紀行文「ロスバニョスからの手紙」
2019.12.09 Monday
第99号 2019年7月3日配信号
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■2 紀行文「ロスバニョスからの手紙」
仕事柄、私はけっこう、
さまざまな土地を訪れることが多いです。
紀行文「○○からの手紙」は、
私が自宅を離れて、全国津々浦々、
あるいは海外の各地を訪問したときに、
そこで体験し、考え、触れ、見たことを、
報告するという、そのままの内容。
離れたところから絵はがきを送るように、
海外や国内各地から皆様に、
お手紙を送らせていただきます。
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▼▼▼ロスバニョス奇行▼▼▼
先週の火曜日の夜に、
マニラから日本に戻りました。
戻ってきて1週間が経つわけですが、
記憶の新しいうちに、
フィリピン滞在の記録を残す意味もこめて、
今回はフィリピンのことを書きました。
体系化されてないし、
思いつくままに書いてるので、
乱筆だとは思いますがご容赦ください。
先週も申し上げたように、
6月24〜29日は、
マニラ市内で開催された、
Global Workplace Forum(GWF)というイベントに参加してました。
ローザンヌ運動が主催しています。
彼らが「カタリスト(触媒)」という言葉を、
結構多用していて安心しました。
FVIは3人の執行役員のことを、
「カタリスト(触媒)」と呼び続けてきました。
「スタッフ」だと、なんか、
団体のために雇用されているような呼称だし、
アンバサダーみたいのも偉そうだし。
むしろ私たちは、
あくまで地域教会が主体で主役なのだが、
その「化学変化」を「触媒する」存在でありたい、
という願いから、
自分たちを「カタリスト」と呼び続けてきた。
しかし、当然といえば当然ですが、
日本で働き人のことを「カタリスト」と呼ぶ団体は少なく、
私が知る限り他に誰もそんなことはしていない。
カタリスト、と名乗っても、
誰もぴんとこない。
「あ、スタッフのことですね。」
面倒くさいから、
「まぁ、そんなようなものです」
みたいなやりとりをする。
もちろん「触媒っていう言葉に込めた意味は、、、」
と説明して理解していただき、
賛同していただけることもありますが、
わりと「通らない名前」を抱えて生きてきたわけです。
ところがローザンヌ運動では、
その働きにコミットする人のことを、
「カタリスト」と呼びます。
「私はアメリカに住む、
ローザンヌ運動のカタリストで、、」
みたいな自己紹介が、普通に飛び交っている。
なんか嬉しかったですね。
▼▼▼ロスバニョスへ、、、
GWFで学んだ詳細は、
また別の機会に譲るとして、
今日はロスバニョスのことを話したいと思います。
土曜日にGWFが終わると、
私は会場のオルティガスという場所で、
ベガさんと落ち合いました。
ベガさんというのは、
私の20年来の友人です。
どこから話して良いのか分かりませんが、
とりあえずその出会いから。
私がベガさんと出会ったのは、
1997年のことでした。
大学二年生だったころです。
ベガさんはフィリピン大学ロスバニョス校を卒業し、
研究者として勤めた後、
31歳のときに日本に「国費留学」します。
博士号を修了するために。
ベガさんはフィリピンのエリートなのです。
彼は、
「なぜ離島の学のない米農家の息子の私が、
フィリピン大学の教授になり、
世界のいろんな場所にまで招かれるようになったか分からない。
ただただ、神の恵みだ、、、」
と、先週の日曜日の夜、
私と大学のキャンパスを散歩しながらしみじみ言いました。
ベガさんのいうところの、
「学のない農家の息子」が、
なぜ成功した学者になれたか?
それは、フィリピン大学の学費が「無料」だからです。
じっさいに無料になったのは最近のことですが、
ベガさんの時代から国立大学の費用は、
フィリピンでは極端に低く抑えられています。
日本では国立大学の費用は年々上がり、
私の父が東大に入ったとき、
半期の学費は8,000円(!)でしたが、
今は30万に迫ろうとしています。
大学教育に関わる人々が口をそろえることですが、
東大の入学生が、この30年で、
ますます「均質」になっています。
つまり、貧乏な母子家庭の子どもが、
学力一本でここに入った、
というようなストーリーはますます少なくなり、
「金持ちのご子息」ばかりになっている。
つまり大学教育が機会の平等を促進するのではなく、
逆に「格差の増幅・再生産の装置」になってしまっている。
フィリピン大学のベガさんと、
日本の東大の状況を比べるとき、
日本はどこで道を間違ってしまったのだろうか、、、
と私は切ない気持ちになります。
安倍さん(または次に政権に就く人)には是非、
このような富の不均衡を是正し、
あらゆる人間にチャンスがある社会を、
推し進めてもらいたいものです。
話しを戻しましょう。
私が国立帯広畜産大学で、
ベガさんと会ったとき、
私はまだ19歳か20歳でした。
12か13歳の年齢差があったので、
当時すでに子どもが2人いて、
家族を連れて帯広で勉強しているベガさんは、
私には「身近な大人」のひとりでした。
私は当時、
「聖書研究サークル」
「クリスチャン・サークル」
何と呼んでも良いのですが、
いわゆるキリスト者の同好会のようなものがなかった、
帯広畜産大学において、
その「創始者」になりました。
ない?
じゃあ作ればいい。
このマインドセットは、
私の中で今も昔も変わりません。
ないことに不平を言う時間ほど、
無駄な時間はありませんから。
自分が作ればいいのです。
「ひとりでもやる」
こういう気概が大切です。
逆説的に聞こえますが、
「仲間がいればやる」
という程度の気概の人間には、
仲間もついてきません。
「誰もやらなくても、
俺一人でもやる」
という人間だからこそ、
仲間がついてくるのです。
さて。
私は誰一人仲間がいない状態で、
「インターナショナル・クリスチャン・クラブ(ICC)」
というサークルを、帯広畜産大学で立ち上げました。
大和田先生という、
クリスチャンの助教授(現教授)の先生がいまして、
その方に「顧問」になってもらって、
学生課に申請しました。
それがないと、ポスターを学内に貼ることもできないので、
まずはそこから。
当時はわりとそういうのはユルかったので、
あっさりと申請は通り、
正式にサークル(同好会)として、
活動を開始しました。
その後半年間は、
マジで一人でした笑。
気概があっても、
人がついてこないこともあるのです笑。
前言を撤回します笑。
毎週「学生会館」という、
サークル棟の一室を借りていましたが、
ポスターを貼り、友人を誘い、
「木曜日の17時から、
学生会館の○○室で、
聖書研究サークルやるから、
来てよ!」
って言ってまわりましたが、
友人が「ご祝儀」みたいに来てくれた数回を除くと、
学生課に鍵を借りにいき、
17時から1時間半ぐらい、
ひとりでその部屋で聖書を読み、
18時半に学生課に鍵を返し、
家に帰る、、、。
そんな日々が、
半年ほど続きました。
潮目が変わったのは、
2年生のときに、
ベガさんとダニエルさんという、
フィリピンからの留学生に出会ってからでした。
当時ベガさんは32歳、ダニエルさんは35歳でした。
だいたい、たぶんそれぐらい。
そして、私は20歳でした。
彼らと出会い、
つたない英語で私は、
この大学で伝道をしたいと思っていること、
そして「ICC」というサークルを立ち上げたことを語りました。
すると彼らは、
「自分たちは日本で勉強をするために来た。
それは一つの側面なのだけど、
神様の目から見たとき、
私たちは神様から遣わされ、
日本の人たちに神の愛を伝える、
宣教師のようなものだと思っている。
喜んで協力したい。」
と言ってくれました。
それからというもの、
彼らと毎週、最低1回は会うようになりました。
多いときはほぼ平日毎日会っていたのではないでしょうか。
最初は「大学のために祈る祈り会」に始まり、
だんだんと、
「どうやって帯広畜産大学の学生に、
神の愛を伝えるか」
という作戦会議になっていきました。
私は2歳のときにアメリカにいて、
そのときは英語を自由に話していましたが、
そのあとは英語は完全に忘れていました。
ダニエルさんとベガさんと私で、
留学生会館の一室で、
3人で祈ったときのことを私は忘れられません。
二人が英語で祈ります。
私の番が回ってきます。
「アー、ガッド、サンキュー、
フォー、ディス、プレヤーミーティング、
フォー、オビヒロユニバーシティ。
アーン、アイ、プレイ、
ユー、ブレス、ディス、ユニバーシティ。」
、、、
、、、
、、、
(ん?)
(英語で祈るときって、
どうやって終われば良いんだ?)
(分からん)
(習ったことない!!)
、、、ってなって、
私がひねり出した答えはこれでした。
「アーン、ガッド、
グッバイ。」
二人は爆笑していました。
そんなわけで、
高校卒業時の私の英語はまぁ、
使い物にならなかったわけですよ。
高校の英語は相当に頑張り、
センター試験で満点を取るほど得意でしたが、
それと「話せるかどうか」は、
皆さんもご存じのとおり別の次元に属します。
ところが半年間、
彼らと英語で濃密な交わりをしていると、
2年生の夏頃でしょうか。
私は自分が流ちょうな英語を話していることに気づきました。
あるときは夢でも英語で話していました。
そしてその発音はフィリピンやアジアのではなく、
2歳のときに住んでいたシカゴのものだったのです。
不思議な事ってあるものです。
人間の脳の格納庫には、
消えたと思ったけど消えていないものがある、
というのを私はそのときに体験したわけです。
、、、彼らと深いコミュニケーションができるようになると、
彼らのバランスの取れていて、
なおかつ熱い信仰の姿勢に、
私は大いに影響されました。
私たちはその後の4年間ぐらいの間、
ICCの主催で、
学内ゴスペルコンサートをしたり、
英会話教室を開催したり、
ピクニックに行ったり、
フィリピン料理を食べる会を開催したり、
いろんなことをしました。
小さな大学(学生数1,000人ぐらい)にも関わらず、
コンサートには100人以上が集まってくれましたし、
英会話教室に30名もの参加者があったこともあった。
加えて大和田先生のお宅や、
学生会館で行う「聖書研究会」も継続していました。
帯広にあるプロテスタント教会の牧師にお願いして、
先生方に週替わりで来ていただいたりもしました。
その結果、6年間の学生生活のなかで、
10名ぐらいの学生が信仰を持ちました。
在学中にもう教会に行かなくなった人も、
もちろんいましたが、
今も信仰を持っていて、
なんと牧師になっている人までいます。
これらすべてを、
私は「日本人のフロントマン」として、
学内で精力的に活動していたわけですが、
じっさいのところ、
ベガさんやダニエルさんの、
経験やアドバイスやモデルがなければ、
私は6年間、誰もいない学生会館の北側の一室で、
ひとりで聖書研究を続けていたでしょう。
(それはそれで、
興味深いパラレルストーリーではありますが笑)
彼らの何が凄いかというと、
なんていうのかな。
信仰におけるバランス感覚なんですよね。
これは私が大学を卒業し、
いろんな教会にいったり信仰者に触れ、
人生経験を経てから、
じんわりそのすごさに気づいたわけで、
当時はそこまで凄いことと分かってなかったのですが。
彼らはフィリピンで、
「ナビゲーター」という大学伝道の働きの、
中心的役割を10年以上も担ってきた経験を持ちます。
「ナビゲーター」は日本にも支部がある国際的な働きで、
「聖書に根ざすこと」を大切にする、
バランスの取れた学生宣教団体です。
彼らはその教えをしっかり守りつつ、
聖書に根ざし、それを、
仕事、学業、家族、社会との接続、政治との関わり、
そういったあらゆる領域に、
私の言葉で言う「包括的に」適用し、
そして実践していました。
彼らの当時のライフスタイルは、
40歳になった私が、
いま「目指している」ほぼそのものでした。
そんな彼らに私は、
「無意識に弟子化」されていたのだと思います。
その後様々な信仰の変遷を経て、
人生のいくつかのポイントで、
私が、
「自己を特別なポジションにおき、
他教会と距離を置く、
選民主義的なセクト」
に陥ってもおかしくない状況におかれました。
私のかなり近しい信仰の友にも、
そういった方向に進んでしまった人々がいますから。
それでもなお、
私が今こうして教会につながり、
教会に仕えるという立場を崩さず、
「極端に走るという安き道」を選ばないでいられているのは、
妻のサポートももちろんありますし、
神田先生という良きモデルがいるのもありますが、
しかし、信仰の最初の6年間を、
ベガさんやダニエルさんと過ごせたことが、
非常に大きかったんだなぁ、
と今になって思うのです。
▼▼▼17年ぶりの再会
そして先週、
ロスバニョスにて17年ぶりの再会をしたとき、
私は今申し上げたようなことを、
さらに深く確信しました。
どこから話しましょうか。
GWFの話しに戻りましょう。
5日間のGWFの学びは、
非常に有意義なものでした。
しかしながら、
うつ病から復帰してから、
「人との会話が非常に消耗する」私にとっては、
「人とつながることがこの集まりの意義!」
と宣言されている5日間は正直に申し上げて、
かなり疲れるものでもありました笑。
だって、「つながりたくない」んだもん笑。
人が嫌いなわけじゃありません。
誤解しないでいただきたいのですが、
人が嫌いなわけじゃないんです(2回言った)。
むしろ、人は好きです。
みんなのことは大好きです。
「恥ずかしがり屋」なわけでもない。
そうではなく、
「刺激の許容量」の問題なのです。
私は人口の1割いるという、
HSP(非常に繊細な人)なので、
「人と接するためのエネルギー」が、
他者よりも多く必要とされるのです。
「人間という情報」が、
私にとっては非常に大きいので、
1人の人と知り合うのに、
非常に多くのエネルギーを使う。
1日に2人と知り合うころには、
もう、「情報過多」で、
くたくたになってしまうのです。
そんなんで社会を生き抜けると思うか!
という体育会系的な叱責は、
まぁご自由にしていただけば良いのですが。
正直「うるせぇ、バーカ」としか思いませんね。
「致死性の余計なアドバイス」は無視するのが一番です。
私は死にたくないのです。
エネルギーが枯渇した状態で無理をして、
次にうつ病を患ったら、
そのときは死んでしまうかもしれないので。
命が一番大事です。
根性と命なら、命を取ります。
なので私は、
グループディスカッションの最初に、
自己紹介と一緒に言いました。
「僕はこうして少人数で、
あるトピックに関して深く話すのは得意ですが、
極度に内向的な性格のため、
大人数が集まるこういった場所は正直苦手です。
気分が悪くなったり消耗して、
途中で退席するかもしれませんが、
気にせずに話しを続けてください。」
こういう集まりに参加する人って、
今何かと話題の芸人の入江さんみたいに、
「ハイパーコネクター」みたいな人が多いので、
私みたいな人間は、
廊下に落ちているホコリほどの価値しかありません。
「ネットワークを築く」ための集まりで、
「できるだけ出会いたくない」って言ってるんですから。
「じゃあ、なんで来たの?」って話しですよ笑。
「お見合いパーティに来た既婚者」みたいに場違いです。
ただ、グループディスカッションは豊かでした。
コンゴ人、アメリカ系韓国人、
カナダ人、アメリカ人、日本人(私)からなる、
5人のグループのなかで、
くだんの「内向的宣言」により、
最初は「廊下のホコリ」みたいに思われていましたが、
ディスカッションを重ねるごとに、
私はテーブルで最も重要な発言をする人間になっていました。
私が何かを話そうとすると皆、耳を傾けるようになりました。
私が何かをいうときは、
必ず面白い内容が含まれている、
という信頼を勝ち取るようになった。
テーブルリーダーはカナダ人の女性だったのだけど、
その人の隠れた補佐をする「裏回し」もするようになった。
「コンテンツ力」では私は誰にも負けないのです。
どんな切り口からでも、
内容のある面白い話しをすることができるし、
他の人がしたどんな発言も、
その言いたかった真意をくみ取り、
「意味」や「文脈」につなげることができる。
最終日にカナダ人のテーブルリーダーが、
「私の5日間のハイライトは、
このテーブル―グループだったわ」
と言いました。
私は、スーパーコネクターではありませんが、
こういう貢献ができるのです。
私は社交性とトレードオフで、
こういう才能を獲得している、
という側面もある。
長所は短所、短所は長所なのです。
、、、とはいえ、5日間のGWFが終わったとき、
私はなんともいえない、
複雑で、ちょっと惨めなというか、
情けないなぁ、自分は、
というような感情を抱いていました。
700人が集まるこの集まりで、
私はほとんど誰とも「新たな繋がり」
を生まなかった。
自分を守るための自分の意志とはいえ、
一枚の名刺も渡さず、
一枚の名刺ももらわなかった。
そもそもこの集まりは、
「ビジネスパーソン」の集まりで、
私は「メインストリーム」ではなく、
「サブストリーム」です。
神学校→按手礼という、
通過儀礼を経ていない私は、
逆に牧師の集まりにいっても、
「サブストリーム」です。
「あぁ、俺はどこに行ってもサブストリームだなぁ。」
「あぁ、俺は本当に何しにここに来たのだろう、、。」
周囲の異様に高いテンションについて行けず、
なんていうんだろうなぁ。
文化祭とかで、みんなの「熱気」に飛び込むのに失敗して、
打ち上げのときに教室の隅で、
ひとり缶ジュースを飲んでる気持ち、
っていったら良いんでしょうか。
なんとも言えない「疎外感」に、
私は打ちひしがれ、ちょっとだけ、
涙が出そうにすらなりました。
誰も私を疎外したわけではないし、
私が勝手に感じているだけなのは、
百も承知なのだけど。
そんなときでした。
私がベガさんに会ったのは。
「祭り」が終わり、
もぬけの殻になった会場の教会の、
地下駐車場に車をパーキングしたから、
一階で待ってるよ、
とベガさんからFacebookメッセンジャーに、
テキストメッセージが入りました。
最後のプログラムであった、
午後のマニラのシティツアーが終わり、
バスから降りて、教会の1階ロビーにいくと、
そこには、17年前とまったく変わらぬ、
ベガさんが座っていました。
「ハイ、ジンジン!!」
私の大学時代の友人は、
私のことを今でも「じんじん」と呼びます。
フィリピンの友人たちも、
「JinJin」と私のことを当時呼んでいました。
17年ぶりに聞いた「JinJin」でした。
「久シブリデショネ!」
という、めっちゃくちゃ懐かしい、
フィリピンなまりの日本語を聞いたとき、
さっきまで感じていた疎外感は、
一瞬でどこかに吹っ飛び、
17年前に「タイムスリップ」したかのように、
堰を切ったように話し続けました。
私とベガさんは、
95%英語、5%日本語で話します。
ベガさんの第一言語はタガログ語、
私の第一言語は日本語。
お互いの第二言語が英語で、
しかもだいたいそのレベルが一緒。
こういう人と英語で話すときが、
もっとも「アクセル全開」で話せます。
サーフィンで上手く波に乗れたときのように
(乗ったことないですが笑)、
私の英語は絶好調で、
次から次へと口から英語が出てくる。
ほぼ自由自在に話したいことを話せる。
こういう「英語ゾーン体験」を経験するのはたいてい、
「ネイティブじゃないけどかなり英語能力が高い人」と
話しているときです。
私の場合。
そしてベガさんは、
私の「英語組み手」の相手として、
理想的な相手なのです。
三菱自動車製のベガさんの自家用車に乗り込み、
そこから3時間半、
マニラ都心部からロスバニョスまでの、
渋滞する道のりを、
私たち2人は、休むことなく話し続けました。
お互いの17年間のアップデートについて。
ベガさんの子どもの成長について。
私の結婚と、私の子どもについて。
帯広畜産大学でのICCの思い出について。
帯広畜産大学の現在について。
フィリピンの過去と現在、
日本の過去と現在について。
本当に「先週会ったかのように」、
いきなりトップスピードで語り合いました。
夜のフィリピン大学ロスバニョス校に到着し、
大学内にある、客人が泊まるホステルに到着しても、
まだ話しが終わらない。
「続きは明日話そう」
といって、その日は寝ました。
そこから日曜日、月曜日、火曜日(の朝)と、
2日半、ベガさんと過ごしたのですが、
それはそれは幸せな2日半でした。
▼▼▼ロスバニョスの自然
いろいろ話せることはあるのだけど、
二つの切り口から話します。
ロスバニョスの素晴らしい自然と、
ベガさんとそのアルムナイ(フィリピンの帯広同窓生)の、
「仕事と宣教の融合感」、生き方です。
まずはロスバニョスの自然から。
フィリピンの最初の7日間は、
私はマニラで過ごしました。
5日間のGWFにも参加しました。
前日に新潟で奉仕があったため、
東京経由でそのまま成田のビジネスホテルに一泊し、
朝7時に友人の土畠君と合流。
あ、そうだ。
大切なことを言い忘れていましたが、
私がGWFに参加しようと思ったのは、
北海道在住のお医者さんで、
私の親友である土畠くんが声をかけてくれたからです。
3年前から毎年開催している、
「よにでしセミナー」を、
「やってみない?」と誘ってくれたのも彼です。
今から考えますと彼のあの誘いは、
うつ病療養から仕事に復帰した私に、
一定の方向付けを与えてくれるものとなりました。
実はメルマガ配信やYouTube放送も、
「働いている信仰者に奉仕する」
という意味で、よにでしセミナーと地続きですから。
あ、ここでいう「働いている」というのは、
ビジネスパーソンだけを指すのではありません。
キリスト教のフルタイムの奉仕者も、
「教会という職場」で働いています。
「教会」は社会の一部ですから、
牧師は社会のために働いているとも言えます。
(「フルタイムの牧師こそが偉いのだ」、
というのはナンセンスとして、
逆にビジネスマンこそが偉いのだ、
キリスト教の牧師は「働いていない」!
っていう、「逆マウンティング」の言説って、
私は加担しません。
「聖俗二元論」という意味で、
両方とも同じ穴の狢でああり、
非常に次元の低い話しです。)
専業主婦も「家庭という職場」で毎日働いています。
病気療養中の人も、何らかの健康上の理由で、
働くことができない人も、
神の視点から見たとき、深い位層で、
「働いて」います。
私はつまり、
あらゆる人々に向けて、
聖書的世界観をメタ的に伝えるために、
メルマガを書き、YouTubeで発信しています。
話しがそれました。
土畠君と私は、
そんなわけで、
「よにでしセミナー」のパートナーです。
GWFに土畠君が私を誘ってくれたのは、
よにでしセミナーのヒントになる何かを、
得られるかも、と思ったからでしょう。
FVIの柳沢美登里さんが、
日本ローザンヌ運動に加わっている事もあり、
GWFは理念的に非常に親和性が高いことが分かっていたので、
迷わず申し込みました。
その後いろいろありましたが、
4000人の申込のうち、
選ばれたのは700名でしたが、
結論から言うと2人とも選ばれ、
参加することとなりました。
極度に内向的な人間にとって、
あまりメリットがなさそうな集まりと分かっていましたが、
それでも参加しようと思ったのは、
土畠君と一緒に行くと分かっていたからです。
今回の5日間、土畠君は、
世界レベルで働ける人なので、
「障害者医療に関わる医療関係者のワーキンググループ」
の核となり、連日引っ張りだこでした。
グローバルなありとあらゆる人々と繋がり、
GWFの良さを最大限に引き出していました。
こういう集まりは土畠君のような人のためにあるのでしょう。
ハタから観ながら、
すげーな、この人は、
とただただ尊敬したわけです。
しかしながら今回のGWFはホテルが指定されていて、
しかも2人一部屋が基本だったので、
私と土畠君は同じ部屋に泊まりました。
なので部屋では毎日顔を合わせますし、
夜ご飯とかは一緒に食べに行くわけです。
アメリカで言うと、
アメフト部の主将と、
目立たない陰キャのギーク(オタク)が同室、
みたいな感じで「話、かみ合うの、それ?」
って思うでしょ。
それが合うんだな笑。
土畠君は「二刀流」なので、
いろんな人とスーパーコネクターになれる一方、
私のような「少人数での深い話ししか興味ない」人とも、
ちゃんと深い話しができる。
あんまり彼のような人を、
私は他に知りません。
そんなわけで5日間、
私はテーブルグループの4人と土畠君の、
合計5人以外とは、ほぼ言葉を交わしませんでした笑。
スーパー陰キャですね笑。
でも、11月に開催される、
「よにでしセミナー」について、
土畠君と話し合うことができたし、
いろんなヒントももらえたのでそれで十分です。
、、、なんの話しをしようとしてたんだっけ?
そうです。
ロスバニョスの自然の話しです。
そのために、
マニラの話しをしたかったんでした。
そうしたら土畠君の話になり、
ここまで来てしまった。
話を元に戻しましょう。
マニラで最初の一週間を過ごしたわけですが、
私はほとんど写真を撮りませんでした。
例外的に面白い建物とかそういうのはありましたが、
基本的にマニラって、東京とそう変わりません。
マニラもジャカルタもデリーも東京もロンドンも、
現代世界では、特に都心部は、
「ほぼ同じ」です。
ショッピングモールに至っては、
従業員と話しをするまで、
ここがどこの国か当てるのは至難の業じゃないでしょうか。
ビルがあり、道があり、車が走ってて、
またビルがあり、、、、。
モールにもフィリピンの料理出す店があったり、
日本と違ってやたらと「働く人の数が過剰」だったり、
それはそれで面白いことはあるのですが、
多少の例外を除きますと、
基本的に私を興奮させるような風景はなく、
私が写真を撮ることはほとんどなかった。
ところがベガさんと一緒にロスバニョスに行き、
そこで過ごした3日間、
私は写真を撮りっぱなしでした。
私はスマホ持ってないので、
もはや時代の遺物となったデジカメで、
バシャバシャと写真撮りっぱなしです。
ロスバニョスには何があるのか?
山です。
牧場です。
牛や馬。
熱帯植物。
バナナの木、
ココナッツの木、
ジャックフルーツの木、
アボカドの木、
多種多様の水田。
山から見下ろす湖。
「熱帯にある大学」のキャンパス。
野生の鶏。
様々なものを売る露店。
農業を営む地元の人々の生活。
目に映るすべてが新鮮で、
そして「これこれ!!!」
「これでしょ!!
海外の面白さは!!」
「フォーーー!!」
ってなりました。
まぁ興奮しましたね。
ロスバニョスはまずどこにあるか。
そこから行きましょうか。
▼ロスバニョスの位置
https://bit.ly/2FYF2O2
こんな感じで、
マニラから車で2時間ほど南下したところにあります。
20年前にベガさんと会ったとき、
ベガさんとその仲間たちが、
「ロスバニョス、ロスバニョス」って言っていて、
「マニラ」以上に私には親しみのある地名なのですよね。
ちなみにベガさんが教えてくれたのは、
ロスバニョスというのは、
「ロス・バニョス」で、
ロスはスペイン語の定冠詞。
ちなみにロサンゼルスつまりロス・エンジェルスは、
英語でthe Angel、「天使の街」ってことですね。
これに従うと、
「バニョス」は「温泉につかる」という意味。
つまり「the Spring」、
「温泉街」というのが地名の語源です。
フィリピンは長らくスペイン領だったので、
こういうスペインの足跡が、
文化や地名や宗教や言葉の端々に残ってます。
そんなわけで、ロスバニョスには温泉があります。
火山に近いのです。
火山が多く、地震もあるフィリピンは、
意外と日本と共通点が多いのです。
精神分析の泰斗・河合隼雄先生も、
「アジアで母性社会」という共通項で、
フィリピンと日本は特異点だ、
という内容の本を出しています。
そんなロスバニョスで(どんな?)、
私はその自然に魅了されました。
ベガさんが教えてくれたのだけど、
実は私が滞在した、
フィリピン大学ロスバニョス校(UPLB)の周辺は、
「人工的に人の手から自然が守られている」
特別な場所なのだそうです。
たとえばUPLBを見下ろす美しい山があります。
実はその山の自然が保護されているのは、
「大学の側」だけで、
裏側は「はげ山」になっているそうです。
なぜか?
大学には森林学部があります。
農林学部と言った方がいいのか??
とにかく「forest faculty」がありますので、
その研究のために、裏山の森林は保護されている。
ところが裏側に国立大学の管理は及んでいないので、
地主はそれを資本家たちの手に渡す。
すると資本家たちは、
「手っ取り早く現金が手に入る」という理由で、
森林伐採をします。
木材として建築業界に売却するために。
その結果山の裏側は荒廃しているそうです。
「キャピタリズム」が山の半分をダメにしたのです。
山から見下ろす湖は美しいですが、
そこの魚はベガさんは個人的には食べないようにしているそうです。
街からの汚水で魚は重金属に汚染されているからです。
都市化によって湖がダメになっています。
大学の周囲には緑がいっぱいあります。
なぜならIRRI(国際稲研究所)が、
大学と併設されていて、
世界中の品種の水田が広がっていること。
農学部・獣医学部が酪農農園をもっていて、
馬や牛を飼育していること。
あらゆる品種の作物のために、
広大な実験農場が広がっていること。
これらが、
UPLBのキャンパスの、
「ユートピア的な美しさ」を担保しています。
そこから一歩外に出ると、
実はマニラまで交通の便が良いこの土地は、
都市化とキャピタリズムによる、
「自然からの搾取と土地の荒廃」の影響を受けています。
キャンパスの敷地内にある、
大学の「官舎」のひとつの、
ベガさんの家を訪れ、
私は「彼は帯広を離れて17年、
こんなユートピアみたいな場所で生活してきたのか!!」
と、心から羨ましい気持ちになりました。
しかしそれは皮肉にも、
「学術研究という理由から、
人工的に保護されたエデンの園」
だからそうだったのであり、
フィリピン全土がそうではない、
という現実の一側面だったわけです。
ちなみにベガさんの家の裏庭は広大で、
なんていうのかな。
「植物園」ってあるじゃないですか。
特に、ビニールハウス的になってて、
全季節に熱帯植物とかが見れるやつ。
ベガさんの裏庭は、「あれ」です。
写真をいくつか。
▼ベガさんの裏庭
https://bit.ly/32qwGIy
▼ベガさんの裏庭のココナッツの木から、
ココナッツを落とすベガさん
https://bit.ly/2LGa0xX
▼落ちたココナッツ
https://bit.ly/2xEl8Dm
▼ココナッツをナタで開けるベガさん
https://bit.ly/2XW3Ekk
よく南国のリゾートとかで、
「ココナッツドリンク」ってあるじゃないですか。
ココナッツの実から直接飲むヤツ。
買うとけっこう高くて、
500円ぐらいしたりするのですが、
ベガさん宅では、あれは庭で取り放題です。
あと、アボカドも死ぬほど取れます。
コンデンスミルクとホイップクリームによる、
自家製アボカドアイスクリームを、
ベガさんが作ってくれました。
4リットルぐらい(!)。
めちゃくちゃ美味かった。
あと、バナナも何種類も採れます。
食べ放題です。
それからジャックフルーツも。
めちゃくちゃ美味いです。
端的に言って、
「エデンの園」のような生活です。
「園どの木からでも、
その実を取って食べても良い。」
っていう。
また大学のキャンパスが美しいんだ。
トロピカルな木々が、
よく考えられて配置されていて、
芝生は丁寧に刈り込まれていて、
様々な花が咲き乱れている。
山がその美しいキャンパスを見下ろす。
「ここって家族でも来れるの?」
と聞くと、大学関係者のゲストが、
家族で泊まれる場所もあるとのことなので、
本気で近年中に、家族の夏休みに、
ベガさんたちを尋ねることを考え始めています。
時期によっては「飛行機の国内旅行」より、
安くつくかもしれないし。
▼▼▼ベガさんたちの、「GWF性」
ちょっと文字数がヤバくなってきました笑。
あと、執筆時間も。
ちょっと疲れてきた笑。
そんなわけで、
ベガさんと過ごした3日間は「最高」だったわけですが、
それはトロピカルな意味だけではありません。
もちろん古い友情を温めた、
という意味でも、私にとって特別な時間でした。
早くも「2019年の陣内俊の個人的ハイライトのひとつ」
になりそうな予感がします。
しかし、GWFという、
「仕事と宣教」に関する集まりに、
5日間出席した後の「実地研修」みたいな意味合いでも、
ベガさんたちの歩みは私に霊感と刺激を与えてくれました。
ベガさんたちは「ナビゲーター」という国際団体の、
リーダーをしています。
地域教会とも良い関係を持ちながら、
そこを「地域教会的に」考えていて、
大学キャンパスのクリスチャン同士(10〜20名)で、
学生時代から数えたら30年以上、
共に歩んで来ました。
そんなベガさんの「親友」に、
デイブさんとその家族がいます。
デイブさんは帯広にも来てましたので、
私も面識があったのですが、
今回、彼らから話しを聞き、
彼らが学生の頃から特別な友情で結ばれてきたことを、
改めて知ることとなりました。
彼らがこの17年間してきたことは、
本当に素晴らしいので紹介させてもらいます。
文字数も制限されてきましたので、
下手に解説を加えるのではなく、
ただ、私がベガさんから聞いた話を収録します。
彼らはキャンパスで会合を持ち、
聖書研究会を通して、
大学生に伝道するのみならず、
地域の貧しい子どもたちにも目を向けるようになりました。
毎週土曜日に彼らは、
公立の高校体育館をレンタルし、
4家族ぐらいで当番制にして、
地元の貧困家庭の子どもたちに、
無料の昼ご飯を作って配布し始めました。
毎回50人ほど集まります。
そういった「フリーランチ」がもたらす、
「依存性」の問題も当然知っていますので、
フリーランチとセットで、
「勉強して、仕事をして、
そして立派な大人になることの価値」
を聖書に基づいて教育するという、
「知識のワクチン接種」とセットでそれをしました。
そのような働きを10年間続けた結果、
何人かの親たちがキリストを信じ、
その家庭の生き方が変えられていくようになりました。
最近はその働きは、
「聖書的子育て講座」
「聖書的夫婦関係講座」へと、
シフトしていきました。
親がその生き方を変えるとき、
子どもの運命も変わることが、
10年間の実践で分かったから、
そちらに集中することにしたのです。
さらにベガさんたちは、
週末にはそのような活動をしながら、
仕事もまた神に捧げています。
ベガさんが、
「マンチェスターユナイテッド」のTシャツを着てたので、
「サッカーやるんですか?」と聞くと、
そうじゃなく、数年前にイギリスにいったときの土産なんだそう。
さらに聞いてみると、
それは「学術研究のコンペティション」で、
イギリスまで招かれたのだそう。
ヨーロッパの財団が主催するそのコンペティションには、
毎回2000を超える論文が全世界から集まります。
ファイナリストの3名は、
ヨーロッパに招かれそこで発表をします。
ベガさんはそのファイナリストに選ばれたのです。
コンペティションのテーマは、
「貧困と環境問題を解決するイノベーション」で、
ベガさんの論文は、
「小型の養殖用の水槽の水を環流させ、
上で農作物を育てる。」
という、野菜と魚の二毛作的なアイディアで、
これがあると世界の貧しい村々の家庭が、
食っていけるようになる。
惜しくも優勝を逃しましたが、
この発明は高く評価されました。
「特許を取ったりしないんですか?」
と聞くと、
「しないよ。
だって、この貧しい人たちのための発明は、
神様が僕に無料で与えてくれたんだ。
だからこれを無料で与えるのは当たり前でしょ。」
とのこと。
神の栄光のために仕事をする姿に私は感動したのでした。
実はさらに話しがあって、
ベガさんの親友デイブさんは、
このコンペでファイナリストに選ばれただけでなく、
優勝しています。
たしか2006年のことです。
発明の内容は、
山村部の小さな川から小規模の発電をする、
というアイディアです。
この発明により、
デイブさんはなんと、
TEDカンファレンスで発表もしたそうです。
これも、神の栄光のため。
彼らにとって仕事は神の栄光のため。
生活も神の栄光のため。
余暇も神の栄光のため。
GWFには、
世界的に有名な企業のCEOなども、
スピーカーとして登壇していました。
彼らから励ましを受けたのはいうまでもありませんが、
正直、私はどんなスピーカーよりも、
ベガさんやデイブさんから、
インスピレーションを受けましたし、
それから同室の土畠君からも、
いつもそれらをもらっています。
GWFの価値が相対的に低くなっちゃうような着地になっちゃいましたが、
まったくそんなことはなく、
ローザンヌ運動の働きは素晴らしいものです、
事実、ベガさんたちもローザンヌ運動のことは知っていて、
「包括的な福音理解」に関することを、
私が今の仕事にしていることを話すと、
ベガさんは、
「そうか、それは良い働きを選んだね。
僕達も同じ事を考えている。
世界中でそういうことが強調されるようになったのは、
本当に良いことだと思う」と言っていました。
実践家と理論家(啓発者)のどちらが偉いか?
というマウンティングの取り合いも、
最初に言った「聖俗二元論」に基づく、
「ナンセンスな二分法」ですよね。
理論家も実践家も、一緒に手を取り合って進むのです。
そう、神の栄光のために。
▼写真:ベガさんと私
https://bit.ly/2XVYkgZ
▼写真:フィリピンの帯広同窓生のリユニオン
(この夜、私は親子丼とカレーを作りました。
日本経験があるので、皆さん、
めちゃくちゃ喜んでくれました。)
https://bit.ly/2FXcLY3
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■2 紀行文「ロスバニョスからの手紙」
仕事柄、私はけっこう、
さまざまな土地を訪れることが多いです。
紀行文「○○からの手紙」は、
私が自宅を離れて、全国津々浦々、
あるいは海外の各地を訪問したときに、
そこで体験し、考え、触れ、見たことを、
報告するという、そのままの内容。
離れたところから絵はがきを送るように、
海外や国内各地から皆様に、
お手紙を送らせていただきます。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
▼▼▼ロスバニョス奇行▼▼▼
先週の火曜日の夜に、
マニラから日本に戻りました。
戻ってきて1週間が経つわけですが、
記憶の新しいうちに、
フィリピン滞在の記録を残す意味もこめて、
今回はフィリピンのことを書きました。
体系化されてないし、
思いつくままに書いてるので、
乱筆だとは思いますがご容赦ください。
先週も申し上げたように、
6月24〜29日は、
マニラ市内で開催された、
Global Workplace Forum(GWF)というイベントに参加してました。
ローザンヌ運動が主催しています。
彼らが「カタリスト(触媒)」という言葉を、
結構多用していて安心しました。
FVIは3人の執行役員のことを、
「カタリスト(触媒)」と呼び続けてきました。
「スタッフ」だと、なんか、
団体のために雇用されているような呼称だし、
アンバサダーみたいのも偉そうだし。
むしろ私たちは、
あくまで地域教会が主体で主役なのだが、
その「化学変化」を「触媒する」存在でありたい、
という願いから、
自分たちを「カタリスト」と呼び続けてきた。
しかし、当然といえば当然ですが、
日本で働き人のことを「カタリスト」と呼ぶ団体は少なく、
私が知る限り他に誰もそんなことはしていない。
カタリスト、と名乗っても、
誰もぴんとこない。
「あ、スタッフのことですね。」
面倒くさいから、
「まぁ、そんなようなものです」
みたいなやりとりをする。
もちろん「触媒っていう言葉に込めた意味は、、、」
と説明して理解していただき、
賛同していただけることもありますが、
わりと「通らない名前」を抱えて生きてきたわけです。
ところがローザンヌ運動では、
その働きにコミットする人のことを、
「カタリスト」と呼びます。
「私はアメリカに住む、
ローザンヌ運動のカタリストで、、」
みたいな自己紹介が、普通に飛び交っている。
なんか嬉しかったですね。
▼▼▼ロスバニョスへ、、、
GWFで学んだ詳細は、
また別の機会に譲るとして、
今日はロスバニョスのことを話したいと思います。
土曜日にGWFが終わると、
私は会場のオルティガスという場所で、
ベガさんと落ち合いました。
ベガさんというのは、
私の20年来の友人です。
どこから話して良いのか分かりませんが、
とりあえずその出会いから。
私がベガさんと出会ったのは、
1997年のことでした。
大学二年生だったころです。
ベガさんはフィリピン大学ロスバニョス校を卒業し、
研究者として勤めた後、
31歳のときに日本に「国費留学」します。
博士号を修了するために。
ベガさんはフィリピンのエリートなのです。
彼は、
「なぜ離島の学のない米農家の息子の私が、
フィリピン大学の教授になり、
世界のいろんな場所にまで招かれるようになったか分からない。
ただただ、神の恵みだ、、、」
と、先週の日曜日の夜、
私と大学のキャンパスを散歩しながらしみじみ言いました。
ベガさんのいうところの、
「学のない農家の息子」が、
なぜ成功した学者になれたか?
それは、フィリピン大学の学費が「無料」だからです。
じっさいに無料になったのは最近のことですが、
ベガさんの時代から国立大学の費用は、
フィリピンでは極端に低く抑えられています。
日本では国立大学の費用は年々上がり、
私の父が東大に入ったとき、
半期の学費は8,000円(!)でしたが、
今は30万に迫ろうとしています。
大学教育に関わる人々が口をそろえることですが、
東大の入学生が、この30年で、
ますます「均質」になっています。
つまり、貧乏な母子家庭の子どもが、
学力一本でここに入った、
というようなストーリーはますます少なくなり、
「金持ちのご子息」ばかりになっている。
つまり大学教育が機会の平等を促進するのではなく、
逆に「格差の増幅・再生産の装置」になってしまっている。
フィリピン大学のベガさんと、
日本の東大の状況を比べるとき、
日本はどこで道を間違ってしまったのだろうか、、、
と私は切ない気持ちになります。
安倍さん(または次に政権に就く人)には是非、
このような富の不均衡を是正し、
あらゆる人間にチャンスがある社会を、
推し進めてもらいたいものです。
話しを戻しましょう。
私が国立帯広畜産大学で、
ベガさんと会ったとき、
私はまだ19歳か20歳でした。
12か13歳の年齢差があったので、
当時すでに子どもが2人いて、
家族を連れて帯広で勉強しているベガさんは、
私には「身近な大人」のひとりでした。
私は当時、
「聖書研究サークル」
「クリスチャン・サークル」
何と呼んでも良いのですが、
いわゆるキリスト者の同好会のようなものがなかった、
帯広畜産大学において、
その「創始者」になりました。
ない?
じゃあ作ればいい。
このマインドセットは、
私の中で今も昔も変わりません。
ないことに不平を言う時間ほど、
無駄な時間はありませんから。
自分が作ればいいのです。
「ひとりでもやる」
こういう気概が大切です。
逆説的に聞こえますが、
「仲間がいればやる」
という程度の気概の人間には、
仲間もついてきません。
「誰もやらなくても、
俺一人でもやる」
という人間だからこそ、
仲間がついてくるのです。
さて。
私は誰一人仲間がいない状態で、
「インターナショナル・クリスチャン・クラブ(ICC)」
というサークルを、帯広畜産大学で立ち上げました。
大和田先生という、
クリスチャンの助教授(現教授)の先生がいまして、
その方に「顧問」になってもらって、
学生課に申請しました。
それがないと、ポスターを学内に貼ることもできないので、
まずはそこから。
当時はわりとそういうのはユルかったので、
あっさりと申請は通り、
正式にサークル(同好会)として、
活動を開始しました。
その後半年間は、
マジで一人でした笑。
気概があっても、
人がついてこないこともあるのです笑。
前言を撤回します笑。
毎週「学生会館」という、
サークル棟の一室を借りていましたが、
ポスターを貼り、友人を誘い、
「木曜日の17時から、
学生会館の○○室で、
聖書研究サークルやるから、
来てよ!」
って言ってまわりましたが、
友人が「ご祝儀」みたいに来てくれた数回を除くと、
学生課に鍵を借りにいき、
17時から1時間半ぐらい、
ひとりでその部屋で聖書を読み、
18時半に学生課に鍵を返し、
家に帰る、、、。
そんな日々が、
半年ほど続きました。
潮目が変わったのは、
2年生のときに、
ベガさんとダニエルさんという、
フィリピンからの留学生に出会ってからでした。
当時ベガさんは32歳、ダニエルさんは35歳でした。
だいたい、たぶんそれぐらい。
そして、私は20歳でした。
彼らと出会い、
つたない英語で私は、
この大学で伝道をしたいと思っていること、
そして「ICC」というサークルを立ち上げたことを語りました。
すると彼らは、
「自分たちは日本で勉強をするために来た。
それは一つの側面なのだけど、
神様の目から見たとき、
私たちは神様から遣わされ、
日本の人たちに神の愛を伝える、
宣教師のようなものだと思っている。
喜んで協力したい。」
と言ってくれました。
それからというもの、
彼らと毎週、最低1回は会うようになりました。
多いときはほぼ平日毎日会っていたのではないでしょうか。
最初は「大学のために祈る祈り会」に始まり、
だんだんと、
「どうやって帯広畜産大学の学生に、
神の愛を伝えるか」
という作戦会議になっていきました。
私は2歳のときにアメリカにいて、
そのときは英語を自由に話していましたが、
そのあとは英語は完全に忘れていました。
ダニエルさんとベガさんと私で、
留学生会館の一室で、
3人で祈ったときのことを私は忘れられません。
二人が英語で祈ります。
私の番が回ってきます。
「アー、ガッド、サンキュー、
フォー、ディス、プレヤーミーティング、
フォー、オビヒロユニバーシティ。
アーン、アイ、プレイ、
ユー、ブレス、ディス、ユニバーシティ。」
、、、
、、、
、、、
(ん?)
(英語で祈るときって、
どうやって終われば良いんだ?)
(分からん)
(習ったことない!!)
、、、ってなって、
私がひねり出した答えはこれでした。
「アーン、ガッド、
グッバイ。」
二人は爆笑していました。
そんなわけで、
高校卒業時の私の英語はまぁ、
使い物にならなかったわけですよ。
高校の英語は相当に頑張り、
センター試験で満点を取るほど得意でしたが、
それと「話せるかどうか」は、
皆さんもご存じのとおり別の次元に属します。
ところが半年間、
彼らと英語で濃密な交わりをしていると、
2年生の夏頃でしょうか。
私は自分が流ちょうな英語を話していることに気づきました。
あるときは夢でも英語で話していました。
そしてその発音はフィリピンやアジアのではなく、
2歳のときに住んでいたシカゴのものだったのです。
不思議な事ってあるものです。
人間の脳の格納庫には、
消えたと思ったけど消えていないものがある、
というのを私はそのときに体験したわけです。
、、、彼らと深いコミュニケーションができるようになると、
彼らのバランスの取れていて、
なおかつ熱い信仰の姿勢に、
私は大いに影響されました。
私たちはその後の4年間ぐらいの間、
ICCの主催で、
学内ゴスペルコンサートをしたり、
英会話教室を開催したり、
ピクニックに行ったり、
フィリピン料理を食べる会を開催したり、
いろんなことをしました。
小さな大学(学生数1,000人ぐらい)にも関わらず、
コンサートには100人以上が集まってくれましたし、
英会話教室に30名もの参加者があったこともあった。
加えて大和田先生のお宅や、
学生会館で行う「聖書研究会」も継続していました。
帯広にあるプロテスタント教会の牧師にお願いして、
先生方に週替わりで来ていただいたりもしました。
その結果、6年間の学生生活のなかで、
10名ぐらいの学生が信仰を持ちました。
在学中にもう教会に行かなくなった人も、
もちろんいましたが、
今も信仰を持っていて、
なんと牧師になっている人までいます。
これらすべてを、
私は「日本人のフロントマン」として、
学内で精力的に活動していたわけですが、
じっさいのところ、
ベガさんやダニエルさんの、
経験やアドバイスやモデルがなければ、
私は6年間、誰もいない学生会館の北側の一室で、
ひとりで聖書研究を続けていたでしょう。
(それはそれで、
興味深いパラレルストーリーではありますが笑)
彼らの何が凄いかというと、
なんていうのかな。
信仰におけるバランス感覚なんですよね。
これは私が大学を卒業し、
いろんな教会にいったり信仰者に触れ、
人生経験を経てから、
じんわりそのすごさに気づいたわけで、
当時はそこまで凄いことと分かってなかったのですが。
彼らはフィリピンで、
「ナビゲーター」という大学伝道の働きの、
中心的役割を10年以上も担ってきた経験を持ちます。
「ナビゲーター」は日本にも支部がある国際的な働きで、
「聖書に根ざすこと」を大切にする、
バランスの取れた学生宣教団体です。
彼らはその教えをしっかり守りつつ、
聖書に根ざし、それを、
仕事、学業、家族、社会との接続、政治との関わり、
そういったあらゆる領域に、
私の言葉で言う「包括的に」適用し、
そして実践していました。
彼らの当時のライフスタイルは、
40歳になった私が、
いま「目指している」ほぼそのものでした。
そんな彼らに私は、
「無意識に弟子化」されていたのだと思います。
その後様々な信仰の変遷を経て、
人生のいくつかのポイントで、
私が、
「自己を特別なポジションにおき、
他教会と距離を置く、
選民主義的なセクト」
に陥ってもおかしくない状況におかれました。
私のかなり近しい信仰の友にも、
そういった方向に進んでしまった人々がいますから。
それでもなお、
私が今こうして教会につながり、
教会に仕えるという立場を崩さず、
「極端に走るという安き道」を選ばないでいられているのは、
妻のサポートももちろんありますし、
神田先生という良きモデルがいるのもありますが、
しかし、信仰の最初の6年間を、
ベガさんやダニエルさんと過ごせたことが、
非常に大きかったんだなぁ、
と今になって思うのです。
▼▼▼17年ぶりの再会
そして先週、
ロスバニョスにて17年ぶりの再会をしたとき、
私は今申し上げたようなことを、
さらに深く確信しました。
どこから話しましょうか。
GWFの話しに戻りましょう。
5日間のGWFの学びは、
非常に有意義なものでした。
しかしながら、
うつ病から復帰してから、
「人との会話が非常に消耗する」私にとっては、
「人とつながることがこの集まりの意義!」
と宣言されている5日間は正直に申し上げて、
かなり疲れるものでもありました笑。
だって、「つながりたくない」んだもん笑。
人が嫌いなわけじゃありません。
誤解しないでいただきたいのですが、
人が嫌いなわけじゃないんです(2回言った)。
むしろ、人は好きです。
みんなのことは大好きです。
「恥ずかしがり屋」なわけでもない。
そうではなく、
「刺激の許容量」の問題なのです。
私は人口の1割いるという、
HSP(非常に繊細な人)なので、
「人と接するためのエネルギー」が、
他者よりも多く必要とされるのです。
「人間という情報」が、
私にとっては非常に大きいので、
1人の人と知り合うのに、
非常に多くのエネルギーを使う。
1日に2人と知り合うころには、
もう、「情報過多」で、
くたくたになってしまうのです。
そんなんで社会を生き抜けると思うか!
という体育会系的な叱責は、
まぁご自由にしていただけば良いのですが。
正直「うるせぇ、バーカ」としか思いませんね。
「致死性の余計なアドバイス」は無視するのが一番です。
私は死にたくないのです。
エネルギーが枯渇した状態で無理をして、
次にうつ病を患ったら、
そのときは死んでしまうかもしれないので。
命が一番大事です。
根性と命なら、命を取ります。
なので私は、
グループディスカッションの最初に、
自己紹介と一緒に言いました。
「僕はこうして少人数で、
あるトピックに関して深く話すのは得意ですが、
極度に内向的な性格のため、
大人数が集まるこういった場所は正直苦手です。
気分が悪くなったり消耗して、
途中で退席するかもしれませんが、
気にせずに話しを続けてください。」
こういう集まりに参加する人って、
今何かと話題の芸人の入江さんみたいに、
「ハイパーコネクター」みたいな人が多いので、
私みたいな人間は、
廊下に落ちているホコリほどの価値しかありません。
「ネットワークを築く」ための集まりで、
「できるだけ出会いたくない」って言ってるんですから。
「じゃあ、なんで来たの?」って話しですよ笑。
「お見合いパーティに来た既婚者」みたいに場違いです。
ただ、グループディスカッションは豊かでした。
コンゴ人、アメリカ系韓国人、
カナダ人、アメリカ人、日本人(私)からなる、
5人のグループのなかで、
くだんの「内向的宣言」により、
最初は「廊下のホコリ」みたいに思われていましたが、
ディスカッションを重ねるごとに、
私はテーブルで最も重要な発言をする人間になっていました。
私が何かを話そうとすると皆、耳を傾けるようになりました。
私が何かをいうときは、
必ず面白い内容が含まれている、
という信頼を勝ち取るようになった。
テーブルリーダーはカナダ人の女性だったのだけど、
その人の隠れた補佐をする「裏回し」もするようになった。
「コンテンツ力」では私は誰にも負けないのです。
どんな切り口からでも、
内容のある面白い話しをすることができるし、
他の人がしたどんな発言も、
その言いたかった真意をくみ取り、
「意味」や「文脈」につなげることができる。
最終日にカナダ人のテーブルリーダーが、
「私の5日間のハイライトは、
このテーブル―グループだったわ」
と言いました。
私は、スーパーコネクターではありませんが、
こういう貢献ができるのです。
私は社交性とトレードオフで、
こういう才能を獲得している、
という側面もある。
長所は短所、短所は長所なのです。
、、、とはいえ、5日間のGWFが終わったとき、
私はなんともいえない、
複雑で、ちょっと惨めなというか、
情けないなぁ、自分は、
というような感情を抱いていました。
700人が集まるこの集まりで、
私はほとんど誰とも「新たな繋がり」
を生まなかった。
自分を守るための自分の意志とはいえ、
一枚の名刺も渡さず、
一枚の名刺ももらわなかった。
そもそもこの集まりは、
「ビジネスパーソン」の集まりで、
私は「メインストリーム」ではなく、
「サブストリーム」です。
神学校→按手礼という、
通過儀礼を経ていない私は、
逆に牧師の集まりにいっても、
「サブストリーム」です。
「あぁ、俺はどこに行ってもサブストリームだなぁ。」
「あぁ、俺は本当に何しにここに来たのだろう、、。」
周囲の異様に高いテンションについて行けず、
なんていうんだろうなぁ。
文化祭とかで、みんなの「熱気」に飛び込むのに失敗して、
打ち上げのときに教室の隅で、
ひとり缶ジュースを飲んでる気持ち、
っていったら良いんでしょうか。
なんとも言えない「疎外感」に、
私は打ちひしがれ、ちょっとだけ、
涙が出そうにすらなりました。
誰も私を疎外したわけではないし、
私が勝手に感じているだけなのは、
百も承知なのだけど。
そんなときでした。
私がベガさんに会ったのは。
「祭り」が終わり、
もぬけの殻になった会場の教会の、
地下駐車場に車をパーキングしたから、
一階で待ってるよ、
とベガさんからFacebookメッセンジャーに、
テキストメッセージが入りました。
最後のプログラムであった、
午後のマニラのシティツアーが終わり、
バスから降りて、教会の1階ロビーにいくと、
そこには、17年前とまったく変わらぬ、
ベガさんが座っていました。
「ハイ、ジンジン!!」
私の大学時代の友人は、
私のことを今でも「じんじん」と呼びます。
フィリピンの友人たちも、
「JinJin」と私のことを当時呼んでいました。
17年ぶりに聞いた「JinJin」でした。
「久シブリデショネ!」
という、めっちゃくちゃ懐かしい、
フィリピンなまりの日本語を聞いたとき、
さっきまで感じていた疎外感は、
一瞬でどこかに吹っ飛び、
17年前に「タイムスリップ」したかのように、
堰を切ったように話し続けました。
私とベガさんは、
95%英語、5%日本語で話します。
ベガさんの第一言語はタガログ語、
私の第一言語は日本語。
お互いの第二言語が英語で、
しかもだいたいそのレベルが一緒。
こういう人と英語で話すときが、
もっとも「アクセル全開」で話せます。
サーフィンで上手く波に乗れたときのように
(乗ったことないですが笑)、
私の英語は絶好調で、
次から次へと口から英語が出てくる。
ほぼ自由自在に話したいことを話せる。
こういう「英語ゾーン体験」を経験するのはたいてい、
「ネイティブじゃないけどかなり英語能力が高い人」と
話しているときです。
私の場合。
そしてベガさんは、
私の「英語組み手」の相手として、
理想的な相手なのです。
三菱自動車製のベガさんの自家用車に乗り込み、
そこから3時間半、
マニラ都心部からロスバニョスまでの、
渋滞する道のりを、
私たち2人は、休むことなく話し続けました。
お互いの17年間のアップデートについて。
ベガさんの子どもの成長について。
私の結婚と、私の子どもについて。
帯広畜産大学でのICCの思い出について。
帯広畜産大学の現在について。
フィリピンの過去と現在、
日本の過去と現在について。
本当に「先週会ったかのように」、
いきなりトップスピードで語り合いました。
夜のフィリピン大学ロスバニョス校に到着し、
大学内にある、客人が泊まるホステルに到着しても、
まだ話しが終わらない。
「続きは明日話そう」
といって、その日は寝ました。
そこから日曜日、月曜日、火曜日(の朝)と、
2日半、ベガさんと過ごしたのですが、
それはそれは幸せな2日半でした。
▼▼▼ロスバニョスの自然
いろいろ話せることはあるのだけど、
二つの切り口から話します。
ロスバニョスの素晴らしい自然と、
ベガさんとそのアルムナイ(フィリピンの帯広同窓生)の、
「仕事と宣教の融合感」、生き方です。
まずはロスバニョスの自然から。
フィリピンの最初の7日間は、
私はマニラで過ごしました。
5日間のGWFにも参加しました。
前日に新潟で奉仕があったため、
東京経由でそのまま成田のビジネスホテルに一泊し、
朝7時に友人の土畠君と合流。
あ、そうだ。
大切なことを言い忘れていましたが、
私がGWFに参加しようと思ったのは、
北海道在住のお医者さんで、
私の親友である土畠くんが声をかけてくれたからです。
3年前から毎年開催している、
「よにでしセミナー」を、
「やってみない?」と誘ってくれたのも彼です。
今から考えますと彼のあの誘いは、
うつ病療養から仕事に復帰した私に、
一定の方向付けを与えてくれるものとなりました。
実はメルマガ配信やYouTube放送も、
「働いている信仰者に奉仕する」
という意味で、よにでしセミナーと地続きですから。
あ、ここでいう「働いている」というのは、
ビジネスパーソンだけを指すのではありません。
キリスト教のフルタイムの奉仕者も、
「教会という職場」で働いています。
「教会」は社会の一部ですから、
牧師は社会のために働いているとも言えます。
(「フルタイムの牧師こそが偉いのだ」、
というのはナンセンスとして、
逆にビジネスマンこそが偉いのだ、
キリスト教の牧師は「働いていない」!
っていう、「逆マウンティング」の言説って、
私は加担しません。
「聖俗二元論」という意味で、
両方とも同じ穴の狢でああり、
非常に次元の低い話しです。)
専業主婦も「家庭という職場」で毎日働いています。
病気療養中の人も、何らかの健康上の理由で、
働くことができない人も、
神の視点から見たとき、深い位層で、
「働いて」います。
私はつまり、
あらゆる人々に向けて、
聖書的世界観をメタ的に伝えるために、
メルマガを書き、YouTubeで発信しています。
話しがそれました。
土畠君と私は、
そんなわけで、
「よにでしセミナー」のパートナーです。
GWFに土畠君が私を誘ってくれたのは、
よにでしセミナーのヒントになる何かを、
得られるかも、と思ったからでしょう。
FVIの柳沢美登里さんが、
日本ローザンヌ運動に加わっている事もあり、
GWFは理念的に非常に親和性が高いことが分かっていたので、
迷わず申し込みました。
その後いろいろありましたが、
4000人の申込のうち、
選ばれたのは700名でしたが、
結論から言うと2人とも選ばれ、
参加することとなりました。
極度に内向的な人間にとって、
あまりメリットがなさそうな集まりと分かっていましたが、
それでも参加しようと思ったのは、
土畠君と一緒に行くと分かっていたからです。
今回の5日間、土畠君は、
世界レベルで働ける人なので、
「障害者医療に関わる医療関係者のワーキンググループ」
の核となり、連日引っ張りだこでした。
グローバルなありとあらゆる人々と繋がり、
GWFの良さを最大限に引き出していました。
こういう集まりは土畠君のような人のためにあるのでしょう。
ハタから観ながら、
すげーな、この人は、
とただただ尊敬したわけです。
しかしながら今回のGWFはホテルが指定されていて、
しかも2人一部屋が基本だったので、
私と土畠君は同じ部屋に泊まりました。
なので部屋では毎日顔を合わせますし、
夜ご飯とかは一緒に食べに行くわけです。
アメリカで言うと、
アメフト部の主将と、
目立たない陰キャのギーク(オタク)が同室、
みたいな感じで「話、かみ合うの、それ?」
って思うでしょ。
それが合うんだな笑。
土畠君は「二刀流」なので、
いろんな人とスーパーコネクターになれる一方、
私のような「少人数での深い話ししか興味ない」人とも、
ちゃんと深い話しができる。
あんまり彼のような人を、
私は他に知りません。
そんなわけで5日間、
私はテーブルグループの4人と土畠君の、
合計5人以外とは、ほぼ言葉を交わしませんでした笑。
スーパー陰キャですね笑。
でも、11月に開催される、
「よにでしセミナー」について、
土畠君と話し合うことができたし、
いろんなヒントももらえたのでそれで十分です。
、、、なんの話しをしようとしてたんだっけ?
そうです。
ロスバニョスの自然の話しです。
そのために、
マニラの話しをしたかったんでした。
そうしたら土畠君の話になり、
ここまで来てしまった。
話を元に戻しましょう。
マニラで最初の一週間を過ごしたわけですが、
私はほとんど写真を撮りませんでした。
例外的に面白い建物とかそういうのはありましたが、
基本的にマニラって、東京とそう変わりません。
マニラもジャカルタもデリーも東京もロンドンも、
現代世界では、特に都心部は、
「ほぼ同じ」です。
ショッピングモールに至っては、
従業員と話しをするまで、
ここがどこの国か当てるのは至難の業じゃないでしょうか。
ビルがあり、道があり、車が走ってて、
またビルがあり、、、、。
モールにもフィリピンの料理出す店があったり、
日本と違ってやたらと「働く人の数が過剰」だったり、
それはそれで面白いことはあるのですが、
多少の例外を除きますと、
基本的に私を興奮させるような風景はなく、
私が写真を撮ることはほとんどなかった。
ところがベガさんと一緒にロスバニョスに行き、
そこで過ごした3日間、
私は写真を撮りっぱなしでした。
私はスマホ持ってないので、
もはや時代の遺物となったデジカメで、
バシャバシャと写真撮りっぱなしです。
ロスバニョスには何があるのか?
山です。
牧場です。
牛や馬。
熱帯植物。
バナナの木、
ココナッツの木、
ジャックフルーツの木、
アボカドの木、
多種多様の水田。
山から見下ろす湖。
「熱帯にある大学」のキャンパス。
野生の鶏。
様々なものを売る露店。
農業を営む地元の人々の生活。
目に映るすべてが新鮮で、
そして「これこれ!!!」
「これでしょ!!
海外の面白さは!!」
「フォーーー!!」
ってなりました。
まぁ興奮しましたね。
ロスバニョスはまずどこにあるか。
そこから行きましょうか。
▼ロスバニョスの位置
https://bit.ly/2FYF2O2
こんな感じで、
マニラから車で2時間ほど南下したところにあります。
20年前にベガさんと会ったとき、
ベガさんとその仲間たちが、
「ロスバニョス、ロスバニョス」って言っていて、
「マニラ」以上に私には親しみのある地名なのですよね。
ちなみにベガさんが教えてくれたのは、
ロスバニョスというのは、
「ロス・バニョス」で、
ロスはスペイン語の定冠詞。
ちなみにロサンゼルスつまりロス・エンジェルスは、
英語でthe Angel、「天使の街」ってことですね。
これに従うと、
「バニョス」は「温泉につかる」という意味。
つまり「the Spring」、
「温泉街」というのが地名の語源です。
フィリピンは長らくスペイン領だったので、
こういうスペインの足跡が、
文化や地名や宗教や言葉の端々に残ってます。
そんなわけで、ロスバニョスには温泉があります。
火山に近いのです。
火山が多く、地震もあるフィリピンは、
意外と日本と共通点が多いのです。
精神分析の泰斗・河合隼雄先生も、
「アジアで母性社会」という共通項で、
フィリピンと日本は特異点だ、
という内容の本を出しています。
そんなロスバニョスで(どんな?)、
私はその自然に魅了されました。
ベガさんが教えてくれたのだけど、
実は私が滞在した、
フィリピン大学ロスバニョス校(UPLB)の周辺は、
「人工的に人の手から自然が守られている」
特別な場所なのだそうです。
たとえばUPLBを見下ろす美しい山があります。
実はその山の自然が保護されているのは、
「大学の側」だけで、
裏側は「はげ山」になっているそうです。
なぜか?
大学には森林学部があります。
農林学部と言った方がいいのか??
とにかく「forest faculty」がありますので、
その研究のために、裏山の森林は保護されている。
ところが裏側に国立大学の管理は及んでいないので、
地主はそれを資本家たちの手に渡す。
すると資本家たちは、
「手っ取り早く現金が手に入る」という理由で、
森林伐採をします。
木材として建築業界に売却するために。
その結果山の裏側は荒廃しているそうです。
「キャピタリズム」が山の半分をダメにしたのです。
山から見下ろす湖は美しいですが、
そこの魚はベガさんは個人的には食べないようにしているそうです。
街からの汚水で魚は重金属に汚染されているからです。
都市化によって湖がダメになっています。
大学の周囲には緑がいっぱいあります。
なぜならIRRI(国際稲研究所)が、
大学と併設されていて、
世界中の品種の水田が広がっていること。
農学部・獣医学部が酪農農園をもっていて、
馬や牛を飼育していること。
あらゆる品種の作物のために、
広大な実験農場が広がっていること。
これらが、
UPLBのキャンパスの、
「ユートピア的な美しさ」を担保しています。
そこから一歩外に出ると、
実はマニラまで交通の便が良いこの土地は、
都市化とキャピタリズムによる、
「自然からの搾取と土地の荒廃」の影響を受けています。
キャンパスの敷地内にある、
大学の「官舎」のひとつの、
ベガさんの家を訪れ、
私は「彼は帯広を離れて17年、
こんなユートピアみたいな場所で生活してきたのか!!」
と、心から羨ましい気持ちになりました。
しかしそれは皮肉にも、
「学術研究という理由から、
人工的に保護されたエデンの園」
だからそうだったのであり、
フィリピン全土がそうではない、
という現実の一側面だったわけです。
ちなみにベガさんの家の裏庭は広大で、
なんていうのかな。
「植物園」ってあるじゃないですか。
特に、ビニールハウス的になってて、
全季節に熱帯植物とかが見れるやつ。
ベガさんの裏庭は、「あれ」です。
写真をいくつか。
▼ベガさんの裏庭
https://bit.ly/32qwGIy
▼ベガさんの裏庭のココナッツの木から、
ココナッツを落とすベガさん
https://bit.ly/2LGa0xX
▼落ちたココナッツ
https://bit.ly/2xEl8Dm
▼ココナッツをナタで開けるベガさん
https://bit.ly/2XW3Ekk
よく南国のリゾートとかで、
「ココナッツドリンク」ってあるじゃないですか。
ココナッツの実から直接飲むヤツ。
買うとけっこう高くて、
500円ぐらいしたりするのですが、
ベガさん宅では、あれは庭で取り放題です。
あと、アボカドも死ぬほど取れます。
コンデンスミルクとホイップクリームによる、
自家製アボカドアイスクリームを、
ベガさんが作ってくれました。
4リットルぐらい(!)。
めちゃくちゃ美味かった。
あと、バナナも何種類も採れます。
食べ放題です。
それからジャックフルーツも。
めちゃくちゃ美味いです。
端的に言って、
「エデンの園」のような生活です。
「園どの木からでも、
その実を取って食べても良い。」
っていう。
また大学のキャンパスが美しいんだ。
トロピカルな木々が、
よく考えられて配置されていて、
芝生は丁寧に刈り込まれていて、
様々な花が咲き乱れている。
山がその美しいキャンパスを見下ろす。
「ここって家族でも来れるの?」
と聞くと、大学関係者のゲストが、
家族で泊まれる場所もあるとのことなので、
本気で近年中に、家族の夏休みに、
ベガさんたちを尋ねることを考え始めています。
時期によっては「飛行機の国内旅行」より、
安くつくかもしれないし。
▼▼▼ベガさんたちの、「GWF性」
ちょっと文字数がヤバくなってきました笑。
あと、執筆時間も。
ちょっと疲れてきた笑。
そんなわけで、
ベガさんと過ごした3日間は「最高」だったわけですが、
それはトロピカルな意味だけではありません。
もちろん古い友情を温めた、
という意味でも、私にとって特別な時間でした。
早くも「2019年の陣内俊の個人的ハイライトのひとつ」
になりそうな予感がします。
しかし、GWFという、
「仕事と宣教」に関する集まりに、
5日間出席した後の「実地研修」みたいな意味合いでも、
ベガさんたちの歩みは私に霊感と刺激を与えてくれました。
ベガさんたちは「ナビゲーター」という国際団体の、
リーダーをしています。
地域教会とも良い関係を持ちながら、
そこを「地域教会的に」考えていて、
大学キャンパスのクリスチャン同士(10〜20名)で、
学生時代から数えたら30年以上、
共に歩んで来ました。
そんなベガさんの「親友」に、
デイブさんとその家族がいます。
デイブさんは帯広にも来てましたので、
私も面識があったのですが、
今回、彼らから話しを聞き、
彼らが学生の頃から特別な友情で結ばれてきたことを、
改めて知ることとなりました。
彼らがこの17年間してきたことは、
本当に素晴らしいので紹介させてもらいます。
文字数も制限されてきましたので、
下手に解説を加えるのではなく、
ただ、私がベガさんから聞いた話を収録します。
彼らはキャンパスで会合を持ち、
聖書研究会を通して、
大学生に伝道するのみならず、
地域の貧しい子どもたちにも目を向けるようになりました。
毎週土曜日に彼らは、
公立の高校体育館をレンタルし、
4家族ぐらいで当番制にして、
地元の貧困家庭の子どもたちに、
無料の昼ご飯を作って配布し始めました。
毎回50人ほど集まります。
そういった「フリーランチ」がもたらす、
「依存性」の問題も当然知っていますので、
フリーランチとセットで、
「勉強して、仕事をして、
そして立派な大人になることの価値」
を聖書に基づいて教育するという、
「知識のワクチン接種」とセットでそれをしました。
そのような働きを10年間続けた結果、
何人かの親たちがキリストを信じ、
その家庭の生き方が変えられていくようになりました。
最近はその働きは、
「聖書的子育て講座」
「聖書的夫婦関係講座」へと、
シフトしていきました。
親がその生き方を変えるとき、
子どもの運命も変わることが、
10年間の実践で分かったから、
そちらに集中することにしたのです。
さらにベガさんたちは、
週末にはそのような活動をしながら、
仕事もまた神に捧げています。
ベガさんが、
「マンチェスターユナイテッド」のTシャツを着てたので、
「サッカーやるんですか?」と聞くと、
そうじゃなく、数年前にイギリスにいったときの土産なんだそう。
さらに聞いてみると、
それは「学術研究のコンペティション」で、
イギリスまで招かれたのだそう。
ヨーロッパの財団が主催するそのコンペティションには、
毎回2000を超える論文が全世界から集まります。
ファイナリストの3名は、
ヨーロッパに招かれそこで発表をします。
ベガさんはそのファイナリストに選ばれたのです。
コンペティションのテーマは、
「貧困と環境問題を解決するイノベーション」で、
ベガさんの論文は、
「小型の養殖用の水槽の水を環流させ、
上で農作物を育てる。」
という、野菜と魚の二毛作的なアイディアで、
これがあると世界の貧しい村々の家庭が、
食っていけるようになる。
惜しくも優勝を逃しましたが、
この発明は高く評価されました。
「特許を取ったりしないんですか?」
と聞くと、
「しないよ。
だって、この貧しい人たちのための発明は、
神様が僕に無料で与えてくれたんだ。
だからこれを無料で与えるのは当たり前でしょ。」
とのこと。
神の栄光のために仕事をする姿に私は感動したのでした。
実はさらに話しがあって、
ベガさんの親友デイブさんは、
このコンペでファイナリストに選ばれただけでなく、
優勝しています。
たしか2006年のことです。
発明の内容は、
山村部の小さな川から小規模の発電をする、
というアイディアです。
この発明により、
デイブさんはなんと、
TEDカンファレンスで発表もしたそうです。
これも、神の栄光のため。
彼らにとって仕事は神の栄光のため。
生活も神の栄光のため。
余暇も神の栄光のため。
GWFには、
世界的に有名な企業のCEOなども、
スピーカーとして登壇していました。
彼らから励ましを受けたのはいうまでもありませんが、
正直、私はどんなスピーカーよりも、
ベガさんやデイブさんから、
インスピレーションを受けましたし、
それから同室の土畠君からも、
いつもそれらをもらっています。
GWFの価値が相対的に低くなっちゃうような着地になっちゃいましたが、
まったくそんなことはなく、
ローザンヌ運動の働きは素晴らしいものです、
事実、ベガさんたちもローザンヌ運動のことは知っていて、
「包括的な福音理解」に関することを、
私が今の仕事にしていることを話すと、
ベガさんは、
「そうか、それは良い働きを選んだね。
僕達も同じ事を考えている。
世界中でそういうことが強調されるようになったのは、
本当に良いことだと思う」と言っていました。
実践家と理論家(啓発者)のどちらが偉いか?
というマウンティングの取り合いも、
最初に言った「聖俗二元論」に基づく、
「ナンセンスな二分法」ですよね。
理論家も実践家も、一緒に手を取り合って進むのです。
そう、神の栄光のために。
▼写真:ベガさんと私
https://bit.ly/2XVYkgZ
▼写真:フィリピンの帯広同窓生のリユニオン
(この夜、私は親子丼とカレーを作りました。
日本経験があるので、皆さん、
めちゃくちゃ喜んでくれました。)
https://bit.ly/2FXcLY3
- 2019.12.09 Monday
- 紀行文「○○からの手紙」
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