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【Q】安息日を守るとは?

2018.05.24 Thursday

+++vol.041 2017年12月5日配信号+++


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■3 Q&Aコーナー

皆さんからお寄せ頂いた質問にお答えするコーナーです。

日頃の悩み、疑問、今更誰かに聞けないギモン、、、、
質問の種類は問いません。お気兼ねなくご質問をお寄せください。
ご利用は下記に基づいてご利用いただけると幸いです。

【Q&Aについて】
▼全てのご質問にお答えすることはできません。予めご了承ください
▼いただいたご質問は、ブログ・FVIメディアルームに掲載される可能性があります
▼本名での投稿の場合は「ペンネーム:無し」となります
▼必ず下記フォームからご質問を送信ください

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

【Q&Aコーナー専用フォーム】

▼URL
https://www.secure-cloud.jp/sf/1484051839NyovBkYI

※大変お手数ですが一つの1メール1質問を原則とさせてください。
ご協力宜しく御願い致します。

※頂いたメールはすべて目を通しております。
陣内俊への要望やメルマガの感想、激励などももちろん大歓迎です!

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

●【Q】安息日を守るとは?

ラジオネーム:そら(女性)
お住いの地域:栃木県

A.

初めまして。
毎回火曜日の配信を楽しみにしています。
「情報化社会における信仰者の生き方」という
先生のyoutubeをみさせていただきました。
本当に情報が多い時代にクリティカルになることって大切ですよね。
異端かどうかを定める判断を
「私をイエス様に似せるか」どうかであることも納得しました。

ただ、なおも私を混乱させているのは、
海外に住んでいた期間に土曜礼拝の教会に通っていたことがあり、
安息日(土曜日)を守るという体験をしました。
日本では守ることはできていないのですが、
安息日を守ることは祝福であると実感しました。

実際に安息日を守ることはイエス様がしていたことですし、
もちろん守れないから救われないという律法主義に
至ってはいけないと注意を払っていますが、
クリティカルに考えた上でも
やはり安息日を守ることは異端だとは思いません。
また、安息日を守りたいと思いつつ、
自分の通っている日曜の教会を変えたいとは思いません。
先生でしたらどうお考えになりますか?


Q.

そらさん、ご質問ありがとうございます。
そしてYouTube動画を観ていただきありがとうございます。
(私は非常に限定された空間以外では「先生」ではないので、
 どうぞ、陣内さんとか俊君とか、
 キミとかお前とか、そう呼んでいただけたら感謝です笑。)

▼参考動画:「情報化社会における信仰者の生き方」
https://youtu.be/QjLVHvaXmDA

、、、で、ご質問の件ですが、
私は按手礼を受けたキリスト教の正式な教職者ではない、
つまりいわゆる「キリスト教の先生」ではないという前提の上で、
あくまで「公式な見解」としてではなく、
いち信仰者として、私が安息日についてどう考えるか、
ということを語らせていただきます。

ご質問を拝読させてえいただいて、
まず「整理」する必要があると感じました。

それは、そらさんが、
「安息日を守る」という言葉で意味しているものと、
私が普段「安息日を守る」というときに意味しているものが、
もしかしたら違うのかもしれない、ということです。

文章から拝察するにそらさんは、
「土曜日に教会で礼拝を捧げる」
ことを「安息日を守る」という言葉で、
意味しているように思われます。

私にとって「安息日を守る」というのは、
「週に一回、完全に心身を休める日を設ける」ことを意味します。
それは「教会での礼拝」とは関連がありません。
つまり「安息日」という概念と、
「教会で捧げる礼拝」という概念は、
別のものだと私は認識しています。
(異論・反論は受け付けます。)

しかし私がそう考えるのには理由がありまして、
十戒に記されている「安息日(シャバット)」は、
ユダヤ教では土曜日のことです。
正確には金曜日の日没から土曜日の日没までです。
メシアニックジューといわれる人々のなかには、
「ユダヤ教からキリスト教に改宗した」のではなく、
「イエスを信じるようになったユダヤ教徒」という、
アイデンティティを持つグループがあります。
(私たちが「パウロは(私たちが考えるような意味で)クリスチャンだ」
というのは実は時代認識の捨象がもたらす誤りで、
ユダヤ人であった使徒たちやパウロも、
このアイデンティティに近かったと信じています。)

、、、で、とにかく「安息日」というのは、
いかなる意味においても「土曜日」なのです。
キリスト教徒が「安息日は日曜日だ」と言ったとしたら、
それは事実誤認か、もしくは定義の誤りです。
聖書に「日曜日が安息日だ」と明確に読める記述は、
どこにもないですから。

では、なぜ日曜日にキリスト教会はミサや礼拝を持つようになったのか。
2つの理由があります。
ひとつは、原始教会がシナゴーグに共に集まり主を礼拝したのが、
「主の復活の日」だったということ。
イエス様が十字架にかけられたのが金曜日、
その最初の安息日の次の日が復活の日ですから、日曜日です。
彼らは主の復活を覚えて、
日曜日にパンを割き祈りをし礼拝していました。
これが多くのキリスト教会が、
日曜日を「聖日(安息日ではない)」と定義している、
理由のひとつです。

もう一つの理由は歴史的で政治的です。
コンスタンティヌスがキリスト教をローマ帝国の「国教」としたとき、
その礼拝の儀式を異教の人々の生活様式に合せる必要があったからです。
「ミラノ勅令」が出された時点でローマ帝国の全人口に占める、
キリスト教徒の割合は1割〜2割と言われていますから、
まだ「マイノリティ」なのです。
当時、ローマ帝国の多くの人々は太陽神を崇拝しており、
日曜日に太陽神に礼拝を捧げていました。
ローマ帝国の公式な国教にキリスト教を導入するにあたり、
スムーズに人々が適用できるように、
キリスト教の公式の礼拝の日を日曜日と定めました。
ちなみに日曜日は「Sunday」ですが、
この「Sun」の語源は太陽神です。

さらにさらに。
なぜプロテスタント教会の日曜日の「朝」なのか。
日曜日の夜でも、夕方でも良かったのではないか?
それは、アメリカの歴史と関係があります。
アメリカはピューリタンと呼ばれるプロテスタント教徒が建国しましたが、
彼らの多くは農家でした。
小麦を栽培したり牛を飼ったりしていたわけです。
そして西部を開拓する旅を続けながら所々に小さな街を形成しました。
その街の求心力というか、中心にあるフォーカスは教会でした。
、、、で、農作業に休日はないですから、
農夫は教会で礼拝を捧げた後に農作業に出かけるために、
あるいは朝の搾乳作業と午後の作業の間に礼拝できるように、
「朝10時」になった、という説が有力です。
日本のプロテスタントはアメリカ経由で伝わっていますから、
その影響を強く受けた日本の教会の多くは、
「朝10時」を踏襲している、というわけです。

、、、こう観てきますと、
「日曜日の朝10時」に特段重い宗教的意義が、
あるわけではないのが分かります。
(主の復活を祝う、という意味はもちろんありますが、
 それは毎日祝えば良いわけです。)

むしろ宗教的意義が重いのは土曜日のほうです。

間違っていたらすみませんが、
おそらくそらさんが海外で行っていたという教会は、
セブンスデーアドベンティストの教会だったのではないかと拝察いたします。
私も立川のセブンスデーの教会の建物に入ったことがありますし、
荻窪のセブンスデーの衛生病院にも、
家族や身近な方が多くお世話になっています。

、、、で、
セブンスデーアドベンティストの公式ホームページを観ますと、
こう書いてあります。

〈セブンスデー・アドベンチスト教会(以下アドベンチスト教会と略す)は、
聖書主義に立つキリスト教・プロテスタントの教会です。
アドベンチスト教会は、
聖書に示されている神の愛による救いを全人類に伝え、
その愛を、人々の必要に応えるさまざまな活動を通して
実践しようとしています。

アドベンチスト教会の名称の由来ですが、
「セブンスデー」とは、「第7日」の意味で、
これは週の第7日である聖書の安息日を
聖日として守る教会であることを表しています。
また「アドベンチスト」とは、聖書の重要な教えである、
キリストの再臨(アドベント)を待望する人々を意味します。
そのほかにも、アドベンチスト教会を特徴づけるいくつかの教えがあります。
その教えは多くの点において、プロテスタント諸教会と共通しています。〉

私はプロテスタント教徒として、
上記の記述に関してだけ言えば、
いかなるポイントにも「引っかかりません」。
ですので、土曜日に主を礼拝することは、
まったくもって素晴らしいことと思います。

先に挙げたメシアニックジューの会衆の、
土曜日(シャバット)に行われる礼拝にも参加したことがありますが、
私はとても素晴らしいものだと思いました。

、、、ではなぜ、
私は日曜日に教会で行われる礼拝に(健康や状況が許す限り)、
極力参加しようと思うのか。

、、、それは私が「教会とは共同体である」ことを信じているからです。
共同体としての教会は、キリストの身体として、
「共にパンを割き、共に祈りをし(使徒2章)」とあるように、
儀式や礼拝や献金や聖書の学びや分かち合いや、、、
そういったものを極力保つ必要があると考えています。

、、そして、都合、現行の日本の多くの教会は、
日曜日の朝に最も多くの人が集まっています。
ですから私は「交わり」のために、
できれば日曜日に教会に集いたいと考えているわけです。
人はひとりで神を信じることはできませんし、
ひとりで歩むことはできませんから。

ここまでいっぱい書いてきましたが、
私は「神学論争」にあまり大きな意味はないと考えています。
「神学的に正当かどうか」を延々と議論するのは私の仕事ではないし、
私の関心でもありません。

むしろ大切なのは、
「神は御言葉を通して何を意図されたのか?」
といういわば「大意」をくみ取ることです。
惑星で言えば「自転の正確な把握」ではなく、
「その惑星がどこに向かっているのか」という、
「公転」の大きな方向性をつかむことです。

2016年に私が読んだケン・シゲマツ師の
「賢者の生活リズム」は、
キリスト教徒として生きることの全体を、
神はどう願っているのか、という大意をつかむうえで、
非常に有益なテキストでした。
シゲマツ師は縦軸に3本、横軸に3本の格子(トレリス)を意識しながら、
キリスト教徒としての生活を構築することを提案しています。
非常にバランスが取れているので紹介します。

縦軸(基礎)
・安息日
・祈り
・みことば

横軸
・関係
・回復
・みことばの実践

、、、先ほど私が「日曜日に教会の礼拝に参加する」
といったときに挙げた理由は上記の6つの要素のなかの、
「祈り・みことば・関係・みことばの実践」に関わることであって、
なんと「安息日」とは無関係です(!)。

シゲマツ師も本書で語っていますが、
キリスト教徒にとっての「安息日」の大意とは、
「心と体をリフレッシュし、
 落ち着いて神に聴けるような24時間を、
 生活リズムの中に組み込む」ことです。

私はキリスト教関係の仕事をしていますから、
日曜日は多くの場合一番忙しいです。
日曜日はまったく「安息日」を守っていません。
(ケン・シゲマツ師もそう言っています。)

牧師にとって安息日を守るとはですから、
(土曜日も説教の準備で大概忙しいですから)、
土日以外の1日を、心と体と霊をリフレッシュするために、
「取り分けておく」ことです。
その24時間はぜったいに仕事をしないし、
仕事の依頼が来ても引き受けないと決意することです。
そしてその日に、何か活動的にがつがつ動き回るのでなく、
自分の心身がいちばんリラックスできることを、
家族とともにすることです。

膨大な量の研究結果が、
「人間は週に1日完全に休んだ方が、
 そうでなかった場合に比べて、
 心身は健康になり、
 こなせる仕事の量も増える」
ということを裏付けています。
休まないよりも、休んだ方が仕事は早く進むのです。
こんなことは研究しなくても、
神様は知っていたわけです。
なんたって、人間の創造者ですから。
「人間は休まないよりも、
 休んだほうがパフォーマンスが上がる」と。

今更医学が「人間は休んだ方が生産性が高まる!!」
と言っているのはですから、「何をいまさら」という話で、
科学が「人間のデザイナー」に追いついてきただけです笑。

▼参考リンク:「賢者の生活リズム」ケン・シゲマツ
http://amzn.asia/hLo4Xtg

、、、というわけでいろいろ書きましたが、
そらさんの今の態度を神様は喜んでいらっしゃるのでは、、、
と私には読み取れました。
というのは、様々な「信仰上の」といいますか、
「教義上の」といいますか「神学上の」葛藤を、
人は抱えながら信仰しています。
それが全くないという人は信仰のダイナミズムが失われている、
ということかもしれませんからむしろ、
不安になった方が良いかもしれません。

、、、で、そういった「教義上の」葛藤において、
私は一番避けるべきは「教条主義」であり、
一番求めるべきは「愛」だと思うわけです。

イエス様も「安息日に仕事をしてはならない」
という教条主義を突きつけられたとき、
病人を癒すという「仕事」をなさり、
「安息日にすべきは良いことなのか、それとも悪いことなのか?」
と自らの糾弾者たちに反駁しました。
そして言いました。
「安息日が人間のために作られたのであり、
 人間が安息日のために作られたのではない」と。

これほど明快な回答はありません。
「教義が人間のために作られたのであり、
 人間が教義のために作られたのではありません。」
そらさんの信仰の歩みがどうか、
実り豊かなものでありますようにお祈り申し上げております。



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