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今週の時事ネタ「森友学園問題について」

2017.09.14 Thursday

+++vol.005 2017年3月21日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 【新コーナ−】今週の時事ネタ

新コーナー、今週の「時事ネタ」です。

ブログでなくメルマガにした理由のひとつはここにあります。
ブログで最も書きづらいのが「時事ネタ」です。

べつに私は「炎上」するほどの影響力があるわけではないのですが、
この手の話題というのは、英語で言うなら「Touchy」であり、
何気ない「意見の表明」が、ある読み手にとっては、
神経を逆なですることになりかねない。
逆にある受け手にとってその「意見の表明」は、
「これこそ自分の政治信条の代弁だ」みたいになって、
変な形で拡散されたり、「シンパ」のように思われたりしかねない。

だからこそ「政治の話はタブー」なのでしょう。

有吉弘行が、父親から唯一言われたアドヴァイスが、
「人気商売をするにあたって、
 政治の話と宗教の話はぜったいするな」
だったと彼は著作に書いていました。

彼はそれを忠実に守っているように見える。
そして成功しているように見える。
私も非常に限定された意味においては、
「人気商売」的な側面もありますから、
本当に「成功」したければ、
ここには立ち入らないのが「正解」です。

私は教会に関する仕事をすることが多いですが、
教会でも多くの場合「政治の話はタブー」です。

読者の皆様の多くは会社などで働いておられると思いますが、
職場でも「政治の話はタブー」と推察されます。

学校に行っている人ならば、
「学校でも政治の話はタブー」でしょう。

近所づきあいをしている人なら、
「地域社会でも政治の話はタブー」でしょう。

、、、とすると、
今の日本社会で、政治の話がタブーでない場所って、
どこにあるんでしょう?

なんと、現実世界にはそんな場所はないのです。

ではどこに、「政治の議論」はあるのか。
じつはインターネットです。

そして端的に言って、インターネット上の「政治の話」は、
悪臭が漂い、魑魅魍魎が跋扈する危険な領域であり、
首を突っ込むと、あなたの首ごと強烈に腐敗します。
または耳や鼻を持って行かれかねない。
いつか説明しますが、「あの界隈」は非常に危険なので、
首を突っ込まないのが正解です。

そうすると、ハーバーマスのいうような「公共圏」で、
政治について開かれた議論を安全に聞くことは、
まず不可能ということになる。

そして良識的な人が沈黙すると、
やがて非常識な人の声が相対的に大きくなる。
クレーマー問題がそうですね。
「ノイジーマイノリティ効果」とでも呼べる。

、、、だとすると、良識的な人が、
ときにはリスクを背負い、ある種の覚悟をもって、
「何の得にもならないけれど」発言しなければならない。

私はそう考えます。

有吉弘行には鼻で笑われるでしょうが笑。

その「発言」をする場所として、
メルマガを発行することにした、というのも、
このメルマガを刊行する一つの理由です。

じゃあ私が「良識的な人」なのかどうか?

それはお読みいただいて、
その判断は読者のあなたに一任いたします。

ちなみに私はフランスの思想家ヴォルテールの、
次の言葉をたいせつにしています。

「私はあなたの意見に反対だが、
 あなたがそれを言う権利は死んでも守る。」

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


▼▼▼森友学園問題とは何なのか?▼▼▼

さて、本題です。

「時事ネタ」コーナーでは、
背景となった事件の経緯について、
基本的には説明を端折ります。

問題の経緯について何も知らない、
という方は、このあたりの記事を読んでください。

▼NHK WEB特集「森友学園 5つの疑問」
https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2017_0317.html

まず、私はこの問題について語るときに、
政治家の関与が云々とか、
土地の金額が云々とか、
財務省が忖度したとかしないとか、
防衛大臣が顧問弁護士だったかそうでないとか、
ワイドショーで毎日にぎやかしく報道されている、
そういった問題について
「屋上屋根を架す」つもりはありません。

むしろ一日3億円使われている国会が、
「ワイドショーに占拠」されている今の状況に対して、
「国会議員の皆様、お気の毒に」と思っています。
(ついでに言えば都議会も長いことワイドショーに占拠されている。
 本当に、茶番劇もいいかげんにして欲しいです。)

はやく本業に戻らせてあげたら良いのに、と。
これもまた「衆愚政治」のひとつの形態なのでしょう、と。



▼▼▼「森友問題」の何にひきつけられるのか▼▼▼

このニュースについて、ではなぜ私が興味をそそられるのか。
それは、「森友学園」という学園の存在そのものであり、
「なぜ現代の日本に『このような学校』が存在し、
 その熱狂的な支持者が一定数おり、
 そして『そのような支持者』と、
 今の政権中枢部のコアな支持者が、
 重なっているように見えるのか」
ということです。

説明します。

稲田朋美防衛大臣は、
3月8日の参院予算委員会で、
「教育勅語の精神は取り戻すべきだと考えている」
と発言しました。

その後14日に松野博一文科大臣は、
「教育勅語について、
 憲法や教育基本法に反しないような配慮があれば、
 教材として用いることは問題としない」
と発言しています。

まず知っておかなければならないのは、
稲田さんも松野さんも、
安倍総理大臣の「おともだち」だということです。

第一次安倍内閣は「おともだち内閣」と揶揄されました。
そして「おともだち」の失策により瓦解した。

第二次安倍政権はその反省を踏まえ、安倍総理は
「おともだち」を最小限に絞り、
さまざまな派閥から幅広く人材を登用し組閣した。

しかし当然例外もあり、
今回の内閣ならば、稲田さん、松野さんらは、
やはり安倍内閣の「おともだち」です。

安倍内閣の「おともだち」かどうかは、
どこで判断できるのか。

それは彼らが、
「日本会議国会議員懇談会」や
「神道政治連盟国会議員懇談会」
といった国家神道を支持する議員連盟に、
名を連ねていますからわかります。
(安倍首相は後者の会長です。)

ほかにも安倍さんの「おともだち」は、
NHKの籾井前会長、
そしてNHK経営委員の百田尚樹氏らがいます。

ここまででお気づきのことかと思いますが、
結果的に問題を起こして安倍政権の足をひっぱっているのは、
いつも、安倍さんの「おともだち」なのです。

安倍さんはですから、
第一次安倍内閣の失敗の反省を、
「限定的に」したと言える。

(ちなみに一連のこの「おともだち」のことは、
 池上彰さんが書籍に書いていたのを、
 私はここに「採録」しています。)

きっと安倍さんはとても「良い人」なのでしょう。

かつてお世話になった人や、
自分の味方になってくれた人の恩義に、
報いたいという律儀な性格を持っている。

百田尚樹さんは、第一次内閣を体調不良で降板し、
「下野」した失意の安倍首相を、
慰撫し、鼓舞し、激励した「恩人」です。

「日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ」
という、安倍首相と百田尚樹さんの対談本を読むと分かります。

▼日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ
http://amzn.asia/0r5oZ50

ちなみにこの本は、
読んでいて恥ずかしくなるような本です。

なんて言うんだろう。
お互いがお互いに媚びていて、
非常に閉じられた自分たちのインナーサークルにおける、
称賛と称揚と自画自賛を繰り返す。

ジャニーズのファンクラブ会員が読むために作られた、
「ジャニーズ礼賛本」みたいな感じ、
あるいは女子中学生同士の、
「○○可愛いよ!!」「いや○○のほうこそ可愛いよ!」
という際限ない誉め合いを聞いているような、
いや、それより恥ずかしい感じで、
読んでいて呼吸が苦しくなりました笑。

これを出版してこの人たちは恥ずかしくないんだろうか、と。

話を戻しますと、
安倍さんの「おともだち」が次々と問題を起こし低下した支持率を、
「かけ声ばかり経済政策」と「老人バラマキ福祉」で、
回復している、というのが安倍政権の「すべて」と言っても良い。

それでも私は安倍政権を「きわめて消極的に支持する」
もしくは
「支持はしないが、じゃあ代わりに、
 支持したい政党があるかというとそうでもない」
の間ぐらいで見ているというのは、
他が駄目すぎるからです。

そういった理由で自民党を「支持」している人は、
けっこう多いのではないでしょうか。
こんな風に究極の消去法で選ばれているのが今の自民党です。
ここ何回かの国政選挙はだから、
「自民党の圧倒的勝利」というのは間違いで、
「野党の圧倒的敗北」と見るのが正しい。
現に自民党の得票の「絶対数」は下がっています。

ロシアの選挙というのは古代アテネの「陶片追放」に似ていている、
と佐藤優さんがよく言っています。
つまり、政治家には3種類いる、
1.悪い政治家
2.すごく悪い政治家
3.とんでもない政治家
この中から2と3を除去するのがロシアの大統領選であり、
その結果プーチンは選ばれ続けている。

日本の政治もロシアに限りなく近づいてきている、
というのが私の見立てです。

話を戻しますと森友学園の籠池理事長は、
その「おともだち」のサークルの、
けっこう「外の方」に位置している、
「キワモノ」だったわけです。
(稲田さんの答弁を見るとそれすら怪しいですが)

なんていうんだろう。

どんな集団にも「ヤバイ奴」というのはいるので、
籠池理事長の存在がすなわち、
安倍政権のヤバさを現すとは、
私は思いません。

浅間山荘事件が起こったという事実が、
マルクスの理論の間違いを証明したことにはならないのと、
同じ事です。

正直な話、安倍さんとしては、
自分の「応援団」(もしくは身内)から、
このなのが出てきて「迷惑」している、
というのが本音でしょう。

籠池理事長の言っている
「トカゲの尻尾切り」というのはだから、
言い得て妙です。




▼▼▼安倍さんの「おともだち」とその支持者▼▼▼

、、、で、私が非常に興味があるのは、
籠池理事長はさておいたとしても、
これらの安倍政権の「おともだち」と、
それを支持する一定数の人々が今の日本におり、
その人々が相当の影響力を持っている、
という事実そのものに関してです。

先ほども言ったように、
安倍さんを支持し、「日本を、取り戻す!」に共感し共鳴し、
教育勅語に何かしらの愛着を感じ、
なんだったら日本国憲法は、
明治の「大日本帝国憲法」に戻った方が良い、
と考えるような人々が、
今の日本には一定数いるのです。

べつにそのような人がいることに、
「良い」も「悪い」もありません。

このメルマガ読者のなかにも、
「そのような人」が含まれているかもしれない。
その人はどうかご安心ください。
「あなたがその政治信条を持つ権利は、
 死んでも守り」ますから笑。

ただ、お願いがあるのですが、
あなたがもし「そのような人」だとしたら、
少なくとも安倍さんが書いたものや、
百田さんが書いたもの、
そういったものを読んでから、
反論していただけるとありがたいです。

「そのような人」に多いケースとして、
自分が支持している人がなんと言っているかすら、
把握していないということがあります。

こうなると絶望的です。

「おれは安倍さんを支持する。
、、、彼が何を言っているのかは知らないが。」
これでは困るのです。

私は議論から逃げませんが、
それでは議論になりません。

話を戻しますと、
「そういう人々の存在」は、
良いとか悪いとかではなく、
「あるんだから仕方ない」。

そこから始めるしかないと私は考えます。

では、「なぜ」それがあるのだろう?
それを考えるのが大切です。




▼▼▼日本会議と安倍政権▼▼▼

数年前から私はこの問題について結構考えてきました。
大変参考になった書籍を2冊紹介します。

▼「日本会議の正体」青木理
http://amzn.asia/htXbOzb

▼「日本会議の研究」菅野完
http://amzn.asia/iqlo8UG

先ほども述べましたように、
安倍さんを含む、安倍さんの「おともだち」の政治家は、
「日本会議国会議員懇談会」
「神道政治連盟国会議員懇談会」
とよばれる政治家のあつまりに名を連ねています。

ではこの「日本会議」とは何なのか?

よく誤解されているように、
日本会議とは秘密結社のような、
怪しげな組織ではありません。

規約もあれば会則もある。
現在の日本の法律にのっとり、
さまざまな活動を行っている「運動体」です。

企業でも役所でもありませんので、
「中間共同体」つまり、「労働組合」だとか、
「生協」だとか、「PTA」だとか、
そういったものに、集まりの性質としては近いです。
「宗教政治団体」とか「シンクタンク」とか、
表現されることもありますが、
いずれにせよ法律の枠組みの中で活動している、
活動形態としては「まっとうな集団」です。

事務局があり、事務局で働く職員がおり、
代表がいます。

ここで大切なのは、彼らの地道な活動がなければ、
第二次安倍政権は決して生まれなかっただろう、
ということです。

アメリカの「草の根保守」と言われる、
農村部の保守層がいなければ、
トランプ大統領が生まれなかったように、
日本会議の長年にわたる草の根の活動がなければ、
安倍政権は生まれていないわけです。

とすれば、
「安倍政権を理解するには、
 日本会議を理解しなければならない」
という論理的帰結になります。

この2冊の本も、そういった動機から執筆されています。




▼▼▼日本会議と「成長の家」と稲田朋美防衛大臣と▼▼▼

2冊の本を読んで、では何が分かったのか。

私がそれまでに知らなかった、
「日本会議」の姿がそこにはありました。

それは谷口雅春という教祖が創始した
「成長の家」という宗教の存在です。
日本会議を語る上で、
「成長の家」という新興宗教を外すことは出来ません。

「成長の家」の谷口雅春が書いた「生命の実相」という本は、
宗教団体「成長の家」の聖典であり、
そして「日本会議」の論理的支柱になっています。

なぜか。

日本会議の創始期の中心メンバーのほとんどが、
「生長の家」の活動家だったからです。

「成長の家」というのは、
世界各国のさまざまな宗教の「いいとこ取り」をし、
その上に「そして日本は偉大なのだ」という、
国家神道と国家主義を足したような、
とても「日本的な」宗教と言えるでしょう。

聖書の神話を「あれはアメリカで起こったことだ」と言い、
「アメリカナイズ」したことで成功した、
モルモン教に似ているかもしれない。

その後、成長の家は、
「日本国家主義」の部分と、
「宗教的精進」の部分に分裂します。

そして前者が「日本会議」をつくり、
後者は宗教法人「成長の家」として残った。

だから、現在の「成長の家」は、
日本会議に批判的であり、
従って安倍政権にも批判的です。

「生命の実相」の教義はつまり二つに分かれ、
「国家主義」と「純粋宗教」になった。
双頭の龍のようなものです。

その「国家主義」の部分の部分を担ったのが、
「日本会議」です。

稲田防衛大臣は2012年4月に、
靖国神社の啓照館で開催された、
「谷口雅春先生を学ぶ会」主催のイベントにおいて、
スピーチしています。

YouTubeに動画も残っていますが、
そこで彼女は「生命の実相」をかかげ、
これは自分の愛読書で祖母から受け継いだ本だ、
と告白し、戦後に押しつけられた憲法への批判や、
東京裁判への批判を行っています。

▼稲田防衛大臣スピーチ動画と全文書き起こし
https://hbol.jp/129132


彼女も、彼女の父も、彼女の祖母も、
「成長の家」と深いつながりがある、
(もっと言えばおそらく信者)ということは、
稲田さん自身が隠そうともしていない。

むしろ誇りに思っているふしがある。

それが国会での先日の、
「教育勅語の精神は取り戻すべき」
という発言になったのでしょう。

私は稲田防衛大臣が「成長の家」の信者だろうがそうでなかろうが、
「生命の実相」を愛読してようがそうでなかろうが、
日本国憲法を憎んでいようがそうでなかろうが、
東京裁判を不当だと思っていようがそうでなかろうが、
それはどっちでも良いと思っています。

それは彼女の個人の信条の問題ですし、
その信条を「民意の反映」として政策に実現させることが、
彼女の政治家としての仕事なのですから、
そうなさったら良いと思っている。

そして彼女が国会議員として選挙に当選するというのは、
ある一定の「民意」が、彼女の信条に共鳴している、
ということなのだから、それは堂々とするべきであり、
まわりがとやかく言うことではない。

反対のある人は、反対の信条を持って選挙に立候補し、
その信条を政策に実現させるというのが、
民主主義の「正攻法」です。




▼▼▼森友学園 保育園の教育が明るみに出したこと▼▼▼

私が興味があるのは「そこ」ではありません。
個別具体的な政治家の発言や信条のことというより、
もっと長い長いスパンで、
「どうしてこういう考え方、
 こういう物の見方が、
 日本社会で一定の影響力を持つのか」
という構造そのものに関心があります。

森友学園の保育園で、
園児たちが「教育勅語」を朗読しようが、
軍歌を歌おうが、「安倍首相、おめでとうございます。」
と声を合わせようが、私はそれについて何かを言う立場にない。

もしそれが駄目だということになると、
キリスト教系の幼稚園で園児が「主の祈り」を唱えたり、
仏教系の幼稚園で園児が数珠をもって「念仏」を唱えたり、
そういうことも「駄目」だということになる。

私は駄目だとは思いません。

私立の教育機関が、
生徒や子どもに祈りを唱えさせようが、
念仏を唱えさせようが、
教育勅語を読ませようが、
ジンバブエの国歌を歌わせようが、
保護者と教師が納得している限り、
外部の人間がとやかく言うことではない。

そう考えます。

ただ、「森友学園」の一連の報道が私たちに突きつけたのは、
「日本会議」とその周辺、つまり安倍政権の
コアな支持者のサークルが関わっている「なにものか」には、
「宗教」が関わっている、ということです。




▼▼▼オルタナ宗教としての「日本会議」▼▼▼

そろそろ文字数もオーバー気味ですので、
結論を急ぎます。

森友学園問題と、「安倍政権特有の保守色」について、
私が読み、調べ、考えてきたことを総合しますと、
こうなります。

「この問題は政治や教育の言葉では語れない。
 むしろこれは、『宗教』の問題だ。」と。

伝統宗教の衰退と、新興宗教の挫折によって何が起こるのか。
21世紀には、「宗教と名乗らない宗教」が力を持つだろう、
と佐藤優氏は指摘しています。

「宗教と名乗らない宗教」を、
私は「オルタナ宗教」と勝手に名付けました。
これにあたる言葉がなかったので、自分で作った笑。
言葉が見つからないときは作るに限ります。

佐藤氏は、オルタナ宗教になりやすいものは、
「カネ」と「国家」だと言います。

なぜか。

カネも国家も、「神の属性」を持っているからです。
カネはこの世の中で唯一、
「時間が経過しても価値が減退しない」ものです。
キャベツならば腐るし、机にしても劣化する。
しかしお金は時間が経過しても価値が減退せず、
逆に利子がついたりする。
「永遠性と不変性」という「神の属性」をまとっている。
だからカネは神の劣化コピーとして崇拝される。

「拝金教」はオルタナ宗教です。

次に国家も「神の属性」を持っています。
国家は合法的に暴力を独占できる唯一の機関
(byマックス・ウェーバー)なわけで、
「権力」をもっています。
そして国家は建前上は国民を庇護する。
つまり国家もまた主権や庇護者という「神の属性」をまとっている。

だから「ナショナリズム」もまたオルタナ宗教なのです。

カネと国家以外にも、オルタナ宗教はあります。
世界はユダヤ人に支配されている、というような
「陰謀史観」もオルタナ宗教ですし、
「反原発運動」もオルタナ宗教的側面を持ちます。
「自己啓発セミナー」はオルタナ宗教ですし、
「ロハスとヨガの集い」にもオルタナ宗教的なものがあります。

これらの「宗教を名乗らない宗教」がなぜ、
21世紀に影響力を持つのか。

それは、東西冷戦が終わり、
「大きな物語」が終焉し、
資本主義に内在する暴力が露骨な形で顕在化したことと、
関係があります。

その結果、人々は「アトム化」してバラバラになり、
共同体への帰属と、存在の拠り所を失った。

人類史を見ますと、
そのような「存在の拠り所」や、
「共同体への帰属」を担保してきたのは、
伝統的宗教です。

西欧ならばキリスト教が、
アジアならば仏教や神道や儒教が、
そのような「物語」や「共同体」を担保したわけです。

ところが近代以降、伝統的宗教の影響力は、
衰退の一途を辿っている。
20世紀にはさまざまな新興宗教が勃興しましたが、
それは伝統的宗教が担えなくなった役割の一部を、
彼らが代替したからです。

しかし、ジム・ジョーンズ事件や、
オウム真理教事件に代表されるように、
「新興宗教もヤバイぞ」というのは、
21世紀を生きる普通の人なら誰でも知っている。




▼▼▼オルタナ宗教と日本会議▼▼▼

しかし、人間の中から「宗教性」がなくなることはありませんから、
その「空っぽの真空」を何かで埋める「必要」は残っている。

それを代替しているのが、
「ナショナリズム」であり、
あるいは「拝金教」であり、
あるいは「地下アイドルへの熱狂」であり、
あるいは「自己啓発セミナーへの没入」なのです。

彼らは宗教と自称しませんが、
その内実は宗教です。

20世紀に日本人はオウム真理教事件を経験しましたが、
それを「つきつめて考えた人」はほとんどいませんでした。
「新興宗教ってヤバイよね」という話に「まるめて」しまった。

その「つけ」を、
オルタナ宗教という形で、
今刈り取っているのだ、
というのが私のおおざっぱな見立てです。

「日本会議」はオルタナ宗教そのものです。

日本会議のホームページから、
「日本会議が目指すもの」を要約すると、
以下のようになります。

皇室を中心と仰ぎ均質な社会を創造すべきではあるが、
(1)昭和憲法がその阻害要因となっているため改憲したうえで
 昭和憲法の副産物である行きすぎた家族観や権利の主張を抑え、
(2)靖国神社参拝等で国家の名誉を最優先とする政治を遂行し、
(3)国家の名誉を担う人材を育成する教育を実践し、
(4)国防力を強めたうえで自衛隊の積極的な海外活動を行い、
(5)もって各国との共存共栄を図る。
(菅野完「日本会議の研究」より)

そして、「皇室を中心とした均質な社会の創造」の元ネタを、
誰が考えたかと言いますと、江戸幕府を倒し明治政府を作った、
薩長閥の政治家たちです。

「戦前回帰」という山崎雅弘さんの本にこう書かれています。

→P141 
〈明治維新によって幕府が倒され、
 日本が封建国家から近代国家への変質を遂げますが、
 明治新政府は長州と薩摩の両藩出身者が
 その指導部をほぼ独占しているために、
 日本全体の統治者としての正当性が弱いことを
 自覚せざるを得なくなります。
 このため明治新政府は、幕府や将軍に代わる新たな
 「民衆の心を捉える全国レベルの指導者」として、
 天皇の持つ「神格」に着目します。
 岩倉具視や伊藤博文などの明治新政府の指導者は、
 明治天皇とその祖先を神格化して国のトップに担ぎ上げ、
 天皇の絶対的威光とその精神的背景である神道の教義を、
 自らの政治的正当性を補強する支柱として使う方策をとりました。〉

つまり明治政府が近代国家を作るために、
「神話」をでっちあげた。
それは宗教と政治の入り交じったような神話で、
それが日本の国家統合を、「人工的に」作り上げた、
ということです。

ですから、明治政府が作ったこの「国家神話」は、
「宗教」です。

現に明治政府は廃仏毀釈といって、
国家神道を推し進めるために、
伝統的な神道や仏教を排斥しました。

さらにそれが政教分離の原則に抵触していないという
「アリバイ作り」のため、
「国家神道だけは例外的に宗教にあらず」と強弁した。

21世紀の日本に、
墓から復活したゾンビかのように、
この「国家神道」と日本会議の理想を、
自らの理想として「召喚」しようとする人が、
少なからぬ数、存在するのは何故なのか。




▼▼▼失われた20年と日本会議▼▼▼

90年代以降の「失われた20年」と、
「東日本大震災」が鍵だと私は思っています。

80年代にバブルを経験し、
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われた日本の姿は、
いまは跡形もありません。

ジャッパン・バッシング(台頭する日本を脅威だとするアメリカの世論)は、
もはや過去のもので「ジャパン・パッシング(日本をスルーする)」、
さらには「ジャパン・ナッシング(眼中にない)」とまで言われる日本。

その日本を2011年に大震災が襲った。

端的に言って日本は意気消沈し、
自信を失っているわけです。

さらに伝統的な家族形態はばらばらになり、
アトム化した個人が中空を漂う。
かつてのような威信もなければ気迫もなく、
そして団結力もない。

そのような危機感をもつ「愛国者」にとって、
「日本会議」は魅力的に映ります。

再び日本を偉大にしてくれそうな気がする。
バラバラになった国家を再び力強く団結させてくれそうな気がする。
「メイク・ジャパン・グレイト・アゲイン」というわけです。

ですから「日本会議」だとか、
日本の右派政治家の問題を語るとき、
これを政治問題としたら問題を取り違えますし、
議論は空転します。

これはむしろ「宗教問題」なのです。

あとは各自、ご自身でお考えください、
と言いたいところですが、
私個人の見解を最後に申し上げたいと思います。

あくまで私個人の意見ですので、
読者の皆様に強要するつもりは毛頭ありません。




▼▼▼新約聖書と国家主義▼▼▼

私がなぜこの問題についてとても真剣に考えるかと言いますと、
私がキリスト教徒だからです。

そしてもし、私がキリスト教徒になっていなければ、
もしかしたら日本会議の主張に賛同していたかもしれないし、
そうでなくても、もしかしたら「カネ」や「国家」や、
「自己啓発セミナー」や「反原発運動」といった、
オルタナ宗教に巻き取られていたかもしれない、
いや、高い格率でそうなっていただろう、
と思うからです。

私は運命のボタンがひとつ掛け違えていれば、
籠池理事長を支持し、森友学園に寄付し、
子どもをその保育園に送り、
教育勅語は素晴らしい、と言っていたかも知れない。
そういう切実さがありますので、
この問題を他人事だと思えないのです。

私がキリスト教徒だから彼らに与しない、
というのは、「キリスト教は国家神道と相容れないから」
といようなシンプルな単線の話ではありません。

私はナショナリズムもある程度必要だと思っていますし、
国家神道が伊藤博文の「でっちあげ」だとはいえど、
私がもし伊藤博文だったなら、同じ事をしただろうな、
と思うほどに、日本が近代国家になるうえで、
あれ以外の方法で立憲国家に変身する術はなかった、
と思っています。

小室直樹氏が、
「日本人のための憲法原論」という本を書いていて、
それを読むとその経緯がよく分かります。

▼日本人のための憲法原論
http://amzn.asia/5GlGnm8

それならば何故、
私がキリスト教徒であることと、
「日本会議」がらみの思想と私が距離をとることに、
関係があるのか。

それは、新約聖書の「福音書」の隠れたテーマが、
「ナショナリズム」だからです。

福音書は、「国家とどう付き合うか」
ということを学ぶテキストとしても、
読解することが可能です。

キリスト教徒でもあった山本七平が、
「ひとつの教訓・ユダヤの興亡」という本に書いていますが、
イエスの生きていた時代のユダヤというのは、
現代日本がおかれた状況に非常に近く、
「ナショナリズム」がその大きな社会的な関心でした。

どういうことか。

当時を「パックス・ロマーナ」と呼ぶことがあります。
「ローマ帝国による平和」だった。

一方現代は「パックス・アメリカーナ」と呼ばれます。
「アメリカによる平和」ですね。

アメリカとローマ帝国の支配形態は、
驚くほどよく似ています。

ローマ帝国は周辺諸国を、
事実上の「属国」にするのですが、
強権を発動してその国の文化まで支配してしまわない。
うまく懐柔して手綱を握り、ときには傀儡政権を作り、
ときにはその国の「王」に権限を委譲して、
コントロールしました。

そうすることで支配下の国々でナショナリズムが暴発して、
「反ローマ運動」が起こらないように、手なずけた。

今のアメリカと非常によく似ています。
戦後、昭和天皇に戦争責任をとらせて死刑にするというのは、
選択肢としては、「あり得た」わけですが、
アメリカはそうしなかった。

それをすると、
最後の一人になるまで日本人はアメリカと戦うだろう、
と彼らは思った。
(そしてたぶん、その見立ては正しかった。)

だから「天皇」と「國體」を保存した。
日本側は「國體が護持された」と喜んだ。

でも今のままの封建的な立憲君主制では、
「アメリカの傘下」とは呼べない。

ギリギリのラインの妥協が「日本国憲法」だったわけです。
日本はだから、主権国家であって、なかば主権国家ではない。

事実上はアメリカの属国なわけです。

そんなのは誰も言いませんが、
戦後の「公然の秘密」であり、
誰も言わないけど誰でも知っている、
奇妙な事実です。

だいいち、「主権国家」の中に、
広大な領地に海外の軍隊が駐在していて、
その軍隊の人が交通事故を起こしても、
自国の裁判で裁けない。

それのどこが主権国家なのでしょうか。

歴代政権で、「アメリカを怒らせる政策」に舵をきって、
政権から首が飛ばなかった内閣はありません。
今の「集団的自衛権」の問題も、
「アーミテージ・ナイレポート」という、
アメリカの外交官の下敷きが元になって、
それを日本政府が実現している、というのが実態です。

当時のユダヤとローマの関係と、
現代の日本とアメリカの関係というのは、
とてもよく似ているわけです。

今はローマ帝国の「支配下」にあるが、
いつか自分たちの国から「ダビデのような王」が現れ、
ユダヤを再び偉大にしてくれる、
ということを当時のユダヤ人たちは信じていた。
それには旧約聖書の預言書からの根拠もあった。

いまの日本も同じです。
いつか自分たちの国は「日本国憲法」という首かせから自由になり、
日本を再び偉大にしてくれる「誰か」が現れる、
と熱心に信じる一派がいる。

その「誰か」が安倍内閣なのか、
自民党なのか、維新の党の政治家なのか、
あるいは天皇ご自身なのか、というところには差異がありますが、
おおかたの筋立てとしてはそういうことになる。

ユダヤの旧約聖書にあたるものが、
「教育勅語」だったり、「日本書紀」だったり、
江戸後期の「水戸学」だったり戦前の「国学者の書物」だったりする、
というのが今の日本です。

福音書に「熱心党員」という言葉が出てきます。
イエスの12弟子のなかにも熱心党員がいた、
と書かれています。

熱心党員というのは、
今の言葉で言えば「超国家主義者」であり、
ローマからの独立とユダヤ国家の復興を成し遂げるために、
武装蜂起も辞さない、という過激な集団でした。

つまり、今の日本会議とも少し似ている。

イエスを熱心党員が支持した理由は、
「イエスこそが、ユダヤを再び偉大にしてくれる、
 ダビデのような王だ」
と彼らが信じたからです。

だから彼らはイエスに、
「今こそ国を復興してくれるのですね!」
と何度も語りかけていますし、
イエスがロバに乗りエルサレムに入場されたとき、
彼らは本気で、
「ついにダビデのような王が、
 ユダヤにおいて戴冠する。」
と思っていたわけで、
彼らの思い描いていたのは、
イエスの政治家としてのデビューであり、
ユダヤのローマからの政治的独立でした。

ところが事の顛末はそうは運ばなかった。

彼らが思い描いていたのとは逆に、
イエスは十字架につけられ処刑された。

彼らは失望し落胆し、家に帰っていきました。

福音書を注意深く読みますと、
イエスは生きている間に、
彼らの「今こそ国家を復興してくれるのですね」
という発言を何度も「いなして」いることに気づきます。
あるいは「かわして」いると言っても良い。

「いや、私が言っている王国とは、
 あなたが言っているようなナショナリズムとは違うのだ」と。

「神の国はそのようにして来るんじゃない。」
「地上の支配ではなく、天の御国のことを私は言ってるのだ。」
「地上の王は支配するが、天の御国での偉大さは仕えることだ。」
「命を得るためではなく失うために私は来たのだ。」

熱心党員とイエスの会話は最後までかみ合わず、
イエスの磔刑のあと、聖霊によって目が開かれた彼らは、
やっと気がつくのです。

自分たちが願っていた、
「国家の復興」と、
イエスが言われた「神の国」は、
まったく位相が違うことだったのだ、と。

つまりイエスは国家を越えた、
もっと普遍的な原理原則について言っていたのであり、
彼らの「ナショナリズム」については、
否定も肯定もせず、「私の関心はそこではない」と言い続け、
最後の最後まで「降りていく生き方」を実践し続けたのです。

つまり、
イエスは「ナショナリズム」に関して、
なんら意味のある「反論」も「賛同」もしていない。
イエスの生き方とナショナリズムは、
同一平面になく平行でもない、
幾何学でいう「ねじれ」の関係にあった、
ということです。

熱心党員とイエスの会話はだから、
「明日は晴れですか?雨ですか?」
という問いに対して、
「地球は太陽のまわりを回っています。」
という答えのような、
かみ合わない会話として福音書に何度も繰り返されます。




▼▼▼森友学園問題に関して、「私の結論」▼▼▼

ここからは私がキリスト教徒として、
何を学んだかについてです。

それは、「普遍」を追い求めることの重要性です。
ナショナリズムというのはときには必要です。
昨年私はウクライナに行き、それを痛感しました。

しかし、
それを信奉しはじめると、
私たちは真理が見えなくなります。

私たちが求めるべきはあくまで「真理」であって、
ある時代の、ある土地に住む、ある言語を話す、
特定のグループの集団的同調圧力に屈することではありません。

戦前は日本全体がそのような同調圧力に屈し、
「全体主義国家」となって破滅の道を歩みました。

私は聖書から以上のようなことを学び取っているから、
「ナショナリズムとの付き合い方」を心得、
「オルタナ宗教」に対するある種の免疫を持っている、
と感じています。

読者の皆様の満足いく解説になっているかどうかは分かりませんが、
「森友学園の問題」に接したときに私の目から見える風景は、
以上のようなことになります。

つまり
1.この問題は政治問題ではなく、宗教の問題である。
2.宗教と名乗らない宗教が今後もさまざまな形で隆盛するだろう。
3.私のキリスト教信仰は、これらに対して一定の視座をもたらす。
4.ナショナリズムを否定はしないが、一定の距離をとりつつ、
 「普遍的に大切なこと」を求め、世間の同調圧力に屈さない態度が大切だ。




▼▼▼小田嶋隆さんのコラム▼▼▼

森友学園問題について、
私の好きなコラムニストの小田嶋隆さんが、
コラムの中で以下のように書いていました。
この文章は私の言いたいことの多くを代弁してくれているので、
最後に引用します。

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〈彼らが必ずしももう一度戦争をしようとしているのだとは思わない。

 ただ、彼らが、占領軍によって全否定された(と彼らが考えている)
 戦前的な美しい日本を「取り戻そう」としていることは
 どうやら間違いのないところで、
 その「美しい日本」の価値を根本のところで支えているのが
 教育勅語であることも動かしがたいポイントではある。
 先に挙げた国会における(教育勅語の)排除も、
 それが行われたのが占領下であったことを、
 得々として指摘することだろう。

 その「教育勅語」のキモというのか、
 核心に当たる根本思想は、「個」よりも「集団」を重んじ、
 「私」よりも「公」に高い価値を置き、
 個々人の自由よりも社会の秩序維持に心を砕く社会の実現ということで、
 これは、実は、任侠でも暴走族でも体育会の野球部でも
 ブラック企業でもお役所でも同じことなのだが、
 要するにわれらが日本の「強いチーム」の鉄則そのものだったりする。

 、、、(中略)、、、

 戦前の日本の子供たちを皇軍の兵士に
 仕立て上げるにあたって大きな役割を果たし、
 そのことで一度は教育現場から追放された教育勅語が、
 いままた復活への道を歩みはじめている現今の状況は、
 私の思うに、大げさに言えば、
 戦後の平和教育ならびに戦後民主主義の敗北ないしは解体を意味している。

 実際、教育勅語の復活を主張している人々は、
 そのまま日本国憲法の経年劣化と無効化を言い募る人々でもある。

 で、われわれはまたしても、八紘一宇の理想に舞い戻るわけだ。

 自民党の憲法改正案をめぐる議論を読み返していると、
 あらゆる場面で「行き過ぎた個人主義」という言葉が、
 実に数多くの議員の口から、
 何度も何度も繰り返されていることに驚かされる。

 それほどに、彼らは、個人主義を憎んでいる。

 このことは 自民党の憲法草案の中で、
 日本国憲法の中の「個人」という言葉が、
 すべて「人」に置き換えられていることを見ても明らかなことだ。

 ちなみに、「公共の福祉」というフレーズは、
 一つ残らず「公益及び公の秩序」という文言に改められている。

 さらに私を憂鬱な気持ちにさせるのは、
 自民党の議員の間に広がっている個人主義嫌いが、
 決して彼らにだけ共有されている特殊な思い込みではなくて、
 現代の若い世代をも含めた平均的な日本人の
 ごく当たり前な多数派の思想でもあるという点だ。

 われわれは、ひとつになることが大好きで、
 寄り添うことが大好きで、
 自分たちがひとかたまりの自分たちである状況に
 強い愛着を抱いている。

 戦前の常識では、
 教育勅語が体現する思想を貫徹するためには、
 中心に天皇を持ってこないと話のスジが通らなかったものなのだが、
 21世紀に教育勅語を召喚しようとしている人々は、
 あるいは、天皇抜きでも中央集権が可能だと考えているのかもしれない。

 まあ、真ん中が空洞でもドーナツは丸いわけだし、
 不可能ではないのだろうし、この様子だと、
 その彼らの理想が実現する時代は、
 そんなに遠い未来ではないのかもしれない。

 その世界の中で、ドーナツの一部になる事態を、
 私はできれば回避したいと願っている。
 一片のパン屑として生涯を閉じることができるのであれば、
 それで不満はない。〉

▼日経ビジネスオンライン 小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・ケイク」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20081022/174784/




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