カテゴリー

検索

便利な「検索」機能の使い方

上の検索バーに、「vol.○○」あるいは、「●年●月●日配信号」などと入力していただきますと、カテゴリ別だけでなく配信号ごとにお読みいただけます。

また、ブログ記事のアップロードは時系列で逐次していきますが、「カテゴリ別」表示をしますと、「Q&Aコーナー」だけを読む、あるいは「先月観た映画」のコーナーだけを読む、などの読み方が可能です。

スマートフォン

この他の活動媒体

●9年間続くブログです。↓
陣内俊 Prayer Letter ONLINE

●支援者の方々への紙媒体の活動報告のPDF版はこちらです↓
「陣内俊Prayer Letter」 PDF版

永久保存版・陣内が読んだ本ベスト10(後半)2018年版

2019.04.30 Tuesday

+++vol.071 2018年12月25日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 2018年版・陣内が今年読んだ本ベスト10(後編)
お待たせしました、年末特別企画です。
普段私は読んだ本に点数をつけたりランキングしません。
ランキングすることで切り捨てられる大切なものがあるからです。
なので、この企画は「年に一度だけ」の特別企画です。
前編は10位〜6位まで、
後編は5位〜1位までのカウントダウン形式で、
ご紹介していきます。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

●第5位 創世記一章の再発見 古代の世界観で聖書を読む

読了した日:2018年6月25日
読んだ方法:オアシスブックセンターで書籍購入

著者:ジョン・H・ウォルトン
出版年:2018年
出版社:いのちのことば社

リンク:
http://amzn.asia/c84ymB3

▼▼▼コメント:

これはねぇ。
衝撃的でしたね。
いろいろ物議を醸すでしょうが、
著者の主張は首尾一貫しており、
めっっっっっっっちゃくちゃ腑に落ちました。
私は獣医師であり「自然科学」畑の人間ですから、
そういう人が本書を読むと、
いろんなことがすっきりして、
なんか「自由」になります。

信仰と科学は二者択一ではありません。
そもそも「論じている内容」が違うのです。
100%の科学者であり、
100%の信仰者、
ということがあり得る、ということです。
後で説明しますがそれは、
信仰の内容が100%科学的に証明出来る、
ということはまったく違います。

興奮してたしか3冊買って、
知り合いにプレゼントしたぐらい良い本でした。

創世記一章は、
「天地創造」に関する記述です。
あれを「科学的にも実証出来る事実」
という前提で読むのは、
釈義的にも正しくないし、
実は無自覚に「科学」を「真理」の上に置く行為だし、
神が本当に意図した事ともかけ離れている、
といのが本書の内容。

「創造科学」を提唱する根本主義の人は、
もしかしたらカンカンに怒るかもしれませんが、
怒る前にこの本を読んでいただきたい。

読んでもなお怒るのはかまいません。

その場合は感情的に全否定するのでなく、
実証的に、著者の論理矛盾(もしあれば)などを、
指摘する形でするべきです。
そうすることで、
「人類の創世記の読み方」が、
より豊かにされていくのですから。

なぜ著者は、
創世記一章が科学的にも実証されるはずだと信じる
「創造科学」に対して批判的なのか?
それは「コンコーティズム」という概念と関係があります。

引用します。

→P18 
〈あるキリスト者たちは、創世記一章のテクストを、
まるでその中に近代科学が組み込まれているかのように、
あるいは近代科学が発見するべき事が記録されているかのように扱おうとする。
このような創世記一章へのアプローチは、
「コンコーティズム」と呼ばれる。

それはあたかも、テクストの中に、
近代科学が考えるような詳細な説明を探し求めようとするものだ。
これはテクストや文化を近代の読者のために
「翻訳する」ことを企図する取り組みのひとつである。
まず問題になるのは、私たちが彼らの宇宙論を、
今日のものに翻訳することは出来ないし、
すべきでもないと言うことだ。

もし、私たちが創世記一章を古代の宇宙論として受け入れるならば、
それを現代宇宙論の言葉に翻訳するより、
むしろ古代の宇宙論として解釈する必要に迫られる。
もし、私たちがそれを近代科学の言葉にねじ曲げようとするなら、
私たちはテクストに、それが決して言わなかったことを、
言わせることになる。

これは単なる意味の追加
(より多くの情報が得られるようになった故に)ではなく、
意味の改変である。
私たちがテクストを権威あるものとして扱えるのであれば、
テクストを、それが決して言わんとしていない意味へと
改変するのは危険なことだ。

調和主義(コンコーティズム)のもう一つの問題は、
テクストを現代の科学的認識に基づいて
理解しなくてはならないと決めてかかることだ。
こうするなら、そこでなされる理解は、
前世紀の科学的共通認識にも、
次世紀に新たに発展するかもしれない科学的共通認識にも一致しないだろう。

もし神がご自分の啓示を
科学に調和させることを心に決めておられたのならば、
それはどの科学なのかと問わねばならない。
科学というものは、
静的なものではなく動的なものであることはよく知られている。

まさにその本質において、
科学とは絶え間なく変化するものなのである。
もし私たちは、神の啓示は「真の科学」と一致する、
というのであれば、
それは科学の根本的な性質とは正反対の考え方を受容することになる。

今日、私たちが科学的な真理であると受け入れているものは、
明日には真理ではなくなるかもしれない。
なぜなら、科学とは、
ある時点で集められたデータに対する最も適切な説明を提示するものだからだ。

この「もっとも適切な説明」というものは
共通認識によって認められるのだが、
いくらかの反対意見が見込まれるものである。
仮説が検証され、古いものが新しいものに取って代わりながら、
科学は前進する。

それゆえ、神がもし、
ある特定の科学に啓示の狙いを定めたのであれば、
啓示はその科学の時代以前に生きる人々には理解できないものになるし、
その時代以降に生きる人々にとっては無用の長物となってしまう。
神の啓示を今日の科学に調和させたところで、
私たちは何も得られない。

これとは対照的に、
神はご自分の啓示を当時の聴衆と意思疎通させるべく、
当時の人々の理解できる用語でなされたと言うことが、
全く道理に適うのだ。〉


、、、「科学は聖書の創造論を裏付ける」
ということを一生懸命している人は、
「聖書の権威」を証明しているようでいて、
自分でも気づかずに、
「科学を聖書よりも上」に置いていることになります。

なぜか?

だってそうでしょ。
たとえば、私が、
「私の主張は正しい。
 なぜならハーヴァードの論文が、
 それを裏付けているからだ!」
というなら、
私は権威という意味において、
ハーヴァードの論文と私、
どちらに重きを置いているのでしょう?

ハーヴァードの論文です。

証明する内容よりも、
証明を裏付ける根拠の方が重いときしか、
この論法は使えません。

「現代の科学が聖書の言葉に追いついてきた!」
という人々は、実は、
無自覚に聖書の権威を軽んじています。
だって聖書より科学の方が重い、
ということをその論法自体が露呈しているのですから。

あと、字義通りの解釈を主張し、
「7日間の創造」を言い張る人たちは、
聖書の言葉が本当に字義通りだとしたら、
地球は平面でなければなりませんし、
今も太陽が地球の周りを回っていなければなりません。
(そう「書いてある」箇所が聖書にはありますから)

そのことはどう説明するのでしょう?

天動説は受け入れるが、
「7日間(168時間)での天地創造」は主張する、
というのは内部矛盾です。
創造科学の分野の人で、
「今も地球は平らであり、
 太陽は地球の周りを回っている!」
という人がもしいるなら、
その人となら私は話してみたい。
私は同意しませんが、
少なくとも彼の言っていることは、
内部において一貫しているからです。

この話を始めるときりがないのでこの辺でやめますが、
著者で神学者のジョン・ウォルトンが本書で言っていることは、
「創世記一章は、
『科学的な意味でどう天地が創造されたか』
 については、何一つ言及していない。」
ということです。

では、創世記一章は何なのか?
それは「宇宙論」だというのです。
「宇宙の成り立ち」ではなく、
「宇宙の意味」について語っているのが、
創世記一章なのだ、と。

もう、めちゃくちゃ腑に落ちました。
この本は今年のベスト5ですが、
「オススメ度」で言えば、
ダントツに第一位の本です。
「進化論とキリスト教」
「科学と信仰」などのテーマで、
悩んだことのある方なら、
めちゃくちゃ有益な一冊になることを保証します。

「字義通りの解釈派」が多数を占める、
福音主義の出版社である、
「いのちのことば社」がこの本を出版した意味は甚大です。
勇気ある決断だったと思います。
敬意を表します。



●第4位 津波の霊たち 3.11 死と生の物語

読了した日:2018年3月4日
読んだ方法:Kindleで電子書籍購入

著者:リチャード・ロイド・バリー
出版年:2018年
出版社:早川書房

リンク:
http://amzn.asia/bkfJHDX

▼▼▼コメント:

あー、これはヤバい。

ヤバいとしか言えません。

これまで解説するのを拒み続けてきた本です。
それほどヤバい本です。

メルマガのシーズンオフ期間中に、
義理の兄に教えて貰って、
Kindleで購入して読みました。

日本在住のイギリス人記者の著者は、
2011年3月11日、東京にいました。
「地震」というものに慣れていない著者にとって、
その日の揺れは「この世の終わり」かと思われました。

その後、福島第一原発事故を体験し、
東北に何度も何度も、彼は取材に行くようになります。

家族、親族、友人と死別した、
被災者たちの話しを聞くうちに、
彼は面白いことに気がつきます。

あまりにも多くの被災者が口をそろえて、
「幽霊を見た」というのです。
幽霊は津波にのまれた知り合いのこともあるし、
ペットの犬や猫のこともある。
しかし、その目撃事例が膨大すぎるのです。
さらに「死んだ人(やペット)」が、
自分に乗り移りその人の言葉を語る、
という「憑依」の事例も多数報告されます。

「これは何かある」と直観した著者は、
憑依され異常行動をする人の悩みを聞き、
その「除霊」に奔走する、金田住職に出会います。

読めば分かりますが、
この本は「オカルト」の本ではありません。
そういう話しではまったくない。
だからといって、
「事実と心理学と社会学と、、、
 というドライな分析と報道」でもない。
その中間に位置する何かの話しです。

2万人の人が海にさらわれたのです。
そりゃ「幽霊」も見るわな、
とキリスト者の私も思います。
「それは悪霊だ」と言うことではもちろんないですし、
「幽霊の実在」を信じているということでもないです。

そうではないのです。

「幽霊を見る」ことぐらいでしか、
語ることの出来ない体験というものがあるのです。
引用します。

→位置No.4106 
〈「ただの偶然でした」と彼女
(父親の幽霊としての靴の中に花を見た女性)は言った。
「都合の良いように解釈しているだけだと思います。
人が幽霊を見るとき、人は物語を語っている。
途中で終わってしまった物語を語っているんです。
物語の続きや結論を知るために、
人は幽霊のことを夢見る。
それが慰めとなるのであれば、良いことだと思います。」

怪談話を書き上げ、
土方さんが出版する雑誌に掲載することは、
文音さんにとってますます大きな意味を持つようになった。
「何千もの死があり、それぞれが異なる死でした。」と彼女は語った。
「ほとんどの死については、語られることもありません。
わたしの父は須藤勉という名前でした。
父について書くことによって、
わたしはほかの人たちとその死を共有することが出来ます。
ある意味、わたしなりの父への救済であり、
私自身も救われているんだと思います。」〉


、、、東日本大震災移行、
原発がらみの本を含めて、
震災関係の本を私はかれこれ、
150冊以上読んでいると思います。

、、、その中で本書は一番でした。
最も「良かった」(良かった、というのもしっくり来ないんだけど)。

東日本大震災は、
「言葉にならない事」です。
震災を語る、ということは、
「言葉にならない事を言葉にする」
ことです。

それは「不可能の可能性に挑む」ことです。
書き手(映画なら作り手)は、
それでも書く。

なぜか?

書くことは救済だからです。
言葉にならない国家的トラウマを、
日本人は2011年3月に抱えました。
それが癒えるには、
何十年もかかることでしょう。

しかし、「それを言葉にする真摯なうめき」
の積み重ねが、その「鎮魂」ともいえる、
治癒プロセスを前に進めていくのだと思います。

最後に金田住職の印象的な言葉を引用します。

→位置No.4257 
〈大川小学校で亡くなった児童の両親のような人々に、
僧侶はどんな慰めを与えることが出来るのか?
私がそう尋ねると、金田住職は少し間を置いた。
「とても慎重にならなくてはいけません」と彼は話し出した。
「子どもを亡くした人々にそういった話をするときには、
きわめて慎重にならなくてはいけない。
慰めを得るまでには、何ヶ月も何年もかかるでしょう。
あるいは一生涯かかるかも知れません。
ややもすれば、
何か言った時点で縁が切れてしまうことさえあるかも知れない。

しかし結局のところ、私たちが彼らに伝えられるのは、
受け容れるということだけかもしれません。
受け容れるという作業には大きな困難が伴います。
人それぞれ、個人個人で受け容れ方は異なります。
宗教者に出来るのは、
それを達成するための小さな手助けだけです。
彼らには、周りのみんなの支援が必要になる。
私たちはそれを見つめ、見守るのです。
そうしながら、われわれは自分たちが
宇宙のどの場所にいるのかを確かめる。
彼らと共に寄り添い、ともに歩く。
それが、私たちに出来るすべてです。」〉



●第3位 荊冠の神学 差別部落解放とキリスト教

読了した日:2018年7月14日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:栗林輝夫
出版年:1991年
出版社:新教出版社

リンク:
http://amzn.asia/6fCq6S9

▼▼▼コメント:

この本もヤバかったです。
まずは、とびらの引用から。

→P3 
〈「いかなる文化といえども、
社会秩序の上にある人々は相応なものが備えられる。
しかし文化の試金石とは、
底辺の人がどのように扱われるかにかかる」。 
ワレス・メンデルソン『差別』

「正義はそれが底辺の人々にどのように現れるかによって計られる。
こうした見方は、貧しい人々(アウヴィム)と、
神の経綸において彼らが中心的役割を担うという聖書の主題と一致する」。
リチャード・ニューハウス〉


、、、江戸幕府は、
貧しい百姓による一揆を押さえ込むために、
百姓よりも賎しい「えた・ひにん」という身分を、
創り出しました。
この人々は江戸以前からいた人々なのですが、
彼らの構造的・組織的差別が始まったのは江戸以降です。
彼らの生業は「屠殺業」や「死体の処理」でした。

明治、大正、昭和、平成と、
日本が近代化を経た後、
組織的・法律的な差別はなくなりましたが、
実質的な「差別感情」は残っており、
彼らの職業もまたその名残があります。

その証拠に、「同和解放同盟」は、
現在も東京の芝浦にあります。
芝浦は日本最大の食肉処理場があるところです。

なぜ私がこのことに詳しいかというと、
私は食肉処理場で獣医師として6年間働いたからです。

、、、で、
この本は、そんな「被差別部落」の解放と、
出エジプトの物語、
そして、イエスの「荊の冠」、
さらにはイエスの宣言された「神の国がもたらす解放」は、
関係あるばかりか、
そもそも聖書の中心テーマはそちらにあり、
聖書は「下から読まないと分からない」
ようになっているのではないか?
という「新しい神学の提唱」です。

目の覚めるような本でした。

だってそうでしょ。
出エジプトのときの、
大国エジプトにおける少数民族イスラエルの身分は、
現代の日本における被差別部落出身者や在日朝鮮人と似ています。
ローマ帝国における、事実上の属国イスラエルの状況は、
現代世界における黒人や性的マイノリティに似ています。

それだけではない。

イエスはそのイスラエルの中でも、
特に取税人や遊女やサマリヤ人、
つまりパリサイ人たちが「罪人」と呼んだ人々と、
意図的に交わりを持ち、
「ここに神の国が来た」と宣言されました。

このように見てくると、
聖書が意図していることは、
「エリートや富者や社会的強者」つまり、
「上から」見てもわからず、
「被差別者や貧者や社会的弱者」つまり、
「下から」見ないとわからないのだ、
という栗林氏の説には説得力があります。

それを象徴するのが「荊(いばら)」なのだ、
と栗林氏は言います。
「神の座」は至高の上にではなく、
「神の座」は荊にある、と。

引用します。

→P347〜349 
〈出エジプトという、
イスラエルにとっての決定的な解放のドラマを始めるにあたって、
神ヤハウェが「炎」となりながら臨在してモーセに語りかけられた場
――それは不毛な山ホレブの、
実に地上にしがみつくように茂る荊の茂みだった。

ときに主の使いは、荊(sene'h)の中の炎のうちにモーセに現れた。
彼が見ると、荊は火に燃えているのに、その荊はなくならなかった。
モーセは言った、「行ってこの大きな見ものを見、
なぜ荊が燃えてしまわないかを知ろう」。
主は彼がきて見定めようとするのを見、
神は荊の中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。
彼は「ここにいます」と言った。
神は言われた、「ここに近づいてはいけない。
足からくつを脱ぎなさい。
あなたが立っているその場所は聖なる場所だからである」。
(出エジプト3:2〜5)

荊の茂みは「聖なる場所」、
神が顕現するような象徴的な空間であった。
ヘブル語で「荊」にあたる言葉は十一あり、
厳密に言えばそれらはおのおの異なった荊科の植物を指す。
形状の違いや関連した雑草などを加えれば、
荊に言及する言葉は旧約聖書の中で実に二十二あまりに増え、
それぞれ「荊」「おどろ」「あざみ」「荊の茂み」「茂み」
などと和訳されている。
しかしそれらを確定することに今さしたる意味はない。
意味があるのは、神がそうした「荊」の中に顕現してモーセを呼び、
エジプトの地で奴隷とされたイスラエル人の解放を
命じられたという象徴性である。

神が初めてはっきりとイスラエルの民に現れ、
エジプトから彼らを解放する意図を示されたのは、
実に荊を通してだったという記憶、
荊が神の居場所を指すものだったという神学的象徴化である。〉


→P359 
〈「神の場は卑なる者、いや最も賎しき者と共にある」
と金芝河は言い、あるラテン・アメリカの解放神学者は
「神はそこに、最底辺におられる。
神顕現の大いなる場所とは貧しき者、飢えたる者、
搾取された者、牢獄にいる者、抑圧された者、低き者の間である」と述べる。

私たちは聖書的な神が「歴史の下側にいる民」
(the people underside of the history)に降り立つ神であること、
そして共に彼らの荊冠を被る神であることを見なければならないし、
人間社会の最底辺に立って、
そのトポスにいる民の辛酸を味わうため、
下降する神であることを、聖書のなかに見出さねばならない。〉


、、、神に逢いたければ、
きらびやかな大聖堂に行くな。
そうではなく貧しい人と共に生きよ。
そう言ったのは、
日本が世界に誇る社会変革者の賀川豊彦です。
自ら結核になりながらも、
貧民窟で救済活動を続けた賀川は、
「神は荊の中におられる」ということを、
良く理解していたのです。

引用します。

→P363 
〈もしこれと同じことを日本の伝統の中に求めるとすれば、
それは賀川豊彦の神観ではなかろうか。
賀川は、神がもっとも歴史社会の底辺に顕現することを
主張したパイオニア的存在である。
彼によれば、イエス・キリストの神とは人間社会の最底辺に降りたって、
その場にいる民の辛酸を味わい尽くす神、
犠牲者のもとに立って「再微者のうちに住む」神である。

「見よ、神は再微者の中に在らす。
神は監獄の囚人の中に、ちり箱の中に座る不良の群れの中に、
門前に食を乞う乞食の中に、療養所に群がる患者の中に、
無料職業紹介所の前に立ち並ぶ失業者の中に、
誠に神はいるのではないか。

だから神に逢うと思う者は、
お寺に行く前に監房を訪問するが良い。
教会に行く前に病院に行くが良い。
聖書を読む前に門前の乞食を助けるが良い。
寺に行って監房に廻れば、それだけ神に逢う時間が遅れるではないか。
教会に行って後に病院に廻れば、
それだけ神の姿を拝することが遅れるではないか。
門前の乞食を助けないで聖書を読み耽っておれば、
最微者のうちに住みたもう神がほかの所にいってしまうおそれがある。
誠に失業者を忘れる者は神を忘れる者である。」

「底辺」とはすべてを可能にする潜在力と、
いっさいを焼き尽くす情念が同居する場所である。
それはきらびやかな支配者の統制を離れた縁であり、
そこにおいてあらゆる価値が消滅する深い淵である。
それは中心から限りなく遠くに位置することで、
逆に、もっとも中央を照らし出すものでもある。〉


、、、これだけ文字数を割いても、
豊穣な本書の魅力の1割も伝えられていません。
とにかく、目の醒めるような一冊でした。
日本人が書いた神学書のなかで、
私は今のところ「歴代No.1」ですね。
こんな人が日本にいたことを思うと、
心が温かくなり、勇気を与えられました。
日本はまだ終わってないぞ、と。



●第2位 反脆弱性 不確実な世界を生き延びる唯一の考え方(上)(下)

読了した日:2018年4月20日
読んだ方法:Kindleで電子書籍購入

著者:ナシーム・ニコラス・タレブ
出版年:2017年
出版社:ダイヤモンド社

リンク:
http://amzn.asia/cqAeyjK

▼▼▼コメント:

これも凄いんですよね。
Kindleで読み耽った本です。
ただ、こちらも「概説」は難しい。
紙の本にすると上下巻で1,000ページ近くありますから。

サブタイトルの
「不確実な世界を生き延びる唯一の考え方」が、
この本の性質を良く現しています。

今の時代というのは、
「先の読めない」時代です。
経済でも政治でも社会でも何でも良いですが、
もし、「来年世界がどうなってるか言い当てあられる」
という人がいたら、
その人は嘘つきか、
何も知らないかのどちらかです。

つまり、
「次に何が起きるかが誰にも分からない」
ということだけが分かっている世界に、
私たちは生きているのです。

そのような時代に、
「予測と統御」による計画は、
必ず挫折します。
「予測と統御」を、養老孟司は、
「ああすればこうなる」という大和言葉に言い換えました。

つまり、私たちは今、
「ああしてもこうならない」世界に生きているのです。

「55年体制」に象徴される、
「昭和の長い繁栄と平和(と平成の停滞)」が、
私たちの考え方を、
「ああすればこうなる」式に、
知らず知らずのうちに条件付けてきました。

「勉強すれば良い大学に入れる。」
「良い大学に入れば良い会社に入れる。」
「良い会社に入って努力すれば良いポストが用意されている。」
「良いポストに就けば良い給料がもらえる。」
「良い給料がもらえれば、老後も安泰である。」
、、、というように、
「昭和の人生スゴロク」は、
かくも単純な「ああすればこうなる」式の
ロジックで構築されていました。

だから、子どもには、
「勉強しなさい」なのです。

、、、しかし、
今を生きる子どもの中に、
この神話を無邪気に信じている人は少数派です。

大人がどれだけ隠蔽しても、
「努力が報われるわけではない」
「良い大学に入れば良い会社に入れるわけではない」
「良い会社に入れば安泰なわけではない」
「高い給料を貰ってさえいれば安心なわけではない」
ということを、子どもは皮膚感覚で知っています。

「昭和スゴロク」のどのパートも、
現代の子どもにとっては、
「論理的につながっていない」のです。

物理学に「古典力学」と「量子論」がありますが、
両者の違いは、前者が、
「ああすればこうなる」世界であり、
後者が、「ああしてもこうならない」世界であることです。
だからアインシュタインは、
「神はサイコロを振らない」と言って、
量子論に反論したのです(後に彼は間違っていたことが分かります)。

さて。

20世紀は古典力学的な世界でしたが、
21世紀は量子論的な世界、
ということが言えると思います。
つまり「入力に対する出力が予測不能」な世界です。

このような世界の特徴は、
「成功への方程式が存在しない」ということです。
昭和的スゴロク的な手順をすべて正しく踏んでも、
絶望的に不幸になることがあり、
それらをすべて逸脱しても、
幸福になれる可能性がある、ということです。

そのような世界で、
人はどのように生きれば良いのか?

この本にはそのヒントが載っています。
この先を知りたい人は、本を読んで下さい笑。
もしくは、Q&Aコーナーで、
質問して下さい。

複数お問い合わせが来たら、
もしかしたらいつか解説するかもしれません。



●第1位 この世界で働くということ

読了した日:2018年4月27日
読んだ方法:新宿オアシスブックセンターで書籍購入

著者:ティモシー・ケラー
出版年:2018年
出版社:いのちのことば社

リンク:
http://amzn.asia/hxKjSXC

▼▼▼コメント:

今年私は約250冊の本を読みましたが、
その中で「第一位」はこの本でした。
4冊買って、知り合いにプレゼントしました。

この本があまりに良かったので、
夏休みに和訳されているケラー師の本を、
入手できるだけして、片っ端から読みましたから。

この本は、山田風音くんに教えて貰いました。
去年の「よにでしセミナー」で、
彼がプロフィールに、座右の書は、
Timothy Kellerの「Every Good Endeavor」、
と書いているのを私は覚えていました。

その後彼と話しているときに、
「俊さん、あの本が和訳されたんですよ」
と教えてくれて、買って読んだところ、
ぶっ飛ばされましたね(良い意味で)。

まさに「神の備え」だと思いました。

FVIが主催する
「よにでしセミナー」は、
「信仰者がこの世界で働くということ」に関するセミナーです。
主催者のひとりとして、この本は、
確実に内容を豊かにする一助となりました。
それは「明確に引用する」とか、
この本をベースにセミナーを作る、
といったものではなく、
「働くとは何か」についての一連の聖書的理解の枠組みを、
この本が私に与えてくれたからです。

この本もまた、
この文字数で概説することは不能なので、
ほんのちょっとだけかいつまむだけになりますがご容赦を。
というか、私の概説で内容を知った気になるのは、
あまりにももったいない。
是非、買って読んで下さい。

マジで。

「序章」で、「指輪物語」の作者、J・R・R・トールキンの、
「ニグルの木の葉」という短編小説の話しが出てきますが、
その箇所を読んだとき、私は書斎で号泣しました。

私たちは誰しも、
自分の職業を通して神の栄光を現したい、
そう願います。
皆が理想を持っています。
自分の仕事人生を通してこんなことが成し遂げられたらいいな、と。

しかし、私たちのうち、
いったいどれぐらいの人が、
その理想を本当に達成できるのでしょう?
そんな人は「一握り、いやひとつまみの成功者」だけで、
私たちの多くは「本当はしたかったこと」の、
ほんの一部を達成しただけで、
この世を去らなければならないのではないでしょうか?

私もそのように感じる一人です。

そして、トールキンもその一人でした。

トールキンの『指輪物語』は、
あまりにも壮大な構想だったため、
その「舞台設定の下準備」をするだけで、
トールキンは10年を要しました。

彼は思いました。
「これは、生きている間には完成しないぞ」と。
彼は心折れかけていたのです。
結果から言えば親友のC・S・ルイスの激励のおかげで、
彼は書き上げることが出来たのですが、
どん底期には、彼は本当に意気消沈し、
「達成できなかった夢」に心砕かれ、
失意の沼に沈みました。

今で言うと、
「バガボンド休載中」の、
井上雄彦のような時期が、
トールキンにはあったのです。

その休載期間中に書いた短編が、
「ニグルの木の葉」でした(私は後に全集でこれを読みました)。

この話は、
「大きな木と、その向こうに広がる壮大な世界」
を、巨大なキャンパスに描こうとして、
友人たちに借金をしまくった挙げ句、
完璧主義が昂じて、「葉っぱ二枚」しか完成出来ずに死んだ、
一人の画家が登場します。

この画家はもちろん、
トールキン本人のことです。
そして「完成しなかった絵」とは、
『指輪物語』のことです。

画家が天国に行くと、
神はある場所に画家を連れて行きます。

、、、


、、、そこは、
なんと、画家が描こうとしていた世界、
そのものだったのです。

「この世(此岸)」において、
その絵は未完成でした。
しかし、「あの世(彼岸)」においては、
彼の絵が描こうとしていた世界は実在していたのです。

彼が葉っぱ二枚を描いたとき、
「この世」は、「あの世に実在する完全な世界」の片鱗を、
この世に見せることに成功していたのだ、
と画家は気づくのです。

ここで私は号泣しました。

そうです。

私たちがベストを尽くしても、
「天国の片鱗」しか、
この世にあらわすことが出来ないかもしれない。
むしろそういうことのほうが多いだろう。
でも、それで良いんだ。
大切なのは「向こう側」にはちゃんとその作品は完成していて、
私たちは人生の限り、それをちょっとでも、
この世に具体化させようとすることなのだ、
という「トールキンの自分へのエール」が、
もろに私のハートを直撃したわけです。

世の中にはいろんな仕事があります。

大工として家を作る人、
弁護士としてこの世に正義をもたらそうとする人、
教師として子どもを教える人、
介護職として高齢者のケアをする人、
医者として誰かを癒やす人、
牧師として神の御心を人々に語る人、
サラリーマンとして企業で働く人、
公務員として法律の施行に従事する人、
自営業者として商品を売る人、

、、、

私のように、
人から「何をしてるか分からない」と言われながら、
「ジャンルとしてはこの世に存在しない仕事」を、
神にうながされ、創り出しながら働く人。

それが「完成するかどうか」は、
神が決めることです。
私だって「明日死ぬかもしれない」のです。
それは自分では決められません。

でも、大切なのは、
「完成したらどうなるか」見えていることです。
画家のニグルが、「向こう側に遙かなる世界」を見たように。

引用します。

→P38〜39 
〈では、あなたはどうでしょう。
若い頃に、あなたが都市計画の仕事に就いたとしましょう。
なぜこの仕事を選んだのでしょう。
あなたは都市が大好きで、
真の都市とはこうあるべきだというビジョンを持っていたからです。
しかしあなたはおそらくがっかりするでしょう。
人生を賭けて仕事をしても、あなたは一枚の木の葉、
あるいは一本の枝程度の仕事すら出来ないからです。

しかし、新しいエルサレム、天なる都市は実在します。
そしてその都市は花婿のために着飾った花嫁のように、
この地上に舞い降りてくるのです(黙示録21〜22章)

あるいは、弁護士だったとしたらどうでしょう。
正義に対するビジョン、
社会は構成と平和によって統治されるというビジョンを持つあなたは、
法曹界に進みます。
それから十年、重大な案件に取り組もうと努力しても、
人生の仕事のほとんどがつまらないものであると気づいたあなたは、
深く幻滅することでしょう。
人生の中で一度や二度は、
結局は「一枚の葉っぱを出しただけだ」と感じたことがあるにちがいません。

どんな仕事に就いたとしても、
「木は実在する」ことを知らなければなりません。
公正と平和の町、光輝と美の世界、物語、秩序、癒し・・・。
仕事に何を求めようとも、木はそこにあるのです。
そこには神がおられ、
神がもたらそうとしとられる回復した未来の世界があり、
あなたの仕事は、その世界の存在を
(少なくともその一部を)他の人々に知らしめるのです。

最高に頑張ったとしても、
あなたはその世界のほんの一部を見せることしか出来ないでしょう。
しかし、美・平和・正義・慰め・コミュニティーなど、
あなたが探し求める一本の木は必ず生まれるでしょう。
このことを知っていれば、
人生で一枚か二枚の木の葉しか得られなかったとしても、
あなたはがっかりすることはありません。

そして充足感と喜びをもって仕事に臨めます。
成功してのぼせ上がることも、
失敗して挫折することもないのです。〉


、、、これは序章に過ぎません。
この本の本編は、「信仰者が働くこと」に関する、
豊穣な教えに満ちています。

中でも私が膝を叩き、
「そうだ!そうなんだ!」
とうなった箇所を一箇所だけご紹介します。
これは私が「よにでしセミナー」を開講しようと思った、
動機とも直接つながっています。


→P101〜102 
〈駐車利用券を発行することであれ、
ソフトウェアを開発することであれ、
本を執筆することであれ、
ただ単純に自分の仕事をすると言うこと以上に、
自分の隣人を愛する良い方法はないかもしれません。
しかし熟練の素晴らしい仕事だけが、隣人を愛することになるのです。

仕事を通じて他者を愛する主な方法に、
「適性を用いて仕えること」があります。
神があなたの仕事に、
社会全体に奉仕するという目的を与えておられるなら、
神に仕えるいちばんの方法は、
あなたの仕事でベストを尽くすことです。

ドロシー・セイヤーズは書いています。
「知的な大工に対する教会のアプローチは、
酒を過ごすなとか、暇な時間を出来るだけきちんと過ごすべきだとか、
日曜日にはなるべく教会に来るようにと言った勧めに限られています。
教会が彼に何よりも先に告げるべきなのは、
よいテーブルをつくれということでしょう。」


、、、教会が働く人に勧めるべきは、
「祈祷会に参加しましょう」よりも先に、
「良い仕事をしましょう」であるべきです!!

「良い仕事をする」ことによって、
イエスがその人の手となって、
社会に奉仕されるのですから。


永久保存版・陣内が読んだ本ベスト10(前半) 2018年版

2019.04.23 Tuesday

+++vol.070 2018年12月18日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 2018年版・陣内が今年読んだ本ベスト10(前編)
お待たせしました、年末特別企画です。
普段私は読んだ本に点数をつけたりランキングしません。
ランキングすることで切り捨てられる大切なものがあるからです。
なので、この企画は「年に一度だけ」の特別企画です。
前編は10位〜6位まで、
後編は5位〜1位までのカウントダウン形式で、
ご紹介していきます。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


●第10位 AI VS 教科書が読めない子どもたち

読了した日:2018年5月2日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:新井紀子
出版年:2018年
出版社:東洋経済新報社

リンク:
http://amzn.asia/cbeiDq8

▼▼▼コメント:

こちらは現在、
「本のカフェ・ラテ」にて解説中(後編は年明けの予定)の、
「今年面白かった本」です。

いろんなところで引用・解説・紹介されているので、
この本について聞いたことない、という人はあまりいないのでは?

AI(人工知能)は、第四次産業革命を起こす誘因となる、
とも言われている「破壊的イノベーション」なので、
それが社会の有様をどう変えてしまうのか、
戦々恐々としている人も多いため、
その不安に付けいるようにして、
有象無象の言説が飛び交います。

今後も飛び交い続けることでしょう。

大きな変化が起きるとき、
「変化に乗り遅れるな!」
と煽る意見と、
「変化など起きない」
とうそぶく意見の両極が注目を集めがちですが、
本当に有用なのは中庸な意見です。

人工知能の研究者でもあり、
数学というバックボーンをもつ新井さんの意見は、
まさに中庸なもので、
これからの時代を生き残るために有用なヒントに満ちています。

頭に血が上った人々が言うように、
「AIによって今ある仕事の8割はなくなる!!
 人間の仕事はAIにより駆逐される!!
 変化に乗り遅れるな!!
 (具体的方策なし)」
ということは起きません。

しかし、
「人工知能などコンピュータの延長でしかない。
 変化は起きない。
 粛々と今の仕事を今までのように続けて行けば良い」
というほどのんびりもしていられません。

控えめに言っても、
人工知能の性能がある分水嶺を超えたとき、
「労働の在り方」は様変わりするでしょう。

現在私たちが目にしている、
案外多くの仕事が、
「汽車で石炭をくべる人」とか、
「話したことをワープロで筆記するタイプライター」とか、
「駅で切符を切る駅員」とか、
「電話交換手」などのように、
過去のものになる可能性があります。

「昔、電話交換手っていう仕事があったのよ」
とおばあちゃんが孫に話して聞かせるごとく、
未来において私たちがおじいちゃん、
おばあちゃんになったとき、
「昔、コンビニ店員っていう仕事があってね、、、」
という話しをしているかもしれない、ということです。

私がこの本を含む、
労働の未来予測に関する良書で知った最も大切なことは、
大きな変化が起きる時代において、
「今の若者が未来にする仕事にはどんなものがあるか、
 まだ私たちはその名前すら聞いたことがない」
ということです。

「未来においてこの仕事が安定するだろうから、
 この技術を磨いとけ!」
という思考法自体が、
現在という「過ぎ去りつつある時代」の枠組みでしか、
物事を考えられていないことの証左なのです。

だって、20年前の誰が、
「YouTuber」という仕事を予測出来たでしょうか?
あるいは「プロゲーマー」という仕事を?
「自宅をホテルにする」という業態を?

では私たちは途方にくれ、
「出たとこ勝負」で対応するしかないのか?

そうではない、というのがこの本を読むと分かります。

「まだ聞いたこともない職業」が何かを予測するのは不能ですが、
「まだ見ぬ職業に必要な資質」を予測することは出来ます。
それは「AIには代替不能な人間の能力」です。

それは何か?

タイトルにあるとおりです。
それは端的に「教科書が読める」ということです。
「読む力」を磨くことです。

佐藤優さんは、
「書く力、話す力、聞く力」が、
「読む力」を上回ることはない、
と言っています。

文章を読みその意味を把握する能力、
これを身につけることが、
日本という国家が生き延びるために必須の力だ、
というのが新井さんの主張です。

「じゃあ、数学は必要ない?」

違います。

「数学は論理」です。
そして「言葉も論理」です。

数学は「読む力」の基礎を形成します。
新井さんはそもそも数学者ですから。

この続きは、
「本のカフェ・ラテ」の後編で。
お楽しみに。



●第9位 キリスト教の精髄

読了した日:2018年6月14日
読んだ方法:Amazonで書籍購入

著者:C.S.ルイス
出版年:1977年
出版社:新教出版社

リンク:
http://amzn.asia/c1yyvHG

▼▼▼コメント:

これはねぇ。
不朽の古典的名作ですが、
今まで読んだことなかったんですよね。

2018年の夏休みに読みました。

フリーランスなので毎年2週間ほど、
夏休みを取ってます。
これをやらないと「持たない」ことが分かったので。
世間の夏休みとは、わざとちょっと外して。
そうするといろいろと安価になりますから。
「逃避先」は様々なのですが、
たいていは人がほとんどいないような場所で、
たいていは安いウィークリーマンションに泊まります。
そしてビール片手に、朝から晩まで、
「この一年読みたかったけど読めなかった本」を読む、
というのが私の夏休みスタイルです。
気が向いたらレンタカーで近くに出かけ、
家族でピクニックをします。

なんか、こう書いていると、
欧州の人の夏休みみたいですが、
そんなに優雅なものではありません。
お金があんまりないですから笑。
ほとんど自炊しますし。

、、、で、
読んだ一連の本の中の一冊です。

結果、どうだったか?

「なんで今まで読まなかったんだ!!」
と後悔しました。

もっと早く読んどきゃ良かった。

マジで。

素晴らしい、の一言に尽きますね。
「現代のC.S.ルイス」と言われている、
ティモシー・ケラーという牧師がいます。
21世紀を代表するキリスト教知識人ですね。

彼の本には様々な言葉が引用されますが、
3回に2回がC.S.ルイスの引用で、
ルイスの引用のうち3回に2回が、
「キリスト教の精髄」の引用です。

今年はある本を読んだことで、
ティモシー・ケラーにドはまりしまして、
日本語で読めるケラーの本はほとんどすべて読んだ私が言うのだから、
間違いありません。

ケラー師は自分でも言ってます。
「信徒に言われるんだ。
 先生はメッセージの準備が足りないと、
 ルイスの引用が多くなるから分かる。
 私は意識しないとルイスの頭で考えてしまうほど、
 ルイスの言葉が自分の血肉となってるんだ」と。

、、、ケラー師の言う意味も分かります。
それほどルイスの言葉は名言が多い。

「キリスト教の精髄」はその中でも、
最も密度の高い書物でした。

よって、ここで概説することは当然不可能です。
いつか「本のカフェ・ラテ」でやらなきゃですね。

ひとつだけ「ハイライト」箇所を引用します。
「行い(善行)か信仰か」問題というのがあります。
「ヤコブ書」か「ローマ書」か問題、
と言い換えても良い。

ルイスは明快にこう答えます。

→P229〜230 
〈クリスチャンたちは、
クリスチャンを天国に連れて行くのは善行か、
それともキリストへの信仰か、ということでたびたび議論してきた。
わたしはこういうむずかしい問題について語る資格は全くないが、
あえて言わせていただけば、その問題は、
ハサミの二枚の刃のうちどっちの方が大切かと問うようなものだ、
という気がする。

真剣な道徳的努力があってこそ、
初めてわれわれは「タオルを投げる」ところまで行き着くのであり、
キリストへの信仰があって初めて、
そこへ行き着いたあとの絶望から救われるのである。
さらにまた、キリストへの信仰から、
善行は必然的に出てくるのである。〉



●第8位 フロー体験 喜びの現象学

読了した日:2018年8月9日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:M.チクセントミハイ
出版年:1996年
出版社:世界思想社

リンク:
http://amzn.asia/cISEtv2

▼▼▼コメント:

これも、「もっと早く読んどきゃ良かった」本の一つですね。
Kindleでダニエル・ピンクの、
『モチベーション3.0』という本を読みました。
これは以前に「読んだ本」コーナーで紹介したはずです。
チクセントミハイの『フロー体験 喜びの現象学』は、
ダニエル・ピンクが論理的下敷きにした、
「定本」です。

あ、ここで私の読書論を少し。

ある程度本を読む習慣がある人に対して、
差し出がましいとは思いつつひとつ助言を。
何か面白い本に出会ったとき、
その「定本」にもあたることを強くオススメします。

人間は「ゼロ」から何かを創造することは出来ませんから、
新しく見えるものでも、
常に何かを参照しているものです。
本でも映画でもマンガでも。

たとえば北野武の『アウトレイジ』は面白いですが、
深作監督の『仁義なき戦い』や、
スコセッシの『グッド・フェローズ』を、
「現代的に再解釈」したものでもあります。

ここで大切なのは、
『アウトレイジ』に感動したあと、
『仁義』も『グッド・フェローズ』も見ることです。
そうすることで理解に奥行きが生まれます。

これを「川を遡る」と、
私は表現したいと思います。
下流で何か面白いものを見つけたら、
上流に遡るのです。

そしてたどり着くのが「定本」と言われる本です。
これを読んでおくと、
その分野に対する理解の基礎が形成され、
「その分野に関する知識」が、
「その分野に関する見識」に変わります。

いつも最新の知識ばかり追い求めて、
古典や定本をあたらない人は、
川の下流でバシャバシャ遊び続けているだけです。
世の中の変化は激しいですから、
やがてその下流は干上がるでしょう。
そういう人って、
たいてい今度は次の下流で遊び始めるのですが笑。

上流に行った人だけが、
「新しい流れ」を作ることが出来るのです。


、、、何の話し?


そう。

チクセントミハイ。

「ゾーンに入る」という言葉は、
スポーツなどの分野で使われ、
もう一般層にまで認知された言葉と考えて良いでしょう。
この言葉の元ネタは、
チクセントミハイの『フロー体験』です。

チクセントミハイは広範囲で綿密な調査の結果、
スポーツ、ビジネス、学問、執筆、技術職など、
あらゆる分野の「一流」と「超一流」を調べます。

すると面白いことが分かった。
「一流」の人のなかには、
「お金のため」にやっている人がいるが、
「超一流」で、お金のためにそれをしている人はいなかったのです。

「超一流」の人は
(超一流ですから多くの場合金銭的報酬も大きいのですが)、
「それをすること自体が喜びの源泉だから」、
その行為をしているのだ、と語ったのです。

たとえばバスケの超一流選手ならば、
「僕は金のためにバスケをしていない。
 バスケをしないことは僕にとって苦痛でしかない。
 バスケをしている瞬間、僕は生きていると感じる。
 お金はその副産物でしかない。」
という風に。

これをチクセントミハイは、
「自己目的的経験」と名づけました。
「それをすること自体が目的であるような行為」のことです。

するといろいろ面白いことが分かってきた。
「自己目的的経験」に「楽なもの」はない、
ということです。
つまり、ビーチで寝そべってカクテルを飲む、
といった経験が自己目的的経験になることはありません。

自己目的的経験はいつも困難を伴います。
その困難を乗り越えるプロセス自体が、
超一流の行為者に快感(喜び)をもたらす、
というのです。

チクセントミハイは彼らにインタビューを重ね、
彼らが「自己目的的経験」をしているときに、
よく使う言葉を見つけました。

それが「Flow(フロー)」でした。
まるで流れているような感覚。
忘我の境地。

この「フロー」がフロー体験となり、
なぜか日本ではフローよりも、
「ゾーン」という変形した表現が流布しましたが、
一般用語として定着しました。

この本もここで内容を説明するには豊穣すぎるので、
一箇所だけ引用します。

→P3 
〈オーストリアの心理学者ビクター・フランクルは
彼の著書『意味の探求』(Man's Search for Meaning)の序文で、
このことを見事に言い表している。
「成功を目指してはならない――
成功はそれを目指し目標にすればするほど、遠ざかる。
幸福と同じく、成功は追求できるものではない。
それは自分個人より重要な何ものかへの
個人の献身の果てに生じた予期しない副産物のように
・・・結果として生じるものだからである。」〉


▼参考リンク:『モチベーション3.0』ダニエル・ピンク
http://amzn.asia/ctTEOsm



●第7位 イマジン

読了した日:2018年6月23日
読んだ方法:Amazonで書籍購入

著者:スティーブ・ターナー
出版年:2005年
出版社:いのちのことば社

リンク:
http://amzn.asia/9tbG4iX

▼▼▼コメント:

この本は昨年の「よにでしセミナー」で出会った、
山田風音君から教えて貰いました。
今年は彼からかなり良書を教えて貰いました。

こういう友を持つということは、
金銭に換算すると、
「月給が5万円上がる」ぐらいの価値があると、
私は思っています。

マジで。

、、、でこの本ですが、
スゴイ本でした。

文字数が足りなくなってきたので、
詳しくは説明しませんが、
「キリスト」という言葉を語ることだけが、
キリスト教を伝えることではない、
という私の考えに確証を与えてくれた本です。

この本は芸術に関する本です。
彼がこの本で言っているのは、
「宗教的な題材を取り扱った映画(小説・絵画・音楽・文章)だけが、
 キリスト教の映画(小説・絵画・音楽・文章)ではない。
 キリスト教的な視点で(キリストという言葉を使わずに)、
 世俗的なことを取り扱った映画(小説・絵画・音楽・文章)こそ、
 この世の腐敗を食い止める本当の『地の塩』としての芸術なのでは?」
ということです。

「イエスをあがめます」という歌詞をぶち込むことだけが、
キリスト教音楽の作詞方法ではありません。
たとえば失恋の悲しみを、
キリスト教的な慰めと希望を織り交ぜながら歌うなら、
それは「キリスト的な音楽」です。
「宗教的な絵」だけがキリスト教絵画ではありません。
たとえば夜の東京の街並みを、
愛と赦しという視点から描くならば、
それはキリスト的な絵画になります。

「オンラインサロン」を開催したときは、
参加者に読書ノートをシェアしようと思ってます。

、、、あと、
たぶんこの著者、
私の「知り合いの知り合い」です。
スイスに「ラブリ共同体」という、
学びの場があります。

日本で言うと何だろう?
「松下村塾」とか、
武者小路実篤の「新しい村」とか、
そんな感じの学習共同体なのですが、
60年代アメリカの「ジーザスムーブメント」の時代に、
多くの若者がそこを訪れ、
フランシス・シェーファーという、
ラブリ共同体の主催者で哲学者の思想を受け取り、
世界各地に散っていって様々な働きを展開しました。

私のメンターのボブ・モフィット師と、
ダロー・ミラー師はその時代、
ラブリで出会っています。

年代から考えると、
著者のスティーブ・ターナーも、
同じ時期にラブリにいたはずなんですよね。

読みながら、
「なんかボブやダローのメッセージに似てるなぁ」
と思ったら「さもありなん」でした。

「ラブリ」って凄いなぁ、
と改めて思った次第です。



●第6位 中動態の世界 意志と責任の考古学

読了した日:2018年4月9日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:國分功一郎(1974年生まれ 高崎経済大学准教授)
出版年:2017年
出版社:医学書院

リンク:
http://amzn.asia/1bx4MGT

▼▼▼コメント:

この本は2017年に出版された本の中で、
最も重要な一冊です。

小林秀雄賞を受賞していたり、
様々に引用もされてますので、
耳にしたことのある方も多いのでは?


→P34 
〈これはフランスの言語学者、
エミール・ヴァンヴェニストが指摘していることが、
ひとたび能動態と受動態を対立する言語に慣れ親しんでしまうと、
この区別は必須のように思われてくる。
日本語の話者であっても事情は変わらない。
この区別を知ってしまうと、
行為は能動か受動のいずれかであると思わずにはいられない。
それ以外は思いつくことすら難しくなってしまう。

しかし、同じくヴァンヴェニストが指摘しているように、
実は多くの言語が能動態と受動態という区別を知らない。
それはいかなる言語にも見出される普遍的な区別ではないのだ。
それどころか、この区別を根底に置いているように思われる
インド=ヨーロッパ語族の諸言語においても、
この区別は少しも本質的なものではない。
その歴史的発展において、
かなり後世になってから出現した新しい文法規則であることが分かっている。

バンヴェニストは更に興味深い事実を伝えている。
能動態と受動態の区別が新しいものであるとはどういうことかというと、
かつて、能動態でも受動態でもない
「中動態 middle voice」なる態が存在していて、
これが能動態と対立していたというのである。
すなわち、もともと存在していたのは、
能動態と受動態の区別ではなくて、
能動態と中動態の区別だった。〉


→P120
〈おそらく、いまに至るまでわれわれを支配している思考、
ギリシアに始まった西洋の哲学によって
ある種の仕方で規定されてきたこの思考は、
中動態の抑圧のもとに成立している。
デリタはこの点について、無根拠な推論を書き付けているだけだが、
これは歴史的、哲学的に研究されねばならない。
そしてそれを研究する際、
バンヴェニストの残した業績が持つ意義は計り知れないのだ。〉


、、、上記二箇所の引用で、
「中動態」という意味がなんとなく分かっていただけたでしょうか。
「受動態」でも「能動態」でもなく、
「中動態」というものがかつてあった
(今も様々な形で残っている)というのが、
この本の語りたいことです。

私は北海道に6年間住んでいましたので、
「北海道弁」も理解できます。
「岡山弁」「三河弁」「北海道弁」「標準語」を、
私はマスターしている、
「方言クワドリンガル(四つの言語の使い手)」なのです。
転勤族の数少ない強みですね。

、、、で、その北海道弁のなかに、
「鍵がかからさる(鍵がかかった状態になっている)」
「米が炊かさる(米が炊かれた状態になっている)」
「ボタンが押ささる(ボタンが押された状態になってしまう)」
といった言い回しがありますが、
これは「中動態」そのものです。

「何かが●●された状態になる」
ということを言っているのですが、
そこに「行為者」は前景化せず、
半透明にされているからです。

米が自分で水浴びして、
炊飯器にダイブして、
ボタンを押して、
「自ら炊かさる」わけはないのです。

誰かが炊いたはずなのです。

しかし、「誰が炊いたのか」は、
ここでは前景化しない。
行為者の自由意志や責任は言及されません。
これが「能動態」でも「受動態」でもない、
「中動態」の具体例です。

それと私たちの生活と、
何の関係があるのか?

めちゃくちゃあります。

一つ言っておかなければならないのは、
この本、かなり難解です。
出てくる言葉が難解というよりも、
ここで取り扱おうとしている内容が、
私たちがそこで生まれ生活する「近代の世界」の、
最も根底にある前提を脱構築するものだからです。

私たちの社会は、
「自由意志」とか「責任」とか「行為主体」
といったものを大前提に設計されています。
民法も刑法も商取引も契約も、「キリスト教信仰」ですら、
「自由意志」「行為主体」という大前提のもとに構築されています。

しかしこの本では、
そもそも「能動態」という、
「行為を行為者に帰属させる文法」が、
人類の長い言語史を見たとき、
わりと最近の「発明品」なのだ、
ということを綿密に調べていくのです。

つまり、古代世界で人間は、
「能動と受動」という世界観で生きていなかったのではないか?
ということです。
「中動と受動」だけがあった。

そのような世界では、
「私があなたに●●した」
「あなたは私に●●された」
という受動・能動関係はそもそも構築不能です。

ただ、「こうなった」という事実だけがある。
人間の自由意志はそのなかでは相対化され、
そもそも前景化しません。

「能動・受動」という言語体系をもとに築かれた、
現代の思想・哲学、ひいては社会システム全体が、
実は近代の人間の「生きづらさ」を引き起こしているのではないか?

というのが著者の仮説です。

この本は不思議な本で、
冒頭に、アルコールや薬物などの依存症患者の「語り」が、
何の脈略もなく掲載されており、
その内容について本編で触れられることはありません。

しかしこの本を読み進めていくと、
冒頭の語りのなかに、
「能動・受動という世界観による生きづらさ」
がモロに現れていることに気づくのです。

依存症患者というのは、
アルコールやセックスや自傷行為や薬物、
「それ自体」の犠牲者ではありません。
むしろ「現代社会の生きづらさ」が、
彼らをして依存症の状態に留まらしめている(使役形)、
というのが本当のところです。

なので「禁酒法」を作っても、
ドラッグを厳しく取り締まっても、
依存症はなくなりません。

大切なのは、現代社会の「生きづらさ」
の正体を解きほぐし解明していくことです。
その中に彼らを(ひいては社会全体を)救済する、
アイディアのヒントが埋まっているかもしれない、
という著者の視点に私も同意し、
それを試みている本作に敬意を抱きます。

2017年版・陣内が今年読んだ本ランキング【特別編】

2018.06.20 Wednesday

+++vol.045 2018年1月2日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■3 2017年版・陣内が今年読んだ本ランキング(特別編)
昨年末に、「読んだ本ランキング」で、
昨年私が読んだ約300冊の書籍の「ベスト10」を発表しました。
ランキング化することの弊害は、
そこからはあふれる魅力あるものが排除されることです。
なのでランキングは年に一回しかしません。
この「特別編」ではその、
「あふれたけれどどうしても紹介したい、
魅力あふれる書籍」をご紹介します。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼参照:2017年版陣内が今年読んだ本ベスト10

第10位:『古典経済は役に立つ』
第9位:『他者の倫理学』
第8位:『キリスト教とローマ帝国 小さなメシア運動が帝国に広がった理由』
第7位:『ゲンロン0 観光客の哲学』
第6位:『素数の音楽』
第5位:『希望の神学』
第4位:『スティーブ・ジョブズ1・2』
第3位:『サピエンス全史 上・下』
第2位:『神の宣教 第1巻〜第3巻』
第1位:『リンカーン うつ病を糧に偉大さを鍛え上げた大統領』


▲▼▼再発見賞:『かもめのジョナサン 完成版』▼▼▼

著者:リチャード・バック
出版年:2014年(英語初版1970年)
出版社:新潮文庫

リンク:
http://amzn.asia/9OLaxz8

解説:

「かもめのジョナサン」は有名な作品です。
私が初めてこの作品について聞いたのは、
95年のオウム真理教の地下鉄サリン事件のとき、
連日テレビに出演していた教団幹部の上祐史浩氏が、
たしか入信のきっかけとして、「かもめのジョナサン」を読んだこと、
と話していたときです。
なんとなく、「かもめが限界突破を目指す話」
という筋書きは知っていましたがはじめて手にとって読みました。

これが非常に面白かった。
この本、じつは2014年に40年越しに、
「続編(第四章)」が書かれたのです。
それがこの「完全版」です。

1章から3章は、「高みをめざすカモメ」の話しです。
ドラゴンボールの修行のような話しでもあるし、
鈴木大拙の語る「禅」についての話しのようでもあります。
つまり、求道者がいかにして共同体から破門され、
最後にグルとしてあがめられるようになったのか、
というストーリーです。
最後はジョナサンがフレッチャーという弟子を得るところで、
さわやかに終わる。
ちょっと映画「ベストキッド」みたいな感じです。

きっとオウム真理教の上祐史浩は、
自分にフレッチャーをかさね、
麻原にジョナサンを重ねていたと思われます。

そして「上祐が読まなかった第四章」は、
グルが伝説になったあとの「教条主義化」を風刺する話です。
実はこの部分がいちばん面白い。
あり得ない仮定ですが、もしオウムに入信する前の上祐が、
第四章を読んでいたらどうなっていただろうか、、と考えます。

歴史は変わっていたかもしれません。

これがあまりに面白かったので、
私は図書館で借りて読んだ後に、書籍をAmazonで買いました。
「教条主義とは何か」を知るための教科書としても読める本です。
あー、なるほど、こうやって教条主義は作られていくのだ、と。
第4章から引用します。

→P148〜149 
〈しばらくは、真に飛ぶことを求めるカモメたちの黄金時代だった。
大勢のカモメが、いまや神聖な鳥と見なされる
ジョナサンと直接に接した弟子に近づこうと、フレッチャーの元に集まった。
フレッチャーはジョナサンはわれわれと変わらないカモメだった、
われわれが学べることを同じように学んだだけだと話したが、
いくら言っても無駄だった。
彼らは終始フレッチャーを追いかけ、ジョナサンがいったとおりの言葉、
そのままの仕草について聞き、あらゆる些細なことまで知りたがった。
彼らがつまらぬ知識を求めれば求めるほど、
フレッチャーは落ち浮かない気持ちになった。
ひとたび、メッセージを学ぶ事に興味を持つと、
彼らは厄介な努力を、つまり訓練、高速飛行、自由、
空で輝くことなどを怠るようになっていった。
そして、ジョナサンの伝説のほうに
ややもすれば狂気じみた目を向けはじめた。
アイドルのファンクラブのように。

「フレッチャー先生」彼らはたずねた。
「素晴らしきジョナサン様は
『われわれはまさしく〈偉大なカモメ〉の思想の体現者である』
とおっしゃったのでしょうか。それとも、
『われわれはまぎれもなく〈偉大なカモメ〉の思想の体現者』と?
どちらでしょう」〉

、、、ジョナサンをイエス、
フレッチャーをパウロや12弟子、
そしてフレッチャーの周りに集まったかもめたちを、
現代のキリスト教神学者、と解釈することもできます。
私たちが深刻な顔をして「これは神学的に重要な問題だ」と、
議論し合っていることのほとんどは、
イエスご自身からしたら「どっちでもいいよ」という問題かもしれません。
ジョナサンにとって「まさしく」でも「まぎれもなく」でも、
どっちでも良かったように、、、。

私たちは「師を真似ることを求めるのでなく、
師が求めたものを求める」必要があるのです。



▲▼▼会話でいっぱい引用した賞:『共鳴力』▼▼▼

著者:宮嶋望
出版年:2017年
出版社:地湧社

リンク:
http://amzn.asia/0A94u7h

解説:

こちらは2017年の後半に読んだ本ですが、
たぶん年間で一番会話で引用した本じゃないかと思います。
北海道に住む友人が、この本を書いた宮嶋望さんがつくった、
障害者たちが働く牧場施設である「共働学舎」を見学し、
この本を貸してくれました。

私が獣医師で、専門は酪農だったのもあり、
宮嶋望さんのこの施設の理念や実践を本で知り、
めちゃくちゃ興味を惹かれました。
早ければ2018年中に、
ここに1週間ぐらい泊まり込んで研修したいと思っているほどです。
いや、マジで。

昨年一年を振り返った時に、
けっこういろんな場面で、会話の中に最も引用したのは、
この宮嶋望さんの共同学者の話でした。
障害者や病気と健常者の話をするときも、
農業の話をするときも、
キリスト教の話をするときも、
社会起業家やソーシャルビジネスの話をするときも、
世代間ギャップの話をするときも、
「北海道で共同学者という牧場をしている、
 宮嶋さんという人がいて、、、」
と私は話し、この本から引用することが何度もありました。
なぜそんなにも引用したか、、、と考えてみますと、
宮嶋さん(とその仲間達)の物語が、
とても包括的で多義的だからだ、というのが私の結論です。
人は帰納的に導き出された「結論や教訓」を聞かされるより、
「物語」として提示されたものから、
後に「演繹される教訓」を滋養として引き出し続けた方が、
結果的に多くを学ぶ、という実例だと思います。

だから「神学理論」より「イエスのたとえ話」の方が、
そして「体系的ビジネス書」より「伝記」の方が、
後々にインパクトは大きいのです。

概要をいちから説明するのも骨が折れるので、
説明にかえて基本情報の部分を引用します。

→P21 
〈新得共働学舎は現在、70名以上の人たちが関わり、暮しています。
最近はやりの言葉でいうソーシャルファーム(社会的企業)
ということになります。

組織としては、「NPO共働学舎」の一員である「新得共働学舎」と
「農事組合法人共働学舎新得農場」とが同居している形になります。
メンバーの大部分は新得共働学舎に所属し、
農業生産活動で収益を上げている農事組合法人に
労務提供をしている形になります。

生産物はチーズと農作物が主力で、
ほかに生乳、肉牛、養豚、養鶏、食肉製品、手芸品、パンなどを生産し、
併設カフェ、売店も営業しています。
それからチーズ作り研修やソーシャルファームに関しての
グリーン・ツーリズムの機会も提供しています。
チーズは、世界的なコンテストで
グラプリになるなど国内外で賞を頂いており、
おいしさが広く知られるようになり全体の売り上げの約七割になります。

メンバーの多くが農場内にあるいくつかの建物に住んでいます。
農場には牛車、豚舎、鶏舎、羊小屋、
馬小屋、搾乳質、チーズ工房、チーズ熟成庫があります。
また農業研修生が泊まる施設、講義やチーズ作りの講習を行う場所もあります。
ブランドを確立して、このところ堅実な運営ができるようになり、
農地や放牧地もずいぶん増えています。。

NPO共働学舎は新得を含め全国4カ所に拠点のある組織です。
私の父・宮嶋眞一郎が1976年からはじめた、
理想の生き方を実現することを目指した
「農業家族、福祉集団、教育社会」です。
一緒に生活しながら働き、互いに面倒を見て、
学び合う共同対(共同生活を送る集団)です。
ハンディのある人と一緒に農業を営みながら生活しています。
食住が保証されます。

とはいえ、その収益だけでは生活資金がまかなえないので、
理想に共感した共働学舎を応援して下さる
会員の皆様から頂く寄付金をベースに活動しています。
そしていまでは、新得共働学舎はチーズの製造販売で収益を上げ
経済的に自立することができるようになったので、
現在は共働学舎東京本部からの
生活費の補填・助けなしで運営されるようになりました。〉



▲▼▼日本にこんな人がいたとは賞:『羽仁もと子 生涯と思想』▼▼▼

著者:斉藤道子
出版年:1988年
出版社:ドメス出版

リンク:
http://amzn.asia/0vsrr2S

解説:

羽仁もと子さんは、大正、昭和を生きた、
「社会変革者(ソーシャルリフォーマー)」であり、
同時代の社会変革者のひとり、賀川豊彦と並んで、
「世界に影響を与えた日本のキリスト者」のひとりです。

羽仁もと子については以前から知っていましたし興味もありましたが、
宮嶋望さんの本を読んで、そのルーツが羽仁もと子の創立した、
「自由学園」にあることを知り興味を持ちました。

新得の「共同学舎」の創始者は宮嶋眞一さんといいます。
宮嶋望さんのお父さんで、自由学園の中心的人物でした。
自由学園の「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」という理念を、
学校という限定された空間ではなく、
もっとダイナミックな形で実現したい、
と眞一さんは願い、1976年に現在のNPO法人共同学舎を創設しました。
息子の望さんはそれをさらに発展させ、
現代という時代における新しい使命を帯びて前進しています。

何事も「ルーツ」が気になるのが私の性分ですので、
、、、では、その宮嶋眞一さんが依拠した、
「自由学園」を創設した羽仁もと子さんという人は、
いったい何を願い、そしてどんな理想と思想を抱いた人だったのか、
という興味がわいてきたのです。

ところが羽仁もと子さん自身が書いたものは、
量が膨大すぎて何から手を付けて良いか分からない。
調べた結果、この伝記がけっこう取っかかりとして優れていそうだったので、
読んでみました。

海外に行くようになって外国人からあまりにも、
日本人だったら、アジアで最も影響力あるキリスト者だった、
「Kagawa(カガーワ)」を知ってるだろう?
と何度も聞かれるので、
初めて賀川豊彦の「死線を越えて」を読んだ時、
私は脳天をたたかれるような衝撃を受けました。
「日本にこんな偉大な信仰者がいたのかぁ!」と。

羽仁もと子の伝記は、「賀川以来の衝撃」でした。
この伝記を読んだことは私の人生の「事件」でした。
羽仁もと子の活動はあまりにも多岐にわたりますが、
世界で知られているのは、
「アジアで初めて女性だけの運動体を組織した人物」
というフェミニストの側面です。
しかし彼女の活動はそんな範疇にはまったく収まりません。
日本人が「家計簿を付ける」という習慣をもつのは彼女のおかげですし、
ときの内閣にも大きな影響を与えました。
また、「自由学園」の卒業生は、
共同学舎の宮嶋さん親子に代表されるように、
その独特な教育により、社会にインパクトを与える人材を、
いまも排出し続けています。

彼女の活動は、「神の国運動」のひとつであり、
私も100年という歳月を経て、
彼女や賀川のしようとしたことの、
「末席を汚させていただいている」というような、
時代を超えた神の働きの連続性を(一方的に)感じているのです。

→P182 
〈もと子は1930年の東京友の会の例会で、
友の会の存在を「神の国の建設のため」と意義づけた。
「友の会は淋しさをなぐさめられたり、
便宜を得たりするためにあるのではない。
協力によりひとりではできないこともできるようになるのは確かだが、
次にはすべての人に都合の良い社会を作ること、
社会を良くするためにと言うことを一人ひとりが考えなければいけない。
神の国の建設のためにと言う重い目的の所に行かなければならない。
友の会はそのための団体である。(1930.4)」〉



▲▼▼メルマガで書いたなぁ賞:『WORK SHIFT』▼▼▼

著者:リンダ・グラットン
出版年:2012年
出版社:プレジデント社

リンク:
http://amzn.asia/aD2OVWO

解説:

これは、タイトルのとおりですね。
メルマガの「本のエスプレッソショット」というコーナーにおいて、
初期の段階で解説しました。

あれは確か戸田市で午後から用事があったとき、
戸田公園駅のスタバの席に2時間ほど居座り、
一気に書き上げました。

けっこう、大変でした笑。
こちらがその記事です。

▼参考リンク:メルマガアーカイブ「WORK SHIFT」リンダ・グラットン
http://blog.karashi.net/?eid=154

書くのは大変でしたが書いて良かったと思います。
「アウトプットは最大のインプットである」というのは、
私の持論ですが、最も確実な記憶の定着のさせかたは、
「誰かにそれについて説明したり教えたりすること」です。
私はWORK SHIFTという本を脳内にいつも持ち歩いているように、
この本の内容や構成をかなり詳細に思い出し再現できます。
それは私が脳に汗して「アウトプット」したからです。

、、、二度手間になりますので内容の説明はここではしません笑。
どうか過去の記事を読んでください。
そうでないと、あの努力が浮かばれませんから笑。

プロローグのグラットン氏の「子ども達への手紙」に、
この本のエッセンスはすべて集約されていますので、
それをご紹介します。

→P377 
〈みなさんが充実した職業生活を送れるかどうかは、
次の三つの課題に対処する能力によって決まります。
第一は、職業人生を通じて、
自分が興味を抱ける分野で高度な専門知識と技能を修得し続けること。
第二は、友人関係や人脈などの形で人間関係資本をはぐくむこと。
とくに強い信頼と深い友情で結ばれた
少数の友人との関係をたいせつにしながら、
自分とは違うタイプの大勢の人たちとつながりあうことが大切になります。
第三は、所得と消費を中核とする働き方を卒業し、
創造的に何かを生みだし、質の高い経験を
たいせつにする働き方に転換することです。〉



▲▼▼ラジオにハマったで賞:『芸人式新聞の読み方』▼▼▼

著者:プチ鹿島
出版年:2017年
出版社:幻冬舎

リンク:
http://amzn.asia/g1cJVOQ

解説:

マスメディアもネットも含め、
今年私が最もハマった「コンテンツ」のひとつは、
こちらのラジオ番組です。

▼参考リンク:「東京ポッド許可局」
https://www.tbsradio.jp/tokyopod/

おじさん芸人が3人でずっと話しているだけなのですが、
これが「永遠に聞いていられる」。

あと、この番組自体が、
私が「読むラジオ」でしようとしていることにとても近いのです。
10年ほど前から、当時30代だった彼ら3人の芸人たちは、
ルノアールという喫茶店で時々集まっては、
世の中のいろんな出来事に関して、
あーでもない、こーでもない、
と無責任に語り合っていました。
その会話が、「なんかおもしろくない?」
と彼らは思った。

これを聞いているのが話してる3人だけじゃもったいない、
ということで、彼らはそこにICレコーダーを持ち込み、
ポッドキャストという形で配信し始めた。
次に彼らはスポンサーを募り始めた。
この番組配信を続けていくために、個人や企業で、
一口1万円からのスポンサーになってくれませんか?と。
まだ「クラウドファンディング」という言葉もなかった頃です。
だんだんスポンサーや賛同者が増えてきて口コミでこの番組は広がり、
ついにキー局のTBSラジオがこのコンテンツに目を付けた。

、、、今、当たり前のように毎週TBSで放送されているこの番組には、
こんな「ストーリー」があります。

私のこのメルマガ「読むラジオ」も、
彼らがやっていることに、かなり狙いとしては近いです。
ただ、キー局の目にとまるとか、多くの人の目に触れるようになる、
とか、そういうのって、「運」が半分ですので、
鷹揚に構えていようと思っています。
こういう部分でガツガツしても、消耗するだけですので。
私が注力すべきは「面白いコンテンツを作り続ける」ことだけです。
こちらは消耗しません。
やってて楽しいですから。

、、、このラジオ番組を主催している3名の芸人は、
プチ鹿島、サンキュータツオ、マキタスポーツの三人です。
プチ鹿島さんは書籍タイトルからも分かるように、
「時事芸人」で、新聞の読み比べだとか、
プロレス評などが武器です。

サンキュータツオさんは大学の講師でもあり、
様々な「論文」を収集したり、
あと、「国語辞書」をエンタメとして楽しむ、
という提案をしています。

マキタスポーツさんはミュージシャンでもあり、
俳優でもある。
この人のJ-POP論は秀逸です。

そんなこんなで、私は東京ポッド許可局の3名の書いた書籍を、
2017年になんと6冊も読んでいます。
3名×2冊ずつ=6冊です。

、、、もう、大ファンですね笑。
全部オススメです。

▼参考リンク:「教養としてのプロレス」プチ鹿島
http://amzn.asia/gk7huqN

▼参考リンク:「ヘンな論文」サンキュータツオ
http://amzn.asia/bNCWFoR

▼参考リンク:「芸人の因数分解」サンキュータツオ
http://amzn.asia/5ofijzx

▼参考リンク:「すべてのJ-POPはパクリである」マキタスポーツ
http://amzn.asia/4Dp8w0x

▼参考リンク:「一億総ツッコミ時代」槙田雄司(マキタスポーツ)
http://amzn.asia/g8P1DB4



↓記事に関するご意見・ご感想・ご質問はこちらからお願いします↓

https://www.secure-cloud.jp/sf/1484051839NyovBkYI


このブログでは過去6ヶ月前の記事を紹介しています。
もっとも新しい記事が直接メールボックスに届く
無料メルマガに登録するにはこちらから↓↓


http://karashi.net/carrier/catalyst/jinnai/mailmag.html

永久保存版・2017年に陣内が読んだ本ベスト10(5位〜1位)

2018.06.13 Wednesday

+++vol.044 2017年12月26日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 2017年版・陣内が今年読んだ本ベスト10(後編)
お待たせしました、年末特別企画です。
普段私は読んだ本に点数をつけたりランキングしません。
ランキングすることで切り捨てられる大切なものがあるからです。
なので、この企画は「年に一度だけ」の特別企画です。
前編は10位〜6位まで、
後編は5位〜1位までのカウントダウン形式で、
ご紹介していきます。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▲▼▼第5位:『希望の倫理』▼▼▼

著者: ユルゲン・モルトマン
出版年:2016年
出版社: 新教出版社

リンク: http://amzn.asia/2IUBtVO

▼解説:

モルトマンは現在生きている、
世界の神学者の「最大の大御所」のひとりです。
とにかく圧倒されました。
ここに概説することは不可能です。
「教条主義という名の思考停止」や、
「自分たちの教団の立場を守るためだけのモノローグ」や、
「重箱の隅をつつくような神学論争」や、
「ジャーゴン(わかるような分からないような専門用語)」が多用され、
「素人を議論から閉め出すことだけが目的」みたいな神学は、
端的に言ってクソだと思いますが、
こういうのを読むと、
「神学って大事だな」と思います。
「神学って、世界を変えていくな」と。

P226に、
「神の創造は私たちの後ろにではなく、
私たちの前方にあるのである」
という言葉がありますが、
これはモルトマンの神学を凝縮したような言葉です。

モルトマンの神学のすごいところは、
「神学」という専門分野に引きこもるのではなく、
「神学」という自分の武器を用いて、
医療、環境問題、国家間の平和と戦争、社会変革、貧困問題、、、
といった世界の森羅万象について語るというその語り口です。
彼は「神学について」語っているのではなく、
「神学という道具を用いて」森羅万象を語ります。
この二つの違いは大きい。
私は常に後者でありたいと願いますが、
「そのことについて語るムラ」が専門分野とみられる日本では、
後者はあまり「専門家」として認めてもらえません。

いくつか引用します。

→P169〜170 
〈健康とはこの観点から見れば、
「障害の不在ではなく、障害と共に生きる力」である。
ここにおいて健康は状態ではなく、
健康な状態と病気の状態において「人間であろうとする力」である。
この魂の力は、かつてそう言われていたように、
幸福と苦難、喜びと悲しみの能力において現れ、全体としてみれば、
生命を受容し生命を捧げる力において現れる。
神学的に語れば、それは神の大いなる「然り」における生と死であり、
神が現臨する広い空間における生と死の受容である。
(中略)
私たちが語ってきた「人間存在への力」とは、
人間がそこへ向かって生き、そして死ぬことが出来るような、
神の大いなる肯定である。
人間的生命とは受容され、肯定され、愛された生命である。
それゆえに、人はそのような人間的生命それ自体を
有限性の中で受容しその壊れやすさの中で愛することが出来る。
この信仰において、人間は人生の浮き沈みに対する大いなる自由を経験する。
これが『ハイデルベルク信仰問答』が語る
「生きるときと死ぬときにおける唯一の慰め」である。
このことから、死において慰めをもたらさない者は
生にも仕えることはないと結論できる。〉

→P271 
〈貧困の反対は裕福ではなく、共同体である。
共同体において個々人は富める者となる。
つまり信頼できる友に富み、相互の援助に富み、
理念や力に富み、連帯のエネルギーに富むのである。〉

→P382 
〈私たちは、世界を変えるために神を必要とするのではない。
 私たちは、神を味わうために世界を変えるのである。〉




▲▼▼第4位:『スティーブ・ジョブズ(1・2)』▼▼▼

著者:ウォルター・アイザックソン
出版年:2011年
出版社:講談社

リンク: http://amzn.asia/7545Ixc

▼解説:

とにかく面白かったです。
ポテトチップスのごとく、
途中で止めるのが不可能でした。
読み進めているうちにやめららずついつい徹夜してしまう本を、
「徹夜本」といいますがこれもそのような本です。
(本当に徹夜したわけではないですが笑)

ジョブズという素材が面白いのもありますが、
著者のアイザックソンの筆の巧さも大きいですね。
「ジョブズの人生という叙事詩」には、
豊穣な学びが含まれています。
禅・ヒッピー・技術革新・シリコンバレーの隆盛・
経営学・マーケティング・先見性・民族問題・
そしてサイコパス(ジョブズには共感能力が先天的に欠けていた)。

特にマーケティングやイノベーションについて、
10冊のビジネス書を読むより、
この伝記を読んだ方がよほど有益です。

いくつか実例を挙げます。
たとえば今のマーケティングやブランディング、
広告の世界では「物語消費」という言葉がよく使われます。
何か製品を売ろうとするとき、
「大量消費」の90年代ぐらいまでなら、
「この製品はこんなにスペックが高い!」という宣伝で売れました。
しかし、00年代以降、「スペックで差別化する」というのは、
もはや時代遅れになった。
端的に、スペックでは差別化できなくなったわけです。
これには「製品のコモディティ化」が関連していますが、
ここではその説明は省きます。
とにかく今までは「●●はこんなに高性能だ」と宣伝していれば売れたが、
21世紀になってそういう宣伝の仕方ではモノは売れなくなった。
、、、ではどうすれば売れるか?

「商品ではなく物語を売る」というのがひとつの「解」です。
「●●があると、あなたはこんな生活ができます」
という「物語(ストーリー)」を売るのです。
これを「物語消費」と言います。

今のテレビCMを見ると「こればっかり」です。
自動車のCMならば、「こんなに早くて便利」とは言いません。
これに乗って父と息子でキャンプをしてたき火をすると、
それは親子の一生の思い出になる、、と言います。
家のCMも、「こんなにあったかくて防音性がすごくて、、、」
とは宣伝しません。
「この家を買うことであなたが引退した後、
 孫たちがこの家に集まって、、、」
という物語を売るわけです。

この流れに先鞭をつけたのもスティーブ・ジョブズです。
引用します。

→P74 
〈つまり、必要なのは様々な製品の広告ではなく、
ブランドイメージを前面に押し出したキャンペーンである。
焦点を当てるべきは、コンピュータに何が出来るのかではなく、
コンピュータを使ってクリエイティブな人々は何が出来るか、だ。〉

これはほんの一例であり、
そのほかにも、
「Google的なオープンエンド」と、
「アップル的なエンドトゥエンド」の弁証法、
(ハードやソフトを中央でコントロールするか、
 それとも「人類の集合知」にゆだねるかという問題)、
ゲイツとジョブズの伝説的対談、
イノベーションはなぜ「オンライン」では起きず、
散歩中やコーヒーショップや遊びのなかで生まれるか。
(そのためアップルは社屋に莫大な金額を投資した。)
「顧客が何を望むかを知る」マーケティングリサーチよりも、
「顧客は何が欲しいか自分でも分かっていない」と考える、
イノベーティブな商品開発のほうをジョブズは選んだが、
それはいったいどんなものなのか、、、。
などなど、ビジネスに生かせる知恵が満載です。

しかしそれらさえも、この物語の枝葉末節であって、
何よりも面白いのはスティーブ・ジョブズという、
あきらかに人格に欠陥を抱えた人間が、
(医者によっては彼を自己愛性人格障害=サイコパスと診断します)
しかしその欠陥の「もうひとつの側面」を遺憾なく発揮し、
「歴史にへこみを与える」ほどのイノベーションを起こさせたか、
というダイナミズムにあります。

この伝記には出版されなかった「終章」があり、
そちらは講談社のホームページから無料ダウンロードできます。
私はこれをプリントアウトして読みましたが、
これも感慨深いものがありました。
アップルには伝説的なテレビCMがたくさんありますが、
1997年の「Think Different」のCMもそのひとつです。
ジョブズの葬儀では、ジョブズ自身がナレーションをつとめた、
お蔵入りになった「未公開版」のそのCM音源が再生されたそうです。
ジョブズは恥ずかしそうにスタジオでこう吹き込んでいました。

「彼らをおかしいと評する人もいるけれど、
我々はそこに天才の姿を見る。
世界を変えられると信じるほどおかしな人こそ、
本当に世界を変える人だから。」

、、、その葬儀の光景を想像すると、
サブイボ(鳥肌)が立ちました。

▼参考リンク:「スティーブ・ジョブズ」「終章」無料ダウンロード版
http://book-sp.kodansha.co.jp/topics/jobs/



▲▼▼第3位:『サピエンス全史(上・下)』▼▼▼

著者:ユヴァル・ノア・ハラリ
出版年:2016年
出版社: 河出書房新社

リンク: http://amzn.asia/d7KAUQx

▼解説:

こちらは、知り合いの牧師先生に教えてもらいました。
Kindleで電子書籍を購入して、
春にフィリピンに渡航した際、
行き帰りの飛行機+入国審査の待ち時間に、
一気に読みました。
とても面白かったです。

この10年ぐらいの趨勢として、
「歴史を大づかみに概説する」という試みが、
立て続けになされています。
ジャレド・ダイヤモンドの「銃・病原菌・鉄」や、
スティーブン・ピンカーの「暴力の人類史」などは、
そのような書籍に数えられます。

これは「歴史観」が変わってきていることの表れです。
ダイヤモンド氏は「銃・病原菌・鉄」で、
「近代の歴史観というのは、
 『英雄が歴史を作った』という歴史観だった。
 しかし、近年になってますます、
 『歴史という物語が英雄を作るのだ』という、
 『英雄史観から物語史観へのシフト』が起きている」
という意味のことを言っています。

「歴史を物語る」ためには、
「切り口」が必要です。
人体をCTスキャンするように、
「断面」が必要なのです。
『サピエンス全史』でハラリ氏が採用した切り口は、
「人類の歴史は認知の歴史だ」というものです。
つまり「認知革命」がこれまで何度か起きてきた。
人類史はそのたびに大きな変化を遂げてきた、
という分析です。
引用します。

→位置No.107 
〈歴史の筋道は、三つの重要な革命が決めた。
約七万年前に歴史を始動させた認知革命、
約12,000年前に歴史の流れを加速させた農業革命、
そしてわずか500年前に始まった科学革命だ。
、、、本書ではこれら3つの革命が、
人類をはじめ、この地上の生きとし生けるものに
どのような影響を与えてきたのかという物語を綴っていく。〉

、、この三つの革命の共通項は、
「認知の革命」です。
人が「新しい脳の使い方」を覚えたときに、
歴史は「非線形的に」飛躍的発展を遂げてきたのです。
歴史はバリヤフリーのスロープではなく、
「階段」だというわけです。
その階段の節目にはいつも「認知の革命がある」
というのがハラリの分析です。

、、、で、この「革命に関わる要素」として、
彼は二つの重要なキーワードを挙げています。
一つは「認知的不協和(矛盾)」、
もう一つは「無知の知」です。

→位置No.2987 
〈中世の文化が騎士道とキリスト教の
折り合いをつけられなかったのと丁度同じように、
現代の世界は、自由と平等の折り合いをつけられずにいる。
だが、これは欠陥ではない。
このような矛盾はあらゆる人間文化につきものの、不可欠の要素なのだ。
それどころか、それは文化の原動力であり、
私たちの種の創造性と活力の根源でもある。
対立する二つの音が同時に演奏されたときに
楽曲が嫌でも進展する場合があるのと同じで、
思考や概念や価値観の不協和音が起こると、
私たちは考え、再評価し、批判することを余儀なくされる。
調和ばかりでは、はっとさせられることがない。
緊張や対立、解決不能のジレンマがどの文化にとっても
スパイスの役割を果たすとしたら、どの文化に属する人間も必ず、
矛盾する信念を抱き、相容れない価値観にひき裂かれることになる。
これはどの文化にとっても本質的な特徴なので、
「認知的不協和」という呼び名さえついている。
認知的不協和は人間の心の欠陥と考えられることが多い。
だが、じつは必須の長所なのだ。
矛盾する信念や価値観を持てなかったとしたら、
人類は文化を打ち立てて維持することはおそらく不可能だっただろう。〉

→位置No.816 
〈近代科学は、最も重要な疑問に関して
集団的無知を公に認めるという点で、無類の知識の伝統だ。〉

後者は先週の「オープニングトーク」でも語りました。
科学的思考法とは「無知を積極的に認める」という「メタ知識」です。
また、「認知的不協和を積極的に捉える」というのも「メタ認知」です。
11月以降私は何度も繰り返していますが、
「よにでしセミナー」のキーワード、
「批判的思考」「複眼的視覚」「認知的コンフリクト」は、
人類史を推し進めてきた「メタ認知」とまったく同じものです。
これは偶然ではありません。



▲▼▼第2位:『神の宣教(第1巻〜第3巻)』▼▼▼

著者:クリストファー・J・H・ライト
出版年:2016年
出版社:東京ミッション研究所

リンク:http://amzn.asia/5fNjgy1

▼解説:

2016年にクリストファー・ライト氏は来日しています。
神戸で私は彼の講演を聞きました。
彼はローザンヌ運動の創始者のひとり、
ジョン・ストットの「弟子」にあたる人で、
長らくローザンヌ運動の総裁をつとめていました。
私たちの団体FVIも、ローザンヌ運動の「果実」のようなものなので、
私が彼の「神の宣教」を読むというのは、
まったくもって自然なことなのです。

で、全部で1,000ページを超えるこの著作を、
「概説」することは不能です。
ひとつ言えることがあるとしたら、
ライト氏も、先ほどから私が紹介している、
「物語史観」で「宣教」を捉えているという意味で、
ユヴァル・ノア・ハラリやジャレド・ダイヤモンドがしている、
「歴史をCTスキャンする」という文脈に入るということです。

彼の場合キリスト教の宣教的視点から語りますから、
「歴史 history」とは「His-Story」つまり「神の物語」であり、
その「断面」は「神の働き」です。
タイトルの「神の宣教」をラテン語で「ミッシオ・デイ」といいます。
デイは英語Divine(神的な)の語源で「神の」という意味、
ミッシオはMissionですから、「ミッシオ・デイ」はつまり、
「Mission of God(神の働き)」という意味です。

日本語で「宣教」という言葉を使うと、
宗教的(布教的)意味合いが強まりますが、
Missionというのはもっと広く「働き」という意味ですから、
天地創造、アブラハムの召命、イスラエルの勃興、
バビロン捕囚、イエスの誕生、十字架、復活、
初代教会の誕生、ローマカトリックの誕生と分裂、
プロテスタントの誕生、21世紀の教会、、、(新天新地)
という、神の壮大な物語における「神の働き」を、
彼は「神の宣教 Mission of God」と呼んでいるわけです。

→第1巻P50  
〈要約すると、聖書の宣教的解釈は、
聖書のすべては、神の民による神の世界への関わりを通して
すべての神の被造物のために繰り広げられる神の宣教の物語である、
という前提から始まるのである。〉

、、、著者はケンブリッジ大学で旧約聖書を学んだ「旧約学者」です。
彼の「福音理解」の強調点のひとつは、
彼が「旧約聖書と新約聖書は断絶しているのではない。
旧約聖書に既に『福音』は始まっている」
という新旧訳の有機的関連性です。

→第2巻P135 
〈旧約聖書における神の贖いの、
偉大な歴史的出来事を伝える記事は、
ブースターロケット(打ち上げ用補助ロケット)のようなものではない。
つまり、宇宙船が発射されると切り離されて落下し、
余分なものとして忘れ去られるようなものではない。
むしろ、パウロ自身のたとえを適用するなら、
聖書の物語は樹木のようなものである。
私たちは新約における成就という、
いわば広がっている枝と豊かな実を楽しむことが出来る。
しかし、旧約は幹の年輪のように、
長い過去の歴史の証拠としてそこにあるが、
枝と実の成長を支える構造としても存在しているのだ。
そこには、有機的連帯があり、不連続で破棄される断絶は存在しない。〉

、、、また、「包括的宣教の運動」であるローザンヌ運動の
指導者であることからもわかるように、
彼の福音理解は包括的です。
引用します。

→第2巻P191 
〈宣教を「包括的」なものと修飾する必要はない。
「宣教」と「包括的宣教」を区別する必要もない。
定義によれば宣教は「包括的」なものであり、
ゆえに「包括的宣教」は事実上、宣教に他ならない。
何の社会的関心も持たない宣教のみでは、
真の福音を歪曲(わいきょく)、切断してしまう。
良き知らせのパロディー、茶化したものなら、
現実世界に生きる現実の人々の現実の問題に、何の意義ももたない。
その反対の極を見ると、変革と権利擁護のみに焦点を絞って、
霊的側面が抜け落ちた社会・人権活動がある。
両方とも非聖書的なアプローチである。
双方とも、神の似姿に想像された全人的人間の本来の姿を否定するものである。
私たちは「包括的」なものとして創造されたのだから、
そして堕落は、あらゆる次元において
私たちの全人間性に影響を与えるものなのだから、
贖罪も回復も宣教も、定義上、
「包括的」とならざるを得ないのである。
Jan-Paul Helt "Revisiting the Whole Gospel;
Toward a Biblical Model of Historic Mission in the 21th Century" p157〉

本書の「エピローグ」には、ライト氏が、
この本の執筆を通して、自らが変えられたと述べています。
それは「世界観の変化であった」と彼は言います。
「宣教観が変われば世界観は変わる。」当たり前のことです。
彼の宣教観の根幹は「主語(主体)の変化」です。
それは私が「神の宣教」という大著を読んでライトから受け取った、
最も大切なメッセージでもあるのですが、
大づかみに要約するとこういうことになります。

「『近代的価値観』の影響を強く受けた20世紀の宣教は、
 『福音宣教を私たちが推し進める』というものであり、
 その主語は『私たち』だった。
 しかし今私たちが確信してるのは、
 『神は宣教の業を天地創造以来今も推し進めている。』
 という『神を主語とする宣教』だ。
 私たちはそれに喜びをもって参画するのだ。」
 
→第3巻P192 
〈おそらく、私は以下のように結論づけることになるだろう。
この本を書くことによって、私個人の物の見方は変わった。
なぜなら、この本は実に著者である私にとって発見の旅だったからである。
私は真摯な思いでアンソニー・ビリントン氏の疑問に向き合ったが、
それが私をどこに導いていくのか知らなかった。
聖書全体は首尾一貫した神の宣教の啓示で構成されていることを知り、
これが壮大な物語(*本書の副題は「神の壮大な物語を読み解く」)の
動的な目的を説き明かす鍵であることが分かれば、
私たちのあらゆる世界観が
この展望の強い影響を受けていることに気づくのである。
しばしば引用されていることだが、人類すべての世界観は、
何らかの物語によって形作られるものである。
私たちは、真理だと思う物語、
またはいくつかの物語の中で生を営んでいる。
すなわち、その物語において〔出来事や経験を解釈し〕
「自分の人生を物語る」存在なのだ。
では、『この物語』において生を営むとは何を意味するのだろうか。
ここでまず1つの『物語』に目を留めよう。
それは創造から新創造へと進展していき、
その間にすべてのことが述べられている普遍的な物語である。
その物語は私たちに次の事を語りかけている。
「私たちはどこから来たのか、どうしてここにいるのか、
私たちは誰なのか、なぜ世界にはこんなに問題が渦巻いているのか、
これからどう変わっていくのか(今まではどうだったのか)、
私たちは最終的にどこへ行くのか・・・」と。
そして物語全体は神の現実性と神の宣教について静かに語り出す。
「〔世界を創られた〕この方こそ、この物語の起源であり、
語り手であり、物語の主役であり、
物語の筋立ての計画者であって導き手であり、
〔どんなことにも〕意味づけしてくださるのだ。
その方こそ、究極の完成者であり、
はじめであり中心である」と。
これが神の宣教の物語であり、そして他ではなく、
この神の宣教(mission)なのである。
神の宣教をそのように、あらゆる現実の活力の根源と理解すると、
あらゆる創造、あらゆる歴史、
私たちの前に置かれていることすべてが、
神中心のはっきりした世界観へと劇的な変容を遂げるのである。〉



▲▼▼第1位:『リンカーン うつ病を糧に偉大さを鍛え上げた大統領』▼▼▼

著者:ジョシュア・ウルフ・シェンク
出版年:2013年
出版社:明石書店

リンク:http://amzn.asia/7UIaoKm

▼解説:

悩んだ末に私が「2017年に読んだ本第1位」に選んだのは、
『リンカーン うつ病を偉大さに鍛え上げた大統領』です。
この本は「本のカフェ・ラテ」でも取り上げて、
かなり深く解説を加えていますので、
本当は詳しいことはそちらを読んでください、と言いたいのですが、
簡単にご紹介します。

リンカーンはいまでも人気のある、
「アメリカ史上もっとも尊敬されている大統領のひとり」です。
彼は南北戦争という最も難しい時期に米国の舵取りをし、
「奴隷制度の廃止」という偉業をなしとげました。
リンカーン以前のアメリカ南部では、
白人が牛や馬を使うように黒人を使っていました。
黒人はモノのように売り買いされ、ムチで打たれ、
セックスの道具にされ、病気になれば「新しいモノと取り替え」られ、
端的に、人間として扱われていませんでした。
そしてそれが「当たり前」だと思われていました。

リンカーンの「奴隷撤廃」は、
人類の歴史を大きく前に進めたのです。
リンカーンの死後、彼の親族や彼を英雄視したかった、
宗教保守派の人々は歴史を修正しました。
つまり、「完全無欠のヒーロー」としてリンカーンを偶像化したのです。
じっさいにはリンカーンは生涯にわたりひどいうつ病を患い、
何度も自殺の危機に直面していましたし、
その「物証」も残っていましたが、
それは上記の人々によって「歴史から抹消」されました。

しかし近年「英雄史観への反省」が起こっており、
「等身大のリンカーン」を描こうとする歴史家たちが出てきたのです。
そのような試みの一つが本書です。
不思議なことに、「信仰においても人格においても、
完全無欠のヒーローとしてのリンカーン」よりも、
「複雑な家庭環境で育ち、重いうつ病を抱え、
 (宗教保守派は必死で否定していますが)
 ひょっとすると同性愛的傾向があったかもしれない、
 という有力な証拠すらあり、
 生涯にわたり内外の葛藤にのたうち回りながら、
 それでも偉業を遂げたリンカーン」の方がはるかに魅力的であり、
そして何倍も尊敬に値する人物だと私には思われます。
本当の英雄とは傷のない人ではなく、
傷だらけでも前に進む人なのです。

→P22〜23 
〈本書の狙いは、
リンカーンのメランコリーを完膚なきまでに知ることではなく、
それを精一杯知ることであり、
どのような成り行き(ストーリー)になるかを見届けることである。
広義に言って、その成り行きはかなり単刀直入だ。
リンカーンは、若い頃から心理的な苦悩や苦痛をなめ、
自分は気質的に異常な程度まで苦しむ傾向があると思い込んだほどだった。
彼は自力で自分の苦しみを突き止め、
自力で救いの手を見いだし、がまんして適応する術を身に付けた。
ついに彼は、自らの苦悩から意味を鍛え上げた。
すなわち、それによって、苦悩を打ち勝つべき障害ばかりか、
その苦悩を己の良き人生の要因にまで高めたのである。
本書は、現代のためのストーリーである。
うつ病は、毎年世界中で一億人以上の人を苦しめる、
世界でもトップクラスの疾病である。
2000年、世界でおよそ100万人がこれで自殺した。
これは、同年度の戦争による死者数、
殺人による死者数を合せたのにおおよそ匹敵する数値である。
、、、この現実に直面するとき、
歴史上の卓越した人物の罹病は新たな痛切さを帯びてくる。
特に彼の病の特質ばかりではなく、
それが生産的な人生の一部になり得た姿においてこそ、痛切となるのである。
、、、本書は、大きな苦痛を大きなパワーに合体させた男の物語である。
自分の性質に「固有な不運」を嘆く少年時代の手紙から、
自殺や狂気という主題を書いた詩に至るまで、
リンカーンの生涯は自分の苦しみを説明し、
それを高い次元へと高めてさえくれる
意味を求める模索が始発点になっていた。
大統領としての彼は、同胞に彼らの祝福と重荷を受け入れ、
彼らの苦悩には意味があることに気付き、
より完璧な合衆国連邦を目指す旅程に同行することを求めたのである。〉

、、、リンカーンのこの伝記を読むと、
「アメリカ合衆国が抱える内的矛盾」と、
「リンカーンの抱える内的矛盾」が共鳴し合い、
そして彼個人の中で起きた葛藤の傷跡から流れた
「心の血(じっさい暗殺されたときには本物の血も流した)」が、
アメリカを「一歩先へ」進めた、という気がいたします。

ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』で、
「認知的不協和こそが人類を前に進めてきた」
という彼の主張を紹介しましたが、
リンカーンはまさに、
「時代の矛盾をその身に引き受け、
 そして彼自身の葛藤を通し、
 それをより尊いものへと昇華させた」
という実例のようなものです。
旧約聖書の「預言者」っていうのは、
こういう人たちのことだと私は思っています。



↓記事に関するご意見・ご感想・ご質問はこちらからお願いします↓

https://www.secure-cloud.jp/sf/1484051839NyovBkYI


このブログでは過去6ヶ月前の記事を紹介しています。
もっとも新しい記事が直接メールボックスに届く
無料メルマガに登録するにはこちらから↓↓


http://karashi.net/carrier/catalyst/jinnai/mailmag.html

永久保存版・2017年に陣内が読んだ本ベスト10(10位〜6位)

2018.06.06 Wednesday

+++vol.043 2017年12月19日配信号+++


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 2017年版・陣内が今年読んだ本ベスト10(前編)
お待たせしました、年末特別企画です。
普段私は読んだ本に点数をつけたりランキングしません。
ランキングすることで切り捨てられる大切なものがあるからです。
なので、この企画は「年に一度だけ」の特別企画です。
前編は10位〜6位まで、
後編は5位〜1位までのカウントダウン形式で、
ご紹介していきます。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▲▼▼10位:『古典経済は役に立つ』▼▼▼

著者:竹中平蔵
出版年:2010年
出版社:光文社新書
リンク: http://amzn.asia/g9BkYcj

▼解説:

「経済学」というのは、
なんか小難しい印象があるかと思うのですが、
けっこうこれを知っているかどうかで、
「社会を理解できるかどうか」が左右されたりします。

「新自由主義(リバタリアン)」と「共産主義」という左右両極があり、
「穏当な自由主義」と「社会民主主義」という、
もうちょっとそれをマイルドな政策にした派閥があります。
自由主義は小さな政府を目指し、
アメリカならそれは共和党の伝統で、日本なら維新の会の方針。
社会民主主義の(比較的)大きな政府は、
アメリカなら民主党の伝統で、日本なら民進党や立憲民主党系。
(日本はここが異常にねじれていて、
 自民党は「規制をぶっ壊す」や(少し前なら)「TPP推進」という、
 経団連への「自由主義アピール」をしながら、
 じっさいにやっていることは公共投資や「企業への賃金上昇勧告」といった、
 完全なる社会民主主義である、という言行不一致の乖離があります。)

、、、これは一例ですが、
こういった政治のことを論じるにも、
その「材料」として経済学の基礎知識は必要なわけです。

私も胸を張って「知っている」といえるほどは詳しくないので、
経済学者の弟や、銀行で働いている義理の兄に、
「これってこういうことだと思うんだけどどうかな?」
と聞いたりして教えてもらってます。

竹中平蔵さんのこの本は、
そういった「材料としての基礎知識」を得る上で、
これまで最も包括的で、しかもコンパクトにまとまっている、
最良のテキストでした。

本書で解説されている「古典」は以下の通りです。

・アダム・スミス『国富論』
・ロバート・マルサス『人口の原理(人口論)』
・デイビッッド・リカード『経済学及び課税の原理』
・カール・マルクス『資本論』
・ジョン・メイナード・ケインズ『雇用、利子及び貨幣の一般理論』
・ヨーゼフ・A・シュンペーター『経済発展の理論』『資本主義・社会主義・民主主義』
・ミルトン・フリードマン『資本主義と自由』
・F・A・ハイエク『隷属への道』
・ワーグナー・J・M・ブキャナン『赤字財政の政治経済学』

たとえば「富の源泉は労働だ」という概念はアダム・スミスに、
「生産手段の独占による労働者の人間疎外」はマルクス、
「公共投資の経済効果にはレバレッジがかかる」というのはケインズに、
「イノベーション」という概念はシュンペーターに、
「小さな政府」という概念はフリードマンに、
「政府は宿命的に焼け太りし赤字を垂れ流す」という概念は、
ブキャナンにそのルーツがあります。
ルーツを知っているかどうかで、
「知っている」のか、それとも、
「理解している」のかの差になります。

本書を要約するような「あとがき」を紹介します。
これは「古典」を踏まえた上で、竹中平蔵氏が、
現在の日本政府の経済政策に対してしている「提言」ですが、
私も大筋において彼に同意します。

→P222 
〈経済運営の基本は、アダム・スミスの指摘するように、
やはり市場の”見えざる手”を活用することである。
これなくして、経済運営はあり得ない。
同時に、ときにケインズの言うような大胆な政府介入が必要な場合がある。
これをためらってはならない。
そしてその背後で、つねにイノベーションが必要であり、
企業も一国経済も「成功の故に失敗する」という教訓を忘れてはならない。
まさにシュンペーターの指摘である。
また、あくまで自由を基本に、
政府が肥大化するリスクを避けるための絶えざる工夫が必要だ。
ハイエク、フリードマン、ブキャナンの警告である。
残念ながら、現下における日本の経済政策は、
これらをすべて無視、ないしは軽視しているように見える。
政府がやたらと市場に介入し“見えざる手”を活用していない。
それでいて、非常時の大胆な財政拡大・金融緩和には腰が引けている。
そして、ポピュリズムが先行し、企業・産業を軽視して、
結果的にイノベーションを軽視する結果を招いている。
何より、政府の肥大化を止めるという決意と工夫がない。
複雑化し激変する今日の経済状況だからこそ、
まさに「古典経済は役に立つ」のである。〉



▲▼▼9位:『他者の倫理学』▼▼▼

著者: 青木孝平
出版年:2016年
出版社: 社会評論社

リンク: http://amzn.asia/23zeEdw

▼解説

こちらは、佐藤優氏が絶賛していて興味を持ちました。
インマニュエル・レヴィナスの構造主義、
浄土真宗の開祖・親鸞の「絶対他力」、
そして世界的なマルクス研究者、宇野弘蔵の
「労働力の商品化」の論理という、
古今東西まったく違う3つの思想を、
「他者」という補助線を引くことで関連づけ、
ひとつの論を立ち上げています。

インマニュエル・レヴィナスは内田樹さんの専門分野で、
これまで私は内田氏の著作を通じて聞きかじってきました。
レヴィナスはユダヤ人(ユダヤ教徒)で、
私の理解では彼はユダヤ教の本質に軸足を置きながら、
「西洋化されたキリスト教圏の思想を、
 ユダヤ的に解釈することで半内在的に批判する」ことに長けた人です。
そしてレヴィナスの思想の根幹は「他者」にあり、
「隣人を愛する」という古くて新しい教えに、
新しい光を与えてくれる思想家です。

親鸞は言わずと知れた大乗仏教の開祖の一人。
私は2011年の東日本大震災以降、
親鸞に小さからぬ関心を抱いてきました。
漫画家の井上雄彦が東本願寺に「親鸞」の絵を、
奉納(というのかな?)しました。
震災後それが東北に運ばれた、というニュースとともに、
その屏風に書かれた井上雄彦の絵に圧倒されたのがきっかけです。
調べれば調べるほど親鸞という宗教的天才が出てきた当時の、
「末法の世」と、現代の日本が類似していること、
さらに親鸞の思想がイエスやルターのそれと酷似していることに、
新鮮な驚きを覚えました。

参考画像:井上氏が描いた親鸞
https://goo.gl/upx6vc

じっさい、日本人の神学者、八木誠一氏は、
「パウロ・親鸞、イエス・禅」という本を書いています。
ちなみに八木誠一の本はどれも面白いです。

参考リンク:「パウロ・親鸞、イエス・禅」
http://amzn.asia/aPnqB8O

、、、で、親鸞は「絶対他力」を言いました。
救済は100パーセント恩寵によるのであって、
人の善行は何もそれに加えられない、と。
これがあまりにキリスト教の教理と酷似しているので、
親鸞の師匠の法然が帰依した平安仏教の祖、
最澄・空海が中国留学中に、当時中国で流行っていた、
「景教」と呼ばれるキリスト教の影響を受け、
それが親鸞の救済観に影響を与えたのでは、
と類推する人もいるぐらいです。
もちろんこの説、「そういうことがあってもおかしくない」という、
「状況証拠」はあるのですが、歴史学の文脈の「物証」がありません。
とにかく、鎌倉仏教の教えは、
「絶対他力(悪人正機)」→「恵みによる救済」
「利他」→「隣人愛」という二大教理に支えられており、
さらには、「鍬(くわ)の一降りは念仏(祈り)である」という、
親鸞の教えは、「職業は神にささげる召し(ベルーフ)である」という、
マルチン・ルターの万人祭司の教理とそっくりです。

最後に宇野弘蔵ですが、
マルクスの「労働力の商品化」という部分から、
マルクスの場合「生産手段の独占」と「労働者の人間疎外」、
そして「階級闘争」と進むのですが、
宇野弘蔵はマルクスの「資本論」を、
「資本主義が構造的に抱える矛盾と、
 それでも恐慌と好景気を繰り返しながら、
 資本主義は半永久的に生き続けるのはなぜか」
という論理展開で読み解きます。
そして宇野の最もユニークな点は、
「労働」とは労働者が差し出す単なる商品ではない、
という点においてだ、と青木氏は言います。
そうではなく「労働力の商品化」という行為において、
人は「外部という絶対的に他なる者」に自分をゆだねる。
その「外部性」の重要性に気づいたところが宇野経済学の白眉だ、
というのが青木さんの指摘です。

つまり、レヴィナスも親鸞の宇野弘蔵も、
「他者という外部性」に救済(または愛・価値)があるのだ、
と論じている。
ポストモダン的現代世界というのは、
すべてが「主観」の一人称の世界に引きこもり、
「外部の欠如」によって行き詰まっています。
そのような現代に、彼の思想は一石を投じていると思います。



▲▼▼8位:『キリスト教とローマ帝国 小さなメシア運動が帝国に広がった理由』▼▼▼

著者:ロドニー・スターク
出版年:2014年
出版社:新教出版社

リンク: http://amzn.asia/g1DPEW4

私が現在翻訳中の書籍、
「If Jesus were Mayor(もしイエス様が市長だったら)」
(ボブ・モフィット著)に引用されています。
翻訳を開始した当初この本は英語でしか読めませんでしたが、
3年前に訳されていたことを知り、すぐさま読みました。

この本はローマ帝国で最初(宗教社会学による分類によると)、
「いちカルト」に過ぎなかったキリスト教が、
どうしてコンスタンティヌス帝によって公式の国教になるまでに、
その影響力と数を増大させていったか、という分析です。
歴史学や宗教社会学の分野で現在支配的なのは、
「社会や時代が教義の内容を形成する」という、
「進化論的社会学」の考え方だが、
逆に「教義の内容こそがその宗教を支配的たらしめる」ということもある、
というのが著者の指摘です。

引用します。

→P264 
〈昔と違い現代の歴史学者は、
社会的要因が宗教の教義形成に対して
どのように働いたかという議論に前向きである。
しかしその反面、教義が社会的要因の形成に
どのように働いた可能性があるかという議論となると、
いまひとつ乗ってこない。
これはとくに、キリスト教の興隆が
優れた神学に由来するという主張に対して、
アレルギー反応のかたちをとってしばしば現れる。
特定の歴史学者がアレルギー反応を起こすのは、
思想は随伴現象だとするマルクス主義的な時代遅れで
時にはばかげた説に彼らがどっぷりつかっているからだが、
また別の学者たちについては、
宗教の信仰それ自体にどこか居心地の悪さを覚え、
「勝利主義」(ある特定の教義が絶対に勝つとする信念)の
かすかな匂いにも顔をしかめる態度に由来している。、、、

、、、わたしの論旨はこうである。
キリスト教の中心教義は、人を惹きつけ、
自由にし、効果的な社会関係と組織を生みだし、また支える。
キリスト教が史上最も拡大し成功した宗教の一つとなったのは、
この宗教がもつ特定の教義によるとわたしは信じる。
そして、キリスト教が興隆したのは、そうした教義を具体化し、
組織的行動と個人の態度を導いた方法にあったと考える。〉

、、、ではたとえば、
どのような点でキリスト教の教義の内容は、
他のいかなる宗教とも違い、そして当時の人々を惹きつけたか、
それはローマ帝国で何度か大流行した疫病によって可視化された、
と著者は指摘します。

→P96〜98 
〈、、、この章では、古代社会がこうした災禍によって大混乱に陥っていなければ、
キリスト教は宗教としてこれほど支配的にはならなかっただろう、という説を述べたい。
それを三つの論点に沿ってこれから展開する。

論点のひとつめは、カルタゴの司教キュプリアヌスの著作の中に見られる。
多神教や古代ギリシャ哲学では疫病を説明しきれず、
癒すことも出来なかった。
逆にキリスト教は、人がそのような苦しい時代に
なぜ遭遇したかへの満足のいく答えと、
希望に溢れ情熱的とさえ言える未来像を与えた。

ふたつめの論点はアレクサンドリア司教ディオニュシウスの復活祭の手紙に見いだせる。
愛と奉仕というキリスト教の価値観は、
当初から社会奉仕と連帯という規範を生んだ。
災難が襲ったときでも、キリスト教は上手く対処でき、
そのことが実質的により高い生存率につながった。
そのため疫病が一つ終わるたびに、
キリスト教徒はたとえ新たな改宗者がなくても人口に占める比率を増やした。
さらに彼らの生存率の明らかな高さが
キリスト教徒にも異教徒にも「奇跡」とうつったことで改宗を誘ったに違いない。

、、、論点の三つ目が協調による統制理論の適用である。
疫病でかなりの人口がやられると、多くの人が人間的愛着関係を失うと同時に、
それによって結ばれていた既存の道徳的秩序から遊離する。
激しい疫病によって死亡率が高まるごとに、
多くの人が、特に異教徒が、
キリスト教に改宗するのを引き留めていたはずの絆を失った、と考えられる。
一方でキリスト教徒の社会的ネットワークの生存率のほうが優っているとき、
異教徒は失った絆をキリスト教徒とのつながりで
埋め合わせる確率が高まっただろう。
そのようにして、かなり多くの異教徒が、
おもに異教徒からなるネットワークから、
おもにキリスト教徒からなるネットワークに転じたのではないか。
どんな時代にもこのような社会的ネットワークの転向が
宗教上の改宗につながるのは、第一章で述べたとおりである。〉



▲▼▼7位:『ゲンロン0 観光客の哲学』▼▼▼

著者:東浩紀
出版年:2017年
出版社:株式会社ゲンロン

リンク: http://amzn.asia/jh4QWE0

▼解説:

団塊ジュニアの思想界の異端児、
東浩紀氏の「入魂の一作」です。
めちゃくちゃ面白かったです。

私たちが生きる現代世界というのは、
端的にいって「出口がありません」。
その出口のない隘路に陥った感覚というのは、
表層的には世界中のポピュリズム政党や、
カネだけがモノを言う弱肉強食の、
リバタリアンのユートピア(能力なき者にとってはディストピア)、
拡大する格差や環境問題、テロの脅威や経済の先行き不透明性、
そういった「現象」として立ち現れますが、
現象の薄皮を一枚はがすと、
「思想における出口のなさ」がその正体です。
共産主義の挫折によって「近代」という思想体系全体が行き詰まったことの、
諸現象を私たちは「閉塞感」と呼んでいるわけです。
だとしたら、「思想の世界で風穴を開ける」という、
脳に汗かく人々の存在はとても大切であり、
そういったことを自覚的にしている数少ない日本人のひとりが、
東浩紀だと私は思っています。

具体的に思想の行き詰まりとは何かというと、
「コミュニタリズム(日本で言うと日本会議的なるもの)」と、
「リバタリアニズム(日本で言うと橋下徹やホリエモン的なるもの)」の、
「カレー味のうんこと、うんこ味のカレーの二択」に陥っている、
「デッドロック状態」が思想における行き詰まりの正体だ、
と(かなり乱暴に要約すると)東氏は言っているわけです。

引用します。

→P131〜133 
〈コミュニタリアニズムの誕生は、
じつはリバタリアニズムの誕生と密接な関わりがある。
双方ともに同じリベラリズムに対する批判により生まれた思想だからである。
本論の主旨から逸れるのでざっとした説明にとどめるが、
20世紀のリベラリズムの理論は、
ジョン・ロールズが1971年に刊行した『正義論』で整備されたと言われている。
ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』は
じつはこの『正義論』への批判として書かれた著作で、
リバタリアニズムはそこから生まれた。
同じようにコミュニタリアニズムも、
『正義論』への批判として書かれた著作から生まれている。
そこで重要とされる著作は、マイケル・サンデルが1982年に刊行した
『リベラリズムと正義の限界』である。
サンデルはそこで、ロールズの義論は
普遍的な正義を追求する普遍的な主体(負荷なき主体)の存在を前提としているが、
それはあまりにも強すぎる仮定であり、実際には政治理論は、
特定の共同体の特定の価値観(正義ではなく善)を
埋め込まれた主体しか前提とすることができないと主張した。
この著作がきっかけになって、1980年代から1990年代にかけて、
英語圏の政治学でリベラルとコミュニタリアンのあいだで継続的な論争が起きた。
 
、、、リベラリズムは普遍的な正義を信じた。他者への寛容を信じた。
けれどもその立場は20世紀の後半に急速に影響力を失い、
いまではリバタリアニズムとコミュニタリアニズムだけが残されている。
リバタリアンには動物の快楽しかなく、
コミュニタリアンには共同体の善しかない。
このままではどこにも普遍も他者も現れない。
それがぼくたちが直面している思想的な困難である。〉

、、、では、どうすれば良いのか。
事はそんなに簡単じゃありません。
それが簡単ならば、もうとっくに出口は見えています。
世界で最も頭の良い人たちですら、やっと分かるのは、
「出口らしきもの(間違っているかもしれないが)」です。

余談ですがだから、
「答えは簡単!こうすれば良いんだ!」
と今の時代にやたら歯切れ良く言っている人は、
全員大嘘つき、もしくは単に絶望的なバカです笑。

東氏の言う「出口らしきもの」というのは、
「子どもとして死ぬだけでなく、親としても生きろ」との呼びかけです。
これは必ずしも生物学的な親となれ、という話ではありません。
子ども(誤配、不気味なもの、他者)は、
「自分にとって最も親密でありながら、
拡散し、増殖し、いつのまにか見知らぬ場所に
たどり着いてぼくたちの人生を内部から切り崩しにかかってくる、
そのような存在である。」(P300)と東氏は言います。
私たちは親が子どもに対するように
この世界と対峙すべきである、
そこにリベラリズムが失った「他者性の回復」がある、
と東は結論づけています。

、、、「他者性の回復」。

そうです。
第9位で先ほど紹介した「他者の倫理学」のテーマです。



▲▼▼6位:『素数の音楽』▼▼▼

著者:マーカス・デュ・ソートイ
出版年:2013年
出版社:新潮文庫

リンク: http://amzn.asia/5m3ClD2

▼解説:

これはもう、エンターテイメントとして最高でした。
「リーマン予想」という、
数学者リーマンが立てた、
「素数の出現頻度」に関する仮説は、
いまだに証明されていません。
この本の魅力は解説では伝わらないと思います。
「とにかく読んでくれ」としか言えません。

→P604 
〈エウクレイデス(ユーグリッド)は、
素数はどこまでいってもつきることがないという事実を証明した。
ガウスは、素数が、ちょうどコインの投げ上げで決めるように
でたらめに現れるだろうと予測した。
リーマンがワームホールをくぐって入った虚の風景では、素数は音楽になった。
そこでは、ひとつひとつのゼロ点が音を奏でていた。
こうして素数研究の旅は、リーマンの宝の地図を解釈し、
ゼロ点の位置を確定する作業へと変わった。
リーマンは秘密の公式を駆使して、素数がでたらめに現れるらしいのに対して、
地図上のゼロ点がじつに秩序だっていることを突き止めた。
ゼロ点は、でたらめに存在するどころか、一直線上に並んでいた。
あまり遠くまで見通すことができず、
常に直線上に並んでいるとは断言できなかったが、
リーマンは、並んでいると信じた。こうしてリーマン予想が生まれた。
リーマン予想が正しければ、素数の音楽に突出して強い音は現れず、
その音色を奏でるオーケストラは完璧にバランスが取れたものとなる。
だからこそ、素数にはハッキリとしたパターンがないのだ。
なぜなら、パターンがあるということは、
ある特定の楽器の音が他より大きいと言うことを意味するから。
ひとつひとつの楽器は独自のパターンを奏でるが、
それらが完璧に組み合わさることでパターン同士が打ち消しあい、
結局は混沌とした素数の満ち干となるのである。〉

純粋な数学理論って、「世の中と何の関係があるの?」
と思う人が多いし、実利的な考え方の人は、
「そんなのカネにならないじゃないか」とすぐに言います。
まぁ、そんなに焦らないでください。
素数と世の中が関係ないなんて、とんでもない。
もし素数の「法則」が発見されたら、
現在の世界はガラガラと音を立てて崩れるほどのインパクトがあります。

なぜか。

「素数がランダムに現れる」という性質を利用して、
保たれているシステムが身近にあるからです。
それはインターネット上のクレジットカード決済の暗号化です。
Aという大きな素数と、Bという大きな素数を掛け合わせた数が、
どの二つの素数で構成されているかを突き止めるのは、
最新のスーパーコンピュータを使っても、
何ヶ月もかかります。
この原理を使ってネット上の情報は、
「二つの素数によって施錠」することができます。
こんな「簡単なこと」が、
クレジットカード会社や銀行が顧客の情報を守っているのです。
「素数の秘密」を握った人はだから、
何百億ドルという財を手にする可能性を秘めているのです。
しかし逆説的ですが、何百億ドルを手にしたいという動機で、
数論に手を出しても、そんな「軽い」動機では、
「数学の女神」はほほえんでくれません。

数学の分野のなかでも「数論」は特に「魔の世界」で、
多くの天才たちがそれによって人生を狂わせ、
精神病に罹患し、ある人は自殺し命を落としています。
「リーマン予想」という未解決問題は、
今も数の冒険者たちの興味を惹きつけてやみません。

、、、というわけで、
10位〜6位をカウントダウン方式でお送りしました。
来週はいよいよ、5位〜1位の発表です。
お楽しみに!



↓記事に関するご意見・ご感想・ご質問はこちらからお願いします↓

https://www.secure-cloud.jp/sf/1484051839NyovBkYI


このブログでは過去6ヶ月前の記事を紹介しています。
もっとも新しい記事が直接メールボックスに届く
無料メルマガに登録するにはこちらから↓↓


http://karashi.net/carrier/catalyst/jinnai/mailmag.html

| 1/1PAGES |