カテゴリー

検索

便利な「検索」機能の使い方

上の検索バーに、「vol.○○」あるいは、「●年●月●日配信号」などと入力していただきますと、カテゴリ別だけでなく配信号ごとにお読みいただけます。

また、ブログ記事のアップロードは時系列で逐次していきますが、「カテゴリ別」表示をしますと、「Q&Aコーナー」だけを読む、あるいは「先月観た映画」のコーナーだけを読む、などの読み方が可能です。

スマートフォン

この他の活動媒体

●9年間続くブログです。↓
陣内俊 Prayer Letter ONLINE

●支援者の方々への紙媒体の活動報告のPDF版はこちらです↓
「陣内俊Prayer Letter」 PDF版

紀行文「ロスバニョスからの手紙」

2019.12.09 Monday

第99号   2019年7月3日配信号

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 紀行文「ロスバニョスからの手紙」

仕事柄、私はけっこう、
さまざまな土地を訪れることが多いです。

紀行文「○○からの手紙」は、
私が自宅を離れて、全国津々浦々、
あるいは海外の各地を訪問したときに、
そこで体験し、考え、触れ、見たことを、
報告するという、そのままの内容。

離れたところから絵はがきを送るように、
海外や国内各地から皆様に、
お手紙を送らせていただきます。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼ロスバニョス奇行▼▼▼

先週の火曜日の夜に、
マニラから日本に戻りました。
戻ってきて1週間が経つわけですが、
記憶の新しいうちに、
フィリピン滞在の記録を残す意味もこめて、
今回はフィリピンのことを書きました。
体系化されてないし、
思いつくままに書いてるので、
乱筆だとは思いますがご容赦ください。

先週も申し上げたように、
6月24〜29日は、
マニラ市内で開催された、
Global Workplace Forum(GWF)というイベントに参加してました。
ローザンヌ運動が主催しています。
彼らが「カタリスト(触媒)」という言葉を、
結構多用していて安心しました。

FVIは3人の執行役員のことを、
「カタリスト(触媒)」と呼び続けてきました。
「スタッフ」だと、なんか、
団体のために雇用されているような呼称だし、
アンバサダーみたいのも偉そうだし。
むしろ私たちは、
あくまで地域教会が主体で主役なのだが、
その「化学変化」を「触媒する」存在でありたい、
という願いから、
自分たちを「カタリスト」と呼び続けてきた。

しかし、当然といえば当然ですが、
日本で働き人のことを「カタリスト」と呼ぶ団体は少なく、
私が知る限り他に誰もそんなことはしていない。
カタリスト、と名乗っても、
誰もぴんとこない。
「あ、スタッフのことですね。」
面倒くさいから、
「まぁ、そんなようなものです」
みたいなやりとりをする。
もちろん「触媒っていう言葉に込めた意味は、、、」
と説明して理解していただき、
賛同していただけることもありますが、
わりと「通らない名前」を抱えて生きてきたわけです。

ところがローザンヌ運動では、
その働きにコミットする人のことを、
「カタリスト」と呼びます。
「私はアメリカに住む、
 ローザンヌ運動のカタリストで、、」
みたいな自己紹介が、普通に飛び交っている。
なんか嬉しかったですね。


▼▼▼ロスバニョスへ、、、

GWFで学んだ詳細は、
また別の機会に譲るとして、
今日はロスバニョスのことを話したいと思います。

土曜日にGWFが終わると、
私は会場のオルティガスという場所で、
ベガさんと落ち合いました。

ベガさんというのは、
私の20年来の友人です。

どこから話して良いのか分かりませんが、
とりあえずその出会いから。
私がベガさんと出会ったのは、
1997年のことでした。
大学二年生だったころです。
ベガさんはフィリピン大学ロスバニョス校を卒業し、
研究者として勤めた後、
31歳のときに日本に「国費留学」します。
博士号を修了するために。
ベガさんはフィリピンのエリートなのです。

彼は、
「なぜ離島の学のない米農家の息子の私が、
フィリピン大学の教授になり、
世界のいろんな場所にまで招かれるようになったか分からない。
ただただ、神の恵みだ、、、」
と、先週の日曜日の夜、
私と大学のキャンパスを散歩しながらしみじみ言いました。
ベガさんのいうところの、
「学のない農家の息子」が、
なぜ成功した学者になれたか?
それは、フィリピン大学の学費が「無料」だからです。
じっさいに無料になったのは最近のことですが、
ベガさんの時代から国立大学の費用は、
フィリピンでは極端に低く抑えられています。

日本では国立大学の費用は年々上がり、
私の父が東大に入ったとき、
半期の学費は8,000円(!)でしたが、
今は30万に迫ろうとしています。
大学教育に関わる人々が口をそろえることですが、
東大の入学生が、この30年で、
ますます「均質」になっています。
つまり、貧乏な母子家庭の子どもが、
学力一本でここに入った、
というようなストーリーはますます少なくなり、
「金持ちのご子息」ばかりになっている。
つまり大学教育が機会の平等を促進するのではなく、
逆に「格差の増幅・再生産の装置」になってしまっている。
フィリピン大学のベガさんと、
日本の東大の状況を比べるとき、
日本はどこで道を間違ってしまったのだろうか、、、
と私は切ない気持ちになります。
安倍さん(または次に政権に就く人)には是非、
このような富の不均衡を是正し、
あらゆる人間にチャンスがある社会を、
推し進めてもらいたいものです。

話しを戻しましょう。

私が国立帯広畜産大学で、
ベガさんと会ったとき、
私はまだ19歳か20歳でした。
12か13歳の年齢差があったので、
当時すでに子どもが2人いて、
家族を連れて帯広で勉強しているベガさんは、
私には「身近な大人」のひとりでした。

私は当時、
「聖書研究サークル」
「クリスチャン・サークル」
何と呼んでも良いのですが、
いわゆるキリスト者の同好会のようなものがなかった、
帯広畜産大学において、
その「創始者」になりました。

ない?

じゃあ作ればいい。

このマインドセットは、
私の中で今も昔も変わりません。

ないことに不平を言う時間ほど、
無駄な時間はありませんから。
自分が作ればいいのです。

「ひとりでもやる」
こういう気概が大切です。
逆説的に聞こえますが、
「仲間がいればやる」
という程度の気概の人間には、
仲間もついてきません。

「誰もやらなくても、
 俺一人でもやる」
という人間だからこそ、
仲間がついてくるのです。

さて。

私は誰一人仲間がいない状態で、
「インターナショナル・クリスチャン・クラブ(ICC)」
というサークルを、帯広畜産大学で立ち上げました。
大和田先生という、
クリスチャンの助教授(現教授)の先生がいまして、
その方に「顧問」になってもらって、
学生課に申請しました。
それがないと、ポスターを学内に貼ることもできないので、
まずはそこから。
当時はわりとそういうのはユルかったので、
あっさりと申請は通り、
正式にサークル(同好会)として、
活動を開始しました。

その後半年間は、
マジで一人でした笑。
気概があっても、
人がついてこないこともあるのです笑。
前言を撤回します笑。

毎週「学生会館」という、
サークル棟の一室を借りていましたが、
ポスターを貼り、友人を誘い、
「木曜日の17時から、
 学生会館の○○室で、
 聖書研究サークルやるから、
 来てよ!」
って言ってまわりましたが、
友人が「ご祝儀」みたいに来てくれた数回を除くと、
学生課に鍵を借りにいき、
17時から1時間半ぐらい、
ひとりでその部屋で聖書を読み、
18時半に学生課に鍵を返し、
家に帰る、、、。

そんな日々が、
半年ほど続きました。

潮目が変わったのは、
2年生のときに、
ベガさんとダニエルさんという、
フィリピンからの留学生に出会ってからでした。
当時ベガさんは32歳、ダニエルさんは35歳でした。
だいたい、たぶんそれぐらい。
そして、私は20歳でした。

彼らと出会い、
つたない英語で私は、
この大学で伝道をしたいと思っていること、
そして「ICC」というサークルを立ち上げたことを語りました。
すると彼らは、
「自分たちは日本で勉強をするために来た。
 それは一つの側面なのだけど、
 神様の目から見たとき、
 私たちは神様から遣わされ、
 日本の人たちに神の愛を伝える、
 宣教師のようなものだと思っている。
 喜んで協力したい。」
と言ってくれました。

それからというもの、
彼らと毎週、最低1回は会うようになりました。
多いときはほぼ平日毎日会っていたのではないでしょうか。
最初は「大学のために祈る祈り会」に始まり、
だんだんと、
「どうやって帯広畜産大学の学生に、
 神の愛を伝えるか」
という作戦会議になっていきました。

私は2歳のときにアメリカにいて、
そのときは英語を自由に話していましたが、
そのあとは英語は完全に忘れていました。
ダニエルさんとベガさんと私で、
留学生会館の一室で、
3人で祈ったときのことを私は忘れられません。
二人が英語で祈ります。
私の番が回ってきます。

「アー、ガッド、サンキュー、
 フォー、ディス、プレヤーミーティング、 
 フォー、オビヒロユニバーシティ。
 アーン、アイ、プレイ、
 ユー、ブレス、ディス、ユニバーシティ。」

、、、

、、、

、、、

(ん?)

(英語で祈るときって、
 どうやって終われば良いんだ?)

(分からん)

(習ったことない!!)

、、、ってなって、
私がひねり出した答えはこれでした。

「アーン、ガッド、
 グッバイ。」

二人は爆笑していました。

そんなわけで、
高校卒業時の私の英語はまぁ、
使い物にならなかったわけですよ。
高校の英語は相当に頑張り、
センター試験で満点を取るほど得意でしたが、
それと「話せるかどうか」は、
皆さんもご存じのとおり別の次元に属します。

ところが半年間、
彼らと英語で濃密な交わりをしていると、
2年生の夏頃でしょうか。
私は自分が流ちょうな英語を話していることに気づきました。
あるときは夢でも英語で話していました。
そしてその発音はフィリピンやアジアのではなく、
2歳のときに住んでいたシカゴのものだったのです。
不思議な事ってあるものです。
人間の脳の格納庫には、
消えたと思ったけど消えていないものがある、
というのを私はそのときに体験したわけです。

、、、彼らと深いコミュニケーションができるようになると、
彼らのバランスの取れていて、
なおかつ熱い信仰の姿勢に、
私は大いに影響されました。

私たちはその後の4年間ぐらいの間、
ICCの主催で、
学内ゴスペルコンサートをしたり、
英会話教室を開催したり、
ピクニックに行ったり、
フィリピン料理を食べる会を開催したり、
いろんなことをしました。

小さな大学(学生数1,000人ぐらい)にも関わらず、
コンサートには100人以上が集まってくれましたし、
英会話教室に30名もの参加者があったこともあった。
加えて大和田先生のお宅や、
学生会館で行う「聖書研究会」も継続していました。
帯広にあるプロテスタント教会の牧師にお願いして、
先生方に週替わりで来ていただいたりもしました。
その結果、6年間の学生生活のなかで、
10名ぐらいの学生が信仰を持ちました。
在学中にもう教会に行かなくなった人も、
もちろんいましたが、
今も信仰を持っていて、
なんと牧師になっている人までいます。

これらすべてを、
私は「日本人のフロントマン」として、
学内で精力的に活動していたわけですが、
じっさいのところ、
ベガさんやダニエルさんの、
経験やアドバイスやモデルがなければ、
私は6年間、誰もいない学生会館の北側の一室で、
ひとりで聖書研究を続けていたでしょう。
(それはそれで、
 興味深いパラレルストーリーではありますが笑)

彼らの何が凄いかというと、
なんていうのかな。
信仰におけるバランス感覚なんですよね。
これは私が大学を卒業し、
いろんな教会にいったり信仰者に触れ、
人生経験を経てから、
じんわりそのすごさに気づいたわけで、
当時はそこまで凄いことと分かってなかったのですが。

彼らはフィリピンで、
「ナビゲーター」という大学伝道の働きの、
中心的役割を10年以上も担ってきた経験を持ちます。
「ナビゲーター」は日本にも支部がある国際的な働きで、
「聖書に根ざすこと」を大切にする、
バランスの取れた学生宣教団体です。
彼らはその教えをしっかり守りつつ、
聖書に根ざし、それを、
仕事、学業、家族、社会との接続、政治との関わり、
そういったあらゆる領域に、
私の言葉で言う「包括的に」適用し、
そして実践していました。

彼らの当時のライフスタイルは、
40歳になった私が、
いま「目指している」ほぼそのものでした。

そんな彼らに私は、
「無意識に弟子化」されていたのだと思います。
その後様々な信仰の変遷を経て、
人生のいくつかのポイントで、
私が、
「自己を特別なポジションにおき、
 他教会と距離を置く、
 選民主義的なセクト」
に陥ってもおかしくない状況におかれました。
私のかなり近しい信仰の友にも、
そういった方向に進んでしまった人々がいますから。

それでもなお、
私が今こうして教会につながり、
教会に仕えるという立場を崩さず、
「極端に走るという安き道」を選ばないでいられているのは、
妻のサポートももちろんありますし、
神田先生という良きモデルがいるのもありますが、
しかし、信仰の最初の6年間を、
ベガさんやダニエルさんと過ごせたことが、
非常に大きかったんだなぁ、
と今になって思うのです。


▼▼▼17年ぶりの再会

そして先週、
ロスバニョスにて17年ぶりの再会をしたとき、
私は今申し上げたようなことを、
さらに深く確信しました。

どこから話しましょうか。

GWFの話しに戻りましょう。
5日間のGWFの学びは、
非常に有意義なものでした。
しかしながら、
うつ病から復帰してから、
「人との会話が非常に消耗する」私にとっては、
「人とつながることがこの集まりの意義!」
と宣言されている5日間は正直に申し上げて、
かなり疲れるものでもありました笑。

だって、「つながりたくない」んだもん笑。
人が嫌いなわけじゃありません。
誤解しないでいただきたいのですが、
人が嫌いなわけじゃないんです(2回言った)。
むしろ、人は好きです。
みんなのことは大好きです。
「恥ずかしがり屋」なわけでもない。

そうではなく、
「刺激の許容量」の問題なのです。
私は人口の1割いるという、
HSP(非常に繊細な人)なので、
「人と接するためのエネルギー」が、
他者よりも多く必要とされるのです。
「人間という情報」が、
私にとっては非常に大きいので、
1人の人と知り合うのに、
非常に多くのエネルギーを使う。
1日に2人と知り合うころには、
もう、「情報過多」で、
くたくたになってしまうのです。

そんなんで社会を生き抜けると思うか!

という体育会系的な叱責は、
まぁご自由にしていただけば良いのですが。
正直「うるせぇ、バーカ」としか思いませんね。
「致死性の余計なアドバイス」は無視するのが一番です。
私は死にたくないのです。
エネルギーが枯渇した状態で無理をして、
次にうつ病を患ったら、
そのときは死んでしまうかもしれないので。

命が一番大事です。

根性と命なら、命を取ります。

なので私は、
グループディスカッションの最初に、
自己紹介と一緒に言いました。
「僕はこうして少人数で、
 あるトピックに関して深く話すのは得意ですが、
 極度に内向的な性格のため、
 大人数が集まるこういった場所は正直苦手です。
 気分が悪くなったり消耗して、
 途中で退席するかもしれませんが、
 気にせずに話しを続けてください。」

こういう集まりに参加する人って、
今何かと話題の芸人の入江さんみたいに、
「ハイパーコネクター」みたいな人が多いので、
私みたいな人間は、
廊下に落ちているホコリほどの価値しかありません。
「ネットワークを築く」ための集まりで、
「できるだけ出会いたくない」って言ってるんですから。
「じゃあ、なんで来たの?」って話しですよ笑。
「お見合いパーティに来た既婚者」みたいに場違いです。

ただ、グループディスカッションは豊かでした。
コンゴ人、アメリカ系韓国人、
カナダ人、アメリカ人、日本人(私)からなる、
5人のグループのなかで、
くだんの「内向的宣言」により、
最初は「廊下のホコリ」みたいに思われていましたが、
ディスカッションを重ねるごとに、
私はテーブルで最も重要な発言をする人間になっていました。
私が何かを話そうとすると皆、耳を傾けるようになりました。
私が何かをいうときは、
必ず面白い内容が含まれている、
という信頼を勝ち取るようになった。
テーブルリーダーはカナダ人の女性だったのだけど、
その人の隠れた補佐をする「裏回し」もするようになった。
「コンテンツ力」では私は誰にも負けないのです。

どんな切り口からでも、
内容のある面白い話しをすることができるし、
他の人がしたどんな発言も、
その言いたかった真意をくみ取り、
「意味」や「文脈」につなげることができる。

最終日にカナダ人のテーブルリーダーが、
「私の5日間のハイライトは、
 このテーブル―グループだったわ」
と言いました。

私は、スーパーコネクターではありませんが、
こういう貢献ができるのです。
私は社交性とトレードオフで、
こういう才能を獲得している、
という側面もある。
長所は短所、短所は長所なのです。


、、、とはいえ、5日間のGWFが終わったとき、
私はなんともいえない、
複雑で、ちょっと惨めなというか、
情けないなぁ、自分は、
というような感情を抱いていました。

700人が集まるこの集まりで、
私はほとんど誰とも「新たな繋がり」
を生まなかった。
自分を守るための自分の意志とはいえ、
一枚の名刺も渡さず、
一枚の名刺ももらわなかった。

そもそもこの集まりは、
「ビジネスパーソン」の集まりで、
私は「メインストリーム」ではなく、
「サブストリーム」です。
神学校→按手礼という、
通過儀礼を経ていない私は、
逆に牧師の集まりにいっても、
「サブストリーム」です。

「あぁ、俺はどこに行ってもサブストリームだなぁ。」
「あぁ、俺は本当に何しにここに来たのだろう、、。」
周囲の異様に高いテンションについて行けず、
なんていうんだろうなぁ。
文化祭とかで、みんなの「熱気」に飛び込むのに失敗して、
打ち上げのときに教室の隅で、
ひとり缶ジュースを飲んでる気持ち、
っていったら良いんでしょうか。
なんとも言えない「疎外感」に、
私は打ちひしがれ、ちょっとだけ、
涙が出そうにすらなりました。

誰も私を疎外したわけではないし、
私が勝手に感じているだけなのは、
百も承知なのだけど。

そんなときでした。

私がベガさんに会ったのは。
「祭り」が終わり、
もぬけの殻になった会場の教会の、
地下駐車場に車をパーキングしたから、
一階で待ってるよ、
とベガさんからFacebookメッセンジャーに、
テキストメッセージが入りました。

最後のプログラムであった、
午後のマニラのシティツアーが終わり、
バスから降りて、教会の1階ロビーにいくと、
そこには、17年前とまったく変わらぬ、
ベガさんが座っていました。

「ハイ、ジンジン!!」

私の大学時代の友人は、
私のことを今でも「じんじん」と呼びます。
フィリピンの友人たちも、
「JinJin」と私のことを当時呼んでいました。
17年ぶりに聞いた「JinJin」でした。

「久シブリデショネ!」
という、めっちゃくちゃ懐かしい、
フィリピンなまりの日本語を聞いたとき、
さっきまで感じていた疎外感は、
一瞬でどこかに吹っ飛び、
17年前に「タイムスリップ」したかのように、
堰を切ったように話し続けました。

私とベガさんは、
95%英語、5%日本語で話します。
ベガさんの第一言語はタガログ語、
私の第一言語は日本語。
お互いの第二言語が英語で、
しかもだいたいそのレベルが一緒。

こういう人と英語で話すときが、
もっとも「アクセル全開」で話せます。
サーフィンで上手く波に乗れたときのように
(乗ったことないですが笑)、
私の英語は絶好調で、
次から次へと口から英語が出てくる。
ほぼ自由自在に話したいことを話せる。
こういう「英語ゾーン体験」を経験するのはたいてい、
「ネイティブじゃないけどかなり英語能力が高い人」と
話しているときです。
私の場合。

そしてベガさんは、
私の「英語組み手」の相手として、
理想的な相手なのです。

三菱自動車製のベガさんの自家用車に乗り込み、
そこから3時間半、
マニラ都心部からロスバニョスまでの、
渋滞する道のりを、
私たち2人は、休むことなく話し続けました。

お互いの17年間のアップデートについて。
ベガさんの子どもの成長について。
私の結婚と、私の子どもについて。
帯広畜産大学でのICCの思い出について。
帯広畜産大学の現在について。
フィリピンの過去と現在、
日本の過去と現在について。

本当に「先週会ったかのように」、
いきなりトップスピードで語り合いました。
夜のフィリピン大学ロスバニョス校に到着し、
大学内にある、客人が泊まるホステルに到着しても、
まだ話しが終わらない。

「続きは明日話そう」
といって、その日は寝ました。

そこから日曜日、月曜日、火曜日(の朝)と、
2日半、ベガさんと過ごしたのですが、
それはそれは幸せな2日半でした。


▼▼▼ロスバニョスの自然

いろいろ話せることはあるのだけど、
二つの切り口から話します。
ロスバニョスの素晴らしい自然と、
ベガさんとそのアルムナイ(フィリピンの帯広同窓生)の、
「仕事と宣教の融合感」、生き方です。

まずはロスバニョスの自然から。

フィリピンの最初の7日間は、
私はマニラで過ごしました。
5日間のGWFにも参加しました。

前日に新潟で奉仕があったため、
東京経由でそのまま成田のビジネスホテルに一泊し、
朝7時に友人の土畠君と合流。

あ、そうだ。

大切なことを言い忘れていましたが、
私がGWFに参加しようと思ったのは、
北海道在住のお医者さんで、
私の親友である土畠くんが声をかけてくれたからです。
3年前から毎年開催している、
「よにでしセミナー」を、
「やってみない?」と誘ってくれたのも彼です。
今から考えますと彼のあの誘いは、
うつ病療養から仕事に復帰した私に、
一定の方向付けを与えてくれるものとなりました。

実はメルマガ配信やYouTube放送も、
「働いている信仰者に奉仕する」
という意味で、よにでしセミナーと地続きですから。

あ、ここでいう「働いている」というのは、
ビジネスパーソンだけを指すのではありません。
キリスト教のフルタイムの奉仕者も、
「教会という職場」で働いています。
「教会」は社会の一部ですから、
牧師は社会のために働いているとも言えます。
(「フルタイムの牧師こそが偉いのだ」、
 というのはナンセンスとして、
 逆にビジネスマンこそが偉いのだ、
 キリスト教の牧師は「働いていない」!
 っていう、「逆マウンティング」の言説って、
 私は加担しません。
 「聖俗二元論」という意味で、
 両方とも同じ穴の狢でああり、
 非常に次元の低い話しです。)
専業主婦も「家庭という職場」で毎日働いています。
病気療養中の人も、何らかの健康上の理由で、
働くことができない人も、
神の視点から見たとき、深い位層で、
「働いて」います。

私はつまり、
あらゆる人々に向けて、
聖書的世界観をメタ的に伝えるために、
メルマガを書き、YouTubeで発信しています。

話しがそれました。

土畠君と私は、
そんなわけで、
「よにでしセミナー」のパートナーです。
GWFに土畠君が私を誘ってくれたのは、
よにでしセミナーのヒントになる何かを、
得られるかも、と思ったからでしょう。

FVIの柳沢美登里さんが、
日本ローザンヌ運動に加わっている事もあり、
GWFは理念的に非常に親和性が高いことが分かっていたので、
迷わず申し込みました。

その後いろいろありましたが、
4000人の申込のうち、
選ばれたのは700名でしたが、
結論から言うと2人とも選ばれ、
参加することとなりました。

極度に内向的な人間にとって、
あまりメリットがなさそうな集まりと分かっていましたが、
それでも参加しようと思ったのは、
土畠君と一緒に行くと分かっていたからです。
今回の5日間、土畠君は、
世界レベルで働ける人なので、
「障害者医療に関わる医療関係者のワーキンググループ」
の核となり、連日引っ張りだこでした。
グローバルなありとあらゆる人々と繋がり、
GWFの良さを最大限に引き出していました。
こういう集まりは土畠君のような人のためにあるのでしょう。

ハタから観ながら、
すげーな、この人は、
とただただ尊敬したわけです。
しかしながら今回のGWFはホテルが指定されていて、
しかも2人一部屋が基本だったので、
私と土畠君は同じ部屋に泊まりました。
なので部屋では毎日顔を合わせますし、
夜ご飯とかは一緒に食べに行くわけです。

アメリカで言うと、
アメフト部の主将と、
目立たない陰キャのギーク(オタク)が同室、
みたいな感じで「話、かみ合うの、それ?」
って思うでしょ。
それが合うんだな笑。
土畠君は「二刀流」なので、
いろんな人とスーパーコネクターになれる一方、
私のような「少人数での深い話ししか興味ない」人とも、
ちゃんと深い話しができる。
あんまり彼のような人を、
私は他に知りません。

そんなわけで5日間、
私はテーブルグループの4人と土畠君の、
合計5人以外とは、ほぼ言葉を交わしませんでした笑。
スーパー陰キャですね笑。

でも、11月に開催される、
「よにでしセミナー」について、
土畠君と話し合うことができたし、
いろんなヒントももらえたのでそれで十分です。

、、、なんの話しをしようとしてたんだっけ?

そうです。

ロスバニョスの自然の話しです。

そのために、
マニラの話しをしたかったんでした。
そうしたら土畠君の話になり、
ここまで来てしまった。
話を元に戻しましょう。

マニラで最初の一週間を過ごしたわけですが、
私はほとんど写真を撮りませんでした。

例外的に面白い建物とかそういうのはありましたが、
基本的にマニラって、東京とそう変わりません。
マニラもジャカルタもデリーも東京もロンドンも、
現代世界では、特に都心部は、
「ほぼ同じ」です。
ショッピングモールに至っては、
従業員と話しをするまで、
ここがどこの国か当てるのは至難の業じゃないでしょうか。
ビルがあり、道があり、車が走ってて、
またビルがあり、、、、。

モールにもフィリピンの料理出す店があったり、
日本と違ってやたらと「働く人の数が過剰」だったり、
それはそれで面白いことはあるのですが、
多少の例外を除きますと、
基本的に私を興奮させるような風景はなく、
私が写真を撮ることはほとんどなかった。

ところがベガさんと一緒にロスバニョスに行き、
そこで過ごした3日間、
私は写真を撮りっぱなしでした。
私はスマホ持ってないので、
もはや時代の遺物となったデジカメで、
バシャバシャと写真撮りっぱなしです。

ロスバニョスには何があるのか?

山です。
牧場です。
牛や馬。
熱帯植物。
バナナの木、
ココナッツの木、
ジャックフルーツの木、
アボカドの木、
多種多様の水田。
山から見下ろす湖。
「熱帯にある大学」のキャンパス。
野生の鶏。
様々なものを売る露店。
農業を営む地元の人々の生活。

目に映るすべてが新鮮で、
そして「これこれ!!!」
「これでしょ!!
 海外の面白さは!!」
「フォーーー!!」
ってなりました。

まぁ興奮しましたね。

ロスバニョスはまずどこにあるか。
そこから行きましょうか。

▼ロスバニョスの位置
https://bit.ly/2FYF2O2

こんな感じで、
マニラから車で2時間ほど南下したところにあります。
20年前にベガさんと会ったとき、
ベガさんとその仲間たちが、
「ロスバニョス、ロスバニョス」って言っていて、
「マニラ」以上に私には親しみのある地名なのですよね。
ちなみにベガさんが教えてくれたのは、
ロスバニョスというのは、
「ロス・バニョス」で、
ロスはスペイン語の定冠詞。
ちなみにロサンゼルスつまりロス・エンジェルスは、
英語でthe Angel、「天使の街」ってことですね。
これに従うと、
「バニョス」は「温泉につかる」という意味。
つまり「the Spring」、
「温泉街」というのが地名の語源です。
フィリピンは長らくスペイン領だったので、
こういうスペインの足跡が、
文化や地名や宗教や言葉の端々に残ってます。

そんなわけで、ロスバニョスには温泉があります。
火山に近いのです。
火山が多く、地震もあるフィリピンは、
意外と日本と共通点が多いのです。
精神分析の泰斗・河合隼雄先生も、
「アジアで母性社会」という共通項で、
フィリピンと日本は特異点だ、
という内容の本を出しています。

そんなロスバニョスで(どんな?)、
私はその自然に魅了されました。
ベガさんが教えてくれたのだけど、
実は私が滞在した、
フィリピン大学ロスバニョス校(UPLB)の周辺は、
「人工的に人の手から自然が守られている」
特別な場所なのだそうです。

たとえばUPLBを見下ろす美しい山があります。
実はその山の自然が保護されているのは、
「大学の側」だけで、
裏側は「はげ山」になっているそうです。

なぜか?

大学には森林学部があります。
農林学部と言った方がいいのか??
とにかく「forest faculty」がありますので、
その研究のために、裏山の森林は保護されている。

ところが裏側に国立大学の管理は及んでいないので、
地主はそれを資本家たちの手に渡す。
すると資本家たちは、
「手っ取り早く現金が手に入る」という理由で、
森林伐採をします。
木材として建築業界に売却するために。
その結果山の裏側は荒廃しているそうです。
「キャピタリズム」が山の半分をダメにしたのです。

山から見下ろす湖は美しいですが、
そこの魚はベガさんは個人的には食べないようにしているそうです。
街からの汚水で魚は重金属に汚染されているからです。
都市化によって湖がダメになっています。

大学の周囲には緑がいっぱいあります。
なぜならIRRI(国際稲研究所)が、
大学と併設されていて、
世界中の品種の水田が広がっていること。
農学部・獣医学部が酪農農園をもっていて、
馬や牛を飼育していること。
あらゆる品種の作物のために、
広大な実験農場が広がっていること。

これらが、
UPLBのキャンパスの、
「ユートピア的な美しさ」を担保しています。

そこから一歩外に出ると、
実はマニラまで交通の便が良いこの土地は、
都市化とキャピタリズムによる、
「自然からの搾取と土地の荒廃」の影響を受けています。

キャンパスの敷地内にある、
大学の「官舎」のひとつの、
ベガさんの家を訪れ、
私は「彼は帯広を離れて17年、
こんなユートピアみたいな場所で生活してきたのか!!」
と、心から羨ましい気持ちになりました。

しかしそれは皮肉にも、
「学術研究という理由から、
 人工的に保護されたエデンの園」
だからそうだったのであり、
フィリピン全土がそうではない、
という現実の一側面だったわけです。

ちなみにベガさんの家の裏庭は広大で、
なんていうのかな。
「植物園」ってあるじゃないですか。
特に、ビニールハウス的になってて、
全季節に熱帯植物とかが見れるやつ。
ベガさんの裏庭は、「あれ」です。

写真をいくつか。

▼ベガさんの裏庭
https://bit.ly/32qwGIy

▼ベガさんの裏庭のココナッツの木から、
ココナッツを落とすベガさん
https://bit.ly/2LGa0xX

▼落ちたココナッツ
https://bit.ly/2xEl8Dm

▼ココナッツをナタで開けるベガさん
https://bit.ly/2XW3Ekk


よく南国のリゾートとかで、
「ココナッツドリンク」ってあるじゃないですか。
ココナッツの実から直接飲むヤツ。
買うとけっこう高くて、
500円ぐらいしたりするのですが、
ベガさん宅では、あれは庭で取り放題です。

あと、アボカドも死ぬほど取れます。
コンデンスミルクとホイップクリームによる、
自家製アボカドアイスクリームを、
ベガさんが作ってくれました。
4リットルぐらい(!)。
めちゃくちゃ美味かった。

あと、バナナも何種類も採れます。
食べ放題です。
それからジャックフルーツも。
めちゃくちゃ美味いです。

端的に言って、
「エデンの園」のような生活です。
「園どの木からでも、
 その実を取って食べても良い。」
っていう。

また大学のキャンパスが美しいんだ。
トロピカルな木々が、
よく考えられて配置されていて、
芝生は丁寧に刈り込まれていて、
様々な花が咲き乱れている。
山がその美しいキャンパスを見下ろす。

「ここって家族でも来れるの?」
と聞くと、大学関係者のゲストが、
家族で泊まれる場所もあるとのことなので、
本気で近年中に、家族の夏休みに、
ベガさんたちを尋ねることを考え始めています。
時期によっては「飛行機の国内旅行」より、
安くつくかもしれないし。


▼▼▼ベガさんたちの、「GWF性」

ちょっと文字数がヤバくなってきました笑。
あと、執筆時間も。
ちょっと疲れてきた笑。

そんなわけで、
ベガさんと過ごした3日間は「最高」だったわけですが、
それはトロピカルな意味だけではありません。
もちろん古い友情を温めた、
という意味でも、私にとって特別な時間でした。
早くも「2019年の陣内俊の個人的ハイライトのひとつ」
になりそうな予感がします。

しかし、GWFという、
「仕事と宣教」に関する集まりに、
5日間出席した後の「実地研修」みたいな意味合いでも、
ベガさんたちの歩みは私に霊感と刺激を与えてくれました。

ベガさんたちは「ナビゲーター」という国際団体の、
リーダーをしています。
地域教会とも良い関係を持ちながら、
そこを「地域教会的に」考えていて、
大学キャンパスのクリスチャン同士(10〜20名)で、
学生時代から数えたら30年以上、
共に歩んで来ました。

そんなベガさんの「親友」に、
デイブさんとその家族がいます。
デイブさんは帯広にも来てましたので、
私も面識があったのですが、
今回、彼らから話しを聞き、
彼らが学生の頃から特別な友情で結ばれてきたことを、
改めて知ることとなりました。

彼らがこの17年間してきたことは、
本当に素晴らしいので紹介させてもらいます。
文字数も制限されてきましたので、
下手に解説を加えるのではなく、
ただ、私がベガさんから聞いた話を収録します。

彼らはキャンパスで会合を持ち、
聖書研究会を通して、
大学生に伝道するのみならず、
地域の貧しい子どもたちにも目を向けるようになりました。
毎週土曜日に彼らは、
公立の高校体育館をレンタルし、
4家族ぐらいで当番制にして、
地元の貧困家庭の子どもたちに、
無料の昼ご飯を作って配布し始めました。
毎回50人ほど集まります。

そういった「フリーランチ」がもたらす、
「依存性」の問題も当然知っていますので、
フリーランチとセットで、
「勉強して、仕事をして、
 そして立派な大人になることの価値」
を聖書に基づいて教育するという、
「知識のワクチン接種」とセットでそれをしました。
そのような働きを10年間続けた結果、
何人かの親たちがキリストを信じ、
その家庭の生き方が変えられていくようになりました。

最近はその働きは、
「聖書的子育て講座」
「聖書的夫婦関係講座」へと、
シフトしていきました。
親がその生き方を変えるとき、
子どもの運命も変わることが、
10年間の実践で分かったから、
そちらに集中することにしたのです。

さらにベガさんたちは、
週末にはそのような活動をしながら、
仕事もまた神に捧げています。

ベガさんが、
「マンチェスターユナイテッド」のTシャツを着てたので、
「サッカーやるんですか?」と聞くと、
そうじゃなく、数年前にイギリスにいったときの土産なんだそう。
さらに聞いてみると、
それは「学術研究のコンペティション」で、
イギリスまで招かれたのだそう。

ヨーロッパの財団が主催するそのコンペティションには、
毎回2000を超える論文が全世界から集まります。
ファイナリストの3名は、
ヨーロッパに招かれそこで発表をします。
ベガさんはそのファイナリストに選ばれたのです。

コンペティションのテーマは、
「貧困と環境問題を解決するイノベーション」で、
ベガさんの論文は、
「小型の養殖用の水槽の水を環流させ、
 上で農作物を育てる。」
という、野菜と魚の二毛作的なアイディアで、
これがあると世界の貧しい村々の家庭が、
食っていけるようになる。

惜しくも優勝を逃しましたが、
この発明は高く評価されました。
「特許を取ったりしないんですか?」
と聞くと、
「しないよ。
 だって、この貧しい人たちのための発明は、
 神様が僕に無料で与えてくれたんだ。
 だからこれを無料で与えるのは当たり前でしょ。」
とのこと。
神の栄光のために仕事をする姿に私は感動したのでした。

実はさらに話しがあって、
ベガさんの親友デイブさんは、
このコンペでファイナリストに選ばれただけでなく、
優勝しています。
たしか2006年のことです。
発明の内容は、
山村部の小さな川から小規模の発電をする、
というアイディアです。

この発明により、
デイブさんはなんと、
TEDカンファレンスで発表もしたそうです。
これも、神の栄光のため。

彼らにとって仕事は神の栄光のため。
生活も神の栄光のため。
余暇も神の栄光のため。

GWFには、
世界的に有名な企業のCEOなども、
スピーカーとして登壇していました。
彼らから励ましを受けたのはいうまでもありませんが、
正直、私はどんなスピーカーよりも、
ベガさんやデイブさんから、
インスピレーションを受けましたし、
それから同室の土畠君からも、
いつもそれらをもらっています。

GWFの価値が相対的に低くなっちゃうような着地になっちゃいましたが、
まったくそんなことはなく、
ローザンヌ運動の働きは素晴らしいものです、
事実、ベガさんたちもローザンヌ運動のことは知っていて、
「包括的な福音理解」に関することを、
私が今の仕事にしていることを話すと、
ベガさんは、
「そうか、それは良い働きを選んだね。
僕達も同じ事を考えている。
世界中でそういうことが強調されるようになったのは、
本当に良いことだと思う」と言っていました。

実践家と理論家(啓発者)のどちらが偉いか?

というマウンティングの取り合いも、
最初に言った「聖俗二元論」に基づく、
「ナンセンスな二分法」ですよね。
理論家も実践家も、一緒に手を取り合って進むのです。
そう、神の栄光のために。

▼写真:ベガさんと私
https://bit.ly/2XVYkgZ

▼写真:フィリピンの帯広同窓生のリユニオン
(この夜、私は親子丼とカレーを作りました。
 日本経験があるので、皆さん、
 めちゃくちゃ喜んでくれました。)
https://bit.ly/2FXcLY3


バラナシからの手紙

2019.09.05 Thursday

★第88号 2019年4月23日配信号

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 紀行文「バラナシからの手紙」

仕事柄、私はけっこう、
さまざまな土地を訪れることが多いです。

紀行文「○○からの手紙」は、
私が自宅を離れて、全国津々浦々、
あるいは海外の各地を訪問したときに、
そこで体験し、考え、触れ、見たことを、
報告するという、そのままの内容。

離れたところから絵はがきを送るように、
海外や国内各地から皆様に、
お手紙を送らせていただきます。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼バラナシに着きました。

、、、と、いうわけで、
(どういうわけなのか分かりませんが)、
バラナシにいます。

さすがに疲れも貯まってきました。
ずっと下痢ですし。

下痢か、酷い下痢かのどちらかです笑。

先週は土曜日までデリーにおり、
土曜日に国内便でバラナシに移動しました。
飛行機はやはり楽ですね。
デリー→バラナシ間の夜行列車は、
11年前に乗りました。
往復だから2回。

あれはかなり大変な経験でした。
大きさで言うと、
古ーい病院とかにある、
大人がちょうど座れるぐらいの、
「長方形のソファのようなもの」がありますよね。
120センチ×40センチぐらいの。
それが「ベッド」です。
これが、二段になってます。

▼参考画像:インドの夜行電車の二段ベッド
http://livedoor.blogimg.jp/rekusan/imgs/9/1/91d4b215dda7d5536a49-L.jpg

私はこの二階に寝たのですが、
高さは60センチぐらい(?)で、
まぁ、狭いわけですよ。
しかも、スーツケースを身体に結びつけないと盗まれるよ、
と言われていたので、隙間においたスーツケースと、
自分の足を結びつけ、いろんな意味で囚人のような状態で、
13時間ぐらいだったかな、
電車に揺られました。
(駅には荷物と身体を結びつけるための、
 「鎖」が売っていました。マジで。
 奴隷船にでも乗るのか俺はこれから、
 と思いましたから笑)

朝起きたら当然身体はバッキバキです。
当時、iPod nanoで、
aikoを聞いていたのを覚えています。
なぜaikoだったのか謎ですが、
多分今の状況となるべくかけ離れた音楽を、
身体が欲していたのでしょう。

デリーに戻ったとき、
たまたま会った日本人のバックパッカーと会話し、
彼も同じ夜行列車に乗ったという話しで盛り上がりました。
夜行列車ではなんか「売り子」さんみたいな人がいます。
日本の新幹線のあれとは似ても似つかない。
謎のおじさんが食べ物を持って、通路を歩いては、
「モモ」と呼ばれる春巻きみたいなやつを、
ひとつ5ルピー売っていきます。
衛生上の理由から私は怖くて買えなかったのですが、
彼もあれが気になっていて、
そして夜行列車の「一階席」で寝たそうです。
朝起きると、口に「モモ」が入っていることに気づき、
眠い目をこすると売り子のおじさんが仁王立ちしており、
「5ルピー」と請求してきたという。
名前も忘れちゃったけど、
久しぶりに日本語で話したのもあり、
二人で爆笑しました。

これだからインドはやめられない。

2008年7月のことです。

話しを戻しましょう。
その朝、私は夜行列車の極狭二段ベッドで、
バラナシの駅に着きました。
たくさん駅に止まるのですが、
当然「車内放送」なんて気の利いたものはありません。
液晶画面なんて望むべくもない。
薄暗い朝日のなかで、
降りる人は黙々と降りていきます。

どこが「バラナシ駅」なのか?

それは、景色を見ればわかるでしょう、
ということです。

いや、分かるわけないやんけ!

と思い、
真向かいに座っていたシーク教徒(ターバン巻いてる人ね)に、
「バラナシはどこか教えてくれますか?」
と頼むと、彼は次の次の次だ、と教えてくれました。

早朝のバラナシの駅で私が会った人物、
その人こそ、その後11年にわたり、
国は違えど「親友」のように思い合うことになる、
バルーさんその人でした。

あそこで過ごした2ヶ月間は、
私の人生を変えた2ヶ月間でした。
かなりいろんなトラブルに見舞われ、
身体の中に細菌が入って血液に乗って広がり、
地元の病院で治療を受け、
カメラを盗まれ、
パソコンのACアダプタが煙を上げて壊れ、
毎秒体調が悪く、
気温は45度を超え、
エアコンもなかったけれど、
それでもあの2ヶ月ほど後の私の人生に影響を与えた期間は、
あまり多くはありません。

毎朝、バルーさんと語り合いました。
昼は彼のバイクの後ろに乗り、
彼の様々な働きの補佐をしました。
彼の様々な働きというのは、
本当に様々な働きで、
保健師でもあった彼は、
村々を回って衛生指導をし、
井戸掘りプロジェクトを推進し、
トイレの建設に携わり、
開拓した40の教会の牧会をし、
路上で「伝道メッセージ」を語り、
自分のはじめた学校で教え、
女性のための識字教育のリーダーとともに村を訪問し、
40の教会のリーダーたちを励まして歩いていました。

「もしイエス様が市長だったら」
という本があります。
私のメンターのボブ・モフィット師の著作で、
もうちょっとで書籍化され、
皆様にも買っていただけるようになる予定です。
いましばらくお待ち下さい。

その本に引きつけるなら、
「もしバラナシの農村地帯で、
 イエス様が市長だったら、
 それはバルーさんになるなぁ」
と私は彼のバイクの後ろに乗りながら思ったのです。

夜もご飯を食べながら、
毎日彼と語り合いました。

彼もいろんなことを語りましたが、
私もまた自分のことを語り、
日本のことを語り、
宣教に対する情熱を語り、
教会に対する思いを語りました。

当時私は独身でしたが、
結婚に関することも語り合いました。
バルーさんが銀行に行く日などは、
私はバルーさん宅で、
二人の就学前の子どもたちと遊びました。
上の子が男の子、下の子が女の子です。
日本から持って行った折り紙で、
手裏剣をつくって遊んだり、
ドラゴンボールの「カメハメハ」を教え、
カメハメハの打ち合いをしたりしました。

彼らもまた私にインドの遊びを教えてくれました。
「シャッティマーン」という、
インドの仮面ライダー(注:首から上はおじさん)を、
彼らは私に見せてくれました。

政治についても語りました。
インドの政治の仕組みと問題、
日本の政治の仕組みと問題。
経済のこと、家族のこと、
教育のこと、そして何より、
私もバルーさんも、それぞれに自分の、
「安定した最初の職業」を後にし、
「神から呼ばれた」ことを信じ、
その召命に従って歩む、
という信仰の歩みの在り方が似ていました。

バルーさんは年齢では私の2つ上です。
同世代のバルーさんと私の心は、
その2ヶ月に、
「心の深い部分で結びついた」のです。
彼とは何もかも違うようでいて、
何かその「何もかも」をはぎ取ったら、
とても似ているものを共有している、
という感覚がお互いにありました。

バルーさんが日本人だったら、
私のような生き方をしていたかもしれないし、
私がインド人だったら、
バルーさんのように歩んでいたかもしれない、と。


▼▼▼バラナシ空港にて

先週の土曜日、
私は非常に快適な、
デリー→バラナシの移動をしました。
今回は飛行機でした。

飛行時間は1時間半。
嘘みたいにすぐに着きました。
嘘みたいに快適でした。

40歳を超えた人間には、
夜行列車は苦行です。
「その後の健康ダメージ」で、
飛行機代がペイするので、
飛行機で行くのが吉です笑。

バラナシ空港のゲートで、
バルーさんを見つけました。

感動したのですけど、
ちょっと現実なのか分からないような、
ふわふわとした気持ちを覚えました。

彼は当時と何も変わっていません。
話し方も、髪型も、献身の情熱も。

ただ、私も彼も、
いろんなことが変わりました。

私は当時は援助団体のスタッフでしたが、
今は違います。
私は当時独身でしたが、
今は結婚して子どもがいます。
当時私は「真っ白なキャンパスに夢を描くような」、
転職してばかりの「まっさらな状態の30歳」でしたが、
現在の私はバーンアウトを経験し、
自分の身をいたわりながら、
当時考えていたのとはまったく違うかたちの、
それでもとてもいとおしく思えるかたちの、
自分の働き方を見つけつつあります。

バルーさんにも大きな変化がありました。
実は、私たちが援助団体を離れ、
「声なき者の友の輪」を立ち上げたことと、
バルーさんの人生は無関係ではありません。
それは直接的な影響でした。
つまり、私がかつて属していた援助団体が、
バルーさんたちの働きの援助をカットしたため、
彼らは資金的に行き詰まったのです。

2012年のことでした。

そのときバルーさんは祈りました。
すると、「あなたこそがつまずきの石だ」
と神から語られたそうです。
そして彼はその団体を去りました。
するとその直後、
バルーさんが育て上げた、
40の教会と地域への包括的な奉仕を含む働きを、
他の団体が援助したいと申し出てくれ、
バルーさんが育てた次のリーダーが、
資金的に心配することなく活動を続けられるようになったそうです。

さて。

次はどうしよう。

バルーさんは、
「自分の人生は神のものなので、
 次にするべきことが、
 どんなことだったとしても、
 それに従うだけだ」と考えていました。

そんな折、
他の州で行われたある集まりで、
自分の経験を分かち合ったところ、
そこに来ていたある団体の方が、
「一緒に働かないか?」と声をかけてきました。
なんとその時点で、その「団体」には、
その人ひとりしかスタッフがおらず、
立ち上げた直後だったそうです。
内容は、諸事情によりあまり詳しくは立ち入れないのですが、
「リーダーを育てる」という働きです。

今バルーさんはその働きをしています。

現在インド国内各地に10名の、
バルーさんのような人がいます。
これまでの7年で、
バルーさんはインドのほとんどすべての主要都市を巡り、
何万人という人に向けて語り、
大きな団体の人材育成を請け負い、
そして数多くのリーダーたちを育ててきました。
彼はもはや「有名人」の域だそうです。
インドの教会ではけっこう知られている。

私はその話を聞きながら、
驚くと共に、
「まぁ、そうなるだろうな」
と思いました。

11年前に彼を見た時に、
彼の何が凄いかっていうと、
それは女性も男性も、
中流カーストの人も、
被差別部落出身者も、
彼を信頼しており、
そしてその信頼関係を土台に、
彼は「人の可能性を引き出して、
その人が能力を開花させる」という意味の、
リーダーシップ養成において、
卓越していることだ、というのが、
私の分析だったからです。

この場合の「リーダー」っていうのは、
別に偉くなることではありません。
聖書的なリーダーというのはむしろ、
「しもべ」のイメージです。
目立たず人に仕えている人。
この人が聖書的な意味のリーダーです。

福音書を読めばそう書いてあります。
あと、ヘルマン・ヘッセの、
『東方巡礼』という短編小説を読むと、
この意味が深く理解できます。

バルーさんが今しているのは、
バラナシの田舎でしていたことを、
全国規模で(最近ではインド国外にも)、
しているだけなのです。

「小さな事に忠実な者は、
 大きな事を任される」
と聖書は言います。
神様はバルーさんの田舎での働きを観ておられ、
「この人はもっと広く用いられるべきだ」
と「リクルート」されたのだろうと思います。

私はだから、
小劇場で抜群に面白いネタを披露していた芸人が、
M-1で優勝し全国区になり、
今はレギュラー番組を多数抱えている。
そういう軌跡を観ているような感じで、
「まぁ、そうでしょうね」と思います。

さて。

私はどうか?

私の11年はどうだったのか?

私も大きく変わりました。
30歳の私は、
仕事を辞めて宣教の働きに身を投じ、
潰れそうな不安と、大きな夢を同時に抱いていました。
私は結婚しておらず、
結婚もしておらず、
結婚すらしていませんでした。
非常に、確実に、結婚していなかったのです。

現在の私は結婚していて、
娘がおり、そして41歳になっています。
当時よりもさらに小さな団体で、
フリーランス的に働いています。
燃え尽きと鬱を経験し、
30代後半がまるごと、
「ふっとび」ました。
病気の前後含め5年ぐらいは、
本当に自分史から「なくなった」という感覚。
(ただ、それこそが私の最も大きな宝ものとなるのですが、
 それはまた別の話。)
今は病気で体力の落ちた、
自分の身体をいたわりながら、
ときどき怖々としながら、
でも今できることを、
ひとつずつ大切にこなしています。

芸人のメタファーに戻りますと、
彼は全国的にブレークしていますが、
私は「さらに地下に潜った」という感じです笑。
11年前はお互い地下一階でしたが、
現在バルーさんは地上はるか高く、
私は、「地下二階」っていうね笑。

賞レースにも参加するのをやめ、
なんか自費制作のDVDとか作り始めたりして笑。
ネタがどんどん前衛的になっていったりして笑。
完全に「地下芸人一直線」です。
ダウンタウン路線ではなく、
ラーメンズ路線ですね笑。
もしくは「みうらじゅん路線」笑。
しかもラーメンズほどのカリスマも才能も持ち合わせないという。

でも、それでいいのです。
そんなことは、友情に何の影響も及ぼさないし、
私たちが神に仕えるということにおいて、
そういった「外側の見た目」とか、
「世間的に考えられている成功の有無」は、
何の重要性も損なわないし、
まったく本質的なことではない。

先週の編集後記に書いたように、
「忠実だったかどうか」がすべてなのです。
かたやバルーさんは、
けっこうな「サクセスストーリー」と言って良いほどに、
素晴らしい用いられ方をしてきた。
私は「しくじり先生」で講義できるほどの、
「挫折と葛藤のストーリー」を歩んで来た。

お互い、話しを聞き終わった後、
「、、、うん。OK。よく分かった。
 、、、で、キミは忠実だったのか?」
これだけが私たちの共通の感心でした。
お互いの答えが「きっとそうだと思う」なのは自明なので、
私たちはお互いの歩みを喜び合ったのです。

「こういう部分」って、感覚的なものなので、
あまり言葉になりづらいのだけど、
バルーさんも私も、
「11年前に会ったとき、
 何かが俺たちを結びつけたんだよね」
とお互いに言い合っているとき、
その「何か」とは、
こういった「成功に関する定義」とか、
「コアにある何か」だったと、
今になって思えば分かります。
人生観とか価値観とか、
そういった言葉にも落とし込めるのだけど、
もっと「質感を伴った何か」なのです。
人と人を親友にするのは。

私の「親友」たちに、
唯一共通点があるとしたら、
この「質感」だと思います。



▼▼▼バルーさんの子どもたち

、、、さて、文字数もかさんできたので、
すこし角度を変えて話しましょう。
私が再会したのはバルーさんだけではありません。

バルーさんの奥さんと子どもたちにも再会しました。
彼らは当時たしか、7歳と4歳とかでした。
7歳の男の子と、4歳の女の子です。
今のインドの政治的状況を鑑み、
一応、子どもなので実名は伏せましょう。

仮にそうですねぇ。
「アシシくん」と、
「アディティちゃん」としておきましょう。
どちらもインドでポピュラーな名前です。
太郎くんと花子ちゃんみたいなものですね。

今アシシくんは18歳になっており、
アディティちゃんは15歳になっています。

ティーンエイジャーとなった彼らとの再会は、
けっこう感動的でした。

先ほど述べたとおり、
11年前に2ヶ月間バルーさんの家に滞在したとき、
私たちは毎日一緒に遊びました。

一昨日の日曜日、
私はバルーさんが牧師として奉仕している教会、
「オール・ネイションズ・チャーチ」にて、
礼拝のメッセージをしました。
イースターでもあったので、
キリストの復活に関するメッセージを。
英語で話すのはいつも緊張しますが、
バルーさんが通訳してくれ、
多くの人々が感銘を受けた、
と後で言いに来てくれるほど好評でした。

その後、教会の愛餐会がありました。
メニューはもちろんカレーです
あ、これ、日本の「もちろんカレー」とは違いますからね。
プレートにインディカ米とナンとカレースープを盛り付け、
手でこねこねして食べる「リアルガチのカレー」です。

私はアシシくんの隣にすわり、
手でカレーをこねこねしながら、
二人で思い出話を語りました。

ドラゴンボールの「カメハメハ」を、
教えてくれたよね、とか、
日本料理を作ってくれたよね、とか、
けっこういろんなことを彼らは覚えていました。

話しているとこちらもいろいろ思い出してきました。

そういえば「シャッティマーン」はまだ生きてるの?

と私は彼に聞きました。
シャッティマーンというのは、
話せば長くなるのですが、
まぁ、日本でいうと仮面ライダーですね。
というか、もう、仮面ライダーです。
今なら絶対訴訟されるレベルで、
設定とか番組構成とか、
「完コピ」しています。

ただ、仮面ライダーと違う点がいくつかあります。

まず、ヒーローに変身する主人公が、
「おじさん」だということ。

▼参考動画:シャッティマーン変身前
https://bit.ly/2IzPo9Z

私はアシシくんに強く勧められ、
当時放送を何度か見ましたが、
しかもけっこうこの「おじさんパート」が長いんですよね。
かなり「おじさんで引っ張る」わけです。

あそこだけ観てるとかなりシュールです。
おじさんが歯を磨いたり、
おじさんが電話をしたり、
おじさんが昼寝をしたりするシーンが、
ひたすら映されるのですから。

何を見せられているんだろう、という感じです。

そして戦闘シーンになると、
いよいよ変身するのですが、
シャッティマーンが仮面ライダーと決定的に違うのがここです。
「顔面まるだし」

「仮面じゃないライダー」なのです。
あ、ライダーでもないか。
だからもう、何でもないのです笑。

おじさんが首から下だけ変身してますので、
もう、「コスプレおじさん」です。

▼参考画像:シャッティマーン
http://www.internationalhero.co.uk/s/shaktim.jpg


、、、で、戦闘シーンもなかなかのもので、
普通にデリーとかで撮影していると思うのですが、
空き地で撮影してると、
遠くで撮影に気づいて興奮している人が映り込んだり、
普通に風でレジ袋などのゴミが飛んで来ているのが、
映り込んだりしています。

なんと、現在はYouTubeという便利なものがあります。
当時もありましたが今ほどコンテンツは充実してませんでした。
YouTubeでシャッティマーンが見れます。
興味と、ありあまる時間がある方は、
見てみてください。

▼参考動画:シャッティマーン 第298話
https://youtu.be/1Vk2YxN01WM


、、、で、このシャッティマーンは、
当時非常に人気のある、
インドの子どもたちにとってのスーパーヒーローで、
木曜日の17時になると、
テレビの前に正座して待つ、
みたいな感じでした。
昭和の「力道山の試合」みたいなものでしょうか。
けっこう停電で見れないという憂き目にも遭いましたが。

バルーさんが教えてくれたのですが、
シャッティマーンは人気がありすぎて、
子どもたちが空飛ぶシャッティマーンの真似をして、
二階から飛び降りて足を骨折する、
という事故が多発して社会問題となり、
「真似して飛ばないように」という注意喚起が放送されたほど。


、、、で、
私は18歳になったアシシくんに聞いたわけです。
「シャッティマーンはまだ生きてるの?」
アシシくんは軽く笑いこう言いました。
「もう生きてないよ。
 、、、
 、、、
 あ、俳優さんはまだ生きてるけど。」

年齢というのは残酷なものです。
あれほど熱狂したスーパーヒーローも、
当時の子どもが大人となれば、
まぁ、そんなものですよね。

、、、という、バラナシの話しでした。
かなり偏った紀行文となりましたが、
今のところはこんなところでしょうか。

来週はどうなるんだろう?
バラナシの続きを書くかもしれないし、
何もなかったかのように「読んだ本」コーナーかもしれないし、
執筆時間が取れなければ「休刊」するかもしれません。

期待せずに楽しみにお待ち下さい。

デリーからの手紙

2019.08.29 Thursday

★第87号 2019年4月16日配信号

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 紀行文「デリーからの手紙」

仕事柄、私はけっこう、
さまざまな土地を訪れることが多いです。

紀行文「○○からの手紙」は、
私が自宅を離れて、全国津々浦々、
あるいは海外の各地を訪問したときに、
そこで体験し、考え、触れ、見たことを、
報告するという、そのままの内容。

離れたところから絵はがきを送るように、
海外や国内各地から皆様に、
お手紙を送らせていただきます。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼久しぶりの紀行文▼▼▼

いつ以来だろう?
多分1年以上ぶりです。

過去にはバギオ(フィリピン)、
伊那市(長野県)からお送りした記憶があります。
今回はインドです。

デリーに着いたのが先週の水曜日でした。
いろいろとYouTube放送(およびポッドキャスト)で、
話してきたので、さてメルマガには何を書こうかなぁ、
と思案しているところです。


▼▼▼リープフロッグ現象

まず、YouTubeでも話しましたが、
「リープフロッグ現象」から。
ウィキペディアの定義をご紹介します。

〈リープフロッグ型発展
(リープフロッグがたはってん、英:Leapfrogging)とは、
既存の社会インフラが整備されていない新興国において、
新しいサービス等が先進国が歩んできた技術進展を飛び越えて
一気に広まること。
リープフロッグ現象ともいう。

一例として、多くの新興国において
固定電話の普及を待たずに
携帯電話およびスマートフォンが急速に普及したことが挙げられる。
また、中国におけるフィンテックの進展においても言及される。

アメリカや日本などでは、新しいサービスが出ても
既存サービスとの摩擦が起こり、法律の修正が必要になるため、
浸透までに比較的長い時間が必要になる。
一方、中国は既存の社会インフラや
法律の整備が十分に進んでいなかったことから、
電子決済、タクシー配車サービス、
シェア自転車などの新しいサービスが急速に浸透した。〉


、、、リープとは「飛ぶ」、
フロッグとは「カエル」という意味です。
つまりカエルが飛ぶような発展、
という意味になります。

新興国が「近代化」するとき、
カタツムリのように地を這うのではなく、
カエルのように飛ぶのです。

そして多くの場合、
その着地点は、先進国をすら「飛び越えて」しまう。

なぜか?

ウィキペディアの説明にもあるとおり、
先進国には「既存の古いインフラ」があるからです。
ブラウン管テレビ、公衆電話、固定電話、現金、タクシー業界、、
これらの存在は、「次に来る未来のサービス」のまえに、
得てして立ちはだかるのです。
それらを取り巻く各種のサービスに従事している人がいる。
業界団体がある。
そこに利益を誘導することで票をかせいでいる政治家がいる。
ということは当然「規制」がある。

だから、革新的な技術やサービスが現れても、
それが社会に浸透するまでには、
10年から数十年の年月を要するわけです。

ところが新興国にはそもそも、
ブラウン管テレビ、固定電話、(信頼出来る)現金、
タクシー業界などというものがなかった。
なので「抵抗勢力」など最初からない。
だから液晶テレビ、スマホ、電子決済、ウーバーなどが、
瞬時に広がるのです。

その結果、新興国の社会の様子は、
先進国の人間から見て、
「私たちの未来がそこにある」という状態になる。
これは相当に倒錯した状態です。

でも、今私がインド(デリー)で目にしているのは、
まさにそのような状況です。

正直に申し上げて、
陳腐な表現を使わせて抱くなら、
私は今、完全に「浦島太郎状態」です。

認知が現実に追いついていません。

この11年でデリーに起きた変化というのは多分、
日本が1950年代から2000年代とか、
もしかしたら50年ぐらいかけた変化のように思えるからです。
そしてある部分においては、
デリーの生活の先進性は日本をすら追い越している。

私の目の前で話しているのが、
11年前の2008年に出会った人々の、
大人になった息子や孫たちならば、
まだ私は正気を保っていられたかもしれない。
しかし私の目の前にいるのは、
見た目もほぼまったく変わらない、
あたかも「3ヶ月前にあったばかりにすら感じる」、
10年来の友人たちなのです。

認知が追いつかない。

私はラージさんという、
私たちのパートナーに聞きました。
「この10年のインドの変化っていうのは、
 日本だったら30年以上かかる変化です。
 これだけ短期間に社会が変わるというのは、
 文化的衝撃はけっこう大きいんじゃないですか??」
ラージさんは言いました。
「確かにそうかもしれない。
 特に低い社会階層の人にとっては大変だ」。

そうなのです。
社会が発展するというのはつまり、
便利になるということです。
日本人はそれをよく知っています。
しかしながらそれは物事の一側面に過ぎない。

社会が便利になるということは、
「中産階級以上の人にとって」便利になるということです。
この10年で当然物価も上がっており、
食事の値段からすると、
だいたい2〜3倍ぐらい上がっています。

しかし、インドの変化は、
「社会が一様に」変化したのではありません。
リープフロッグ現象はモザイク状に起きています。
つまり、日本以上に近代的な光景があるかと思えば、
次のブロックには10年前とまったく変わらないスラム街がある。

貧困層は物価が2倍になった分、
以前よりも生活は苦しくなります。
また、富む人と貧しい人の格差は当然広がり、
心理的な抑圧は高まります。

多くの社会学的研究が示しているのは、
人が「自分は貧しい・惨めだ」と感じる度合いというのは、
「絶対的な貧困」よりも
「相対的な貧困」のほうが大きいのです。

どういうことか。

たとえば私たちの祖父母を考えてみましょう。
私の祖父の家はくみ取り式便所でした。
家は当時の基準としては小さくはないものの、
現在から考えればとても古く、
床もみしみしと音を立てたりするし、
すきま風が入ってきたりもする。

祖父の家に子どもの頃に行く度に、
くみ取り式便所が怖かったのを思い出します。
しかし、祖父の世代の中では、
祖父はまったく自分を貧しいとは感じなかったでしょう。
周りも似たようなものだったから。

しかし、祖父が昭和のころのその生活のまま、
2019年の東京にタイムスリップしたと考えましょう。
家は建て付けが悪く、
くみ取り式便所で、
裸電球の四畳半の部屋がある。

祖父がもし若いまま現代の東京で、
その生活を続けなければならないとしたら、
それはけっこうキツイ経験です。

人は「自分の絶対的な経済状況」よりも、
「相対的な経済状況」によって、
より追い詰められるのです。

そう考えますと、
10年前のインドには、
(日本やアメリカの基準での)
中産階級はまだ多くはなかった。
彼らは特権階級であり、
「特別な人たち」と思われていた。

だから、多くの「それなりに貧しい人々」は、
貧しいけれどそれなりに幸せだった。
しかしこの10年で状況が変わり、
社会の何割かの生活は一気に改善し、
一部の人が日本でいえば50年分ぐらい、
「取り残された」。

これはかなりキツイことです。

おそらく同じような発展を経験した、
中国やロシアや東南アジア諸国などでも、
似たような状況が起きていると予想されます。

こういうことを言うと、
「コミュニスト」と誤解されそうなので付言しますと、
私は経済発展を否定しているのではありません。
経済発展は社会に恩恵をもたらします。
私は10年前にインドに来たときよりも、
停電・断水の心配に患わされることなく、
食中毒や窃盗や感染症の不安も少なく、
地下鉄も利用できるという便利さを享受している。

しかし経済発展は必ず格差を拡大し、
その格差によって社会に分断がもたらされる、
という現代の世界に普遍的な現象もまた、
指摘しておくべきだと思うのです。

実はこの分断に対する効果的な対処を、
まだ人類は見つけていないのです。
「GAFA 四騎士が創り変えた世界」という本のなかで、
著者のスコット・ギャロウェイは、
「現代はビリオネア(億万長者)になるのが、
 歴史上最も簡単で、
 ミリオネア(百万長者)になるのが、
 歴史上最も難しい時代だ」
と言っています。

ひとつかみの「超優秀な人」が、
一世代前では考えられないような富を手中に収める一方、
その他大勢のなかで、
ひと世代前の中流の上級(アッパーミドル)に届くには、
血のにじむ努力をしなければならない。
しかも、頑張ったとしても、
そこに到達するかどうかもわからない、
という世界に私たちは生きています。
私たちの親世代にとって当然だった
「安定した雇用と中流以上の収入と、
 年々給料と地位が上がっていく状態」
というのは、私たち世代とそれ以下にとっては、
「血のにじむほどの努力をして、
 なおかつ運が良ければ手に入るかもしれないもの」
になっている。

世界は「芸人の世界」に近づいているのです。

巨万の富を得た松本人志のような成功者と、
数え切れないほどの「食うや食わずの芸人たち」と、
それすらも諦めた屍が無数に転がっている。

20世紀の中産階級を支えた、
工場労働とオフィスワークが、
ロボットと人工知能に置き換わる現在において、
ロボットと人工知能を富に変えられる、
ひとにぎりの「知的資本家」と、
膨大な数の「没落した中産階級」に、
社会は分断されます。

トランプ大統領の当選は、
このひとつの事実で簡単に説明できます。
「もういちど中産階級にならせてくれ!!」
という叫びを彼はすくい上げたのです。
しかし時代が巻き戻ることはありませんので、
彼がそれを成し遂げることは不可能です。
しかし少なくともトランプは、
「嘘であれ夢を見させてくれた」わけです。

厳しい現実を突きつけられるよりも、
彼らにとっては夢を見ることの方が大切だったわけですね。


、、、めちゃくちゃ話しがそれました笑。

でも、案外それてないんだなこれが。
現在インドは「総選挙」の真っ最中です。
次の与党が決まります。
そして次の首相も決まる。

5年の任期を終えたモディ首相と、
彼を擁する政党BJPは、
インドの「国家主義的政党」です。
ようするに「右翼」ですね。
日本の右翼の精神的支柱は国家神道ですが、
インドの右翼の精神的支柱は「国家ヒンドゥー教」
とでも言うべき宗教です。

このあたり、インド国外の人は理解するのが難しいのです。
日本における明治政治が道具として発明した
「国家神道」と、
自然信仰としての「(ほんとうの)神道」は別物です。
国家神道は統一の道具として「政治利用」され、
「ほんとうの神道」は逆に国家によって抑圧されました。
国家になびいた神主は生き残れましたが、
「廃仏毀釈」が吹き荒れるなか、
土着の信仰はひどい有様でした。

インドもそうです。
インド政府(BJP)が唱導する「ヒンドゥー教」は、
「ヒンドゥトゥヴァ」と呼ばれ、
「ヒンドゥイズム」とは違います。
ヒンドゥトゥヴァは、日本で言うところの国家神道であり、
ヒンドゥイズムは、日本の自然信仰としての神道です。
ヒンドゥイズムは多様性を尊重し、暴力を否定します。
ヒンドゥトゥヴァは、「インドはひとつになるべき」
と強固に主張し、時に暴力的ですらあります。
それをフックにして国民をまとめ上げるための道具なのです。
その「副作用」は、少数派や弱者への差別や排斥です。

ほら、日本と似てるでしょ。

つまりモディ首相は安倍首相的であり、
BJPは自民党右派的なのです。
モディ首相はトランプ的であり、
BJPは共和党右派的だと言ってもいい。

なぜそうなるのか?

社会が分断しているからです。
分断した社会を今のところ効果的にまとめ上げているのは、
全世界において、
「仮想的を作り上げることに長けた国家主義者のみ」
という悲しい状況が、インドでも進行中なのです。
(じっさいにまとめ上げることに成功しているかどうかは、
 留保が必要ですが)

繰り返しますがこの「分断の状況」を、
「過激なナショナリズム以外で解決する」処方箋を、
現在の所だれも提言できていないし、
具現化できていない。
ここに現代世界の思想の行き詰まりがあります。

令和の時代には、
どうか日本が「その先の未来」を示すような、
方向を切り拓いてほしいと思うし、
私もそのように願いながら、
NGOの活動をしています。



▼▼▼地下鉄、SIMカード

、、、というようなハードな話しをしたので、
今度はソフトな話しを。
11年ぶりのインドで驚いた話しをいくつか。

まずは何と言っても地下鉄ですね。
聞けば地下鉄は2008年には既にあったそうです。
ただ、そのときは線は1本しかなかったらしいので、
使うチャンスがなかったということなのでしょう。
この10年間でどうなっているかというと、
もう、東京みたいになってます。

▼デリーの地下鉄マップ
https://bit.ly/2v3RdDd

凄いでしょ。
1本が、10年でこれですよ。
さらに「リープフロッグ現象」を思い出してください。
当然最初からプリペイドカード仕様、
つまりキャッシュレスですし、
落下防止用のドアは完備されていますし、
車両は最新式です。

言ってしまいますと、
東京の地下鉄より全然快適です。
地下鉄ってあまりみんな乗りたくないじゃないですか。
少なくとも私はあまり好きではない。
うるさくて、混雑していて、狭いからです。
うるさくて混雑していて狭い場所が、
私は大嫌いなのです。

静かで広くて人が少ない場所が私の好みです。

、、、インドの地下鉄は、
うるさいですよそりゃ。
電車の音はどこでも同じです。
でも、車内は静かです。
日本と同じぐらい静かです。

そして混雑していません。
信じられないことに、
地下鉄が混んでいないのです。
そして、広い。

まず車内が広い。
東京の地下鉄というのは、
掘るコストがめちゃくちゃ高いので、
車両は当然小さくなります。
JR中央線と地下鉄大江戸線を比べれば分かるように。
しかし、インドの地下鉄、これが広いんです。
車両は中央線よりも大きい。
そしてホームとか通路とかは、
もう「ここは空港か?」というぐらい広い。
そして混んでいない。

なんで混んでいないのかラージさんに聞いたところ、
地下鉄の価格が少し高く設定されているから、
比較的お金持ちの人以外は、
まだ地上のバスなどを使うからだそうです。
「高い」といってもどれぐらいかというと、
ある線の終点まで40分間乗って、
40ルピー(68円)ぐらい。
10日間なら1000円以内で、
余裕で市内を動き回れます。

そして、驚くべき事に、
ゴミ一つ落ちていない。
東京の地下鉄よりきれいかもしれない。
壁に書いてあるお知らせを見て、
理由が分かりました。
「NO SPITTING(唾はき禁止)」
罰金400ルピー、とあります。
もはや地下鉄はデリーの「治外法権」でして、
「清潔特区」になっています。
じっさい地上に出ると、
雑然としたデリーが広がっていますから。
(それでも10年前に比べるとめちゃきれいですが)

日本と違うのは、
地下鉄の改札の前に、
「手荷物検査」と、
「セキュリティチェック」があることです。
手荷物をコンベアに乗せ、
金属探知機で検査されます。
そしてセキュリティチェックは、
「男の列」と「女の列」に分かれています。
二つあるので空いている方に行こうと思って通ったら、
「お前はそっちじゃない」と言われました。
よく見ると「LADY」とある。
なんか、女子トイレに入ったような恥ずかしさでした笑。

あと、当然、
「乗り換え案内アプリ」もあります。
これもとても便利。

10年前ならばリキシャ(タクシー型バイク)の運転手と、
面倒な価格交渉をした後、
お金をごまかすためにわざと道をまちがえられ、
それに文句を言い、、、、
みたいなことを繰り返してやっと目的地に着いたのです。
この差はでかい。

、、、まぁ、リキシャも好きですけど。
あれは風情があって良い。

▼リキシャ
https://bit.ly/2UZ4Sdl


、、、地下鉄についてまとめますと、
日本の地下鉄は、
うるさくて狭くて混雑している。
インドの地下鉄は、
うるさいが広いから音もまだマシで、
広くて、清潔で、混雑していません。

インドの勝ちです。

あ、でも、インドの地下鉄のシステムって、
そのほとんどが日本の技術だそうです。
「だろうな」と思います。
じっさい利用してると、
「デジャヴュ」みたいに感じます。

それはおそらく、
車両の規格、ホームのドア、
様々なものの規格が、
日本のものをそのまま使ってることからくる、
「既視感」です。

、、、「懐かしい未来」が、
ここにはあります。


、、、あと、SIMカードもレンタルしました。
これを私の7インチタブレットに入れて使っています。
電話番号があてがわれ、通話できて、
さらに一日1.4ギガバイトのデータ通信が出来る。
これで30日250ルピー(400円)です。

安すぎる。

、、、というか、日本の通信料高すぎる。
日本のあの業界は暴利を貪りすぎです。
「クソ二年縛り」という、
ヤクザみたいなシステムものさぼっているし。
公正取引委員会にもっと怒られればいいのに。

、、、あと、
電気も止まらないし、
水も止まらないので快適です。
Wifiもあるし。

ここまでのところ、
すこぶる快適に過ごしています。
後半バラナシに行きますし、
今後何があるか分からないので、
あくまで「これまでのところ」
という留保付きで。


▼▼▼言葉もご飯の食べ方もトイレの入り方も「忘れた」11年間

あと、11年前にインドに来たとき、
私はヒンディー語を学びました。
10日間ぐらい、家庭教師に教えてもらったのです。
4ヶ月滞在するので、
挨拶だったり出来た方が何かと便利だろうということで。

学んで良かったのは挨拶が出来たからではなく
(それもあるかもしれませんが)、
インドの言葉を学ぶことで、
インドの人が「なぜこう考えるか」が、
よりよく分かるようになったからでしょう。

当時はわりと、
子どもと少し話したりするぐらい、
ヒンディー語を頑張って覚えたのですが、
11年の歳月を経て、
見事に「アンインストール」されていて驚きました笑。

私の脳はあんまりメモリ容量が多くないので、
こうやっていろんなことを忘れていくのでしょう。
あと、病気をしたことも大きいかな。
あの前と後とで、
かなりのことを私は記憶から失ったので。

あと、4ヶ月間、
当時はトイレの入り方もマスターしていました。
インドではトイレのあと、
左手で水をすくい、
それで「おしりを洗い」ます。
そのやりかたも板についていたのですが、
それも「アンインストール」されていました。
多分前回、帰りの飛行機でアンインストールされた模様笑。
けっこう最初の1週間は心理的抵抗を乗り越えるのが大変だったので。
元に戻るのも速かった笑。

今回は水道事情も改善され、
断水も起きず、
トイレの「フラッシュ」の勢いと安定性が、
もはや日本と変わらないので、
トイレットペーパーを使っています。

あとは、食べ方ですね。
インドの家庭料理を食べるときは、
プレートに載せられたお米、チャパティ、
数種類のカレー(日本人にはそう見えますが、
インドの人からすると全部違う料理です)、
それらを右手で「こねこね」します。
話しながらずーっと「こねこね」しています。

こねこねしたやつを、
手で口に放り込む。
すると不思議なことに、
スプーンで食べるより断然美味いのです。

マジで。

これも、上手に出来なくなっていて驚きました。
前回はスープなども器用に食べ、
なおかつあまり指の上の方が汚れない、
という高度なテクニックを体得していたのに、
それが上手に出来なくなっていた。

やはり私たちは「忘れる生き物」なのですね。
この20日間で、ご飯ぐらいは上手に手で食べられるように、
努力したいと思います笑。

伊那からの手紙

2017.12.21 Thursday

+++vol.019 2017年6月27日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 紀行文「○○からの手紙」

仕事柄、私はけっこうさまざまな土地を
訪れることが多いです。

紀行文「○○からの手紙」は、
私が自宅を離れて、全国津々浦々、
あるいは海外の各地を訪問したときに、
そこで体験し、考え、触れ、見たことを、
報告するという、そのままの内容。

離れたところから絵はがきを送るように、
海外や国内各地から皆様に、
お手紙を送らせていただきます。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼素晴らしき伊那▼▼▼

今日の紀行文は、「伊那からの手紙」です。
私がはじめて伊那を訪れたのは、
たしか2009年のことです。

今も一緒に働きをしている、
神田師とともに、当時は別の援助団体のスタッフとして、
この地を訪れました。

そのときに空いた半日ぐらいを使い、
牧師の水野先生が車で、「伊那市観光」に、
私たちを連れ出してくださいました。

そのときに直観しました。
「ぼくはこの土地が好きだ。」と。

「日本にはまだまだ私の知らない、
こんな魅力的な土地があったんだ。」と、
私は新鮮な感動を覚えたのです。

北海道、九州、四国、沖縄といった、
「本州以外の島々」の土地をのぞけば、
「私が日本で一番住みたいと思う場所」は、
もしかしたらここかもしれない。

それほどに私は伊那に魅了されています。

信州(長野県)というのは、
そもそも山岳地方で、空気がきれいで、
山に囲まれていて、水が美味しくて、
夏が涼しくて、おしなべて良い場所であるのは、
皆さんもご存じのとおりかと思います。

しかし、伊那というところはその中でも、
他にはない良さを沢山兼ね備えているなぁと、
私は思っているのです。

伊那は長野の中でも南側にあり、
静岡県に流れる天竜川が流れており、
ちょっと移動すれば豊橋からつながっている、
「飯田線」があることからもわかるとおり、
「文化圏」でいうと、静岡とか東三河と、
通底するところがある。

だから文末に「ら〜」がつく、
静岡弁や三河弁とも言葉が似ています。
「言葉は思想そのもの」ですから、
人の考え方も長野県の中では、
静岡や三河地方に近い。
(水野先生もそうおっしゃっていました)

静岡や三河地方というのは、
典型的な温暖海洋性の気質で、
「おっとりのんびりした」人柄で知られています。

私も母親のルーツはそこにありますから、
そういった人柄との相性は良い。
*父親のルーツは九州の佐賀県です。

あと、なんといっても、
伊那の素晴らしいところはその景観です。

伊那は南アルプスと中央アルプスという、
二つの山脈に挟まれた「盆地」です。
日本の太平洋側の多くの地形というのは、
特に愛知県や兵庫県なんかがそうなのですが、
山があってすぐに海があります。
山と海の間に挟まれた三角州や沿岸部の狭い平野に、
密集して居住している、というのが日本の、
「太平洋ベルト」の人々の地理的条件です。

そういった地形というのは、
「山が近い」のです。
海と山がいつも見えているのだけど、
「近い山」なので、少し圧迫感がある。

伊那の場合、ある程度広い平野があり、
かなり離れた場所にアルプスがあるので、
「遠くにある定点としての山脈」がいつも見えている。

それが「人々の暮らしを見下ろす」ような構図になっています。
そういう「定点としての山」に私は非常に安心するみたいです。
なぜかは分からないけど。

北海道帯広に住んでいた頃は、
北に十勝岳、西に日高山系が常に見えていて、
それが私の精神の安定に、深いところで寄与していた、
と今は思うのです。

この安心感は「東京スカイツリー」には、
残念ながらありません。

「スカイツリー」とか、
新宿のビル群って、
逆に人の心に不安を与える作用があるように、
私には思われるのですが、
違うのかな?
あれで安心する人もいるのかな?
よく分かりません。

、、、余談でした。

え?

富士山?

それも違います。

富士山は、やっぱり「見下ろす山」
というのとも違うんだよな。
あれは「見上げる山」です。

、、、私の好きな詩編に、
詩篇121篇1〜2節の、
「私は山に向かって目を上げる。
 私の助けは、どこから来るのだろうか。
 私の助けは、天地を造られた主から来る。」
というのがありまして、
まさに「遠くから見下ろす山」は、
「その向こうに創造主がいる」という安心感を、
私に与えてくれるのです。

「あの山よりも、さらに確実なお方が、
 私を助ける私の神なのだ。
 だから安心して大丈夫だ。」と。

▼参考リンク:信州伊那アルプス街道
http://www.inacity.jp/kankojoho/koen/shinshuinaalpskaido.html



▼▼▼伊那グルメ▼▼▼

、、、さて。

伊那の素晴らしいところは他にもいっぱい語れるのですが、
先を急ぎ、「各論」に入って行きたいと思います。

まずはやはり「グルメ」でしょう。

伊那に到着した先週の水曜日、
水野先生は私たち夫婦に、
「食べ過ぎないことが不可能」なほどに、
美味しいごちそうを用意してくださいました。

ちなみに水野先生が淹れる日本茶は、
「日本一美味しい」です。

これはお世辞とか誇張表現ではなく、本当に。

いまだかつてあれ以上に美味しい日本茶を、
私は飲んだことがない。

飲んだ後「二度見」してしまう日本茶は、
水野先生が淹れたお茶だけです。

なんというかお茶の「コク」があり、
「出汁」にもにたような複雑な味がある。
味が重層的なのです。

あれはマジで美味しいです。

▼参考画像:「お茶」
http://www.fukamushi-cha.com/gp_data02/how_to_010.jpg

(この画像、いるか笑?)


、、、水曜日のごちそうの話しに戻りまして、
その中でも信州の郷土料理として、
私が生まれて初めていただいたのが、
「鯉のうま煮」というものです。

鯉って、あまり食べる魚というイメージがないのですが、
信州地方では昔から食べられていたそうです。
信州は山岳地方なので「タンパク源」は貴重です。
だからイナゴを食べたり蜂の子を食べたりする文化もある。

鯉を含め淡水魚も信州では大切な淡白源ですから、
昔から食べられています。
そして昔から食べられているだけあって、
その調理法も洗練されています。

「鯉のうま煮」は、鯉を縦に三枚に下ろすのでなく、
横に輪切りにして、その空洞に、
鯉の肝臓や卵巣などの内臓がぎっしり詰まっている。

▼参考リンク:鯉のうま煮
https://goo.gl/Lex1jq

、、、これは昔から長野地方では、
赤ちゃんが授かったときに妊婦が栄養をつけるために、
食べていたものだそうで、10月に出産予定の私の妻を気遣い、
水野先生が用意してくださいました。
そのお心遣いに痛み入りました。

味は、端的に、「めちゃくちゃ美味しい」です。
白身の魚なのだけど、いわゆる淡泊な白身とは違い、
しっかりとした「コク」があります。
筋繊維が密なためか歯触りもなめらかかつ「こっくり」していて、
味が濃厚な内臓も込みで、魚というよりも、
「美味しいカニ」を食べているような味わいがありました。

夢中で平らげました。


次なる「伊那グルメ」は、
「駒ヶ根名物ソースカツ丼」です。

元祖のお店がこちら。

▼ソースカツ丼「明治亭」
https://tabelog.com/nagano/A2006/A200602/20009328/

もう一店、有名なところがあり、
それがこちら。

▼ソースカツ丼「ガロ」
https://tabelog.com/nagano/A2006/A200602/20000041/

水野先生に「明治亭」に連れて行っていただき、
そして、別の日に私たち夫婦は「ガロ」に行きました。
どちらも美味でした。

「明治亭」の主軸メニューのカツはロース、
「ガロ」はヒレ肉です。
どちらもパン粉の大きさやカツの切り方、
盛り付け方に個性があり、
それぞれに考えられたオリジナルソースがかかっており、
甲乙付けがたい。

「ガロ」はとにかく量が多く、
「SNS映えする盛り付け方」も相まって、
こちらのほうが行列店らしいのですが、
私も妻ももう一度行くなら元祖の「明治亭」だ、
ということで意見の一致をみました。


、、、あと、長野には、
「すずらん牛乳」という牛乳のブランドがあるらしく、
そこがソフトクリームも展開しています。

これも2度味わいましたが、
めちゃ美味しいです。

牛乳の味がしっかりして、
北海道の牧場とかで売ってるやつに、
匹敵する美味しさです。

▼すずらん牛乳ソフトクリーム
http://www.suzuran-h.co.jp/


、、、おまけ。

今回はまだ味わってないですが、
伊那のグルメは他にもあります。

有名な「いなごの佃煮」。

▼いなごの佃煮
https://goo.gl/MW6rq9

あと、「ざざ虫」という、
岩の裏にくっついている虫や、
蜂の幼虫「蜂の子」なども、高級食材です。
私は虫を食べることはあまり抵抗ありませんので、
いなごなんかは特に、めちゃ美味しいと思います。

スーパーで普通にパック売りしていますので、
買って帰るつもりです。


、、、ソースカツ丼に隠れて、
あまりスポットライトがあたらないのが、
「ローメン」という食べ物です。

焼きそばとラーメンとジンギスカンを、
足して3で割ったような食べ物です。
2009年に来たときにいただいた記憶がありますが、
あまり記憶に焼き付いてはいない(笑)。

美味しかったのは間違いないのですが、、、笑。

▼参考リンク:「ローメン」
https://icotto.jp/presses/346



▼▼▼蛍の群生▼▼▼

先週の金曜日の夜、
水野先生が夜のドライブに誘ってくださいました。
その目的地は、伊那市の隣にある辰野町というところです。

何のため?

じつはここは、「蛍の群生」で有名な町なのです。

▼参考リンク:辰野町「ほたる祭り」
https://goo.gl/FB8JW

町を挙げて「ほたる祭り」というのをやっていて、
伊那市から20分ぐらい車を走らせ、
辰野町の山が見えてくると、
山に「巨大な蛍」が。

京都の「五山の送り火」というのがあって、
山に「大」の字が描かれる映像を、
皆さんも見たことがあるかと思うのですが、
あの「大」が、「蛍の絵」なわけです。
精度には限界がありますから、
下手をするとゴキブ、、、
、、、なんでもないです。

、、、で、それを見ながら、
ワクワクは高まるわけです。

伊那で41年伝道牧会をしてこられた、
水野先生ですら一度も行ったことがなかったそうで、
周囲の人から「あれは一見の価値がありますよ」と、
行くように勧められていたのですが、
なかなかきっかけがなくて行けなかったそうです。

、、、で、私たちという、
「きっかけ」が現れた。

それで実現したのが金曜日の夜のドライブです。
山に現れた「巨大ゴキ、、、蛍」を見ながら、
ワクワクしながら、「蛍まつり」が行われるという、
「群生スポット」に入りました。

平日なのに、駐車場には100台前後の車が止っています。
500円の入場料(蛍の保全のために使われる)を支払い、
私たちは胸を高鳴らせました。

中に入って20メートルぐらい歩いたところで、
いるわいるわ。

蛍が。

どちらを向いても5〜10匹の蛍が光っています。
全長300メートルぐらいあるコース内は、
すべての灯りを消していますから、
とってもきれいに蛍が見えます。

「うわぁ〜、こんな数の蛍、
 今まで見たことないわ〜!」

「本当にきれいだねぇ〜!」
などと感動しながら、
私たちはそこで15分ほど蛍に見とれていました。

「いやー、来て良かったねぇ。
 本当に一見の価値がありましたね!!」
とかはしゃぎながら。

しかし、他のお客さんは誰も、
私たちが感動しているポイントでは立ち止まらず、
「人の群れ」は、さくさくと先を急いで行きます。

「みんなそんなに急がなくても良いのに。」
「ゆっくり見ていけば良いのに。」

と思いつつ、先行く人々に着いていきました。
狭い道を通り抜け、視界が一気に開けるところがあるのですが、
そこに出た瞬間、息が止りました。

信じられないほどの、
おびただしい数の蛍が、
視界一面に拡がっていたのです。

▼参考画像:蛍の群生
https://goo.gl/14zS8q

一応辰野町の蛍祭りで撮影された画像をリンクしましたが、
写真では表現不能です。

映像化不可能。

視界一面、蛍です。
プラネタリウムや田舎の夜空の星のように、
何千、何万という蛍が、視界一面に拡がっている。
足下に沢が流れていてそこに蛍が群生しているのですが、
辰野町はその3メートルぐらい上に「ウッドデッキ」を、
設けているので、足下に「光の川」があるように見える。

本当に。

神戸や香港や函館の夜景を見て、
私たちは魅了されます。

「蛍の夜景」はさらに魅了されました。

その「光の川」は、夜空の星のようでもあり、
香港の夜景のようでもある。
しかし、夜景とも夜空とも違う。

蛍は生物ですから、
何万匹という蛍の点滅は、
「有機的」なのです。

あれは求愛行動ですから、
昆虫の群れは互いに意思疎通しあっていて、
光の川に「波動」があるのです。

東京ドームの観客の「ウェーブ」のように、
パルスのように光の波がが、
視界の右から左へ、順番に「さーっと」光っていく。
「光の脈動」です。

あれは本当に、ずーっと見ていられる。
夜景は10分で飽きますが、
蛍は時間制限がなければ、
私はあそこに2時間は平気でいられたと思います。

私たち3人は言葉を失い、
そこに1時間ほど、釘付けになっていました。

今までの人生で見た蛍の数の、
有に100倍、もしかしたら1000倍の蛍を、
私は一度に見たのです。

圧倒されるとはあのことです。
「一生の思い出」が出来ました。

あの美しさはスマホにも収まりませんし、
高価なカメラを使っても上手く表現出来ないはずです。
つまり、「SNS映え」しない。
だからこのぐらいの客足で収まっているのであり、
これがもし「SNS映え」したら、
シーズンには世界中から何十万人という人が、
これを見るためだけに集まるでしょう。
間違いなく。

それほど「桁外れの観光資源」です。
あれは本当に一見の価値がある。
グランドキャニオンにも匹敵すると私は半ば本気で思う。

、、、でも「SNS映え」しないゆえに、
爆発的に拡がっていない。
世界がまだこのすごさに気付いていない今はチャンスです。
あれを見るためだけに海外から来た人も、
満足して帰って行くすごさがあります。
蛍には「シーズン」(6月いっぱい)があり、
なかなか休みのタイミングが合わなかったりするかもしれませんが、
日本に住んでいるのなら、チャンスがあれば死ぬ前に一度見ることを、
敢えて強くお勧めします。

まったく計算外でしたが、
あの蛍を見られただけで、
「この時期に夏休みを取って本当に良かった」
と思いました。



▼▼▼伊那食品工業▼▼▼

伊那食品工業については、
たしか2009年に初めて伊那を訪れたときに、
水野先生に教えていただき、ブログにも書いた記憶があります。

通称「かんてんぱぱ」とも呼ばれる伊那食品工業は、
伊那市では知らない人のいない企業です。

「世界でいちばん大切にしたい会社」という本がありまして、
日本中の「社員を大切にする」「地域社会に貢献する」、
「障害者が生き生き働いている」といった、
ユニークな経営哲学で社員、顧客、地域社会に満足をもたらし、
なおかつ収益を上げ続けている大小の会社が紹介されており、
ベストセラーになりました。

その「第一巻」に掲載されているのがこの、
「伊那食品工業」です。

▼「日本でいちばん大切にしたい会社」坂本光司
http://amzn.asia/1A49QNn

▼「リストラなしの『年輪経営』:
いい会社は『遠きをはかり』ゆっくり成長」塚越寛
http://amzn.asia/1B00ksm

7年前に私はこの二つの本を読み、
感銘を受けました。

社長の塚越さんは伊那出身の苦労人で、
彼は「いい会社」をつくろう、という理念で、
創立以来「48年連続増収増益」という記録を2008年に達成した
「奇跡の会社運営」は数多くのメディアにも取り上げられています。

塚越さんの「いい会社」の定義は、
「儲かる会社」のことではありません。
・顧客にとっていい会社。
・社員にとっていい会社。
・地域社会にとっていい会社。
・自然環境にとっていい会社。
といった重層的な意味がある。

だから伊那食品工業は社員を大切にしますし、
顧客を大切にしますし、地域社会を大切にします。

その経営哲学が如実に表れているのが、
伊那食品工業の社屋でして、
ここは観光客や市民に対して開かれており、
誰でも訪れることが出来ます。

中では工場見学も出来ますし、
身体測定も出来る。
カフェやレストランもありますし、
「かんてんぱぱ」の商品を買うことも出来る。
地元の芸術家の美術館と常設写真展もあり、
一日楽しむことが出来る。

中の木々や花、芝生などはすべて、
社員によってよく手入れされていて、
まるで「北海道大学のキャンパス」かのような、
心安まる憩いの場となって市民を癒しています。

私たちも芝生でサンドウィッチを食べながら、
気持ちの良い午後を過ごし、
「本社限定のかんてんぱぱ製品」をお土産に買いました。

あと、敷地内をあるいているときに、
塚越社長とすれ違いました。
いろんな本や雑誌で写真を見たことがあったので、
本人を見て感動しました。

こういう経営者が、
日本のビジネス界でさらに大きな影響力を発揮していくことで、
日本の社会はもっと「いい社会」になっていく可能性がある、
と思うと前向きな気持ちになります。

塚越社長は生きながらにして「偉人」の領域に、
片足をつっこんでいる、と思いました。



▼▼▼ローカルテレビ局に取材されました▼▼▼

、、、というわけで、
伊那の魅力を全力でお伝えしてきました。

新宿バスタから3時間半、
片道3,500円で行ける伊那は、
素晴らしい魅力に満ちた場所です。

あと、これはオマケですが、
水野先生が宝剣山という、
駒ヶ根山の「日本一高所にあるロープウェイ*」に、
乗っていく場所に連れて行ってくださいまして、
そこで「ある出来事」が。
*標高2,600メートル。

地元のテレビ局、信州放送の報道番組の撮影をしていて、
そのクルーにインタビューされました。

7月1日(土)に放送される番組で、
「これから来る信州の山の季節の魅力」を伝える、
という主旨だそうです。

その番組がこちら。

▼参考リンク:信州放送:土曜はこれダネ!
https://www.nbs-tv.co.jp/koredane/

なんとその日の夕方のニュースで私たちのインタビューは、
さっそく使われていたらしく、水野先生の親戚のお子さんから、
電話があったそうです。
「おばちゃん夕方のニュースで映ってたね」と。

私と妻はローカル局の女子アナウンサーにマイクを向けられ、
「どこから来ましたか?」
「伊那の魅力は?」
「この景色を見て感想は?」
などの質問をぶつけられましたが、
カメラを向けられると、
人っておどろくほど普通のことしか言えませんね(笑)。

そもそも「面白いこと言う」みたいなのは、
求められていない文脈なので「それが正解」なのですが、
自分でも不思議なほどにありふれた言葉が出てきます。

あと、そこで長尺でしゃべられても困るだろうな、
と思うので、10秒以内にコンパクトに。

テレビに普段出ている人は、
「テレビ用の発言のサイズ」とか考えながら、
こういう気持ちでカメラを向けられているんだ、
という勉強になりました。

なるほどね、と。
難しい世界だなぁ、と。

撮影に協力してくれた「お礼」にと、
プロのカメラマンが私たちのデジカメで、
記念写真を撮ってくれました。

仕上がりを見て「さすがプロ」と思いました。
素人には取れない構図の巧さです。
自撮り棒とはまったく違う。

その写真がこちらです。

▼参考リンク:宝剣山にてプロが取った写真
https://goo.gl/g47Qan

、、、という、
伊那での休暇の前半のご報告でした。
今週末は安曇野に移りそこで奉仕して、
来週のはじめに東京に戻ります。

後半はあまり出かけずひたすら読書する予定ですので、
来週は「紀行文」は多分書きません。

以上、私たちの夏休みの「お裾分け」でした。
私たちは今年は世間より早い時期の夏休みでした。
(あ、でも去年もちょうど今頃だったな。)
皆様も、これからいろんな時期に取られるかとは思いますが、
それぞれ有意義な休暇をお過ごしください。




↓記事に関するご意見・ご感想・ご質問はこちらからお願いします↓

https://www.secure-cloud.jp/sf/1484051839NyovBkYI


このブログでは過去6ヶ月前の記事を紹介しています。
もっとも新しい記事が直接メールボックスに届く
無料メルマガに登録するにはこちらから↓↓


http://karashi.net/carrier/catalyst/jinnai/mailmag.html

フィリピン・バギオからの手紙

2017.11.09 Thursday

+++vol.013 2017年5月16日配信号+++


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2【新コーナー】紀行文「○○からの手紙」

新コーナーです。

私は国際NGOという仕事柄、
けっこうさまざまな土地を訪れることが多いです。

紀行文「○○からの手紙」は、
私が自宅を離れて、全国津々浦々、
あるいは海外の各地を訪問したときに、
そこで体験し、考え、触れ、見たことを、
報告するという、そのままの内容。

離れたところから絵はがきを送るように、
海外や国内各地から皆様に、
お手紙を送らせていただきます。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼ヴォルテア牧師とCRFV▼▼▼

今、私はフィリピンのバギオにある、
CRFVという現地のNGOの、「寮」の一室で、
これを執筆しています。

1995年に創立されたCRFVは、
数あるキリスト教理念に基づくNGOの中でも、
非常にユニークな働きをしています。

この働きを開始したヴォルテア牧師は、
バギオでも「名士」の家の出で、
彼の祖父母は古くから知られる
「いちご加工品工場」を営んでいました。

現在CRFVの寮、
兼、事務所、兼ヴォルテア牧師の自宅、
兼、日曜日に地域に向けて開かれた集会場は、
すべてヴォルテア牧師の、
祖父母の代からの持ち物です。

私が今いる寮の二階は、
かつて「工場」だった場所を改造しているため、
梁がむき出しだったり、
電気のスイッチがあり得ない場所に着いていたり、
採光用の窓が少なくて、
昼間でもトイレに自分の小便が名中しているかどうか、
認識出来ないほど暗かったりします。

ヴォルテア牧師の兄弟は8人いるらしく、
兄弟たちは弁護士になったりビジネスマンになったりして、
けっこう成功しています。

特にお姉さんはやり手の弁護士で、
ヴォルテア牧師の影響でプロテスタントに改宗したため、
CRFVの働きにも賛同してくれていて、
非営利団体のCRFVに結構な資金援助を
してくれたりしているそうです。

ヴォルテア牧師本人はというと、
かなり劇的な人生を歩んできました。

彼は大学で法律を学んだ後、
麻薬中毒者になりました。
そして、法律の知識を駆使して、
麻薬の売買でお金儲けをしていました。

、、、娘さんがいたのですが、
その娘さんが脳腫瘍になってしまいます。
アメリカで受ける手術のために、
親戚からお金をかき集めたのですが、
それをギャンブルですってしまった。

自己嫌悪に陥り、
自殺をしようとして病院の駐車場の車にいたとき、
3名の女性が近づいてきてこういった。
「私たちは神からあなたに話しかけるように言われました。」

彼はその出来事によって神との邂逅を経験し、
バギオに戻ってきて麻薬中毒者やスリや麻薬売人に、
イエスの愛を伝えはじめました。

それが90年代初頭のことで、
そのころ彼は30代中盤です。

その後娘さんは亡くなってしまい、
奥さんとも離婚しました。
今の奥さんとは再婚で、
22歳になる息子さんは奥さんの連れ子です。

バギオでの麻薬中毒者への彼の宣教は多くの実を結びました。
現在バギオにいるプロテスタントの牧師の半分ぐらいが、
彼の訓練を受けたヴォルテア牧師の「弟子たち」だそうです。

95年ぐらいから働きの性質が変化しまして、
警察官に向けて「職業倫理」の、
セミナーを依頼されたのをきっかけに働きが展開し、
時のラモス大統領時代の大統領府から、
政府職員の汚職撲滅のための、
セミナーや講習会を依頼されるようになります。

それ以降、
フィリピン各地に常時チームを派遣して
訓練会を開催するようになり、
現在では毎年合計すると、
1万人〜3万人の参加者があります。

私の滞在期間中はひとつのチームが、
ミンダナオ島に派遣されていました。

ミンダナオはイスラム教が多い島として有名で、
参加者の公務員たちも殆どがイスラム教徒です。

しかし彼らが「誠実、公正、勤勉などの価値観」と、
それを可能にする全能者の助けを口にすると、
涙を流して悔い改め神に立ち返る人もいるそうです。

、、、さらなる働きの詳細は、
次回の紙媒体およびPDFの、
活動報告の手紙に書きます。

アップロードしましたらメルマガでも報告しますので、
ぜひ御覧下さい。

▼参考リンク:PDF版「陣内俊Prayer Letter」
http://karashi.net/carrier/catalyst/jinnai/NL.html



▼▼▼汚職撲滅の活動▼▼▼

、、、フィリピンという国は、
皆様もご存じのとおり、
スペイン領から近世が始まります。
その後、1898年に起きた、
「米西戦争」でスペインが敗北し、
フィリピンはアメリカの影響下に下ります。

さらに1900年代初頭は、
私たちもよく知るとおり、
日本の「大東亜共生圏」に組み入れられ、
一時的に日本の支配下におかれます。

第二次世界大戦で、
「レイテ」「ルソン」「ミンダナオ」などの、
フィリピンの島々が戦地として登場するのは、
米国が日本からフィリピンを取り戻すために、
そこで地上戦を戦ったからです。

話を少し戻しまして、
フィリピンという国の基本的な部分は、
スペイン領の時代に作られていますから、
その文化は「カトリック圏」といえます。

統計上も、約80%がカトリック、
10%がプロテスタント、
残り10%がイスラムなどその他、
となっています。

ここで詳述することは不可能なのですが、
めちゃくちゃ大づかみな話として、
世界中で「カトリック圏」というのは、
不正と汚職の問題と、貧困がつきまといます。

それに対し、プロテスタント圏は、
豊かな国が多く不正や汚職の度合いが低い。

日本がプロテスタント圏ではないのに、
不正も汚職も少なく、その勤勉さはまるで、
マックス・ウェーバーが、
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
で指摘した、「勤勉革命」そのものです。

これは近現代世界史の七不思議のひとつと言って良く、
さまざまな人がこれについて研究していますが、
山本七平の「日本資本主義の精神」という本が、
もっともわかりやすいです。

山本氏は、鎌倉時代の親鸞の
「鍬の一ふりは念仏なり」というところから、
鈴木正三や石田梅岩などの、後期江戸の儒学者につらなる、
「宗教心と職業倫理の連動という伝統」が日本にはあり、
それが明治以降の欧米化によって、
「プロテスタンティズムの倫理」と共振現象を起こし、
異例の最速な近代化という世界史的なエポックを作ったのだ、
と看破しています。

▼参考リンク:
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
マックス・ウェーヴァー
http://amzn.asia/fTExaID

▼参考リンク:「日本資本主義の精神」山本七平
http://amzn.asia/ad7K3mN


、、、話を戻します。

フィリピンはですから、
他のカトリック圏の例に漏れず、
不正と汚職の問題を抱えており、
これが国全体の生産性を著しく低下させ、
国力を損なっていることを政府も自覚していますから、
ラモス大統領時代に「不正を防ぐ委員会」が設立された。

CRFVは彼らと20年におよぶパートナーシップ関係を構築し、
2000〜2002年には、
「最も優秀な汚職防止活動」に選ばれました。

ヴォルテア牧師は言います。
「フィリピンはクリスチャンの国だが、
クリスチャンの価値体系は実践されていない。
私たちがあらゆる宗教背景からなる公務員に、
誠実、公正、正直、勤勉などを教えるとき、
それは福音を語り直しているのに他ならない。」と。



▼▼▼バギオの街▼▼▼

またCRFVの話になってしまいましたが、
働きのことはプレヤーレターに譲るとして、
ここでは8日間滞在したバギオの街や、
見聞録を書き記すことにしたいと思います。

「バギオからの手紙」または、
「バギオからの絵はがき」のつもりで、
お読みいただければ幸いです。

まず、バギオの街というのは、
人口が約25万人、街のサイズは、
半径10キロぐらいという、
かなりコンパクトな街です。

マニラから北にバスで5〜6時間でつきます。
高速バスは毎時間運行しており、
料金は700ペソ(1400円)ぐらい。

バスにはフリーWiFiがついており、
時折道の穴で「ガタンっ」となって
びっくりする以外は、かなり快適です。

標高が1,400メートルとかなり高いため、
マニラの気温が40度ぐらいあるときにも、
30度を切る、「避暑地」でもあります。

マニラはちなみに、
地獄のサウナのように暑く、
真夏の本州の大都市以上に高温多湿な場所を、
今のところ私は他に知りません。

なので夏の期間は大統領府はバギオに移動します。
これを「サマーキャピタル」といいます。

日本で言うと、
7月〜9月は内閣府が軽井沢に引っ越します、
みたいな話です。

街は山間部にありますから、
どこにいっても「坂だらけ」で、
ここに暮していたらかなり心肺機能が発達するのではないか、
と私は想像しました。

日本なら長崎と同じです。

CRFVの場所も、50段以上ある階段を上り下りしないと、
ストリートに出ることができないため、
それだけでかなり良い運動になります。

、、、酸素も少し薄いので、
息が上がります。



▼▼▼乗り物について▼▼▼

、、、バギオに限らず、
フィリピンを旅行したことのある方はご存じかと思いますが、
乗り物は「ジプニー」が有名です。

ジープの後部を改造し、
全部で最大20人(ぎゅうぎゅう)ぐらい、
乗れるようにした「乗り合いタクシー」です。

料金はかなり安く、
通常のタクシーだと150ペソ(300円)ぐらいの区間を、
10ペソ(20円)ぐらいで行けます。

インドの「オートリキシャ」や、
タイやベトナムの「トゥクトゥク」は、
ホンダの名作、「スーパーカブ」を改造したものなのは、
有名な話ですが、
ジプニーはもともと何の車種なのかが気になって、
ヴォルテア牧師に聞いてみました。

すると、ジプニーは実は、
どの車種でもなく、米軍のジープの払い下げだそうです。

それが今も走っている。

すごくないですか?

先の戦争の遺産が、改造に改造を重ね、
原型をとどめず21世紀の市街地を走っている。

おそらく動力部分も含めて、
当時の部品はあらかた取り替えられているのではないか、
と思われます。

なんせ70年経っているわけですから。

すべての部品が「入れ替わった」自動車は、
果たしてもとの自動車と同じなのだろうか、
という「哲学的な問い」を思い出させます。

この問いの答えは、
「自動車という物質は別物だが、
 自動車というシステムは保存されている」
になります。

、、、人体も同じです。

、、、話を戻します。

ジプニーはその装飾も有名で、
こういうところに国民性が出ます。
なんていうか、南国の昆虫のようにケバケバしい、
「トラック野郎」のトラックが日本にもありますが、
それをさらにケバケバしくした感じです。

赤、青、紫、黄色、金、銀、ラメ、ホログラム、
あらゆる色彩で身をおおった米軍払い下げのジプニーは、
果てしなく陽気で、あくまでもカラフルです。

クリスチャンの国らしく、
バンパーに「Jesus is Lord」なんて書いてあったりします。
ときどきキティちゃんの絵だとか、
ドラゴンボールのなり損ないみたいな、
ジャパニメーションを意識した絵が描かれていたりもします。


▼参考写真:「ジプニー」
https://goo.gl/GyxNSA



▼▼▼買い物の話▼▼▼

今回の滞在で、
CRFVの働きの視察以外でもっとも面白かったのは、
市場を歩けたことです。

私は海外に行き、
ホテル以外のところに宿泊し、
誰か人にお世話になるときは、
たいていその地で「日本料理」を振る舞うようにしています。

これは8年前ぐらいから私がはじめた習慣で、
どこに行っても大変喜ばれますし、
会話も弾み、距離が縮められます。

アメリカ、インド、アフリカ、、
いろんな場所で日本料理を振る舞う回数を重ね、
だんだん分かってきたのは、
「現地では入手不能な代替不能な材料」が日本食にはあり、
それらさえ持っていけば、あとは現地の材料で代用可能、
ということです。

その「代替不能な食材」とは、
端的に言いますと「出汁」と「醤油」です。

この二つがあれば、
世界のどこにいても大抵の日本食は作れます。
親子丼も、牛丼も、天ぷらも、お好み焼きも、
焼きそばも、チャーハンも、コロッケも作れる。

今回はカレーも作りたかったので、
本だし(粉末)、醤油(100ミリリットル)、
カレールウ(2箱)、コンソメキューブ(5個)を、
持参しました。

そして滞在中、
鳥の生姜焼きと、
ポークカレーの二種類の料理を作りました。
カレーは20皿分という、
あまり作り慣れていない量だったので、
よくある「子ども会のカレー」みたいに、
ちょっとシャビってしまいましたが、
どちらも大好評でした。

日本で自分のキッチンで作るのが100としたら、
85点以上には持って行けるようになった。

、、、で、その買い出しのために、
バギオの市場にいったのですが、
それがめちゃくちゃ面白かった。

まず、当然かもしれませんが、
野菜がめちゃくちゃ安いです。

タマネギ1キログラムで70ペソ(140円)とか、
にんじん1キログラム60ペソとか、
日本で買うのの5分の1ぐらいで買えます。
なんだか「ウハウハ」してきます。

肉もあり得ないぐらい安い。

豚バラ肉ブロックが1キロ220ペソ(440円)、
牛肉のステーキ肉1キロ300ペソ(600円)、
鶏もも肉1キロ180ペソ(360円)とか、
そんな感じです。

市場を歩いていると、
料理のイマジネーションが広がって止らなくなる。
日本なら高くて躊躇するような食材が、
激安で手に入りますから、
「これとあれを買えば、たった500円で、
 あれが作れちゃうじゃないか!
 素晴らしい!!」
みたいに。

バギオには3カ所ぐらい日本料理屋があるそうですが、
4店目を私がはじめるのもアリかな、
と妄想してみたりして笑。

市場でもっとも面白かったのは、
「精肉コーナー」でした。

なんていうか、
市場の精肉コーナーは、
日本のそれとは違い、
「解体現場」そのものです。

切り離された豚の頭、牛の頭、牛や豚の手足、
胃袋、腸、肝臓、心臓、腎臓、脾臓、肺、
そんなものが「まんま」の形で陳列されています。

私は以前、食肉衛生検査員として、
食肉処理場で働いていましたから、
「既視感」がハンパない。

世界でも動物の内臓を食べることで知られる日本ですら、
脾臓や肺や腎臓は食べませんから、
私は前職を退職して、
9年ぶりに「動物の脾臓と肺」を見ました。

「つぶしたて」の動物の内臓の、
湯気を放つ熱気とその生臭さ、
血まみれ肉まみれのステンレス製の机などは、
本当に以前の職場に戻ったような感覚を味わいました。

、、、ただし、
衛生状態はもう、ファンタジーで、
目に見える場所をネズミがかけて行きますし、
吹きさらしなのでおびただしい数の蠅が飛んでいます。
翌日まで売れ残れば蛆がわくことでしょう。
さらに自動車の排気ガスはもろに浴びていますし、
あと、検査員として言わせてもらうと、
完全に細菌感染の病巣がある肝臓が売られていたりして、
日本なら即日営業停止処分(笑)でしょう。

それでも、私の場合、
「これは食べられない」とは感じません。

むしろ、
人間はこれでも全然生きていけるんだよなぁ、
と、どこか健全な気持ちになります。

日本は食品にしても環境にしても、
過剰に衛生的すぎるので、
ショック療法としては丁度良い。

加熱すれば菌というのは死にますから、
食肉を媒介する病気なんて言うのは、
ある特定のハザードをのぞいて、
実はそんなに気にするほどのこともない。

「検査員」という立場上、
それを言ったら自分たちが喰いっぱくれてしまいますし、
日本人はめちゃきれい好きですから、
私がこんなところでぶつぶつ言ったところで、
日本の衛生過剰社会、除菌社会にブレーキがかかるとも、
思っていません。

しかし、フィリピンのアナザースカイな衛生環境は、
いろいろ大切なことを、私たちに思い出させてくれるのです。

あと、もうひとつアナザースカイ*だったことは、
肉売り場での光景です。

(*普通に形容詞的に使っていますが、
 アナザースカイって何だよ!
「異次元」とかの言い換えだと思って、
 読んでいただければ幸いです。)

肉売り場では祭りの出店よろしく、
だいたい3メートル感覚で、
隣り合う「店舗」が、
「これを買って、美味しいよ、安いよ」
みたいな形で客を呼び込むのですが、

鶏肉売り場で、
3つの店舗が同じように、
鳥のもも肉、胸肉、手羽を売っている。
切り方も同じ。
おそらく出所も同じ。
値段も同じ。
なにもかも同じ。

しかし、売っている主体は違う。
、、、で、「(隣ではなく)こっちで買って!」
と呼び込み合戦をしている。

なんていうか、「市場の原理」だとか、
「需要供給曲線」なんていう社会通念を、
彼らは木っ端みじんに爆破してくれているのです。

3つの店がまったく同じものを、
まったく同じ値段で売り、
そして呼び込みあっている。

それをおそらく長年続けている。
それに対して、どこからもツッコミが入らない。

他店より1ペソでも安くするだとか、
買った人に何かしらの特典をつけるとか、
ポイントカードを作るなどして、
「消費者のインセンティブ」をつければ、
一瞬で勝てる試合なのに、
誰も「勝とう」としない。

おそらくそういう発想がないのだと思いますが、
資本主義の淘汰原理に慣れきっている日本人の私からすると、
ちょっとしたコントを見ているようで、
しばらくジワジワと面白さを味わったのでした。



▼▼▼食べ物、文化の話▼▼▼

乗り物、買い物と来て、
次は食文化をば。

フィリピンの料理というのは、
とにかく「大味」です。

これでもかというぐらい味が平板で、
とにかく甘辛く、子ども好きがする味を、
前面に押し出す。

音楽でいうと「通奏低音」のようなものはなく、
全部の料理が「独唱」です。
複雑な味のハーモニーはない。

甘いものはあくまでも甘く、
しょっぱいものは断固としてしょっぱいのです。

あと、8割方の料理は、
揚げてあります。

先ほど申しましたように、
動物の肺や腎臓など、
匂いのキツい食材も使いますから、
「揚げてすべてをごまかす」というのが、
彼らの知恵なのでしょう笑。

、、、そして彼らは、
とにかく食べます。

「ぼくは日本にいるときは1日2食のことも多いから、
 明日の朝食はスキップさせてもらってもいいかな?」
と調理当番のキャサリンに言うと、
「マジですか?
 フィリピンではみんな一日6食ですよ(爆笑)」
と返されました。

これは大げさな誇張ではなく、
本当にみな、ずっと食べてます。

食べて、つまらないジョークを言って笑って、
また食べて、歌って、ジョークを言って、
大笑いして、踊って、また食べて、
仕事して、食べて、笑って、、、、
みたいなのがフィリピン人の流儀です。

近年の脳科学の知見では、
長生きや幸福度を決定するのは、
「オキシトシン優位」の生活を送れるかどうかだ、
と言われています。

つまり、人とスキンシップをとり、
沢山笑い、一緒に食べ、歌って踊って、
ものごとを深刻に捉えずジョークを言い、、、
という生活をする人が長生きして健康で、
重大な疾病リスクが低い、
ということが科学的に分かってきている。

フィリピン人は典型的な、
「オキシトシン優位民族」です。

しかし彼らの平均余命が他国に比べてさほど優っていないのは、
食事量の過剰と栄養バランスの偏りが、
それらを相殺しているからだと、
医者でも研究者でもない私ですら、
「断定」できます笑。

笑いと歌と陽気で15年伸びた寿命を、
化学調味料とカロリーの過剰摂取で、
15年縮めているという笑。
「プラマイゼロ」です。

日本人はこれと「対偶関係」にあります。

食事に気を遣い健康なものを食べて伸びた寿命を、
「健康に気を使いすぎる神経質さ」「過剰な心配と潔癖さ」
というストレスで相殺し平均余命を押し下げている、
というのが私の見立てで、
これはそんなに間違っていないと思っています。

、、、だから寿命にとって最適解は、
「日本でガサツでテキトーな人間として生きる」、
もしくは、
「フィリピンで、食べるものと量に多少気をつけて生きる」
になります。

話を戻しましょう。

フィリピンで、今回ダントツに美味しかったのは、
じつはフィリピン料理ではなく、
スペイン料理です。

しかもデザート。

「チュロス」です。

チュロスは「スペイン生まれディズニーランド育ち」と、
日本では言われていますが、
スペイン文化圏のフィリピンで食べたチュロスは、
日本の遊園地で食べるチュロスとは「別物」でした。

もちろんフィリピンが圧勝です。

もう、アメリカで食べるカリフォルニアロールと、
日本の美味しいお寿司屋さんの寿司ぐらい違います。

このチュロスを食べたのは、
バギオの庶民ではなく、
ちょっとハイソサイエティな人たちが集まる場所でした。

ヴォルテア牧師は健康維持のため、
カントリークラブでゴルフをする習慣を持っています。

このゴルフ場は本来会員制で、
会員になるには200万円ぐらいかかり、
会員以外は敷地内に入ることすらできません。

しかし彼は、お父さんが、
軍隊のエライ人だった関係かなにか
(詳しくは教えてくれませんでした笑)で、
特別に一回のプレイと朝食ビュッフェ、
それからプレイ後のサウナの料金も含めて、
20ドルぐらいで遊べるのだそうです。
(あり得ない)

、、、で、
私は朝6時にカントリークラブに同行し、
ヴォルテア牧師がプレイを終えて一緒にサウナに入るまでの間、
3時間半〜4時間ほど、カントリークラブのカフェで過ごしました。

ゴルフのグリーンを見ながら、
鳥の声を聞きながら、
Kindleで本を読みながら、
おかわり自由のコーヒーとトロピカルフルーツ、
最高の贅沢を味わいました。

、、、で、
このカントリークラブでヴォルテア牧師が奢ってくれた、
「チョコレートチュロス」がもう、最高だったのです。

日本の遊園地のチュロスは、
あれはあれで美味しいのです。
値段が高いことをのぞけば。

シナモン味は合っていますし、
あのもっちりとした感じも嫌いじゃない。
タイミングが良ければ外側はカリカリの、
良い感じを味わえる。

しかし、本場スペイン仕込みは違いました。

なんていうのか、「軽い」のです。
歯触りは「カリ」ではなく「サクッ」という感じ。
そして口の中で消えてなくなる感じです。
パウダーシュガーのさわやかな香りだけが、
後から鼻に抜けます。

この「異次元のチュロス」を、
溶かしたチョコレートソース(ねっとりと濃厚な)に、
つけて食べます。

丁度こんな感じです。
(写真はスペインのもの)

▼参考画像:チョコレートチュロス
https://goo.gl/nkQRaD

これで、値段はたしか220ペソ(440円)ぐらいです。
日本なら1,500円は取られます。

量もかなりあり、
日本のパンケーキ屋でパンケーキを食べるぐらいの、
ボリュームがあります。

久々に食べ物で一本取られました。
「チュロス観」を打ち破られる体験でした。



▼▼▼ジョリビーへ行こう▼▼▼

あと、フィリピンで最も有名なフランチャイズ店は、
「ジョリビー」です。

私は実はフィリピンは初めてではなく、
16年前にいちど来ています。

2001年に、大学の卒業旅行をかねて、
弟と一緒に来たことがあるのです。

私は大学1年目、18歳のときに洗礼を受けて、
キリスト教徒になりましたが、
私の最初の「信仰のメンター」は、
フィリピン人でした。

ベガさんとダニエルさんといいます。
当時20歳そこそこの私にとって、
30代半ばの彼らの、神に対する献身と、
家族に対する愛、人々に対する誠実さと、
イエスに似せられた性格は、
今振り返ると私のひとつの「モデル」になっています。

あと、彼らは私の「英会話」のメンターでもありました。
私は英語を話しますが、それが培われたのは、
2〜4歳の時にシカゴに住んでいたときです。

そのときに「脳の言語野」に、
英語の回路が構築された。

日本に戻ってからその「回路」は、
完全に失われていました。

ところがベガさん、ダニエルさんと、
その家族たちの家に入り浸り、
大学のために祈ったり、
聖書の勉強をしたり、
熱い信仰の会話をしたりしているうちに、
半年後には私はスラスラと英語を話していた。

しかもその発音はフィリピンのそれではなく、
アメリカ英語のそれです。

2歳のときに脳に埋められ、
失われた「回路」が、
フィリピン人との会話のおかげで、
「再発掘」されたのです。

不思議な体験でした。

、、、話を戻します。

彼らは国費留学でフィリピンから
日本に博士課程を学びに来ている、
いわば「ベスト・アンド・ブライテスト」でした。
信仰においても学者としても、
卓越した彼らが、私のそばにいたというのは、
私の青春時代の大きな僥倖でした。

、、、博士過程を終えたダニエルさんは、
2001年に故郷のセブ島の大学に戻っており、
そのダニエルさんを尋ねるのを、
卒業旅行に組み入れちゃおうということで、
私は弟と二人で、彼の家を訪ねました。

それが私の最初のフィリピン体験です。

そのときに覚えていたのが、
「ジョリビー」でした。

フィリピン発祥のこのファストフード店で、
何かは思い出せませんが何かを、
ダニエルさんと一緒に食べたのを覚えています。

▼参考画像:「ジョリビー」
https://goo.gl/lhYmUl


、、、15年経つと、
国の風景というのは変わります。

私が今回、一番驚いたのは、
「ジョリビーの増殖」です。

「こんなにあったかなぁ?」
と思うぐらい、ジョリビーが増えている。

体感としては
「すべての曲がり角にジョリビー」
という感じです。

後で聞いてみますと、
確かにジョリビーはこの10年でめちゃくちゃ成長していて、
フィリピンのファストフード界では、「圧勝」だそうです。
一人勝ち状態。

マクドナルドもKFCも、
まったく歯が立たない。

最後の日に、
「どうしても行きたい場所がある」と、
頼み込んで私はジョリビーに行きました。

日本で言うなら、
「最後に行きたい場所は?」と聞かれた外国人が、
「どうしても松屋にだけは行っておきたいんだ。頼む。」
と答えるようなもので、
私のジョリビーリクエストに対し、
CRFVのメンバーたちは、
「ジョリビー?
 そんなのでいいの?
 確かにジョリビー、みんな好きだけど(笑)。」
というものでした。

私がそこまで切望したのは、これを食べれば、
フィリピン人の「何か」が、
理解できるような気がしたからです。

正真正銘のソウルフード。

フィリピン人の情緒が、
これを食べれば分かるはずだ、と。

私は念願のジョリビーに行きました。
チキンとパスタとコーラのセット(220円)と、
チーズガーリックポテト(100円)と、
ハロハロ*(120円)を頼みました。

*ハロハロというのは、
代表的なフィリピン人のデザートで、
いわば、「南国のパフェ」ですね。
ソフトクリーム、タピオカ、フルーツ、ココナッツの果肉、
そういったものが混在している、
甘さと冷たさにおいて振り切ったデザートです。

▼参考画像:ハロハロ
https://goo.gl/Pllofg


結果、フィリピン人の秘密は分からないままでしたが(笑)、
シンプルに美味しかった。

あぁ、これはマックもケンタッキーも負けるわな、
と思いました。

チキンは非常にクリスピーで、
いかにもフィリピン人に受けそうなポップな味付け、
そしてどことなーくアジアを感じさせる、
茶色い甘酸っぱい味付けのソースがついています。

病みつきになる感じです。

あと、マスコットキャラクターや、
料理の容れ物や、いろんなものが、
絶妙に安っぽいのも、
なんか安心感を与えます。

なるほど、これは流行るわな、と。

ジョリビーは現在世界中に展開しています。
場所はアメリカやカナダなど、
主にフィリピン人が在住する地域です。

彼らはきっと、
アメリカで思うのです。

「私の日常には何かが足りない。
 そうだ、ジョリビーだ!」と。

そして、ないなら作っちゃおう、
ということで世界に広がるジョリビー。

近未来の日本において、
介護の現場などでフィリピン人の労働者の数が増え、
ある「閾値」に達したときに、
東京に「ジョリビー1号店」が、
出店されるかもしれません。

そのときは真っ先に、
フライドチキンとハロハロを食べにいくつもりです。

、、、なんか、
とりとめもなく、よもやま話をした、
みたいな感じになっちゃいましたが、
今週はここまでとします。

「○○からの手紙」というより、
「地球の歩き方」に近いですね。

またいつか、
どこかに出張の際には、
「○○からの手紙」をやります。

絵はがきを書くつもりで、
旅先からいろいろリポートします。

、、、実は今週末から今度は、
愛知県に行くのですが、
それはあまりに身近すぎるので、
さすがにやらないかな笑。

あまりにも面白いことに出会ったりしたら、
やっぱりやるかも笑。

ゆるーい感じでご期待くだされば幸いです。





↓記事に関するご意見・ご感想・ご質問はこちらからお願いします↓

https://www.secure-cloud.jp/sf/1484051839NyovBkYI


このブログでは過去6ヶ月前の記事を紹介しています。
もっとも新しい記事が直接メールボックスに届く
無料メルマガに登録するにはこちらから↓↓


http://karashi.net/carrier/catalyst/jinnai/mailmag.html


| 1/1PAGES |