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【Q】傾聴について

2020.03.17 Tuesday

 第113号   2019年11月12日配信号

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 Q&Aコーナー

皆さんからお寄せ頂いた質問にお答えするコーナーです。

日頃の悩み、疑問、今更誰かに聞けないギモン、、、、
質問の種類は問いません。お気兼ねなくご質問をお寄せください。
ご利用は下記に基づいてご利用いただけると幸いです。

【Q&Aについて】
▼全てのご質問にお答えすることはできません。予めご了承ください
▼いただいたご質問は、ブログ・FVIメディアルームに掲載される可能性があります
▼本名での投稿の場合は「ペンネーム:無し」となります
▼必ず下記フォームからご質問を送信ください

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【Q&Aコーナー専用フォーム】

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※大変お手数ですが一つの1メール1質問を原則とさせてください。
ご協力宜しく御願い致します。

※頂いたメールはすべて目を通しております。
陣内俊への要望やメルマガの感想、激励などももちろん大歓迎です!

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

●【Q】傾聴について

ペンネーム:記入なし(匿名希望)・女性

Q.
陣内さんこんにちは。
メルマガやPodcastで勉強させていただいています。
いつも貴重な情報をありがとうございます!

今回は、傾聴について教えていただきたくメールしました。
以前、陣内さんのメルマガで「聞き屋」の取り組みを知り、
自分も周りの人に傾聴を実践したいと思いました。
しかし、知り合いが相手だと自分が不快になることがあり、
難しく感じます。

例えば、相手の話の中で、
自分の知り合いや親しい人の批判や悪口が出ると、
怒りや悲しみを感じます。
また、自分も相手と一緒に取り組んでいる活動について
批判や文句を言われると、
まずは自分の責任を果たすべきなんじゃないのと思い
イライラしてしまいます。

話を聞くことで、
相手がスッキリした表情になることもあるのですが、
聞いている自分は気分が悪く、
何年経っても、思い出して嫌な気持ちになることがあります。

聞き屋のルールで、
「教えない」「裁かない」があるとのことですが、
批判されたり悪口を言われた人の弁護をしてはいけないのでしょうか。
また、相手の無責任な態度を指摘するのもよくないのでしょうか。
「傾聴」と、「言いたいことを言い合う普通の会話」は、
使い分けるべきなのでしょうか。

アドバイスをいただけるとうれしいです。
よろしくお願いします。


A.
ご質問ありがとうございます。
いくつかのポイントに整理して回答していきます。

まず、傾聴と普通の会話を分けるべきか?

「傾聴」と、「普通の会話」は、
分けて考えるべき、と私は思います。
聖書には、
「相手の話を良く聞く」ことが書かれています。

ヤコブ1:19
「私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。
人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、
怒るのに遅くありなさい。」
これですね。

しかし、同時に「率直に語る」ことも書かれています。

エペソ4:15
「むしろ、愛をもって真理を語り、
あらゆる点において、
かしらであるキリストに向かって成長するのです。」

箴言27:6
「愛する者が傷つけるのは誠実による。
憎む者は多くの口づけでもてなす。」


、、、あらゆる真理は「相補的」なので、
「聞けば聞くほど良い」わけでもなければ、
「語れば語るほど良い」わけでもありません。
「聞くのに時があり、語るのに時がある」わけです。

「傾聴ボランティア」や、
「カウンセリングルーム」、
もしくは、相手が、
「今から話すけど、
 ただ聴いてもらいたいだけなんだ。
 答えを求めてるとかそういうわけじゃなく。」
と申し出てきて、あなたが、
「OK、じゃあ聞くね」というやりとりがあるような、
「聞くロール(役割)」と「話すロール」が、
はっきり分かれている場合もあります。

しかし、そういった特殊なケースを除きますと、
基本的に聞く役割・話す役割というのは、
会話のなかで振り子が振れるように流動的なわけです。

サッカーやラグビーの「ポゼッション」のように、
自分が聞いている役割のときもあれば、
相手が聞いている役割のときもある。

ちなみに「会話が上手な人」というのは、
「今どちらにボールがあるか」を、
自覚的に会話をしていて、
このバランスの取り方がうまい人です。

そういう人と会話をしていると、
「なぜか理由は分からないが心地よい」。
そして、「あの人とまた話したい」となる。

「どちらにボールがあるか分かってない人」って、
相手が話している(相手にボールがある)のに、
突然「オフェンス」を始めちゃうんですよね。
「いや、ボール2個になったよ!」っていうね笑。

喫茶店オーナーの、
「回転率悪くなるんだけどなぁ」という憂慮など、
まったく意にかけず、
1杯のコーヒーで何時間も何時間も、
ずーっと大ボリュームでしゃべってる、
4、5人の「おばちゃんの群れ」ってあるじゃないですか。

あれって何話してるのか、
一時興味があって聞いてみたんですよね。
そしたら、ボールが5個ありました笑。
全員が自分が話したいことを話し続けている。
まぁ、スナックのカラオケみたいなもんですわ。
全員が気持ちよく話して、
誰も互いの話を聞いてないっていうね笑。

あれはあれで、合意のもとにやってるんで、
全然良いんです。
カラオケと同じように、
心のデトックスが出来て、
非常に精神衛生に良い
(と思う。私は未経験なので分からないけど。)。
猿の毛繕いと同じで、
お互いをケアーしあっているわけです。
ウィン&ウィンの関係です。
まぁ、私みたいな人間がその中に入ったら、
精神的サンドバックになり、
3日は脳しんとうから立ち直れないと思いますが。

おばちゃんの話で脱線しました笑。

「ボールがどこにあるか意識できてない」人というのは、
相手がまだボール持ってるのに話し始めます。
相手の話がゴールに到達するのを待てないし、
自分の話にもゴールがありません。
「相手へのパス」で会話って終わるのがきれいなのですが、
そういった人の「吐露」はどこにも到達しない。
「あれ?なんでこの話してるんだっけ?」
みたいなタイプです。
自分の会話に、自分で迷子になってるわけです。
「俺に聞くなよ」以外の答えが見つからないわけです。

さて、そのような「会話のルール」といいますか、
「ボールのポゼッション感覚」を踏まえた上で、
では、傾聴が上手な人はどういう人か、
ということになるわけですね。

実は先ほど、
「聞くのに時があり、話すのに時がある」
と言いましたが、
実は「聞くのが得意なタイプと、
真理を直言するのが得意なタイプ」の、
2タイプがいると考えないほうが良いと私は考えます。

どういうことか。

聞くことと話すことは、
お互いが反する概念ではなく、
お互いに相補的な概念だからです。

質問者様が、「何かアドバイスをしたくなる」
というとき、実はそのためには、
「聞き上手である」ということが必要なのです。
質問者様のケースには、
もしかしたら当てはまらないかもしれませんが、
一般論として多くの場合、
「一方的に聞きすぎているからアドバイスが出来ない」
のではなく、
「十分に聞けてないからアドバイスが出来ない」
ことが多いです。

「愛をもって真理を語る」ことの出来る人は、
「聞くに早い」人と同一人物なのです。

説明します。

人間の心を「容器」に例えましょう。
多くの人は「話したい」状態にあるわけです。
寡黙だと言われている人でも、
「話した結果、説教されたり否定されたり、
 秘密をばらされたりしないと分かっている」
安全な環境や、
「相手が自分の話に興味をもって喜んでくれる」
という理想的な発話環境が整えば、
いつだって人間って「話したい」んです。

なぜなら人間の心の「容器」には、
いろーんな感情が蓄積していて、
それを吐き出すことは、
デトックス的な気持ちよさがあるからです。
「毒を吐き出す」わけですね。
マッサージに例えても良いでしょう。
マッサージされるのが気持ちよいのと同じく、
理想的な発話環境で話すのは気持ちよいわけです。

では、「毒を吐き出される」側はどうでしょう?
質問者様がおっしゃっているように、
「傷つき」ます。
質問者様の言葉では、
「怒りや悲しみを感じ、イライラする」わけです。

マッサージされた人は気持ちいいですが、
マッサージ師は逆に、マッサージした人数に応じて、
肩がこるのと同じです。

なので、質問者様の悩みは、
「傾聴」をする人間として、
当然のことなので、当たり前と言って良いでしょう。
「マッサージをしていたら、
 次の日身体がバキバキになるのですが、
 どうしたもんでしょう」という話に似ています。
マッサージをしてもらえば良いのです。
つまり、自分の話を裁かず教えず聞いてくれる、
信頼出来る誰かの「耳」を借りて、
自分のデトックスをする必要があります。

じっさい、私は聞き屋ボランティアをしていたとき、
チームのメンバー同士で、
「聞き合い」を定期的にしていました。
猿の毛繕いですわ。
じゃないと体が持ちません。

自殺防止ダイヤルの「命の電話」のボランティアも、
同じように「聞き合い」をしているそうです。
なので、質問者様も、
自分が聞いてもらえる場を確保すると、
電流の「アース」みたいになって、
ある程度ストレスのマネジメントができるのではないでしょうか。

加えて、質問者様が「傷つく」とおっしゃっているのは、
実は「正しく聞けている」ことの証拠でもあります。
それはむしろ喜ぶべきこと、とも言える。

なぜか?

質問者様がキリスト教徒かどうか不案内ですが、
キリスト教徒の私から言わせていただくなら、
質問者様の状態は「贖罪的」に生きていることの証拠であり、
それはとりもなおさず、
キリストの足跡に従っていることの証拠だからです。
キリストの足跡に従うとは、
「傷つきながら生きる」ということでもあります。

最近読んだ「舟の右側」という雑誌の、
2018年7月の連載を引用します。

廣瀬薫先生という、
日本福音同盟の理事長をされている方の連載で、
賀川豊彦や内村鑑三、
またマーティン・ルーサー・キングなどの例を挙げて
「クリスチャンの社会的責任は『贖罪的』であるべき」
という趣旨の発言がなされています。
多少長いですが2箇所、引用します。

→P13 
〈そして、大切なのは、
私たちがこれをどのように実践していくのかと言うことです。
私たちのすべての働きは「十字架の性質」を
持っていることが大切だと思っています。

私はこれを「贖罪的な実践」と呼んでいます。
十字架を引き受ける生き方が地上を神の国にしていく。
イエス様も「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、
そしてわたしについて来なさい」(ルカ9:23)
と言われました。

内村鑑三は
「善行はすべて贖罪的特性を持っている」と書いています。
何が良い働きなのか?
十字架の質を持った働きが良い働きだ、
ということです。

賀川豊彦はイエス・キリストを
「人格的白血球運動者」と表現しました。
このばい菌だらけの世の中で、
クリスチャンはばい菌に触らないように生きていくのか、
いやそうではなく、
そのばい菌を引き受ける実践がこの世に神の国を広げていく、
と語るわけです。

羽仁もと子も、十字架というのは、
自分のせいではない悪いことを引き受ける生き方だと理解しました。
最後に、マーティン・ルーサー・キングは、
あの有名な演説において、
「I have a dream!」と語るパラグラフ(段落)で、
「自ら招かざる苦難は贖罪的であると信じて戦い続けよう」
と言っています。
黒人たちは、道中もひどい目に遭いながら
あのワシントン広場に集まってきたわけです。
キング牧師は、十字架と同じ質を持つ実践が
社会にいのちをもたらす力があるのだと、
信じて戦い続けようとアピールしたのです。〉


→P13 
〈つまり、私たちが十字架を担って
イエス様について行くという贖罪的な実践をすることで、
地上に神の国は広がっていきます。

若い人にわかりやすく言うときには、
「ゴミが落ちていたら自分が落としたものでなくても
拾うのが贖罪的実践だ」と説明します。

そんな簡単なこと?
と思われるかもしれませんが、
かつて私の家庭で子どもに
「ゴミを拾いなさい。」と言ったとすれば、
帰ってくることばは決まっていました。
「私が落としたんじゃない。」

自己責任を取らせろと言うのが世の中です。
しかしクリスチャンには、
自分のせいではない悪いことを引き受ける生き方が求められているのです。
トイレが汚れていたらきれいにして出てくるのが、
身近な贖罪的実践です。〉


、、、「贖罪的実践」こそが、
クリスチャンの社会奉仕であり、
贖罪的実践とは、
「他の人が落としたゴミを拾うこと」と、
廣瀬薫先生は言っています。

質問者様が他の人の話に傾聴し、
自分が「傷つく」とき、
それは他の人が落とした「心理的ゴミ」を拾っているのであり、
贖罪的な実践だと私は考えます。
私たちは傷つき汚れながら、
この世の中をきれいにしていく存在なのです。

話を戻しましょう。

「良く聞けること」と、
「愛をもって真理を語る」こと、
これが矛盾せずひとつのことだ、
という話ですよね。

忘れてませんよ。

人間の心は「容器」だと先ほど申しました。
その容器の中に、パンパンに何かが詰まった状態、
これが、「話したくて仕方ない」状態です。
「気持ちを誰かに吐露したい状態」と言ってもいい。

この状態の時、
容器はパンパンなので、
人は誰かからのアドバイスが、
「入らない」んですよね。
パンパンの容器に何かが入るためには、
「空白」が必要なのです。

その「空白」を作ることが、
「聞く」行為です。

具体例を挙げて話しましょう。

私がエチオピアにいたときに、
付き合いのあったNGOのスタッフに、
デベレさんという人がいたんですよ。
その人に私は、
日本で自分がしていた、
「聞き屋」の活動を紹介しました。

「教えない」「裁かない」「秘密厳守」
このルールで人の話を聞く、
つまりそれは人の心のゴミ拾いであって、
イエスの足跡に従って、
日本に仕える行為だと思うんだ、と。

デベレさんは感心しながら聞いてくれて、
非常に興味を持ってくれました。
ところが、最後の最後に、
「え?そこで終わり?」
という顔をするのです。

そして私に言いました。
「ブラザーシュン、
 君の日本での活動はとても素晴らしい。
 でも僕は納得がいかないんだ。
 その『話している人』には福音が必要なんだろう?
 だったら彼が必要としている福音を語るまで、
 完全に仕えたことにならないんじゃないのか?
 それは中途半端なことをしてるんじゃないのか?」

私はそこから1時間ぐらい議論することも出来ましたが、
「そういう考え方もありますよね。
 でも、僕はこの方針でやることに確信があるんです。
 もちろん求められれば福音を語りますが、
 求められていなければアドバイスもしないし、
 福音も語りません。
 それが『奉仕する』ということだと思うので」
といって、その日の会話は終わりました。

デベレさんは納得しないような顔をして去って行きました。
それから2週間が経ち、
久しぶりにデベレさんのNGOのオフィスを訪ねたとき、
デベレさんは興奮して私に近づいてきて話し始めました。

その話を要約するとこういうことになります。

デベレさんの隣人はイスラム教徒です。
時々そこの奥さんと通りで立ち話をしていたそうです。
彼はイスラム教徒の彼女が福音を知ってほしいと思っていたので、
今までに何度も彼女に神の話をしたり、
隙があれば「真理を語ったり」してきたそうです。
しかしそのたびに拒絶に近い反応を示されてきました。

先週のある日、また立ち話をする機会あり、
そのときに「ブラザーシュンが言っていたこと」を、
思い出したのだそうです。
そして試してみようじゃないか、と思ったのです。
つまり、「最後まで彼女の話を聞いてみよう」と。

デベレさんは、
アドバイスしたくなるのをぐっとこらえて、
彼女の話にうなずき共感を示しながら、
忍耐して聞き続けました。
すると今まで彼女が語ったことのなかった、
イスラム世界での女性の立場の弱さや、
夫から受けている仕打ち、
社会からのプレッシャーなどについて語りはじめたのだそうです。
デベレさんは何度も「何か言いたく」なりましたが、
「ブラザーシュンの顔を思い出し」、
最後まで話を聞いたのだそうです。

すると、彼女は思いも寄らないことを口走ったのだそうです。
「デベレさん、
 今私が話したことについて、
 あなたが信じている神に祈ってもらえますか?」

デベレさんは拍子抜けしましたが、
「もちろん!喜んで!」
といってその場で祈り、
これからも祈ることを約束して分かれました。
奥さんは感謝し、目に涙を浮かべていました。

デベレさんはオフィスで私に言いました。
「シュン、君のメソッドはうまくいったよ!!」


、、、ポイントは何か?
このイスラム教徒の奥さんの心の容器が、
空になる前に、
デベレさんは「真理」をぶち込もうとしていたわけです。
入るスペースなんてあるはずがありません。
アドバイスするのを我慢し、
デベレさんが忍耐強く聞いたことで、
奥さんの心の容器が空になり、
新たに何か情報を取り込むスペースが出来たわけです。

「良く聞くこと」と、
「愛をもって真理を語ること」が、
矛盾しない理由が分かっていただけたでしょうか?
そういえば箴言には、
「良く聞くものはいつまでも語る」
という節もあります(箴言21:28)。

不幸なのは、
日常生活において、
「この人にはアドバイスが必要だなぁ」
と思う人ほど、
その人の心はパンパンで、
アドバイスを受け入れる余地がなく、
「この人にはアドバイスが必要じゃないなぁ」
と思う人ほど、
その人の心はいつもアドバイスを受け入れる余地がある、
というミスマッチがあることです。

これは実は当然の帰結で、
「人のアドバイスを聞ける人」っていうのは、
どんどん自分を改善していきますから、
ますます仕事にも生活にも余裕が出来て、
むしろ人をケアーする余地すら生まれる。
「人のアドバイスを聞けない人」っていうのは、
改善するチャンスもありませんから、
仕事の能力も相対的に低くなり、
いつも「いっぱいいっぱい」なので、
ますます心もパンパンになる。

以下、無限ループです。

この悪循環のループを断ち切るきっかけになるのが、
「傾聴」という行為なのです。


、、、とここまで、
聞くことと語ることが相補的だ、
みたいなことを書いてきましたが、
最後に、質問者様のようなケースで、
もうひとつ考えられるのは、
「あまり無理をする必要はないかもしれない」
ということがあります。

どういうことかと言いますと、
先ほど申しましたように、
「傾聴」というのはとても体力の要ることです。
賀川豊彦が言っているように、
「白血球」として活動するということは、
自分の中に病原菌を取り込むことでもあります。
これも賀川が言うように、
キリスト者とは病原菌のいない、
無菌室に閉じこもる存在ではなく、
積極的に病原菌のいる場所に行き、
自分が傷つくこととでそれを浄化する存在です。
キリストがしたことはまさにそういう実践ですから。

とはいえ白血球になるということは、
じっさいに自分が病気になる、
というリスクも背負うことになる、
というのも事実です。
じっさい、
結核患者の多くいる貧民街で活動したことにより、
賀川豊彦は文字通り結核になりましたから。
詳しくは『死線を越えて』を読んでください。

そんなときは、
養生するに限ります。

私の話をしましょう。
私は2004年に「聞き屋ボランティア」を始めて、
断続的に足かけ9年ほど活動を続けていました。
愛知から東京に拠点が変わっても、
頻度が減っても、
結婚しても、
「これは自分のライフワークのひとつだから、
 どうにかして続けていこう」
と思ってましたし、
じっさい続けていました。

ところが2013年の年末に、
燃え尽き症候群で鬱病になり、
2年間すべての活動を休養しました。

2016年から活動を再開しましたが、
「聞き屋」はハードルが高いなぁ、
と最初は思いました。
なぜなら私の受けた「脳のダメージ」は、
特に「社会的認知」に関わるような部分で、
つまり人と交流を持つことが、
病気中も最も打撃を受け、
治った後も最も負担が大きかったからです。

寛解後もだから、
しばらくは、「人と会う」という行為は、
次の日は丸一日休まなければならないほど、
大きな負担を強いるものでしたし、
「大勢の人と会う」にいたっては、
次の日から3日ぐらい静養が必要でした。

「聞き屋」というのはだから、
自分にとってとてもハードルの高いものとなったわけです。
ピアニストなんだけど、
交通事故で指を重点的に怪我しちゃった、
みたいな話ですね。

でも、「いつかは聞き屋を、、、」
という気持ちがあったので、
2年前の2017年に、実は私は、
「リハビリ」をやってみたんですよね。
ほとんど誰にも言ってきませんでしたし、
このメルマガにも書きませんでしたが。

住んでいる西東京市のボランティアセンターに、
ボランティアとして登録をし、
高齢者施設に行って、
週に2時間ほど「傾聴」のボランティアをやったんです。
何回やったか忘れましたが、
長女が生まれるまで続けました。

それがけっこうな負担で、
次の日は「使い物にならない」
ぐらい疲れちゃうんですよね。

おばあちゃんの、
「若かった頃の自慢話」とか、
「嫁に対する悪口」とか、
「他の利用者に対する悪口」とか、
おじいちゃんの、
「戦争のときたいへんだった話」とか、
「自分がどれだけ苦労の末成功してきたか」とか、
「他の利用者に対する悪口」とか、
そういうのを2時間聞くだけです。

昔、愛知県で聞き屋をしていたとき、
そんなの「なんでもなかった」のに、
何回やっても「ずどーん」って疲れるんですよね。
私の思惑としては、
このボランティアを何回かやったら、
「不特定多数の人の愚痴を聞く」っていう、
昔の感覚を取り戻して、
そして自分が住んでいる生活圏の駅前で、
また聞き屋ボランティアを始めて、、、
っていう構想があったのですが、
この「リハビリ」によって、
この夢はまだまだ遠い夢であることが分かったんです。

というより、自分の中の、
「何か」が、
病気の前と後で決定的に変わってしまったのを感じたのです。
それが何なのかは分かりませんが、
たぶん脳の機能に関わる部分なのだと思います。

何が変わったかというと、
以前の私は、
けっこう「ディタッチ」して、
不特定多数の人の話を聞けたのですよね。
自分の意見や判断や感情を「いったん凍結」させて、
人の話を聞き、受容し、共感することが出来た。

私は獣医師ですが、
獣医師って、白衣を着ていると、
死んだ動物、動物の血、動物の糞尿、
外に飛び出した動物の内臓、
これらを見たり触れたりすることに、
何の抵抗も感じません。
「スイッチ」が入るからです。
でも、私服のときに自分のペットが血を吐いたら、
めちゃくちゃ動揺しますし、
私服のときに犬の糞を踏むと、
普通の人と同じように凹みます。
「白衣」がスイッチを入れるのです。

たぶん看護師や医師も同じだと思います。
「死」に接する仕事というのは、
そうしないと心が持たないわけです。
こういう「職業的ディタッチメント」を、
私は聞き屋に関してもすることが出来ていたのですが、
病気の期間を経て、
その「スイッチ」が入らなくなっちゃったんですよね。

いずれにしても結論として
「自分はもう、
聞き屋が出来ない体になってしまったのだ」
と受け入れるのは辛いことでしたが、
でも、不特定多数の人の話は聞けなくても、
妻の話、子どもの話、
自分にとって大切な友人の打ち明け話、
そういった話は聞けます。
そういった話を聞くために、
私は少ないエネルギーを温存しなければならない、
と、ちょうどそのボランティアに挫折したのと、
同じ時期に生まれた娘を見て思ったのです。

だから、私は聞き屋に関して、
現在無期限活動休止中です。

なので質問者様も、
自分の体と相談しながら、
聞くという実践を、
無理のない範囲で続けていくのがお勧めです。

ご参考に。

【Q】助けになった妻の言動

2020.02.11 Tuesday

第108号  2019年10月8日配信号

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■2 Q&Aコーナー

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●【Q】妻の言動

ペンネーム:ぞうママ(女性)
お住いの地域:埼玉県

Q.

陣内先生
良かった!
またメルマガを拝読できて嬉しいです。
でもお大事に。

私は陣内先生の奥様のお人柄に大変興味があります。
私も鬱の経験者ですが、鬱って家族も辛いなあ、と思います。
陣内先生が幾度となく触れている、
鬱の時、素晴らしいと感じた奥様の言動ベスト3が知りたいです。


A.

ぞうママさん、ご質問ありがとうございます。
妻の支えがなければ、
私は鬱を乗り越えることは出来なかったでしょう。

ベスト3にまとまるかどうか分かりませんが、
思いつくものを紹介していきます。


▼▼▼「休んでグッジョブ」

他でも語ってきていますが、
私は鬱症状で2013〜2015年の2年間、
何も出来なかったときがありました。

あのときはマジでひどくて、
通院もしたしカウンセリングも受けました。
カウンセラーは「4、5年かかると思った」
と後で教えてくれました。

鬱の初期というのは誰しも、
「健康バイアス」みたいなのが強く働くと思うんですよね。
正確には「正常性バイアス」という心理学用語なのですが、
人間は何かの異常に見舞われると、
それを「否認」する本能があると言われています。
大災害のとき逃げ遅れたり、
交通事故で死ぬ人の、
応急処置が遅れたりするのって、
この「正常性バイアス」によります。

つまり、私たちは、
「異常な何かが起きている」
ということを、無意識に否定する傾向があるのです。
実際には異常な何かが起きているのに。

鬱に見舞われた人ってたいてい、
「数週間単位で治る」と思います。

今は何らかの理由で、
活動が出来なくなっているだけだ。
2週間も経てばゼッタイに元に戻る、
と思うのです。
じっさいにそんなはずはないのに。

鬱は認知にダメージを与えますので、
「それが正常性バイアスである」
というメタ認知も働きません。
なので、本気でそう思う暴走を止められない。

そうすると、偏執狂的に、
鬱のときに一番やっちゃいけない、
「努力」をし始めるんですよ。
私の場合、鬱の初期に、
毎日1時間聖書を読んだり(苦しくて泣きながら)、
毎朝ジョギングしたり(つらくて泣きながら)、
とにかく何かしてないと落ち着かないけど、
何か意味のある活動をするエネルギーはないから、
ただひたすら部屋をぐるぐると歩き回ったりしました。

カウンセラーのアドバイスもあったのだけど、
その「努力」をやめることが出来たのは、
「もがく力」も燃え尽きた時でした。
スペアタイヤがパンクした、みたいな。
私は「二段階に燃え尽きた」のです。

そうすると「休む」以外のいっさいのことが出来ないので、
まぁ、当然休むしかないわけですよ。

ところがやっかいなことがあります。

鬱を患う人というのはたいてい、
真面目な性格の人が多いので、
「休む」ということに罪責感を覚えるのです。
それも、とても強く。

「世間は働いているのに俺は休んでいる。
 俺はなんて駄目な人間なのだ!」
って、ずっと思うんですよ。

そんなとき救われたのは、
妻の「今日も休めてグッジョブ」という言葉でした。
1日、生産的なことは何も出来ません。
というか、年単位で生産的なことが何もできない。

そのような1日、1日を、
働き盛りの人間が過ごすというのは、
結構な「生き地獄」だと私は思います。
人によっては「働かなくて良いなんてラッキー♪」
と思うかも知れませんが、
そもそもそういう性格の人は、
鬱になることはまずないので、
安心してください。

妻が「休むことが今のあなたの仕事。
今日もしっかり休めた。
グッジョブ!」
と毎日言ってくれたことが、
どれだけ回復を早めたか分かりません。



▼▼▼鼻歌と笑顔

私の闘病の2年間、
もし妻も辛く落ち込んでいたら、
「自分は妻を落ち込ませてしまっている!」
という罪責感に私は堪えられなかったでしょう。
社会人としてだけでなく、
夫としても失格だ。
終わってる、、、。と。

妻はじっさい、きっと辛かったと思います。
当たり前じゃないですか。
でも、病気の間、
私の前で決して辛いということを表しませんでした。
神の前にだけ表していたのでしょう。

私が寝ていると(ほとんどの時間寝ている)、
妻は隣の部屋で賛美歌の鼻歌を歌っているのです。
私が起きると、妻は笑顔でした。
これによってどれだけ救われたか分かりません。



▼▼▼俊君の分も礼拝してくる

病気になると、
「人と会う」というのが、
一番の負担になります。
少なくとも私の場合。

クリスチャンのカウンセラーからも、
「礼拝には行かない方が良い」
と早い段階で言われて、
私は2年間礼拝を休みました。

しかし、礼拝に出席しないことって、
でも罪責感を伴うじゃないですか。
「真面目なクリスチャン」じゃないような気がして。
私は毎週日曜日、妻が礼拝に行くのを見送るのですが、
「一緒に礼拝に行けなくてごめんね」とか、
「礼拝に行けない自分は駄目な人間だなぁ」
という意味のことを漏らすと妻は必ず、
「俊君の分も私が礼拝してくるから、
 俊君は家でしっかり休んでて」
と言ってくれました。

それ以来私は、
礼拝するとき、
「誰か病気の人の分も、
 私は替わりに礼拝している」
と思うようになりましたね。
妻から大切なことを学びました。



▼▼▼ナラティブと絵本

精神疾患というのは、
「ナラティブの病」とも言われます。
アルコール依存症、統合失調症などは、
「物語」が引き起こす、という考え方で、
近年「ナラティブセラピー」という形で注目されています。

私は自分の経験から、
「個人」に基礎をおく「認知行動療法」よりも、
「社会・関係・家族」に基礎をおく、
ナラティブセラピーのほうが、
東洋文化の日本人には合っている、
と考えるようになりました。

、、、興味がある人は、
医学書院から出版されている、
『物語としてのケア ナラティブアプローチの世界へ』
という本が非常に良い入門書ですので、
参照してみてください。

▼参考図書『物語としてのケア』
http://amzn.asia/5pSpL8x

、、、で、
妻もこのナラティブアプローチを学んでくれて、
それを具体化してくれたのが、
療養中に描いてくれた、
オリジナルの絵本でした。

そこには「うつき」というキャラクターが登場して、
私を「虐めたり」するのですが、
妻がまずそのうつきと和解し、
私自身も受け入れ和解し、
これからは3人で仲良く生きていこう、
というような筋書きです。
回復期に、続編も描いてくれて、
そこでは「うつき」は、
私を休ませるという役割を終え、
自分の星に旅立っていくのでした、、、
という結末になります。

精神疾患の一番危ないのは、
「自分=病気」と、
本人が勘違いしてしまうことです。
そうすると病気を退治したいのに、
自分を退治してしまう。

そこで大切なのが、
「病気の外在化」と言われるプロセスです。
自分は病気そのものではない。
今自分がこう考えているのは、
病気の作用であって、
自分自身がこう考えているのではない、
という線引きが出来るかどうかで、
そのあとの予後がかなり違ってきます。

この絵本は、
「病気の外在化」のプロセスの助けになりました。
自分と病気を癒着させるのではなく、
切り離し、病気を乗り越える対象や、
歓迎せざる害悪や、
解決しなければいけない問題と見なすのではなく、
「必要なことを伝えに来たメッセンジャー」
として認識し、
そして病気と「和解」する契機を与えてくれたのが、
この絵本でした。


▼▼▼記録

あと、闘病の2年、
妻は「育児ノート」のような形で、
毎日私の体調、言動、食欲などを、
事細かにノートに記録してくれていました。

病気の時って、
自分が先月と比べてどうなったかなんて、
把握できません。
認知がダメージを受けているので、
「乾燥機でぐるぐる回りながら、
 自分の位置を把握する」
みたいな感じなので、
悪化しているのか良くなってるのか、
それとも平行線なのか、
それが分からないわけです。

「どんどん悪くなっていく。もうダメだ」
「もう半年も休んでるのに何も回復してない。
 きっと一生このまま廃人になるんだ」
という絶望的な気持ちになったとき、
妻がノートを見て、
「3ヶ月前はこんなことが出来なかったのに、
 今はこういうことが出来るようになっている。
 ちゃんと回復してるよ」
と教えてくれるわけです。

ノートがあるおかげで、
私の体調が悪くなる兆候とか、
良くなる兆候とかも把握してくれている。
すごいとしか言えませんね。


▼▼▼「励ましの手紙やメール」を、回復後に教えてくれる

2年間の療養中は本当に、
真っ暗な牢獄に閉じ込められていたような状態で、
外界との連絡を遮断していました。

入力も出力も出来ない。
「誰それがああした、こうした」
レベルの話も「聞こえる」と、
「自分は何も出来ない。
 置いてけぼりだ」
と思って絶望するので、
知ることも辛い。

誰かが自分に対して発するメッセージも、
たとえそれが励ましの言葉であっても、
受け取ることの出来る状態ではありませんでした。
「自分はその励ましに値しない。
 どうか自分のことなんて忘れてほしい」
という気持ちにとらわれていましたから。

なしのつぶてだと本当に心配させるし、
迷惑かけることもよく分かりますので、
必要な連絡は、
妻に頼みました。
「今体調が悪いので、、」
といろんな人に説明してもらっていました。

そうすると、
励ましのメッセージとかって、
いろんな形でやってきます。
2年間分の、そういった、
励ましの言葉を、
妻はストックしてくれていて、
私が回復してそれらを
受け止めることが出来るようになった頃に、
「実はあの人からもこういう言葉をもらってた」
というようなことを教えてくれました。

結構たくさんあげてしまいましたが、
まぁ、妻はすごい人なのです。
妻のおかげで私は働けています。
ありがたいことです。

私は世界一恵まれた男だと思いますし、
私の娘はすばらしい母親に恵まれて、
ラッキーだと思えよ、
と心で思っています。
俺もああいう母親に育てられたかった、
と思いますから。

あ、別に自分の母親をディスってるのではなく。
母親は母親なりに、
これ以上なく私を愛してくれたのですから。

【Q】中高生にお勧めの映画

2020.02.04 Tuesday

第107号  2019年10月1日配信号

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■2 Q&Aコーナー

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●【Q】中高生にお勧めの映画

ペンネーム:ちょっちゃん(女性)
お住いの地域:東京都

Q.

映画をたくさんご覧になっている陣内さんに質問です。
中高生に見せたいなぁと思う映画は何でしょうか。
今度中高生が我が家に集まる機会があるので、
みんなで見たいなと思っています。
見た後もみんなでワイワイ意見を言い合いたいのですが、
中一から高二までいるので、なかなか難しいです。
オススメがあれば、ぜひ教えてください!


A.

私の見る映画は、
グロ・ホラー・陰鬱・暴力描写、
みたいなのが結構含まれています。

別にそういうのを好んでみている訳ではないけれど、
私の考える「面白い映画」は必然的に、
ファミリー映画とは違うものになりがちだったりします。
人間の内面だとか、
社会の矛盾だとか、
そういったことを鋭く描写したり批判したりする映画に、
私は最も感銘を受けるからです。

アクション→カーチェイス→ドカーン
みたいな「ポップコーンムービー」も、
悪くないですが、
知的栄養価は低いので笑。

別に馬鹿にしてるわけじゃないですよ。
そういったやつも、
時々は見ますから。
「ダイ・ハード」とか最高じゃないですか。
でも、そういうのは映画のメインとして求めてない、
というだけの話です。

何が言いたいかというと、
私の「★5つ」映画のなかに、
「ファミリームービー」は少ない、
ということです。

でも、年間100本以上見てますので、
中にはファミリーで楽しめる内容もあります。
当然。

過去数年に見たやつで、
そういったやつを、
全部紹介するときりがないので、
3つだけご紹介します。


▼▼▼ワンダー 君は太陽

監督:スティーブン・チョボルスキー
主演:ジュリア・ロバーツ他
公開年・国:2017年(アメリカ)
リンク:
https://bre.is/FHfpvpT9

コメント:

これはすごい作品でした。
ただの「障害者」によるお涙ちょうだい映画ではなくてびっくりしました。
主人公のオギーは、トリーチャーコリンズ症候群という、
遺伝子に由来する病気のため、
顔の形が変形しています。

100人に99人が「二度見」するような顔なので、
彼の家族は彼を学校に行かせることに消極的だったのだけど、
あるとき意を決して学校に行きます。

そうすると当然起きることがありますよね。

そう。

いじめです。

子どもは残酷ですから。

、、、で、この映画のすごいところは、
そういう「いじめ、ダメ、ゼッタイ」みたいな、
PTA的なメッセージで終わってないところなんですよね。

入り口は確かにそうなのですが、
出口が全然違う場所に出る、というか。

何の話になっていくかというと、
だんだん、オギーをとりまく家族や友人の、
「ナラティブ」の話になっていくのです。

「君は太陽」というサブタイトルにもあるとおり、
太陽系における太陽の存在が、
主人公のオギーです。
オギーのような障害者は社会では抑圧され、
虐められる存在かもしれません。

しかし、障害者を抱える家族は良くご存じのように、
家族の中では障害を抱えた当事者こそ、
「家族の注目の中心」であり、
彼を中心に家族が回るのです。
あらゆるイベントが彼を中心に調整されたり、
実行されたり、中止されたりする。

お父さんもお母さんも、
オギーの姉も、
オギーという太陽の周る惑星に過ぎない。

姉は当然そう感じています。
序盤のかなり早い段階で、
姉を主人公とする物語が始まった時点で、
この映画に「やられた!」と思いました。

次に「いじめっ子」という惑星の視点の物語が始まります。
オギーをいじめたクラスメイトが、
実は彼自身の家庭の中で葛藤を抱えていて、、、
というストーリーが始まるのです。

本人の視点、姉の視点、本人の友達の視点など、
複眼的に同じ出来事を追っていくこの手法は、
実は私が「よにでしセミナー」で毎回使っている手法です。
「世の中には複数の見方がある」
というのを、太陽の側、惑星の側、月の側から見ることで、
知ることが出来る造りになっている。

最後のシーンは落涙しました。
子どもが見ても当然理解出来るし、
暴力シーンなど一切なく、
全力でお勧め出来る作品です。

陣内版、
2019年映画ベスト10入りが確定している映画です。



▼▼▼こんな夜更けにバナナかよ

監督:前田哲
主演:大泉洋、高畑充希
公開年・国:2018年(日本)
リンク:
http://bananakayo.jp/

こちらは去年のメルマガで紹介したので、
簡潔に解説します。
実在の筋ジストロフィー患者を、
大泉洋が演じています。
笑えて泣けるファミリー映画になっています。

「障がい者のお世話は家族が全部見るべきという
 日本の常識に抗いたい」
「生きるということは人に頼るということ。」
「命がけで人に頼る」
「出来るヤツ風なのが嫌いだった。
 人間てのは出来ないことの方が多いんだよ。」
「普通の男ならここで抱き寄せるんだろうな」
などの、鹿野(大泉洋)の名台詞がたくさんあります。

この映画は私の友人が関わっていて、
そのうえ私は去年、札幌で、
前田監督のワークショップにも参加もしました。
なので、この映画がファミリー映画であることの意義を、
私は知っています。

どういうことか?

「障害者」というテーマを、
「そういうことに関わる一部の人々」
だけの話題にしたくなかったので、
あえて自主制作とかじゃなくメジャーシーンで勝負したいし、
ファミリー映画というフィールドでやりたい、
という監督の強い意思が表れているのです。

誰が見ても、
笑って泣けて楽しめて、
そして何かを得ることの出来る造りになっています。
お勧めです。


▼▼▼青天の霹靂

監督:劇団ひとり
主演:劇団ひとり、大泉洋
公開年・国:2014年(日本)
リンク:
https://bre.is/8Jodsbnk

これは、「隠れた名作」ですね。
笑いの所をてっぺんまで笑わせているから、
ちゃんと泣けるんです。
劇団ひとり、恐るべし。
映画のお手本のような映画です。
「なぜ自分は生まれたのだろう?」
という実存の悩みに答えるようなつくりになっています。
今ならAmazonプライムで見られます。
これも万人にお勧めしたい名作ですね。




、、、というわけで、
3本のうち2本までが、
「障害」が関係する映画になってますが、
どれも、ただ楽しかった、で終わらないのに、
ただ楽しいだけの映画よりも楽しい、
という贅沢すぎる映画たちです。
自信をもってお勧めいたします。


【Q】日本のお笑いを楽しむ方法

2019.12.30 Monday

第102号   2019年7月30日配信号

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・ペンネーム:匿名(男性)
・お住いの地域:東京都

Q.
いつも陣内さんのメルマガを楽しく読ませて頂いております。
陣内さんはお笑い好きといういうことですが、
日本のお笑いって、日本のある種の文化が濃縮されていて、
私は全然面白いと思えません。
暗黙の上下関係とか、内輪のノリで笑わせたり、
あとは、マイノリティというか、
ちょっと仲間外れっぽい人をディスって笑いを取るみたいな、
見方によってはいじめっぽくて・・・

これは単に私の好みなので、
別に日本のお笑い大好きな陣内さんを
非難しようとかいう意図はございません。
こんな私がお笑いを楽しむ方法はありますか?
見なければいいだけですか?


A.
ご質問ありがとうございます。
質問者さまのご質問の意図は、
すごーくよく分かります。

結論から言いますと、
仰るとおり、
「見なければいいだけ」
というのが答えになります。
見なくても何の損もありませんから笑。
逆に、見ても何の得もありません笑。

お笑いに、知的栄養素はゼロです。
カロリーのない食事と同じなので、
「味が嫌いなのだけど
 無理して食べなきゃいけないのかな?」
とか考える必要はまったくありません。

映画やマンガは逆に、
知的栄養素の塊と言えます。
書籍からは得られないタイプの、
密度の高い情報が映画やマンガには詰まっています。
映画やマンガを軽視していると、
教養のレベルがひとつ下がると私は思う。
薄っぺらくなるというか。
まぁ、最近めっきり、
マンガ読まなくなった私が言うのもなんですが。

では、実利的に無意味なお笑いを、
私はなぜ見続けているのか?
まぁ、楽しいからというのが答えになりますね。
実質的な栄養のないスナック菓子を、
なぜ食べ続けるのか?
好きだから、というのと同じです。

、、、で、
質問者様がおっしゃっているのは、
おそらく、
「このスナック菓子は身体に悪いのではないか」
みたいなことに近いと思うのですよね。

そうですねぇ。

どこから話しましょうか。

お笑いには、
「ベタ」と「シュール」があります。
「ベタ」は英語圏だと、
「ユーモア」あるいは単に「ファニー」です。
英語圏で「シュール」は、
ブラックユーモアとか、
ドライユーモアとか言われます。

ファニーがアメリカ的(『フルハウス』的)で、
ドライがヨーロッパ的、
(眉間にしわを寄せながら他者を強烈に皮肉るタイプ)、
という風に整理できます。

日本のベタは「くまだまさし的」と言いますか、
「吉本新喜劇的」と言いますか、
「志村けんのバカ殿的」と言いますか、
3歳から90歳までの誰もが笑う、
脊髄反射的な笑いのことを指します。

これらは言語の壁を越えて、
欧米でも多分「面白い」と認識されるでしょう。
面白いおじさんが面白いメイクをして、
「あだす?なんだチミは?ってか?」
っつって、面白い動きのダンスをして、
最後に「だっふんだ!!」っていうんですから笑。
まぁ、面白いですよ。
いわばこれって、
「ベロベロバア」なんですよね。

ところが、日本の「シュール」って、
欧米圏の「ドライユーモア」ともちょっと違うんですよね。
「ベタの反対」というのは同じなのですが、
ちょっと「反対の方向性が微妙に異なる」というか。

そして、
「シュール」の笑いの、
現在の日本のデファクトスタンダードを作ったのは、
間違いなく90年代のダウンタウンです。
これは大げさな話ではなく、
日本のお笑いは、
「ダウンタウン以前」と、
「ダウンタウン以後」に別れる。

『夢で逢えたら』
『ごっつええ感じ』
『ガキの使いやあらへんで』
などの番組群は、完全に日本の笑いを、
その概念の根底から変えてしまった。
つまり「ダウンタウン的シュール」という、
「Made in 尼崎」の笑いが、
笑いのスタンダードとなったのです。
これはトリクルダウン的に広がり、
いまや吉本興業だけでなく、
あらゆる事務所のお笑い芸人、
またテレビ番組制作者らも、
この「ダウンタウン的シュール」の路線を基本として、
番組作りをするしかなくなってきている。

志村けんのバカ殿様のような「ベタ」は、
90年代以降の「尼崎スタンダード」とは異質なので、
むしろ現代のお笑いシーンでは「マイナー」な存在です。

ここに倒錯がある。

本来シュールは「裏」なんですよね。
陰と陽ならば「陰」の存在です。
それが90年代の「ダウンタウンの衝撃」以降、
その後のお笑い芸人たちがそれに絶大な影響を受けた結果、
シュールがメジャーになり、
ベタがマイナーになった。
裏が表になり、陰が陽になったわけです。

質問者様はご存じないかもしれませんが、
ますだおかだの岡田さんだとか、
なかやまきんに君とか、
サバンナの八木さんといった芸人たちがいます。
この人たちはとにかく「スベる」。
空気とか関係なく、
自分のギャグをマンキン(全力)でやったりする。
シュールというルールの中で、
「ベタを演じる」ことにより、
「1周まわって面白い」という状態になっている。
業界では「裏笑い」と呼ばれます。
これは単なる「ベタ」とは違います。
彼らは構造的に一段階メタ的な部分で笑いを取っている。
非常にポストモダン的な芸人群なのです。

ちょっと専門的になってきたので、
質問に立ち返りましょう。

以上の理由により、
質問者様がおっしゃっている「日本のお笑い」は、
「ダウンタウン的シュール」を指すと考えて
間違いないでしょう。
「それ」が苦手な人がいるのは、
当然だと私は思います。

シュールな笑いがなぜ海外に伝わりづらいかというと、
それが高度に文脈に依存しているからです。
「刷り込み」があるから、
その裏切りで笑えるというわけです。
漫才でも多用される「あるあるネタ」とかは、
文脈の共有の「確認」ですし、
「ごっつええ感じ」のコントは、
基本的に「違和感のある日常」を、
笑いに変えるという構図になっています。

「ゴレンジャイ」ならば、
ヒーロー戦隊ものを、
微妙に「ずらす」ことによって、
悪役から怒られることで、
シュールな笑いを作っています。
「赤レンジャイ!」
「青レンジャイ!」
「赤レンジャイ!」
「赤レンジャイ!」
「青レンジャイ!」
「五人揃って、ゴレンジャイ!」
とやることで、
「いやいや、戦われへんわ、そんなん。
 お前ら打ち合わせしてきたんか?
 色かぶっとるがな。」
と、悪役(浜ちゃん)が説教する。
ヒーロー登場のシーンから、
いっきに「反省会」が始まる。
そういうシュールさですね。

「とかげのおっさん」ならば、
銀色の安そうな時計を腕に巻いて、
バーコード頭をした、
くたびれたおっさんの、
胴体が「とかげ」なのです。
おっさんの自意識は完全に、
「大阪のくたびれたおっさん」なのですが、
周囲からは「異形の化け物」なわけです。
公園でとかげのおっさんに出会う子ども(浜ちゃん)は、
「わー、おじさん面白いね!」といって、
とかげのおっさんと友情を育む。
それを見た大人=警察官(東野)は、
「きみ、なんやのん!?」
という、至極常識的な問いを発する。
一番根本的な問いなので、
とかげのおっさんはそれに答えられない。

このコントはもはや、
フランツ・カフカの小説「変身」の域に達しています。
いつかノーベル文学賞を獲るんじゃないでしょうか。

、、、まぁ、そんなわけで、
「ダウンタウン以降」の、
尼崎スタンダードのシュールな笑いというのは、
日常を切り取る角度を「ずらす」ことで生じる違和感を、
フックにして笑いを創出するというスタイルなわけです。

たぶん質問者様がおっしゃっているのは、
「ごっつええ感じ」とかのことではなく、
『ロンドンハーツ』とか、
『アメトーーク』とか、
そういった芸人同士でわちゃわちゃしながら、
笑いを生み出すスタイルのことを言ってると思うのですよね。
『ガキの使い』とかも一部そうですよね。

、、、で、
日常を「ずらす」笑いというのは、
どうしても「自己言及的」になります。
なので、先輩後輩の力学関係とか、
楽屋ネタ的なものとか、
そういった内輪のルールといいますか、
「疑似教室」みたいなものを作り、
そしてその中でそれぞれのキャラクターをテコにして、
みんなで笑いを作り上げていきます。

そうするとどうしても、
「いじり」の要素が入ってきたり、
(フィクションとは言え)「暴力」の要素が入ります。
そもそも「ツッコミ」という文脈で、
頭を叩く、とかっていうのって、
本当に日本だけらしいのですよね。
韓国の人から聞いたことがあるのは、
韓国で「頭を叩くこと」は笑いという記号ではないので、
見ている人は引いてしまうと言ってしました。
日本の漫才のルーツと言われている、
アメリカの「アボット&コステロ」の、
スタンドアップコメディスタイルでも、
「頭を叩く」という要素はありません。

あれは日本で独自進化した形態なのです。

、、、で、
その「いじり」と「暴力」が、
いわゆる学校でのいじめや、
スクールカースト的なマウンティングと、
よく似ているので、
一部の人は今の芸人たちの笑いを見て、
不快な気持ちになったりすると思うんですよね。

先ほど申し上げたように、
不快なものを敢えて見る理由はまったくありませんので、
耳をふさいでチャンネルを変えるのが一番だと思います。

ただ、芸人の「いじり」と「フィクション暴力」って、
「プロレス」だというのは、
知っておくだけで見方が変わることもあります。

私は完全に「ダウンタウン直撃世代」なので、
芸人たちがやっていることが「プロレス」
だということを、ある意味「教育」されて育ったのですよね。
なので、プロレスを安心して見られる。
ブレーンバスターを食らっている人も、
受け身を練習したプロだと知っている。
ラリアットは、うまく力を吸収するように、
倒れていることも知っている。
場外乱闘も、パイプ椅子で怪我しない叩き方、
叩かれ方を、彼らがいつも練習しているのを知っている。

そうすると彼らの試合に「興奮」できるわけです。
ミッキーマウスの中に人が入っていることを知っていても、
「夢の世界」に入り込めるのと同じです。

芸人の「いじり」も同じで、
たとえばそうですねぇ。
千原ジュニア(先輩)が、
前歯が欠けて滑舌の悪い三四郎の小宮を、
「いじっていた」としますよね。
あれは、「ブレーンバスター」なんですよね。
小宮も受け身を取れるし、
ジュニアも怪我させないやり方を知ってるから、
テレビカメラの前でああいうコミュニケーションができる。

「暴力」でいうと、
「山崎方正VSモリマン」のバトル、
っていうのが「ガキ使」にあるのですが、
モリマンが方正をごぼうでしばきまくります。
あれは「場外乱闘」なんですよね。
「方正が本当に、マジで痛がっている。
 そして実際痛い。」
という違いはありますが笑、
あれは方正とモリマンという、
お笑い界のハンセンとブロディがやってるから、
「成立」しているのです。

昔、私の母が、
父がテレビでボクシングを見たり、
私がプロレスを見たりするのを、
後ろから見て、いやーな顔をしていたのを思い出します。
「そんな暴力的で血なまぐさいものを見て。
 見ててもこっちが痛くなるだけじゃない。」
と母は思ってたと思うし、
じっさい母が父に言うのを聞いたことがあります。

きっとアメトーーク的な笑いを「受け付けない」か、
それとも楽しめるかという差は、
このあたりにあると思います。

なので、アメトーーク的なものを、
実際の人間関係で真似る、
っていうのは愚かだという図式も成り立ちます。
プロレス技を教室でやって大けがするヤツが、
年に2人ぐらいいたわけじゃないですか。
それと同じで、
芸人のいじりを真似たつもりで、
日常生活で同じ事をやると、
「面白くない」上に、
心理的な負傷を負うことになります。

このあたりって、
もうちょっと啓発したほうが良いと思うんですよね。
ダウンタウンチルドレンは常識として知ってても、
多分、日本国民の全員がそうではないので。
大食いタレントが大食いをするとき
「これはプロの業です。
 ぜったいに真似しないでください」
というテロップを出すのと同じように、
芸人たちが楽屋ネタで「いじりあって」いるとき、
「これは『プロレス』です。
 真似しないでください」
みたいに。

まぁ、それをやったときに、
見てる人は本当に「笑える」のかは疑問ですが。
プロレス中継で、
「これはプロの業です。
 じっさいには痛くありません」
ってうテロップが出ているようなものですから笑。
「興奮できるかい!!」
っていうね笑。

、、、長々と話しましたが、
私の見解は以上のようなことです。
加えて、私はお笑い芸人の「生き様」が好きなんですよね。
彼らの頭の良さ、したたかさ、純粋さ、優しさ、
そういったものに惹かれ続けてるんです。
又吉直樹「火花」を読むと、
彼らがどれぐらい真剣で、
彼らがどれぐらい純粋かが、
とてもよく分かります。

最後に質問者様のような方でも、
安心して笑えるであろう、
お笑いコンテンツをいくつかご紹介します。

1.探偵!ナイトスクープ
2.LIFE 人生に捧げるコント
3.吉本新喜劇

このあたりは、
「いじめっぽいいじり」もありませんし、
安心して笑える内容ばかりだと思います。
新喜劇の「すっちー」は本当に凄い。
めだか→辻本ときて、
彼が出てきたことで、
新喜劇は救われた感じがします。
彼がいればあと30年は大丈夫でしょう。

【Q】面白いと思う人

2019.12.03 Tuesday

第092号   2019年5月21日配信号

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■2 Q&Aコーナー

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●【Q】面白いと思う人について

・ペンネーム:サザエ(女性)
・お住いの地域:千葉県

Q.

陣内さん、こんにちは。
いつも為になる本のダイジェストや、
なるほど面白いコメント満載の
メルマガをありがとうございます。

質問です。

惹かれる人、魅力的だなぁ、
なんかこの人いいなぁってと思う人を3人くらい教えてください。

何でかというと、友達や同僚や親戚が、
すごく優しく親切だけど、
教会に対しては分厚い壁を持っているのを感じるとき、
クリスチャンである自分や伝統的な教会に、
引きがないのかなぁと思ってしまいます。
ほとばしるキリストの魅力や、
造られたその人らしい良さがあんまり現れてないからなのかなと。
クリスチャンで、広い視野と社会とのバランスを持ってる
(と、思ってます)陣内さんの
個人的な意見を聞いてみたいなと思いました。

よろしくお願いします。


A.

サザエさん、
ご質問ありがとうございます。

まず「3人の面白い人」を、
とのことですが、
知り合いだとちょっと許諾が必要なのと、
「みんな面白いし魅力的です」
という模範解答になってしまうので笑、
かなり難しいですね。

一般論から言って私の場合、
「この人と友だちになりたい」
と思うタイプの人というのは、
けっこう他の人と違い偏りがあります。

私は「思索的」な人と波長が合うので、
その人がキリスト教徒だろうが仏教徒だろうが、
ヒンズー教とだろうが無神論者だろうが、
「そもそも自分の考えていることとは、、、」
というメタ的な内容を話せる人と出会うと、
「この人とアポイントを取ってまた語り合いたい」
と思います。

これは「どれだけ本を読んでいるか」
とは無関係です。
まぁ、そういった人は、
たいてい本を読んでるんですが。

ただ、本をたくさん読んでるけど、
思索的ではない人もいます。
特定のジャンルの信仰書以外読まないとか、
自己啓発的ビジネス書ばっかり読む、
といったタイプがそれで、
「自分の思考を追認する言説による自慰行為」は、
思考を深めませんので、
こういった人は、年間100冊読もうが、
私の定義する「面白い人」にはなりません。


▼▼▼有名人だと、、、

今度は有名人で考えてみましょう。
ぱっと思いつく魅力的な人は、

1.佐藤優(作家)
2.レブロン・ジェームズ(バスケ選手)
3.若林正恭(お笑い芸人)

ですかね。
来月聞かれたら、
全員入れ替わってるかもしれませんが笑。
この中で明確にクリスチャンと分かってるのは、
佐藤優氏だけです。

しかし、
ベルジャーエフがドストエフスキーについて、
「ドストエフスキーは、
言葉の最も深い意味におけるキリスト教的作家であった」。
と言っています。
彼の表現を借りますと私が惹かれるのは、
「言葉の最も深い意味における、
 キリスト教的な人間」です。
その人に「キリスト教徒」という、
ラベルが貼られているかどうか、
というのはあまり重要ではない。

佐藤優は、その教養の深さと知識の厚みが凄い。
私があと3回人生を生きても到達出来ないでしょう。
なおかつ「この世界のことをキリスト教の観点で語る」
という「働き」において、
私が「モデル」としている人物だからです。
あまり誰もそう思ってないでしょうが、
私がこのメルマガやYouTubeでしていることと、
佐藤優さんが年間何十冊も本を書いてしていることは、
かなり近いと自分では思っています。

レブロン・ジェームズは、
クリーブランドのアクロンという、
スラム街で16歳のシングルマザーから生まれました。
彼は10億に一つというぐらい恵まれた身体能力を用い、
バスケ選手として「地上最強」の地位を手にしました。
その富と名声を彼は「利他的に」使っています。
アクロンに学校を設立し、
貧しい子どもたちの財団を運営しています。
また、人種差別撤廃のために、
発言するべき時にはしっかり発言し、
トランプ大統領からは毛嫌いされています笑。
レブロン、大ファンです。
彼の利他的で公益に資する生き方が、
「言葉の深い意味におけるキリスト教徒」だからです。

若林正恭は、
彼の本を読むと分かりますが、
非常に思索的です。
私と同世代なので、
その悩み方も私と似ている。
「深い部分で物事を疑い、
 批判的・複眼的に世の中を眺める。
 そしてそれを言語化し他者に伝達する」
という営みにおいて、
現代世界では芸人は他の業種を引き離している。
そんな「世の中のアウトサイダーとしての芸人が、
この世の中をシニカルに語りつつ、
自我の煩悶を言葉にする」とうような、
かつてビートたけしとかがしていたことを、
今は若林世代が上手にしています。

その意味では又吉直樹や山里亮太も、
このジャンルに入ります。
キリスト者というのは、
「世の中のあたりまえ」を疑う人です。
根源的に物事を考え、
批評的に洞察し、それを言語化します。
「預言的な生き方」とはそういうことです。
その意味で彼らもまた、
「言葉の深い意味におけるキリスト教徒」なのです。


▼▼▼因数分解すると、、、

さて。
今申し上げたようなことを踏まえながら、
自分の経験に照らし合わせ、
敢えて「私の考える面白い(魅力的だ)と思う人」を、
定式化してみますと、
以下の3つになるかと思います。

1.自己開示出来る人→自己受容できる人
2.影響される人
3.愛する人(与える人)

まず1の自己開示。
これはねぇ。
けっこう人間関係の「核」にあると思います。
人は、「相手が自己開示した度合いに応じて」
自分も自己開示する生き物です。

自分の心の中の最も柔らかく傷つきやすい部分や、
自分の過去の経験の最も深く暗い闇を、
他者に開示出来る人は、
他者もまたその人に、
自分の心の中の最も深くまで分かち合っても大丈夫だ、
という安心を与えます。

ショウさんの質問への回答で、
最後に引用した、
ヘンリ・ナウエンの文章の、
「自らの弱さを癒しの源泉とする」
というのは、今言ったようなことも含みます。

「深い絆で結ばれた親友がほしい」
と誰しも思います。
それには実は条件があって、
自分自身が「勇気を振り絞り自己開示する」
ということによってしか出来ません。
自分の心のバリアを解いた度合いに応じて、
他者も自分に対し、心のバリアを解いてくれるからです。

それを「弱さの証拠」と見る人もいるでしょう。
アメリカのような「勝利主義的社会」ではなおさらだし、
日本でも、特に昭和世代の男は、
そういったことをしないのが男らしさだ、
と教えられてきました。
弱さを開示すれば、
あざ笑われることもあった。

今でもある。

でも、「そんなのはどうでもいい」と、
自己開示出来る勇気を持つ人は最強です。
必ず親友が出来ます。
100人があざ笑っても、
必ず1人親友が出来ます。
1人親友がいる、
というのは金融資産に換算すると、
1000万円ぐらいになるという学者もいます。

では、どうすれば自己開示出来るのか?

それは、「自己受容」出来ている必要があります。
弱い自分や暗い過去を自己受容できている度合いに応じ、
人は自己開示出来ます。

(もちろん常識的な社会的コードに従って)
自己開示出来る人を、人はバカにしながらも、
心の底では実は尊敬しています。
なぜか?
それはその人が弱さや傷やトラウマにもかかわらず、
自己受容に至った、という、
「魂の旅路における勇者だ」
ということが無意識に分かるからです。

次行きましょう。

2の「影響される人」
人は、影響される度合いに応じて人に影響を与えます。
影響は「フロー」であってストックではありません。
「ものすごい影響力がある人」がいて、
その人から影響力の波動が同心円状に広がる、、、
というのは正しいイメージではない。

影響力は「川の流れ」に似ています。
自分が影響を与えられた、
と思う人(Aさん)がいたら、
必ずAさんの上流には、
Aさんに影響を与えた誰かがいるのです。

私たちが影響力ある人間になりたいと願うなら、
私たちは「大いに影響を受ける」人間である必要があります。
これは実は怖いことで、
「自分の核まで揺らいでしまうのでは?」
という恐れを持っていると、
影響される渦の中に、
自分を投じることが出来ません。

たとえば自分とまったく違う意見を持っている人と、
面と向かって話し合ったり、
自分が信じているのとは
真逆の主張をしていることが分かっている本を、
手にとって読んだりすることが出来ないのです。

だって、読んだり話したりしたら、
その後で自分の意見が変わっちゃうかもしれないから笑。

私は、それでいいと思います。
いや、それこそがいい、と思う。

自分の意見がちょっとでも変わらないような本を読んだり、
その後に自分が影響を受けないような話し合いをしたりして、
逆にどこが面白いんだろう、
と私なんかは思うわけですよ。

では、私はアメーバのように「かたちがない」ものなのか?

違います。

私は自分の最もコアな部分、
つまり「言葉の深い意味におけるキリスト教性」について、
揺らがぬ信念を持っています。
それは自分が握っている必要すらなく、
神が握っていてくれている。
その部分が確かだから、
それ以外の部分については、
どれだけでも柔軟に考えることが出来る。

逆だと思っている人が多いですが、
頑固な人って、信念が強い人ではありません。
頑固な人は信念に自信がないから頑固なのです。
信念が強い人は今申し上げた理由により、
逆に柔軟になります。

その柔軟さは「影響される」につながり、
それが影響力になります。

これに若林正恭的な、
「根源から問う」が加わると、
根源にすら影響を受けるため、
人の根源に影響を与えることが出来るわけです。


3の愛する人(与える人)、
というのはもう、そのままですね。
なぜ「与える」なのか?
与えるという行為は、
言葉ではごまかしが利かないし、
雰囲気とかの話しではないからです。

リック・ウォレン牧師は、
「愛することなしに与えることは可能だが、
 与えることなしに愛することは不可能だ」
と言っています。
ショウさんの質問への回答で、
「什一献金」の話しをしましたが、
他者に寄付、献金、贈与する、
ということを有形無形にしている人は、
「愛する人」です。

私は愛する人に、
これ以上ない魅力を感じます。
その人はイエスに似ているからです。



▼▼▼非キリスト教徒が何に魅力を感じるか

サザエさんの質問の意図は、
「キリスト者が、
 宗教アレルギーの壁を乗り越えるほどに、
 魅力的であるためにはどうすれば良いか」
というような問題意識があると思われます。

この問題意識は正しい。

私は自分の職業人生の大半を、
「いわゆる伝道(宣教)」に捧げてきたわけですが、
その暫定的な結論は意外なものでした。

それは「伝道」しないほど伝道は上手く行く。
というものです。

今回は各方面から怒られそうなことばかり言ってますが、
私は「業界としてのキリスト教会」の、
利害を最優先とする立場にありませんので笑、
大切なことはトラの尾を踏んでもやはり言います。
私の利害は「神の国」にのみあります。
その前進のためならキリスト業界が怒ろうが、
気にせず言います。
キリスト業界が頑張ってることでも、
神の国と関係なければ、
顔に笑顔を貼り付けて全力でスルーします笑。

私の知る、ある海外の牧師は、
「業界としての教会」よりも、
「神の国」に感心がある人ですが、
「クリスチャンはヒモつきで愛すな」と言っています。
私のメンターのボブ・モフィットは、
「愛で操作してはいけない」と、
同じ意味のことを言っています。

どういうことか?

私たちが愛するとき、その愛が、
「教会に誘うための」
「その人をキリスト教徒にするための」
エサだったと分かったら、
愛された人はどう思うでしょうか?

私たちの誰も、
「操作(マニュピレーション)」されたい人はいません。
自分がされたくないことを、
他者にしたらダメです。

もっと言えば私は、
「伝道」されたくありません。
「伝道」ってだって、
「私は救いの道を知っている。
 無知蒙昧なあなたはそれを知らない。
 だからそれを教えて上げましょう」
ってことでしょ。

私は他宗教の人から自分がそうされたら、
ちょっと傷つきますし、さらに言えば困惑します

だから私は「伝道」しません。
これもめちゃくちゃ怒られそうですけど笑。

じゃあ、
「宣教という神の働きはどうなるのだ!」
というお叱りが当然予測されます。

でも、経験と直感から、
「伝道しない方が伝道は上手く行く」
という逆説的な答えが正しいのでは?
とうい手応えを私は得ていました。
じっさい、20年余の私のキリスト者としての歩みを通し、
「私を通してキリスト教徒になった15名ぐらいの人」
の誰一人として、私は「伝道」しませんでしたから。
*この15名というのは直接の影響によって、
という意味です。
間接にはもうちょっといると思います。

彼らは私と友人となり、知り合いになり、
一緒に時間を過ごし、一緒にご飯を食べ、
互いの人生の話しをし、
互いに影響を与え合いました。
あるとき彼らは教会に来るようになり、
そしてあるとき信じており、あるとき洗礼を受け、
あるとき一緒に祈るようになっていました。

そうとしか言いようがない。
「救いの道を教えましょうか?」
みたいなやりとりをしたことは一度もない。
逆にそっちのアプローチをした人で、
信仰を持った知人は一人もいません。
彼らは私から離れていきました。
きっと傷つき、困惑したのでしょう。
悪いことをしたと思っています。

でもね。

やっぱり「言葉による伝道=宣教」という、
広く信じられている定説に逆らうというのは、
ちょっとした罪悪感を伴いますし、
「自分は重大な神学的な誤りをしているのだろうか?」
と思ったりもするわけですよ。

こう見えて、けっこう真面目なので。

その罪悪感や逡巡が吹っ切れたのは、
『宣教のパラダイム転換』デイヴィッド・ボッシュ
『キリスト教とローマ帝国』ロドニー・スターク
という2冊の本を読んだのが大きかったです。

詳しく説明する時間はありませんが、
この2冊が言っていることを要約して統合すると、
こうなります。

1.「救いの道をあなたに教えて上げましょう」
式の「伝道(宣教)」というのは、
2000年間の宣教の歴史の中の、
「近代以降」というごく一時期に台頭してきた。

2.宣教というのはその時代に支配的な思想に影響を受ける。
19〜20世紀の「近代」というのは「大きな物語」が信じられ、
「正しい合理的な価値体系」がまだあると思われていた。
その時代に「キリスト教を合理的に説明する」
という「伝道」によるスタイルは有効だった。

3.近代が終わり「後近代」あるいは「ポスト近代」
と呼ばれる21世紀の世界で、
「合理的な説明・説得という伝道スタイル」が、
人々に訴求する力はますます失われてきている。

4.21世紀には「宣教」の在り方はこれまでとは、
違ったものになるだろう。

5.初代教会がなぜ、
200年の間に、数百名からローマ帝国の人口の12%にまで、
数を増やしたのか?
当時、「20世紀的な意味の伝道」という概念はなかった。

6.考古学的資料から分かるのは、
彼らは「伝道」によって増えたのではない。
彼らの「この世とまったく違う生き方」が、
あまりにも際立っていたため、
9割のそれをバカにする人と、
1割のそれに魅力を感じる人がいた。
その1割のなかには群れに加わる人もいた。
その積み重ねが100年で10000%、
という成長率につながった。

7.ちなみに「まったく違う生き方」とは、
・利他的で自己犠牲的な生き方
・夫が妻を大切にする(当時の常識では妻は所有物だった)
・雇用人が奴隷を大切にする(当時の常識ではあり得なかった)
などだった。


、、、これらを材料として考えた場合、
「欧米などのキリスト教圏」ではいざ知らず、
21世紀の日本は、
「多元主義的な異教世界だったローマ帝国」に、
文脈的共通性が大きいと考えます。

とすると、
ロドニー・スタークが書いた、
ローマ帝国における初代教会的なアプローチのほうが、
20世紀アメリカで発展した、
「言葉による伝道」のスタイルより、
端的にいって「ハマる」のではないかと私は考えます。

私の経験もそれを裏付けている。

ロドニー・スタークは宣教学者ではなく、
宗教社会学者です。
彼はモルモン教などの研究と、
初代教会の研究を総合して、
「改宗」は、改宗者が、
「合理的に納得したとき」に起きるのではない。
と結論します。

では、いつ起きるのか?

引用します。

→P33 
〈実際、改宗プロセスには他の要素も関係するが、
改宗における中心的社会学的命題は以下の通りである。
すなわち、逸脱的な新宗教への改宗は、
他の条件が同じであれば、人がそのグループの成員に対し、
グループ外の人々よりも強い愛着を持っているか、
持つようになったときに起こる。(Stark1992)〉


、、、サザエさんも指摘しているとおり、
標準的な日本人にとって「教会」という場所は、
分厚い心理的な壁を感じる場所です。
スタークの言葉で言えば、
日本人にとってキリスト教とは、
「逸脱的な新宗教」なのです。

これは事実です。
少なくともあと100年ぐらいは、
事実であり続けるでしょう。

ローマ帝国にとって、
キリスト教徒たちが、
「逸脱的な新宗教」だったのと同じです。


▼▼▼分厚い心理的な壁に関する考察

、、、では、この「分厚い心理的な壁」を、
どうすれば私やサザエさんは打ち壊せるのか?
あるいは乗り越えられるのか?
もしくは壁を「融解」するのか?
地面を掘って、壁をくぐるのか?

いろんな考え方があります。

スタークが指摘しているのは、
「逸脱的な新宗教」に属する人への愛着、
つまりクリスチャンの友人(知人・親族)との絆が、
非キリスト教徒の人々の「絆の総和」を超えたときに、
「改宗」が起きるということです。

サザエさんのご質問の本文にある、
「すごく優しく親切だけど、
教会に対しては分厚い壁を持っているのを感じる」
という所感はだから、
すごく優しく親切なひと「だからこそ」、
教会に対しては分厚い壁を持つ、
というほうが正確だと私は考えます。

どういうことか?

優しく親切で常識的で仕事が出来て、、、
という人というのは、
「日本」という社会コードに自分を上手に適合させている人であり、
それは「信頼と愛情と絆の総和」が高い人である可能性が高い。
家族にも近所にも親戚にも職場にも愛されている人です。
スタークの言う「グループ外の人の愛着の総和」が大きい。
そうすると、「逸脱的な新宗教のメンバー」である、
私やサザエさんのような人との絆を結んだとしても、
後者が前者を超えることはほとんどない。

その結果として、
「教会に対しては距離を置く」
ということになります。

これが、
「クリスチャンのように素晴らしい、
非キリスト教徒のほうが、
クリスチャンになりづらい」
という逆説的な現象の理由だと私は考えています。

では、サザエさんや私が、
そのような素晴らしい人たちを愛し、
彼らと絆を結ぶことは無意味なのか?

まったくそんなことはない、と私は思います。

スタークの論理を聞いてローマ帝国で起きたことは、
「キリスト者との絆」VS「非キリスト者との絆」
の「綱引き」であった、と解釈しがちですが、
私はそれは違うと思う。

そうではありません。
綱引きのメタファーは「ゼロサム」です。
全体の総和が常に等しい。
しかし本当は「プラスサム」で見るべきです。
全体の総和はふくらんで良いのです。

つまり、
非キリスト教徒の人を愛し、
彼らとの心理的絆を構築することの目的は、
綱引きに勝ち、彼らを教会に引っ張り込むことではない、
というのが私が強く主張したいことです。

私たちは社会と綱引きをしているのではありません。
私たちは社会に「価値」を加えているのです。
その「価値」の中身は何か?
無償の愛、絆、信頼、その他諸々です。

スタークは、
ローマ帝国でキリスト者が増えたのは、
「非常に異なった生き方が持つ魅力」だったが、
それが数的増加にまでつながったのには、
「きっかけ」があったと語っています。

その「きっかけ」とは何か?

それは「ペストの流行」でした。
当時のペストの流行は猖獗(しょうけつ)を極め、
町の人口の半分が死んだりしました。
そのとき、医者ですら町から逃げました。
ところがキリスト者は死を恐れていなかったので、
ペスト患者たちを最後まで看病しました。
逃げた医者の親戚がキリスト者に看病され、
親戚やその友人たちの一部は回復後キリスト者になりました。

全員ではありません。
しかし、ペストの流行のたびに、
確実にキリスト者の割合は増えました。
ロドニー・スタークは一次資料から、
そのようなことが無数に起きたことを実証します。

何が言いたいのか?

当時のローマ帝国には、
今の日本社会と同じで、
「良い人、素晴らしい人」もいっぱいいたでしょう。
彼らは良い人であるゆえに、
「ローマ社会」にたくさんの信頼関係を構築していた。
つまり「キリスト教外の社会」に大きな愛着を持っていた。
ところが「ペストの流行」により、
親しい人まで逃げてしまったりしたとき、
一気に「キリスト教外の社会との愛着」が目減りした。
逆に看病するキリスト者たちを見て、
「逸脱的な新宗教のメンバーとの愛着」が増大した。
「愛着の逆転」が起きたことにより、
彼らはキリスト者になりました。

やっぱ綱引きじゃん。

違います。
そうじゃない。
私たちは「操作」をしてはいけません。
「伝道のために愛する」というのは、
その実、まったく愛していないのと同じです。
だって、伝道のために愛されたい人、いますか?

私は嫌です。

そうじゃないんです。
「愛される側」から物事を見るのが大事です。
そうするとまったく違う風景が見える。
「綱引きの対象」になんて誰もされたくありません。
しかし、誰もが「セーフティネット」としての、
人との絆を求めています。
「信頼に足る誰かとの愛着」を、
たくさん持っていれば持っているほど、
この不確かな世界で、
生き残れる可能性が高まるからです。
「信頼の総和」が生きる上で大事であり、
キリスト者は愛することによって、
他者の「信頼の総和を増大させる」ことが出来る。
プラスサムなのです。

「ペストのようなこと」が起きて、
いつかその人はキリスト教徒になるかもしれない。
そんなことはついぞ起きないかもしれない。

どっちでもいい、
と私は思います。
それは神の主権のなかにあることであり、
私たちのなすべきは「愛せよ」という、
神の命令に忠実であることです。

親友の価値は金融資産にすると、
1000万円ぐらいだ、
という学術研究があります。
イスラエルの伝説的なスパイは、
親友の価値は体重分の金の重さと同じ、
と言っています。(3億円ぐらい)

どちらの試算を採用したとしても、
誰かがあなたのことを「親友」と思ってくれるほどに、
その人の信頼を勝ち取り愛着を形成できたなら、
それは1000万円以上のプレゼントをしているのと同じです。

その結果その人はキリスト教徒になるかもしれないし、
ならないかもしれない。

何度も言いますが、
それはどっちでもいいのです。

イエスが重い皮膚病患者の10人を癒した、
という記事がルカによる福音書に出てきます。
10人をイエスは癒されました。
不治の病が癒されるというのは、
少なくとも金融資産で1000万を超えるでしょう。

ところが、
キリストを讃えに帰ってきたのは、
10人のうち1人だけでした。
つまり、9人は「キリスト者」にならず、
1人だけがキリスト者になりました。

イエスは神ですから、
癒す前に「この1人以外は信じない」
と分かったはずです。

ならば、その一人だけを癒せば良かったのではないか?

しかしイエスはそうしなかった。
イエスの世界観は「プラスサム」だったからです。
10人の人生に「価値」を加えることをイエスはしました。
そのうちの1人は「永遠の価値」をも加えました。
イエスですら残りの9人について、
癒す以上のことは出来ませんでした。

誰かが救われるかどうかは、
神の主権のなかにあるからです。

サザエさんが同僚を愛し、
その人のために祈り、
信頼を構築し、愛着を形成するなら、
それはこの社会への「プレゼント」になります。
その結果、誰かは「分厚い壁」を乗り越え、
キリスト教徒になるかもしれないし、
誰かはならないかもしれない。

しかし、大事なのは前半だけです。
後半は神の主権のなかにあります。
前半をちゃんとしてなお教会に壁を持つ人は、
イエスご自身がそうしたとしても、
状況はきっと変わりません。
(戻ってこなかった9人を思い出しましょう)

ただ、愛していきましょう。
それで大丈夫です。

【Q】献身について

2019.12.02 Monday

第092号   2019年5月21日配信号

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 Q&Aコーナー

皆さんからお寄せ頂いた質問にお答えするコーナーです。

日頃の悩み、疑問、今更誰かに聞けないギモン、、、、
質問の種類は問いません。お気兼ねなくご質問をお寄せください。
ご利用は下記に基づいてご利用いただけると幸いです。

【Q&Aについて】
▼全てのご質問にお答えすることはできません。予めご了承ください
▼いただいたご質問は、ブログ・FVIメディアルームに掲載される可能性があります
▼本名での投稿の場合は「ペンネーム:無し」となります
▼必ず下記フォームからご質問を送信ください

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

【Q&Aコーナー専用フォーム】

▼URL
https://www.secure-cloud.jp/sf/1484051839NyovBkYI

※大変お手数ですが一つの1メール1質問を原則とさせてください。
ご協力宜しく御願い致します。

※頂いたメールはすべて目を通しております。
陣内俊への要望やメルマガの感想、激励などももちろん大歓迎です!

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

●【Q】献身について

・ペンネーム:ショウ(男性)
・お住いの地域:愛知県

Q.

俊さん

いつも楽しく 考えさせられながら読んでます
メルマガ ありがとうございます

いま私は仕事を辞め牧師になるために
神学校へ行くかどうか 悩んでいます
俊さんは獣医の仕事を辞める決断に
至った経緯はどのようなことだったんですか?
また 100%大丈夫と言う自信はないと思いますが、
その中で踏み出せた経験などを教えていただけると嬉しいです

私は学びたいと言う思いはあるものの、
本当にそれで良いのか?
卒業後牧師としてやって行けるのか、不安を覚えています。
アドバイス頂けると嬉しいです


A.

ショウさん、ご質問ありがとうございます。

これはねぇ。

どこから話しましょうか。

こういうトピックというのは、
相談する人によってアドバイスが変わるでしょうから、
あまり「人に相談することのメリット」というのは、
大きくはないかもしれません。

なぜか?

こういった「答えが決まっていない問い」に関して、
誰かに相談すると、出てくる答えは、
「その人自身の人生観や哲学」の反映になるからです。

たとえば今の会社の上司や同僚に相談したとして、
「それはやめておいた方が良い。
 まずは自分の経済基盤をしっかりさせ、
 それから本当にしたいことをするのがベストだ」
というかもしれません。
じっさい私は市役所を辞めて宣教の仕事を始めるとき、
上司には「社会的な自殺みたいなもんだぞ」
という意味のことを言われました笑。
その上司は大学を卒業してから、
「公務員であること以外の人生」を、
一度も歩んだことがないのですから、
そういうのは当然と言えば当然です。

しかし、それは、
「その上司(同僚)にとっての現実」なのです。

現実は複数あります。
そしてここからが多くの人が誤解しているのですが、
真実も複数あります。
内村鑑三が「真理は楕円」と言ったのは、
実は深い話しなのです。

ちょっと平たく実生活に引きつけると、
「正解は複数ある」と言えます。

逆のケースを考えましょう。

私がショウさんの今の状況を知っていれば、
もうちょっと的確なことが言えるとは思うのですが、
あくまで思考実験としての話しをします。

仮にショウさんが福音主義の教会に通っているとしましょう。
そして牧師は教団の神学校で
重要な役割を担っているとしましょう。
その牧師に相談すれば、かなりの高確率で、
「献身とは素晴らしい」
という肯定的な答えが返ってくるでしょう。

それもまた一つの真実です。

しかし忘れてはいけないのは、
それが「その牧師にとっての真実」であるということでしょう。
もし「これが(普遍的な)神の御心だ」
と言い切るような牧師ならば、
悪いことは言わないので別の教会に移ることをオススメします。

他者の人生に対し、神が何かを示されるとき、
その示され方は「責任の同心円状」に重要度が増します。
その選択のリスクを負う人間から順に、
神から語られたことの重みが決まる、ということです。
これは大原則として覚えておいた方が良い。
あんまり親しくもない人から、
「あなたはこれをした方が良いと思う。
 神が語っているように感じる」
と言われるようなときは、
眉毛に唾を厚ーく塗りましょう笑。

ショウさんのケースですと、
ショウさん自身が最大のリスクテイカーです。
だとしたら、神が語られる重要度は、
ショウさん自身が最大になります。
もしショウさんが結婚していたら、
間違いなく次は奥さんでしょう。
次に子どもたち。
結婚していなければ家族、、、
という風に、責任の同心円は広がります。

牧師はその責任の同心円において、
重く見ても会社の上司と同じぐらいでしょう。
だとしたらそのアドバイスは、
断定的なものであろうはずがありません。



▼▼▼自己肯定バイアス

話しを戻します。
この手の事に関しては、
誰に相談したとしても、
出てくる意見は、
「その人自身の現実」である。

人は何かを語るとき、
「何か」についてではなく、
実はその人自身について語るからです。

では、「その人自身の現実」とは何か?

もう一つ覚えておくと良いのは、
年を重ねるほど、
人は「自分の選んだ人生は正しかった」と思いたいのです。
そうしないと、「やってられない」じゃないですか笑。

「サンクコスト問題」といいまして、
これまでの投資が台なしになるという事を人は受け入れられないので、
「今までやってきた努力や投資を肯定するという結論」が、
考える前に「右脳」で決定されているのです。

DVを受けながらも「この結婚が正しかった」と思い込む人、
ブラック企業に勤めながらも、
「この会社に入ったのは間違っていなかった」
と、無理な労働を続ける人、
ちょっとカルト的で独裁的な教会で、
「信仰という名のハラスメント」を受けながらも、
「神がここに私を置かれたのだから、、、」
と歯を食いしばる人。

これらの人々の背後にあるのが、
「サンクコスト問題」です。
それによって「自己肯定バイアス」が働き、
自分の人生を肯定するという決断が、
右脳でなされます。
左脳はそれに「理由付け」するだけです。
左脳はかなりアクロバティックな理論を駆使してでも、
それを肯定しようとします。
その能力は驚くばかりです。

何を言いたいのか?

信仰者でもそうでなくても良いのですが、
「会社にとどまる」という決断をした年配者は、
若年の「会社から離れる」という人間に向かい、
自分の自己肯定バイアスに基づき、
「とどまった方が得だぞ」
「とどまった方が正義だぞ」
「とどまった方が幸せだぞ」
というアドバイスをするでしょう。

「会社を離れる」という決断をした年配者、
たとえば脱サラをして今は会社を経営している人や、
かつてサラリーマンをしていたが神学校に行き牧師をしている人、
こういった人を考えましょう。
そういった人は、同じ人間に向かい、
自身の自己肯定バイアスに基づき、
「チャレンジした方が良いぞ」
「後悔が一番ダメだぞ」
「会社という鎖から自由になるのは良いぞ」
というようなアドバイスをするでしょう。

なので、
「答え」を求めているなら、
この手のことは、
人に相談することで得られないと思うのがまず大切です。
しかし、人に相談することで、
「自分には気づかなかった視座」を得られることはあります。
「盲点を埋めていく」ことが出来る。
それによって、より多角的に物事を見た上で、
なおかつ決断するのであれば、
その決断は「どちらを選んだとしても正解」と言えると思います。
だって、それによって世界が広がり、
悩まなかった人より、悩んだ後の方が、
「賢くなった」のですから。



▼▼▼私の意見は?

前置きが非常に長くなりましたが、
私の意見はどうか?

私は特殊な人間で、
私は自らの自己肯定バイアスを、
「割り引いて」考えることが出来ますから笑、
「分からない」が答えです。

あのとき、市役所を辞めて良かったなぁ、
と思うこともあれば、
やめなきゃ良かったなぁ、と思うこともある笑。

やめなきゃ良かったなぁ、
と思うのは、やはり節約してても、
「今月の生活費」が苦しいときや、
団体運営が先行き不透明なときでしょうか笑。
あるいは不動産屋や銀行で、
「社会的信頼が低い人」だと判断されたり、
面と向かって「公務員やめるなんてもったいない」
と言われるときでしょうか。
相手が年配者だったりすれば、
なおさら揺れますよ。

西野カナよりも震えますよ、そりゃ。

市役所の職員というのは、
当事者たちはそう思ってないでしょうが、
「現代の貴族」です。
「人生のリスク」をすべて外部に押しやり、
自分たちの安泰を「至高の価値」として守っているのが、
公務員や官僚や巨大企業の在り方ですから。
ナシーム・ニコラス・タレブは、
この人たちのことを「フラジリスタ」と呼んでいます。
(詳しくは『反脆弱性』を読んで下さい。
 くっそ面白いですから、この本)

深ーい堀に囲われた城に住んでいるようなものです。

私のようなフリーランサーというのは、
城の周りに広がる城下町の、
さらに周囲に流れる川の河岸で、
鴨長明よろしく、掘っ立て小屋を建てて、
そこに生息するような「河原者」です。

ちなみに私が芸人にこんなにも共感するのは、
彼らもまた「河原者」だからです。
彼らもまた、かなり売れた人ですら、
住宅ローンは組めず、マンションも借りられないことも多い。
日本の「信用システム」は、
「官庁と大企業という名前」しか信頼しません。

個人の信用というのは非常に低い。
芸人やミュージシャンが同じマンションに固まって住む、
というのは、彼らが世間を見下しているからではありません。
世間が彼らを「信用」しないから、
彼らは自分たちのような人でも受け入れてくれる物件に、
固まって住むのです。
多くの場合そのマンションのオーナーは、
芸能人だったりします。

ビートたけしは、
「自分たちの職業は、江戸時代で言えば河原者」
とはっきり言っていますが、
彼には物事の本質が見えているのです。

「構造的に」世の中を見るならば、
フリーランスで生活する人というのは、
その人がどれだけ稼いでいるか、
どれだけ有能か、
どれだけ有名かにかかわらず、
日本という身分社会のピラミッドにおける、
「最下層」に位置します。
最上層は東電クラスの巨大企業と、
中央官庁と地方公務員です。

コレホント。
なので私が今の働きをするために、
「失ったもの」「賭けたもの」は、
決して小さくはない。

そんなことは言われなくても分かってるんで、
年配者などから「あなたは大きなものを失ったんだよ」
と改めて言われると、
けっこうみぞおちにダメージを受けるわけですよ。

では、今の仕事を選んで良かったなぁ、
一般に言われる「献身」して良かったなぁ、
と思うのはどんなときか?

そりゃ無数にあります。

まず、毎朝妻の顔を見るたびに思います。
私は公務員をしていたら、
妻のような「献身者」と結婚できなかった。

これって、自己言及のパラドックスを含むから、
自覚しづらいのですが、
あるとき私は「はた」と気づいたのです。
20代の間、ずーっと結婚相手のために祈ってきて、
「自分自身が宣教師になっても良いと思っているような、
 献身した女性」と結婚したいと思っていました。
でも、待ってください。
仮にそうだとするなら、
その女性は「安定を求めて公務員と結婚するような女性」
でしょうか?

きっと違います。
その女性は「宣教の働きに人生を投じている男性」
と結婚したいような女性であるはずです。

、、、という論理を逆に辿ると、
私が公務員であり続けている以上、
私は自分が結婚したいような女性とは、
永遠に結婚できないことに気づいたのです。

私は川にカレイを釣りに行く愚を犯していました。

今だから言えるのですが、
私が宣教の世界に身を投じた、
半分ぐらいはこれが理由でした。

そして、毎朝思います。
豊かではない収入の中、
妻がこつこつと献金を貯めて、
誰かに施しをするのを喜んでいる時。
人々への奉仕に喜んで時間とエネルギーを使っているとき。
子どもに、「神を第一にする教育」をしているのを見るとき。
私が教会に仕えるために出張するのを、
自分も行くような気持ちで送り出してくれるとき、
「あぁ、私が選んだ人生は間違っていなかった」
と思います。

ぶっちゃけて言うと、
私が公務員を続けていたならば、
私はクリスチャンじゃない人と結婚していた可能性も高かった。
当時の状況を鑑みるとそれは、
「あり得た人生」です。

その場合、41歳の私は、
離婚していない自信がありません。
あらゆる意味で価値観が違うでしょうから。
特に教育とお金の使い方、時間の使い方で、
決定的な亀裂が生じていたでしょう。

あー怖ろしい、と思います。

それから、これもよく似ているのですが、
自分の友人たちを見て、
「あぁ、彼らは本当に、
 神の前に自分を捧げた、
 尊敬すべき人たちだなぁ」
としみじみ思うときですね。

これも同じです。
私が先に行動したから、
彼らに出会ったのです。
「こんな友だち(伴侶)に出会いたい」
と思う人は、自分が「そんな人間」に、
先になることでしか目的を達成できません。

スコット・ペックという人が書いた、
「The Road Less Traveled」
という本があります。
邦訳タイトルがひどくて、
「愛と心理療法」という謎の「超訳」なのですが、
原題の直訳は「歩く人の少ない道」といいます。
ちなみにこの本、内容は素晴らしいです。

、、、で、
私は「歩く人の少ない道」を歩いたのです。
そうするとその道で出会う人は、
「歩く人の少ない道を歩くような人たち」です。
その人たちは本当に「献身」しています。
自分にはもったいないと思うような友人たちに、
私は人生で出会い続けていますが、
それは私が「こういう道」を歩んでいるからです。

モーセはエジプトで王子でしたが、
イスラエルの民と苦しむ方を選びました。
私も「貴族(公務員)と戯れる」
よりも、この世の中で弟子として生きている、
無数の仲間たちと茨の道を旅することを選んだのです。

あ、これ、公務員とは付き合わない、
という意味じゃないですからね。
もっと「生き方」の問題です。
公務員のなかにも弟子として生きている本物の献身者がおり、
牧師のなかにもリスクを外部に押しつけ、
城壁に囲まれた城に住む「フラジリスタ」がいます。

コレホント。

フラジリスタ(リスクを負わない人)の象徴として、
私は公務員のメタファーを使っただけです。
誤解なきよう。



▼▼▼献金の話し

、、、あと、もし私が身近な誰かから、
ショウさんの質問と同じような相談を受けたら、
絶対に聞くだろうことがあります。

それは意外かもしれませんが、これです。

「ところで、
 什一献金はしている?」

ですね。

あまり「献身」する人に、
この質問する人はいないかもしれませんが、
私は絶対にします。

なぜか?

「献金」というのは、
言葉や気持ちの高ぶり以上に、
その人の「神への献身」を、
正確に表す指標だと思うからです。
賛美集会で涙を流しながら歌うことよりも、
忠実に献金をしているかどうかのほうが、
「正確な献身の指標」になります。

マジで。
これは自信がある。
イエスも言ってます。
「あなたの宝(=お金)があるところに、
 あなたの心がある」って。

「神の為に人生を捧げます!」
「ただ、什一献金はちょっと待って下さい。」
これって悪質なジョークでしょ笑。

「神のためなら死ねます!」
「、、、でも、什一献金は、ちょっと私には無理です。」
言っていることが破綻しているでしょ。

私自身は「牧師」ではありませんが、
フルタイムで教会のために働く人間、
という意味では彼らと召しを共有していますし、
牧師の友人・知人がたくさんいますから、
彼らの生活や人生がどんなものかも知っています。

それを踏まえますと、
牧師である(献身する)というのは、
一回の決断ではありません。
牧師であり続けるという献身を、
一生し続けるような、
死ぬまで続く「選択の過程」だと私は思います。
そしてその「断続的な選択」は、
非常に難しい選択です。
急な勾配の上り坂を、
生涯登り続ける、
というような人生を覚悟しなければならない。

どういうことか?

いのちのことば社が出している、
データブックによりますと、
日本のキリスト教会の教職者の平均年齢は、
2009年の時点で61.6歳、
2015年には67.8歳だそうです。
当該書には信徒の年齢構成も、
これと大差ないと予測されています。

▼参考リンク:データブック 日本宣教のこれからが見えてくる キリスト教の30年後を読む 
http://amzn.asia/b5tFRpv

以来「教会が劇的に若返った」
という話しは寡聞にして聞いていないので、
おそらく2019年の教職者および信徒の平均年齢は、
70歳代に足を踏み入れるぐらいのところまで行っているでしょう。

何が言いたいのか?

教会の「業界」というのは、
老いていく日本にあって、
さらに老いていく業界です。
この趨勢は止まらないでしょう。

「俺が止めてやる」
という気概はあっていいのです。
いや、むしろあるべきです。

しかしこれまで当メルマガで繰り返してきたように、
止めるのは人間ではなく神様です。
そして神様のタイミングは人間と違うので、
そのタイミングが生きているうちに訪れるとは限りません。
50年後かもしれないし、
100年後かもしれないし、
200年後かもしれない。
、、、
あるいは5日後かもしれない。

とにかく、
「神様のアジェンダ」というのがありまして、
それは人間の計画する時間=クロノスとは一線を画する、
神の介入するタイミング=カイロスで決まります。

こういうことを言うと、
めちゃくちゃ怒る人がいるのを承知で言いますが、
上記の理由により、
(神の計画を計算に入れず)普通に考えれば、
教会は「斜陽産業」であり、
「撤退戦を戦う覚悟」が必要です。

金銭的な見返りはほとんどない
(経済的な危機に陥るリスクが逆に高まる)し、
牧師はうつ病になるリスクが他の職業に比較して、
非常に高い職業のひとつであることも分かってきています。
(『Pastors At Risk(未邦訳)』という本に詳しい。)

近くで牧師を見ていて思います。
そりゃそうだよ、と。
生身の人間が持ちこたえられるレベルを超えています。
若いうちから「平均年齢70歳」の信徒に、
「先生、先生」と呼ばれ、
その人たちを教え導くことを期待される。
そして、批判の矢面に立たされる。
模範的な信仰者でなければならない、
というプレッシャーを内外から感じる。
スーパーマンでもぶっつぶれますよ、そりゃ。

「什一献金すら躊躇する人」に、
これが果たせるとはとうてい思えません。

だから「芸人に引導を渡すため」に、
島田紳助が「M-1グランプリ」を始めたように、
将来人生が破綻してしまわないために、
私の知人が「献身したい」と言ったら、
まず私は聞くでしょう。
「ところで、什一献金はしてる?」と。

、、、というようなことを踏まえ、
「キリスト教会という業界への献身」は、
前途有望な若者が、
進んで身を投じるような業界ではありません。
私が信仰者でなければ、
間違いなくそうアドバイスするでしょう。

、、、しかし、私は信仰者です。

なので、まったく別の切り口から話しましょう。
今までの話しは「此岸(こちら側)」からの話しです。
これからする話しは「彼岸(あちら側)」からの視点です。
今までの話しは大金持ちの門の前で、
ひもじい思いをしていたラザロの話し、
これからする話しは、
アブラハムの懐に抱かれたラザロと、
ラザロに水を一杯分けてくれるよう、
アブラハムに頼む大金持ちの話です。
「こちら側(この世の報酬や評価)」と、
「あちら側(天における報いと評価)」は、
しばしば180度逆転するのです。

何から話しましょう?

人間には、「召命」というものがあります。
マルティン・ルターは職業を、
「ベルーフ」と呼びましたが、
これは「calling(召命)」という概念です。

「すべての人は神から、
 『何かしらの役割を果たすために』造られたのだ」
という考え方です。
エペソ人への手紙2章10節がこれをサポートしています。
私たちは良い行いをするために神によって造られたのです。

この御言葉の後半がもっと大事です。
「神はその良い行いをも、
あらかじめ備えて下さっているのです。」

どういうことか?

ある人の「ベルーフ」は医者です。
医者として患者を治すことが、
その人の召命です。
ある人にとってそれは教師、
ある人にとっては行政官、
ある人にとっては主婦、
ある人にとっては作家、
ある人にとっては美容師、、、

というように、
「神があらかじめ備えて下さったベルーフ」
に、私たちは導かれていくのです。

そして、
ある人にとってはそれが牧師であり、
ある人にとっては、
(私がそうであるように)、
超教派のキリスト教の働き人なのです。

このとき、
「備えたのが神」というのが大切です。
この世の教育は、
「職業は選ぶもの」と教えます。
日本国憲法第22条にも書かれています。
「職業選択の自由」ですね。

しかし信仰者にとっては、
職業は選ぶものであはりません。
主観的にはそうかもしれませんが、
信仰者にとって職業とは「神が選ぶもの」なのです。

私たちはそれを自分で選んだと思っているかもしれませんが、
実のところ、神が私たちを選んだのです。
ヨハネの福音書に書かれているとおりです。

つまり信仰者には、
「職業選択の自由」は実はない。
私たちはすべて「神に召されて」おり、
私たちが選んだのではないからです。
主観的には自分で選んだと思っていても、
やはり神が選んだのです。

これは結婚にも同じことが言えます。
主観的には「この人と結婚する」と選んだのですが、
じっさいのところ、神が選んで結び合わせたのです。
だから結婚は「それ自体召命」なのです。

佐藤優氏の
『人をつくる読書術』という本に、
チェコの神学者ヨーゼフ・フロマートカの言葉が引用されています。

→位置No.627 
〈フロマートカによれば、「召命」とは呼びかけであるといいます。
「召命は個人的な呼びかけである。
人間は自分の名が呼ばれているのを聞き、
それがまさに自分に向けられていると自分で認識する。
召命は神と人間との間の出来事である。
神は自ら人間に語りかけ、相手の人間を個人的に名前で呼ぶ」
『人間の途上にある福音――キリスト教信仰論』新教出版社
 (中略)
「使命は無条件である。
召命を受けた者は、
託された使命を進んで行うための条件を設けてはならない。
自分の使命にいついつまで、という期限も設けてはならない。
使命は生涯続くもので引退も休暇もない。
つまり、信徒は使命を人生のあらゆる状況で果たす。
・・・(中略)・・・
召命を受けた者は、
いかなる制限も条件もつけずに主に献身する。」(前掲書より)


、、、献身するというのは、
徹底した営みです。
モーセが靴を脱いだように、
「主権を明け渡す」のが献身です。

これって、
昭和の伝道者が、
「自分の靴も買えず、
 四畳一間に住み、
 路傍伝道に明け暮れた。
 休みもなく、
 寝る間も惜しんだ」
みたいな「武勇伝」を語りますが、
そういった分かりやすい図式の徹底のみを指すのではありません。

ポストモダンの現代社会で、
「この世の価値観ではまったく理解できない、
 暴挙としか思えないような選択をし続けること。」

「斜陽産業であることが目に見えている、
 キリスト業界に前途有望な若者が身を投じること。
 社会的評価もされず、金銭的な見返りもなく、
 途中で燃え尽きてうつ病になったりしながらも、
 それでも『教会を愛するゆえ』とかいって、
 周囲の同世代や自分より若い人々、
 自分より年上の人、
 つまりあらゆる世代から白眼視され、
 いぶかしがられながら、
 それでも神からの召しを確信し、
 人生を捧げ続けていること。」

「『才能の無駄使い』とか言われても関係なく、
 誰一人理解せず、褒めてくれなくても、
 そのように召されたのだからと、
 結果が伴わおうとそうでなかろうと、
 ただ一途に神が託された働きに打ち込むこと。」
ということも、
昭和の伝道者とおんなじぐらい、
もしかしたら精神的には、
それよりもキツイ道を歩むことになる。

それでも、献身する、というのが献身です。
でも、「選ばれた」のだから仕方ない。

選んだのなら話しは違う。
でも選ばれたのだから仕方ない。

選んで下さった方を信頼するしかない。
そういう営みが「献身」です。
そしてその報いは大きい。
控えめに言っても大きい。

それはこの世での成功とはまったく性質を異にします。
巨大な教会を建て上げた人や、
事業を立ち上げ成功した信仰者のビジネスマンが、
天ではまったく評価されず、
離島で5人の集会を導き続けた牧師や、
ビジネスに失敗し、
道路警備員をしながら死ぬまで借金を返し続けた男が、
天国で高い評価を受けている、
ということが起きる。

彼岸と此岸では評価軸が違うのです。
その評価軸とは何か?
一番の違いは此岸(この世)は結果を見、
彼岸(天国)は「忠実だったかどうか」、
だけを問題にするということです。

本当に、それだけなんです。

だから私は自分が人から評価されるかどうかについて、
本当に心の底から「どうでもいい」と思っている。
そこは私の主戦場ではないから。

話しを戻すと、
忠実に献身し続けた人の、
天での報いは大きいです。
だから、前途有望な若者が、
神の為に犠牲を払うという決断を、
私は心から祝福します。

これが先ほどの、
「常識的な自分」としての私の意見とは違う、
信仰者としての意見です。


▼▼▼成功するわけではない、という話し

あと、けっこう誤解されやすいのが、
「献身すれば成功する」という偽りの物語です。
「勧善懲悪的世界観」と言っても良い。
心理学用語で「公正世界信念」というのですが、
「正しいことを行えば上手く行くはず」
という「世界観」を、人間は深層心理の中に堅く持っています。

そうするとどうなるか?
信仰者の場合、このバイアスはこう働きます。
失敗した人、苦しむ人を見て、
「その人はきっと神に従わなかったに違いない。」と。
開拓伝道をして、それが上手く行かなかった場合、
「あれはきっと神に聞き間違えたのに違いない。」と。

この過ちを犯したのが、
ヨブの3人の友人たちです。
「正しい人が苦しむ」のを見ることに、
彼らは耐えられなくなったのです。
「世界は公正でなければならない」というバイアスが、
「ヨブは神に逆らったに違いない」
という結論に彼らを飛びつかせました。

結果、この3人の友人は、
後でこっぴどく神に怒られることになります。
ヨブは正しかったのですから。
正しかったが、なお苦しんだのです。

、、、何を言おうとしているのか?

神に忠実に従う決断をしたからといって、
「成功や幸せ」が用意されていると思わないほうが良い、
ということです。
運良くそうなることもあるでしょう。
しかし、「従順だったこと」と、
「幸せで成功していること」は、
まったく関係ありません。

ダニエルの友人たちは火の中に入る前に、
「たとえそうでなくても」と言いました。
「きっと神は護って下さるだろう。
 しかし、たとえそうでなくても私は神に従う」
と彼らは考えました。

それがとても大切です。

私は神に従ってきた(と自分では思っている)けれど、
燃え尽きてうつ病を患いました。
あのときに死んでいたかもしれない。
うつ病の致死率は心筋梗塞とかと同じぐらい高いので、
死んでても全然不思議ではない。

ただの悲劇です。

でも、それでも従うということに価値があると思えるかどうか、
というのが大切です。
超教派の団体で働くセルフサポートの働き人の中には、
献身し続けたいけれど、
資金的に行き詰まって、
もうこれ以上働くことが出来なくなる、
ということも起きます。
牧師にも同じようなことは起きます。
なんたって「斜陽産業」ですから。

私も将来そうなってもまったく不思議じゃない。
きっと悔しいし、無念だろうなぁ、と思います。

でも、「それは失敗だったのか?」

そうじゃないんです。

「従った」ことが大事なんです。
天ではそれだけが問題になるのです。

あるいはもちろん、
とっても幸せになるかもしれない。
でもそれは「二次的な問題」です。

一つだけ確かなのは、
「従った結果としての幸せ」を問題にする態度だと、
相当に危うい土台の上に、
献身という建物を建てることになりますので、
「神を恨んで終わる」みたいな、
最悪の結果を招きかねません。



▼▼▼「牧会者」のなすべきこと。

、、、あとひとつ。

一応付言しておきますと、
先ほど引用したフロマートカが語った社会状況と、
21世紀の職業を巡る状況は違います。

人生100年時代に、
あらゆる人は人生で複数の職業を渡り歩くことになる。
「講壇で死ぬことが美学」みたいな意味で、
「定年も休息もない」というように解釈するのは、
私は無理があると思います。

たとえば90歳の牧師が現役で、
「講壇で死ぬ」みたいな態度でいると、
大変申し上げづらいのですが、
若い人々にとっては、
「迷惑」ですらある。
「引退してもらう」ために、
「誰が猫に鈴をつけるか」みたいな話しを、
役員会にさせている高齢の牧師を生む、
という意味で、
「死ぬまで現役」
「伝道者に休日はない」
みたいな前時代的な「献身観」は、
アップデートされねばならない、
と私は考えています。

サラリーマンが牧師になって、
そしてもういちど会社員に戻ってもいい、
と私は思います。
それでも「神の普遍的な召し」は変わりません。
「召し」というのは牧師という固有の職業に付随するのでなく、
その人の「生き方」に付随するからです。

その「生き方」とは何か?
それは「牧会的な生き方」です。
ペテロにイエスが「私の羊を飼いなさい」
と3度念を押しました、
その呼びかけにYESという生き方です。

(人間から)誰にも頼まれていないのに、
勝手に群れ(教会)に、責任をもっちゃう人のことを、
「牧者の心を持つ人」と定義しますと、
これは職業と関係ないことが分かります。

職業的な牧師でありながら牧者の心がない人がおり、
牧師という職業ではないが、
牧者の心を持つ人がいる。

神の目から見た「牧師」は後者です。

そう考えますと、
ショウさんは、
現在の仕事をしながら、
「同僚を牧会する」という生き方を選ぶことも出来る。
職業的な牧師になってみることも出来る。
一定期間牧師と働き、
そのあとでまた別の領域で、
牧会的な生き方をすることも出来る。

「職業選択が一回性のもの」
というのは20世紀までの考え方ですから、
自分のキャリアを考えつつ、
神学を学ぶことや、
職業牧師を(少なくとも一度)経験することが、
自分の「ベルーフ」を織りなす上で、
「投資に見合うメリットがあるかどうか」
というドライな視点を持つことも大切になります。

繰り返しますが
「講壇で死ぬ!」
というのは言葉としては、
「献身している風」でかっこよいですが、
「死ぬまで経済的に教会のお世話になる!」
という宣言とも解釈できますので笑、
ちょっと危険でもあるわけです。

多分誰も言わないだろうから私が言うのですが。
こういう「虎の尾を踏む」のが得意なので笑。

でも、これを言っておかないと、
「若い献身者」の将来が尻すぼみになったり、
デッドエンドになったりすると危惧しますから、
彼らの利益のために私は言います。
上の世代からカンカンに怒られても言います。

関係あらへん。
私はそのあたりの利害関係者じゃないので笑。

どちらを選んだとしても、
ショウさんの心の中に、
「神学校に行って牧師になることを検討する」
という思いがあるということは、
ショウさんに「牧者の心」があることの証左だと、
私は考えます。

そうしますと、
それを社会のなかで、
「在野の牧師」として実践するのか、
職業的な牧師としてするのか、
はたまた別のクリエイティブな方法を、
ショウさんが編み出すのかは分かりません。

無責任に聞こえるかもしれませんが、
私の知ったことではありません笑。
そしてなんと、
ショウさんの知ったことでもないのです。

だって言ったでしょ。
選ぶのではなく、
選ばれるのですから。
神が選んだものを、
人間がとやかく言うものではありません。

、、、で、
神にどのように「選ばれた」としても、
「牧者の心を持つ者たち」に、
有効であろうアドバイスを、
最後に私は送ろうと思います。

ヘンリ・ナウエンの『イエスの御名で』という書籍があります。
これは、現代のキリスト者のリーダーが、
いかに生きるべきか、ということについての思索です。

引用します。

〈こういうことを申しますのは、
これからの時代のクリスチャンの指導者は、
まったく力なき者として、つまり、
この世において、弱く傷つきやすい自分以外に、
何も差し出すものがない者になるように召されている、
ということを言いたいのです。

・・・クリスチャン指導者の辿る道は、
この世が多大な精力を費やして求める上昇の道ではなく、
十字架にたどり着く下降の道です。

・・・私は、皆さんの心にあるイメージを残して、
ここを去りたいと思います。
それは、手を伸ばし、
あえて下降する生涯を選び取る指導者のイメージです。
・・・祈る指導者、傷つきやすい弱さをもった指導者、
主に信頼を置く指導者、という事も出来ます。

・・・自分の能力を示そうとする関心から祈りの生活へ、
人気を得ようとする気遣いから、
相互になされる共同の働きへ、
権力を盾にしたリーダーシップから、
神は私たちをどこに導いておられるかを
批判的に識別するリーダーシップへと、
私たちが移行することをイエスは求めておられます。〉


、、、「降りていく生き方」をすること。
「自分の傷をさらけだし、
 それによって社会の癒しの源泉とすること」
「自分の弱さ以外に何も差し出すもののない、
 傷つくリーダーになること」
こういったことを覚悟出来るのなら、
その人はすでに「現在いる職場において牧師」ですし、
その人が職業牧師になったとしても、
本当の牧者となっていかれるでしょう。


、、、私の個別の話しを今回しなかったのは、
たぶんまったく参考にならないだろうからです。
神の召しは「個別なもの」なので、
これを話してもあまり意味はありません。

あと、この「問題」に、
答えはありません。
「答えがないというのが答え」
っていう問題が人生にはいくつかあります。

その場合、
「それを考え抜き、祈り抜き、
 他者と語り合う過程を通して自らの内面が変化し、
 キリストの弟子としての新しい風景が見えてくる」
というような「弁証法的成長」を体験出来るかどうか。

これが唯一の正しい対処になります。

FVI主催の「よにでしセミナー」はそういう、
「弟子としての思考のスキル」を養う場所です。
今年の「よにでしセミナー」は、
淡路島で開催予定です。
愛知からだとそんなに遠くないので、
ぜひショウさんも参加してみては??

という宣伝で終わりました笑。
ステマかよ、っていうね笑。

、、、多分過去最高に、
長く質問に答えましたね。

肝心のショウさんさえも、
長い話しに飽きてもう寝てるかもしれませんが笑、
最後まで読んで下さった方、
ありがとうございました。

この話題は、
11年間ずっと考え続けてきたので、
どうしても熱量が高くなっちゃうんですよね。
調節出来ない。
熱く語る以外できなくなってる笑。

もう飽きたよ、
という方はすみませんでした。
次の質問に行きます。

【Q】やる気のない同僚をどう指導すれば良いのか?

2019.06.01 Saturday

+++vol.075 2019年1月22日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 Q&Aコーナー

皆さんからお寄せ頂いた質問にお答えするコーナーです。

日頃の悩み、疑問、今更誰かに聞けないギモン、、、、
質問の種類は問いません。お気兼ねなくご質問をお寄せください。
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【Q&Aについて】
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●【Q】やる気のない同僚をどのように指導すれば良いか?

ラジオネーム:指導するのって難しい(男性)
お住まいの地域:埼玉県

Q.

いつも読むラジオ楽しみにしています。
同じ部署の20代の女性に対して、
どの様に仕事を教えたら良いのか悩んでいます。
入社5年目の女性なのですが、
仕事に対する姿勢がどんどん悪くなっているように感じています。

経理の仕事なので、
ちょっと以前の資料を確認すれば分かるような事でも、
自分で考えたり、調べたりすることが面倒くさいようで、
Google で検索するような感じで私に質問してきます。
(答えだけ教えて的な感じ)

また、仕事が少し忙しくなった時に、
泣いてしまいました。
忙しくと言っても、定時には帰れます。
1つ仕事をお願いすれば、電話対応、
お客対応など、すべて無視します。
なので、仕事をお願いすると、
他の仕事が私のところきます。

私は、この女性の上司ではありません。ただの同僚です。

仕事に対してモチベーションもなく、
調べる事も考える事も嫌いな、
仕事を面倒くさいと思っている人に、
どの様に指導すれば良いのか教えてください。


A.

めちゃくちゃ久しぶりに、
「Q&Aコーナー」です!!!!

当メルマガの人気コーナー(当社比)なのですが、
この数ヶ月、ウソみたいに質問が来なかったので、
このコーナーはお休みしておりました。

、、、で久しぶりに来た質問が、
上の質問です。
「指導するのって難しい」さん、
ご質問、ありがとうございます。

この質問を読んで、
私は考えました。


、、、


、、、


、、、


、、、


まったく、良い回答が思い浮かばない(爆死)。

そんで、もう一度読み返してみて、
明確に腹が立ってきました。
質問者の「指導するのって難しい」さんにではなく、
登場する20代の同僚に対して。

もうね、これは、
「良い対処の仕方を知っている人がいたら、
 誰か教えて下さい。」
と私は言いたい。
「Q&Aコーナー」ならぬ、
「Q&Qコーナー」ですね。
質問を質問で返すという笑。

私の限られた経験から申しますと、
件の20代の女性社員は、
今後、変わることはないんじゃないでしょうか?

こういう人って、
社会にある一定数でいます。
会社や組織からすると「お荷物」に他ならず、
「フリーライダー(貢献せず旨みだけを取る人)」です。
キツイ言い方をすれば、
「会社(組織)から給与を盗んでいる」
と言っても過言ではない。

私がもし質問者様の立場だったら、
何回かキツめの説教をして当人を泣かしてるでしょうね。
それでも5年経って変わらないのだから、
ある時点で諦めるでしょうね。
3年目に突入したところで私なら諦めてると思います。

そして、その人を同僚だと思うと腹が立つけど、
職場に飾ってあるサボテンだと思うようにすれば、
「サボテンの割には良くやってくれてるじゃないか」
という気持ちになってきます。

私は30才まで公務員をしていました。
公務員というのは、
「そういった人」が、
多分民間の会社の倍ぐらいいる感じです。
民間だと全体の1割ぐらいが「そういった人」で、
公務員だと2割が「そういった人」です。

この差はどこから生まれるかというと、
日本における公務員の、
「圧倒的なまでの解雇できなさ」によります。
民間ならとっくに首になる人が、
のうのうと生き残れる職場が公務員なのです。
納税している市民に、
いつも「申し訳ない」と思ってました。
「こんな奴の給料のために税金払ってるんじゃねぇ!」
と私が市民なら思いますから。

もうね、信じられない職員に、
私も遭遇してきました。

「マジでいい加減にしろよ」と、
ガチで泣かせたことも何度もありました。
(私は仕事のことで怒るとき、
 マジで留保なしに怖いです。
 それは「愛のなさ」ではなく、
 「愛があるから」だと思ってます。
 だってそれが、その人たちの将来のためなのですから。
 愛を甘さと勘違いしている人があまりに多い。)

叱った結果、
「そういった人たち」からは、
完膚なきまでに恨まれましたが、
上司からは後で、
「陣内君、ありがとな。
 今どきそこまで怒れるヤツが、
 いないんだよな、、。」
と耳打ちされました。


、、、経験的に、
「そういった人」には二種類います。

1パターン目は、
まだ新人で、いわゆる「学生気分が抜けていない」
というやつで、社会経験がないため、
「人からお金を貰って仕事をする」
ということがどういうことか理解していないパターンです。
そういう人は叱ったら変わるし、
3年後には立派な社会人になり、
後輩の学生気分の奴をちゃんと叱れるようになる。

もう一種類の「そういった人」は、
もう30代や40代に突入していて、
社会人経験も5年以上が経過したにもかかわらず、
確信犯的に面倒な仕事を避け、
できる限り楽をし、
なるべく責任を回避し、
そして「権利だけは最大限に要求」します。

そういった手合いに関して私は、
「人間ではなく観賞用のサボテンだと思う」
という以外の解決策を知りません。

あと、「サボテン」に仕事をさせるための、
「ちょっとしたコツ」があります。
それは「サボテンに仕事をお願いするようにお願いする」ことです。
その人が「判断や責任をする」といった部分はいっさい期待せず、
手取り足取り指示するのです。

たとえばそれが「ご飯の食べ方」ならば、
1.箸を右手で持つ
2.ご飯を掴む。
3.ご飯を見る。
4.見たまま口に運ぶ。
5.ご飯を口にのこし箸を元に戻す。
6.15〜30回噛む。
7.呑み込む。
という感じで指示します。

たいてい3分後に、
「喉が渇いたときはどうすれば良いんですかぁ〜?」
という(仕事でいうとそういう意味の)、
寝ぼけた質問が帰ってきますが、
そのときは、
「このクソガキがぁ!!
 水を飲め水を!
 死ねぇ!!」
と心の中で思うわけですが、
「違う。サボテンが聞いてるんだ。」
と思い直しましょう。

「うん。
 そういうときは、水を飲むんだよ。」
じゃあ、水の飲み方のマニュアルを教えるね。
1.水道のところに行く。
2.コップに水を入れる。
3.コップの水を口に近づける。
4.呑み込む。
5.ご飯に戻る。
という感じで教えてあげます。

、、、職場というのはチームですから、
「そういった人」のマイナスを如何に最小化するか、
というのが非常に大切になります。
「そういった人」に、
判断や責任などの複雑な案件の「パス」をすると、
それまで積み上げたモノが台無しになりかねない。

つまり、Aさん、Bさん、Cさん、
プラス「そういった人」の4人で仕事をしているとき、
A×B×C×「0」になってしまうのを防ぐのが大切です。
「そういった人」は「0」ですから、
「掛け算」の中に入れてはいけない。

あくまで「足し算」にする必要があります。
つまり、
A×B×C+「0」にする必要がある。

その「+」にするために必要なのが、
その人をもはや「同僚」とは思わず、
「サボテンにしては良くやってくれてる何か」と思うことです。
そうすると、0が、0.1になったときに喜べるかもしれない。


、、、今の時代は「空前の人手不足」ですので、
そういった人ですら、やめて貰うと困る、
というのが経営者や同僚の苦しいところでしょう。
後ろ向きな回答で申し訳ないのですが、
本人に、「成長したい、会社に貢献したい」
という意志がない限り、外部から変えることは不能です。
マイナスを最小化する、
という角度から挑むしかないでしょう。

それにしても、そういった人と仕事をするのは辛いですよね。
「なんで俺はあの人と同じ給料なのだ」
と思いたくなることでしょう。
あと、視界に入るだけでモチベーションが下がる、
という意味でも腹が立つことでしょう。
質問者様の心中をお察しすると、心が痛みます。
飲み会で小一時間、愚痴を聞いてあげたいぐらいです。


、、、念のため付言しますと、
ここまで申し上げたことは、
あくまで「勤務時間中」のことです。
勤務時間外には「そういった人」もまた、
同じ人間であり「サボテン」ではないので、
ちゃんと優しくしてあげましょう。

「そういった人」って、
職場以外では人気者だったりしますしね。
「男はつらいよの寅さん」とか、
「釣りバカ日誌のハマちゃん」
みたいなみたいなものでしょうか。

ただ、昭和時代と違って、
ハマちゃんを会社にいつまでも置いておけるほど、
社会全体にコスト的な余裕がなくなってきているんですよね。
本当に、質問者様の心中をお察しします。

ご参考に。


【Q】24時間テレビの「ガンバリズム」について

2019.01.23 Wednesday

+++vol.057 2018年9月18日配信号+++

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■2 Q&Aコーナー

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●【Q】24時間テレビの「ガンバリズム」について

ラジオネーム:トビー(女性)
お住いの地域:東京都

Q.

いつもメルマガ楽しく読ませていただいています。
先日、毎年恒例の日本テレビによる、
「24時間テレビ」が放映されていました。
今年も芸人のみやぞんがトライアスロンをしたりして、
「感動」を演出していたのですが、
私は毎年この光景を見る度になんだか気持ちが悪く感じます。
「人が涙しているのを見て、
 まったく感動もしなければ、
 むしろ不気味に感じる」
という私の感性が歪んでいるのかと不安にもなりますが、
何か気持ちが悪いというモヤモヤはあります。
陣内さんはどう思われますか?



A.

トビーさん、ご質問ありがとうございます。
そして、良い質問ですね!

早速お答えしていきます。

世の中には二種良類の人がいます。
「24時間テレビ的なものが好きな人」と、
「24時間テレビ的なものが嫌いな人」です。
そしてたいてい、
前者は「東京オリンピック的なもの」も好きであり、
後者は「東京オリンピック的なもの」も嫌いです。

これは趣味趣向の問題ですので、
それが「間違っている・正しい」という位相で話しを進めると、
「勝者のない泥仕合」になります笑。

作家のスティーブン・キングは、
「うんこの投げ合いの勝者は、
 それに参加しなかった者だけだ」
という名言を残していますが、
私も「うんこの投げ合い」に参加するつもりは毛頭ありません。

しかし、「正しい・間違っている」という位相ではなく、
「好き・嫌い」の位相でなら、
自らの立場を表明することは可能であり、
その立場は「うんこの投げ合い」とは無関係です。

「私はネコ派」という人は、
別にイヌ派にうんこを投げたことになりませんから。

、、、で、

まず私の立場を最初に表明しておきますと、
私も質問者のトビーさんと同じで、
「24時間テレビ的なるものが嫌い」な部類の人間です。
気が合いますね笑。

、、、その理由は、
大きく分けて2つあります。
ひとつめが、
「感動ポルノ問題」、
もうひとつが、
「ガンバリズム問題」です。

ご説明していきます。



▼▼▼感動ポルノ問題▼▼▼

まず、「感動ポルノ」とは何か。
この言葉はNHK、Eテレの「バリバラ」によって、
ずいぶん浸透しましたが、
まだまだ市民権を得るには至っていないので、
言葉の定義からご説明します。
以下は、Wikipediaからの引用です。


〈感動ポルノ(かんどうポルノ、英語: Inspiration porn) とは、
2012年に障害者の人権アクティヴィストであるステラ・ヤングが、
オーストラリア放送協会のウェブマガジン
『Ramp Up』で初めて用いた言葉である。

ステラによれば、この言葉は、
障害者が障害を持っているというだけで、
あるいは持っていることを含みにして、
「感動をもらった、励まされた」と言われる場面を表している。
そこでは、障害を負った経緯やその負担、
障害者本人の思いではなく、ポジティブな性格や努力する
(=障害があってもそれに耐えて・負けずに頑張る)
姿がクローズアップされがちである。

「清く正しい障害者」が懸命に何かを達成しようとする場面を
メディアで取り上げることがこの「感動ポルノ」とされることがある。
また紹介されるのは常に身体障害者であり、
精神障害者・発達障害者が登場することがほとんどないとする指摘もある。

日本においては2016年8月28日に、
NHK Eテレが『バリバラ 障害者情報バラエティー』
「検証!『障害者×感動』の方程式」で感動ポルノを取り上げ、
裏番組に当たる24時間テレビを批判した。

英国BBCは1996年、障害者の「困難に耐えて頑張る」姿ばかりが
描写されがちなことに対する抗議運動を受けて
「障害者を“勇敢なヒーロー”や
“哀れむべき犠牲者”として描くことは侮辱につながる」
というガイドラインを制定している。〉


、、、いかがでしょうか?
Wikipediaによれば、
「感動ポルノ」とは、
障がい者が頑張る姿を、
その背後にある複雑な部分を省略して、
健常者が「感動をもらった、ありがとう!」などと言って、
溜飲を下げることを言います。

だとすると、「24時間テレビ」は、
「感動ポルノ」そのものです。

NHK Eテレの「バリバラ」は、
これに「ガチンコの批判」を加えたわけです。
これは私は2016年と2017年のやつを見ましたが、
抜群に面白かったです。

例えばこんな感じ。
筋ジストロフィーの障がい者が、
「野球をするのが夢」と番組スタッフに言う。
黄色いTシャツ(笑)を着た番組スタッフが、
彼の車いすを担ぎ、車いすにバットをくくりつけ、
野球場でピッチャーがバットめがけて投球する。
100球目に、やっと「ヒット」する。

、、、感動的な音楽が流れる。
(98%の確率で、
 曲はGreeeenの「キセキ」です。)

よく見る光景です。

その後、筋ジストロフィーの彼に、
スタッフが駆け寄り「どうでした?」と問う。
感動したでしょ!したでしょ!というトーンで。

彼は「いや、別に、、、」
「パワプロ(野球ゲーム)のほうが楽しいし、、、」

、、、沈黙。

部屋に帰り、
スタッフと「パワプロ大会」が行われ、
筋ジストロフィーの彼は、
圧倒的な強さで優勝する、、、
みたいな感じです。

まぁ、一種の「コント」なのですが、
それが「感動ポルノ批判」になっている。

是非何らかの方法で見ていただけると良いのですが、
こちらの記事を読むと、
なんとなく雰囲気が伝わってくるのではないでしょうか。

▼参考リンク:「バリバラ」に関するネット記事
https://sirabee.com/2018/08/26/20161766243/


さらに、日テレの24時間テレビには、
出演者に支払われる高額なギャラの裏で、
出演する障がい者にはギャラはない、
という話しとか、
マラソン自体もやらせ要素が強いことも分かっていて、
批判が絶えません。

、、これも「大企業病」のひとつだと思うのですが、
きっと現場の、特に若手の日テレ社員は、
絶対「もう、やめにしたい」と思ってると思うんですよね。
確認したことないけど。
でも、本音では誰しもが辞めたいと思っている。
時代的にもキツイものがあるし、
もはやアナクロニズム(時代錯誤)であることは、
誰の目にも明らか。
人員不足が慢性化する現場は疲弊するばかり。

、、、でも、辞められない。

なぜか。

現代の日本で、テレビを一番見ている世代は、
70代以上だからです。
彼らにとっては、まだこの文脈は有効なのです。
その一方で若い視聴者層は、
私のように「どん引き」している。

若い社員は「もう、やめようよ」と思ってるけど、
テレビ局の「お客さん」は高齢者なので、
高齢者に向けた番組しか作れない。

しかしそれは企業の延命措置であって、
本質的な生き残り戦略とは無関係です。

現場の誰もが辞めたい。
でも、やめられない。

そういう仕事って、
どこの職場にもあります。
特に大きな組織ほど、そういうものが多い。
これを「大企業病」と言います。

話しがそれましたが、
ことほどさように、
「24時間テレビ的なもの」というのは、
もはや限界に来ていると私は思います。

▼参考リンク:「24時間テレビのギャラ問題」に関するネット記事
http://netgeek.biz/archives/101891



▼▼▼ガンバリズム問題▼▼▼

質問者のトビーさんがご指摘しているように、
24時間テレビには、
毎年「マラソン」とか「トライアスロン」といった、
人気のタレントが「頑張る姿」が映し出されます。

あれ、必要か?

と考えてみますと、
別に必要ではないのです。
チャリティ(博愛)が番組の趣旨だとするなら、
たいせつなのは社会の困窮者に対して、
適切な援助がじっさいに届くことであって、
タレントが汗を掻き、痛めた足を引きずりながら、
必死に走るという要素は、
まったくもって無関係なわけです。

論理的につながっていない。

もちろん、チャリティの歴史のなかで、
「自分が1マイル走るごとに、
 1000ドルの寄付が孤児院に届けられるようにする」
といった形で、マラソンを走った有名人がいたりして、
日テレはそういう手法を踏襲しているわけです。
あれは「ハンガーストライキ」などと似ていて、
広く衆目を集めるためのアドバルーンとしてのマラソン、
という意味があります。

だとしますと、
別にその「見世物」は、
芸人の卓越したネタでも良いし、
総合格闘技のマッチでも良いし、
料理対決でも良いし、
シルクドソレイユのサーカスでも良いし、
「万引き家族」のような映画でも良いはずです。

ところが、日テレは、
遠い過去の成功体験という足かせによって、
「タレントが足を引きずって走る姿を応援する黄色Tシャツ軍団」
→「それを見るタレントがワイプ(画面の小窓)で涙を流す」
→武道館にタレントが入ってくる
→全員で「サライ」の合唱の大団円

という、吉本心喜劇的なコテコテ展開を、
「まるでそれに関する法律でもあるかのように」、
厳格に守り続けているのです。

私から見ますと正気の沙汰には思えませんが、
彼らはそれを続けています。

しかし、この手法、
現代の世界で支持されているかどうかははなはだ疑問ですが、
少なくとも最初のころに「スマッシュヒット」したから、
テレビ業界の上層部は「あれは外せないだろう」と、
判断し続けているのです。

テレビ業界の「正義」は視聴率です。

つまり、
「人が苦しそうにマラソンする姿」が、
視聴率を取る、という現実が最初にあったから、
テレビ業界はそれを「売る」わけですね。

先ほどの「感動ポルノ」の文脈で言えば、
これは「頑張りポルノ」と言えるかもしれません。

こう考えますと、
なぜ甲子園が日本人に見られ続けるのかも、
説明がつきます。

そして甲子園に残る、
悪名高き高野連による様々な前時代的な決まり事も、
これで説明がつきます。

アメリカでは大学や高校のバスケやアメフトは、
ショービジネスとしても非常に人気があり、
日本の高校野球と同じく視聴率を取ります。

ただ、アメリカの場合、
プロと同じようにグッズも売りますし、
ちゃんとお金を儲けます。
儲けたお金は日本と違い、
学校のスポーツ部に還元されます。
コーチはプロスポーツ選手並みの高年収です、
強いアメフト部やバスケ部の大学・高校の練習施設は、
日本のプロスポーツ並みに充実しています。
プロと同じように選手を酷使しないように協定があり、
「丸坊主」などというのは愚の骨頂だし、
炎天下の中、一試合につき200球の投球を
3試合連続でする、などという、
未来のある投手にとっての自殺行為なことは行われません。

アメリカと日本で、
学生スポーツが「売っているもの」が違うのです。
アメリカは「スポーツの面白さ」であり、
日本は「頑張る姿」なのです。

ここに24時間テレビの、
「頑張りポルノ」との類似点を、
私は見るわけです。

頑張りポルノの悪い所は、
感動ポルノの場合もそうですが、
それによって儲かるのが、
頑張った本人ではなく、
日テレだったり、スポンサー企業だったり、
「電通」だったり、スポーツ庁だったり、
オリンピック委員会だったり内閣府だったり、
そういう「巨大組織」であることです。

ヘドが出ます。

さらに言えば、
「東京オリンピック2020」も、
「壮大な国家的頑張りポルノ」となることでしょう。
そしてその利益は選手や国民ではなく、
やはり電通や関連省庁、内閣府やオリンピック委員会に、
吸い取られていくことでしょう。

ヘドが出ます。

だから、私は東京オリンピックには一貫して反対しています。
まだオリンピックが始まってすらいないのに、
「頑張りポルノ」の様相を呈しているのですから。
先が思いやられる。
私は今から「げんなり」しています。

具体的に挙げていきましょう。

まず、おそらく安倍さんの「思いつき」で始まったと言われる、
「サマータイム制」の導入。

▼参考記事:「サマータイム制」
http://blogos.com/article/317586/


、、、別に私はサマータイム制自体を、
良いとも悪いとも思いません。
世界的な趨勢で言いますと、
サマータイム制をなくす方向に行っていますので、
それと逆行するということはありますが、
別にそれ自体は良いとも悪いとも思わない。

私は小さい頃シカゴに住んでいましたが、
かの地では夏は夜の8時とか9時頃まで明るくて、
けっこう楽しんで遊んでいた記憶もありますし。
でも、そうするとどうなるんだろう。
花火業界とか、困らないんだろうか、、、。

まぁ、いいや。

別にサマータイム制自体は良いのです。
でも、2年間限定、というのはいただけない。
社会が制度を変更するのには、
金銭的にも心理的にも社会的にも「コスト」がかかります。
そのコストをかけて始めた制度を、
2年で元に戻してしまうというのは、
コストの無駄使いとしか言えない。

あまりにも「場当たり的」な政府の方針に、
国民は付き合わされるわけです。
迷惑な話です。
国民はもっと怒って良いと思う。


次。

東京オリンピックの五輪委員会および政府は、
「ボランティア」を集めることに必死です。

なぜか。

それは、「過去最高の人数のボランティアが集まった五輪」
という名声を得たいからです。
そうすると、「過去最高に国民に支持された五輪」ということになる。
そうすると、東京都や現政権や五輪委員会は、
「国民の支持の厚い東京都・日本政府・五輪委員会」
ということになる。

そういう「評判を得たい」わけです。

しかし、「ボランティア」というのはただ働きです。
これはあくまで人が自主的にするものであって、
東京都や国が国民に「それをするように」と圧をかけるものではありません。
それをしたらもう「強制労働」ですし、
戦時中の「国家総動員法」と同じです。

、、、ところが、それが今、起きているのです。
この記事をご覧ください。

▼参考記事:「五輪に向けた学校への通達」(朝日新聞)
https://www.asahi.com/articles/ASL704HGRL70UTQP01H.html

▼参考記事:「五輪に向けた学校への通達」(アゴラ)
http://blogos.com/article/313941/


、、、国は全国の学校に、
五輪の期間、試験を遅らせたり、
クラブ活動や合宿を自粛したりして、
学生がボランティアに参加しやすいように呼びかけています。

さらにさらに。

企業にも、学生が五輪でボランティアしたことを、
採用の際に加味するようにという通達を出す動きまであります。
これはもはや、戦時中の「学徒動員」です。

いい加減にしろ、と言いたい。

背筋が凍ります。


、、、これだけではありません。
もはや「国家的なコント」
または「壮大なブラックジョーク」の様相を呈しているのが、
この事実。

こちらをご覧ください。

▼参考リンク:みんなのメダルプロジェクト
https://tokyo2020.org/jp/games/medals/project/


、、、これは、
国民の古いスマホや電化製品が、
オリンピックのメダルに生まれ変わります!
というプロジェクト。

これを考えた人の頭の中はどうなっているのでしょう。
「どん引き」以外の正しい反応が私には分かりません。
第二次大戦末期、日本には金属がなくなりました。
家にある鍋、お寺の鐘、教会のロザリオ、先生の自転車、
そういったものも「兵隊さんの銃弾にするため」に、
「国家総動員」されました。

私はいったい、何世紀に生きているのでしょうか?

今は21世紀のはずなんだが、、、。

ただただ、背筋が凍ります。


まだあります。

今年の猛暑で、こんな中マラソンを走ったら、
東京オリンピック2020のマラソンランナーは大丈夫だろうか?
というのは今年の猛暑で誰もが思ったことです。
それに対して五輪委員会がこんなアイディアを出しています。
その名も「クールシェアリング」。

▼参考リンク:クールシェアリング
http://blog.esuteru.com/archives/9165487.html

どういうことか。
つまり、マラソンコースの沿道にあるすべてのビルや民家が、
一階にガンガンに冷房を効かせ、
スタートの合図とともに、一斉に、
「ドアと窓を全開にする」。
そうするとマラソンコースが涼しくなる(かも)。
という発想。


、、、



、、、



、、、



怖いって。


、、、、



、、、


だから、怖いって。


もうこんなの、
「竹槍でB-29に立ち向かう」の精神と一緒じゃん。

、、、


、、、


もう一度聞きますが、
今私が生きているのは、
21世紀ですよね!?

2018年ですよね?
1918年じゃないですよね?

日本の政財界の指導層というのは、
敗戦のときと本質的に何も変わっていないのだ、
というのが透けて見えて、
絶望的な気持ちになります。


、、、さらにさらに。

根本的なことを言えば、
五輪招致の支持をとりつけるために、
当時の政府や東京都は、
「世界で最も安いオリンピック」を謳っていました。
予算をコンパクトに、というかけ声で。

「そんなに財政を圧迫しないから、
 大丈夫ですよ。」というわけです。
「経済効果で国民も潤いますし。」

しかし、蓋を開けてみたら、
当初7000億でやると言っていた予算は、
3兆円まで膨らみました。
今後さらに膨らむことでしょう。

(繰り返しますがその膨らんだ分で受益するのは、
 大手テレビ局とマスコミ各社、
 電通やゼネコンや政府機関であって、
 国民ではありません。)

家族で7000円だと思って回転寿司に入ったら、
会計のときに3万円を超えていたとしたら、
そのお父さんの経済感覚は相当イカれていると考えて良いでしょう。

国と東京五輪委員会がしているのは、
まさにそういうことです。

▼参考記事:「なぜ東京オリンピックの予算は3兆円に膨らんだのか」
https://president.jp/articles/-/20806


、、、もう、
24時間テレビなんてどうでも良くなってきました笑。
トビーさん、申し訳ありません。
取り乱してしまい、
質問からずいぶん脱線しました笑。

私が今書いたようなことを全部、
思想家の東浩紀さんがラジオ番組で言ってくれています。
彼のキレッキレの批判には、
ちょっと笑っちゃいます。
全部的を射ていて、全部面白い。
この音源、お勧めです。

▼参考リンク:東浩紀の「東京オリンピック2020批判」(キレッキレ)
https://youtu.be/B-1lydPsBrY



▼▼▼まとめ:「縄文人」と「弥生人」▼▼▼

、、、このまま終わると、
単なる東京オリンピック批判になっちゃうので、
最後に「ガンバリズム」「頑張りポルノ」問題に戻しましょう。

おそらくこんだけ批判しても、
いざ2020年のオリンピックが始まれば、
99%の人間が「感動をありがとう」と言うことでしょう。
今から言っておきますが、私は言いません。
多分、競技も見ないんじゃないかな。

五輪種目のなかでは、
サッカーと卓球以外、
あまり興味ないし。

ねちねち批判を続ける私のような人間は、
古代ユダヤで姦淫の罪を犯した人間のように、
世間から冷たい視線と非難という石を投げられることでしょう。
「選手が頑張ってるのに水を射すようなこと言うな」
みたいな形で。

まぁ、それこそ「頑張りポルノ」であり、
「頑張りマウンティング」なのですが笑。

でも私は言いたい。
ブルーハーツの「少年の唄」に乗せて、
「陣内の声は〜風に消されても〜
 ララララーラララー
 間違っちゃいない〜♪」と。

では、なぜ日本人はこんなにも、
「頑張り」が好きなのか?
「頑張りポルノ」は視聴率を取るのか?

それは、日本人が長い歴史の中で、
特に弥生時代以降の農耕文化によって、
「農本主義」と呼ばれる、
「頑張ることそれ自体を美徳とする」というセンスを、
深く内面化してきたからです。

山本七平はこの「日本的農本主義」というガンバリズムを、
「殖産興業・富国強兵」という形で、
「工業生産」に結びつけたことが、
日本がアジアで先駆けて西欧化に成功し、
異例の早さで近代産業国家の仲間入りを果たした原因だ、
と著書『日本資本主義の精神』の中で指摘しています。

これはいわゆる「DNAレベル」に刻印された傾向なので、
これが数世代で変わるというようなことはないでしょう。

しかし、
世界の産業構造は、
19世紀に一次産業から二次産業へ、
20世紀に二次産業から三次産業へ、
そして21世紀には三次産業の多くもAIに代替され、
人間の労働は「創造的な知的労働」へ、
移行していくだろうと言われています。

実は「農本主義」が本当の意味で通用するのは、
二次産業までです。
工場労働では、「勤勉と長時間労働が命」ですから。
しかし三次産業はそうではない。
創意工夫や効率化が必要なのであって、
「ただ頑張れば良い」というわけではない。

日本は先進国のなかでずば抜けて、
サービス業(三次産業)の生産性が低いということを、
デイビッド・アトキンソンと言う人が、
『新・所得倍増論』という著書で指摘しています。

それは、「農本主義の限界」を告げるものでしょう。
さらに、高度な知的労働においては、
もはや労働は違う次元に行きます。
10時間真面目に考え続けたがアイディアが出なかった人は、
2分間でアイディアを提示出来た人より「悪い労働者」です。

足を引きずり、
滝のように汗を掻き、
武道館に這いつくばって到達することに感動するセンスは、
来たるべき「高度知的労働以外人間の活躍の場が残らない」
ような世界においては、メリットどころか邪魔にしかならない。

21世紀の労働はむしろ、
弥生時代以降の農本主義的なものから、
縄文時代以前の狩猟採集生活時代のものに近づく、
というのが私の見立てです。

狩猟採集生活では、
働いた時間の長さは意味をなしません。
タイムカードを押して狩りに行く愚かさを考えてください。
狩猟採集生活に「ガンバリズム」は不要です。
ただ、「獲物を獲った」という結果が大事なのです。
それ以外の時間はひたすらに待ち、
身体を鍛え、仲間と作戦を練る。

そういった時代に、
「頑張ること自体をもてはやす」
という弥生的なDNAは、
むしろ労働の改革を阻む悪しき因習となる。

めちゃくちゃ乱暴に言えば、
日本には99%の弥生的な人と、
1%の縄文的な人がいます。

東京オリンピックをメタメタにけなす東浩紀や、
やはり甲子園的なガンバリズムを「洗脳」と言ってはばからない、
ホリエモンこと堀江貴文も典型的な「縄文人」でしょう。

私の見立てでは、
今後の日本が世界で生き残るには、
「縄文的な人」の比率を高めることが大切になります。
そういう意味で、
24時間テレビのマラソンは、
そろそろやめたほうが良いと思う。

あれをやるぐらいなら、
黄色いTシャツを着た羽生名人と、
黄色いTシャツを着た藤井聡太くんの対局を、
見守った方が良い。
そして両者が、
「バリアフリー化の実現のために、
この一局を全力で指します!」
という。

賭博の法律とかの特措法をつくり、
「どちらが勝つか合法的に賭けられるように」する。
その掛け金の収益が、障害者福祉に使われる。

すばらしいじゃないですか。

みやぞんは、
家でそれを見て休んでれば良いのです。
そして来たるべきコンビの危機に備え、
相方のあらぽんと、
新ネタについて相談するべきなのです。

私はそう思います。

ご参考に。



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■3 バックナンバー Pick up
「シーズン1」の過去のバックナンバーから、
「そういえば、こんな記事もあるよ!」
というものについて、
こちらでオススメいたします。
選考基準は独断と偏見ですが、
今号で話した内容と併せて読むと、
役に立つというものをご紹介できればと思っています。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

今週のバックナンバーピックアップは、
Q&Aコーナーで触れた、
デービッド・アトキンソンの
『新・所得倍増論』をご紹介した回。

この本、面白かったです。
「ガンバリズム」から、
「狡猾に知恵を使う」時代へのシフトを、
アトキンソン氏は様々なデータを根拠に、
論証していきます。

お勧めです。

▼参考リンク:陣内が先週読んだ本2017年10月第二週 
『新・所得倍増論』デービッド・アトキンソン 他4冊
http://blog.karashi.net/?eid=278


【質問】世代間ギャップについて

2018.12.24 Monday

+++vol.053 2018年8月21日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 Q&Aコーナー

皆さんからお寄せ頂いた質問にお答えするコーナーです。

日頃の悩み、疑問、今更誰かに聞けないギモン、、、、
質問の種類は問いません。お気兼ねなくご質問をお寄せください。
ご利用は下記に基づいてご利用いただけると幸いです。

【Q&Aについて】
▼全てのご質問にお答えすることはできません。予めご了承ください
▼いただいたご質問は、ブログ・FVIメディアルームに掲載される可能性があります
▼本名での投稿の場合は「ペンネーム:無し」となります
▼必ず下記フォームからご質問を送信ください

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

【Q&Aコーナー専用フォーム】

▼URL
https://www.secure-cloud.jp/sf/1484051839NyovBkYI

※大変お手数ですが一つの1メール1質問を原則とさせてください。
ご協力宜しく御願い致します。

※頂いたメールはすべて目を通しております。
陣内俊への要望やメルマガの感想、激励などももちろん大歓迎です!

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

●【Q】世代間ギャップについて

ラジオネーム:ラス・コリナス(男性)
お住いの地域:海外

Q.

テキサス在住のラス・コリナスです。
アメリカでは今、ミレニアルズと呼ばれる世代が、
社会人になり、社会の仕組みの中で浮いている、
という問題があります。

権利ばかり主張し、年上を尊重せず、
わがままで、我慢強くない、といった評判。
テクノロジーに囲まれて育った世代だから、
便利さを享受し、即座に自分の欲求を満たすことができるため、
忍耐力が培われていないのではないか、
などの分析があります。

子育ても、「ヘリコプターペアレンツ」と言われ、
いつも子どもを監視し、
子どもが何か困ったことがあるとすぐに助ける、
という育て方をされてきた世代です。
(忘れ物を届けにいったり、
 子どもの障害を先回って取り除く)
SNSによって、人をうらやむようになり、
アメリカでは鬱などの精神疾患が過去最高に増えている、
(ドーパミンが分泌される中毒)
という現状もあります。

ある会社で、会社に内定した若者が、
上司に電話を渡し、
「あなたが私の上司にふさわしいか、
 親に判断してもらいますから」
という新入社員が6回続いたこともあるそうです。
自分の働いている職場でも、
同じようなことを感じています。

日本でもそのような世代間ギャップはあるのでしょうか?
私たちはどのように世代間ギャップを超えて、
つきあっていけば良いのか、
何か知恵がありますでしょうか?


A.

ラス・コリナスさんからのこの質問は、
実は2017年12月にいただいて、
それから半年以上「寝かせて」いた質問です。
「メルマガのネタないかなー」と、
Evernoteを情報散策していたら、
「死海文書」のようにこの質問が発掘されました。

「おぉ、こんな未回答の質問がまだあった!!」
と、8ヶ月前の地層からこの質問をとりあげ、
埃や汚れを注意深く取り除き、
よーく読んでみました。
結果、頭を抱えました。

「うーん、今の私の力量で
 答えられる質問ではないかもしれない」
と思ったからです笑。
回答が遅れていたのには、
それなりの理由があったのです笑。

しかし、命知らずにも、
この「大きな質問」に回答を試みています。
最初から言い訳するみたいで恐縮ですが、
これから私が語ることは
「回答」であって「解答」ではありません。
ましてや「正答」であるはずがない。

あくまで私の個人としての一見解として
聞いてくだされば幸いです。



▼▼▼普遍的問題としての「世代間ギャップ」▼▼▼

ラス・コリナスさんからのこの質問を
まずは「因数分解」しましょう。
大きな問題というのは、小さな問題に分解して、
ひとつずつ解決するというのが、
人生でも仕事でも世界平和でも「問題解決の定石」ですので。

ラス・コリナスさんはまず、
アメリカにおける近年の世代間ギャップの状況を指摘し、
そして二つの質問をなさっています。

1.これはアメリカだけのことなのか、
 それとも日本でも同じなのか?

2.私たちはどのように、世代間ギャップを超えて、
 付き合っていけばいいのか?

という二つですね。

まず、答えるのが比較的容易な質問、つまり「1」から。
端的に言いまして、私はこれはアメリカのみならず、
世界的な現象だと考えてます。

さらに踏み込むと、
時空すら超えて普遍的な現象とも言えます。
古代エジプトの壁画に、
「最近の若い者は、、、」
という老人の若者への不満が書かれていた、
という有名な逸話が示すように、
いつも「新しい世代」は既存の社会からは、
眉をひそめられるものなのです。

でも、大丈夫。

それから40年ぐらい経ちますと、
「新しい世代」が今度は、
「さらに新しい世代」に、
眉をひそめるようになるわけですから。

今から40年後、60代になった現在の「ゆとり世代」は、
未来の20代に、
「俺の若い頃はあんな奴はいなかった。
 もっとちゃんとしていた。」
と言います。
これは、必ず言います。
断言しても良い笑。

しかしながら気をつけなければいけないのは、
だからといって、「世代による傾向」が、
普遍性の中に吸収されて消失するわけでもなければ、
アメリカの「ミレニアルズ」や、
日本の「ゆとり世代(やそれよりも若い世代)」に特有の、
ある主の問題が「問題ではない」ということになるわけでもないし、
それらの問題が放置されて良いというわけでもないということです。

なぜか?

エジプトの壁画の逸話が示すように、
社会というのはいつの時代も、
複数の世代を超えて存在するからです。
社会にはいろんな世代の人がおり、
各世代がお互いに折り合って生きていかなければ、
その社会にいる人々は暮らしづらくなる、
ということです。

「若い人の意味不明な素行や行動原理」によって、
困っているのは年上の世代だけではありません。
若い人々自身も、「生きづらさ」を抱えることになります。
だって、自分が「自然にしたことや言ったこと」が、
社会の側を戸惑わせているという状態は、
戸惑っている側よりも、自分自身のほうが、
実はダメージを受けるものですから。

現代の世界はグローバル化が進み、
アジア人と欧米人
アフリカ人とラテン人、
ヒンズー教徒とキリスト教徒、
ユダヤ教徒と仏教徒、
イスラム教徒と無神論者というように、
あらゆる文化・宗教的背景を持った人が、
同じ学校、同じ職場、同じ地域社会で暮らすようになってきています。

そこには必ず「文化的な衝突」が生まれます。
この「文化的な衝突」によって苦しむのは、
どちらか一方ではありません。
必ず双方が「生きづらさ」を抱えることになります。

その「生きづらさ」をプラスに転じるものは何か?

互いに謙虚になり、相互に理解することだと思います。
お互いに耳を傾ける、ということです。
そうすると、「文化的な衝突」は、
「文化的な学び合い」に変わるのです。
双方の「世界が広がる」わけですね。



▼▼▼アメリカと日本▼▼▼

さて、ラス・コリナスさんは、
現代のアメリカの若者について書いて下さっています。
新入社員が上司に「自分の親と面接するように要求する」
というのは凄いですね。
日本ではあまり聞いたことがありませんが、
「企業の入社式に親が同伴する」というのは、
少し前に話題になりました。

いずれにしても、
どちらも、少なくとも私の手持ちの常識から考えますと、
「マジか。コイツら。」
というのが本音です。

「入社式に親同伴」にしても、
「上司を親に面接」にしても、
子どももハンパないけど、
親もハンパないですよね。

だって、親に「上司と面接してもらうから」、
という会話をしてるってことでしょ。

「お前、落ちるって! 
 それやったら面接落ちるって!
 会社の人全員引くって(泣)!」
っていうレスポンスじゃなかったってことでしょ。

「あー、上司を見極めるってことね。
 OK、ママがしっかり品定めしてあげるから。」
って言っちゃってるってことでしょ。

怖い怖い怖い。

親が「明日は入社式よね。
お母さん、スーツをクリーニングに出して、
美容院にも行ったわ。
いよいよあなたも社会人ね。」
という会話をしてるってことでしょ。

「お母さん、マジ無理無理無理。
 ダメだよ。
 会社の人引くから。
 出社一日目から、
 俺の会社でのあだ名『マザコン』になるから。
 マズいからそれは。」
じゃなかったってことでしょ。

「ありがとう。
 小学校も高校も大学も、
 ママと一緒に入学式行ったよね。
 桜の下で写真撮ったよね。
 明日も一緒に撮ろうね。
 俺の門出を、見届けてね。」
って言っちゃってるってことでしょ。

怖い怖い怖い。

コメディというより、
これはもうホラーだと私は思います。
脳内では「トワイライトゾーン」の音楽が流れています。

▼参考リンク:トワイライトゾーン
https://youtu.be/EVm6ZEQt71c

私にとっては最怖のホラーなのですが、
たぶん「そうでもない」親子がこの世には一定数いるから、
実際このような事象が起きているわけですよね。
これは「世代間ギャップ」と呼ぶ以外ないですね。



▼▼▼日本での私の世代間ギャップに関する知見▼▼▼

ラス・コリナスさんはアメリカのミレニアルズについて、
ご紹介してくださっていますが、
日本とアメリカの世代って、
10年ぐらい「後ろにずれる」と言われています。

日本のベビーブーマーとアメリカのベビーブーマー、
日本のジェネレーションXとアメリカのジェネレーションX、
日本の団塊ジュニアとアメリカの団塊ジュニア、
傾向は似ていたりするのですが、
年月がちょっと日本の場合後ろにずれる傾向がある、
というのをどこかで読んだことがあります。
実際、人口のグラフを見ても、
日本とアメリカでは「膨らみ」がズレます。

、、、で、アメリカの「ミレニアルズ」にあたる世代が、
日本でいうとどのへんにあたるのか、
多分これには定説はありません。
定義が曖昧ですから。

しかし私が類推するに、
ラス・コリナスさんのおっしゃっている世代というのは、
日本でいうと「ゆとり世代」および、
「平成生まれ世代」ぐらいがそれに該当すると思われます。

、、で、日本とアメリカは、
文化も教育も違いますから、
世代に特徴的なことについては、
似ていることもあれば違うこともあるわけです。

私が感じる「日本に特有かもしれない」
新しい世代の「問題点」を挙げたいと思います。
(もしかしたらアメリカにも共通かもしれない。
 もしそうだったら教えてください。)
細かいところは他にもありますが、
大きなところだけ2つ挙げたいと思います。
これは完全に私の「私見」であり、
個人的な経験と知識に基づくものです。

ひとつめは、
「空気を過剰に読む」傾向。
ふたつめは
「正解主義」です。

順番に、簡潔に説明していきます。

空気を過剰に読む、
というのは「いや、逆じゃないの?」
って思っている人も一定数いると思います。
つまり、上の世代は空気を読むけど、
若い子は空気読まず「自由人」として生きてるんじゃないの?と。

しかし、私の見聞きしたことによると、
現状は逆になっています。
現在の20代や30代は、40代以上と比較して、
「空気を過剰に読む」という、
「忖度」が内面化している、というのが私の現状認識です。

佐藤優さんが著書の中でこんなことを言っています。
引用します。


→位置No.787 
〈今の40代は右肩下がりの時代を生き抜く冷めた視点を持っています。
私の感覚としては、この世代は個人主義的な傾向が強い。
部下の教育に対してもバブル以前の上司のように、熱くのめり込みません。
 (中略)
反面、今の20代、30代は全体の空気を敏感に読み取って、
組織や集団に順応するのが得意です。
しかも40代に比べるとの社内の人間関係を求めたり、
心のつながりなどを重視したりする傾向があるようです。
上司の評価を過敏なまでに気にする若者が多いのも、
その傾向の一つとみることもできるでしょう。
40代と今の20代、30代は、
意外に大きなジェネレーションギャップがあるというのが私の見立てです。
個人主義的でクールな40代と、場の空気を重んじる20代、30代。
そんな人たちが一つのチームでいい関係を築くのは、
それほど簡単ではないかも知れません。〉

▼参考リンク:『40代からシフトする働き方の極意』佐藤優
http://amzn.asia/cDq6aGg



いかがでしょう。
私には思い当たる節がたくさんあります。
いまのサッカー日本代表は「仲良し」です。
20代、30代ですね。
佐藤さんのいう40代以上といえば、
中田英寿です。
あのイメージの人は、今の若い人の中では、
完全に浮くだろうなと思います。

なぜ若い人が過剰に空気を読むのか?
それはスマホとSNSの普及が一枚噛んでいるというのが、
私の見立てです。

社会学者でネットネイティブ世代の子どもの親でもある宮台真司が、
ネットの本当の弊害は匿名性によるリスクではなく、
親しい間柄の人間関係を変質させることだ、と指摘しています。
引用します。


→位置No.1783 
〈宮台:ネットのネガティブ面というと
「匿名性を利用した誹謗中傷」や、
「匿名性を利用した犯罪」が語られがちだけど、
「親しい間柄での疑心暗鬼」のほうが重大です。

子どもに携帯電話を持たせない方がいい理由として、
いまでも「匿名性を利用した犯罪」に
巻き込まれることを危惧する向きがありますが、トンチンカンです。
数的に圧倒的に問題なのは、
「親しい間柄での疑心暗鬼」のせいで、
コミュニケーション一般において過剰に防衛的になったり、
親友にさえ腹を割れなくなってしまうことです。〉

▼参考リンク:『父として考える』宮台真司 東浩紀共著
http://amzn.asia/6DWThEc



スマホとSNSは、
リアルな人間関係にある「遊び」を消失させます。

Bちゃんのいないところで、
AちゃんがCちゃんに、
「Bちゃんのああいうところ、
 私実は苦手なのよね」
とつぶやいたことの多くは、
リアルな対人関係のみ場合は、
通常はBちゃんに伝わりません。

つまり、ある閾値に達するまでは、
「安全なガス抜き」ができる。
誰でも人に文句を言いたいことはあるものです。

これがSNSだとどうなるか?
Cちゃんはその「ぼやき」をスクショ(スクリーンショット)として、
アーカイブできてしまいます。

平和な間はいいですが、
CちゃんにとってAちゃんが気にくわない行動をしたとき、
そのスクショは威力を発揮します。
CちゃんはBちゃんにそれを送信して自分のグループに取り込んだり、
スクショを学校の裏サイトの掲示板に貼り付けて、
Aちゃんを「公開処刑」することも可能です。

このような社会で子どもたちは、
「他者の機嫌を損ねないように、
 空気を読みまくって生きる」
ということを強く内面化していく、
ということが起きています。
SNSは、「同調圧力強化装置」にもなり得るのです。
なので、「ネットによる匿名の犯罪」とかよりも、
「顔の見える人間関係がネットにより変質してしまうこと」
のほうがよっぽど怖いよ、
と宮台さんは警告しているわけです。


ふたつめの「正解主義」。
これもまた、新しい世代がネットネイティブ世代であることと、
無縁ではありません。
先ほどの「過剰な空気の読み合い」がSNSの影響だとするなら、
「正解主義」は「検索知」の影響です。
つまり、「グーグル先生」の影響と言うことです。

いまや「情報」は誰にでも入手可能です。
検索知がありますので、
「第10代アメリカ大統領は??」
「世界で三番目に高い山は?」
「日本で初めてノーベル賞を受賞したのは?」
などの質問の「解答」を暗記することに、
何の意味もなくなりました。
多くの人は自分の電話番号すら記憶しなくなってきました。

これまで記憶に依存してきた多くの情報は、
「ググれば良い」ことになったのです。
そうなると、学校に行くことに意味はあるのか?
大学の講義を受けることに意味はあるのか?
という問題が生じます。

全部「ググれば解決」することを、
わざわざ高い授業料を払い、
印刷された重く高価な教会書を買い、
眠くなるような90分の講義を聴くことに、
果たして意味はあるのか、と。

ホリエモンのような筋金入りの合理主義者に言わせれば、
「意味ない」となるでしょう。
だって、ググれば分かるのですから。
「ググれカス」というネットスラングが表すように、
「検索知」は、誰もが「自分は全知である」と、
錯覚させるようになりました。

インターネット上に存在する、
森羅万象に関する情報が、
すべて自らの脳内にあるかのように錯覚する。
(精確には手のひらの中のiPhoneに、なのですが)

しかし、これは「錯覚」であり、
事実ではありません。
そして、合理主義者の主張とは逆に、
検索知が普及した今は、
「リアルな大学の講義や高校の授業」
「わざわざ印刷された重くて高価な本」
の価値は、逆に高まっているというのが、
私の見立てです。

しかし、「ネットネイティブ世代」に、
これが常識になっているようには私には思われません。

私の個人的な体験をお話しします。
数年前に、平成生まれの若者(男性)と話しました。
「陣内さんから学びたい」というので、
時間を取って。

彼の質問に私が答えている間、
私はその場で自分の意見を構築し、
自らの知識と経験を総動員し、
自分の体験や書籍などを交えながら、
一生懸命、説明しました。

それを聞く彼は、
ずーっとスマホをいじっていました。

「メールでもしてるのかな??」
と思ったらそうじゃないのです。

検索しているのです。

彼は私の話す中で知らない単語を、
リアルタイムで「ググって」いたのです。
私の顔を見ずに。

一応申し添えておきますと、
私も話しながらタブレットで検索することはあります。
それは相手が言った書籍を検索バーに入力して、
「あとで買おう(図書館で借りよう)」とか、
相手が言った「オススメの店」を検索バーに入力して、
「あとで調べて行ってみよう」と思っているからであって、
5秒とか10秒ぐらいのものです。

ただ、彼は尋常じゃなかったのです。

検索が。

ほぼずーっと検索していて、
1分に1度ぐらい、数秒間私の顔を見て、
また検索する、という感じ。
「自分の」知識、つまりGoogleの検索知によって、
たった今目の前の私が口にした「未知」を、
「既知(ネットで確認済み)」に、
置き換えていこうと必死であるかのようにすら感じました。

彼が失礼だとか、
そういうことを言いたいのではありません。

そうではなく、
彼が「情報」と考えるものと、
私が「情報」と思って伝えようとしているものの差に、
私は愕然としたのです。

彼がしているのは別に失礼なことではありません。
誰かと話していて知らない言葉があったら、
知ったかぶりをして受け流すより、
それについて辞書などを引いて調べる、
というのはむしろ歓迎されることでしょう。

しかし、私が問題だと思うのは、
ググることによって、
彼は私の言葉の断片を把握(ネット上で確認)
することはできたのかもしれませんが、
私の話の「流れ」や「構造」や、「声のトーン」や、
言葉と言葉の間にある「クオリア(質的な情報)」について、
実はほとんど受け取ることができなくなっているはずだからです。

ググって手に入る情報は、
すべてコンピューター上で処理可能な情報ですから、
「0と1」の二進法に還元可能です。

「数量的な情報」と言い換えても良い。
しかし、目の前の人が口角泡を飛ばして語っているのは、
単なる数量的な情報ではない。
そこには「質的な情報」とでも言うべき、
「0と1の間のニュアンス」が含まれる。

実は、AI時代に「生き残れる」のは、
後者の情報を多く持つ人です。
しかしネットネイティブ世代の若者は、
「大学のレポートが全部コピペだった」とか、
「先生、さっきの内容は間違ってると思います、
 Wikipediaと違いますから。」と指摘する大学生などの、
嘘みたいな逸話が示すように、
「より淘汰されやすい人間」に、
みずからなりにいっているような節がある。
このへんは「AI VS 教科書が読めない子どもたち」という、
新井紀子さんの本に詳しいです。

、、、話しを戻します。

そのような「検索知」を「知のすべて」と勘違いすると、
何が起きるか?

「正解主義」です。

何にでも、「正解」があると思い込む。
コンピューター上の情報は二進法に還元されるのですから、
当然そうなるのです。

「0」か「1」。

「正解」か「不正解」。

この「正解主義」に支配される人生観は不幸です。
「この結婚は正解だったのか?」
「この大学を受験することは正解か?」
「この商品を買うことは正解か?」
「夏休みに海外旅行が正解か?
 それとも国内旅行が正解か?」
「家を建てるのが正解か??
 賃貸で生活するのが正解か??」
「子どもを作るのが正解か?
 作らないのが正解か??」

何かを買うときに延々とAmazonのレビューを見るのは、
ほどほどの範囲ならば楽しいですが、
「正解主義の呪縛」に基づき延々をそのループを辿るのは、
不幸な経験です。
だって、正解なんてあるわけないんだもの。

その掃除機を買って幸せになった人もいれば、
不幸になった人もいるに決まっている。
家を買って正解だったと思う人もいれば、
買わなきゃ良かったと思う人もいる。

当たり前の事です。

そして、もっと踏み込んで言うならば、
世の中のあらゆる「選択」は、
それ自体が正解だったり、
不正解だったりするのではありません。

そうではなく「自分がした選択を正解たらしめる」、
という、絶え間ないプロセスの中にこそ、
人生の真価が現れるのです。
ヴィクトール・フランクル風に言うのなら、
私たちは「正解を問うている」のではありません。
「問われている」側なのです。
「自分の過去の選択を正解たらしめることができるかどうか」
人生の側から、生きる力が試されているのです。

パブロ・ピカソは有名な言葉を残しています。
「コンピューターは役立たずだ。答しか与えてくれない。」

そうなのです。

人生で大切なのは、「答え」を見つけることではなく、
「問い」を見つけることです。
そしてその問いに向き合い、
真摯に生きるというその「過程」こそが、
「人生そのもの」とも言えます。

ネットネイティブ世代は、
そのあたりの認識と言いますか、
人生や世界に対する基本姿勢が、
「デジタルに還元可能な情報に過剰に接すること」によって、
脆弱にされてしまっていると私には思われます。



▼▼▼柔軟であること▼▼▼

さて、話しが長くなってしまいましたが、
ラス・コリナスさんの質問に戻りたいと思います。
説明してきたように、
世代間ギャップというのは「あります」。

それは「若い人に年寄りが顔をしかめる」
という形を取ることもありますし、
逆に「柔軟な若い人を頑固な年寄りが邪魔する」
という構図を取ることもあります。

あらゆる「短所」は長所の裏返しですので、
今年寄りが顔をしかめているまさにその傾向こそが、
来たるべき世において世界を救う種なのかもしれない。

「世代間ギャップ」に関して、
聖書から学べる箇所を2つ引用します。

「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、
へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」
ピリピ人への手紙2章3節

「子どもたちよ、すべてのことについて両親に従いなさい。
それは主に喜ばれることなのです。
父たちよ、子どもたちを苛立たせてはいけません。
その子たちが意欲を失わないようにするためです。

奴隷たちよ、すべてのことについて地上の主人に従いなさい。
人のご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、
主を恐れつつ、真心から従いなさい。
何をするにも、人に対してではなく、
主に対してするように、心から行いなさい。」
コロサイ3章20〜23節


父たち、子どもたち、
主人たち、奴隷たちを、
「先輩世代」「若い世代」
「上司」「新人社員」と読み替えても、
現代で意味が通ります。

社会は「謙虚で柔軟な人同士」だと上手く回るようにできています。
謙虚で柔軟な若者と、
謙虚で柔軟な年寄りが出会ったときに、
社会は美しい協業関係を生み、
それは同じ世代同士で働くよりも、
はるかに大きなシナジー(相乗効果)を生みます。

これを、順列組み合わせで考えてみましょう。

 自分  相手
・柔軟  頑固 →上手く行かない
・柔軟  柔軟 →上手く行く
・頑固  柔軟 →上手く行かない
・頑固  頑固 →地獄

こうなります。
自分が若い世代と考える人も、
自分が年寄りと考える人も、
自分が新人社員でも、
自分が管理職でも、
上記の組み合わせは真実です。

どんな世の中でも最善の策は、
相手がどうかにかかわらず、
自分が柔軟でいることです。
その場合、柔軟な相手に出会ったときに、
素晴らしい体験をすることができますから。

ひとつだけ補足を。

この「柔軟」「頑固」というとき、
自らの確固たる信念が深い人ほど柔軟に、
自らの信念があまりない人ほど頑固になります。
「逆だ」と考えている人が多いのですが。
ハードコアなクリスチャンは柔軟であり、
信仰が浅薄だと頑固(教条主義)になります。

世代間で言いますと、
たとえば「会社の有給連絡をLINEでするかどうか問題」
みたいのがありますよね。
「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)が大切」という深い信念を持つ人は、
手段は「どちらでもいい」のです。
なんでもいい。
ちゃんと情報が共有されていれば。

だから先輩世代なら、
「若い世代がLINEしか使わないというのなら
 じゃあ社員のLINEグループを作ろうか」となる。
「俺もLINEを学んでみよう。
 何か良いことがあるかもしれない。」

若い世代で「ホウレンソウの重要さ」、
という本質を抑えている人は、
「自分はLINEが一番楽だし合理的だと思うけど、
 スマホに慣れていない上司が連絡を取るのに、
 電話や電子メールのほうがやりやすいと言うのなら、
 特にLINEにこだわる理由はない。
 だって『連絡する』ということが大事なのだから。」
となる。

信念が浅い人は、
「電話で連絡しないなんて失礼だ。
 俺の若い頃はあり得なかった!」
となったり、
「ジジイはLINEすら使えない。
 終わってる。」
となる。

この両者とも、残念ながら一生、うだつが上がらないでしょう。
起きている現象だけを見てはいけません。
「深い部分で信念が強い」人の方が柔軟なのです。
「抽象度の高いところで譲らない」から、
「抽象度の低い、具体的なディテールはいくらでも譲れる」のです。

質問に答えたような答えてないような話しになっちゃいましたが、
ご参考に。


【Q】どのように人を育てるのか?

2018.07.24 Tuesday

+++vol.050 2018年2月6日配信号+++

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■3 Q&Aコーナー

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●【Q】どのように人を育てるか?
ラジオネーム:ラス・コリナス(男性)
お住いの地域:海外

Q.

テキサス在住のラス・コリナスです。
私は教育機関で働き教える仕事をしていますが、
陣内さんの教育論を聞きたいです。
特に、「クラスの中でどのように人を育てるか」
ということを、陣内さんが教育者なら、
どのようになさるか知りたいです。
教会や学校で教える働きもする、
という広い意味では「教育者」である、
陣内さんに聞きたいです。


A.

ラス・コリナスさん、
ご質問をありがとうございます。
教育というものはたいへん広い概念ですので、
「人を育てる」ということといっさい関係の仕事など、
世の中には存在しないと言って良いほどです。

私もそのご多分に漏れず、
普段教会で話すメッセージや、
インタラクティブな形のワークショップなどを通して、
私は広義には「教育」に関わる仕事をしています。
また、このメルマガ発信も、
ものすごーく広い意味では「教育」の範疇でもあります。

私の「人生のメンター」のひとりである、
ボブ・モフィット氏は「第二の家は空港」みたいな人で、
一年の半分以上は国外にいる宣教師ですが、
彼はいろんな面倒を避けるために、
出入国カードの職業欄には「Teacher」と書く、
と言っていました。
「嘘じゃないしね」と笑。
じっさい彼はイスラエルの大学で、
成人教育の博士号を取っています。

ラス・コリナスさんのご指摘のとおり、
ですから私もまた「Teacher」のひとりです。
ただし、「クラスルームでの教師」という、
プロフェッションに関しては、
私は専門的な教育を受けたこともないですし、
実務経験もありません。
ですから、私がそれらについて、
ラス・コリナスさんに教示するというのは、
もはや「釈迦に説法」、「キリストに垂訓」、
もしくは「Zeebraにラップバトル」なわけです。

しかし、私のしている「教育」と、
ラス・コリナスさんの携わっている教育現場とで、
「要素が共通」するかもしれない抽象概念の領域が、
少なくとも二つあるかと思われます。

ひとつは、「スキルとしての講義」、
もうひとつは、「クラスでの学習のダイナミズム」です。
前者が「講義型のスタイルにおける技術」で、
後者が「実習型・ハンズオンにおける技術」です。
前者と後者はかなり違う技術が要求されます。
一方的にしゃべる講義が上手な人が必ずしも、
学習のダイナミズムが起きる場を作る、
良いファシリテーターとは限りませんし、
逆もしかりです。

私はここ10年、零細な活動をしていることが幸いして笑、
基本的に、何から何まで、
全部自分でやらなければいけませんので、
「全部」できます。
人は零細な活動を続けると器用貧乏になるのです笑。

なので、まずは「トークスキル」といいますか、
与えられた時間において自分が話すことで、
大切なことが相手に伝わるための技術を紹介します。
これは牧師ならば毎週日曜日にしていることですし、
高校教師なら毎週の授業で何十回も繰り返しています。
私の前職の市役所職員ですら、
「衛生講習会」などの形で、
市民に食育や食品衛生のイロハを分かり易く説明する、
という業務がありました。

そのサイズが5分なのか30分なのか60分なのか90分なのか、
参加者がお金を払って授業を受ける生徒なのか、
自発的に礼拝に参加している老若男女のクリスチャンなのか、
そこに来ることを苦痛と感じている、
半強制的に集められた飲食営業者なのかで、
これまたまったく組み立て方は違ってきます。

なので、「序論・本論・結論」といった構成の仕方とか、
話すときに気をつける「間」や「テンポ」、
笑いを入れ込むとか、身近な経験に引きつけるとか、
そのあたりのことはここではあえて立ち入りません。

ひとつだけ、おそらく教育に携わる人でも、
多くの人があんまり意識していないけれど、
私が10年以上の経験から大切だと気がつくようになった、
「なるべく意識するようにしている要素」をご紹介します。

これはラーメン屋でいうと「秘伝のスープ」でして、
本当はあまり教えたくないのですが、
私はもう次の秘伝のスープの開発に移っていますので、
特別に今日はは紹介しちゃいます笑。

それは構成にかなり深く関わってきますが、
ゴール地点(結論)で、
かならずスタート地点(序論)に戻ってくる、
というループ構造です。
これを文章で説明している「話し方の本」を、
私は目にしたことがありませんが、
私はこの10年、こういったことを意識して、
「発話」するようにしてきました。
文章を書くときも、
学校で講義するときも、
礼拝でメッセージを語るときも、
教会でセミナーをするときも、
4日間のワークショップをデザインするときも。

この「ループ構造」というのは、
本当はループではありません。
閉じた円環というより、
「上に上るらせん構造」と言った方が正確です。

どういうことか?

T.S.エリオットという作家がこういう言葉を残しています。

「我々のすべての探求は、
最終的に初めにいた場所に戻り、
その場所を初めて認識することである。」

ここでエリオットが言っているのは、
もっと一般的な言葉では「再定義」と言います。
「再定義」というのは、
「今までAというものはこういうものだと思っていたが、
実はそうではなく、こういうものだったのか!」
という再発見です。
物語で言うとメーテルリンクの「青い鳥」や、
「オズの魔法使い」がこの構造になっています。
パラダイム(視点)が変わることで、
最初に見ていたものが別の見え方をするようになる、
というのが「再定義」と共に起きることです。

パラダイム転換によって、
同じものが別の見え方をするようになる、
ということを最も綺麗に説明した人の一人は、
「7つの習慣」の著者スティーブン・コヴィーです。
彼はその著書の中で、「パラダイム転換」とはこういうものだ、
という例話を紹介しています。

《あなたはある日、地下鉄に乗っていた。
 ある駅で2人の小さな男の子を連れた30代ぐらいの男が乗り込んできた。
 2人の男の子はギャーギャーとはしゃぎ回り、
 つねりあいを始め、片方が大声で泣き始めた。
 周囲の乗客たちは明らかにその親子に迷惑をしていたが、
 男は乗り込んでから子どもたちなどいないかのように、
 ずーっと窓の一点を見つめていた。

 その車両に乗っている全員が、
 男に非難の目を向けているのは明らかで、
 子どもたちの声は大きくなるばかりだった。
 あなたは使命感と義憤を覚え、
 意を決して、なるべく慇懃に男に話しかけた。
 「たいへん失礼ですが、
 あなたの二人のお子さんが騒いでいて、
 他の乗客の迷惑になっているようです。
 なぜ注意なさらないのですか?」

 男はあなたに答えた。
 「すみません。
 たった今、この子たちの母親、
 あ、つまり私の妻が天国に行くのを、
 病院で看取った帰り道でしたので。
 この子たちも不安定になっていますし、
 私もちょっと、呆然としていました。
 たいへん失礼しました。」

 あなたの男への非難の視線は消え、
 とっさにあなたは言った。
 「それは何も知らずに失礼しました!
 なにか助けられることはありますか?」》

「あなた」が最初に男に向けていた非難の視点が、
パラダイム転換によって「深い同情の気持ち」になりました。
これをパラダイム転換と言います。

私が何かを話すとき、
「再定義」を意識している、
というのは、こういうことが聞いている人の内面で起きるように、
構成を考える、ということです。

これを私が着想したのは実は、
「映画鑑賞」からです。
映画の構成っていうのはとても勉強になります。
多くの映画で使われる手法なのですが、
まずド頭にあるシーンを流します。
たとえば、そうですね。
身なりの良い主人公が橋の上から、
身を投げようとしているシーンとしましょう。
観客は思います。
「この順風満帆に見える人が、 
 なぜ身投げなどしなければならないのだ?」
このシーンはなるべく違和感を与えるようなものであったほうが、
より効果的です。観客の心に「ひっかかり」を与えるためです。
そのシーンの後に「タイトルコール」ですね。
そして、何の関係もないシーンが始まります。
90分ほど、めくるめく人間ドラマが繰り広げられ、
観客は主人公に完全に感情移入しています。
映画のラストシーンに近いところで、
最初の「身投げシーン」につながります。
もはや観客はそんなシーンが最初にあったことなど、
忘れかけているころに。

そのとき観客は「既視感(デジャヴュ)」を覚え、
そして最初に見た時と今見ているのとで、
その「身投げ」の意味がまったく変わっている、
というのを発見するわけです。
観客の中で「再定義」が起きているのです。

映画の構成で非常に多く使われる技術ですが、
私は自分が話すときにこの技術をよく応用します。

、、、で、私はこれを経験的に自分なりに「開発」したわけですが、
それを「根拠づけられ、確信を深められる」体験をその後にしました。
英語で言う「アファメーション」を与えられたのです。

ひとつめは、先ほど登場したボブ・モフィット氏です。
彼は成人教育の博士号をイスラエルの大学で取った、
と書きましたが、彼に一度私は聞いたことがあります。
「成人教育において一番大切なことは何ですか?」と。
彼は言いました。
「それは、『自分で発見すること』だ」と。
「成人教育と幼児教育の一番の違いは、
 成人は一方的に知識を詰め込まれても学ばず、
 『自分で発見した、自分でつかみ取った』と思うものだけを学ぶ。
 そのときに大切な概念は『再定義』なんだ」と。
私は「我が意を得たり」と思ったわけです。
自分のしてきたことは間違ってなかった、と。

もうひとつは、聖書です。
本田哲朗というカトリックの神父は、
「悔い改め」というギリシャ語が多くの場合、
誤訳され間違って解釈されている、
とその著作に書いています。
イエスは「悔い改めなさい」と言って宣教を始めました。
その「悔い改め」と訳されているギリシャ語は、
「メタノイア」と言います。
本田神父によればこの言葉には、
よく誤解されているような
「自分のしたことを悔いて、更生して正しい生き方をする」
というような意味は「まったく」ないそうです。
そうではなく「メタノイア」の直訳は、
「視点の転換」なのだ、と。

今までAだと思っていたものが、
実はAではなく別の意味だったのだ、
と物事を別の視点で見始めることを、
「メタノイア」というのだ、と。
だからイエスが「悔い改めなさい」と言って宣教を開始したとき、
それは先ほどのスティーブン・コヴィーの例話のような、
「視点の転換」を呼びかけていたのだ、と彼は言っています。
なので、隣人愛に関しても
「人に優しくなりなさい」という道徳的な教えではないのだ、と。
そうではない。
「神の視点で、あらゆる物事を見るようになりなさい」
というのが「メタノイア」の本来の意味だから、
「神の視点で、今目の前にいる貧しい人を見なさい」
というのがイエスの言われたことなのだ、と。
本当に神の視点で世の中を見たら、
あなたの心は傷ついた隣人のために張り裂けないはずがない、
というのがイエスが本当に言われたことの意味なのだ、と。

「再定義」と「メタノイア(悔い改め)」は、
言葉においてかなり近い概念です。
これも「自分のしてきたことは間違ってなかった」
というアファメーションのひとつになりました。

では、具体的に、どうやって「円環構造」を作るのか、
ということですが、これは「結論」から組み立てます。

たとえば、そうですね。
「話すときに構造が大切だ」
という「結論」があったとします。
その結論から「ちょっとずらした導入」を考えます。

エリオットは、
「我々のすべての探求は、
最終的に初めにいた場所に戻り、
その場所を初めて認識することである。」
と言いましたね。

「最後にそこに帰ってくる場所」を、
結論から逆算して設定するわけです。
この場合、そうですね。
めちゃくちゃ下手な構成のアメリカンジョークみたいなのを、
紹介しても良いでしょう。
構成がぐだぐだなので、「パンチライン」が、
まったく機能せず、鬼のようにスベります笑。
「ちょっと冒頭からスベっちゃいましたけど、、、
 気を取り直して、授業を始めます。」
といって講義が始まります。
内容はきわめてまっとうな発話の構成だとか、
話し方の技術の話をします。
当然、構成の重要性も指摘します。
授業の最後に、
「そういえば一つジョークを思い出したんだけど、、、」
といって最初のジョークを、
完璧な構成で披露するわけです。
「このように『構成』っていうのは、
 とても大切なんだよ。」
といって授業を閉じる。

こういった感じですね。
(もちろんクラスの雰囲気だとか、
 自分のキャラクターだとか、
 そういった要素が相まって成立するものですから、
 具体的な適用はこのままやればOKというわけではありません)

、、、と、ここまで書いたところで、
「グループの学習のダイナミズム」を説明する文字数が、
足りなくなりました笑。
相変わらず構成が下手ですね笑。

これに関しては最近読んだ本が非常に参考になりましたので、
そちらを紹介して、
エッセンスだけを要約したものを紹介することにとどめます。
もっと詳しく知りたいという人は、
次期読むラジサロンに参加するか、
もしくは「Q&Aオーナー」に、
「もっと教えて」とご質問下さい。


▼参考リンク:『なぜ人と組織は変われないのか?』ロバート・キーガン、リサ・ラスコウ・レイヒー
http://amzn.asia/gkXvA1i


この本のまとめを、私のEvernoteメモから引用します。

《組織のリーダーはどのように道を示すべきか
1.大人になっても成長できるという前提に立つ:
メタ視点、思考様式の変容

2.適切な学習方法を採用する:
そのトレーニング(学習)はオンジョブ的か?

3.誰もがうちに秘めている成長への欲求をはぐくむ:
「よい問題」とは、それを通して成長できる問題である。
全員が取り組んでいる問題は、
それによってその人が成長できるような問題か?

4.本当の変革には時間がかかることを覚悟する:
変革には時間がかかる

5.感情が重要な役割を担っていることを認識する

6.考え方と行動のどちらも変えるべきだと理解する:
洞察思考のアプローチと
行動変容思考のアプローチの二者択一は、
両方正しくない。
二つのアプローチを一体化させることが大切。

7.メンバーにとって安全な場所を用意する:
「試練と支援」をセットで与える。》

不親切きわまりないですが、
これ以上解説は加えません。
しかしこの本を読んで、私は昨年11月に開催した、
「よにでしセミナー」との類似性に驚きました。

中途半端な回答になってしまいましたが、
「教える」ことについての話でした。
ご参考までに。



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【Q】放射性廃棄物の受け容れについて

2018.07.17 Tuesday

+++vol.049 2018年1月30日配信号+++

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■3 Q&Aコーナー

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●【Q】放射性廃棄物について

ラジオネーム:トビー(女性)
お住いの地域:東京

Q.

このあいだ、
NHKで放射性廃棄物受け入れの問題を取り上げていたのを見ました。
どこの自治体住民も、放射性廃棄物を受け入れたくないと言っていて、
恩恵だけ受けてリスクは引き受けない態度に違和感を覚えました。
沖縄の基地問題とも重なると思いますが、
私は子どももいますが、もし自分だけで決められるなら、
放射性廃棄物を地域で受け入れることは賛成です。
便益だけ享受して危険は断る、というのはあまりに身勝手だと思うからです。
「福島の復興」というのはそういうところにこそあると思うのですが、
陣内さんはどのように考えられるでしょうか?


A.

トビーさん、ご質問ありがとうございます。
この質問の答えは簡単です。
「私もトビーさんと同じ考えです」。

以上!

というところで終わるのは不親切ですから笑、
なぜそう考えるかをご説明します。

「リベラリズム」という政治哲学があります。
私はいわゆる「憲法9条を守れ」とか、
「原発反対」とか、「SEALS」とか、
「アベ政治を許さない!」とか、
そういった現在の日本の「左翼的」とか「リベラル」とされる、
言説や政治的ポジションとは、
別の意味でこの言葉を使います。

政治的に文脈化され曲解されゆがめられる前の、
思想としての本来の意味の「リベラリズム」です。
「リベラリズム」を定義するのは、
それはそれで大きな仕事ですが、
この思想の「大家」と言われる、
ジョン・ロールズという政治哲学者に依拠して、
ここでは解説していきたいと思います。

日本におけるジョン・ロールズ研究の第一人者は、
最近ではテレビに出演することも多くなった、
井上達夫という東京大学の教授です。
この人が、
「リベラルのことは嫌いでも、
 リベラリズムは嫌いにならないでください」
という本を書いています。

前田敦子が「リベラル」(=アベ政治を許さない!)
AKB48が「リベラリズム」(=政治哲学としてのリベラリズム)
であって、両者は別物だよ、ということです。

▼参考リンク:『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』井上達夫
http://amzn.asia/2GYZbb8

この本の中でまず、
「リベラリズムの源流」といわれる、
ジョン・グレイの考え方を井上氏は紹介します。
グレイによると、リベラリズムの原理は、
「啓蒙より寛容をたいせつに」というところから出発しています。
私のEvernoteの読書ノートから引用します。

《リベラリズムの伝統とは「啓蒙」と「寛容」であり、
オックスフォードの政治思想家ジョン・グレイは
「啓蒙」よりも「寛容」を重視した。
その理由は「啓蒙」は理性の独断化、絶対化を招き、
マルクス主義やフランス革命後のロベスピエールのようになってしまう、
と考えたからだ。
(中略)
それまでの「不寛容な者には不寛容であるべき」
という寛容原理がポピュラーだったが、グレイはそれを否定し、
「不寛容な政治体制や文化に対しても、寛容であれ」
という形で寛容原理を自壊させた。
彼はリベラリズムの基礎を(いわば脱構築し)
哲学的原理から政治的妥協に移行させた。
これを「暫定協定」という。
戦い続けると相互殲滅になっちゃうかも知れないから、
まぁ、生きる知恵として「暫定協定」で共存しましょう、
これがリベラルな行き方だ、とグレイは言った。》

、、、リベラリズムとは何か、を定義するとき、
「寛容」という概念が大切になります。
アメリカでリベラルな政党である民主党が、
黒人やヒスパニックにも市民としての権利を与え、
伝統的なアメリカの宗教であるプロテスタントだけでなく、
カトリックやイスラムや仏教も共存でき、
様々な価値観を持つ人が互いを排斥しないようにしましょう、
と主張するのはこれが理由ですね。

「寛容」がひとつの礎石だとすると、
もうひとつのリベラリズムの礎石は「平等」です。
「寛容」と「平等」が、リベラリズムの基礎です。
その「リベラリズム」という道具を用いて、
ロールズの「正義論」を下敷きに、
井上達夫氏は「何が正義と言えるのか」を追求している学者です。
井上氏はちなみに、憲法9条に関しては、
「改正論者」ではなく「削除論者」です。
さらに「徴兵制を復活させるべき」と言っています。
「どこがリベラルだよ!!」
と左派の人は怒りそうですが、
井上さんが主張する「徴兵制」は、
リベラルな考え方から導き出されたものです。
引用します。

→P62 
《やはり、下手な戦争をすると、自分や、
自分の子ども達が本当に命を落とす、
あるいは人を殺さなければならない立場になる、
ということが切実に感じられて、
初めてその戦争はやるに値するのか、真剣に考えるようになる。
(中略)
そして、徴兵は、絶対に無差別公平でなければいけない。
富裕層だろうが、政治家の家族だろうが、兵役逃れは絶対に許さない。 
アメリカが大規模な徴兵制の採択を機に、
ベトナム戦争で世論が交戦から反戦に変わったことを話したけど、
「9.11」の後のアフガニスタン侵攻や2003年のイラク侵攻は
また志願制で、元の木阿弥になった。
戦場に行ったのは、ベトナム戦争の初期と同じ、
中西部の失業し続けている若者とかの貧困層が主です。
(中略)
アメリカの国会議員が上下両院で五百何人かいて、
子どもをイラクに送ったというのは、たった一人だったかな。
こうなると、民主国家でも、
やはり無責任な好戦感情に引っ張られてしまう。》

、、、同意するかは別として、
彼の主張は筋が通っているし、
一貫しているので、私は好感を抱きます。

じっさい根拠もある。

アメリカが泥沼のベトナム戦争を終わらせたのは、
「徴兵制」がその理由になった、というのは、
あながち暴論ではありません。

アメリカの両院の議員本人が軍人出身者だったり、
子どもが兵役についていたりする割合を、
過去のあらゆる時代に割り出します。
そうすると、両院の議員本人か、
もしくはその家族が軍人である(あった)比率が高いときには、
アメリカは戦争をしない、もしくは止める傾向にあり、
逆に議員の家族が兵役についていない時代に、
アメリカは戦争を継続し、もしくは始める傾向にあります。
これは統計的に証明された厳然たる事実です。

ブッシュ(子)がイラク戦争を始めたときの議員の家族の兵役率は、
たしか1%に満たないほどに下がっていました。
このような人たちにとって、
「戦争することのコスト」は外部にあり、
自分の身内にはありません。
逆に「戦争することのメリット」はある。
戦争は政権与党にとって、支持率回復の魔法の杖ですし、
軍産複合体は喜びますから、いろんな利権組織に、
便益を図ることができ、自らの政治基盤は固まります。

ところがもし議員の子どもも金持ちの子どもも、
絶対に逃れられない、「徴兵制」がアメリカにあったら、
本当にアメリカはイラク戦争を始めただろうか?
と考えてみる。

「徴兵制は戦争を抑制する」というのは、
このように、あながち無茶な話ではありません。
安倍さんや菅さんは自衛隊を海外に派兵することに積極的です。
彼らが日本の平和を願っていることを私は疑っていませんが、
しかし彼らにもし子どもがいて、
そして自衛隊員だったとしら、
同じ決断をしていただろうか?
と考えるのは無意味な思考実験ではありません。

海外派兵された自衛隊員の多くがPTSDを煩い、
自殺率が一気に上がることは公然の秘密です。
もし「それでも日本の安全のために」と、
自衛隊員の親である彼らが同じ決断をしていたら、
決断の内容は同じだったとしても、
その決断のもつ「重み」は違ってきます。

井上さんの議論で最も大切で、
そして最も私が共感を覚えた概念が、
「反転可能性」という概念です。
これは先ほどの「徴兵制による戦争の回避」にも通じるし、
そしてトビーさんのご質問にあった、
核廃棄物処理場や沖縄の米軍基地、
さらに地域に葬儀場を建てることに反対運動をする人たち、
そういった人たちに非常に関連のある概念です。
引用します。

→P22 
《ある人やある集団の行動や要求が、
この意味で正義に叶っているかどうか、
それを見分ける手段があります。
私が「反転可能性テスト」と呼んでいるものです。
これは、共通の正義概念から出てくる非常に重要な論理的帰結です。
つまり、自分の他者に対する要求や行動が、
もし自分がその他者だったとしても受け入れられるかどうか。
自分と他者が反転したとしても、
受け入れられるかどうか、考えてみよ、と。》

、、、井上氏はこの本の中で実例として、
「日照権の問題」を取り上げています。

今あなたは、二階建ての家をある土地に建てようとしている。
建設会社も決まり、ローンも組み、
いざ建てようとしたときに、
自分の土地の北側に住んでいる一階建ての家に住んでいるAさんが、
「待ってくれ」と言い出した。
曰く「あなたが二階建ての家を私の家の南側に建てたら、
私の家があなたの家の日陰になり、
日当たりが悪くなってしまう。
あなたがここに二階建ての家を建てることは、
まかりならん!」というわけです。

あなたは戸惑います。
しかし、
「もう決まったことなんだ。ローンも組んだ。
 この家は私と家族の夢の家なんだ。
 別に法令違反ではないのだし、いいだろう!」と、
Aさんの主張を圧殺して、二階建ての家を建てたとする。

二階建ての新築に住み始めたあなたと家族は、
そこでの快適な生活にとても満足しました。
それから3年後、あなたが家を建てた土地の南側に、
5階建てのマンションが建つ計画が持ち上がりました。
これが建てば、あなたの家は日陰になります。

「反転可能性」の概念に基づくと、
あなたは5階建てのマンションが建つことに、
「待った」を言う資格はありません。
自分は逆の立場のときに、
自分の主張を通して家を建てたのだから、
というわけです。

ある主張を自分が持っている場合、
立場が逆転したとしても、
その主張や権利は正当なものと言えるだろうか?
と考えるわけです。
「Aさんには日照権を主張する権利がないが、
 私には日照権を主張する権利がある」
というのは正義ではありません。
ダブルスタンダードです。

ダブルスタンダードは、
聖書の時代から明確に禁止されている、
「不正義」です。
申命記25章13〜14節にこう書いています。
「あなたは袋に大小異なる重り石を持っていてはならない。
あなたは家に大小異なる枡を持っていてはならない。」
これはダブルスタンダードを禁ずる律法です。
あなたが5階建てのマンションに反対するとしたら、
「大小異なる枡」を持つことになります。
もし5階建てのマンションに反対したいなら、
Aさんの主張を聞き入れて、
自分の家の計画を変更する必要があるのです。

これと核廃棄物や米軍基地の問題、
何の関係があるの?

大ありです。
Aさんを沖縄県民、または、
Aさんを青森県六ヶ所村と考えて下さい。
あなた(や自民党)は、
沖縄県民や六ヶ所村の人々に、
「仕方ないんだ、負担を受け入れてくれ」
と言うのは構わない。
しかしそのときは「反転可能性」を考えなければならない。
もしそう主張するなら、
あなたには、自分の家の隣に、
米軍の滑走路が作られたり、
自分の住む市内に、核廃棄物最終処理場が出来ても、
文句を言う権利はない、ということです。

私は沖縄県民や六ヶ所村の人々が、
不当に大きな負担を負っていることに、
たいへん遺憾な思いですし、
そういった負担を一部の少数の人々に、
負わせている日本という国は、
恥ずかしい国だと思っています。

しかしながら、日本は民主主義の国であり、
今私を含む国民の「民意」として選ばれた政権与党は、
(私がそれを支持したかどうかとは別にして)
沖縄や青森や福島の人々に負担を押しつけている現実があります。
その自覚や意志がなくても、
私は消極的にではあれ、「抑圧する側」にいるのです。
つまり負担の上に成り立つ便益を享受し、
自分以外の人の負担を(消極的にだったとしても)、
「良し」としている。
この現実から目をそらしてはいけない、
と思っています。

だとしたら、私は、
自分の家の隣に基地が出来ようが、
核廃棄物が来ようが、
原発が作られようが、
墓が建とうがコンサートホールが出来ようが、
文句を言う権利や正当性を持たないと考えている。
説明が回りくどく、非常に長くなりましたが、
これが私がトビーさんの意見に賛同する理由です。

現代の日本の民主主義を取り巻く状況は困難です。

その理由は分かっています。
「人口ボーナス時代」の昭和の日本の政治は、
「富の再分配」だったのに対し、
「人口オーナス時代」の現在の日本の政治は、
「負担の分配」だからです。
前者は良いが後者は地獄をもたらす、
とカール・マルクスは100年以上前に言っています。

しかし、そのような「負担の分担」の時代だからこそ、
高度な知性と清廉な人格と、
一貫した「正義論」をもったリーダーが、
必要とされていると私は思います。
ここで舵取りを誤ると、
国家存亡の危機になりますから。
ひとりの国民として、
そのような人がリーダーとして選ばれるように、
私も日々祈っています。



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【Q】政治に関する話題を建設的に話すにはどうすれば良い?

2018.07.04 Wednesday

+++vol.047 2018年1月16日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■3 Q&Aコーナー

皆さんからお寄せ頂いた質問にお答えするコーナーです。

日頃の悩み、疑問、今更誰かに聞けないギモン、、、、
質問の種類は問いません。お気兼ねなくご質問をお寄せください。
ご利用は下記に基づいてご利用いただけると幸いです。

【Q&Aについて】
▼全てのご質問にお答えすることはできません。予めご了承ください
▼いただいたご質問は、ブログ・FVIメディアルームに掲載される可能性があります
▼本名での投稿の場合は「ペンネーム:無し」となります
▼必ず下記フォームからご質問を送信ください

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

【Q&Aコーナー専用フォーム】

▼URL
https://www.secure-cloud.jp/sf/1484051839NyovBkYI

※大変お手数ですが一つの1メール1質問を原則とさせてください。
ご協力宜しく御願い致します。

※頂いたメールはすべて目を通しております。
陣内俊への要望やメルマガの感想、激励などももちろん大歓迎です!

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

●【Q】政治的な話題はどのように話す?

ラジオネーム:ラス・コリナス(男性)
お住いの地域:海外

Q.

陣内さんに質問です。
私はテキサスに住んでいます。
関連する二つの質問があります。

1.アメリカはいま日本以上に、
右翼(共和党・トランプ支持者)と、
左翼(民主党)の二極化が進んで分裂しています。
そのようななかで、
日常のなかでどんなふうに、
市民として建設的に政治的な会話をすることができるか、
いつも思い悩んでいます。
陣内さんに是非意見を聞いてみたいです。

2.メルマガを読んでいますと、
陣内さんはどちらかというとリベラルな立場と思われますが、
陣内さんならどのようにして
右派の人に自分の立場を説明しますか?
たとえば「トランプ大統領に関してどのように思いますか?」
という質問をされた場合、
どんなふうに相手を怒らせることなく、
自分の意見を相手に説明しますか?


A.

ラス・コリナスさん、ご質問ありがとうございます。
関連する二つの質問なので、
ひとつの質問として扱わせていただきます。

アメリカの右派と左派の分断が深くなっているのは、
日本から見ていてもよく分かります。
日本もまた、この10年ほど特に、
右派と左派の分断は深まり、
その対話は難しくなってきていると、
私は認識しています。

ですからこの話題については私はこの5年間ぐらい、
自分なりに考え続けてきました。
たぶん50冊ぐらいの関連書を読んできました。
その中には保守派の本もありましたし、
リベラル派の本もありました。
保守とかリベラルを包摂する「広く政治とは」を語る本もありました。
そのような数多くの書籍のなかで、
最もためになるヒントを与えてくれた一冊ありますので、
まずはそちらをご紹介します。

▼参考リンク:『なぜ社会は右と左に分かれるのか』ジョナサン・ハイト
http://amzn.asia/0jvPbWA

この本のサブタイトルは、
「対立を超えるための道徳心理学」です。

タイトルの「なぜ社会は右と左に分かれるのか?」
その答えは、政治信条というものが、
論理ではなく感情により強く結びついているからです。
自分はトランプ支持者だ、とか、
自分はトランプ不支持だ、という場合、
それは本人は「論理的に導き出した答え」と、
主観的には思っているかもしれないが、
実はそこには感情が結びついている。
だから政治の議論はこんなに紛糾するのだ、
と著者は指摘しています。

折しも「ダボス会議」を前に、
反トランプのデモが行われていますが、
ああいうのは「感情」でしか説明できません。

政治に関する議論は感情と結びつくため、
相互理解が難しい。
これは音楽や食べ物の趣味嗜好にも似ていて、
つまり、生理的にレゲエ音楽が嫌いな人と、
生理的にレゲエ音楽が大好きな人とで、
コミュニケーションを取るのはとても難しいよ、
ということです。

そこで終わってしまってはこんな本を書く意味がないので、
著者はそこからさらに話を進めます。
「政治の話は感情と結びついているので難しい」
という前提をまずは認めた上で、
「それでも相互に理解し尊重し合う道はないだろうか?」
と問うたわけです。

池上彰風に言えば、
ラス・コリナスさんの質問同様、
「良い質問でです」。

著者は本来リベラル派の人です。
彼は研究のためにインドに3ヶ月滞在しました。
彼はインドにいる3ヶ月の間に、
「世界が変わる」体験をしました。
それは自らの存在を揺さぶるような出来事でした。
インド滞在後の彼は、リベラルであることには変わらないが、
保守主義者もまた、自分と同じぐらい真摯なのだということを、
心から受け入れられるようになった、というのです。

その経験を元に、
自分の中で何が起きたのか、
ということを探るのがこの本です。

この本からの学びを体系化して、
ラス・コリナスさんの質問に即して解説する知的力量が、
いまの私にはないように思われますので、
私がこの本に書いた「メモ書き」に解説を加える形で、
このメルマガの「本のカフェ・ラテ」形式に近い形で、
ご紹介していきたいと思います。
では始めます。

→P66 
〈さて、いまや私たちは三つの「心のモデル」を手にしている。
プラトンは「たとえ哲学者だけがそれに値するのだとしても、
理性が主人たるべきだ」と言った。
ヒュームは、「理性は情熱の召使いたるべきだ」と主張した。
そしてジェファーソンは、
「理性と感情は、帝国を東西に分割して統治したローマ皇帝のように、
おのおのが独立した共同支配者であり、そうあるべきだ。」
という第三のオプションを提示した。
では、いったい誰が正しいのだろうか?〉

理性>感情(プラトン)なのか?
理性<感情(ヒューム)なのか?
理性+感情(ジェファーソン)なのか?

いずれなのか?

この本を最後まで読むと、
著者の結論はヒューム及びジェファーソンと、
一致していることが分かります。
つまり著者は感情の方が理性より優位だと言っている。
だからといって理性は感情の奴隷ではない。
感情と理性は互いに協力し合い、
「象の乗り手」と「象」のように人間を導くのだ、と。

、、、そうです。

「象の乗り手と象」。
これがこの本の最大のキーワードです。
続けます。

→P85 
〈マーゴリス(「パターン・思考・認知」の著者で公共政策学者)は
それ(判断と理由付けは別のプロセスであるというウェインの結論)に同意し、
次のように述べる。
人は何らかの判断
(それ自身、脳の無意識な認知作用によって生み出されたもので、
正しいときもあれば、そうでない場合もある)を行うと、
その正当性を説明すると自分が信じられる理由を作り出す。
だが、この理由付けは、後から考えられた合理化にすぎない。〉

、、、著者は、判断を行う情動が巨大な象(巨大で直観的)で、
理性が象の乗り手(象よりも遙かに小さいが、
象を助けるために進化した)という比喩を使って説明しています。
脳科学の研究では情動(感情)の方が、
脳の領野でいうと「古い脳」に属することが分かっています。
いっぽう理性の方は「新皮質」という新しい領域です。
古い脳のほうが、新しい脳よりも、
人間を引っ張る力は圧倒的に強いのです。
続けます。

→P90 
〈〈乗り手〉は、いくつか有用なことが出来る。
さまざまなシナリオを思い浮かべながら未来に目を向けられるので、
現時点での〈象〉の決定をよりよい方向に導ける。
新しいスキルを学び、新技術に習熟し、その知識を用いて、
災厄を回避しながら目標に到達できるよう〈象〉を誘導できる。
しかしもっと重要なこととして、
〈象〉がじっさいに何を考えているのかを知らずとも、
〈乗り手〉は〈象〉の代弁者としての役割を果たせる。
というのも、〈象〉がたった今したことの根拠を後から考え出し、
これからしたがっていることを正当化する理由を見つけるのに、
〈乗り手〉は非常に長けているからだ。
ひとたび人間が言語を発達させ、
それを使って噂話をするようになると、
常勤の広報担当を背負うことは、
〈象〉に計り知れない価値をもたらす。〉

、、、「乗り手」は理性、
「象」は情動でしたね。
人はいつも、情動的になした決定や感情を、
「合理化」します。
決定は本当は情動が行っているのですが、
後付けで「私はこれこれこういう合理的な理由で、
これを選択した」というのです。
これは結婚相手の選択から食べるもの、買い物、
仕事の選び方、友人の選び方など、
私達の日常のあらゆる行動にかなりの程度あてはまります。
そしてその最たるものが、
「どの政党を支持するか」などの政治的な立ち位置なのです。

続けます。

→P94 
〈社会的直感モデルは、道徳や政治の論争をすると
ひどくフラストレーションが溜まる理由を説明してくれる。
なぜなら、「道徳的な思考は、直感的な犬によって降られる尻尾」だからだ。
犬はコミュニケーションを図るために尻尾を振る。
尻尾をつかんで無理矢理振っても、犬を満足させることは出来ない。
それと同様、誰かの議論を言下に否定しても、
その人の考えを変えることは出来ない。
はるか昔に、ヒュームはこの問題を次のように述べている。
「思考は、論争する者がそこから自らの主張を引き出す源泉ではない。
よって、感情に訴えかけることのない論理が、
論争する者をしてより確たる原理を受け入れられるよう、
いつかは導いてくれるだろうと期待しても、
その希望は無駄に終わるだろう。」
誰かの考えを変えたいのなら、
その人の〈象〉に語りかけなければならない。〉

、、、この文章が本書の「キモ」です。
ここで著者が何を言っているかと申しますと、
つまり「乗り手」を説得しても、
その人の政治的スタンスは変わらない、というのです。
むしろ「象」に語りかけなければならない。

やっと議論の核心に近づいていきました。
著者はさらに、「象」に語りかけることにおいて、
「保守」のほうが「リベラル」より長けている、
と言っているのです。

→P247〜249 
〈次に、左派と右派は、おのおの異なる方法、過程によって、
各基盤に依存していると言うことを述べた。
つまり、左派は主に〈ケア〉〈公正〉を基盤に、
また右派は五つの基盤(加えて〈忠誠〉〈権威〉〈神聖〉)に依存している。
だとすると、左派の道徳は
「真の味覚レストラン(甘みだけを提供するような架空のレストラン)」
のメニューのようなものなのか?
もしそうなら、保守主義の政治家は、
有権者に訴える、より多くの手段を持っていることになるのだろうか?
(中略)
シャーロッツビル民主党支部のメンバーへの私のメッセージは、
「共和党は道徳心理学を理解しているが、民主党員はできていない」
というとてもシンプルなものだった。
共和党員はこれままで長く〈乗り手〉ではなく、
〈象〉が政治的な態度を決定すると言うことを、
また、〈象〉がどのように機能するかをよく心得ていた。
共和党のスローガン、スピーチ、政治宣伝は、
単刀直入に直観に訴える。
(中略)
それに対して民主党は、〈乗り手〉に訴えようとする傾向が強く、
特定の政策やその恩恵を強調することが多い。〉

、、、作家の村上春樹はトランプ大統領が選挙に勝った理由を、
「ヒラリーは人々の心の『地下一階』に語りかけたが、
 トランプは心の『地下二階』に届く言葉を使った。」
と表現しています。
村上春樹の言っている「地下一階」とは理性のこと、
そして「地下二階」とは情動のことです。

著者のハイト氏は、政治的なアピールを、
5つの「味覚」にたとえています。
〈ケア〉〈公正〉〈忠誠〉〈権威〉〈神聖〉です。
民主党は最初の二つ「ケア・公正」を語ります。
差別のない多様性を認める公正な社会を構成しましょう!と。
一方の共和党は「ケア・公正」を別の言葉で語りつつ、
「忠誠・権威・神聖」についても語っている、というのです。
アメリカなら「アメリカ・ファースト」だとか、
「白人国家のルーツに帰る」とか、
「公の場でメリー・クリスマスと言えるアメリカよ再び!」
などです。

日本もまったく同じですね。
リベラルは「公正・ケア」を語ります。
自民党もそれらを別の言語で語り、
さらに彼らは「忠誠・権威・神聖」を語ります。
「ニッポンを取り戻す!」」
「万世一系の天皇神話」
「神の国・ニッポン」などですね。

ポイントはそれらが正しいか間違っているか、
ではなくて、「より味の種類が多い保守」のほうが、
いまのところ有利だ、という冷徹な事実です。

続けます。

→P449〜450 
〈道徳資本とは、進化のプロセスを通して獲得された
諸々の心理的なメカニズムとうまく調和し、
利己主義を抑制もしくは統制して協力関係の構築を可能にする、
一連の価値観、美徳、規範、実践、アイデンティティ、
制度、テクノロジーの組み合わせを、
一つの共同体が保持する程度のことである。
(中略)
これこそまさに、リベラルの抱える根本的な盲点だとわたしは考えている。
(中略)
つまりリベラリズムは、ときに行きすぎて
あまりに性急に多くの物事を変えようとし、
気づかぬうちに道徳資本の蓄えを食いつぶしてしまうのだ。
それに対し、保守主義者は道徳資本の維持には長けているが、
ある種の犠牲者の存在に気づかず、
大企業や権力者による搾取に歯止めをかけようとしない。
また、制度は時の経過につれて更新する必要が
あることに気づかない場合が多い。〉

、、、保守はなぜ「保守」と呼ばれるかというと、
制度の現状維持を望む派閥だからです。
これは「右派・左派」の語源である、
フランス革命後のフランス議会のころにさかのぼる伝統です。
トランプ大統領の場合「革新的」に見えますが、
「WASP 白人アングロサクソン南部プロテスタント」の、
「伝統的アメリカ人」からすると、
彼らの既得権を守りますよとトランプは言っているわけですから、
やはり「保守」なのです。

いっぽうリベラルは、
「もはや白人国家ではなくなっているアメリカ」を見据え、
それに対応するように平等な社会を実現しましょうよ、と言う。
しかしそこには「道徳資本の食いつぶし」に無頓着だという問題がある、
とハイト氏は言っています。
つまり、「社会を社会として維持しておくための糊」みたいなものが、
もしリベラルの理想を追求すると枯渇して、
社会がばらばらになっちゃう(少なくとも人々はそれを恐れる)
というのです。

一方の右派の盲点は、「現状維持」というのは、
既得権の温存を生み、利権を肥大化させる。
もし「声なき者たち」の抑圧が行き着く所まで行けば、
右派が求めている現状の維持すらままならない、
「革命」(または戦争)に近づいちゃうよ、ということです。

続けます。

→P451 
〈中国哲学における陰と陽は、
外部からは対立しているように見えるが、
じっさいには相互に依存し合う、補完的な二つの事象を指す。
夜と昼、寒と暖、夏と冬、男性と女性は敵同士ではない。
どちらも必要なものであり、
両者のバランスや出現のタイミングは様々に変化する。

ジョン・スチュアート・ミルは、リベラルと保守主義について
「健全な政治を行うためには、秩序や安定性を標榜する政党と、
進歩や改革を説く政党の両方が必要だ」と述べている。

「紀元前600年から現在に至るまで、
哲学者は、社会的な絆を強化したいと考える者と、
緩めたいと考える者の二派に分れてきた。」
と述べる哲学者バートランド・ラッセルは、
西洋哲学の歴史を通じて、
同じダイナミズムが働いてきたことを確認している。

ラッセルは、道徳資本という用語に考え得る限り最も近い言葉を用いて、
両者のいずれも部分的に正しいことを次のように説明する。
「長い歴史を通じて戦わされてきたこれらすべての議論において、
どちらの側にも、正しい面もあれば間違っている面もあることは明らかだ。
社会的な結束は必須の要素であり、人類の歴史の中で、
議論のみによって人々に結束を強いる試みはことごとく失敗してきた。
いかなる共同体も、一方では厳しすぎる規律や、
伝統に対する過剰な尊重によって生じる硬直化の可能性、
他方では相互協力を疎外する利己主義や
個人主義の発達によって起こる社会の解体や、
侵略主義的な他国への服従の可能性という
二つの相反する危険にさらされている。」〉

、、、ここでハイト氏は突然、
「東洋の話」をはじめます。
これは偶然ではありません。
西洋思想全体には、実は「アリストテレス論理学」の影響があります。
これは西洋人のものの考え方の基礎をなします。
そのなかに「排中律」とか「矛盾律」と呼ばれる概念があります。
「Aは同時に非Aではあり得ない」と表現されます。
石が石であるというのは、同時に火であることはあり得ない、
陣内俊がインドにいて、同時に日本にいるといことはあり得ない、
などの命題です。

この土台の上に西洋思想は依って立ちます。
そこに西洋思想の強さもあり、同時に弱さもあることを、
ハイト氏は自覚しているわけです。

どういうことか。

排中律の命題に基づけば、
「保守は同時にリベラルではあり得ない」
という二者択一になります。
「今のアメリカの政治において、
 保守が正しいということは、
 自動的にリベラルは間違っているということだ。
 (逆も真なり)」となります。

この前提で話し合いをすると、
必ずけんかになります。

ところが東洋の考え方は違う。
東洋にはなんと、厳密な「排中律」がないのです。
「AがAであって同時にBである」ということが成り立つ、
(西洋人にとっては)驚くべき世界が東洋なのです。
老荘思想などに顕著ですが、
「死ぬことはつまり生きること、
 生きることはつまり死ぬこと」とか、
「あなたは宇宙であって、宇宙はあなただ」とか、
アリストテレスが口の中のご飯を吐き出してしまうような、
驚愕の論理が展開されます。

ところがそれらはあながち荒唐無稽な話ではありません。
コインには裏と表があります。
コインの裏も、コインの表も、両方コインです。
H2Oは水でもあり同時に氷でもあり、そして気体でもあります。
生きているということは死にゆくプロセスですし、
ある生物の死は、それを糧とする別の生物の「生」でもありえます。
これらの関係を「補完的」と言いますが、
東洋は「補完性」を見つけるのが得意です。

これは中国だけでなく日本もそうです。
「売り手良し・買い手良し・世間良し」
の近江商人の理念もそうですが、
そこには「補完性」あるいは、
「ノン・ゼロサム・ゲーム」の原則が見受けられます。
「ゼロサム・ゲーム」の場合、
売り手が得をすれば、買い手は損する、
買い手が徳をするというのは売り手は損する、
という理論ですが、
「ノン・ゼロサム・ゲーム」の場合はそうではありません。
ハイト氏は、「右と左に分かれた社会の行き詰まり」を、
「東洋的な発想で前に進めることが出来るかもしれない」
と言っているわけです。

「Aか、もしくはBか」ではなく、
「Aも、Bも両方必要」というわけです。

リック・ウォレン牧師の説教を、
私はいつもポッドキャストで聴いています。
彼はアメリカの福音派の教会の牧師ですから、
どちらかというと「保守」のポジションを期待された人です。
しかし(記憶が確かなら)彼はオバマ大統領主催の朝祷会でも、
「国家の祭司」として祈りを捧げた人でもあるので、
保守やリベラルやキリスト教という枠すら超えて、
「アメリカの宗教者」を代表するひとりです。

あるメッセージのなかで彼はこんなことを言っていました。
「私は同じ一週間の別の曜日に、
 一度は最も保守的な雑誌、
 もう一度は最もリベラルな雑誌の取材を受けた。
 ある人々はイライラしながら私に、
 『あなたは右翼(right wing)なのか、
 左翼(left wing)なのか、
 いったいどちらなんだ』と迫ってくる。
 私はいつもこう答える。
 『私は右翼でも左翼でもない。
 一羽の鳥だ
 I'm neither left wing nor right wing,
I'm a whole bird.』と。」

リックの立場も「補完的」ですね。
右派も左派も両方アメリカをよくするために必要なんだ、
というわけです。

私もそう思います。
日本には自民党も必要だし、
立憲民主党も必要なのです。
そのうえで日本を(神の視点で)良くする政策は支持し、
良くしないと思う政策には反対する。
その発言者の派閥は問わない、
という「是々非々」のスタンスが、
私が自らの信仰から導き出す、
自分の政治スタンスのあり方でもあります。

最後の引用に行きます。

→P477 
〈道徳は、人々を結びつけると同時に盲目にする。
「それは反対陣営に属する人々のことだ」
と思う人もいるだろうが、そうではない。
私たちは皆、部族的な道徳共同体に取り込まれてしまうのだ。
一つの神聖な価値観の回りに肩を組んで集い、
なぜ自分たちはかくも正しく、
彼らはいかに間違っているかを説明し、
合理化する議論を繰り返す。
私たちは、異なる見解を持つ人々が真理、理性、科学、
常識に対して盲目だと考えたがるが、実のところ、
自分たちが神聖とみなす何かに話が及ぶと、
誰であれ目がくらんでしまうものなのだ。
(中略)
道徳は、人々を結びつけると同時に盲目にする。
それは、自陣営があらゆる戦いに勝利することに
世界の運命がかかっているかのごとく争うイデオロギー集団に、
私たちを結びつけてしまう。
そして、どの集団も、とても重要なことを言わんとしている
善き人々によって構成されるという事実を、
私たちの目から覆い隠してしまうのだ。〉

最後に著者は、「道徳は人々を盲目にする」と警告します。
「道徳」を、「自らが感情的に結びついた政治派閥」と言い換えても、
だいたい同じ事です。

同じ政治的意見を持った人は、
簡単に「クラスター化」します。
「玉(ダマ)」になって殻に閉じこもり、
その殻の中から別の殻の人々を、
「あいつらは頭がおかしい」と攻撃しあうのです。

日本の(たぶんアメリカでも)ネット掲示板で、
まさに起きていることですね。
右派は左派を「パヨク」とののしり、
左派は右派を「ネトウヨ」と悪口を言う。

しかし先ほどの「whole bird」を思い出してください。
左右の両極端に分かれてお互いにののしり合っている集団が、
果たしてよりよい国として前進できるでしょうか?
右の翼と左の翼が互いにけんかしている一羽の鳥は、
果たして大空に羽ばたけるでしょうか?
望みは「薄」です。

私達はお互いの「象」に影響を与え合う必要があります。

著者のハイト氏たとえば、
ワシントンDCでの政治対立の深刻さと、
その「没交渉」が全米に行き渡ってしまっている事実を指摘し、
首都において議員が家族ごと一緒の居住区に住むなどの
工夫が必要だと説きます。
「お互いに顔を合わせる必要がある。
 そうすれば反対陣営の人も、
 『自分と同じぐらいアメリカを愛している人間なのだ』
 という当たり前のことが分かる。
 それがとても重要なのだ。」と。

別にワシントンDCでなくても、
もっと卑近な例に引きつけるなら、
「自分と反対の政治的立場を持った人とご飯を食べ、
 語り合う」ことが大切です。
それは怖い体験かもしれません。
しかし「相手は自分と同じぐらい真摯な気持ちで、
自分と反対のことを信じているのだ」という認識のもとに、
相手の意見を聞いてみることが大切です。
その場合、自分の「象の乗り手」(理性)から、
相手の「象の乗り手」(理性)への、
コミュニケーションにならないことが大切です。
その逆もまたしかりです。
デイヴィッド・ヒュームが指摘したとおり、
「相手の感情に訴えかけない説得は相手を変えない」のです。

相手の内在的論理について勉強したうえで、
相手の感情の何がそれを支持させているのか?
「象の声」を聴くことが大切です。

これは二つ目の質問の答えになりますが、
だから私がもしアメリカに住んでいて、
トランプ大統領の熱狂的支持者と対峙したらまずは、
「同意を得られるか分かりませんが、
 私は右派も左派も両方アメリカに必要だと思っています。
 あなたはトランプ大統領はどんな点で、
 アメリカをよくしてくれると考えていますか?」
と聴くと思います。

その上で、
「メキシコ人を追い出してくれることだぜ!」
と彼が言ったとしたら、
「メキシコ人がいないほうが、
 アメリカは住みよくなるということですね。
 ということはアジア人の私も出て行ったほうが良いのでしょうか、、、」
みたいに会話が進むかもしれません。

ここまで読んできておわかりのように、
私は相手を「説得」することは出来ないでしょうし、
(そもそも最初からそんなことは望んでいません)
相手に何の影響を与えることも出来ないかもしれません。
きっと、「合意形成」は難しいでしょう。
というよりこの手の会話の目的は合意形成ではありません。
最後に「我々は違う。」という相違の確認になる会話、
というのも世の中にはあり、それも大切な対話です。

しかしその会話のなかで、
「自分の象(象の乗り手ではない)」も開示する勇気をもって、
正直に真摯に相手に向き合うなら、少なくとも、
相手に「メタメッセージ(言外の情報)」が伝わります。
それは「リベラル派のコイツも、
一応真摯にそれを支持しているのだな」ということです。
私も彼との会話の結果、
「彼と私の意見は違うが、
 彼が真摯だということは分かった」
となります。

これが最も大切です。

ネットでは絶対にこれは起きません。
ネットは「乗り手」と「乗り手」の会話だからです。
そこには情動のやりとりはなく、「象」の出会いは起きません。
リアルな立ち話やコーヒーショップでのみ、
お互いの「象」がふれあうことが出来るのです。

そしてそのふれあいは、
「社会の分断」に小さくても一石を投じるものになります。

ハイト氏は本書の最後に、
自由民権運動のときキング牧師らと共に運動に関わった、
ロドニー・キングの言葉を引用しています。
「黒人と白人が一緒に手を取り合って生きていくのは、
確かに非常に困難かもしれない。」
しかし、それでも、、、とロドニー・キング氏は言いました。
「誰もが、ここでしばらく生きていかなければならないのだから、
やってみようではないか。」

私達はいくら右派が嫌いでも、
右派のいない世界に脱出することは出来ませんし、
いくらリベラルが嫌いでも、
リベラルのいない世界に脱出することは出来ません。
「だれもが、ここでしばらく生きていかなければならない」のです。
だとしたら、一緒にやっていこうではないか、ということです。

あと、最後の最後にちゃぶ台返しのような話を一つ。
「男と女の違い」は、「保守とリベラルの違い」よりも、
もっともっと、もっと大きなものです。
多くの夫婦がそれを乗り越えて手をつなぎ合っているのだから、
私達が社会で「右派と左派の違い」を乗り越えて、
協力できない理由はありません。
希望を持ちましょう。



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【Q】夫婦のデボーションはどうしてる?

2018.05.30 Wednesday

+++vol.042 2017年12月12日配信号+++

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■3 Q&Aコーナー

皆さんからお寄せ頂いた質問にお答えするコーナーです。

日頃の悩み、疑問、今更誰かに聞けないギモン、、、、
質問の種類は問いません。お気兼ねなくご質問をお寄せください。
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●【Q】夫婦でのデボーションはどうしてる?

ラジオネーム:ショウ(男性)
お住いの地域:静岡県

Q.

俊さん
いつもメルマガ配信していただき、ありがとうございます
毎週考えさせられながら読ませて頂き、
またメルマガが来ると もう1週間経ったのかと
忙殺されている日々も思い、内省してます

今週のメルマガで、ひとまずお休みとの事
それを聞き、お休み前までに是非聞きたいと思い、
また質問させて頂きました。

サロンの方も、興味ありますが。
ついでに言うと、世に弟子も行きたったです、、、
以前 結婚前のアドバイス について回答頂き ありがとうございました
教えていただいた本を読み、あーほんと自分勝手だなーと2人で話し、
そしてよく2人で祈るようになってます
俊さんのアドバイス 本当にありがとうございます

もう一つ教えていただいたのですが
俊さんは デボーションはどのようにしているのでしょうか
ブログの方に デボーション記事が上がっていますが、
僕は毎回あんな考察は出てこないです、、、
それに夫婦として、2人で行う時などのアドバイスもあれば嬉しいです
お子さんが生まれ、なかなか夫婦2人で
ゆっくりデボーション行うのは難しくなっているかも知れませんが、
俊さんの考えなど 聞かせていただければ嬉しいです


A.

ショウさん、ご質問ありがとうございます。
「よにでしセミナー」は次いつやるんですか、
というのは個人的に何人からも聞かれていますし、
すでにFVIに一件、お問い合わせいただいています。
次回開催の「よにでしセミナー」は、
2018年11月23〜24日(金・土)に、
札幌で開催予定です。
今から予定が開けられるようなら、是非ご検討ください。

「読むラジサロン」のほうも、
初回は試験的な内容になると思いますが、
新しい形の「学習する共同体」の形成を目指しています。
Evernoteのチャット機能を使って、
様々な交流や情報交換が出来る特別な場所になれば、、
と期待しています。
近日中に申し込み受付を開始しますので、
そのときには是非。

結婚前に祈る習慣を持つというのは、
本当に素晴らしいことだと思います。
私の周囲を見渡しても、
「一緒に祈る夫婦」というのは強いです。
「三つ撚りの糸は切れない」と箴言に書いてある通りですね。
自分と、相手と、イエス様ですね。

、、、で、ご質問の件に関してですが、
この答えは「ひとつ」ではないんですよね。

と申しますのも、
私たち夫婦は2012年に結婚してから、
そのデボーションや祈りの在り方を、
何段階かに分けて変えてきたからです。

それも、「じゃあ、今日からはこうしようか」
というような明白な節目があるわけでなく、
シームレスに、状況に合わせて、
形を適用させてきた、というのに近いです。

順を追ってご説明しますと、まず第一期。
これは2012年から2013年までの2年間。

この期間は、けっこう毎日、
朝、一緒にデボーションのときを持っていました。
方法論としては「3ポイント法」を使っていました。
どうやっていたかと言いますと、
最初にまずどちらかが祈ります。
創世記から初めて、1章(またはそのの半分)ぐらいを、
交互に一節ずつ読みます。
、、、で、その一節に対して、
「3ポイント」のいずれかを指摘します。

1.Question 疑問・質問
2.Arrow 弓矢(心に刺さった)
3.Light 電球の光(新たに何かを発見した)

この3つのいずれかがあるなら、
それについて分かち合います。
なければ、次の一節に進みます。

このとき、どちらかがどちらかに教える、
ということはタブーです。
それ以外なら何を分かち合っても良い。

「疑問・質問」は、たいてい脚注の引用を辿っていくと、
「聖書が聖書を説明してくれ」ます。
「光」は、「この箇所は今までこう思ってたけど、
実はこういう意味があることを今発見した!」という内容を、
「弓矢」は個人的な気づきのなかでも、
特に自分の生活態度や最近したことに関して、
神の意図に反していたなぁという、
「conviction(罪の自覚)」を分かち合います。
あまり長い箇所をやらなければ、
だいたい20分ぐらいで終わります。

さらに、この時期は朝ご飯を食べるときに、
「祈りのカード」というものを利用していました。
これは私の自作カード「質問カード」と、
宮古島の教会の早天祈祷会に着想を得たもので、
100枚ぐらいあるカードのそれぞれに、
「お互いの両親のために祈る。」
「○○教会のために祈る。」
「●●くんの結婚のために祈る。」
「俊の家族のために祈る。」
「友達の△△さんの病気の癒やしのために祈る。」
「日本の政治家のために祈る。」
などと、とりなしの祈り課題が書いてあります。
それぞれに一枚ずつ引いて、
一言ずつそれについて祈ります。
全部で3分もかかりませんが、
ゲーム性もあるので楽しみながらできます。

、、、この二つの組み合わせが、「第一期」。

第二期は私が病気になっていた、
2014年〜2015年まで。

この時期は私は祈れませんし、
デボーションも出来ていませんから、
妻が「俊くんの分も祈ってるから大丈夫」と、
私の代わりにデボーションしてくれていました。
私はいっさい何もしていません。
分かち合いをしようと思っても混乱してフリーズしてしまいますし、
聖書を開くことは恐怖以外の何者でもありませんでしたから。
カウンセラーにも聖書は読まないように、と言われていましたし笑。

第三期は私が回復した2016年から現在です。
この期間は私は毎朝ひとりでデボーションを持つようになりました。
方法論は、燃え尽きと鬱を経験した牧師、ウェイン・コデイロ師の、
「あなたを導く神様の個人レッスン」という本に準拠しています。

▼参考リンク:「あなたを導く神様の個人レッスン」ウェイン・コデイロ
http://amzn.asia/aQAA9ym

厳密にはこれと違いますが、
毎朝私は1章の聖書を読み、
そこから学んだことをEvernoteに記録し、
そしてタイトルをつけ、
何ヶ月か後に自分のブログにアップロードしています。
(アップロードする理由はデボーションを、
 習慣化するための「外圧」が90%、
 「誰かが読むかもしれない」が10%です。)

正確な手順を申しますと、
私のEvernoteには「祈りの記録」というノートブックがあり、
そこに「祈りのカテゴリ」のノートが現在87あります。
それぞれにテーマがあり、
だいたい3〜10ぐらいの項目が羅列されています。
「仕事」がテーマならば、
1.自分の仕事が社会の役に立つように
2.仕事を通して良い出会いがあるように
3.チームワークのため
4.それを通して自分が成長できるように
5.仕事を妨害するものから守られるように
などの項目があります。
(これはあくまで「参考」です)

私は毎朝タブレットの「タイマー機能」を使って、
このひと項目に1分を目安に祈ります。
5項目ある場合は7分に設定し、
最初の1分は神への感謝の時間、
最後の1分は主の祈りの、
「試みに遭わせず、悪から救って下さい」を祈ります。
間の5分に、5項目をそれぞれ1分ずつ祈ります。
声に出すことも出さないこともあります。

次に、タイマーを15分に設定します。
その15分で、先ほどの1章の聖書を読み、
Evernoteに記録する、というのをやります。
そうすると平均で2分〜4分、時間が余ります。

余った時間は「聖書の暗記」に使っています。
毎日3分ずつ使うと、
だいたい5つの聖句を覚えるのに2週間から1ヶ月かかります。
こうして私はこの2年で、95個の聖書箇所を暗記しました。

この「祈り」と「聖書」のルーティーンに、
だいたい全部で25分〜30分使っています。
、、、で、ブログにデボーションをアップするようになって、
この「履行率」は飛躍的に高まり、
2013年までの私は良くて7割、低いときは3割ぐらいだったのが、
98%から99%にアップしました。
「外圧」のおかげです。

チリも積もれば山となる、
という言葉がありますが、デボーションというのはまさにそれで、
私が一日10分祈ったとしたら、
1年間では3650分、つまり、
約61時間、まる2日半、寝ずに祈り続けているのと同じですし、
聖書を15分毎日読んだというのは、
1年にすると5475分、つまり、
約91時間まる3日半寝ずに聖書を読み続けたのと同じです。
これを一生続けたらどれぐらいの差が生じるかと思うと、
ものすごいことです。

妻は私とは別にデボーションをしていまして、
「デイリーブレッド」という小冊子を、
宣教団体から取り寄せて(お金を払って)、
それをベースに聖書を読み、お祈りしています。
ちなみに、お祈りしている妻は一番素敵です。
女性というのは、祈っているときが一番美しいのです。

さらに、「第三期」になって、
大切になってきたのは、
「MT(マリッジタイム)」と私たちが呼んでいる習慣です。

これは2012年に札幌で学ばせていただいた、
「マリッジコース」という、
クリスチャンの夫婦のためのセミナーで学んだもので、
私の人生で学んだ最も価値ある教えのひとつです。

原則は簡単で、
定期的に(本当は週に一回)、
夫婦でお互いの心を分かち合う時間を持つ。
それだけです。

これは「第一期」から続けていたのですが、
最初毎週だったのが途中私の病気で中断し、
それから再開して、2週間に一回になり、
今はだいたい1ヶ月に一回ぐらいのペースに落ち着いています。

このときに私たちは、
「最近自分が感じていること」や、
「最近教えられていること」を分かち合い、
向こう1ヶ月のお互いの予定を確認し合い、
二人が関わることはどうするかを相談します。
最後に、それぞれ、
「自分の祈り課題」と「共通の祈り課題」を、
1分ぐらいかけて考えて、
それらを分かち合います。

そうすると、二人とも、
1.自分の祈り課題
2.配偶者の祈り課題
3.共通の課題
という3つのカテゴリで、
箇条書きにされた祈りの課題が仕上がります。
私はそれをEvernoteに記録し、
妻はそれを手帳に書きます。

そしてそれぞれのデボーションの時間に、
私たちはそれを祈るわけです。
「夫婦で同じ内容を祈っている」
ということは、非常に大切なことだと、
私はますます強く思うようになっています。
自分がどこか他の場所で奉仕していても、
妻が祈ってくれている、という安心感がありますし、
私が出張中でも、妻が今何に悩んでいるか知っていて、
それについて祈ることが出来ますから。

子どもを授かってからは、この重要性はさらに増しています。

、、、で、
ショウさんもご指摘されているとおり、
子どもが授かると、当然授かる前のように、
「さあ、明日は近所のカフェに行ってMTしようか」
というのは難しくなります。
しかし生まれてから3ヶ月、コンスタントにMTを持てています。
先日は子どもが寝た隙をねらって、
「ささっと手際よく」20分ほどでMTを完遂しました。

私たちはMTをするときは(心理的には負荷がないわけでなはいので)、
「インセンティブ」を作るために、
近くのカフェに行くとか、それが無理な場合は、
コンビニのスイーツを買ってきて、
珈琲を淹れて、ちょっと楽しい時間にします。
そうやって「デート要素」を加えることで、
義務的なマンネリになることを避け、
「またやりたいなぁ」と思うようにするわけです。

、、、あ、あと、「祈りのカード」も健在です。

今も食卓にカードは鎮座しており、
時々思い出したように「久しぶりにやりますか?」
という感じでカードを引き、一言ずつ祈ります。

、、、結構長々と書いてきましたが、
結論を言えば、夫婦のデボーションというのは、
「体系化できない」というのが本当なのではないかと思います。
これまでも状況が変わるのに応じて変えてきましたし、
これからも何度も変わることがあるでしょう。

「第一期」のところで分かち合ったことからも分かるように、
私たち夫婦は最初、大阪でいうところの、
かなり「イキって」いました。
気合いが入っていたのです。

三浦綾子さんや三浦光世さんの伝記を読むと、
「5時半に起きて、朝食前に6時に二人で聖書を開き、
 そして1時間ほど聖書を分かち合って祈り合ったのでした」
みたいのが出てきて、それを目指しちゃうわけです。
志が高いのは良いことですが、多くの場合それを続けるのは困難です。

むしろ、ひとつの原則をもって、
柔軟に対応できるようにしておいたほうが強い、
と今は思うようになっています。
特に子どもが産まれたり、仕事の内容が変わったり、
引っ越したり、誰かが病気になったり、
予測不能な事態に対処し続けるのが「人生」ですから、
たいせつなのは「可塑性」だと思います。
「ダイヤモンドのように固い意志と確固たる習慣」よりも、
「粘土のように柔軟に対応できる習慣」のほうが強い、
と私は思うように変わってきました。

、、、で、そのような「可塑性の高い習慣」を身に付ける場合、
ふたつの「姿勢」を私は大切にするようにしています。

ひとつめが「引き出しの数」です。
ご紹介してきたように、
「キッチンタイマー法」、「Evernote」、
「祈りのカード」、「MT」、「3ポイント法」など、
私は様々な「ひきだし」を持っています。
きっと世の中にはまだまだ沢山の「祈るためのメソッド」があるはずで、
それらを今後も仕入れ、そして自分用にカスタマイズし続ける所存です。

これは野球のピッチャーで言えば、
「球種が多い」ということであり、
そうすることで状況が変わったときにも対応しやすくなります。

「大声で祈る」という一種類しか祈りができない人は、
大学の寮に入寮したら、その習慣を続けるか、
「変人のレッテル」を貼られるかしかありませんが、
祈る方法を「静寂の祈り」「神に手紙を書く祈り」
「優れた祈祷文を読むという祈り」「絵を描くという祈り」など、
いろんなバリエーションで持っていればその人は環境の変化に対応できます。

ふたつめの「姿勢」は、「楽しむ」ということです。
「祈りのカード」に代表されるように、
私は何か習慣を作るとき「遊び心」を忘れないように意識します。
それは私がきわめて自堕落で怠け者な性格であることを、
よく自覚しているからです。

なので、
「入り口がつまらないけれど、
 やれば楽しく、その果実は大きいこと」を、
習慣化するときには必ず、
その行動と「快」を感じる何かを混ぜ合わせるのです。
「祈りのカード」ならばその短さとゲーム性であり、
「MT」ならばコンビニのデザートと美味しい珈琲です。

、、、と、ここまで書いてきましたが、
けっこう大事なのは「夫婦で霊的な事柄を分かち合う」というための、
ボトムラインがありまして、二人がそれぞれ、
「一人で神との時間を持つ習慣」
を持っているということです。

もし私がキリスト教徒でない人、
もしくはデボーションの習慣を持たない人と結婚していたら、
今、私は毎朝聖書を読んで祈る習慣を持っていないと、
自信をもって言えます笑。

たしか来年の3月とおっしゃっていたと記憶していますので、
ご結婚までもうすぐですね。
良い備えをして、
素晴らしい結婚生活のスタートを切られるように、
心よりお祈りしています。
結婚「式」も、結婚「生活」も両方、
素晴らしいものになりますように。




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【Q】安息日を守るとは?

2018.05.24 Thursday

+++vol.041 2017年12月5日配信号+++


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■3 Q&Aコーナー

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●【Q】安息日を守るとは?

ラジオネーム:そら(女性)
お住いの地域:栃木県

A.

初めまして。
毎回火曜日の配信を楽しみにしています。
「情報化社会における信仰者の生き方」という
先生のyoutubeをみさせていただきました。
本当に情報が多い時代にクリティカルになることって大切ですよね。
異端かどうかを定める判断を
「私をイエス様に似せるか」どうかであることも納得しました。

ただ、なおも私を混乱させているのは、
海外に住んでいた期間に土曜礼拝の教会に通っていたことがあり、
安息日(土曜日)を守るという体験をしました。
日本では守ることはできていないのですが、
安息日を守ることは祝福であると実感しました。

実際に安息日を守ることはイエス様がしていたことですし、
もちろん守れないから救われないという律法主義に
至ってはいけないと注意を払っていますが、
クリティカルに考えた上でも
やはり安息日を守ることは異端だとは思いません。
また、安息日を守りたいと思いつつ、
自分の通っている日曜の教会を変えたいとは思いません。
先生でしたらどうお考えになりますか?


Q.

そらさん、ご質問ありがとうございます。
そしてYouTube動画を観ていただきありがとうございます。
(私は非常に限定された空間以外では「先生」ではないので、
 どうぞ、陣内さんとか俊君とか、
 キミとかお前とか、そう呼んでいただけたら感謝です笑。)

▼参考動画:「情報化社会における信仰者の生き方」
https://youtu.be/QjLVHvaXmDA

、、、で、ご質問の件ですが、
私は按手礼を受けたキリスト教の正式な教職者ではない、
つまりいわゆる「キリスト教の先生」ではないという前提の上で、
あくまで「公式な見解」としてではなく、
いち信仰者として、私が安息日についてどう考えるか、
ということを語らせていただきます。

ご質問を拝読させてえいただいて、
まず「整理」する必要があると感じました。

それは、そらさんが、
「安息日を守る」という言葉で意味しているものと、
私が普段「安息日を守る」というときに意味しているものが、
もしかしたら違うのかもしれない、ということです。

文章から拝察するにそらさんは、
「土曜日に教会で礼拝を捧げる」
ことを「安息日を守る」という言葉で、
意味しているように思われます。

私にとって「安息日を守る」というのは、
「週に一回、完全に心身を休める日を設ける」ことを意味します。
それは「教会での礼拝」とは関連がありません。
つまり「安息日」という概念と、
「教会で捧げる礼拝」という概念は、
別のものだと私は認識しています。
(異論・反論は受け付けます。)

しかし私がそう考えるのには理由がありまして、
十戒に記されている「安息日(シャバット)」は、
ユダヤ教では土曜日のことです。
正確には金曜日の日没から土曜日の日没までです。
メシアニックジューといわれる人々のなかには、
「ユダヤ教からキリスト教に改宗した」のではなく、
「イエスを信じるようになったユダヤ教徒」という、
アイデンティティを持つグループがあります。
(私たちが「パウロは(私たちが考えるような意味で)クリスチャンだ」
というのは実は時代認識の捨象がもたらす誤りで、
ユダヤ人であった使徒たちやパウロも、
このアイデンティティに近かったと信じています。)

、、、で、とにかく「安息日」というのは、
いかなる意味においても「土曜日」なのです。
キリスト教徒が「安息日は日曜日だ」と言ったとしたら、
それは事実誤認か、もしくは定義の誤りです。
聖書に「日曜日が安息日だ」と明確に読める記述は、
どこにもないですから。

では、なぜ日曜日にキリスト教会はミサや礼拝を持つようになったのか。
2つの理由があります。
ひとつは、原始教会がシナゴーグに共に集まり主を礼拝したのが、
「主の復活の日」だったということ。
イエス様が十字架にかけられたのが金曜日、
その最初の安息日の次の日が復活の日ですから、日曜日です。
彼らは主の復活を覚えて、
日曜日にパンを割き祈りをし礼拝していました。
これが多くのキリスト教会が、
日曜日を「聖日(安息日ではない)」と定義している、
理由のひとつです。

もう一つの理由は歴史的で政治的です。
コンスタンティヌスがキリスト教をローマ帝国の「国教」としたとき、
その礼拝の儀式を異教の人々の生活様式に合せる必要があったからです。
「ミラノ勅令」が出された時点でローマ帝国の全人口に占める、
キリスト教徒の割合は1割〜2割と言われていますから、
まだ「マイノリティ」なのです。
当時、ローマ帝国の多くの人々は太陽神を崇拝しており、
日曜日に太陽神に礼拝を捧げていました。
ローマ帝国の公式な国教にキリスト教を導入するにあたり、
スムーズに人々が適用できるように、
キリスト教の公式の礼拝の日を日曜日と定めました。
ちなみに日曜日は「Sunday」ですが、
この「Sun」の語源は太陽神です。

さらにさらに。
なぜプロテスタント教会の日曜日の「朝」なのか。
日曜日の夜でも、夕方でも良かったのではないか?
それは、アメリカの歴史と関係があります。
アメリカはピューリタンと呼ばれるプロテスタント教徒が建国しましたが、
彼らの多くは農家でした。
小麦を栽培したり牛を飼ったりしていたわけです。
そして西部を開拓する旅を続けながら所々に小さな街を形成しました。
その街の求心力というか、中心にあるフォーカスは教会でした。
、、、で、農作業に休日はないですから、
農夫は教会で礼拝を捧げた後に農作業に出かけるために、
あるいは朝の搾乳作業と午後の作業の間に礼拝できるように、
「朝10時」になった、という説が有力です。
日本のプロテスタントはアメリカ経由で伝わっていますから、
その影響を強く受けた日本の教会の多くは、
「朝10時」を踏襲している、というわけです。

、、、こう観てきますと、
「日曜日の朝10時」に特段重い宗教的意義が、
あるわけではないのが分かります。
(主の復活を祝う、という意味はもちろんありますが、
 それは毎日祝えば良いわけです。)

むしろ宗教的意義が重いのは土曜日のほうです。

間違っていたらすみませんが、
おそらくそらさんが海外で行っていたという教会は、
セブンスデーアドベンティストの教会だったのではないかと拝察いたします。
私も立川のセブンスデーの教会の建物に入ったことがありますし、
荻窪のセブンスデーの衛生病院にも、
家族や身近な方が多くお世話になっています。

、、、で、
セブンスデーアドベンティストの公式ホームページを観ますと、
こう書いてあります。

〈セブンスデー・アドベンチスト教会(以下アドベンチスト教会と略す)は、
聖書主義に立つキリスト教・プロテスタントの教会です。
アドベンチスト教会は、
聖書に示されている神の愛による救いを全人類に伝え、
その愛を、人々の必要に応えるさまざまな活動を通して
実践しようとしています。

アドベンチスト教会の名称の由来ですが、
「セブンスデー」とは、「第7日」の意味で、
これは週の第7日である聖書の安息日を
聖日として守る教会であることを表しています。
また「アドベンチスト」とは、聖書の重要な教えである、
キリストの再臨(アドベント)を待望する人々を意味します。
そのほかにも、アドベンチスト教会を特徴づけるいくつかの教えがあります。
その教えは多くの点において、プロテスタント諸教会と共通しています。〉

私はプロテスタント教徒として、
上記の記述に関してだけ言えば、
いかなるポイントにも「引っかかりません」。
ですので、土曜日に主を礼拝することは、
まったくもって素晴らしいことと思います。

先に挙げたメシアニックジューの会衆の、
土曜日(シャバット)に行われる礼拝にも参加したことがありますが、
私はとても素晴らしいものだと思いました。

、、、ではなぜ、
私は日曜日に教会で行われる礼拝に(健康や状況が許す限り)、
極力参加しようと思うのか。

、、、それは私が「教会とは共同体である」ことを信じているからです。
共同体としての教会は、キリストの身体として、
「共にパンを割き、共に祈りをし(使徒2章)」とあるように、
儀式や礼拝や献金や聖書の学びや分かち合いや、、、
そういったものを極力保つ必要があると考えています。

、、そして、都合、現行の日本の多くの教会は、
日曜日の朝に最も多くの人が集まっています。
ですから私は「交わり」のために、
できれば日曜日に教会に集いたいと考えているわけです。
人はひとりで神を信じることはできませんし、
ひとりで歩むことはできませんから。

ここまでいっぱい書いてきましたが、
私は「神学論争」にあまり大きな意味はないと考えています。
「神学的に正当かどうか」を延々と議論するのは私の仕事ではないし、
私の関心でもありません。

むしろ大切なのは、
「神は御言葉を通して何を意図されたのか?」
といういわば「大意」をくみ取ることです。
惑星で言えば「自転の正確な把握」ではなく、
「その惑星がどこに向かっているのか」という、
「公転」の大きな方向性をつかむことです。

2016年に私が読んだケン・シゲマツ師の
「賢者の生活リズム」は、
キリスト教徒として生きることの全体を、
神はどう願っているのか、という大意をつかむうえで、
非常に有益なテキストでした。
シゲマツ師は縦軸に3本、横軸に3本の格子(トレリス)を意識しながら、
キリスト教徒としての生活を構築することを提案しています。
非常にバランスが取れているので紹介します。

縦軸(基礎)
・安息日
・祈り
・みことば

横軸
・関係
・回復
・みことばの実践

、、、先ほど私が「日曜日に教会の礼拝に参加する」
といったときに挙げた理由は上記の6つの要素のなかの、
「祈り・みことば・関係・みことばの実践」に関わることであって、
なんと「安息日」とは無関係です(!)。

シゲマツ師も本書で語っていますが、
キリスト教徒にとっての「安息日」の大意とは、
「心と体をリフレッシュし、
 落ち着いて神に聴けるような24時間を、
 生活リズムの中に組み込む」ことです。

私はキリスト教関係の仕事をしていますから、
日曜日は多くの場合一番忙しいです。
日曜日はまったく「安息日」を守っていません。
(ケン・シゲマツ師もそう言っています。)

牧師にとって安息日を守るとはですから、
(土曜日も説教の準備で大概忙しいですから)、
土日以外の1日を、心と体と霊をリフレッシュするために、
「取り分けておく」ことです。
その24時間はぜったいに仕事をしないし、
仕事の依頼が来ても引き受けないと決意することです。
そしてその日に、何か活動的にがつがつ動き回るのでなく、
自分の心身がいちばんリラックスできることを、
家族とともにすることです。

膨大な量の研究結果が、
「人間は週に1日完全に休んだ方が、
 そうでなかった場合に比べて、
 心身は健康になり、
 こなせる仕事の量も増える」
ということを裏付けています。
休まないよりも、休んだ方が仕事は早く進むのです。
こんなことは研究しなくても、
神様は知っていたわけです。
なんたって、人間の創造者ですから。
「人間は休まないよりも、
 休んだほうがパフォーマンスが上がる」と。

今更医学が「人間は休んだ方が生産性が高まる!!」
と言っているのはですから、「何をいまさら」という話で、
科学が「人間のデザイナー」に追いついてきただけです笑。

▼参考リンク:「賢者の生活リズム」ケン・シゲマツ
http://amzn.asia/hLo4Xtg

、、、というわけでいろいろ書きましたが、
そらさんの今の態度を神様は喜んでいらっしゃるのでは、、、
と私には読み取れました。
というのは、様々な「信仰上の」といいますか、
「教義上の」といいますか「神学上の」葛藤を、
人は抱えながら信仰しています。
それが全くないという人は信仰のダイナミズムが失われている、
ということかもしれませんからむしろ、
不安になった方が良いかもしれません。

、、、で、そういった「教義上の」葛藤において、
私は一番避けるべきは「教条主義」であり、
一番求めるべきは「愛」だと思うわけです。

イエス様も「安息日に仕事をしてはならない」
という教条主義を突きつけられたとき、
病人を癒すという「仕事」をなさり、
「安息日にすべきは良いことなのか、それとも悪いことなのか?」
と自らの糾弾者たちに反駁しました。
そして言いました。
「安息日が人間のために作られたのであり、
 人間が安息日のために作られたのではない」と。

これほど明快な回答はありません。
「教義が人間のために作られたのであり、
 人間が教義のために作られたのではありません。」
そらさんの信仰の歩みがどうか、
実り豊かなものでありますようにお祈り申し上げております。



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【Q】使徒パウロの思想とは?

2018.05.17 Thursday

+++vol.040 2017年11月28日配信号+++


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■3 Q&Aコーナー

皆さんからお寄せ頂いた質問にお答えするコーナーです。

日頃の悩み、疑問、今更誰かに聞けないギモン、、、、
質問の種類は問いません。お気兼ねなくご質問をお寄せください。
ご利用は下記に基づいてご利用いただけると幸いです。

【Q&Aについて】
▼全てのご質問にお答えすることはできません。予めご了承ください
▼いただいたご質問は、ブログ・FVIメディアルームに掲載される可能性があります
▼本名での投稿の場合は「ペンネーム:無し」となります
▼必ず下記フォームからご質問を送信ください

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

【Q&Aコーナー専用フォーム】

▼URL
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※大変お手数ですが一つの1メール1質問を原則とさせてください。
ご協力宜しく御願い致します。

※頂いたメールはすべて目を通しております。
陣内俊への要望やメルマガの感想、激励などももちろん大歓迎です!

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

●【Q】使徒パウロの人生を知るには?

ラジオネーム:ターコイズブルー(女性)
お住いの地域:愛媛県

Q.

陣内さん、こんにちは。
今までにも何度か質問に答えて頂きましたが、また質問させてください。
私は、プロテスタント、カトリックに関わらず、
教会に行きたくてもなかなか行く機会を作れず、
独学で聖書やキリスト教の勉強をしていますが、
パウロの言葉にとても惹かれます。
間違って学んでいたらすみませんが、死と復活の概念、
また、信仰による生き生きとしたエネルギー、
信仰希望愛の秘儀の教えなどなど、読んでいて、
「ものすごく深いのに身近で役に立つ言葉」に、
ハッとしますし、また私も生活を頑張ろう、と、勇気付けられます。

そんな訳で、質問の趣旨は、「パウロ読本」的な
お勧めの本がないか、ということなのです!
パウロをここまで変えた(ユダヤ教徒からキリスト教徒へと)、
イエス・キリストの教えの真髄のようなものから、
パウロの人生が読み解けるような本があれば、
少しずつ読み進んでとても役立てられると思います。

楽あれば苦ありな生活を、
誰もが送っていると思いますが、
私にとって今一番心に響くのは、
祈ることや神様に依り頼むことなので
(そして前述のようにパウロが好きです)、
ぜひともよろしくお願いします。


A.

ターコイズブルーさん、
以前も、読書や名言について、
ご質問下さいましたね。
今回もご質問、ありがとうございます。

使徒パウロについてのお勧めの読本、
ということですが、正直なところ、
「脳内検索」をしてもヒットしませんでした。
そして、「使徒パウロの思想」を知るのにはこれが良い、
という代表的な著作についても、私は寡聞にして知りません。
誰か知っている人がいたら教えて下さい笑。

おそらくそれには理由があって、
パウロという人はその思想を把握するには、
人類に与えた影響があまりにも大きすぎるからではないかと、
私は思っています。

純粋に宗教史的に語るなら、
キリスト教の「教祖」はイエス・キリストですが、
その「開祖」はパウロであり、
これに異論を唱える歴史家はいません。
これはギリシャ思想の「始祖」はソクラテスだけれど、
その「開祖」はプラトンなのと同じです。

実際イエス・キリストという人は(ソクラテスもそうですが)、
自ら「書いたもの」をいっさい残していません。
「イエスの人生と口述によるメッセージ」という一次情報を、
口承で伝えた弟子たちによる「1.5次資料」があり、
それを最初に「包括的に体系化した」のがパウロでした。
それのみならず、
パウロは復活のイエスと直接に邂逅しています。

さらにパウロは当時の世界で五本の指に入る知識人であり、
ユダヤ教のとりわけ熱心な派閥の有望な若手指導者でもありました。
そういった特殊で多様な背景が、
「パウロのキリスト観」を形成し、
その言説が普遍性と伝達性の高さを獲得したわけです。

パウロが人類にもたらしたものは甚大です。
甚大すぎて、語りえないわけです。
あまりに大きなものを、人は語る事ができませんから。
「象を触る複数の盲人の話」という比喩がありますが、
私たちに出来るのはせいぜい、彼の思想を、
「これは柱のようなものだ」
「これは壁のようだ」
「これは絨毯のようだ」
「いや、ホースのようなものだ」
「いやいや、綱引きのロープだ」
と手探りすることぐらいです。
パウロの思想を一息で把握することは不可能で、
「象を触る盲人たち」のように、
延々と議論をするので精一杯なのです。

数ある歴史の「もし」の中に、
「もしパウロがいなかったら」というのは、
最大の「もし」の一つです。

それを考えることにさほど大きな意味はないのですが、
「もしパウロがいなかったら」、
キリスト教はキリスト教ではなかった可能性が大きいです。
おそらく現在、カトリックもプロテスタントも世界に存在しません。
今キリスト教として知られる宗教は、
「ユダヤ教のセクトのひとつ」として、
ローマ帝国の中で点々とくすぶり、
やがてユダヤ教の主流派に圧殺されていた可能性が高い。
パウロがいなければ2000年後の現在、
キリスト教は残っているかどうか分かりません。
つまり、キリスト教という、
「ユダヤローカルなセクト(当時)」を、
現在の「ユニバーサル(普遍的)」な宗教に変容させた張本人が、
パウロなのです。

念のため付言しますと、
これは信仰者としての「(不)信仰の表明」ではなく
冷静に「歴史」というものを分析した、
仮説形成にもとづく推論です。
そして、歴史は結果主義ですから、
「仮説」に意味はありません。
私の信仰は「キリストの教えは真理だ」、
というところにありますのでご安心を笑。

、、、というわけで、
パウロについては、私の力量を超えます。
ターコイズブルーさん、すみません。
今の私にはこの質問は回答不能です笑。

ただ、ターコイズブルーさんのおっしゃる、
使徒パウロの生き方やその言葉に深く励まされ、
人生を鼓舞されているのは私も同じです。
そして使徒パウロへの興味を私は、
ターコイズブルーさんと共有しています。

今年の春、N.T.ライトという人の、
「使徒パウロは何を語ったのか」という本を買いまして、
この質問を頂いた次の日から読み始めました。
「そういえばあの本買ったまま読んでなかったなぁ」と思い。
、、、で、まだ読了していないのですが(してないんかい!)、
大胆にもご紹介します。

▼参考リンク:「使徒パウロは何を語ったのか」N.T.ライト
http://amzn.asia/afKRmkm

この本は神学書ではありせんが、多少専門的な本で、
カジュアルな本というよりちょっとハードな本です。
、、、で、神学者としてのライト師は、
近年のパウロ研究が、
「ユダヤ教を否定するギリシャ思想的なパウロ」という、
近代神学が生んだ「誤解」から振り子が逆に振れてきている、
という分析をしています。

詳しい説明を省きますが、
特にプロテスタント教会は、
そもそもマルチン・ルターからしてそうなのですが、
「ユダヤ教的なるものを否定する」という悪い癖があります。
それが後に、
「ドイツのプロテスタント神学者が
ナチズムとホロコーストを論理武装という形でサポートした」
というキリスト教の黒歴史の伏線にもなっています。

しかし教会はそのような「反ユダヤ史観」を反省し、
近年のパウロ研究者たちは、
「徹頭徹尾ユダヤ教徒としてキリストの希望を語ったパウロ」
という新しいパウロ像を描きはじめており、
ライト師もそちらをサポートしています。

パウロはユダヤ教からキリスト教に「改宗」したわけではない。
パウロはユダヤ教徒として「弁証法的に保存的止揚」された、
「ユダヤ教’」を信じるようになった。
彼は真にユダヤ教徒のアイデンティティを保ったまま、
「ユダヤ教の(本当の)良き知らせ」を伝える使者となった。
それを後の人は「キリスト教」と呼ぶようになったのだ、
という立場です。

私もこちらを支持します。


、、、もう一冊。
記憶力の悪い私のEvernoteの読書ログで、
「パウロ」と検索してヒットした中からの一冊を。
遠藤周作の「キリストの誕生」という本です。

▼参考リンク:「キリストの誕生」遠藤周作
http://amzn.asia/5faGRyq

この本は「最初のクリスマス」という意味のキリストの誕生ではなく、
イエスがいかにして「キリスト」となったのか、
「キリスト」という概念がいかにして誕生したのか、
という遠藤周作のひとつの仮説です。

ですからこの本では、
生物学的にキリストを産んだのはマリヤだが、
「キリストという概念」をこの世に生みだしたのは、
12弟子やパウロである、という見解のもとに、
遠藤周作の思索が展開されます。
この本の隠れたテーマは「神の沈黙」であり、
映画化もされた遠藤の代表作「沈黙」の、
すぐれた解説書としても読むことができます。

一部引用します。


〈ポーロの死がもし、
そのようなあわれきわまるものだったら
生き残った彼の仲間は何と叫んだであろうか。
なぜ、あれほど福音を人々に伝えるため生涯を捧げた男に、
神はこんな惨めな死を与えたのか。

なぜ、神は彼を助けず、
彼に栄光ある死に方をさせず、
犬のように死なせたのか。
なぜ。なぜ。

人々はその謎に沈黙する。
彼は語らなかったのではなかった。
語れなかったのである。

それはイエスの無残な処刑から衝撃を受けた弟子達が
「なぜ」と叫んだときと同じ状況だった。
「彼はなぜ、そんなむごい死を神から与えられたのか。」
イエスの死が弟子たちに突きつけた同じ疑問、
同じ課題が再びポーロの仲間にも与えられたのだ。
、、、「ヘブル書」はこのように
ペトロとヤコブという指導者を殺された直後の
原始キリスト教団の信仰的危機を我々に伝えている。
この信仰の危機という60年代の教団の状況を考えて初めて、
我々はなぜ使徒行伝がポーロの死について語れず、
ペトロの死について語れず、
ヤコブの死にも默していたのかの秘密を解くことが出来るのだ。

、、、もちろん、この謎の前にひるみ、
疲れ果てて脱落する者も出た。
しかし残った者はそこから信仰の意味をつかんだのである。
不合理ゆえに我信ずというこの信仰の形式が
原始キリスト教団を組織的衰弱から防ぎ、
その活力を与えたのだと私は考える。
なぜなら、ひとつの宗教は組織化されるだけでなく、
神についての謎をすべて解くような神学が作られたとたん、
つまり外形にも内面にもこの人生と世界について
疑問と謎がなくなった瞬間、
衰弱と腐敗の坂道を転がっていくのである。〉

、、、宗教が「不合理性」「謎・疑問」を排除し、
きれいに物事を説明し整理され固定した教理を持つと、
その宗教は衰退を転げ落ちる、という遠藤の分析は白眉です。

私も遠藤周作にこの点において同意します。
私も、パウロという人の魅力は、
その「多層性」「多声性」にあると思うからです。
パウロというひとりの人の中に、
いつも複数の声があって、
それが弁証法的な葛藤を続けている。
だからこそ彼の思想は動的(ダイナミック)で、
読む者をこれほどまでに突き動かすのだと、
私は考えています。

なんだか生煮えの答えですみません。
これに懲りずにまたご質問をお寄せ下さったら、
嬉しく思います。




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【Q】「地域社会」と「離れた地域」は何が違いますか?

2018.05.03 Thursday

+++vol.038 2017年11月14日配信号+++


●【Q4】「地域社会」と「離れた地域」は何が違いますか?

A.

まず「復習」から入ります。
「4種類の仕える人々」に、
バランス良く仕えましょう、という話しを、
10月22日にさせていただきました。
「家族」「教会」「地域社会」「離れた地域」です。
家族には愛を示せるが教会員には関心がない、
あるいは職場では人々に仕えているが、
家庭内では憮然とした態度で気を遣わせる、、、
というのは神の意図した「愛する人のライフスタイル」とは言えません。
これに「被造物」を加えて、
5つの領域をあわせて考えることで、
神が創られたこの世界と社会に神の国を実現する、
「愛の種を蒔く人」となっていきましょう、
というのが私のメッセージでした。

ご質問の「地域社会」というのはですから、
家族でも教会(クリスチャン)でもない、
普段私たちが接する人々です。
その人の職業や年齢、性別などによって異なりますが、
働いている社会人ならば職場の人々や仕事上の関係者が含まれますし、
学生ならばクラスメイトや先生、学校関係者や塾・部活の友達が含まれます。
主婦ならば地域のママ友や町内会、ボランティアサークルへの参加なども、
地域社会への奉仕に入るでしょう。

「地域社会」とのつながりがまったくない場合は、
自ら主体的にそういったつながりを作って行くことも、
愛の種まきのひとつです。
自分の家に人を招いたり、
自ら出かけていってボランティア活動をすることも考えられます。
私たちキリスト者は「世に出て行って」「浸潤して」いくときに、
パン種がパン生地に浸透して作用するように、
世の中を変革していきます。

クリスチャンは塩気をもたらす塩ですが、
もし塩が袋にどっさり入ったままだと、
作用のしようががありません。
私たちは袋から出て、まき散らされる必要があるのです。

次に「離れた地域」についてです。
「愛の種まき」の着想元である、
書籍「もしイエス様が市長だったら」によりますと、
「離れた地域」というのは単純に「国外」と書かれています。
それは「全世界に出て行き、、、」というイエス様の大宣教命令の、
「地理的な広がり」から来ているアイディアです。

国外の人々のために一貫して愛の実践を行うことができたら、
それは聖書的なことですし、素晴らしいことです。
しかし、私は10年間「愛の種まき」を日本で啓発・訓練してきて、
「離れた地域」を海外に限定するのは、
日本とアメリカでは文脈が違うのではないか、と思うようになりました。

「もしイエス様が市長だったら」を書いたボブ・モフィット氏は、
アメリカ人ですから英語を話しますし、
最初に想定されていた読者も英語話者です。
英語というのは世界で最も普及した言語ですから、
英語話者にとって「他の国に仕える」という参入障壁は、
日本人の私たちよりもはるかに低いわけです。
英語話者ならば他の国の宣教団体や慈善団体のサイトもそのまま読めますし、
他の国の友達にメールや手紙を出すのも母国語でできます。

しかし、日本人が海外のことを知ろうとしたり、
海外の友人(そもそもそれを作るのに言語障壁があります)に、
手紙やメールを出すのは多くの場合簡単なことではありません。

ですからそういった所与の条件の違いを加味して、
「離れた地域」を、日本で教える際に私は、
「海外の人」に限定せず、
「自分が住む都道府県外の国内の人」も加えるようにしました。
(ボブ・モフィット氏とも相談の上そうさせていただいています。)

厳密な線引きは不可能ですし、する意味もありませんが、
首都圏は交通網によってつながっていますから、
埼玉県に住む人ならば「関東圏外」ぐらいを想定するのが適切かと思います。
たとえば熊本地震の被災者へ支援物資を送ったり募金をすること、
九州に住む高校の同級生に手紙を書くこと、
東北の震災に遭われた人々のために時間を取って祈ること、
他県で行われている知事選のことを調べ、
神の御心が行われるように祈ることなどは、
すべて「離れた地域」の人々への愛の実践に含まれます。

また、「海外は難しい」と最初に言いましたが、
私たちがクリエイティブに柔軟に考えれば、
そこまで非現実的なことではありません。
たとえばコンビニのレジ横には募金箱が置いてあります。
そこにいつもなら1円玉のおつりを入れていたけれど、
今日は50円玉を入れる、というのは立派な海外への愛の行為です。
なぜならその募金の行き先には海外への植林活動や、
海外の慈善団体の寄付などが含まれるからです。
また、YWAMなどの宣教団体が出している、
「未伝地域のための祈りのカレンダー」などは、
日本語にも翻訳されており入手可能です。
こういったものを用いて毎朝祈ることも、
「海外への愛の実践」に含まれます。

コツは、「柔軟に、大きく考え、そして小さく行動する」ことです。
私たちは多くの場合「大きく行動しよう」と志し、
その結果、皮肉なことに視野は狭まってしまうのです。
「宇宙大に考え、からし種のように小さく行動する」
というのを体得すると、仕事の仕方から社会への関わり方まで、
あらゆることが変わってきます。
御参考にしてくだされば幸いです。



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【Q】「必要を見つけられない」場合、どのように愛の実践を計画するか?

2018.05.03 Thursday


●【Q3】「必要を見つけられない」場合には、計画するのを待った方が良いでしょうか?

A.

私が13年前に「愛の行動の3ステップ」を、
ボブ・モフィット氏が講師を務めるセミナーで始めて知ったとき、
モフィット氏は参加者全員にチャレンジを与えました。

複数日にわたるセミナーでしたので、
夜のセッションが終わってから翌朝の朝のセッションまで、
約13時間ほどの時間があったのですが、
モフィット氏は参加者の私たちにこう言いました。
「明日の朝、ここに来るまでに、
 ひとつ、愛の実践をしてから来てください。
 それを終わらせるまではここに集まらないでください。」

その後、私を含む参加者は悩みました。
夜の街に繰り出し、倒れた自転車がないかどうか探す人、
教会の掃除を始める人、やおら親戚に電話をかけ始める人、
便せんに何か手紙を書き始める人、
会場に残り、とりなしの祈りのリストを手に祈り始める人、
他の参加者に謎の夜食の差し入れをする人、、、、
その様子はおかしく、楽しくもありましたが、
参加者は神に祈り、今まであまりしたことのないことをする、
という戸惑いや恐れの表情も見られました。

そのとき私が何をしたか今ではハッキリ思い出せないのですが、
たしか離れたところに住む姉に久しぶりにメールを打ったとか、
そんなことだったと記憶しています。

実行したこと自体も良い思い出ですが、
それよりも何よりも、私が未だに忘れ得ない、
新鮮に焼き付いている記憶は、
モフィット氏が、
「必要を神が示してくださるよう、静まって祈りましょう」
と導かれた5分間の静まりの時間のことです。

そのとき私は驚愕しました。
なんと、私は「自分の周囲の必要を示してください」と祈ったときに、
はじめて「あること」に気付いたのです。
その「あること」とは、
「自分は、自分の周囲の人の必要どころか、
その近況や状況すら知らない」
ということでした。

私は離れたところに住む祖父母が、
今どんな気持ちで生活していて、
どんな必要を抱えているか知りませんでした。
私は毎日顔を合せている職場の上司の家族構成、
家庭内の悩み、健康上の問題、個人的な葛藤をまったく知りませんでした。
私は自分の隣の部屋に住む人の名前も知りませんでしたし、
自分の教会の牧師が今何に悩んでいるかも知りませんでした。

この5分間が突きつけた「真実」は私の心をえぐりました。
その真実とは、
「自分はいままでクリスチャンとして10年間、
 『愛する』ことが一番大切だと語る宗教に帰依してきながら、
 朝起きてから夜寝るまでの時間の99パーセント以上を、
 『自分のことしか考えずに』生きてきた」
という事実でした。
大げさにいえば心臓が止まりそうになるようなショックがありました。

しかし、あのときのショックこそが、
その後13年間「愛の訓練」を続けるモチベーションになっていますし、
私の人生の変革の始まりでした。

実は、私たちの周囲に「必要」は溢れています。
私たちは「必要の海」のなかで生活していると言って良いです。
職場の同僚は人知れず泣いているかもしれませんし、
近所の人は、明日自殺することを考えているかもしれません。
あなたの親族のなかには身体的な病を抱えた人がいるでしょうし、
あなたの住む町にもきっとホームレスの方がいます。
人間側からのケアがなければ消滅してしまう森林や、
絶滅してしまう種が今この瞬間もありますし、
あなたの教会の牧師は「牧師をやめたい」と、
毎週思っているけれど誰にもそれを言えないかもしれません。

この現代世界に生きていて
「私は大丈夫、必要などない」
などと言える人はほとんどいないと言って良いでしょう。

「必要が見つからない」
というとき、可能性が二つあります。

それは、「自分自身の必要」のことを、
99.9パーセント考えているから、
その心配に心が満たされていて、
透過性のないサングラスをかけた状態になり、
目の前の人の痛みすら分からないとき。

そのときは、「自分から目を離す」
という、「信仰の命がけの跳躍」をしてみましょう。
きっと新しい世界が開けてくるはずです。

注:何らかの大きな病気や問題を抱えている場合は、
 ぜひそのまま安静にしてください。
 むしろ、今はだれかに助けてもらう時期です。
 回復したら誰かを助けてあげましょう。
 神様は重病人に出勤するよう迫るような方ではありません。

もうひとつの「必要が見つからない」可能性は、
「必要がありすぎて特定出来ない」場合です。

そのときは神様に祈りましょう。
私たちクリスチャンは「世の中のすべての問題を解決する」
ために召されたのではありません。
私たちは「神の御心を行う」ために召されました。

10,000個ある必要のなかから、
「神様、今週、私がなすように神様が選んでおられる、
 特定の必要を示してください。」
と祈ってみてください。
そして、「自分にできる一番小さなこと」を、
勇気と信仰をもって実行してみてください。

往々にして、一つの愛の行動が、
次の必要への扉を開いてくれます。
神様からの「新たな愛する力」とともに、、、。
神様は「愛の種を蒔く人」に、
「次の種」を分け与えてくださるのです。



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【Q】「愛の種まきプロジェクト」に共同体として取り組むためには?

2018.05.03 Thursday

+++vol.038 2017年11月14日配信号+++

●【Q2】「愛の種まきプロジェクト」に共同体として取り組むためにどんなことができますか?

A.

共同体でも取り組むことができる「愛の種まき」を、
基本的には個人で行う、というよりも、
本来的に共同体で取り組むようにデザインされた「愛の種まき」ですが、
状況によっては個人でも取り組むことができますよ、
と考えた方が良いかと思います。

「愛の種まきプロジェクト」のもともとのアイディアは、
「If Jesus were Mayor(もしイエス様が市長だったら)」という、
私が現在翻訳中(途中までFVIのホームページで無料講読可能)の、
書籍から取られています。

私はこの本の著者のボブ・モフィット氏に13年前に出会い、
彼とのメンター・メンティー関係のなかから、
過去10年の私の宣教の働きも導かれてきました。

私は10年ほど前にまだ公衆衛生獣医師として市役所に勤めていた時代、
1年半、毎週「愛の種まき」の取り組みをレポートにしてモフィット氏に送り、
それに対してモフィット氏がフィードバックと指導をする、
という個人的なメンタリングを受けました。

その後、小グループで取り組んだり、
私自身がメンター(コーチ)となって、
他の小グループにフィードバックしたり、
妻と共に取り組んだり、様々な形で、
「愛の種まき」に取り組んできました。

現在私は戸田福音自由教会の横山牧師と、
1対1で「愛の種まき」に取り組んでいます。
毎週レポートをやりとりし、フィードバックし合っていますので、
私は今週の横山先生の予定を常に知っていますし、
横山先生のチャレンジしている個人的な「愛の種まき」の内容も知っています。
横山先生もまた、私が今週どこにいて何に取り組んでいるかを知っています。
お互いに報告責任とフィードバックを与え合う、
アカウンタビリティパートナーになっているわけです。
これを始めてから半年以上が経過していますが、
確実に言えるのはもし「アカウンタビリティパートナー」がいなければ、
私も横山先生も最初の2ヶ月(かもっと早い段階)で、
この取り組みをやめてしまっただろうということです。

毎週自分の予定に加えて「他者に仕える」という予定を実行するのは、
楽なことではありません。
「やっと今週の実践が終わった。」と思うと、
すぐに来週の愛の行動の計画を始めます。

「あぁ、しんどいなぁ」と思うことも多々あります。
当たり前です。
「全てを与え尽くしたイエス様に似せられる」プロセスが、
「しんどくないわけがない」ですから。
イエス様も「私に従うのは楽ではない」と、
何度も釘をさしています。

、、、その「しんどいなぁ」の後で、
「やめちゃおうか」と、
「でも、続けよう」の二択を分けるものは、
「横山先生もがんばっているし」という、
仲間の存在の有無です。

そもそもキリスト者のすべての歩みというのは、
「共同体で」なされるように神は意図しています。

アフリカの諺に
「早く行きたいなら、一人で行きなさい。
 遠くまで行きたいなら、一緒に行きなさい」
というものがあります。

もし「遠くまで」イエス様に似せられたいと願うなら、
セルグループ、パートナー、牧師、教会リーダー、離れた場所にいる信仰の友、
あらゆる手段を有効活用し、「一緒に」歩まれることを、
強くオススメします。


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【Q】お気に入りの文具

2018.05.03 Thursday

+++vol.038 2017年11月14日配信号+++



●【Q1】好きな文具・お気に入りの文具

ラジオネーム:北国のぷーさん(男性)
お住いの地域:北海道

Q.

よにでしセミナーに参加しました。
良い機会をありがとうございました。
セミナー後は何気ない日常生活の出来事を
「本当にそうか?」と一段深く考えることが多くなり、
「批判的視点」が少しクセになったような感じです。
今は日常生活のモヤモヤ感を楽しんでいる最中であります。笑

そして俊君のQ&Aコーナー、いつも楽しみにしてます。
どんなシンプルなテーマでも幅広い知識と深い見解で切り込んでいくので、
いつもすごいなぁと思います。
なかでも僕が特に好きなのは「くだらないテーマ」に
真剣に答えているうちにいつの間にか深い話になっているパターンの時です。
なのであえて普通の質問をしてみたいなーと思いました。

【質問】
よにでしセミナーでもらったボールペン、最高です。
シーンを選ばない渋い黒、マットなさわり心地、細めでなめらかな書き味、、、
良いものいただきました。
俊君は好きな文房具・お気に入りの文房具はありますか?


A.

北国のプーさん、ご質問ありがとうございます。
また、よにでしセミナーに北海道から遠路はるばるご参加いただき、
本当にありがとうございました。
北国のプーさんの誠実な人柄と仕事や家族、教会に対する、
真摯な姿勢を観るときに、頼もしく感じ、尊敬の念を覚えます。
食事や風呂の時間に「メルマガ読んでますよー」と、
内容について触れたりしてくれて、本当に嬉しかったです。
日頃あまりそういうのって多くないので。
「あぁ、届く人には届いているんだ(遠い目)」となり、
「また来週も書こう」と思うわけです。

ご質問の件ですが、
まず、よにでしセミナーのボールペンは、こちらですね。

▼参考画像:よにでしセミナー刻印ボールペン
https://goo.gl/yJXzjM

「Yonideshi 2017」と刻印された、
世界で15本しかない限定ボールペン(非売品)です。
これ、かなりいいですよね。
4色ボールペンがついていて、
しかもシャーペンもついている。

ノベルティを考えるとき、
やはり「世にあって弟子である」ことを思い出せるように、
職場で使えるようなものがいいよね、という話になりました。

、、、で、(私が会議後に考えたのも含め)挙がったのは、
1.文鎮
2.しおり
3.タンブラー
4.(最後に)ボールペン

でした。
実は第一候補はタンブラーだったのですが、
値段が高すぎるのと、最小ロットが36個なので却下。
しおりも小ロットだと一個2,000円という高値で却下でした。
最後にボールペンを見つけました。
機能的にも申し分ないし、
しかも、ボールペンって殆どの仕事で使うじゃないか。

ボールペン(シャーペン)をまったく使わない職場って、
日本にあるんでしょうか?
お笑い芸人だって、TV収録のアンケートで使います。
海女さん?
、、、多分「潜った時間や回数の記録」のために使います。
大工?
依頼人のサインをもらうときや、
木に線を引くときに使います。
靴職人?
、、、うん、使います。

ラッパー?
絶対使います。
書きながら確認しないと、
きれいな韻を踏めませんから。

清掃員?
絶対使います。
チェックリストにチェックするときに。

うん、あらゆる職業でぜったい使うな。
ボールペンは。

、、、余談でした。
とにかく、これはいい!
ということであわてて注文したわけです。

いやぁ、文鎮にしなくてよかったぁぁあああぁ〜!
と、織田裕二バリに叫びたい気持ちです。

、、、で、このボールペン以外で、
私の好きな文具、お気に入りの文具について語ってみます。

そうですねぇ。

特にないです(沢尻エリカ以来の衝撃!!)。

、、、というのもアレなので説明しますと、
まず、私は10代〜30代前半までは、
かなり文具に凝りました。
文具マニアとは言わないまでも、
かなりこだわっていた方だと思います。

私が20代〜30代前半のころ一番使った文具は、
2種類あります。
ペンと紙、シンプルです。

1.zebraボールペン

ゲルインクボールペンは各社のものを使いましたが、
zebraのサラサが私には一番合っているみたいです。
今は手帳にくっつける細い筆箱に、
こちらを入れています。

▼参考リンク:サラサ4
http://amzn.asia/byR7UfZ

これはもう生産終了らしく、
価格が高騰しています。

▼参考リンク:サラサ3
http://amzn.asia/63ibTcG

壊れたらこちらを使おうと思っています。
4色が3色になりますが、まぁいいかな、と。


▼参考リンク:サラサクリップ0.4
http://amzn.asia/cxHW3OA

生涯、一番握っている時間が長かった「ペン」は多分これ。
獣医師国家試験の勉強のときも、
市役所職員のときも、
インドにいたときも使っていました。
インドにはこれと「替え芯10本セット」を、
荷物に入れていました。
その頃は人生で一番手書きのノートを使っていたので。



2.コクヨCampusノート

そして、コクヨのキャンパスノートにはお世話になりました。

▼参考リンク:コクヨキャンパスノートB5 100枚綴り
http://amzn.asia/j7Q7gx3

この25歳〜35歳にかけての10年間は、
100枚綴りのこのノートを年間3〜4冊は消費していました。
読書のメモをとったり、人との会話をメモをとったり、
人と会話するときにホワイトボード代わりに使ったり、
会議のメモ、「自分会議」のメモ、
新しいプロジェクトの着想をメモ、
面白いドキュメンタリー番組のメモ、
などなど。

私は「メモ魔」なのです。

、、、という二つを紹介しましたが、
30代後半になって(もうすぐ40代になりますが)、
私はあまり文具にこだわらなくなりました。

お客さんが目の前にいる仕事だったり、
職場で特殊な文具を使わなければならない場合は別ですが、
(以前私がいた職場では「耐水紙」という、
 びしょ濡れになっても書ける紙を使ってました。
 これがすごいんだ。)
特にプライベートな用途で使う場合というのは、
文房具の役割って「知的生産」に尽きると私は思っています。
情報のインプットと情報のアウトプットです。

つまり、「脳を外在化する」のが、
文房具の機能だと思われます。

頭で考えていることを外部に一回出して、
概念操作を加え、新たな着想を得たり、
アウトプットとして言語化、商品化、提案化することが、
文房具の「仕事における役割」だと思います。

陸上選手の足にとってのスニーカーとか、
野球選手にとってのミットにあたります。
つまりあくまで「身体の一部としての脳の補助具」が、
文房具なわけです。

そういった意味では、
パソコンというのは「脳の外在化」に他ならないわけです。
私は30代後半からけっこう「デジタル方向」に、
そういう意味ではシフトしたように思います。
クラウドや同期機能がかなり使いやすくなり、
無理しないでもアナログガジェットに匹敵する
便利さを享受できるようになったのが、
たぶん2013年ごろだったように私は感じています。

なにより「Evernote」の登場が大きい。
私のなかで新型iPhoneなんかよりよほど大ニュースです。
私の知的活動は「Evernote前とEvernote後」に分かれると言ってもいいぐらい。
そもそも、このメルマガはEvernoteがなければ、
始めようと思っていないはずですし、
続けることが不可能です。

1年半前に私が「メルマガやってみようかな」と思ったのは、
2014年ぐらいから付けていた、
自分のEvernoteの「読書メモ」が600冊ぐらい貯まってきて、
「何かこれを発展させてアウトプットしたいなぁ」と、
ぼんやり考えていたところから始まりました。

私は記憶力が良い方ではないので、
読んだ本なんてタイトルすら覚えていないことが多いです。
読んでいるうちに「既視感」を覚えてきて、
なんのことはない、昔読んだことのある本だった、
なんてことは年に何度かあるぐらいです。

しかし、Evernoteに読書メモをとるようになって世界が変わりました。
ある著者の本を買ってきたら、検索バーにその著者の名前を入れます。
そうすると過去に読んだその著者の本がずらっと並ぶ。
そのとき自分が抜粋したセンテンスとともに。

知識の有機的連なりの精度とスピードが格段に上がったわけです。
しばらくは友人と読んだ本について語り合うときに、
その読書メモを使ったりしてたのですが、
しばらくして、「これってもったいないよな」と思った。
これを「社会に還元」しないと、何か悪いことをしているような、
そんな感覚を覚えた。

それで、いろんなことを検討した結果私が選んだメディアが、
メルマガだったわけです。

メルマガだけではなく、
私がやっているもうひとつのブログも、
Evernoteの賜物です。
今は「デボーションブログ」化していますが、
それができるのもEvernoteで毎朝聖書を読んだ記録をしているから。
このブログはちなみに来年ぐらいにデボーションから別の方向に、
シフトすることを考えています。

また、私が様々なところでするメッセージや講演やセミナーも、
Evernoteという「情報の腐葉土」から出てきた産物です。
要するにEvernoteは私のインプットの許容量と精度を上げ、
さらにアウトプットの奥行きやポテンシャルを、
格段に高めてくれたのです。

、、、ですから現在私の使っているデジタルガジェットは、
すべて「Evernoteの補助器具」と言っても良い。
極論すれば私にとってデジタルガジェットは、
Evernoteというエコシステムを補強する道具なのです。

紹介していきます。

▼参考リンク:レッツノートRZ4
https://goo.gl/uW9tzM

(*ビックカメラなど店頭ではレッツノートって、
 20万超えててビックリしますが、
 ネットショップで「1年型落ち」を買えば、
 12万円ぐらいに収まります。
 もちろん安くはないですが、だいたいMacBook新品と同じぐらい、
 という、穏当な価格になりますので購入をご検討の方は御参考に)

レッツノートは2007年に初めてR8というモデルを買い、
それから10年、「逃れられない」ほどに使い倒しています。
現在「三代目」。

デジタルガジェットって、お金をけちって、
その結果短期間に買い換えを繰り返すよりも、
良いものを買ってそれを長く使った方が、
あらゆる意味でコスパが良いです。
こういうところで1万円、2万円をケチって、
早めに寿命が訪れて、次の安物を買う、というのは、
「安物買いの銭失い」の典型ですね。
私も経験がありますが。

FVIは零細団体なのでパソコンは経費では落ちず、
全部、自分の家計から自腹購入です。
(過去に一度「私のPCのために」という名目で献金してくださった、
 守護天使のような人がかつていたときは例外ですが。
 本当に天使だったのかもしれません。)

話がそれました。
自腹だから、というのもおかしいですが、
とにかくパソコンに無駄なお金は使えません。
だからこそ、良いものを買います。
イヴォン・シュイナードの言葉を借りれば、
「貧乏人には安物を買っている余裕などない」のです。

レッツノートは、ホントに外さないです。
現在使っているRZ4は、
過去最高の使い心地かもしれません。
とにかく軽いです。
初代iPadより軽いんですから。


▼参考リンク:Sony7インチタブレット
http://www.sony.jp/tablet/products/Z3/

私はスマホを所有していませんが、
「通話のできないスマホ」としてタブレットを所有しています。
Evernoteの真価を発揮するのが、
この「タブレットとPCでの同期」ですね。
PCで入力した読書メモ、映画メモ、レシピ、デボーション等を、
出先で見られるコイツは縁の下の力持ちです。


▼参考リンク:ポメラ
http://www.kingjim.co.jp/pomera/dm100/

去年、自分への誕生日プレゼントとして買ったのがこちら。
「入力マシン」です。
簡単な話「小さなワープロ」ですね。
喫茶店などで長時間執筆作業をするとき、
パソコンだとどうしても、
メールチェックしたりヤフーニュース見たり、
ネット上の面白くもない記事を読み始めたり、、、
という誘惑に遭遇しがちです。

これはプロの作家とて同じらしく、
佐藤優や羽田圭介など、
多くの「物書き」がポメラの所有を公言しています。
「書くことしかできない」状態に自分を追い込む道具として、
ポメラは活躍してくれます。

書いたテキストはもちろん、
あとでEvernoteにぶち込みます。


、、、とここまで、
デジタルガジェットについて語ってきましたが、
デジタルだけでは当然不十分です。
グーグルカレンダーのスケジュール管理は便利ですが、
これに一本化する勇気はまだ私にはありませんし、
Evernoteは便利ですが、
複雑な概念操作を図式化したり、
マトリックスを作ったり樹形図やロジックツリーを描く、
というときに、手書きにまさるものは、
あと10年は出てこないと私は踏んでいます。

どれだけ技術が進んでも、
「紙と鉛筆(ペン)」は、
やはり最強の文具なのです。

そういった「デジタルを補完アナログ」として、
私はこちらを携帯しています。

▼参考リンク:コクヨ・キャンパス手帳(セパレート)
http://www.kokuyo-st.co.jp/stationery/campusdiary/lineup.html#campus_diary

これでスケジュール管理をし、
同じバインダにとじてあるA5のリングノートに、
「礼拝の説教のメモ書き」をし、
「様々な会議のメモ」を書き、
そして「自分会議」をします。

さらに「これは」というノートは、
Evernote(出た!)のカメラ機能で撮影し、
それを「文書形式で保存」しておきます。
そうするとあとで検索できる。

すげー時代です。

、、、というわけで、
私の文房具の旅というのは、
「デジタルとアナログの弁証法」であり、
そして知的生産にまつわる物語、なわけです。

、、、そういった、
「知的生産性」に関する良書を、
詳述しませんが何冊かご紹介します。
私の上記の「実践」は、
こういった本からの応用です。

▼参考リンク:「あなたを天才にするスマートノート」岡田斗司夫
http://amzn.asia/3LI0JDt

▼参考リンク:「知的生産の技術」梅棹忠夫
http://amzn.asia/2eCw0Om

▼参考リンク:「僕らが毎日やっている最強の読み方」池上彰×佐藤優
http://amzn.asia/7gxGikR


、、、御参考に。


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【Q】「神様の方法」とは?

2018.04.26 Thursday

+++vol.037 2017年11月7日配信号+++


●【Q2】「神様の方法」とは?

「自分の方法」ではなく「神様の方法で」とありますが、
どうやってそれが「神様の方法」だと判断すればいいでしょうか?
祈っていれば確信が与えられるのでしょうか?
確信が持てないうちは、まだ実行に移さない方がいいですか?


▼▼▼陣内からの回答:

あらゆる「神の導き」に言えますが、
「100%の確信」というものは基本的にありません。
私も「100%確信して」何かを行ったことは一度もありません。

イザヤ・ベンダサン(山本七平)の「日本人とユダヤ人」によると、
ユダヤ人は多数決の際「全員が一致」した場合、
その結論は棄却されるそうです。
(全会一致を良しとする日本の合議とは真逆ですね)
それは彼らが「全能なのは神だけ」という前提を持っているため、
人間全員が一致するような結論は何か間違っているに違いない、
と考えるからです。

同じように「100%御心だと確信していること」というのは、
不完全な私の「主観」が多分に反映されていることが濃厚ですから、
疑ってかかった方が良いです。

では何が「神の御心なのか?」。

それは、小さな決断をするときでも、
「自分はこうしようと思いますが、
 神様はどう思われますか?」と祈る習慣を持つこと、
それ自体は、間違いなく神の御心です。

神の御心というのは個別具体的な「正解」を与えるものではなく、
「私たちの生き方」という大きなスタンスにこそあります。
そして、ひとつひとつの愛の実践をする前に、
「これは神様の御心ですか?
 それとももっと別の方法を神様は用意しておられますか?」
と神に聞くということ自体が、神の御心に沿って生きる訓練です。

「完璧に確信しなければ何もしない」のではなく、
「こう語られているような気がする」ことをやってみてください。
そうやって試行錯誤する中で、
「トライアンドエラー」を繰り返して行くと、
3割だった「打率」が7割になり、何年も続ければ9割になるかもしれません。
しかし私たちは人間ですから99%はあっても100%はありません。
「自分が100%」だと思ったときは、
逆に「何かおかしいのでは?」と思いましょう。


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【Q】「愛の実践」には気持ちが伴わなくて良いの?

2018.04.26 Thursday

+++vol.037 2017年11月7日配信号+++


▼▼▼愛の種まきプロジェクトとのコラボ企画▼▼▼

先月末より埼京のぞみチャペル(戸田市)の、
20周年の取り組み、
「愛の種まきプロジェクト」に、
微力ながらご協力させて頂いています。
プロジェクトチームの皆様の主催する、
「愛の種まきプロジェクトメールマガジン」に、
私も寄稿させて頂いており、
私は「Q&A」コーナーを担当しています。
「隣人を愛するための小さな愛の実践」に関して、
寄せられた様々な質問に私がお答えする、
という格好になっていまして、
プロジェクトチームのご了承をいただいて、
今週から数週間にわけて、
「読むラジオ」にその原稿を転載させていただきます。


●【Q1】「愛の種まき」に、気持ちが伴わなくてもいいの?

自分が苦手なタイプの人に思い切って行動を起こしてみた
(孤立していたので声をかけてみた)のですが、
正直、心は伴っていませんでした。
表面的に思えるのですが、それでもやった方がいいのでしょうか?
また、相手の反応にイラッときてしまって、
喜びどころか「やるんじゃなかった・・・」と思ってしまったのですが、
何が間違っていたのでしょう?


▼▼▼陣内からの回答:

スティーブン・コヴィーの「7つの習慣」に、
「愛は動詞である」と書かれています。
現代社会は映画も音楽も小説も、
「愛は感情である」という前提で作られていますから、
私たち信仰者も知らないうちにその影響を受けがちです。
しかし、コヴィー氏が言うように「愛は動詞」です。

もし愛が感情であるなら、
イエス様が言われた「敵を愛しなさい」という命令は、
論理的に破綻していることになりますが、愛が動詞であると考えれば、
「敵を愛する」という命令は実行可能です。

ですから質問者様の実践は何も間違っていません。
それどころか、もっとも神様から喜ばれるタイプの実践です。
というのは、愛の行動の結果「感謝された」としたら、
その喜びは神に従った喜びなのか、
人から認められた喜びなのか不明瞭だからです。
しかし何も肯定的な応答が返ってこなかったとしても、
「神様に示された愛の行動を行えた」ということを喜ぶとしたら、
それはイエス様が味わわれた喜びと同じだからです。

「Hurt people hurt people」という英語のフレーズがあります。
「他者を傷人つける人というのは傷ついた人なのだ」というような意味です。
声をかけた相手が「苦手なタイプ」であり、
その反応も「人をいらっと」させるものであるのは、
その人が「傷ついた人」だからである可能性が高いです。

イエス様は「金持ちでなくお返しのできない貧しい人に施しなさい」と、
弟子たちに教えられましたが、
感情の世界で「金持ち」とは誰からも愛される「感じの良い人」であり、
感情の世界で「施しのできない貧しい人」とは、
「できれば普段あまりお近づきになりたくないような人」です。

質問者様の今回の実践は、そのような意味でも、
イエス様の御心に沿う素晴らしい実践です。
相手から「ありがとう」が返ってこないときは、
天の父からその人の代わりに「ありがとう」が発せられています。
その声に耳を澄ましてみましょう。
「人からでなく天からのアファメーション(承認)」
が聞こえるようになると、人生が変わります。



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【Q】textが添付される?

2018.04.19 Thursday

+++vol.036 2017年10月31日配信号+++


●【Q】テキストが添付される?

ラジオネーム:のりボー(男性)
お住いの地域:東京都

Q.

メルマガ添付のtextは何に使うのでしょうか?


A.

ちょっと今回は実務的なことで、
のりボーさんから上記のような質問が届きましたので、
取り上げさせていただきます。

▼参考リンク:hetemlインフォメーション
https://heteml.jp/info/detail/id/1697

基本的にこのメルマガに添付ファイルを付けることはありませんので、
解凍が必要なファイルなどがメルマガに含まれていたら、
それはスパムメールであって偽物ですので、
決して開かないでください。

もしくはメーラー(Outlookなどのメールソフト)の設定上、
ある一定量のメールやHTML形式のメールの場合、
Textファイルで添付されるというような仕様があるのかもしれませんが、
すみません、具体的にそのようなことがあるのかどうか、
といったことは把握していませんので、
ご自身でお調べになっていただけますと幸いです。

もうひとつ、技術的な質問を頂いたついでなので書きますと、
何度も「入会」される方がいらっしゃいます。

ちょっとその意図が私にも分かりかねるのですが、
可能性としては
1.退会したい
2.入会したがメールが届かない

という二つの可能性があります。
退会したい場合は、
フォームから「退会する」というチェックボックスを押して、
お送りください。
(入会フォームと退会フォームが同じで、
 多少ややこしくなっているかもしれませんので、
 混同されていたらすみません)

また、入会したがメールが届かないと言う場合は、
特に携帯のドメインで多い事例ですが、
・URLのリンクがあるメールを拒否する
・パソコンのドメインからのメールを拒否する
・長文のメールを拒否する
などが初期設定になっている場合がありますので、
そういった設定を解除していただく必要があります。

まぁ、届いていない人はそもそもこれを読めないわけなので、
「何言ってんだ」という感じですが笑、
周囲に届かない人がいたら教えてあげてください。

ご理解のほど、よろしくお願いします。



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【Q】ベスト映画を教えて下さい

2018.04.12 Thursday

+++vol.035 2017年10月24日配信号+++

●【Q】ベスト映画を教えてください

ラジオネーム:一番搾り(男性)
お住まいの地域:福岡県

Q.

陣内さんこんにちは。
趣味が映画鑑賞の40代会社員です。
唐突ですが陣内さんのなかで「ベスト映画」は何ですか?
「ベスト映画」をいきなり聞くというのは愚問というのは知っていますので、
「今までに2回以上観た映画」を中心に教えていただけますと嬉しいです。
ちなみに私が2回以上観た映画には、
「ファイトクラブ」
「パルプフィクション」
「羊たちの沈黙」
などがあります。


A.

一番搾りさん、ご質問ありがとうございます。
私が今までに2回以上観た映画は、
かなりの本数があると思うのですが、
パッと思いつくやつを5本挙げます。

1.スタンド・バイ・ミー

これは私の「人生ベスト映画」かもしれない。
何度観ても良いですね。
6回ぐらいは見ているんじゃないかな。

見るたびに思います。
「この映画は完璧だ」と。

上映時間はけっこう短くて確か90分ぐらいです。
この映画は足すことも引くこともできません。
足したり引いたりした人はのろわれます(ウソです)。
聖書の「黙示録」のくだりみたいですね笑。

説明不要ですが、素晴らしい。
何もかも。
「あの少年時代の友情、
 あどけなさ、輝き、無垢さ、、、」
英語ではこれを一言で、
「アドレセンス」というのですが、
その「アドレセンス」を、
完璧な形で真空パックしたのがこの映画です。

かつて(今もあるのかな?)、
「富士山山頂の空気が入った缶詰」という、
意味不明な商品が売られていたことがありましたが、
スタンド・バイ・ミーは、
「少年時代のアドレセンス」を、
本当に缶詰にしてしまった奇跡の作品です。

今は亡きベン・E・キングの歌う主題歌も、
完璧です。

原作者スティーヴン・キングが、
「人物設定」をした時点でこの映画の勝利は決まっていた。

ぜんそく持ちの主人公はちょっと体が弱いですが、
頭が良く文学的センスを持っていて、
後に小説家になります。
ガキ大将は腕っ節が強く大人になると警察官になります。
(そして彼の後日談には泣けます。)
近眼で乱視の「ちょっとヤバイ奴」は、
家庭がめちゃくちゃ複雑で虐待を受けています。
太っちょのいじめられっ子は、
頭も性格もあまり良くないけど憎めない奴です。

「ジャイアン、のび太、スネ夫、しずかちゃん」
というカルテットに匹敵する、
パーフェクトバランスの人物設定です。
あの映画において「死体を見に行く」とか、
実はどうでも良いのです。

この4人が一緒に旅をして、
トラブルに遭遇し、
じゃれ合い、ふざけあい、
夜には互いに弱さを告白し合い、
そして旅によって「大人になる」という、
イニシエーションを経験する、
そういう「巡礼の旅」なのです。
それを疑似体験できる名作です。

メルマガ読者でスタンド・バイ・ミーを未見の人がいたら、
その人は人生を損している、もしくは、
「まだそんな楽しみを先に取っておいている」
という意味で人生を得していると思いますので、
ただちに鑑賞しましょう笑。


▼参考リンク:「スタンド・バイ・ミー」
http://amzn.asia/3VK7Br7



2.素晴らしき哉、人生!

これも4回ぐらいは見ていると思います。
家にDVDが置いてあるだけでなく、
プレゼントできるように複数所有しています。
この映画はクリスマスの日に観ると格別です。

そもそもこの映画を知ったのは、
以前行っていた愛知県の教会の「のぶさん」という牧師が、
毎年クリスマスの日に教会でこの映画の上映会をしていて、
それに参加したのがきっかけです。

のぶさんはこの映画が好きすぎて、
誰ひとり参加者がいなくても意に介さず、
教会のプロジェクタで礼拝堂にこのDVD映像を投影し、
ひとりで涙を流しながらこの映画を観る、
そうクリスマスを過ごすと決めていたのです。

私もあるとき「のぶさんがそんなに言うなら見てみようじゃないか」
と「仕方ないから付き合う」つもりで上映会に参加しました。

、、、結果、まんまと泣きました。

「人間が生まれてきた意義」について考えさせられ、
そしてそれを肯定する、人生賛歌です。
同じテーマでは黒澤明の「生きる」も良いですが、
私はこちらのほうが好きかな。

金融関係の仕事をしている人は、
この映画は余計にぐっと来るのではないでしょうか。
温かい手で「生きろ」と背中を押してくれるような、
そんな映画です。

この映画も未見の人がいたら、
人生を損している不幸な人か、
楽しみがまだ残されている幸せ者のどちらかなので、
DVD(安!!)を購入してただちに見ましょう。

▼参考リンク:「素晴らしき哉、人生」
http://amzn.asia/bB0QPIl



3.ストレイト・ストーリー

デヴィッド・リンチの名作です。
「ゆっくりと、おじいさんが、
 別のおじいさんに会いに行く」
という映画です。
(改めて文字化すると、
 なんなんだこの映画は、という感じですが笑)
筋書きだけ言うと死ぬほどつまらなそうなのですが、
これがいいんだ。

病気中、「音が派手だったりストーリーの起伏が激しかったり、
元気でバリバリ仕事している人の話が出てくる映画」は、
神経に障って落ち込みが激しくなるので見られませんでしたが、
この映画は「セラピー」のごとく、繰り返して見ました。

DVDを買って。
だから10回以上は見ています。

主人公の老人「アルヴィン」の表情と、
アメリカの田園部の自然の風景を見ているだけで、
なんとも言えない幸せで穏やかな気持ちになれます。

先ほど「セラピー」と言ったのはただの比喩ではありません。
主人公は州をまたぐ120キロメートルの「巡礼の旅」を、
改造した芝刈り機で達成するのですが、
その途中、彼の前には家出中の不良少女、
日々の生活に疲れ切った働く女性、
田舎の日常に満足した中産階級の人、
第二次世界大戦のトラウマを50年以上引きずる老人、、、
などアメリカの「群像の一部」としての何人かの個人が、
アルヴィンと出会います。

アルヴィンはとくに気の利いたことを言うわけではありません。
ただ、そこにアルヴィンとして存在するだけです。
しかし不仲の兄弟と会って和解するために、
芝刈り機で巡礼の旅をするアルヴィンじいさんに「触れ」るとき、
人々は何かを発見していきます。
それはとても小さな変化なのだけど、
重要な変化です。

「芝刈り機で旅をするおじいさん」という、
「日常ならざるものの存在」が、
「日常のなかにスタックした人々」を、
文字通り轍(わだち)から外し、
本来の道筋に戻していくのです。

この映画を未見の人は人生を、、、、
もういいか。

見ましょう。


▼参考リンク:「ストレイト・ストーリー」
http://amzn.asia/5koBq3F



4.エンディング・ノート

これはすごかったですね。
人生ベスト号泣映画です。
涙腺崩壊とはこのことです。

監督は砂田麻美さんといって、
是枝裕和監督の「弟子」をしていた人です。
ですからこの映画には是枝監督も少し関わっています。

ドキュメンタリー映画です。
内容は、、、言えません。
とにかく観ましょう。

この映画を観て泣かない人って、
たぶん日本には蛭子能収と東野幸治の二人だけだと思います笑。
もしこれを見て泣かなかったら、
サイコパスの資質ありと考えて見なして大丈夫です。

▼参考リンク:「エンディングノート」
http://amzn.asia/9b4xRGw


、、、という感じで、
複数回観た映画を4つご紹介しました。
他にも、

5.シン・ゴジラ
6.パーフェクト・ワールド
7.バッファロー66’

というラインナップを書いたのですが、
今日は文字数の関係で割愛!
全部名作です!

質問者様は映画好きなので、
全て観ているかもしれませんが、
もし未見のものがありましたら、
観て絶対に損しない作品ばかりですので、是非。

御参考に。



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【Q】キングオブコント2017について

2018.04.05 Thursday

+++vol.034 2017年10月17日配信号+++


●【Q】キングオブコント2017について

ラジオネーム:お笑いウォッチャー(男性)
お住まいの地域:三重県

Q.

陣内さんこんにちは。
いつも面白い文章をありがとうございます。
私は地方在住のお笑い好きで、
年に一度はお笑いライブに行きます。
職場には私と同じ熱量でお笑いのことを語れる人はいませんので、
陣内さんが時々お笑いを語ってくれると、
「同志」に出会った気持ちになり嬉しいです。

私も「ダウンタウン信者」で、
過去の「ごっつええ感じ」のDVDを未だに見ていますし、
「ビジュアルバム」も持っています。
一番好きな若手の芸人はちなみに、
「笑い飯」です。

、、、さて、お笑い知識人の陣内さんに質問ですが、
今年のキングオブコントはご覧になられたでしょうか?
もし見られていたら、陣内さんの目から見た、
キングオブコント2017の「総評」をお聞かせいただけたら嬉しいです。


A.

お笑いウォッチャーさん、
ご質問ありがとうございます。
私も同志に出会えて嬉しいです笑。
メルマガをやっていて良かった、と思います。

キングオブコント2017、もちろん観ました。
「にゃんこスターの衝撃」ばかり語られていますが、
今回の大会はそれ以外にも見所が沢山あったと思います。

▼参考リンク:キングオブコント2017
http://www.king-of-conte.com/2017/

まず、優勝した「かまいたち」に関しては、
文句なしですね。
「完全優勝」と言っていいと思います。
文句なしに一番面白かった。
すでに大阪では売れっ子の彼らはトーク力もあるし、
東京でもちゃんと売れるのではないでしょうか。

一発目のネタをやった後の採点後、浜ちゃんとの絡みの、
「え、、、ごめんなさい。
 まだ状況がよく分かってないんですけど、
 、、、これは『優勝』ということでいいんでしょうか?」
→浜ちゃん殴る
の絡みとか最高でしたね。

「わらふじなるお」の「ダル絡み」とは天地の差ですね。
ああいうウザい絡みは観ていていやーな気分になります。
あとで浜ちゃんにしこたま怒られたらいいのです笑。

ちなみに私は「かまいたち」が去年やった「給食費」というネタが、
一番好きです。
(私の妻もこのネタが一番好きです)

▼参考動画:かまいたちネタ「給食費」
https://youtu.be/hE3ZdZ7SLHs

、、、あと、あまり誰も言わないですが、
今回のキングオブコントの最大の功労者は、
アンガールズだと私は思っています。

アンガールズなんて、もうテレビに出まくっているわけだし、
ああいう賞レースに出ることは、
「ハイリスクローリターン」なわけです。
だだスベりするかもしれないし、
同じ事務所の後輩に完膚なきまでに負ける可能性もある。
良いことなんて1つもないわけです。

でも、彼らが出て、なおかつちゃんと笑いを取って、
大会を盛り上げたことで、今回の大会が「締まった」わけです。
バナナマンの設楽さんもラジオで、
アンガールズの功績を指摘していました。
バナナマンも10年前にキングオブコントに出ていますから、
そういう実感はことさらにあるのでしょう。

あと、毎回面白いなぁ、、、と思う、
キングオブコント常連も面白かった。
「アキナ」のサイコパスネタも面白かったです。
審査員では松ちゃんと設楽さんがこのネタにかなり高い評価をしていましたが、
その理由は彼らもまたサイコパスコントの作り手だからです。
松ちゃんなら「キャシー塚本」がいるし、
バナナマンのライブなんて、「サイコパスの見本市」です。

あと、「さらば青春の光」は毎回面白いですね。
彼らは芸能事務所に所属せず、
スタンドアローンで芸能活動をしている猛者で、
「お笑いに魂を売った」がごとく、
全国ライブツアーを毎年敢行して、
ネタを書きまくり、場数を踏みまくり、
腕を磨きまくり、賞レースでも毎回爪痕を残しています。
道場に所属せず野山で腕を磨いた宮本武蔵のようでカッコいいです。
「さらば青春の光」の森田の性格は最悪で、
「クズ人間」ということで有名ですが笑。
天は二物を与えないわけですね笑。

、、、キングオブコント2017には出ていませんが、
あと2、3年で確実にブレイクしそうだと思うコント師を挙げるなら、
私は「しゃもじ」「タイムマシーン3号」「ジェラードン」「ネルソンズ」
あたりに注目すべきだと思います。

先日「しゃもじ」の沖縄弁のネタを観て、
久しぶりに1人で声を出して笑いました。

、、、御参考に(?)



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【Q】ミスチルのマイナー曲

2018.03.29 Thursday

+++vol.033 2017年10月10日配信号+++


●【Q4】ミスチルのマイナー曲

ラジオネーム :ぼこ (男性)
お住いの地域:東京都

Q.

いつも愉悦に興じる空間として
拝読している東京在住のサラリーマンです。

陣内さんの中で, Mr childrenのマイナーな曲で挙
げるとすればどの辺りでしょう。
因みに私はSunrise, 掌, ポケットカスタネット,
ロードムービー, arrive, another mind, 旅人, fanfareあたりです。
これらの歌詞の中には時代を解く意味深なものが
あるように思います。よろしくお願いいたします。


A.

ぼこさん、ご質問ありがとうございます。
文面から拝察するに、相当にミスチル好きですね。
私も好きですので、ぼこさんとは小一時間、
この話題で盛り上がれそうです笑。
ぼこさんが挙げられた曲目のうち、
another mindは知らなかったです。
(多分聞いたことあるけど認識していない。)
ぼこさんの方が詳しいかもですね。

ミスチル好きな人って、
3種類ぐらいに分かれる気がします。
「クロスロード」とか「イノセントワールド」の初期が良かった、
という人、
「終わりなき旅」「Everything」あたりの中期が好きな人、
そして、
「放たれる」「365日」などの、わりと最近のミスチルが好きな人です。
なんか、「村上春樹論」とか、
「ドストエフスキー論」みたいですね。
それだけミスチルはキャリアが長いということなのですが。

私はちなみに「中期」が好きです。
最近のミスチルも聴きますが、
最高の名盤は「深海」か「ボレロ」の2枚だと思っていますので。

「深海」の、
「So Let's Get Truth」とか、
「ボレロ」の、
「タイムマシーンに乗って」「ALIVE」は、
めちゃくちゃ好きですねぇ。
「キングオブJ-POP」のミスチルが、
ポップどころか「実存的苦悩」みたいな袋小路で迷っていたあの時期は、
桜井和寿の健康には良くなかったのでしょうが、
聴く人々には滋養に満ちた「文学的果実」をもたらしたと思っています。

「侵略の罪を 敗戦の傷を あざ笑うように、
 足並みそろえて 価値観は崩壊していく」(byタイムマシーンに乗って)とか、
ミュージックステーションで歌えないレベルですから笑。
今なら自民党の幹部から怒られてお蔵入りになると思います笑。
テレビ局の社長の首が飛びます笑。

ミスチルが上手なのは、
「団塊ジュニア以降の世代の、
 実存的苦悩をいったん引き受けて、
 それに時代的な意義づけと色づけを行い、
 合気道みたいな形で最後に、
 『希望(めいたもの)』に昇華する」
という「職人芸的な手際」ですね。
「詩人」だからこそできる、
他の人に真似できない芸当だと思います。

10年ぐらい前にロッキン・オン・ジャパンという雑誌で、
「中島みゆきの正統な継承者は桜井和寿だ」って書いてあって、
なるほどねぇと感心したのを覚えています。

昨年ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランは、
日本だと中島みゆきと吉田拓郎と松任谷由実と、
長渕剛と桑田佳祐と大滝詠一を合せたような存在です。
「時代を代弁する詩人」という意味で、
そういった世代のミュージシャンたちがいました。

現在の日本の「詩人性」を引き受けているのは、
ミスチルでありBUMP OF CHICKENであり椎名林檎であり、
RADWIMPSであり宇多田ヒカルです。

5年ほど前から特に、
病気になった影響もたぶんあるのですが、
私は邦楽をあんまり聴かなくなりました。
特にミスチルより新しいやつは殆どキャッチアップできてません。

RADWIMPSはまだギリギリ「意味が分かり」ますが、
KANA-BOONとか、
セカイノオワリとか、
ゲスの極み乙女とか、
マジでよく分からん。
全部やたらとキーが高いし。
(おっさん全開な意見ですみません。)

、、、でも、この夏頃から
「クリープハイプ」はいいな、
と思って聴き始めました。
あれもイカれたぐらいキーが高いのですが、
聴いてると高いだけじゃない味わいがある。
ヴォーカルの尾崎世界観の書く詩は文学的味わいに満ちています。
「百円の恋」という映画の主題歌を聴いてから彼らに興味を持ち、
尾崎世界観の書いた小説も読みました。

彼らはなかなかの逸材なのではないか、
と私は思っています。

、、、あと、
ミスチルのマイナー曲、他にも思い出しました。
「独り言」「1999年、夏、沖縄」
「fake」「REM」あたりも好きです。

それと「ファスナー」も名曲だと思います。
スガシカオはこの曲を聴いて「やられた!」と思った、
とどこかに書いていました。
ぼこさんは恐らくご存じかと思いますが、
後にスガシカオのアルバムの中で、
桜井和寿とスガシカオのデュエットで、
「ファスナー」を歌っていますね。
あれも良いです。

「隔たり」という歌も好きです。
歌詞はやたらと生々しくエロいですが笑、
メロディーは甘くて美しい。

それから「SENSE」というアルバムに入っている、
「ロックンロールは生きている」と、
「擬態」は良い曲だと思います。
「擬態」もスガシカオがブログで、
「すごい曲」と言っていたのを読みました。
桜井さんとスガシカオはお互いに新しいCDが完成すると、
無言でお互いのポストに入れておく間柄だそうです。
なんかほほえましいですよね。
アルバムの一曲目(イントロの次だと二曲目)は、
基本的に名曲揃いですよね。

「It's a wonderful world」収録の、
「one two three」も良いですね。
アントニオ猪木の「道」をサンプリングするあたり、さすがだし、
映画「ショーシャンクの空に」への愛も感じます。
15曲目の「It's a wonderful world」も好きです。

桜井和寿は異常に器用で、
あるときは桑田佳祐の、
「音節をこれでもかと詰め込み、
 子音を基調として日本語が英語に聞こえる」
歌い方をするし、
あるときは長渕剛になりきれる。
(so let's get truthは完全に長渕です)
あと、吉田拓郎にもなれます。
「友とコーヒーと嘘と胃袋」は、
完全に吉田拓郎です。
多分意図的に「オマージュ」としてやってるのでしょうが、
ああいうことをできるミュージシャンってあまりいないと思います。

、、、というミスチル、J-POP論でした。
J-POP論、面白いね。
またやりたいです。


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