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私の読書論・第一回

2018.07.17 Tuesday

+++vol.049 2018年1月30日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 私の読書論

新コーナー、私の読書論のコーナーです。
本メルマガでは毎週書籍とレビューを紹介しています。
読書というものについて私が何を考えているか、
そういった「メタ」の思考を書き留めたくなることが、
年に何度か訪れます。
それを書き留めるのがこのコーナー。
「読書とは何か」について語りあいましょう。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼読書はなぜ必要か?▼▼▼

先週、『死ぬほど読書』という本を読みました。
それを読んでいたら、
無性に読書について語りたくなったので、
こんなコーナーを作ってみました。

▼参考リンク:『死ぬほど読書』丹羽宇一郎
http://amzn.asia/2Xd1Bfn

、、、で、「読書について体系的に論じる」
ということをここでしますと、
本一冊分ぐらいの情報量になってしまうし、
私が疲れてしまいますので笑、
『死ぬほど読書』の私の読書ノートを紹介し、
それに私がコメントするかたちで、
語っていきたいと思います。

そう、得意の「本のカフェラテ」形式ですね。
では始めます。
まず、著者の丹羽さんがこの本を書こうと思った動機は、
彼が朝日新聞に寄せられた大学生からの質問を読んで、
それが頭から離れなかったからだそうです。
引用します。

→P8 
《朝日新聞2017年3月8日付掲載
 「読書はしないといけないの?」(大学生21歳・男性)

「大学生の読書時間『0分』が五割に」(2月24日朝刊)という記事に、
懸念や疑問の声が上がっている。
もちろん、読書をする理由として、教養をつけ、
新しい価値観に触れるためというのはあり得るだろう。
しかし、だからといって本を読まないのは良くないと言えるのだろうか。

私は、高校生のときまで読書は全くしなかった。
それで困ったことはない。
強いて言うなら文字を追うスピードが遅く、
大学受験で苦労したぐらいだ。

大学では教養学部と言うこともあり、
教育や社会一般に関する書籍を幅広く読むようになった。
だが、読書が生きる上での糧になると感じたことはない。
役に立つかもしれないが、
読まなくても生きていく上で問題はないのではないか
というのが本音である。
読書よりもアルバイトや大学の勉強の方が必要と感じられる。

読書は楽器やスポーツと同じように趣味の範囲であり、
読んでも読まなくてもかまわないのではないか。
なぜ問題視されるのか。
もし、読書をしなくてはいけない
確固たる理由があるならば教えていただきたい。》

、、、どうでしょう?
皆さんならどうお答えになりますか?

大学生になる子どもに、
「なんで本読まなきゃいけないの?」と聞かれたら?
あるいは小学生の子どもに、
「なんで勉強しなきゃいけないの?」と聞かれたら?
これらは本質的に「同じ質問」です。
これは「なぜ教養が必要なのか?」という質問だからです。

もしくは、あなた自身がこの大学生と同じで、
「なんで本なんて読まなきゃいけないの?」
と疑問に思っている側でしょうか?

いずれにしても、この質問について考えることは、
どうやら価値がありそうです。

「本当に頭の良い人」というのは、
物事の本質を一言で言い表します。
私は「何で本を読まなければいけないのか?」
という質問にもっとも簡潔に答えた人を知っています。

芸人の東野幸治です。

これは月亭方正の書いた、
『僕が落語家になった理由』という本で読んだエピソードです。
そもそも芸人山崎方正が、落語を志し、弟子入りしたのは、
東野幸治が原因です。
あるとき今後のキャリアについて相談したところ、
東野幸治に背中を押されて方正は落語家の門を叩いたのです。

そんな東野幸治の「地頭の良さ」を現すエピソードとして、
方正はこんな話を紹介しています。
あるとき方正が東野幸治に、
「なんで勉強せなアカンのでしょうね?」
と、なんとなしに聞いた。
すると東野幸治は言った。
「そんなん決まってるやろ。
 戦争せんためや。」

すごいでしょ。

読書や教養や勉強というものの本質の全てが、
この一言に込められています。
ここまで綺麗な答えを提出されたら、
もはや何を言っても、
「屋上屋根を架す」ことになってしまうのですが、
上記の大学生への、著者の丹羽さんの答えを、
見ていきたいと思います。


▼▼▼無知の量▼▼▼

まず、著者は、
読書をする目的は「知識の量」を増やすことではない、
と言います。

逆だ、と。

「無知の量」を増やすために読書をするんだよ、と。
私も心から同意します。
引用します。

→P27 
《人間にとって一番大事なのは
「自分は何も知らない」と自覚することだと私は思います。

「無知の知」を知る。

読書はそのことを、身をもって教えてくれます。
本を読めば知識が増え、この世界のことを幾分か
分かったような気になりますが、
同時にまだまだ知らないこともたくさんあると、
それとなく気づかせてくれます。
 
何も知らないという自覚は、人を謙虚にします。
謙虚であれば、どんなことからでも何かを学ぼうという気持ちになる。
学ぶことで考えを深め、よりよい社会や人間関係を築こうとする。
たとえ自分とは違う考え方のものであっても、それを認められる。
自分が何も知らないという思いは、
その人を際限なく成長させてくれます。

反対に自分は何でも知っている、
何でも分かっていると思っている人ほど、
たちの悪いものはないかもしれません。
そうい人は傲慢で、何でも人より優位に立って、
自分の思い通りに事を進めようとしたりします。》

、、、聖書に、
「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます」
という言葉があります。
第一コリント8章1節です。

この箇所を引用して、
「だから勉強(読書)しなくて良い」
というのは明らかな誤読です。
解釈が完全に間違っています。

まったく逆なのです。

勉強すると言うことは、
「無知の量」を増やすということであり、
勉強しないというのは、
「無知の量」が増えないということなのです。
勉強している人のほうが、
勉強しない人よりも
「自分は何も知らない」
ということをよく知っているのです。

、、、ということは、
どちらが(知識によって)高ぶった人なのでしょう?

そうです。

多くの人が誤解しているのとは逆で、
高ぶっているのは、
「勉強していない人」であり、
「本を読まない人」の方なのです。

自分が無知だということを知り、
へりくだっているのは、
「勉強している人」であり、
「本を読む人」なのです。

だってそうでしょう?

本を読まない人というのは、
言外に、
「私は本を読まなくても良いぐらい、
十分物事を知っている。」
と言っているのと同じですから。

本を読む人は逆に、
「自分は何も知らないから、
 本を読んで勉強する必要がある。」
と言外に言っているのです。

引用を続けます。

→P29 
《詰まる所、人間がこの世界について分かっていることなど、
1%もないのかもしれません。
つまり、われわれが生きている世界は、
ほとんど「知らないこと」でできている。
そのことを考慮すれば、
「知っている」という驕(おご)りは生まれようがない。
「何も知らない」という前提があるから読書は出来るのだし、
いくら読書を重ねても、その前提が消えることは永遠にありません。
「何も知らない」ことを知る。
人が成長する上で、これほど大事なことはないのです。》

、、、勉強をすればするほど、
私たちは何も知らないと言うことを知ります。
現代科学で宇宙について分かっているのは、
全体の1%に満たないということを、
天体科学者たちは「知っています」。

無知の知ですね。

本を読めば読むほど、
この「残りの99%の無知」に肉薄するのです。
そうすると、宇宙の広さ、歴史の深遠さ、
哲学の深さ、自然界の美しさについて、
センス・オブ・ワンダーの気持ちが高められます。
そうすると、人は畏敬の思いでこう思います。
「私は世の中について、何も知らない」と。

これが謙虚な態度であり、
「オレ、難しいことって、よくわかんないから」と、
マンガ「ONE PIECE」だけを片手に、
全ての読書を放棄するのは謙虚などころか、
傲慢な態度と言わざるを得ません。
だって、「生きて行くにはONE PIECEで十分」
と言ってるんですから。
それは傲慢というものです。

知識というのをゼロサムで考えていると、
知識の量が増えれば無知の量は減ると直観しますが、
知識はゼロサムではありません。
知識の量が増えれば増えるほど、
無知の量はそれ以上に増えるのです。

「生まれてから一歩も家から出たことのない人にとっての宇宙」よりも、
「宇宙飛行士として月に行ったことのある人にとっての宇宙」のほうが、
圧倒的に広いのと同じです。



▼▼▼「教養というもの」について▼▼▼

続いて著者の丹羽さんは、
読書によって教養が磨かれるのだ、と語ります。
正確に言えば、読書と仕事と人によって、
教養は磨かれるのだ、と。
引用します。

→P41 
《教養というと、大前提として知識の量が
関係すると思われるのではないでしょうか。
しかし、私は知識というものは、その必要条件ではないと考えます。
 私が考える教養の条件は、
「自分が知らないと言うことを知っている」ことと
「相手の立場に立ってものごとが考えられる」ことの二つです。
 (中略)
では、教養を磨くものとは何か?
それは仕事と読書と人だと思います。
この3つは相互につながっていて、
どれか一つが独立してあるというものではない。
読書もせず仕事ばかりやっていても本当に良い仕事は出来ないだろうし、
人とつきあわず、人を知らずして仕事が上手く出来るわけはありません。

仕事は、私に言わせると、人生そのものです。
食べるためとか、お金を儲けるためとか、家族を養うためとか、
そういうたぐいのものだけではない。
人生から仕事を取ってしまえば、何も残らないと言ってもいい。
仕事をすると、喜び、悲しみ、怒り、ひがみ、やっかみなど、
さまざまな思いを味わうことになる。
こういったあらゆる感情が経験できるのは、仕事以外にありません。

仕事というのは、お金を報酬としてもらうものとは限りません。
さまざまなボランティアもそうだし、
困っている人々のために働いたり、身体を動かすこともそうです。

仕事を通して人は様々な経験を積み、
人間への理解を深めていけるのです。
仕事もせずに趣味だけに生きていても、
人としての成長はないと思います。》

、、、丹羽さんにとっての教養というのは二つある、
と彼は行っています。
1.自分が知らないと言うことを知っていること。
2.相手の立場に立ってものごとが考えられること。
この二つだと。

先ほどの「無知の知」に加えて、
もう一つの要素が加わりました。
「相手の立場に立ってものごとが考えられること」。

そうです。

英語に「他人の靴を履いて考える」という慣用句がありますが、
読書は、「他人の靴を履いて考える」行為そのものです。
様々な優れた小説を読むとき、
自分とは違う時代に生き、
自分とは違う国に生まれ、
自分とは違う家庭環境で育った誰かになりきって、
それを「追体験」することができます。
そうすることで「想像力」が養われるのです。

人間は一度しか人生を生きられませんから、
体験することで学べることの射程範囲には限界があります。
しかし読書はその限界を超えて、
私たちに追体験によって学ばせてくれるのです。

私の好きな養老孟司も同じ事を言っています。
彼はこう言いました。
「教養とは、人の気持ちが分かること」と。

東野幸治の
「勉強するのは戦争せんためや」
という言葉にもつながりますね。


▼▼▼情報と知識の違い▼▼▼

丹羽さんは続けます。
読書するのは情報を知識に変えるためだ、と。
情報は、「思考」を経ると知識に変わります。
引用します。

→P28  
《同じ事でも、本を通して知ることと、
ネットを通して知ることとは違います。
たとえば、新大陸を発見した
クリストファー・コロンブスについて
ネットで数行で紹介されているものに目を通すとのと、
コロンブス個人や大航海の背景にある当時の
ヨーロッパの地政学について記述した関連書物を読むのとでは、
同じ「知る」でも、その意味合いがかなり違います。
ネットで検索すれば、簡単に知ることは出来ます。
しかし、そこで得られるのは単なる情報に過ぎません。
細切れの断片的な情報をいくらたくさん持っていても、
それは知識とは呼べません。
なぜなら情報は「考える」作業を経ないと、知識にならないからです。
考えることによって、さまざまな情報が有機的に結合し、知識になるのです。
読書で得たものが知識になるのは、
本を読む行為が往々にして「考える」ことを伴うものだからです。》

、、、ネットで調べて「知っている」のは情報です。
しかし本で読んで「知っている」のは知識です。
二つは天と地ほども違いますが、違いはそこに「思考」や、
読書を介してなされる「著者との対話」があるかどうかです。

現代の情報技術は、
別に何かを「勉強」しなくても、
Google検索によって「正解」を導き出せる世界を実現しました。

だから勉強しなくていいや、
というのは短絡というものです。

そのような世の中で、
「正解主義」に陥っている多くの人々を見ると、
私はとても心配になります。
つまり「あらゆる物事には『正解』があり、
それはネットに載っているはずだ」
というような、恐ろしく薄っぺらな世界観です。

しかし、状況はそんなにシンプルではありません。
これは「市場の原理」「需要供給曲線」とも通じるのですが、
古今東西、どんな時代のどんな場所でも、
普遍的に成り立つ「原理」があります。
それは、
「過剰なものの価値は下がり、
 希少なものの価値は上がる」
ということです。

情報化社会によって、
「正解」は供給過剰です。
「正解を導き出すこと」は、
文字通り「サルでもできる」ことになった。

そんな時代にGoogle検索して、
「いや、検索したんだけど、
正しいのはこっちだよ(ドヤ顔)」
みたいな人種は掃いて捨てられるわけです。
供給過剰だから。

では、希少なものとは何か?

それは「正解」ではなく「良い問い」です。
「良い問いを発することの出来る人」が、
今の時代には希少です。
そのような人の価値はこれからうなぎ登りに上がっていくでしょう。
「良い問いを発すること」というのは、
「良い思考を出来ること」と同義です。
そして、「良い思考の燃料」を得る最も効率の良い手段は、
この世で読書を置いて私は他に知りません。



▼▼▼「心のシワ」の非対称性▼▼▼

著者が紹介している、
「心のシワ」という概念が気に入ったので、
引用してご紹介します。

→P147〜148 
《仕事や人とのつきあいの中で体験したことが、
記憶にある言葉と結びつき、
初めて「こういうことか」と腑に落ちることもあります。
それまでは単なる知識に過ぎなかった言葉は
そこで知恵に変わり、心のシワになるのです。
その反対に、体験していたことで言葉になっていなかったものが、
本で出会った言葉でそういうことだったのか、
と形を与えられることもあります。
すなわち、本で出会う言葉と体験は互いにキャッチボールをしながら、
その人の人生を作っていくのだと思います。
つまり本で読み、心に刻まれた内容は、必ず生き方に表れる。
そうなるためには、心に響く言葉は反芻してじっくり味わい、
さまざまな体験について、
それを洞察する視線を常に持っていないといけません。

心にシワが多い人は、人と向き合ったとき、
相手の心のシワがどのくらいあるのかが分かります。
反対にシワが少ない人は、
たとえ相手がたくさんのシワを持っていても、
それを感じることが出来ません。
 (中略)
やはりたくさんの経験を積んで、たくさんの本を読む。
時間をかけてシワをたくさんつくってきた人は、
シワの数だけ、より深い人生を生きられる。
そうやって心のシワを増やすことは
何物にも代えがたい喜びだと思います。》

、、、「心のシワ」という言葉で、
著者は情報→知識→教養という風に、
たんなる知識が体験知、経験知と織り合わさり、
そして教養とか見識と呼ばれるものとなって、
人の人生に刻み込まれていく様子を表現しています。

私が共感したのは、
「シワの多い人」は、
「シワの少ない人と多い人」を見分けられるが、
「シワの少ない人」は、
「シワの多い人」が目の前にいても、
それと気づかない、という非対称性です。

「バガボンド」でも「ドラゴンボール」でも良いのですが、
自分自身が「強い者」となった宮本武蔵や孫悟空は、
目の前にいる達人が、
たとえ普通のおじさんのような風体をしていても、
「この人は達人だ」と悟ります。
目の前にいる凡人が、
たとえ剣豪のような風体をしていても、
「この人は素人だ」と悟ります。
それは立ち姿や筋肉の付き方、
視線の動かし方や身にまとう「気」のようなものを、
これまでの人生経験から総合判断した結果、
「この人はおじさんに見えるけど達人」
「この人は剣豪のコスプレをしてるけど素人」
と区別することが出来るのです。

しかしマジックミラーのように非対称に、
素人は目の前に宮本武蔵がいたとしても、
それが達人とは気づきません。

教養においても同じです。
教養のある人は、数分間話せば、
相手が教養のある人かどうかが判断できます。
相手がサブカルやお笑いの話をしていても、
「この人は教養がある」と見抜けるし、
相手が「サルトルの実存主義が・・・」と、
背伸びした専門用語を連発していても、
「この人は教養がない」と見抜けます。

逆は起きません。

教養のない人は、
目の前にいて会話しているのが、
たとえソクラテスであっても、
その人を普通のおじさんとしか判別できないでしょう。
「心のシワ」の概念は、
「ジョハリの窓」と呼ばれる、
相互認知の非対称性にも通ずる面白い概念です。
 


▼▼▼空気を読むか?本を読むか?▼▼▼

最後に著者は、
現代日本における過剰な空気の読み合い(忖度の過剰)が、
社会全体を弱くしていると指摘します。
そして「空気を読まずに済むには、
読書によって自分の中に芯が通っている必要がある」
と指摘します。

つまり、
「本を読んで自分の確たる哲学を形成するか、
 さもなくば空気を読むことで一生を終えるか?」
ということです。
「本を読むか、それとも空気を読むか」
この二択が目の前にあるのです。
私は前者を選びたいです。

→P180〜181 
《いつも周りの空気を読んで付和雷同する人は、
自分の軸を持っていないからそうするのでしょう。
幅広くいろいろな本を日頃から読み、
仕事と真剣に向き合っている人は、
自分の考えや信念を持っているから、
安易に空気に流されるようなことはないはずです。
読書は心を自由にしてくれます。
読書によって自分の考えが練られ、軸ができれば、
空気を中心に思考したり、
行動したりすることはなくなるはずです。
世間の常識や空気に囚われない。
真の自由を読書はもたらすのです。》

、、、最初の大学生の質問への著者の答えは、
ですから「読書は人を自由にする」からだ、
ということになるでしょう。

イエスが言われた、
「真理は人を自由にする」の言い換えです。

「自由」を体験したことのない人は、
「自分が不自由である」ということにも無自覚ですから、
かの大学生は「そんなものいらない」と言うかもしれません。
「僕は今のままで十分満ち足りているから」と。
言い換えれば、
「僕は知るべき事を知っている」ということです。
現代の「正解主義」の底知れぬ傲慢がここにあります。

「マトリックス」という映画に、
「赤いカプセルと青いカプセル」が出てきます。
赤いカプセルを飲むと、
仮想現実から目を覚まし現実の戦いが始まります。
青いカプセルを飲めば、
もういちど夢の中に戻り、
仮想現実の中で一生を終えます。

▼参考画像:マトリックスのカプセル
https://goo.gl/JLyGBm

読書は「赤いカプセル」です。
最初の大学生の質問というのは、
「赤いカプセルと青いカプセル、
 どちらを飲むべきでしょう?
 赤いのを飲むのは嫌ですが、
 それは駄目でしょうか?」
という質問に置き換え可能です。

それを知った上で、
「ずっと寝ていたい」という人は、
どうぞ青いカプセルを飲んだら良い、
と私は個人的には思います。

自分は絶対に嫌ですが。

厳しいけれど本当の現実を選んだ、
かのマトリックスの主人公と同じく、
そんなの「本当に生きている」と、
言えないとすら思いますから。




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