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「桐島、部活やめるってよ」を語る

2017.07.26 Wednesday

+++vol.002 2017年2月28日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 陣内俊の「シネマ坊主」

松本人志が日系エンタテイメントに、
かつて映画評を連載していて、
それが「シネマ坊主」というタイトルで書籍化されています。
それがこちら↓
http://amzn.asia/cB07mZa

1〜3まで出ており、
私はすべて読んでいます。

私もまずまずの映画好きです。
1(無関心)〜10(水野晴郎)までの
グラデーションがあると仮定しますと、
私はだいたい7.5ぐらいです(中途半端!)

月に10本の映画を観ることもあれば、
忙しくて3ヶ月何も見てないなぁ、
というようなときもあります。

ほとんどはDVDレンタルか、
Amazonのストリーミングで鑑賞し、
ここ数年は、映画館で観るのは、
年平均で1〜5本ぐらいでしょうか。

そんな中途半端な映画ファン(?)が、
映画を「読み解く」という、
大それた企画がこの陣内俊の「シネマ坊主」なわけです。

私はシネマでも坊主でもないわけですが、
このタイトルは松本人志へのオマージュと、
考えていただければ幸いです。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

●「桐島、部活やめるってよ」

公開:2012年
監督:吉田大八
主演:神木隆之介
http://amzn.asia/12gxQ5e



▼▼▼この数年で最も衝撃を受けた邦画▼▼▼

ここ数年で観た邦画で、最も衝撃を受けたのは?
と聞かれたら、「桐島、部活やめるってよ」を挙げます。

もちろん去年映画館で見た、
「シン・ゴジラ」も良かったですし、
「君の名は」も「この世界の片隅に」も良かったです。

たしか三本とも、ブログで「映画評」を書きました。

▼シン・ゴジラ
http://ameblo.jp/shunjinnai-kingdomcome/entry-12209408760.html

▼君の名は
http://ameblo.jp/shunjinnai-kingdomcome/entry-12209408760.html

▼この世界の片隅に
http://ameblo.jp/shunjinnai-kingdomcome/entry-12230666163.html

2016年は邦画の当たり年でした。
震災から5年が経ったことと、
私は無関係ではないのではないかと思っています。

2011年の震災は、日本に「国家的トラウマ」を与えました。
そこから立ち直るために、「現代の詩人」である、
映画監督をはじめとするクリエイターたちが、
作品として「かの経験」を語るのに、
これだけの時間がかかったのだ、
という風に私は捉えています。

なぜ私がそう考えるかと言いますと、
「チェルノブイリの祈り」という作品を読んだことと関係があります。

2015年のノーベル文学賞受賞者の、
アレクシエービッチというウクライナ人作家は、
1986年のチェルノブイリ事故の10年後の1996年に、
「チェルノブイリの祈り」を発表しました。

彼女は、事故後に「躁状態」のようになって、
現地でのルポや批判記事が、雨後の竹の子のように発表するのを横目に、
「今じゃない」
と直観した、と書いています。

結果的に彼女が10年という歳月、
「インキュベーター」にいれて温め、
考え抜いた作品は評価され、
ノーベル文学賞受賞につながりました。

2011年の震災も同じです。

本当に意味のある「震災がらみの創作物」は、
むしろ2016年が「元年」であり、
これから紡がれていくように、
私には思われます。



▼▼▼「桐島、部活やめるってよ」の「引っかかり」▼▼▼

話を戻します。

「シン・ゴジラ」も、「君の名は」も、
「この世界の片隅に」も、
全部良かったのですが、
3年か4年前に家でレンタルDVDを借りて観た、
「桐島、部活やめるってよ」
の衝撃というのは、
ちょっと異質だったのです。

ずーっとこの映画のことが引っかかっていました。

こういう「引っかかり」は、
どこかで「言語化」することでアウトプットしないと、
次へ進むことが出来ないと常々考えていますから、
いつかどこかで書こう書こうと思ってきましたが、
やっとここでそれをすることが出来ます。

メルマガやってて良かった笑。

なぜ「桐島、部活やめるってよ」が、
こんなにも引っかかったのか。



▼▼▼「Gゼロ」後の世界▼▼▼

突然ですが、「『Gゼロ』後の世界」という本を、
イアン・ブレマーという人が書いています。
私はこの本を2年前に読みました。

▼リンク:
http://amzn.asia/4Jch315

今は「激動の時代」と言われますが、
この「激動」はいつ始まったか。

そもそもの発端は、1991年のソ連邦崩壊です。

それ以降、世界史は「地殻変動期」に入りました。
ソ連邦崩壊がなぜ、それほど大きな出来事だったのか。

それはその前とその後で、
世界の「ゲームのルール」が変わったからです。

その前のルールとは何か?
「東西冷戦」です。

東西冷戦の「東」とは、
ソ連、中国、東ヨーロッパ諸国の、
アメリカから見たときに大西洋を挟んだ
東側にある国々のことで、
共産主義陣営を指します。

「西」とは、
米国を中心とする、西ヨーロッパ、日本などの、
大西洋を挟んだ西側にある国々のことで、
民主主義、自由主義陣営を指します。

まるで赤帽子と白帽子にわかれて戦う、
小学校の運動会のごとく、
世界の諸国はこの二大陣営のどちらかにつき、
覇権を争っていたわけです。

60年代の朝鮮戦争、
70年代のベトナム戦争は、
その「代理戦争」でした。

、、、で、
東西冷戦構造というのはそれはそれで大変ではあったが、
「なくなってはじめて分かった利益」というのがありました。

ひとつは、
東西冷戦構造が、力の均衡によって平和を保っていたことです。
当時は米国とソ連が、地球を何十回と破滅させられるぐらいの、
核兵器を保有していました。

逆説的ですが、その圧倒的な破壊力が、
文字通りの「抑止力」となって、
各国の帝国主義的な侵略行為や戦争行為を押さえてきました。

もうひとつは、
片側に「共産主義になると幸せになる」
というイデオロギーがあったために、
自由主義陣営の「自由さ」が押さえられていました。

どういうことか。

アメリカでも日本でも西ヨーロッパでも、
自由主義陣営が「むき出しの自由主義」を実践すると、
必ず経済格差が生まれ、社会に不満分子が生まれます。

その「満たされない労働者」が、団結して、
共産主義革命を起こすかも知れない、
ということが、自由主義陣営の各国政府の首脳に、
「のど元のナイフ」として効いていたのです。

だから共産主義陣営の存在が、
自由主義陣営の政府に、「社会民主主義的な政策」を行わせました。
累進課税によって貧富の格差を大きくしないように、
政府は目を見張らせる必要があった。

しかし「東側」がすっぽりとなくなったとき、
まさに「タガ」が外れたように、
「資本主義に内在する暴力」がむき出しの形で現れ始めた。
それによって「1%」VS「99%」というような、
一握りの富裕層が世界の富の過半数を保有する、
というような極端な格差が生まれた、というわけです。



▼▼▼世界の無極化と米国の弱体化▼▼▼

現代の世界の混乱は、
「東西冷戦構造」というパワーのバランスが崩れ、
世界が「無極化」したことが原因だと言われています。

冷戦終結直後の10年ぐらいは、
アメリカの一極支配が始まったかに見えました。
しかし9.11テロ、そしてその後のイラク戦争の泥沼化などで、
世界における威信を失った米国は、
「壮年期を過ぎて初老の国」であることを露呈しました。

その後のなりゆきは皆さんもご存じの通り、
復権するロシア、トルコ、イランなどの帝国主義に対し、
「思春期の男の子に怒れない老いぼれた親父」のごとく、
断固たる態度をとることが出来ず、
GDPにおいて、中国に抜かれる日は秒読み段階だと言われています。
(その後中国は大きく失速しましたので、
 これは「Gゼロ後の世界」執筆時点での話です。
 しかし中国の脅威を圧倒できない、という状況は同じであり、
 その不安感がトランプを当選させた遠因にもなっています。)

またISやテロの問題は、
じつは深いところで「暴走する資本主義のもたらす疎外感」と、
関係があります。

ですからマルクスが「資本論」で予言した、
「資本主義が内在する矛盾」が本当の意味で可視化したのが、
21世紀だと言えます。

どういうことか。

アメリカ国務省の発表によりますと、
ISに参加する戦闘員のうち、
中東の外から参加する若者の数は数千人規模に上ると言われています。

この若者たちはなぜわざわざ、
ISに参加するのか。

それは彼らが「救済」を求めているからです。

中間層が抜けおち、一握りの大富豪と、
大多数の生活困窮者に分かれたアメリカでは、
多くの若者がトレーラーハウスで生活しながら、
ホームレス寸前のところで職を探している、
という「貧困地区」があります。

そこで取材してみると、
その若者たちに大卒者も珍しくはなく、
なんとハーバード大学出身者までいます。

そのような人々も、何かの拍子に失業者となり、
社会に搾取される側にころげおちかねない。

一方この20年間、企業のCEOや金融業などの、
「ひとつまみ」の階層の報酬はあがり続け、
まさに天文学的な数字になっている。

そのような「不条理な世界」に嫌気が差した若者たちにとって、
「永遠に続くカリフ帝国を建設する。
 アラーのために命を失ったら天国に行けるだけでなく、
 来世で72名の処女をあてがわれる」
という物語は魅力的にうつるのです。

弱肉強食の「むき出しの競争社会」よりは、
すくなくともマシなのではないか、
と、ふとした瞬間に思った若者が、
ほろっと「向こう側」に行ってしまう。

オウム真理教のテロ実行者がたちがみな、
一様に高学歴だったことを知り、
日本社会は騒然としましたが、
そのときに近い構図があります。

まだまだいろんなことがあるのですが、
ISも、格差と疎外も、世界同時多発的な帝国主義化も、
すべて「東西冷戦終結」に端を発する、
というのが分かっていただければここでは十分です。



▼▼▼G1、G2、Gゼロ▼▼▼

話がどんどん映画から離れていきますので笑、
「Gゼロ」の話に。

つまり、東西冷戦という「ゲームのルール」が終わり、
新しい「ゲームのルールの均衡点」がまだ見つかってないのが、
今の世界情勢であり、その移行期的混乱を、
私たちは「激動」と呼んでいるわけです。

最初はアメリカの「G1」になるかと思われました。
フランシス・フクヤマという学者が
「歴史の終わり」という本を書いていますが、
これは「G1」を支持するポジションでした。

ところがどうやらそうではない。

この先世界はどうなるのか?

ある人はアメリカの中国の「G2」になるのではないか、
と言います。

ある人は、いやいや、やはりなんだかんだ言っても、
アメリカのG1支配はもうしばらく続くだろうと言います。

ある人はそこにロシア、インド、ブラジル、EUなども入れて、
「G20」ぐらいになるのではないか、と言います。

イアン・ブレナーはいずれにせよ、
今後世界は「Gゼロ」の時代という、
過渡期を通過するだろう、と予想します。

「Gゼロ」というのは、
レフェリーのいない他流試合のようなものであり、
世界情勢は「一寸先が見えない」という、
不安定な状態になるだろうということです。



▼▼▼本題:桐島、部活やめるってよ▼▼▼

、、、あれ?

「桐島、部活やめるってよ」の話じゃないの?

とここまで読んで思われた方。

大丈夫。

私も思ってます笑。

「桐島、部活やめるってよ」という映画がなぜそこまで、
人々に「語らせる」映画なのか。

それはこの映画に「桐島」が一度も登場しないからです。

この映画はバレー部のキャプテンで高校一の人気者の桐島が、
「どうやら部活やめるらしい」という噂が校内に拡がり、
その噂をめぐって、桐島の彼女、桐島の「親友」をはじめ、
校内のあらゆる「スクールカースト」に属する生徒たちが、
動揺し、揺れ動き、不安になり、ざわざわする。

それだけを描く、
という大胆な構成の映画です。

最初から最後まで、桐島本人は一度も登場しない。

では「桐島」とは何か。

それは座標軸における「原点」であり、
夜空における「北極星」であり、
太陽系における「太陽」なのです。

みな自分がスクールカーストのどのあたりにいるのか、
無意識に「桐島」からの距離を中心にして、
立ち位置を規定してきたのです。

それは社会的な距離だけではない。
部活においても勉学においても恋愛においても、
休日の過ごし方においても、
「桐島」という定点があり、
自分がその桐島とどれぐらいはずれているかで、
生徒たちは自分の相対的な地位を知り、
そしてある種の安心を得ていた。

「桐島の不在」はだから、
生徒たちにとって「座標軸の喪失」であり、
「北極星の雲隠れ」であり、
中世で言う「天動説の否定」なのです。

なので「桐島が部活をやめる」というのは、
「ゲームのルールの改変」の象徴です。

その「ルールの改変」の事実に、
もっとも狼狽し、自己の立ち位置を失い、
「聖なる天蓋が外された」ように感じたのは、
意外なことに、桐島の次にイケているとされていた、
桐島の「親友」、野球部の宏樹(東出昌大)でした。

宏樹はじつは、桐島に最も依存していた人物でした。
自分の生き方を、桐島を基準に考えていた。

遊び感覚で女性徒と付き合うことも、
運動が出来るけど部活とはクールに距離を置くことも、
だるいと言いながら優秀な成績を維持することも、
すべて「桐島」という座標軸があったから、
「イケている」という評判を勝ち得た。

だから桐島がいなくなったとき、
彼は最も動揺した。



▼▼▼桐島は何のメタファーか▼▼▼

この映画の原作者(同名小説)が、
どこまで意図的に書いたかは分かりませんが、
「桐島、部活やめるってよ」における桐島は、
じつは現代の日本にとって、二つのもののメタファーになっています。

勘のいい人はここまでで分かると思いますが、
ひとつは「天皇」です。

桐島はこの映画に登場しませんが、
この映画の中心です。

「甘えの構造」の中で土居健郎が看破していますが、
天皇とは日本における「空虚な中心」です。

東京湾からヘリコプターに乗り、
夜の首都圏を空から眺めると、
夜の東京の「光の海」の真ん中に、
ぽっかりと黒い穴があいています。

湖ではありません。

皇居です。

これが日本という国をよく現している、
と土居健郎は言います。

日本は「空虚な中心」を措定し、
その周囲の人々が空気を読みながら、
社会を動かす、という伝統を持ちます。
摂関政治の時代からの伝統です。

、、、で、桐島は、
この「空虚な中心」のメタファーになっています。
だから、「桐島、部活やめるってよ」という映画は、
「もしも日本から天皇制がなくなったら」という
シミュレーション映画としても、鑑賞可能なのです。



▼▼▼アメリカ、覇権国やめるってよ▼▼▼

次に「桐島」が隠喩するもの、
それは、そうなのです。

「アメリカ」です。

先ほどの表現を使いますと、
実は「桐島、部活やめるってよ」という映画は、
「アメリカ、覇権国やめるってよ」という映画としても、
鑑賞可能です。

世界情勢がどうしてこれほど不安定なのか。
いろいろあるのですが、間違いなくその主要な原因は、
「アメリカの衰退」です。

アメリカの凋落が、ひっそりと足音を立てて近づいている。

そのとき、日本はどうするのか?
憲法9条はこれでいいのか?
核武装するのか?
EUはこのままでいいのか?
中国はどうなるのか?
ロシアは?
ISは?
国際基軸通貨は?

、、、

アメリカという座標軸の「原点」が半透明になりつつある現代、
新しい「ゲームのルール」に対応するために、
これだけ国際社会は狼狽しているわけです。

この映画には(桐島を除いて)主人公が2人います。

さきほどの桐島の親友で学内ナンバー2の宏樹、
それから映画部でギーク(おたく)の前田君(神木隆之介)です。

学内を国際社会、桐島をアメリカ、
生徒たちを国連加盟国192カ国と見立てた場合、
日本とは誰なのか?

そう、日本は宏樹なのです。

宏樹はもっとも「桐島的価値観」に忠実な生徒です。
戦後自由主義陣営の優等生として今の地位を築いた日本は、
まちがいなく「宏樹」です。

そして、桐島がいなくなったことで最も動揺したのが宏樹でした。
いままでの高校生活が、いったいなんだったのだろう、
という、実存の危機に瀕するような狼狽を、
宏樹は経験します。

「ゲームのルール改変」に、宏樹は対応できません。

アメリカが覇権国をやめることで、
日本が経験する(すでにしている)動揺というのは、
この宏樹の狼狽と完全に合致します。

いっぽう前田君は、
スクールカーストでいえば、
「アウトカースト」であり、
最下層からも相手にされていない。

桐島が部活をやめる噂に、
もっとも影響を受けなかったのが前田君です。

前田君は女の子に振られますが、
その振られたくやしさを、趣味のホラー映画撮影にぶつける。
彼は「桐島的なるもの」の磁場から自由なので、
この「天変地異」にまったく影響を受けない。

「ルール改変以前」に、宏樹にとって前田君は、
「ナッシング」でした。

視界に入っていなかった。

しかしこの映画のラストシーンで、
非常に示唆的な出来事が起こります。

宏樹が前田君に話しかけ、
「そのカメラさわらせて」と言うのです。

「意味」を喪失した宏樹は、
カメラを持っているだけで楽しそうな前田君を見て、
「このカメラに秘密があるのかも知れない」と思うわけです。
何かここに魔法があるんじゃないかと。

そしてカメラを向けて前田君に聴く。

何で映画撮ってるの?
映画監督になりたいの?
女優と結婚したいの?
アカデミー賞が欲しいの?

宏樹は何を聴いているのかというと、
つまり、君たちが求めているものは何?
ってことです。

目標は?
結果は?
意味は?

と。

前田君は照れながら、
いやー、映画撮ってると、
好きな映画とつながっているような気がして、
と答えます。

つまり、
意味や結果や目標や地位や富ではい。
オレは好きでやってるだけだ、
と言っている。

ラストシーンは、
その前田君の答えに対して、
宏樹が哀しそうな顔をする、
というところで終わる。

これは監督も言っているそうなんだけど、
「大逆転」の瞬間だった。

宏樹は何をやっても完璧で、
すべてを持っていて、
あらゆることにおいて勝利者だった。

しかし宏樹にはただ一つ欠けたものがあり、
それは「意味」だった。
宏樹はそれを完全に「桐島」に依存していた。

だから「桐島の不在」にあれだけ動揺した。

それに対して前田君は、
意味とか目的とか関係ないし考えたこともない。
ただ好きだからやってる、と答える。

ここに大逆転がある。



▼▼▼桐島とアメリカ、宏樹と日本▼▼▼

宏樹を「日本」、
桐島を「アメリカ」と言い換えた場合、
意味や目的というのは、
「GDP」だったり「効率」だったり、
「民主主義」と言えるかもしれない。

しかし、仮にそれらが幻想だと分かったら?

その答えをおそらく、
今の日本人は持っていない。

そのような実存的な危機に対応出来る度量もなければ、
前田君のように確固たる生き方が出来る強さも持っていない。

しかし、もしかしたら、
あなたが好きで好きでやめられないこと。
お金が儲からなかろうが、
地位が得られなかろうが、
人から認められなかろうが、
関係ない。

これが好きでしょうがないんだ、
というものがあるなら、
そのあたりにヒントがあるかもね、
と監督は言っているのです。

「桐島、部活やめるってよ」はだから、
21世紀のすべての日本人への警告であるとともに、
エールにもなっています。



▼▼▼私の場合▼▼▼

私個人に関しては、どうなんだろう。
宏樹の気持ちも分かるし、前田君の気持ちも分かる。

公務員を辞めたとき、
多くの人から「もったいない」と言われました。
それでも今の道を選んだことを後悔はしていません。

この先食うことが出来なくなって、
この年で再就職も難しいので、
あんまり専門性を活かせる場所も見つからず、
たとえばどこかの清掃員とかすることになったとしても、
それでもこの道を選んで良かった、
と思うことでしょう。

私にとって、いわゆる経済合理性とは離れたところにある、
「見えない座標軸」がありまして、
それは私の信仰する神とつながっています。

その基準で前進することが出来るかどうかが問題なのであって、
「桐島的な意味でのカースト」からは、外れた場所にいても、
さほど痛痒を感じない、というのは前田君的ではあります。

公務員を続けていたと仮定すると、
私のこの10年の収入との落差は2000万円を超すと思われ、
それは確かに「損失」と呼べるかもしれない。

桐島的な意味を収入の多寡や、
自らの経済的安定のみに求める人からすれば、
私の行動は「社会的自殺」に他ならない。

しかし、この10年で私が得た「見えないもの」が、
その人には見えていない。

それは宏樹が前田君の見ているものを見られなかった構図と、
非常によく似ています。

私は時々、今でも自問します。

10年前に、公務員を辞めなかった自分と、
今の自分の、どちらが好きか。

、、、

答えは明確に出ています。

スティーブ・ジョブズの口癖の一つに、
『旅こそが報い』というのがあります。

私たちは夢を追うし、ビジョンを掲げるし、
目標を立てます。

しかし、その本当の報酬は、
夢の果てにある地位でも名誉でも金銭的報酬でもない。
そこにむかう「旅路」そのものが報酬なのです。

だとするなら、これまでの10年の旅は、
私にとって「良かった。」

たとえその中に、
2年間の「死の影の谷」が含まれていたとしても。

2年間、「魂の夜」で、
もだえ苦しまなければならなかったとしても。

それに、もし10年前の「決断」がなければ、
皆さんがこのメルマガを読むこともなかったでしょう。

、、、

と、ここまで書いてくると、
何か美談じみていてカッコよさげですが、
本当のところ、完全に「振り切った前田君か」というと、
まったくそんなことはない。

人の評判だって気になるし、この先のことが不安になることもある。
私は人間ですので、欲からも見栄からも無縁ではないです。

もし「私はそれらと無縁だ」と言う人がいたら、
そういう人こそ気をつけた方が良い。
 
高い格率で、思わぬところで足下をすくわれます。
人は問題に無自覚なところで大失敗するのです。

、、、話を戻しますと、
誰もが宏樹的な部分と前田君的な部分を持っています。

おそらく半分半分ぐらいに、
それをうまく配分できる人が、
これからの時代を逞しく生き抜く人なのではないかと、
私は考えています。

宏樹的な生き方だけでも駄目だし、
前田君的に振り切るだけで生き抜けるのは、
一部の真正の天才だけです。

私たちはこの世界と折り合いをつけながら、
それでも「この世界が押しつけるルール」とは違うところに、
自分のルール、自分の座標軸をしっかりと持って生きていく、
これが地殻変動の21世紀に、しなやかな生き方をするために、
身に付けるべき「技術」だと私は思います。



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