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本のカフェ・ラテ『木を見る西洋人、森を見る東洋人』(前編)

2019.02.20 Wednesday

+++vol.061 2018年10月16日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 本のカフェ・ラテ
「本のエスプレッソショット」というこのメルマガの、
開始当初からの人気コーナーでは、
一冊の本を約5分で読める量(3,000〜10,000字)で、
圧縮し、「要約」して皆さんにお伝えしてきました。
忙しい読者の皆さんが一冊の本の内容を、
短時間で上っ面をなぞるだけではなく「理解する」ために、
「圧縮抽出」するというイメージです。
この「本のカフェラテ」はセルフパロディで、
本のエスプレッソショットほどは、網羅的ではないけれど、
私が興味をもった本(1冊〜2冊)について、
「先週読んだ本」の140文字(ルール破綻していますが)では、
語りきれないが、その本を「おかず」にいろんなことを語る、
というコーナーです。
「カフェ・ラテ」のルールとして、私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメントしていく、という形を取りたいと思っています。
「体系化」まではいかないにしても、
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。
密度の高い「本のエスプレッソショット」を牛乳で薄めた、
いわば「カフェ・ラテ」のような感じで楽しんでいただければ幸いです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼久しぶりの「本のカフェラテ」▼▼▼

久しぶりにやります。
「本のカフェ・ラテ」。
初めての方のためにご説明しますと、
当初本メルマガには、
「本のエスプレッソショット」というコーナーがありました。
これは一冊の本を、だいたい1〜2万字ぐらいで、
「要約」といいますか、解説するという内容で、
読む側からすると、5分ぐらいで、
一冊の本の内容がだいたい頭に入るわけですから、
かなりの時間的・認知的コスト削減になります。
(まぁ、要約を聞くのと本を読むのとでは、
 厳密には違うのですが、
 あくまでエッセンスだけならば、
 こういうことが可能です)

これはコーヒーを思い切り高圧で抽出し、
本来300mlになるのを30mlの濃厚なエキスにする、
「知的なエスプレッソ」のようなものだな、
と私は思い、「本のエスプレッソショット」と名づけたわけです。

ところが、この作業、
読む方は「お得」のですが、
高圧抽出するほうは結構大変です。
一冊の本を1万字で網羅しようとすると、
かなり「つかれる」ことが分かりました笑。

「認知負荷一定の法則」と私が読んでいる法則がありまして。
発信側が認知負荷をかけて発信した情報は、
受信側は負荷なしに、つまり簡単に受け取れます。
よーく考え抜いてなされた発言や文章は、
さらりと読みやすい(聞きやすい)ということです。

逆に発信側が認知負荷をかけずに発信すると、
受信側の認知負荷が高まります。
よくまとまっていない文章や意見は、
聞いたり読んだりしても、
頭を抱えてしまうほど難解(理解不能)だ、
ということですね。

「本のエスプレッソショット」は、
発信側の認知負荷が高すぎるので、
これをウィークリーベースでやるのは無理だな、
と私は察しました。

そこで登場したのが、
もうちょっと発信側の認知負荷を軽減する、
「第三案」。

それが「本のカフェ・ラテ」です。
エスプレッソを牛乳で薄めたものがカフェラテですので、
エスプレッソほど濃くはないが、
ただ内容を垂れ流しているのでもない。

その本のエッセンスが、
短時間で垣間見られる、
という意味では、
読者にとっても十分美味しいこのコーナー。
シーズン2では初めてです。



▼▼▼『木を見る西洋人、森を見る東洋人』▼▼▼

さて。

今回ご紹介するのはこちらの本です。


●木を見る西洋人、森を見る東洋人

読了した日:2018年1月31日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:リチャード・E・ニズベット
出版年:2004年
出版社:ダイヤモンド社

リンク:
http://amzn.asia/cJx57Lj


読了したのは今年の1月なので、
一度「先週読んだ本」でご紹介しているはずなのです。
しかし今回なぜこれを紹介しようと思ったかと申しますと、
9月後半にタイのチェンマイで、
DNAアジアフォーラムという、
FVIが理念を共有する国際的な集まりに参加しました。
私も30分の発表の機会をいただきまして、
15カ国、50名の参加者に、
「西洋と東洋の考え方の違い
 〜東からみた『もうひとつの真理のプリズム』〜」
というテーマでお話をしました。

その発表は非常に好評で、
参加期間中、参加者の半分以上の人が、
「俊、君の発表は素晴らしかった。
 今まで自分が考えていたことを、
 君は見事に言語化してくれた!
 すっきりした!」
「君が紹介していたあの本、
 絶対買って読むよ!!」
「日本における神の働きについて、
 めちゃくちゃ考えさせられた。
 遠藤周作の『沈黙』を読んだときのことを思い出させられた」
などのフィードバックをいただきました。

発表の様子がこちらです。
私の人生のメンターである、
ボブ・モフィット師が撮影して、
後にメールで送ってくれました。

▼参考画像:タイでの発表
https://bit.ly/2PqZxW6



▼▼▼Geography of Thought▼▼▼

、、、で、その発表にて、
私が「論理的下敷き」にしたのが、
上記のリチャード・ニズベット氏の本です。

ニズベット氏は米国コロンビア大学の教授で、
専門は社会心理学です。
ちなみに、この本のタイトルは、
邦題が「木を見る西洋人、森を見る東洋人」ですが、
英語原版のタイトルは、
「The Geography of Thought
How Asians and Westerners Think Differntly, and Why?」
です。

直訳すると、
「思想の地理学
 〜アジア人と西欧人の思考は
 どのように異なるのか?そしてそれは何故か?〜」
といったタイトルになります。

タイトルからして、
内容の説明になっています。
アジア人である日本人はこの本を、
「木を見る西洋人、森を見る東洋人」
と、包括的な表現でひとことで説明しました。

西洋人である著者は、
「思想の地理学」
という分析的な言語を使っています。

面白いですね。
では早速、本のカフェラテのルールに則り、
私のEvernoteメモにコメントする形で、
解説を始めて行きたいと思います。



▼▼▼ギリシア人から発する「主体性」と「ディベート」▼▼▼
→P15 
〈ギリシア人がもっていた主体性の観念は
「自分とは何か」についての
強い信念(アイデンティティ)と連動していた。
個人主義という概念を生み出したのが
ギリシア人かヘブライ人かは議論の分かれる所だが、
いずれにせよ、ギリシア人が、
自らを他人とは違った特徴や目標を持った
「ユニークな(唯一の)」個人だと考えていたことは確かである。

このことは、少なくとも紀元前八世紀ないし九世紀の
ギリシア詩人ホメロスの時代には動かしがたいものとなっていた。
ホメロスが書いた『オデッセイア』と『イリアス』では、
神々も人間も、一人ずつ完全な個性を有していた。

ギリシア人の主体性の観念はまた、
討論(ディベート)の伝統を盛り上げる刺激にもなった。
ホメロスは、人間の評価は戦士としての力強さと
討論の能力で決まると明言している。
一介の平民が君主に討論を挑むことさえ可能だったし、
単に話をさせてもらえると言うだけでなく、
ときには聴衆を自分の側になびかせることも出来たのである。
討論は市場でも政治集会でも行われ、
戦時下に討論がなされることさえあった。〉


、、、さて。
どこから説明しましょう。
著者は「東洋人と西洋人はなぜ違った考え方をするのか?」
を考察したいわけです。
では、「西洋人」ってなに?
ということが定義されていなければ、
この議論はそもそも組み立て不能なわけですね。

、、、で、
私たちが「西洋」と一般に口にするとき、
特にそれが思想的なことを意味している場合、
めっちゃくちゃシンプルに一言で言いますとそれは、
「コルプス・クリスティアヌム」のことを言います。
著者もこの意味で「西洋」を定義しています。

え?

コルプス、、、、

え?

何それ?

初めて聞いたんですけど。

という方もいらっしゃると思いますので、
これもなるべく簡単に説明しましょう。
佐藤優氏が、「世界史の大転換」という本の中で、
「トルコがEUに受け入れられないという予測の根拠」を、
このように語っています。

〈佐藤:EUはユダヤ・キリスト教の一神教の伝統(ヘブライズム)と、
ギリシャ古典哲学の伝統(ヘレニズム)、
ローマ法の伝統(ラティニズム)という
三つの価値観で結びつけられている。
「キリスト教共同体(コルプス・クリスティアヌム)」ですからね。
欧州がトルコをEUのメンバーとして受け入れる可能性は低いでしょう。〉


、、、この説明のままなのですが、
西洋(西欧と言っても良い)というのはつまり、
ギリシャ哲学とユダヤ教が結婚し(原始キリスト教)、
それにローマ法(ラテン語のローマカトリックの伝統)が加わった、
「三つ巴の思想体系」のことを言います。

この「コルプス・クリスティアヌム」が、
現代の世界のデファクトスタンダードを形作っています。
東洋人である日本人がいくら地団駄を踏もうとも、
この事実を反証することは不可能です。

民主主義も、資本主義も、共産主義も、
全部、「西洋」から生まれました。
また、
「法の概念」、「人権の概念」、
福祉、医療、近代教育、
数学、物理学、化学、生物学、哲学、
「政治の概念」、「西暦」、「一日24時間制」、
「週7日制」、学校教育、「会社」の概念、
ぜーんぶ、
「西洋の落とし子」です。
「コルプス・クリスティアヌムの落とし子」が、
現代の工業先進国の「ルールを形成」しています。

ですから私たち日本人は、
自らの宗教が何であるかに関わらず、
ある意味において、
「無自覚のキリスト教徒」なのです。
法の概念、会社の概念、資本主義、民主主義を、
制度として利用しているということは、
その前提となる思想を、
社会全体として受け入れていることに他ならないのですから。

、、、ここまで説明して、
やっと本の説明に入れるのですが、
「個人の概念」というのは、
「コルプス・クリスティアヌム」の落とし子のなかの、
特に「ギリシャ的なるもの」の遺伝子が強い「子」なわけです。
この「個人の概念」は非常に重要です。
これがないと、
法の概念も、
契約の概念も、
資本主義も、
民主主義も、
人権の概念も、
生まれませんから。

、、、なぜギリシャ的な「個人の概念」が、
キリスト教という文脈の中で花開いたか?
神学者マルティン・ブーバーはこう言っています。

「神に『あなた』と呼びかけるとき、
私は初めて『私』ということができる。
『私/あなた』というとき、他の『あなた』が現実となる」。

「創造者の存在」があるから、
「個人」が誕生するのです。
「創造者との関係における個人」があるから、
「私と同じように人権のある他者」が、
立ち現れるのです。
それをマルティン・ブーバーは一文で簡潔に表現しています。

かの福沢諭吉も、
「西洋」に行き「個人」を知ります。
彼はなんとか日本人に「個人」を語りたい。
そうして書いた『学問のすゝめ』において、
彼は「天」を措定します。
有名な、
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
ですね。

福沢諭吉は、マルティン・ブーバーの言ったことの本質を、
捉えていたのです。
「人権」は「超越者の措定」なしに構築できないと。
福沢は「天」という言葉を使うことで、
日本人に「個人」そして「人権」という概念を根付かせようとしました。
しかしそれが制度として採用されるには、
福沢諭吉の死からさらに長い時間を待たねばなりません。

日本には、1945年までは、
法律的に「個人の概念」はありませんでした。
だって、明治の憲法、つまり大日本帝国憲法では、
社会の最小単位は「家」ですからね。
日本国憲法では社会の最小単位は「個人」になりました。
GHQによって押しつけられたと一部の人に悪評高い、
「日本国憲法」によって、
実は日本はある意味「キリスト教化」されたのです。

めっちゃ話しがそれますが、
ここでひとつ「時事ネタ」を。
安倍チルドレンのひとり、自民党の片山さつき氏が、
今回の内閣再編で「入閣」しました。
地方創生大臣として。
彼女は2012年に、このような「ツィート」をしています。

『国民が権利は天から付与される、
義務は果たさなくていいと思ってしまうような
天賦人権論をとるのはやめよう、
というのが私達の基本的考え方です。
国があなたに何をしてくれるか、
ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、
を皆が考えるような前文にしました!』

先ほどから私が語っている内容を踏まえていますと、
このツィートが「驚愕の内容」であることが分かるでしょう。
天賦人権説を否定することで、
彼女は無自覚に、「近代社会の前提」を否定しています。
つまり、
「前近代的封建制度に、社会を戻しましょう」
と言っているのです。
「時計を明治時代とか江戸時代に巻き戻しましょう!」と。

法治主義や立憲主義という、
近代民主国家の土台を形成する「天賦人権説」を否定しましょう。
そして、国家が専制的に国民を統治するという枠組みを用意し、
その上に憲法を制定し、社会を構築しましょう、
と、彼女は言っているのです。
それはつまるところ、
「日本を中国のような中央集権的管理国家にしましょう」
と言っているのと、あまり変わりません。
多分自民党の右派の政治家は無自覚にでしょうが、
「日本を中国化したい」のだと思います。
彼らがやたらと中国を嫌うのは実は、
「同族嫌悪」ではないかというのが、
私のうがった見方です。

私は憲法改正自体に反対ではありませんし、
憲法を不磨の大典とは思いません。
しかし、片山さつき氏のツィートに代表されるような、
あまりにも無知に基づく国家観、
無知でないとしたら悪意に満ちた国家観を持つ政治家に、
「その大切な作業」を託したくない、
というのが私の個人的な意見です。



▼▼▼ギリシャ人は史上初めて「メタ視点」を持った民族だった。
「エスノセントリック」という言葉にそれが凝集されている▼▼▼

→P16〜17 
〈こうした特徴の故に、ギリシア人たちは、
物理学、天文学、高力価学、形式論理学、論理哲学、自然哲学、
民俗学といった多くの学問領域において卓越した力を持っていた
(これらの学問はギリシア人が発見したという人もいる)。
ちなみに「自民族中心主義的(エスノセントリック)」
という言葉はギリシア語が起源である。

ギリシア人は元来、
自分たちの生き方はペルシア人より優れていると信じていたが、
それがおそらくは単なる偏見に基づくものだったという
自戒の念を込めてこの言葉を生み出したのである。

同時代の多くの優れた文明において、
また、それ以前のメソポタミア文明、
エジプト文明、後期のマヤ文明においても、
人間は、あらゆる科学の領域で体系的な観察記録を蓄積していった。
しかし、自らが観察した事項を説明する
根本原理を見いだそうとしたのはギリシア人だけだった。

こうした根本原理を探求することは、
ギリシア人たちの楽しみの源だった。
今日我々が用いている「学校(school)」という単語は、
ギリシア語で「余暇」を意味する「スコレー(schole)」が語源である。
ギリシア人にとっての余暇とは、知識を追い求める自由だった。
アテネの商人たちは自分たちの好奇心を満たすために、
息子を学校へやることに幸せを感じていたという。〉



、、、ギリシャ人は、
「エスノセントリズム(自国民属中心主義)」という言葉を生みました。
これは、人類史に残るような「大きな事件」です。

なぜか?

「自国民族中心主義」という言葉は、
「自分たちが身びいきになっている」
ということを、自国民ではない誰かの立場に立って、
自己分析できなければ生まれない言葉だからです。
つまり、ギリシャ人は「メタ視点」を持っていたわけです。

「メタ」というのがそもそもギリシャでして、
「〜の後ろの」、「超〜」、「〜より高次の」
という意味をなす接頭語です。
メタフィジックスという英語がありますが、
これは「メタ」な「フィジックス」ということです。
フィジックスとは「物理学・物質上の学問」ということですから、
メタフィジックスは「形而上学」、
つまり、観察される出来事を学ぶ物理学より、
もうひとつ上の次元で物事を語る学問、
ということになります。
形而上学とはだから、神学、哲学などのなかの、
現実世界の奥にあるこの世の中の根本原理を問う学問、
ということになります。

もうちょっとかみ砕きましょう。
「このボールが転がる速度はどれぐらいか?」
というのを計算したり分析するのが「フィジックス(物理学)」ですね。
「メタフィジックス(形而上学)」とは、
「このボールが存在する」とはいったいどういうことなのか?
ということを問う学問です。
「存在」とは何か?
それは脳内のシナプスによって引き起こされるのか?
宇宙にひとりも人間がいなくなっても、
このボールは「存在する」と言えるのか?
といったことを問うわけです。

「エスノセントリズム」の話しに戻しましょう。
この言葉をギリシャ人が「発明」したことが、
なぜ「凄いこと」なのか?
それは、この言葉が、ギリシャ人が「メタ視点」を、
持っていたことの証左だからだ、
と私は先ほど申しました。

ここで突然ですが、
「頭が良いとは何か?」についての、
私の持論をお話しします。
「頭の良さ」の本質とは何か、
ということです。

これは複数の正しい解答が矛盾なく存在する問いなのですが、
私は「頭が良い」というのは、端的に言うと、
「自己相対化できること」だと思っています。

地頭の良い人というのは、
「自分を相対化出来る人」なのです。
これを言い換えると「メタ視点」を持てる人です。
先ほどのメタフィジックスの話しを思い出してください。
「メタ」の視点を持っている人は、
「自分が今発言している内容の前提は何か?」
について問うことが出来ます。
また、
「今自分がこう考えているということは、
 いったいどういうことなのか?」
を考えることが出来ます。

何かの仕事やプロジェクトに没頭しながら、
「今この仕事をしている自分(たち)は、
 全体のなかでいったいどんな機能を果たしているか」
について思い巡らすことが出来ます。
文章を書きながら、
「今私はどういう前提に基づいて文章を書いているのか?」
という、「文章をついて書く私について考える私の視点」
を持つことが出来るのです。

これと「地頭の良さ」の、
何の関係があるのか?

大ありです。

メタの視点を持っている人は、
「次数を繰り上げて物事を考える」ことが出来ます。

アインシュタインは、
「ある問題は、
 それが作られたのと同じ次数では解決しない。」
と言っています。
次数をひとつ繰り上げたときに、
「問題」は解けるのです。

たとえば、そうですねぇ。

「お金が足りない」という問題があったとしましょう。
「お金が足りない」という問題は、
「お金」という次元では解決しません。

なぜか?

その人がたとえ大金を手にしても、
問題は解決しないからです。
その人は「お金との上手な付き合い方」
を知らないからこそ「お金の欠乏」という、
症状に苦しんでいるのです。
その人が、宝くじに当たったとしても、
問題は解決しません。
お金と上手につきあえないその人は、
当選金の一億円を手にすることで、
浪費家になってしまうかもしれないし、
次の日から「誰かに奪われる」と不安で寝られなくなるかもしれないし、
あるいは、もっと増やそうと投資した結果、
逆に大きな借金を抱えることになってしまうかもしれない。
1億円では飽き足らす、
こんどは10億円が欲しくなり、
「やっぱりお金が足りない」
という欠乏感に悩むかもしれない。

ほら、同じ問題に帰ってきたでしょ。

お金が足りないという問題は、
「お金の多寡」という次数では解決しません。
次数をひとつ、繰り上げる必要があります。
「慢性的な欠乏感」という心理的問題があるかもしれない。
セルフイメージの低さが問題かもしれない。
お金との上手な付き合い方を、
人生のなかで学べなかったことが原因かもしれない。

そんなふうに、「次数を繰り上げて」解決する必要があります。
そうすると、「もはやお金というのは副次的な問題に過ぎない」
ことがわかります。
そのときに初めて、最初の問題が解決されたのです。

メタ視点を持てる人は強いです。
しなやかに人生を前に進めていくことが出来ますから、
「スタック(停滞)」することがありません。
「一時的なスタック」に陥ることはあっても、
それは「飛躍への布石」に過ぎないのですから。

、、、ここで宣伝を。

11月23日(金)〜24日(土)に、
札幌で開催される「よにでしセミナー」は、
「メタ視点を獲得する」ことを目的とした、
(たぶん)日本で唯一のキリスト教のセミナーです。
このセミナーに参加すると、
「自らが働くとは何か?」という次元で、
物事を考える視点が身につきます。
それはあなたの問題解決能力、
リーダーシップ、未来構築能力が飛躍するのに、
不可欠なパーツをもたらすことでしょう。

いまのところ、あと5名分ぐらい「枠」があります。
参加をご検討の方は、お早めにお申し込みを!

▼参考リンク:「よにでしセミナー」
http://karashi.net/project/yonideshi/index.html


話しを戻します。
「エスノセントリズム」という言葉を使える国家は強いのです。
なぜなら、「自己相対化」出来るからです。
「夜郎自大」という罠から守られるからです。
昨今の日本の「ニッポンスゴイ!!」式の夜郎自大番組が、
量産される現状を見るとき、
私は我が祖国が心許なくなります。
本当に強いのは、
「ニッポンスゴイ!」を繰り返す、
自画自賛国家ではありません。
「ニッポン、大丈夫か?」
という内在的批判を受け止め成長していける国です。



▼▼▼中国では形式論理学が発達しなかった代わりに、
ある種の弁証法が発達した。その理由は、、▼▼▼

→P40 
〈中国では、論理学に変わるものとしてある種の「弁証法」が発達した。
これはヘーゲルの弁証法とは厳密には異なっていた。
ヘーゲルの弁証法は、定立(テーゼ)の後に
反定立(アンチテーゼ)が続き、
それが統合(ジンテーゼ)によって解決に導かれる。
つまりそれは、最終的には矛盾を解決することを目的とした、
いわば「攻撃的」な弁証法だった。

中国の弁証法はそうではなく、矛盾の概念を用いて、
物事や出来事の間の関係を理解したり、
明らかな反対意見を統合したり、
粗削りでも得るところのある考え方を取り入れたりするものだった。
中国の知の伝統においては「Aである」という信念と
「Aでない」という信念とは、必ずしも両立不可能ではない。
逆に、道(タオ)や陰陽原理の精神に則れば、
Aのなかには、Aでないということ
(または少なくとも近いうちにAでなくなるかもしれないこと)
が含意されて良い。〉



、、、タイのチェンマイで、
私がプレゼンに用いたのはこの部分です。
「太極図」というシンボルがあります。
英語圏ではTaijitsuと呼ばれています。
著者はこの図に、東洋的な思考法が凝縮されている、
と言っています。

▼参考画像:太極図(Taijitsu)
https://stat.ameba.jp/user_images/20130121/06/warainakiok/81/07/j/o0800079812385803095.jpg

ニズベット氏が指摘しているとおり、
西洋の論理学(アリストテレス論理学を基礎とする)と、
中国(東洋)の論理学は趣を異にします。
西洋の弁証法と東洋の弁証法は違うのだ、と。

西洋の弁証法は、「矛盾の解消」を目指します。
「矛盾」を契機に、問題を「保存的に止揚」し、
新しい、より高次な概念把握を目指す。

対して東洋の弁証法は、
「矛盾」を契機にして、
相対する二つの概念を統合する方向に向かいます。
太極図はその「統合」を上手く表現しています。

なぜこのようなことが可能なのか?
アリストテレス論理学の「はじめの一歩」は、
「排中律」と言われる原理です。
「Aは、Aであると同時に、
 非Aではありえない。」というものです。

「リンゴは、リンゴであると同時に、
 ミカンであるということはありえない。」
「陣内俊が東京にいるということと、
 ニューヨークにいるということは、
 同時にはありえない。」
「神がいるということは、
 神がいないということと、
 同時には成立し得ない。」

そういったことですね。
西洋近代科学はこの礎石の上に成り立ちます。
西洋の神学者が何百年もの間、
最も優秀な頭脳をすり減らして、
侃々諤々の議論をした問題の代表は、
「三位一体論」や、
「イエスの神性」です。

現に、「三位一体」をめぐる立場の違いにより、
西方教会(ローマカトリック→プロテスタント)と、
東方教会(ギリシャ→ロシア正教会)は袂を分かちました。

また、「イエスの神性」に関しては、
「ニカイア公会議」により決着を見るまで、
ものすごーい対立があり、
ものすごーい議論が積み上げられました。
神学2000年の歴史の中で最も重要な議論と言われています。
「ホモウーシオス」なのか、
それとも「ホモイウーシオス」なのか、
という有名な論争です。

興味ある人は調べてみていただければ良いのですが、
これはつまり、
「キリストは神と同じもの(同一存在)」なのか、
それとも、
「キリストは神と似たもの」なのか、という論争です。

東洋ならば、
「どっちでも良いんじゃない?」
なのかもしれません笑。

だって、排中律のない世界なのですから。
だから、
キリストは神と似ている。
キリストは神と同じだ。
どっちも正しい。
どっちも一理あるね。
他の側面ももしかしたらあるかもね。
以上、解決です。

ところが、
アリストテレス論理学に基礎付けられた西洋には、
「排中律」があります。
「Aは同時に非Aではあり得ない」

はい。

出ました。

これと、「三位一体」、
これと、「ホモウオーシス」は、
バッティングするのです。

排中律にキリスト論を当てはめますと、
「イエスは、人間であると同時に、
 神ではあり得ない。」
「聖霊は、聖霊であると同時に、
 神ではあり得ない。」
となりますから。

こういう考え方に私たち東洋人は親しみが薄いため、
「西洋人はなんて回りくどい考え方をするのだろう?」
「神学者って、結局はバカじゃなかろうか?」
などと思うかもしれませんが、
それは短絡というものです。

この西洋の排中律に真正面からぶつかり、
それでも論理の力でゴリゴリと物事を前に進めていく、
「西洋的な知的推進力」のようなものがなければ、
私は今このメルマガを書いていません。

だって、彼らのこのような「議論に次ぐ議論」がなければ、
パソコンは生まれていないですから。
インターネットも、「電気」も、
自動車も電話も生まれていません。
資本主義社会も民主主義の概念も生まれていません。
電車もオーディオもロケットも生まれていませんし、
人類はいまだに「太陽が地球の周りを回っている」
と信じていたことでしょう。

西洋の「分析的思考」の威力は、
端的に言って、スゴイのです。

しかし、
東洋の「統合的思考」の威力も、
実はけっこうスゴイんじゃないのか、
ということに、西洋が気づき始めているのが、
21世紀という時代です。
だからこそ、ニズベット氏はこんな本を書いたわけです。

西洋の「分析的思考」。
東洋の「統合的思考」。
これが、この本全体の通奏低音です。

統合的思考とは何か?

それは、排中律がないからこそ出来る、
(西洋人からすると)「思考の離れ業」なのです。

西洋の分析的思考では、
死と生、
強さと弱さ、
光と闇、
海と陸、
昼と夜、
これらはすべて、
「対立概念」になります。

しかし東洋の統合的思考(太極図を思い出してください)では、
これらは対立概念であることをやめて、
お互いに「補完する概念」となります。

曰く、
「死は生に含まれ、
 生は死に含まれる。」
「光は闇の一部であり、
 闇は光の一部である。」
「強さとは弱さの別の側面であり、
 弱さとは強さの裏側である。」
というように。

生は死の一部であり、
死は生の一部である、
という「統合的見解」によって、
何かが解決するわけではありません。
しかしそれによって、
「統合的な別の視点」を獲得することは可能です。

現代は、「近代が行き詰まった時代」と言われています。
これはとりもなおさず、
西洋の「分析的思考」の行き詰まりでもあります。
「ああすればこうなる」という、
機械論的な考え方が行き詰まってきているのです。
世界的にポピュリストやナショナリズムの政治家が台頭し、
「民主主義の行き詰まり」が露呈しています。
上位1%の富裕層が国の富の半分を寡占し、
下位40%は貧困ラインにあえぐ、
「1%対99%の闘争」が可視化され、
人々は「資本主義という制度の限界」を、
意識せざるを得なくなっています。
原発や遺伝子工学が「夢の技術」と喧伝される半面、
それらは必ず負の側面をもって、
予想もしない副作用をもたらすことを、
誰もが知るようになり、
「近代科学技術の限界」にも人々は突き当たっています。

つまり「近代」という枠組みの行き詰まりが、
21世紀的課題なわけです。
「ポストモダンの時代」と今が称されるのは、
そのような意味においてです。
「近代」という脳天気な時代はもう終わったのだと。

それはとりもなおさず、
「分析的思考の限界」でもあります。
そのような時代に、「新たな思考の道具」を、
人類は求めています。
それがもしかしたら、
「東洋的な統合的思考」なのかもしれない、
というのがニズベット氏の問題意識です。

、、、さて、
こう書いてきますと、
そうすると、聖書の教えから離れるのでは?
中国の道教?
そんなの偶像教じゃん、
と思われるクリスチャンの方もいるかもしれないので、
まったくそういう話しではない、
ということを付言しておきます。

そもそも、キリスト教が生まれたパレスチナは、
「東洋」です。
そしてイエスが話したアラム語(ヘブル語の亜種)は、
言語学的にもセム語族といって、
西洋のインド・ヨーロッパ語族とは違います。
地理学的にも言語学的にも民俗学的にも、
キリスト教の「グラウンドゼロ」は東洋にあるのです。
それなのになぜ、
キリスト教が「西洋的な宗教」になったかというと、
キリスト教の「開祖」パウロが鍵になっています。
彼はヘブル人でしたが、
ギリシャ語話者でもありましたので、
当時のローマ帝国の共通語である、
ギリシャ語で聖書(パウロ書簡)を書いたのです。

ここからキリスト教は「西洋に親和性の高い宗教」
になっていくわけです。
ところが、パレスチナは「東洋」ですので、
ヘブル語で語られる内容には、
「東洋的な内容」も多く含まれています。
「弱いときにこそ強い」とか、
「命を捨ててこそ命を得る」とか、
「持っている者は貧しく、貧しい者が富んでいる」とか。
これらは排中律的な発想からは出てきません。
じっさい、イエスの教えの多くは統合的視点から語られています。
しかしギリシャ語でこれを議論し始めると、
分析的な解釈が生まれることになる。

新約聖書の著者の中には、
ヘブル語が第一言語、
ギリシャ語は第二言語、
という人が多くいました。
それらの著者の中に、
「アンチヘレニスト(反ギリシャ主義者)」
という人がいたことが知られています。
彼らはギリシャ語を使いながら、
ヘブル的な統合的思考を表現するために、
敢えてギリシャの人なら使わない、
違和感のある言い回しを多用したのです。

何が言いたいか?

東洋的な視点から聖書を読む、
ということは、
「反(西洋)キリスト教神学的」になるかもしれませんが、
決して「反聖書的な読み方」ではありません。
むしろ、聖書の豊かな意味をくみ取る上で、
東洋の人は西洋の人よりも、
一歩先んじている部分もあるのでは?
というのが私の考えです。


、、、、


、、、


話しすぎて、文字数オーバーです。
この本の引用はまだまだ残っているのですが、
今週はここまで。

再来週、この続きを解説します。
その間にこの本を読んでおいてくだされば、
私の読み方とメルマガ読者とで、
本をどう読むかの突き合わせが出来ます。
「バーチャルな読書会」ですね。
やってみたい人は、是非。

では、今日はここまで。

「後編」へ続く。

『リンカーン うつ病を糧に偉大さを鍛え上げた大統領』ジョシュア・ウルフ・シェンク

2018.04.19 Thursday

+++vol.036 2017年10月31日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 本のカフェ・ラテ

「本のエスプレッソショット」というこのメルマガの、
開始当初からの人気コーナーでは、
一冊の本を約5分で読める量(3,000〜10,000字)で、
圧縮し、「要約」して皆さんにお伝えしてきました。

忙しい読者の皆さんが一冊の本の内容を、
短時間で上っ面をなぞるだけではなく「理解する」ために、
「圧縮抽出」するというイメージです。

この「本のカフェラテ」はセルフパロディで、
本のエスプレッソショットほどは、網羅的ではないけれど、
私が興味をもった本(1冊〜2冊)について、
「先週読んだ本」の140文字(ルール破綻していますが)では、
語りきれないが、その本を「おかず」にいろんなことを語る、
というコーナーです。

「カフェ・ラテ」のルールとして、私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメントしていく、という形を取りたいと思っています。
「体系化」まではいかないにしても、
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。
密度の高い「本のエスプレッソショット」を牛乳で薄めた、
いわば「カフェ・ラテ」のような感じで楽しんでいただければ幸いです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼リンカーン▼▼▼

先週の予告通り、今週は「本のカフェ・ラテ」をやります。
そして先週の予告通り取り上げる本は、
「リンカーン・・・」です。
こちらがその本ですね。

▼参考リンク:リンカーン うつ病を糧に偉大さを鍛え上げた大統領
http://amzn.asia/7UIaoKm

まずは先週の「読んだ本」コーナーの引用から。
先週はこんなことを書きました。

〈とんでもなく面白かったです。
夢中で読みました。

リンカーンが生涯、重い鬱病を患っていたのは今では常識ですが、
リンカーンの死後
1.リンカーンを英雄と祭り上げたかった親族
2.鬱病を「信仰上の汚点」と見なすキリスト教保守派の勢力
このふたつのイデオロギーによって、
リンカーンを語る上で避けられない「鬱病患者」としてのリンカーンは、
「歴史修正主義者」たちによって闇に葬られてきました。
つまり、「完全無欠のヒーロー」として世間は彼を神格化したわけです。
しかし近年、「等身大のリンカーン」を見直そう、
という「英雄史観からの脱却」が起き、リンカーンの鬱病研究が進んでいます。
この本はそのような歴史調査の集大成とも言える大作です。

逆説的ですが、「英雄史観」のリンカーンよりも、
鬱病を抱えながら、その内面における弁証法を、
アメリカ合衆国の「自由と奴隷制の弁証法」に適用する彼の姿を知った読者は、
リンカーンをより偉大な英雄と見なすようになる、
という不思議な読後感を持ちます。

じっさい私はこの本を読んだ後、何分か静かに遠くを見、
思いました。「歴史上で最も尊敬するイエス以外の人物」は、
今までガンジーでしたが、私は今やリンカーンをより尊敬する、と。〉

、、、この本は翻訳が小難しいことが唯一の欠点、
と先週書きましたがもうひとつの欠点は、
「値段が高い」ことです笑。
私は図書館で借りた本のうち「これは!」と思うものを、
20冊に1冊ぐらいは購入して手もとに所蔵します。
この本も手もとに持っておきたいのですが、
なにせ値段が値段なので、今は考え中です。
図書館で読める環境にある幸せな人には是非ご一読をお勧めしますし、
あと、4,000円払っても読む価値のある本であることは間違いありません。

、、、では、私のEvernoteのメモ引用に、
補足説明を加えていく、という形で、
本書を概説していきたいと思います。


▼▼▼この本が書かれた目的:リンカーンの物語は現代のための物語だから

→P22〜23 
〈本書の狙いは、
リンカーンのメランコリーを完膚なきまでに知ることではなく、
それを精一杯知ることであり、
どのような成り行き(ストーリー)になるかを見届けることである。
広義に言って、その成り行きはかなり単刀直入だ。
リンカーンは、若い頃から心理的な苦悩や苦痛をなめ、
自分は気質的に異常な程度まで苦しむ傾向があると思い込んだほどだった。
彼は自力で自分の苦しみを突き止め、自力で救いの手を見いだし、
がまんして適応する術を身に付けた。
ついに彼は、自らの苦悩から意味を鍛え上げた。
すなわち、それによって、苦悩を打ち勝つべき障害ばかりか、
その苦悩を己の良き人生の要因にまで高めたのである。

本書は、現代のためのストーリーである。
うつ病は、毎年世界中で一億人以上の人を苦しめる、
世界でもトップクラスの疾病である。
2000年、世界でおよそ100万人がこれで自殺した。
これは、同年度の戦争による死者数、
殺人による死者数を合せたのにおおよそ匹敵する数値である。

、、、この現実に直面するとき、
歴史上の卓越した人物の罹病は新たな痛切さを帯びてくる。
特に彼の病の特質ばかりではなく、
それが生産的な人生の一部になり得た姿においてこそ、痛切となるのである。

、、、本書は、大きな苦痛を大きなパワーに合体させた男の物語である。
自分の性質に「固有な不運」を嘆く少年時代の手紙から、
自殺や狂気という主題を書いた詩に至るまで、
リンカーンの生涯は自分の苦しみを説明し、
それを高い次元へと高めてさえくれる意味を求める模索が始発点になっていた
。大統領としての彼は、同胞に彼らの祝福と重荷を受け入れ、
彼らの苦悩には意味があることに気付き、
より完璧な合衆国連邦を目指す旅程に同行することを求めたのである。〉


、、、この本のユニークなところは、
著者が「リンカーンの伝記」としてというよりもむしろ、
「うつ病研究の一症例」としてリンカーンの足跡を辿っている、
という視座にあります。

じっさい本書には、本人の手紙や日記、
知人の証言や当時の新聞記事、秘書の日記などといった、
歴史的な一次資料が多く引用されますが、
それと匹敵して多く引用されるのは、
古今東西の精神医学と心理学の世界の著書や学術研究論文です。

つまり、「精神医学的に見るとリンカーンは、、、」
という本であって、
「あの偉大なリンカーンには精神疾患者という側面もあったよ」
という本ではない、ということです。

さらにユニークなのが、歴史家としての著者が、
様々な先入観を排除してリンカーンに「なりきって」、
その足跡を辿るとき浮かび上がるリンカーン像というものが、
「精神疾患を克服した大統領」というよりもむしろ、
「彼の精神疾患と向き合う弁証法的な過程(葛藤)こそが、
 彼を偉大な大統領たらしめた」という、
驚くべき事実だったというところにあります。

つまり、
リンカーンはうつ病患者だったの「にもかかわらず」、
米国史上最も偉大な大統領のひとりになったのではない。
リンカーンはうつ病患者「だったからこそ」、
米国史上最も偉大な大統領のひとりになり得たのだ、
ということです。

だからこそ、リンカーンの物語は、
WHOが「うつ病はがんに次ぐメジャーな疾病である」
と述べるほどにうつ病が切実な問題となっている現代に、
大きな示唆を与えるであろう、と著者は言っているわけです。



▼▼▼ポール・マクヒューとフィリップ・スラヴニーのナラティブアプローチ

→P45 ポール・R・マクヒューとフィリップ・R・スラヴニーは、
彼らの共著『精神医療の展望』において、
病める人物への4つのアプローチを突き止めている。
第1のアプローチは、病気もしくはその人物が抱えているものをつきとめる。
第2のそれは、当人の次元もしくは当人が当人であるもの、
第3のアプローチは行動、当人がすることに焦点を当てる。
これらはどれも、リンカーンの生涯の研究にはある程度の価値がある。
しかし、第4のアプローチ、「ライフ・ストーリー」の展望にまさるものはない。
このアプローチは、患者がやりたいことおよび彼らがなれるものを
全的(ホリスティック)医療の面で理解しようとするものなのだ。

忘れてはならないのは、
診断は主として臨床環境において治療を便益化するためのものだと言うことだ。
時間の一瞬を捉えるスナップショットである。
しかし、ここでやりたいことは、人生全体を丸掴みにすることである。
作家で内科医のオリバー・サックスによれば、こういうことだ。
「人間である患者を舞台の中心に戻す。
苦しんでいる者、罹病している者、病と戦う者としての患者である。
病歴を物語か説話へと深めないといけない。
それによってしか、病気との関連での患者、
患者の人間としての本体、『病気』と『人間』を眼前にすることはできない」。
この病歴と物語(ナラティブ)の区別は、まさにズバリ的を射ている。
病歴は事実との諸問題を排除しようとしているのに対して、
物語は患者の障害の本質的な諸問題を際立たせるべく
事実の方を活かすのである。〉


、、、私は2013年末〜2015年末まで、
燃え尽き症候群と鬱病を患い療養しました。
その間、心療内科に行き薬(SSRI)も飲みました。
漢方薬も飲みましたし、栄養療法もしました。
そして3つのカウンセリングを受けました。

最初のカウンセリングは、
「うつ病を克服すべき問題であり、
 それは何か悪しき原因の結果である」
という前提を持つカウンセリングでした。
カウンセラーの先生には大変お世話になりましたが、
このアプローチはやればやるほど、
自分を追い込んでいく結果になりました。

療養1年が経過した頃、
知り合いの牧師でありカウンセラーの、
「ナラティブ・アプローチ」を学んだ先生から、
「セカンドオピニオン」的にカウンセリングを受け始めました。

それまでのカウンセリングでは、
「この症状の病根は何か?
 それを治癒せねばならない。
 そして病気を克服せねばならない」
という語られざる前提がどんどん自分を追い込んで、
鬱の症状を逆に悪化させる結果になりましたが、
ナラティブ・アプローチを前提とするその先生は一言目に、
こう言いました。

「俊君が今病気になったのも分かったし、
 それが俊君の生い立ちや『トラウマ的体験』と、
 関連しているかもしれないのも分かった。
 、、、ではその『トラウマ的体験』あるいは『困難』が、
 俊君にしてくれた良いことには、
 どんなことがあっただろう?」

結果から言えば、この質問を機に、
私の病気はめきめきと回復していきました。
(それでも仕事復帰まではその後1年間ほどかかりましたが)

病気を「分析的」に捉えようとすれば、
それはネガティブなものであり排除すべきものです。
しかし、病気を「統合的」といいますか、
「全的」あるいは「包括的」に捉えようとするならば、
さらにそこに「時間」という軸を付け加え、
立体的なナラティブの一部と捉えるならば、
それは「人生を描く大切な絵の具」のひとつとなります。

そしてその「ナラティブを語る」ことこそ、
私たちがこの世に生を受けた意味ともつながっています。

私は仕事に復帰してから2年間、
様々な場所や文脈で、自分の闘病体験を語ってきましたが、
その要点をひとことで言うならば、
「ネガティブなるものを全体としての自己に統合する旅」
に関する「一連の物語」になります。

「どうすればうつ病は治るんですか!?」
という質問に答えるには、ですから私ならば、
「その分析的な質問をやめる」ことからが、
治癒のはじまりかもしれません、と言うことになります。

私の治癒(寛解もしくは和解と呼び替えても良い)は、
ですから、「処方箋」としては語れません。
物語という形でしか提示不能なのです。

そしてこの「リンカーン・・・」の書籍もまた、
そのような「分析を拒絶する全的な物語」としての側面があります。



▼▼▼リンカーンは精神病者の定義にも、
健康の定義にも、両方完全に当てはまる。

→P46 
〈われわれは、リンカーンは「精神を病んでいた」と言えるか?
彼が合衆国公衆衛生局医務長官の精神病の定義に合致することは、間違いない。
なにしろ、リンカーンが経験した、
「思考、気塞ぎ、行動の変化」は、
「苦痛もしくは機能不全」と結びつけられるのだから。
とはいえ、リンカーンは、
精神の健康に対する長官の定義にも合致しているのである。
それは以下のようになっている。
「精神機能が首尾よく働き、その結果、生産的な活動となり、
他者との関係を全うでき、変化に適応することができ、逆境に対処できること」。
この基準に照らせば、リンカーンほど健全な人生を送った人物は、
史上、殆どいなかったことになるのである。〉


、、、ここから浮かび上がるのは、
私たち現代人が考える「健康」の定義の限界です。

一言でいえば、
「健康とは病の不在ではない」ということです。
「平和とは戦争の不在ではない」というのとかなり似ています。

だって、そうしたら、
先天的な「疾患」を抱えた人は、
生涯健康にはなれないということになりますが、
じっさいにはそんなことはありません。
先天性疾患を抱えた誰よりも健康な人、
というのは存在します。
「ウソだ!そんな人はいない!!」
と思われる方は見識が狭すぎるか、
もしくはあなたの目が病んでいるかのどちらかです。

では、健康とは何か?

定義は簡単ではありませんが、
確実に言えることがあります。

それは、
「病というのはそれ自体、健康を包摂していて、
 健康というのは、それ自体病を包摂している」
ということです。

形而上学的な話しになりますが、
「死は生を内包し、生は死を内包し」ているのです。
こういうのって分析的知性で把握するのには限界がありますから、
だから「ナラティブ(物語)」になるわけですね。

、、、続いて見ていきましょう。



▼▼▼リンカーンはユーグリッドの「原論」を持ち歩いた。
 あるいは現代におけるゲームの替りとして。

→P172 
〈心理学者、デイヴィッド・B・コーインは、書いている。
「うつ病の場合、回復は病気への抗議から絶望を統御できる、
より効果的な方法の発見への移行である」と。
実のところ、リンカーンは極めて有効な闘病を展開した。
法律事務所では、鉄道会社や困っている旧友も含めた
一連のクライアントを代表して、常によく働いた。
歴史書一般に取り上げたれているような内容でなくても、
日々の接触を通じての散文的な満足は得られたし、
ときには勝訴して正義が遂行されたという興奮にもあずかれた。
リンカーンはさらに、自分の頭脳の領域を拡大するたゆみない努力も怠らなかった。
1850年代前半、巡回裁判ではユーグリッドの『原論』の最初の6巻を持ち歩いた。
これらは、定義から仮定、公理、証明に至る経緯を扱ったもので、
リンカーンの時代、この本は厳正な論理尽き爪の頂点とみられていた。
三角形の合同に関する辺=角度辺による証明、
ピタゴラスの定理とそれらの換意命題、
円の属性などをマスターすれば、
道理が通らない世界では理性の静かな勝利を勝ち得たことになったのである。〉


、、、私の読書的な趣味のひとつは、
「数学者や数学に関する本を読むこと」です。
これらは多くの場合時代小説よりもドラマティックで、
そして推理小説よりスリリングです。

、、、で、ある一定数の数学の本を読んでから、気付いたことがあります。
それは、歴史に名を残した数学者には、
精神疾患患者がきわめて多いということです。

いや、本当に。

生涯うつ病を患った数学者もいますし、
病気の故に若くして自殺してしまった天才もいます。
それによって人類の数学の進歩は数十年遅れたりします。

いや、本当に。

ここから、
1.数学が人をうつ病にする。
2.うつ的な気質と数学的才能には何か関連がある。
という二つの仮説がなりたちます。

私は個人的に両方とも可能性がある、と睨んでいます。
「数学の世界で結果を出す」というのは生易しいことではありません。
マラソンランナーに自殺者が多いのは、
あの競技が自分を過酷に追い込むことと関係がありますが、
数学者の自殺も似たようなところがあると思います。

また、うつ的な気質と数学的才能には、
何か関係があるというのも、
ちょっとあり得る話しだと思います。

スコットランドを天文学者、科学者、数学者の3人が旅行した、
という、数学者の気質を現す有名な話しがあります。

列車の車窓から一匹の黒い羊が見えました。
天文学者は言いました。「スコットランドの羊は黒いんだ。」
科学者は言いました。
「いや、違う。分かったのは、
スコットランドの羊の中には黒いものがいる、ということだけだ。」
数学者はこう言いました。
「そうではない。スコットランドには少なくともひとつの草原があり、
その草原には少なくとも一匹の羊が含まれ、
そしてその羊の少なくとも一方の面は黒い、ということだけさ。」

、、、とにかくめちゃくちゃ厳密なのです。
本書にも何度か紹介されていますが、
うつ的気質を持つ人というのは、
物事を「自分びいき」に見ず、
あくまで冷徹に見ようとする傾向があり、
それは心理学の実験で実証されています。

そして、その気質こそが、
リンカーンをして「奴隷制撤廃」という、
非常にセンシティブな事業を成し遂げる上で、
有利に働いた、というのが著者の見立てです。

リンカーンが「原論」を持ち歩き読んだ、
というのは「精神安定剤」的な役割もあったでしょうし、
彼の気質を物語るエピソードでもあると思います。



▼▼▼メランコリーの暗い土壌が実を結ぶ

→P198 
〈リンカーンの40代半ば、
彼のメランコリーの暗い土壌が実を結び始めた。
リンカーンが奴隷制の拡大に反対する戦いに身を投じたとき、
それまでは彼に悩みをもたらしてきた同じ要素が、
彼の偉大な仕事においてもまた一役果たしたのである。
どうすれば自分の人生を意味あるものにできるか、
をめぐって彼につきまとっていた諸問題が、
公的な領域に適用されると、
それまでになかった意味と活力を帯び始めたのだ。
それまで彼が耐えてきた苦しみが、
厳しい時期に直面して彼に明晰さ、規律、
そして信念を与えてくれたのである
―――おそらく厳しい時期だからこそ、その度合いが強まったのだろう。
それは、いわゆる病気からの回復ではなかったし、
ましてや治療ではなかった。
リンカーンの物語は、
うつ病を排除されるべき兆候の集合と見なす者たちを混乱させる。
しかし、受苦(じゅく)を感情面での成長の隠れた触媒とみなす者には、
リンカーンの物語は納得が得られるのだ。〉


、、、解説不要ですね。
彼の生涯にわたる「内的なメランコリーとの葛藤と弁証法」が、
アメリカが抱える内的矛盾の「克服」または「止揚」につながったのです。
リンカーンは内面において激戦を闘っていたからこそ、
外的世界の「激戦」を耐えぬく勇気を得たわけです。



▼▼▼自らの物語を国の物語に、
自らを統治するために苦闘した倫理を国の倫理に共鳴させる。

→P199 
〈リンカーンは、単なる政策の開陳ではなく、
聴衆の前に、物語(ナラティヴ)を広げて見せた。
それは、この国がどこから来て、今、どこに立ち、
どこへ向かうかの物語の開陳である。
しかも、この物語こそ、彼自身の人生の物語と共鳴したのだった。
彼が自国に提示した倫理は、
理想の完璧な実現はあり得ないと承知の上で
その実現への努力を継続することだった。
ところが、その倫理こそ、
彼が自身を統治する上で使ってきた倫理と同じだったのである。〉


、、、これも先ほどの同じです。
リンカーンは自らの内部に潜む矛盾と葛藤のなかで、
完璧はないと承知のうえでそれでも「理想と意味」を求めました。
彼が完璧はないと承知で「米国の理想」を語り、
国内の矛盾と葛藤を乗り越えようとした政治的な歩みは、
内的な旅路と外的な旅路の共鳴です。


▼▼▼受容の物語ではなく、統合の物語

→P244 
〈本書は、主人公の受容の物語ではない。
彼の統合の物語なのだ。
リンカーンが偉大な仕事を成し遂げたのは、
彼が自分のメランコリーの問題を解決したからではない。
彼のメランコリーこそ、
彼の偉大な仕事の炎をさらに燃やす材料だったのである。〉


、、、受容と統合は似ていますが違います。
これを読むときに私はキリスト教の開祖、パウロを思い出します。
パウロには肉体的にメジャーな疾患を抱えていましたし、
彼には「自分は迫害者で殺人者である」という自責感情と、
生涯闘ったと思われます。

その内的葛藤が生んだのが、
私たちが新約聖書として知る書物の大部分です。
「ポジティブ信仰」が強い人には理解不能でしょうが、
メランコリーは炎を消す消化剤ではなく、
炎を付ける材料です。



▼▼▼精神の健康は二面性に秘密があり、
それはリンカーンが体現していたものだった。

→P247 
〈よき人生を生きるには、
一群のコントラストを永続的な総体に統合できないといけない。
精神分析学者のレストン・ヘイヴンズが
『人間たることを学ぶ』で説明しているように、
精神の健康は自由と服従、
過激な独立とたゆみない忠誠心の両方に依存している。
「私のお手本はリンカーンだ」と、ヘイヴンズは書いている。
「花崗岩のように堅く、雲のように柔らかい。
私もまた、必要なだけ強く、同時に弱くあれる術を学びたいものだ」と。
本書は、心理学を頼りにリンカーン研究を始めた。
今や心理学のほうがリンカーンを頼りにしているのだ。
すなわち、彼の人生こそ、受苦(じゅく)に直面しながらも
上首尾の人生を生きる方法について、
単なる処方箋では教えられない何かを
教えてくれることが見て取れるのである。〉


、、、音楽で、「倍音」と言われる概念があります。
1人の人の声なのに、周波数のピークが複数ある。
こういった声は呪術生があり、人々を惹きつけるのだそうです。
古代の巫女や呪術師も倍音を持っていただろうと推測する人もいますし、
宇多田ヒカルや美空ひばりは倍音の使い手だという説もあります。

おそらく人格にも同じようなところがあり、
真に魅力的な人間というのは、
逞しさと傷つきやすさの両面、
繊細さと大胆さの両面、
内向性と外向性の両面、
優しさと厳しさの両面を備えた人間です。
心理学の研究者が「精神の健康とは二面性だ」
と言っており、それは時代がリンカーンに追いついてきた、
ということを示唆しているのだ、ということを、
著者はここで言っています。



▼▼リンカーンの謙虚さと決意の源は、
超越者との関係から来ていた

→P296 
〈彼の物語が永続する大きな理由は、彼があれだけ深く苦しみながら、
常に謙虚さと決意を増殖させて蘇ってきたからだ。
謙虚さの母体は、彼があれだけ深く苦しみながら、
常に謙虚さと決意を増殖させて蘇ってきたからだ。
謙虚さの母体は、
その生涯の荒海で彼を運んだ船がどういう船だったにせよ、
彼はその船長ではなく、
彼は単に人の力を超えた力に従っていたという彼の認識に由来していた
ーーそれが運命、神、あるいはこの世の「全能の建築者」だろうと。
この決意の出所は、どれほど謙虚な乗り手だったにせよ、
リンカーンは呑気な乗客ではなく、
やるべき任務を持った甲板員だという意識に由来していた。
自力を超えた権威への敬意と自身の乏しい力を強い意志で行使することが
ふしぎな形で混ざり合った状態で、
リンカーンは、苦痛の生涯の美味な果実、
すなわち先見的な智慧を達成できたのである。〉


、、、謙虚さというのは、
超越者をもたなければ達成されません。
リンカーンが真に謙虚であれたのは、
自分は人生という船の船長ではなく乗組員だ、
ということをよく知っていたからです。

キリスト教信仰の真髄というのは、
「主権者の意志を受け入れる運命論」と、
「それでありながら自らの運命は、
 自らの意志や選択で変えられるという主体性」の、
交差するところにあると私は個人的に考えています。

まさに「十字架」ですね。

神の主権によって十字架にかかったイエスは、
それを100パーセント受動的に神の御心として受け入れ、
なおかつ100パーセント主体的に行動しました。

本書にも出てきますが実はリンカーンは、
「私たちが考えるような信仰者」ではなかった、
という説が有力です。
つまりどこかの教会の教会員になり、
クリスチャンとして聖書を無謬の書と信じ、
いわゆる「敬虔な」生活を営む、
アメリカの保守的な信仰者のイメージとは違います。

むしろ彼の考え方はいわば「リベラル」で、
「理神論」にちかい考え方を持っていたことが分かっています。
「フリーメイソン」の会員でもありましたし。
しかしその「考え続ける」というスタイルや、
人生は神のものであり、神は計画をもって私をつくった、
という揺るぎない確信は、
表層的なコンサバティブ信仰を超越したところにある、
もっと深い本当の意味のハードボイルドな信仰者だったと、
私には思えます。



▼▼▼ばらばらになった魂を集める旅

→P299 
〈また、1863年の夏、メアリー・リンカーンの衣装担当、
エリザベス・ケクリーは、自分が大統領夫人に着付けを行っていた部屋へ、
大統領が重い足取りで入ってくる様子を見守っていた。
「足取りはのろく重くて、顔には哀しみが浮かんでいました」と、
ケクリーは回顧する。
「疲れ切った子どものようにソファに身を投げ出すと、
両手を目にかざして照明を遮りました。
完全に打ちのめされた姿だったのです。」と。
彼は、陸軍省から戻ってきたばかりで、
そこで聞かされた知らせは、
彼によれば「暗い、どこもかしこも暗い話しばかり」だった。
大統領は、ソファ近くのスタンドから小さな聖書を取り上げて読み始めた。
「15分も経った頃」と、ケクリーは述懐する。
「チラとソファを見ると、大統領の顔がさっきより明るくなっていました。
打ちのめされた表情が消えて、
新たな決意と希望が顔に光を与えていたのです。」と。
彼が聖書のどのくだりを読んだのかを見ようと、
ケクリーはものを落としたふりをして、
座っているリンカーンの背後へ回り込み、
彼の肩先から聖書を一瞥した。「ヨブ記」だったのである。

歴史を通して、苦しむ人々にとって
最初にして最後の推進力は神意への一瞥だった。
「人間は生まれたときはばらばらだ」と、
戯曲家ユージーン・オニールは書いている。
「人は生涯をかけて自分の断片をつなぎ合わせる。
その膠(にわか)は、神の恩寵だ!」と。〉


、、、「人間は生まれたときはばらばらだ。」
生涯をかけて自分の断片をつなぎ合せる。」
というオニールの一節は示唆に富みます。

「鋼の錬金術師」という漫画があります。
読んだことはないのですが(ないんかい!)。
、、、でも、あの漫画のあらすじは、
なくなった自分の身体のパーツを集める、
というものであることだけは知っています。

また、フランク・ボームの「オズの魔法使い」には、
脳みそを失ったかかし、勇気を失ったライオン、
心を失ったブリキの木こりが出てきます。
そして彼らは「失った自分の一部」を捜す旅をします。

これらの物語が現代の神話として機能するのは、
それが人間の真実の一側面を語っているからです。
沖縄には「人間には魂が7つある」という伝承がありますが、
それもまた、単なる「でまかせ」ではなく、
「人間は多面的であり、生きるというのは統合への旅なのだ」
ということを、沖縄の人々が長い年月の中で経験的に把握していて、
それを表現したひとつのかたちです。

私はうつ病になり、回復したとき、
竜巻のあとのように、
「荒野にばらばらになった自分の魂のかけら」
が散らばっているように感じました。

おそらくそれは病気という「嵐」によって、
それまでの内的統合が一度解体され、
それを「再統合する旅」が始まったという、
ひとつの象徴的な心象風景だったように感じています。
私はだから今、「第二の人生」を生きているのです。
これは比喩ではなく、本当にそうです。



▼▼▼リンカーンは例外的な「不確かさを明晰さの源泉とする」人だった

→P307 
〈リンカーンの明晰さは、一部、彼の不確かさに起因している。
これがいかに異例であるかは、
いくら高く評価してもしすぎることはできまい。
宗教史学者のマーク・ノールは、自著『アメリカの神』で、
たいていの宗教思想家は神の恩寵を想定するばかりか、
自分らは神のご意志が読めると想定した。
言うまでもなく、どちらの想定も、
自己贔屓をいかにも気高そうに表明したものに過ぎなかった。

、、、リンカーンは、
南北双方が勝手に神意はわが方にありとする矛盾を切開した。
「その主張では双方が間違っているかもしれないし、
必ずや一方が間違っている」。
神意を知っている者は1人もいない
――リンカーンも、ジュリア・ウォード・ハウ(北軍の軍歌を作った人)も、
あの敬虔な南軍のトーマス・「ストーンワル」・ジャクソンも。

、、、一度、ある牧師が「願わくば主がわが方に立たれんことを」と言うと、
リンカーンは異議を唱え、もろにこう切り返したのである。
「願わくば、われわれのほうから主の側に立たんことを」と。

「なぜなのか?」と、マーク・ノールは問いかける。
「特定の宗派や教会に属したこともなく、
わずかな神学的文献しか読んでこなかったこの人物が、
『各州間の戦争』(南北戦争)に対して
かくも深々とした神学的解釈を表明できたのは、なぜなのか?」と。

リンカーンをメランコリーを通して眺めることによって、
われわれは一つの納得のいく説明を引き出すことができる。
すなわち彼は既知のことと、依然、疑念の中にあること、
これら二つを値踏みしつつ、
常にある状況の完全な真実に目を向ける傾向があったからだ。

過酷な時期、リンカーンはその緊張状態に踏み止まる刻苦忍耐と活力を保持していた
(まさにジョン・キーツが1817年、「ネガティブ・ケイパビリティ」と呼んだ能力)。
このことを念頭に、われわれは1863年の夏、
すなわちリンカーンが「ヨブ記」に慰めを見いだしたあの時期に再び戻る。
示唆的なのは、お先真っ暗な時期に彼が「ヨブ記」にすがったことだ。
なぜなら、聖書のこのくだりは個人の信仰の価値を、
ヨブを感情の懊悩の限界に突き落としても、問いかけるものだからである。〉


、、、この箇所を読んだ時私は「我が意を得たり」と思いました。
本当にそうです。
「これは神の御心です」と誰が言えるのでしょう?

政治的な意見にせよ宗教的な主張にせよ、
教育論にせよ人生哲学にせよ、
「自分が100パーセント正しい」という主張というのは、
「神はいない」という主張とほぼ同義です。

私たちは神ではないのですから、
「私は今これが神様の御心だと思う」
というのが「限界」なはずです。

だって、間違っているかもしれないんだもの。

「確信が与えられるまで待ちなさい。」だとか、
「神の御心だと確信したら進みなさい」といったアドヴァイスを、
私はこの20年間、本気にしたことがありません。
「コイツ何言ってるんだろうな?」
と思いながら聞き流してきました(不真面目)。

だって、「確信」なんて、
昨日食べたマズい料理のせいで吹き飛ぶかもしれないし、
睡眠不足のひとつの作用かもしれないじゃないですか。
所詮は私は人間なのです。

私の100パーセントは、
「あらゆる勉強をし、
 得られるだけの知識を得、
 相談できるだけの人と相談し、
 祈れるだけ祈り、
 考えるだけ考え抜いた。
 できうる全ての準備をした。
 その結果、今のところ、
 間違っているかもしれないが、
 これが神の御心だと私には思われる。」
というところまでです。

その先の一歩を「信仰による跳躍」と言います。
9年前に公務員を辞めて宣教の働きに飛び込んだときもそうでした。

一歩目から跳躍を試みる人は、
本当には跳べません。



▼▼▼1841年1月23日にリンカーンが書いた手紙
→P328 
〈1841年1月23日にリンカーンが書いた手紙は、
いやその結びの90語は、明らかに第一ステージ(恐れ)を示している。
簡潔にして直裁、そして強力にうつ病の核心を突くこのくだりは、
ゲティスバーグ演説がアメリカ的実験の核心を突くできばえに匹敵する。
「今生きている人間の中で、私ほど惨めな人間はいない。
私が感じたことが全ての人間の家族に配られれば、
地上に幸せな顔は一つもなくなるだろう。
今私に見えているところでは、私は死ぬに違いない。
さもなければ今よりましにならないといけない。
ましにはなれそうもない恐ろしい予感がある。
きみが私のために話してくれる事柄は、
きみがいいと思うように対処してくれたまえ。
このありさまでは、業務をさばけまいからね。
私が正気に戻れば、この事務所にローガン判事と残りたい。
もうこれ以上書けない。」〉


、、、この手紙を書いたときのリンカーンの心境を思うと、
言葉を失います。
なんという正直な言葉でしょうか。
著者も書いているように、ゲティスバーグ演説に匹敵する、
歴史的な言葉の遺産だと私には思われます。



▼▼▼リンカーン仮装大会▼▼▼

、、、ここまでが、私のEvernoteのメモなのですが、
最後に非常に印象に残った「あとがき」のくだりを紹介します。
後日談として著者は、少しでもリンカーンのことを知りたいと思い、
毎年一回開催されている、「リンカーン仮装大会」に
参加したときのエピソードを紹介しています。

これは全米からリンカーンのコスプレをするために、
リンカーンファンが集まるという、
かなり面白そうなコスプレ大会です。
画像が見つかりましたので紹介します。

▼参考リンク:「全米リンカーン仮装大会」(ウケる)
https://goo.gl/tBqrxW

、、、どうやって「優勝者」を決めるのか興味がありますが。
いずれにせよ著者はこれに参加するのです。
で、取材のためだから私服で参加したところ、
「浮きまくった」そうです笑。

そりゃそうだろ、と。
リンカーンコスプレ大会で1人だけカジュアル服を着るというのは、
普段の町並みで1人だけリンカーンの格好をしているのと、
まったく同じだけ違和感があるわけですから笑。

、、、で、著者は参加者に呼び止められ、
「おい、俺の予備のリンカーンがあるから、
 それを着ろよ!」と勧められる。
(予備のリンカーンって何だよ、という話しですが笑)

言われるままに「取材なんだけどなぁ、、」と思いながら、
黒のタキシードと山高帽子を身に付け、
付けひげをつけて、ステッキを片手にもって、
著者は参加者たちにインタヴューします。
「ここに取材に来たのは失敗だったかもしれないな」
と思いながら、、、。

しかし著者はそこで、毎年参加している、
グリーンというおじいさんに出会います。
「ちょっと森の中をあるかないか?」
と誘われ2人のリンカーンは森に消えました。
(著者とグリーンさんね)

リンカーンはリンカーンに聞きました。
、、、もとい、著者はグリーンさんに聞きました。
「リンカーンの格好をすると何かいいことがあるのですか?」

76歳のグリーンさんはおもむろに、
自分がかつて若い頃、商売に失敗し、
ハイウェイ脇にあったモーテルで首を吊って死のうとしたが、
そこで踏み止まったときの経験を語り始めました。

2人の間に重く、そして神聖な空気が流れました。

そしてグリーンさんは言ったのです。
「リンカーンの衣装になると、
私はその経験を味わい、なお耐えられた。」と。

この本を総括する、良い話しです。
うつ病と「付き合い」、それを自らの偉大さにまで鍛え上げた、
リンカーンという人物の「服装をまとう」ことで、
多くの人々がこの困難な時代を生き抜き、
なお輝く価値を見いだし創りだしていくことを願いますし、
私もそのひとりでありたいと思っています。



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『他人』の壁 養老孟司×名越康文

2018.04.05 Thursday

+++vol.034 2017年10月17日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 新コーナー 「本のカフェラテ」

新コーナー「本のカフェラテ」です。
「本のエスプレッソショット」というこのメルマガの、
開始当初からの人気コーナーでは、
一冊の本を約5分で読める量(3,000〜10,000字)で、
圧縮し、「要約」して皆さんにお伝えしてきました。

忙しい読者の皆さんが一冊の本の内容を、
短時間で上っ面をなぞるだけではなく「理解する」ために、
「圧縮抽出」するというイメージです。

この「本のカフェラテ」はセルフパロディで、
本のエスプレッソショットほどは網羅的ではないけれど、
私が興味をもった本(1冊〜2冊)について、
「先週読んだ本」の140文字(ルール破綻していますが)では、
語りきれないが、その本を「おかず」にいろんなことを語る、
というコーナーです。

「カフェ・ラテ」のルールとして、私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメント
していく、という形を取りたいと思っています。
「体系化」まではいかないにしても、
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。

密度の高い「本のエスプレッソショット」を牛乳で薄めた、
いわば「カフェ・ラテ」のような感じで楽しんでいただければ幸いです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼養老孟司×名越康文▼▼▼

私は24歳のとき(たしか)、
養老孟司の「バカの壁」出会ってから、
彼が書いたものは過去のものもさかのぼって、
殆どすべて読んできました。

彼は私が「私淑(一方的に師と仰ぐこと)」している、
いわば私の「思想の師匠」なのです。
亀仙人のもとで修行した孫悟空とクリリンの武闘着の背中には、
「亀」と書かれていたように、
鶴仙人のもとで修行した天津飯やチャオズの背中には、
「鶴」と書かれていたように、
ピッコロに鍛えられた孫悟飯の背中に「魔」と書かれていたように、
私の背中には「養」と書かれています。

「老」はちょっと、あれなので。
養老先生の「孟司」という名前は、
中国の思想家「孟子」から取られていますが、
苗字にも「老子」の「老」が入っている。
中国古代思想家が二人も名前に隠れています。
すげー「思想的」な名前だな、といつも思います。
(ちなみに私の名前「俊」も、
 中国の伝説上の王「舜と堯」から取られています。
 私の弟は「了」です。
 両方常用漢字でないので、
 父親が「舜と堯」を「俊と了」にしたわけです。
 、、、余談でした。)

話を戻しますと養老先生の言っていることはいつも「同じ」で、
その「同じ」ことを言葉を換えてこの30年ぐらい言い続けている。
彼の本が400万部も売れるというのは、
その「同じこと」が世間にとっては「当たり前」ではなく、
「新鮮」であり、そして「盲点」でもあることの証左です。

彼の思想をひとことで表すなら、
「都市化し脳化した社会に、
 身体性を取り戻す」ということです。
彼の結論はいつも「体を使って働け」です。
彼は「皮肉に満ちていてねちねちと語る」だけなのに、
読み終わった後、不思議と元気が出てくるのは、
きっと自分の「脳化し歪んだ思考」が、
養老先生の「骨盤矯正」によって修正されたからでしょう。

私の書くもの、話すこと、働きの内容の端々には、
実は「養老印」のアイディアが沢山含まれています。
あんまり一目で分かるものはないですが、
それでもやはり、私の思想を語る上で
養老さんの影響は無視できないのです。

そんなわけですから、
今年の夏に東京駅で待ち合わせをしているときに、
久しぶりに「リアル書店」に立ち寄ったとき、
「養老孟司」という名前を見つけて反射的に買いました。

この本は精神科医で仏教の研究者でもある、
名越康文さんと養老さんの対談本です。

「カフェ・ラテ」のルールとして、
私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメントしていく、
という形を取りたいと思っています。
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。

、、、では始めます。


▼▼▼人生は作品だ、という概念と、修行の概念
→P101
〈養老:まさに今、名越さんが言った修行ですよね。
修行という言葉が世の中から急速に消えていっています。
良く学生が僕に言うんですよ。
自分は才能もないし、努力も続かないと。
言っちゃ悪いけど、
あんまり出来が良くない学生がぶつぶつ愚痴をこぼすわけです。
そういうときに僕は言うんだけど、
君の人生という絵は君にしか描けないんだよと。
たとえキャンバスがボロボロの安物で、
絵の具もそんな高価なものではないかもしれないとしても、
それで完成した絵は君だけの絵であって、
それが人生という作品なんだと。
そういう発想が昔は今よりもあったと思うんですよ。

名越:なるほど。それがつまり修行だと。〉


、、、養老孟司は2011年の東日本大震災以降、
私の知る限りまる3年間書き下ろしを出版していません。
彼をもってしても、あの震災を「言語化」するのには、
相当な時間がかかったのだということが分かります。

私はちなみに、発災後から病気を発症した2013年の冬まで、
断続的に福島に通って支援活動に関わりましたが、
いまだに「言語化」できていません。
まだ「きれいに論理化できない空白」として、
震災と原発事故と福島での出来事は、
私の中に「ゆらぎ」をもたらしています。
この違和感というか「答えの出ない感じ」を、
内側に抱え込んで、あと10年ぐらいは引き受けていこう、
という腹が決まったのは、結構最近のことです。

、、、で、養老さんが2014年に、
震災後はじめて「公式に語った」のが、
「自分の壁」という新書でした。

私は当時病気療養中でしたが、
たまたま見つけたこの本を買って読みました。
私のバーンアウトはいろんな要素の絡み合いのなかで起きたので、
それが単独の原因ではないにしても、
「3.11を語る」という作業の途中で脳がクラッシュした、
みたいな側面が少なからずあったと今は思っています。
福島に通いながら「いったい今自分が何をしているのか」
分からないという苦しみがいちばん大きかった。
「ルールが分からないゲームに放り込まれた理不尽感」
みたいなもののなかで、ひたすら「戸惑っていた」というのが、
私の震災支援の実感です。
そして先ほども申しましたように、
その不条理感も戸惑いも、私の中に「保存されたまま」です。
あの経験以降、私は「断定的に、きれいに物事を語る」
ということができなくなりました。
言葉の輪郭がクリアではなくなった、という感じ。
最初私は自分の頭が悪くなったんだろうと感じていましたが、
多分そういうことではなく、
「あらゆる事柄に関する判断を留保する」
ということが習慣になったのだと思っています。
なぜなら現実は複雑で、重層的で、そして多くの場合、
言葉で十全に説明することは不可能だから。
その複雑な現実を複雑なまま受け止め、
それでもなお何かを語ろうとすると、
どうしても「断定を避ける」ようになり、
表現は抑制的になる。

当初はそれを不自由に感じ、
論理が鈍くなったように感じていましたが、
今はそれを自分の「長所」と思うようになりました。
これは震災が私に(そして多分読者の多くにも)もたらした、
数多くのもののうち、大きなひとつです。

、、、話しを戻しますと養老さんの2014年の本を読み、
私は何か「胸のつかえがいくぶん取れた」ような気持ちがしました。
私の力量では言葉にできなかったものを、
日本でもっとも頭良い人のひとりである養老さんが、
代わりに介助してくれた、という感じ。
このときから養老さんが言い始めたのが、
「人生は作品である」ということです。

▼「自分の壁」養老孟司
http://amzn.asia/9PpKd81

養老さんは福島第一原発事故のあと、
「今私たちの目の前にあるのは問題ではなく『答え』だ」
と言っていました。
つまり「これをなんとかする」という復興庁的な視点も必要だが、
「この現実」こそが、今までの戦後70年生きてきた積み重ねの、
「答え」なんだ、ということですね。

「問題」と捉えるというのは原発事故を、
数式の左辺に置くことです。
そして右辺の「復興」を考える。

しかし養老さんは「そうじゃない」と言う。
原発事故は数式の右辺なんだと。
では左辺は何か?
それは「今までの日本の歩み」だということです。
そう考えると、「私たちはどこで道を間違えたんだろう」
という本当の意味の反省ができる。

そういった「反省」のひとつが養老さんにとっては、
「戦後日本社会は、人生を作品と考えることをしなくなった」
ということだったわけです。

私は今の仕事に転職してから2万回ぐらい、
「なぜ安定した公務員という仕事を辞めて、
 不安定な今みたいな仕事をしているのですか?」
と聞かれました。
人生を効率の観点で捉えるなら、
それは非合理だし、説明不能です。

しかし人生を作品の観点で捉えるならば、
私は自分のした選択を後悔していません。
「人生という絵画」を描く上で、
私が今の仕事をし、病気になり、そして病気が寛解し、
そして頼りないながらもよちよちと、
また歩み始めているということは、
まったく必然であるように私には思われます。
ミスチルの歌詞を借りるなら、
「最初からそうなることが決まってたみたいに」、
私には思われるのです。

そして私の言葉を使うなら、
「最初からそうすることに決めていた」のは、
私の創造者である神だ、ということになります。



▼▼▼あらゆる政治的現象を「結果」として捉えるセンス
→P152 
〈養老:BS日テレの『深層NEWS』というのに出演していたんだけど、
トランプの誕生を「しょうがない」というような論調でコメントしたら、
共演した記者さんから、番組終わってから
「先生は新保守主義者なんですか」と言われましたよ。
トランプを受け入れるのか、認めるのかと言うことなんでしょうかね。
新保守主義っていうのは、ある意味でナショナリズムですよね。
右か左かで言えば、まあ右ですよ。

名越:学者なのにグローバリズムを肯定していないという。

養老:肯定とか否定とかじゃなくて、結果だからね。
結果を作った原因が何かと言うこと。

名越:なぜメディアや多くの人がこれを「結果」という視点で
捉えられないのかというのは、本当に強く感じます。
そこへ踏み込んでいる評論家は少ないですよね。
結果と捉えれば、もっと本質的なプロセス、
つまり、なぜこういう結果になったかという自分たちの根源にある欺瞞とか、
過ちに気付くはずなんですよ。
つまり、本質的なことにね。
なのに、「トランプ現象が起きた、大変だ、じゃあどう対応したら良いんだ」
という方向に行きがちですよね。
良くも悪くも、今までの自分たちのやり方が
これを招いたという考え方に至らない。
だから本質に気付くことができない。
これまでの日常がトランプを生んだんだという、
そこの部分へ行けないんです。
「いよいよ政治の末路だ」って、いやいや、
政治の末路なんて歴史上で今までも何度もあったじゃないかと。
唐や漢や、周が倒れる時も、末路みたいなことはあったんだって言う。〉


、、、これも先ほどの話しと同じですね。
「トランプ政権の誕生」を数式の左辺とみるなら、
「それにどう対応するのか?」という話しに終始する。
「支持するのか」「支持しないのか」とか、
「トランプ政権になって日本はどう影響を受ける?」
みたいな話しを延々とし続けることになる。

しかしトランプの当選が「右辺」だとすると、
「左辺」は何なんだろう?ということになる。
左辺が変わっていなければ、
トランプが仮に選挙に負けたとしても、
新たなトランプが出てくるでしょう。
「病因」が取り除かれていないわけですから。

これは日本の選挙にも言えます。
「ポピュリズムをどうすのか?」というのは問題設定として浅い。
「なぜ日本社会はこうなってしまったのか?」
という問題設定が大切です。
つまり、現在のポピュリズムは「答え」なのだと。
それは何の「答え」なのか?

私たち大衆が、「わかりやすい答え」を求めすぎたことかもしれない。
私たちが自己利益以外、関心がなさすぎたのかもしれない。
私たちが他者に不寛容すぎたのかもしれない。
私たちが合理性を求めすぎたのかもしれない。
私たちが複雑な問題を単純化しすぎてきたのかもしれない。
私たちがメディアや政治を「監視」するのを怠った、
数十年にわたる無関心の結果が、
今のポピュリズムなのかもしれない、、、という風に、
考えを進めることができるのです。

私は養老師匠にこの「考え方」を学びました。

これは夫婦問題にも会社の問題にも教会の問題にも適用可能です。
今あるこの会社の状況というのは、
「解決すべき問題」ではなく
「過去10年間私たちがしてきたこと(してこなかったこと)の答え」
かもしれないと考えるわけです。
「グレてしまった子どもという問題をいったいどうやって解決するか?」
と考えるのではなく、
「子どもがグレたというのは、私たち夫婦の10数年間の歩みの、
 『答え』なのだ。」と考える。
そうすると、「あぁ、ああいうところが間違っていた」と気付く。
そのときには大抵、子どもの非行問題の8割は解決しています。
子どもの非行というのは9割以上、
無神経な親への「メッセージ」ですから。

この思考法に「養老法」という名前を付けたいぐらいです。



▼▼▼日本経済の「大局観」
→P158
〈養老:日本はまだ内需が相当強いでしょう。
韓国と比べると多国籍企業の割合も圧倒的に少ない。
韓国は、財閥はもちろんだけど、
銀行ですら株主の半分は外国人ですからね。
それに、韓国は輸出依存度が50パーセントもあるでしょう。
日本は16パーセントかな。

名越:韓国は内需がどうしても弱いから、
かなりの部分貿易に依存していますからね。
そういう意味では、日本は輸出入が減ってもしばらくはやっていける。

養老:極論すれば石油だけ。必要なのは。
だから、必要な石油代の分だけ輸出して稼げれば、
国としては生きていける。
食料が四割も輸入じゃないかって声もあるけど、
実は休耕田も多くて、もっと生産できる基盤はある。
言い方を変えると、できるのにサボって、
外から食べ物を買っているという構図ですよね。
だから、今すぐというわけじゃないけど、
潜在的にはやっていける地盤がある。〉


、、、これは説明不要かと思います。
日本が太平洋戦争に突き進んだ本当の理由は、
陸軍の暴走とか近衛内閣のポピュリズムとか、
当時のマスコミが熱狂したとかいろいろ言われていますが、
「モノから観る歴史」の解釈では理由はひとつです。
「石油がなくなった」からです。
ABCD包囲網によって石油の禁輸措置が取られたことが、
直接の開戦の原因です。

これに尽きます。
なんと当時の日本は「敵国」の米国から8割の石油を輸入していました。
「開戦した時点で敗戦は運命づけられていた」という所以です。
歴史から学べるのは北朝鮮がもし「暴発」するとしたら、
それは「ロシアや中国も含めた石油の禁輸」措置がとられたときでしょう。

あと、日本の外交政策におけるアキレス腱は憲法9条ではありません。
そんな観念的なことではない。
「化石燃料」こそが日本の外交の最大の脆弱性です。
だから「シーレーン」であり、
だから「ホルムズ海峡」なのです。
そしてそういった理由から私は「原発、ある程度必要論者」です。
原子力が安全なエネルギーだからでも安価なエネルギーだからでもない。
「石油の一本足打法が外交的に危なすぎる」からです。
天然ガスや石炭、海底資源、風力や水力などの併用も、
言うまでもなく大切です。



▼▼▼戦前の日本はグローバリズムだった
→P161〜162
〈養老:グローバリズムは絶対正しいと思っている人って、
じゃあ戦前の日本はどうなんだと言うね。
あれ、完全に国際化していましたから。
国際化という表現がおかしければ、「大アジア化」とかさ。、、、

名越:だから、日本はすごくグローバリズムを進めていたんだな。
でも、いわゆる左翼の方々が「グローバリズムは正しいんだ」
と言っているところに、
「そういえば戦前の日本もそうでしたね」と言ったら驚くでしょうね。〉


、、、今の保守や右翼は「日本ファースト」を掲げ、
普遍主義を退けます。
逆に左派やリベラルは普遍主義とグローバル化を言い、
戦前の日本を批判する。
しかし戦前の日本というのは、
今以上に「国際化」していたというのは、
多くの人の盲点になっています。



▼▼▼「意味」で満たすことのおそろしさ
→P182 
〈養老:、、、でね、これがすごく恐ろしいと僕が思っているのは、
「同じ」を追求していくと、さっきから何度も例に出しているけど、
会議室がそうなんですよ。
感覚を刺激するものは会議室には置いていないでしょう。
意識を訂正するものは感覚しかないから。
灰皿だって今はもうないでしょう。
健康のために煙草は意味がないからってさ。
すべてのものが意味に直結している。
会議室の窓から外を眺めたら、木が生えている。
でも、そこに意味なんてないでしょう。

名越:ないですよね。木は何の意味もなくただそこに生えている。

養老:山行ったらすぐ分かるんだけど、
石ころにしても、風が吹くにしても、何にしても、
意味がないものに囲まれているんです。
だけど、都市の環境の中にいたら、
すべてが意味を持ってしまう。
それで、おかしな人が発生しているんですよ。
「こいつらに生きている意味があるのか」
と考えて人を殺してしまうわけでしょう。

名越:ええ、19人が殺害された相模原の事件ですよね。
生きている意味がないと行って殺してしまった。
非常に象徴的な事件ですね。

養老:世界を「意味」で満たすというのは、
じつはそのくらい恐ろしいことでもあるんですよ。
それを国家として実行したのがナチスですから。
意味のある人種と、ない人種を勝手に作り上げてね。
、、、情報化社会って、ある意味では、「意味化社会」なんですね。〉


「私には生きている意味がない」という悩みは、
都会人の病なのかもしれません。
「都市」では目に入るすべてのものに「意味」がありますから。

しかし自然を観るときに、
転がっている石ころ、
生えている草木、
うごめいている虫に、「意味」はありません。
「ただ、そこにあることが意味」です。

「自殺した中学生の手記に、
花鳥風月がいっさい出てこなかった」
ということを養老孟司は別の本で語っていますが、
花鳥風月の欠如と、「自殺まで追い込まれる心理」は、
無縁ではありません。

この「意味」というときそれは、
「人間の浅はかな頭で考える合理性」ということであって、
自然という大きな「系」を支える創造者の「意味」とは位相が違うことは、
言うまでもありません。

すべてのものには「意味」があります。
しかしそれは、私たち人間の頭で、
「役に立つ、立たない」と考えているような、
そんな薄っぺらな意味ではない、ということです。



▼▼▼免疫学者の多田さんの名言
→P184 
〈免疫学者の多田富雄さんは、
「女は実体だが、男は現象である」と言っていますよ。
実はこれで、男女の違いはほとんど説明がついてしまうんです。
つまり女性の方が身体に基づいて無意識に行動するし、
男性の方が頭でっかちで、
意識中心だから抽象的な者に囚われがちなんです。
だから有休を取って山にでも行けというんですよ。〉


「暴力の人類史」という本を先日読みましたが、
そのなかに、「女性の参政権」と「戦争の減少」には、
有意な相関関係がある、というくだりがありました。

思い切り大ざっぱに言えば男性は「概してバカ」ですから笑、
もし世の中に女性が存在しなければ、
人類はもうとっくに滅亡しているに違いません。



▼▼▼一神教は都市と相性が良く、仏教(多神教)は田舎と相性が良い
→P189 
〈養老:だから「同じ」を求め続ける人間社会が、
永久に死なないデータと、それを管理するAIを実現させた。
その先にあるのは、おそらく一神教という宗教なんですよ。
一神教って、キリスト教がそうでしょう。
唯一絶対神だから、言い換えたら、
唯一客観的な世界が存在しているという考え。
一方で、さっきも言いましたけど、
仏教は軸足が自分の側にありますからね。
全知全能の神が何かをしてくれるわけじゃなくて、
自分で修行して自分で悟りを開く。本質的に全く違う。

名越:それと、あらゆる自然の中に神々がいる、
万物のすべてに役割を持った神様がいるという宗教観は、
都市型の「同じ」という概念とは相反しますからね。

養老:、、、仏教って無意味なものを観ている時間が
長い国じゃないと成り立たない。、、、

名越:だから都会化して人間関係しか観なくなると、
仏教はどうしても分からなくなるんでしょう。

養老:そういう意味では、仏教も分化しましたからね。
鎌倉仏教の中で、たとえば日蓮宗や浄土真宗は典型的な都市宗教で、
一方で禅宗はどうしたって山の中。
だから、僕は鎌倉に住んでいるけど、お寺の分布を見ると分かりますよね。
市中にある寺はほとんど日蓮宗。関西もそうでしょう。
街中にあるのは基本的には浄土真宗ですからね。〉


、、、映画「あん」のラストシーンで、
「ハンセン氏病患者」の樹木希林が送る「遺言的な手紙」で、
「ねえ、店長さん。わたしたちはこの世を見るために、
聞くために生まれてきた。
だとすれば、何かになれなくてもわたしたちは、
わたしたちには、生きる意味が、あるのよ。」

というくだりがあります。

こういったセンスは「仏教的」です。
私は仏教徒ではありませんが、
仏教のもつこういったセンスが「好き」です。
共鳴していると言っても良い。
キリスト教は「脳化した都市」の宗教ですから、
すべてを「意味」で満たす悪いクセがあります。

正確に言えば本当は聖書にもこういったセンスはあるのですが、
「西洋経由のキリスト教」はそういったものを、
とことん見逃してきた、という気がします。



▼▼▼「気づき」の裏は違和感
→P197〜199
〈養老:、、結局、「気づき」の裏って違和感だと思うんですよ。

名越:ええ、分かります。違和感を持たないと、
気付くことはありませんからね。、、、心に違和感を覚えたら、
それに驚くのは良いけど、別に恐れて否定しなくても良いんですよね。
違和感を「悪いものだ」と否定しているうちは、
違和感を取り出したことにはならない。
僕の師匠の植島啓司さん(宗教人類学者)は、
「仏とは心の中にある違和感である」という名言を述べられています。
つまり、自分の中にある絶対に同化できない異物のような存在を、
彼は「仏」と言ったんですよね。
仏って阿弥陀さんみたいに慈愛に満ちていて、
無条件にいいものなんだという固定観念があるけど、
恐ろしい存在でもあると思うんです。
、、、だから、冒頭から「わからなくてもいい」と言っているのは、
何も「モノを考える必要がない」ということではなくて、
今すぐ答えが出てこなくても良いから、
とりあえず違和感を持ち続けていろと。
最初は隕鉄みたいな固いものだったのが、
心に持ち続けているうちに、だんだん溶け出して、
黒砂糖みたいに見えてくるかもしれない。
それがもっと溶けてきて、次第に消化していくというようなイメージですかね。
それが1ヶ月なのか、1年先なのか、もっとかかるのかわかりませんけど。

養老:だから、さっきも言ったように、
疑問があれば捨てずに抱え込んで生きていくと、
10年くらいして「あ!」と思う時がある。
往々にしてね。理由は分からない。
何かがあるんだろうけど。
名越さんが、インターン時代に突然
「人の気持ちなんてわからなくてもいいんだ」
と気付いたのもその一つかもしれないし・・・。〉


、、、「違和感を大切に持っておく」ことができるかどうかが、
「天才と凡人」を分けると私は思っています。
凡人はすぐ「こういうものだ」と結論を丸めてしまう。
「なんでこうなるんだろう、、、」という疑問を、
疑問のまましつこく何年も、何十年も考え続けた人だけが、
かつてアルキメデスが風呂で叫んだように、
「ユリイカ!(分かったぞ!!)」
という知的興奮を味わうことができます。



▼▼▼「学者」というのは達成の中毒。私は自分が広義の学者だと思う。
→P211
〈養老:楽しいんですよ。ある種の中毒だからね。
達成感の中毒(笑)。
よく「先生、そんなにいつも難しいこと考えていて疲れませんか」
って言われるけど、ばかいうんじゃない、疲れるに決まっているんだよ。
でも、同時に楽しいでしょう、ものすごく。
抱え込んでいた違和感とか謎のようなものが、
予期せぬ流れでパッと答えが出た瞬間というのは、
一度体験するとやめられなくなるんだ。
だから学者っていうのは、みんなその達成感を知ってしまって、
抜けられなくなった変な人たちなんですよ。

名越:僕もその抜けられない中の一人かもしれないですね(笑)。
だから、わからないものに出会って、しかもそれが、
自分がやりたいもので、情熱がそのなかにあるのであれば、
それはすごくドキドキすることだし、
ある意味ではすごく恐ろしいことやけども、
自分の目的を得たわけでね、
少なくとも若々しく長生き出来ると僕は思うわけですよ。
よく養老先生が「お若いですね」と言われるのと同じことです。〉


、、、私も「考えるのが趣味」の人間であり、
知的発見が人生の最大の喜びだと思うので、
このくだりには共感しました。
親しい友人と読んだ本や最近考えていることについて、
たとえば夜中まで語っているとき、
ふと「そういうことか!」とシナプスがつながったときなど、
鳥肌が立つほど嬉しいです。
この達成感の中毒性は、
マリファナの比ではないと思います笑。


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