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本のカフェ・ラテ『知性は死なない』【最終回】

2020.03.03 Tuesday

第111号  2019年10月29日配信号

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 本のカフェ・ラテ
「本のエスプレッソショット」というこのメルマガの、
開始当初からの人気コーナーでは、
一冊の本を約5分で読める量(3,000〜10,000字)で、
圧縮し、「要約」して皆さんにお伝えしてきました。
忙しい読者の皆さんが一冊の本の内容を、
短時間で上っ面をなぞるだけではなく「理解する」ために、
「圧縮抽出」するというイメージです。
この「本のカフェラテ」はセルフパロディで、
本のエスプレッソショットほどは、網羅的ではないけれど、
私が興味をもった本(1冊〜2冊)について、
「先週読んだ本」の140文字(ルール破綻していますが)では、
語りきれないが、その本を「おかず」にいろんなことを語る、
というコーナーです。
「カフェ・ラテ」のルールとして、私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメントしていく、という形を取りたいと思っています。
「体系化」まではいかないにしても、
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。
密度の高い「本のエスプレッソショット」を牛乳で薄めた、
いわば「カフェ・ラテ」のような感じで楽しんでいただければ幸いです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

先週完結編にしようとしたけど、
文字数オーバーで完結しなかった、
『知性は死なない』の続きを、
今回もお送りします。


『知性は死なない 平成の鬱を超えて』
著者:與那覇潤
出版年:2018年
出版社:文藝春秋
リンク:
https://amzn.to/2U6o988


▼▼▼ボードゲーム「カルカソンヌ」とアフォーダンス
→P248〜251 
(病棟の談話室に「UNOが出来ない」という仲間がいたことをうけ)
『カルカソンヌ』という、
世界遺産になっている
南フランスの城郭都市をテーマにしたゲームがあります。
(中略)
このゲームの特徴は「手札」に相当する、
「プレイヤー本人にしか見えない情報」が、
いっさい存在しないことです。
(中略)
ひとりでぜんぶ判断して決められるような「能力」がなくても、
大丈夫なように、きちんとゲームがデザインされているのです。
じっさい、アドバイスされながら
半信半疑でプレイした人のほうが、
結果的に勝つこともあります。
ゲームが終わったときに出来る盤面がきれいなこともあって、
UNOが苦手だった患者さんも、楽しんでくれました。
うまく遊べない人に
「おまえは能力が低いなあ。もっと勉強しろよ」なんて、
言わなくても良い。
むしろ「能力が低い」プレイヤーがまじっても、
みんなが最後まで楽しめるようなデザインのゲームを、
みつけてくればいいのです。

このとき私が思い出したのは、
アフォーダンス(affordance)という概念でした。
もともとはギブソンという米国の心理学者が提唱したのですが、
その射程の広さから、
教育学や人類学でも使われることがあります。
私なりにまとめると、
「提供する」という意味のaffordを名詞化したアフォーダンスとは、
「能力」の主語を、人からものへと移しかえるための概念です。

たとえば、
健常者の人間には走るという能力がある、とは考えない。
逆に「平らな道」というものが、
走るという行為を健常者の人にアフォードしている、
つまり道と人間との間に走るというアフォーダンスが存在する、
というふうにとらえます。
 (中略)
私が言いたいのは、
社会主義の衰退と共に
平成の日本ですっかり色あせた「平等主義」ではありません。
人によって「能力の差」がある事実を、
否定する気持ちはまったくなく、
「能力が最低のものに、最大の分配をしろ」
と主張しているのでもありません。

そうではなく
「どれだけ大きな能力の差をカバーできるかで、
そのものの価値をはかってみよう」と提案しているのです。
そうした思考法は、
退院した後も趣味としてゲームをつづけるなかで、
徐々に明確になってきました。
 (中略)
将棋や囲碁のような完全実力のゲームや、
スポーツ競技一般は、
プレイヤー同士の能力が均衡していないと、
楽しめない場合があります。
それにたいして、不慣れな人が混じっても
「その人のチョンボをどう防ぐか」までが込みで、
あたらしいゲームになったのだと
考え直せるデザインになっているのが、
このゲーム(マスカレイドという仮面舞踏会のゲーム)の魅力です。
そしてそれはまさに、はたらくということ、
よりひろくいって社会的に生きるということのモデルでもあります。〉


、、、鬱病になった学者の著者(與那覇さん)は、
病室でボードゲームに出会います。
鬱病は「脳にダメージを受ける」病気ですが、
そのダメージの受け方は、
人によって様々です。

社交的だった人が、
対人関係が極端に苦手になる場合もあるし、
数学者が四則演算すら出来なくなることもある。
與那覇さんの場合、
「言語運用」がダメージを受けました。
文章を書くどころか読むことも出来ず、
うまく話す事も出来ない。

お医者さんに自分の症状を話す言葉が、
支離滅裂でまったく論理的でないことに、
いちばんショックを受けた、
と與那覇さんは別の箇所で語っています。

右利きの人の「言語野」は、
大脳新皮質の左側にあります。
この部分が「ダメージを受ける」と、
與那覇さんのようになるし、
2013年に発症したとき、
私も同じでした。

私の場合、
文字が神経に直接「刺さる」ように感じ、
痛くて文字が読めなくなりました。
この症状が出たとき、
「これは病気だから、
 病院に行こう」とやっと決断できたのですが。

それで、
精神疾患で入院している人たちにとって、
「ただこの時間に耐える」というのは、
拷問のようなものです。

だから本を読んだり映画を見たり、、、
ということが出来るのは健康な人です。

言語活動が働いていないので、
本読んでも映画を見ても、
それが「意味」として脳に取り込めない。
だから敗北感だけが積み重なる。

「ゲーム」はそんなとき、
「時間をやり過ごす」ための便利な道具です。
言語野が働いていないとき、
「非言語」の部分に逃げ場を作るイメージですね。
だから自然の風景を見たり、
積み木をしたり、
絵を描いたり、
ゲームをしたり、
というのは鬱病療養・リハビリの定番なのです。

著者の與那覇さんも、
病室で同病者とボードゲームをした、
その経験がここに書かれています。

その際、UNOのような、
戦略性の高いゲームだと、
ついていけない人もいるわけです。
鬱病で脳がダメージを受けているのですから、
そういった思考をすることが負担になるということもあるし、
「腕がものをいう」という要素が、
実社会に似ているので、
心理的に辛いということもあるのでしょう。

そんななか著者は、
『カルカソンヌ』というゲームに出会います。
このフランスのゲームは、
初心者が混ざっても、
ちゃんとゲームとして面白さが減らない、
そういう「ゲームデザイン」になっている。
このゲームは社会の縮図なんじゃないか、
と著者は気づくわけです。

UNOや「大富豪」って、
(多少運が関係あるということを含めて)
実力社会そのものなので、
先週紹介した「メリトクラシー」なゲームなんです。

しかし、『カルカソンヌ』はそうではなかった。
どんなステージの人が参加しても、
どんなに参加者同士の経験に差があっても、
ゲームとしての面白さが失われることがない。
そういうゲームのデザインになっている。

これって、
社会学の「アフォーダンス」そのものじゃないか、
と著者は気づくのです。
引用部分にも説明されているとおり、
アフォーダンスとは、
「陣内にはこの歩道を歩く能力がある」と、
行為主体の能力にものさしを置くのではなく、
「この歩道には陣内を歩かせる能力がある」と、
その「もの」が、行為主体に、
能力を付与している、と捉える考え方です。

著者は鬱病によって、
「メリトクラシー的」な、
能力によって人を格付けする社会の限界を、
体験的に知るわけです。

じゃあ、共産主義的に、
すべての人が平等に分配される社会が良いのか?
悪しき平等主義みたいに、
能力の差がないかのように振る舞うのが良いのか?

それは社会の後退であって、
著者が目指すところではない。

実力主義でも共産主義でもなく、
「アフォーダンス」にあふれた社会こそ、
私たちが今後築いていくべき社会なんじゃないか、
著者はゲームを通してそういうことを学んだわけです。

つまりそれは、
能力がない人に能力を付与したり、
障害者の障害を「取り除く」というのではなく、
実力がある人もない人も、
能力がある人もない人も、
「健常者」も障害を持つ人も、
みなが活躍することを、
「アフォード」することが出来るような社会です。

こういう方向性が、
私たちの未来を考える上で、
ヒントになるのではないか、
ということですね。

新約聖書は、
「アフォーダンス」を補助線に読むことも出来ます。
『結婚の意味』という本の中で、
著者のティモシー・ケラー氏は、
「キリスト教は独身者に積極的な価値を認めた、
 世界で最初の宗教」と書いています。
じっさい新約聖書には「やもめ」を、
教会の宝として扱うように勧める箇所がありますし、
パウロは独身であることを「賜物」と言っています。

また、奴隷や貧乏な人、
社会のなかで虐げられた人々を、
初代の教会は受け入れ、
彼らに居場所を提供するだけでなく、
彼らを「なくてはならない身体の器官」と考えました。
パウロは「目立たない器官ほどことさら尊ばれる」
と言っています。

教会はローマ帝国の価値観では、
辺縁に追いやられる「プレイヤー」たちを、
「アフォード」したわけです。
教会で、能力の高い人が活躍するのは当たり前です。
それは教会の外と同じです。
それが別に悪いことでもありません。
しかし、教会の真価は、
「アフォーダンスの高い教会かどうか」
というあたりに私はあると思っています。

次に進みましょう。


▼▼▼コミュニズムを「共存主義」と訳し直し、
資本を「能力」と捉え直すという提案

→P253〜256 
〈その網野(善彦)が最晩年の2001年、
「『コミュニズム』を『共産主義』と訳したのは、
歴史上、最大の誤訳の一つではないか」とのべたことがあります。
もっとも、ではどう訳すべきなのかについては語っていないため、
真意は判然としません。
 (中略)
私は、保持する能力の高低が異なる人どうしの
「共存主義」として解釈しない限り、
コミュニズムというものの再生は、ないと考えます。
 (中略)
最近は左翼の人の方が勘違いしているようなのですが、
資本家は単なる「お金持ち」とは違います。
たんに、自宅のタンスに札束を溜め込んで死蔵している人は、
お金持ちではあっても資本家ではありません。

自分のお金を、
本人が直接お店や工場を経営する資金として活用するか、
株券などを投資のために購入するかして、
様々な人々の間を環流させることで、
その総額を増やそうとしている人。
それが、資本家の正しい定義です。

マルクスやエンゲルスは、
「だったら、資本が『個人の財産』である必要はないじゃないか。
私有財産を廃止して、
社会全体で資本を共有しても良いじゃないか」と考えました。
5章で触れたようにこれはまちがいで、
資本を社会的に共有しようとすると、
その運用者としての国家と官僚の権力が極大化し、
人々は自由を失いました。

しかしこの箇所を
「能力」についての記述として解釈し直すと、どうでしょうか。
たとえば大学の先生に「能力」があるとみなされるのは、
その先生の話すことや書くものを、
「おもしろい。お金や時間を出す価値がある」
として受け止めてくれる、学生や読者がいるからです。
その意味では、大学の先生の能力とは、
タンス預金のようにその人の脳内に詰まっているわけではない。
それはまさしく、
「共同活動によってのみ動かされる」
「個人的な力ではない・・・社会的な力」です。
 (中略)
その意味で、あらゆる能力は、究極的には「私有」できません。
くりかえしますが、能力はけっして平等ではない。
そこには格差があるし、いかに教育に予算をつぎ込み、
学校間での実績競争をあおろうと、それはなくなりません。

しかし、いかに能力の高い人であれ、
その能力は私有財産のように、
その人だけで処分できるものではないのです。

コミュニズムが昭和の遺物で終わるのか、
平成の次なる時代にもよみがえるのかは、
むろん左翼でなかった人には、どうでもいいことです。
しかし能力差という、
けっして解消されることのない格差と付き合いながら生きる上で、
コミュニズムを共存主義として読み換えていくことは、
全ての人のヒントになると私は感じています。〉


、、、歴史家の網野善彦は、
コミュニズムを共産主義と訳したのは誤訳だと指摘しましたが、
では何と訳すべきだったかについては何も語りませんでした。

著者は「共存主義」と訳すべきだったんじゃないか、
と立論します。
著者の言い回しは若干難しくなりますが、
マルクスやエンゲルスが指摘した、
「資本家による資本の独占」を、
「カネをがめている奴から、
 庶民に分配せぇや!!」
という革命だというのは読み違えだと主張しているのです。

むしろ、資本家が社会に還元して、
「共存」を目指すべきは「能力」なのではないか、
ということです。

誰も「能力」を自分だけのために独占することのない社会、
つまり能力のある者が、
その能力を使って社会に価値を還元していく社会、
それこそが「共存主義」であり、
「共産主義の挫折→新自由主義の勃興
 →新自由主義の終わりの始まり」
にさしかかっている我々先進諸国の市民が、
描くべき未来なんじゃないの?
と著者は言ってるわけですね。

次に進みましょう。


▼▼▼赤い新自由主義
→P274〜275 
〈そのためには
「生き方は個人の自由であるべきだ」という価値観を、
国民の共通認識にすることから、はじめなくてはいけません。
保守主義が標榜する特定の家族観やライフコースには、
しばられない社会像を提示して、
はじめてリベラルの意義が生まれます。

「正社員である」「入籍している」「子どもがいる」。
それぞれに、すばらしいことです。
しかしそれは、他の生き方を否定する理由にならないし、
だからそういう特定の人生設計だけを、
国家や資本が支援するような諸制度は、改定が必要だ。

同一労働同一賃金とは、
「こっちにも金よこせ」という分配の問題である前に、
自由な生き方の問題なのだ。
そういう認識に立てるかが、
多数派形成の鍵になるのではないでしょうか。

すでにのべたとおり、そうした発想は、
終身雇用・年功賃金といった
「日本型雇用慣行」を解体させてゆくので、
平成に展開した以上の「新自由主義」になります。
しかし、伝統的な家族像に依拠する生き方の強要をも、
否定する点で、レーガン=サッチャー式の英米のそれとも異なります。

だれもが自由に生き方を選べる社会を、
目指す上で提携すべきは、
弱肉強食を説いていたこれまでの新自由主義ではないのです。
「能力があるなら」自由になれると主張して、
ごく一部の「有能な個人」をシンボルに立てて多数派を失った、
平成の書物群が取った戦略の失敗を、繰り返してはいけません。

むしろこれから必要なのは、
日本では同一企業の内側のみにとどめられてきた
コミュニズム(共存主義)の原理を、
その外に広がる社会へと、解き放っていくことです。

そのために必要とされるのが、
たとえばアフォーダンス的な方向での、能力観の刷新であり、
社会的に能力を「共有」しつつも、
自由や競争を損なわない制度の検討です。
心理学から経済学まで、
さまざまな学問の知見が求められます。

冷戦下では両極端にあるとされてきた、
コミュニズムとネオリベラリズムの統一戦線
――いわば「赤い新自由主義」(red neo-liberalism)だけが、
真に冷戦が終わった後、
きたるべき時代における保守政治の対抗軸たり得ると、
私は信じています。〉


、、、現在の世界の政治は二極化しています。
2016年のアメリカ大統領選で、
ドナルド・トランプと、
ヒラリー・クリントンの他に、
もうひとり脚光を浴びた人物がいます。
民主党の代表候補になりかけた、
バーニー・サンダースがその人です。

この人は「大学無償化」などの政策を掲げ、
若者の無党派層から熱狂的に支持されました。
彼は自分はコミュニストだと公言するほど、
「左寄り」の人で、
トランプの「新自由主義的な右」と比べると、
真逆に位置する人です。
トランプが「右のポピュリズム」だとしたら、
サンダースは「左のポピュリズム」なのです。

「政治の物差し」というものがあったとしましょう。
1メートルの物差しで、
右に50センチ、左に50センチあるとする。

かつての政治というのは、
右10センチ、左10センチぐらいのところで、
侃々諤々やっていた。
つまり中道右派VS中道左派の戦いだった。

しかしトランプ氏ならば、
「右に48センチ行ったところ」にいるし、
サンダース氏ならば、
「左に48センチ行ったところにいる」みたいに、
極端VS極端の戦いになってきている。
この流れは日本も例外ではありません。

それだけ社会が行き詰まっている証拠なのですが、
これをどう「超克」していくのか、
というのは、実は現代思想の、
最もホットな課題なのです。

著者は鬱病の経験によって、
新しい視座らしきものを見つけつつあるのが分かります。
それが著者の言う「赤い新自由主義」です。

「伝統的家族像」とか、
「終身雇用」とか、
保守が掲げる「理想」から、
人々を自由にしていくという意味では新自由主義的でありながら、
「能力の差」は許容しつつ、
その競争が万人の疲弊のためではなく、
万人の相互利益のために働くような、
「コミュニズム(共存主義)」の社会、
そういったグランドデザインを、
私たちはそろそろ描き始めるべきなのではないか。

極右VS極左の、
終わりなき不毛な消耗戦を、
私たちはやめるべきなのではないか、
という提示です。


先に進みます。


▼▼▼知性のほんとうの意味を取り戻した著者

→P276〜279 
〈私が通ったデイケアには、月に2回ずつ、
患者同士でテーマを決めて話し合う時間がありました。
 (中略)
発病から休職、人によっては離職という経緯を経て、
いやおうなく、自分が想定していたのとは
違う人生を歩まざるを得ない。
そのなかでみな、
「そもそもこれまで自分が前提にしていたことは、
正しかったのか」を悩んでいました。

これはほんらい、
「知性」に求めれてきた働きと、
同じものだといえます。
4章で、一般的には反知性主義と訳されている
「反正統主義」についてのべました。
従来の社会でオーソドックスだとされてきた考え方が、
本当に正しいのかを再検討した結果、
既存の権威を否定していく。
それじたいは、反知性として貶められるべきものではなく、
知性の働きそのものです。
 (中略)
(学問的正統主義に引きこもりつつ
実用主義的にTOEICなどを採り入れる日本のアカデミズムの)
そういうライフハックのような知性の売り方を、
もうやめようではないか。
既存の社会に「いかに適応するか」ではなく、
「いかに疑うか・変えていくか」という、
知性が本来持っていたはずの輝きを、取り戻そうではないか。

結局はそれが、
いまいちばん伝えたいことなのだと再認識させられたのが、
私にとっての療養生活だったのだと思います。
入院中からデイケアへと続いた、
自身の人生観自体を考え直すピア・サポートのなかで、
私は自分のやりたかったことを、
もういちどみつけることができました。

もし、自分の能力について悩む人がいるなら
「こうすれば能力が上がる」ではなく、
「能力は私有物ではない」と伝えたいと思います。〉


、、、この部分は深すぎて、
私自身性格に読めているかどうか自信がないのですが、
私なりに理解したことに基づき解説するとこうなります。

著者は鬱病を患い、
病室で同病者たちと語り合った。
その対話の中から浮かび上がったのは、
「自分の前提を疑わざるを得ない」という共通経験だった。

著者はしかし、そこで「知性」の本当の意味に出会った。
つまり「知性」とは、
既存のルールのなかで、
自分に有利に事を進めるための便利なエンジンではない。
既存のルールそのものを疑い、
ルールそのものを「解体と再創造」に導くことこそ、
知性の本当の役割なのではないか?と。

自分の能力が低いことをコンプレックスに感じる。
自分の能力が高いことで思い上がっている。
このどちらも、最初のボタンを掛け違えている。

そもそも能力は、
自分のものではない。

それは私有物ではなく、
社会の共有財だ。
その前提に立つときに、
あなたの能力が高くても低くても、
新しい視座を得られる。

そういうようなことを、
著者は言っているのだと思います。

聖書に、こういう箇所があります。

「実際、からだはただ一つの部分からではなく、
多くの部分から成っています。
たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」
と言ったとしても、
それで、からだに属さなくなるわけではありません。
たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」
と言ったとしても、
それで、からだに属さなくなるわけではありません。
もし、からだ全体が目であったら、
どこで聞くのでしょうか。
もし、からだ全体が耳であったら、
どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。

しかし実際、神はみこころにしたがって、
からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。
もし全体がただ一つの部分だとしたら、
からだはどこにあるのでしょうか。
しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。
目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、
頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。

それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、
かえってなくてはならないのです。
また私たちは、
からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、
見栄えをよくするものでおおいます。
こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、
格好の良い部分はその必要がありません。

神は、劣ったところには、
見栄えをよくするものを与えて、
からだを組み合わせられました。
それは、からだの中に分裂がなく、
各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。
一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、
一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
なたがたはキリストのからだであって、
一人ひとりはその部分です。」

第一コリント人への手紙12章14〜27節


、、、これは教会について、
使徒パウロが書いた指針ですが、
與那覇さんが「赤い共産主義」とか、
「能力は私有物ではなく共有財だ」
というとき、
パウロのこの概念とかなり近い社会像を描いていると、
私は解釈しています。



▼▼▼言語と身体を駆動して疑え

→P279〜280 
〈あなたがもし、
今の社会で傷ついていると感じているなら、
それはあなたにいま、
知性を働かせる最大のチャンスが訪れているのだと、
伝えたいと思います。

あなたにはいま、
これまであたりまえだと思ってきたことが
「なぜこうなっているのだろう」というふうに見えています。
これまで存在を意識すらしなかった物事が、
「なぜ存在するのだろう」と感じられているし、
逆に思いつきもしなかったアイデアについて、
「なぜ実現しないのだろう」という気持ちがしています。

3章のことばをつかえば、
この「なぜ」という疑問を駆動させるのが、
身体的な違和感。
そしてその「なぜ」という問いを深め、
そんな問いをはじめて聞いた人にも
伝わるような説明へと導くのが、
言語による思索です。

言語ばかりに偏っては、
せっかくの知性がもういちど、
せまい大学や書物の世界に閉じてしまうと、
かつての私自身に対する反省として、
お伝えしたいと思います。

いっぽうで身体にのみ偏るなら、
そのゆくえはけっして実りあるものにはならないと、
やはり伝えなくてはならないと思います。
「ことばできちんと理解してはいないけど、
間違っていることだけは分かるんだ!」と称して、
ただ空気にあおられるように街頭に出て行った先に待つのは、
昭和にも平成にも繰り返された、幻滅と虚無だけです。〉


、、、ほとんどの人が忘れていると思いますが、
(なんせ書いた私ですらうろ覚えですから)
このカフェラテシリーズの第一回で、
與那覇さんが鬱病になった経験を、
彼は「身体による逆襲」と呼んでいました。

つまり、言語活動・意識活動に対する、
身体側の逆襲のように、
鬱病は襲ってきた、と。

ちょうど、都市生活・文明生活を享受する我々に、
自然災害が逆襲し、「自然が足場だよ!」と、
私たちに時々思い出させるように、
鬱によって暴力的に「身体レベルで脳が起動しなくなる」
ことによって、與那覇さんは、
「身体と言語(思考)」の調和について考えざるを得なくなった。

その結論部にあたるのが引用箇所です。

つまり與那覇さんは「身体的な違和感」こそが、
根源的な「なぜ」を与えることに気づいた。
そして、その根源的な「なぜ」を前に進め、
他者に共有可能な形に結晶化させるのが、
「言語活動」なのだ、ということを発見したのです。

言語活動(抽象思考)が、
言語活動の世界だけで閉じてしまうなら、
それは学者の「象牙の塔」と言われるような、
インナーサークルにしか通じないたこつぼ化し、
専門分野に引きこもる「悪い意味でのアカデミズム」を生みます。

かといって思考を捨て、
身体的な違和感だけに訴え、
身体的な行動だけに頼るなら、
70年代の安保運動の失望を繰り返すだけになる。

「身体と言語を橋渡しする」のが、
知性の本当の役割なのではないか、
これが與那覇さんが病気の中で発見した宝でした。

続いて、本書の「結語」に進みます。



▼▼▼本書の結語
→P281 
〈しかしいま、私は悲観していません。
なぜなら、病気によって強制的に大学の外へと追いやられても、
いくらでも知性に基づいて、
対話が出来る人々がいることを知っているから。

そして世界が混迷を深める中での、
あたらしい時代の到来によって、
平成の30年間を経ても生産できなかった
私たちの思考の前提が揺らぐときこそ、
知性がもういちど輝き始める時だと、信じているからです。

すこし気恥ずかしいのですが、
マルクスとエンゲルスによる1848年の
「マニフェスト」に沿ってしめくくるなら、
本書のメッセージはこうなると思います。

「知性ある人は、その発動において、
くさりのほか失うべきものをもたない。
かれらが獲得するものは、あたらしい世界である。
万国の知性ある人々の団結を!」〉


、、、病気を経て知性を「再定義」した著者は、
「知性を働かせる場所」であると一般には信じられている、
大学の現場を去らなければならなくなりました。
しかし、著者はむしろ希望にあふれてこう言います。

私(と知性ある同志たち)の戦いは終わったのではない。
今、始まったばかりなのだ、と。

デリーのゲストハウスで読みながら、
ここで私は落涙してしまいました。

、、、この本、
「おわりに」もめちゃくちゃ良いので、
あと1箇所だけ、紹介します。



▼▼▼「おわりに」より、知性とは旅のしかた
→P282〜284 
〈もういちど自分が本を書けるようになるとは、
思いもしませんでした。
はげしいうつ状態のために、
会話も困難になっていた時期には、
出版社からきた
「1行程度で推薦書籍のコメントをください」
といった依頼すら、
こたえることができませんでした。

まとまりのある文章を書く、
まして本を出版するなどと言うのは、
想像もし得ないことだったというのが、
いつわらざる事実です。
 (中略)
結果、このような書籍をつくることが
出来るまでに回復したものの、
かつて自分自身がものしたような、
学術的な専門書を読み/書きする段階には、
残念ながら到達出来ない。

そのような状態では、
大学教員としての職責を果たすことが出来ないと考えて、
離職を決意しました。
もちろん最初は、悔しくて泣きました。
しかしいま、後悔する気持ちは、まったくありません。
まだ自分が再び本を書けるとは信じられなかった頃の、
読書遍歴の過程でめぐりあったことばに、
こんなものがあります。

「しあわせとは旅のしかたであって、
 行き先のことではない」。

ロイ・M・グッドマンという米国の政治家のことばで、
箴言集などによくとられるものだそうです。
私にはその伝えたいことが、
とてもよくわかる気がします。

「知性とは学ぶ方法のことであって、
 学ぶ対象を指すものではない」。

それは、教員として大学の教壇に立つ以前から、
変わらぬ私の信条でもありました。
 (中略)
知性を失ってその場所にとどまるくらいなら、
知性と共に別の場所へ旅に出る方がずっとよい。
そうする勇気がもてなかったために、
病気という体験を必要としてしまったのだろうと、
いま私は思っています。

それでは、かつて知性が輝いていた場所よ、さようなら。
もしまた訪れることがあるなら、いつかその日まで。〉


、、、著者の「知性を巡る旅」は、
アカデミズムの世界で始まり、
大学准教授として活躍するところまでは順調でした。
ところが二つの事実が、著者の旅を阻みます。

ひとつは、
「平成の30年」を経て、
日本の「知性」が、
まったく社会とかみ合っても来なかったし、
「知性になせるはず」と夢見たものが、
むしろ体制の論理に巻き取られたり、
富や地位の獲得に利用されたり、
社会と関係ないところで空転してきたのを見たこと。
これは著者を深い迷路に迷い込ませました。

「いったい私の職業は、
 社会にとって意味があるのか?」

もう一つは「自身の鬱病罹患」でした。
これによって「知性」はメルトダウンし、
「1行の文章を書くことすら困難」な状況になり、
学者としてのキャリアを一旦諦めなければならなくなった。

しかしこの二つの「挫折」こそが、
著者が知性を「再定義」し、
「知性を再起動する」ことへの糸口となります。
著者曰く、「知性とは学ぶ方法であって、
学ぶ対象のことではない。」

これがほんとうに見えたとき、
「●●の専門家」という意味での、
アカデミックな分類はもはや意味をなさなくなりました。

そうではない。

身体的違和感に契機を発する「問題」について、
もがきながら言語化し、
誰かとつながろうとする。
そのような「知性」が駆動するなら、
それがアカデミズムの中であろうが外であろうが、
まったくかまわない。

著者はそういうところに至ったわけです。

この「知性の再定義・再発見」は、
病気により「信仰の再定義」と、
「信仰の再起動」を行った私と、
完全にシンクロしているのです。

私はこの本を読み終わり、
鬱病療養の「孤独な暗闇の旅路」を、
自分はひとりで歩いていたわけではないと知りました。

與那覇さんに私は会ったことがないけれど、
私と同じ道を歩いた人が、
他にもいたことを知ったのです。

歴史の中には、
パウロ、ヨブ、ヨナ、エレミヤなど、
與那覇さんや私と同じような、
魂の暗闇の旅を歩いた人々がいます。

「信仰の再定義」をした私は、
病気になる以前よりも、
はるかに自由に、
信仰の旅路を歩けるようになりました。
空も飛べるぐらいに。

だからといって、
かつて自分がいた場所を否定するつもりもありません。
私も、たぶん與那覇さんも、
「あいつは鬱になった。
 終わったな」と思い、
離れていった人もいる気がなんとなくするし、
自分の指からすり抜けていったチャンスもたくさんある。
そんなことそもそも、「病気のどさくさ」で覚えてません。
病者には他人を気にしてる余裕なんてないんです。

でも、笑ってこう言いたいと思います。
「また訪れる日があるなら、
 いつかまた、その日まで。」

本のカフェ・ラテ『知性は死なない』【第三回】

2020.02.25 Tuesday

第110号  2019年10月22日配信号

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■2 本のカフェ・ラテ
「本のエスプレッソショット」というこのメルマガの、
開始当初からの人気コーナーでは、
一冊の本を約5分で読める量(3,000〜10,000字)で、
圧縮し、「要約」して皆さんにお伝えしてきました。
忙しい読者の皆さんが一冊の本の内容を、
短時間で上っ面をなぞるだけではなく「理解する」ために、
「圧縮抽出」するというイメージです。
この「本のカフェラテ」はセルフパロディで、
本のエスプレッソショットほどは、網羅的ではないけれど、
私が興味をもった本(1冊〜2冊)について、
「先週読んだ本」の140文字(ルール破綻していますが)では、
語りきれないが、その本を「おかず」にいろんなことを語る、
というコーナーです。
「カフェ・ラテ」のルールとして、私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメントしていく、という形を取りたいと思っています。
「体系化」まではいかないにしても、
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。
密度の高い「本のエスプレッソショット」を牛乳で薄めた、
いわば「カフェ・ラテ」のような感じで楽しんでいただければ幸いです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

『知性は死なない 平成の鬱を超えて』
著者:與那覇潤
出版年:2018年
出版社:文藝春秋
リンク:
https://amzn.to/2U6o988


今回の『本のカフェラテ』のコーナーは、
『知性は死なない』の完結編です。

まぁ、ほとんど忘れている人が多いとは思いますが。
なんせ、私ですら前回何書いたか、
あんまり覚えてないですから笑。

ちなみに前回、
7月16日配信号(vol.100)で、
この本を解説しています。

その後、自分自身が、
鬱症状の再来を経て、
現在は寛解に至るので、
まぁ内容的にはタイムリーなのかなと。

文字数も、執筆時間もあまりないので、
早速本題に入りましょう。


▼▼▼能力信仰が強い著者だからこそ
能力が奪われるうつ病になった。
私もまったく同じだった。

→P242〜243 
〈ですが、たとえばこういうふうに、考えてみてください。
あなたには、あなたの「属性」も「能力」も問わずに、
あなたを評価してくれる人がいますか、と。

仕事を持っている人なら、
かならず名刺に会社の部署や、
保有する資格を入れるでしょう。
そうした「属性」についての情報抜きで人付き合いをするのは、
こんにちのビジネス社会では不可能です。

働ける時間は有限なので、
「あの会社の人なら、顔を繋ぐ価値がある」
「この資格を持っている人なら、信頼出来そうだ」
というかたちで、属性によって対応すべき相手を絞らないと、
業務がパンクしてしまうからです。

私は学問という、
すこし特殊な業界で働いていたので、
相対的には属性についてルーズだったと思います。
資格のないフリーの文筆家に頭脳明晰な人がいて、
博士号を持つ東大の教授に
支離滅裂な人がいることを知っていたので、
属性で相手を評価することには、
慎重にならざるを得ませんでした。

しかしその分、「能力」で他人を評価することについては、
おそらくふつうのビジネスマンよりもシビアだったと思います。
能力がある人の声なら、相手の属性を問わずに、
耳を貸すべきだ。
逆に能力もない人間が、
属性が立派だからと言ってえばり散らしているのは、
良くない。

そう信じていたかっらこそ、
「病気によって能力を失う」
という想定外の体験をしたことが、衝撃でした。
能力のなくなった自分なんて、
この世に存在する価値はないじゃないか。
そう考えていました。

入院時に、病棟で共に過ごした仲間が教えてくれたのは、
そうではない、ということです。
彼らの多くもまた、病気によって能力を失っていました。〉


、、、「メリトクラシー」という言葉を、
みなさんは聞いたことがあるでしょうか。

Wikipediaによると、こうあります。

《メリトクラシー (meritocracy) とは、
メリット(merit、「業績、功績」)と
クラシー(cracy、ギリシャ語で「支配、統治」を意味するクラトスより)
を組み合わせた造語。
イギリスの社会学者マイケル・ヤングによる
1958年の著書『Rise of the Meritocracy』にて初出した。
個人の持っている能力によってその地位が決まり、
能力の高い者が統治する社会を指す。》


、、、「デモクラシー(民主主義)」は、
「大衆=デモ」による「統治」なので、
「大衆による独裁」と言い換えられます。

独裁政権は、
「オートクラシー」ですね。
オート=独り
クラシー=独裁
ですから。

神権政治は、
「テオクラシー」です。
「テオ(神)」による独裁だからです。

同じように、官僚統治は、
「ビュロクラシー」です。

このようにいろんな統治形態があります。
みなさんもご存じのように、
日本は外向きにはデモクラシー(民主主義)の国ですが、
官僚が強い権力を持っているという点で、
ビュロクラシー的なところもあり、
天皇に「神的な権威」があるという点で、
テオクラシーっぽいところもある。

このように統治形態というのは、
切り口や角度によって、
ひとつの国でもいろんな側面があるのです。

では、
「メリトクラシー」とはいかなるものか?

一番わかりやすいのが、
一部の「リバタリアニズム」を標榜する人々の考え方です。
日本だと、ホリエモンとかがそうですし、
あと、松本人志も典型的なメリトクラシー的思想の持ち主です。

簡単にいうとこういうことです。
「生まれが良い人」や、
「学歴が高い人」や、
「肩書きが立派な人」や、
「世論を味方に付けたポピュリスト」が、
この世の富や権力を持つのはおかしい。

「能力が高い人」こそが、
権力や富を持ち、
社会を運営していくべきだ、
という考え方が、
「メリトクラシー」の特徴です。

メリトクラシーを標榜する人は、
「能力が高い人」に多い。
堀江貴文氏は東大にいたころから、
ライブドアを創業し、
今もロケットを飛ばしたり、
様々な事業を展開しています。
松本人志は言わずと知れた天才です。

これは簡単な理由で、
「人は、自分が有利になるルールを採用したがる」
からです。

さて。

著者の與那覇さんは自分のことを、
「メリトクラシー的な思想に傾いた人間だった」
と告白しているわけです。
彼もまた東大を出て、
東大の中でも「こいつバカだな」と思うやつに出会い、
そして研究者となり、若くして大学の准教授となった。
彼の書いた「中国化する日本」なんか読むと、
まぁ、べらぼうに頭良い人であることが分かるんですよ。

一方で社会というのは、
「能力が高ければ評価される」わけでもなければ、
「頭が良ければ成功する」わけでもありません。
能力が低い人が出世したり、
仕事を怠けている人が上司に評価されたり、
頭が悪い人が成功したりします。

能力が高い人、
頭が良い人、
仕事が出来る人としては、
これが「面白くない」わけです。

私は與那覇さんの足下にも及ばないですが、
彼がそう考える理由は分かります。
私も腹の底では、
メリトクラシー的な考え方に寄っているからです。
仕事が出来ない人が評価されたり、
能力が低い人が出世したり、
逆に仕事が出来る人、
能力が高い人が評価されず、
成功もしていない状況を見るのは、
私にとっては耐えがたい苦痛です。

私が当事者だろうがそうでなかろうが。

じっさいに能力が高い與那覇さんとは違い、
私の場合、客観的に私の能力が高いからではなく、
たぶん「うぬぼれている」だけ思うんですが。
いずれにせよ、
「能力が高い人ほど評価も高いべきだ」
と考える人は、
たいてい能力が高い傾向にある、
というのは事実です。

先に進みましょう。

じっさいにそうなのか、
「うぬぼれているだけか」の違いはあれど、
「生まれや肩書きや世渡りではなく、
 能力で勝負したい」と考える與那覇さんと私は、
「地位や肩書きとか、
 有名か無名かとか、
 世間的に評価が高いかどうか」よりも、
「その人が本当に有能かどうか」
だけで人を評価したいし、
自分もまたそのように評価されたい、
という、かなり強い認知的傾向を持っている、
という点で共通しているわけです。

さて。

ここで鬱病です。

たしかこのシリーズの、
前編か中編で説明したのですが、
鬱病というのは、
「能力を失っていく病気」でもあります。

「出来たことが、
 ひとつずつ出来なくなっていく病気」なのです。

ドラクエでレベル50まで成長してたとしましょう。
最強装備をそろえ、全部の魔法を覚えていたとしましょう。
鬱病って、毎日レベルが一つずつ下がっていく、
そういう感じです。

1ヶ月もすると、
レベルは1桁になる。
装備は、盾も剣も鎧も、なんにもなくなる。
魔法は毎日一つずつ忘れていって、
最後には「ホイミ」すら仕えなくなる。

鬱病ってそんな感じです。
最初は高度な決断が出来なくなり、
複雑な思考が出来なくなる。
エネルギーを要するようなイベントに尻込みする。
さらに進むと、
文字が読めなくなる。
朝布団から起きるエネルギーがなくなる。
最終的に、
「今日朝ご飯を食べるかどうか」
という二択が選べなくなり、
パニックになって、
私は机の下で震えていましたから。

そうすると邪魔になるのは、
「メリトクラシー」です。

この考え方は、
能力が高い人にとって、
通常時は自分を守ってくれる盾にもなります。
「世間は自分を評価しないけど、
 俺は良い仕事をしていることを、
 自分でよく分かってる。
 だから、大丈夫」と、
毀誉褒貶に動じなくなるし、
変な功名心に足をすくわれることからも、
自分を守ってくれます。

しかし鬱を煩い、
能力をむしり取られていくと、
「メリトクラシー」は逆に、
自分の首を絞める殺人装置になります。

だってその基準だと、
「毎日自分の価値が減退していく」わけですから。
最後は価値が「無」になります。

著者は
「肩書きや外的な評価ではなく、
 能力と価値を結びつける」
という思考の習慣を持っていた、
そんな自分が鬱病を患った、
ということに、
とても大切な意味があるのではないか、
とここで自己分析しているわけです。

先月だったか、
私はヤコブが神と格闘した、
「ヤボクの渡し」の事件について、
メルマガに書きました。

ヤコブは自分の最大の強みであり、
最大の欠点でもあった、
「謀略としたたかさ」という、
「自己アイデンティティ」を、
あの格闘で「打ち砕かれる」わけです。
その象徴が、「もものつがいが打たれた」ことと、
「ヤコブ(かかとを掴む者)」から、
「イスラエル(神は戦う)」に、
名前が変わったことだ、と言いました。

私もまた、
自分の最大の強みは、
論理的思考力だったりとか、
知的生産力だと思っています。
鬱病ってまさにその部分が壊滅的に、
「やられる」病気なので、
これって、
サッカー選手にとっての前十字靱帯断裂とか、
音楽家にとっての難聴とか、
料理人にとっての味覚異常とか、
パイロットにとっての視覚障害とか、
そんな感じのダメージなんです。

そうすると、
「自分がよって立つ足場」
が、崩れていく感覚に陥ります。
自分がそこに立っていた世界が、
足下から崩落していく感じというか。

著者がここで続けている話というのは、
「そこから先」の話です。
著者はそこで「友」に出会った、
と言っています。

それは病室の同病者たちだった、と。

つまり、
足場が崩落した先に、
「能力を奪われた無価値な自分」しか、
残らないと思っていた。
ところがそうでないことを、
同病者たちから教えられた、
と著者は言っているんです。

再度引用します。


〈そう信じていたかっらこそ、
「病気によって能力を失う」
という想定外の体験をしたことが、衝撃でした。
能力のなくなった自分なんて、
この世に存在する価値はないじゃないか。
そう考えていました。

入院時に、病棟で共に過ごした仲間が教えてくれたのは、
そうではない、ということです。
彼らの多くもまた、病気によって能力を失っていました。〉


、、、同病者のなかには、
大学のインカレで戦うほどの、
屈強なラグビー選手がいたそうですが、
彼は「トイレに行くエネルギー」がなくなり、
尿瓶を買おうか悩んでいた、
と著者は別の箇所で書いています。

精神病院の入院患者たちは、
著者と同じように、
「よって立つ能力を剥奪された人々」でした。
全員が人生の半ばにして、
装備を外され、
魔法を全部忘れ、
レベル1に戻っていました。

著者は、「能力=価値」だと思ってるから、
能力がゼロになった自分は、
価値がゼロになるはずだ、
と考えていた。

ところがそうでない、
ということを、
病室で発見するのです。

この発見こそ、
著者にとっての「天啓」だった、
ということが後々分かってくるわけです。

次のくだりに続きます。



▼▼▼友だちの定義と、社会の在り方

→P244〜245 
〈かつて博士号を持つ大学の教員として、
当時の自分の能力をフルに回転させた授業や言論活動をしても、
「おまえは、大学に皇太子を呼べないだろ」(1章)、
「副総理よりはえらくないだろ」(4章)
としか評価されなかった。

それがどうして、属性も知られず、
能力を失った今の方が、
はるかに敬意を持って扱ってもらえるのだろう。

たとえば平成の半ばにインターネットが普及し始めたとき、
人々が夢見ていたのは、そういう関係ではなかったかと思います。
これからは、属性を問わずにいろんな人とつきあえる。
もちろん能力が不要とまでは思わなかったでしょうが、
すくなくとも成績・業績競争に勤しむ日常の世界とは、
ちょっとちがった、
学校や職場に閉ざされていては得られない、
ゆたかな関係が手に入ると。

実際に起こったことは、逆でした。
「属性・能力抜き」で言いたい放題書き散らす空間は、
2ちゃんねるの一部のような誹謗中傷の温床となり、
反対にフェイスブックやインスタグラムは
「お洒落なオフィス街にさっそうと通勤し、
余暇の過ごし方も一流の私」をアピールする、
「属性・能力顕示」の場所になりました。

退院した後も、彼らのうち何人かとは交流を続けています。
そうした関係をどう呼ぶかといえば、
月並みですが「友だち」になるでしょう。
しかし、友だちを「属性や能力に関わりなく、
あなたとつきあってくれる人」と定義している人は、
どれほどいるでしょうか。
 (中略)
だから属性や能力を失っただけ、
人は発病や休職によって、
「うしなう可能性」が出てきただけで、
自分の人格を全否定してしまう。

うしなったって別にいいよ。
それでものこるのが本来の意味での「友だち」だから。
――そういう認識が広まるだけで、
どれだけ多くの人が救われるだろうかと、
いま私は感じざるを得ません。

そんな極論めいた定義の友だちなんて、
ふつういないだろ、と感じた方もいるでしょう。
ええ、いなくてもかまいません。
じっさいに私も、たまたま入院時に運良く得られただけのことで、
そうでなければきっと、いなかったろうと思います。
 (中略)
あなたがそれを必要とする日が来るまでは
「人付き合いは苦手じゃないんですけど、
ほんとうの友だちとなると、なかなかできなくて」で、
かまわないのです。

属性や能力が全てではないということ。
それをうしなってなお、残る人との関係という概念があり、
自分が今まだそれにアクセスできていなかったとしても、
やがてつながる可能性はだれにも否定できないと言うこと。
そういう発想を社会的に育んでいくことが、
だれにとってもいまより過ごしやすい世界を、
長期的にはつくるのだと考えています。〉


、、、著者は「能力を失った果て」に、
なお友達でいてくれる人間を、
友達と呼ぶのだ、という「真理」を、
病室で発見したのです。

なぜ、ほとんどの人にとって、
「親友」は、学生時代の友人なのか、
という答えもここにあります。

学生時代は極論すると、
全員が「レベル1」だからです。
社会で何者にもなっていない人の集まりが学校ですから。
成功者もいない代わりに失敗者もいない。
そのような時期に「友達」だったということは、
自分の「芯」の部分で共鳴し合っていた可能性が高い、
というのが、親友が多くの場合学生時代に作られる理由です。

社会に出ると、
「肩書き・学歴・収入・住んでいる場所や家・
 乗っている車・業界内での評価」などなど、
いろんな「装備品」が出てくる。

そうすると目の前の人が、
自分の装備品に惹かれて付き合ってくれているのか、
本当に自分に興味があるのか、
分からなくなってくる。

いつしか次第に、
「装備品同士で会話する」
という器用な芸当を身につける。

そうして人間は、
10代より20代、
20代より30代、
40代より50代、、、、
という風に、
友人が減っていき、
「孤独で不機嫌な高齢者」が完成するのです。

この力にあらがうことはとても難しい。

まして今の世界は、
著者が指摘するように、
「肩書きや能力にしばられない付き合いが出来る場」
になると期待したインターネットが、
SNSなどによって、
逆に「いかに自分が幸せか」という、
承認欲求を競う闘技場になり、
学生ですらそのような「装備品」を、
ひとつ背負うことになってしまった。

著者の友人の定義、
すなわち、「属性や能力に関わりなく、
あなたとつきあってくれる人」が、
友人なのだとすれば、
SNSは「友だち」を得ることにおいて、
逆にノイズ、あるいは障壁になってしまっている。
この現状を考えると、
「友だち機能」によってSNSが広がった、
というのはなんとも皮肉にあふれた事実です。

さて。

著者は病室で「友だち」を発見しました。
正確には「友だちの本当の定義」を発見し、
それによって目の前の人が友だちだと分かった、
ということなのですが、
私もまた、病気によって、
「友だち」を得たので、
この感覚は非常によく分かります。

自分に付随する価値ではなく、
私という人間に価値をおいてくれる人間が、
この世界にいるんだ、
ということを、理屈でなく体験的に知ることが出来たことは、
私の「世界観」をも変えました。

作家の佐藤優氏がラジオにゲスト出演した際、
かつて政治がらみの疑惑で東京地検特捜部に拘留された経験について、
パーソナリティからインタビューされるのを、
聞いたことがあります。
「拘置所の独房で512日過ごしたことによって、 
 良かったことは?」と問われて、
「友だちが誰か分かったことです。
 あれによって生涯の友を得ました。」
と即答で答えていました。

彼はやり手の外交官でした。
マスコミ関係や、官僚、政治家、実業家、、、
そういった人々は、
彼の肩書きと能力と影響力に惹かれて、
食事にさそったり、
手をスリスリしながら近づいてきたり、
甘言を投げかけたりしました。

霞ヶ関の官僚って、
それだけで「殿様気分」を味わえます。
じっさい、30代とかで、
自分の裁量で100億規模の予算が動いたりしますから。

しかし、彼が拘留された瞬間、
潮が引くように人間がコンタクトを取らなくなったそうです。
佐藤優とのつながりが「黒歴史」になるということで、
切られたんでしょうね。
彼がSNSをもしやってたら、
1,000人いた「友だち」が、
一気に10人以下になる感じでしょうか。

それとは逆に、
外交官だったときには積極的に連絡を取ってこなかったが、
拘留されたというニュースを聞き、
近づいてきて支援を申し出る人が、
本当に少数だがいた。

佐藤さんはそのとき、
「あぁ、この人が本当の友だちだったんだ」
と分かった、と言います。

現在も彼らとは親密な関係を続けているし、
彼らは一生涯親友だと思う。
だから、小菅の拘置所で得たものは「親友」なのだ、
ということです。

『夜と霧』を書いた、
ヴィクトール・フランクルは、
『人間とは何か』という本のなかで、
人間には3つの「価値」がある、
と言っています。

ひとつめは、
「創造価値」、
これはその人が社会にどのような価値を付け加えるか、
ということで測られる価値です。
メリトクラシーの考え方に近いですね。

ふたつめが、「経験価値」。
これは、
「その人がこの世界を経験する」
それ自体に価値がある、ということです。

みっつめが、「態度価値」
これは病気などの理由により、
「経験価値」すら奪われたときに、
その「運命」自体を、
その人がどのように解釈し、受容するか、
という「選択」をすることが出来る。
その受け取り方に価値があるのだ、
とフランクルは言います。

私たちの社会は、
最初の「創造価値」に、
ウェイトの95%ぐらいをおいている社会、
と言って良いんじゃないでしょうか。

SNSでの「幸せ自慢大会」、
学歴のレース、
出世のレース、
収入や暮らし向きの比較、、、
そういった「外的な価値」に私たちは縛られています。

しかし、
それらを奪われたときに、
残りの二つの価値が重要になってくる。
この二つの価値が分かると、
「友人」の意味も分かってくる。
「友人」というのはなぜなら、
後者の二つの価値において、
共鳴し合う存在だからです。

そういった世界観が社会に広がると、
日本はもうすこし、
万人にとって生きやすい社会になるのではないか、
鬱病を患った社会学者の與那覇さんは、
そう主張しているわけです。


、、、とここまで書いて、
ごめんなさい。
文字数と執筆時間が足りなくなりました。

最後まで解説出来ませんでしたので、
来週、もう一回だけ、
この本の最後の部分を解説したいと思います。
4回にまたがるとは当初思ってませんでしたが、
まぁ、半年かけた読書会だと思って、
お付き合いくだされば幸いです。

それではまた来週!

本のカフェ・ラテ 『知性は死なない』(第二回)

2019.12.17 Tuesday

第100号   2019年7月16日配信号

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■2 本のカフェ・ラテ
「本のエスプレッソショット」というこのメルマガの、
開始当初からの人気コーナーでは、
一冊の本を約5分で読める量(3,000〜10,000字)で、
圧縮し、「要約」して皆さんにお伝えしてきました。
忙しい読者の皆さんが一冊の本の内容を、
短時間で上っ面をなぞるだけではなく「理解する」ために、
「圧縮抽出」するというイメージです。
この「本のカフェラテ」はセルフパロディで、
本のエスプレッソショットほどは、網羅的ではないけれど、
私が興味をもった本(1冊〜2冊)について、
「先週読んだ本」の140文字(ルール破綻していますが)では、
語りきれないが、その本を「おかず」にいろんなことを語る、
というコーナーです。
「カフェ・ラテ」のルールとして、私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメントしていく、という形を取りたいと思っています。
「体系化」まではいかないにしても、
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。
密度の高い「本のエスプレッソショット」を牛乳で薄めた、
いわば「カフェ・ラテ」のような感じで楽しんでいただければ幸いです。
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前回、6月11日に、
第一回をお送りした、
『知性は死なない』の本のカフェ・ラテですが、
今回は「第二回」をお送りします。
多分今回では最後まで行けないので。

この本は4月にインドで夢中で読みました。
かつてないほど読書メモを一杯書いたので、
語る事がいっぱいあるのです。

では行ってみます。

『知性は死なない 平成の鬱をこえて』

読了した日:2019年4月13日
読んだ方法:札幌のブックオフで購入(889円)
著者:與那覇潤
出版年:2018年
出版社:文藝春秋
リンク:
https://amzn.to/2U6o988


▼▼▼鉛様(えんよう)の麻痺は、単なる疲労とは質的に異なる

→P61〜62 
〈付言すると、鬱状態で生じる「からだの重さやつらさ」もまた、
「毎朝、出勤の足が重い」といった
「嫌な行動に乗り出す意欲が起きない」事態を指す
ふつうの語法とは、まったく意味が違います。

医療現場では「鉛様の麻痺」ということばで形容されるように、
本人の主観では自分の体がなまりになったかのように重くなり、
自分の意志ではどうしても動かせない。
動かないから仕事は愚か、
食事にも洗顔・入浴にも行きたくない、
という状態がうつ病における「からだの重さ」です。

「そんなのは体を鍛えていないからだ」
「そうはいってもトイレには行くじゃないか」という人には、
私が病棟で同室だったラグビー部の男子大学生の
「鬱状態が激しいときに、
 尿瓶(しびん)を買おうか本気で悩みました」
ということばを紹介しておきたいと思います。〉


、、、「本のカフェ・ラテ」コーナーで、
これまで取り上げてきた本といえば、
『リンカーン うつ病を糧に偉大さを鍛え上げた大統領』
『フロー体験 喜びの現象学』
『木を見る西洋人 森を見る東洋人』
『AI VS 教科書を読めない子どもたち』
など、テーマが多岐にわたるのですが、
なぜ「うつ病」に関するテーマを、
繰り返し扱うのか?

たいていの「精神疾患サバイバー」は、
過去の自分の病気について積極的には語りたがりません。
そもそも自分がうつ病を患った経験があることを、
ひた隠しにする人もいる。
いや、そのほうが多いでしょう。

当たり前です。
そのことで周りから偏見の目で見られるのも嫌だし。
保険に入るときに保険料が高くなったりするし、
就職の際には「履歴書汚し」だし、
結婚を望む独身者なら「経歴汚し」です。
うつ病を患った経験のある人を、
社員として雇ったり、
結婚して伴侶としたりしたいと、
誰も積極的には思わないでしょうから。
そしてうつ病を患うほど優しい人というのは、
「きっとそうだろうな」とひっそりと思うでしょうから。
周囲に気を遣わせるのも嫌だし、
自分にもひとつも良いことはないから、
黙っておこう。

あと、精神疾患の古傷って、
肉体的な古傷以上に、
「痛みが残る」んですよね。
そのことを語るだけで、
その当時の痛みが生々しく思い出されて、
「身が削られる」わけです。
だから、なるべくなら思い出したくない。

そんな諸々の理由から、
多くのうつ病経験者は、
過去の自分の病歴を秘匿します。
そのことに関して、
私はいっさいの非難を斥けます。
ぜったいにそうしたほうが良いし、
是非そうしてください、と思う。
法的に問題がある場合を除いて、
是非過去のことは忘れて、
前に進んでください、と。

私はですから、
自分の病歴を積極的に語る、
という意味で、
「うつ病サバイバー」の中の、
かなり珍しい部類に属します。

それには理由があります。

うつ病療養の2年間は、
マジで「生きた地獄」だったわけですが、
そのなかで、漆黒の暗闇の中の、
遠くに見える蛍の光のような、
ほんのわずかな希望の灯火のひとつが、
「この地獄から出たときに、
 同じように地獄にいる人に、
 声を届ける人間になる。
 そのための準備期間として、
 神様が私を特別に選んで、
 この病気を授けてくれたのだ。」
という確信にも似た思いでした。

療養中の最も病状が悪いとき、
私は文字がまったく読めませんでした。
少し本が読めるようになったとき、
唯一読むことのできた本のジャンルは、
「うつ病闘病体験をした人の手記・あるいは回顧録」
だったのです。

つまり今紹介している『知性は死なない』
のような本だけは、心にしみいりました。
そして今思えば、それが、
ギリギリのところで、
「この深い暗闇を歩んだ人が、
 自分以外にもいる」
という超越的な連帯を与え、
地獄を味わい尽くす覚悟を与えてくれました。

イエスは「裏切りの試練」を経験するペテロに向かい、
「あなたは、立ち直ったら、
 兄弟たちを力づけてやりなさい」
と命じましたが、私はそれらの手記を読みながら、
私が次に何か文章を書くことができるようになったときは、
今の私のように漆黒の暗闇の中にいる誰かのために、
言葉を紡ぐのだ、と決意したのです。

その決意を私は今も実行しています。
だから当メルマガでも、
私は定期的に精神疾患を扱い、
そして自分の体験談をその都度語ります。
身を削ることになったとしても、
そのためにある「この身」だと思いますので。

前置きが長くなりました。

引用箇所で「鉛様の麻痺」という言葉が出てきます。
うつ病というのは、
精神と肉体をこの地上に縛り付ける重力が、
健康時の10倍ぐらいになるようなものです。
自分の身体と精神が、鉛のように重くなる。
動きたくても動けない。
朝、布団から出られない。
身体が言うことを聞かない。
コーヒーを入れることも苦行のように辛く、
トイレに行くことも至難の業になる。

「身体を鍛えてないからだ」
「俺だって朝仕事に行きたくねーよ。
 だからオマエも頑張れ」的な、
完全にスベったアドバイスは、
本質においてこの症状を理解していません。
著者が指摘するように、
大学ラグビー部で鍛えた身体を持ってしても、
うつ病の症状によって、
「しびん」が必要になるほど、
身体が動かなくなるのです。
だって、脳が器質的に変化してるんだもん。
根性でどうにかなるレベルを超えています。
「根性で腸捻転を治せ」
「気合いがあれば骨折した大腿骨でも、
 走れるはずだ!」
って誰も言わないじゃないですか。
「根性(信仰)でうつ病を吹っ飛ばす」
みたいのって、そういったアドバイスに近い、
ナンセンスな言葉です。



▼▼▼木村敏氏の統合失調症の「つつぬけ感覚」と
「中動態の世界」をつなぐ補助線

→P99〜102 
〈2ヶ月間の入院生活を過ごした私には、
統合失調症の友人がいます。
彼らに世界がどう見えているのかを理解したいと思って、
手に取った一冊の本から、
私は精神病理学という学問を知ることになりました。
日本でのこの分野の碩学である木村敏氏が、
京都の日独文化研究所で行った講演をまとめた
「臨床哲学講義」という本です。
この本で木村氏は、教え子だった長井真理氏の研究を引きながら、
統合失調症の患者がしばしば訴える
「つつぬけ感覚」について語っています。

統合失調症の人というと、どんなイメージでしょうか。
「わけがわからない妄想を、
誰も聞いていないのに大声でわめき散らす、攻撃的で怖い人」
といった、ネガティヴなものでしょうか。
そういう患者さんが、いないというのではありません。
しかし、じっさいには統合失調症になる人の病前性格をみると、
小さい頃は育てやすく、裏表がなくて嘘がつけない、
すなおな子どもだった人が多いそうです。
それではなぜ、そういうことになるのか。
つつぬけ体験とは
「自分の頭の中の考えが全て、
周囲の人々につつぬけになっている」とうったえる、
統合失調症の症状のひとつですが、
どうして患者はそのように感じてしまうのか。

じつは、これは必ずしも、
ふつうの人とも無縁の現象ではないのです。
職場の会議などへ「今日は絶対に反対してやるぞ」
と意気込んで出席したのに、
周囲の空気に飲まれて気がついたら賛成していた、
といった経験はありませんか。
 (中略)
そんな経験をしたとき、
多くの人は「自分が自分でないような感じ」をもつのでしょう。
外見上は、確かに自分自身が議案に賛成したり、
その人を誉める言葉を口にしているのだけど、
それがいつもの「この自分」が行った行為だとは、とても思えない。

むしろ自分と周囲の人を包括した、
なにか大きな集団の無意識のようなものがあって、
それが一時的に自分の体をジャックして
そういう行動を取らせたという方が、本人の実感に近い。
一時的にではなく、自分がなす行為のほぼ全てについて、
このようにしか感じられなくなってしまった状態が、
統合失調症だというのです。

木村氏の表現を引くと
「だれのものでもない『非人称』の生命の躍動が、
『自己』の主導権の元では体験出来なくなり
・・・誰とははっきり限定できない、
自分以外の力の主導権の元で体験されるようになります」。

まさしく、あたかも親の言うことをいつも額面通り全て受け入れて、
他人と自分の意志とが一つに融合している、
素直な子どものような状態です。
しかし成長して自我がつくられてゆくにつれて、
この「自分が自分でないような感じ」に埋没しているわけにはいかず、
むしろ苦痛を覚えるようになります。

その感じを言語や論理でとらえようとすると、
「なぜか『この自分』が考えたり、しようとすることが、
口にする前からまわりの人に先取りされている」
→「そんなことがあるはずがない、でも現に起きている」
→「もうスパイ組織が盗聴しているとしか、説明のしようがない」
→「いやそんな技術を持つのは、
  人体をハッキングできる宇宙人かも」となっていくのです。

「自己とは何か」とはしばしば、
哲学者が暇つぶしに考える浮き世離れした命題だと思われています。
しかしじっさいには、まさにそのことで
体や生命が危機に揺るがされている人たちがいる。
それが精神病を病むと言うことなのだ。
そういう精神病理学のメッセージは、
自身の病気の意味が見えずにもがいていた私にも、
もういちど思考するヒントをくれました。〉


、、、「自己とは何か」というテーマと、
精神疾患との関連を扱った良書に、
『中動態の世界』という書物があります。
この本で書かれていたことと、
今引用した内容は非常によく似ている。

統合失調症の人の「幻聴」っていうのは、
実は健常者でも体験することのある現象と地続きだ、
ということを、著者は精神病理学の木村さんの本で気づきます。

私たちは「自己」を持っていると思ってるんだけど、
それは主観的にそうだというだけであって、
実はそれほど「自己」は確たる概念ではありません。
特に東洋の言語を使っている以上、
私たちの自己は「強く文脈に依存」します。

「俺は独立独歩、自分の自己を持ってる」、
と胸を張るのは自由ですが、
それを「日本語で」言っている以上、
多分その人もこの例に漏れません。
ニズベットの『木を見る西洋人、森を見る東洋人』
で面白い調査結果が紹介されていて、
それによると、
同じアメリカに住む東洋系アメリカ人でも、
英語を家庭内の言語にしていると、
「はっきりした自己」を持ち、
中国語や日本語を家庭内の言語にすると、
「文脈依存性の高い自己」を
持つようになることが紹介されています。
逆に遺伝的には西洋人でも、
長い間東洋で生活し、
たとえば日本語がぺらぺらになると、
「文脈依存性の高い自己」の振る舞いをするようになり、
性格が変わっちゃうことが分かっています。

、、、で、著者が例に出すのは、
「自分ではAと思っていたのに、
 その場の雰囲気に流されてBと言っていた。」
それをしたのが自分だとは思えない、
というような状況です。

「空気に流される」というような状況ですね。
これも日本語に特有の現象の1つで、
「場の空気」が何か主体を持っているかのように振る舞う。
日本語には「主語が不要」であることと、
私は関係があると思っている。
「不要な主語」が、「空気」という形を取って、
そこにいる個人の「意識をジャック」したかのように振る舞う、
というのが空気の正体ではないかと思っています。

クリスチャンだとそうではない、
ということもありません。
クリスチャンの人が頻繁に、
「そのように祈らされています」
「そのようにさせられてきました。」
っていう不思議な言葉遣いするじゃないですか。
あれって私は「空気」が別の形に姿を変えたものに、
なり得る表現だと思っています。
もちろん実際に神が導き、
神が「祈るように促す」ということもあるでしょう。
しかし、「主語を欠いたクリスチャン用語」というのは、
実は「神の名における他者へのゆるやかな強制了解」
それが悪化すると「信仰虐待」につながると思うので、
私は意図的に、
「そのように私は祈っています。」
「そのように神が導いているように私は考えたので、
 私の判断でそういう行動をしました。」
という風に、主語を省略しないように、
意識して表現するようにしています。
あんまり「霊的」に見えないというデメリットはありますが笑、
ハッキリ言って「人から霊的に見られる」なんて、
鼻くそ以下の「どうでもいいこと」ですから。
そんなの「いくらでもくれてやる」と思ってます。
自分が主体を失わないことのほうが大事です。
自分がしたことの責任を、
神になすりつけてはいけません。

さて。

そんなわけで、
「主体が何者かにジャックされたかに思える経験」
というのは、健常者でも経験する、と著者は言います。
統合失調症の患者は、
病前性格が「非常に真面目な優等生」
であることが多いと著者は指摘しますが、
彼ら、彼女らがその優等生性ゆえに、
「自らの意志」を親や先生や社会規範と、
過剰に「同化」させ、
その結果、主観的には、
「周囲があらかじめ私の意志を知っているとしか思えない」
という「筒抜け感覚」をもつようになる。

自分の脳内は他者に閲覧されている、と。
それが「盗聴妄想」などにつながる、
と指摘しているわけです。

精神病理って、理系と文系の交わるところなのですよね。
統合失調症やうつ病に、
ケミカルな薬が「効く」ということは、
脳の器質的な変化があることの証左ですが、
精神病理は必ずしも脳内物質だけに還元できない。
「中動態の世界」で論証されているように、
それは「言語」や「自己」などといった、
哲学的な問題とも地続きなのです。


▼▼▼言語に対する身体の逆襲、という鬱観

→P128〜130 
〈十何巻にも及ぶ大長編小説や、
漬け物石のように重たい研究書を書き上げる著者がいるように、
言語というのは原理的には、
無限に駆動し続けることが出来ます。
さらにはその読者も、理念上はいくらでもより多く、
より広く拡大させることが可能です。
エクリチュールによって引き裂かれていく自己には、
際限というものがないのです。
こうして、身体を離れて無限に広がっていくかに見えた
「自分」というものの輪郭が、
あるとき、引っ張りすぎたゴム紐が切れたかのように、
いきなり破綻して元の身体の大きさにまで縮んでしまう
――それが、おそらくは「うつ転」(躁状態から鬱状態への急変)
なのではないかというのが、私の実感です。

じっさい、鬱状態になると、
いわば言語で動いている自分の意識に対する
「身体の自己主張」とでもいうべきものが起こります。
頭では「起き上がろう、起き上がれ!」と指令を出しているのに、
手足が持ち上がらず、布団から出られない。
2章で見たような、鉛様疲労感をともなう麻痺症状です。 
無理矢理起き上がっても、
重力が狂ったかのような重さを感じて、
家の中では這って動かなくてはいけなかったり、
「前へ進め!」といくら念じても、
路上でうずくまってしまったりします。
 (中略)
また、身体自体はどうにか動かせる場合でも、
うつになると人は布団をかぶって閉じこもりたくなるようです。
映画では堺雅人さんが演じていましたが、
『ツレがうつになりまして。』では「カメフトン」と形容されている、
文字通り亀の甲羅のように掛け布団にこもって、
出てこなくなる状態です。
私の場合はむしろ、
ミイラのように布団を身体に巻き付けて、
その中でふるえていました。

はたからみると、それだけ悪寒がしているのか、
あるいはたんに意欲をなくして
引きこもりになったのかと判断されそうですが、
どちらもちがうのだと思います。
むしろ、いまある自分の身体というかたちの、
自己の輪郭をもう一度はっきりさせようという衝動が、
そういう行為を取らせたのではないかと、私は思っています。
鬱に転じてから2年以上の後、
ようやっと身体の面では従来の状態に戻ったかなと思えたとき、
失った体力の回復をかねて、水泳を始めました。
 (中略)
水の中にいることで、
身体の輪郭というものをいちばん実感できるからです。
その意味では、泳ぐよりも水中でウォーキングをするときが、
身体を動かすごとに自分の輪郭が生き生きと感じられて、
今の自分にはいちばん心が落ち着く時間になっています。
そうやって身体としての自己の輪郭を陶冶(とうや)することで、
ようやっと言語で自分の体験を表現しようとする能力と意欲もまた、
完全な喪失から回復してきたという気がします。


、、、「言語(意識)」VS「身体」
という対立軸で、うつ病(双極性障害で言う「うつ転」)を、
説明できるのではないかと、ここで著者は言っています。

意識と身体というのは、
調和が取れているうちは良いのですが、
そのバランスが崩れると、
身体が意識に対して「ストライキ」を起こす。
それがうつ病の状態なのではないか、と。
意識が「布団から起き上がれ!」
と命じても、身体がストライキを起こし、
その命令を聞かなくなる、ということです。

養老孟司さんがいつも言っていることに、
都市=脳(意識)であり、
農村=身体(自然)だ、ということがあります。

現代世界(20世紀以降の世界)というのは、
自然が都市によって呑み込まれて行く、
一方通行の過程だったと養老さんは総括しています。

「都市化」が世界規模で起き、
それは進むことはあっても戻ることがなかった。
実は「都市化指数」と「うつ病の罹患率」は、
正の相関関係にあります。
開発途上国や戦争中の国に、
うつ病や自殺が極端に少ないことは知られています。
その国が豊かで平和になり、
都市化がある程度まで進むと、
「自殺とうつ病」が社会問題になる。
現代世界の新興国ではそのような事態がまさに進行中です。
4月にインドに言ったとき、
私はまさにこれを現地で耳にしました。
現在、インドの都市部の問題の1つは、
精神疾患と自殺です。
10年前、日本で毎年2万人以上自殺する、
ということを「信じられない」と言っていた彼らは、
もはやそれに驚かなくなったのです。
インドが「都市化」したことの証左ですね。

なぜ、都市化(意識の優位・脳の優位)が、
うつ病を引き起こすのか?

與那覇さんの論に従えば、
それは「意識に対する身体の反逆である」
と解釈することができる。

「都市化・意識化・脳化」を、
養老孟司さんは、
「予測と統御」と呼んでいました。
「ああすればこうなる」と言い換えても良い。

つまり「先が読めること」が、
「都市」の条件なのです。
「ああすればこうなる」が支配する世界が、
「都市」です。
エレベーターのボタンを押したらエレベーターは降りてくる。
ボタンを押したら炊飯器は米を炊いてくれる。
アプリでタップしたらタクシーが来てくれる。
ホームで待っていれば電車が来る。
ある時間になると仕事が始まり、
ある時間になると仕事が終わる。

そうった「予測と統御」が成り立つ、
というのが都市です。

自然(農村)はその逆ですね。
「ああしてもこうならない」ことが多い。
豊作を願っても天気が優れない。
望まない台風がやってくる。
害虫が作物を食べてしまう。
山から野生動物がやってきて、
飼っていた鶏が殺される。
よかれと思って肥料をやったが、
それが根腐れにつながってしまった。

「自然」は、「予測と統御」が成り立ちません。
私たちの「ああすればこうなる」を、
遙かに超えて複雑なのが自然であり、
その差が「都市と農村」の違いだよ、
と養老さんは指摘します。

20世紀以降、人類は徹底的に、
「ああしてもこうならない」ものを生活から排除し、
「ああしたらこうなる」に囲まれて生きることを望んだ。
そして、それを実現した。
その結果、国連によると、
1950年には世界人口の30%だった都市人口が、
2050年には70%になると予測している。
100年の間に、
7割が農村人口から、
3割が農村人口へ、逆転しようとしている。

ところがひとつ問題がある。
人間というのは、
「意識=脳」だけではなく、
「身体=自然」からなる存在だということ。

あらゆることを、
「ああすればこうなる(意識)」で満たしていったとき、
「身体」は無視される。
脳は「都市」に属しますが、
都会人だったとしても身体は「自然」に属します。
「いや、俺は身体も都会人だ!!」と言い張る人は、
自分の意志で髪の毛を伸ばせるかどうかやってみてください。
あるいは、自分の意志でツメを伸ばせるでしょうか?
自分の意志でしゃっくりを止められるでしょうか?
まばたきを1時間せずにいられるでしょうか?

できませんよね。

だとしたら、身体はやはり「自然」に属します。
都市化した生活をするとしかし、
身体は意識に従うことを強制されます。
農村生活よりもはるかに強く、
都市生活は「意識」が身体を支配します。
決められた時間に起き、
決められた時間に仕事をし、
もう疲弊しきっているのに働きます。
本当は動きたいのに椅子に長時間座り、
本当は太陽の光を浴びたいのにオフィスに閉じ込められます。
都会生活というのは実は、
「意識による身体の支配」であり、
身体は「意識という独裁政権」に、
服従することを強制される。

それに対し、身体が、
「もういやだ!」と、
ストライキを起こした状態、
これがうつ病なのではないか、
と與那覇さんはここで言っているわけです。

自然環境を人間が圧迫し続けた結果、
地球温暖化や気候変動により、
大洪水、ハリケーン、雪崩などが引き起こされ、
自然が「都市化」に反逆するかのように。

「ツレがウツになりまして」
に出てくる「カメフトン」の話も面白い。
あれは、身体の輪郭を確認することで、
「身体の輪郭を取り戻し、
再び言語(意識)と身体(自然)の、
調和を取り戻そうとするプロセス」
という説明もなんとなくしっくり来ます。



▼▼▼身体的なキリスト教の最右翼のロシア正教、
言語的なキリスト教の最右翼のピューリタンを
東西の地理的な両極でとらえるというのは面白い

→P141 
〈ちなみに東方キリスト教を代表するロシア正教の場合は、
イコン(キリストの肖像などの宗教画)とのふれあいを重んじるなど、
カトリックよりもさらに身体への傾斜が強いキリスト教になります。
じっさい、ロシアの宗教論争は
「十字を三本指で切るか、二本指の慣行を守るか」
といったトピックを巡って展開し、
それらがツァーリ(皇帝)の王権と結びついて、
政祭一致的な専制権力をかたちづくりました。

ヨーロッパの東端であるロシアに、
徹底して身体を重んずるキリスト教社会があったとすると、
逆に言語に軸足を置くプロテスタントの中でも
さらなる過激派(ピューリタン)が、
イギリスから西へ出航してつくりあげた国がアメリカです。〉


、、、キリスト教は歴史のあるときに、
「西方教会」と「東方教会」に別れました。
西方教会はその後さらに、
「ローマカトリック」と「プロテスタント」に別れます。
ヨーロッパを中心とする世界地図を頭に思い浮かべて下さい。

そうすると、
アメリカが最も西にあり、
日本が最も東にありますね。
日本が「極東」と呼ばれるのはこのためです。

この地図における、
コルプスクリスティアヌム(キリスト教世界)の勢力図は、
だいたいこうなります。
最西端のアメリカがプロテスタント(ピューリタン)
真ん中のヨーロッパ(イタリア)にカトリック
そして東のロシアが「東方教会(ロシア正教)」となります。

西から東につれて、
プロテスタント→カトリック→ロシア正教となるのですが、
「言語を重視」「身体性(感覚)を重視」という軸を取ると、
プロテスタント>カトリック>ロシア正教の順番で、
「言語を重視する宗教」という特徴があります。

日本は明治維新以来、
徹底的に「日本製ピューリタニズム」
ともいえる思想が支配するようになりました。
このへんは山本七平が詳しく論じています。
この「日本製ピューリタニズム」により、
もともと東洋的で「身体性に重きを置く」国民性は、
なかば強引に「意識優位・言語優位」に変化した。
脳の中身は数世代で変わるはずもないので、
社会が要請する「言語による独裁」は、
日本人の生き方に「無理を強いた」に違いないのです。

日本にうつ病が多いのは、
ブラック企業や真面目すぎる国民性の影響もあるでしょうが、
じつは「言語VS身体」という補助線を引くと、
ちょっと新しい風景が見えてきたりします。


、、、というわけで、
今回は文字数がオーバーしたのでここまで。
次回に続きます。
3回で終わらないかもしれないですが、
なんとか「シーズン2」のうちに終わらせたいと思っています。
では、お楽しみに。

本のカフェ・ラテ 『知性は死なない』【1】

2019.11.12 Tuesday

第095号   2019年6月11日配信号

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 本のカフェ・ラテ
「本のエスプレッソショット」というこのメルマガの、
開始当初からの人気コーナーでは、
一冊の本を約5分で読める量(3,000〜10,000字)で、
圧縮し、「要約」して皆さんにお伝えしてきました。
忙しい読者の皆さんが一冊の本の内容を、
短時間で上っ面をなぞるだけではなく「理解する」ために、
「圧縮抽出」するというイメージです。
この「本のカフェラテ」はセルフパロディで、
本のエスプレッソショットほどは、網羅的ではないけれど、
私が興味をもった本(1冊〜2冊)について、
「先週読んだ本」の140文字(ルール破綻していますが)では、
語りきれないが、その本を「おかず」にいろんなことを語る、
というコーナーです。
「カフェ・ラテ」のルールとして、私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメントしていく、という形を取りたいと思っています。
「体系化」まではいかないにしても、
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。
密度の高い「本のエスプレッソショット」を牛乳で薄めた、
いわば「カフェ・ラテ」のような感じで楽しんでいただければ幸いです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼久々の「本のカフェ・ラテ」▼▼▼

久しぶりの「本のカフェ・ラテ」コーナーです。
一冊の本の私のEvernoteメモに、
私がコメントを連ねていくコーナー。

前回はチクセントミハイの、
『フロー体験 喜びの現象学』
を解説しました。

今回はインドにいる間に読んだ、
『知性は死なない 平成の鬱をこえて』を解説します。
動画でも絶賛したのですが、
いつかカフェラテ形式で紹介したいと思っていたので、
今回、やることにしました。

與那覇潤という人は、
私の弟と同じ学年で、
しかも同じ年に東京大学に入学してるので、
「弟の大学の同級生」なんですよね。
東大は学生数が多いので、
弟に聞いても「知らない」って言ってましたが、
私は彼の『中国化する日本』という本を、
数年前に読んで感銘を受けていました。
同世代に凄い人がいるんだなぁ、
という認識でした。

3月に札幌に行ったとき、
ブックオフに立ち寄り、
たまたま目に「飛び込んできた」のがこの本でした。
重要な本の背表紙が、「目に飛び込んでくる」
ということって、何年かに一度経験します。
「本読み」にとって至福の経験のひとつです。

そんで、ブックオフでぱらぱらとページをめくって驚いた。
彼は鬱病を患い、
休職の後、務めていた大学を退職し、
この本は復帰第一作だということを知ったのです。
それで、ブックオフで買ったというわけ。
そして、インドで「半日、人を待つ」という、
けっこう頻繁に訪れる待ち時間に、
一気に読んだのがこの本です。

與那覇さんは私と約1年遅れて、
だいたい私と同じ期間、闘病しています。
そして彼がその闘病の中で発見したものというのが、
私が闘病を通して発見したものと、
とてもよく似ていたのに驚きました。

それでは早速、
カフェラテ形式で解説していきます。


▼▼▼『知性は死なない 平成の鬱をこえて』

読了した日:2019年4月13日
読んだ方法:札幌のブックオフで購入(889円)

著者:與那覇潤
出版年:2018年
出版社:文藝春秋

リンク:
https://amzn.to/2U6o988

▼▼▼とびらの言葉:パスカルのパンセから

→P6 
〈人間は否応なしに狂っているので、
狂わずにいることが、
他の狂気の在り方からすれば狂っていることになる。
私は、人間をほめると決めた人たちも、
人間を非難すると決めた人たちも、
気を紛らすと決めた人たちも、みな等しく咎める。
私が認めることの出来るのは、
うめきながら探し求める人々だけだ。〉


、、、本の「とびら」に、
過去の作家のことばがアーカイブされているのって、
好きなんですよね。
あと、映画の冒頭で、
歴史上の人物の「名言」がテロップで出る、
というのも好きです。

あまりにもあざといと鼻につきますが、
その「冒頭の引用」が、
本を読み進め、映画を後半まで観ると、
「ああ、つまりあの言葉はこういう意味だったのか」
という「再定義」されるような構成になっていると、
なんとも言えないカタルシスを私は味わいます。

本書の冒頭にも、
かのパスカルの引用があります。
パスカルのパンセは以前読んだことがあります。
読むと分かるんですが、
あの本って、数学者のパスカルが、
他者をキリスト教徒にしようとして書いた、
「伝道のためのハンドブック」みたいなものなんですよね。

「人間は考える葦である」
というあまりにも有名なフレーズは、
この『パンセ』に出てきます。

2016年の私の読書メモに、
『パンセ』からこんな言葉が書き出されていました。

→P112 
〈この世のむなしさを悟らない人は、
 その人自身がまさにむなしいのだ。〉

冒頭の言葉とよく似た趣旨ですね。

〈私は、人間をほめると決めた人たちも、
人間を非難すると決めた人たちも、
気を紛らすと決めた人たちも、みな等しく咎める。
私が認めることの出来るのは、
うめきながら探し求める人々だけだ。〉

とパスカルは言っています。
楽観主義者=オプティミストも、
悲観論者=ペシミストも、
享楽主義者=ヒードゥニストも、
パスカルは認めない、と言っているのです。
この世の中を肯定するのも、
否定するのも、
肯定も否定もせず、
「とにかく楽しむ」のも、
全部現実から逃げてるだけだ、と。

パスカルが認めるのは、
「うめきながら探し求める人々」だけだと彼は言います。
本書を読むと分かりますが、
與那覇潤さんにとって鬱病になった体験というのは、
「うめきながら探し求める旅路」だったというのが分かります。
私にとっても、まったくもってそうでした。
100%同意します。


▼▼▼與那覇潤の「平成とは?」

→P8 
〈それでは「平成時代」とは、
どんな時代として振り返られるのでしょうか。
ひとことでいえば、「戦後日本の長い黄昏」
ということになるのではないかと、私は思います。
この30年間に、戦後日本の個性とされたあらゆる特徴が、
限界を露呈し、あるいは批判にさらされ、
自明のものではなくなりました。

・海外への派兵を禁じているとされた、平和憲法の理想
・けっしてゆらぐことはないといわれた、自民党の単独一党支配
・つねに右肩上がりだと信じられてきた、経済成長
・いちど正社員になれば安泰だと思われた、日本型雇用慣行
・その地位は盤石のはずだった、「アジアの最先進国」という誇り

平成の幕引きを担おうとする安倍晋三首相は、
「戦後レジームからの脱却」が持論で、
憲法改正の発議を目標としています。
その成否や賛否は、しばらくおきましょう。

すくなくとも平成という時代が、
戦後日本に対する再検討と共にあり、
最後の総仕上げとしての改憲問題を積み残しつつ、
閉じられようとしていることについては、
多くの読者の同意を得られるものと思います。〉


、、、本書タイトルからも分かるように、
本書のユニークさは、
うつ病体験というきわめて個人的な出来事を補助線にして、
「平成とはなんだったのか?」という、
きわめて普遍的な社会的問題に取り組もうとしているところです。

與那覇さんは平成とは、
「戦後日本の長い黄昏」だったと分析します。
「戦後日本」という「神話」が、
制度疲労を起こしているのが顕在化したのが、
平成という時代だったのだ、
と彼は言っています。

終身雇用制、
右肩上がりの経済成長、
自民党の一極支配、
官民複合型の護送船団方式、
「平和憲法」の自明性、
アジアの最先進国、という地位

これらが自明でなくなったのが、
平成という時代でした。

最近私は衝撃の統計データを見ました。
デイヴィッド・アトキンソンの著作のなかに、
「最低賃金」の各国比較が載せられているのですが、
日本の最低賃金は今や台湾より下です。
「アジアの一等国」というのは、
90年代までの話しであり、
その感覚をいまだに引きずっているのは、
時代錯誤もはなはだしい。

日本はもはや、
よく言って「普通の国」、
悪くすれば「二流国に足を踏み入れている」
というのがデータが物語る現実です。

「世界が驚いた凄いニッポン」
などという番組やコンテンツや書籍で、
「文化的自慰行為」にふけるというのは、
二流国からなんとかして這い上がるための、
ガッツを与えてくれません。
逆に「自国中心主義に引きこもる三流国」に、
スベり落ちる現象ですので、
みなさん、注意が必要です。
ああいったものから遠ざかりましょう。

話しがそれました。
世間にはあらゆる分野において、
「90年代のまま時計が止まっている人」が多いのですが、
それは「平成の黄昏」を、
しっかりと咀嚼していない証拠です。

話しを先に進めましょう。


▼▼▼本書の性格・闘病体験ではなく、
自身の病気という内的危機を
日本の現状という外的危機と共鳴させようという試み

→P13〜14 
〈平成の30年間に知識人が試みたのは、
戦後という「パンドラの箱」の封印を解くことでもありました。
たとえば憲法や軍事に関しては、
かつてよりもタブーが少なく議論できるようになり、
一般国民を先の大戦における軍国主義の
「犠牲者・被害者」と位置づけてきた昭和の自画像にも、
するどいメスが入れられました。

しかし、その開けてしまった箱の中に、
いまもまだ希望は残っているでしょか。
もういちど日本が「戦争」にまきこまれるというかたちで、
「戦後」が完全に終わりを告げるのなら、
平成という長い黄昏の果てに待っていたのは、
夜であり闇であったということになるのでしょうか。

この本は、そういう平成の時代に自我を形成し、
ごく短い期間だけ学者(大学准教授)として
現実にコミットしようとした私の、
挫折と自己反省の手記です。

私もまた、学問に基づき
自身の望むところを社会で実現したいと願っていましたが、
かたちにできたことは、なにもありません。
そして、その過程で躁鬱病(双極性障害)という精神の病を患い、
教育・研究という任務を担うことが出来なくなったために、
大学を離職することにもなりました。

しかしながら、本書は決して、
目下の世の中に対する恨みごとや、
病気に伴う苦労をつづった「お涙頂戴」の書物ではありません。

当初は知識人の好機ともみられていた、
世界秩序の転換点でもある平成という時代に、
どうして「知性」は社会を変えられず、
むしろないがしろにされ敗北していったのか。

精神病という、
まさに知性そのものを蝕む病気と付き合いながら、私なりに
その理由をかつての自分自身に対する批判も含めて探った記録が、
本書になります。〉


、、、本書の性格は、
「カテゴライズ不能」です。
著者も言っているように、
「よくある闘病記」とはまったく性質が違う。
かといって「社会批評」の本でもない。

うつ病という、
「自らの知性そのものがダメージを受ける病気」によって、
著者の「世界観」が変わる事を通して、
「この平成とは何だったのか?」
という問いに対する、
新しい切り口を発見していく、
著者の魂の旅路を、
一緒に疑似的に旅する、
というような体験が、
本書を読んだ私の感想になります。



▼▼▼病によってナラティブが変わり、
「知性は移ろうがそれでも知性は死なない」ことを体験した著者。
病によって「近代とは別の物語を語る」
「世界観を語る」ことを体得した私とよく似ている。

→P14〜15 
〈知識人とされる人には往々にして
「世の中は移り変わるけれども、知性は変わらない」
という信仰があります。
知性を不動の価値基準として固定した上で、
目の前を移ろう諸現象の「問題点」や「限界」に筆誅を加える。
そうしたスタンスを取りがちなのです。

しかし知性の方こそが、
うつろいやすく限界付けられたものだとしたらどうか。
そのような観点に立たなければ、
日本のみならず世界的な、
知性の退潮を正しく分析できないのではないか。

いちどは知的能力そのものを完全に失い、
日常会話すら不自由になる体験をした私が、
そのような思考の転回を経験することで、
もういちどものごとを分析し語ることが出来るようになった。
その意味では本書もまた闘病記ではありますが、
それはけっして、読者の同情を惹くことが目的ではありません。

読んで下さる皆さんにお願いしたいのは、
本書を感情的に没入するための書物に、
してほしくないということ。
むしろ、ご自身がお持ちの知性を
「再起動」するためのきっかけにしてほしいと、
つよく願っています。

なぜなら、知性は移ろうかもしれないけれども、
病によってすら殺すことは出来ない。
知性は死なないのだから。〉


、、、東京大学を卒業し博士となり、
大学で教鞭をとり著作を執筆していた著者は、
あきらかに「知識人」です。
英語では「インテレクチュアル」といいます。

ところがこの「インテレクチュアル」は、
世界中で今、苦境に立たされています。
「彼らは人より物事を知っていて、
 人よりも物事を深く考えているのだから、
 きっと彼らの言うことには道理があるはずだ。
 もし彼らの言うことが分からないとしたら、
 こちらの基礎的な知識や理解力が不足しているだけだろう」
などと思ってくれる人は、
20世紀の後半から21世紀の初頭にかけて、
ビールの泡のように減っていき、
もはやそのように考える人はほとんどいません。

専門的な用語でこの現象を、
「反知性主義」と言います。
英語だとアンチ・インテレクチュアリズム。
そのままですね。

「知識などたいしたことはない。」
「大学の先生はバカばっかり」
「官僚は世の中を知らない」
「政治屋のいうことに騙されるな」
「御用学者に耳をふさげ」
「主要メディアは嘘ばかり」

こういった言説の方が今は人気があります。
まさに「反知性主義」という概念が、
人間のかたちに受肉したような存在である、
ドナルド・トランプが世界最強国のリーダーに選ばれた、
というのはまさしく象徴的なことです。

著者はそれでも、
「知性には世の中を変えていく可能性があるはず」
と、その可能性に賭けたのです。

しかし、著者自身の「知性」が、
病気によって蝕まれるという体験をしたことにより、
著者は違った風景を見るようになります。

「知性主義」の依って立つ前提は、
「知識(知性)は不変だ」
というものだ、とここで著者は言っています。
つまり、「天動説」なわけです。
「知性という地面」を堅く踏みしめていれば、
天の万象を正しく解釈し、説明できるはずだ、と。

ところがうつ病により、
「地が動く」経験をした。
「足下の地面が二つに裂け、
 そこに呑み込まれるような経験」を、
著者はしたのです。

私も同じ体験をしたから、
リアルに思い出されます。
「自分の立っていた足下が崩壊する」というその経験は、
控えめに言っても怖ろしいものです。
この経験をした後は、
この世の中の他のすべてのことが、
たいして怖くなくなるほどです。

その結果著者は、
「地動説」になったわけです。
そうならざるを得ない。
自分の知性がぐらぐらと揺れるわけですから。
「あれ、俺の前提は逆だったんじゃないか?」
と認めざるを得ないわけです。

堅い足場から天の万象を説明していたのではない。
自分自身の知性という足場は揺らぐのだ。
動いているのは自分のほうだ、と分かった。
それが分かると、不思議なことに気づいた。
知性というのは、それでもまだ「死なない」のだということに。
身を投げてこそ浮かぶ瀬があるように、
私たちの知性は絶対ではないと知ったとき、
はじめて「知性」に希望を持てるようになったのです。
「反知性主義という怪物」に、
立ち向かっていけるのはこういう知性です。

「動かぬ土台」に立って、
ドナルド・トランプとその支持者を、
「高所から」批判しても世の中は変わりません。
足下が揺らぐ世界で、
自分自身が揺らぎながら、
トランプを支持せざるを得ないほど追い込まれた人々と、
一緒にうめきながら探し求める(byパスカル)と決めたとき、
知性はまた「再起動」するのです。


▼▼▼うつ病と世界観

→P26 
〈うつ病を始めとする精神の病を患った人は、
どなたも自分自身の「世界観」が
打ち砕かれてしまう体験をされたと思います。
いままであたりまえに出来ていたことが、できない。
自分がずっと信じてきたものが、信じられない。〉


、、、うつ病の本質のひとつは、
この「世界観の崩壊」だと思います。
うつ病ってその「位相」によって、
レイヤーになっていると私は思います。

まず、生物学的な位相としては、
脳に器質的な変化が起きています。
セロトニンが関係しているらしい、
ということは分かってきていますが、
その全貌はまだ明らかになっていません。
ただし、間違いなく言えるのは、
うつ病は「気の持ちよう」で治るものではありません。
「気の持ちよう」でガンが消滅しないのと同じです。
なぜなら脳が器質的にダメージを受けているのは、
間違いない事実だからです。

次に、精神医学的な位相として、
うつ病は「意欲の低下」「希死念慮」、
「不安愁訴」「食欲の低下」などを引き起こします。
端的にいって24時間続く「絶望地獄」から出られなくなります。
真っ暗なコンタクトレンズを眼球に縫い付けたみたいな感じで、
何を見ても絶望しか感じなくなります。

最後に、実存的な位相として、
「世界観が崩壊」します。
「私にとって世界とはこういうものだ」
という安定が完全に崩壊するのです。
「世界は私が考えてきたものとは違う」
という、存在がバラバラになるような経験をします。
「自我」が散り散りになり、
この世の中にバラバラに漂うような、
主観的にはそのような状態になります。

このような人に、
「あなたはどう感じますか」
みたいな質問って実はナンセンスなのです。
「あなた」と言われても、
「破片となって散らばった自我の、
 いったいどの部分が自分なのかも分からない」
というのが多分本人の主観ですから。

闘病中、「あなたは、、、ですか?」
という質問を投げかけられたときに、
私はパニックになり髪の毛をかきむしり、
テーブルの下に隠れて震えたくなるぐらい怖くなりました。
今思い出せば、「わたし」がなくなってるので、
その質問が「自我の崩壊」を、
改めて突きつけるものだったからでしょう。


▼▼▼どこまで自分は何も出来なくなるのだろうという恐怖心と、
どこまで社会の底が抜けるのだろうという不安の共鳴

→P27〜28 
〈(自社さ連立政権のもとで
野党が自民党の憲法や安保に関する立場を受け入れていった
転回を思春期にみながら)違憲が合憲とか、
「なし」なものが「あり」とか、180度正反対じゃないか。
この調子でいったら、文字通り将来、
日本がどうなっていくかも「なんでもあり」じゃないのか。

現実に合わせて考え方を変えるのは、
そこまで悪くないのかもしれない。
だけど「ここまでは変わるけど、
これ以上は変わりません」として、
どこかにきちんと線を引かないと、
いつか困るんじゃないか
――特に政治的な生徒ではなかったと思いますが、
つづく高校時代の間、ずっとそんなことを考えていました。

いまにして思うと、
発病して以降に感じた
「どれだけ能力を失えば止まるのだろう」
「自分はどこまで、なにもできなくなっていくのだろう」
という恐怖心は、
この時の不安を濃縮して煮詰めたようなものでした。〉


、、、著者が高校生のころ、
それはつまり私が高校生のころ、ということですが、
自社さ連立政権のもと、
野党は自分たちが依拠していた平和憲法に対する確信を投げ出し、
自民党に寄り添うようになります。

昨日までAと言っていたものが、
今日はBとなる。
大人が「プリンシプル(原則)」を持っていない、
ということを子ども(や青少年)が知る、
というのはショックなことです。
それが、うつ病の、
「自分はどこまで何もできなくなっていくのだろう」
という不安と、とてもよく似ていた、
と與那覇さんは言っています。

古くは「墨塗りの教科書」というものがありました。
終戦までの日本では「愛国教育」が熱心になされていた。
「国民は天皇陛下の赤子だ!
 鬼畜米英!
 一億総玉砕!
 お国のために戦え!」
ということが教育されていた。
森友学園で有名になった「教育勅語」の精神ですね。

敗戦後、GHQの占領下になり、
「主権」を一時的に失った日本では、
GHQの指導の下、
「民主的な教育」を推進した。
教科書を全部つくり直すお金もなかったので、
当時の学校で何がなされたかというと、
今使っている教科書の、
「国家主義的な部分」に墨を塗った。

これをされた子どもたちは、
控えめに言っても「衝撃」を受けたことでしょう。
たとえば昨日まで、
「教育勅語の精神」を、
竹刀を持ってたたき込んできた先生がいたとします。
「政府や陸軍に疑問を持つなんて言語道断」で、
ちょっとでもダラダラすると、
「この売国奴がぁ、非国民がぁ!」
と言っていた教師がいたとしましょう。

この先生から、
その舌の根も乾かぬうちに、
「みなさん、今日からは民主主義の時代であります。
 国家主義の精神は間違っていました。
 天皇陛下は現人神だと思ってましたが、
 陛下もおっしゃっていた通り、
 あれは人間であります(キリッ)。
 アメリカなどの先進諸国を見ならい、
 マッカーサー閣下の公正たる指導のもと、
 自由と民主主義の精神で、
 明るく生きていきましょう!」
とさわやかな笑顔で言われても、
「はい、先生!」
とは飲み込めないわけですよ。

いやいやいやいや、、、。


、、、


、、、


いやいやいやいや、、、


ってなるでしょ。


青少年にとって、
「大人がプリンシプルを欠く」
というのは「世界の底が抜ける」ような体験なのです。
「じゃあ、何を信じればいいの?」
という風になってくる。

墨塗の教科書を体験した世代の代表的な人物に、
三浦綾子さんと養老孟司さんがいます。
三浦綾子さんは「生徒に墨を塗らせた側」です。
彼女はたしかまだ20歳未満だったけれど、
敗戦のとき、「教師」だったのです。

GHQ→文部省というルートで下りてきた
「教科書に墨を塗る」という指示に、
従わざるを得ないわけですが、
まだ若かった三浦綾子さんはまさに、
「世界の底が抜ける」経験をしました。

その経験が彼女を後にキリスト教信仰に導きます。
「この世界の底が抜けた」とき、
「この世界を超えた真理」を求める心が、
彼女の中に生まれたのです。
「道ありき」に書いてあります。

養老孟司さんは当時たしか小学生でした。
あの出来事は80歳になっても忘れられない、
と養老さんは言っています。
あの経験によって彼は、
「徹底的にすべてを疑う」ようになった。
特に「ことば」を疑うようになった。
では何が信じられるか?
「もの」ならば信じられる。
それで彼は解剖学者になったのだ、
と著書に書いています。

大人がプリンシプルを欠くとき、
子どもは「世界の底が抜け」ます。
與那覇さんは自社さ連立政権のとき、
大人がプリンシプルを欠くのを見て、
衝撃を受けました。
その「世界の底の抜け方」と、
うつ病になったときに、
できていたことがひとつずつ出来なくなる、
という「世界の底の抜け方」が、
似ていることに気づいた、とここで指摘しています。
私の経験もまったくそれを裏付けるものです。

、、、さて。

昨今の森友・加計学園問題、
日大ラグビー部のタックル問題、
少し古いですが、
「都議会の『オマエが産め』という野次問題」
などに共通するのは、
「プリンシプルのなさ」です。

大人が、「言った」「言わない」
の水掛け論をしている。
確かに記録が残っているはずのことを、
悪びれることもなく大人が、
「言ったことがない」と言う。
あったはずの記録が「破棄」されている。
都議会の野次問題に関しては、
衝撃的な結末を迎えます。
確かに録音され、
国民全員が視聴可能なはずの、
「声の主」が、「確認されなかった」のです。
心霊現象でなければ、
誰かが言ったはずなのに、
「だれも言っていないことになった」のです。

まさに「世界の底が抜ける」出来事です。
この数年、「謝ったら負け」
「謝らないほうが得」という処世術を、
政治家が身に着けるようになってから、
この理不尽な風潮は続いている。
公正な社会を望む私は憤慨するわけですが、
もっと心配なのは、これを見て育つ子どもたちへの影響です。
彼らはこのような報道を見るときに、
「大人のプリンシプルのなさ」を、
「プリンシプル」という単語を知らなくても、
敏感に、しかも驚くほど正確にキャッチします。

彼らは「底の抜けた世界」で生きることになります。
それが彼らの「世界はフェアである」という前提を傷つけます。
「世界はフェアである」という前提は、
彼らが希望を持つための条件です。

養老さんや三浦綾子さんは例外的に優秀なので、
そのトラウマ体験をプラスに転じましたが、
普通の子どもたちが、
モリカケ問題のような報道に接しながら大人になったとき、
「正直であることの価値」
「真正面から努力することの意味」
「この世界に対する希望」を、
果たして持っていられるんだろうか、、、
という、数十年単位の不安を私は覚えるのです。

次に行きましょう。


▼▼▼気分の落ち込みは「能力の低下」の結果である。
脳にサランラップがまかれる、、、

→P58〜60 
〈しかし私は病気を経験して、
意欲や気持ちの問題に特化したうつ病の語られ方には、
非常に大きな副作用があると感じるようになりました。
病気の内実を「気持ちの問題」に還元することは、
「結局は気の持ちようじゃないか。やる気次第じゃないか」
「だれだって、
朝からラッシュの電車に揺られて会社になんて行きたくない。
それでもみんな頑張ってるじゃないか」といった、
病者に対する周囲のネガティヴな感情を、
かえってあおる結果につながったと思うからです。

意欲の低下は病気の主症状と言うよりは、
結果だと感じています。
うつ病に伴って発生する能力の低下のことを、
医学的には精神運動障害(PMD, Psycho-Motor Disturbance)と呼びます。
具体的には、他人と会話している際に
反応するスピードが落ちたり(動作の緩慢化)、
じっと座っていられず
そわそわしておなじ話しを繰り返したり(集中力の喪失)、
健康時にはすらすら喋れた言葉が口から出てこなくなったり、
そもそも頭に浮かばなくなったりします(思考の鈍化)。

結果として回復した後ですら、
記憶に欠落が生じることもあります。
私自身、病気をする前には愛読書だったにもかかわらず、
内容を思い出せない本がいくつもありますし、
おなじ病気の知人にも、奥さんと一緒に旅行に行ったことすら、
完全に脳内から記憶が落ちてしまい、
思い出すことが出来ないと打ち明けてくれた方もいます。
 (中略)
じっさい、そもそもこの検査入院の際には、
「いつから苦しんでいますか」
「いまどんな状態ですか」といった標準的な質問にも、
「あー、うー」のようなことばならざることばでしか、
答えられないようになっていました。

治療入院中に知り合った友人は、
この精神運動障害のさまを
「脳にサランラップをかけられたようだ」と表現しましたが、
おなじ体験をしたものとして、
ほんとうに卓抜な比喩だと思います。〉


、、、この本の面白いのは、
「お涙頂戴の闘病記ではない」と、
宣言しておきながら、
下手な闘病記よりも、
病気に対する知識や理解が深まるという、
その情報密度です。

これも著者がもともと持っている、
卓抜した言語操作能力のなせるわざなのでしょう。
自分を突き放し、客体的に、
「鬱になった自分」というものを分析し、
自己解剖し、そして言語化することに成功している。
こういう当事者のテキストは本当に少ないので、
それだけでも読む価値があります。

さて。

ここで著者が語っているのは、
世間における鬱の理解のされ方に、
「気分の落ち込み・意欲の低下」
といったステレオタイプの理解があり、
それらが弊害をもたらしているのではないか、
ということです。

そういった理解というのは、
「つまり気の持ちようなんだから、
 甘えてるんじゃない。
 みんな辛いのに頑張ってる。
 オマエも頑張れるはずだ」
という、完全にスベった励ましをする人を生み出し、
そしてそういうスベった励ましというのは、
鬱の当事者からすると、
骨折した部分をさらに殴られるとか、
「腸捻転は思い切り踏ん張れば元に戻る」
みたいな処方箋に近く、
「当事者がいない場所で放言する」のはまぁ自由ですが、
医学的にはまったく役に立たないどころか、
患者を死に至らしめるほどに危険なわけです。

與那覇さんは、「意欲の低下」というのは、
鬱の「症状」ではなく「結果」なのでは?
と分析しています。
つまり、意欲が低下したから、
仕事だとかいろんなことができなくなるのではない。

まず、脳の器質的ダメージにより、
最初にいろんなことができなくなる。

話せなくなる。
思考できなくなる。
考えられなくなる。
記憶できなくなる。
身体が言うことをきかなくなる。

それが続いた結果、
「意志ややる気」が、
完全に折れてしまう。
そういったプロセスだと理解したほうが良いのでは?
と言っているわけです。
「脳にサランラップがまかれた状態」
といういうのは本当に秀逸な表現です。

私自身も鬱病闘病当時のことを思い出すと、
ゴーグルも酸素ボンベもつけず、
海の深いところで会話しているような、
そういう「感覚の鈍化」と共に回想するからです。
相手が話していることが、
遠く聞こえ、くぐもって聞こえます。
視界はつねにぼやけていてクリアに見えない。
記憶は混濁していて、
考えることも「強力な重力」によって、
「絶望や希死念慮」のほうに引っ張られます。
思考が羽ばたくことができない。
どうしてもできない。

身体が動かない。
思考が動かない。
感情が動かない。

心と頭と身体に、
重い重い鎖をつけて、
がんじがらめにされているような、
そんな状態が24時間続きます。

明らかに「気分の落ち込み」
という次元で語れるレベルではありません。
こういったことって、
経験した人にしか分からない感覚ですし、
経験しない方が絶対いいわけなので、
当事者とそれを取り巻く人の、
「意識の溝」はけっこう深いのです。

当事者は永遠に理解してもらえないし、
周囲の人は永遠に理解できない。

しかし、
與那覇さんのような言語能力を持つ人のことばによって、
その意識の溝が、ちょっとでも埋まる、
ということは起こりうるわけです。
うつ病になったことのない人が、
真摯に耳を傾け、
想像力を働かせ、
その辛さに思いをいたすことはできる。
そして、
「あぁ、きっと想像を絶するほど辛いんだろうなぁ。」
と思う。

それだけで、
当事者にとってどれだけ救いになるか。

「俺だって辛いのに頑張ってる。
 オマエも頑張れるはずだ」
みたいな水深1ミリの励ましよりも、
「無言の共感(の試み)」が、
どれだけ励ましを与えるか。

與那覇さん自身のことばではないですが、
脳にサランラップがまかれた状態。
本当に秀逸なたとえです。

、、、さて。

まだ3分の1も消化できてないですが、
文字数制限になりました。
この続きは、再来週以降にお送りします。
お楽しみに!

本のカフェ・ラテ『フロー体験 喜びの現象学』(中篇)

2019.08.01 Thursday

第083号   2019年3月19日配信号

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 本のカフェ・ラテ
「本のエスプレッソショット」というこのメルマガの、
開始当初からの人気コーナーでは、
一冊の本を約5分で読める量(3,000〜10,000字)で、
圧縮し、「要約」して皆さんにお伝えしてきました。
忙しい読者の皆さんが一冊の本の内容を、
短時間で上っ面をなぞるだけではなく「理解する」ために、
「圧縮抽出」するというイメージです。
この「本のカフェラテ」はセルフパロディで、
本のエスプレッソショットほどは、網羅的ではないけれど、
私が興味をもった本(1冊〜2冊)について、
「先週読んだ本」の140文字(ルール破綻していますが)では、
語りきれないが、その本を「おかず」にいろんなことを語る、
というコーナーです。
「カフェ・ラテ」のルールとして、私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメントしていく、という形を取りたいと思っています。
「体系化」まではいかないにしても、
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。
密度の高い「本のエスプレッソショット」を牛乳で薄めた、
いわば「カフェ・ラテ」のような感じで楽しんでいただければ幸いです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

『フロー体験 喜びの現象学』

読了した日:2018年8月9日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:M.チクセントミハイ
出版年:1996年
出版社:世界思想社

リンク:
http://amzn.asia/cISEtv2


▼▼▼目次▼▼▼

【目次】
第一章:幸福の再来
第二章:意識の分析
第三章:楽しさと生活の質
第四章:フローの条件
第五章:身体のフロー
第六章:思考のフロー
第七章:フローとしての仕事
第八章:孤独と人間関係の楽しさ
第九章:カオスへの対応
第十章:意味の構成


、、、前回紹介した内容を忘れている人は、
是非2月19日配信号のメルマガを読み返して下さい。
「フロー」という状態(自己目的的体験)を、
私たちはどのように味わうことが出来るのか?
というのがこの本のテーマでしたね。

前回の引用以降の、
私の読書メモの抜粋に、
解説を加える形式で紹介していきます。


▼▼▼先天的な要因(精神分裂症)以外で
フローを疎外するのは二つ。
自意識の過剰と自己中心な性格

→P107〜108 
〈フローを体験する上での次の障害は、
遺伝的障害ほど大きくはないが、自意識の過剰である。
人に悪い印象を与えはしないか、
何かまずいことをしたのではないかなど、
たえず他者が自分をどのように感じているかを気に病む人も、
楽しさから永遠に見放されるよう運命付けられている。

極端に自己中心的な人も同様である。
自己中心的な人は一般に、自意識を持たない代わりに、
どんな些細な情報でも自分の欲望に関してのみ評価する。
このような人にとって、
すべてのものはそれ自身としては無価値である。

花も、それが利用できなければ何の価値もなく、
自分の利益にならない人は、深い注意を払うに値しない。
意識は完全にそれ自身の目的に関してのみ構造化され、
その目的に合致しないものの存在を認めない。

自意識の強い人は多くの点で自己中心的な人とは異なるが、
いずれもフロー体験に容易に入り込めるほど
心理的エネルギーが統制されていない。
双方とも、活動それ自体に関連づけるのに
必要な注意の柔軟性が欠落している。

あまりにも多くの注意が自己に閉じ込められており、
自由な注意が自己の欲求によって強く方向付けられている。
これらの状況の下では内発的な目標に関心を持つようになることや、
対象との相互作用自体以外の
報酬をもたらさない活動に我を忘れることは困難である。

(遺伝的素因による)注意の混乱や刺激への過剰関与は、
心理的エネルギーがあまりにも流動的で
不安定であるためにフローを妨害するが、
過剰な自意識と自己中心主義は逆の理由、
つまり注意が硬直し固定しているためにフローを妨げるのである。
(中略)
これらの両極端に傾く人は楽しむことができず、
ものを学ぶことが困難であり、自己の成長の機会を奪われる。〉


、、、、フロー体験(自己目的経験)は、
仕事の理想状態です。
その人は「卓越した技術」に到達し、
しかも仕事そのものを楽しむことが出来ます。

ところが、遺伝的な原因でフロー体験を経験しづらい、
という人々もいる。
注意欠陥多動性障害(ADHD)などがそうだ、
と著者は言います。
この人々は心理的エネルギーが流動的すぎて、
行為そのものに没入することが難しい、と。

しかしこれらの人は後天的に、
その注意をうまく仕事に活かすことが出来ます。
じっさい、テスラモーターズの創業者、
イーロン・マスクは極度のADHDで、
他のことに集中してしまうので、
「服を着ることが出来ない」ほどだと言います。
しかし彼はビジネスにおいて成功している。

もっとやっかいなのは、
遺伝的なものよりも「性格的」なものだ、
と著者は指摘します。
その性格とはずばり2つ。
「自意識過剰」と「自己中心」です。

これら2つの人は、
遺伝的注意欠陥症とは逆に、
意識が流動的すぎるからではなく、
意識が固着しすぎているから、
フロー体験に入ることが出来ず、
結局「卓越」に至ることが出来ないし、
仕事から喜びを引き出すことが出来ない、と。

彼らは何に固着しているのか?

自意識過剰の人は、
「他者からどうみられるか?」に、
自己中心の人は、
「自分の損得」に、
過剰に固着しているゆえに、
仕事そのものの喜びを味わうことが出来ないのです。



▼▼▼「自己目的的家庭環境」の五つの要素

→P112〜113 
〈たとえば、シカゴ大学で行われた我々の研究の一つで、
ケービン・ラサンドはティーンエイジャーのうち
両親とある方の関係を持つ者は、
そのような関係を持たない者と比較して、
明らかにほとんどの生活状況においてより幸福で満ち足りており、
強靱であることを観察した。

最適経験を促進するこの家庭状況は、
五つの特徴を持つ者として記述することができる。

第一は明快さである。
ティーンエイジャーは両親が
自分に何を期待しているかが分かっていると感じており
――過程の相互作用において目標、フィードバックは明瞭である。

第二は中心化である。
つまり両親は自分が良い大学に入るか、
良い職業に就くかと言うことを先取りするよりも、
自分が現在していることや具体的な感情・経験に
関心を持っているという子どもの認識である。

第三は選択の幅である。
子どもは結果に対して自分が責任を負うという覚悟がついている限り、
両親の課した規則の破棄を含めて、
幅広い選択の可能性を持っていると感じている。

特徴の第四は信頼、
つまり子どもが自己の防壁を安心して取り除くことができ、
何であれ自分が関心を持つことに
人の目を気にすることなしに没入することになることを認める、
子どもへの親の信頼である。

そして第五は挑戦、
すなわち複雑な挑戦の機会を
子どもに徐々に課していくという親の働きかけである。

この五つの条件の存在は、
生活を楽しむための理想的な訓練を提供するところから
「自己目的的家庭環境」と呼ぶことができる。
これら五つの特徴は明らかにフロー体験の各構成要素と対応している。
目標の明確さ、フィードバック、統制感覚、
現在行っている作業への注意集中、内発的動機付け、
挑戦を容易にする家庭環境の中で成長する子どもは一般に、
フローを生み出すように自分の生活を秩序づける。
より豊かな挑戦の機会を持つことになろう。〉


、、、将来子どもが、
「フロー体験=自己目的的体験」を、
身に着けることが出来たなら、
その子はどんな分野でも成功を
約束されていると考えて間違いありません。
仕事においてフローに到達出来る人は、

1.卓越に到達するため、業績において成功する。
2.仕事自体が幸福を与えるため、
 人生の大半を過ごす「仕事領域」が喜びになる。

この2つの理由で幸福になる可能性が飛躍的にあがります。

逆に、フローに到達出来ない人は、

1.仕事の能力が頭打ちになり業績において成功しづらい。
2.人生の大半を過ごす「仕事領域」が苦痛になる。

この2つの理由で不幸になる可能性が飛躍的に高まるのです。

では、将来子どもがフロー体験を、
経験しやすくする家庭環境などというものがあるのか?
シカゴ大学のケービン・ラサンドらの研究は、
「そのような家庭環境は存在する」と言います。
大部分、引用の繰り返しになりますが、
大切なところなので解説します。

1.明快さ
2.中心化
3.選択の幅
4.信頼
5.挑戦

これら5つが揃っている家庭の子どもは、
将来フロー体験を経験しやすく、
従って社会的に成功しやすく、
さらに幸福である可能性が非常に高いことが、
シカゴ大学の調査で明らかになりました。

1の明快さとは、
「親が子どもに何を期待しているのか?」
その規範が明確であるということです。
そしてフィードバックがしっかりしている。
出来た場合は誉め、出来なかった場合は指摘する。
その基準が一貫している。
これは親ならば誰でも分かりますが、
口で言うほど簡単なことではありません。
親自身が人生に一貫性を持たなければ、
出来ないことだからです。

2の中心化は説明が必要です。
これは「その行為をした結果何が得られるか」ではなく、
その行為そのものに親が注目している、ということです。
子どもが数学の問題を解いていたとします。
この問題を解いた先に有名大学への進学があり、
有名企業への就職があり、
高額の金銭的報酬が待っている、というのは、
「中心化の逆」ですね。
中心化というのは、その数学の問題それ自体にある面白さ、
興味深さ、それが解けたときの気持ちよさ、
アイディアが浮かんだならその独創性に注目することです。

3の選択の幅も説明が必要です。
これはつまり、
「原則」が提供されていて、
「それをどう達成するか」は裁量に任されている、
ということです。
たとえば、
「テスト前の一週間は2時間は机に座り、
 テレビは30分しか観てはいけない。」
みたいな事細かなルールを与えるのは、
裁量権がいっさいありませんから選択の幅はありません。
子どもは思考停止して机に座るかもしれませんが、
それでテストの点が上がるかどうかははなはだ疑問です。
「テスト範囲を理解すること」という指針を与え、
あとは自分の裁量に任せる、というのが選択の幅です。
テレビを観てもいい、友だちと遊んでもいい、
ゲームをしたければしてもいい、
でも、テスト範囲をしっかり理解するように、
という指針を与えれば、
彼は本来3時間かかる勉強を、
30分に圧縮するようなアイディアを思いつくかもしれない。
将来その圧縮技術は仕事に活かされるでしょう。

4の信頼はそのままですね。
子どもは、親から観たらよく分からないことに集中し、
親からしたら何をしているのか分からないことに没頭します。
その没入や集中に「信頼」することです。
私は小さい頃、2時間でも3時間でもアリを追いかけていたそうです。
それを母親が面白がってくれて、
「ファーブル昆虫記」を買って、
「あなたに似た大人が昔いたのよ」
と教えてくれたりしました。

もしあのとき母親が、
アリを追いかけることよりも
塾や習い事のほうが重要だと考える人なら、
私はいまよりもはるかに頭が悪く、
いまよりも集中力や主体性を欠く、
「うだつのあがらない大人」になっていたことでしょう。

5の挑戦もそのままですね。
脳というのは「適度のストレス状態」でこそ、
飛躍的に向上することが分かっています。
つまり、算数の問題が簡単すぎる子どもには、
次のレベルに挑戦させることが望ましい。
日本の学校教育は「みんな一緒に平均的に」
という悪しき平等主義があるので、
能力が高い子どもが羽ばたくことが出来ないという弊害を抱えています。
親は子どもが能力高い分野に関して、
「次のステージに行ける」環境を、
さりげなく用意しましょう、ということです。
脳は挑戦を喜ぶのです。
それはとりもなおさず、
「失敗するチャンスを与える」ことでもあります。
失敗を先回って消去していくような親は、
子どもから挑戦を奪い、
学習機会を打ち消して歩いているようなものです。



▼▼▼自己目的的な生き方に必要な個人的資質:
「自意識のない個人主義」

→P117〜118 
〈リチャード・ローガンは、
極端な逆境の元での力の源泉についての
ビクター・フランクルやブルノー・ベッテルハイムの回顧を含む、
多くの生存者の手記に基づき、一つの解答を提出している。
彼は生存者に見られる最も重要な特徴は「自意識のない個人主義」、
つまり利己的ではない目的への強い志向性であると結論している。

この資質を備えた人々は、
あらゆる環境の中で最善を尽くす傾向があるが、
基本的には自分自身の利益の追求に関心を持っていない。
それは彼らの行為が内発的に動機付けられているからであり、
彼らは外部からの脅威によって簡単に不安になったりしないのである。

自分の周囲のものを客観的に観察し分析するための
心理的エネルギーを充分持つことによって、
彼らはその中により多くの新しい挑戦の機会を
発見するチャンスがあるのである。
もし自己目的的なパーソナリティの中心的要素を
ひとつだけあげるとすれば、これである。

自己愛に陥る人は、
主に自分の自己を守ることに関心を示すので
外的状況が脅迫的になると破滅してしまう。
続いて起こるパニックが彼がしなければならないことを妨害し、
彼の注意は意識の秩序を回復する努力へと内向し、
外の現実と交渉するに十分なエネルギーを残さない。

外界への関心、
つまり外界と積極的な関係を持とうとするとする願望がないと、
人は自分自身の中に孤立してしまう。
今世紀最大の哲学者の一人バートランド・ラッセルは、
彼がどのようにして個人的幸福を達成したかについて述べている。
「私は徐々に自分自身や自分の欠点に無関心になった。
私は次第に注意を世界の状態、
さまざまな分野の知識、愛着を感じる人など、
外部の対象に置くようになった。」
自己の内部に自己目的的なパーソナリティを確立する方法について、
これ以上優れた短い記述はない。〉


、、、自己目的的なパーソナリティは、
ナチスによるホロコーストの生存者に、
共通して観られる性質でした。
ヴィクトール・フランクルの名著「夜と霧」を読むと分かるのですが、
ホロコーストを生き残った人々は、
単に運が良かったから生き残ったのではありません。

もちろん運もあります。

しかし、極限状態になってもパニックを起こさない、
仲間と連体することが出来る、
自分自身の弱さを超克することが出来る、
何よりも絶望的な状況になっても希望を失わない、
などの資質が、「生と死」を分ける要因になったのです。

リチャード・ローガンが生存者たちを調査した結果、
彼らの自己目的的なパーソナリティには、
「非利己的な個人主義」があった、というのです。

どういうことか?

究極の思考実験を考えましょう。
「世界が滅亡した日」に、
最後に地上に立っている人はどんな人か?
他人を利用することを厭わず、
自分さえ生き残れば良いと考え、
苦しむ他者から奪うことの出来るエゴイストでしょうか?

ホロコーストの生存者の例が示すのは、
「それとは逆の人物」こそ、
生き残る可能性が最も高い人だ、
ということです。

その人には「利己心」がほとんどありません。
「自分に関心がない」のです。
だからこそ、状況を冷静に把握することが出来る。
逆説的ですが、自意識が自己に捕らわれていないからこそ、
「生き残る」ことに集中することが出来る。

地球最後の日に地上に生き残るのは、
意外にも「利他的な人」です。
聖書に、
「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、
 命を捨てる者はそれを得る」
という逆説が出てきますが、
まさにこの状況を言い得ています。



▼▼▼アマチュア/ディレッタントという言葉は
侮蔑的に用いられることが多いが、本来の語源を考えると、
それらは外的誘因に認知のエントロピーが増大しがちな
専門家以上に効果的になる可能性をもたらす
内発的動機付けを示唆する「肯定的な言葉」だった。

→P175 
〈身体的または知的活動への傾注の程度に関して、
やや歪められた態度を表す二つの言葉がある。
アマチュアとディレッタントである。
今日では、これらのレッテルは若干軽蔑的に用いられる。
アマチュアとディレッタントは、平均に満たない人、
あまり真剣には相手にされない人、
業績がプロの標準に及ばない人とされる。

しかし元来、
ラテン語の動詞 amore「愛する」に由来する「アマチュア」は、
自分のなすことを愛する人を意味していた。
同様にラテン語の delectare「・・・に喜びを見出す」に由来する
「ディレッタント」は与えられた仕事を楽しむ人を意味した。

従って、これらの言葉の初期の意味は、
業績よりもむしろ経験への関心を描写するものであった。
それらは、どれだけ巧みに成し遂げるかに焦点をおくのではなく、
ものごとをなすことから人が得られる
主観的な報酬を記述するものであった。
これら二つの言葉の運命以上に、
経験の価値に対する我々の態度の変化を明瞭に示すものはない。

アマチュアの詩人であること、
ディレッタントな科学者であることが尊敬された時代があった。
それはこのような活動に従事することによって
生活の質が向上することを意味していたからである。

しかししだいに、
主観的状態よりも行為への評価が強調されるようになった。
尊敬されるものは経験の質より成功であり、
達成され、成就されたものの質である。
その結果、ディレッタントになることは最も意味のあること
――自分の行為がもたらす楽しみ――を
達成することであるのにもかかわらず、
ディレッタントと呼ばれることに羞恥が
感じられるようになったのである。〉


、、、「お前はまだまだアマチュアだな」
と誰かが言うなら、それは現代世界では「悪口」です。
しかし、その語源とルーツを考えるとき、
本来は「褒め言葉」であり、
アマチュアであるということは、
尊敬されることだったのです。

アマチュアというのは、
「プロの技術に到達していない」
という意味で現代では用いられますが、
本来はそうではなかった。

アモーレ(愛する)というラテン語が、
アマチュアの語源です。

なので、アマチュアである、
というのは、「それをすることが大好きだ」
ということであり、尊敬の対象だったのです。

本来の語源に立ち戻るならばですから、
「イチローは野球のアマチュアだ」
「羽生善治は将棋のアマチュアだ」
「さかなクンは魚の大のアマチュアだ」
という言葉は間違いではありません。

なぜ「プロ(金銭的報酬を得る者)」
「アマチュア(プロの技術に満たない者)」
と言う風に言葉の意味が変わってきたのか?

その背後には、近代合理主義と、
貨幣経済の隅々に至るまでの浸透があります。
あらゆる「価値」が貨幣に換算される世の中では、
「能力がある=貨幣価値がある」ということになる。
しかし、必ずしもそうでないことは、
無数にある例外を考えれば分かる。

現代世界でも、
「プロではない人間」が、
偉大な功績を残すことがあります。
オリンピックのマイナー競技にプロはいませんし、
ハリー・ポッターの作者はただの専業主婦でした。
「きかんしゃトーマス」の作者は、
鉄道マニアのイギリスの牧師ですし、
作家のカフカは税務署の公務員でした。

当たり前です。

日本のことわざに、
「好きこそものの上手なれ」というのがあります。
「それをするのが好きで好きでしょうがない」
と言う人は、長期的には無敵です。
そんな人に「金を得るために嫌々している人」が、
勝てるはずがないのです。

、、、でも、仕事好きじゃないんですけど。
という人もいるかもしれませんが、
失望する必要はありません。

「好きなことを仕事にする」のには2つのルートがあります。
第一のルートは、
「いまやっている仕事を好きになる」ことです。
これは、どんな仕事でも必ず可能だと私は思います。
ベルトコンベアで豚の内臓をチェックし続ける仕事を、
6年間、この上なく愛するようになった私が言うのだから間違いない。

第二のルートは、
「今すでに好きなことを換金する」ことです。
しかし、物事には換金しやすいものとしにくいものがある。
飛び抜けた野球の技術なら換金しやすいでしょうが、
「めちゃくちゃ魚が好き」という「技術」は換金が難しい。
さかなクンのような1億人にひとりの天才以外は、
それで食っていくことは出来ません。

しかし、

換金できなかったからといって何なんでしょう?
それが好きだからやっている。
それで良いんじゃないでしょうか?
運が良ければ換金される時が来るかもしれないし、
自分が生きている間にされないかもしれない。

だって、好きなことが出来ている、
と言う時点で、それ自体が大きな報酬じゃないでしょうか?
それじゃ報酬が足りない、金が儲からないと損だ、
と言う人は、
きっと「さほどそれが好きではない」のです。

人の幸せというのは、
金融資産では決まりません。
「クオリティ・オブ・ライフ(人生の質)」で決まると、
私は思っています。
それを上げるひとつの補助線は、
「アマチュア(それが好きだからしている)」
の比率を上げ、「プロ(好きじゃないのに仕方なくする)」
を減らす、という考え方です。

方法は2つあります。
・今していることを好きになる。
・好きなことを続ける。

仕事だけではありません。
「子育てのアマチュア(子育てが好きな人)」は、
「子育てのプロ(仕方なく子育てする人)」より幸せです。
「料理のアマチュア(好きで料理している人)」は、
「料理のプロ(義務的に料理している人)」より幸せです。
「キリスト教のアマチュア(キリスト者であることが喜びの人)」は、
「キリスト教のプロ(苦虫をかみつぶしたように信仰する人)」
よりも、はるかに幸せなのです。

アマチュアであることに胸をはりましょう。



▼▼▼ジークムント・フロイトの「仕事と愛」

→P180 
〈仕事はきわめて普遍的なものである一方で多様であるため、
生活のためにする仕事が楽しいかどうかによって、
人々の包括的な満足度が大きく異なる。

「自分の仕事を見いだした者は幸いである。
それ以外の祝福を求めさせてはならない」
と書いたトーマス・カーライルはそれほど間違っていなかった。

ジークムント・フロイトは、
この単純な忠告を少しばかり拡大した。
幸福の処方について尋ねられた時、
彼は「仕事と愛」ときわめて短いが明確な答えをしている。
仕事や他者との関係のなかにフローを見出すことができれば、
その人は生活の質全体を順調に高めることができると言うことは正しい。

この章では仕事はどのようにしてフローをもたらすかを研究し、
次章ではフロイトのもう一つの主要テーマ
――他者との交際の楽しさ――を取り上げる。〉


、、、「クオリティ・オブ・ライフ」
という考え方があります。
「人生の質」ということですね。
頭文字を取って「QOL」とか言われます。
このQOLは医療の現場から使われ始めましたが、
今は人生一般について語るときも使われるようになっています。

QOLを考えるとき、
「仕事」というのは健康、
結婚(の有無)、子ども(の有無)とならび、
トップ3に入ってくる最重要要素です。

断っておきますと、
「結婚したからQOLが高い」
「子どもがいるからQOLが高い」
というようなものとは違います。
逆だと考える人もいるわけなので。
また「健康なほうが幸せ」というのもそうです。
病気をしたからこその幸せというのもありますから。

そういう意味でQOLは価値中立ですが、
「QOLが高くないほうが良い」
という考え方はありません。
QOLとはつまり「人生の質」のことであり、
自分の人生にどれだけ満足できるか、ということですから。

さて、「仕事」です。
仕事がなぜそんなに重要か?
人間は人生の3分の1前後を「寝て」過ごします。
残りの3分の1(毎日8時間)前後を、
働いて過ごし、
最後の3分の1の時間に、
ご飯を食べたり風呂に入ったり、
友だちと遊んだり旅行をしたりします。

「仕事」に対して満足しているかどうかは、
つまり人生の3分の1の時間の満足度を決めるのです。
重要じゃないわけがありません。
仕事が退屈でつまらない、
あるいは苦痛だという人は、
人生の3分の1が退屈でつまらなく苦痛です。
仕事が楽しい、そこから満足を引き出せるという人は、
人生の3分の1が楽しく満足なのです。

フロイトは「仕事と愛」、
この2つが幸せの処方だと看破しています。
仕事でフローを体験すること、
そして人間関係で喜びを見出すことが、
人生の幸せのすべてだと言って良い、ということです。



▼▼▼余暇を意義深くするための教育

→P203〜204 
〈しかし他のすべての場合と同様、
仕事と余暇は我々の欲求に適合させることができる。
仕事を楽しむことを学び、自由時間を浪費しない人々は、
自分の生活全体がより張り合いのあるものになったと感じるようになる。
「未来は」とC.K.ブライトビルは言う。
「教育を受けた者だけではなく、
自分の余暇を賢明に用いるよう教育された者に開かれる。」〉


、、、QOLの話しの続きですね。
先ほど、人生の3分の1は睡眠、
のこりの3分の1は仕事だと言いました。
「最後の3分の1の充実」に関して、
私たちは学校で習うことがありません。
少なくとも明示的に学習することは少ない。

しかし、「メタ的」には学習機会が提供されています。
児童精神科医の佐々木正美さんは、
学校で最も重要な時間は授業中ではなく、
「休み時間と放課後」だと言います。
その時間に子どもたちは、
他の人間と関わり合うことを学び、
他の人々と協力することを体験し、
創造的に時間を楽しむことを体得するからです。

私は今41歳で、人生の折り返しにさしかかっていますが、
小学校、中学校、高校時代の同級生や、
自分に近しい同世代を定点観測してきて、
ひとつ言えることがあります。

「休み時間が楽しみでならない」
というタイプだった人は、
社会人として必ず成功しています。
彼らは幸せな家庭を築く可能性が高く、
会社での仕事に満足する可能性が高く、
社会で成功する可能性が高い。

一方で、勉強が出来たかどうかと、
41歳時点での「成功・幸せ」には、
優位な相関関係はありません。
勉強がめちゃくちゃ出来た絶望的に不幸な人を知っているし、
勉強がまったく出来なかったが成功し幸せになっている人を、
私は何人も知っている。
勉強できた幸せな人も、
勉強できかった不幸な人も知っている。

「大人として幸せになれるかどうか」は、
勉強が出来るかどうかよりも、
上手に遊ぶことが出来るかどうかのほうに、
より依存しています。

誰もこの「不都合な真実」を言いません。
なぜか?

誰も儲からないからです。
学習塾がそんなこと言うわけないじゃないですか。
有名私立学校がそんな宣伝するわけないじゃないですか。
いろんな習い事をさせ、
学習塾に通わせ、
親にはお金を落としてもらわないと困るのです。

ただ「不都合な真実」はこうです。
それらと「子どもの将来の幸せ」は、
いっさい関係がない、ということです。

「休み時間を楽しむ能力」の方が関係がある。

なぜか?

休み時間を楽しむ能力は「総合力」だからです。
他者への共感性、協調性が必要です。
他人の気持ちをおもんぱかる想像力が必要です。
独創的な遊びを生み出す創造力が必要です。
何より「今、自分たちは楽しい」という状態を、
感覚的に知っている必要があります。

これらは、「偏差値秀才的な能力」以上に、
社会人としての仕事生活に必要な能力だ、
というのは3年以上社会人として働いた人なら、
100人が100人、同意してくれるでしょう。

それだけではありません。

これが出来る人は、
仕事を離れたときも、
その時間を楽しむことが出来ます。
「上手に働く人は、
 上手に遊ぶ」のです。

この命題は「逆もしかり」です。

「上手に遊ぶ人は、
 上手に働き」ます。

いやいや、パチンコばかりしていて、
仕事がまったく出来ない同僚を知っている、
という反論をするかもしれません。

違います。

そのパチンコをしている人は、
遊びが下手です。
上手に遊ぶというのは、
その遊びから必ず長期的には仕事の滋養が得られます。
仕事と遊びは地続きです。
先ほどの「アマチュア(行為を愛する)」という補助線を引けば、
分かっていただけると思います。


、、、ここまでで文字数オーバー!!

なので、本のカフェラテ、
初の3回分割になります。
次回(たぶん来月)、
完結編(後篇)をお送りしたいと思います。
お楽しみに!



本のカフェ・ラテ『フロー体験 喜びの現象学』(前編)

2019.07.04 Thursday

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■2 本のカフェ・ラテ
「本のエスプレッソショット」というこのメルマガの、
開始当初からの人気コーナーでは、
一冊の本を約5分で読める量(3,000〜10,000字)で、
圧縮し、「要約」して皆さんにお伝えしてきました。
忙しい読者の皆さんが一冊の本の内容を、
短時間で上っ面をなぞるだけではなく「理解する」ために、
「圧縮抽出」するというイメージです。
この「本のカフェラテ」はセルフパロディで、
本のエスプレッソショットほどは、網羅的ではないけれど、
私が興味をもった本(1冊〜2冊)について、
「先週読んだ本」の140文字(ルール破綻していますが)では、
語りきれないが、その本を「おかず」にいろんなことを語る、
というコーナーです。
「カフェ・ラテ」のルールとして、私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメントしていく、という形を取りたいと思っています。
「体系化」まではいかないにしても、
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。
密度の高い「本のエスプレッソショット」を牛乳で薄めた、
いわば「カフェ・ラテ」のような感じで楽しんでいただければ幸いです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

『フロー体験 喜びの現象学』

読了した日:2018年8月9日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:M.チクセントミハイ
出版年:1996年
出版社:世界思想社

リンク:
http://amzn.asia/cISEtv2


▼▼▼目次▼▼▼

【目次】
第一章:幸福の再来
第二章:意識の分析
第三章:楽しさと生活の質
第四章:フローの条件
第五章:身体のフロー
第六章:思考のフロー
第七章:フローとしての仕事
第八章:孤独と人間関係の楽しさ
第九章:カオスへの対応
第十章:意味の構成


、、、本書の目次はこのようになっています。
面白そうでしょ。
この本はいわゆる「定本」です。
ダニエル・ピンクの『モチベーション3.0』という本など、
ポスト工業化社会における動機付けの在り方について語る本は、
たくさんありますが、ほぼすべて「ここ」に行き着きます。
こういった本を「定本」と言います。

スポーツの世界などで「ゾーンに入る」
という集中状態を表す言葉はもう一般化していますが、
この言葉の元ネタもチクセントミハイに行き着きます。
これを読んだかどうかで、
この分野に対する理解は雲泥の差が出ます。

読書におけるコスパというのは、
「定本」「古典」を読むのが最も高い、
というのは常日頃から私が言っていることですが、
チクセントミハイ『フロー体験』もまた、
そのようなマスターピースのひとつです。

では、私の読書メモを引用し、
それに解説を加えていく、
というカフェ・ラテ形式で、
内容に立ち入って行きたいと思います。



▼▼▼成功は目的化した時点で遠ざかるという逆説。
ヴィクトール・フランクルの指摘

→P3 
〈オーストリアの心理学者ビクター・フランクルは
彼の著書『意味の探求』(Man's Search for Meaning)の序文で、
このことを見事に言い表している。
「成功を目指してはならない
――成功はそれを目指し目標にすればするほど、遠ざかる。
幸福と同じく、成功は追求できるものではない。
それは自分個人より重要な何ものかへの
個人の献身の果てに生じた予期しない副産物のように
・・・結果として生じるものだからである。」〉


、、、さっそく本書の核心に迫る議論が登場します。
ヴィクトール・フランクルは、
20世紀最大の名著のひとつ『夜と霧』を書いた精神科医で、
ナチの収容所を生き残った後、アドラー心理学を発展させ、
「ロゴセラピー(意味による癒し)」を提唱した、
現代思想を語る上での最重要人物のひとりです。
スティーブン・コヴィーの『7つの習慣』も、
ヴィクトール・フランクルを「論理的下敷き」にしています。

、、、で、フランクルは大胆な指摘をします。
「成功」や「幸福」は、それ自体を目指しても得られない、
というのです。

つまり、
「成功するにはどうすれば良い?」
「幸福になるにはどうすれば良い?」
というのは問いの立て方そのものが間違っている、というのです。
それは因果関係が逆だよ、と。

私たちは何かをしたときに、
その過程において事後的に、
「ああ、成功だった」「ああ、あのときは幸せだった」
と感じるのであって、
幸福や成功それ自体を追求する人は、
決して成功できず幸せを感じることも出来ない、
というパラドックスをフランクルは語っています。

では、その、
「それを求めたときに副産物として幸福が得られる何か」
とは何か?

それは「自分より大切なものへの献身」だと言います。
聖書に「受けるより与える方が幸い」
という言葉がありますが、
フランクルのこの言葉は、それの「言い換え」ですね。



▼▼▼意識の無秩序=心理的エントロピーと、意識の秩序=フロー

→P46〜51 
〈意識にマイナスに働く主な力の一つは心理的無秩序
――すなわち現在の意図と葛藤し合う情報、
または意図の遂行から我々をそらしてしまう情報である。
この状態をどのように経験したかによって、
それは苦痛・恐れ・激怒・不安・嫉妬などさまざまに呼ばれる。
これらすべての無秩序は、
我々が自分の好みに従って物事に注意を向ける自由を拘束し、
注意を望ましくない対象にねじ曲げる。
心理的エネルギーは扱いにくく、役に立たないものになってしまう。
 (中略)
心理的エントロピーの反対が最適経験と呼ばれる状態である。
意識の中に入り続ける情報が目標と一致しているとき、
心理的エネルギーは労せずに流れる。
心配する必要はなく自分が適切に行動していることに疑問を抱く理由もない。
自分自身について考えるために立ち止まるときでも、
万事上手く行っている証拠に常に励まされる。
「なかなかいいじゃないか。」肯定的なフィードバックが自己を強化し、
より多くの注意が内外環境を処理するために解放される。
 (中略)
これらの例は最適経験という言葉で、
我々が何を意味しているかを説明している。
それらは、正さねばならない無秩序や防ぐべき自己への脅迫もないので、
注意が自由に個人の目標達成のために投射されている状態である。
我々はこの状態をフロー体験と呼んできたが、
それは調査面接した人々の多くが、
自分の最高の状態の時に
どのように感じたかについて説明する中で用いた語である。
「流れている(flowing)ような感じだった」
「わたしは流れ(flow)に運ばれたのです」。
それは心理的エントロピーの反対
――事実それはネゲントロピー(negentropy)と
呼ばれることが多い――であり、
その状態を達成している人々は、
より多くの心理的エネルギーを
彼ら自身が選んだ追求目標に上手く投射してきたので、
より強い自信のある自己を発達させているのである。〉


、、、心理的エントロピーと、最適経験。
聞き慣れない二つの単語が登場します。
心理的エントロピーというのは、
「脳内(心の中)が散らかった状態」
と言い換えても良いでしょう。
最適経験はその逆に、
「脳内がある目的に向かって秩序だって整理された状態」
と定義できます。

「自分の後ろの風景」まで見えているかのような状態に入った、
剣豪宮本武蔵や、NBAのマジック・ジョンソン、
あるいはサッカーのジネディーヌ・ジダンは、
「最適経験」にいると思われます。
その瞬間、どんな感じがしましたか?
と研究者が聞くと口をそろえ、
彼らは「流れているようだった」
(flow)という言葉を使いました。
これが「フロー体験」の語源です。

これが「ゾーン」と言い換えられ、
日本ではこちらがマス層に広がりましたが、
どちらも同じ「最適経験」を表しています。

チクセントミハイのこの研究は1990年代ですが、
2019年の私たちには、
「心理的エントロピー問題」は、
当時よりはるかに深刻で切実になっています。

なぜか?

SNSは、心理的エントロピ−状態、
つまり「最適経験の逆」に、
人間の状態を持って行くのに、
最も「効果的」であるということを、
膨大な調査結果が示しているからです。

もう一度引用します。
「意識にマイナスに働く主な力の一つは心理的無秩序
――すなわち現在の意図と葛藤し合う情報、
または意図の遂行から我々をそらしてしまう情報である。
この状態をどのように経験したかによって、
それは苦痛・恐れ・激怒・不安・嫉妬などさまざまに呼ばれる。」


、、、SNSがこのような状態を喚起する、
というのは反証不能なほど、
数多くの実証的な研究結果があります。
仕事で良いパフォーマンスを出したい人は、
SNSは「ほどほど」にするのが良いでしょう。
(私はあるときから事実上SNSから足を洗いましたし、
 私がスマホを持たないのもこの理由です。
 SNSを使うのは発信するときだけで、
 受信は常に「ミュート」です。
 SNSやスマホの利便性より、
 良い仕事をすることのほうが大切ですから。)



▼▼▼フロー体験によって自己は複雑になる。
差異化と統合化の二つの意味で。

→P52〜53 
〈フロー体験によって自己の構成はそれまでよりも複雑になる。
しだいに複雑になることによって自己は成長すると言えるだろう。
複雑さは二つの大きな心理学的過程、差異化と統合化の結果である。

差異化とは独自性や、他者から自分自身を区別する傾向を意味している。
統合化はその逆であり、他者との結合であり、
自己を超えた思想や実体との結合である。
複雑な自己とは、これらの相反する傾向を
結びつけることに成功した自己を言う。

挑戦目標の達成は必然的に、
より有能になった、より熟達した、という感覚を残すので、
フローの結果自己はさらに差異化される。
ロッククライマーの言うように、
「自分を、自分のやったことを畏敬の気持ちで振り返り、
それはまさに心を膨らませる」のである。

一つ一つのフローのエピソードを重ねるにつれて、
人はより独自性を持ち、ありふれた型から抜け出して、
より稀少な価値を持つ能力の獲得に夢中になる。

複雑さはしばしば困難や混乱など
否定的な意味を持つものと考えられる。
我々が複雑さを差異化とだけ対応させるならばそれは正しいだろう。
しかし複雑さはまた、第二の次元
――自律的な部分の統合――を含んでいる。
たとえば複雑なエンジンは、
それぞれが個別の働きをする
数多くの個々の部品から成り立っているだけではなく、
部品のそれぞれが他のすべての部品と関連しているので優れた性能を発揮する。
統合なしには差異化されたシステムは混乱した寄せ集めとなるだろう。

フローは自己の統合を促進する。
注意が深く集中している状態では、
意識は格別良い状態に秩序化されているからである。
思考・意図・感情そしてすべての感覚が同一目標に集中している。
体験は調和の状態にある。
そしてフロー状態が終わったとき、人は内的にだけではなく、
他者や世界一般に対しても「ともにいる」という感じを、
それまでよりも強く持つようになる。

前に引用したクライマーの言葉によれば
「山に登るときの状況・・・(これ以上に)
人間から最上のものを引き出す場所はありません。
頂上へ着くまでのものすごい緊張に耐えていく心身を支えるのは自分だけです。
・・・仲間はすぐそこにいますが、皆同じように感じています。
とにかく皆一緒にその中にいるのです。
この20世紀にこれらの人々以上に信頼できる人がいるでしょうか。
私と同じように自分を鍛え、
深く物事に関わっている人々より信頼できる人が。
・・・このような人々との連帯はそれ自体がエクスタシーです。」

統合化されずに差異化されただけの自己は
大きな個人的業績を上げるかもしれないが、
自己中心的な利己主義にはまり込む危険がある。
同様に自己が差異化されずに統合化されている人は他者と結びつけられ、
安全ではあるが自律的個性に欠ける。
等量の心理的エネルギーをこれら二つの過程に投射し、
わがままと付和雷同を避けて初めて、
自己は複雑さを映し出すだろう。〉


、、、差異化と統合化、
という新しい概念がまた登場しましたね。
この二つが揃ってこそ「自己の複雑化」という、
著者のいう「人間的成長」の側面に到達する、
ということがここでのポイントです。

差異化というのは、
先ほどの剣豪宮本武蔵ならば、
人里離れて剣の腕を磨き、
「もう誰も到達できないほどの高み」
に到達し、それゆえ「剣で語り合える人」が、
誰もいなくなってしまった孤高の状態、
というようなことに近いかもしれません。
彼はその孤独を埋めるために佐々木小次郎と、
「剣で語り合う」ことを求めた、
というのが吉川英治や井上雄彦が描く武蔵像です。

しかし武蔵は孤独なだけではありません。
彼は「ある時期」を越えると、
孤独な少年や貧しい村人など、
「民衆」に対する暖かいまなざしを獲得し、
彼らに畏敬の念を覚え、
彼らと連帯することすら出来るようになります。
さらに武蔵は「この天地とひとつ」という、
「自然との一体感」を得るようになる。
これが武蔵の文脈で言う「統合化」です。

私たちもまた、規模は違うにしても、
日常生活でこのような事象に出会います。
「差異化だけがある状態」というのは、
めちゃくちゃ仕事が出来るが、
それ故に「孤高の存在」になり、
周囲との間に壁が出来てしまうような人のことです。

「統合だけがある状態」というのは、
みんなと歩調を合わせることだけを求め、
自らの到達できるはずの高みに行けないし、
行こうともしない人のことです。
校内マラソン大会ならば
「みんなで一緒に走ろうね」というやつです。

このどちらの人も、
「自己の複雑化」という人間的成長には不十分だ、
というのがここでの論点です。
私たちは誰も到達できないような高みを目指しつつ、
周囲との共感や連帯も失わない、
そういう存在になれるのであり、
是非目指すべきなのだ、ということです。



▼▼▼「フロー体験」とは、
行為それ自体のために行為することがもたらす喜びである

→P53〜54 
〈自己はフローを体験する結果、複雑になる。
逆説的に言えば、我々がこれまで以上の複雑さを身につけるのは、
行為に現れない動機のためにではなく、
むしろ行為それ自体のために自由に行為する時である。

目標を選び、注意集中の限界にまで自分自身を投射する時、
我々が行うことはすべて楽しいものになる。
そしてひとたびこの喜びを味わうと、
我々はその喜びを再度味わうための努力を倍増させる。
これが自己が成長する道筋である。

それはリコがベルトコンベアーでの表面上は退屈な仕事から、
R氏が詩から、多くのものを引き出し得た方法である。
それはEさんが病気を克服して著名な学者になり、
有能な経営者になった方法である。

フローは今という瞬間をより楽しいものにし、
能力をさらに発展させて
人類への重要な寄与を可能にする自信を築きあげる、
という二つの理由で重要である。〉


、、、これは説明不要でしょう。
フロー体験というのは、
「何かのためにそれを頑張っている状態」ではない、
というのがこの本の核心的主張です。
お母さんに誉められたいから塾で勉強している中学生は、
決してフロー体験を味わうことはないでしょう。
上司に認められたいから仕事をする職員は、
その定義からして仕事がフロー体験になっていません。

お金のために行為する人の中に、
一流はいるが超一流は見つけられない、
と著者が言っているのはこのことです。
イチロー選手でも、羽生善治でも、
宮本武蔵でも、リオネル・メッシでもいいのですが、
「お金のために」「名声のために」している人はいません。
莫大なお金と名声は「あとからついてきます」が、
彼らは「それをすることそれ自体が目的だから」
それをしています。
その自己没入的なフロー体験が、
彼らを「高み」へと連れて行くのです。

驚くべきなのは、
ベルトコンベアで働く作業員の中にさえ、
この「高み」に到達する人がいるということです。
本書で出てくるリオという作業員は、
工場の誰もが尊敬し、困った案件は上司ですら彼に相談する、
というほどの熟練工です。
彼にインタビューするとこう言います。
「もちろんこの仕事で生計を立てられることは大事だよ。
 でも、僕が仕事に打ち込むのはお金のためじゃない。
 純粋にそれをするのが楽しいからだ」と。

私はかつて食肉処理場で働いていましたが、
その経験からも「そういう人」って、必ずいます。
その人たちの汗は輝いていたし、
身のこなしには「神々しさ」すら漂っていました。
「高給のホワイトカラー以外、仕事じゃない」
と思い込んでいる、
塾通いの偏差値至上主義の高校生たちに、
あの光景を見せて上げたい。



▼▼▼楽しさの現象学の八つの構成要素

→P62〜63 
〈我々の研究が示唆してきたように、
楽しさの現象学は八つの主要な構成要素をもっている。
被験者たちは、
最も生き生きした経験をしている時の感じについて訪ねられた時、
少なくとも次のうちの一つ、しばしば全部を挙げたのである。

第一に、通常その経験は、
達成できる見通しのある課題と取り組んでいる時に生じる。
第二に、自分のしていることに集中できていなければならない。
第三、および第四として、その集中ができるのは一般に、
行われている作業に明瞭な目標があり、
直接的なフィードバックがあるからである。
第五に、意識から日々の生活の気苦労や欲求不満を取り除く、
深いけれども無理のない没入状態で行為している。
第六に、楽しい経験は自分の行為を統制しているという感覚を伴う。
第七に、自己についての意識は消失するが、
これに反してフロー体験の後では自己感覚はより強く表れる。
最後に、時間の経過の感覚が変わる。
数時間は数分のうちに過ぎ、
数分は数時間に伸びるように感じられることがある。

これらすべての要素の組み合わせが深い楽しさ感覚を生む。
それは非常にやりがいがあるので、
大量のエネルギーをそれを感じるためにのみ
消費するに値すると感じるのである。〉


、、、ダニエル・ピンクは、
著書『モチベーション3.0』のなかで、
想像力と創造力が富の源泉となる21世紀的な仕事において、
チクセントミハイの『フロー体験』的な、
「労働の喜び(動機付け)」を提供できない組織や企業は、
良い人材を集められず、引き留めてもおけないため、
必ず挫折するだろう、と指摘します。

そして、「では、そのような労働を提供するために、
管理者(経営者)が行うべき、
21世紀的な動機付けは何か」
ということを、この箇所から解説しています。
つまり、上記8個の条件を満たせるようなやり方で、
働く人に仕事や責任を割り振ることが、
非常に大切になってくるのだ。

つまりこういうことです。

・達成できる見通しのある課題を与えること
・集中出来る環境を用意すること
・明確な目標が定義されていること
・自分の仕事に直接的なフィードバックがあること
・自分を統制している感覚を提供すること
(裁量権を与えることを意味する)


、、、こういった条件を与えるときに、
仕事をしている人は、
「自己を忘れるほどその課題に没入し」
「1時間が1分のように感じ、
 逆に重要な数秒が1時間に引き延ばされる」
といったような集中状態を味わうことができるというのです。

これは、たとえば中間管理職として部下の指導をするときや、
子どもたちに勉強を指導するときや、
少年野球のコーチをするとき、
あるいは教会で信徒を訓練するときにも、
適用可能な原則です。

あまりにも多くの世の中の「指導」が、
「具体的な目標設定も、
 直接的なフィードバックも、
 裁量権もなく、
 ただ精神論を振り回す」
というようなものが多すぎる。

「とにかく勉強しろ」
「とにかく頑張れ」
「とにかく素振りしろ」
「とにかく聖書を読め、祈れ」
は、指導として最低の部類だ、ということですね。



▼▼▼自己目的的経験と、内発的報酬

→P85〜86 
〈最適経験の基本要素は、
それ自体が目的であるということである。
たとえ初めは他の理由で企てられたとしても、
我々を夢中にさせる活動は内発的報酬をもたらすようになる。
外科医は、「手術がとても楽しいので、
私がやる必要のない手術でも引き受けるだろうね」と言い、
航海者は「このヨットのために多くのお金と時間を費やしますが、
それだけの価値があります。
帆走している時に感じることと比べられるものなどありません」
と言う。

「自己目的的」(autotelic)という言葉は、
ギリシャ語の自己を意味するautoと目的を意味するtelosからきている。
それは自己充足的な活動、つまり将来での利益を期待しない、
することそれ自体が報酬をもたらす活動を言う。

儲けるために株の売買をすることは自己目的的な経験とはならないが、
将来の動向を予見する能力を証明するためにする売買は
――結果として手に入るドルやセントが全く同一だとしても――
自己目的的な経験となる。
子どもを良き市民に仕立てるための教育は自己目的的ではないが、
子どもたちとの相互作用を楽しむための指導は自己目的的である。

この二つの状況で生じるものは、表面上は同一である。
違いはその経験が自己目的的である時、
人はその活動それ自体に注意を払うが、
そうでない場合にはその結果に注意の焦点を置くところにある。

我々が行うことのほとんどは、
純粋に自己目的的でもなければ外発的
(以下、外的な理由によってのみ行われる活動を指す)でもなく、
両者が混ざり合っている。

外科医は通常、人を助けること、
金を稼ぐこと、権威を得ることなどの
外発的な期待から長い訓練に入る。
もし幸運に恵まれるなら、
まもなく彼らは自分の仕事を楽しみ始め、
手術はきわめて自己目的的なものになる。〉


、、、「自己目的的」(autotelic)という言葉が出てきました。
「フロー体験」を一言で言い換えるなら、
この「自己目的的体験」になるでしょう。
「それをすることで将来何か利益が得られるから」
それをするのではなく、
「それをすることが楽しくて仕方がないから」
それをするようになる。
そのときに、その人は活動の結果ではなく、
活動そのものに没入するようになる。
これが「自己目的的経験」です。
私も今の仕事は、「自己目的的経験」の部分が、
きわめて大きいです。
そうでなければ、
経済的・社会的報酬が少なく、安定もしてない仕事を、
10年も続けられません。

脳研修者の池谷裕二さんが、
『自分では気づかないココロの盲点』という本に、
こんな事例(クイズ)を紹介していますので、
当該箇所を引用します。


→P32〜34 
〈陸軍士官学校に所属する候補生に、志望動機を訊きました。
10年後に、より出世していたのは、どちらの理由を挙げた人でしょか。

1.技能や素養を身につけ、将来は将校になって国のために貢献したい。
2.軍隊そのものが楽しそうだから。

(次ページ)

答え:2


将来の明確な目標やビジョンがあった方が、
モチベーションが高まるように思います。
また、目標は一つよりも、多数あった方が良いようにも思います。
ところが、夢や目標をたくさん持っている指揮官候補生に比べて、
単に好きだからやっている候補生の方が、
将校に出世する率が15%ほど高かったのです。
興味があるからやっている人の方が、やる気が長期的に継続するのです。
愛する人のため、出世のため、
お金のため、教養のため、仕返しのため――。
自分の行動に、目的や理念などを添えて理論武装する人ほど、
長期的な結末は良くないものです。
理由は一つ。
好きだからやっている。
これでいいのです。好きに理由などないのです。〉


、、、かつてこのメルマガの中で、
『桐島、部活やめるってよ』の解説をしました。
その中に出てくる人気生徒の宏樹君は、
「他の生徒にどう見られているか」が人生の軸になっていました。
オタクの前田君は、
「ゾンビ映画を撮る」ということが、
好きで好きでたまらなくて、
映画同好会を主催していました。

多くの人が思っているのとは逆で、
前田君の方が「圧倒的に強い」のです。
もっと言えば「最強」です。
「それをすることが楽しく、それが好き」
であるという人は、世間の評価とか金銭的報酬とか、
まったく関係ありません。
そういうものを何かひとつでも持っている人は、
この残酷な世の中を生き抜く武器を持つ人です。



▼▼▼ロジェ・カイヨワによるゲームの4分類

→P92〜93 
〈フランスの心理人類学者ロジェ・カイヨワは世界中のゲーム
(あらゆる楽しい活動を含めるために、
この言葉を最も広い意味で用いている)を、
それが生み出す経験の種類に従って大きく四種に分類した。

アゴーン(agon)はほとんどのスポーツや競技のように、
競争を主な特徴とするゲームを含んでいる。
アレア(alea)はさいころ遊びからビンゴにいたる、
すべての運試しのゲームに、
イリンクス(ilinx)つまり眩暈は、
メリーゴーラウンドやスカイダイビングのような、
通常の感覚を錯乱することによって
意識を変えてしまう活動に与えられた名称であり、
ミミクリー(mimicry)は、ダンスや演劇、芸術一般のように、
代理の現実が創り出される一群の活動である。〉


▼▼▼ゲームの語源は「ノンゼロサム」である。
「共に追求する」

→P93 
〈競争的なゲームでは、
参加者は相手の能力によって与えられる挑戦に
適合するように自分の能力を伸ばさねばならない。
「競う」(compete)の語源はラテン語のcon petire、
つまれ、「ともに追求する」である。
それぞれが自分の可能性の実現を追求するが、
これは自分がベストを尽くすよう他者に強く迫られる時、
より容易なものになる。〉


、、、「夢中になれるのが最強」と先ほど言いましたが、
すべての人が「わかりやすく夢中になれるようなこと」を
仕事にしているわけではありません。
もしそうならば、
世の中にはアニメーターと声優と、
野球選手とプロゲーマーと、
映画監督とユーチューバーと、
アイドルとパティシエぐらいしか、
仕事がなくなってしまうでしょう。
(その仕事の実相が、「子どもたちの脳内の憧れ」と、
 どれぐらい乖離しているかという話しは脇に置くと)

「華やかなあこがれの仕事」は、
子どもと世間知らずな人の脳内にしか存在しません。
現実はこうです。
仕事というのは人様からお金をもらってするわけですから、
基本的に「人がやりたくない面倒なこと」を、
引き受けることに他なりません。

「自分に合った仕事がない」
という若者がいることを養老孟司さんがあるとき嘆いていました。
「俺は35年間、死体を解剖してきた。
 葬式に行っては遺族に頭を下げ、
 ご遺体を引き取ってきた。
 それに『向いている』人って、
 どんな人なんでしょう?」と。

私は食肉処理場で6年間働きました。
おびただしい数の豚や牛を屠殺し、
皮を剥ぎ、内臓を取り出し、
腸の内容物を洗い、
膿があったら摘出し、
肉や内臓として食用に供する準備をする。

こういうのに「向いている人」って、
いったいどういう人なんでしょう?

あなたの仕事がなんなのかは分かりませんが、
きっと「やりたいこと」を仕事にしている人は、
圧倒的に少数派でしょうし、
仮に「やりたいこと」が仕事だったとしても、
その多くの部分は退屈な繰り返しです。
アイドルですら、じっさいにやってみれば、
その仕事のほとんどが嫌なことだ、
というのが本音じゃないでしょうか?

でも「福音」があります。
たとえどんな仕事だったとしても、
それを「好きになる」ことが可能だ、
というのが福音です。
食肉処理場の経験を何度も引き合いに出しますが、
私はその仕事をこれ以上ないぐらい楽しんでいました。
下手なテレビゲームより何百倍も楽しい。
ゲームは二次元ですが、
食肉処理場の仕事は3次元どころか、
人間関係、動物や解剖の知識、
事務処理能力、包丁さばきなどの手際、
あらゆる要素が重なり合って、8次元ぐらいの「ゲーム」です。
昨日より2秒検査が早く、しかも正確になった。
去年よりも的確な指示が、作業員に出せるようになった。
そういった上達の手応えは、
それ自体が報酬で、給料は副産物と感じていたぐらいです。

チクセントミハイがなぜゲームの話をここでしているのか?

それは「つまらない仕事を楽しくする」には、
「ゲーム」という概念を導入する必要がある、
というのが彼の仮説だからです。
ある仕事をめちゃくちゃつまらないと感じる人と、
同じ仕事をめちゃくちゃ面白いと感じる人がいる。

後者は、その仕事の中に、
「ゲーム性」を見出し、
そこに自己を向上させるという要素を発見している、
というのです。

そして著者が指摘しているように、
競争(compete)の語源は、
「共に追求する」ことです。

出世レースという「ゲーム性」は、
「フロー体験=自己目的的体験」と縁遠い、
というのがここから分かります。
同僚を出し抜いてでも成功しようとする社員は、
同じ「ゲーム性」を仕事に見出していても、
そのゲーム性の中に喜びはありません。
そうではなく、「昨日の自分より上達する」
「昨日の自分よりお客さんに喜んでもらう」
「昨日の自分よりチームをまとめる」
といった本来のゲーム性を見出すとき、
「誰もがつまらないと思うだろう仕事」が、
無上の喜びに変わります。

これは空論ではなく、
私自身が自分の仕事人生の中で、
何度も体験してきたことです。


、、、後篇へ続く

本のカフェ・ラテ『AI VS 教科書が読めない子どもたち』(後編)

2019.05.23 Thursday

+++vol.074 2019年1月15日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 本のカフェ・ラテ
「本のエスプレッソショット」というこのメルマガの、
開始当初からの人気コーナーでは、
一冊の本を約5分で読める量(3000〜10,000字)で、
圧縮し、「要約」して皆さんにお伝えしてきました。
忙しい読者の皆さんが一冊の本の内容を、
短時間で上っ面をなぞるだけではなく「理解する」ために、
「圧縮抽出」するというイメージです。
この「本のカフェラテ」はセルフパロディで、
本のエスプレッソショットほどは、網羅的ではないけれど、
私が興味をもった本(1冊〜2冊)について、
「先週読んだ本」の140文字(ルール破綻していますが)では、
語りきれないが、その本を「おかず」にいろんなことを語る、
というコーナーです。
「カフェ・ラテ」のルールとして、私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメントしていく、という形を取りたいと思っています。
「体系化」まではいかないにしても、
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。
密度の高い「本のエスプレッソショット」を牛乳で薄めた、
いわば「カフェ・ラテ」のような感じで楽しんでいただければ幸いです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼久々の、「本のカフェラテ」です。▼▼▼

さてさて。
お待たせしました。
去年の11月20日に、
「後編をお楽しみ」
と言ったきり、2ヶ月放置していた、
本書のカフェ・ラテ(後編)をやります。

さっそく行ってみましょう。


●『AI VS 教科書の読めない子どもたち』

読了した日:2018年5月2日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:新井紀子
出版年:2018年
出版社:東洋経済新報社

リンク:
http://amzn.asia/cbeiDq8


▼▼▼東大ロボはどうして「常識の壁」に阻まれるのか?
AIが理解できるのは基本的に「四則演算」であって「意味」ではないから

→P107 
〈私がどこにいても、
勤め先の神保町までの行き方を教えてとお願いすると、
スマートフォンはすぐに教えてくれます。
頂き物の松茸をおいしく料理する方法だって、なんでもこいです。
ですから、スマートフォン、
つまりAIは私たちの質問の意味を理解し考えてから、
答えを教えてくれているのだと思っている人も多いと思います。

けれど、AIは意味を理解しているわけではありません。
AIは入力に応じて「計算」し、答を出力しているに過ぎません。
AIのめざましい発達に目が眩んで忘れている方も多いと思いますが、
コンピュータは計算機なのです。
計算機ですから、できることは基本的には四則演算だけです。
AIには、意味を理解できる仕組みが入っているわけではなくて、
あくまでも、「あたかも意味を理解しているようなふり」をしているのです。
しかも、使っているのは足し算と掛け算だけです。

AI(コンピューター)が計算機であると言うことは、
AIには計算できないこと、基本的には、
足し算と掛け算の式に翻訳できないことは処理できないことを意味します。
ですから、AI研究者は、世の中のあらゆることを、
たとえば、画像処理をするための方法を、
質問に応答する方法を、
あるいは英語を日本語に翻訳する方法を数式で表そうとして、
日々、頭をフル回転させているのです。

→P117 
〈論理、確率、統計。
これが4000年以上の数学の歴史で発見された数学の言葉のすべてです。
それが、科学が使える言葉のすべてです。
次世代スパコンや量子コンピューターが開発されようとも、
非ノイマン型と言おうとも、
コンピューターが使えるのは、この3つの言葉だけです。

「真の意味のAI」とは、
人間と同じような知能を持ったAIのことでした。
ただし、AIは計算機ですから、数式、
つまり数学の言葉に置き換えることの出来ないことは計算できません。
では、私たちの知能の営みは、
すべて論理と確率、統計に置き換えることが出来るでしょうか。
残念ですが、そうはならないでしょう。〉


、、、AIの「シンギュラリティ論争」については、
前編で説明しました。
「2045年問題」とも言われています。
AIの進歩がある臨界点(シンギュラリティ)を迎えると、
人間の頭脳はAIによって「超克」され、
人類は歴史の新たなフェイズに入るであろう、
という未来予測です。

これを熱烈に支持する人々と、
「いや、それは言い過ぎだ」と言う人で、
立場が二分しているわけです。

面白いのは、新井さん含め、
プログラミングやコンピュータの中身を知っている人ほど、
「後者」に意見が傾いているということですね。

これは再生医療にも言えます。
医学の知識がある人ほど、
「人間が死ななくなる理想郷」は、
幻想に過ぎないことを知っています。
医学の知識があれば、
「再生医療は限定的な技術」であることが分かるからです。

コンピュータの中身を知っている人は、
なぜシンギュラリティ論争において、
技術の限界を指摘するのか?
それは、引用箇所でも新井さんが言っているように、
彼らが、コンピュータの本質は、
どこまで行っても「計算機」である、
ということを知っているからです。

ところが再生医療に関してもAIに関しても、
私たち一般市民が目にする報道は、
「その技術は限定的だ」という内容よりも、
「世界は様変わりするぞ!!!」という、
過激な内容が多い。

なぜか?

それは報道する人、
つまり新聞記者やマスコミ関係者が、
基本的に「文系」だからです。
彼らは理系の専門家から、
「再生医療」や、「AI=計算機」
という説明を聞きますが、
基礎的な知識が欠如しているので理解できていない。
小保方さんのSTAP細胞がいまだにある、
と言っている人がこれだけいる、
というのは「マスコミの科学音痴」によると、
私は思っています。



【現代のAI礼賛のシンギュラリティ論者と、
15世紀の占星術によるグランドセオリーを希求したハプスブルク家の相似】

→P109 
〈中世には、アラビア半島を経由して
インドの数学がヨーロッパに伝わっています。
貿易が盛んになると、
商取引で合理的なアラビア数字が使われるようになり、
計算が飛躍的に速くなりました。
そして、計算技術の向上は天文学の発展に大きく寄与しました。

その天文学の中心地フランスでとんでもないことが起こります。
15世紀のフランスで2人の教皇が互いに正統性を主張した、
「教会大分裂(シスマ)」と呼ばれるカトリック史に残る大事件です。

パリ大学の教員たちはどちらを支持するか二者択一を迫られました。
少数派だったドイツ系の教員たちはパリ大学を去らざるを得なくなります。
そんな彼らに、ウィーンのハプスブルク家が手をさしのべました。
しかし、天文学者としてではありません。
占星術者として招かれたのです。
天候が農作物の作柄に影響を及ぼし、
作柄は国勢を左右しますから、
統治者のハプスブルク家にとって占星は一大関心事でした。
当時の人々は太陽も星も月も雲もみな同じ場所にあるものと捉え、
太陽や月、星の観測データを収集・分析すれば
天候や作柄が予測できると考えていました。
大気圏と宇宙空間の別を知らない当時としては、
無理からぬことでしょう。

それはともかくとして、
ドイツ系の天文学者を多数受け入れたことで、
中世のウィーンで占星術が花開くことになります。
現代において「真の意味のAI」が
待望されている状況と酷似しています。

当時の天文学者たちは膨大な
「天文ビッグデータ」を計算する必要に迫られます。
占いを外せば命に関わるでしょうから、
必死だったに違いありません。

その過程で生まれて、現在も使われているものがあります。
3.14のような十進小数表示です。
それ以前は、古代バビロニア時代から
営々と六十進法の分数を使っていました。
それでは計算効率が悪くてしょうがない。
膨大な計算の必要に迫られて意図せずに十進小数が生まれたのです。
十進小数まで開発して計算にいそしんだ彼らには気の毒ですが、
中世の「ビッグデータ占い」は理論的に誤りでした。

今では誰もが知ることですが、
年間降雨量の予測のために遙か彼方の星を観測するのは、
宝くじの番号から当たり外れを
予測するのと同じくらい無駄なことです。
中世のビッグデータ科学の成果は、
近代科学の登場によって完全に上書きされることになりました。

天文ビッグデータを用いることで、
その年の作柄から、生まれた皇子の運まで、
すべてを予測したいと熱望したハプスブルク家の姿は、
私には、数学とは何かを理解せずに
「ビッグデータでAIが実現できる」と
信じる人々の姿に重なって見えます。〉


、、、これも先ほどの話しと同じです。
ディープラーニングが、、、とか、
ビッグデータが、、、とか、
横文字のバズワードを並べて、
AI時代の到来を興奮気味に語っているほとんどの人は、
「AIは基本的に四則演算である」
という本質を掴んでいません。

そうすると彼らの未来予測は当然外れ、
天気を読み間違えた農家のごとく、
「今、何をすべきか」を見誤ります。



【東大ロボの伸び悩みの本質は:
「AIは本質的に数学であり、
 意味を取り扱うことが出来ない」ということ】

→P119 
〈数学が発見した、
論理、確率、統計にはもう一つ決定的に欠けていることがあります。
それは「意味」を記述する方法がないと言うことです。
数学は基本的に形式として表現されたものに関する学問ですから、
意味としては「真・偽」の2つしかありません。

「ソクラテスは人である。
人は皆死ぬ。よって、ソクラテスも死ぬ」
のようなことしか演繹できないし、
意味はわからないと言うより表現できないのです。

いかがでしょうか。

少しは、数学とは何かにつて、
理解する助けとなったでしょうか。
数学は、論理的に言えること、確率的に言えること、
統計的に言えることは、実に美しく表現することが出来ますが、
それ以外のことは表現できません。

人間なら簡単に理解できる
「私はあなたが好きだ」と
「私はカレーライスが好きだ」の本質的な意味の違いも、
数学で表現するには非常に高いハードルがあります。

これが、東大ロボくんの成績が
伸び悩んでいる根本的な原因だと言えるでしょう。
本章の最初に、
いまのAIの延長では偏差値65の壁は越えられないと申し上げたのは、
このような理由があるからです。〉


、、、著者の新井紀子さんは、
「東大ロボ君」という国家プロジェクトに、
長年携わってきました。
それは、「AIが東大入試に合格する」
という目標を掲げてスタートしたプロジェクトです。
新井紀子さんの結論は、
今の技術の延長線上に、
「AIが東大合格する未来はない」
ということです。

しかし、東大ロボはすでに、
MARCH(明示、青山、立教、中央、法政)
には合格できます。

東大とMARCHを分けるものは何か?

そこに「人間の頭脳とAIの質的な差異」があり、
そこを磨いていくことこそ、
AIが多くの仕事を奪う未来
(これについては新井さんも肯定しています)に、
今の子どもたちが「やる仕事がなくならない」ために、
するべきことなのだ、ということです。

では、その「質的な差異」とは何か?

それは「意味の把握」です。
AIは計算機であり、
その本質は四則演算だ、と先ほど述べました。
つまりそれは「数学」です。

数学が取り扱うことが原理的に出来ない領域が、
「意味」なのだというのが新井さんの指摘です。

「いやいや、
AIが小説を書いたって、
ネットニュースで見ましたよ!」

違います。

あれは、膨大な「ストーリー」を、
ビッグデータ的に集めさせて、
その「最大公約数」を、
アルゴリズムに語らせただけです。
そこに「意味」は介在していません。

「意味の把握」が最初にあり、
そこから物語を演繹する、
人間の創作活動とは、
本質的にまったく違います。

AIによって仕事を奪われる職業、
というのをオックスフォード大学が、
ランキングしていますが、
その上位に銀行の窓口業務などは入っていますが、
「小説家」が入っていないのはこのためです。

▼参考リンク:オックスフォード大学の「なくなる仕事リスト」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/40925


小説家は先週号で紹介した、
ロバート・ライシュの言うところの、
「シンボルアナリスト」です。
今後も彼らの仕事はなくならないし、
その価値は上がることはあっても下がりません。
「意味を取り扱う仕事」が、
今後も人間の手から奪われることは、
(1000年単位だとそれは分からないが、)
少なくとも100年単位ではありません。
だから「意味を把握する訓練」をしましょう、
というのが本書のタイトルに現れているわけですね。


【機械翻訳がどの程度の精度なのか?
「便」の話はめちゃくちゃ面白い】
→P141〜142 
〈AI関連各社が激しい競争を繰り広げている分野がもう一つあります。
機械翻訳です。
外国語が苦手だと思っている人が多い日本人には、
まさに夢のアイテムで、
すでに多くの人が利用しています。

ですが、日常会話や、
ちょっとした翻訳の助けにはなっても、
厳密さが求められる、
たとえば、電気製品のマニュアルだとか、
契約書、学術論文などでは全く実用に耐えるレベルではありません。

とは言え、
前世紀にはほとんど使い物にならなかった機械翻訳の精度は、
2000年代に入ってずいぶん改善されました。
それでも、実力はまだまだという印象でした。
2014年にグーグル翻訳の精度を試してみたことがあります。
 
「図書館の前で待ち合わせをしませんか。」

ビッグデータ上の統計的機械翻訳を
採用しているグーグル翻訳は次のように翻訳しました。
 
「Do not wait in front of the library.
(図書館の前で待たないで下さい)」

入試なら零点です。

機械翻訳ではヤフー翻訳も有名ですが、
2014年までは精度に大差なく、
たとえば、日本語で書いたビジネスメールを
機械翻訳でスワヒリ語に訳して送信するという勇気は湧きませんでした。
尾籠な話で恐縮ですが、
「明日はどの便に空席がありますか?」の
「便」をグーグル翻訳が誤訳してしまい、
大恥をかいた日本のビジネスマンがいたという話も
聞いたことがあります。〉
 

、、、自動翻訳機が、
実用レベルになってきたのは、
凄いことだと思います。
いっさい英語を話せない人にとっては、
海外旅行体験が、ずいぶん快適になることでしょう。
また、たとえばフランスのような、
あんまり英語を話してくれない国に行ったとき、
自動翻訳機に救われるシーンも多くなることでしょう。

しかし、
機械翻訳の限界も、
われわれは知っておく必要があります。
機械翻訳の限界は、
先ほど指摘した「意味の把握の不能」にあります。
機械は「便(ウンコ)」と、「便(どの飛行機か)」の、
違いを把握することが出来ません。
「ディープラーニング」によって、
ある程度までは、文脈依存性の法則を学び、
精度を上げることは出来るでしょうが、
微妙なニュアンスを伝えるところまでは、
現在の技術と同じ地平にはない、
ということが分かると思います。

100年後も、
大統領同士の会話には、
有能な通訳が付き添い続けているはずです。


【大規模な「読解力調査」からわかったこと】
→P227 
〈全国2万5000人を対象に実施した
読解力調査でわかったことをまとめてみます。
・中学校を卒業する段階で、
 約3割が(内容理解を伴わない)表層的な読解もできない。
・学力中位の高校でも、
 半数以上が内容理解を要する読解は出来ない。
・進学率100%の進学校でも、
 内容理解を要する読解問題の正答率は50%強程度である。
・読解能力値と進学できる高校の偏差値との相関は極めて高い。
・読解能力値は中学生の間は平均的には向上する。
・読解能力値は高校では向上していない。
・読解能力値と家庭の経済状況には負の相関がある。
・通塾の有無と読解能力値は無関係
・読書の好き嫌い、科目の得意不得意、
 一日のスマートフォンの利用時間や
 学習時間などの自己申告結果と基礎的読解力には相関はない。〉


、、、先ほどから、
「AIは本質的に計算機だ」という話しをしています。
とすると、現代を生きる子どもたちが、
「AIに仕事を奪われない」ためには、
「計算機に代替不能な能力を研鑽する」ことが、
取るべき戦略になるわけですね。

そして、その「計算機に代替不能な能力」は、
「意味の把握」である、と新井さんは指摘しています。

ところが、前編でご紹介したように、
現代の子どもたちの「読解能力」をテストしたところ、
これがすこぶる振るわない。

前編で解説したことを繰り返しますと、
こういう問題がありました。

「幕府は、1639年、ポルトガル人を追放し、
 大名には沿岸の警備を命じた。」

上記の文が表す内容と以下の文が表す内容は同じか。
「同じである」「異なる」のうちから答えなさい。

「1639年、ポルトガル人は追放され、
 幕府は大名から沿岸の警備を命じられた。」


、、、これはYESかNOの二択問題であり、
コインを投げた場合の正答率は50%です。
加えて、「幕府」「警備」などの言葉の意味が分からなくても、
文章の構造を抑えることができれば、
正解することのできる問題です。

にもかかわらず、日本の中学生の、
この問題の正答率は55%(!!)だったのです。

つまり、中学生たちは、
たった1行の文章が、
いったい何を言っているのか、
その意味を把握出来ていない、
ということです。

驚愕じゃないですか?

大人は「驚愕」と言うかもしれませんが、
大人も似たようなものかもしれません。
「正答率が55%だったんですよ
 (ヤバくないですか?)!!」
と新聞記者に新井さんが伝えたところ、
新聞記者は「え?何が?
平均点55点って、そんなに悪くないですよ」
と答えたエピソードがこのあとに紹介されますから。

新聞記者は、
「二択問題の正答率が50%」の意味が、
「100点満点のテストなら0点の近似値」
という統計学がまったく分かっていません。
中学生と似たようなものです。

、、、新井さんはこのことに危惧を覚え、
独自の「読解力調査」というテストを考案し、
行政と協力して、全国で大規模調査に乗り出します。
その結果分かったのが、上の引用に挙げた事項でした。

中でも意外だったのが、
家庭の経済状況と、読解力の関係は、
わずかだが「負の相関」があった、
ということ(普通は逆を予想します)や、
塾に行ったかどうかや、
スマホや読書時間や勉強時間は、
読解力にまったく関係がないことでした。

、、、ここから分かるのは、
私たち大人(親や学校の先生や塾講師)が、
「子どもの学力向上」のために、
資本や時間を投下して行っていることの、
ほぼすべては、
「子どもの読解力向上」に、
資するところがほとんどない、
ということです。

にもかかわらず、
最難関高校(および大学)への入学率と、
読解力には、きわめて強い相関がある。

さらに言えば、
将来AIによって代替不能な仕事ができるかどうかと、
読解力は、致命的な関係がある。
「それがすべてを握っている」と言っても良い。

「社会が本当に必要とする能力」と、
「大人たちが組織的に、
子どもに身に着けさせようとしている能力」
の間に、大きな乖離がある、というのが、
この調査結果から分かったことです。

めちゃくちゃざっくりとした、
乱暴な言い換えを、
私なりにしたいと思います。

学校や塾や教育ママは、
子どもの「アルゴリズム処理能力」の向上をもって、
「学力」と思っています。
それは計算の速さ、正確さ、暗記力の向上です。

しかし、社会が本当に必要とする能力は、
「ヒューリスティック的な能力」です。
これは「問題解決能力」「問いを発する能力」
などで、「意味の把握」がその前提になります。

前者の能力は、
コンピュータが最も得意とし、
後者の能力は、
今後100年はコンピュータが人間に追いつくことはない、
と言われている能力です。

私たちが考える「教育」は、
何か大きな間違いを犯している可能性が大です。



【AIに代替不能な「読解」をすっとばして
 暗記や分析などの能力を磨く愚】
→P232 
〈「係り受け」や「照応」の正答率が9割を超えても、
それ以外のタイプの問題の正答率が5割を下回るケースが頻繁にあります。
有名私大に大勢進学させている高校でも、
推論のランダム率が4割を超えるということすらあります。

表層的理解は出来るけれど、
推論や同義分判定などの深い読解が出来ない場合、
文章を読むのは苦手ではないのに、
中身はほとんど理解できないと言うことが起こりえます。

コピペでレポートを書いたり、
ドリルと暗記で定期テストを乗り切ったりすることは出来ます。
けれどもレポートの意味や、
テストの意味は理解できません。

AIに似ています。
AIに似ていると言うことは、
AIに代替されやすい能力だと言うことです。

私が最近、もっとも憂慮しているのは、
ドリルをデジタル化して、
項目反応理論を用いることで
「それぞれの子の進度に合ったドリルをAIが提供します!」
と宣伝する塾が登場していることです。

こんな能力を子どもたちに重点的に
身につけさせることほど無意味なことはありません。
問題を読まずにドリルをこなす能力が、
もっともAIに代替されやすいからです。〉


、、、これは先ほどの話しの続きですね。
東大、京大などの、
超難関大学を除けば、
「大学(高校)受験に最適化」すればするほど、
子どもたちの「意味を把握する力」は衰える、
という恐ろしい状況が生み出されています。

本書の最初に新井さんは、
アメリカの「大恐慌」に触れます。
あれは、オートメーション化によって、
「第二の産業革命」が起きたときに、
労働市場(とそれを支える教育)が、
変化に対応できなかったから起きたのだ、
と分析しています。

どういうことか?

オートメーション化により、
ブルーカラーの数は減り、
ホワイトカラーの数が増えました。
ところが学校は、
「良いブルーカラー」を生み出す方向で、
教育を続けた。
結果、社会は人手不足なのに、
街には失業者が溢れた、と。

20世紀、教育は、
良いホワイトカラーを生み出すことに最適化しました。
計算能力、記憶力、事務処理能力などです。

変化に適応したのです。

しかし、今の問題は、
21世紀になっても、
教育はいまだに「良いホワイトカラーを生む」
方向性を変えていないように見えることです。
「第三(第四という人もいる)の産業革命」により、
ホワイトカラーは、
かつてのブルーカラーと同じ運命を辿ることは、
おそらく間違いありません。

私たちの社会は大きな方向転換を迫られています。



【中学高校の授業でコンピュータプログラミングを、
 と言いながら指導要領から行列を外す愚】
→P249 
〈もうひとつは、学習指導要領についてです。
経済界に「中学高校の授業でコンピューターのプログラミングを」
との意見があることは紹介しましたが、是非は別として、
今後IT人材を増やしたいのならば、
高校で三角関数と微積分、そして行列は必須です。

機械学習も教科学習もシミュレーションも、
この3つがわからないとどうにもならないからです。
特に行列は欠かせません。

前著『コンピュータが仕事を奪う』に詳しく書きましたが、
グーグルのページランクは行列計算で出来ています。
ディープラーニングなどは、
そのものがまさに巨大な行列計算です。

また、音声認識からアマゾンの「おすすめ商品」の選択まで、
あらゆるところに出てくるのが行列です。
なのに、文部科学省は高校の指導要領から
行列を外してしまいました。〉


、、、多くの読者の皆様は、
高校数学で「行列」って習ったと思います。
文科省は「行列」を指導要領から外したというのです。
それなのに「プログラミング」を教えようとしている。
これは産業界からの要請です。

新井さんはこれの何が問題だと考えているのか?

それは「技術の表層」を教育し、
「技術の論理」を教育から外す、
という愚策についてです。

産業界は子どもたちが、
「表層的な技術(=プログラミング)」を身に着けてくれたら、
嬉しいに決まってます。

即戦力ですから。

しかし、「技術の原理」にあたる、
もうひとつ抽象度の高い「理論(=行列)」を、
文科省は外してしまった。

表層的な技術はすぐに陳腐化します。
しかし、抽象度の高い論理は、
一生役に立ちます。
数年前の政府の「文系学部軽視発言」にも通じますが、
日本政府はどんどん「金の卵欲しさに鶏を殺す」
という愚策を積み重ねているように思います。

慶応大学元学長の小泉信三さんの言葉に、
「すぐ役に立つことは、すぐ役に立たなくなる。」
というのがありますが、
日本政府は、3年後のGDPには興味があるが、
今の子どもの50年後はどうでもいい、
と思っているように見えて仕方がありません。


【「何の仕事とははっきり言えないけれども、人間らしい仕事」が、
 AIに代替されることなく、残るであろう】
→P276〜277 
〈「ほぼ日」がメディアなのか、モノづくりなのか、
営業なのか、何なのか、よくわかりません。
たぶん、「総務」とか「会計」とか「商品開発」
のように名刺をみたら何をしているかわかるような仕事は、
何をしているかわかるが故に、AIに代替されやすく、
先細っていくと思われます。

けれども、
「何の仕事とはっきりは言えないけれども、人間らしい仕事」は、
AIに代替されることなく、残っていくのです。

「でも、糸井重里は天才じゃないか。
糸井重里しか生き残らないとしたら、
どうやって一億人が食べていくんだ」――。
そんな反論が聞こえてきます。
でも、大丈夫です。

似たような例はこの十年間にたくさん生まれています。
たとえば、汚部屋整理コンサルタントなんてどうでしょう。
散らかった部屋に行って、
どうして散らかってしまうのか相談に乗りながら一緒に片付けてくれたり、
整理の仕方を教えてくれたりする仕事です。
遺品整理も20世紀には聞いたことのない商売でした。
どちらも個別具体的な問題解決が求められますから、
AIにもロボットにも代替できません。〉


、、、AI時代に多くの仕事が消える。
「では、私たちはどうすれば良いんだ?」
という疑問は当然起きるでしょう。

じっさい、オックスフォード大学の、
「消える仕事ランキング」に入っている仕事を、
今現在している、という人もいるでしょう。

利権団体を作って抵抗しても、
「第四次産業革命」は止まりません。

私がAI関係の本を去年ぐらいから興味を持って、
複数読んできて学んだ一番たいせつなことは、
「未来に必要とされる仕事を、
 現在の私たちは今その名前すら知らない」
ということです。

今の子どもたちが将来する仕事は、
私たちがまだ耳にしたことすらない可能性が高い、
ということです。

しかし、
「将来する仕事」の性質は分かります。
それは、「AIには代替不能な付加価値」を、
社会にもたらすことができる仕事だということです。

そして、皆さんの仕事がどんな仕事だったとしても、
今現在しているその仕事のなかで、
そのような付加価値を社会にもたらすための能力を、
向上させることが出来る、
というのがもっと大切なことです。

たとえば私が今、
タクシー運転手だったとしましょう。

Uberの本格的な民主化
(タクシー会社を通さない民タク)や、
カーシェアリング、
そして自動運転技術によって、
数十年後に「タクシー運転手」という職業は、
過去のものになるかもしれない。

私は今何をすれば良いのか?
タクシーの業界団体を作って、
Uberの民タク化を阻止したり、
自動運転の規制を強めたりするよう、
政府に働きかける、というのも手かもしれません。

しかし、それは「悪手」と言わざるを得ない。
経済の原理により、
その試みは長期的には必ず負けますし、
何より社会を歪めます。
いまある社会の「歪んだ既得権」のほとんどは、
このように生まれてきたのですから。
これは後世に負の遺産を残すことになります。

、、、では、何をすれば良いのか?

今している本業の中で、
「AIに代替不能な付加価値」を、
加えることを考えるのです。

タクシーという業態は、
「ある場所からある場所に移動する。」
「移動時間が快適である。」
「対話や意思疎通がスムーズで心地よい。」
「運転手の対人サービスの質」
「運転手の土地勘」
などに因数分解されます。
このなかで、AIには代替不能な要素を特定する。
その技能において、業界の誰にも負けない技術を持つようになる。
そうすると、その先に、新しい業態が見えてきます。
自分で新しい業態を作らなくても、
「新しい業態」が勃興したときに、
その業態の若手を育成できる人材として、
社会にいつまでも必要とされることでしょう。

それって、例えばどんなこと?

これは「無数に考えられる」。

「土地勘」×「対人サービス」で、
「町歩きのソムリエ」みたいな業態が出来るかもしれない。
「移動空間の快適さ」×「対人サービス」で、
「動くカウンセリングルーム」という業態が出来るかもしれない。
「タクシードライバーとしての総合力」×「教える技術」で、
「一般人の相乗りの仕組み化」という民タク社会が訪れたとき、
そのドライバーが「人気の運転手」になれるような、
「民タクドライバーの学校」を開けるかもしれない。

タクシー運転手だけではありません。
たとえば、「街の本屋さん」は、
Amazon、そして電子書籍化の、
「淘汰圧」に勝てるでしょうか?

普通に考えたら勝てません。
しかし、岩田書店という本屋さんは、
「顧客とのコミュニケーション」×「本の知識」で、
新しいサービスを生み出しました。
応募者にカルテを書いてもらい、
処方箋のように、「本の組み合わせを調合」し、
その本が送られてくる、というサービス。
「1万円選書」と言います。
毎回7,000人が応募するほどの人気だそうです。

▼参考リンク「1万円選書」
https://www.fnn.jp/posts/00404880HDK


、、、タクシーにしても、
本屋さんにしても、
生き残る人々に共通するのは、
「アルゴリズム(AI)には代替不能」な要素を、
上手に自分の専門分野と組み合わせているということです。
そして何らかの「対人サービス」が必ずそこに含まれる。

では、「対人サービス」は、
どのように磨くのか?
対人サービスの質において競争力を持つ人が、
もっている能力とは何か?
つまり、AI時代に生き残れる、
「マスターピース」とは何か?
それが「読解力」なのだ、
というのがこの本の「キモ」です。

、、、最後に、
本書の要約的なセンテンスを引用して、
2回にわたった「AI VS 教科書が読めない子どもたち」の、
「本のカフェ・ラテ」を終えたいと思います。


【本書の要約的センテンス】
→P241 
〈AIと共存する社会で、
多くの人々がAIにはできない仕事に従事できるような能力を
身につけるための教育の喫緊の最重要課題は、
中学校を卒業するまでに、
中学校の教科書を読めるようにすることです。

世の中には情報はあふれていますから、
読解能力と意欲さえあれば、
いつでもどんなことでもたいてい自分で勉強できます。

今や、格差というのは、
名の通る大学を卒業したかどうか、
大卒か高卒かというようなことで生じるのではありません。
教科書が読めるかどうか、そこで格差が生まれています。〉


、、、現代の情報格差は、
よく言われているように、
「ITガジェットを使いこなせるかどうか」ではない、
というのが新井さんの結論です。
そうではなく、「教科書が読めるかどうか?」
なのだと。

いくら最新のガジェットを使いこなせていても、
それが提供する情報の「意味」を把握し、
消化し、解釈し、「意味の付加価値」を加え、
「他の人にも伝わる意味」として発信できなければ、
社会に必要とされる人材となるどころか、
「フェイクニュースの拡散者」となって、
社会に迷惑を掛けることになるでしょう。

お金というのは、
「世の中の何かの問題を解決したり、
 困っている人を助けたり、
 誰かのニーズに応えた」
ことの対価です。

お金は後からついてくるのです。
逆ではありません。

なので私たちが考えるべきは、
「今、旨みのある業界はどこか」ではなく、
「未来において問題を解決出来る人材になるには」
です。


蛇足かもしれませんが、
最後にひとつ。


あとがきに新井さんは、
「何より、こんなちっぽけな私に、
 (中略)の出会いを用意してくださった神様に感謝します」
と書いています。

調べても新井さんがキリスト教徒だという
情報の裏付けは得られませんでしたが、
彼女は「人間社会を超えた何か」を信じていることは、
この文章から推測されます。

人間社会のことを本当に理解しようとすると、
人間社会を超えた何かを知らなければならない、
ということの好例ですね。

これは自分の経験からも裏付けられます。
私が、もし人よりも、
「社会のことをよく理解出来ている」としたら、
それはひとえに、私が信仰者であり、
それゆえに「超越的な視点」をもっているからに他なりません。
「ある系を概観するには、
 その系の中にいては分からない」のです。
銀河系の中から銀河系の形がわかりにくいのと同じで。

信仰者というのは、「社会という系」の外側にある、
「超越的な現実」を知っています。
本当の故郷が天にあることを知っているので、
「この世の生だけがすべてではない」
ということを知っている。
だから、信仰を持たない人よりも、
この社会のことを分析する上で、
格段に優位な立場にあると私は思っています。

それは「誇るため」ではありません。

そうではなく、
ちょっとでも社会を良くするためです。

人種差別の撤廃、
男女の平等、
市民権の獲得、
奴隷制度の廃止、、、、
といった社会におけるたいせつな変革の担い手の多くが、
リンカーン、津田梅子、キング牧師、
ウィルバーフォースなどの信仰者なのは、
偶然ではありません。
それは彼らが、「この世の閉じた系」を離れた、
超越的な視点からこの世界を見ることができたからです。

私は彼らのように大きなことは出来ないかもしれませんが、
信仰を持つひとりとして、
「社会を1ミリでも良くする」ために、
この世に今日も生を与えられている、
と思いながら生きています。

話しがそれました。

、、、というわけで、
新井さんを作ってくれた神様に感謝します。

本のカフェ・ラテ『AI VS 教科書が読めない子どもたち』(前編)

2019.03.27 Wednesday

+++vol.067 2018年11月20日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 本のカフェ・ラテ
「本のエスプレッソショット」というこのメルマガの、
開始当初からの人気コーナーでは、
一冊の本を約5分で読める量(3,000〜10,000字)で、
圧縮し、「要約」して皆さんにお伝えしてきました。
忙しい読者の皆さんが一冊の本の内容を、
短時間で上っ面をなぞるだけではなく「理解する」ために、
「圧縮抽出」するというイメージです。
この「本のカフェラテ」はセルフパロディで、
本のエスプレッソショットほどは、網羅的ではないけれど、
私が興味をもった本(1冊〜2冊)について、
「先週読んだ本」の140文字(ルール破綻していますが)では、
語りきれないが、その本を「おかず」にいろんなことを語る、
というコーナーです。
「カフェ・ラテ」のルールとして、私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメントしていく、という形を取りたいと思っています。
「体系化」まではいかないにしても、
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。
密度の高い「本のエスプレッソショット」を牛乳で薄めた、
いわば「カフェ・ラテ」のような感じで楽しんでいただければ幸いです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼久々?の、「本のカフェラテ」です。▼▼▼

さて。

本のカフェラテです。

「シーズン2」は「Q&Aコーナー」や、
「単発企画」が少なめです。
「Q&Aコーナー」が少ないのは、
単純に質問が届いていないからなのですが(質問募集してますよー!)、
単発企画が少ないのは、考えるのが面倒になったからと笑、
なんか、そういうシーズンなんでしょうね。
とりあえず「本のカフェ・ラテ」をいっぱいやってみよう、
という気分になっています。
紹介したい本のストックは一生分貯まっているので、
ネタに困ることはありません。

、、、今回ご紹介したいのは、こちらの本。



●『AI VS 教科書が読めない子どもたち』

読了した日:2018年5月2日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:新井紀子
出版年:2018年
出版社:東洋経済新報社

リンク:
http://amzn.asia/cbeiDq8


、、、はい。
出ました。
話題の本ですね。
買って読んだと言う人もいるでしょうし、
読みたいけど時間がなくて読めていないという人もいるでしょう。

他にも自分的に、
「紹介したいなぁ」という本があるのですが、
需要と供給の交点を考えたときに、
「需要の大きさ」を優先してこちらを選びました。

本コーナーを読むことで、
「まるでこの本を読んだかのように」、
本の内容を把握することが出来ます。
情報の価値として純粋に1,620円分ぐらいがあるわけです。
(まぁ、厳密に言えば違うのは言うまでもないですが)

この本、多分今週だけでは終わりません。
文字数制限まで書いて、
足りなかったら「後編へ続く」という形にしたいと思います。

では始めて行きましょう。



▼▼▼シンギュラリティ論争▼▼▼

まず、この本が書かれた背景から始めましょう。

「シンギュラリティ論争」というものがあります。
「2045年問題」とも言われます。
「AIがこのまま発展していくと、
 ある時点で人類の知能を超える。
 この特異点(シンギュラリティ)を境に、
 人類の生活はまったく別のものになってしまうだろう」
という未来予測がありまして、
「いや、そう簡単にはAIが脳を超えることはない」という人と、
「そのとおり、AIは脳を超え、
 機械が人間を支配するSF的な未来が来るのだ!」
という人がいるのです。

AIや脳科学を研究する学者のなかでも意見が分かれているため、
これが「論争」と呼ばれるわけです。

まず、著者の新井紀子さんは、
「シンギュラリティは来ない」という立場です。
ただし「少なくとも予見される近未来においては」という条件がつきます。
つまり、100年以内にAIが人類を超えることはないだろう。
1,000年とかのスパンだと、「それは分からない」としか言えないけど、
ということです。

私(陣内)も新井さんと同じ立場です。
その論拠は、人間の脳の複雑性です。
人間はそもそも「脳」だけで考えているのではありません。
肝臓移植をした人の「性格」が変わることがある、
というのは外科医の間では以前から話題になっていたことで、
現在の脳科学の世界では「人間は身体でも考えている」
という数多くの証拠が加えられています。
つまり人間は内臓でも考えているわけです。
さらにはおそらく、100兆個といわれる腸内細菌叢が変わると、
そのひとの思考スタイルは変わるでしょう。

人間は脳だけで考えているという立場を、
「脳還元主義」と呼ぶとしますと、
私は「脳還元主義」を取りません。

何がいいたいのか?

人間の身体は「超複雑系」だということです。

地球上に存在する機械で最も複雑なのは航空機だと、
大手自動車メーカーに勤める友人から聞いたことがあります。
現代の自動車というのは複雑化が進み、
「部品の数」は、1台につき10万点に上る、
と彼は言いました。
これがパーソナルコンピュータだと1万点です。
だから、コンピュータの自作は、
秋葉原で部品を買って組み立てるマニアがいるぐらい、
「まぁまぁ可能」なのです。
ところが、10万点の部品となるとどうなるか。
量の変化は質の変化を生みます。
現代の大手自動車メーカーの社員のうち、
この10万点を全て把握している人は誰もいないそうです。
つまり、各社員は、自分の担当するパーツの部品に関しては、
全体像を把握しているが、
「全体像の全体像」を把握している人は誰もいない、
という驚くべき状況なのです。

航空機になりますとこれが「100万点」になります。
こうなるともう、複雑系も複雑系で、
さらに把握困難になります。
その設計図を平面に敷き広げれば、
お台場ぐらいの広さになってしまうかもしれない。

では、みなさん。

人体を、細胞のリボゾームとか細胞膜とか核とか、
ミトコンドリアとかのレベルで、
「設計図」にしたらどのぐらいになると思いますか?
なんと、敷き広げられた設計図は、
月まで到達するそうです。

人体の複雑さは、
ジャンボジェットの複雑さなど相手にならないのです。

何が言いたいのか?

AIは、機械です。
機械が出来ることと言うのは極論すると、
全部、四則演算に還元可能です。
AIの進歩とは「四則演算のスピードが上がる」
ということにすべて還元できます。

しかし人間の「思考」の働きは、
四則演算に還元できません。

これが複雑系の生物と、
複雑系ではない「人工物」の違いです。

科学が進歩したというマスコミの報道に踊らされる前に
思い出さなければならないのは、
現代の科学で、人類はまだ、
ゼロから「大腸菌」ですら作れていないということです。
「ハエを作る」なんて無限の彼方の技術です。

いやいやiPSがあるじゃないか!

違います。

あれは全部「すでにあるものの複製」です。
iPSというのは分岐した体細胞から分岐前の幹細胞つくる技術であって、
ゼロから細胞を作るのとはまったく異なる技術です。
近代になりパスツールが細菌培養の方法を見つけましたが、
ゼロから細菌(細胞)を作ることは、
ジャンボジェットを作るよりはるかに難しく、
いまだに成功していませんし、
100年以内に成功する見込みもまったくありません。

この「複雑性」というのが、
AIと人間の脳を本質的に分ける深い溝になっていて、
その「溝」は、予見される近未来に超えることは不可能、
というのが新井紀子さんの主張であり、
私もそれを支持します。


、、、では、AIなんて無視して、
私たちは「のほほん」と生活してれば良いのか?
「良かった。シンギュラリティは来ないんだ。
 じゃあ、我々の仕事も安泰だ」と。

いや、それは違う。

というのがこの本の主張です。

そうではないのです。
AIがある種の仕事を奪うのは間違いありません。
その仕事とは端的に「四則演算に還元可能な仕事」です。
銀行の窓口業務がATMに代替され、
多くの役所の窓口業務もAIのほうがコスト安で正確で、
しかも人を不快にさせない(笑)ようになる日は、
案外近いと思います。
いや、もしくは既にそうなのだけど、
「公務員の職場を減らさない」という政治的圧力によって、
本来起きるべき淘汰圧が起きていないだけかもしれません。

しかし公務員とは違い、
営利企業の場合、コスト安の淘汰圧に抗うと、
その会社はなくなっていきますから、
現在ある「AIに代替可能な仕事」は、
ことごとく機械に代替されていくでしょう。

このとき人間がすべきは何か?

それは「AIに代替不能な能力」を磨くことです。
生存戦略として、それ以外の戦略はないのです。

しかし、驚くべき事に新井紀子さんは気づきます。
それは彼女が「東大ロボ君」という、
「●●年までにAIによって東大入試に合格する」
という国家プロジェクトを率いたことと関係しています。
実は東大ロボ君はすでに、
MARCH(明治、青山、立教、中央、法政)の合格ラインは超えています。
AIは大学入試の得点において、
これらの大学の入学基準を超えているのです。

さて、ここからが問題です。

では、東大ロボ君は今後、東大に「入れる」のか?
新井紀子さんの結論は「NO」でした。

なぜか。

MARCHと東大を分けるものは何か?
それは「文章を読解する能力」でした。
これが「四則演算に還元不能な能力」であり、
AIが最も不得意とする領域だということに彼女は気づきます。

ところが、ここからが一番面白いのですが、
この20年ぐらいの学生や若い社会人の、
「読解能力」を調査したとき、
なんと、その能力は下がり続けているというのです。
むしろこの世代がどんどん伸ばしている能力は何か?
それは「単純な暗記・四則演算のスピード」などです。
これはまさに「AIが最も得意とする能力」です。

つまり、現代の日本の教育は、
「若者がAIに代替されやすいように、 
 されやすいように」教育し続けている、
というわけです。

ヤバいでしょ。

「教科書が読める」(=読解力がある)
というのがAIに代替できない能力ですが、
実は日本の(東大など最難関大学を除く)入試システムは、
特にマークシート化してから、
どんどん読解力方向ではなく「AIが得意な方向」に、
シフトしてきた。

この結果、若者は、
「未来において淘汰されやすい方向に」
教育によって誘導されている。

怖いでしょ。

新井紀子さんは、
「では、私たちはどうすれば良いのか」
ということまでこの本で語っています。


、、、という、
長―――――い予告でした。


本題に入ってきましょう。



▼▼▼教育と産業構造の変化の「タイムラグ」
→P4〜5 
〈では、AIに多くの仕事が代替された社会では
どんなことが起こるでしょうか。
労働市場は深刻な人手不足に陥っているのに、
巷間には失業者や最低賃金の仕事を掛け持ちする人々があふれている。
結果、経済はAI恐慌の嵐に晒される――。

残念なことに、それが私の思い描く未来予想図です。

実は、同じようなことはチャップリンの時代にも起こっています。
ベルトコンベアの導入で向上がオートメーション化される一方、
事務作業が増えホワイトカラーと呼ばれる新しい労働階級が生まれました。
でも、それは一度に起こったことではありません。
タイムラグがありました。

大学が大衆化し、ホワイトカラーが大量に生まれる前に、
多くの工場労働者が仕事を失い、社会に失業者があふれました。
それが、20世紀初頭の世界大恐慌の遠因となりました。

その時代、ホワイトカラーという新しい労働需要があったのに、
なぜ失業者があふれたのか。

答えは簡単です。

工場労働者はホワイトカラーとして働く教育を受けておらず、
新たな労働市場に吸収されなかったからです。
AIの登場によって、それと同じことが、
今、世界で起ころうとしています。〉


、、、まず近代が生んだ「学校教育」の、
出自について語りましょう。
これは案外知らない人が多い。
当の学校の教師ですら知らなかったりしますから

なぜ私たちの知る公的教育機関が「出来た」のか?

それは「兵隊と工場労働者を大量生産するため」です。
日本だと明治の「富国強兵・殖産興業」にあたるものが、
ヨーロッパでは一足先に起きました。
イギリスで産業革命が起き、
石炭と蒸気機関の力によって、
「手工業」が「工場生産」に変わった結果、
生産性は飛躍的に向上しました。
近代国家が工業化し生産性が上がるのと時期を同じくして、
軍隊の近代化も起きます。
大砲や機関銃、戦車や軍艦などの近代兵器が出来、
軍隊は組織化される。

このとき、「軍隊と工場労働者」には、
いくつかの最低限の「資質」が必要になります。
それは工場ならば始業の終業のベルの合図で、
一斉に作業を始めたりやめたりする規律。
そして上司が指導する言葉を理解することです。
軍隊ならば上官の合図に従う規律、
そして上官が命令する言語を理解する事です。

つまり「規律と共通言語(標準語)」を、
社会に出る年齢になった若者が身につけていることが、
各国にとって急務となったのです。

なぜか。

この変化はヨーロッパ各国で同時多発的に起こったので、
各国は競争する必要に駆られたからです。
隣国より工業化と軍隊の組織化が遅れれば、
それだけ侵略される可能性が高まる、ということですから。

この変化が起きる前は、
若者は地方によって違う言葉を話していました。
つまり世界に「国家の共通言語」なるものはなかった。
その名残がスペインのカタルーニャ地方や、
バスク地方です。
この人々は今でもスペイン語を第一言語としません。
近代国家はそれでは困る。
軍隊に徴用し、工場労働者として田舎の若者を動員するには、
全国が一律の言語を使って貰わなければ困る。
政府の検閲を受けた学校教科書がその役割を果たすのです。

次に、この変化が起きる前は、
若者は主に家庭で教育され、
職人の子どもなら職人の技術を学び、
金持ちの子どもならば家庭教師をつけ、
地域の教会や地域コミュニティが、
「子どもを大人にする」という役割を担っていました。
しかし、これでは軍隊は困る。
「上官の命令には従う」という規律がないと、
軍隊で使い物にならないからです。
学校教育において「体育座り」「前に倣え」、
「絶望的につまらない校長の長い話しを黙って聞く」
「先生が机を叩いたらシーンとする」

これらは何なのか?

軍隊の「予備教育」です。
これは詭弁ではなく、
本当にそうなのです。

これが学校教育の「出自」です。

現代はもちろんそのような性質は薄くなっていますが、
たとえば無駄に重いランドセルや学校の制服、
手足を縛る体育座りなどは、その当時の名残です。


、、、何の話し?


そう。
学校は「工場労働者を生産するため」に、
近代国家に生まれたシステムです。

しかし、大きな組織というのは、
巨大な戦艦が急には方向転換できないように、
社会の変化のスピードに往々にしてついて行けないのです。
20世紀に入り、先進国の労働環境は変わります。

農業はかつて人口の8割以上が従事していましたが、
現在は先進国では5%以下です。
工場労働者も、かつての農業と同じ運命を辿っています。
現在先進国における二次産業従事者は下降の一途を辿り、
一時期は社会の大多数だったのが、
現在は20%を軒並み切っている。

なぜか。

工場がオートメーション化されたからです。
かつてラインに100人の作業員が張り付いていたのが、
今はひとつのラインに、1人のオペレーターで充分になる。
そういう淘汰圧が働き、
労働市場は大きく変わります。

では余った労働者を吸収するのはどこか?

それが20世紀だとホワイトカラーだった、
と新井紀子さんは言っています。
機械がオートメーション化され、
組織が近代化・複雑化・官僚化した結果、
かつては存在しなかったホワイトカラーという仕事が、
20世紀に生まれました。
ところが学校教育は相変わらず、
「良い工場労働者(や兵隊)」を社会に排出する、
という旗印のもと教育を続けました。

その結果、現場は人手不足なのに、
街には失業者があふれる、という状況が生まれた。
これが大恐慌の遠因だった、
と新井紀子さんは指摘しています。

はい。

ここまで説明してくるとだいぶ分かっていただけると思います。
では、今、何が起きているのか。
「ホワイトカラーのオートメーション化」がAIによる変化です。
つまりホワイトカラーが労働市場を吸収できなくなってきた。
企業のコスト部門といわれる人事部、総務部、経理部などは、
かつて農業や工場労働者が経験したのと同じことを経験するでしょう。
つまり「その仕事自体はなくならないが、
人数はかつての100分の1で充分」になる。
産業構造が変化するのです。
ところが、学校は相変わらず、
「良いホワイトカラー」を社会に排出する、
という旗印のもと教育を続けているのです。

「・・・あれ?

 ・・・声が

 ・・・遅れて

 ・・・聞こえるよ」

という「いっこく堂」の芸のごとく、
学校教育は社会の変化に1テンポずつ遅れるのです。
この「遅れ」が社会に混乱と恐慌をもたらすのですが、
かわいそうなのは巷にあふれる失業者となるべく、
「良いホワイトカラーとなるための英才教育」を、
受けてしまう子どもたちです。

この子どもたちのことを、
新井紀子さんはタイトルで、
「教科書が読めない子どもたち」
と表現しているのです。

どういうことか。
ホワイトカラーが駆逐された後、
新たな労働力を吸収する職種はどんなものか?
その職種の多くはまだ私たちが耳にしたことすらない、
と新井さんは考えているし、私もそう思います。
しかしそれらの職種に共通する資質にはどんなものがあるのか?
というのは予測可能です。

それは端的に、
「教科書が読める」ということです。
この「教科書が読める」というのは、
単に文字が追える、というのとは違います。
それならAIも得意ですから。

そうではなく、
教科書を読んで、
それが言っている意味を把握出来る、
ということです。
つまり「読む力」「読解能力」のことを、
新井さんは言っており、
驚くべき事に、この数十年、
子どもの「読む力」「文章を読んで意味を取る力」は、
低下し続けている、というのです。

、、、続けましょう。



▼▼▼読解力調査(RST)▼▼▼

新井さんは本書で、
「読解力調査(RST)」という調査方法を紹介しています。
例(P200)としてこんな問題が挙げられています。

・次の文章を読みなさい。

「Alexは男性にも女性にも使われる名前で、
女性の名Alexandraの愛称であるが、
男性の名Alexanderの愛称でもある。」

(問題)この文脈において、
以下の文中の空欄にあてはまるもっとも適当なものを
選択肢の中から1つ選びなさい。

 Alexandraの愛称は(   )である。
1.Alex 2.Alexander 3.男性 4.女性



、、、はい。


いかがでしょう。


シンキングタイム!


「なんだこの問題は?
 俺をバカにしてんのか?」
と怒る前に、
どうぞ、みなさんも考えてみて下さい。


、、、


、、、


答えは出ましたか?


、、、


正解は、、、、


「1」のAlexですね。
問題文に答えが含まれています。
一部省略すると、
「Alexは、、、、Alexandraの愛称である。、、、」
っていうのが問題文なのですから、
「Alexandraの愛称はAlexである」
が正解です。


ここからが問題です。


中学生にこの問題を出したところ、
その正答率は何%だったと思いますか?

90%?

いやいや、違います。

70%?

いいえ。


正答率は、45%でした。


なんと、33%がDの「女性」を選んでいます。



、、、ちょっと、衝撃じゃないですか?
たった1、2行の文章の「意味」が取れていないのです。
これでは、説明書を読んでもその意味が把握できませんし、
会社で上司から支持されてもその内容が把握できません。
フェイクニュースにも簡単に踊らされてしまうでしょう。


、、、次に行きましょう。


P205にはこんな問題が出てきます。

・次の文を読みなさい。

「幕府は、1639年、ポルトガル人を追放し、
 大名には沿岸の警備を命じた。」

(問題)上記の文が表す内容と以下の文が表す内容は同じか。
「同じである」「異なる」のうちから答えなさい。

「1639年、ポルトガル人は追放され、
 幕府は大名から沿岸の警備を命じられた。」


、、、これは二択問題です。
コインを投げて占っても、
2分の1の確率で当たる問題です。


さて、シンキングタイムです。


皆さんも考えてみて下さい。


はい。


ここまで。


、、、正答は、「異なる」ですね。

前半は合っています。
1639年にポルトガル人は追放されました。
後半が間違っています。
大名が幕府に警備を命じられたのであり、
幕府が大名に命じられたのではありませんから。


、、、ここからが本当の問題でしたね。


中学生の正答率は何%だったでしょう?


100%?

違います。


80%?


いいえ。


なんと、55%です。


マジか!


2択問題の正答率55%というのは、
確率論で言うと、
問題文を読んでいない状態とほぼ同じ、
つまり「確率的には正答率ゼロの近似値」なのです。

ところがです。


ここからさらに衝撃の事実を、
新井紀子さんは本書で語っています。


この二択問題の正答率が55%だったと、
新聞記者に告げたところ、
「57%の正答率では駄目ですか?」と、
その新聞記者は新井さんに聞いてきたというのです。
「100点満点で57点ということは、
平均点としては悪くないのではないですか?」


、、、


、、、


みなさん。


この新聞記者の言ったことが新井さんを、
どれほど奈落の底に突き落としたかおわかりでしょうか?
子どもの学力(読解力)の現状を嘆いた新井さんに、
大人である新聞記者はさらなる読解力のなさを、
ぶっ込んで来たわけですから。


なぜか。


二択問題ではコインを投げても50%は正答する、
ということを加味すると、正答率がコイン並みだというのは、
先ほど私が言ったように「0点の近似値」です。
ところがかの新聞記者はこれを「100点満点の55点」と、
完全に誤った解釈したのです。
確率論の「読解」ができない人が、
現代の新聞の記事を書いていることに、
著者はさらに愕然とします。


私もこの箇所を読んだときには背筋が凍りました。


、、、


はい。


盛り上がってきたところですが、
今日はここまで。

文字数オーバーです。


続きは「後編」で。


、、、年末は恒例の、
「陣内が今年読んだ本・観た映画ベスト10」
などの企画も目白押しですから、
後編を紹介できるのは年明けになるかもですが、
「教科書が読めない子どもたち」の衝撃の余韻を噛みしめつつ、
楽しみにお待ち下さい!

(後編へ続く)

本のカフェ・ラテ『木を見る西洋人、森を見る東洋人』後編

2019.03.06 Wednesday

+++vol.063 2018年10月30日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 本のカフェ・ラテ
「本のエスプレッソショット」というこのメルマガの、
開始当初からの人気コーナーでは、
一冊の本を約5分で読める量(3,000〜10,000字)で、
圧縮し、「要約」して皆さんにお伝えしてきました。
忙しい読者の皆さんが一冊の本の内容を、
短時間で上っ面をなぞるだけではなく「理解する」ために、
「圧縮抽出」するというイメージです。
この「本のカフェラテ」はセルフパロディで、
本のエスプレッソショットほどは、網羅的ではないけれど、
私が興味をもった本(1冊〜2冊)について、
「先週読んだ本」の140文字(ルール破綻していますが)では、
語りきれないが、その本を「おかず」にいろんなことを語る、
というコーナーです。
「カフェ・ラテ」のルールとして、私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメントしていく、という形を取りたいと思っています。
「体系化」まではいかないにしても、
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。
密度の高い「本のエスプレッソショット」を牛乳で薄めた、
いわば「カフェ・ラテ」のような感じで楽しんでいただければ幸いです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼先々週の「続き」▼▼▼

さて。
先々週、こちらの本をご紹介したのは良いのですが、
文字数オーバーになり、
前編・後編に分割することにしました。
今回で終われば良いんだけど、、、。

いや。

終わらせます。

さすがに3回にわたるのは長過ぎなので。
他にもカフェラテ方式で紹介したい本、
たくさんあるので。

ではさっそく始めて行きましょう。



●木を見る西洋人、森を見る東洋人

読了した日:2018年1月31日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:リチャード・E・ニズベット
出版年:2004年
出版社:ダイヤモンド社

リンク:
http://amzn.asia/cJx57Lj



▼▼▼エドワード・ホールの低コンテクスト社会、高コンテクスト社会

→P64〜65 
〈文化人類学者のエドワード・H・ホールは、
自己理解の仕方の違いを把握するために、
「低コンテクスト社会」、
「高コンテクスト社会」という概念を提起した。
西洋人がある人について話す場合、
その人が状況や人間関係に
左右されない属性をもっていると考えることは理にかなっている。
自己とは、周囲と切り離された不可侵の自由な主体であって、
集団から集団へ、ひとつの環境から他の環境へと移っても
著しく変化することはない。

しかし、東洋人にとっては
(また、程度の差こそあれ、その他の地域の人々にとっても)、
人は他者とつながっており、変わりやすく、状況依存的な存在である。
哲学者のドナルド・ムンロによれば、
東アジア人は「家族、社会、道教、儒教など、
自らを取り巻く全てのものとの関係の中で」自分自身を理解する。
人は多くの関係に参加しており、
そうした関係があって初めて行動することが出来る。
純粋に周囲から独立した行動を取ることはたいていの場合不可能だし、
実際のところ望まれてもいない。〉



、、、「高コンテクスト社会」「低コンテクスト社会」
という耳慣れない(かもしれない)単語が出てきました。
コンテクストとは「文脈」を意味する英語です。
ですから、「文脈依存性が高い社会」「文脈依存性が低い社会」
と言い換えても良いわけですね。

日本や韓国などの東アジアの国々は、
「高コンテクスト社会」、
西洋社会は逆に「低コンテクスト社会」なのだ、
というのが著者がここで言っていることです。

日本は特に、数千年もの間、
実質的には単一民族、
単一言語で生活してきましたから、
それも「高コンテクスト社会」に一枚噛んでいます。
「高コンテクスト社会」では、
話した言葉の内容(テキスト)よりも、
その言葉が発せられた「場」が公的だったか私的だったか、
発言した人物の立場が、権力者なのかそうでないのか、
声のトーンがきつかったのか優しかったのか、
表情は無表情だったのか笑っていたのか、
などの文脈(コンテキスト)のほうが、
情報のウェイトとして占める割合が高い、ということです。
「腹を読む」とか「ツーカーの関係」とか、
「察する」とか、「以心伝心」とか、「あうんの呼吸」などは、
すべて「高コンテクスト社会」であることの証左です。
「忖度」はだから、日本だからこその現象なわけですね。

上司や政治家が、
部下や民間人に、
「手を汚す」ような仕事をさせる場合、
「法的にグレーなことをしておいてくれ」
とは決して言いません。
「まぁ、上手くやっておいてくれよ」
と言います。
(分かるよな、俺の言ってること)
という意味です。
日大タックル問題ならば、
「やらなきゃ意味ないよ」
ってことですね。
部下が手を汚したとき、
「指示したわけじゃない」と居直れるのが、
このタイプの指示の怖いところです。

対する欧米社会は、
多文化・多言語・他民族な状況を、
数千年間経験してきていますから、
「コンテキスト」に依存したくても、
それが出来ないのです。
イギリス人とフランス人とイタリア人とドイツ人、
それぞれが、
「うまくやっておいてくれよ」
と言ったとしても、
「あうんの呼吸」が成り立たない。
日大アメフト部の宮川君の立場におかれた人は、
「えっと、それってどういうことですか?
 具体的に指示していただかないと分からないんですけど。
 開始何分で、誰に対して、
 どういったタックルで怪我をさせろってことですか?」
となる。
「コンテキスト」に依存できないから、
「テキスト(会話の内容)」で、
具体的に伝えないといけない。

これはけっこう大変です。
大変ですが、自分が実際に何を考えているかを、
他者に明確に表現するという訓練になります。

今後日本は文明史で始めて、
「多文化・他民族・多言語共生社会」に近づきます。
自民党がいくら抵抗しても、
この潮流は逆行不能です。
グローバリズムはハワイの溶岩流と同じで、
泣いても笑っても止めることが不可能なのです。
燃えたくなければ移住するしかない。
私たちは「コンテクスト」に、
かつてのように高度に依存できない社会に、
暮らすようになる。

「あうんの呼吸」はもはや通用しない。
A「あれ、適当にやっといて。」
B「はい。」
という会話が、
低コンテキスト社会では、
こうなります。

A「私はこういう考えをもっていて、
 だからこうして欲しいのです。
 そうするとあなたにもこういうメリットがありますが、
 こういったリスクもあります。
 だから、一緒にこうしませんか?」
B「あなたの意図は伝わりました。
 一点だけ不明なところがあります。
 リスクをどう分担しあいましょう?」
A「●●●」
B「×××」
A、B、A、
、、、、「じゃ、やりましょっか。」

多分会話は10倍ぐらい長くなる。
これは不便です。
しかし、不便ですが、
私はフェアだとも思います。
高コンテキストを悪用し、
責任の所在が曖昧になるようなことは理不尽だと思うので。
日大アメフト部の宮川君は、
「ガバナンス問題」の被害者であると同時に、
「高コンテクスト社会」の被害者でもあります。
私はこの種の「アンフェアさ」に耐えるよりは、
「説明が大変なこと」に耐える方がまだマシと考えます。



▼▼▼自己肯定を学ぶアメリカ人、自己批判を学ぶ日本人。
ムラのあるアメリカ人と完璧主義の呪縛に陥る日本人

→P70〜71 
〈スティーブン・ハイネと共同研究者たちが行った実験は、
自己がすぐれていることを実感していたいという西洋人的な心理と、
精進して自己を向上させたいというアジア人的な心理の違いを
明らかにするためのものだった。

実験に参加したカナダ人と日本人の学生は、
「創造性テスト」と称する架空の試験を受け、
その採点結果として
「非常に良い成績」または「非常に悪い成績」を
受け取った(ただしこれらは架空の成績だった)。
その後で実験者は、
参加者がテスト課題とよく似た練習課題に
どのくらいの時間にわたって取り組むかを密かに計測した。

カナダ人は自分が成功したとき(良い成績を取ったとき)に、
類似の課題により長い時間取り組んだ。
一方、日本人は失敗したとき(悪い成績を取ったとき)に、
より長い時間取り組んだ。

日本人は別に自虐的になっていたわけではない。
彼らはただ、与えられた自己向上のチャンスを実践したのである。
この研究の結果から、東洋と西洋における
スキル発達について考えることは興味深い。
西洋人は、取りかかって直ぐに上手く出来た事項については
かなり上達しやすいと思われるが、
逆に東洋人は、いわゆる器用貧乏になりやすい可能性がある。〉


、、、これは説明不要ですね。
「平均病」という言葉があります。
これは日本の学校教育や家庭教育が、
「弱点を克服する」という「思想」を持つからです。
突出した才能を持つ人は、
たいてい代償的に、どこかが突出的に抜けています。
脳の構造というのはそうなっているのです。
たとえばサヴァン症候群という、
社会脳に問題を抱える障害がありますが、
この人々は、「1444年6月9日は何曜日?」
といった質問に即座に答えられたりする能力を持っていたりします。
私の脳はちなみに、傾向で言うとサヴァン傾向があると、
自分では分析しています。
抽象思考や論理思考は長けていますが、
社会脳は非常に脆弱ですので。

話しを戻しますと、
日本は「平均病」の社会ですので、
弱点を克服することにリソースを投入しがちです。
そうすうると、「成績オール4」の人材が量産され、
そのような人が評価される。

しかしこれは、ちょっと良くないこともある。
経済学者ヨーゼフ・シュンペーターは、
「資本主義経済は定期的に不況と好況を繰り返す。
不況はイノベーションの契機となるので必要悪だ。」
という旨のことを言っています。
シュンペーターは「創造的破壊」という言葉の生みの親です。

現代の世界が「創造的破壊」の段階にあるのは、
論を待ちません。
20世紀に安定的な産業だった二次産業や、
労働集約的な三次産業の姿が、
インターネットやAI、3Dプリンタなどのの出現によって、
大きく変革しようとしている。
現在主流のビジネスモデルはどんどん過去のものになり、
「新しい産業革命が進行中だ」という論者も多い。

そのような時代には、
「イノベーションを起こせる人材」が必要になります。
ところが、「オール4」が10000人いても、
イノベーションは起きません。
10000人のなかに「他は1以下だけど、
ひとつの分野で異様なほどに突出している」
という、標準偏差から大きく離れた人材が数人いて、
得てして彼らこそがイノベーションの担い手となります。

本田宗一郎や、
スティーブ・ジョブズや、
イーロン・マスクを考えて下さい。
彼らは「天才」ですが、
3人とも共通の「別名」を持ちます。

「変人」です。

本田宗一郎は自転車にエンジンをつけたやつで、
浜松市内を走り回り、
奥さんはノイローゼになるほど追い詰められたし、
スティーブ・ジョブズは「サイコパス」
と言われるほど冷血です。
イーロン・マスクは、
途中で他のことに集中し始めてしまうため、
「服を着ることが出来ない」という悩みをもつほど、
完全なADHDです。

日本の教育はこういった突出の尖った角を丸めて、
まるでJAのコンベアーのジャガイモの出荷のように、
変な形の奴を弾いていき、
そして晴れて「社会に出荷されるオール4の人材」
を作る。

「いやいや、東大に入り官僚になる天才もいるじゃないか!」

違います。
彼らは単に「オール5」なだけです。
平均病という意味では、
さほど変わらない。

何の話し?

現代の日本の課題は、
いかに平均病を脱するか、でしょう。
「ゆとり教育」、
もっと続けたら良かったのに。
教育の結果は、
それが出るのに30年かかります。
もやしの生産とは違い、
人は「木」に近いのですから。
文部科学省の悪いところは、
結果が出る前に結論をだす、
ということです。

ゆとり教育の結果を待つゆとりが、
彼らにはなかった、ということでしょう。

残念です。



▼▼▼相互協調的な社会か、相互独立的な社会、
どちらに暮らすかで人のアイデンティティは変化する

→P83〜84 
〈言うまでもなく、
東洋人は日常的に相互協調的なプライミングを受け、
西洋人たちは相互独立的なプライミングを受けている。
たとえ彼らの受けたしつけが
どちらか一方に偏ったものではなかったとしても、
周囲の様々な手がかりのおかげで、
相互協調的な社会に生きる人は
概して相互協調的な行動を取るようになり、
相互独立的な社会に生きる人は
概して相互独立的な行動を取るようになるだろう。

実際、一時的に別の文化への移住を経験した人からは、
良くその手の話を聞く。
私が気に入っている事例は、
日本に数年間住んだ若いカナダ人心理学者の話である。
彼はその後、北アメリカの大学に職を求めて志願したが、
彼の指導教官は、願書に付された手紙を読んでひどく驚いた。
その仕事に自分がふさわしくないことについての
謝罪文から始まっていたからである。
また、自尊心とはきわめて柔軟性の高いものだと言うことも分かっている。
日本人の自尊心は、しばらくの間欧米に暮らすことによって
飛躍的に高まるという。

これはおそらく、日本にいるときと比べて、
日々、より自尊心の高まりやすい状況に
接していたためであると思われる。
このように、複数の異文化に育った人々の心理的特徴は、
おおいに変化しやすいものなのである。〉


、、、これはめちゃ面白いですね。
カナダに長く住んだ研究者が、
「日本人みたいになっちゃった」という話しです。
逆に欧米に住むと日本人の性格が変わる、
ということもよく言われます。

私の父はまさにその典型でした。
父は30代前半で、勤めていた会社の、
留学制度を使って、
イリノイ工科大学でふたつめの修士課程を収めました。
その2年半のあいだに、父は性格が変わった、
と母は証言しています。

大学時代および社会人初期の父は、
めちゃくちゃ「ネクラ人間」で、
いつも彼の周りには暗黒の影が立ちこめているような、
そんな存在だったそうです。
アメリカに行き本当に性格が変わった。
私の知る父は「ネアカ人間」です。
ちょっと変人要素もありましたので笑、
「フーテンの寅さん」とか、こち亀の両津勘吉とか、
そういったタイプの、なんだか周りがにぎやかになる、
ネアカ人間になりました。
私の知っている父は後者なので、
父がアメリカに行っていなければ、
私の現在の性格も変わっていたかも。

「自信がない人の心理学」みたいな本は、
途方もない数発刊されていますが、
実は「転地療法」が最強だというのが私の考えです。
自信のない性格を変えたい人は、移住しましょう笑。
あまり聞いたことない処方箋ですが、
効果は実証されています。



▼▼▼社会を分析的世界観から原子論的に見る西洋人、
社会を包括的世界観から関係論的に見る東洋人

→P99〜100 
〈西洋人のこうした原子論的な考え方は、
社会制度の性質をどのように理解するかと言うことにも表れている。
ハムデン=ターナーとトロンペナールスは、
中間管理職に対する調査の中で、
企業は仕事を組織的にこなすシステムか、
または一緒に働く人々をとりまとめる有機体かと言うことについて、
参加者の考えを尋ねた。

(a)企業とは、様々な職務や仕事を
効率的にこなすために作られたシステムである。
従業員は、機械や設備の助けを借りながら、
これらの仕事を成し遂げるために雇われている。
彼らは自分が行った仕事に応じた賃金の支払いを受ける。

(b)企業とは、人々が集まって共に働く集団である。
従業員は、仲間や組織そのものとの間に社会関係を築いている。
企業の仕事はそれらの社会関係に依存している。

その結果、アメリカ人のおよそ75%、
カナダ人、オーストラリア人、イギリス人、オランダ人、
スイス人の50%以上が(a)を選択したのに対し、
日本人とシンガポール人で(a)を選択した人は約三分の一に過ぎなかった。

ドイツ人、フランス人、イタリア人は、
アジア人とイギリス系および来たヨーロッパ系の人々との
中間に位置していた。
つまり、西洋人、とくにアメリカ人や北ヨーロッパ系の人々にとって、
企業とは、別々の職能を発揮する人々が
寄り集まった原子論的なモジュールの社会である。

一方、東アジアの人々にとっては、
企業とはそれ自体一つの有機体である。
企業における人間関係は、
物事を一つに束ねる上でなくてはならない要素と考えられている。
東ヨーロッパや南ヨーロッパの人々も、
程度の差はあれ、ある程度東アジア人的な考え方を有している。〉



、、、これはかなり示唆に富む洞察です。
組織とは別々の個人の集まりだ、という世界観と、
個人とは組織とは不可分な「構成要素」だという世界観。
どちらを取るかで、組織論は天と地ほども変わるはずです。
よく言われることですが、
日本では名詞の肩書きこそが名詞の内容です。
「●●株式会社 営業本部長 山田太郎」
という名詞があったとき、
「山田太郎」という部分は実は重要ではない。

養老孟司がいつかの講演でこう言っていました。
「名詞を印刷するとき、
肩書きだけの名詞を作れば良いのに。
名前のところは空白にしておいて、
担当者が変わる度にゴム印で押せばいい」って笑。

アメリカではこれが逆になります。
「私はジョン・スミスと言います。
 3年前は●●株式会社の営業部長をしていましたが、
 現在は転職して●●コーポレーションのマネジャーをやってます」
となる。

つまり、養老孟司のメタファーで言うなら、
名前だけの名詞を作り、
あとは空白にしておく。
転職する度に肩書きをゴム印で押せば良い、
ということになる。

日本とアメリカで、
組織と個人の、「地と絵柄」が逆転するわけです。

これ自体は「違い」なのでどうしようもありません。
著者も説明していますが、これは遺伝子と言うより、
「言語」に構造的に組み込まれています。
くだんのカナダ人研究者は遺伝子によってではなく、
日本語を長期間話したことによって、
「自分を低く見積もる癖がついた」のです。

問題なのは、こういう「組織に関する世界観」の違いを無視して、
アメリカで作られた組織論を、
日本の会社や教会がそのまま使おうとすることです。
日本の神学校で習う教会政治に関する組織論は欧米製ですし、
評判悪い「MBA」も完全に欧米スタイルです。

日本の組織を欧米のスタイルで運用するとどうなるか?

正直言って、そんなの上手く行くわけがない。
だって、前提が違うんだから。
サッカーのルールブックで野球をしようとしているようなもので、
その試みは必ず破綻します。
たいせつなのは、日本の前提がちゃんと前提されている、
新しい組織論を構築することです。
これは社会一般でもキリスト教会でも、
ほとんど誰も手をつけていない分野ですので、
今後取り組むに値することだと私は思っています。

今回の「よにでしセミナー in 札幌」では、
その辺の洞察も得られるようにセミナーデザインをしました。

恒例の宣伝を。
これは「ファイナルコール」です。
本当はもう申し込み締め切り過ぎてますが、
あと2人ぐらいなら入れるので。
参加希望者はこちらから。

▼参考リンク:よにでしセミナー 第二期 in札幌
http://karashi.net/project/yonideshi/index.html



▼▼▼大陸系のヨーロッパ人はビッグ・ピクチャーを描くが、
アングロアメリカ人はそうではない

→P101〜102 
〈ヨーロッパ大陸の人々の社会的態度や価値観が
東アジア人とアングロ・アメリカ人の中間であったことにも見られるように、
大陸の知の歴史はアメリカや英連邦に比べれば全体論的である。

アメリカは、大陸よりも遙かに「ビッグ・ピクチャー」
(将来を見据えた大きな展望)の感覚が乏しい。
アングロ・アメリカ人の哲学者は何十年もの間、
原子論的な日常言語分析に取り組んできたが、
その間、ヨーロッパの哲学者は、現象学や実存主義、
ポスト構造主義、ポストモダニズムなどを生み出していた。

政治、経済、社会に関する大きな思想体系は、
主としてヨーロッパ大陸から生まれた。
マルクス主義はドイツ生まれだし、
社会学はフランスのオーギュスト・コントが生み出し、
ドイツのマックス・ヴェーバーが最高水準まで高めた。
心理学に関しても、ビッグ・ピクチャーと呼べる理論を
打ち立てたのはやはり大陸の人々だった。
おそらく二十世紀における最も影響力のある心理学者は、
オーストリアのフロイトとスイスのピアジェだろう。

私が専門とする心理学の一分や、
社会心理学では、クルト・レヴィンと
フリッツ・ハイダーという二人のドイツ人が、
非常に守備範囲の広い包括的な理論を作り上げた。
そして、私自身も遅まきながら仲間入りすることになったのが、
ロシア人心理学者のレフ・ヴィゴツキーと
アレクサンダー・ルリアがつくり出した心理学の歴史文化学派だった。〉


、、、東洋人である私たち日本人からすると、
欧米人ってみんな欧米人で、一緒なんじゃないの?
と思うかもしれませんが、それはあまりにも乱暴です。
だって逆の立場で考えてみて下さいよ。
「日本人も中国人も韓国人も、
みんな東アジア人で、結局一緒でしょ?」
って言われてるのと同じ事ですからね。
私たちはそれに激しく反論するはずです。
「かなり違うぞ!」と。
「肌の色以外何もかも違う!!」

欧米人も同じです。
大別すると、大陸系(ドイツ・フランスなど)と、
アングロアメリカ系(イギリス→アメリカ系)で、
大きく違うわけです。

著者がここで指摘しているのは、
大陸系は「ビッグ・ピクチャー」を見たがるが、
アングロアメリカ系はとことん分析的で細部に入り込む、
ということです。
かみ砕いて言いますと、
大陸系のヨーロッパ人(ドイツ人、フランス人ら)は、
「この世界全体を説明する大きな論理」を志向するということです。
ドイツ人カール・マルクスの生んだ資本論などはまさにそれですね。
アメリカ人は「大きな論理」にあまり興味がない。
なので、スケールの大きな哲学や論理が生まれにくい、
というのです。

これは、いろんな神学者の本を読んでてもそう思います。
アメリカの神学者の論理と、
ドイツの神学者の論理って、
かなり違う。
直観的に言いますと、
アメリカはかなり機械論的で合理主義的です。
ドイツは「合理主義を超える物語」を生もうとしています。

これはリベラルかコンサバティブか、
という話しではありません。
それとは位相が違う、ダイナミズムのレベルの話しです。
ちなみに私は後者に惹かれます。



▼▼▼東洋人の弁証法的な解と、西洋人の非弁証法的な解

→P198 
〈ペンと私は、ミシガン大学の中国人とアメリカ人の学生に、
人と人との葛藤や一人の人間の中の葛藤を描いた物語を読んでもらった。
ある物語では母と娘の価値観の違いによる葛藤、
別の物語では遊びたいという気持ちと学校で
勉強しなければならないという気持ちの葛藤が描かれていた。
われわれは参加者に対して、
これらの葛藤についてどう考えるかを尋ね、
参加者の答えが「中庸」すなわち弁証的な解、
非弁証法的な解のいずれに当てはまるかを分類した。

弁証法的な回答にはたいていの場合、
問題の原因を両方の側に求め、
対立する二つの見方を妥協や超越によって
調停しようという内容が含まれていた。
「母親も娘もお互いを理解していなかった」という回答は、
遠くない将来に二人が
互いに目を向け合うだろうという指摘を含んでいると判断し、
弁証法的な解として分類した。

これに対して非弁証法的な回答では、
いずれか一方の側に問題があるという指摘がなされていた。

母と娘の葛藤については、
中国人の回答の72%が弁証法的な解として分類されたのに対し、
アメリカ人の回答には26%しか弁証法的なものはなかった。
学校か遊びかという葛藤については、
中国人おおよそ半数が弁証法的な解を示したが、
アメリカ人の場合はそうした回答は12%しかなかった。
要するに、中国人のほとんどは「中庸」を見いだそうとし、
アメリカ人のほとんどは一方向的な変化を求めていた。〉


、、、何か葛藤がある際、
中国人(東洋人)とアメリカ人(西洋人)とで、
解決のスタイルが違っていた、という話しです。

タイのチェンマイで私がこの本を引用しようと思ったのは、
この箇所を読んだからです。
先々週書いた、「排中律」の問題がここで再び出てきます。
西洋の分析思考の根底にある「アリストテレス論理学」の、
「いろは」の「い」が、「排中律」です。
「矛盾律」とも言う。

「AはAであると同時に、
 非Aであることはありえない。」
と表現されます。
だからこそ、西洋の神学で、
「三位一体論」や「キリストの神性」が、
あれほど問題になったわけです。

ところが、東洋には驚く事に、「排中律」がない。
陰陽思想や道教などに代表されるように、
東洋では、
「光と闇」
「病気と健康」
「自然と人間」
「宗教と世俗」
こういったものを、
「対立概念」と捕らえません。
互いに補完する概念と捉え得ます。

「死は生に含まれ、生は死に含まれる」
というような考え方ですね。

西洋と東洋の思考の違いが、
問題解決にどういった違いをもたらすか?
西洋は「排中律」がありますので、
「Aが悪いか、Bが悪いか?」
といった二項対立の図式を取りやすく、
「排中律」のない東洋は、
「AもBも両方とも正しいし、
 両方とも悪い」
といった弁証法的な解を思考します。

「大岡裁き」とか、
「三方一両損」とかっていうのは、
その典型です。
辞書にはこうあります。

三方一両損:
「左官金太郎が3両拾い、
落とし主の大工吉五郎に届けるが、
吉五郎はいったん落とした以上、
自分のものではないと受け取らない。
大岡越前守は1両足して、2両ずつ両人に渡し、
三方1両損にして解決する。」

こういった解決法は、
おそらく西洋的な思想からは出てきません。
先々週の繰り返しになりますが、
現代世界は「近代合理主義の行き詰まり」に来ていると、
多くの人は思っています。
そのような時代に、「東洋的弁証法的な解」
というのは、実は世界を益することになるのではないか、
というのが著者の指摘であり、
私もそう思います。

著者は「プロローグ」の結語で、
今後の文化は「歴史の終わり」でフランシス・フクヤマが言ったように、
世界が全部アメリカになるのでもなく、
サミュエル・ハンティントンが「文明の衝突」で言ったように、
西洋化は挫折し多元主義の世界が訪れることもない、と語ります。
そうではなく東洋と西洋は互いに「出会い」、
侵襲し合い、相互に影響し合い、
溶け合っていく未来を彼は描きたい、と。

曰く、「シチューの具は具のままだが全部変化する。
そしてそのシチューにはそれぞれの具の
一番おいしいところが含まれている」というように。
私も著者の意見に同意します。

臨床心理学の泰斗カール・ユングは、
ドイツの牧師の息子という、「典型的な西洋人」でしたが、
彼の「全体性の心理学」は、彼が父への反発から、
東洋思想に傾倒したことから生まれました。
そのユングが「東西の思想の出会い」をコンセプトとした、
「エラノス会議」を主催しますが、
ここに参加した日本人が河合隼雄、鈴木大拙らです。

21世紀は西洋と東洋が互いに出会う時代になるだろう、
と著者は言っています。
東洋は西洋に出会うことでより豊かにされ、
西洋もまた東洋に感化されることで深みを増す、
21世紀はそういう時代だ、と。
実はみなさんの多くが使っているiPhoneは、
まさに「西洋が東洋に出会って出来た製品」です。
スティーブ・ジョブズはかつてソニーに学びにきたとき、
日本の禅寺の美しさに、雷に打たれたような衝撃を受けます。
そして彼は禅宗に感化される。
それが「引き算のデザイン」を生んだのです。
当初アメリカではブラックベリーのような、
ボタンがたくさんついたスマホが流行りましたが、
ジョブズは「ボタンは醜い」といって、
あらゆる装飾を取り除いたのがiPhoneです。
つまりあれは「日本の禅寺の思想を、
を西洋のガジェット屋が商品化した」商品と言えます。
詳しくはジョブズの公式伝記に書いてありますので、
興味ある人は読んでみて下さい。

神学の歴史を考えますと、
「西洋的な聖書の読み方」こそ正統とされます。
今後もそれは変わらないでしょう。
しかし、キリスト教をより芳醇にするには、
「東洋的に聖書を読む」ことも、
大いに貢献すると私は確信しています。

本のカフェ・ラテ『木を見る西洋人、森を見る東洋人』(前編)

2019.02.20 Wednesday

+++vol.061 2018年10月16日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 本のカフェ・ラテ
「本のエスプレッソショット」というこのメルマガの、
開始当初からの人気コーナーでは、
一冊の本を約5分で読める量(3,000〜10,000字)で、
圧縮し、「要約」して皆さんにお伝えしてきました。
忙しい読者の皆さんが一冊の本の内容を、
短時間で上っ面をなぞるだけではなく「理解する」ために、
「圧縮抽出」するというイメージです。
この「本のカフェラテ」はセルフパロディで、
本のエスプレッソショットほどは、網羅的ではないけれど、
私が興味をもった本(1冊〜2冊)について、
「先週読んだ本」の140文字(ルール破綻していますが)では、
語りきれないが、その本を「おかず」にいろんなことを語る、
というコーナーです。
「カフェ・ラテ」のルールとして、私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメントしていく、という形を取りたいと思っています。
「体系化」まではいかないにしても、
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。
密度の高い「本のエスプレッソショット」を牛乳で薄めた、
いわば「カフェ・ラテ」のような感じで楽しんでいただければ幸いです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼久しぶりの「本のカフェラテ」▼▼▼

久しぶりにやります。
「本のカフェ・ラテ」。
初めての方のためにご説明しますと、
当初本メルマガには、
「本のエスプレッソショット」というコーナーがありました。
これは一冊の本を、だいたい1〜2万字ぐらいで、
「要約」といいますか、解説するという内容で、
読む側からすると、5分ぐらいで、
一冊の本の内容がだいたい頭に入るわけですから、
かなりの時間的・認知的コスト削減になります。
(まぁ、要約を聞くのと本を読むのとでは、
 厳密には違うのですが、
 あくまでエッセンスだけならば、
 こういうことが可能です)

これはコーヒーを思い切り高圧で抽出し、
本来300mlになるのを30mlの濃厚なエキスにする、
「知的なエスプレッソ」のようなものだな、
と私は思い、「本のエスプレッソショット」と名づけたわけです。

ところが、この作業、
読む方は「お得」のですが、
高圧抽出するほうは結構大変です。
一冊の本を1万字で網羅しようとすると、
かなり「つかれる」ことが分かりました笑。

「認知負荷一定の法則」と私が読んでいる法則がありまして。
発信側が認知負荷をかけて発信した情報は、
受信側は負荷なしに、つまり簡単に受け取れます。
よーく考え抜いてなされた発言や文章は、
さらりと読みやすい(聞きやすい)ということです。

逆に発信側が認知負荷をかけずに発信すると、
受信側の認知負荷が高まります。
よくまとまっていない文章や意見は、
聞いたり読んだりしても、
頭を抱えてしまうほど難解(理解不能)だ、
ということですね。

「本のエスプレッソショット」は、
発信側の認知負荷が高すぎるので、
これをウィークリーベースでやるのは無理だな、
と私は察しました。

そこで登場したのが、
もうちょっと発信側の認知負荷を軽減する、
「第三案」。

それが「本のカフェ・ラテ」です。
エスプレッソを牛乳で薄めたものがカフェラテですので、
エスプレッソほど濃くはないが、
ただ内容を垂れ流しているのでもない。

その本のエッセンスが、
短時間で垣間見られる、
という意味では、
読者にとっても十分美味しいこのコーナー。
シーズン2では初めてです。



▼▼▼『木を見る西洋人、森を見る東洋人』▼▼▼

さて。

今回ご紹介するのはこちらの本です。


●木を見る西洋人、森を見る東洋人

読了した日:2018年1月31日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:リチャード・E・ニズベット
出版年:2004年
出版社:ダイヤモンド社

リンク:
http://amzn.asia/cJx57Lj


読了したのは今年の1月なので、
一度「先週読んだ本」でご紹介しているはずなのです。
しかし今回なぜこれを紹介しようと思ったかと申しますと、
9月後半にタイのチェンマイで、
DNAアジアフォーラムという、
FVIが理念を共有する国際的な集まりに参加しました。
私も30分の発表の機会をいただきまして、
15カ国、50名の参加者に、
「西洋と東洋の考え方の違い
 〜東からみた『もうひとつの真理のプリズム』〜」
というテーマでお話をしました。

その発表は非常に好評で、
参加期間中、参加者の半分以上の人が、
「俊、君の発表は素晴らしかった。
 今まで自分が考えていたことを、
 君は見事に言語化してくれた!
 すっきりした!」
「君が紹介していたあの本、
 絶対買って読むよ!!」
「日本における神の働きについて、
 めちゃくちゃ考えさせられた。
 遠藤周作の『沈黙』を読んだときのことを思い出させられた」
などのフィードバックをいただきました。

発表の様子がこちらです。
私の人生のメンターである、
ボブ・モフィット師が撮影して、
後にメールで送ってくれました。

▼参考画像:タイでの発表
https://bit.ly/2PqZxW6



▼▼▼Geography of Thought▼▼▼

、、、で、その発表にて、
私が「論理的下敷き」にしたのが、
上記のリチャード・ニズベット氏の本です。

ニズベット氏は米国コロンビア大学の教授で、
専門は社会心理学です。
ちなみに、この本のタイトルは、
邦題が「木を見る西洋人、森を見る東洋人」ですが、
英語原版のタイトルは、
「The Geography of Thought
How Asians and Westerners Think Differntly, and Why?」
です。

直訳すると、
「思想の地理学
 〜アジア人と西欧人の思考は
 どのように異なるのか?そしてそれは何故か?〜」
といったタイトルになります。

タイトルからして、
内容の説明になっています。
アジア人である日本人はこの本を、
「木を見る西洋人、森を見る東洋人」
と、包括的な表現でひとことで説明しました。

西洋人である著者は、
「思想の地理学」
という分析的な言語を使っています。

面白いですね。
では早速、本のカフェラテのルールに則り、
私のEvernoteメモにコメントする形で、
解説を始めて行きたいと思います。



▼▼▼ギリシア人から発する「主体性」と「ディベート」▼▼▼
→P15 
〈ギリシア人がもっていた主体性の観念は
「自分とは何か」についての
強い信念(アイデンティティ)と連動していた。
個人主義という概念を生み出したのが
ギリシア人かヘブライ人かは議論の分かれる所だが、
いずれにせよ、ギリシア人が、
自らを他人とは違った特徴や目標を持った
「ユニークな(唯一の)」個人だと考えていたことは確かである。

このことは、少なくとも紀元前八世紀ないし九世紀の
ギリシア詩人ホメロスの時代には動かしがたいものとなっていた。
ホメロスが書いた『オデッセイア』と『イリアス』では、
神々も人間も、一人ずつ完全な個性を有していた。

ギリシア人の主体性の観念はまた、
討論(ディベート)の伝統を盛り上げる刺激にもなった。
ホメロスは、人間の評価は戦士としての力強さと
討論の能力で決まると明言している。
一介の平民が君主に討論を挑むことさえ可能だったし、
単に話をさせてもらえると言うだけでなく、
ときには聴衆を自分の側になびかせることも出来たのである。
討論は市場でも政治集会でも行われ、
戦時下に討論がなされることさえあった。〉


、、、さて。
どこから説明しましょう。
著者は「東洋人と西洋人はなぜ違った考え方をするのか?」
を考察したいわけです。
では、「西洋人」ってなに?
ということが定義されていなければ、
この議論はそもそも組み立て不能なわけですね。

、、、で、
私たちが「西洋」と一般に口にするとき、
特にそれが思想的なことを意味している場合、
めっちゃくちゃシンプルに一言で言いますとそれは、
「コルプス・クリスティアヌム」のことを言います。
著者もこの意味で「西洋」を定義しています。

え?

コルプス、、、、

え?

何それ?

初めて聞いたんですけど。

という方もいらっしゃると思いますので、
これもなるべく簡単に説明しましょう。
佐藤優氏が、「世界史の大転換」という本の中で、
「トルコがEUに受け入れられないという予測の根拠」を、
このように語っています。

〈佐藤:EUはユダヤ・キリスト教の一神教の伝統(ヘブライズム)と、
ギリシャ古典哲学の伝統(ヘレニズム)、
ローマ法の伝統(ラティニズム)という
三つの価値観で結びつけられている。
「キリスト教共同体(コルプス・クリスティアヌム)」ですからね。
欧州がトルコをEUのメンバーとして受け入れる可能性は低いでしょう。〉


、、、この説明のままなのですが、
西洋(西欧と言っても良い)というのはつまり、
ギリシャ哲学とユダヤ教が結婚し(原始キリスト教)、
それにローマ法(ラテン語のローマカトリックの伝統)が加わった、
「三つ巴の思想体系」のことを言います。

この「コルプス・クリスティアヌム」が、
現代の世界のデファクトスタンダードを形作っています。
東洋人である日本人がいくら地団駄を踏もうとも、
この事実を反証することは不可能です。

民主主義も、資本主義も、共産主義も、
全部、「西洋」から生まれました。
また、
「法の概念」、「人権の概念」、
福祉、医療、近代教育、
数学、物理学、化学、生物学、哲学、
「政治の概念」、「西暦」、「一日24時間制」、
「週7日制」、学校教育、「会社」の概念、
ぜーんぶ、
「西洋の落とし子」です。
「コルプス・クリスティアヌムの落とし子」が、
現代の工業先進国の「ルールを形成」しています。

ですから私たち日本人は、
自らの宗教が何であるかに関わらず、
ある意味において、
「無自覚のキリスト教徒」なのです。
法の概念、会社の概念、資本主義、民主主義を、
制度として利用しているということは、
その前提となる思想を、
社会全体として受け入れていることに他ならないのですから。

、、、ここまで説明して、
やっと本の説明に入れるのですが、
「個人の概念」というのは、
「コルプス・クリスティアヌム」の落とし子のなかの、
特に「ギリシャ的なるもの」の遺伝子が強い「子」なわけです。
この「個人の概念」は非常に重要です。
これがないと、
法の概念も、
契約の概念も、
資本主義も、
民主主義も、
人権の概念も、
生まれませんから。

、、、なぜギリシャ的な「個人の概念」が、
キリスト教という文脈の中で花開いたか?
神学者マルティン・ブーバーはこう言っています。

「神に『あなた』と呼びかけるとき、
私は初めて『私』ということができる。
『私/あなた』というとき、他の『あなた』が現実となる」。

「創造者の存在」があるから、
「個人」が誕生するのです。
「創造者との関係における個人」があるから、
「私と同じように人権のある他者」が、
立ち現れるのです。
それをマルティン・ブーバーは一文で簡潔に表現しています。

かの福沢諭吉も、
「西洋」に行き「個人」を知ります。
彼はなんとか日本人に「個人」を語りたい。
そうして書いた『学問のすゝめ』において、
彼は「天」を措定します。
有名な、
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」
ですね。

福沢諭吉は、マルティン・ブーバーの言ったことの本質を、
捉えていたのです。
「人権」は「超越者の措定」なしに構築できないと。
福沢は「天」という言葉を使うことで、
日本人に「個人」そして「人権」という概念を根付かせようとしました。
しかしそれが制度として採用されるには、
福沢諭吉の死からさらに長い時間を待たねばなりません。

日本には、1945年までは、
法律的に「個人の概念」はありませんでした。
だって、明治の憲法、つまり大日本帝国憲法では、
社会の最小単位は「家」ですからね。
日本国憲法では社会の最小単位は「個人」になりました。
GHQによって押しつけられたと一部の人に悪評高い、
「日本国憲法」によって、
実は日本はある意味「キリスト教化」されたのです。

めっちゃ話しがそれますが、
ここでひとつ「時事ネタ」を。
安倍チルドレンのひとり、自民党の片山さつき氏が、
今回の内閣再編で「入閣」しました。
地方創生大臣として。
彼女は2012年に、このような「ツィート」をしています。

『国民が権利は天から付与される、
義務は果たさなくていいと思ってしまうような
天賦人権論をとるのはやめよう、
というのが私達の基本的考え方です。
国があなたに何をしてくれるか、
ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、
を皆が考えるような前文にしました!』

先ほどから私が語っている内容を踏まえていますと、
このツィートが「驚愕の内容」であることが分かるでしょう。
天賦人権説を否定することで、
彼女は無自覚に、「近代社会の前提」を否定しています。
つまり、
「前近代的封建制度に、社会を戻しましょう」
と言っているのです。
「時計を明治時代とか江戸時代に巻き戻しましょう!」と。

法治主義や立憲主義という、
近代民主国家の土台を形成する「天賦人権説」を否定しましょう。
そして、国家が専制的に国民を統治するという枠組みを用意し、
その上に憲法を制定し、社会を構築しましょう、
と、彼女は言っているのです。
それはつまるところ、
「日本を中国のような中央集権的管理国家にしましょう」
と言っているのと、あまり変わりません。
多分自民党の右派の政治家は無自覚にでしょうが、
「日本を中国化したい」のだと思います。
彼らがやたらと中国を嫌うのは実は、
「同族嫌悪」ではないかというのが、
私のうがった見方です。

私は憲法改正自体に反対ではありませんし、
憲法を不磨の大典とは思いません。
しかし、片山さつき氏のツィートに代表されるような、
あまりにも無知に基づく国家観、
無知でないとしたら悪意に満ちた国家観を持つ政治家に、
「その大切な作業」を託したくない、
というのが私の個人的な意見です。



▼▼▼ギリシャ人は史上初めて「メタ視点」を持った民族だった。
「エスノセントリック」という言葉にそれが凝集されている▼▼▼

→P16〜17 
〈こうした特徴の故に、ギリシア人たちは、
物理学、天文学、高力価学、形式論理学、論理哲学、自然哲学、
民俗学といった多くの学問領域において卓越した力を持っていた
(これらの学問はギリシア人が発見したという人もいる)。
ちなみに「自民族中心主義的(エスノセントリック)」
という言葉はギリシア語が起源である。

ギリシア人は元来、
自分たちの生き方はペルシア人より優れていると信じていたが、
それがおそらくは単なる偏見に基づくものだったという
自戒の念を込めてこの言葉を生み出したのである。

同時代の多くの優れた文明において、
また、それ以前のメソポタミア文明、
エジプト文明、後期のマヤ文明においても、
人間は、あらゆる科学の領域で体系的な観察記録を蓄積していった。
しかし、自らが観察した事項を説明する
根本原理を見いだそうとしたのはギリシア人だけだった。

こうした根本原理を探求することは、
ギリシア人たちの楽しみの源だった。
今日我々が用いている「学校(school)」という単語は、
ギリシア語で「余暇」を意味する「スコレー(schole)」が語源である。
ギリシア人にとっての余暇とは、知識を追い求める自由だった。
アテネの商人たちは自分たちの好奇心を満たすために、
息子を学校へやることに幸せを感じていたという。〉



、、、ギリシャ人は、
「エスノセントリズム(自国民属中心主義)」という言葉を生みました。
これは、人類史に残るような「大きな事件」です。

なぜか?

「自国民族中心主義」という言葉は、
「自分たちが身びいきになっている」
ということを、自国民ではない誰かの立場に立って、
自己分析できなければ生まれない言葉だからです。
つまり、ギリシャ人は「メタ視点」を持っていたわけです。

「メタ」というのがそもそもギリシャでして、
「〜の後ろの」、「超〜」、「〜より高次の」
という意味をなす接頭語です。
メタフィジックスという英語がありますが、
これは「メタ」な「フィジックス」ということです。
フィジックスとは「物理学・物質上の学問」ということですから、
メタフィジックスは「形而上学」、
つまり、観察される出来事を学ぶ物理学より、
もうひとつ上の次元で物事を語る学問、
ということになります。
形而上学とはだから、神学、哲学などのなかの、
現実世界の奥にあるこの世の中の根本原理を問う学問、
ということになります。

もうちょっとかみ砕きましょう。
「このボールが転がる速度はどれぐらいか?」
というのを計算したり分析するのが「フィジックス(物理学)」ですね。
「メタフィジックス(形而上学)」とは、
「このボールが存在する」とはいったいどういうことなのか?
ということを問う学問です。
「存在」とは何か?
それは脳内のシナプスによって引き起こされるのか?
宇宙にひとりも人間がいなくなっても、
このボールは「存在する」と言えるのか?
といったことを問うわけです。

「エスノセントリズム」の話しに戻しましょう。
この言葉をギリシャ人が「発明」したことが、
なぜ「凄いこと」なのか?
それは、この言葉が、ギリシャ人が「メタ視点」を、
持っていたことの証左だからだ、
と私は先ほど申しました。

ここで突然ですが、
「頭が良いとは何か?」についての、
私の持論をお話しします。
「頭の良さ」の本質とは何か、
ということです。

これは複数の正しい解答が矛盾なく存在する問いなのですが、
私は「頭が良い」というのは、端的に言うと、
「自己相対化できること」だと思っています。

地頭の良い人というのは、
「自分を相対化出来る人」なのです。
これを言い換えると「メタ視点」を持てる人です。
先ほどのメタフィジックスの話しを思い出してください。
「メタ」の視点を持っている人は、
「自分が今発言している内容の前提は何か?」
について問うことが出来ます。
また、
「今自分がこう考えているということは、
 いったいどういうことなのか?」
を考えることが出来ます。

何かの仕事やプロジェクトに没頭しながら、
「今この仕事をしている自分(たち)は、
 全体のなかでいったいどんな機能を果たしているか」
について思い巡らすことが出来ます。
文章を書きながら、
「今私はどういう前提に基づいて文章を書いているのか?」
という、「文章をついて書く私について考える私の視点」
を持つことが出来るのです。

これと「地頭の良さ」の、
何の関係があるのか?

大ありです。

メタの視点を持っている人は、
「次数を繰り上げて物事を考える」ことが出来ます。

アインシュタインは、
「ある問題は、
 それが作られたのと同じ次数では解決しない。」
と言っています。
次数をひとつ繰り上げたときに、
「問題」は解けるのです。

たとえば、そうですねぇ。

「お金が足りない」という問題があったとしましょう。
「お金が足りない」という問題は、
「お金」という次元では解決しません。

なぜか?

その人がたとえ大金を手にしても、
問題は解決しないからです。
その人は「お金との上手な付き合い方」
を知らないからこそ「お金の欠乏」という、
症状に苦しんでいるのです。
その人が、宝くじに当たったとしても、
問題は解決しません。
お金と上手につきあえないその人は、
当選金の一億円を手にすることで、
浪費家になってしまうかもしれないし、
次の日から「誰かに奪われる」と不安で寝られなくなるかもしれないし、
あるいは、もっと増やそうと投資した結果、
逆に大きな借金を抱えることになってしまうかもしれない。
1億円では飽き足らす、
こんどは10億円が欲しくなり、
「やっぱりお金が足りない」
という欠乏感に悩むかもしれない。

ほら、同じ問題に帰ってきたでしょ。

お金が足りないという問題は、
「お金の多寡」という次数では解決しません。
次数をひとつ、繰り上げる必要があります。
「慢性的な欠乏感」という心理的問題があるかもしれない。
セルフイメージの低さが問題かもしれない。
お金との上手な付き合い方を、
人生のなかで学べなかったことが原因かもしれない。

そんなふうに、「次数を繰り上げて」解決する必要があります。
そうすると、「もはやお金というのは副次的な問題に過ぎない」
ことがわかります。
そのときに初めて、最初の問題が解決されたのです。

メタ視点を持てる人は強いです。
しなやかに人生を前に進めていくことが出来ますから、
「スタック(停滞)」することがありません。
「一時的なスタック」に陥ることはあっても、
それは「飛躍への布石」に過ぎないのですから。

、、、ここで宣伝を。

11月23日(金)〜24日(土)に、
札幌で開催される「よにでしセミナー」は、
「メタ視点を獲得する」ことを目的とした、
(たぶん)日本で唯一のキリスト教のセミナーです。
このセミナーに参加すると、
「自らが働くとは何か?」という次元で、
物事を考える視点が身につきます。
それはあなたの問題解決能力、
リーダーシップ、未来構築能力が飛躍するのに、
不可欠なパーツをもたらすことでしょう。

いまのところ、あと5名分ぐらい「枠」があります。
参加をご検討の方は、お早めにお申し込みを!

▼参考リンク:「よにでしセミナー」
http://karashi.net/project/yonideshi/index.html


話しを戻します。
「エスノセントリズム」という言葉を使える国家は強いのです。
なぜなら、「自己相対化」出来るからです。
「夜郎自大」という罠から守られるからです。
昨今の日本の「ニッポンスゴイ!!」式の夜郎自大番組が、
量産される現状を見るとき、
私は我が祖国が心許なくなります。
本当に強いのは、
「ニッポンスゴイ!」を繰り返す、
自画自賛国家ではありません。
「ニッポン、大丈夫か?」
という内在的批判を受け止め成長していける国です。



▼▼▼中国では形式論理学が発達しなかった代わりに、
ある種の弁証法が発達した。その理由は、、▼▼▼

→P40 
〈中国では、論理学に変わるものとしてある種の「弁証法」が発達した。
これはヘーゲルの弁証法とは厳密には異なっていた。
ヘーゲルの弁証法は、定立(テーゼ)の後に
反定立(アンチテーゼ)が続き、
それが統合(ジンテーゼ)によって解決に導かれる。
つまりそれは、最終的には矛盾を解決することを目的とした、
いわば「攻撃的」な弁証法だった。

中国の弁証法はそうではなく、矛盾の概念を用いて、
物事や出来事の間の関係を理解したり、
明らかな反対意見を統合したり、
粗削りでも得るところのある考え方を取り入れたりするものだった。
中国の知の伝統においては「Aである」という信念と
「Aでない」という信念とは、必ずしも両立不可能ではない。
逆に、道(タオ)や陰陽原理の精神に則れば、
Aのなかには、Aでないということ
(または少なくとも近いうちにAでなくなるかもしれないこと)
が含意されて良い。〉



、、、タイのチェンマイで、
私がプレゼンに用いたのはこの部分です。
「太極図」というシンボルがあります。
英語圏ではTaijitsuと呼ばれています。
著者はこの図に、東洋的な思考法が凝縮されている、
と言っています。

▼参考画像:太極図(Taijitsu)
https://stat.ameba.jp/user_images/20130121/06/warainakiok/81/07/j/o0800079812385803095.jpg

ニズベット氏が指摘しているとおり、
西洋の論理学(アリストテレス論理学を基礎とする)と、
中国(東洋)の論理学は趣を異にします。
西洋の弁証法と東洋の弁証法は違うのだ、と。

西洋の弁証法は、「矛盾の解消」を目指します。
「矛盾」を契機に、問題を「保存的に止揚」し、
新しい、より高次な概念把握を目指す。

対して東洋の弁証法は、
「矛盾」を契機にして、
相対する二つの概念を統合する方向に向かいます。
太極図はその「統合」を上手く表現しています。

なぜこのようなことが可能なのか?
アリストテレス論理学の「はじめの一歩」は、
「排中律」と言われる原理です。
「Aは、Aであると同時に、
 非Aではありえない。」というものです。

「リンゴは、リンゴであると同時に、
 ミカンであるということはありえない。」
「陣内俊が東京にいるということと、
 ニューヨークにいるということは、
 同時にはありえない。」
「神がいるということは、
 神がいないということと、
 同時には成立し得ない。」

そういったことですね。
西洋近代科学はこの礎石の上に成り立ちます。
西洋の神学者が何百年もの間、
最も優秀な頭脳をすり減らして、
侃々諤々の議論をした問題の代表は、
「三位一体論」や、
「イエスの神性」です。

現に、「三位一体」をめぐる立場の違いにより、
西方教会(ローマカトリック→プロテスタント)と、
東方教会(ギリシャ→ロシア正教会)は袂を分かちました。

また、「イエスの神性」に関しては、
「ニカイア公会議」により決着を見るまで、
ものすごーい対立があり、
ものすごーい議論が積み上げられました。
神学2000年の歴史の中で最も重要な議論と言われています。
「ホモウーシオス」なのか、
それとも「ホモイウーシオス」なのか、
という有名な論争です。

興味ある人は調べてみていただければ良いのですが、
これはつまり、
「キリストは神と同じもの(同一存在)」なのか、
それとも、
「キリストは神と似たもの」なのか、という論争です。

東洋ならば、
「どっちでも良いんじゃない?」
なのかもしれません笑。

だって、排中律のない世界なのですから。
だから、
キリストは神と似ている。
キリストは神と同じだ。
どっちも正しい。
どっちも一理あるね。
他の側面ももしかしたらあるかもね。
以上、解決です。

ところが、
アリストテレス論理学に基礎付けられた西洋には、
「排中律」があります。
「Aは同時に非Aではあり得ない」

はい。

出ました。

これと、「三位一体」、
これと、「ホモウオーシス」は、
バッティングするのです。

排中律にキリスト論を当てはめますと、
「イエスは、人間であると同時に、
 神ではあり得ない。」
「聖霊は、聖霊であると同時に、
 神ではあり得ない。」
となりますから。

こういう考え方に私たち東洋人は親しみが薄いため、
「西洋人はなんて回りくどい考え方をするのだろう?」
「神学者って、結局はバカじゃなかろうか?」
などと思うかもしれませんが、
それは短絡というものです。

この西洋の排中律に真正面からぶつかり、
それでも論理の力でゴリゴリと物事を前に進めていく、
「西洋的な知的推進力」のようなものがなければ、
私は今このメルマガを書いていません。

だって、彼らのこのような「議論に次ぐ議論」がなければ、
パソコンは生まれていないですから。
インターネットも、「電気」も、
自動車も電話も生まれていません。
資本主義社会も民主主義の概念も生まれていません。
電車もオーディオもロケットも生まれていませんし、
人類はいまだに「太陽が地球の周りを回っている」
と信じていたことでしょう。

西洋の「分析的思考」の威力は、
端的に言って、スゴイのです。

しかし、
東洋の「統合的思考」の威力も、
実はけっこうスゴイんじゃないのか、
ということに、西洋が気づき始めているのが、
21世紀という時代です。
だからこそ、ニズベット氏はこんな本を書いたわけです。

西洋の「分析的思考」。
東洋の「統合的思考」。
これが、この本全体の通奏低音です。

統合的思考とは何か?

それは、排中律がないからこそ出来る、
(西洋人からすると)「思考の離れ業」なのです。

西洋の分析的思考では、
死と生、
強さと弱さ、
光と闇、
海と陸、
昼と夜、
これらはすべて、
「対立概念」になります。

しかし東洋の統合的思考(太極図を思い出してください)では、
これらは対立概念であることをやめて、
お互いに「補完する概念」となります。

曰く、
「死は生に含まれ、
 生は死に含まれる。」
「光は闇の一部であり、
 闇は光の一部である。」
「強さとは弱さの別の側面であり、
 弱さとは強さの裏側である。」
というように。

生は死の一部であり、
死は生の一部である、
という「統合的見解」によって、
何かが解決するわけではありません。
しかしそれによって、
「統合的な別の視点」を獲得することは可能です。

現代は、「近代が行き詰まった時代」と言われています。
これはとりもなおさず、
西洋の「分析的思考」の行き詰まりでもあります。
「ああすればこうなる」という、
機械論的な考え方が行き詰まってきているのです。
世界的にポピュリストやナショナリズムの政治家が台頭し、
「民主主義の行き詰まり」が露呈しています。
上位1%の富裕層が国の富の半分を寡占し、
下位40%は貧困ラインにあえぐ、
「1%対99%の闘争」が可視化され、
人々は「資本主義という制度の限界」を、
意識せざるを得なくなっています。
原発や遺伝子工学が「夢の技術」と喧伝される半面、
それらは必ず負の側面をもって、
予想もしない副作用をもたらすことを、
誰もが知るようになり、
「近代科学技術の限界」にも人々は突き当たっています。

つまり「近代」という枠組みの行き詰まりが、
21世紀的課題なわけです。
「ポストモダンの時代」と今が称されるのは、
そのような意味においてです。
「近代」という脳天気な時代はもう終わったのだと。

それはとりもなおさず、
「分析的思考の限界」でもあります。
そのような時代に、「新たな思考の道具」を、
人類は求めています。
それがもしかしたら、
「東洋的な統合的思考」なのかもしれない、
というのがニズベット氏の問題意識です。

、、、さて、
こう書いてきますと、
そうすると、聖書の教えから離れるのでは?
中国の道教?
そんなの偶像教じゃん、
と思われるクリスチャンの方もいるかもしれないので、
まったくそういう話しではない、
ということを付言しておきます。

そもそも、キリスト教が生まれたパレスチナは、
「東洋」です。
そしてイエスが話したアラム語(ヘブル語の亜種)は、
言語学的にもセム語族といって、
西洋のインド・ヨーロッパ語族とは違います。
地理学的にも言語学的にも民俗学的にも、
キリスト教の「グラウンドゼロ」は東洋にあるのです。
それなのになぜ、
キリスト教が「西洋的な宗教」になったかというと、
キリスト教の「開祖」パウロが鍵になっています。
彼はヘブル人でしたが、
ギリシャ語話者でもありましたので、
当時のローマ帝国の共通語である、
ギリシャ語で聖書(パウロ書簡)を書いたのです。

ここからキリスト教は「西洋に親和性の高い宗教」
になっていくわけです。
ところが、パレスチナは「東洋」ですので、
ヘブル語で語られる内容には、
「東洋的な内容」も多く含まれています。
「弱いときにこそ強い」とか、
「命を捨ててこそ命を得る」とか、
「持っている者は貧しく、貧しい者が富んでいる」とか。
これらは排中律的な発想からは出てきません。
じっさい、イエスの教えの多くは統合的視点から語られています。
しかしギリシャ語でこれを議論し始めると、
分析的な解釈が生まれることになる。

新約聖書の著者の中には、
ヘブル語が第一言語、
ギリシャ語は第二言語、
という人が多くいました。
それらの著者の中に、
「アンチヘレニスト(反ギリシャ主義者)」
という人がいたことが知られています。
彼らはギリシャ語を使いながら、
ヘブル的な統合的思考を表現するために、
敢えてギリシャの人なら使わない、
違和感のある言い回しを多用したのです。

何が言いたいか?

東洋的な視点から聖書を読む、
ということは、
「反(西洋)キリスト教神学的」になるかもしれませんが、
決して「反聖書的な読み方」ではありません。
むしろ、聖書の豊かな意味をくみ取る上で、
東洋の人は西洋の人よりも、
一歩先んじている部分もあるのでは?
というのが私の考えです。


、、、、


、、、


話しすぎて、文字数オーバーです。
この本の引用はまだまだ残っているのですが、
今週はここまで。

再来週、この続きを解説します。
その間にこの本を読んでおいてくだされば、
私の読み方とメルマガ読者とで、
本をどう読むかの突き合わせが出来ます。
「バーチャルな読書会」ですね。
やってみたい人は、是非。

では、今日はここまで。

「後編」へ続く。

『リンカーン うつ病を糧に偉大さを鍛え上げた大統領』ジョシュア・ウルフ・シェンク

2018.04.19 Thursday

+++vol.036 2017年10月31日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 本のカフェ・ラテ

「本のエスプレッソショット」というこのメルマガの、
開始当初からの人気コーナーでは、
一冊の本を約5分で読める量(3,000〜10,000字)で、
圧縮し、「要約」して皆さんにお伝えしてきました。

忙しい読者の皆さんが一冊の本の内容を、
短時間で上っ面をなぞるだけではなく「理解する」ために、
「圧縮抽出」するというイメージです。

この「本のカフェラテ」はセルフパロディで、
本のエスプレッソショットほどは、網羅的ではないけれど、
私が興味をもった本(1冊〜2冊)について、
「先週読んだ本」の140文字(ルール破綻していますが)では、
語りきれないが、その本を「おかず」にいろんなことを語る、
というコーナーです。

「カフェ・ラテ」のルールとして、私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメントしていく、という形を取りたいと思っています。
「体系化」まではいかないにしても、
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。
密度の高い「本のエスプレッソショット」を牛乳で薄めた、
いわば「カフェ・ラテ」のような感じで楽しんでいただければ幸いです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼リンカーン▼▼▼

先週の予告通り、今週は「本のカフェ・ラテ」をやります。
そして先週の予告通り取り上げる本は、
「リンカーン・・・」です。
こちらがその本ですね。

▼参考リンク:リンカーン うつ病を糧に偉大さを鍛え上げた大統領
http://amzn.asia/7UIaoKm

まずは先週の「読んだ本」コーナーの引用から。
先週はこんなことを書きました。

〈とんでもなく面白かったです。
夢中で読みました。

リンカーンが生涯、重い鬱病を患っていたのは今では常識ですが、
リンカーンの死後
1.リンカーンを英雄と祭り上げたかった親族
2.鬱病を「信仰上の汚点」と見なすキリスト教保守派の勢力
このふたつのイデオロギーによって、
リンカーンを語る上で避けられない「鬱病患者」としてのリンカーンは、
「歴史修正主義者」たちによって闇に葬られてきました。
つまり、「完全無欠のヒーロー」として世間は彼を神格化したわけです。
しかし近年、「等身大のリンカーン」を見直そう、
という「英雄史観からの脱却」が起き、リンカーンの鬱病研究が進んでいます。
この本はそのような歴史調査の集大成とも言える大作です。

逆説的ですが、「英雄史観」のリンカーンよりも、
鬱病を抱えながら、その内面における弁証法を、
アメリカ合衆国の「自由と奴隷制の弁証法」に適用する彼の姿を知った読者は、
リンカーンをより偉大な英雄と見なすようになる、
という不思議な読後感を持ちます。

じっさい私はこの本を読んだ後、何分か静かに遠くを見、
思いました。「歴史上で最も尊敬するイエス以外の人物」は、
今までガンジーでしたが、私は今やリンカーンをより尊敬する、と。〉

、、、この本は翻訳が小難しいことが唯一の欠点、
と先週書きましたがもうひとつの欠点は、
「値段が高い」ことです笑。
私は図書館で借りた本のうち「これは!」と思うものを、
20冊に1冊ぐらいは購入して手もとに所蔵します。
この本も手もとに持っておきたいのですが、
なにせ値段が値段なので、今は考え中です。
図書館で読める環境にある幸せな人には是非ご一読をお勧めしますし、
あと、4,000円払っても読む価値のある本であることは間違いありません。

、、、では、私のEvernoteのメモ引用に、
補足説明を加えていく、という形で、
本書を概説していきたいと思います。


▼▼▼この本が書かれた目的:リンカーンの物語は現代のための物語だから

→P22〜23 
〈本書の狙いは、
リンカーンのメランコリーを完膚なきまでに知ることではなく、
それを精一杯知ることであり、
どのような成り行き(ストーリー)になるかを見届けることである。
広義に言って、その成り行きはかなり単刀直入だ。
リンカーンは、若い頃から心理的な苦悩や苦痛をなめ、
自分は気質的に異常な程度まで苦しむ傾向があると思い込んだほどだった。
彼は自力で自分の苦しみを突き止め、自力で救いの手を見いだし、
がまんして適応する術を身に付けた。
ついに彼は、自らの苦悩から意味を鍛え上げた。
すなわち、それによって、苦悩を打ち勝つべき障害ばかりか、
その苦悩を己の良き人生の要因にまで高めたのである。

本書は、現代のためのストーリーである。
うつ病は、毎年世界中で一億人以上の人を苦しめる、
世界でもトップクラスの疾病である。
2000年、世界でおよそ100万人がこれで自殺した。
これは、同年度の戦争による死者数、
殺人による死者数を合せたのにおおよそ匹敵する数値である。

、、、この現実に直面するとき、
歴史上の卓越した人物の罹病は新たな痛切さを帯びてくる。
特に彼の病の特質ばかりではなく、
それが生産的な人生の一部になり得た姿においてこそ、痛切となるのである。

、、、本書は、大きな苦痛を大きなパワーに合体させた男の物語である。
自分の性質に「固有な不運」を嘆く少年時代の手紙から、
自殺や狂気という主題を書いた詩に至るまで、
リンカーンの生涯は自分の苦しみを説明し、
それを高い次元へと高めてさえくれる意味を求める模索が始発点になっていた
。大統領としての彼は、同胞に彼らの祝福と重荷を受け入れ、
彼らの苦悩には意味があることに気付き、
より完璧な合衆国連邦を目指す旅程に同行することを求めたのである。〉


、、、この本のユニークなところは、
著者が「リンカーンの伝記」としてというよりもむしろ、
「うつ病研究の一症例」としてリンカーンの足跡を辿っている、
という視座にあります。

じっさい本書には、本人の手紙や日記、
知人の証言や当時の新聞記事、秘書の日記などといった、
歴史的な一次資料が多く引用されますが、
それと匹敵して多く引用されるのは、
古今東西の精神医学と心理学の世界の著書や学術研究論文です。

つまり、「精神医学的に見るとリンカーンは、、、」
という本であって、
「あの偉大なリンカーンには精神疾患者という側面もあったよ」
という本ではない、ということです。

さらにユニークなのが、歴史家としての著者が、
様々な先入観を排除してリンカーンに「なりきって」、
その足跡を辿るとき浮かび上がるリンカーン像というものが、
「精神疾患を克服した大統領」というよりもむしろ、
「彼の精神疾患と向き合う弁証法的な過程(葛藤)こそが、
 彼を偉大な大統領たらしめた」という、
驚くべき事実だったというところにあります。

つまり、
リンカーンはうつ病患者だったの「にもかかわらず」、
米国史上最も偉大な大統領のひとりになったのではない。
リンカーンはうつ病患者「だったからこそ」、
米国史上最も偉大な大統領のひとりになり得たのだ、
ということです。

だからこそ、リンカーンの物語は、
WHOが「うつ病はがんに次ぐメジャーな疾病である」
と述べるほどにうつ病が切実な問題となっている現代に、
大きな示唆を与えるであろう、と著者は言っているわけです。



▼▼▼ポール・マクヒューとフィリップ・スラヴニーのナラティブアプローチ

→P45 ポール・R・マクヒューとフィリップ・R・スラヴニーは、
彼らの共著『精神医療の展望』において、
病める人物への4つのアプローチを突き止めている。
第1のアプローチは、病気もしくはその人物が抱えているものをつきとめる。
第2のそれは、当人の次元もしくは当人が当人であるもの、
第3のアプローチは行動、当人がすることに焦点を当てる。
これらはどれも、リンカーンの生涯の研究にはある程度の価値がある。
しかし、第4のアプローチ、「ライフ・ストーリー」の展望にまさるものはない。
このアプローチは、患者がやりたいことおよび彼らがなれるものを
全的(ホリスティック)医療の面で理解しようとするものなのだ。

忘れてはならないのは、
診断は主として臨床環境において治療を便益化するためのものだと言うことだ。
時間の一瞬を捉えるスナップショットである。
しかし、ここでやりたいことは、人生全体を丸掴みにすることである。
作家で内科医のオリバー・サックスによれば、こういうことだ。
「人間である患者を舞台の中心に戻す。
苦しんでいる者、罹病している者、病と戦う者としての患者である。
病歴を物語か説話へと深めないといけない。
それによってしか、病気との関連での患者、
患者の人間としての本体、『病気』と『人間』を眼前にすることはできない」。
この病歴と物語(ナラティブ)の区別は、まさにズバリ的を射ている。
病歴は事実との諸問題を排除しようとしているのに対して、
物語は患者の障害の本質的な諸問題を際立たせるべく
事実の方を活かすのである。〉


、、、私は2013年末〜2015年末まで、
燃え尽き症候群と鬱病を患い療養しました。
その間、心療内科に行き薬(SSRI)も飲みました。
漢方薬も飲みましたし、栄養療法もしました。
そして3つのカウンセリングを受けました。

最初のカウンセリングは、
「うつ病を克服すべき問題であり、
 それは何か悪しき原因の結果である」
という前提を持つカウンセリングでした。
カウンセラーの先生には大変お世話になりましたが、
このアプローチはやればやるほど、
自分を追い込んでいく結果になりました。

療養1年が経過した頃、
知り合いの牧師でありカウンセラーの、
「ナラティブ・アプローチ」を学んだ先生から、
「セカンドオピニオン」的にカウンセリングを受け始めました。

それまでのカウンセリングでは、
「この症状の病根は何か?
 それを治癒せねばならない。
 そして病気を克服せねばならない」
という語られざる前提がどんどん自分を追い込んで、
鬱の症状を逆に悪化させる結果になりましたが、
ナラティブ・アプローチを前提とするその先生は一言目に、
こう言いました。

「俊君が今病気になったのも分かったし、
 それが俊君の生い立ちや『トラウマ的体験』と、
 関連しているかもしれないのも分かった。
 、、、ではその『トラウマ的体験』あるいは『困難』が、
 俊君にしてくれた良いことには、
 どんなことがあっただろう?」

結果から言えば、この質問を機に、
私の病気はめきめきと回復していきました。
(それでも仕事復帰まではその後1年間ほどかかりましたが)

病気を「分析的」に捉えようとすれば、
それはネガティブなものであり排除すべきものです。
しかし、病気を「統合的」といいますか、
「全的」あるいは「包括的」に捉えようとするならば、
さらにそこに「時間」という軸を付け加え、
立体的なナラティブの一部と捉えるならば、
それは「人生を描く大切な絵の具」のひとつとなります。

そしてその「ナラティブを語る」ことこそ、
私たちがこの世に生を受けた意味ともつながっています。

私は仕事に復帰してから2年間、
様々な場所や文脈で、自分の闘病体験を語ってきましたが、
その要点をひとことで言うならば、
「ネガティブなるものを全体としての自己に統合する旅」
に関する「一連の物語」になります。

「どうすればうつ病は治るんですか!?」
という質問に答えるには、ですから私ならば、
「その分析的な質問をやめる」ことからが、
治癒のはじまりかもしれません、と言うことになります。

私の治癒(寛解もしくは和解と呼び替えても良い)は、
ですから、「処方箋」としては語れません。
物語という形でしか提示不能なのです。

そしてこの「リンカーン・・・」の書籍もまた、
そのような「分析を拒絶する全的な物語」としての側面があります。



▼▼▼リンカーンは精神病者の定義にも、
健康の定義にも、両方完全に当てはまる。

→P46 
〈われわれは、リンカーンは「精神を病んでいた」と言えるか?
彼が合衆国公衆衛生局医務長官の精神病の定義に合致することは、間違いない。
なにしろ、リンカーンが経験した、
「思考、気塞ぎ、行動の変化」は、
「苦痛もしくは機能不全」と結びつけられるのだから。
とはいえ、リンカーンは、
精神の健康に対する長官の定義にも合致しているのである。
それは以下のようになっている。
「精神機能が首尾よく働き、その結果、生産的な活動となり、
他者との関係を全うでき、変化に適応することができ、逆境に対処できること」。
この基準に照らせば、リンカーンほど健全な人生を送った人物は、
史上、殆どいなかったことになるのである。〉


、、、ここから浮かび上がるのは、
私たち現代人が考える「健康」の定義の限界です。

一言でいえば、
「健康とは病の不在ではない」ということです。
「平和とは戦争の不在ではない」というのとかなり似ています。

だって、そうしたら、
先天的な「疾患」を抱えた人は、
生涯健康にはなれないということになりますが、
じっさいにはそんなことはありません。
先天性疾患を抱えた誰よりも健康な人、
というのは存在します。
「ウソだ!そんな人はいない!!」
と思われる方は見識が狭すぎるか、
もしくはあなたの目が病んでいるかのどちらかです。

では、健康とは何か?

定義は簡単ではありませんが、
確実に言えることがあります。

それは、
「病というのはそれ自体、健康を包摂していて、
 健康というのは、それ自体病を包摂している」
ということです。

形而上学的な話しになりますが、
「死は生を内包し、生は死を内包し」ているのです。
こういうのって分析的知性で把握するのには限界がありますから、
だから「ナラティブ(物語)」になるわけですね。

、、、続いて見ていきましょう。



▼▼▼リンカーンはユーグリッドの「原論」を持ち歩いた。
 あるいは現代におけるゲームの替りとして。

→P172 
〈心理学者、デイヴィッド・B・コーインは、書いている。
「うつ病の場合、回復は病気への抗議から絶望を統御できる、
より効果的な方法の発見への移行である」と。
実のところ、リンカーンは極めて有効な闘病を展開した。
法律事務所では、鉄道会社や困っている旧友も含めた
一連のクライアントを代表して、常によく働いた。
歴史書一般に取り上げたれているような内容でなくても、
日々の接触を通じての散文的な満足は得られたし、
ときには勝訴して正義が遂行されたという興奮にもあずかれた。
リンカーンはさらに、自分の頭脳の領域を拡大するたゆみない努力も怠らなかった。
1850年代前半、巡回裁判ではユーグリッドの『原論』の最初の6巻を持ち歩いた。
これらは、定義から仮定、公理、証明に至る経緯を扱ったもので、
リンカーンの時代、この本は厳正な論理尽き爪の頂点とみられていた。
三角形の合同に関する辺=角度辺による証明、
ピタゴラスの定理とそれらの換意命題、
円の属性などをマスターすれば、
道理が通らない世界では理性の静かな勝利を勝ち得たことになったのである。〉


、、、私の読書的な趣味のひとつは、
「数学者や数学に関する本を読むこと」です。
これらは多くの場合時代小説よりもドラマティックで、
そして推理小説よりスリリングです。

、、、で、ある一定数の数学の本を読んでから、気付いたことがあります。
それは、歴史に名を残した数学者には、
精神疾患患者がきわめて多いということです。

いや、本当に。

生涯うつ病を患った数学者もいますし、
病気の故に若くして自殺してしまった天才もいます。
それによって人類の数学の進歩は数十年遅れたりします。

いや、本当に。

ここから、
1.数学が人をうつ病にする。
2.うつ的な気質と数学的才能には何か関連がある。
という二つの仮説がなりたちます。

私は個人的に両方とも可能性がある、と睨んでいます。
「数学の世界で結果を出す」というのは生易しいことではありません。
マラソンランナーに自殺者が多いのは、
あの競技が自分を過酷に追い込むことと関係がありますが、
数学者の自殺も似たようなところがあると思います。

また、うつ的な気質と数学的才能には、
何か関係があるというのも、
ちょっとあり得る話しだと思います。

スコットランドを天文学者、科学者、数学者の3人が旅行した、
という、数学者の気質を現す有名な話しがあります。

列車の車窓から一匹の黒い羊が見えました。
天文学者は言いました。「スコットランドの羊は黒いんだ。」
科学者は言いました。
「いや、違う。分かったのは、
スコットランドの羊の中には黒いものがいる、ということだけだ。」
数学者はこう言いました。
「そうではない。スコットランドには少なくともひとつの草原があり、
その草原には少なくとも一匹の羊が含まれ、
そしてその羊の少なくとも一方の面は黒い、ということだけさ。」

、、、とにかくめちゃくちゃ厳密なのです。
本書にも何度か紹介されていますが、
うつ的気質を持つ人というのは、
物事を「自分びいき」に見ず、
あくまで冷徹に見ようとする傾向があり、
それは心理学の実験で実証されています。

そして、その気質こそが、
リンカーンをして「奴隷制撤廃」という、
非常にセンシティブな事業を成し遂げる上で、
有利に働いた、というのが著者の見立てです。

リンカーンが「原論」を持ち歩き読んだ、
というのは「精神安定剤」的な役割もあったでしょうし、
彼の気質を物語るエピソードでもあると思います。



▼▼▼メランコリーの暗い土壌が実を結ぶ

→P198 
〈リンカーンの40代半ば、
彼のメランコリーの暗い土壌が実を結び始めた。
リンカーンが奴隷制の拡大に反対する戦いに身を投じたとき、
それまでは彼に悩みをもたらしてきた同じ要素が、
彼の偉大な仕事においてもまた一役果たしたのである。
どうすれば自分の人生を意味あるものにできるか、
をめぐって彼につきまとっていた諸問題が、
公的な領域に適用されると、
それまでになかった意味と活力を帯び始めたのだ。
それまで彼が耐えてきた苦しみが、
厳しい時期に直面して彼に明晰さ、規律、
そして信念を与えてくれたのである
―――おそらく厳しい時期だからこそ、その度合いが強まったのだろう。
それは、いわゆる病気からの回復ではなかったし、
ましてや治療ではなかった。
リンカーンの物語は、
うつ病を排除されるべき兆候の集合と見なす者たちを混乱させる。
しかし、受苦(じゅく)を感情面での成長の隠れた触媒とみなす者には、
リンカーンの物語は納得が得られるのだ。〉


、、、解説不要ですね。
彼の生涯にわたる「内的なメランコリーとの葛藤と弁証法」が、
アメリカが抱える内的矛盾の「克服」または「止揚」につながったのです。
リンカーンは内面において激戦を闘っていたからこそ、
外的世界の「激戦」を耐えぬく勇気を得たわけです。



▼▼▼自らの物語を国の物語に、
自らを統治するために苦闘した倫理を国の倫理に共鳴させる。

→P199 
〈リンカーンは、単なる政策の開陳ではなく、
聴衆の前に、物語(ナラティヴ)を広げて見せた。
それは、この国がどこから来て、今、どこに立ち、
どこへ向かうかの物語の開陳である。
しかも、この物語こそ、彼自身の人生の物語と共鳴したのだった。
彼が自国に提示した倫理は、
理想の完璧な実現はあり得ないと承知の上で
その実現への努力を継続することだった。
ところが、その倫理こそ、
彼が自身を統治する上で使ってきた倫理と同じだったのである。〉


、、、これも先ほどの同じです。
リンカーンは自らの内部に潜む矛盾と葛藤のなかで、
完璧はないと承知のうえでそれでも「理想と意味」を求めました。
彼が完璧はないと承知で「米国の理想」を語り、
国内の矛盾と葛藤を乗り越えようとした政治的な歩みは、
内的な旅路と外的な旅路の共鳴です。


▼▼▼受容の物語ではなく、統合の物語

→P244 
〈本書は、主人公の受容の物語ではない。
彼の統合の物語なのだ。
リンカーンが偉大な仕事を成し遂げたのは、
彼が自分のメランコリーの問題を解決したからではない。
彼のメランコリーこそ、
彼の偉大な仕事の炎をさらに燃やす材料だったのである。〉


、、、受容と統合は似ていますが違います。
これを読むときに私はキリスト教の開祖、パウロを思い出します。
パウロには肉体的にメジャーな疾患を抱えていましたし、
彼には「自分は迫害者で殺人者である」という自責感情と、
生涯闘ったと思われます。

その内的葛藤が生んだのが、
私たちが新約聖書として知る書物の大部分です。
「ポジティブ信仰」が強い人には理解不能でしょうが、
メランコリーは炎を消す消化剤ではなく、
炎を付ける材料です。



▼▼▼精神の健康は二面性に秘密があり、
それはリンカーンが体現していたものだった。

→P247 
〈よき人生を生きるには、
一群のコントラストを永続的な総体に統合できないといけない。
精神分析学者のレストン・ヘイヴンズが
『人間たることを学ぶ』で説明しているように、
精神の健康は自由と服従、
過激な独立とたゆみない忠誠心の両方に依存している。
「私のお手本はリンカーンだ」と、ヘイヴンズは書いている。
「花崗岩のように堅く、雲のように柔らかい。
私もまた、必要なだけ強く、同時に弱くあれる術を学びたいものだ」と。
本書は、心理学を頼りにリンカーン研究を始めた。
今や心理学のほうがリンカーンを頼りにしているのだ。
すなわち、彼の人生こそ、受苦(じゅく)に直面しながらも
上首尾の人生を生きる方法について、
単なる処方箋では教えられない何かを
教えてくれることが見て取れるのである。〉


、、、音楽で、「倍音」と言われる概念があります。
1人の人の声なのに、周波数のピークが複数ある。
こういった声は呪術生があり、人々を惹きつけるのだそうです。
古代の巫女や呪術師も倍音を持っていただろうと推測する人もいますし、
宇多田ヒカルや美空ひばりは倍音の使い手だという説もあります。

おそらく人格にも同じようなところがあり、
真に魅力的な人間というのは、
逞しさと傷つきやすさの両面、
繊細さと大胆さの両面、
内向性と外向性の両面、
優しさと厳しさの両面を備えた人間です。
心理学の研究者が「精神の健康とは二面性だ」
と言っており、それは時代がリンカーンに追いついてきた、
ということを示唆しているのだ、ということを、
著者はここで言っています。



▼▼リンカーンの謙虚さと決意の源は、
超越者との関係から来ていた

→P296 
〈彼の物語が永続する大きな理由は、彼があれだけ深く苦しみながら、
常に謙虚さと決意を増殖させて蘇ってきたからだ。
謙虚さの母体は、彼があれだけ深く苦しみながら、
常に謙虚さと決意を増殖させて蘇ってきたからだ。
謙虚さの母体は、
その生涯の荒海で彼を運んだ船がどういう船だったにせよ、
彼はその船長ではなく、
彼は単に人の力を超えた力に従っていたという彼の認識に由来していた
ーーそれが運命、神、あるいはこの世の「全能の建築者」だろうと。
この決意の出所は、どれほど謙虚な乗り手だったにせよ、
リンカーンは呑気な乗客ではなく、
やるべき任務を持った甲板員だという意識に由来していた。
自力を超えた権威への敬意と自身の乏しい力を強い意志で行使することが
ふしぎな形で混ざり合った状態で、
リンカーンは、苦痛の生涯の美味な果実、
すなわち先見的な智慧を達成できたのである。〉


、、、謙虚さというのは、
超越者をもたなければ達成されません。
リンカーンが真に謙虚であれたのは、
自分は人生という船の船長ではなく乗組員だ、
ということをよく知っていたからです。

キリスト教信仰の真髄というのは、
「主権者の意志を受け入れる運命論」と、
「それでありながら自らの運命は、
 自らの意志や選択で変えられるという主体性」の、
交差するところにあると私は個人的に考えています。

まさに「十字架」ですね。

神の主権によって十字架にかかったイエスは、
それを100パーセント受動的に神の御心として受け入れ、
なおかつ100パーセント主体的に行動しました。

本書にも出てきますが実はリンカーンは、
「私たちが考えるような信仰者」ではなかった、
という説が有力です。
つまりどこかの教会の教会員になり、
クリスチャンとして聖書を無謬の書と信じ、
いわゆる「敬虔な」生活を営む、
アメリカの保守的な信仰者のイメージとは違います。

むしろ彼の考え方はいわば「リベラル」で、
「理神論」にちかい考え方を持っていたことが分かっています。
「フリーメイソン」の会員でもありましたし。
しかしその「考え続ける」というスタイルや、
人生は神のものであり、神は計画をもって私をつくった、
という揺るぎない確信は、
表層的なコンサバティブ信仰を超越したところにある、
もっと深い本当の意味のハードボイルドな信仰者だったと、
私には思えます。



▼▼▼ばらばらになった魂を集める旅

→P299 
〈また、1863年の夏、メアリー・リンカーンの衣装担当、
エリザベス・ケクリーは、自分が大統領夫人に着付けを行っていた部屋へ、
大統領が重い足取りで入ってくる様子を見守っていた。
「足取りはのろく重くて、顔には哀しみが浮かんでいました」と、
ケクリーは回顧する。
「疲れ切った子どものようにソファに身を投げ出すと、
両手を目にかざして照明を遮りました。
完全に打ちのめされた姿だったのです。」と。
彼は、陸軍省から戻ってきたばかりで、
そこで聞かされた知らせは、
彼によれば「暗い、どこもかしこも暗い話しばかり」だった。
大統領は、ソファ近くのスタンドから小さな聖書を取り上げて読み始めた。
「15分も経った頃」と、ケクリーは述懐する。
「チラとソファを見ると、大統領の顔がさっきより明るくなっていました。
打ちのめされた表情が消えて、
新たな決意と希望が顔に光を与えていたのです。」と。
彼が聖書のどのくだりを読んだのかを見ようと、
ケクリーはものを落としたふりをして、
座っているリンカーンの背後へ回り込み、
彼の肩先から聖書を一瞥した。「ヨブ記」だったのである。

歴史を通して、苦しむ人々にとって
最初にして最後の推進力は神意への一瞥だった。
「人間は生まれたときはばらばらだ」と、
戯曲家ユージーン・オニールは書いている。
「人は生涯をかけて自分の断片をつなぎ合わせる。
その膠(にわか)は、神の恩寵だ!」と。〉


、、、「人間は生まれたときはばらばらだ。」
生涯をかけて自分の断片をつなぎ合せる。」
というオニールの一節は示唆に富みます。

「鋼の錬金術師」という漫画があります。
読んだことはないのですが(ないんかい!)。
、、、でも、あの漫画のあらすじは、
なくなった自分の身体のパーツを集める、
というものであることだけは知っています。

また、フランク・ボームの「オズの魔法使い」には、
脳みそを失ったかかし、勇気を失ったライオン、
心を失ったブリキの木こりが出てきます。
そして彼らは「失った自分の一部」を捜す旅をします。

これらの物語が現代の神話として機能するのは、
それが人間の真実の一側面を語っているからです。
沖縄には「人間には魂が7つある」という伝承がありますが、
それもまた、単なる「でまかせ」ではなく、
「人間は多面的であり、生きるというのは統合への旅なのだ」
ということを、沖縄の人々が長い年月の中で経験的に把握していて、
それを表現したひとつのかたちです。

私はうつ病になり、回復したとき、
竜巻のあとのように、
「荒野にばらばらになった自分の魂のかけら」
が散らばっているように感じました。

おそらくそれは病気という「嵐」によって、
それまでの内的統合が一度解体され、
それを「再統合する旅」が始まったという、
ひとつの象徴的な心象風景だったように感じています。
私はだから今、「第二の人生」を生きているのです。
これは比喩ではなく、本当にそうです。



▼▼▼リンカーンは例外的な「不確かさを明晰さの源泉とする」人だった

→P307 
〈リンカーンの明晰さは、一部、彼の不確かさに起因している。
これがいかに異例であるかは、
いくら高く評価してもしすぎることはできまい。
宗教史学者のマーク・ノールは、自著『アメリカの神』で、
たいていの宗教思想家は神の恩寵を想定するばかりか、
自分らは神のご意志が読めると想定した。
言うまでもなく、どちらの想定も、
自己贔屓をいかにも気高そうに表明したものに過ぎなかった。

、、、リンカーンは、
南北双方が勝手に神意はわが方にありとする矛盾を切開した。
「その主張では双方が間違っているかもしれないし、
必ずや一方が間違っている」。
神意を知っている者は1人もいない
――リンカーンも、ジュリア・ウォード・ハウ(北軍の軍歌を作った人)も、
あの敬虔な南軍のトーマス・「ストーンワル」・ジャクソンも。

、、、一度、ある牧師が「願わくば主がわが方に立たれんことを」と言うと、
リンカーンは異議を唱え、もろにこう切り返したのである。
「願わくば、われわれのほうから主の側に立たんことを」と。

「なぜなのか?」と、マーク・ノールは問いかける。
「特定の宗派や教会に属したこともなく、
わずかな神学的文献しか読んでこなかったこの人物が、
『各州間の戦争』(南北戦争)に対して
かくも深々とした神学的解釈を表明できたのは、なぜなのか?」と。

リンカーンをメランコリーを通して眺めることによって、
われわれは一つの納得のいく説明を引き出すことができる。
すなわち彼は既知のことと、依然、疑念の中にあること、
これら二つを値踏みしつつ、
常にある状況の完全な真実に目を向ける傾向があったからだ。

過酷な時期、リンカーンはその緊張状態に踏み止まる刻苦忍耐と活力を保持していた
(まさにジョン・キーツが1817年、「ネガティブ・ケイパビリティ」と呼んだ能力)。
このことを念頭に、われわれは1863年の夏、
すなわちリンカーンが「ヨブ記」に慰めを見いだしたあの時期に再び戻る。
示唆的なのは、お先真っ暗な時期に彼が「ヨブ記」にすがったことだ。
なぜなら、聖書のこのくだりは個人の信仰の価値を、
ヨブを感情の懊悩の限界に突き落としても、問いかけるものだからである。〉


、、、この箇所を読んだ時私は「我が意を得たり」と思いました。
本当にそうです。
「これは神の御心です」と誰が言えるのでしょう?

政治的な意見にせよ宗教的な主張にせよ、
教育論にせよ人生哲学にせよ、
「自分が100パーセント正しい」という主張というのは、
「神はいない」という主張とほぼ同義です。

私たちは神ではないのですから、
「私は今これが神様の御心だと思う」
というのが「限界」なはずです。

だって、間違っているかもしれないんだもの。

「確信が与えられるまで待ちなさい。」だとか、
「神の御心だと確信したら進みなさい」といったアドヴァイスを、
私はこの20年間、本気にしたことがありません。
「コイツ何言ってるんだろうな?」
と思いながら聞き流してきました(不真面目)。

だって、「確信」なんて、
昨日食べたマズい料理のせいで吹き飛ぶかもしれないし、
睡眠不足のひとつの作用かもしれないじゃないですか。
所詮は私は人間なのです。

私の100パーセントは、
「あらゆる勉強をし、
 得られるだけの知識を得、
 相談できるだけの人と相談し、
 祈れるだけ祈り、
 考えるだけ考え抜いた。
 できうる全ての準備をした。
 その結果、今のところ、
 間違っているかもしれないが、
 これが神の御心だと私には思われる。」
というところまでです。

その先の一歩を「信仰による跳躍」と言います。
9年前に公務員を辞めて宣教の働きに飛び込んだときもそうでした。

一歩目から跳躍を試みる人は、
本当には跳べません。



▼▼▼1841年1月23日にリンカーンが書いた手紙
→P328 
〈1841年1月23日にリンカーンが書いた手紙は、
いやその結びの90語は、明らかに第一ステージ(恐れ)を示している。
簡潔にして直裁、そして強力にうつ病の核心を突くこのくだりは、
ゲティスバーグ演説がアメリカ的実験の核心を突くできばえに匹敵する。
「今生きている人間の中で、私ほど惨めな人間はいない。
私が感じたことが全ての人間の家族に配られれば、
地上に幸せな顔は一つもなくなるだろう。
今私に見えているところでは、私は死ぬに違いない。
さもなければ今よりましにならないといけない。
ましにはなれそうもない恐ろしい予感がある。
きみが私のために話してくれる事柄は、
きみがいいと思うように対処してくれたまえ。
このありさまでは、業務をさばけまいからね。
私が正気に戻れば、この事務所にローガン判事と残りたい。
もうこれ以上書けない。」〉


、、、この手紙を書いたときのリンカーンの心境を思うと、
言葉を失います。
なんという正直な言葉でしょうか。
著者も書いているように、ゲティスバーグ演説に匹敵する、
歴史的な言葉の遺産だと私には思われます。



▼▼▼リンカーン仮装大会▼▼▼

、、、ここまでが、私のEvernoteのメモなのですが、
最後に非常に印象に残った「あとがき」のくだりを紹介します。
後日談として著者は、少しでもリンカーンのことを知りたいと思い、
毎年一回開催されている、「リンカーン仮装大会」に
参加したときのエピソードを紹介しています。

これは全米からリンカーンのコスプレをするために、
リンカーンファンが集まるという、
かなり面白そうなコスプレ大会です。
画像が見つかりましたので紹介します。

▼参考リンク:「全米リンカーン仮装大会」(ウケる)
https://goo.gl/tBqrxW

、、、どうやって「優勝者」を決めるのか興味がありますが。
いずれにせよ著者はこれに参加するのです。
で、取材のためだから私服で参加したところ、
「浮きまくった」そうです笑。

そりゃそうだろ、と。
リンカーンコスプレ大会で1人だけカジュアル服を着るというのは、
普段の町並みで1人だけリンカーンの格好をしているのと、
まったく同じだけ違和感があるわけですから笑。

、、、で、著者は参加者に呼び止められ、
「おい、俺の予備のリンカーンがあるから、
 それを着ろよ!」と勧められる。
(予備のリンカーンって何だよ、という話しですが笑)

言われるままに「取材なんだけどなぁ、、」と思いながら、
黒のタキシードと山高帽子を身に付け、
付けひげをつけて、ステッキを片手にもって、
著者は参加者たちにインタヴューします。
「ここに取材に来たのは失敗だったかもしれないな」
と思いながら、、、。

しかし著者はそこで、毎年参加している、
グリーンというおじいさんに出会います。
「ちょっと森の中をあるかないか?」
と誘われ2人のリンカーンは森に消えました。
(著者とグリーンさんね)

リンカーンはリンカーンに聞きました。
、、、もとい、著者はグリーンさんに聞きました。
「リンカーンの格好をすると何かいいことがあるのですか?」

76歳のグリーンさんはおもむろに、
自分がかつて若い頃、商売に失敗し、
ハイウェイ脇にあったモーテルで首を吊って死のうとしたが、
そこで踏み止まったときの経験を語り始めました。

2人の間に重く、そして神聖な空気が流れました。

そしてグリーンさんは言ったのです。
「リンカーンの衣装になると、
私はその経験を味わい、なお耐えられた。」と。

この本を総括する、良い話しです。
うつ病と「付き合い」、それを自らの偉大さにまで鍛え上げた、
リンカーンという人物の「服装をまとう」ことで、
多くの人々がこの困難な時代を生き抜き、
なお輝く価値を見いだし創りだしていくことを願いますし、
私もそのひとりでありたいと思っています。



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『他人』の壁 養老孟司×名越康文

2018.04.05 Thursday

+++vol.034 2017年10月17日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 新コーナー 「本のカフェラテ」

新コーナー「本のカフェラテ」です。
「本のエスプレッソショット」というこのメルマガの、
開始当初からの人気コーナーでは、
一冊の本を約5分で読める量(3,000〜10,000字)で、
圧縮し、「要約」して皆さんにお伝えしてきました。

忙しい読者の皆さんが一冊の本の内容を、
短時間で上っ面をなぞるだけではなく「理解する」ために、
「圧縮抽出」するというイメージです。

この「本のカフェラテ」はセルフパロディで、
本のエスプレッソショットほどは網羅的ではないけれど、
私が興味をもった本(1冊〜2冊)について、
「先週読んだ本」の140文字(ルール破綻していますが)では、
語りきれないが、その本を「おかず」にいろんなことを語る、
というコーナーです。

「カフェ・ラテ」のルールとして、私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメント
していく、という形を取りたいと思っています。
「体系化」まではいかないにしても、
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。

密度の高い「本のエスプレッソショット」を牛乳で薄めた、
いわば「カフェ・ラテ」のような感じで楽しんでいただければ幸いです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼養老孟司×名越康文▼▼▼

私は24歳のとき(たしか)、
養老孟司の「バカの壁」出会ってから、
彼が書いたものは過去のものもさかのぼって、
殆どすべて読んできました。

彼は私が「私淑(一方的に師と仰ぐこと)」している、
いわば私の「思想の師匠」なのです。
亀仙人のもとで修行した孫悟空とクリリンの武闘着の背中には、
「亀」と書かれていたように、
鶴仙人のもとで修行した天津飯やチャオズの背中には、
「鶴」と書かれていたように、
ピッコロに鍛えられた孫悟飯の背中に「魔」と書かれていたように、
私の背中には「養」と書かれています。

「老」はちょっと、あれなので。
養老先生の「孟司」という名前は、
中国の思想家「孟子」から取られていますが、
苗字にも「老子」の「老」が入っている。
中国古代思想家が二人も名前に隠れています。
すげー「思想的」な名前だな、といつも思います。
(ちなみに私の名前「俊」も、
 中国の伝説上の王「舜と堯」から取られています。
 私の弟は「了」です。
 両方常用漢字でないので、
 父親が「舜と堯」を「俊と了」にしたわけです。
 、、、余談でした。)

話を戻しますと養老先生の言っていることはいつも「同じ」で、
その「同じ」ことを言葉を換えてこの30年ぐらい言い続けている。
彼の本が400万部も売れるというのは、
その「同じこと」が世間にとっては「当たり前」ではなく、
「新鮮」であり、そして「盲点」でもあることの証左です。

彼の思想をひとことで表すなら、
「都市化し脳化した社会に、
 身体性を取り戻す」ということです。
彼の結論はいつも「体を使って働け」です。
彼は「皮肉に満ちていてねちねちと語る」だけなのに、
読み終わった後、不思議と元気が出てくるのは、
きっと自分の「脳化し歪んだ思考」が、
養老先生の「骨盤矯正」によって修正されたからでしょう。

私の書くもの、話すこと、働きの内容の端々には、
実は「養老印」のアイディアが沢山含まれています。
あんまり一目で分かるものはないですが、
それでもやはり、私の思想を語る上で
養老さんの影響は無視できないのです。

そんなわけですから、
今年の夏に東京駅で待ち合わせをしているときに、
久しぶりに「リアル書店」に立ち寄ったとき、
「養老孟司」という名前を見つけて反射的に買いました。

この本は精神科医で仏教の研究者でもある、
名越康文さんと養老さんの対談本です。

「カフェ・ラテ」のルールとして、
私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメントしていく、
という形を取りたいと思っています。
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。

、、、では始めます。


▼▼▼人生は作品だ、という概念と、修行の概念
→P101
〈養老:まさに今、名越さんが言った修行ですよね。
修行という言葉が世の中から急速に消えていっています。
良く学生が僕に言うんですよ。
自分は才能もないし、努力も続かないと。
言っちゃ悪いけど、
あんまり出来が良くない学生がぶつぶつ愚痴をこぼすわけです。
そういうときに僕は言うんだけど、
君の人生という絵は君にしか描けないんだよと。
たとえキャンバスがボロボロの安物で、
絵の具もそんな高価なものではないかもしれないとしても、
それで完成した絵は君だけの絵であって、
それが人生という作品なんだと。
そういう発想が昔は今よりもあったと思うんですよ。

名越:なるほど。それがつまり修行だと。〉


、、、養老孟司は2011年の東日本大震災以降、
私の知る限りまる3年間書き下ろしを出版していません。
彼をもってしても、あの震災を「言語化」するのには、
相当な時間がかかったのだということが分かります。

私はちなみに、発災後から病気を発症した2013年の冬まで、
断続的に福島に通って支援活動に関わりましたが、
いまだに「言語化」できていません。
まだ「きれいに論理化できない空白」として、
震災と原発事故と福島での出来事は、
私の中に「ゆらぎ」をもたらしています。
この違和感というか「答えの出ない感じ」を、
内側に抱え込んで、あと10年ぐらいは引き受けていこう、
という腹が決まったのは、結構最近のことです。

、、、で、養老さんが2014年に、
震災後はじめて「公式に語った」のが、
「自分の壁」という新書でした。

私は当時病気療養中でしたが、
たまたま見つけたこの本を買って読みました。
私のバーンアウトはいろんな要素の絡み合いのなかで起きたので、
それが単独の原因ではないにしても、
「3.11を語る」という作業の途中で脳がクラッシュした、
みたいな側面が少なからずあったと今は思っています。
福島に通いながら「いったい今自分が何をしているのか」
分からないという苦しみがいちばん大きかった。
「ルールが分からないゲームに放り込まれた理不尽感」
みたいなもののなかで、ひたすら「戸惑っていた」というのが、
私の震災支援の実感です。
そして先ほども申しましたように、
その不条理感も戸惑いも、私の中に「保存されたまま」です。
あの経験以降、私は「断定的に、きれいに物事を語る」
ということができなくなりました。
言葉の輪郭がクリアではなくなった、という感じ。
最初私は自分の頭が悪くなったんだろうと感じていましたが、
多分そういうことではなく、
「あらゆる事柄に関する判断を留保する」
ということが習慣になったのだと思っています。
なぜなら現実は複雑で、重層的で、そして多くの場合、
言葉で十全に説明することは不可能だから。
その複雑な現実を複雑なまま受け止め、
それでもなお何かを語ろうとすると、
どうしても「断定を避ける」ようになり、
表現は抑制的になる。

当初はそれを不自由に感じ、
論理が鈍くなったように感じていましたが、
今はそれを自分の「長所」と思うようになりました。
これは震災が私に(そして多分読者の多くにも)もたらした、
数多くのもののうち、大きなひとつです。

、、、話しを戻しますと養老さんの2014年の本を読み、
私は何か「胸のつかえがいくぶん取れた」ような気持ちがしました。
私の力量では言葉にできなかったものを、
日本でもっとも頭良い人のひとりである養老さんが、
代わりに介助してくれた、という感じ。
このときから養老さんが言い始めたのが、
「人生は作品である」ということです。

▼「自分の壁」養老孟司
http://amzn.asia/9PpKd81

養老さんは福島第一原発事故のあと、
「今私たちの目の前にあるのは問題ではなく『答え』だ」
と言っていました。
つまり「これをなんとかする」という復興庁的な視点も必要だが、
「この現実」こそが、今までの戦後70年生きてきた積み重ねの、
「答え」なんだ、ということですね。

「問題」と捉えるというのは原発事故を、
数式の左辺に置くことです。
そして右辺の「復興」を考える。

しかし養老さんは「そうじゃない」と言う。
原発事故は数式の右辺なんだと。
では左辺は何か?
それは「今までの日本の歩み」だということです。
そう考えると、「私たちはどこで道を間違えたんだろう」
という本当の意味の反省ができる。

そういった「反省」のひとつが養老さんにとっては、
「戦後日本社会は、人生を作品と考えることをしなくなった」
ということだったわけです。

私は今の仕事に転職してから2万回ぐらい、
「なぜ安定した公務員という仕事を辞めて、
 不安定な今みたいな仕事をしているのですか?」
と聞かれました。
人生を効率の観点で捉えるなら、
それは非合理だし、説明不能です。

しかし人生を作品の観点で捉えるならば、
私は自分のした選択を後悔していません。
「人生という絵画」を描く上で、
私が今の仕事をし、病気になり、そして病気が寛解し、
そして頼りないながらもよちよちと、
また歩み始めているということは、
まったく必然であるように私には思われます。
ミスチルの歌詞を借りるなら、
「最初からそうなることが決まってたみたいに」、
私には思われるのです。

そして私の言葉を使うなら、
「最初からそうすることに決めていた」のは、
私の創造者である神だ、ということになります。



▼▼▼あらゆる政治的現象を「結果」として捉えるセンス
→P152 
〈養老:BS日テレの『深層NEWS』というのに出演していたんだけど、
トランプの誕生を「しょうがない」というような論調でコメントしたら、
共演した記者さんから、番組終わってから
「先生は新保守主義者なんですか」と言われましたよ。
トランプを受け入れるのか、認めるのかと言うことなんでしょうかね。
新保守主義っていうのは、ある意味でナショナリズムですよね。
右か左かで言えば、まあ右ですよ。

名越:学者なのにグローバリズムを肯定していないという。

養老:肯定とか否定とかじゃなくて、結果だからね。
結果を作った原因が何かと言うこと。

名越:なぜメディアや多くの人がこれを「結果」という視点で
捉えられないのかというのは、本当に強く感じます。
そこへ踏み込んでいる評論家は少ないですよね。
結果と捉えれば、もっと本質的なプロセス、
つまり、なぜこういう結果になったかという自分たちの根源にある欺瞞とか、
過ちに気付くはずなんですよ。
つまり、本質的なことにね。
なのに、「トランプ現象が起きた、大変だ、じゃあどう対応したら良いんだ」
という方向に行きがちですよね。
良くも悪くも、今までの自分たちのやり方が
これを招いたという考え方に至らない。
だから本質に気付くことができない。
これまでの日常がトランプを生んだんだという、
そこの部分へ行けないんです。
「いよいよ政治の末路だ」って、いやいや、
政治の末路なんて歴史上で今までも何度もあったじゃないかと。
唐や漢や、周が倒れる時も、末路みたいなことはあったんだって言う。〉


、、、これも先ほどの話しと同じですね。
「トランプ政権の誕生」を数式の左辺とみるなら、
「それにどう対応するのか?」という話しに終始する。
「支持するのか」「支持しないのか」とか、
「トランプ政権になって日本はどう影響を受ける?」
みたいな話しを延々とし続けることになる。

しかしトランプの当選が「右辺」だとすると、
「左辺」は何なんだろう?ということになる。
左辺が変わっていなければ、
トランプが仮に選挙に負けたとしても、
新たなトランプが出てくるでしょう。
「病因」が取り除かれていないわけですから。

これは日本の選挙にも言えます。
「ポピュリズムをどうすのか?」というのは問題設定として浅い。
「なぜ日本社会はこうなってしまったのか?」
という問題設定が大切です。
つまり、現在のポピュリズムは「答え」なのだと。
それは何の「答え」なのか?

私たち大衆が、「わかりやすい答え」を求めすぎたことかもしれない。
私たちが自己利益以外、関心がなさすぎたのかもしれない。
私たちが他者に不寛容すぎたのかもしれない。
私たちが合理性を求めすぎたのかもしれない。
私たちが複雑な問題を単純化しすぎてきたのかもしれない。
私たちがメディアや政治を「監視」するのを怠った、
数十年にわたる無関心の結果が、
今のポピュリズムなのかもしれない、、、という風に、
考えを進めることができるのです。

私は養老師匠にこの「考え方」を学びました。

これは夫婦問題にも会社の問題にも教会の問題にも適用可能です。
今あるこの会社の状況というのは、
「解決すべき問題」ではなく
「過去10年間私たちがしてきたこと(してこなかったこと)の答え」
かもしれないと考えるわけです。
「グレてしまった子どもという問題をいったいどうやって解決するか?」
と考えるのではなく、
「子どもがグレたというのは、私たち夫婦の10数年間の歩みの、
 『答え』なのだ。」と考える。
そうすると、「あぁ、ああいうところが間違っていた」と気付く。
そのときには大抵、子どもの非行問題の8割は解決しています。
子どもの非行というのは9割以上、
無神経な親への「メッセージ」ですから。

この思考法に「養老法」という名前を付けたいぐらいです。



▼▼▼日本経済の「大局観」
→P158
〈養老:日本はまだ内需が相当強いでしょう。
韓国と比べると多国籍企業の割合も圧倒的に少ない。
韓国は、財閥はもちろんだけど、
銀行ですら株主の半分は外国人ですからね。
それに、韓国は輸出依存度が50パーセントもあるでしょう。
日本は16パーセントかな。

名越:韓国は内需がどうしても弱いから、
かなりの部分貿易に依存していますからね。
そういう意味では、日本は輸出入が減ってもしばらくはやっていける。

養老:極論すれば石油だけ。必要なのは。
だから、必要な石油代の分だけ輸出して稼げれば、
国としては生きていける。
食料が四割も輸入じゃないかって声もあるけど、
実は休耕田も多くて、もっと生産できる基盤はある。
言い方を変えると、できるのにサボって、
外から食べ物を買っているという構図ですよね。
だから、今すぐというわけじゃないけど、
潜在的にはやっていける地盤がある。〉


、、、これは説明不要かと思います。
日本が太平洋戦争に突き進んだ本当の理由は、
陸軍の暴走とか近衛内閣のポピュリズムとか、
当時のマスコミが熱狂したとかいろいろ言われていますが、
「モノから観る歴史」の解釈では理由はひとつです。
「石油がなくなった」からです。
ABCD包囲網によって石油の禁輸措置が取られたことが、
直接の開戦の原因です。

これに尽きます。
なんと当時の日本は「敵国」の米国から8割の石油を輸入していました。
「開戦した時点で敗戦は運命づけられていた」という所以です。
歴史から学べるのは北朝鮮がもし「暴発」するとしたら、
それは「ロシアや中国も含めた石油の禁輸」措置がとられたときでしょう。

あと、日本の外交政策におけるアキレス腱は憲法9条ではありません。
そんな観念的なことではない。
「化石燃料」こそが日本の外交の最大の脆弱性です。
だから「シーレーン」であり、
だから「ホルムズ海峡」なのです。
そしてそういった理由から私は「原発、ある程度必要論者」です。
原子力が安全なエネルギーだからでも安価なエネルギーだからでもない。
「石油の一本足打法が外交的に危なすぎる」からです。
天然ガスや石炭、海底資源、風力や水力などの併用も、
言うまでもなく大切です。



▼▼▼戦前の日本はグローバリズムだった
→P161〜162
〈養老:グローバリズムは絶対正しいと思っている人って、
じゃあ戦前の日本はどうなんだと言うね。
あれ、完全に国際化していましたから。
国際化という表現がおかしければ、「大アジア化」とかさ。、、、

名越:だから、日本はすごくグローバリズムを進めていたんだな。
でも、いわゆる左翼の方々が「グローバリズムは正しいんだ」
と言っているところに、
「そういえば戦前の日本もそうでしたね」と言ったら驚くでしょうね。〉


、、、今の保守や右翼は「日本ファースト」を掲げ、
普遍主義を退けます。
逆に左派やリベラルは普遍主義とグローバル化を言い、
戦前の日本を批判する。
しかし戦前の日本というのは、
今以上に「国際化」していたというのは、
多くの人の盲点になっています。



▼▼▼「意味」で満たすことのおそろしさ
→P182 
〈養老:、、、でね、これがすごく恐ろしいと僕が思っているのは、
「同じ」を追求していくと、さっきから何度も例に出しているけど、
会議室がそうなんですよ。
感覚を刺激するものは会議室には置いていないでしょう。
意識を訂正するものは感覚しかないから。
灰皿だって今はもうないでしょう。
健康のために煙草は意味がないからってさ。
すべてのものが意味に直結している。
会議室の窓から外を眺めたら、木が生えている。
でも、そこに意味なんてないでしょう。

名越:ないですよね。木は何の意味もなくただそこに生えている。

養老:山行ったらすぐ分かるんだけど、
石ころにしても、風が吹くにしても、何にしても、
意味がないものに囲まれているんです。
だけど、都市の環境の中にいたら、
すべてが意味を持ってしまう。
それで、おかしな人が発生しているんですよ。
「こいつらに生きている意味があるのか」
と考えて人を殺してしまうわけでしょう。

名越:ええ、19人が殺害された相模原の事件ですよね。
生きている意味がないと行って殺してしまった。
非常に象徴的な事件ですね。

養老:世界を「意味」で満たすというのは、
じつはそのくらい恐ろしいことでもあるんですよ。
それを国家として実行したのがナチスですから。
意味のある人種と、ない人種を勝手に作り上げてね。
、、、情報化社会って、ある意味では、「意味化社会」なんですね。〉


「私には生きている意味がない」という悩みは、
都会人の病なのかもしれません。
「都市」では目に入るすべてのものに「意味」がありますから。

しかし自然を観るときに、
転がっている石ころ、
生えている草木、
うごめいている虫に、「意味」はありません。
「ただ、そこにあることが意味」です。

「自殺した中学生の手記に、
花鳥風月がいっさい出てこなかった」
ということを養老孟司は別の本で語っていますが、
花鳥風月の欠如と、「自殺まで追い込まれる心理」は、
無縁ではありません。

この「意味」というときそれは、
「人間の浅はかな頭で考える合理性」ということであって、
自然という大きな「系」を支える創造者の「意味」とは位相が違うことは、
言うまでもありません。

すべてのものには「意味」があります。
しかしそれは、私たち人間の頭で、
「役に立つ、立たない」と考えているような、
そんな薄っぺらな意味ではない、ということです。



▼▼▼免疫学者の多田さんの名言
→P184 
〈免疫学者の多田富雄さんは、
「女は実体だが、男は現象である」と言っていますよ。
実はこれで、男女の違いはほとんど説明がついてしまうんです。
つまり女性の方が身体に基づいて無意識に行動するし、
男性の方が頭でっかちで、
意識中心だから抽象的な者に囚われがちなんです。
だから有休を取って山にでも行けというんですよ。〉


「暴力の人類史」という本を先日読みましたが、
そのなかに、「女性の参政権」と「戦争の減少」には、
有意な相関関係がある、というくだりがありました。

思い切り大ざっぱに言えば男性は「概してバカ」ですから笑、
もし世の中に女性が存在しなければ、
人類はもうとっくに滅亡しているに違いません。



▼▼▼一神教は都市と相性が良く、仏教(多神教)は田舎と相性が良い
→P189 
〈養老:だから「同じ」を求め続ける人間社会が、
永久に死なないデータと、それを管理するAIを実現させた。
その先にあるのは、おそらく一神教という宗教なんですよ。
一神教って、キリスト教がそうでしょう。
唯一絶対神だから、言い換えたら、
唯一客観的な世界が存在しているという考え。
一方で、さっきも言いましたけど、
仏教は軸足が自分の側にありますからね。
全知全能の神が何かをしてくれるわけじゃなくて、
自分で修行して自分で悟りを開く。本質的に全く違う。

名越:それと、あらゆる自然の中に神々がいる、
万物のすべてに役割を持った神様がいるという宗教観は、
都市型の「同じ」という概念とは相反しますからね。

養老:、、、仏教って無意味なものを観ている時間が
長い国じゃないと成り立たない。、、、

名越:だから都会化して人間関係しか観なくなると、
仏教はどうしても分からなくなるんでしょう。

養老:そういう意味では、仏教も分化しましたからね。
鎌倉仏教の中で、たとえば日蓮宗や浄土真宗は典型的な都市宗教で、
一方で禅宗はどうしたって山の中。
だから、僕は鎌倉に住んでいるけど、お寺の分布を見ると分かりますよね。
市中にある寺はほとんど日蓮宗。関西もそうでしょう。
街中にあるのは基本的には浄土真宗ですからね。〉


、、、映画「あん」のラストシーンで、
「ハンセン氏病患者」の樹木希林が送る「遺言的な手紙」で、
「ねえ、店長さん。わたしたちはこの世を見るために、
聞くために生まれてきた。
だとすれば、何かになれなくてもわたしたちは、
わたしたちには、生きる意味が、あるのよ。」

というくだりがあります。

こういったセンスは「仏教的」です。
私は仏教徒ではありませんが、
仏教のもつこういったセンスが「好き」です。
共鳴していると言っても良い。
キリスト教は「脳化した都市」の宗教ですから、
すべてを「意味」で満たす悪いクセがあります。

正確に言えば本当は聖書にもこういったセンスはあるのですが、
「西洋経由のキリスト教」はそういったものを、
とことん見逃してきた、という気がします。



▼▼▼「気づき」の裏は違和感
→P197〜199
〈養老:、、結局、「気づき」の裏って違和感だと思うんですよ。

名越:ええ、分かります。違和感を持たないと、
気付くことはありませんからね。、、、心に違和感を覚えたら、
それに驚くのは良いけど、別に恐れて否定しなくても良いんですよね。
違和感を「悪いものだ」と否定しているうちは、
違和感を取り出したことにはならない。
僕の師匠の植島啓司さん(宗教人類学者)は、
「仏とは心の中にある違和感である」という名言を述べられています。
つまり、自分の中にある絶対に同化できない異物のような存在を、
彼は「仏」と言ったんですよね。
仏って阿弥陀さんみたいに慈愛に満ちていて、
無条件にいいものなんだという固定観念があるけど、
恐ろしい存在でもあると思うんです。
、、、だから、冒頭から「わからなくてもいい」と言っているのは、
何も「モノを考える必要がない」ということではなくて、
今すぐ答えが出てこなくても良いから、
とりあえず違和感を持ち続けていろと。
最初は隕鉄みたいな固いものだったのが、
心に持ち続けているうちに、だんだん溶け出して、
黒砂糖みたいに見えてくるかもしれない。
それがもっと溶けてきて、次第に消化していくというようなイメージですかね。
それが1ヶ月なのか、1年先なのか、もっとかかるのかわかりませんけど。

養老:だから、さっきも言ったように、
疑問があれば捨てずに抱え込んで生きていくと、
10年くらいして「あ!」と思う時がある。
往々にしてね。理由は分からない。
何かがあるんだろうけど。
名越さんが、インターン時代に突然
「人の気持ちなんてわからなくてもいいんだ」
と気付いたのもその一つかもしれないし・・・。〉


、、、「違和感を大切に持っておく」ことができるかどうかが、
「天才と凡人」を分けると私は思っています。
凡人はすぐ「こういうものだ」と結論を丸めてしまう。
「なんでこうなるんだろう、、、」という疑問を、
疑問のまましつこく何年も、何十年も考え続けた人だけが、
かつてアルキメデスが風呂で叫んだように、
「ユリイカ!(分かったぞ!!)」
という知的興奮を味わうことができます。



▼▼▼「学者」というのは達成の中毒。私は自分が広義の学者だと思う。
→P211
〈養老:楽しいんですよ。ある種の中毒だからね。
達成感の中毒(笑)。
よく「先生、そんなにいつも難しいこと考えていて疲れませんか」
って言われるけど、ばかいうんじゃない、疲れるに決まっているんだよ。
でも、同時に楽しいでしょう、ものすごく。
抱え込んでいた違和感とか謎のようなものが、
予期せぬ流れでパッと答えが出た瞬間というのは、
一度体験するとやめられなくなるんだ。
だから学者っていうのは、みんなその達成感を知ってしまって、
抜けられなくなった変な人たちなんですよ。

名越:僕もその抜けられない中の一人かもしれないですね(笑)。
だから、わからないものに出会って、しかもそれが、
自分がやりたいもので、情熱がそのなかにあるのであれば、
それはすごくドキドキすることだし、
ある意味ではすごく恐ろしいことやけども、
自分の目的を得たわけでね、
少なくとも若々しく長生き出来ると僕は思うわけですよ。
よく養老先生が「お若いですね」と言われるのと同じことです。〉


、、、私も「考えるのが趣味」の人間であり、
知的発見が人生の最大の喜びだと思うので、
このくだりには共感しました。
親しい友人と読んだ本や最近考えていることについて、
たとえば夜中まで語っているとき、
ふと「そういうことか!」とシナプスがつながったときなど、
鳥肌が立つほど嬉しいです。
この達成感の中毒性は、
マリファナの比ではないと思います笑。


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