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私の半生記 〜久米川さんとの9年間〜

2017.11.16 Thursday

+++vol.014 2017年5月23日配信号+++


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■1 今週の「ブログでは言えないこと」【拡大版】
愛知県にて回想する私の半生記 〜久米川さんとの9年間〜
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼ICBCという教会▼▼▼

メルマガ読者のみなさま、こんにちは。
先週からお伝えしていましたとおり、
私は現在愛知県に来ています。

蒲郡にあるこちらの教会で宿泊しています。

▼国際クリスチャンバプテスト教会
http://www.icbc.net/

こちらの教会は、
私が24歳で豊橋市に就職してから、
30歳で退職してNGOの仕事を始めるまで、
6年間、毎週2、3回は通っていた場所であり、
いわば私の「サードプレイス」でした。

職場、自宅の往復以外だと、
だいたい教会にいるか、
教会の友だちとファミレスにいるか、
教会の小グループのあつまりで、
誰かの家に数人〜十数人で集まっていた。

私は当時「聞き屋ボランティア」という、
街角で人の話を聞くボランティアもしていましたから、
週に2回は教会の仲間と豊橋駅で夜遅くまで、
人々の話を聞く、ということもしており、
そういった活動のミーティングもありました。

また、私は教会学校のスタッフもしていましたから、
子どもに教えるメッセージの準備だったり、
「のりのりマン」というヒーローに扮して、
猿の着ぐるみを着た相方とやる、
「ショートコント」の練習もした。

当時の私のスケジュールは、
3ヶ月先まで常に土日は埋まっており、
ウィークデーの5日間のうち夜の3日〜5日は、
何かのミーティングとかで埋まっていた。

7時45分に職場で白衣に着替え、
17時に私服に着替える続く、
肉体労働を含む仕事もしていますから、
相当に忙しかったと思うのですが、
「忙しい」と感じなかった。

本を読むのは当時から好きでしたから、
休日の半日が空いたりすると、
漫画喫茶に本とノートを持参して、
6時間とかむさぼるように本を読んだ。

睡眠時間は当時から長い方でしたから、
毎日7時間ぐらいは寝ていたと思います。
(今は病気のこともあり、
 必ず8時間以上寝ることを、
 自分への義務として貸しています。
 「十分な睡眠は神への礼拝」ですから。)

でも聞き屋ボランティアやミーティングなどで、
明け方の3時とか4時まで教会などにいて、
2時間ほど寝てからそのまま仕事に行って、、、
というときもありました。

ときどき「身体がきついな」とは感じましたし、
「毎日けっこう大変だな」と思ったこともありましたが、
今振り返ると、「楽しかった」という思い出でしかない。
夢中で仕事をし、夢中で教会の活動をしていました。

仕事も教会の活動も、
どちらも同じく神に対する礼拝ですから、
両方とも「これは祈りだ」と思って、
主に捧げていました。

それが私の青春でした。

ここICBCは、そんなわけで、
私の「青春」が詰まっている場所でもある。

社会人として最初の6年間を過ごしたこの教会には、
言葉では言い尽くせない大きな思い入れがあります。



▼▼▼私の9年間と、ICBC▼▼▼

いまはゲストルームに泊まらせていただいていますが、
ここを含め、一階、二階、三階、すべての部屋、
すべての廊下、すべての踊り場、すべてのトイレ、
キッチン、駐車場、小さな庭、いちばん近いコンビニ、
そういった場所に「思い出の残り香」がある。

「あーそうそう、
 この部屋で○○くんと、
 夜中まで話したなぁ」とか、

「このカフェテリアで、
 ユース(十代)の子たちと卓球してるとき、
 あんな『奇跡の事件』が起こったなぁ」とか、

「友だちの●●くんの結婚式のときは、
 駐車場のこの位置に車を留めて、
 駐車場係をしたなぁ」とか。

今日は少々、私の思い出話におつきあいいただきます。

「興味ねぇよ!」という方は、
どうぞ読み飛ばしてください笑。

、、、2008年にICBCと豊橋市を離れて最初の一年は、
私は「インターン」のようにして、
インドとエチオピアに行きました。

当時の国際援助団体の事務所は東京にありましたから、
生まれて初めて東京にひとり暮らしをし、
海外→東京→海外→東京→全国の教会など→東京→、、、、
みたいな生活が、6年ほど続きました。

2013年の冬に「燃え尽き症候群」に伴ううつ状態になり、
2年間、完全に活動を休止して療養しました。

復帰後の1年間(2016年)は、
半分休養、半分活動みたいな感じで、
おっかなびっくり、活動をはじめました。

今は、完全には体力は戻ってきていませんが、
驚くほどいろんなことができるようになりました。
そうして考えてみると私が愛知県を離れてから、
もはや9年もの歳月が経つのです。

改めて思い出してびっくりしています。
「もう9年が経ったのか」と。

、、、その9年間にも断続的にICBCを訪れており、
今回の訪問もそのような訪問のひとつです。

帰ってくるたびに感じるのですが、
やはり私の信仰だとか人格形成だとか、
あと現在も続いている「友情という人間関係資本」だとか、
そういったものの核となるような大切な「何か」は、
ここで培われたんだよなぁ、ということです。

先ほど2008年以降、
つまり30歳で「第二の人生」を歩み始めることを決めてから、
9年間の激動の人生を歩んできた、という話をしました。

私の「キャリアパス」は、
ほとんど誰も通らないような「パス(小道)」なため、
「何その道?、、、道なのそれ?」という感じで(笑)、
私のことをあんまり知らない人からは、
あんまり「カタギの人間」だと思ってもらえません。

いぶかしげに見られることもしばしばです。

でも自分では神の召しに応答して、
その時、その時を歩んできた、という自覚があり、
そして私の「召しに応答する人生の歩み」は、
現在では「第三の人生」みたいな段階に、
突入していると思っている。

ですから当然、9年間でいろんなことが変化しました。

住む場所もえげつないほど変わりましたし、
「一月に自分のベッドで寝るのは3日間ぐらい」、
みたいな日々も過ごしました。

朝起きて、「ここがどこか」を考えるのに、
数十秒を要するという笑。

思ってもみなかったような病気にもなりましたし、
そして、結婚もしました。

「転がる石にコケは付かない」ということわざがあり、
ボブ・ディランは「Like a Rolling Stone」という歌で、
それを歌っています。

私の9年間は振り返るとまさに、
「転がる石(療養した2年間も含む)」
そのものでした。

その9年間、それでも、
私は年に何回かは愛知県に来ました。

そのたびに、
パソコンでいうと、「ホームポジション」に、
指が載ったときのような、
あるいはテニスや卓球やバドミントンなどで、
相手の球を拾いに拾って振り回されたあと、
本来の自分の立ち位置に戻り、
中腰の構えで球を待つときのような、
「心の正位置」にもどされるのです。

「あぁ、そうだそうだ、
 おれの大切な部分は、
 ここで形成されたんだった。」と。

人は「振れ幅」が大きくなればなるほど、
「しっかりしたぶれない軸」が必要になります。
「軸のない転がり」は、本当の根無し草であり、
それはどこへも行き着きません。

私が「転がり続けられた」のは、
やはりこの教会があったからだなぁ、
と、毎回確認するのです。

ICBCの人たちや、今回も訪問する、
豊川の教会の人たちが、
祈ってくれている、信じてくれている、
と思うと、「そうだ、がんばろう」と思うのです。

先月ぐらいから言い続けている、
「トレリス」ともニュアンスが似ていますが、
私が私であることの理由は、
愛知県蒲郡市という、
この小さな町の、山の上にある、
みかん畑に囲まれた、
「普通でないハートをもった普通の人々」による、
素晴らしい教会に負っているのだなぁ、
と感じています。



▼▼▼セルフサポートという活動形態▼▼▼

教会には来ていませんが、
じつは、病気の期間も年に一度、
愛知県に来ていました。

途中、新幹線から降りて、
駅のトイレの前で、
座り込んで呼吸を落ち着けたりしながら、
病気の症状が一番苛烈だったときも、
妻に付き添われ私は蒲郡に来ました。

その目的は、
「陣内俊を支える会」の代表をしてくださっている、
久米川さんと会うためでした。

2008年に国際援助団体に入って、
2010年にその団体の事務所の組織改編で、
いってみれば「消滅」し、
私は志を同じくする3名で、
「声なき者の友の輪」(FVI)という、
団体の設立に関わりました。

その間、私は一貫して自分の「給料」というのは、
団体や組織には負っていません。

自らの活動に賛同し、
祈って経済的にも支援してくださる支援者の皆様の、
支援金でサポートしていただき、生活してきました。

これを宣教師なんかの世界では、
「セルフサポート」といます。
「サポートレイズをする」とも言われます。
自分でサポート(支援)をレイズ(起こす)して、
活動をする形態のことを言います。

日本にはいろんなキリスト教の宣教団体がありますが、
私の知る範囲で言いますと、
CCC(キャンパスクルセードフォークライスト)だとか、
YWAM(ユース・ウィズ・ア・ミッション)だとか、
そういった団体も、スタッフや宣教師の方々は、
セルフサポートで活動しています。

英語では、
「フェイス・ミッション(信仰による宣教活動)」
とか言われていまして、
アメリカなどはそういう活動形態は、
そこまで珍しいことでもないし、
むしろ誇らしげに語られる節すら有る。

「人間的な方策にではなく、
 ただ備えてくださる神のみに寄り頼んで活動する、
 なんという信仰の勇者なのだ」というわけです。

、、、しかし9年間実体験してきた私が思うに、
日本ではすこし事情が違う。

まず前提として日本にはそういった、
「サポートレイズをする宣教師」みたいなのが、
ステレオタイプになっておらず、
まったく一般的ではないので、
わりと「きょとん」とされます。

それから日本には「寄付文化」が根付いておらず、
何かの活動に「年に一度でも寄付する」という人の母数は、
全人口のおそらく3%を割ります。

これは統計的にも実証されており、
日本人が年間に平均寄付する金額は2,500円、
アメリカ人が年間に寄付する平均は135,000円、
日本はアメリカの100分の1です。
日本人は「世界一寄付しない民族」なのです。

しかしキリスト教徒に限定すると、
その数は私の体感としては、
「日常的に寄付をする人」が、
80%を上回ります。

、、、ということは日本で、
「他者に寄付をする習慣がある人」の、
3人にひとりはキリスト教徒だ、
という計算になりますが、
それは私の実感とそれほど離れてはいません。

日本はキリスト教徒の相対数のわりに、
その影響力は釣り合わないほど大きい、
と言われています。
(医療、教育、福祉、言論の世界で特に)

私はその理由のひとつは、
こういうところにあるのだろうと見立てています。

、、、話を戻しますと、
日本には寄付文化もなければ、
「セルフサポートで活動するキリスト教関係の人」も、
あまり多くはありませんので、
アメリカのように「誇らしげ」という態度では、
まったく通用しません。

それとはむしろ真逆です。

日本の「フェイス・ミッション」は、
どちかというと、何となーく、
後ろめたいというか、恥ずかしいというか、
心苦しいというか、肩身が狭いというか、
いつも、
「なんかごめんなさい、
 戸惑わせてしまって」
と言いながら生きているような感じです。

「あなたは社会人なの?
 牧師なの?
 宣教師なの?
 NGOのスタッフなの?

 、、、なんなの?」

「すみません。
 サポートレイズといって、
 こういう活動形態がありまして、
 自分の活動資金は賛同者による、
 支援金でまかなっていまして、、、
 ごにょごにょ、、、」

「は?
 だから何なの?
 人から金をかすめ取っているということ?」

「いや、支援者の皆様は、
 自発的に応援してくださっていて、、、」

というやりとりのあと、

「そうですねぇ。
 まぁ昔の日本で言うなら、
 お坊さんの托鉢みたいなものでしょうか。
 いわば『乞食坊主』です」
というと、やっと納得してもらえたりします。

そしてその人は、もう私に興味がなくなる(笑)。
その後二度と話しかけては来ません(笑)。

こういうのは、けっこうな回数経験しています。

これはあくまで私の個人的な実感であり、
同じような活動形態をしながら、
「まったくそうでない」という人もいるとは思いますが。

、、、

さらに、日本にはやはり、
それが公務員だろうが自営業だろうが、
会社員だろうが公益法人だろうが、
教師だろうが牧師だろうが医師だろうが、
お笑い芸人だろうがデスメタルミュージシャンだろうが、
「その仕事で誰かやどこかからおカネをもらっている」
ということをもって「一人前」と見なす傾向があります。

何らかのサービスを提供し、
その対価としておカネをもらう。

当然のことです。

それはまっとうな生き方です。

しかしその公式を裏返すと、
私の生き方は「まっとうでない」
ということになる。

私の場合「出資者と受益者」が一致していないため、
私の働きへのサポートは、
「サービスの対価」としてではない。

よって「まっとうではない」と認定される。

そしてそう強く信じる人に、
雄弁に反論するほどの胆力も気力も、
私にはありませんし、
そして反論が徒労に終わらない、
という確信も持てません。

なので、私は多くの場合、
押し黙ってしまう。

そして、
「分かる人は分かってくれているから大丈夫」
と心のなかで思う。

「妻は分かってくれているから大丈夫」と。

「私は神にあって確信がある。」と。

それがすべてじゃないか、と。

逆にお堅い仕事をして、
しっかりと給料をもらっていて、
しかしそこに神にあって確信がなく、
いつも愚痴を言いながら仕事しているのなら、
聖書によればそれは「罪」ということになる。

「信仰によらないことは全部罪」と、
聖書には書いてあるから。



▼▼▼奇跡の人▼▼▼

、、、誰に何と言われようと、
9年間セルフサポートを続けていた、
ということの背景には、
私の神に対する確信があります。

逆に、そうじゃなきゃやってられません。

振り返ってみると、
9年間セルフサポートで活動を続けてこられた、
ということが「奇跡」に他ならず、
私は自分の人生という奇跡をいつも目撃している。

「フェイス・ミッションです!(どうだ、すごいだろう)」
と言っているアメリカ人をはじめ、
海外の人々に、同業者としてけっこう会いますが、
日本という「どアウェイ」の中、
9年間活動してきた私以上の
「フェイス」ミッションはないという自負も、
心のどこかにはある。

あなたたちが考えているより、
日本でこれを続けるのはかなり難しいんだぜ、
分かっては貰えないだろうけど、、、と。

日本でこういった働きを続けるというのは、
南国ではなく、
シベリアでかき氷屋を成功させた、
みたいなものなので、
誇りをもって良い(笑)と。

市場の小ささをなめるなよ、と笑。

何を誇っているのか、
もうまったくわかりませんが笑。

そんなわけで「神の奇跡」を呼び物にするような、
キリスト教の「集会」には私はあまり心惹かれません。
、、、だって、私自身が生きる奇跡なのだから。

、、、で、この「奇跡」が続いている限り、
神がこういう形態で活動することへの、
私へのアファメーション(認証)を与えてくださっている、
ということのサインだと考えています。

もし、今後、支援が続かない、
ということが起きたらどうする?

そのときのことは考えてあります。

当然じゃないですか。

そりゃあ考えますよ。

毎月そんなのの連続ですから(笑)。

今月はさすがにヤバいんではないか、と。

、、、そのときは、
「こういう形態」で働くというのは、
ここまでだよ、という神からのサインと、
私は受け取ることに決めています。

だから、何か仕事を探します。

私の召命は活動「形態」にはありません。
活動「内容」にあります。

新しい仕事を探して、
自分の生活費を稼ぎながら、
活動「内容」である、
メルマガの発信であったり、
海外のNGOへの献金や祈りであったり、
何らかのボランティア活動への参加だったり、
教会での証やメッセージだったり、
そんなことをします。
(投資できる時間とエネルギーはたぶん、
 今の10分の1以下になりますので、
 海外には10年に1度しか行けず、
 メッセージは年に一回、
 メルマガも3ヶ月に一回配信、
 とかになるかもですが笑)

その「新しい仕事」では、
たぶん、自由に公に情報を発信できないような、
「大きな組織への所属」はできないでしょう。

公務員や大企業の社員になったら、
本名でブログすらできないでしょうから。

、、、生活費の安い地方に引っ越し、
そして清掃員みたいなことをしながら、
細々と生活をし、そしてメルマガを書き続けます。

メッセージも発信し続けます。

それが私の「使命」だと思っていますから。

サポートレイズをしたことのある人は
同意してくれると思いますが(あんまりいないか)、
「サービス」の対価としておカネを得るよりも、
サポートレイズによって活動を続けるほうが、
実は「キツい」です。

逆だと思っている人が多いですが。

やってみると分かります。

作業という意味だけでなく、
情動、体力、気力、勉強量、アウトプット量、、
さまざまな意味での「労働の熱量」が、
同じ10万円に対する量としては、
「通常の労働」の1.5〜2.0倍という感じです。

だから私は手取りの給料は前職の半分ぐらいですが、
前職のときよりもこの9年間「労働の熱量」は高い。
、、、なんせ、「燃え尽き」たぐらいですから笑。

若い人にサポートレイズは、
正直、まったく勧めません。

大変すぎるから。

もしそうしなくてもやれる内容なら、
他の道を探した方が絶対に良い。

万策を考えた後で、
「それでもこの活動形態でないとできない」
という段階になったら、初めて可能性を検討すると良い。

生死の境を彷徨った私はそうアドバイスします。



▼▼▼クラウドファンティングとしての人生▼▼▼

ではどういう場合に、
「サポートレイズ的なるもの」によってしか、
実現できない使命があるのか?

私が考える「そういった使命」とは、
こういうことになります。

、、、、世の中には、数は少ないけれど、
「いまだサービスとなっていないもの」があり、
そういうものへの先行投資としての、
いわば「クラウドファンディング」のような形でしか、
結晶化しない「価値」というのがある。

「市場」や、「既存の法体系」という土地には、
咲かない花があるのです。

そういった既存の枠組みによっては咲かない、
「未来の花」を咲かせるための投資は、
「サポートレイズ」によってしか実現できない。

価値が換金されるまでに「数十年」なら、
株式会社としてファンディングしてもらえば良いのです。

しかしマネタイズされるのは100年以上先、
といような「先行投資」となると、
「(当事者が生きている間に)見返りのない投資」
ということになるので、
それは「寄付」という形態を取る。

150年前に日本にはじめて来たプロテスタントの宣教師は、
フルベッキ、そしてヘボンと言います。

彼らは赤痢や腸チフスによって死ぬリスク、
侍に斬首されるリスク(じっさいにそういう事件があった)、
そういったあらゆるリスクと「人生をかけたコスト」を背負って、
日本に来た。

それを本国でサポートした大勢の人がいた。
今の現金価値ならば、何十億というおカネが使われていた。
彼らは「最高の教育を受けたエリート」でしたから。

実は、彼らの日本人への宣教の
「目に見える実」は多くはないのです。
はじめての受洗者が出たのは、
日本に着いてから6年後でした。

生涯でも数十人です。

しかし、100年先に時代を早送りすれば、
彼らの築いた「大学」が東京の一等地に立っており、
彼らの思想は日本社会を非常に富ませています。
数十億の投資は、数千億や数兆という、
マネタイズ不能なほどの価値を日本に与えている。

そういった投資は、
株式会社によってはできません。

こういう「高山植物」を咲かせるためになら、
「ファインドレイジング」をする価値があると、
私は考えます。

こういうのが
「そういった形態によってしか実現できない使命」です。

それ以外は、たぶん別の道を探した方が、
本人のためにも、社会のためにも良い。

、、、話を戻します。

高山植物のように珍しい花というのは、
その性質上、そこに価値を見いだし、
「先行投資」してくれる人の数は多くはない。

しかし私の場合それでも、
「陣内俊がこの時代に生きていて、
 そしてフルタイムで今みたいな活動をすることによって、
 生み出される『価値』に投資したい」
と考えてくださる方が一定数いる。

それはFVIというNGO団体も同じですが。

そういう「先行投資」の結実が
このメルマガだったりします。

全国にいる一部の方々の
「クラウドファンディングによる投資」のおかげで、
読者のみなさまは無料でこのメルマガが読めている。

だからメルマガ読者のみなさまが、
もし一瞬でも「このメルマガがあってくれて良かったなぁ」
と思ったとしたら、どうか著者の私ではなく、
「陣内俊を支える会」やFVIを通して、
私の活動に支援をしてくださっている方々に、
感謝してください。

このメルマガは「Wikipedia」みたいなもので、
この「情報という恩恵」は、
名前も知らない全世界に散らばる篤志家によって、
実現し、享受しているのです。

そんな、
「人生というクラウドファンディング」
をしている私ですが、
その「大もと」を辿ると、
2007年にさかのぼり、
そしてICBCの久米川さんに行き着くのです。

このメルマガに限らず、
私の活動の少なくとも40%ぐらいは、
常に久米川さんに負っています。

、、、やっと帰ってきた。

、、、我ながら、
えげつないぐらい脱線しました。
東海道線が石川県まで行った、
みたいな脱線の仕方でした笑。

ここからは「本線」に戻ります。



▼▼▼久米川さんという恩人▼▼▼

、、、2007年の秋に私は、
「来年の春からこの国際援助団体を通して宣教活動をする」
と決意をし、大阪に面接に行きました。

そこで、「給料は出ないよ」と言われた。
「自分でサポートを募って、
 それで毎月これぐらい集めてもらって、
 それで生活してもらいます。」と。

そのときは良く事情が飲み込めておらず、
「はい、わかりました」とだけ言いました。

「オッケー、そういうことね。」と。

私はそれまでに3年以上悩み考え、祈り、
たくさんの人々に相談しつくしていました。
ひとり暮らしの家を引き払い、
不安定になるだろう向こう数年間のために、
貯金もしました。

自分が使命と考えるものに向かって、
自分が一歩前に「踏み出すかどうか」では、
もはや迷っていなかったので、
「よし、やろうじゃないか」とだけ思いました。

、、、翌日、私は原因不明の高熱を出しました。

風邪でもないのに39度の熱が出た。
まる2日間。

たぶん論理を超越して、
身体が反応したのだと思います。

それがどれほど大変だろうことか、
ということに対して。

、、、その秋から私は、
自分の教会であったり、
自分の友人の教会であったり、
友人の友人の教会であったり、
そういったところに週末に出向いていき、
そして「私には海外の援助団体を通して、
こういった活動をしたいという夢があります。
もし『これは私の使命の一部でもある』と感じ、
夢を共有してくださる方がいたら、祈ってください。
そして毎月少額でも良いので、
支援を検討していただけたら幸いです。」
と言って回りました。

これを宣教師の業界用語で、
「デピュテーション」と呼ぶことは、
ずいぶんと後になってから知りました。

、、、で、4ヶ月間で70名の方が、
「よし、応援しようじゃないか」と、
手を上げてくださいました。

、、、それは良いのだけど、
4月から集まるその支援金を、
どうするの?という問題が残っている。

まさか私の個人口座に振り込んでもらうわけにはいかない。
「公共性のあるお金」だから、「使う人」と、
「管理する人」が別々でなければ信頼してもらえない。

でも、そんな銀行口座を作ろうにも、
「団体の規約をもつ公人格」でなければ作れない。
私がその代表をするわけにもいかないし、
そもそも来年は殆ど海外にいるはずだから、
管理などできるはずもない。

、、、ということで、
支援会「陣内俊を支える会」というものを、
担ってくださる方を探さねばなりませんでした。

ICBCのメンバーのなかで、
誰にそれをお願いできるだろう?
と少し考えて、直観的に、
「久米川さんしかいない」と思いました。

久米川さん(通称くめさん)は、
「誠実と信頼が服を着て歩いている」
というような方で、人を安心させる語り口、
ぼくとつだけれど力のある言葉、
そして何よりも「神が何とかしてくださる」という信仰。

、、、この人以外いない、と思い、
ある日の仕事後の夜に、
国道沿いにあるレストランにお呼び立てし、
そして私のこの数年考えてきたことや、
新しい団体のこと、そしてその団体の活動形態は、
海外スタッフはセルフサポート形式であることを話しました。

そしてそのためには「支援会」を立ち上げねばならないこと、
それをお任せできる方として、
久米川さん以外考えられないと思っていることを、
私は語りました。

結果的に引き受けてくださったので、
今の私があるわけですが、
じつはこの話にはもう「ひとひねり」あります。

久米川さんと愛知県の国道沿いのレストランで、
味噌カツ定食を食べながら話し合った10年前のあの夜、
じつはメールのやりとりのなかで久米川さんは
「わしも俊君に話したいことがあったから丁度良い」
とおっしゃっていました。

「何のことだろう?」
と思いながらファミレスで、
久米川さんからの話をまず聞こうと思い、
「くめさんが言われていたあれは何でしょう?」
と聞きました。

すると、くめさんが語ったのは、
「ICBCの未来」のことでした。

ICBCという教会はかなり山あり谷ありの教会でして、
2002年以降に私が通うようになった以前の姿については、
ここでは割愛します。

しかし私がいた6年間にもいろんなことがありました。
ICBCの場合特に「若い人々が集う活気ある教会」を、
目指していましたし、そのような教会として知られてもいました。

しかし2007年当時、
教会にはいろんなことがあり、
少し活気がなくなって来ていた。
若い人の人数も勢いも、低下していた。

少なくともくめさんはそう見ていたし、
私もそれには同意する。

「、、、そこでだ、俊君。
 俊君に頼みというのは、
 今後10年ぐらいの教会の未来のことを考えたとき、
 やはり若い子達が楽しく活気をもって、
 活動しているというのがとても大切だとわしは思う。
 そういうことを考えていたとき、
 俊君のことを思い出した。
 やっぱり俊君みたいな人が、
 10代や20代の子達を引っ張っていって、
 そしてもう一度盛り上げてくれることが、
 教会の未来のために必要なことだと思っとる。
 俊君は聞き屋ボランティアとかで凄くがんばっていたし、
 今は仕事も忙しいとは思うが、
 もういちど立ち上がってくれないか?」

というのが、くめさんの、
「話したいと思っていた」ことでした。
このときの会話は、今でもなぜかハッキリ覚えています。

「同床異夢」とはまさにこのことで、
同じ会合に臨むにあたり、
くめさんは「今後のローカルな教会のこと」を考え、
私は
「ローカルな教会から巣立ち、
日本全体や世界のために、
奉仕することに挑戦してみたい」
と考えていた。

くめさんのこの話のあと、
「例の話」を持ち出すことは、
非常に気まずかったのを覚えています。

「くめさん、今の話を聞いた後に、
 非常に心苦しいのですが、、、
 実はぼくもくめさんにお願いがありまして、
 それは、、、」と。

要するにこの教会から旅立つということですから。

くめさんは最後まで私の話を聞き、
そして「陣内俊を支える会」を引き受け、
そして息子ほども年が離れた私を、
たぶん「本当に自分の息子だ」と思って、
心骨を砕いて奉仕してくださった。

ICBCだけでなく、県内の知らない教会に行って、
「こんな若者がいます。
 陣内俊と言います。
 世界のために奉仕したいと言っています。
 どうか祈り支援してやってください!」
と頭を下げてくださった。

私が病気で動けなかった2年間も、
まったく疑うことなく支援会を続けてくださった。
療養中2度くめさんにあったとき、
私はどんな顔をして相対していいのか分からなかった。

申し訳ないのと、情けないのと、
言葉にならない思いがあるけれど、
病気でうまく言葉にできないのと、、、

でも療養中の2年で二回、
妻と私とくめさんであったとき二度とも、
「生きててくれりゃあ、それでいいで。
 あと、わしはまったく疑っとらんでね。
 神が俊君をお選びになったことを。
 神がこの病気を経た俊君を、
 必ず用いてくださるという計画を、
 みじんも疑ったことがない。」と。

そしてくめさんの信仰のとおり、
「陣内俊はまったく活動していない」
ということを知ったうえで、
「陣内俊を支える会」には支援金が、
活動しているときと変わらず集まり続けました。

預言者エリヤが2年半、カラスに養われたという記事が、
旧約聖書にありますが、私はその奇跡を信じられます。
私もまた、違う文脈ですが同じ奇跡を体験しましたから。

そしてその奇跡というのは、
おそらく私の信仰にではなく、
くめさんの信仰に基づいているのだろうと、
私は思っています。

このときのことは何度思い出しても、
今の言葉でいう「ムネアツ(胸が熱くなる)」
すぎて、書きながら泣きそうになります。

私は「信じてもらう価値がないのに信じてもらった」
から、今生きていて、活動を続けている。

その「信じてくれた」人の代表的な人は、
私の妻をのぞくと、くめさんです。

もちろんそれに私の近しい友人や家族が加わりますが。

私が今有るのは自分の信仰によってではない。
だから、私は誰か「自分のことを信じられない」人の代りに、
神を信じてあげることが、残された人生において、
やるべき仕事の一つだと神に語られています。

「今度はあなたが、
 もはや信仰を持てない誰かのために、
 信じてあげなさい。」
そう語られているように思うのです。

、、、話が少しそれましたが、
くめさんは本当に、
そのようなわけで私の「親」です。

そのくめさんが、
年齢のこともあるから、
「支える会」のことを、
そろそろ次の世代にバトンタッチしたい、
とおっしゃったのは、昨年のことでした。

もちろん愛知県にある教会の支援者への、
レターの手渡しや印刷は喜んでやるが、
おカネの管理だとか、名目上の代表者は、
次の人に譲りたい、と。

さしあたって私の妻と、
そして妻の友だちの二人が、
くめさんのしてくださっていたことを、
引き継ぐことになりまして、
今回の愛知県訪問は、
そのその引き継ぎのためでもあります。

2007年のあのファミレスでの会話のあと、
「よし、やろう」と言ってくださったことを、
9年間、本当にやってくださった。

「やろう」「いいね」と言ってくれる人は沢山います。
しかし、それを「本当に」やってくれる人は、
多くはありません。

久米川さんはそのような人物です。
言葉と行動が一致している人物。

信頼と誠実を体現している人物。
それが久米川さんです。

久米川さんでなければ、
私は9年間、活動を続けてこれなかったと、
本当にそう思っています。

いくら感謝してもし足りません。



▼▼▼ある思考的実験▼▼▼

これは事後的な思考的実験に過ぎないのですが、
時々、こう考えることがあります。

あのファミレスの会話で、
「私がNGOに入って海外に行く」というプランAと、
「地元で社会人を続けながら、
 30代をICBCの若者をもり立てるために使う」
というプランBがあった。

もしあのとき、
私がプランBを選んでいたら、
どうなっていたのだろう?と。

映画「マトリックス」の、
青と赤の二つのカプセルのように、
あのとき私が「運命の分岐点」に立っていたとして、
逆を選んでいたらどうなっていたのだろう?と。

「10年間私がいたICBCは今とは違っていただろうか?」
「10年間、私がいなかったNGOは、
 何か違っていただろうか?」
「私自身は違っているのは分かっている。
 では、何が違っていただろうか?」と。

村上春樹が小説を書くとき、
その主人公が時々「村上春樹本人のように見える」
という指摘に、「村上さんのところ」の中で、
村上春樹はこう語っています。

→位置No.176
〈僕の小説に出てくる一人称の僕は、
 僕に似ているところもありますが、
 似ていないところの方がずっと多いと思います。
 そしてそれぞれの作品によって、
 似ているところ、似ていないところは
 少しずつ違ってくるような気がします。
 というか、それらの僕は
 「僕があるいはそうであったかもしれない可能性を持った僕」
 と考えてもらった方がいいかもしれません。
 英語で言う「仮定法過去完了」ですね。
 「The one I could have been,if...」というところです。
 そういう仮定法を試せるところが、
 小説を書くことの楽しみかもしれません。
 現実にはそんなことはできないから。〉

▼参考リンク「村上さんのところ コンプリート版」村上春樹
http://amzn.asia/cxr4DwW

、、、こういう、
「もしかしたら私であったかもしれない誰か」のことを、
「オルターエゴ」とも呼んだりします。

「もしかすると自分だったかもしれない自我」のことですね。

あのとき久米川さんの考えていたような、
「ワーキングユース」として、
愛知県に根を下ろし、もしかしたら家庭を持ち、
もしかしたら家を建て、そして、
もしかしたら今のICBCで、
私のようなゲストをもてなす側にいる自分は、
いったいどんなしゃべり方をして、
どんな会話をして、どんな教会での奉仕をして、
どんな休日を過ごして、どんな「人格」で、
そして何より大切なのは、
どんな神の国の貢献をしていただろうか?

そんな思考実験をこの9年間、
私は新幹線が豊橋に止り、
豊橋駅のホームを歩くたびにしてきました。
ICBCの礼拝で席に座りながら、
私の「オルターエゴ」は、
どこに座り、何に悩み、誰と週末を過ごし、
そしてそいつは今、幸せだろうか?と。

「そいつ」は今、
私のメルマガを読んでくれているだろうか?
読んでいるとしたら、いつ、どこで読み、
そして何を感じてくれているだろうか、と。

そしていつも思うのです。

「そいつ」が見たときに、
失望しないような歩みをしよう、と。

尊敬してもらわないまでも、
「そいつ」が、
「うん、この人のやっていることは意味があり、
 価値のあることだ。この人は信頼に値する。」
と思って貰えるような人間でありたいと、
いつも思いながら私は歩んでいます。

ユーミンの歌う、
「卒業写真のあの人」のように、
あのファミレスで赤いカプセルを飲んだ、
私の「オルターエゴ」は、
今の私の背中を、時々、遠くで叱っています。
時々、年に何度か、そいつが、
「いいじゃない、それ」と褒めてくれます。

そんなとき私は思います。

あぁ、この人生で良かったなぁ、幸せだなぁ、と。

あと、くめさんが10年前に託してくれた思いは、
今も私の中にありますから、ICBCを訪れるたびに、
何かこの教会のために役に立ちたい、と思っています。

恩返しというとおこがましいですが、
皆さんが祈り支えてくださったおかげで得た「何か」を、
還元することで、くめさんが言われたような、
「教会の未来」のために資することができたら、
法外な喜びだと思いながら。

今回は特に、私が20代のころにスタッフをしていた、
中高生会の「高校生」だった、
いまは32歳になる友人の結婚式でしたので、
当時の懐かしいメンバーとたくさん話しました。
私の中の「オルターエゴ」と、
今の私が久しぶりに重なり統合されるような、
不思議な楽しさを覚えました。

、、、この思考実験の「結論」はいつも同じです。

「青いカプセル」で正解だった。
あのとき「進む決断」をして良かった。

なぜならば、その先には、
私の妻がいましたから。

そのためだけにでも、
「転がる石のような9年間」は報われた。

それ以外にも、
全国、全世界にいる沢山の友人との出会い、
そしてこうしてメルマガを書いていること、
それらもやはり「大きな報い」です。
私は投資したものを何倍にも回収しているなぁ、
と感じています。

私の半生を書いていたら、
文字数制限に近づいてきました笑。

いつもの3倍ぐらいオープニングをやっていますが、
愛知という自分のルーツでそんなことを今日は考えました。

おつきあいいただきありがとうございました。




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3.11の震災について

2017.09.14 Thursday

+++vol.005 2017年3月21日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■1 今週の「ブログでは言えないこと」
3.11の震災について
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼2011年3月11日のこと▼▼▼

去る3月11日には、「震災後6年間が経った」、
という報道がテレビ各局でなされましたし、
各地で震災を覚えるイベントが開催されました。

2011年3月11日、
私はエチオピアにいました。

砂埃舞うエチオピアのアジスアベバ市内を、
10ブル(40円ぐらい)の乗車料を払い、
時刻表もバス停も、
「かつて座席があった場所」に、
シートが残っているかどうかという保障もない、
「乗り合いタクシー」に乗っていました。

ラジオからアムハラ語で、
「ヤーパン、ヤーパン」と繰り返す声が聞こえます。
ヤーパンは日本のことなので、日本で何かあったのだと思い、
隣の比較的身なりの良い紳士に英語で話しかけてみました。
思った通り英語が分かる人だったので、
「私は日本人です。
 ラジオで日本と言ってるみたいだけど、
 何かあったのですか?」
聞いてみますと、
「なんか大きな地震があったみたいだ。
 100人ぐらい死んだ、と言っている。」

次の日、蠅が飛び交う地元のカフェで、
一杯40円のマキアートを飲みながら、
「アルジャジーラ」のニュースを見て、
私は言葉を失いました。

死んだのが100人というオーダーではないのは、
一目瞭然でした。

人が流されているのではなく、
街が流されている光景が、
そこには映っていました。

しばらくその場で動けませんでした。

メールも48時間ぐらいは通じず、
NHKの公式サイトと、CNNのサイト、
それからアルジャジーラのテレビ放送を見て、
ただただ何も出来ない自分を突きつけられる数日でした。

その後1週間ほど私はエチオピアに滞在しました。

その間、多くのエチオピアの仲間たちが日本のために、
涙を流して祈ってくれましたし、
彼らの給料の水準からしたら考えられないほどの金額の献金
(一人ひとりが月給の半分から一ヶ月分)を差し出し、
東北に住んでいる人々に何か届けて欲しい、とお金を託されました。

帰ってきてすぐに私はFVIの活動として、
福島に通うようになり、
それから2013年に燃え尽きで倒れるまで、
「福島」はFVIの働きの根幹をなすようになりました。

2010年に創設されたFVIは元来、
災害支援を働きとする想定はしていませんでしたが、
あの状況のなかで、私たちはそのように「導かれた」と、
今では思っています。



▼▼▼FVIの6年間の活動▼▼▼

福島でのFVIの働きは「福島未来会議」として結実し、
1〜5まで、合計5回の、さまざまな切り口からの、
福島における支援活動をしてきました。

福島未来会議2、3は福島に関わりたい若者たちの集いで、
福島や日本の未来について考え、自分たちの生涯をどのように、
「使って」生きていくのか祈り考えました。

そこで知り合った若者のカップルが3組、結婚に導かれ、
福島を始め、全国各地で地域に仕える働きをしています。

また福島未来会議5はアーティストが
「福島を描く」という企画ですが、
その働きは今でも継続されており、
今月も東京都心でアート展が開催されました。

また、2015年からは、
福島県内で「放置牛」のお世話をする働きをFVIは応援しており、
(社)「ふるさとと心を守る友の会」の代表の、
谷咲月さんとの2年前の出会いから、
今も断続的に支援を続けています。

大々的なサポートは出来ないにしても、
小さいながらも「自然界をケアする」働きをしている、
福島の現場で格闘する人を応援しています。

▼(社)ふるさとと心を守る友の会
http://ameblo.jp/friends-humane/

▼【動画】未来への教科書
〜帰還困難区域で生き続ける牛たちのために〜
https://www.youtube.com/watch?v=BaUwkpPdk0g


私は途中、2年間ぶったおれ、
現場を離れていたわけですが、
FVIの働きはその間も続いていたわけです。

戦線離脱した兵士のようなもので、
その戦争が勝利だとしても敗北だとしても、
戦況が良くても悪くても、
私にとって震災支援活動とは、
トラウマになるような怪我を負った現場にも似ていて、
何かそれについて真正面から考えることから、
無意識に逃げているようなところがあります。



▼▼▼屈託ある6年間▼▼▼

それでもやはり、FVIが、そして私が、
2011年の3月以降、福島でいったい、
何が出来てきたのだろう、と今でも考えます。

ときどき考える、というよりも、
いつも考えています。

無意識に逃げながら、
なんていうんだろう、
同心円をぐるぐると回るようにして、
横目に「中心であるところの3.11」を見ながら、
私は周辺を回り続けているのです。

だからテレビやラジオやさまざまな媒体で、
「震災のあった東北を支援するために、
 6年目の東北に旅行に行きました!
 みなさん、観光も立派な支援です。
 あの日を私たちは忘れません!
 あの日を覚えて防災対策をしましょう!
 東北の物産を買いましょう!
 ついでに熊本の物産も買いましょう!」
みたいな屈託のない「チャリティ宣言」を聞くと、
私はなんだか、胸の奥が「キューーン」とうずくのです。

その屈託のなさが羨ましくもあり、
真正面からそれを語れず、
横目に見ながらうじうじ考え続けている自分が、
どこか後ろめたくもあり、
そして、じっさいに被災した人からすると、
「さわやかチャリティ」のタレントも、
「うじうじ考え」の私も、
同じように「非・当事者」なのです。

、、、そんな「屈託した」事情があり、
私は2013年の発病以降、
震災についてあまり直接的に多くを語らなくなりました。



▼▼▼「考える」人▼▼▼

、、、それでも、
何度も戻ってきますが、
やはり私はこれについて考えているわけです。

それほどまでに、東日本大震災は、
私の人生に影響を与えた、ということでしょう。

先週、「養老孟司の人生論」という本を読んでいて、
養老さんがこんなことを書いているのを読んで思いました。
「あぁ、この人は私と考える方法が似ている」。

→P71 
〈じつは私は、ものごとの理解が遅いんです。、、、
 いまでも他人のいったことを、一年間考えたりするんです。
 だから、ただいま現在のことを、
 あれこれ議論するような会議は、徹底的に苦手です。
 、、、
 答えは自分なりにわかっていることもあるんですよ。
 でもそれが言葉にならない。
 そのときは、まだ他人に上手に伝えられないんです。
 ある問題について、その周囲を出来れば全部、考えようとする。
 私にはそういう癖があるんです。それからなにか言う。
 だから本がたくさん書けるんだと思います。
 本には、これまで考えてきたことを、
 ゆっくり書くんですから、それが可能です。
 でも対象がいま生じていることだと、
 それに対して適切に返事が出来ないんです。
 今の状況をかいつまんで、端的に反応し、表現する。
 それができません。だから政治の議論が苦手なんですよ。
 周囲の問題を含めて、一応自分なりに全部考えて、
 それから返事が出てくるんですから。
 、、、みんなのいうことを聞いて、
 自分なりの意見を作る。
 それにやたらと時間がかかるんですよ、私は。〉

養老孟司さんの本を、
私は社会人2年目あたりから読み始めて、
以来この15年間で、出版された養老さんの主要な著作の、
たぶん8割〜9割は読んできています。

つまり彼の本だけで30冊〜50冊ぐらいは読んでいる。
このセンテンスを読んで、なぜ養老孟司の本を、
私はこれほどまでに読み続けてきたのかという謎が、
解けたように感じました。

それは、養老さんの「考え方の癖」と、
私の「考え方の癖」が似ているからです。
つまり「脳の作り」が似ている。

だから彼の文体は、私にとって「自分の体液」のように、
吸収が容易なわけです。

その「構文」があらかじめこちらにありますから、
そこに単語を当てはめていけば良い。

「間取りがまったく同じ家への引っ越し」
みたいなもので、彼の思想は、私の脳内に、
やけに「収まりが良い」のです。

だから養老さんの本を読むことは私にとって「快感」なのです。
いちいち納得がいくし、いちいち腑に落ちる。

もちろん、ベストセラー作家で、
東大名誉教授の養老さんと私では、
「頭の良さのスケール」はまったく違うわけで、
「似ている」とかいうのは、
非常に不遜きわまりない失礼な話なのですが(笑)、
それでもやはり似ているのです。

養老さんが本田圭佑、
私が「じゅんいちダビットソン」、
または、
養老さんがイチロー、
私が「ニッチロー」
と考えていただければ良いかと思います。

そのスケールや偉大さはさておき、
やはり「似ている」のです。
ちなみに養老さんは自分のことを「永遠の昆虫少年」
と言っていますが、私もかなり重度の「昆虫少年」でした。



▼▼▼愚鈍な考え手▼▼▼

話を震災に戻します。
養老さんは先の本のなかで、
「自分は考えるのに非常に時間がかかる」と、
おっしゃっています。

まるで壊れた蛍光灯のようだと。
「いまごろそんな話してるの?」とよく言われると。
なにせ養老さんは、40年前の東大紛争のことを、
2004年に「やっと答えらしきものが見えてきた」
と本にするぐらいですから。

私は養老さんのこの話を先週読み、
私の震災に対する態度と、
養老さんの東大紛争に対する態度は、
よく似ていると思いました。

養老さんですら、東大紛争の答えは、
40年経ち、自分が東大を退官してから浮かんできたのです。
きっと震災についての私の考えは、
与えられた寿命内では終わらないのではないかと思っています。

養老さんも私も、考えることに対して「しつこい」のです。
いつまでもいつまでも、世の中の99%の人が、
「そんな昔のこと、いまでも考えてるの?」
というようなことを、私はずーっと考えていたりします。

「10年前に口に入れたガムがまだ口に入ってる」
みたいな感じで、私はある一つの「問い」を、
ロングスパンで考え続けられますし、
それを辞めることは出来ません。
それが「脳の作り」なんだから仕方ない。

だからめっぽう実務には弱い笑。
ビジネスではぜったいに成功しないし、
起業家にも経営者にも向かないし、
すぐに役に立つようなセミナーは出来ない。

社会の足を引っ張るような人間です笑。

でも、トラック何周も遅れていると、
あるとき自分が先頭を走っている、
ということもあるように、
こういう考え方をする人、というのが、
社会には少数ですが必要、と私は今は思います。

だからこうしてメルマガなんぞ発行したりしているのです。



▼▼▼思考の円環▼▼▼

ここまで書いて終わると、
何か質問から逃げたようになってしまいますが、
私は今も震災について、福島で起きたことについて、
その後の日本について、考え続けています。

それが今私が震災について言えることになります。
本当に逃げているみたいで申し訳ないですが。

「思考」は「円環」となったときに、
はじめて言語化し、体系化したアウトプットが可能になる、
というのが私のイメージなのですが、
こと震災に関しては、まだ「円環が閉じていない」というわけです。

それでも震災支援の現場にいる間は、
活動について報告の義務もありますし、
そういった話を求められたりもしますから、
2013年に発病するまで、
何度か震災について国内でも海外でも語りました。

しかしそれは思考の「断片」であって、
話せば話すほど自分がばらばらになっていくような感覚を覚えながら、
それでも話した記憶があります。
話すたびに、その夜は自己嫌悪というか、
大きな宿痾を背負ってしまったような感覚にさいなまれ、
だんだん夜眠れなくなっていきました。

自分でも分かっていないことを、
他者に伝えるということが、これほどつらいことか、
と当時は思いました。

今なら、私は何と説明するのだろう?

何かを言う意志がないわけではありません。
何かを言う意志があるからこそ、
去年はチェルノブイリを観に行ったり、
今も避難区域の放置牛の支援をしたりしているのです。
震災がらみ、福島がらみ、原発がらみ、エネルギーがらみの書籍も、
この6年間で少なくとも100冊以上は読んできました。

それでも、それが言葉になるのには、
まだまだかかりそうです。

「閉じてない円環」から何が生まれたかをひとつだけ言うならば、
私は震災支援をするようになって、つまり福島に関わるようになって、
以前にもまして「物語」の重要性を認識するようになりました。
「大きな物語」が脱構築され解体されたポストモダン世界において、
「物語を紡ぐ」ということの持つ意味について、
多くを考えるようになりました。

去年教会の講壇でさせていただいたいくつかのメッセージは、
その結実と言えるかも知れません。

▼「私」という名の物語
https://www.youtube.com/watch?v=2sETXRoZbAU&t=2s

▼預言的な教会とは何か
https://www.youtube.com/watch?v=YUqJc2wNv8w

このあたりですね。




▼▼▼書くことと思考の再起動▼▼▼

、、、書くことは考えることだ、
と先週メルマガの中に書きましたが、
メルマガを書くようになって、
また私の「思考という内燃機関」が、
動き出したように感じています。

この流れでこの喩えは、
もう「悪意」と捉えられかねませんが、
「原発が再稼働するように」、
私の思考は再稼働しつつあります。

(、、でも、言わせていただければ、
 ちょっと意図的です。
 原発だとか核分裂という科学技術に、
 「悪の属性」をつけることに、
 私は2011年から一貫して反対しています。
 悪は技術を利用する人間の側にあるのであって、
 科学技術は価値中立的なものです。
 価値中立的なものに悪の属性をつけると、
 外部に投影された内面の悪が盲点になって、
 逆に目の中の梁が見えなくなります。
 「お金が悪だ」と思っている人ほど、
 実は脇が甘く、お金の罠に陥りやすいです。
 聖書によれば、
 「お金を愛すること」が悪なのであって、
 お金は価値中立的です。
 原発をはじめとする科学技術も同じです。)

、、話を戻しますと、
メルマガを続けている間に、
どれほど思考が「前進」するか、
それは未知数ですが、私はこれからも、
あの震災とは何だったのか、について、
考え続けるでしょう。

こうしてメルマガを書いているということが、
その「答え」のひとつなのかもしれません。

、、当たり前ですが付言しますと、
6年前に災害の犠牲になった方々に哀悼の意を表し、
そして今も日常を取り戻せない人がいるのなら、
一日も早く平穏と安堵が戻りますようにと、
メルマガ読者の皆様と心一つにして祈っています。






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引っ越しが終わりました。

2017.09.07 Thursday

+++vol.004 2017年3月14日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■1 今週の「ブログでは言えないこと」
引っ越しが終わりました。
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼新しいキッチン▼▼▼

メルマガ読者の皆様、こんにちは。
やっと、引っ越しが終わりました。

先週の水曜日(3月8日)に、
業者の方が来てくれて荷物の移動がすべて終わり、
9日(木曜日)に荷ほどきと家具の配置を、
10日(金曜日)に旧住居の掃除と退去立ち会い、
11日(土曜日)に荷ほどきの残りを終えました。
段ボールはすべてほどき終わり、引っ越しの作業は9割方終わった、
という感じです。

今日(日曜日)は、午前中に教会の礼拝に出席し、
午後は新しいキッチンでカレーライスを作りました。

とりあえず何か作業をすることで、
新しいキッチンの「導線」というか、
手の動き方に慣れるというのをやっておかないと、
なんだか心が落ち着かないのです。

ガスコンロの火力から、シンクの形状、大きさ、
水の出方、包丁の場所、ピーラー、トング、鍋、ボウル、
調味料、フライパン、そういったものの位置関係が、
すべて変化するわけですから、それを把握したい。
私は料理好きなので、キッチンは「私の延長」です。
F1ドライバーにとってマシンが身体の延長、
フォークリフト運転手にとってリフト車が腕の延長であるように、
キッチンは私の身体の延長です。

なので把握したい。

ターミネーターが雨の日に裸で未来から現れたとき、
手を握ったり、いろんなものを見たり、歩いたり走ったりして、
とりあえず「サイボーグの身体のチェック」をしたように。

、、、というわけで、
今夜は、我が家は、カレーです。
誰も興味ないと思いますが笑。



▼▼▼読書しない日々、パソコンを触らない日々▼▼▼

、、、で、キッチンは「趣味」の身体の延長ですが、
私の仕事の身体の延長は、間違いなくパソコンなのです。

わりかし「知識集約的な」仕事をしていますので、
何かを考えたり学んだり発信したり作業したりすることの、
ほとんどはパソコンを介して行うことになります。

、、、で、この4日間ぐらい、
パソコンはほとんどさわりませんでした。
つまり仕事はしていない笑。

まぁ、そんなときもあります。
こういうときは自由な業態で良かったなぁ、と思います。
引っ越し業者も週末でないのでとても安かったし。
引っ越し作業を一気に終わらせられるし。
私と妻は得意な作業と苦手な作業が、
丁度補い合うように巧く出来ていて、
チームワークは抜群です。

おじいさんとおばあさんが華麗なコンビネーションで、
餅をついてはこねるという映像がありますが、
私たちの引っ越し作業はまさにそんな感じでした。

はかどるはかどる笑。
最後はハイタッチして終わり。

、、、というわけでパソコンを久しぶりにさわっています。

あと、かなり久しぶりのことですが、
水曜日以降、まる4日間ぐらい、
本をまったく読みませんでした。

なので、今号の「陣内が先週読んだ本」は、
ボリューム少なめです。

今週もなんだかいろいろ出かけたりしますので、
おそらく次週も、少なめになりそうです。
どうかご容赦を。



▼▼▼東伏見という地名▼▼▼

新しい住居は、これまで住んでいた練馬区の住居から、
直線距離で7キロメートルほどしか離れておらず、
行こうと思えば自転車でも行ける距離です。

最寄り駅は「東伏見」という、
西武新宿線の駅ですが、
これが超絶マイナーな駅で、
首都圏在住の人でもマジで誰も知らない(笑)。

「最寄り駅が東伏見」と人に伝えると、
「東伏見、、、、」と、遠い目をし、
視線が空中を彷徨います。

ちょうど、80代ぐらいのおばあちゃんに、
外人プロレスラーの名前を伝えたときみたいに。

「タイガー・ジェット・シン、、、」
とおばあちゃんが虚空を眺めるときと、
「東伏見、、、」
と都内の人が言うときの目はだいたい同じです。

ピンと来てねぇぇ、、、!
ピント、合ってねぇ、、、!

かくいう私も、東伏見なんていう地名は、
1年前には口にしたことすらなかったわけですから、
「ピンと来てなさ」では同じだったのですが。

伏見という京都の地名はしかし、
「メジャー」と言って良いでしょう。
京都市に伏見区という行政区がありまして、
秀吉が開いた歴史ある城下町です。

「東」伏見という地名の元ネタは京都にあります。

東京というのは、日本の歴史全体からしますと、
江戸以降に突然開発が進んだ「新興地域」である、
というのがこういう地名からもよく分かります。

「東大和」とか「東村山」とか「東久留米」とかも、
それぞれ西にもともとあった地名の
「東」バージョンね、っていうことです。
ちなみに北海道にもこの手の名付け方をした地名は、
数多くあります。

、、、何が言いたいかと言いますと、
つまり東京というのは、
イギリスに対するアメリカなわけです。

アメリカ東部のいくつかの州を合わせて、
「ニュー・イングランド」と呼びますがあれは、
欧州から新大陸に入植したイギリス人が、
「ここは新しい(ニュー)イギリス(イングランド)」だ、
と宣言したことでそういう地名になりました。

「ニューヨーク」もそうです。

イギリス北部に「ヨーク」という地方があり、
そこは「ヨークシャー」という豚の原産地で有名です。
入植者たちがマンハッタン島あたりに来たときに、
「新しいヨークだ」と言ったのが、
ニューヨークの語源です。

ニュージャージー州もそうです。
イギリスにジャージーという諸島があり、
それを入植者たちがつけたのです。
ジャージーというのはちなみに、
ジャージー牛の原産地です。

そもそもの話ですが、
「東京」からして、
「東の京都」ですからね。

なので、数学的に現しますと、
「東京」:「京都」(相似記号)「東伏見」:「伏見」
となります。

「ニューイングランド」:「イングランド」
(相似記号)「ニューヨーク」:「ヨーク」
も同じ事ですね。

、、、地名の話を長々としてしまいましたが、
私は東伏見というマイナーな駅が最寄り駅の、
西東京市内に住むことになりました。

「陣内俊を支える会」の会員で、
紙媒体のプレヤーレターをお送りしている方には、
新しい住所をお伝えします。
(PDF版では個人情報になるため掲載は控えさせていただきます)

お近くに来た際にはお立ち寄りください。
私が美味しいカレーを振る舞うかもしれません。



▼▼▼拡大版Q&Aコーナー▼▼▼

さて、やや無駄話が長くなってしまいましたが、
今週は「拡大版Q&A」です。

先週はメルマガ執筆に割ける時間がなく、
そもそも腰を落ち着けて執筆する机もありませんでしたので、
ギリギリになって原稿を書いているような状況ですが、
私がメルマガでいちばんやりたかった(やりたい)コーナーがこの、
Q&Aコーナーです。

このメルマガが目指すところは、
「読むと聞こえてくる親密な会話」ですから、
「対話」が生まれるこのコーナーは大切です。

読者の皆様、
どうぞ、どんどん質問をお寄せください。
時々真面目に、時々ふざけながら(笑)、
質問にお答えしていきますので、
お楽しみに。






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大切なことは向こうから来る

2017.07.26 Wednesday


+++vol.002 2017年2月28日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■1 今週の「ブログでは言えないこと」
大切なことは向こうから来る
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼002号をむかえて▼▼▼

メルマガ読者の皆様、こんにちは、陣内俊です。
このメルマガも第002号を配信できて、
大変嬉しく思います。

第001号を配信した火曜日の夕方、
私は思いました。

、、、さて、次は何を書こう?

まさかのネタ切れかと思いましたが(笑)、
でも、何かは書こうと思います。

メルマガ第一号は、
30名に配信しました。
10名の協力者にパイロット版を配布していたので、
1週間で新たに20名が登録してくれた、
ということです。

これといった広報活動はしていないので、
まずまずの広がりかな、と思っています。
今後も読者の皆様に、口コミをよろしくお願いします。

別にたくさんの人に拡がれば拡がるほど良いわけではないですが、
このメルマガを楽しい場所にしたいと思っていますので。

さて、002号です。

今日は、ブログにはあまり書いてこなかった、
去年一年間の個人的なことを書こうと思います。
2016年の、私の個人的なライフストーリーについて。

2008年から私は「陣内俊Prayer Letter ONLINE」という、
ブログを書き続けてきました。

2014年の冬に、FVIの働きに復帰してから、
私はブログ更新を再開しました。

それから1年ほどが経過していますが、
更新頻度はあまり高くはありません。

毎朝「デボーション」という、
聖書の一章を読んでそこから学び取ったことを記録する、
ジャーナルを掲載していますが、
それは「ブログのために書いている」というよりも、
自分の記録のついでとしてそれを公開している、
というのに近いですから。

更新頻度が高くないだけでなく、
その内容も、病気になる以前とは、
少し違ったものだったように記憶しています。

あまり個人的な体験のことは書かず、
観た映画だったり、読んだ本のレビューを時々書く、
みたいな感じでした。

要するに、あまりテンションを上げずに、
この1年間、ブログを書いてきたわけです。



▼▼▼体力の壁▼▼▼

しかしこの1年間もやはり、
私の人生の旅は続いてきました。
そのすべてを書き記すことは難しいですが、
今日はその一部でも良いので、
書けたらと思っています。

わりかしこの手のことは、
ブログでシェアするのに、適していませんでしたが、
メルマガでは書けるようになりましたので。

2016年の1年間は、
私にとっては仕事には復帰していましたが、
2年間の休職のあとの1年間ということで、
まだまだ体調の波も不安定でしたし、
本格的な復帰には至っていませんでした。

通常の会社でいうならば、
出勤を午後か午前のどちらかだけにしてもらい、
病欠も多い、みたいな感じでしょうか。

とうてい使い物になりません(笑)。

FVIはしかし、
組織によって何かを成し遂げるという性格よりも、
むしろ吉本興業などのタレント事務所のようなものに近く、
各々の「ライフミッション」があり、
それらを相互に刺激し合いながら推し進めるための、
「活動家のプラットフォーム」なので、
体調と相談しつつ自分のペースを配分出来、
回復のプロセスを比較的スムーズに歩めました。
(それを可能にしてくれたのは言うまでもなく、
 支えてくださった支援者の皆様のおかげでした)

2013年の冬に燃え尽きに陥って、
最初のカウンセリングを受けたとき、
カウンセラーは、
「また働けるようになるには4年ぐらいはかかりそうだ」
と思ったと回復後に告げられました。

結果的に2年後に仕事に復帰し、
いまはまる3年が経つわけですが、
思ったよりは早く回復出来た、
ということになるでしょう。

去年1年間はですから、
一度海外に出かけ、
6回ほど国内の出張がありましたが、
そのほかは東京で「ゆっくりと」、
自分のペースで仕事をこなしました。

1年間で何が最もつらかったかと聞かれれば、
「とにかく、体力がない」ことでした。

病気から仕事に復帰してからというもの、
「話す、聞く、書く、読む、動く」などの、
基本的な動作は以前と同じように出来るようになりました。

ところが、おそらく80歳代ぐらいの体力しかなく、
たとえば半日どこかに出かけると、
次の一日はまるまる家で動かないようにしないと、
体力が回復しない、という調子でした。

1週間出張に行きますと、
次の1週間はひとつも予定を入れないようにし、
家で静かに過ごしました。

それを越える仕事量をこなすと、
翌週や翌月に、必ず病気の症状が戻ってくるのでした。



▼▼▼祈る以外出来ない日々▼▼▼

ですから、あらゆることをするときに、
「体力」がボトルネックになりました。

能力があろうが、人脈があろうが、機会があろうが、
お金があろうが(ありませんが)、
知識があろうが、舞台がそろっていようが、
すべての活動が、
「体力」というボトルネックの制約を受けました。

これは結構なストレスで、
去年一年間は、毎日のように、
「体力を回復させてください」と、
神に祈っていました。

祈ってないで、体力が回復するように、
身体を鍛えたらいいじゃん。

と思われるかも知れません。

もっともに聞こえますが、
実はここにも罠があります。
療養中にも去年一年間にも、
私は何度も「ジョギング・水泳・外出」などの、
体力をつけるための試みをしてきました。

ところが、それをするエネルギーがまず枯渇しているので、
その試みによって軽い燃え尽きに陥り、
鬱の症状が戻ってくるのです。

「骨折のリハビリをしたいのは山々だが、
 腕を動かすたびに新たな部分が骨折する」
みたいなのっぴきならない状況に、
私はただ祈る以外ありませんでした。



▼▼▼変化の兆しと睡眠時間▼▼▼

去年の年末から今年のはじめにかけて、
その「エネルギー不足の無限ループ」から、
ちょっと抜けたように感じた瞬間がありました。

それはまるで「初雪」のように、
気がついたら天から静かに降りてきた兆候として、
私の内面に「エネルギー源の復活」として感じられました。

それはたとえば、
ウォーキングを続けても、
そのウォーキングによって
ぐったり疲れてしまわなくなったことであったり、
今日の午後人と会って話して、疲れるけれど、
一日寝れば次の朝には疲れが残っていない状態だったり、
「何かをしようという意欲」という、
「なつかしい感覚」が戻ってきたり、
という兆候として感じ取られました。

その兆候を捕まえて、
私は時期を見計らっていたこのメルマガを開始したわけです。

睡眠時間も変わりました。

病気以前の私は短くはないけれどだいたい1日7時間睡眠でした。

療養中は寝られないときと寝過ぎるときを繰り返し、
どのぐらい寝たのかよく覚えていません。

復帰後の1年は、とにかくよく寝ました。
1日9時間〜10時間、平均して寝ていました。
特に何かの予定をこなした日には、
10時間以上、こんこんと眠りました。

眠りは「脳のデフラグ」と呼ばれていますから、
私の脳のOSを、「2.0」にアップデートする1年間に、
それぐらいたくさんのデフラグが必要だったのだろう、
と今は思っています。

その睡眠時間が、
今年に入って、7時間半〜8時間程度で、
十分寝た、と思えるように変わってきました。
もちろんたくさん活動した日などは、
10時間寝るときもありますが、
それでも病気以前の水準に近づきつつあります。


▼▼▼「陣内OS2.0」とは▼▼▼

さて、先ほどOSが「2.0」に変化した、
と書きました。

OSとはオペレーティング・システムのことで、
Windowsだとか、MacOSだとか、
シェアウェアのLinuxだとかを指します。

たいていの人はWindowsかMacのどちらかを使っているはずです。
スマホやタブレットだと、
iOSまたは、Androidのどちらか、
ということになるでしょう。

OSというのはソフトウェアやアプリケーションを、
「動かすためのシステム」のことですから、
たとえば個々のアプリケーションが「単語」ならば、
OSは「文法」ということになります。

MacOSXという「文法」の上で、
「iMovie」という「単語」を走らせます。

また、Windows10という「文法」の上で、
「Microsoft Word」という「単語」を走らせます。

つまりOSは「メタソフトウェア」であり、
人間にとってOSの比喩で現されるものは、
「世界観」ということになります。

私は病気療養の2年間で、このOSが書き換えられた、
と思っています。そして去年の1年間は、
新しいOSへの、各アプリケーションの調整期間だったと。

では、私にとって新しいOS「2.0」とは何だったのか?

これを一言で説明するのは非常に難しいからこそ、
こうしてメルマガを刊行しているわけです(笑)。

しかし、いくつかのメジャーな変化のひとつを、
ここで敢えて説明してみたいと思います。



▼▼▼大切なことは向こうからやってくる▼▼▼

それは、「大切なことは向こうからやってくる」
という「諦念にも似た確信」を得られたことです。

「諦念にも似た確信」というのは実は語義矛盾で、
「絶望にも似た希望」とか、
「過去にも似た未来」とか、
そういう表現にも似ています。

諦めているのか信じているのか分からない、という笑。

しかし、そうとしか表現出来ない「世界観」が、
病気を介してインストールされたOS2.0には、
ビルトインされていたわけです。

以前の私は、
「主体性」というものを、わりと無邪気に信じていました。
人生は自分から働きかけて、意図的に行動して、
そして構築していくものだ、と。

ですから1年後の目標、
5年後の目標、10年後の目標、
20年後、30年後、40年後、、、
と来て、自分の葬式で知り合いに何と言ってもらいたいか、
みたいなことまで考えていました。

何もこれは悪いことでも荒唐無稽なことでもなく、
かの有名なスティーブン・コヴィー氏の「7つの習慣」にも、
自分の葬式をイメージせよ、と書いてあります。

私の場合、たとえば10年後の目標ならば、
健康面、精神性、
人間関係、仕事における達成、
趣味や楽しみ、経済面、家族、、、
といったカテゴリーに分けて、
それぞれに目標を言葉化し、
自分の「ミッション・ステートメント(出た!)」を書いて、
それを印刷し、縮小コピーし、ラミネートし、
財布の中にしまって時々見返したりしていました。

OS2.0に自分の「世界観」が変わったとき、
それらのことをあまりしなくなりました。

理由は二つあります。

一つは、
「紙に書かなければ忘れてしまうようなことなど、
そもそもあまり重要ではないかもしれない」
と思うようになったこと。

人間にとって、それが本当に本当に大事ならば、
紙にではなく、脳の最も深い部分、
心臓にもっとも近い部分に、「見えない文字」で、
書きつけられているのです。

「息子のことを大切にする」という父親の「価値観」は、
あえて手帳に書く必要はないはずです。
なぜなら父親にとってそれは、
自分の血肉になっているからです。

きっと人生で大切なことも同じで、
本当に大切なことは、書かなくとも、
心に刻まれています。

逆に刻まれていないとしたら、
それを内面化するように、
生き方のほうを再構築する必要があるでしょう。

二つ目は、再三書いてきたように、
「大切なことは向こうから来る」
ということが、まるで啓示のように、
気がついたら私の脳内に書きつけられていたからです。

作家の佐藤優さんがまったく同じ事を言っていて驚きました。
彼は「重要なことは常に外部からやってくる」と言っています。

彼がその「啓示」を、
いつ、どこで、どのように、
自分のものとしたのかは、
明確に分かっています。

それは、鈴木宗男事件のときに、
東京地検特捜部の取り調べを受け、
512日間小菅の独房に入ったという経験が、
彼にそのような人生観を抱かせるようにさせた、
というのは彼の書いたものを読めば自明です。

それによって彼は、外務省の職員という職を失い、
前科一犯という、日本の世の中では
生きづらい経歴を持つ身分になりました。
きっと部屋一つ借りるのも難しいというような、
つらい思いもしたことでしょう。

しかし後に、
小菅で512日間「修行」したことによって、
思わぬ果報を得た、と彼は語っています。

まず、独房は読書するのに理想的な環境だったため、
読みたかった古典を片っ端から読めたというのを、
彼は語っています。

次に、自分の人生についてゆっくり考える良い時間だった、
とも言っています。

立ち止まることを知らず走り続けた外務省職員は、
小菅の拘留生活によって強制的に立ち止まらされた、と。

この二つがなければ、「作家 佐藤優」は、
誕生していなかったと彼は言います。
512日間は彼の思想を結晶化させる、
「さなぎ」のような役割を果たしました。

最後に、本当の友達が誰か分かった、
と彼は言っています。

捕まる前に向こうから擦り寄ってきて、
とても親しくしていたたくさんの人が、
手のひらを返したようにさーっと離れていった。

逆に捕まる前は水のような交わりをしていた数人の知り合いが、
彼を助けるための組織を作り、経済的にも社会的にも、
あらゆる援助をしてくれた、と。

その数人の人こそが本当の友人だと分かった。
逆境のときにも離れなかったこの人たちは一生の盟友だ。
私はだから、逆境によって「盟友」を得たことになる、
これは財産です、と彼はラジオで語っていました。



▼▼▼「風」を察知する▼▼▼

私も佐藤さんの話を聞いて、
かなりの部分で共感出来ます。
鬱病になる、ということと、独房で過ごす、
という経験は異なるものですが、
似ている部分もあります。

「思想のさなぎ期間」というのは、
私にも完全に当てはまりますし、
盟友のくだりも、共感出来ます。
じっさいに私も、友人がいなければ、
病気という牢獄から生きて出てこられなかったと思いますから。

、、、で、
佐藤さんはこの経験を通して、悟ったのです。
「重要なことは常に外部から来る」と。

東京地検特捜部が家のドアをノックしたとき、
それが悲劇とともに、
「作家への転身」
「精神と知性の修養」
「本物の友達」を連れてくるとは、
彼は思っていないわけです。

しかしそれは「外部」からやってきました。

佐藤さんはキリスト教徒ですから、
神の召命がそのような
「そのときはそれとは気づかぬ思わぬ方法」
によってもたらされることを、
感覚的に知っていたのではないかと思います。

さて、長々と書いてきましたが、
私が今年になってしみじみ思うのが、
「大切なことは向こうからやってくる」
ということです。

いみじくもボブ・ディランが、
「答えは風の中」と歌ったように、
人生を運ぶ「風」に身を任せるときに、
体当たりしても開かなかった運命の扉は、
あっさりと開いたりします。

しかし「風に身を任せる」というのは、
ハンモックで寝ている、というのとは違います。

「それとは気がつかない神の呼ぶ声」を、聞き逃さぬよう、
時代の徴を見分けつつ、何かに「居着かぬ」ように気をつけつつ、
ニュートラルな状態で待っている必要があります。

「ゼロからわかるキリスト教」という本のなかで、
佐藤さんはとても良い表現でそのことを現していますから、
それを引用します。

→P203 
〈真に社会を変え「生きていて苦しい」状況から脱するためには
 「急ぎつつ、待つ」という姿勢を取ることが重要だと思う。
 社会を変えるチャンスは外部からやってくる。
 その機会を取り逃してはならない。
 そのためには、常に緊張して、
 全身で時代の徴(しるし)を受け止めなくてはならない。
 このことを私はキリスト教神学の研究を通じて学び取った。〉

、、、現代は、生きるのが困難な時代です。
そのなかでも確かに、「社会を変革する主体となるような機会」が、
大小や分野の違いはあれ、誰にでも訪れます。

その「風」が吹いたときに、
それが「風」だと分かるために、
私たちは備えておく必要があります。

そのためには自分自身をよく知り、
同時に世の中のことをよく知り、
そして様々な情報をバラバラな断片としてではなく、
一定の「視座」をもって捉える「世界観」を
獲得しておく必要があります。

このメルマガを一定期間読み続けると、
そのような「視座」「世界観」が、
読者の内面に構築される、ということを意図して、
私はこのメルマガを執筆しています。

どうかメルマガが、
みなさんの人生を豊かにすることに、
貢献できますようにと祈りつつ。



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「不特定多数への発信は難しい」

2017.06.07 Wednesday

+++パイロット版vol.1 2017年1月31日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■1 今週の「ブログでは言えない話」
「不特定多数への発信は難しい」
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼ブログを9年間書き続けてみて、、、▼▼▼

私は2008年からブログを書いています。
気がついてみると足かけ9年間、
ブログを書き続けている、
ということになります。

2013年10月から2015年11月まで、
途中、約2年間の療養期間を除くと、
あるときは毎日、
あるときは週に一回、
などバラツキはあるものの、
不特定多数へ向けての「アウトプット」を、
9年間続けてきたことによって、
いろんなことが分かってきました。

私のブログ「陣内俊Prayer Letter ONLINE」
http://ameblo.jp/shunjinnai-kingdomcome/
は、現在も稼働中ですし今後も更新を続ける予定です。

ただ、この数ヶ月は特に、
毎朝更新される「journal」という、
私の個人的な朝の静思の時間の記録が主体になっています。

これは自分でもあまり楽しい読み物ではないと自認しており(笑)、
評判も良くないです(笑)。



▼▼▼デボーションを公開した意外な「効用」とは▼▼▼

ただ、去年の春から、
デボーション記録を毎日更新するようになって、
約1年が経とうとしているわけですが、
これが読者に恩恵を与えたかどうかは留保するならば、
私自身にとっては非常に有意義な「習慣」になりました。

私は意志が強いほうではありませんし、
自己管理能力は端的に言って低いです。

しかし、「公開する」という制約があるため、
日々聖書と向き合い、それを咀嚼するという習慣の、
定着率と、その質は飛躍的に高まりました。

言うまでもなくデボーションというのは、
他人のためにではなく自分の霊性のためにするものですが、
「これを公開する」という制約が適度な負荷を与え、
日々の習慣に良い影響を与えたと思っています。

ブログの話に戻ります。

9年間ブログを書いたことによって、
私に起こった良いことがあるとするなら、
それは「書く」ということの楽しさを発見したことと、
そして書くという表現技法の
日々の筋トレの意味を果たしました。

一昨年、一冊の英語の本を日本語に翻訳しました。

翻訳で最も大切なのは英語力よりむしろ日本語力です。
日本語が日本語として破綻せず、
なおかつ読む人のことを考えられた、
「読みやすい」文章になることが、
翻訳においては非常に大事です。

7年ほど前にも、
一冊の本を訳しているのですが、
今回のものと一昨年のものは、
訳した自分が読んでも、
その日本語力の差は明瞭です。

日々ブログを書き続けたことは、
そのような効果がありました。



▼▼▼東日本大震災がもたらしたもの▼▼▼

一方で「ブログ」というメディアの限界というか、
その「制約」も感じているのがこの5年ぐらい、
つまり東日本大震災以降のことです。

東日本大震災以降、
日本社会は「変質」したと私は見ています。

その「変質」のひとつに、
「不特定多数」への発信が難しくなった、
ということがあると思っています。

英語に「Touchy」という表現があります。

扱いにくいやっかいな話題のことを言うときに使います。
政治や宗教の話は公の場であまりすべきではない、
なぜなら「Touchy」だからだ、
というわけです。

東日本大震災を契機に、
それまで日本ですでに存在した数多くの問題が、
「可視化」され、顕在化しました。

そのうちのひとつに、
不特定多数への発信の困難さがあります。

「ある物事がAだ」
ということを言うというのは、
「その物事がBではない」
と言っているのと同じになります。

アリストテレス論理学の基本です。

再三言ってきたように、
2011年以降の日本では、
「国論を二分するような議論が数多くある」
という、それまで覆い隠してきた「事実」が、
顕在化しました。

一億総中流社会は幻想だったし、
「日本人ってやっぱり、
なんだかんだ言っても、
同じなんだよねぇ」
というノスタルジーの欺瞞が暴かれました。

原発問題、エネルギー政策は文字通り、
国論を二分しましたし、
憲法改正などに代表される政治の議論は、
まさに「Touchy」です。
また、政治家がこれを言うことは、
「政治的自殺」なので口が裂けても言いませんが、
じつは日本の「階級格差」には地域間、職業間、学歴間よりも、
もっと大きな構造的な問題があります。

それが「世代間格差」です。

構造的に、今生まれた赤ちゃんは、
「逃げ切り組」と言われる団塊の世代と比較し、
生涯の間に国から受けられる支援の収支総額が
一人当たり2億円少ないと言われています。
しかしそれを言ってしまうと
その政治家は次の選挙に勝てないので、
絶対に言いません。

このように、日本の社会がある意味「分断」された結果、
不特定多数に、「この問題はAだ(と私は思う)」という言明することの、
メリットは限りなくゼロに近く、
リスクだけが極大化しました。


▼▼▼まともな人が沈黙し、まともでない人が「拡声器」を持つ公共空間▼▼▼

結果として、
「比較的まともな人は沈黙し、
 極端な意見を表明することで悪目立ちし、
 注目を集めビジネス化をもくろむ、
 『まともでない人』の声が、
 パブリックな言説空間の、
 マジョリティを占める」
という、悲しい状況が続いています。

それはインターネットの世界のみならず、
テレビや街頭でのデモ活動などですら、
「エクストリーム(極端)バイアス」
とでも形容できる現象が起きているように、
私には思えるのです。

9年間ブログで不特定多数に発信してきた私にとって、
なぜこの「極端バイアス」がかかるのか、
その「力学」がなんとなく、
皮膚感覚として分かるわけです。

私などは有名人ではありませんし、
社会的影響力も微々たるものです。
それでもしかし、
自分の身元を明かして、
不特定多数の読者に情報を発信する、という、
いわば「情報開示の非対称性」という土俵で、
何かを発信しようとした場合、
「各方面に気を遣った結果、
 結局何も言っていないのと同じような文章」
が仕上がってしまい、
結局「お蔵入り」したブログ記事は、
本当に数多くあります。

その「お蔵入りの記事」の数が突然上がったのが、
2011年の震災以降だったわけです。


▼▼▼メルマガで私が書きたいのは何か▼▼▼

、、、さて。

ここまで書いてきて、
一つの結論としては、
「だからメルマガでは遠慮なく書くぞ!」
という宣言でも「啖呵」ではありません。

メルマガもまた、
登録制とはいえ多くの人が読むものですから、
まったく何のブレーキもなしに、
あらゆる事を自由に書けるなどとは思っていません。

ただ、四方八方に壁のない、
まったくの「ノーガード」な、
ブログという公開方式よりも、
メルマガ登録という、
一応「玄関」を通っていただいた後の、
言説空間のほうが、
より親密で、より「本音」に近く、
そしてより滋養のある内容を語れるのではないか、

それが、私がこのメルマガをはじめようと思った理由です。

このメルマガではそんな、
たとえば冬の夜に、ストーブに当たり、
温かい飲み物を飲みながら、
親しい友人と親密な会話をするような、
あるいは湖のほとりでたき火をしながら、
「この10年間思い出すこともなかった
 非常に個人的な昔の思い出」について、
打ち明け合うような、
そんな「対話」が生まれることを期待しています。

「読むと親密な会話が聞こえてくる」
そんなメルマガを目指しています。
読者の皆様と一緒に作り上げていければ幸いです。

、、、あ、ブログもやめませんので、ご心配なく。
ただ、書く内容とトーンが、、、

、、、

、、、

変わると思ったけど、
うん、よく考えてみると、
あんまり変わらないだろうな。

むしろメルマガのほうが、
これまでブログでは語ってこなかったけれど、
直接会ったときに友人と話すような話、
というような内容を書いていく予定です。

いわばブログを「補完」する内容ですね。

お楽しみに。
 






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