右派勢力がその思想をどう思っているかという、
「メタ思想」に最大の問題があるというのが私の見方です。

どういうことか。

森友学園の籠池理事長は、
「国家神道は宗教ではない」と発言しています。
そして安倍昭恵夫人が名誉校長という形で、
ある時点までは全面的にそれに賛同していたことからもわかるように、
そのような「メタ思想」を現政権が好意的に見ていた、
という事実こそが、最大の「ドン引きポイント」なのです。

ここにこそ森友学園問題の本質がある。

「教育勅語」を唱和しようが、
「安倍首相、安保法制通過、おめでとうございます」
と、園庭で園児達が声をあわせて合唱しようが、
それは「思想信条の自由の範囲内」です。
保護者と幼稚園運営者が合意しているのであれば、
他人がとやかく言う権利はありません。
(私個人の感想を申し上げるのなら、
 端的に「クソ気色悪い」ですが 笑)

しかしそれは「自由」です。
園児が軍歌を歌おうが、
賛美歌を歌おうが、
長渕剛の「ろくなもんじゃねえ」を歌おうが、
私立の幼稚園では「自由」であるべきなのです。

「愚行権」というのがありまして、
民主的な市民社会において、
「それがいくら愚かなことであろうと」
それをする権利は認める、というのは、
公民権の基本です。

しかし、
「国家神道は宗教にあらず」
という主張は位相が異なります。

つまりそれは、
「あらゆる思想や宗教に卓越して」
「国家神道」という「宗教」を、
特異点に置く行為だからです。

明治政府や戦前の日本政府が、
仏教やキリスト教や創価学会を「合法的に弾圧」できたのは、
「国家神道を特異点に置く」という論理の詐欺があったからです。

安倍首相も参加している、というよりもその渦の中心にいる、
「日本会議」の議事録を読みますと、
「すべての公立学校に床の間を設けるにはどうすれば良いか」
というようなことが、真剣に話されている。

「床の間」って?
「茶道や華道のため?」

違います。

そこに「神棚」と「天皇の肖像」を設置し、
それを「礼拝」するための、
ミッションスクールでいう「礼拝堂」です。

これを公立学校で今やれば、
当然「政教分離の原則」に抵触しますから、
彼らは「国家神道は宗教にあらず」という論理で、
それを「押し切ろう」としているわけです。

まったく背筋の凍る話しです。

私は安倍政権がしている個々の政策や外交において、
部分的は支持・賛同するところも多いですが、
根底の部分、ガットレベルで忌諱感を持っています。

それは目に見える具体的な政策のもっと奥深くにある、
目に見えない思想的な位相において、
彼が持っていると思われる世界観・国家観と、
私が聖書から確信しているそれが相容れないからです。



▼▼▼「忖度」について▼▼▼

、、、さて、加計学園問題についてですが、
私は森友学園問題ほどには、
「語るべき言葉」を多く持ちません。

この問題は現政権に反対し、何が何でも失脚させたい、
一部マスメディアや野党によって「大問題」のように騒がれていますが、
皮肉なことに「とにかく反対することしか能がない」という、
野党の姿にこそ国民は失望しているのであり、
彼らの「狂騒曲」は逆に、
安倍政権の消極的支持者を増やしてしまっている。

「忖度」という言葉が今年のキーワードみたいに言われていますが、
官僚の世界で「忖度」なんていうのは常識です。
私の6年間の「小役人」の経験からもそう言えます。

入札だとか建設のコンペなども、
市民への説明責任のために、
あいみつ(複数の見積もり)を取りますが、
本気で100社が入札してきたら困るので、
「この部品が入っていないといけないよ」という、
内部のルールを作るのです。

そうすると「その部品」を作れるのは、
国内に2社しかない。
だから話しは簡単だ、となる。

市長や市議会のコネクションがあって、
「今回はこの企業で」という根回しが出来ている場合は、
議会から上層部へ、上層部から担当部局へ、
「証拠が残らないような形」で、
しかし関係者には明確に分かるような形で、
指示が伝達される。

たとえばA社を「落としたい」場合、
「あの件に関して、A社は特に厳密に精査してくれよ」
という指示が飛ぶ。

B社を「受からせたい」場合、
「B社には、常日頃お世話になっているから、
 いつもどおり、しっかりとやってくれよな。」
みたいな形の指示が飛ぶ。

それが録音されていたとしても、
あとで証拠にはなりませんが、
関係者にはその「意図」が分かる。

こういう「犬笛型の指示」というのが、
役人にはあるわけです。

(*念のため言っておきますと、
 私が市役所で勤めていた時代の職場には、
 そもそもそんな「政治力」はありませんでしたので、
 そういった「犬笛」は存在しませんでした。
 しかし、そういったことが起こる「文脈」を、
 私は皮膚感覚で理解できます。)

今回のことも安倍首相の親友の学園が、
他には選択肢のないような状態で、
異例のスピードで認可が下りたといういうのは、
「そういうこと」なのです。

菅官房長官も安倍首相も、
その辺はたぶん自信があったから、
最初に「強く否定」しすぎた。

大見得を切りすぎたわけです。

しかし後で調べたら証拠が出てきた。
怪文書は怪文書ではなかった。

文科省はあまり優秀ではなかった笑。

、、、で、あわてて発言を撤回した、という顛末です。

▼参考リンク:「菅官房長官が『怪文書』発言を撤回」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170616-00000086-mai-pol



▼▼▼「ネポティズム(縁故主義)」の問題▼▼▼

こういう、身内の忖度だとか縁故によって、
ものごとが決まっていくことを、
「ネポティズム(縁故主義)」といい、
それは日本の「伝統」です。

何も今に始まったことではありませんし、
おそらく一般企業や市民社会、ひいては教会ですら、
こういったことは日常的に行われており、
ある意味でこういう「根回し型のネポティズム」は、
日本社会の潤滑油でもありますから、
一概に「けしからん!」と一蹴することも出来ない、
と私は思っています。

政治家が利益誘導をする。
そんなの当たり前のことです。
政治家なんて、利益誘導をする装置とも言えますから。

「組織票」って、そういうことですから。

しかし、行政はそうではない。

行政は「市民社会に開かれた公正な」決断をしなければ、
税金を使って施策を実行するという行為の、
「公明正大さ」が失われる。

文部省は建前上はすくなくとも、
公正に「ルールに則って」、
「新規学部設置の許可」の判断をせねばならない。
しかし、「政治家による利益誘導」というのは当然ある。
文科省はその辺を「上手に隠せなかった」というのが、
今回の話しだと私は理解しています。

、、、「加計学園問題」の問題に隠れて報道が小さいですが、
現政権の「ネポティズム」の件で本当に問題なのは、
こちらのほうだと思っています。

▼参考記事:レイプ疑惑は検察審査会へ 山口敬之氏は「起訴」されるか
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/206541

山口敬之氏の書いた「総理」という本を、
私は昨年の7月に読みました。

▼「総理」山口敬之
http://amzn.asia/6JZfWlW

この本は、安倍首相の祖父・岸信介、
そして麻生太郎氏の祖父・吉田茂から引き継がれた、
自民党のDNAみたいなものを解説してくれて勉強になりましたし、
そこにある「人間ドラマ」を興味深く読みました。

しかしひとつだけ「違和感」がありました。

それは筆者が現政権や安倍首相との「近さ」を、
ジャーナリストとして恥じるどころか、
むしろ自慢げに語っているというその語り口でした。

政治について書くジャーナリストというのは、
政治家とある種の共生関係になるということも、
「必要悪」なのである。
私は安倍さんと非常に近しい友人関係にある。
(どうだすごいだろう)
安倍ちゃんとゴルフしたり食事したり、
携帯でメール打ったり話したりもしちゃう。
だから人には書けないようなことが、
私には書けてしまうのだよ。
(どうだすごいだろう)

、、、というようなスタンスが、
「ダサいな」と思ったのです。

池上彰さんは彼とは真逆の立場です。
池上さんは「政治家と食事には絶対に行かない」
と公言し、それを実行しています。

なぜか?

政治家になるような人というのは、
絶対に何かの「魅力」を持っている。

そういう人間的魅力があるからこそ、
政治家になれたわけですから。

特に国会議員ともなると、
何万人、何十万人の人々が、
「一票」を投じています。
そのような「支持」を集めるには、
ある種の「磁場」が必要であり、
それは「人並み外れた人間的魅力」なのです。

池上さんはそれを分かっていますから、
政治家とは絶対に食事をしない、と決めている。
「個人的に付き合うと、そうしまいと思っていても、
 好きになってしまい、『ファン』になってしまう。」
池上さんはその危険性を自覚している。
自分を過信していないわけです。

磁場に入ってしまうと「砂鉄のように吸着する」から、
磁石のような魅力を持つ「政治家」という人種からは、
「半径10メートル以上の距離」を取る。
つまり、個人的には付き合わない。
彼はそう決めているのです。

ジャーナリストというのは、
市民に成り代わって権力を監視する「監視機関」ですから、
権力側の「ファン」になってしまったら、
肝腎なところで批判の手が弱まったり、
問題点を指摘する筆が鈍ってしまう。

池上さんは「プロ意識」としてそれを守っている。

山口さんはその真逆の生き様をしていて、
政権、もっと言えば安倍首相と「ズブズブ」です。

彼が「準強姦」をして、
それが安倍さんの政治力によって、
「不起訴」になったという疑惑は、
非常に問題です。

もしこれが本当なら、
日本が法治国家ではなく、
中世の日本や中国のような「人治政治」の国だ、
ということになる。

これは本当に良くない。
私は個人的にはこちらをもっと、
しっかりと追求してもらいたいと思っています。



▼▼▼獣医師として思うこと▼▼▼

、、、話を戻しまして、といいますか、
問題の切り口の角度をここで変えまして、
「獣医師としての私見」を書きます。
たぶんbrotomさんはこちらを聞きたかったと思われますから。

これは「ネポティズム」の問題とは、
まったく位相の異なる、
「もうひとつの別の問題」なので、
「選挙権を持つ市民として」ではなく、
「職能集団である獣医師の一員として」、
語りたいと思います。

私は岡山県倉敷市の公立高校から、
北海道にある国立・帯広畜産大学の、
畜産学部獣医学科に入学し、
2002年に獣医師になりました。
全国に「獣医学科」もしくは、
「獣医学部」がある国公立大学というのは、
たったの10校しかありません。

これに私立大を加えても17校。
私立大学は国公立の定員の三倍ぐらいありますから、
人数配分は同じぐらいです。
(国公立は一学年30〜40名、
 私立は100名以上です。
 今回の加計学園が新設する獣医学部も私立ですから、
 定員は100名ですね。)

1年に獣医師国家試験に受かって新たに獣医になる人数は、
全国で約1,000名。
ちなみに医師国家試験はその10倍の規模で、
年間約9,500名の人が新たに医師になります。

▼参考リンク:獣医師国家試験受験者数
http://www.maff.go.jp/j/press/syouan/tikusui/170310.html

▼参考リンク:医師国家試験受験者数
https://www.tecomgroup.jp/igaku/topics/111.asp


、、、これを見て、
獣医の数が「多い」と見るか「少ない」と見るかは、
その人の価値観によるでしょう。

元NHK職員で現在「アゴラ研究所」代表の池田信夫氏が、
この問題に関して、
「獣医はそもそもそんなに勉強する必要はなく、
 動物には『人権』がないのだから誰も困らない」
という主旨の発言をして「軽く炎上」しました。

▼参考記事:「獣医の免許って必要なの?」池田信夫
http://agora-web.jp/archives/2026391.html


、、「動物には人権がないのだから、、、」の部分は、
獣医師としてはとても心が痛みますし、
獣医学の勉強量に関しては単純に、
池田氏の事実誤認です。
医者の勉強は「人間というほ乳類一種類」ですが、
獣医師は牛、馬、犬、豚、羊、山羊、鳥類、、
といった動物種の臓器や組織や代謝の違いについても勉強する。
知識の深さは人の医者のほうが深いですが、
勉強する範囲の広さは獣医のほうが広いです。

、、、それはそれとして、
池田氏は「あらゆる規制と資格制度の撤廃」を提唱した、
自由主義の経済学者・ミルトン・フリードマンの信奉者ですから、
「医師免許も撤廃した方が良い」と考えているため、
彼の言うことに賛同するかどうかは別として、
それなりに一貫性はあります。

しかし池田信夫氏が見落としていることが、
実はもう一つあります。
それは獣医師の仕事は「動物の病気を治す」
ということだけではない、ということです。

特に公務員の獣医師(かつての私のような立場)は、
慢性的に人員不足状態にあります。

私が在籍していたときにすでにその傾向はありましたが、
近年はさらに状況は悪くなっていると聞きます。

▼参考記事:「公務員獣医師不足」の本質議論されず 
「実情を知って」と現場からは切実な訴え
https://goo.gl/vWoC4c

▼参考ブログ記事:【加計学園問題】って何?
と言う人が忘れないでほしい、たった一つの疑問
http://toulezure.hatenablog.jp/entry/2017/05/22/202047

この問題は一部新聞やテレビでも報道されたようですが、
これは精神論で片付く話しではなく、
「構造的な問題」があります。

獣医師というのは、医師と同じく6年間の専門教育を受け、
大学で188単位取り、司法試験と医師国家試験に、
次ぐボリュームと言われている獣医師国家試験も受けます。

私は国立大学でしたから他の学部と同じですが、
私立の学費は医学部に準ずるぐらい高い。

、、、何が言いたいかというと、
ひとりの人が獣医師になるのに、
厖大な時間とお金が「先行投資」
されているということです。

その先行投資をお金に換算すると、
医師に決してひけを取らない。

ところが、市民病院や保健所などに就職する、
「公務員医師」の初任給と、
同じく保健所や動物園などに就職する、
「公務員獣医師」の初任給は、
3倍近く違う。

市役所の職員として24歳で就職した私の、
初任給の手取りは、たしか197,000円でした。
市役所職員には、「技術吏官」「事務吏官」ごとに、
等級というのがあり、職種毎にそれは違います。
市の職員になると他の職種の給料も見られます。
医者の初任給を見て驚きました。
額面で600,000円を超えている。
つまり手取りで50万円近いはずです。

この差はあまりにも大きい。

*医師には「研修医制度」がありますから、
就職の時点で年齢も事実上の必要学習量も、
医師のほうが多いです。
それを差し引いても、大きな差です。

、、、それだったら一般企業(製薬会社など)の、
専門職として働いた方が給料が良い。
(獣医師手当だけで10万円以上出ることもあります。)

地方自治体の上層部は、
「獣医の職員が減ることをいぶかしがって」いますが、
本当は「いぶかしがるのがおかしい」のです。
需要と供給バランスから言えば当たり前のことが、
起きているだけですから。
人員不足になるのは経済合理性を考えたら、
自然な成り行きなのです。

(私の場合、公務員よりもさらに給料が激減し、
 加えて将来の保証もない仕事に転職する、
 という、「あり得ないキャリアパス」を選んだので、
 私というサンプルは何の参考にもなりませんが笑。)

何がこの「差」を生んでいるかと申しますと、
大ざっぱに言えば「政治力」です。
医師免許は厚生労働省の管轄であり、
獣医師免許は農林水産省の管轄です。
省庁の力関係でいうと、厚労省のほうが圧倒的に強い。
また「日本医師会」は、
日本で最も力のあるロビイ団体のひとつです。
対する「日本獣医師会」に政治力があるという話しは、
獣医師になって15年以上たちますが、
そんな話しは「聞いたこともない」。

この「政治力」の差が、下っ端の給料の、
3倍の差となって跳ね返ってくるのです。

半分ブラックジョークとして聞いて欲しいのですが、
「政治力」って大事ですね笑。

、、、さらに言いますと、
加計学園は愛媛県今治市に新設予定ですが、
四国にはひとつも獣医学部がありません。
北海道に3つ、九州に2つあるのに、です。

特に牛や馬や豚など畜産業に関わる、
「産業医」という意味では、
都市部よりも農村部でニーズが高いわけですから、
中国四国地方にひとつも獣医学部がない、
というのはバランスが悪い。

私は岡山県倉敷市の高校から、
北海道の獣医学科に進学した話しをしましたが、
中国四国地方の高校出身者で獣医師になって、
地元の畜産業に貢献したいと思うと、
一度中四国を出る以外選択肢はありません。
(唯一山口大がありますが、
 定員はたったの30名です。)

安倍さんがらみの「ネポティズム」の話しを別にすれば、
私は四国に獣医学部が新設されること自体には賛成です。
「職能集団の一員としてのポジショントーク」
としてではなく、率直な現場感覚からの「私見」として。

もっと言えば私立も良いのですが、
国公立で中国四国地方に獣医学科をつくればいいのに、
と本音では思います。
(少子化の世の中で国公立大学のサイズアップは、
 事実上非常に困難だとは思いますが。)
でも私立だと、学費が高すぎて、
獣医学科には貧乏人は入れないですから。

岡山大学とか香川大学、広島大学など、
すばらしい大学があの地方にはあり、
獣医学科が出来ることで、
医学部や薬学部、農学部や生物系の研究にも、
大きな刺激になるはずですから。

、、、あと、公務員以外にも、
今後獣医師の専門知識はますます必要になると、
私は「予言」します。

なぜか。

ズーノーシス(人獣共通感染症)の問題があるからです。
今後ますます人々が国際的に交流するようになりますと、
「鳥インフルエンザ」や「SARS」などの病気の流行は必至です。
これらの病気を媒介するのは動物ですから、
動物の病気と公衆衛生を専攻した獣医師は、
ますますなくてはならないものになるでしょう。

さらに「iPS細胞」などの再生医療の現場や、
遺伝子工学の分野でも、獣医師は必ず重要になります。
「実験動物学」と言いまして、獣医の大切な単位があります。
それはマウスやラット、犬や馬、猿といった動物を、
人への医療に応用する前に「実験動物」として用いるための学問です。
あらゆる再生医療はまず動物で予備実験されますから、
その解剖、データ分析、病理学的解析など、
あらゆる場面で獣医の知見は必要になります。

私は今「現場にはいない獣医」ですが、
不足している公衆衛生の分野も含め、
獣医の専門分野というのは「面白くてやりがいがある」、
素晴らしい仕事です。

もしこのメルマガを読んでいる、
進路に悩む高校生がいましたら、
獣医、おすすめです(笑)。



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今週の時事ネタ「森友学園問題について」

2017.09.14 Thursday

+++vol.005 2017年3月21日配信号+++

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■2 【新コーナ−】今週の時事ネタ

新コーナー、今週の「時事ネタ」です。

ブログでなくメルマガにした理由のひとつはここにあります。
ブログで最も書きづらいのが「時事ネタ」です。

べつに私は「炎上」するほどの影響力があるわけではないのですが、
この手の話題というのは、英語で言うなら「Touchy」であり、
何気ない「意見の表明」が、ある読み手にとっては、
神経を逆なですることになりかねない。
逆にある受け手にとってその「意見の表明」は、
「これこそ自分の政治信条の代弁だ」みたいになって、
変な形で拡散されたり、「シンパ」のように思われたりしかねない。

だからこそ「政治の話はタブー」なのでしょう。

有吉弘行が、父親から唯一言われたアドヴァイスが、
「人気商売をするにあたって、
 政治の話と宗教の話はぜったいするな」
だったと彼は著作に書いていました。

彼はそれを忠実に守っているように見える。
そして成功しているように見える。
私も非常に限定された意味においては、
「人気商売」的な側面もありますから、
本当に「成功」したければ、
ここには立ち入らないのが「正解」です。

私は教会に関する仕事をすることが多いですが、
教会でも多くの場合「政治の話はタブー」です。

読者の皆様の多くは会社などで働いておられると思いますが、
職場でも「政治の話はタブー」と推察されます。

学校に行っている人ならば、
「学校でも政治の話はタブー」でしょう。

近所づきあいをしている人なら、
「地域社会でも政治の話はタブー」でしょう。

、、、とすると、
今の日本社会で、政治の話がタブーでない場所って、
どこにあるんでしょう?

なんと、現実世界にはそんな場所はないのです。

ではどこに、「政治の議論」はあるのか。
じつはインターネットです。

そして端的に言って、インターネット上の「政治の話」は、
悪臭が漂い、魑魅魍魎が跋扈する危険な領域であり、
首を突っ込むと、あなたの首ごと強烈に腐敗します。
または耳や鼻を持って行かれかねない。
いつか説明しますが、「あの界隈」は非常に危険なので、
首を突っ込まないのが正解です。

そうすると、ハーバーマスのいうような「公共圏」で、
政治について開かれた議論を安全に聞くことは、
まず不可能ということになる。

そして良識的な人が沈黙すると、
やがて非常識な人の声が相対的に大きくなる。
クレーマー問題がそうですね。
「ノイジーマイノリティ効果」とでも呼べる。

、、、だとすると、良識的な人が、
ときにはリスクを背負い、ある種の覚悟をもって、
「何の得にもならないけれど」発言しなければならない。

私はそう考えます。

有吉弘行には鼻で笑われるでしょうが笑。

その「発言」をする場所として、
メルマガを発行することにした、というのも、
このメルマガを刊行する一つの理由です。

じゃあ私が「良識的な人」なのかどうか?

それはお読みいただいて、
その判断は読者のあなたに一任いたします。

ちなみに私はフランスの思想家ヴォルテールの、
次の言葉をたいせつにしています。

「私はあなたの意見に反対だが、
 あなたがそれを言う権利は死んでも守る。」

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▼▼▼森友学園問題とは何なのか?▼▼▼

さて、本題です。

「時事ネタ」コーナーでは、
背景となった事件の経緯について、
基本的には説明を端折ります。

問題の経緯について何も知らない、
という方は、このあたりの記事を読んでください。

▼NHK WEB特集「森友学園 5つの疑問」
https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2017_0317.html

まず、私はこの問題について語るときに、
政治家の関与が云々とか、
土地の金額が云々とか、
財務省が忖度したとかしないとか、
防衛大臣が顧問弁護士だったかそうでないとか、
ワイドショーで毎日にぎやかしく報道されている、
そういった問題について
「屋上屋根を架す」つもりはありません。

むしろ一日3億円使われている国会が、
「ワイドショーに占拠」されている今の状況に対して、
「国会議員の皆様、お気の毒に」と思っています。
(ついでに言えば都議会も長いことワイドショーに占拠されている。
 本当に、茶番劇もいいかげんにして欲しいです。)

はやく本業に戻らせてあげたら良いのに、と。
これもまた「衆愚政治」のひとつの形態なのでしょう、と。



▼▼▼「森友問題」の何にひきつけられるのか▼▼▼

このニュースについて、ではなぜ私が興味をそそられるのか。
それは、「森友学園」という学園の存在そのものであり、
「なぜ現代の日本に『このような学校』が存在し、
 その熱狂的な支持者が一定数おり、
 そして『そのような支持者』と、
 今の政権中枢部のコアな支持者が、
 重なっているように見えるのか」
ということです。

説明します。

稲田朋美防衛大臣は、
3月8日の参院予算委員会で、
「教育勅語の精神は取り戻すべきだと考えている」
と発言しました。

その後14日に松野博一文科大臣は、
「教育勅語について、
 憲法や教育基本法に反しないような配慮があれば、
 教材として用いることは問題としない」
と発言しています。

まず知っておかなければならないのは、
稲田さんも松野さんも、
安倍総理大臣の「おともだち」だということです。

第一次安倍内閣は「おともだち内閣」と揶揄されました。
そして「おともだち」の失策により瓦解した。

第二次安倍政権はその反省を踏まえ、安倍総理は
「おともだち」を最小限に絞り、
さまざまな派閥から幅広く人材を登用し組閣した。

しかし当然例外もあり、
今回の内閣ならば、稲田さん、松野さんらは、
やはり安倍内閣の「おともだち」です。

安倍内閣の「おともだち」かどうかは、
どこで判断できるのか。

それは彼らが、
「日本会議国会議員懇談会」や
「神道政治連盟国会議員懇談会」
といった国家神道を支持する議員連盟に、
名を連ねていますからわかります。
(安倍首相は後者の会長です。)

ほかにも安倍さんの「おともだち」は、
NHKの籾井前会長、
そしてNHK経営委員の百田尚樹氏らがいます。

ここまででお気づきのことかと思いますが、
結果的に問題を起こして安倍政権の足をひっぱっているのは、
いつも、安倍さんの「おともだち」なのです。

安倍さんはですから、
第一次安倍内閣の失敗の反省を、
「限定的に」したと言える。

(ちなみに一連のこの「おともだち」のことは、
 池上彰さんが書籍に書いていたのを、
 私はここに「採録」しています。)

きっと安倍さんはとても「良い人」なのでしょう。

かつてお世話になった人や、
自分の味方になってくれた人の恩義に、
報いたいという律儀な性格を持っている。

百田尚樹さんは、第一次内閣を体調不良で降板し、
「下野」した失意の安倍首相を、
慰撫し、鼓舞し、激励した「恩人」です。

「日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ」
という、安倍首相と百田尚樹さんの対談本を読むと分かります。

▼日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ
http://amzn.asia/0r5oZ50

ちなみにこの本は、
読んでいて恥ずかしくなるような本です。

なんて言うんだろう。
お互いがお互いに媚びていて、
非常に閉じられた自分たちのインナーサークルにおける、
称賛と称揚と自画自賛を繰り返す。

ジャニーズのファンクラブ会員が読むために作られた、
「ジャニーズ礼賛本」みたいな感じ、
あるいは女子中学生同士の、
「○○可愛いよ!!」「いや○○のほうこそ可愛いよ!」
という際限ない誉め合いを聞いているような、
いや、それより恥ずかしい感じで、
読んでいて呼吸が苦しくなりました笑。

これを出版してこの人たちは恥ずかしくないんだろうか、と。

話を戻しますと、
安倍さんの「おともだち」が次々と問題を起こし低下した支持率を、
「かけ声ばかり経済政策」と「老人バラマキ福祉」で、
回復している、というのが安倍政権の「すべて」と言っても良い。

それでも私は安倍政権を「きわめて消極的に支持する」
もしくは
「支持はしないが、じゃあ代わりに、
 支持したい政党があるかというとそうでもない」
の間ぐらいで見ているというのは、
他が駄目すぎるからです。

そういった理由で自民党を「支持」している人は、
けっこう多いのではないでしょうか。
こんな風に究極の消去法で選ばれているのが今の自民党です。
ここ何回かの国政選挙はだから、
「自民党の圧倒的勝利」というのは間違いで、
「野党の圧倒的敗北」と見るのが正しい。
現に自民党の得票の「絶対数」は下がっています。

ロシアの選挙というのは古代アテネの「陶片追放」に似ていている、
と佐藤優さんがよく言っています。
つまり、政治家には3種類いる、
1.悪い政治家
2.すごく悪い政治家
3.とんでもない政治家
この中から2と3を除去するのがロシアの大統領選であり、
その結果プーチンは選ばれ続けている。

日本の政治もロシアに限りなく近づいてきている、
というのが私の見立てです。

話を戻しますと森友学園の籠池理事長は、
その「おともだち」のサークルの、
けっこう「外の方」に位置している、
「キワモノ」だったわけです。
(稲田さんの答弁を見るとそれすら怪しいですが)

なんていうんだろう。

どんな集団にも「ヤバイ奴」というのはいるので、
籠池理事長の存在がすなわち、
安倍政権のヤバさを現すとは、
私は思いません。

浅間山荘事件が起こったという事実が、
マルクスの理論の間違いを証明したことにはならないのと、
同じ事です。

正直な話、安倍さんとしては、
自分の「応援団」(もしくは身内)から、
このなのが出てきて「迷惑」している、
というのが本音でしょう。

籠池理事長の言っている
「トカゲの尻尾切り」というのはだから、
言い得て妙です。




▼▼▼安倍さんの「おともだち」とその支持者▼▼▼

、、、で、私が非常に興味があるのは、
籠池理事長はさておいたとしても、
これらの安倍政権の「おともだち」と、
それを支持する一定数の人々が今の日本におり、
その人々が相当の影響力を持っている、
という事実そのものに関してです。

先ほども言ったように、
安倍さんを支持し、「日本を、取り戻す!」に共感し共鳴し、
教育勅語に何かしらの愛着を感じ、
なんだったら日本国憲法は、
明治の「大日本帝国憲法」に戻った方が良い、
と考えるような人々が、
今の日本には一定数いるのです。

べつにそのような人がいることに、
「良い」も「悪い」もありません。

このメルマガ読者のなかにも、
「そのような人」が含まれているかもしれない。
その人はどうかご安心ください。
「あなたがその政治信条を持つ権利は、
 死んでも守り」ますから笑。

ただ、お願いがあるのですが、
あなたがもし「そのような人」だとしたら、
少なくとも安倍さんが書いたものや、
百田さんが書いたもの、
そういったものを読んでから、
反論していただけるとありがたいです。

「そのような人」に多いケースとして、
自分が支持している人がなんと言っているかすら、
把握していないということがあります。

こうなると絶望的です。

「おれは安倍さんを支持する。
、、、彼が何を言っているのかは知らないが。」
これでは困るのです。

私は議論から逃げませんが、
それでは議論になりません。

話を戻しますと、
「そういう人々の存在」は、
良いとか悪いとかではなく、
「あるんだから仕方ない」。

そこから始めるしかないと私は考えます。

では、「なぜ」それがあるのだろう?
それを考えるのが大切です。




▼▼▼日本会議と安倍政権▼▼▼

数年前から私はこの問題について結構考えてきました。
大変参考になった書籍を2冊紹介します。

▼「日本会議の正体」青木理
http://amzn.asia/htXbOzb

▼「日本会議の研究」菅野完
http://amzn.asia/iqlo8UG

先ほども述べましたように、
安倍さんを含む、安倍さんの「おともだち」の政治家は、
「日本会議国会議員懇談会」
「神道政治連盟国会議員懇談会」
とよばれる政治家のあつまりに名を連ねています。

ではこの「日本会議」とは何なのか?

よく誤解されているように、
日本会議とは秘密結社のような、
怪しげな組織ではありません。

規約もあれば会則もある。
現在の日本の法律にのっとり、
さまざまな活動を行っている「運動体」です。

企業でも役所でもありませんので、
「中間共同体」つまり、「労働組合」だとか、
「生協」だとか、「PTA」だとか、
そういったものに、集まりの性質としては近いです。
「宗教政治団体」とか「シンクタンク」とか、
表現されることもありますが、
いずれにせよ法律の枠組みの中で活動している、
活動形態としては「まっとうな集団」です。

事務局があり、事務局で働く職員がおり、
代表がいます。

ここで大切なのは、彼らの地道な活動がなければ、
第二次安倍政権は決して生まれなかっただろう、
ということです。

アメリカの「草の根保守」と言われる、
農村部の保守層がいなければ、
トランプ大統領が生まれなかったように、
日本会議の長年にわたる草の根の活動がなければ、
安倍政権は生まれていないわけです。

とすれば、
「安倍政権を理解するには、
 日本会議を理解しなければならない」
という論理的帰結になります。

この2冊の本も、そういった動機から執筆されています。




▼▼▼日本会議と「成長の家」と稲田朋美防衛大臣と▼▼▼

2冊の本を読んで、では何が分かったのか。

私がそれまでに知らなかった、
「日本会議」の姿がそこにはありました。

それは谷口雅春という教祖が創始した
「成長の家」という宗教の存在です。
日本会議を語る上で、
「成長の家」という新興宗教を外すことは出来ません。

「成長の家」の谷口雅春が書いた「生命の実相」という本は、
宗教団体「成長の家」の聖典であり、
そして「日本会議」の論理的支柱になっています。

なぜか。

日本会議の創始期の中心メンバーのほとんどが、
「生長の家」の活動家だったからです。

「成長の家」というのは、
世界各国のさまざまな宗教の「いいとこ取り」をし、
その上に「そして日本は偉大なのだ」という、
国家神道と国家主義を足したような、
とても「日本的な」宗教と言えるでしょう。

聖書の神話を「あれはアメリカで起こったことだ」と言い、
「アメリカナイズ」したことで成功した、
モルモン教に似ているかもしれない。

その後、成長の家は、
「日本国家主義」の部分と、
「宗教的精進」の部分に分裂します。

そして前者が「日本会議」をつくり、
後者は宗教法人「成長の家」として残った。

だから、現在の「成長の家」は、
日本会議に批判的であり、
従って安倍政権にも批判的です。

「生命の実相」の教義はつまり二つに分かれ、
「国家主義」と「純粋宗教」になった。
双頭の龍のようなものです。

その「国家主義」の部分の部分を担ったのが、
「日本会議」です。

稲田防衛大臣は2012年4月に、
靖国神社の啓照館で開催された、
「谷口雅春先生を学ぶ会」主催のイベントにおいて、
スピーチしています。

YouTubeに動画も残っていますが、
そこで彼女は「生命の実相」をかかげ、
これは自分の愛読書で祖母から受け継いだ本だ、
と告白し、戦後に押しつけられた憲法への批判や、
東京裁判への批判を行っています。

▼稲田防衛大臣スピーチ動画と全文書き起こし
https://hbol.jp/129132


彼女も、彼女の父も、彼女の祖母も、
「成長の家」と深いつながりがある、
(もっと言えばおそらく信者)ということは、
稲田さん自身が隠そうともしていない。

むしろ誇りに思っているふしがある。

それが国会での先日の、
「教育勅語の精神は取り戻すべき」
という発言になったのでしょう。

私は稲田防衛大臣が「成長の家」の信者だろうがそうでなかろうが、
「生命の実相」を愛読してようがそうでなかろうが、
日本国憲法を憎んでいようがそうでなかろうが、
東京裁判を不当だと思っていようがそうでなかろうが、
それはどっちでも良いと思っています。

それは彼女の個人の信条の問題ですし、
その信条を「民意の反映」として政策に実現させることが、
彼女の政治家としての仕事なのですから、
そうなさったら良いと思っている。

そして彼女が国会議員として選挙に当選するというのは、
ある一定の「民意」が、彼女の信条に共鳴している、
ということなのだから、それは堂々とするべきであり、
まわりがとやかく言うことではない。

反対のある人は、反対の信条を持って選挙に立候補し、
その信条を政策に実現させるというのが、
民主主義の「正攻法」です。




▼▼▼森友学園 保育園の教育が明るみに出したこと▼▼▼

私が興味があるのは「そこ」ではありません。
個別具体的な政治家の発言や信条のことというより、
もっと長い長いスパンで、
「どうしてこういう考え方、
 こういう物の見方が、
 日本社会で一定の影響力を持つのか」
という構造そのものに関心があります。

森友学園の保育園で、
園児たちが「教育勅語」を朗読しようが、
軍歌を歌おうが、「安倍首相、おめでとうございます。」
と声を合わせようが、私はそれについて何かを言う立場にない。

もしそれが駄目だということになると、
キリスト教系の幼稚園で園児が「主の祈り」を唱えたり、
仏教系の幼稚園で園児が数珠をもって「念仏」を唱えたり、
そういうことも「駄目」だということになる。

私は駄目だとは思いません。

私立の教育機関が、
生徒や子どもに祈りを唱えさせようが、
念仏を唱えさせようが、
教育勅語を読ませようが、
ジンバブエの国歌を歌わせようが、
保護者と教師が納得している限り、
外部の人間がとやかく言うことではない。

そう考えます。

ただ、「森友学園」の一連の報道が私たちに突きつけたのは、
「日本会議」とその周辺、つまり安倍政権の
コアな支持者のサークルが関わっている「なにものか」には、
「宗教」が関わっている、ということです。




▼▼▼オルタナ宗教としての「日本会議」▼▼▼

そろそろ文字数もオーバー気味ですので、
結論を急ぎます。

森友学園問題と、「安倍政権特有の保守色」について、
私が読み、調べ、考えてきたことを総合しますと、
こうなります。

「この問題は政治や教育の言葉では語れない。
 むしろこれは、『宗教』の問題だ。」と。

伝統宗教の衰退と、新興宗教の挫折によって何が起こるのか。
21世紀には、「宗教と名乗らない宗教」が力を持つだろう、
と佐藤優氏は指摘しています。

「宗教と名乗らない宗教」を、
私は「オルタナ宗教」と勝手に名付けました。
これにあたる言葉がなかったので、自分で作った笑。
言葉が見つからないときは作るに限ります。

佐藤氏は、オルタナ宗教になりやすいものは、
「カネ」と「国家」だと言います。

なぜか。

カネも国家も、「神の属性」を持っているからです。
カネはこの世の中で唯一、
「時間が経過しても価値が減退しない」ものです。
キャベツならば腐るし、机にしても劣化する。
しかしお金は時間が経過しても価値が減退せず、
逆に利子がついたりする。
「永遠性と不変性」という「神の属性」をまとっている。
だからカネは神の劣化コピーとして崇拝される。

「拝金教」はオルタナ宗教です。

次に国家も「神の属性」を持っています。
国家は合法的に暴力を独占できる唯一の機関
(byマックス・ウェーバー)なわけで、
「権力」をもっています。
そして国家は建前上は国民を庇護する。
つまり国家もまた主権や庇護者という「神の属性」をまとっている。

だから「ナショナリズム」もまたオルタナ宗教なのです。

カネと国家以外にも、オルタナ宗教はあります。
世界はユダヤ人に支配されている、というような
「陰謀史観」もオルタナ宗教ですし、
「反原発運動」もオルタナ宗教的側面を持ちます。
「自己啓発セミナー」はオルタナ宗教ですし、
「ロハスとヨガの集い」にもオルタナ宗教的なものがあります。

これらの「宗教を名乗らない宗教」がなぜ、
21世紀に影響力を持つのか。

それは、東西冷戦が終わり、
「大きな物語」が終焉し、
資本主義に内在する暴力が露骨な形で顕在化したことと、
関係があります。

その結果、人々は「アトム化」してバラバラになり、
共同体への帰属と、存在の拠り所を失った。

人類史を見ますと、
そのような「存在の拠り所」や、
「共同体への帰属」を担保してきたのは、
伝統的宗教です。

西欧ならばキリスト教が、
アジアならば仏教や神道や儒教が、
そのような「物語」や「共同体」を担保したわけです。

ところが近代以降、伝統的宗教の影響力は、
衰退の一途を辿っている。
20世紀にはさまざまな新興宗教が勃興しましたが、
それは伝統的宗教が担えなくなった役割の一部を、
彼らが代替したからです。

しかし、ジム・ジョーンズ事件や、
オウム真理教事件に代表されるように、
「新興宗教もヤバイぞ」というのは、
21世紀を生きる普通の人なら誰でも知っている。




▼▼▼オルタナ宗教と日本会議▼▼▼

しかし、人間の中から「宗教性」がなくなることはありませんから、
その「空っぽの真空」を何かで埋める「必要」は残っている。

それを代替しているのが、
「ナショナリズム」であり、
あるいは「拝金教」であり、
あるいは「地下アイドルへの熱狂」であり、
あるいは「自己啓発セミナーへの没入」なのです。

彼らは宗教と自称しませんが、
その内実は宗教です。

20世紀に日本人はオウム真理教事件を経験しましたが、
それを「つきつめて考えた人」はほとんどいませんでした。
「新興宗教ってヤバイよね」という話に「まるめて」しまった。

その「つけ」を、
オルタナ宗教という形で、
今刈り取っているのだ、
というのが私のおおざっぱな見立てです。

「日本会議」はオルタナ宗教そのものです。

日本会議のホームページから、
「日本会議が目指すもの」を要約すると、
以下のようになります。

皇室を中心と仰ぎ均質な社会を創造すべきではあるが、
(1)昭和憲法がその阻害要因となっているため改憲したうえで
 昭和憲法の副産物である行きすぎた家族観や権利の主張を抑え、
(2)靖国神社参拝等で国家の名誉を最優先とする政治を遂行し、
(3)国家の名誉を担う人材を育成する教育を実践し、
(4)国防力を強めたうえで自衛隊の積極的な海外活動を行い、
(5)もって各国との共存共栄を図る。
(菅野完「日本会議の研究」より)

そして、「皇室を中心とした均質な社会の創造」の元ネタを、
誰が考えたかと言いますと、江戸幕府を倒し明治政府を作った、
薩長閥の政治家たちです。

「戦前回帰」という山崎雅弘さんの本にこう書かれています。

→P141 
〈明治維新によって幕府が倒され、
 日本が封建国家から近代国家への変質を遂げますが、
 明治新政府は長州と薩摩の両藩出身者が
 その指導部をほぼ独占しているために、
 日本全体の統治者としての正当性が弱いことを
 自覚せざるを得なくなります。
 このため明治新政府は、幕府や将軍に代わる新たな
 「民衆の心を捉える全国レベルの指導者」として、
 天皇の持つ「神格」に着目します。
 岩倉具視や伊藤博文などの明治新政府の指導者は、
 明治天皇とその祖先を神格化して国のトップに担ぎ上げ、
 天皇の絶対的威光とその精神的背景である神道の教義を、
 自らの政治的正当性を補強する支柱として使う方策をとりました。〉

つまり明治政府が近代国家を作るために、
「神話」をでっちあげた。
それは宗教と政治の入り交じったような神話で、
それが日本の国家統合を、「人工的に」作り上げた、
ということです。

ですから、明治政府が作ったこの「国家神話」は、
「宗教」です。

現に明治政府は廃仏毀釈といって、
国家神道を推し進めるために、
伝統的な神道や仏教を排斥しました。

さらにそれが政教分離の原則に抵触していないという
「アリバイ作り」のため、
「国家神道だけは例外的に宗教にあらず」と強弁した。

21世紀の日本に、
墓から復活したゾンビかのように、
この「国家神道」と日本会議の理想を、
自らの理想として「召喚」しようとする人が、
少なからぬ数、存在するのは何故なのか。




▼▼▼失われた20年と日本会議▼▼▼

90年代以降の「失われた20年」と、
「東日本大震災」が鍵だと私は思っています。

80年代にバブルを経験し、
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われた日本の姿は、
いまは跡形もありません。

ジャッパン・バッシング(台頭する日本を脅威だとするアメリカの世論)は、
もはや過去のもので「ジャパン・パッシング(日本をスルーする)」、
さらには「ジャパン・ナッシング(眼中にない)」とまで言われる日本。

その日本を2011年に大震災が襲った。

端的に言って日本は意気消沈し、
自信を失っているわけです。

さらに伝統的な家族形態はばらばらになり、
アトム化した個人が中空を漂う。
かつてのような威信もなければ気迫もなく、
そして団結力もない。

そのような危機感をもつ「愛国者」にとって、
「日本会議」は魅力的に映ります。

再び日本を偉大にしてくれそうな気がする。
バラバラになった国家を再び力強く団結させてくれそうな気がする。
「メイク・ジャパン・グレイト・アゲイン」というわけです。

ですから「日本会議」だとか、
日本の右派政治家の問題を語るとき、
これを政治問題としたら問題を取り違えますし、
議論は空転します。

これはむしろ「宗教問題」なのです。

あとは各自、ご自身でお考えください、
と言いたいところですが、
私個人の見解を最後に申し上げたいと思います。

あくまで私個人の意見ですので、
読者の皆様に強要するつもりは毛頭ありません。




▼▼▼新約聖書と国家主義▼▼▼

私がなぜこの問題についてとても真剣に考えるかと言いますと、
私がキリスト教徒だからです。

そしてもし、私がキリスト教徒になっていなければ、
もしかしたら日本会議の主張に賛同していたかもしれないし、
そうでなくても、もしかしたら「カネ」や「国家」や、
「自己啓発セミナー」や「反原発運動」といった、
オルタナ宗教に巻き取られていたかもしれない、
いや、高い格率でそうなっていただろう、
と思うからです。

私は運命のボタンがひとつ掛け違えていれば、
籠池理事長を支持し、森友学園に寄付し、
子どもをその保育園に送り、
教育勅語は素晴らしい、と言っていたかも知れない。
そういう切実さがありますので、
この問題を他人事だと思えないのです。

私がキリスト教徒だから彼らに与しない、
というのは、「キリスト教は国家神道と相容れないから」
といようなシンプルな単線の話ではありません。

私はナショナリズムもある程度必要だと思っていますし、
国家神道が伊藤博文の「でっちあげ」だとはいえど、
私がもし伊藤博文だったなら、同じ事をしただろうな、
と思うほどに、日本が近代国家になるうえで、
あれ以外の方法で立憲国家に変身する術はなかった、
と思っています。

小室直樹氏が、
「日本人のための憲法原論」という本を書いていて、
それを読むとその経緯がよく分かります。

▼日本人のための憲法原論
http://amzn.asia/5GlGnm8

それならば何故、
私がキリスト教徒であることと、
「日本会議」がらみの思想と私が距離をとることに、
関係があるのか。

それは、新約聖書の「福音書」の隠れたテーマが、
「ナショナリズム」だからです。

福音書は、「国家とどう付き合うか」
ということを学ぶテキストとしても、
読解することが可能です。

キリスト教徒でもあった山本七平が、
「ひとつの教訓・ユダヤの興亡」という本に書いていますが、
イエスの生きていた時代のユダヤというのは、
現代日本がおかれた状況に非常に近く、
「ナショナリズム」がその大きな社会的な関心でした。

どういうことか。

当時を「パックス・ロマーナ」と呼ぶことがあります。
「ローマ帝国による平和」だった。

一方現代は「パックス・アメリカーナ」と呼ばれます。
「アメリカによる平和」ですね。

アメリカとローマ帝国の支配形態は、
驚くほどよく似ています。

ローマ帝国は周辺諸国を、
事実上の「属国」にするのですが、
強権を発動してその国の文化まで支配してしまわない。
うまく懐柔して手綱を握り、ときには傀儡政権を作り、
ときにはその国の「王」に権限を委譲して、
コントロールしました。

そうすることで支配下の国々でナショナリズムが暴発して、
「反ローマ運動」が起こらないように、手なずけた。

今のアメリカと非常によく似ています。
戦後、昭和天皇に戦争責任をとらせて死刑にするというのは、
選択肢としては、「あり得た」わけですが、
アメリカはそうしなかった。

それをすると、
最後の一人になるまで日本人はアメリカと戦うだろう、
と彼らは思った。
(そしてたぶん、その見立ては正しかった。)

だから「天皇」と「國體」を保存した。
日本側は「國體が護持された」と喜んだ。

でも今のままの封建的な立憲君主制では、
「アメリカの傘下」とは呼べない。

ギリギリのラインの妥協が「日本国憲法」だったわけです。
日本はだから、主権国家であって、なかば主権国家ではない。

事実上はアメリカの属国なわけです。

そんなのは誰も言いませんが、
戦後の「公然の秘密」であり、
誰も言わないけど誰でも知っている、
奇妙な事実です。

だいいち、「主権国家」の中に、
広大な領地に海外の軍隊が駐在していて、
その軍隊の人が交通事故を起こしても、
自国の裁判で裁けない。

それのどこが主権国家なのでしょうか。

歴代政権で、「アメリカを怒らせる政策」に舵をきって、
政権から首が飛ばなかった内閣はありません。
今の「集団的自衛権」の問題も、
「アーミテージ・ナイレポート」という、
アメリカの外交官の下敷きが元になって、
それを日本政府が実現している、というのが実態です。

当時のユダヤとローマの関係と、
現代の日本とアメリカの関係というのは、
とてもよく似ているわけです。

今はローマ帝国の「支配下」にあるが、
いつか自分たちの国から「ダビデのような王」が現れ、
ユダヤを再び偉大にしてくれる、
ということを当時のユダヤ人たちは信じていた。
それには旧約聖書の預言書からの根拠もあった。

いまの日本も同じです。
いつか自分たちの国は「日本国憲法」という首かせから自由になり、
日本を再び偉大にしてくれる「誰か」が現れる、
と熱心に信じる一派がいる。

その「誰か」が安倍内閣なのか、
自民党なのか、維新の党の政治家なのか、
あるいは天皇ご自身なのか、というところには差異がありますが、
おおかたの筋立てとしてはそういうことになる。

ユダヤの旧約聖書にあたるものが、
「教育勅語」だったり、「日本書紀」だったり、
江戸後期の「水戸学」だったり戦前の「国学者の書物」だったりする、
というのが今の日本です。

福音書に「熱心党員」という言葉が出てきます。
イエスの12弟子のなかにも熱心党員がいた、
と書かれています。

熱心党員というのは、
今の言葉で言えば「超国家主義者」であり、
ローマからの独立とユダヤ国家の復興を成し遂げるために、
武装蜂起も辞さない、という過激な集団でした。

つまり、今の日本会議とも少し似ている。

イエスを熱心党員が支持した理由は、
「イエスこそが、ユダヤを再び偉大にしてくれる、
 ダビデのような王だ」
と彼らが信じたからです。

だから彼らはイエスに、
「今こそ国を復興してくれるのですね!」
と何度も語りかけていますし、
イエスがロバに乗りエルサレムに入場されたとき、
彼らは本気で、
「ついにダビデのような王が、
 ユダヤにおいて戴冠する。」
と思っていたわけで、
彼らの思い描いていたのは、
イエスの政治家としてのデビューであり、
ユダヤのローマからの政治的独立でした。

ところが事の顛末はそうは運ばなかった。

彼らが思い描いていたのとは逆に、
イエスは十字架につけられ処刑された。

彼らは失望し落胆し、家に帰っていきました。

福音書を注意深く読みますと、
イエスは生きている間に、
彼らの「今こそ国家を復興してくれるのですね」
という発言を何度も「いなして」いることに気づきます。
あるいは「かわして」いると言っても良い。

「いや、私が言っている王国とは、
 あなたが言っているようなナショナリズムとは違うのだ」と。

「神の国はそのようにして来るんじゃない。」
「地上の支配ではなく、天の御国のことを私は言ってるのだ。」
「地上の王は支配するが、天の御国での偉大さは仕えることだ。」
「命を得るためではなく失うために私は来たのだ。」

熱心党員とイエスの会話は最後までかみ合わず、
イエスの磔刑のあと、聖霊によって目が開かれた彼らは、
やっと気がつくのです。

自分たちが願っていた、
「国家の復興」と、
イエスが言われた「神の国」は、
まったく位相が違うことだったのだ、と。

つまりイエスは国家を越えた、
もっと普遍的な原理原則について言っていたのであり、
彼らの「ナショナリズム」については、
否定も肯定もせず、「私の関心はそこではない」と言い続け、
最後の最後まで「降りていく生き方」を実践し続けたのです。

つまり、
イエスは「ナショナリズム」に関して、
なんら意味のある「反論」も「賛同」もしていない。
イエスの生き方とナショナリズムは、
同一平面になく平行でもない、
幾何学でいう「ねじれ」の関係にあった、
ということです。

熱心党員とイエスの会話はだから、
「明日は晴れですか?雨ですか?」
という問いに対して、
「地球は太陽のまわりを回っています。」
という答えのような、
かみ合わない会話として福音書に何度も繰り返されます。




▼▼▼森友学園問題に関して、「私の結論」▼▼▼

ここからは私がキリスト教徒として、
何を学んだかについてです。

それは、「普遍」を追い求めることの重要性です。
ナショナリズムというのはときには必要です。
昨年私はウクライナに行き、それを痛感しました。

しかし、
それを信奉しはじめると、
私たちは真理が見えなくなります。

私たちが求めるべきはあくまで「真理」であって、
ある時代の、ある土地に住む、ある言語を話す、
特定のグループの集団的同調圧力に屈することではありません。

戦前は日本全体がそのような同調圧力に屈し、
「全体主義国家」となって破滅の道を歩みました。

私は聖書から以上のようなことを学び取っているから、
「ナショナリズムとの付き合い方」を心得、
「オルタナ宗教」に対するある種の免疫を持っている、
と感じています。

読者の皆様の満足いく解説になっているかどうかは分かりませんが、
「森友学園の問題」に接したときに私の目から見える風景は、
以上のようなことになります。

つまり
1.この問題は政治問題ではなく、宗教の問題である。
2.宗教と名乗らない宗教が今後もさまざまな形で隆盛するだろう。
3.私のキリスト教信仰は、これらに対して一定の視座をもたらす。
4.ナショナリズムを否定はしないが、一定の距離をとりつつ、
 「普遍的に大切なこと」を求め、世間の同調圧力に屈さない態度が大切だ。




▼▼▼小田嶋隆さんのコラム▼▼▼

森友学園問題について、
私の好きなコラムニストの小田嶋隆さんが、
コラムの中で以下のように書いていました。
この文章は私の言いたいことの多くを代弁してくれているので、
最後に引用します。

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〈彼らが必ずしももう一度戦争をしようとしているのだとは思わない。

 ただ、彼らが、占領軍によって全否定された(と彼らが考えている)
 戦前的な美しい日本を「取り戻そう」としていることは
 どうやら間違いのないところで、
 その「美しい日本」の価値を根本のところで支えているのが
 教育勅語であることも動かしがたいポイントではある。
 先に挙げた国会における(教育勅語の)排除も、
 それが行われたのが占領下であったことを、
 得々として指摘することだろう。

 その「教育勅語」のキモというのか、
 核心に当たる根本思想は、「個」よりも「集団」を重んじ、
 「私」よりも「公」に高い価値を置き、
 個々人の自由よりも社会の秩序維持に心を砕く社会の実現ということで、
 これは、実は、任侠でも暴走族でも体育会の野球部でも
 ブラック企業でもお役所でも同じことなのだが、
 要するにわれらが日本の「強いチーム」の鉄則そのものだったりする。

 、、、(中略)、、、

 戦前の日本の子供たちを皇軍の兵士に
 仕立て上げるにあたって大きな役割を果たし、
 そのことで一度は教育現場から追放された教育勅語が、
 いままた復活への道を歩みはじめている現今の状況は、
 私の思うに、大げさに言えば、
 戦後の平和教育ならびに戦後民主主義の敗北ないしは解体を意味している。

 実際、教育勅語の復活を主張している人々は、
 そのまま日本国憲法の経年劣化と無効化を言い募る人々でもある。

 で、われわれはまたしても、八紘一宇の理想に舞い戻るわけだ。

 自民党の憲法改正案をめぐる議論を読み返していると、
 あらゆる場面で「行き過ぎた個人主義」という言葉が、
 実に数多くの議員の口から、
 何度も何度も繰り返されていることに驚かされる。

 それほどに、彼らは、個人主義を憎んでいる。

 このことは 自民党の憲法草案の中で、
 日本国憲法の中の「個人」という言葉が、
 すべて「人」に置き換えられていることを見ても明らかなことだ。

 ちなみに、「公共の福祉」というフレーズは、
 一つ残らず「公益及び公の秩序」という文言に改められている。

 さらに私を憂鬱な気持ちにさせるのは、
 自民党の議員の間に広がっている個人主義嫌いが、
 決して彼らにだけ共有されている特殊な思い込みではなくて、
 現代の若い世代をも含めた平均的な日本人の
 ごく当たり前な多数派の思想でもあるという点だ。

 われわれは、ひとつになることが大好きで、
 寄り添うことが大好きで、
 自分たちがひとかたまりの自分たちである状況に
 強い愛着を抱いている。

 戦前の常識では、
 教育勅語が体現する思想を貫徹するためには、
 中心に天皇を持ってこないと話のスジが通らなかったものなのだが、
 21世紀に教育勅語を召喚しようとしている人々は、
 あるいは、天皇抜きでも中央集権が可能だと考えているのかもしれない。

 まあ、真ん中が空洞でもドーナツは丸いわけだし、
 不可能ではないのだろうし、この様子だと、
 その彼らの理想が実現する時代は、
 そんなに遠い未来ではないのかもしれない。

 その世界の中で、ドーナツの一部になる事態を、
 私はできれば回避したいと願っている。
 一片のパン屑として生涯を閉じることができるのであれば、
 それで不満はない。〉

▼日経ビジネスオンライン 小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・ケイク」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20081022/174784/




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