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本のカフェ・ラテ『AI VS 教科書が読めない子どもたち』(前編)

2019.03.27 Wednesday

+++vol.067 2018年11月20日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 本のカフェ・ラテ
「本のエスプレッソショット」というこのメルマガの、
開始当初からの人気コーナーでは、
一冊の本を約5分で読める量(3,000〜10,000字)で、
圧縮し、「要約」して皆さんにお伝えしてきました。
忙しい読者の皆さんが一冊の本の内容を、
短時間で上っ面をなぞるだけではなく「理解する」ために、
「圧縮抽出」するというイメージです。
この「本のカフェラテ」はセルフパロディで、
本のエスプレッソショットほどは、網羅的ではないけれど、
私が興味をもった本(1冊〜2冊)について、
「先週読んだ本」の140文字(ルール破綻していますが)では、
語りきれないが、その本を「おかず」にいろんなことを語る、
というコーナーです。
「カフェ・ラテ」のルールとして、私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメントしていく、という形を取りたいと思っています。
「体系化」まではいかないにしても、
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。
密度の高い「本のエスプレッソショット」を牛乳で薄めた、
いわば「カフェ・ラテ」のような感じで楽しんでいただければ幸いです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼久々?の、「本のカフェラテ」です。▼▼▼

さて。

本のカフェラテです。

「シーズン2」は「Q&Aコーナー」や、
「単発企画」が少なめです。
「Q&Aコーナー」が少ないのは、
単純に質問が届いていないからなのですが(質問募集してますよー!)、
単発企画が少ないのは、考えるのが面倒になったからと笑、
なんか、そういうシーズンなんでしょうね。
とりあえず「本のカフェ・ラテ」をいっぱいやってみよう、
という気分になっています。
紹介したい本のストックは一生分貯まっているので、
ネタに困ることはありません。

、、、今回ご紹介したいのは、こちらの本。



●『AI VS 教科書が読めない子どもたち』

読了した日:2018年5月2日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:新井紀子
出版年:2018年
出版社:東洋経済新報社

リンク:
http://amzn.asia/cbeiDq8


、、、はい。
出ました。
話題の本ですね。
買って読んだと言う人もいるでしょうし、
読みたいけど時間がなくて読めていないという人もいるでしょう。

他にも自分的に、
「紹介したいなぁ」という本があるのですが、
需要と供給の交点を考えたときに、
「需要の大きさ」を優先してこちらを選びました。

本コーナーを読むことで、
「まるでこの本を読んだかのように」、
本の内容を把握することが出来ます。
情報の価値として純粋に1,620円分ぐらいがあるわけです。
(まぁ、厳密に言えば違うのは言うまでもないですが)

この本、多分今週だけでは終わりません。
文字数制限まで書いて、
足りなかったら「後編へ続く」という形にしたいと思います。

では始めて行きましょう。



▼▼▼シンギュラリティ論争▼▼▼

まず、この本が書かれた背景から始めましょう。

「シンギュラリティ論争」というものがあります。
「2045年問題」とも言われます。
「AIがこのまま発展していくと、
 ある時点で人類の知能を超える。
 この特異点(シンギュラリティ)を境に、
 人類の生活はまったく別のものになってしまうだろう」
という未来予測がありまして、
「いや、そう簡単にはAIが脳を超えることはない」という人と、
「そのとおり、AIは脳を超え、
 機械が人間を支配するSF的な未来が来るのだ!」
という人がいるのです。

AIや脳科学を研究する学者のなかでも意見が分かれているため、
これが「論争」と呼ばれるわけです。

まず、著者の新井紀子さんは、
「シンギュラリティは来ない」という立場です。
ただし「少なくとも予見される近未来においては」という条件がつきます。
つまり、100年以内にAIが人類を超えることはないだろう。
1,000年とかのスパンだと、「それは分からない」としか言えないけど、
ということです。

私(陣内)も新井さんと同じ立場です。
その論拠は、人間の脳の複雑性です。
人間はそもそも「脳」だけで考えているのではありません。
肝臓移植をした人の「性格」が変わることがある、
というのは外科医の間では以前から話題になっていたことで、
現在の脳科学の世界では「人間は身体でも考えている」
という数多くの証拠が加えられています。
つまり人間は内臓でも考えているわけです。
さらにはおそらく、100兆個といわれる腸内細菌叢が変わると、
そのひとの思考スタイルは変わるでしょう。

人間は脳だけで考えているという立場を、
「脳還元主義」と呼ぶとしますと、
私は「脳還元主義」を取りません。

何がいいたいのか?

人間の身体は「超複雑系」だということです。

地球上に存在する機械で最も複雑なのは航空機だと、
大手自動車メーカーに勤める友人から聞いたことがあります。
現代の自動車というのは複雑化が進み、
「部品の数」は、1台につき10万点に上る、
と彼は言いました。
これがパーソナルコンピュータだと1万点です。
だから、コンピュータの自作は、
秋葉原で部品を買って組み立てるマニアがいるぐらい、
「まぁまぁ可能」なのです。
ところが、10万点の部品となるとどうなるか。
量の変化は質の変化を生みます。
現代の大手自動車メーカーの社員のうち、
この10万点を全て把握している人は誰もいないそうです。
つまり、各社員は、自分の担当するパーツの部品に関しては、
全体像を把握しているが、
「全体像の全体像」を把握している人は誰もいない、
という驚くべき状況なのです。

航空機になりますとこれが「100万点」になります。
こうなるともう、複雑系も複雑系で、
さらに把握困難になります。
その設計図を平面に敷き広げれば、
お台場ぐらいの広さになってしまうかもしれない。

では、みなさん。

人体を、細胞のリボゾームとか細胞膜とか核とか、
ミトコンドリアとかのレベルで、
「設計図」にしたらどのぐらいになると思いますか?
なんと、敷き広げられた設計図は、
月まで到達するそうです。

人体の複雑さは、
ジャンボジェットの複雑さなど相手にならないのです。

何が言いたいのか?

AIは、機械です。
機械が出来ることと言うのは極論すると、
全部、四則演算に還元可能です。
AIの進歩とは「四則演算のスピードが上がる」
ということにすべて還元できます。

しかし人間の「思考」の働きは、
四則演算に還元できません。

これが複雑系の生物と、
複雑系ではない「人工物」の違いです。

科学が進歩したというマスコミの報道に踊らされる前に
思い出さなければならないのは、
現代の科学で、人類はまだ、
ゼロから「大腸菌」ですら作れていないということです。
「ハエを作る」なんて無限の彼方の技術です。

いやいやiPSがあるじゃないか!

違います。

あれは全部「すでにあるものの複製」です。
iPSというのは分岐した体細胞から分岐前の幹細胞つくる技術であって、
ゼロから細胞を作るのとはまったく異なる技術です。
近代になりパスツールが細菌培養の方法を見つけましたが、
ゼロから細菌(細胞)を作ることは、
ジャンボジェットを作るよりはるかに難しく、
いまだに成功していませんし、
100年以内に成功する見込みもまったくありません。

この「複雑性」というのが、
AIと人間の脳を本質的に分ける深い溝になっていて、
その「溝」は、予見される近未来に超えることは不可能、
というのが新井紀子さんの主張であり、
私もそれを支持します。


、、、では、AIなんて無視して、
私たちは「のほほん」と生活してれば良いのか?
「良かった。シンギュラリティは来ないんだ。
 じゃあ、我々の仕事も安泰だ」と。

いや、それは違う。

というのがこの本の主張です。

そうではないのです。
AIがある種の仕事を奪うのは間違いありません。
その仕事とは端的に「四則演算に還元可能な仕事」です。
銀行の窓口業務がATMに代替され、
多くの役所の窓口業務もAIのほうがコスト安で正確で、
しかも人を不快にさせない(笑)ようになる日は、
案外近いと思います。
いや、もしくは既にそうなのだけど、
「公務員の職場を減らさない」という政治的圧力によって、
本来起きるべき淘汰圧が起きていないだけかもしれません。

しかし公務員とは違い、
営利企業の場合、コスト安の淘汰圧に抗うと、
その会社はなくなっていきますから、
現在ある「AIに代替可能な仕事」は、
ことごとく機械に代替されていくでしょう。

このとき人間がすべきは何か?

それは「AIに代替不能な能力」を磨くことです。
生存戦略として、それ以外の戦略はないのです。

しかし、驚くべき事に新井紀子さんは気づきます。
それは彼女が「東大ロボ君」という、
「●●年までにAIによって東大入試に合格する」
という国家プロジェクトを率いたことと関係しています。
実は東大ロボ君はすでに、
MARCH(明治、青山、立教、中央、法政)の合格ラインは超えています。
AIは大学入試の得点において、
これらの大学の入学基準を超えているのです。

さて、ここからが問題です。

では、東大ロボ君は今後、東大に「入れる」のか?
新井紀子さんの結論は「NO」でした。

なぜか。

MARCHと東大を分けるものは何か?
それは「文章を読解する能力」でした。
これが「四則演算に還元不能な能力」であり、
AIが最も不得意とする領域だということに彼女は気づきます。

ところが、ここからが一番面白いのですが、
この20年ぐらいの学生や若い社会人の、
「読解能力」を調査したとき、
なんと、その能力は下がり続けているというのです。
むしろこの世代がどんどん伸ばしている能力は何か?
それは「単純な暗記・四則演算のスピード」などです。
これはまさに「AIが最も得意とする能力」です。

つまり、現代の日本の教育は、
「若者がAIに代替されやすいように、 
 されやすいように」教育し続けている、
というわけです。

ヤバいでしょ。

「教科書が読める」(=読解力がある)
というのがAIに代替できない能力ですが、
実は日本の(東大など最難関大学を除く)入試システムは、
特にマークシート化してから、
どんどん読解力方向ではなく「AIが得意な方向」に、
シフトしてきた。

この結果、若者は、
「未来において淘汰されやすい方向に」
教育によって誘導されている。

怖いでしょ。

新井紀子さんは、
「では、私たちはどうすれば良いのか」
ということまでこの本で語っています。


、、、という、
長―――――い予告でした。


本題に入ってきましょう。



▼▼▼教育と産業構造の変化の「タイムラグ」
→P4〜5 
〈では、AIに多くの仕事が代替された社会では
どんなことが起こるでしょうか。
労働市場は深刻な人手不足に陥っているのに、
巷間には失業者や最低賃金の仕事を掛け持ちする人々があふれている。
結果、経済はAI恐慌の嵐に晒される――。

残念なことに、それが私の思い描く未来予想図です。

実は、同じようなことはチャップリンの時代にも起こっています。
ベルトコンベアの導入で向上がオートメーション化される一方、
事務作業が増えホワイトカラーと呼ばれる新しい労働階級が生まれました。
でも、それは一度に起こったことではありません。
タイムラグがありました。

大学が大衆化し、ホワイトカラーが大量に生まれる前に、
多くの工場労働者が仕事を失い、社会に失業者があふれました。
それが、20世紀初頭の世界大恐慌の遠因となりました。

その時代、ホワイトカラーという新しい労働需要があったのに、
なぜ失業者があふれたのか。

答えは簡単です。

工場労働者はホワイトカラーとして働く教育を受けておらず、
新たな労働市場に吸収されなかったからです。
AIの登場によって、それと同じことが、
今、世界で起ころうとしています。〉


、、、まず近代が生んだ「学校教育」の、
出自について語りましょう。
これは案外知らない人が多い。
当の学校の教師ですら知らなかったりしますから

なぜ私たちの知る公的教育機関が「出来た」のか?

それは「兵隊と工場労働者を大量生産するため」です。
日本だと明治の「富国強兵・殖産興業」にあたるものが、
ヨーロッパでは一足先に起きました。
イギリスで産業革命が起き、
石炭と蒸気機関の力によって、
「手工業」が「工場生産」に変わった結果、
生産性は飛躍的に向上しました。
近代国家が工業化し生産性が上がるのと時期を同じくして、
軍隊の近代化も起きます。
大砲や機関銃、戦車や軍艦などの近代兵器が出来、
軍隊は組織化される。

このとき、「軍隊と工場労働者」には、
いくつかの最低限の「資質」が必要になります。
それは工場ならば始業の終業のベルの合図で、
一斉に作業を始めたりやめたりする規律。
そして上司が指導する言葉を理解することです。
軍隊ならば上官の合図に従う規律、
そして上官が命令する言語を理解する事です。

つまり「規律と共通言語(標準語)」を、
社会に出る年齢になった若者が身につけていることが、
各国にとって急務となったのです。

なぜか。

この変化はヨーロッパ各国で同時多発的に起こったので、
各国は競争する必要に駆られたからです。
隣国より工業化と軍隊の組織化が遅れれば、
それだけ侵略される可能性が高まる、ということですから。

この変化が起きる前は、
若者は地方によって違う言葉を話していました。
つまり世界に「国家の共通言語」なるものはなかった。
その名残がスペインのカタルーニャ地方や、
バスク地方です。
この人々は今でもスペイン語を第一言語としません。
近代国家はそれでは困る。
軍隊に徴用し、工場労働者として田舎の若者を動員するには、
全国が一律の言語を使って貰わなければ困る。
政府の検閲を受けた学校教科書がその役割を果たすのです。

次に、この変化が起きる前は、
若者は主に家庭で教育され、
職人の子どもなら職人の技術を学び、
金持ちの子どもならば家庭教師をつけ、
地域の教会や地域コミュニティが、
「子どもを大人にする」という役割を担っていました。
しかし、これでは軍隊は困る。
「上官の命令には従う」という規律がないと、
軍隊で使い物にならないからです。
学校教育において「体育座り」「前に倣え」、
「絶望的につまらない校長の長い話しを黙って聞く」
「先生が机を叩いたらシーンとする」

これらは何なのか?

軍隊の「予備教育」です。
これは詭弁ではなく、
本当にそうなのです。

これが学校教育の「出自」です。

現代はもちろんそのような性質は薄くなっていますが、
たとえば無駄に重いランドセルや学校の制服、
手足を縛る体育座りなどは、その当時の名残です。


、、、何の話し?


そう。
学校は「工場労働者を生産するため」に、
近代国家に生まれたシステムです。

しかし、大きな組織というのは、
巨大な戦艦が急には方向転換できないように、
社会の変化のスピードに往々にしてついて行けないのです。
20世紀に入り、先進国の労働環境は変わります。

農業はかつて人口の8割以上が従事していましたが、
現在は先進国では5%以下です。
工場労働者も、かつての農業と同じ運命を辿っています。
現在先進国における二次産業従事者は下降の一途を辿り、
一時期は社会の大多数だったのが、
現在は20%を軒並み切っている。

なぜか。

工場がオートメーション化されたからです。
かつてラインに100人の作業員が張り付いていたのが、
今はひとつのラインに、1人のオペレーターで充分になる。
そういう淘汰圧が働き、
労働市場は大きく変わります。

では余った労働者を吸収するのはどこか?

それが20世紀だとホワイトカラーだった、
と新井紀子さんは言っています。
機械がオートメーション化され、
組織が近代化・複雑化・官僚化した結果、
かつては存在しなかったホワイトカラーという仕事が、
20世紀に生まれました。
ところが学校教育は相変わらず、
「良い工場労働者(や兵隊)」を社会に排出する、
という旗印のもと教育を続けました。

その結果、現場は人手不足なのに、
街には失業者があふれる、という状況が生まれた。
これが大恐慌の遠因だった、
と新井紀子さんは指摘しています。

はい。

ここまで説明してくるとだいぶ分かっていただけると思います。
では、今、何が起きているのか。
「ホワイトカラーのオートメーション化」がAIによる変化です。
つまりホワイトカラーが労働市場を吸収できなくなってきた。
企業のコスト部門といわれる人事部、総務部、経理部などは、
かつて農業や工場労働者が経験したのと同じことを経験するでしょう。
つまり「その仕事自体はなくならないが、
人数はかつての100分の1で充分」になる。
産業構造が変化するのです。
ところが、学校は相変わらず、
「良いホワイトカラー」を社会に排出する、
という旗印のもと教育を続けているのです。

「・・・あれ?

 ・・・声が

 ・・・遅れて

 ・・・聞こえるよ」

という「いっこく堂」の芸のごとく、
学校教育は社会の変化に1テンポずつ遅れるのです。
この「遅れ」が社会に混乱と恐慌をもたらすのですが、
かわいそうなのは巷にあふれる失業者となるべく、
「良いホワイトカラーとなるための英才教育」を、
受けてしまう子どもたちです。

この子どもたちのことを、
新井紀子さんはタイトルで、
「教科書が読めない子どもたち」
と表現しているのです。

どういうことか。
ホワイトカラーが駆逐された後、
新たな労働力を吸収する職種はどんなものか?
その職種の多くはまだ私たちが耳にしたことすらない、
と新井さんは考えているし、私もそう思います。
しかしそれらの職種に共通する資質にはどんなものがあるのか?
というのは予測可能です。

それは端的に、
「教科書が読める」ということです。
この「教科書が読める」というのは、
単に文字が追える、というのとは違います。
それならAIも得意ですから。

そうではなく、
教科書を読んで、
それが言っている意味を把握出来る、
ということです。
つまり「読む力」「読解能力」のことを、
新井さんは言っており、
驚くべき事に、この数十年、
子どもの「読む力」「文章を読んで意味を取る力」は、
低下し続けている、というのです。

、、、続けましょう。



▼▼▼読解力調査(RST)▼▼▼

新井さんは本書で、
「読解力調査(RST)」という調査方法を紹介しています。
例(P200)としてこんな問題が挙げられています。

・次の文章を読みなさい。

「Alexは男性にも女性にも使われる名前で、
女性の名Alexandraの愛称であるが、
男性の名Alexanderの愛称でもある。」

(問題)この文脈において、
以下の文中の空欄にあてはまるもっとも適当なものを
選択肢の中から1つ選びなさい。

 Alexandraの愛称は(   )である。
1.Alex 2.Alexander 3.男性 4.女性



、、、はい。


いかがでしょう。


シンキングタイム!


「なんだこの問題は?
 俺をバカにしてんのか?」
と怒る前に、
どうぞ、みなさんも考えてみて下さい。


、、、


、、、


答えは出ましたか?


、、、


正解は、、、、


「1」のAlexですね。
問題文に答えが含まれています。
一部省略すると、
「Alexは、、、、Alexandraの愛称である。、、、」
っていうのが問題文なのですから、
「Alexandraの愛称はAlexである」
が正解です。


ここからが問題です。


中学生にこの問題を出したところ、
その正答率は何%だったと思いますか?

90%?

いやいや、違います。

70%?

いいえ。


正答率は、45%でした。


なんと、33%がDの「女性」を選んでいます。



、、、ちょっと、衝撃じゃないですか?
たった1、2行の文章の「意味」が取れていないのです。
これでは、説明書を読んでもその意味が把握できませんし、
会社で上司から支持されてもその内容が把握できません。
フェイクニュースにも簡単に踊らされてしまうでしょう。


、、、次に行きましょう。


P205にはこんな問題が出てきます。

・次の文を読みなさい。

「幕府は、1639年、ポルトガル人を追放し、
 大名には沿岸の警備を命じた。」

(問題)上記の文が表す内容と以下の文が表す内容は同じか。
「同じである」「異なる」のうちから答えなさい。

「1639年、ポルトガル人は追放され、
 幕府は大名から沿岸の警備を命じられた。」


、、、これは二択問題です。
コインを投げて占っても、
2分の1の確率で当たる問題です。


さて、シンキングタイムです。


皆さんも考えてみて下さい。


はい。


ここまで。


、、、正答は、「異なる」ですね。

前半は合っています。
1639年にポルトガル人は追放されました。
後半が間違っています。
大名が幕府に警備を命じられたのであり、
幕府が大名に命じられたのではありませんから。


、、、ここからが本当の問題でしたね。


中学生の正答率は何%だったでしょう?


100%?

違います。


80%?


いいえ。


なんと、55%です。


マジか!


2択問題の正答率55%というのは、
確率論で言うと、
問題文を読んでいない状態とほぼ同じ、
つまり「確率的には正答率ゼロの近似値」なのです。

ところがです。


ここからさらに衝撃の事実を、
新井紀子さんは本書で語っています。


この二択問題の正答率が55%だったと、
新聞記者に告げたところ、
「57%の正答率では駄目ですか?」と、
その新聞記者は新井さんに聞いてきたというのです。
「100点満点で57点ということは、
平均点としては悪くないのではないですか?」


、、、


、、、


みなさん。


この新聞記者の言ったことが新井さんを、
どれほど奈落の底に突き落としたかおわかりでしょうか?
子どもの学力(読解力)の現状を嘆いた新井さんに、
大人である新聞記者はさらなる読解力のなさを、
ぶっ込んで来たわけですから。


なぜか。


二択問題ではコインを投げても50%は正答する、
ということを加味すると、正答率がコイン並みだというのは、
先ほど私が言ったように「0点の近似値」です。
ところがかの新聞記者はこれを「100点満点の55点」と、
完全に誤った解釈したのです。
確率論の「読解」ができない人が、
現代の新聞の記事を書いていることに、
著者はさらに愕然とします。


私もこの箇所を読んだときには背筋が凍りました。


、、、


はい。


盛り上がってきたところですが、
今日はここまで。

文字数オーバーです。


続きは「後編」で。


、、、年末は恒例の、
「陣内が今年読んだ本・観た映画ベスト10」
などの企画も目白押しですから、
後編を紹介できるのは年明けになるかもですが、
「教科書が読めない子どもたち」の衝撃の余韻を噛みしめつつ、
楽しみにお待ち下さい!

(後編へ続く)

本のカフェ・ラテ『木を見る西洋人、森を見る東洋人』後編

2019.03.06 Wednesday

+++vol.063 2018年10月30日配信号+++

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■2 本のカフェ・ラテ
「本のエスプレッソショット」というこのメルマガの、
開始当初からの人気コーナーでは、
一冊の本を約5分で読める量(3,000〜10,000字)で、
圧縮し、「要約」して皆さんにお伝えしてきました。
忙しい読者の皆さんが一冊の本の内容を、
短時間で上っ面をなぞるだけではなく「理解する」ために、
「圧縮抽出」するというイメージです。
この「本のカフェラテ」はセルフパロディで、
本のエスプレッソショットほどは、網羅的ではないけれど、
私が興味をもった本(1冊〜2冊)について、
「先週読んだ本」の140文字(ルール破綻していますが)では、
語りきれないが、その本を「おかず」にいろんなことを語る、
というコーナーです。
「カフェ・ラテ」のルールとして、私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメントしていく、という形を取りたいと思っています。
「体系化」まではいかないにしても、
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。
密度の高い「本のエスプレッソショット」を牛乳で薄めた、
いわば「カフェ・ラテ」のような感じで楽しんでいただければ幸いです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼先々週の「続き」▼▼▼

さて。
先々週、こちらの本をご紹介したのは良いのですが、
文字数オーバーになり、
前編・後編に分割することにしました。
今回で終われば良いんだけど、、、。

いや。

終わらせます。

さすがに3回にわたるのは長過ぎなので。
他にもカフェラテ方式で紹介したい本、
たくさんあるので。

ではさっそく始めて行きましょう。



●木を見る西洋人、森を見る東洋人

読了した日:2018年1月31日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:リチャード・E・ニズベット
出版年:2004年
出版社:ダイヤモンド社

リンク:
http://amzn.asia/cJx57Lj



▼▼▼エドワード・ホールの低コンテクスト社会、高コンテクスト社会

→P64〜65 
〈文化人類学者のエドワード・H・ホールは、
自己理解の仕方の違いを把握するために、
「低コンテクスト社会」、
「高コンテクスト社会」という概念を提起した。
西洋人がある人について話す場合、
その人が状況や人間関係に
左右されない属性をもっていると考えることは理にかなっている。
自己とは、周囲と切り離された不可侵の自由な主体であって、
集団から集団へ、ひとつの環境から他の環境へと移っても
著しく変化することはない。

しかし、東洋人にとっては
(また、程度の差こそあれ、その他の地域の人々にとっても)、
人は他者とつながっており、変わりやすく、状況依存的な存在である。
哲学者のドナルド・ムンロによれば、
東アジア人は「家族、社会、道教、儒教など、
自らを取り巻く全てのものとの関係の中で」自分自身を理解する。
人は多くの関係に参加しており、
そうした関係があって初めて行動することが出来る。
純粋に周囲から独立した行動を取ることはたいていの場合不可能だし、
実際のところ望まれてもいない。〉



、、、「高コンテクスト社会」「低コンテクスト社会」
という耳慣れない(かもしれない)単語が出てきました。
コンテクストとは「文脈」を意味する英語です。
ですから、「文脈依存性が高い社会」「文脈依存性が低い社会」
と言い換えても良いわけですね。

日本や韓国などの東アジアの国々は、
「高コンテクスト社会」、
西洋社会は逆に「低コンテクスト社会」なのだ、
というのが著者がここで言っていることです。

日本は特に、数千年もの間、
実質的には単一民族、
単一言語で生活してきましたから、
それも「高コンテクスト社会」に一枚噛んでいます。
「高コンテクスト社会」では、
話した言葉の内容(テキスト)よりも、
その言葉が発せられた「場」が公的だったか私的だったか、
発言した人物の立場が、権力者なのかそうでないのか、
声のトーンがきつかったのか優しかったのか、
表情は無表情だったのか笑っていたのか、
などの文脈(コンテキスト)のほうが、
情報のウェイトとして占める割合が高い、ということです。
「腹を読む」とか「ツーカーの関係」とか、
「察する」とか、「以心伝心」とか、「あうんの呼吸」などは、
すべて「高コンテクスト社会」であることの証左です。
「忖度」はだから、日本だからこその現象なわけですね。

上司や政治家が、
部下や民間人に、
「手を汚す」ような仕事をさせる場合、
「法的にグレーなことをしておいてくれ」
とは決して言いません。
「まぁ、上手くやっておいてくれよ」
と言います。
(分かるよな、俺の言ってること)
という意味です。
日大タックル問題ならば、
「やらなきゃ意味ないよ」
ってことですね。
部下が手を汚したとき、
「指示したわけじゃない」と居直れるのが、
このタイプの指示の怖いところです。

対する欧米社会は、
多文化・多言語・他民族な状況を、
数千年間経験してきていますから、
「コンテキスト」に依存したくても、
それが出来ないのです。
イギリス人とフランス人とイタリア人とドイツ人、
それぞれが、
「うまくやっておいてくれよ」
と言ったとしても、
「あうんの呼吸」が成り立たない。
日大アメフト部の宮川君の立場におかれた人は、
「えっと、それってどういうことですか?
 具体的に指示していただかないと分からないんですけど。
 開始何分で、誰に対して、
 どういったタックルで怪我をさせろってことですか?」
となる。
「コンテキスト」に依存できないから、
「テキスト(会話の内容)」で、
具体的に伝えないといけない。

これはけっこう大変です。
大変ですが、自分が実際に何を考えているかを、
他者に明確に表現するという訓練になります。

今後日本は文明史で始めて、
「多文化・他民族・多言語共生社会」に近づきます。
自民党がいくら抵抗しても、
この潮流は逆行不能です。
グローバリズムはハワイの溶岩流と同じで、
泣いても笑っても止めることが不可能なのです。
燃えたくなければ移住するしかない。
私たちは「コンテクスト」に、
かつてのように高度に依存できない社会に、
暮らすようになる。

「あうんの呼吸」はもはや通用しない。
A「あれ、適当にやっといて。」
B「はい。」
という会話が、
低コンテキスト社会では、
こうなります。

A「私はこういう考えをもっていて、
 だからこうして欲しいのです。
 そうするとあなたにもこういうメリットがありますが、
 こういったリスクもあります。
 だから、一緒にこうしませんか?」
B「あなたの意図は伝わりました。
 一点だけ不明なところがあります。
 リスクをどう分担しあいましょう?」
A「●●●」
B「×××」
A、B、A、
、、、、「じゃ、やりましょっか。」

多分会話は10倍ぐらい長くなる。
これは不便です。
しかし、不便ですが、
私はフェアだとも思います。
高コンテキストを悪用し、
責任の所在が曖昧になるようなことは理不尽だと思うので。
日大アメフト部の宮川君は、
「ガバナンス問題」の被害者であると同時に、
「高コンテクスト社会」の被害者でもあります。
私はこの種の「アンフェアさ」に耐えるよりは、
「説明が大変なこと」に耐える方がまだマシと考えます。



▼▼▼自己肯定を学ぶアメリカ人、自己批判を学ぶ日本人。
ムラのあるアメリカ人と完璧主義の呪縛に陥る日本人

→P70〜71 
〈スティーブン・ハイネと共同研究者たちが行った実験は、
自己がすぐれていることを実感していたいという西洋人的な心理と、
精進して自己を向上させたいというアジア人的な心理の違いを
明らかにするためのものだった。

実験に参加したカナダ人と日本人の学生は、
「創造性テスト」と称する架空の試験を受け、
その採点結果として
「非常に良い成績」または「非常に悪い成績」を
受け取った(ただしこれらは架空の成績だった)。
その後で実験者は、
参加者がテスト課題とよく似た練習課題に
どのくらいの時間にわたって取り組むかを密かに計測した。

カナダ人は自分が成功したとき(良い成績を取ったとき)に、
類似の課題により長い時間取り組んだ。
一方、日本人は失敗したとき(悪い成績を取ったとき)に、
より長い時間取り組んだ。

日本人は別に自虐的になっていたわけではない。
彼らはただ、与えられた自己向上のチャンスを実践したのである。
この研究の結果から、東洋と西洋における
スキル発達について考えることは興味深い。
西洋人は、取りかかって直ぐに上手く出来た事項については
かなり上達しやすいと思われるが、
逆に東洋人は、いわゆる器用貧乏になりやすい可能性がある。〉


、、、これは説明不要ですね。
「平均病」という言葉があります。
これは日本の学校教育や家庭教育が、
「弱点を克服する」という「思想」を持つからです。
突出した才能を持つ人は、
たいてい代償的に、どこかが突出的に抜けています。
脳の構造というのはそうなっているのです。
たとえばサヴァン症候群という、
社会脳に問題を抱える障害がありますが、
この人々は、「1444年6月9日は何曜日?」
といった質問に即座に答えられたりする能力を持っていたりします。
私の脳はちなみに、傾向で言うとサヴァン傾向があると、
自分では分析しています。
抽象思考や論理思考は長けていますが、
社会脳は非常に脆弱ですので。

話しを戻しますと、
日本は「平均病」の社会ですので、
弱点を克服することにリソースを投入しがちです。
そうすうると、「成績オール4」の人材が量産され、
そのような人が評価される。

しかしこれは、ちょっと良くないこともある。
経済学者ヨーゼフ・シュンペーターは、
「資本主義経済は定期的に不況と好況を繰り返す。
不況はイノベーションの契機となるので必要悪だ。」
という旨のことを言っています。
シュンペーターは「創造的破壊」という言葉の生みの親です。

現代の世界が「創造的破壊」の段階にあるのは、
論を待ちません。
20世紀に安定的な産業だった二次産業や、
労働集約的な三次産業の姿が、
インターネットやAI、3Dプリンタなどのの出現によって、
大きく変革しようとしている。
現在主流のビジネスモデルはどんどん過去のものになり、
「新しい産業革命が進行中だ」という論者も多い。

そのような時代には、
「イノベーションを起こせる人材」が必要になります。
ところが、「オール4」が10000人いても、
イノベーションは起きません。
10000人のなかに「他は1以下だけど、
ひとつの分野で異様なほどに突出している」
という、標準偏差から大きく離れた人材が数人いて、
得てして彼らこそがイノベーションの担い手となります。

本田宗一郎や、
スティーブ・ジョブズや、
イーロン・マスクを考えて下さい。
彼らは「天才」ですが、
3人とも共通の「別名」を持ちます。

「変人」です。

本田宗一郎は自転車にエンジンをつけたやつで、
浜松市内を走り回り、
奥さんはノイローゼになるほど追い詰められたし、
スティーブ・ジョブズは「サイコパス」
と言われるほど冷血です。
イーロン・マスクは、
途中で他のことに集中し始めてしまうため、
「服を着ることが出来ない」という悩みをもつほど、
完全なADHDです。

日本の教育はこういった突出の尖った角を丸めて、
まるでJAのコンベアーのジャガイモの出荷のように、
変な形の奴を弾いていき、
そして晴れて「社会に出荷されるオール4の人材」
を作る。

「いやいや、東大に入り官僚になる天才もいるじゃないか!」

違います。
彼らは単に「オール5」なだけです。
平均病という意味では、
さほど変わらない。

何の話し?

現代の日本の課題は、
いかに平均病を脱するか、でしょう。
「ゆとり教育」、
もっと続けたら良かったのに。
教育の結果は、
それが出るのに30年かかります。
もやしの生産とは違い、
人は「木」に近いのですから。
文部科学省の悪いところは、
結果が出る前に結論をだす、
ということです。

ゆとり教育の結果を待つゆとりが、
彼らにはなかった、ということでしょう。

残念です。



▼▼▼相互協調的な社会か、相互独立的な社会、
どちらに暮らすかで人のアイデンティティは変化する

→P83〜84 
〈言うまでもなく、
東洋人は日常的に相互協調的なプライミングを受け、
西洋人たちは相互独立的なプライミングを受けている。
たとえ彼らの受けたしつけが
どちらか一方に偏ったものではなかったとしても、
周囲の様々な手がかりのおかげで、
相互協調的な社会に生きる人は
概して相互協調的な行動を取るようになり、
相互独立的な社会に生きる人は
概して相互独立的な行動を取るようになるだろう。

実際、一時的に別の文化への移住を経験した人からは、
良くその手の話を聞く。
私が気に入っている事例は、
日本に数年間住んだ若いカナダ人心理学者の話である。
彼はその後、北アメリカの大学に職を求めて志願したが、
彼の指導教官は、願書に付された手紙を読んでひどく驚いた。
その仕事に自分がふさわしくないことについての
謝罪文から始まっていたからである。
また、自尊心とはきわめて柔軟性の高いものだと言うことも分かっている。
日本人の自尊心は、しばらくの間欧米に暮らすことによって
飛躍的に高まるという。

これはおそらく、日本にいるときと比べて、
日々、より自尊心の高まりやすい状況に
接していたためであると思われる。
このように、複数の異文化に育った人々の心理的特徴は、
おおいに変化しやすいものなのである。〉


、、、これはめちゃ面白いですね。
カナダに長く住んだ研究者が、
「日本人みたいになっちゃった」という話しです。
逆に欧米に住むと日本人の性格が変わる、
ということもよく言われます。

私の父はまさにその典型でした。
父は30代前半で、勤めていた会社の、
留学制度を使って、
イリノイ工科大学でふたつめの修士課程を収めました。
その2年半のあいだに、父は性格が変わった、
と母は証言しています。

大学時代および社会人初期の父は、
めちゃくちゃ「ネクラ人間」で、
いつも彼の周りには暗黒の影が立ちこめているような、
そんな存在だったそうです。
アメリカに行き本当に性格が変わった。
私の知る父は「ネアカ人間」です。
ちょっと変人要素もありましたので笑、
「フーテンの寅さん」とか、こち亀の両津勘吉とか、
そういったタイプの、なんだか周りがにぎやかになる、
ネアカ人間になりました。
私の知っている父は後者なので、
父がアメリカに行っていなければ、
私の現在の性格も変わっていたかも。

「自信がない人の心理学」みたいな本は、
途方もない数発刊されていますが、
実は「転地療法」が最強だというのが私の考えです。
自信のない性格を変えたい人は、移住しましょう笑。
あまり聞いたことない処方箋ですが、
効果は実証されています。



▼▼▼社会を分析的世界観から原子論的に見る西洋人、
社会を包括的世界観から関係論的に見る東洋人

→P99〜100 
〈西洋人のこうした原子論的な考え方は、
社会制度の性質をどのように理解するかと言うことにも表れている。
ハムデン=ターナーとトロンペナールスは、
中間管理職に対する調査の中で、
企業は仕事を組織的にこなすシステムか、
または一緒に働く人々をとりまとめる有機体かと言うことについて、
参加者の考えを尋ねた。

(a)企業とは、様々な職務や仕事を
効率的にこなすために作られたシステムである。
従業員は、機械や設備の助けを借りながら、
これらの仕事を成し遂げるために雇われている。
彼らは自分が行った仕事に応じた賃金の支払いを受ける。

(b)企業とは、人々が集まって共に働く集団である。
従業員は、仲間や組織そのものとの間に社会関係を築いている。
企業の仕事はそれらの社会関係に依存している。

その結果、アメリカ人のおよそ75%、
カナダ人、オーストラリア人、イギリス人、オランダ人、
スイス人の50%以上が(a)を選択したのに対し、
日本人とシンガポール人で(a)を選択した人は約三分の一に過ぎなかった。

ドイツ人、フランス人、イタリア人は、
アジア人とイギリス系および来たヨーロッパ系の人々との
中間に位置していた。
つまり、西洋人、とくにアメリカ人や北ヨーロッパ系の人々にとって、
企業とは、別々の職能を発揮する人々が
寄り集まった原子論的なモジュールの社会である。

一方、東アジアの人々にとっては、
企業とはそれ自体一つの有機体である。
企業における人間関係は、
物事を一つに束ねる上でなくてはならない要素と考えられている。
東ヨーロッパや南ヨーロッパの人々も、
程度の差はあれ、ある程度東アジア人的な考え方を有している。〉



、、、これはかなり示唆に富む洞察です。
組織とは別々の個人の集まりだ、という世界観と、
個人とは組織とは不可分な「構成要素」だという世界観。
どちらを取るかで、組織論は天と地ほども変わるはずです。
よく言われることですが、
日本では名詞の肩書きこそが名詞の内容です。
「●●株式会社 営業本部長 山田太郎」
という名詞があったとき、
「山田太郎」という部分は実は重要ではない。

養老孟司がいつかの講演でこう言っていました。
「名詞を印刷するとき、
肩書きだけの名詞を作れば良いのに。
名前のところは空白にしておいて、
担当者が変わる度にゴム印で押せばいい」って笑。

アメリカではこれが逆になります。
「私はジョン・スミスと言います。
 3年前は●●株式会社の営業部長をしていましたが、
 現在は転職して●●コーポレーションのマネジャーをやってます」
となる。

つまり、養老孟司のメタファーで言うなら、
名前だけの名詞を作り、
あとは空白にしておく。
転職する度に肩書きをゴム印で押せば良い、
ということになる。

日本とアメリカで、
組織と個人の、「地と絵柄」が逆転するわけです。

これ自体は「違い」なのでどうしようもありません。
著者も説明していますが、これは遺伝子と言うより、
「言語」に構造的に組み込まれています。
くだんのカナダ人研究者は遺伝子によってではなく、
日本語を長期間話したことによって、
「自分を低く見積もる癖がついた」のです。

問題なのは、こういう「組織に関する世界観」の違いを無視して、
アメリカで作られた組織論を、
日本の会社や教会がそのまま使おうとすることです。
日本の神学校で習う教会政治に関する組織論は欧米製ですし、
評判悪い「MBA」も完全に欧米スタイルです。

日本の組織を欧米のスタイルで運用するとどうなるか?

正直言って、そんなの上手く行くわけがない。
だって、前提が違うんだから。
サッカーのルールブックで野球をしようとしているようなもので、
その試みは必ず破綻します。
たいせつなのは、日本の前提がちゃんと前提されている、
新しい組織論を構築することです。
これは社会一般でもキリスト教会でも、
ほとんど誰も手をつけていない分野ですので、
今後取り組むに値することだと私は思っています。

今回の「よにでしセミナー in 札幌」では、
その辺の洞察も得られるようにセミナーデザインをしました。

恒例の宣伝を。
これは「ファイナルコール」です。
本当はもう申し込み締め切り過ぎてますが、
あと2人ぐらいなら入れるので。
参加希望者はこちらから。

▼参考リンク:よにでしセミナー 第二期 in札幌
http://karashi.net/project/yonideshi/index.html



▼▼▼大陸系のヨーロッパ人はビッグ・ピクチャーを描くが、
アングロアメリカ人はそうではない

→P101〜102 
〈ヨーロッパ大陸の人々の社会的態度や価値観が
東アジア人とアングロ・アメリカ人の中間であったことにも見られるように、
大陸の知の歴史はアメリカや英連邦に比べれば全体論的である。

アメリカは、大陸よりも遙かに「ビッグ・ピクチャー」
(将来を見据えた大きな展望)の感覚が乏しい。
アングロ・アメリカ人の哲学者は何十年もの間、
原子論的な日常言語分析に取り組んできたが、
その間、ヨーロッパの哲学者は、現象学や実存主義、
ポスト構造主義、ポストモダニズムなどを生み出していた。

政治、経済、社会に関する大きな思想体系は、
主としてヨーロッパ大陸から生まれた。
マルクス主義はドイツ生まれだし、
社会学はフランスのオーギュスト・コントが生み出し、
ドイツのマックス・ヴェーバーが最高水準まで高めた。
心理学に関しても、ビッグ・ピクチャーと呼べる理論を
打ち立てたのはやはり大陸の人々だった。
おそらく二十世紀における最も影響力のある心理学者は、
オーストリアのフロイトとスイスのピアジェだろう。

私が専門とする心理学の一分や、
社会心理学では、クルト・レヴィンと
フリッツ・ハイダーという二人のドイツ人が、
非常に守備範囲の広い包括的な理論を作り上げた。
そして、私自身も遅まきながら仲間入りすることになったのが、
ロシア人心理学者のレフ・ヴィゴツキーと
アレクサンダー・ルリアがつくり出した心理学の歴史文化学派だった。〉


、、、東洋人である私たち日本人からすると、
欧米人ってみんな欧米人で、一緒なんじゃないの?
と思うかもしれませんが、それはあまりにも乱暴です。
だって逆の立場で考えてみて下さいよ。
「日本人も中国人も韓国人も、
みんな東アジア人で、結局一緒でしょ?」
って言われてるのと同じ事ですからね。
私たちはそれに激しく反論するはずです。
「かなり違うぞ!」と。
「肌の色以外何もかも違う!!」

欧米人も同じです。
大別すると、大陸系(ドイツ・フランスなど)と、
アングロアメリカ系(イギリス→アメリカ系)で、
大きく違うわけです。

著者がここで指摘しているのは、
大陸系は「ビッグ・ピクチャー」を見たがるが、
アングロアメリカ系はとことん分析的で細部に入り込む、
ということです。
かみ砕いて言いますと、
大陸系のヨーロッパ人(ドイツ人、フランス人ら)は、
「この世界全体を説明する大きな論理」を志向するということです。
ドイツ人カール・マルクスの生んだ資本論などはまさにそれですね。
アメリカ人は「大きな論理」にあまり興味がない。
なので、スケールの大きな哲学や論理が生まれにくい、
というのです。

これは、いろんな神学者の本を読んでてもそう思います。
アメリカの神学者の論理と、
ドイツの神学者の論理って、
かなり違う。
直観的に言いますと、
アメリカはかなり機械論的で合理主義的です。
ドイツは「合理主義を超える物語」を生もうとしています。

これはリベラルかコンサバティブか、
という話しではありません。
それとは位相が違う、ダイナミズムのレベルの話しです。
ちなみに私は後者に惹かれます。



▼▼▼東洋人の弁証法的な解と、西洋人の非弁証法的な解

→P198 
〈ペンと私は、ミシガン大学の中国人とアメリカ人の学生に、
人と人との葛藤や一人の人間の中の葛藤を描いた物語を読んでもらった。
ある物語では母と娘の価値観の違いによる葛藤、
別の物語では遊びたいという気持ちと学校で
勉強しなければならないという気持ちの葛藤が描かれていた。
われわれは参加者に対して、
これらの葛藤についてどう考えるかを尋ね、
参加者の答えが「中庸」すなわち弁証的な解、
非弁証法的な解のいずれに当てはまるかを分類した。

弁証法的な回答にはたいていの場合、
問題の原因を両方の側に求め、
対立する二つの見方を妥協や超越によって
調停しようという内容が含まれていた。
「母親も娘もお互いを理解していなかった」という回答は、
遠くない将来に二人が
互いに目を向け合うだろうという指摘を含んでいると判断し、
弁証法的な解として分類した。

これに対して非弁証法的な回答では、
いずれか一方の側に問題があるという指摘がなされていた。

母と娘の葛藤については、
中国人の回答の72%が弁証法的な解として分類されたのに対し、
アメリカ人の回答には26%しか弁証法的なものはなかった。
学校か遊びかという葛藤については、
中国人おおよそ半数が弁証法的な解を示したが、
アメリカ人の場合はそうした回答は12%しかなかった。
要するに、中国人のほとんどは「中庸」を見いだそうとし、
アメリカ人のほとんどは一方向的な変化を求めていた。〉


、、、何か葛藤がある際、
中国人(東洋人)とアメリカ人(西洋人)とで、
解決のスタイルが違っていた、という話しです。

タイのチェンマイで私がこの本を引用しようと思ったのは、
この箇所を読んだからです。
先々週書いた、「排中律」の問題がここで再び出てきます。
西洋の分析思考の根底にある「アリストテレス論理学」の、
「いろは」の「い」が、「排中律」です。
「矛盾律」とも言う。

「AはAであると同時に、
 非Aであることはありえない。」
と表現されます。
だからこそ、西洋の神学で、
「三位一体論」や「キリストの神性」が、
あれほど問題になったわけです。

ところが、東洋には驚く事に、「排中律」がない。
陰陽思想や道教などに代表されるように、
東洋では、
「光と闇」
「病気と健康」
「自然と人間」
「宗教と世俗」
こういったものを、
「対立概念」と捕らえません。
互いに補完する概念と捉え得ます。

「死は生に含まれ、生は死に含まれる」
というような考え方ですね。

西洋と東洋の思考の違いが、
問題解決にどういった違いをもたらすか?
西洋は「排中律」がありますので、
「Aが悪いか、Bが悪いか?」
といった二項対立の図式を取りやすく、
「排中律」のない東洋は、
「AもBも両方とも正しいし、
 両方とも悪い」
といった弁証法的な解を思考します。

「大岡裁き」とか、
「三方一両損」とかっていうのは、
その典型です。
辞書にはこうあります。

三方一両損:
「左官金太郎が3両拾い、
落とし主の大工吉五郎に届けるが、
吉五郎はいったん落とした以上、
自分のものではないと受け取らない。
大岡越前守は1両足して、2両ずつ両人に渡し、
三方1両損にして解決する。」

こういった解決法は、
おそらく西洋的な思想からは出てきません。
先々週の繰り返しになりますが、
現代世界は「近代合理主義の行き詰まり」に来ていると、
多くの人は思っています。
そのような時代に、「東洋的弁証法的な解」
というのは、実は世界を益することになるのではないか、
というのが著者の指摘であり、
私もそう思います。

著者は「プロローグ」の結語で、
今後の文化は「歴史の終わり」でフランシス・フクヤマが言ったように、
世界が全部アメリカになるのでもなく、
サミュエル・ハンティントンが「文明の衝突」で言ったように、
西洋化は挫折し多元主義の世界が訪れることもない、と語ります。
そうではなく東洋と西洋は互いに「出会い」、
侵襲し合い、相互に影響し合い、
溶け合っていく未来を彼は描きたい、と。

曰く、「シチューの具は具のままだが全部変化する。
そしてそのシチューにはそれぞれの具の
一番おいしいところが含まれている」というように。
私も著者の意見に同意します。

臨床心理学の泰斗カール・ユングは、
ドイツの牧師の息子という、「典型的な西洋人」でしたが、
彼の「全体性の心理学」は、彼が父への反発から、
東洋思想に傾倒したことから生まれました。
そのユングが「東西の思想の出会い」をコンセプトとした、
「エラノス会議」を主催しますが、
ここに参加した日本人が河合隼雄、鈴木大拙らです。

21世紀は西洋と東洋が互いに出会う時代になるだろう、
と著者は言っています。
東洋は西洋に出会うことでより豊かにされ、
西洋もまた東洋に感化されることで深みを増す、
21世紀はそういう時代だ、と。
実はみなさんの多くが使っているiPhoneは、
まさに「西洋が東洋に出会って出来た製品」です。
スティーブ・ジョブズはかつてソニーに学びにきたとき、
日本の禅寺の美しさに、雷に打たれたような衝撃を受けます。
そして彼は禅宗に感化される。
それが「引き算のデザイン」を生んだのです。
当初アメリカではブラックベリーのような、
ボタンがたくさんついたスマホが流行りましたが、
ジョブズは「ボタンは醜い」といって、
あらゆる装飾を取り除いたのがiPhoneです。
つまりあれは「日本の禅寺の思想を、
を西洋のガジェット屋が商品化した」商品と言えます。
詳しくはジョブズの公式伝記に書いてありますので、
興味ある人は読んでみて下さい。

神学の歴史を考えますと、
「西洋的な聖書の読み方」こそ正統とされます。
今後もそれは変わらないでしょう。
しかし、キリスト教をより芳醇にするには、
「東洋的に聖書を読む」ことも、
大いに貢献すると私は確信しています。

本のカフェ・ラテ『木を見る西洋人、森を見る東洋人』(前編)

2019.02.20 Wednesday

+++vol.061 2018年10月16日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 本のカフェ・ラテ
「本のエスプレッソショット」というこのメルマガの、
開始当初からの人気コーナーでは、
一冊の本を約5分で読める量(3,000〜10,000字)で、
圧縮し、「要約」して皆さんにお伝えしてきました。
忙しい読者の皆さんが一冊の本の内容を、
短時間で上っ面をなぞるだけではなく「理解する」ために、
「圧縮抽出」するというイメージです。
この「本のカフェラテ」はセルフパロディで、
本のエスプレッソショットほどは、網羅的ではないけれど、
私が興味をもった本(1冊〜2冊)について、
「先週読んだ本」の140文字(ルール破綻していますが)では、
語りきれないが、その本を「おかず」にいろんなことを語る、
というコーナーです。
「カフェ・ラテ」のルールとして、私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメントしていく、という形を取りたいと思っています。
「体系化」まではいかないにしても、
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。
密度の高い「本のエスプレッソショット」を牛乳で薄めた、
いわば「カフェ・ラテ」のような感じで楽しんでいただければ幸いです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼久しぶりの「本のカフェラテ」▼▼▼

久しぶりにやります。
「本のカフェ・ラテ」。
初めての方のためにご説明しますと、
当初本メルマガには、
「本のエスプレッソショット」というコーナーがありました。
これは一冊の本を、だいたい1〜2万字ぐらいで、
「要約」といいますか、解説するという内容で、
読む側からすると、5分ぐらいで、
一冊の本の内容がだいたい頭に入るわけですから、
かなりの時間的・認知的コスト削減になります。
(まぁ、要約を聞くのと本を読むのとでは、
 厳密には違うのですが、
 あくまでエッセンスだけならば、
 こういうことが可能です)

これはコーヒーを思い切り高圧で抽出し、
本来300mlになるのを30mlの濃厚なエキスにする、
「知的なエスプレッソ」のようなものだな、
と私は思い、「本のエスプレッソショット」と名づけたわけです。

ところが、この作業、
読む方は「お得」のですが、
高圧抽出するほうは結構大変です。
一冊の本を1万字で網羅しようとすると、
かなり「つかれる」ことが分かりました笑。

「認知負荷一定の法則」と私が読んでいる法則がありまして。
発信側が認知負荷をかけて発信した情報は、
受信側は負荷なしに、つまり簡単に受け取れます。
よーく考え抜いてなされた発言や文章は、
さらりと読みやすい(聞きやすい)ということです。

逆に発信側が認知負荷をかけずに発信すると、
受信側の認知負荷が高まります。
よくまとまっていない文章や意見は、
聞いたり読んだりしても、
頭を抱えてしまうほど難解(理解不能)だ、
ということですね。

「本のエスプレッソショット」は、
発信側の認知負荷が高すぎるので、
これをウィークリーベースでやるのは無理だな、
と私は察しました。

そこで登場したのが、
もうちょっと発信側の認知負荷を軽減する、
「第三案」。

それが「本のカフェ・ラテ」です。
エスプレッソを牛乳で薄めたものがカフェラテですので、
エスプレッソほど濃くはないが、
ただ内容を垂れ流しているのでもない。

その本のエッセンスが、
短時間で垣間見られる、
という意味では、
読者にとっても十分美味しいこのコーナー。
シーズン2では初めてです。



▼▼▼『木を見る西洋人、森を見る東洋人』▼▼▼

さて。

今回ご紹介するのはこちらの本です。


●木を見る西洋人、森を見る東洋人

読了した日:2018年1月31日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:リチャード・E・ニズベット
出版年:2004年
出版社:ダイヤモンド社

リンク:
http://amzn.asia/cJx57Lj


読了したのは今年の1月なので、
一度「先週読んだ本」でご紹介しているはずなのです。
しかし今回なぜこれを紹介しようと思ったかと申しますと、
9月後半にタイのチェンマイで、
DNAアジアフォーラムという、
FVIが理念を共有する国際的な集まりに参加しました。
私も30分の発表の機会をいただきまして、
15カ国、50名の参加者に、
「西洋と東洋の考え方の違い
 〜東からみた『もうひとつの真理のプリズム』〜」
というテーマでお話をしました。

その発表は非常に好評で、
参加期間中、参加者の半分以上の人が、
「俊、君の発表は素晴らしかった。
 今まで自分が考えていたことを、
 君は見事に言語化してくれた!
 すっきりした!」
「君が紹介していたあの本、
 絶対買って読むよ!!」
「日本における神の働きについて、
 めちゃくちゃ考えさせられた。
 遠藤周作の『沈黙』を読んだときのことを思い出させられた」
などのフィードバックをいただきました。

発表の様子がこちらです。
私の人生のメンターである、
ボブ・モフィット師が撮影して、
後にメールで送ってくれました。

▼参考画像:タイでの発表
https://bit.ly/2PqZxW6



▼▼▼Geography of Thought▼▼▼

、、、で、その発表にて、
私が「論理的下敷き」にしたのが、
上記のリチャード・ニズベット氏の本です。

ニズベット氏は米国コロンビア大学の教授で、
専門は社会心理学です。
ちなみに、この本のタイトルは、
邦題が「木を見る西洋人、森を見る東洋人」ですが、
英語原版のタイトルは、
「The Geography of Thought
How Asians and Westerners Think Differntly, and Why?」
です。

直訳すると、
「思想の地理学
 〜アジア人と西欧人の思考は
 どのように異なるのか?そしてそれは何故か?〜」
といったタイトルになります。

タイトルからして、
内容の説明になっています。
アジア人である日本人はこの本を、
「木を見る西洋人、森を見る東洋人」
と、包括的な表現でひとことで説明しました。

西洋人である著者は、
「思想の地理学」
という分析的な言語を使っています。

面白いですね。
では早速、本のカフェラテのルールに則り、
私のEvernoteメモにコメントする形で、
解説を始めて行きたいと思います。



▼▼▼ギリシア人から発する「主体性」と「ディベート」▼▼▼
→P15 
〈ギリシア人がもっていた主体性の観念は
「自分とは何か」についての
強い信念(アイデンティティ)と連動していた。
個人主義という概念を生み出したのが
ギリシア人かヘブライ人かは議論の分かれる所だが、
いずれにせよ、ギリシア人が、
自らを他人とは違った特徴や目標を持った
「ユニークな(唯一の)」個人だと考えていたことは確かである。

このことは、少なくとも紀元前八世紀ないし九世紀の
ギリシア詩人ホメロスの時代には動かしがたいものとなっていた。
ホメロスが書いた『オデッセイア』と『イリアス』では、
神々も人間も、一人ずつ完全な個性を有していた。

ギリシア人の主体性の観念はまた、
討論(ディベート)の伝統を盛り上げる刺激にもなった。
ホメロスは、人間の評価は戦士としての力強さと
討論の能力で決まると明言している。
一介の平民が君主に討論を挑むことさえ可能だったし、
単に話をさせてもらえると言うだけでなく、
ときには聴衆を自分の側になびかせることも出来たのである。
討論は市場でも政治集会でも行われ、
戦時下に討論がなされることさえあった。〉


、、、さて。
どこから説明しましょう。
著者は「東洋人と西洋人はなぜ違った考え方をするのか?」
を考察したいわけです。
では、「西洋人」ってなに?
ということが定義されていなければ、
この議論はそもそも組み立て不能なわけですね。

、、、で、
私たちが「西洋」と一般に口にするとき、
特にそれが思想的なことを意味している場合、
めっちゃくちゃシンプルに一言で言いますとそれは、
「コルプス・クリスティアヌム」のことを言います。
著者もこの意味で「西洋」を定義しています。

え?

コルプス、、、、

え?

何それ?

初めて聞いたんですけど。

という方もいらっしゃると思いますので、
これもなるべく簡単に説明しましょう。
佐藤優氏が、「世界史の大転換」という本の中で、
「トルコがEUに受け入れられないという予測の根拠」を、
このように語っています。

〈佐藤:EUはユダヤ・キリスト教の一神教の伝統(ヘブライズム)と、
ギリシャ古典哲学の伝統(ヘレニズム)、
ローマ法の伝統(ラティニズム)という
三つの価値観で結びつけられている。
「キリスト教共同体(コルプス・クリスティアヌム)」ですからね。
欧州がトルコをEUのメンバーとして受け入れる可能性は低いでしょう。〉


、、、この説明のままなのですが、
西洋(西欧と言っても良い)というのはつまり、
ギリシャ哲学とユダヤ教が結婚し(原始キリスト教)、
それにローマ法(ラテン語のローマカトリックの伝統)が加わった、
「三つ巴の思想体系」のことを言います。

この「コルプス・クリスティアヌム」が、
現代の世界のデファクトスタンダードを形作っています。
東洋人である日本人がいくら地団駄を踏もうとも、
この事実を反証することは不可能です。

民主主義も、資本主義も、共産主義も、
全部、「西洋」から生まれました。
また、
「法の概念」、「人権の概念」、
福祉、医療、近代教育、
数学、物理学、化学、生物学、哲学、
「政治の概念」、「西暦」、「一日24時間制」、
「週7日制」、学校教育、「会社」の概念、
ぜーんぶ、
「西洋の落とし子」です。
「コルプス・クリスティアヌムの落とし子」が、
現代の工業先進国の「ルールを形成」しています。

ですから私たち日本人は、
自らの宗教が何であるかに関わらず、
ある意味において、
「無自覚のキリスト教徒」なのです。
法の概念、会社の概念、資本主義、民主主義を、
制度として利用しているということは、
その前提となる思想を、
社会全体として受け入れていることに他ならないのですから。

、、、ここまで説明して、
やっと本の説明に入れるのですが、
「個人の概念」というのは、
「コルプス・クリスティアヌム」の落とし子のなかの、
特に「ギリシャ的なるもの」の遺伝子が強い「子」なわけです。
この「個人の概念」は非常に重要です。
これがないと、
法の概念も、
契約の概念も、
資本主義も、
民主主義も、
人権の概念も、
生まれませんから。

、、、なぜギリシャ的な「個人の概念」が、
キリスト教という文脈の中で花開いたか?
神学者マルティン・ブーバーはこう言っています。

「神に『あなた』と呼びかけるとき、
私は初めて『私』ということができる。
『私/あなた』というとき、他の『あなた』が現実となる」。

「創造者の存在」があるから、
「個人」が誕生するのです。
「創造者との関係における個人」があるから、
「私と同じように人権のある他者」が、
立ち現れるのです。
それをマルティン・ブーバーは一文で簡潔に表現しています。

かの福沢諭吉も、
「西洋」に行き「個人」を知ります。
彼はなんとか日本人に「個人」を語りたい。
そうして書いた『学問のすゝめ』において、
彼は「天」を措定します。
有名な、
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
ですね。

福沢諭吉は、マルティン・ブーバーの言ったことの本質を、
捉えていたのです。
「人権」は「超越者の措定」なしに構築できないと。
福沢は「天」という言葉を使うことで、
日本人に「個人」そして「人権」という概念を根付かせようとしました。
しかしそれが制度として採用されるには、
福沢諭吉の死からさらに長い時間を待たねばなりません。

日本には、1945年までは、
法律的に「個人の概念」はありませんでした。
だって、明治の憲法、つまり大日本帝国憲法では、
社会の最小単位は「家」ですからね。
日本国憲法では社会の最小単位は「個人」になりました。
GHQによって押しつけられたと一部の人に悪評高い、
「日本国憲法」によって、
実は日本はある意味「キリスト教化」されたのです。

めっちゃ話しがそれますが、
ここでひとつ「時事ネタ」を。
安倍チルドレンのひとり、自民党の片山さつき氏が、
今回の内閣再編で「入閣」しました。
地方創生大臣として。
彼女は2012年に、このような「ツィート」をしています。

『国民が権利は天から付与される、
義務は果たさなくていいと思ってしまうような
天賦人権論をとるのはやめよう、
というのが私達の基本的考え方です。
国があなたに何をしてくれるか、
ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、
を皆が考えるような前文にしました!』

先ほどから私が語っている内容を踏まえていますと、
このツィートが「驚愕の内容」であることが分かるでしょう。
天賦人権説を否定することで、
彼女は無自覚に、「近代社会の前提」を否定しています。
つまり、
「前近代的封建制度に、社会を戻しましょう」
と言っているのです。
「時計を明治時代とか江戸時代に巻き戻しましょう!」と。

法治主義や立憲主義という、
近代民主国家の土台を形成する「天賦人権説」を否定しましょう。
そして、国家が専制的に国民を統治するという枠組みを用意し、
その上に憲法を制定し、社会を構築しましょう、
と、彼女は言っているのです。
それはつまるところ、
「日本を中国のような中央集権的管理国家にしましょう」
と言っているのと、あまり変わりません。
多分自民党の右派の政治家は無自覚にでしょうが、
「日本を中国化したい」のだと思います。
彼らがやたらと中国を嫌うのは実は、
「同族嫌悪」ではないかというのが、
私のうがった見方です。

私は憲法改正自体に反対ではありませんし、
憲法を不磨の大典とは思いません。
しかし、片山さつき氏のツィートに代表されるような、
あまりにも無知に基づく国家観、
無知でないとしたら悪意に満ちた国家観を持つ政治家に、
「その大切な作業」を託したくない、
というのが私の個人的な意見です。



▼▼▼ギリシャ人は史上初めて「メタ視点」を持った民族だった。
「エスノセントリック」という言葉にそれが凝集されている▼▼▼

→P16〜17 
〈こうした特徴の故に、ギリシア人たちは、
物理学、天文学、高力価学、形式論理学、論理哲学、自然哲学、
民俗学といった多くの学問領域において卓越した力を持っていた
(これらの学問はギリシア人が発見したという人もいる)。
ちなみに「自民族中心主義的(エスノセントリック)」
という言葉はギリシア語が起源である。

ギリシア人は元来、
自分たちの生き方はペルシア人より優れていると信じていたが、
それがおそらくは単なる偏見に基づくものだったという
自戒の念を込めてこの言葉を生み出したのである。

同時代の多くの優れた文明において、
また、それ以前のメソポタミア文明、
エジプト文明、後期のマヤ文明においても、
人間は、あらゆる科学の領域で体系的な観察記録を蓄積していった。
しかし、自らが観察した事項を説明する
根本原理を見いだそうとしたのはギリシア人だけだった。

こうした根本原理を探求することは、
ギリシア人たちの楽しみの源だった。
今日我々が用いている「学校(school)」という単語は、
ギリシア語で「余暇」を意味する「スコレー(schole)」が語源である。
ギリシア人にとっての余暇とは、知識を追い求める自由だった。
アテネの商人たちは自分たちの好奇心を満たすために、
息子を学校へやることに幸せを感じていたという。〉



、、、ギリシャ人は、
「エスノセントリズム(自国民属中心主義)」という言葉を生みました。
これは、人類史に残るような「大きな事件」です。

なぜか?

「自国民族中心主義」という言葉は、
「自分たちが身びいきになっている」
ということを、自国民ではない誰かの立場に立って、
自己分析できなければ生まれない言葉だからです。
つまり、ギリシャ人は「メタ視点」を持っていたわけです。

「メタ」というのがそもそもギリシャでして、
「〜の後ろの」、「超〜」、「〜より高次の」
という意味をなす接頭語です。
メタフィジックスという英語がありますが、
これは「メタ」な「フィジックス」ということです。
フィジックスとは「物理学・物質上の学問」ということですから、
メタフィジックスは「形而上学」、
つまり、観察される出来事を学ぶ物理学より、
もうひとつ上の次元で物事を語る学問、
ということになります。
形而上学とはだから、神学、哲学などのなかの、
現実世界の奥にあるこの世の中の根本原理を問う学問、
ということになります。

もうちょっとかみ砕きましょう。
「このボールが転がる速度はどれぐらいか?」
というのを計算したり分析するのが「フィジックス(物理学)」ですね。
「メタフィジックス(形而上学)」とは、
「このボールが存在する」とはいったいどういうことなのか?
ということを問う学問です。
「存在」とは何か?
それは脳内のシナプスによって引き起こされるのか?
宇宙にひとりも人間がいなくなっても、
このボールは「存在する」と言えるのか?
といったことを問うわけです。

「エスノセントリズム」の話しに戻しましょう。
この言葉をギリシャ人が「発明」したことが、
なぜ「凄いこと」なのか?
それは、この言葉が、ギリシャ人が「メタ視点」を、
持っていたことの証左だからだ、
と私は先ほど申しました。

ここで突然ですが、
「頭が良いとは何か?」についての、
私の持論をお話しします。
「頭の良さ」の本質とは何か、
ということです。

これは複数の正しい解答が矛盾なく存在する問いなのですが、
私は「頭が良い」というのは、端的に言うと、
「自己相対化できること」だと思っています。

地頭の良い人というのは、
「自分を相対化出来る人」なのです。
これを言い換えると「メタ視点」を持てる人です。
先ほどのメタフィジックスの話しを思い出してください。
「メタ」の視点を持っている人は、
「自分が今発言している内容の前提は何か?」
について問うことが出来ます。
また、
「今自分がこう考えているということは、
 いったいどういうことなのか?」
を考えることが出来ます。

何かの仕事やプロジェクトに没頭しながら、
「今この仕事をしている自分(たち)は、
 全体のなかでいったいどんな機能を果たしているか」
について思い巡らすことが出来ます。
文章を書きながら、
「今私はどういう前提に基づいて文章を書いているのか?」
という、「文章をついて書く私について考える私の視点」
を持つことが出来るのです。

これと「地頭の良さ」の、
何の関係があるのか?

大ありです。

メタの視点を持っている人は、
「次数を繰り上げて物事を考える」ことが出来ます。

アインシュタインは、
「ある問題は、
 それが作られたのと同じ次数では解決しない。」
と言っています。
次数をひとつ繰り上げたときに、
「問題」は解けるのです。

たとえば、そうですねぇ。

「お金が足りない」という問題があったとしましょう。
「お金が足りない」という問題は、
「お金」という次元では解決しません。

なぜか?

その人がたとえ大金を手にしても、
問題は解決しないからです。
その人は「お金との上手な付き合い方」
を知らないからこそ「お金の欠乏」という、
症状に苦しんでいるのです。
その人が、宝くじに当たったとしても、
問題は解決しません。
お金と上手につきあえないその人は、
当選金の一億円を手にすることで、
浪費家になってしまうかもしれないし、
次の日から「誰かに奪われる」と不安で寝られなくなるかもしれないし、
あるいは、もっと増やそうと投資した結果、
逆に大きな借金を抱えることになってしまうかもしれない。
1億円では飽き足らす、
こんどは10億円が欲しくなり、
「やっぱりお金が足りない」
という欠乏感に悩むかもしれない。

ほら、同じ問題に帰ってきたでしょ。

お金が足りないという問題は、
「お金の多寡」という次数では解決しません。
次数をひとつ、繰り上げる必要があります。
「慢性的な欠乏感」という心理的問題があるかもしれない。
セルフイメージの低さが問題かもしれない。
お金との上手な付き合い方を、
人生のなかで学べなかったことが原因かもしれない。

そんなふうに、「次数を繰り上げて」解決する必要があります。
そうすると、「もはやお金というのは副次的な問題に過ぎない」
ことがわかります。
そのときに初めて、最初の問題が解決されたのです。

メタ視点を持てる人は強いです。
しなやかに人生を前に進めていくことが出来ますから、
「スタック(停滞)」することがありません。
「一時的なスタック」に陥ることはあっても、
それは「飛躍への布石」に過ぎないのですから。

、、、ここで宣伝を。

11月23日(金)〜24日(土)に、
札幌で開催される「よにでしセミナー」は、
「メタ視点を獲得する」ことを目的とした、
(たぶん)日本で唯一のキリスト教のセミナーです。
このセミナーに参加すると、
「自らが働くとは何か?」という次元で、
物事を考える視点が身につきます。
それはあなたの問題解決能力、
リーダーシップ、未来構築能力が飛躍するのに、
不可欠なパーツをもたらすことでしょう。

いまのところ、あと5名分ぐらい「枠」があります。
参加をご検討の方は、お早めにお申し込みを!

▼参考リンク:「よにでしセミナー」
http://karashi.net/project/yonideshi/index.html


話しを戻します。
「エスノセントリズム」という言葉を使える国家は強いのです。
なぜなら、「自己相対化」出来るからです。
「夜郎自大」という罠から守られるからです。
昨今の日本の「ニッポンスゴイ!!」式の夜郎自大番組が、
量産される現状を見るとき、
私は我が祖国が心許なくなります。
本当に強いのは、
「ニッポンスゴイ!」を繰り返す、
自画自賛国家ではありません。
「ニッポン、大丈夫か?」
という内在的批判を受け止め成長していける国です。



▼▼▼中国では形式論理学が発達しなかった代わりに、
ある種の弁証法が発達した。その理由は、、▼▼▼

→P40 
〈中国では、論理学に変わるものとしてある種の「弁証法」が発達した。
これはヘーゲルの弁証法とは厳密には異なっていた。
ヘーゲルの弁証法は、定立(テーゼ)の後に
反定立(アンチテーゼ)が続き、
それが統合(ジンテーゼ)によって解決に導かれる。
つまりそれは、最終的には矛盾を解決することを目的とした、
いわば「攻撃的」な弁証法だった。

中国の弁証法はそうではなく、矛盾の概念を用いて、
物事や出来事の間の関係を理解したり、
明らかな反対意見を統合したり、
粗削りでも得るところのある考え方を取り入れたりするものだった。
中国の知の伝統においては「Aである」という信念と
「Aでない」という信念とは、必ずしも両立不可能ではない。
逆に、道(タオ)や陰陽原理の精神に則れば、
Aのなかには、Aでないということ
(または少なくとも近いうちにAでなくなるかもしれないこと)
が含意されて良い。〉



、、、タイのチェンマイで、
私がプレゼンに用いたのはこの部分です。
「太極図」というシンボルがあります。
英語圏ではTaijitsuと呼ばれています。
著者はこの図に、東洋的な思考法が凝縮されている、
と言っています。

▼参考画像:太極図(Taijitsu)
https://stat.ameba.jp/user_images/20130121/06/warainakiok/81/07/j/o0800079812385803095.jpg

ニズベット氏が指摘しているとおり、
西洋の論理学(アリストテレス論理学を基礎とする)と、
中国(東洋)の論理学は趣を異にします。
西洋の弁証法と東洋の弁証法は違うのだ、と。

西洋の弁証法は、「矛盾の解消」を目指します。
「矛盾」を契機に、問題を「保存的に止揚」し、
新しい、より高次な概念把握を目指す。

対して東洋の弁証法は、
「矛盾」を契機にして、
相対する二つの概念を統合する方向に向かいます。
太極図はその「統合」を上手く表現しています。

なぜこのようなことが可能なのか?
アリストテレス論理学の「はじめの一歩」は、
「排中律」と言われる原理です。
「Aは、Aであると同時に、
 非Aではありえない。」というものです。

「リンゴは、リンゴであると同時に、
 ミカンであるということはありえない。」
「陣内俊が東京にいるということと、
 ニューヨークにいるということは、
 同時にはありえない。」
「神がいるということは、
 神がいないということと、
 同時には成立し得ない。」

そういったことですね。
西洋近代科学はこの礎石の上に成り立ちます。
西洋の神学者が何百年もの間、
最も優秀な頭脳をすり減らして、
侃々諤々の議論をした問題の代表は、
「三位一体論」や、
「イエスの神性」です。

現に、「三位一体」をめぐる立場の違いにより、
西方教会(ローマカトリック→プロテスタント)と、
東方教会(ギリシャ→ロシア正教会)は袂を分かちました。

また、「イエスの神性」に関しては、
「ニカイア公会議」により決着を見るまで、
ものすごーい対立があり、
ものすごーい議論が積み上げられました。
神学2000年の歴史の中で最も重要な議論と言われています。
「ホモウーシオス」なのか、
それとも「ホモイウーシオス」なのか、
という有名な論争です。

興味ある人は調べてみていただければ良いのですが、
これはつまり、
「キリストは神と同じもの(同一存在)」なのか、
それとも、
「キリストは神と似たもの」なのか、という論争です。

東洋ならば、
「どっちでも良いんじゃない?」
なのかもしれません笑。

だって、排中律のない世界なのですから。
だから、
キリストは神と似ている。
キリストは神と同じだ。
どっちも正しい。
どっちも一理あるね。
他の側面ももしかしたらあるかもね。
以上、解決です。

ところが、
アリストテレス論理学に基礎付けられた西洋には、
「排中律」があります。
「Aは同時に非Aではあり得ない」

はい。

出ました。

これと、「三位一体」、
これと、「ホモウオーシス」は、
バッティングするのです。

排中律にキリスト論を当てはめますと、
「イエスは、人間であると同時に、
 神ではあり得ない。」
「聖霊は、聖霊であると同時に、
 神ではあり得ない。」
となりますから。

こういう考え方に私たち東洋人は親しみが薄いため、
「西洋人はなんて回りくどい考え方をするのだろう?」
「神学者って、結局はバカじゃなかろうか?」
などと思うかもしれませんが、
それは短絡というものです。

この西洋の排中律に真正面からぶつかり、
それでも論理の力でゴリゴリと物事を前に進めていく、
「西洋的な知的推進力」のようなものがなければ、
私は今このメルマガを書いていません。

だって、彼らのこのような「議論に次ぐ議論」がなければ、
パソコンは生まれていないですから。
インターネットも、「電気」も、
自動車も電話も生まれていません。
資本主義社会も民主主義の概念も生まれていません。
電車もオーディオもロケットも生まれていませんし、
人類はいまだに「太陽が地球の周りを回っている」
と信じていたことでしょう。

西洋の「分析的思考」の威力は、
端的に言って、スゴイのです。

しかし、
東洋の「統合的思考」の威力も、
実はけっこうスゴイんじゃないのか、
ということに、西洋が気づき始めているのが、
21世紀という時代です。
だからこそ、ニズベット氏はこんな本を書いたわけです。

西洋の「分析的思考」。
東洋の「統合的思考」。
これが、この本全体の通奏低音です。

統合的思考とは何か?

それは、排中律がないからこそ出来る、
(西洋人からすると)「思考の離れ業」なのです。

西洋の分析的思考では、
死と生、
強さと弱さ、
光と闇、
海と陸、
昼と夜、
これらはすべて、
「対立概念」になります。

しかし東洋の統合的思考(太極図を思い出してください)では、
これらは対立概念であることをやめて、
お互いに「補完する概念」となります。

曰く、
「死は生に含まれ、
 生は死に含まれる。」
「光は闇の一部であり、
 闇は光の一部である。」
「強さとは弱さの別の側面であり、
 弱さとは強さの裏側である。」
というように。

生は死の一部であり、
死は生の一部である、
という「統合的見解」によって、
何かが解決するわけではありません。
しかしそれによって、
「統合的な別の視点」を獲得することは可能です。

現代は、「近代が行き詰まった時代」と言われています。
これはとりもなおさず、
西洋の「分析的思考」の行き詰まりでもあります。
「ああすればこうなる」という、
機械論的な考え方が行き詰まってきているのです。
世界的にポピュリストやナショナリズムの政治家が台頭し、
「民主主義の行き詰まり」が露呈しています。
上位1%の富裕層が国の富の半分を寡占し、
下位40%は貧困ラインにあえぐ、
「1%対99%の闘争」が可視化され、
人々は「資本主義という制度の限界」を、
意識せざるを得なくなっています。
原発や遺伝子工学が「夢の技術」と喧伝される半面、
それらは必ず負の側面をもって、
予想もしない副作用をもたらすことを、
誰もが知るようになり、
「近代科学技術の限界」にも人々は突き当たっています。

つまり「近代」という枠組みの行き詰まりが、
21世紀的課題なわけです。
「ポストモダンの時代」と今が称されるのは、
そのような意味においてです。
「近代」という脳天気な時代はもう終わったのだと。

それはとりもなおさず、
「分析的思考の限界」でもあります。
そのような時代に、「新たな思考の道具」を、
人類は求めています。
それがもしかしたら、
「東洋的な統合的思考」なのかもしれない、
というのがニズベット氏の問題意識です。

、、、さて、
こう書いてきますと、
そうすると、聖書の教えから離れるのでは?
中国の道教?
そんなの偶像教じゃん、
と思われるクリスチャンの方もいるかもしれないので、
まったくそういう話しではない、
ということを付言しておきます。

そもそも、キリスト教が生まれたパレスチナは、
「東洋」です。
そしてイエスが話したアラム語(ヘブル語の亜種)は、
言語学的にもセム語族といって、
西洋のインド・ヨーロッパ語族とは違います。
地理学的にも言語学的にも民俗学的にも、
キリスト教の「グラウンドゼロ」は東洋にあるのです。
それなのになぜ、
キリスト教が「西洋的な宗教」になったかというと、
キリスト教の「開祖」パウロが鍵になっています。
彼はヘブル人でしたが、
ギリシャ語話者でもありましたので、
当時のローマ帝国の共通語である、
ギリシャ語で聖書(パウロ書簡)を書いたのです。

ここからキリスト教は「西洋に親和性の高い宗教」
になっていくわけです。
ところが、パレスチナは「東洋」ですので、
ヘブル語で語られる内容には、
「東洋的な内容」も多く含まれています。
「弱いときにこそ強い」とか、
「命を捨ててこそ命を得る」とか、
「持っている者は貧しく、貧しい者が富んでいる」とか。
これらは排中律的な発想からは出てきません。
じっさい、イエスの教えの多くは統合的視点から語られています。
しかしギリシャ語でこれを議論し始めると、
分析的な解釈が生まれることになる。

新約聖書の著者の中には、
ヘブル語が第一言語、
ギリシャ語は第二言語、
という人が多くいました。
それらの著者の中に、
「アンチヘレニスト(反ギリシャ主義者)」
という人がいたことが知られています。
彼らはギリシャ語を使いながら、
ヘブル的な統合的思考を表現するために、
敢えてギリシャの人なら使わない、
違和感のある言い回しを多用したのです。

何が言いたいか?

東洋的な視点から聖書を読む、
ということは、
「反(西洋)キリスト教神学的」になるかもしれませんが、
決して「反聖書的な読み方」ではありません。
むしろ、聖書の豊かな意味をくみ取る上で、
東洋の人は西洋の人よりも、
一歩先んじている部分もあるのでは?
というのが私の考えです。


、、、、


、、、


話しすぎて、文字数オーバーです。
この本の引用はまだまだ残っているのですが、
今週はここまで。

再来週、この続きを解説します。
その間にこの本を読んでおいてくだされば、
私の読み方とメルマガ読者とで、
本をどう読むかの突き合わせが出来ます。
「バーチャルな読書会」ですね。
やってみたい人は、是非。

では、今日はここまで。

「後編」へ続く。

『リンカーン うつ病を糧に偉大さを鍛え上げた大統領』ジョシュア・ウルフ・シェンク

2018.04.19 Thursday

+++vol.036 2017年10月31日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 本のカフェ・ラテ

「本のエスプレッソショット」というこのメルマガの、
開始当初からの人気コーナーでは、
一冊の本を約5分で読める量(3,000〜10,000字)で、
圧縮し、「要約」して皆さんにお伝えしてきました。

忙しい読者の皆さんが一冊の本の内容を、
短時間で上っ面をなぞるだけではなく「理解する」ために、
「圧縮抽出」するというイメージです。

この「本のカフェラテ」はセルフパロディで、
本のエスプレッソショットほどは、網羅的ではないけれど、
私が興味をもった本(1冊〜2冊)について、
「先週読んだ本」の140文字(ルール破綻していますが)では、
語りきれないが、その本を「おかず」にいろんなことを語る、
というコーナーです。

「カフェ・ラテ」のルールとして、私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメントしていく、という形を取りたいと思っています。
「体系化」まではいかないにしても、
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。
密度の高い「本のエスプレッソショット」を牛乳で薄めた、
いわば「カフェ・ラテ」のような感じで楽しんでいただければ幸いです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼リンカーン▼▼▼

先週の予告通り、今週は「本のカフェ・ラテ」をやります。
そして先週の予告通り取り上げる本は、
「リンカーン・・・」です。
こちらがその本ですね。

▼参考リンク:リンカーン うつ病を糧に偉大さを鍛え上げた大統領
http://amzn.asia/7UIaoKm

まずは先週の「読んだ本」コーナーの引用から。
先週はこんなことを書きました。

〈とんでもなく面白かったです。
夢中で読みました。

リンカーンが生涯、重い鬱病を患っていたのは今では常識ですが、
リンカーンの死後
1.リンカーンを英雄と祭り上げたかった親族
2.鬱病を「信仰上の汚点」と見なすキリスト教保守派の勢力
このふたつのイデオロギーによって、
リンカーンを語る上で避けられない「鬱病患者」としてのリンカーンは、
「歴史修正主義者」たちによって闇に葬られてきました。
つまり、「完全無欠のヒーロー」として世間は彼を神格化したわけです。
しかし近年、「等身大のリンカーン」を見直そう、
という「英雄史観からの脱却」が起き、リンカーンの鬱病研究が進んでいます。
この本はそのような歴史調査の集大成とも言える大作です。

逆説的ですが、「英雄史観」のリンカーンよりも、
鬱病を抱えながら、その内面における弁証法を、
アメリカ合衆国の「自由と奴隷制の弁証法」に適用する彼の姿を知った読者は、
リンカーンをより偉大な英雄と見なすようになる、
という不思議な読後感を持ちます。

じっさい私はこの本を読んだ後、何分か静かに遠くを見、
思いました。「歴史上で最も尊敬するイエス以外の人物」は、
今までガンジーでしたが、私は今やリンカーンをより尊敬する、と。〉

、、、この本は翻訳が小難しいことが唯一の欠点、
と先週書きましたがもうひとつの欠点は、
「値段が高い」ことです笑。
私は図書館で借りた本のうち「これは!」と思うものを、
20冊に1冊ぐらいは購入して手もとに所蔵します。
この本も手もとに持っておきたいのですが、
なにせ値段が値段なので、今は考え中です。
図書館で読める環境にある幸せな人には是非ご一読をお勧めしますし、
あと、4,000円払っても読む価値のある本であることは間違いありません。

、、、では、私のEvernoteのメモ引用に、
補足説明を加えていく、という形で、
本書を概説していきたいと思います。


▼▼▼この本が書かれた目的:リンカーンの物語は現代のための物語だから

→P22〜23 
〈本書の狙いは、
リンカーンのメランコリーを完膚なきまでに知ることではなく、
それを精一杯知ることであり、
どのような成り行き(ストーリー)になるかを見届けることである。
広義に言って、その成り行きはかなり単刀直入だ。
リンカーンは、若い頃から心理的な苦悩や苦痛をなめ、
自分は気質的に異常な程度まで苦しむ傾向があると思い込んだほどだった。
彼は自力で自分の苦しみを突き止め、自力で救いの手を見いだし、
がまんして適応する術を身に付けた。
ついに彼は、自らの苦悩から意味を鍛え上げた。
すなわち、それによって、苦悩を打ち勝つべき障害ばかりか、
その苦悩を己の良き人生の要因にまで高めたのである。

本書は、現代のためのストーリーである。
うつ病は、毎年世界中で一億人以上の人を苦しめる、
世界でもトップクラスの疾病である。
2000年、世界でおよそ100万人がこれで自殺した。
これは、同年度の戦争による死者数、
殺人による死者数を合せたのにおおよそ匹敵する数値である。

、、、この現実に直面するとき、
歴史上の卓越した人物の罹病は新たな痛切さを帯びてくる。
特に彼の病の特質ばかりではなく、
それが生産的な人生の一部になり得た姿においてこそ、痛切となるのである。

、、、本書は、大きな苦痛を大きなパワーに合体させた男の物語である。
自分の性質に「固有な不運」を嘆く少年時代の手紙から、
自殺や狂気という主題を書いた詩に至るまで、
リンカーンの生涯は自分の苦しみを説明し、
それを高い次元へと高めてさえくれる意味を求める模索が始発点になっていた
。大統領としての彼は、同胞に彼らの祝福と重荷を受け入れ、
彼らの苦悩には意味があることに気付き、
より完璧な合衆国連邦を目指す旅程に同行することを求めたのである。〉


、、、この本のユニークなところは、
著者が「リンカーンの伝記」としてというよりもむしろ、
「うつ病研究の一症例」としてリンカーンの足跡を辿っている、
という視座にあります。

じっさい本書には、本人の手紙や日記、
知人の証言や当時の新聞記事、秘書の日記などといった、
歴史的な一次資料が多く引用されますが、
それと匹敵して多く引用されるのは、
古今東西の精神医学と心理学の世界の著書や学術研究論文です。

つまり、「精神医学的に見るとリンカーンは、、、」
という本であって、
「あの偉大なリンカーンには精神疾患者という側面もあったよ」
という本ではない、ということです。

さらにユニークなのが、歴史家としての著者が、
様々な先入観を排除してリンカーンに「なりきって」、
その足跡を辿るとき浮かび上がるリンカーン像というものが、
「精神疾患を克服した大統領」というよりもむしろ、
「彼の精神疾患と向き合う弁証法的な過程(葛藤)こそが、
 彼を偉大な大統領たらしめた」という、
驚くべき事実だったというところにあります。

つまり、
リンカーンはうつ病患者だったの「にもかかわらず」、
米国史上最も偉大な大統領のひとりになったのではない。
リンカーンはうつ病患者「だったからこそ」、
米国史上最も偉大な大統領のひとりになり得たのだ、
ということです。

だからこそ、リンカーンの物語は、
WHOが「うつ病はがんに次ぐメジャーな疾病である」
と述べるほどにうつ病が切実な問題となっている現代に、
大きな示唆を与えるであろう、と著者は言っているわけです。



▼▼▼ポール・マクヒューとフィリップ・スラヴニーのナラティブアプローチ

→P45 ポール・R・マクヒューとフィリップ・R・スラヴニーは、
彼らの共著『精神医療の展望』において、
病める人物への4つのアプローチを突き止めている。
第1のアプローチは、病気もしくはその人物が抱えているものをつきとめる。
第2のそれは、当人の次元もしくは当人が当人であるもの、
第3のアプローチは行動、当人がすることに焦点を当てる。
これらはどれも、リンカーンの生涯の研究にはある程度の価値がある。
しかし、第4のアプローチ、「ライフ・ストーリー」の展望にまさるものはない。
このアプローチは、患者がやりたいことおよび彼らがなれるものを
全的(ホリスティック)医療の面で理解しようとするものなのだ。

忘れてはならないのは、
診断は主として臨床環境において治療を便益化するためのものだと言うことだ。
時間の一瞬を捉えるスナップショットである。
しかし、ここでやりたいことは、人生全体を丸掴みにすることである。
作家で内科医のオリバー・サックスによれば、こういうことだ。
「人間である患者を舞台の中心に戻す。
苦しんでいる者、罹病している者、病と戦う者としての患者である。
病歴を物語か説話へと深めないといけない。
それによってしか、病気との関連での患者、
患者の人間としての本体、『病気』と『人間』を眼前にすることはできない」。
この病歴と物語(ナラティブ)の区別は、まさにズバリ的を射ている。
病歴は事実との諸問題を排除しようとしているのに対して、
物語は患者の障害の本質的な諸問題を際立たせるべく
事実の方を活かすのである。〉


、、、私は2013年末〜2015年末まで、
燃え尽き症候群と鬱病を患い療養しました。
その間、心療内科に行き薬(SSRI)も飲みました。
漢方薬も飲みましたし、栄養療法もしました。
そして3つのカウンセリングを受けました。

最初のカウンセリングは、
「うつ病を克服すべき問題であり、
 それは何か悪しき原因の結果である」
という前提を持つカウンセリングでした。
カウンセラーの先生には大変お世話になりましたが、
このアプローチはやればやるほど、
自分を追い込んでいく結果になりました。

療養1年が経過した頃、
知り合いの牧師でありカウンセラーの、
「ナラティブ・アプローチ」を学んだ先生から、
「セカンドオピニオン」的にカウンセリングを受け始めました。

それまでのカウンセリングでは、
「この症状の病根は何か?
 それを治癒せねばならない。
 そして病気を克服せねばならない」
という語られざる前提がどんどん自分を追い込んで、
鬱の症状を逆に悪化させる結果になりましたが、
ナラティブ・アプローチを前提とするその先生は一言目に、
こう言いました。

「俊君が今病気になったのも分かったし、
 それが俊君の生い立ちや『トラウマ的体験』と、
 関連しているかもしれないのも分かった。
 、、、ではその『トラウマ的体験』あるいは『困難』が、
 俊君にしてくれた良いことには、
 どんなことがあっただろう?」

結果から言えば、この質問を機に、
私の病気はめきめきと回復していきました。
(それでも仕事復帰まではその後1年間ほどかかりましたが)

病気を「分析的」に捉えようとすれば、
それはネガティブなものであり排除すべきものです。
しかし、病気を「統合的」といいますか、
「全的」あるいは「包括的」に捉えようとするならば、
さらにそこに「時間」という軸を付け加え、
立体的なナラティブの一部と捉えるならば、
それは「人生を描く大切な絵の具」のひとつとなります。

そしてその「ナラティブを語る」ことこそ、
私たちがこの世に生を受けた意味ともつながっています。

私は仕事に復帰してから2年間、
様々な場所や文脈で、自分の闘病体験を語ってきましたが、
その要点をひとことで言うならば、
「ネガティブなるものを全体としての自己に統合する旅」
に関する「一連の物語」になります。

「どうすればうつ病は治るんですか!?」
という質問に答えるには、ですから私ならば、
「その分析的な質問をやめる」ことからが、
治癒のはじまりかもしれません、と言うことになります。

私の治癒(寛解もしくは和解と呼び替えても良い)は、
ですから、「処方箋」としては語れません。
物語という形でしか提示不能なのです。

そしてこの「リンカーン・・・」の書籍もまた、
そのような「分析を拒絶する全的な物語」としての側面があります。



▼▼▼リンカーンは精神病者の定義にも、
健康の定義にも、両方完全に当てはまる。

→P46 
〈われわれは、リンカーンは「精神を病んでいた」と言えるか?
彼が合衆国公衆衛生局医務長官の精神病の定義に合致することは、間違いない。
なにしろ、リンカーンが経験した、
「思考、気塞ぎ、行動の変化」は、
「苦痛もしくは機能不全」と結びつけられるのだから。
とはいえ、リンカーンは、
精神の健康に対する長官の定義にも合致しているのである。
それは以下のようになっている。
「精神機能が首尾よく働き、その結果、生産的な活動となり、
他者との関係を全うでき、変化に適応することができ、逆境に対処できること」。
この基準に照らせば、リンカーンほど健全な人生を送った人物は、
史上、殆どいなかったことになるのである。〉


、、、ここから浮かび上がるのは、
私たち現代人が考える「健康」の定義の限界です。

一言でいえば、
「健康とは病の不在ではない」ということです。
「平和とは戦争の不在ではない」というのとかなり似ています。

だって、そうしたら、
先天的な「疾患」を抱えた人は、
生涯健康にはなれないということになりますが、
じっさいにはそんなことはありません。
先天性疾患を抱えた誰よりも健康な人、
というのは存在します。
「ウソだ!そんな人はいない!!」
と思われる方は見識が狭すぎるか、
もしくはあなたの目が病んでいるかのどちらかです。

では、健康とは何か?

定義は簡単ではありませんが、
確実に言えることがあります。

それは、
「病というのはそれ自体、健康を包摂していて、
 健康というのは、それ自体病を包摂している」
ということです。

形而上学的な話しになりますが、
「死は生を内包し、生は死を内包し」ているのです。
こういうのって分析的知性で把握するのには限界がありますから、
だから「ナラティブ(物語)」になるわけですね。

、、、続いて見ていきましょう。



▼▼▼リンカーンはユーグリッドの「原論」を持ち歩いた。
 あるいは現代におけるゲームの替りとして。

→P172 
〈心理学者、デイヴィッド・B・コーインは、書いている。
「うつ病の場合、回復は病気への抗議から絶望を統御できる、
より効果的な方法の発見への移行である」と。
実のところ、リンカーンは極めて有効な闘病を展開した。
法律事務所では、鉄道会社や困っている旧友も含めた
一連のクライアントを代表して、常によく働いた。
歴史書一般に取り上げたれているような内容でなくても、
日々の接触を通じての散文的な満足は得られたし、
ときには勝訴して正義が遂行されたという興奮にもあずかれた。
リンカーンはさらに、自分の頭脳の領域を拡大するたゆみない努力も怠らなかった。
1850年代前半、巡回裁判ではユーグリッドの『原論』の最初の6巻を持ち歩いた。
これらは、定義から仮定、公理、証明に至る経緯を扱ったもので、
リンカーンの時代、この本は厳正な論理尽き爪の頂点とみられていた。
三角形の合同に関する辺=角度辺による証明、
ピタゴラスの定理とそれらの換意命題、
円の属性などをマスターすれば、
道理が通らない世界では理性の静かな勝利を勝ち得たことになったのである。〉


、、、私の読書的な趣味のひとつは、
「数学者や数学に関する本を読むこと」です。
これらは多くの場合時代小説よりもドラマティックで、
そして推理小説よりスリリングです。

、、、で、ある一定数の数学の本を読んでから、気付いたことがあります。
それは、歴史に名を残した数学者には、
精神疾患患者がきわめて多いということです。

いや、本当に。

生涯うつ病を患った数学者もいますし、
病気の故に若くして自殺してしまった天才もいます。
それによって人類の数学の進歩は数十年遅れたりします。

いや、本当に。

ここから、
1.数学が人をうつ病にする。
2.うつ的な気質と数学的才能には何か関連がある。
という二つの仮説がなりたちます。

私は個人的に両方とも可能性がある、と睨んでいます。
「数学の世界で結果を出す」というのは生易しいことではありません。
マラソンランナーに自殺者が多いのは、
あの競技が自分を過酷に追い込むことと関係がありますが、
数学者の自殺も似たようなところがあると思います。

また、うつ的な気質と数学的才能には、
何か関係があるというのも、
ちょっとあり得る話しだと思います。

スコットランドを天文学者、科学者、数学者の3人が旅行した、
という、数学者の気質を現す有名な話しがあります。

列車の車窓から一匹の黒い羊が見えました。
天文学者は言いました。「スコットランドの羊は黒いんだ。」
科学者は言いました。
「いや、違う。分かったのは、
スコットランドの羊の中には黒いものがいる、ということだけだ。」
数学者はこう言いました。
「そうではない。スコットランドには少なくともひとつの草原があり、
その草原には少なくとも一匹の羊が含まれ、
そしてその羊の少なくとも一方の面は黒い、ということだけさ。」

、、、とにかくめちゃくちゃ厳密なのです。
本書にも何度か紹介されていますが、
うつ的気質を持つ人というのは、
物事を「自分びいき」に見ず、
あくまで冷徹に見ようとする傾向があり、
それは心理学の実験で実証されています。

そして、その気質こそが、
リンカーンをして「奴隷制撤廃」という、
非常にセンシティブな事業を成し遂げる上で、
有利に働いた、というのが著者の見立てです。

リンカーンが「原論」を持ち歩き読んだ、
というのは「精神安定剤」的な役割もあったでしょうし、
彼の気質を物語るエピソードでもあると思います。



▼▼▼メランコリーの暗い土壌が実を結ぶ

→P198 
〈リンカーンの40代半ば、
彼のメランコリーの暗い土壌が実を結び始めた。
リンカーンが奴隷制の拡大に反対する戦いに身を投じたとき、
それまでは彼に悩みをもたらしてきた同じ要素が、
彼の偉大な仕事においてもまた一役果たしたのである。
どうすれば自分の人生を意味あるものにできるか、
をめぐって彼につきまとっていた諸問題が、
公的な領域に適用されると、
それまでになかった意味と活力を帯び始めたのだ。
それまで彼が耐えてきた苦しみが、
厳しい時期に直面して彼に明晰さ、規律、
そして信念を与えてくれたのである
―――おそらく厳しい時期だからこそ、その度合いが強まったのだろう。
それは、いわゆる病気からの回復ではなかったし、
ましてや治療ではなかった。
リンカーンの物語は、
うつ病を排除されるべき兆候の集合と見なす者たちを混乱させる。
しかし、受苦(じゅく)を感情面での成長の隠れた触媒とみなす者には、
リンカーンの物語は納得が得られるのだ。〉


、、、解説不要ですね。
彼の生涯にわたる「内的なメランコリーとの葛藤と弁証法」が、
アメリカが抱える内的矛盾の「克服」または「止揚」につながったのです。
リンカーンは内面において激戦を闘っていたからこそ、
外的世界の「激戦」を耐えぬく勇気を得たわけです。



▼▼▼自らの物語を国の物語に、
自らを統治するために苦闘した倫理を国の倫理に共鳴させる。

→P199 
〈リンカーンは、単なる政策の開陳ではなく、
聴衆の前に、物語(ナラティヴ)を広げて見せた。
それは、この国がどこから来て、今、どこに立ち、
どこへ向かうかの物語の開陳である。
しかも、この物語こそ、彼自身の人生の物語と共鳴したのだった。
彼が自国に提示した倫理は、
理想の完璧な実現はあり得ないと承知の上で
その実現への努力を継続することだった。
ところが、その倫理こそ、
彼が自身を統治する上で使ってきた倫理と同じだったのである。〉


、、、これも先ほどの同じです。
リンカーンは自らの内部に潜む矛盾と葛藤のなかで、
完璧はないと承知のうえでそれでも「理想と意味」を求めました。
彼が完璧はないと承知で「米国の理想」を語り、
国内の矛盾と葛藤を乗り越えようとした政治的な歩みは、
内的な旅路と外的な旅路の共鳴です。


▼▼▼受容の物語ではなく、統合の物語

→P244 
〈本書は、主人公の受容の物語ではない。
彼の統合の物語なのだ。
リンカーンが偉大な仕事を成し遂げたのは、
彼が自分のメランコリーの問題を解決したからではない。
彼のメランコリーこそ、
彼の偉大な仕事の炎をさらに燃やす材料だったのである。〉


、、、受容と統合は似ていますが違います。
これを読むときに私はキリスト教の開祖、パウロを思い出します。
パウロには肉体的にメジャーな疾患を抱えていましたし、
彼には「自分は迫害者で殺人者である」という自責感情と、
生涯闘ったと思われます。

その内的葛藤が生んだのが、
私たちが新約聖書として知る書物の大部分です。
「ポジティブ信仰」が強い人には理解不能でしょうが、
メランコリーは炎を消す消化剤ではなく、
炎を付ける材料です。



▼▼▼精神の健康は二面性に秘密があり、
それはリンカーンが体現していたものだった。

→P247 
〈よき人生を生きるには、
一群のコントラストを永続的な総体に統合できないといけない。
精神分析学者のレストン・ヘイヴンズが
『人間たることを学ぶ』で説明しているように、
精神の健康は自由と服従、
過激な独立とたゆみない忠誠心の両方に依存している。
「私のお手本はリンカーンだ」と、ヘイヴンズは書いている。
「花崗岩のように堅く、雲のように柔らかい。
私もまた、必要なだけ強く、同時に弱くあれる術を学びたいものだ」と。
本書は、心理学を頼りにリンカーン研究を始めた。
今や心理学のほうがリンカーンを頼りにしているのだ。
すなわち、彼の人生こそ、受苦(じゅく)に直面しながらも
上首尾の人生を生きる方法について、
単なる処方箋では教えられない何かを
教えてくれることが見て取れるのである。〉


、、、音楽で、「倍音」と言われる概念があります。
1人の人の声なのに、周波数のピークが複数ある。
こういった声は呪術生があり、人々を惹きつけるのだそうです。
古代の巫女や呪術師も倍音を持っていただろうと推測する人もいますし、
宇多田ヒカルや美空ひばりは倍音の使い手だという説もあります。

おそらく人格にも同じようなところがあり、
真に魅力的な人間というのは、
逞しさと傷つきやすさの両面、
繊細さと大胆さの両面、
内向性と外向性の両面、
優しさと厳しさの両面を備えた人間です。
心理学の研究者が「精神の健康とは二面性だ」
と言っており、それは時代がリンカーンに追いついてきた、
ということを示唆しているのだ、ということを、
著者はここで言っています。



▼▼リンカーンの謙虚さと決意の源は、
超越者との関係から来ていた

→P296 
〈彼の物語が永続する大きな理由は、彼があれだけ深く苦しみながら、
常に謙虚さと決意を増殖させて蘇ってきたからだ。
謙虚さの母体は、彼があれだけ深く苦しみながら、
常に謙虚さと決意を増殖させて蘇ってきたからだ。
謙虚さの母体は、
その生涯の荒海で彼を運んだ船がどういう船だったにせよ、
彼はその船長ではなく、
彼は単に人の力を超えた力に従っていたという彼の認識に由来していた
ーーそれが運命、神、あるいはこの世の「全能の建築者」だろうと。
この決意の出所は、どれほど謙虚な乗り手だったにせよ、
リンカーンは呑気な乗客ではなく、
やるべき任務を持った甲板員だという意識に由来していた。
自力を超えた権威への敬意と自身の乏しい力を強い意志で行使することが
ふしぎな形で混ざり合った状態で、
リンカーンは、苦痛の生涯の美味な果実、
すなわち先見的な智慧を達成できたのである。〉


、、、謙虚さというのは、
超越者をもたなければ達成されません。
リンカーンが真に謙虚であれたのは、
自分は人生という船の船長ではなく乗組員だ、
ということをよく知っていたからです。

キリスト教信仰の真髄というのは、
「主権者の意志を受け入れる運命論」と、
「それでありながら自らの運命は、
 自らの意志や選択で変えられるという主体性」の、
交差するところにあると私は個人的に考えています。

まさに「十字架」ですね。

神の主権によって十字架にかかったイエスは、
それを100パーセント受動的に神の御心として受け入れ、
なおかつ100パーセント主体的に行動しました。

本書にも出てきますが実はリンカーンは、
「私たちが考えるような信仰者」ではなかった、
という説が有力です。
つまりどこかの教会の教会員になり、
クリスチャンとして聖書を無謬の書と信じ、
いわゆる「敬虔な」生活を営む、
アメリカの保守的な信仰者のイメージとは違います。

むしろ彼の考え方はいわば「リベラル」で、
「理神論」にちかい考え方を持っていたことが分かっています。
「フリーメイソン」の会員でもありましたし。
しかしその「考え続ける」というスタイルや、
人生は神のものであり、神は計画をもって私をつくった、
という揺るぎない確信は、
表層的なコンサバティブ信仰を超越したところにある、
もっと深い本当の意味のハードボイルドな信仰者だったと、
私には思えます。



▼▼▼ばらばらになった魂を集める旅

→P299 
〈また、1863年の夏、メアリー・リンカーンの衣装担当、
エリザベス・ケクリーは、自分が大統領夫人に着付けを行っていた部屋へ、
大統領が重い足取りで入ってくる様子を見守っていた。
「足取りはのろく重くて、顔には哀しみが浮かんでいました」と、
ケクリーは回顧する。
「疲れ切った子どものようにソファに身を投げ出すと、
両手を目にかざして照明を遮りました。
完全に打ちのめされた姿だったのです。」と。
彼は、陸軍省から戻ってきたばかりで、
そこで聞かされた知らせは、
彼によれば「暗い、どこもかしこも暗い話しばかり」だった。
大統領は、ソファ近くのスタンドから小さな聖書を取り上げて読み始めた。
「15分も経った頃」と、ケクリーは述懐する。
「チラとソファを見ると、大統領の顔がさっきより明るくなっていました。
打ちのめされた表情が消えて、
新たな決意と希望が顔に光を与えていたのです。」と。
彼が聖書のどのくだりを読んだのかを見ようと、
ケクリーはものを落としたふりをして、
座っているリンカーンの背後へ回り込み、
彼の肩先から聖書を一瞥した。「ヨブ記」だったのである。

歴史を通して、苦しむ人々にとって
最初にして最後の推進力は神意への一瞥だった。
「人間は生まれたときはばらばらだ」と、
戯曲家ユージーン・オニールは書いている。
「人は生涯をかけて自分の断片をつなぎ合わせる。
その膠(にわか)は、神の恩寵だ!」と。〉


、、、「人間は生まれたときはばらばらだ。」
生涯をかけて自分の断片をつなぎ合せる。」
というオニールの一節は示唆に富みます。

「鋼の錬金術師」という漫画があります。
読んだことはないのですが(ないんかい!)。
、、、でも、あの漫画のあらすじは、
なくなった自分の身体のパーツを集める、
というものであることだけは知っています。

また、フランク・ボームの「オズの魔法使い」には、
脳みそを失ったかかし、勇気を失ったライオン、
心を失ったブリキの木こりが出てきます。
そして彼らは「失った自分の一部」を捜す旅をします。

これらの物語が現代の神話として機能するのは、
それが人間の真実の一側面を語っているからです。
沖縄には「人間には魂が7つある」という伝承がありますが、
それもまた、単なる「でまかせ」ではなく、
「人間は多面的であり、生きるというのは統合への旅なのだ」
ということを、沖縄の人々が長い年月の中で経験的に把握していて、
それを表現したひとつのかたちです。

私はうつ病になり、回復したとき、
竜巻のあとのように、
「荒野にばらばらになった自分の魂のかけら」
が散らばっているように感じました。

おそらくそれは病気という「嵐」によって、
それまでの内的統合が一度解体され、
それを「再統合する旅」が始まったという、
ひとつの象徴的な心象風景だったように感じています。
私はだから今、「第二の人生」を生きているのです。
これは比喩ではなく、本当にそうです。



▼▼▼リンカーンは例外的な「不確かさを明晰さの源泉とする」人だった

→P307 
〈リンカーンの明晰さは、一部、彼の不確かさに起因している。
これがいかに異例であるかは、
いくら高く評価してもしすぎることはできまい。
宗教史学者のマーク・ノールは、自著『アメリカの神』で、
たいていの宗教思想家は神の恩寵を想定するばかりか、
自分らは神のご意志が読めると想定した。
言うまでもなく、どちらの想定も、
自己贔屓をいかにも気高そうに表明したものに過ぎなかった。

、、、リンカーンは、
南北双方が勝手に神意はわが方にありとする矛盾を切開した。
「その主張では双方が間違っているかもしれないし、
必ずや一方が間違っている」。
神意を知っている者は1人もいない
――リンカーンも、ジュリア・ウォード・ハウ(北軍の軍歌を作った人)も、
あの敬虔な南軍のトーマス・「ストーンワル」・ジャクソンも。

、、、一度、ある牧師が「願わくば主がわが方に立たれんことを」と言うと、
リンカーンは異議を唱え、もろにこう切り返したのである。
「願わくば、われわれのほうから主の側に立たんことを」と。

「なぜなのか?」と、マーク・ノールは問いかける。
「特定の宗派や教会に属したこともなく、
わずかな神学的文献しか読んでこなかったこの人物が、
『各州間の戦争』(南北戦争)に対して
かくも深々とした神学的解釈を表明できたのは、なぜなのか?」と。

リンカーンをメランコリーを通して眺めることによって、
われわれは一つの納得のいく説明を引き出すことができる。
すなわち彼は既知のことと、依然、疑念の中にあること、
これら二つを値踏みしつつ、
常にある状況の完全な真実に目を向ける傾向があったからだ。

過酷な時期、リンカーンはその緊張状態に踏み止まる刻苦忍耐と活力を保持していた
(まさにジョン・キーツが1817年、「ネガティブ・ケイパビリティ」と呼んだ能力)。
このことを念頭に、われわれは1863年の夏、
すなわちリンカーンが「ヨブ記」に慰めを見いだしたあの時期に再び戻る。
示唆的なのは、お先真っ暗な時期に彼が「ヨブ記」にすがったことだ。
なぜなら、聖書のこのくだりは個人の信仰の価値を、
ヨブを感情の懊悩の限界に突き落としても、問いかけるものだからである。〉


、、、この箇所を読んだ時私は「我が意を得たり」と思いました。
本当にそうです。
「これは神の御心です」と誰が言えるのでしょう?

政治的な意見にせよ宗教的な主張にせよ、
教育論にせよ人生哲学にせよ、
「自分が100パーセント正しい」という主張というのは、
「神はいない」という主張とほぼ同義です。

私たちは神ではないのですから、
「私は今これが神様の御心だと思う」
というのが「限界」なはずです。

だって、間違っているかもしれないんだもの。

「確信が与えられるまで待ちなさい。」だとか、
「神の御心だと確信したら進みなさい」といったアドヴァイスを、
私はこの20年間、本気にしたことがありません。
「コイツ何言ってるんだろうな?」
と思いながら聞き流してきました(不真面目)。

だって、「確信」なんて、
昨日食べたマズい料理のせいで吹き飛ぶかもしれないし、
睡眠不足のひとつの作用かもしれないじゃないですか。
所詮は私は人間なのです。

私の100パーセントは、
「あらゆる勉強をし、
 得られるだけの知識を得、
 相談できるだけの人と相談し、
 祈れるだけ祈り、
 考えるだけ考え抜いた。
 できうる全ての準備をした。
 その結果、今のところ、
 間違っているかもしれないが、
 これが神の御心だと私には思われる。」
というところまでです。

その先の一歩を「信仰による跳躍」と言います。
9年前に公務員を辞めて宣教の働きに飛び込んだときもそうでした。

一歩目から跳躍を試みる人は、
本当には跳べません。



▼▼▼1841年1月23日にリンカーンが書いた手紙
→P328 
〈1841年1月23日にリンカーンが書いた手紙は、
いやその結びの90語は、明らかに第一ステージ(恐れ)を示している。
簡潔にして直裁、そして強力にうつ病の核心を突くこのくだりは、
ゲティスバーグ演説がアメリカ的実験の核心を突くできばえに匹敵する。
「今生きている人間の中で、私ほど惨めな人間はいない。
私が感じたことが全ての人間の家族に配られれば、
地上に幸せな顔は一つもなくなるだろう。
今私に見えているところでは、私は死ぬに違いない。
さもなければ今よりましにならないといけない。
ましにはなれそうもない恐ろしい予感がある。
きみが私のために話してくれる事柄は、
きみがいいと思うように対処してくれたまえ。
このありさまでは、業務をさばけまいからね。
私が正気に戻れば、この事務所にローガン判事と残りたい。
もうこれ以上書けない。」〉


、、、この手紙を書いたときのリンカーンの心境を思うと、
言葉を失います。
なんという正直な言葉でしょうか。
著者も書いているように、ゲティスバーグ演説に匹敵する、
歴史的な言葉の遺産だと私には思われます。



▼▼▼リンカーン仮装大会▼▼▼

、、、ここまでが、私のEvernoteのメモなのですが、
最後に非常に印象に残った「あとがき」のくだりを紹介します。
後日談として著者は、少しでもリンカーンのことを知りたいと思い、
毎年一回開催されている、「リンカーン仮装大会」に
参加したときのエピソードを紹介しています。

これは全米からリンカーンのコスプレをするために、
リンカーンファンが集まるという、
かなり面白そうなコスプレ大会です。
画像が見つかりましたので紹介します。

▼参考リンク:「全米リンカーン仮装大会」(ウケる)
https://goo.gl/tBqrxW

、、、どうやって「優勝者」を決めるのか興味がありますが。
いずれにせよ著者はこれに参加するのです。
で、取材のためだから私服で参加したところ、
「浮きまくった」そうです笑。

そりゃそうだろ、と。
リンカーンコスプレ大会で1人だけカジュアル服を着るというのは、
普段の町並みで1人だけリンカーンの格好をしているのと、
まったく同じだけ違和感があるわけですから笑。

、、、で、著者は参加者に呼び止められ、
「おい、俺の予備のリンカーンがあるから、
 それを着ろよ!」と勧められる。
(予備のリンカーンって何だよ、という話しですが笑)

言われるままに「取材なんだけどなぁ、、」と思いながら、
黒のタキシードと山高帽子を身に付け、
付けひげをつけて、ステッキを片手にもって、
著者は参加者たちにインタヴューします。
「ここに取材に来たのは失敗だったかもしれないな」
と思いながら、、、。

しかし著者はそこで、毎年参加している、
グリーンというおじいさんに出会います。
「ちょっと森の中をあるかないか?」
と誘われ2人のリンカーンは森に消えました。
(著者とグリーンさんね)

リンカーンはリンカーンに聞きました。
、、、もとい、著者はグリーンさんに聞きました。
「リンカーンの格好をすると何かいいことがあるのですか?」

76歳のグリーンさんはおもむろに、
自分がかつて若い頃、商売に失敗し、
ハイウェイ脇にあったモーテルで首を吊って死のうとしたが、
そこで踏み止まったときの経験を語り始めました。

2人の間に重く、そして神聖な空気が流れました。

そしてグリーンさんは言ったのです。
「リンカーンの衣装になると、
私はその経験を味わい、なお耐えられた。」と。

この本を総括する、良い話しです。
うつ病と「付き合い」、それを自らの偉大さにまで鍛え上げた、
リンカーンという人物の「服装をまとう」ことで、
多くの人々がこの困難な時代を生き抜き、
なお輝く価値を見いだし創りだしていくことを願いますし、
私もそのひとりでありたいと思っています。



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『他人』の壁 養老孟司×名越康文

2018.04.05 Thursday

+++vol.034 2017年10月17日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 新コーナー 「本のカフェラテ」

新コーナー「本のカフェラテ」です。
「本のエスプレッソショット」というこのメルマガの、
開始当初からの人気コーナーでは、
一冊の本を約5分で読める量(3,000〜10,000字)で、
圧縮し、「要約」して皆さんにお伝えしてきました。

忙しい読者の皆さんが一冊の本の内容を、
短時間で上っ面をなぞるだけではなく「理解する」ために、
「圧縮抽出」するというイメージです。

この「本のカフェラテ」はセルフパロディで、
本のエスプレッソショットほどは網羅的ではないけれど、
私が興味をもった本(1冊〜2冊)について、
「先週読んだ本」の140文字(ルール破綻していますが)では、
語りきれないが、その本を「おかず」にいろんなことを語る、
というコーナーです。

「カフェ・ラテ」のルールとして、私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメント
していく、という形を取りたいと思っています。
「体系化」まではいかないにしても、
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。

密度の高い「本のエスプレッソショット」を牛乳で薄めた、
いわば「カフェ・ラテ」のような感じで楽しんでいただければ幸いです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼養老孟司×名越康文▼▼▼

私は24歳のとき(たしか)、
養老孟司の「バカの壁」出会ってから、
彼が書いたものは過去のものもさかのぼって、
殆どすべて読んできました。

彼は私が「私淑(一方的に師と仰ぐこと)」している、
いわば私の「思想の師匠」なのです。
亀仙人のもとで修行した孫悟空とクリリンの武闘着の背中には、
「亀」と書かれていたように、
鶴仙人のもとで修行した天津飯やチャオズの背中には、
「鶴」と書かれていたように、
ピッコロに鍛えられた孫悟飯の背中に「魔」と書かれていたように、
私の背中には「養」と書かれています。

「老」はちょっと、あれなので。
養老先生の「孟司」という名前は、
中国の思想家「孟子」から取られていますが、
苗字にも「老子」の「老」が入っている。
中国古代思想家が二人も名前に隠れています。
すげー「思想的」な名前だな、といつも思います。
(ちなみに私の名前「俊」も、
 中国の伝説上の王「舜と堯」から取られています。
 私の弟は「了」です。
 両方常用漢字でないので、
 父親が「舜と堯」を「俊と了」にしたわけです。
 、、、余談でした。)

話を戻しますと養老先生の言っていることはいつも「同じ」で、
その「同じ」ことを言葉を換えてこの30年ぐらい言い続けている。
彼の本が400万部も売れるというのは、
その「同じこと」が世間にとっては「当たり前」ではなく、
「新鮮」であり、そして「盲点」でもあることの証左です。

彼の思想をひとことで表すなら、
「都市化し脳化した社会に、
 身体性を取り戻す」ということです。
彼の結論はいつも「体を使って働け」です。
彼は「皮肉に満ちていてねちねちと語る」だけなのに、
読み終わった後、不思議と元気が出てくるのは、
きっと自分の「脳化し歪んだ思考」が、
養老先生の「骨盤矯正」によって修正されたからでしょう。

私の書くもの、話すこと、働きの内容の端々には、
実は「養老印」のアイディアが沢山含まれています。
あんまり一目で分かるものはないですが、
それでもやはり、私の思想を語る上で
養老さんの影響は無視できないのです。

そんなわけですから、
今年の夏に東京駅で待ち合わせをしているときに、
久しぶりに「リアル書店」に立ち寄ったとき、
「養老孟司」という名前を見つけて反射的に買いました。

この本は精神科医で仏教の研究者でもある、
名越康文さんと養老さんの対談本です。

「カフェ・ラテ」のルールとして、
私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメントしていく、
という形を取りたいと思っています。
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。

、、、では始めます。


▼▼▼人生は作品だ、という概念と、修行の概念
→P101
〈養老:まさに今、名越さんが言った修行ですよね。
修行という言葉が世の中から急速に消えていっています。
良く学生が僕に言うんですよ。
自分は才能もないし、努力も続かないと。
言っちゃ悪いけど、
あんまり出来が良くない学生がぶつぶつ愚痴をこぼすわけです。
そういうときに僕は言うんだけど、
君の人生という絵は君にしか描けないんだよと。
たとえキャンバスがボロボロの安物で、
絵の具もそんな高価なものではないかもしれないとしても、
それで完成した絵は君だけの絵であって、
それが人生という作品なんだと。
そういう発想が昔は今よりもあったと思うんですよ。

名越:なるほど。それがつまり修行だと。〉


、、、養老孟司は2011年の東日本大震災以降、
私の知る限りまる3年間書き下ろしを出版していません。
彼をもってしても、あの震災を「言語化」するのには、
相当な時間がかかったのだということが分かります。

私はちなみに、発災後から病気を発症した2013年の冬まで、
断続的に福島に通って支援活動に関わりましたが、
いまだに「言語化」できていません。
まだ「きれいに論理化できない空白」として、
震災と原発事故と福島での出来事は、
私の中に「ゆらぎ」をもたらしています。
この違和感というか「答えの出ない感じ」を、
内側に抱え込んで、あと10年ぐらいは引き受けていこう、
という腹が決まったのは、結構最近のことです。

、、、で、養老さんが2014年に、
震災後はじめて「公式に語った」のが、
「自分の壁」という新書でした。

私は当時病気療養中でしたが、
たまたま見つけたこの本を買って読みました。
私のバーンアウトはいろんな要素の絡み合いのなかで起きたので、
それが単独の原因ではないにしても、
「3.11を語る」という作業の途中で脳がクラッシュした、
みたいな側面が少なからずあったと今は思っています。
福島に通いながら「いったい今自分が何をしているのか」
分からないという苦しみがいちばん大きかった。
「ルールが分からないゲームに放り込まれた理不尽感」
みたいなもののなかで、ひたすら「戸惑っていた」というのが、
私の震災支援の実感です。
そして先ほども申しましたように、
その不条理感も戸惑いも、私の中に「保存されたまま」です。
あの経験以降、私は「断定的に、きれいに物事を語る」
ということができなくなりました。
言葉の輪郭がクリアではなくなった、という感じ。
最初私は自分の頭が悪くなったんだろうと感じていましたが、
多分そういうことではなく、
「あらゆる事柄に関する判断を留保する」
ということが習慣になったのだと思っています。
なぜなら現実は複雑で、重層的で、そして多くの場合、
言葉で十全に説明することは不可能だから。
その複雑な現実を複雑なまま受け止め、
それでもなお何かを語ろうとすると、
どうしても「断定を避ける」ようになり、
表現は抑制的になる。

当初はそれを不自由に感じ、
論理が鈍くなったように感じていましたが、
今はそれを自分の「長所」と思うようになりました。
これは震災が私に(そして多分読者の多くにも)もたらした、
数多くのもののうち、大きなひとつです。

、、、話しを戻しますと養老さんの2014年の本を読み、
私は何か「胸のつかえがいくぶん取れた」ような気持ちがしました。
私の力量では言葉にできなかったものを、
日本でもっとも頭良い人のひとりである養老さんが、
代わりに介助してくれた、という感じ。
このときから養老さんが言い始めたのが、
「人生は作品である」ということです。

▼「自分の壁」養老孟司
http://amzn.asia/9PpKd81

養老さんは福島第一原発事故のあと、
「今私たちの目の前にあるのは問題ではなく『答え』だ」
と言っていました。
つまり「これをなんとかする」という復興庁的な視点も必要だが、
「この現実」こそが、今までの戦後70年生きてきた積み重ねの、
「答え」なんだ、ということですね。

「問題」と捉えるというのは原発事故を、
数式の左辺に置くことです。
そして右辺の「復興」を考える。

しかし養老さんは「そうじゃない」と言う。
原発事故は数式の右辺なんだと。
では左辺は何か?
それは「今までの日本の歩み」だということです。
そう考えると、「私たちはどこで道を間違えたんだろう」
という本当の意味の反省ができる。

そういった「反省」のひとつが養老さんにとっては、
「戦後日本社会は、人生を作品と考えることをしなくなった」
ということだったわけです。

私は今の仕事に転職してから2万回ぐらい、
「なぜ安定した公務員という仕事を辞めて、
 不安定な今みたいな仕事をしているのですか?」
と聞かれました。
人生を効率の観点で捉えるなら、
それは非合理だし、説明不能です。

しかし人生を作品の観点で捉えるならば、
私は自分のした選択を後悔していません。
「人生という絵画」を描く上で、
私が今の仕事をし、病気になり、そして病気が寛解し、
そして頼りないながらもよちよちと、
また歩み始めているということは、
まったく必然であるように私には思われます。
ミスチルの歌詞を借りるなら、
「最初からそうなることが決まってたみたいに」、
私には思われるのです。

そして私の言葉を使うなら、
「最初からそうすることに決めていた」のは、
私の創造者である神だ、ということになります。



▼▼▼あらゆる政治的現象を「結果」として捉えるセンス
→P152 
〈養老:BS日テレの『深層NEWS』というのに出演していたんだけど、
トランプの誕生を「しょうがない」というような論調でコメントしたら、
共演した記者さんから、番組終わってから
「先生は新保守主義者なんですか」と言われましたよ。
トランプを受け入れるのか、認めるのかと言うことなんでしょうかね。
新保守主義っていうのは、ある意味でナショナリズムですよね。
右か左かで言えば、まあ右ですよ。

名越:学者なのにグローバリズムを肯定していないという。

養老:肯定とか否定とかじゃなくて、結果だからね。
結果を作った原因が何かと言うこと。

名越:なぜメディアや多くの人がこれを「結果」という視点で
捉えられないのかというのは、本当に強く感じます。
そこへ踏み込んでいる評論家は少ないですよね。
結果と捉えれば、もっと本質的なプロセス、
つまり、なぜこういう結果になったかという自分たちの根源にある欺瞞とか、
過ちに気付くはずなんですよ。
つまり、本質的なことにね。
なのに、「トランプ現象が起きた、大変だ、じゃあどう対応したら良いんだ」
という方向に行きがちですよね。
良くも悪くも、今までの自分たちのやり方が
これを招いたという考え方に至らない。
だから本質に気付くことができない。
これまでの日常がトランプを生んだんだという、
そこの部分へ行けないんです。
「いよいよ政治の末路だ」って、いやいや、
政治の末路なんて歴史上で今までも何度もあったじゃないかと。
唐や漢や、周が倒れる時も、末路みたいなことはあったんだって言う。〉


、、、これも先ほどの話しと同じですね。
「トランプ政権の誕生」を数式の左辺とみるなら、
「それにどう対応するのか?」という話しに終始する。
「支持するのか」「支持しないのか」とか、
「トランプ政権になって日本はどう影響を受ける?」
みたいな話しを延々とし続けることになる。

しかしトランプの当選が「右辺」だとすると、
「左辺」は何なんだろう?ということになる。
左辺が変わっていなければ、
トランプが仮に選挙に負けたとしても、
新たなトランプが出てくるでしょう。
「病因」が取り除かれていないわけですから。

これは日本の選挙にも言えます。
「ポピュリズムをどうすのか?」というのは問題設定として浅い。
「なぜ日本社会はこうなってしまったのか?」
という問題設定が大切です。
つまり、現在のポピュリズムは「答え」なのだと。
それは何の「答え」なのか?

私たち大衆が、「わかりやすい答え」を求めすぎたことかもしれない。
私たちが自己利益以外、関心がなさすぎたのかもしれない。
私たちが他者に不寛容すぎたのかもしれない。
私たちが合理性を求めすぎたのかもしれない。
私たちが複雑な問題を単純化しすぎてきたのかもしれない。
私たちがメディアや政治を「監視」するのを怠った、
数十年にわたる無関心の結果が、
今のポピュリズムなのかもしれない、、、という風に、
考えを進めることができるのです。

私は養老師匠にこの「考え方」を学びました。

これは夫婦問題にも会社の問題にも教会の問題にも適用可能です。
今あるこの会社の状況というのは、
「解決すべき問題」ではなく
「過去10年間私たちがしてきたこと(してこなかったこと)の答え」
かもしれないと考えるわけです。
「グレてしまった子どもという問題をいったいどうやって解決するか?」
と考えるのではなく、
「子どもがグレたというのは、私たち夫婦の10数年間の歩みの、
 『答え』なのだ。」と考える。
そうすると、「あぁ、ああいうところが間違っていた」と気付く。
そのときには大抵、子どもの非行問題の8割は解決しています。
子どもの非行というのは9割以上、
無神経な親への「メッセージ」ですから。

この思考法に「養老法」という名前を付けたいぐらいです。



▼▼▼日本経済の「大局観」
→P158
〈養老:日本はまだ内需が相当強いでしょう。
韓国と比べると多国籍企業の割合も圧倒的に少ない。
韓国は、財閥はもちろんだけど、
銀行ですら株主の半分は外国人ですからね。
それに、韓国は輸出依存度が50パーセントもあるでしょう。
日本は16パーセントかな。

名越:韓国は内需がどうしても弱いから、
かなりの部分貿易に依存していますからね。
そういう意味では、日本は輸出入が減ってもしばらくはやっていける。

養老:極論すれば石油だけ。必要なのは。
だから、必要な石油代の分だけ輸出して稼げれば、
国としては生きていける。
食料が四割も輸入じゃないかって声もあるけど、
実は休耕田も多くて、もっと生産できる基盤はある。
言い方を変えると、できるのにサボって、
外から食べ物を買っているという構図ですよね。
だから、今すぐというわけじゃないけど、
潜在的にはやっていける地盤がある。〉


、、、これは説明不要かと思います。
日本が太平洋戦争に突き進んだ本当の理由は、
陸軍の暴走とか近衛内閣のポピュリズムとか、
当時のマスコミが熱狂したとかいろいろ言われていますが、
「モノから観る歴史」の解釈では理由はひとつです。
「石油がなくなった」からです。
ABCD包囲網によって石油の禁輸措置が取られたことが、
直接の開戦の原因です。

これに尽きます。
なんと当時の日本は「敵国」の米国から8割の石油を輸入していました。
「開戦した時点で敗戦は運命づけられていた」という所以です。
歴史から学べるのは北朝鮮がもし「暴発」するとしたら、
それは「ロシアや中国も含めた石油の禁輸」措置がとられたときでしょう。

あと、日本の外交政策におけるアキレス腱は憲法9条ではありません。
そんな観念的なことではない。
「化石燃料」こそが日本の外交の最大の脆弱性です。
だから「シーレーン」であり、
だから「ホルムズ海峡」なのです。
そしてそういった理由から私は「原発、ある程度必要論者」です。
原子力が安全なエネルギーだからでも安価なエネルギーだからでもない。
「石油の一本足打法が外交的に危なすぎる」からです。
天然ガスや石炭、海底資源、風力や水力などの併用も、
言うまでもなく大切です。



▼▼▼戦前の日本はグローバリズムだった
→P161〜162
〈養老:グローバリズムは絶対正しいと思っている人って、
じゃあ戦前の日本はどうなんだと言うね。
あれ、完全に国際化していましたから。
国際化という表現がおかしければ、「大アジア化」とかさ。、、、

名越:だから、日本はすごくグローバリズムを進めていたんだな。
でも、いわゆる左翼の方々が「グローバリズムは正しいんだ」
と言っているところに、
「そういえば戦前の日本もそうでしたね」と言ったら驚くでしょうね。〉


、、、今の保守や右翼は「日本ファースト」を掲げ、
普遍主義を退けます。
逆に左派やリベラルは普遍主義とグローバル化を言い、
戦前の日本を批判する。
しかし戦前の日本というのは、
今以上に「国際化」していたというのは、
多くの人の盲点になっています。



▼▼▼「意味」で満たすことのおそろしさ
→P182 
〈養老:、、、でね、これがすごく恐ろしいと僕が思っているのは、
「同じ」を追求していくと、さっきから何度も例に出しているけど、
会議室がそうなんですよ。
感覚を刺激するものは会議室には置いていないでしょう。
意識を訂正するものは感覚しかないから。
灰皿だって今はもうないでしょう。
健康のために煙草は意味がないからってさ。
すべてのものが意味に直結している。
会議室の窓から外を眺めたら、木が生えている。
でも、そこに意味なんてないでしょう。

名越:ないですよね。木は何の意味もなくただそこに生えている。

養老:山行ったらすぐ分かるんだけど、
石ころにしても、風が吹くにしても、何にしても、
意味がないものに囲まれているんです。
だけど、都市の環境の中にいたら、
すべてが意味を持ってしまう。
それで、おかしな人が発生しているんですよ。
「こいつらに生きている意味があるのか」
と考えて人を殺してしまうわけでしょう。

名越:ええ、19人が殺害された相模原の事件ですよね。
生きている意味がないと行って殺してしまった。
非常に象徴的な事件ですね。

養老:世界を「意味」で満たすというのは、
じつはそのくらい恐ろしいことでもあるんですよ。
それを国家として実行したのがナチスですから。
意味のある人種と、ない人種を勝手に作り上げてね。
、、、情報化社会って、ある意味では、「意味化社会」なんですね。〉


「私には生きている意味がない」という悩みは、
都会人の病なのかもしれません。
「都市」では目に入るすべてのものに「意味」がありますから。

しかし自然を観るときに、
転がっている石ころ、
生えている草木、
うごめいている虫に、「意味」はありません。
「ただ、そこにあることが意味」です。

「自殺した中学生の手記に、
花鳥風月がいっさい出てこなかった」
ということを養老孟司は別の本で語っていますが、
花鳥風月の欠如と、「自殺まで追い込まれる心理」は、
無縁ではありません。

この「意味」というときそれは、
「人間の浅はかな頭で考える合理性」ということであって、
自然という大きな「系」を支える創造者の「意味」とは位相が違うことは、
言うまでもありません。

すべてのものには「意味」があります。
しかしそれは、私たち人間の頭で、
「役に立つ、立たない」と考えているような、
そんな薄っぺらな意味ではない、ということです。



▼▼▼免疫学者の多田さんの名言
→P184 
〈免疫学者の多田富雄さんは、
「女は実体だが、男は現象である」と言っていますよ。
実はこれで、男女の違いはほとんど説明がついてしまうんです。
つまり女性の方が身体に基づいて無意識に行動するし、
男性の方が頭でっかちで、
意識中心だから抽象的な者に囚われがちなんです。
だから有休を取って山にでも行けというんですよ。〉


「暴力の人類史」という本を先日読みましたが、
そのなかに、「女性の参政権」と「戦争の減少」には、
有意な相関関係がある、というくだりがありました。

思い切り大ざっぱに言えば男性は「概してバカ」ですから笑、
もし世の中に女性が存在しなければ、
人類はもうとっくに滅亡しているに違いません。



▼▼▼一神教は都市と相性が良く、仏教(多神教)は田舎と相性が良い
→P189 
〈養老:だから「同じ」を求め続ける人間社会が、
永久に死なないデータと、それを管理するAIを実現させた。
その先にあるのは、おそらく一神教という宗教なんですよ。
一神教って、キリスト教がそうでしょう。
唯一絶対神だから、言い換えたら、
唯一客観的な世界が存在しているという考え。
一方で、さっきも言いましたけど、
仏教は軸足が自分の側にありますからね。
全知全能の神が何かをしてくれるわけじゃなくて、
自分で修行して自分で悟りを開く。本質的に全く違う。

名越:それと、あらゆる自然の中に神々がいる、
万物のすべてに役割を持った神様がいるという宗教観は、
都市型の「同じ」という概念とは相反しますからね。

養老:、、、仏教って無意味なものを観ている時間が
長い国じゃないと成り立たない。、、、

名越:だから都会化して人間関係しか観なくなると、
仏教はどうしても分からなくなるんでしょう。

養老:そういう意味では、仏教も分化しましたからね。
鎌倉仏教の中で、たとえば日蓮宗や浄土真宗は典型的な都市宗教で、
一方で禅宗はどうしたって山の中。
だから、僕は鎌倉に住んでいるけど、お寺の分布を見ると分かりますよね。
市中にある寺はほとんど日蓮宗。関西もそうでしょう。
街中にあるのは基本的には浄土真宗ですからね。〉


、、、映画「あん」のラストシーンで、
「ハンセン氏病患者」の樹木希林が送る「遺言的な手紙」で、
「ねえ、店長さん。わたしたちはこの世を見るために、
聞くために生まれてきた。
だとすれば、何かになれなくてもわたしたちは、
わたしたちには、生きる意味が、あるのよ。」

というくだりがあります。

こういったセンスは「仏教的」です。
私は仏教徒ではありませんが、
仏教のもつこういったセンスが「好き」です。
共鳴していると言っても良い。
キリスト教は「脳化した都市」の宗教ですから、
すべてを「意味」で満たす悪いクセがあります。

正確に言えば本当は聖書にもこういったセンスはあるのですが、
「西洋経由のキリスト教」はそういったものを、
とことん見逃してきた、という気がします。



▼▼▼「気づき」の裏は違和感
→P197〜199
〈養老:、、結局、「気づき」の裏って違和感だと思うんですよ。

名越:ええ、分かります。違和感を持たないと、
気付くことはありませんからね。、、、心に違和感を覚えたら、
それに驚くのは良いけど、別に恐れて否定しなくても良いんですよね。
違和感を「悪いものだ」と否定しているうちは、
違和感を取り出したことにはならない。
僕の師匠の植島啓司さん(宗教人類学者)は、
「仏とは心の中にある違和感である」という名言を述べられています。
つまり、自分の中にある絶対に同化できない異物のような存在を、
彼は「仏」と言ったんですよね。
仏って阿弥陀さんみたいに慈愛に満ちていて、
無条件にいいものなんだという固定観念があるけど、
恐ろしい存在でもあると思うんです。
、、、だから、冒頭から「わからなくてもいい」と言っているのは、
何も「モノを考える必要がない」ということではなくて、
今すぐ答えが出てこなくても良いから、
とりあえず違和感を持ち続けていろと。
最初は隕鉄みたいな固いものだったのが、
心に持ち続けているうちに、だんだん溶け出して、
黒砂糖みたいに見えてくるかもしれない。
それがもっと溶けてきて、次第に消化していくというようなイメージですかね。
それが1ヶ月なのか、1年先なのか、もっとかかるのかわかりませんけど。

養老:だから、さっきも言ったように、
疑問があれば捨てずに抱え込んで生きていくと、
10年くらいして「あ!」と思う時がある。
往々にしてね。理由は分からない。
何かがあるんだろうけど。
名越さんが、インターン時代に突然
「人の気持ちなんてわからなくてもいいんだ」
と気付いたのもその一つかもしれないし・・・。〉


、、、「違和感を大切に持っておく」ことができるかどうかが、
「天才と凡人」を分けると私は思っています。
凡人はすぐ「こういうものだ」と結論を丸めてしまう。
「なんでこうなるんだろう、、、」という疑問を、
疑問のまましつこく何年も、何十年も考え続けた人だけが、
かつてアルキメデスが風呂で叫んだように、
「ユリイカ!(分かったぞ!!)」
という知的興奮を味わうことができます。



▼▼▼「学者」というのは達成の中毒。私は自分が広義の学者だと思う。
→P211
〈養老:楽しいんですよ。ある種の中毒だからね。
達成感の中毒(笑)。
よく「先生、そんなにいつも難しいこと考えていて疲れませんか」
って言われるけど、ばかいうんじゃない、疲れるに決まっているんだよ。
でも、同時に楽しいでしょう、ものすごく。
抱え込んでいた違和感とか謎のようなものが、
予期せぬ流れでパッと答えが出た瞬間というのは、
一度体験するとやめられなくなるんだ。
だから学者っていうのは、みんなその達成感を知ってしまって、
抜けられなくなった変な人たちなんですよ。

名越:僕もその抜けられない中の一人かもしれないですね(笑)。
だから、わからないものに出会って、しかもそれが、
自分がやりたいもので、情熱がそのなかにあるのであれば、
それはすごくドキドキすることだし、
ある意味ではすごく恐ろしいことやけども、
自分の目的を得たわけでね、
少なくとも若々しく長生き出来ると僕は思うわけですよ。
よく養老先生が「お若いですね」と言われるのと同じことです。〉


、、、私も「考えるのが趣味」の人間であり、
知的発見が人生の最大の喜びだと思うので、
このくだりには共感しました。
親しい友人と読んだ本や最近考えていることについて、
たとえば夜中まで語っているとき、
ふと「そういうことか!」とシナプスがつながったときなど、
鳥肌が立つほど嬉しいです。
この達成感の中毒性は、
マリファナの比ではないと思います笑。


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