【Q】傾聴について
2020.03.17 Tuesday
第113号 2019年11月12日配信号
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■2 Q&Aコーナー
皆さんからお寄せ頂いた質問にお答えするコーナーです。
日頃の悩み、疑問、今更誰かに聞けないギモン、、、、
質問の種類は問いません。お気兼ねなくご質問をお寄せください。
ご利用は下記に基づいてご利用いただけると幸いです。
【Q&Aについて】
▼全てのご質問にお答えすることはできません。予めご了承ください
▼いただいたご質問は、ブログ・FVIメディアルームに掲載される可能性があります
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※大変お手数ですが一つの1メール1質問を原則とさせてください。
ご協力宜しく御願い致します。
※頂いたメールはすべて目を通しております。
陣内俊への要望やメルマガの感想、激励などももちろん大歓迎です!
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●【Q】傾聴について
ペンネーム:記入なし(匿名希望)・女性
Q.
陣内さんこんにちは。
メルマガやPodcastで勉強させていただいています。
いつも貴重な情報をありがとうございます!
今回は、傾聴について教えていただきたくメールしました。
以前、陣内さんのメルマガで「聞き屋」の取り組みを知り、
自分も周りの人に傾聴を実践したいと思いました。
しかし、知り合いが相手だと自分が不快になることがあり、
難しく感じます。
例えば、相手の話の中で、
自分の知り合いや親しい人の批判や悪口が出ると、
怒りや悲しみを感じます。
また、自分も相手と一緒に取り組んでいる活動について
批判や文句を言われると、
まずは自分の責任を果たすべきなんじゃないのと思い
イライラしてしまいます。
話を聞くことで、
相手がスッキリした表情になることもあるのですが、
聞いている自分は気分が悪く、
何年経っても、思い出して嫌な気持ちになることがあります。
聞き屋のルールで、
「教えない」「裁かない」があるとのことですが、
批判されたり悪口を言われた人の弁護をしてはいけないのでしょうか。
また、相手の無責任な態度を指摘するのもよくないのでしょうか。
「傾聴」と、「言いたいことを言い合う普通の会話」は、
使い分けるべきなのでしょうか。
アドバイスをいただけるとうれしいです。
よろしくお願いします。
A.
ご質問ありがとうございます。
いくつかのポイントに整理して回答していきます。
まず、傾聴と普通の会話を分けるべきか?
「傾聴」と、「普通の会話」は、
分けて考えるべき、と私は思います。
聖書には、
「相手の話を良く聞く」ことが書かれています。
ヤコブ1:19
「私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。
人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、
怒るのに遅くありなさい。」
これですね。
しかし、同時に「率直に語る」ことも書かれています。
エペソ4:15
「むしろ、愛をもって真理を語り、
あらゆる点において、
かしらであるキリストに向かって成長するのです。」
箴言27:6
「愛する者が傷つけるのは誠実による。
憎む者は多くの口づけでもてなす。」
、、、あらゆる真理は「相補的」なので、
「聞けば聞くほど良い」わけでもなければ、
「語れば語るほど良い」わけでもありません。
「聞くのに時があり、語るのに時がある」わけです。
「傾聴ボランティア」や、
「カウンセリングルーム」、
もしくは、相手が、
「今から話すけど、
ただ聴いてもらいたいだけなんだ。
答えを求めてるとかそういうわけじゃなく。」
と申し出てきて、あなたが、
「OK、じゃあ聞くね」というやりとりがあるような、
「聞くロール(役割)」と「話すロール」が、
はっきり分かれている場合もあります。
しかし、そういった特殊なケースを除きますと、
基本的に聞く役割・話す役割というのは、
会話のなかで振り子が振れるように流動的なわけです。
サッカーやラグビーの「ポゼッション」のように、
自分が聞いている役割のときもあれば、
相手が聞いている役割のときもある。
ちなみに「会話が上手な人」というのは、
「今どちらにボールがあるか」を、
自覚的に会話をしていて、
このバランスの取り方がうまい人です。
そういう人と会話をしていると、
「なぜか理由は分からないが心地よい」。
そして、「あの人とまた話したい」となる。
「どちらにボールがあるか分かってない人」って、
相手が話している(相手にボールがある)のに、
突然「オフェンス」を始めちゃうんですよね。
「いや、ボール2個になったよ!」っていうね笑。
喫茶店オーナーの、
「回転率悪くなるんだけどなぁ」という憂慮など、
まったく意にかけず、
1杯のコーヒーで何時間も何時間も、
ずーっと大ボリュームでしゃべってる、
4、5人の「おばちゃんの群れ」ってあるじゃないですか。
あれって何話してるのか、
一時興味があって聞いてみたんですよね。
そしたら、ボールが5個ありました笑。
全員が自分が話したいことを話し続けている。
まぁ、スナックのカラオケみたいなもんですわ。
全員が気持ちよく話して、
誰も互いの話を聞いてないっていうね笑。
あれはあれで、合意のもとにやってるんで、
全然良いんです。
カラオケと同じように、
心のデトックスが出来て、
非常に精神衛生に良い
(と思う。私は未経験なので分からないけど。)。
猿の毛繕いと同じで、
お互いをケアーしあっているわけです。
ウィン&ウィンの関係です。
まぁ、私みたいな人間がその中に入ったら、
精神的サンドバックになり、
3日は脳しんとうから立ち直れないと思いますが。
おばちゃんの話で脱線しました笑。
「ボールがどこにあるか意識できてない」人というのは、
相手がまだボール持ってるのに話し始めます。
相手の話がゴールに到達するのを待てないし、
自分の話にもゴールがありません。
「相手へのパス」で会話って終わるのがきれいなのですが、
そういった人の「吐露」はどこにも到達しない。
「あれ?なんでこの話してるんだっけ?」
みたいなタイプです。
自分の会話に、自分で迷子になってるわけです。
「俺に聞くなよ」以外の答えが見つからないわけです。
さて、そのような「会話のルール」といいますか、
「ボールのポゼッション感覚」を踏まえた上で、
では、傾聴が上手な人はどういう人か、
ということになるわけですね。
実は先ほど、
「聞くのに時があり、話すのに時がある」
と言いましたが、
実は「聞くのが得意なタイプと、
真理を直言するのが得意なタイプ」の、
2タイプがいると考えないほうが良いと私は考えます。
どういうことか。
聞くことと話すことは、
お互いが反する概念ではなく、
お互いに相補的な概念だからです。
質問者様が、「何かアドバイスをしたくなる」
というとき、実はそのためには、
「聞き上手である」ということが必要なのです。
質問者様のケースには、
もしかしたら当てはまらないかもしれませんが、
一般論として多くの場合、
「一方的に聞きすぎているからアドバイスが出来ない」
のではなく、
「十分に聞けてないからアドバイスが出来ない」
ことが多いです。
「愛をもって真理を語る」ことの出来る人は、
「聞くに早い」人と同一人物なのです。
説明します。
人間の心を「容器」に例えましょう。
多くの人は「話したい」状態にあるわけです。
寡黙だと言われている人でも、
「話した結果、説教されたり否定されたり、
秘密をばらされたりしないと分かっている」
安全な環境や、
「相手が自分の話に興味をもって喜んでくれる」
という理想的な発話環境が整えば、
いつだって人間って「話したい」んです。
なぜなら人間の心の「容器」には、
いろーんな感情が蓄積していて、
それを吐き出すことは、
デトックス的な気持ちよさがあるからです。
「毒を吐き出す」わけですね。
マッサージに例えても良いでしょう。
マッサージされるのが気持ちよいのと同じく、
理想的な発話環境で話すのは気持ちよいわけです。
では、「毒を吐き出される」側はどうでしょう?
質問者様がおっしゃっているように、
「傷つき」ます。
質問者様の言葉では、
「怒りや悲しみを感じ、イライラする」わけです。
マッサージされた人は気持ちいいですが、
マッサージ師は逆に、マッサージした人数に応じて、
肩がこるのと同じです。
なので、質問者様の悩みは、
「傾聴」をする人間として、
当然のことなので、当たり前と言って良いでしょう。
「マッサージをしていたら、
次の日身体がバキバキになるのですが、
どうしたもんでしょう」という話に似ています。
マッサージをしてもらえば良いのです。
つまり、自分の話を裁かず教えず聞いてくれる、
信頼出来る誰かの「耳」を借りて、
自分のデトックスをする必要があります。
じっさい、私は聞き屋ボランティアをしていたとき、
チームのメンバー同士で、
「聞き合い」を定期的にしていました。
猿の毛繕いですわ。
じゃないと体が持ちません。
自殺防止ダイヤルの「命の電話」のボランティアも、
同じように「聞き合い」をしているそうです。
なので、質問者様も、
自分が聞いてもらえる場を確保すると、
電流の「アース」みたいになって、
ある程度ストレスのマネジメントができるのではないでしょうか。
加えて、質問者様が「傷つく」とおっしゃっているのは、
実は「正しく聞けている」ことの証拠でもあります。
それはむしろ喜ぶべきこと、とも言える。
なぜか?
質問者様がキリスト教徒かどうか不案内ですが、
キリスト教徒の私から言わせていただくなら、
質問者様の状態は「贖罪的」に生きていることの証拠であり、
それはとりもなおさず、
キリストの足跡に従っていることの証拠だからです。
キリストの足跡に従うとは、
「傷つきながら生きる」ということでもあります。
最近読んだ「舟の右側」という雑誌の、
2018年7月の連載を引用します。
廣瀬薫先生という、
日本福音同盟の理事長をされている方の連載で、
賀川豊彦や内村鑑三、
またマーティン・ルーサー・キングなどの例を挙げて
「クリスチャンの社会的責任は『贖罪的』であるべき」
という趣旨の発言がなされています。
多少長いですが2箇所、引用します。
→P13
〈そして、大切なのは、
私たちがこれをどのように実践していくのかと言うことです。
私たちのすべての働きは「十字架の性質」を
持っていることが大切だと思っています。
私はこれを「贖罪的な実践」と呼んでいます。
十字架を引き受ける生き方が地上を神の国にしていく。
イエス様も「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、
そしてわたしについて来なさい」(ルカ9:23)
と言われました。
内村鑑三は
「善行はすべて贖罪的特性を持っている」と書いています。
何が良い働きなのか?
十字架の質を持った働きが良い働きだ、
ということです。
賀川豊彦はイエス・キリストを
「人格的白血球運動者」と表現しました。
このばい菌だらけの世の中で、
クリスチャンはばい菌に触らないように生きていくのか、
いやそうではなく、
そのばい菌を引き受ける実践がこの世に神の国を広げていく、
と語るわけです。
羽仁もと子も、十字架というのは、
自分のせいではない悪いことを引き受ける生き方だと理解しました。
最後に、マーティン・ルーサー・キングは、
あの有名な演説において、
「I have a dream!」と語るパラグラフ(段落)で、
「自ら招かざる苦難は贖罪的であると信じて戦い続けよう」
と言っています。
黒人たちは、道中もひどい目に遭いながら
あのワシントン広場に集まってきたわけです。
キング牧師は、十字架と同じ質を持つ実践が
社会にいのちをもたらす力があるのだと、
信じて戦い続けようとアピールしたのです。〉
→P13
〈つまり、私たちが十字架を担って
イエス様について行くという贖罪的な実践をすることで、
地上に神の国は広がっていきます。
若い人にわかりやすく言うときには、
「ゴミが落ちていたら自分が落としたものでなくても
拾うのが贖罪的実践だ」と説明します。
そんな簡単なこと?
と思われるかもしれませんが、
かつて私の家庭で子どもに
「ゴミを拾いなさい。」と言ったとすれば、
帰ってくることばは決まっていました。
「私が落としたんじゃない。」
自己責任を取らせろと言うのが世の中です。
しかしクリスチャンには、
自分のせいではない悪いことを引き受ける生き方が求められているのです。
トイレが汚れていたらきれいにして出てくるのが、
身近な贖罪的実践です。〉
、、、「贖罪的実践」こそが、
クリスチャンの社会奉仕であり、
贖罪的実践とは、
「他の人が落としたゴミを拾うこと」と、
廣瀬薫先生は言っています。
質問者様が他の人の話に傾聴し、
自分が「傷つく」とき、
それは他の人が落とした「心理的ゴミ」を拾っているのであり、
贖罪的な実践だと私は考えます。
私たちは傷つき汚れながら、
この世の中をきれいにしていく存在なのです。
話を戻しましょう。
「良く聞けること」と、
「愛をもって真理を語る」こと、
これが矛盾せずひとつのことだ、
という話ですよね。
忘れてませんよ。
人間の心は「容器」だと先ほど申しました。
その容器の中に、パンパンに何かが詰まった状態、
これが、「話したくて仕方ない」状態です。
「気持ちを誰かに吐露したい状態」と言ってもいい。
この状態の時、
容器はパンパンなので、
人は誰かからのアドバイスが、
「入らない」んですよね。
パンパンの容器に何かが入るためには、
「空白」が必要なのです。
その「空白」を作ることが、
「聞く」行為です。
具体例を挙げて話しましょう。
私がエチオピアにいたときに、
付き合いのあったNGOのスタッフに、
デベレさんという人がいたんですよ。
その人に私は、
日本で自分がしていた、
「聞き屋」の活動を紹介しました。
「教えない」「裁かない」「秘密厳守」
このルールで人の話を聞く、
つまりそれは人の心のゴミ拾いであって、
イエスの足跡に従って、
日本に仕える行為だと思うんだ、と。
デベレさんは感心しながら聞いてくれて、
非常に興味を持ってくれました。
ところが、最後の最後に、
「え?そこで終わり?」
という顔をするのです。
そして私に言いました。
「ブラザーシュン、
君の日本での活動はとても素晴らしい。
でも僕は納得がいかないんだ。
その『話している人』には福音が必要なんだろう?
だったら彼が必要としている福音を語るまで、
完全に仕えたことにならないんじゃないのか?
それは中途半端なことをしてるんじゃないのか?」
私はそこから1時間ぐらい議論することも出来ましたが、
「そういう考え方もありますよね。
でも、僕はこの方針でやることに確信があるんです。
もちろん求められれば福音を語りますが、
求められていなければアドバイスもしないし、
福音も語りません。
それが『奉仕する』ということだと思うので」
といって、その日の会話は終わりました。
デベレさんは納得しないような顔をして去って行きました。
それから2週間が経ち、
久しぶりにデベレさんのNGOのオフィスを訪ねたとき、
デベレさんは興奮して私に近づいてきて話し始めました。
その話を要約するとこういうことになります。
デベレさんの隣人はイスラム教徒です。
時々そこの奥さんと通りで立ち話をしていたそうです。
彼はイスラム教徒の彼女が福音を知ってほしいと思っていたので、
今までに何度も彼女に神の話をしたり、
隙があれば「真理を語ったり」してきたそうです。
しかしそのたびに拒絶に近い反応を示されてきました。
先週のある日、また立ち話をする機会あり、
そのときに「ブラザーシュンが言っていたこと」を、
思い出したのだそうです。
そして試してみようじゃないか、と思ったのです。
つまり、「最後まで彼女の話を聞いてみよう」と。
デベレさんは、
アドバイスしたくなるのをぐっとこらえて、
彼女の話にうなずき共感を示しながら、
忍耐して聞き続けました。
すると今まで彼女が語ったことのなかった、
イスラム世界での女性の立場の弱さや、
夫から受けている仕打ち、
社会からのプレッシャーなどについて語りはじめたのだそうです。
デベレさんは何度も「何か言いたく」なりましたが、
「ブラザーシュンの顔を思い出し」、
最後まで話を聞いたのだそうです。
すると、彼女は思いも寄らないことを口走ったのだそうです。
「デベレさん、
今私が話したことについて、
あなたが信じている神に祈ってもらえますか?」
デベレさんは拍子抜けしましたが、
「もちろん!喜んで!」
といってその場で祈り、
これからも祈ることを約束して分かれました。
奥さんは感謝し、目に涙を浮かべていました。
デベレさんはオフィスで私に言いました。
「シュン、君のメソッドはうまくいったよ!!」
、、、ポイントは何か?
このイスラム教徒の奥さんの心の容器が、
空になる前に、
デベレさんは「真理」をぶち込もうとしていたわけです。
入るスペースなんてあるはずがありません。
アドバイスするのを我慢し、
デベレさんが忍耐強く聞いたことで、
奥さんの心の容器が空になり、
新たに何か情報を取り込むスペースが出来たわけです。
「良く聞くこと」と、
「愛をもって真理を語ること」が、
矛盾しない理由が分かっていただけたでしょうか?
そういえば箴言には、
「良く聞くものはいつまでも語る」
という節もあります(箴言21:28)。
不幸なのは、
日常生活において、
「この人にはアドバイスが必要だなぁ」
と思う人ほど、
その人の心はパンパンで、
アドバイスを受け入れる余地がなく、
「この人にはアドバイスが必要じゃないなぁ」
と思う人ほど、
その人の心はいつもアドバイスを受け入れる余地がある、
というミスマッチがあることです。
これは実は当然の帰結で、
「人のアドバイスを聞ける人」っていうのは、
どんどん自分を改善していきますから、
ますます仕事にも生活にも余裕が出来て、
むしろ人をケアーする余地すら生まれる。
「人のアドバイスを聞けない人」っていうのは、
改善するチャンスもありませんから、
仕事の能力も相対的に低くなり、
いつも「いっぱいいっぱい」なので、
ますます心もパンパンになる。
以下、無限ループです。
この悪循環のループを断ち切るきっかけになるのが、
「傾聴」という行為なのです。
、、、とここまで、
聞くことと語ることが相補的だ、
みたいなことを書いてきましたが、
最後に、質問者様のようなケースで、
もうひとつ考えられるのは、
「あまり無理をする必要はないかもしれない」
ということがあります。
どういうことかと言いますと、
先ほど申しましたように、
「傾聴」というのはとても体力の要ることです。
賀川豊彦が言っているように、
「白血球」として活動するということは、
自分の中に病原菌を取り込むことでもあります。
これも賀川が言うように、
キリスト者とは病原菌のいない、
無菌室に閉じこもる存在ではなく、
積極的に病原菌のいる場所に行き、
自分が傷つくこととでそれを浄化する存在です。
キリストがしたことはまさにそういう実践ですから。
とはいえ白血球になるということは、
じっさいに自分が病気になる、
というリスクも背負うことになる、
というのも事実です。
じっさい、
結核患者の多くいる貧民街で活動したことにより、
賀川豊彦は文字通り結核になりましたから。
詳しくは『死線を越えて』を読んでください。
そんなときは、
養生するに限ります。
私の話をしましょう。
私は2004年に「聞き屋ボランティア」を始めて、
断続的に足かけ9年ほど活動を続けていました。
愛知から東京に拠点が変わっても、
頻度が減っても、
結婚しても、
「これは自分のライフワークのひとつだから、
どうにかして続けていこう」
と思ってましたし、
じっさい続けていました。
ところが2013年の年末に、
燃え尽き症候群で鬱病になり、
2年間すべての活動を休養しました。
2016年から活動を再開しましたが、
「聞き屋」はハードルが高いなぁ、
と最初は思いました。
なぜなら私の受けた「脳のダメージ」は、
特に「社会的認知」に関わるような部分で、
つまり人と交流を持つことが、
病気中も最も打撃を受け、
治った後も最も負担が大きかったからです。
寛解後もだから、
しばらくは、「人と会う」という行為は、
次の日は丸一日休まなければならないほど、
大きな負担を強いるものでしたし、
「大勢の人と会う」にいたっては、
次の日から3日ぐらい静養が必要でした。
「聞き屋」というのはだから、
自分にとってとてもハードルの高いものとなったわけです。
ピアニストなんだけど、
交通事故で指を重点的に怪我しちゃった、
みたいな話ですね。
でも、「いつかは聞き屋を、、、」
という気持ちがあったので、
2年前の2017年に、実は私は、
「リハビリ」をやってみたんですよね。
ほとんど誰にも言ってきませんでしたし、
このメルマガにも書きませんでしたが。
住んでいる西東京市のボランティアセンターに、
ボランティアとして登録をし、
高齢者施設に行って、
週に2時間ほど「傾聴」のボランティアをやったんです。
何回やったか忘れましたが、
長女が生まれるまで続けました。
それがけっこうな負担で、
次の日は「使い物にならない」
ぐらい疲れちゃうんですよね。
おばあちゃんの、
「若かった頃の自慢話」とか、
「嫁に対する悪口」とか、
「他の利用者に対する悪口」とか、
おじいちゃんの、
「戦争のときたいへんだった話」とか、
「自分がどれだけ苦労の末成功してきたか」とか、
「他の利用者に対する悪口」とか、
そういうのを2時間聞くだけです。
昔、愛知県で聞き屋をしていたとき、
そんなの「なんでもなかった」のに、
何回やっても「ずどーん」って疲れるんですよね。
私の思惑としては、
このボランティアを何回かやったら、
「不特定多数の人の愚痴を聞く」っていう、
昔の感覚を取り戻して、
そして自分が住んでいる生活圏の駅前で、
また聞き屋ボランティアを始めて、、、
っていう構想があったのですが、
この「リハビリ」によって、
この夢はまだまだ遠い夢であることが分かったんです。
というより、自分の中の、
「何か」が、
病気の前と後で決定的に変わってしまったのを感じたのです。
それが何なのかは分かりませんが、
たぶん脳の機能に関わる部分なのだと思います。
何が変わったかというと、
以前の私は、
けっこう「ディタッチ」して、
不特定多数の人の話を聞けたのですよね。
自分の意見や判断や感情を「いったん凍結」させて、
人の話を聞き、受容し、共感することが出来た。
私は獣医師ですが、
獣医師って、白衣を着ていると、
死んだ動物、動物の血、動物の糞尿、
外に飛び出した動物の内臓、
これらを見たり触れたりすることに、
何の抵抗も感じません。
「スイッチ」が入るからです。
でも、私服のときに自分のペットが血を吐いたら、
めちゃくちゃ動揺しますし、
私服のときに犬の糞を踏むと、
普通の人と同じように凹みます。
「白衣」がスイッチを入れるのです。
たぶん看護師や医師も同じだと思います。
「死」に接する仕事というのは、
そうしないと心が持たないわけです。
こういう「職業的ディタッチメント」を、
私は聞き屋に関してもすることが出来ていたのですが、
病気の期間を経て、
その「スイッチ」が入らなくなっちゃったんですよね。
いずれにしても結論として
「自分はもう、
聞き屋が出来ない体になってしまったのだ」
と受け入れるのは辛いことでしたが、
でも、不特定多数の人の話は聞けなくても、
妻の話、子どもの話、
自分にとって大切な友人の打ち明け話、
そういった話は聞けます。
そういった話を聞くために、
私は少ないエネルギーを温存しなければならない、
と、ちょうどそのボランティアに挫折したのと、
同じ時期に生まれた娘を見て思ったのです。
だから、私は聞き屋に関して、
現在無期限活動休止中です。
なので質問者様も、
自分の体と相談しながら、
聞くという実践を、
無理のない範囲で続けていくのがお勧めです。
ご参考に。
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Q.
陣内さんこんにちは。
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今回は、傾聴について教えていただきたくメールしました。
以前、陣内さんのメルマガで「聞き屋」の取り組みを知り、
自分も周りの人に傾聴を実践したいと思いました。
しかし、知り合いが相手だと自分が不快になることがあり、
難しく感じます。
例えば、相手の話の中で、
自分の知り合いや親しい人の批判や悪口が出ると、
怒りや悲しみを感じます。
また、自分も相手と一緒に取り組んでいる活動について
批判や文句を言われると、
まずは自分の責任を果たすべきなんじゃないのと思い
イライラしてしまいます。
話を聞くことで、
相手がスッキリした表情になることもあるのですが、
聞いている自分は気分が悪く、
何年経っても、思い出して嫌な気持ちになることがあります。
聞き屋のルールで、
「教えない」「裁かない」があるとのことですが、
批判されたり悪口を言われた人の弁護をしてはいけないのでしょうか。
また、相手の無責任な態度を指摘するのもよくないのでしょうか。
「傾聴」と、「言いたいことを言い合う普通の会話」は、
使い分けるべきなのでしょうか。
アドバイスをいただけるとうれしいです。
よろしくお願いします。
A.
ご質問ありがとうございます。
いくつかのポイントに整理して回答していきます。
まず、傾聴と普通の会話を分けるべきか?
「傾聴」と、「普通の会話」は、
分けて考えるべき、と私は思います。
聖書には、
「相手の話を良く聞く」ことが書かれています。
ヤコブ1:19
「私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。
人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、
怒るのに遅くありなさい。」
これですね。
しかし、同時に「率直に語る」ことも書かれています。
エペソ4:15
「むしろ、愛をもって真理を語り、
あらゆる点において、
かしらであるキリストに向かって成長するのです。」
箴言27:6
「愛する者が傷つけるのは誠実による。
憎む者は多くの口づけでもてなす。」
、、、あらゆる真理は「相補的」なので、
「聞けば聞くほど良い」わけでもなければ、
「語れば語るほど良い」わけでもありません。
「聞くのに時があり、語るのに時がある」わけです。
「傾聴ボランティア」や、
「カウンセリングルーム」、
もしくは、相手が、
「今から話すけど、
ただ聴いてもらいたいだけなんだ。
答えを求めてるとかそういうわけじゃなく。」
と申し出てきて、あなたが、
「OK、じゃあ聞くね」というやりとりがあるような、
「聞くロール(役割)」と「話すロール」が、
はっきり分かれている場合もあります。
しかし、そういった特殊なケースを除きますと、
基本的に聞く役割・話す役割というのは、
会話のなかで振り子が振れるように流動的なわけです。
サッカーやラグビーの「ポゼッション」のように、
自分が聞いている役割のときもあれば、
相手が聞いている役割のときもある。
ちなみに「会話が上手な人」というのは、
「今どちらにボールがあるか」を、
自覚的に会話をしていて、
このバランスの取り方がうまい人です。
そういう人と会話をしていると、
「なぜか理由は分からないが心地よい」。
そして、「あの人とまた話したい」となる。
「どちらにボールがあるか分かってない人」って、
相手が話している(相手にボールがある)のに、
突然「オフェンス」を始めちゃうんですよね。
「いや、ボール2個になったよ!」っていうね笑。
喫茶店オーナーの、
「回転率悪くなるんだけどなぁ」という憂慮など、
まったく意にかけず、
1杯のコーヒーで何時間も何時間も、
ずーっと大ボリュームでしゃべってる、
4、5人の「おばちゃんの群れ」ってあるじゃないですか。
あれって何話してるのか、
一時興味があって聞いてみたんですよね。
そしたら、ボールが5個ありました笑。
全員が自分が話したいことを話し続けている。
まぁ、スナックのカラオケみたいなもんですわ。
全員が気持ちよく話して、
誰も互いの話を聞いてないっていうね笑。
あれはあれで、合意のもとにやってるんで、
全然良いんです。
カラオケと同じように、
心のデトックスが出来て、
非常に精神衛生に良い
(と思う。私は未経験なので分からないけど。)。
猿の毛繕いと同じで、
お互いをケアーしあっているわけです。
ウィン&ウィンの関係です。
まぁ、私みたいな人間がその中に入ったら、
精神的サンドバックになり、
3日は脳しんとうから立ち直れないと思いますが。
おばちゃんの話で脱線しました笑。
「ボールがどこにあるか意識できてない」人というのは、
相手がまだボール持ってるのに話し始めます。
相手の話がゴールに到達するのを待てないし、
自分の話にもゴールがありません。
「相手へのパス」で会話って終わるのがきれいなのですが、
そういった人の「吐露」はどこにも到達しない。
「あれ?なんでこの話してるんだっけ?」
みたいなタイプです。
自分の会話に、自分で迷子になってるわけです。
「俺に聞くなよ」以外の答えが見つからないわけです。
さて、そのような「会話のルール」といいますか、
「ボールのポゼッション感覚」を踏まえた上で、
では、傾聴が上手な人はどういう人か、
ということになるわけですね。
実は先ほど、
「聞くのに時があり、話すのに時がある」
と言いましたが、
実は「聞くのが得意なタイプと、
真理を直言するのが得意なタイプ」の、
2タイプがいると考えないほうが良いと私は考えます。
どういうことか。
聞くことと話すことは、
お互いが反する概念ではなく、
お互いに相補的な概念だからです。
質問者様が、「何かアドバイスをしたくなる」
というとき、実はそのためには、
「聞き上手である」ということが必要なのです。
質問者様のケースには、
もしかしたら当てはまらないかもしれませんが、
一般論として多くの場合、
「一方的に聞きすぎているからアドバイスが出来ない」
のではなく、
「十分に聞けてないからアドバイスが出来ない」
ことが多いです。
「愛をもって真理を語る」ことの出来る人は、
「聞くに早い」人と同一人物なのです。
説明します。
人間の心を「容器」に例えましょう。
多くの人は「話したい」状態にあるわけです。
寡黙だと言われている人でも、
「話した結果、説教されたり否定されたり、
秘密をばらされたりしないと分かっている」
安全な環境や、
「相手が自分の話に興味をもって喜んでくれる」
という理想的な発話環境が整えば、
いつだって人間って「話したい」んです。
なぜなら人間の心の「容器」には、
いろーんな感情が蓄積していて、
それを吐き出すことは、
デトックス的な気持ちよさがあるからです。
「毒を吐き出す」わけですね。
マッサージに例えても良いでしょう。
マッサージされるのが気持ちよいのと同じく、
理想的な発話環境で話すのは気持ちよいわけです。
では、「毒を吐き出される」側はどうでしょう?
質問者様がおっしゃっているように、
「傷つき」ます。
質問者様の言葉では、
「怒りや悲しみを感じ、イライラする」わけです。
マッサージされた人は気持ちいいですが、
マッサージ師は逆に、マッサージした人数に応じて、
肩がこるのと同じです。
なので、質問者様の悩みは、
「傾聴」をする人間として、
当然のことなので、当たり前と言って良いでしょう。
「マッサージをしていたら、
次の日身体がバキバキになるのですが、
どうしたもんでしょう」という話に似ています。
マッサージをしてもらえば良いのです。
つまり、自分の話を裁かず教えず聞いてくれる、
信頼出来る誰かの「耳」を借りて、
自分のデトックスをする必要があります。
じっさい、私は聞き屋ボランティアをしていたとき、
チームのメンバー同士で、
「聞き合い」を定期的にしていました。
猿の毛繕いですわ。
じゃないと体が持ちません。
自殺防止ダイヤルの「命の電話」のボランティアも、
同じように「聞き合い」をしているそうです。
なので、質問者様も、
自分が聞いてもらえる場を確保すると、
電流の「アース」みたいになって、
ある程度ストレスのマネジメントができるのではないでしょうか。
加えて、質問者様が「傷つく」とおっしゃっているのは、
実は「正しく聞けている」ことの証拠でもあります。
それはむしろ喜ぶべきこと、とも言える。
なぜか?
質問者様がキリスト教徒かどうか不案内ですが、
キリスト教徒の私から言わせていただくなら、
質問者様の状態は「贖罪的」に生きていることの証拠であり、
それはとりもなおさず、
キリストの足跡に従っていることの証拠だからです。
キリストの足跡に従うとは、
「傷つきながら生きる」ということでもあります。
最近読んだ「舟の右側」という雑誌の、
2018年7月の連載を引用します。
廣瀬薫先生という、
日本福音同盟の理事長をされている方の連載で、
賀川豊彦や内村鑑三、
またマーティン・ルーサー・キングなどの例を挙げて
「クリスチャンの社会的責任は『贖罪的』であるべき」
という趣旨の発言がなされています。
多少長いですが2箇所、引用します。
→P13
〈そして、大切なのは、
私たちがこれをどのように実践していくのかと言うことです。
私たちのすべての働きは「十字架の性質」を
持っていることが大切だと思っています。
私はこれを「贖罪的な実践」と呼んでいます。
十字架を引き受ける生き方が地上を神の国にしていく。
イエス様も「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、
そしてわたしについて来なさい」(ルカ9:23)
と言われました。
内村鑑三は
「善行はすべて贖罪的特性を持っている」と書いています。
何が良い働きなのか?
十字架の質を持った働きが良い働きだ、
ということです。
賀川豊彦はイエス・キリストを
「人格的白血球運動者」と表現しました。
このばい菌だらけの世の中で、
クリスチャンはばい菌に触らないように生きていくのか、
いやそうではなく、
そのばい菌を引き受ける実践がこの世に神の国を広げていく、
と語るわけです。
羽仁もと子も、十字架というのは、
自分のせいではない悪いことを引き受ける生き方だと理解しました。
最後に、マーティン・ルーサー・キングは、
あの有名な演説において、
「I have a dream!」と語るパラグラフ(段落)で、
「自ら招かざる苦難は贖罪的であると信じて戦い続けよう」
と言っています。
黒人たちは、道中もひどい目に遭いながら
あのワシントン広場に集まってきたわけです。
キング牧師は、十字架と同じ質を持つ実践が
社会にいのちをもたらす力があるのだと、
信じて戦い続けようとアピールしたのです。〉
→P13
〈つまり、私たちが十字架を担って
イエス様について行くという贖罪的な実践をすることで、
地上に神の国は広がっていきます。
若い人にわかりやすく言うときには、
「ゴミが落ちていたら自分が落としたものでなくても
拾うのが贖罪的実践だ」と説明します。
そんな簡単なこと?
と思われるかもしれませんが、
かつて私の家庭で子どもに
「ゴミを拾いなさい。」と言ったとすれば、
帰ってくることばは決まっていました。
「私が落としたんじゃない。」
自己責任を取らせろと言うのが世の中です。
しかしクリスチャンには、
自分のせいではない悪いことを引き受ける生き方が求められているのです。
トイレが汚れていたらきれいにして出てくるのが、
身近な贖罪的実践です。〉
、、、「贖罪的実践」こそが、
クリスチャンの社会奉仕であり、
贖罪的実践とは、
「他の人が落としたゴミを拾うこと」と、
廣瀬薫先生は言っています。
質問者様が他の人の話に傾聴し、
自分が「傷つく」とき、
それは他の人が落とした「心理的ゴミ」を拾っているのであり、
贖罪的な実践だと私は考えます。
私たちは傷つき汚れながら、
この世の中をきれいにしていく存在なのです。
話を戻しましょう。
「良く聞けること」と、
「愛をもって真理を語る」こと、
これが矛盾せずひとつのことだ、
という話ですよね。
忘れてませんよ。
人間の心は「容器」だと先ほど申しました。
その容器の中に、パンパンに何かが詰まった状態、
これが、「話したくて仕方ない」状態です。
「気持ちを誰かに吐露したい状態」と言ってもいい。
この状態の時、
容器はパンパンなので、
人は誰かからのアドバイスが、
「入らない」んですよね。
パンパンの容器に何かが入るためには、
「空白」が必要なのです。
その「空白」を作ることが、
「聞く」行為です。
具体例を挙げて話しましょう。
私がエチオピアにいたときに、
付き合いのあったNGOのスタッフに、
デベレさんという人がいたんですよ。
その人に私は、
日本で自分がしていた、
「聞き屋」の活動を紹介しました。
「教えない」「裁かない」「秘密厳守」
このルールで人の話を聞く、
つまりそれは人の心のゴミ拾いであって、
イエスの足跡に従って、
日本に仕える行為だと思うんだ、と。
デベレさんは感心しながら聞いてくれて、
非常に興味を持ってくれました。
ところが、最後の最後に、
「え?そこで終わり?」
という顔をするのです。
そして私に言いました。
「ブラザーシュン、
君の日本での活動はとても素晴らしい。
でも僕は納得がいかないんだ。
その『話している人』には福音が必要なんだろう?
だったら彼が必要としている福音を語るまで、
完全に仕えたことにならないんじゃないのか?
それは中途半端なことをしてるんじゃないのか?」
私はそこから1時間ぐらい議論することも出来ましたが、
「そういう考え方もありますよね。
でも、僕はこの方針でやることに確信があるんです。
もちろん求められれば福音を語りますが、
求められていなければアドバイスもしないし、
福音も語りません。
それが『奉仕する』ということだと思うので」
といって、その日の会話は終わりました。
デベレさんは納得しないような顔をして去って行きました。
それから2週間が経ち、
久しぶりにデベレさんのNGOのオフィスを訪ねたとき、
デベレさんは興奮して私に近づいてきて話し始めました。
その話を要約するとこういうことになります。
デベレさんの隣人はイスラム教徒です。
時々そこの奥さんと通りで立ち話をしていたそうです。
彼はイスラム教徒の彼女が福音を知ってほしいと思っていたので、
今までに何度も彼女に神の話をしたり、
隙があれば「真理を語ったり」してきたそうです。
しかしそのたびに拒絶に近い反応を示されてきました。
先週のある日、また立ち話をする機会あり、
そのときに「ブラザーシュンが言っていたこと」を、
思い出したのだそうです。
そして試してみようじゃないか、と思ったのです。
つまり、「最後まで彼女の話を聞いてみよう」と。
デベレさんは、
アドバイスしたくなるのをぐっとこらえて、
彼女の話にうなずき共感を示しながら、
忍耐して聞き続けました。
すると今まで彼女が語ったことのなかった、
イスラム世界での女性の立場の弱さや、
夫から受けている仕打ち、
社会からのプレッシャーなどについて語りはじめたのだそうです。
デベレさんは何度も「何か言いたく」なりましたが、
「ブラザーシュンの顔を思い出し」、
最後まで話を聞いたのだそうです。
すると、彼女は思いも寄らないことを口走ったのだそうです。
「デベレさん、
今私が話したことについて、
あなたが信じている神に祈ってもらえますか?」
デベレさんは拍子抜けしましたが、
「もちろん!喜んで!」
といってその場で祈り、
これからも祈ることを約束して分かれました。
奥さんは感謝し、目に涙を浮かべていました。
デベレさんはオフィスで私に言いました。
「シュン、君のメソッドはうまくいったよ!!」
、、、ポイントは何か?
このイスラム教徒の奥さんの心の容器が、
空になる前に、
デベレさんは「真理」をぶち込もうとしていたわけです。
入るスペースなんてあるはずがありません。
アドバイスするのを我慢し、
デベレさんが忍耐強く聞いたことで、
奥さんの心の容器が空になり、
新たに何か情報を取り込むスペースが出来たわけです。
「良く聞くこと」と、
「愛をもって真理を語ること」が、
矛盾しない理由が分かっていただけたでしょうか?
そういえば箴言には、
「良く聞くものはいつまでも語る」
という節もあります(箴言21:28)。
不幸なのは、
日常生活において、
「この人にはアドバイスが必要だなぁ」
と思う人ほど、
その人の心はパンパンで、
アドバイスを受け入れる余地がなく、
「この人にはアドバイスが必要じゃないなぁ」
と思う人ほど、
その人の心はいつもアドバイスを受け入れる余地がある、
というミスマッチがあることです。
これは実は当然の帰結で、
「人のアドバイスを聞ける人」っていうのは、
どんどん自分を改善していきますから、
ますます仕事にも生活にも余裕が出来て、
むしろ人をケアーする余地すら生まれる。
「人のアドバイスを聞けない人」っていうのは、
改善するチャンスもありませんから、
仕事の能力も相対的に低くなり、
いつも「いっぱいいっぱい」なので、
ますます心もパンパンになる。
以下、無限ループです。
この悪循環のループを断ち切るきっかけになるのが、
「傾聴」という行為なのです。
、、、とここまで、
聞くことと語ることが相補的だ、
みたいなことを書いてきましたが、
最後に、質問者様のようなケースで、
もうひとつ考えられるのは、
「あまり無理をする必要はないかもしれない」
ということがあります。
どういうことかと言いますと、
先ほど申しましたように、
「傾聴」というのはとても体力の要ることです。
賀川豊彦が言っているように、
「白血球」として活動するということは、
自分の中に病原菌を取り込むことでもあります。
これも賀川が言うように、
キリスト者とは病原菌のいない、
無菌室に閉じこもる存在ではなく、
積極的に病原菌のいる場所に行き、
自分が傷つくこととでそれを浄化する存在です。
キリストがしたことはまさにそういう実践ですから。
とはいえ白血球になるということは、
じっさいに自分が病気になる、
というリスクも背負うことになる、
というのも事実です。
じっさい、
結核患者の多くいる貧民街で活動したことにより、
賀川豊彦は文字通り結核になりましたから。
詳しくは『死線を越えて』を読んでください。
そんなときは、
養生するに限ります。
私の話をしましょう。
私は2004年に「聞き屋ボランティア」を始めて、
断続的に足かけ9年ほど活動を続けていました。
愛知から東京に拠点が変わっても、
頻度が減っても、
結婚しても、
「これは自分のライフワークのひとつだから、
どうにかして続けていこう」
と思ってましたし、
じっさい続けていました。
ところが2013年の年末に、
燃え尽き症候群で鬱病になり、
2年間すべての活動を休養しました。
2016年から活動を再開しましたが、
「聞き屋」はハードルが高いなぁ、
と最初は思いました。
なぜなら私の受けた「脳のダメージ」は、
特に「社会的認知」に関わるような部分で、
つまり人と交流を持つことが、
病気中も最も打撃を受け、
治った後も最も負担が大きかったからです。
寛解後もだから、
しばらくは、「人と会う」という行為は、
次の日は丸一日休まなければならないほど、
大きな負担を強いるものでしたし、
「大勢の人と会う」にいたっては、
次の日から3日ぐらい静養が必要でした。
「聞き屋」というのはだから、
自分にとってとてもハードルの高いものとなったわけです。
ピアニストなんだけど、
交通事故で指を重点的に怪我しちゃった、
みたいな話ですね。
でも、「いつかは聞き屋を、、、」
という気持ちがあったので、
2年前の2017年に、実は私は、
「リハビリ」をやってみたんですよね。
ほとんど誰にも言ってきませんでしたし、
このメルマガにも書きませんでしたが。
住んでいる西東京市のボランティアセンターに、
ボランティアとして登録をし、
高齢者施設に行って、
週に2時間ほど「傾聴」のボランティアをやったんです。
何回やったか忘れましたが、
長女が生まれるまで続けました。
それがけっこうな負担で、
次の日は「使い物にならない」
ぐらい疲れちゃうんですよね。
おばあちゃんの、
「若かった頃の自慢話」とか、
「嫁に対する悪口」とか、
「他の利用者に対する悪口」とか、
おじいちゃんの、
「戦争のときたいへんだった話」とか、
「自分がどれだけ苦労の末成功してきたか」とか、
「他の利用者に対する悪口」とか、
そういうのを2時間聞くだけです。
昔、愛知県で聞き屋をしていたとき、
そんなの「なんでもなかった」のに、
何回やっても「ずどーん」って疲れるんですよね。
私の思惑としては、
このボランティアを何回かやったら、
「不特定多数の人の愚痴を聞く」っていう、
昔の感覚を取り戻して、
そして自分が住んでいる生活圏の駅前で、
また聞き屋ボランティアを始めて、、、
っていう構想があったのですが、
この「リハビリ」によって、
この夢はまだまだ遠い夢であることが分かったんです。
というより、自分の中の、
「何か」が、
病気の前と後で決定的に変わってしまったのを感じたのです。
それが何なのかは分かりませんが、
たぶん脳の機能に関わる部分なのだと思います。
何が変わったかというと、
以前の私は、
けっこう「ディタッチ」して、
不特定多数の人の話を聞けたのですよね。
自分の意見や判断や感情を「いったん凍結」させて、
人の話を聞き、受容し、共感することが出来た。
私は獣医師ですが、
獣医師って、白衣を着ていると、
死んだ動物、動物の血、動物の糞尿、
外に飛び出した動物の内臓、
これらを見たり触れたりすることに、
何の抵抗も感じません。
「スイッチ」が入るからです。
でも、私服のときに自分のペットが血を吐いたら、
めちゃくちゃ動揺しますし、
私服のときに犬の糞を踏むと、
普通の人と同じように凹みます。
「白衣」がスイッチを入れるのです。
たぶん看護師や医師も同じだと思います。
「死」に接する仕事というのは、
そうしないと心が持たないわけです。
こういう「職業的ディタッチメント」を、
私は聞き屋に関してもすることが出来ていたのですが、
病気の期間を経て、
その「スイッチ」が入らなくなっちゃったんですよね。
いずれにしても結論として
「自分はもう、
聞き屋が出来ない体になってしまったのだ」
と受け入れるのは辛いことでしたが、
でも、不特定多数の人の話は聞けなくても、
妻の話、子どもの話、
自分にとって大切な友人の打ち明け話、
そういった話は聞けます。
そういった話を聞くために、
私は少ないエネルギーを温存しなければならない、
と、ちょうどそのボランティアに挫折したのと、
同じ時期に生まれた娘を見て思ったのです。
だから、私は聞き屋に関して、
現在無期限活動休止中です。
なので質問者様も、
自分の体と相談しながら、
聞くという実践を、
無理のない範囲で続けていくのがお勧めです。
ご参考に。
- 2020.03.17 Tuesday
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