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新コーナー「私のお笑い論」

2017.11.02 Thursday

+++vol.012 2017年5月9日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 【新コーナー】私のお笑い論

新コーナーを立ち上げます。
その名も「私のお笑い論」。

見切り発車ですので(笑)、
何を書くかまったく決めてません。

とにかく、お笑い有識者を自称する私が、
お笑いについて語りまくる、
そういうコーナーです。

独断と偏見とお笑い愛にまみれたコーナーにしたい、
そう願っています。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼新コーナー、「私のお笑い論」へようこそ▼▼▼

、、、さて、新コーナーが始まりました。
(まぁ、私が勝手にはじめているんですけど笑)、
タイトルは「私のお笑い論」です。

「お笑い」といっても、
これはもうねぇ、めちゃくちゃ間口も奥行きも広い話なので、
いったい何から手をつけて良いか分からないという。

ただ今日は初回ですので、
そもそも「笑い」とは何なのか、
みたいなことについて、私がこの何年か、
考えてきたようなことを、話せればと思っています。

まず、「笑い」の古典に、
ベルクソンの「笑い」という本があります。

私は笑いを研究する者、笑いの求道者として、
この本は押さえておきたいとずっと思っていましたが、
そのうちに、、、と思っているうちに時間ばかり過ぎ、
やっとこさ図書館で借りて読んだのは今年の1月のことです。

読んでみて、この本が「なぜ古典なのか」が、
分かった気がしました。

確かにこれは古典です。

▼参考リンク:「笑い」ベルクソン
http://amzn.asia/8cuJN3O

この本には、じつは私たちが日常目にする「笑い」の、
すべてが詰まっている、と言っても過言ではない。

ベルクソンはこの本で、大人の「おかしさ」の原型は
すべて子どもの遊びやおかしさのなかに見いだせる、
という仮説から出発して、
古典喜劇などの「おかしさ」の要素を抽出して
定式化しようと試みています。

以下に引用を交えて、
1924年という、今から100年近く前に書かれた本書が、
いかにみごとに現代の笑いを説明することに成功しているか、
ということを指摘していきたいと思います。


▼ひとつめ。
人間から「人間性を抜き取ったもの」はおかしさを感じさせる。
モノマネだとか、ロボットのふりをする人間だとか。
「生き物らしさのなかにある機械らしさ」は面白い、
とベルクソンは指摘しています。

これはなぜモノマネが芸として成立するのか、
また、「ごっつええ感じ」の「アホアホマン」など、
なぜコントの設定にロボットものという、
ジャンルが存在するのか、という説明になっています。


▼つぎに、
アンビバレントな葛藤の中の緊張からは「おかしさ」が生まれる。
率直な物言いと、相手を傷つけまいとする、
「慇懃の間」などが面白いのだ、
とベルクソンは指摘しています。

いわゆる「葬式コント」や「殿様いじり」はこれ。
「緊張と緩和」は面白いのです。
コントの設定に悩んだら、
とりあえず葬式で屁をこいておけば良いのです笑。
このジャンルは昔は志村けんの独壇場でしたが、
最近だとTKOがめちゃくちゃ上手です。


▼機械的な連鎖反応にはおかしさがある。
AがBを殴り、BがCを殴り、、、など、
暴力がエスカレートしていくなどのパターンにも、
おかしさがあるとベルクソンは言っています。

Eテレの「ピタゴラスイッチ」や、
「トムとジェリー」はこの理論に血肉を与えたものです。
トムとジェリーは連鎖反応だし、
ピタゴラスイッチも連鎖反応です。
子どもが飽きることなく延々とああいったものを見る、
というのはそこに「連鎖反応がもたらすおかしさ」
があるからです。


▼さらにベルクソンは、YがZをなぐり、Zが最初のAを殴る、
というように、その連鎖が直線的ではなく円環的であるとき、
さらなる「おかしさ」が生まれる、と言っています。

漫才の「オチ」というのは、
しばしば最初の問題提起への回帰になっています。
最初に「彼女が欲しいんだけど、、、」で始まったネタが、
漫才の掛け合いの応酬があり、
たとえば地球環境みたいな話にまで展開したあと、
最後の台詞で「あぁ、やっぱ彼女いらないわ」
「いらないのかよ、もういいよ!」
で終わる、みたいな伏線の回収の方法があります。
これはベルクソンの「連鎖の円環」です。


▼また、「繰り返し」はおかしさを生む、
とベルクソンは言っています。

これは日本のお笑いやバラエティでも、
「天丼」として定式化されています。
「天丼」というのは、他の人がいった、
ちょっと今の面白くなかった?という空気が生まれた台詞を、
まったく違った文脈で繰り返したりすることを言います。
ますだおかだの岡田さんなんて、「人生が天丼」です。
殆ど「パァ」と「出た!」と「閉店がらがら」の、
3つの天丼だけで彼はやりくりしている。
彼は多くの人が誤解しているように、
「つまらない」のではありません。
逆です。
ミュージシャンならば、ギターのコードを三つしか使わず、
ヒット曲を飛ばし続けている、みたいなもので、
これはもう、桁外れの才能です笑。
ちなみに皆様もご存じのとおり、
赤ちゃんは「天丼が大好物」です。
「いないいないばあ」は天丼ですから。


▼ベルクソンは「ひっくり返し」はおかしさを生む、
と指摘しています。
罠を張った人自身が罠に引っかかる、
ぺてん師がペテンにかかるなどです。

日本のバラエティなら
「ドッキリを仕掛けていると思っている人が
実はドッキリにかけられている」逆ドッキリや、
漫才で「ツッコミが間違っているというボケ」という、
「ツッコミでボケる」タイプの漫才がこれにあたります。

(ツッコミでボケる漫才は、
この2、3年でとても増えて来ています。
古くはタカアンドトシの、
タカが、「サッカーボールか!!」
と唐突にトシの坊主頭を殴る。
トシがそれに「何が?」とツッコむ、
みたいなくだりですね。)


▼さらに引用します。

→P135 
〈一つの情況は、それが絶対的に無関係な
二つの系列の出来事に同時に属しており、
かつ同時に全く異なる二つの意味で
解釈することが出来るときには、
おかしさをもったものとなる。〉

これはアンジャッシュの掛け違いコントが、
まさにしていることです。
彼女の家にいくと偶然、彼女のお父さん(渡部)が、
ブラジャーをしているのを目撃してしまう。
お父さんは宴会芸の準備をしていただけだが、
彼氏役の児島は、
お父さんがガチでそういう趣向を持っていると勘違いする。
お父さんが何気なく、「私もすきでねぇ」とか、
「君も今度どうだ一緒に?」みたいなことを、
彼氏に言う。
彼氏はゲイの世界に誘われていると思ってたじろぐが、
お父さんは宴会芸の話をしている、みたいなやつですね。
このときお父さんと彼氏は同じ言葉をしゃべっているが、
まったく違う世界を見ているわけです。
こういうとき笑いが生まれる、
とベルクソンは100年前にすでに看破している。
すごいです。


▼さらに続きます。

→P140 
〈登場人物たちが全篇を通じて
まったく変わることのない関係性を保ち続けるものの、
そのうちの何人かが隠し事をしていて口裏を合わせなければならず、
大きな喜劇の中でもう一つの小さな喜劇を演じるようにする、
という手法もある。〉

もうこれはみなさんおわかりだと思います。
そう、これは典型的な吉本新喜劇のプロットです。
吉本新喜劇には高確率でヤクザ(借金取り)と、
警察が出てきます。
従業員は主人がいることを借金取りに隠します。
そこへ警察が現れ、従業員は今度は借金取りがいることを、
警察に隠さなければならなくなる。
そこへ空気を読めなず主人が登場してしまい、
ヤクザがつられて出てきて、、みたいな、
「情報開示の非対称性」がもたらすおかしさが、
そこにあるわけです。


、、、とこのように、
今日はベルクソンの「笑い」という古典から、
「笑いのパターンにはどのようなものがあるか」
「そしてそれがすでに100年前にほどんど出そろっていた」
ということを見て来ました。



▼▼▼「古典の力」▼▼▼

ベルクソンの「笑い」は、
「笑い」をテーマにした本には、
ほとんどと言っていいほど引用されている古典です。

温故知新というとあまりにもありふれた表現ですが、
じつは本当に新しいものを生みだそうとする人は、
新しいものを追いかけてはダメなのです。

これは教育でもビジネスでも芸術でも宗教でも、
ありとあらゆることに敷衍できる原則です。

「新しいものばかり追いかけている人に、
 新しいものは作り出せません」

なぜか。

我々はみな「古典という巨人の肩に乗って」、
世界を見ているからです。

新しいものの中に新しいものがあると思っている人は、
足下の巨人が見えていないのです。

そういう人の作るものというのは往々にして、
「安っぽい模倣品やアイディアの二番煎じ」になります。

本人は「これは俺にしか思いつけない」と
酔いしれていますが、
周囲はそれを見てどこか既視感を覚えます。

なぜそうなるのか。

新しいものを追いかけ続けている人は、
本当は向かうべき方向と、
真逆に進んでいるからです。

めちゃくちゃ大きな大木が立っているとき、
それと同じだけの深さの「根」が
地中には張り巡らされています。
めちゃくちゃ高いビルが立っているとき、
それに比例するように、
基礎工事は深く掘られています。

私たちが自分の働く現場で、
本当に革新的な何かを生み出したければ、
上へ向かってぱくぱくと口を開けてジャンプするかのように、
新しい情報を追いかけ続けてはいけません。

むかう方向が逆なのです。
本当は地面を深く掘らなければならない。
それが何を意味するかというと、
歴史を知り、古典を読むということです。

パタゴニアというアウトドアブランドの創業者、
イヴォン・シュイナードは、
「流行というのは常に時代遅れだ」と言っていますが、
その言葉の意味は、つまりそういうことです。

では本当に新しいものはどこにあるのか?

それは「古典」のなかにあります。
古典を読むというのは、
巨人の脳内に入り込んで風景を見るのに似ています。
そうして初めて、「ではそこから何を発展させられるだろう」
と考えることができる。

これは私の活動にとって大切な、
いわば企業秘密でもあるので、
本当は人にシェアしたくないのですが笑、
でもメルマガ読者の皆様には特別に、
その秘密を公開します。

「新しい」ものとは何か。

それは、「古典の再解釈」から生まれます。
古くから知られ、古くから読まれているものを、
「再定義」あるいは「再解釈」する。

再文脈化、リフレーミングという言葉を使っても良いのですが、
どんな表現を用いたとしても同じです。

いつの時代も「本当に革新的なアイディア」というのは、
「古典の再解釈」から生まれます。

究極の実例を挙げますと、
「キリスト教」は「ユダヤ教の再解釈」です。
有史以来、この2,000年間の人類の発展というのは、
めざましいものがありますが、
その「文明」は、キリスト教の上に乗っかっています。
近代科学も、近代的政治機構も、資本主義経済も、
キリスト教をその理論的下敷きにしている。

ではそのキリスト教はどこから始まったか。

それは、「イエス」という一人の男が、
それまで過去2000年以上続いていた、
ユダヤ教の伝統的解釈を「解体」し、
「再定義」したからです。

私はキリスト教徒なのでこれに自分の信仰がのっかりますが、
ここでは信仰は差し引いて、史実だけを語ります。

史実だけを語った場合、
キリスト教は最初の100年ぐらいは、
「ユダヤ教から生まれたカルト」でした。

仏教からオウム真理教が生まれたり、
日蓮宗から創価学会が生まれたのと、
同じ現象として、当時のローマ帝国は、
キリスト教を捉えていたわけです。

しかしそれが2,000年後の今、
世界で最も普遍的な宗教になっている。

あと、仏教もバラモン教のカルトです。
ブッダという宗教的天才が、
「バラモン教を再解釈した」のが仏教なのです。

「笑い」の話をしていたら古典の話になっちゃいましたが、
今のお笑い芸人の中で本当に賢い「生き残る」人というのは、
過去の笑いを踏まえた人です。

落語を聞き、ドリフや志村けんを見、
「ごっつええ感じ」を繰り返し勉強した人、
そういう人がそれらの「古典」に、
新たな解釈を与えていく。

そういう形で笑いというのは発展していくのです。

繰り返しますが、これはあらゆることに通じます。
セールスでも組織論でも、宗教でも教育でも、
地域コミュニティ作りでも学術論文でも同じです。

「真に新しいものは、
 古典の再解釈である」

これを覚えておくと、
わりといろんなことに応用可能ですので、
御参考までに。

、、、短いですが今日はここまでにします。




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