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陣内が先週読んだ本 2018年10月7日〜20日 『子育ての大誤解』(上)(下)など

2019.02.27 Wednesday

+++vol.062 2018年10月23日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 陣内が先週読んだ本 
期間:2018年 10月第二〜三週 10月7日〜20日
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

先週私が読んだ本(読み終わった本)を紹介していきます。
一週間に一冊も本を読まない、
ということは、病気で文字が読めなかった数ヶ月を除くと、
ここ数年あまり記憶にないですから、
このコーナーは、当メルマガの
レギュラーコーナー的にしていきたいと思っています。
何も読まなかった、という週は、、、
まぁ、そのとき考えます笑。

ただ紹介するのも面白みがないので、
twitterに準じて、
140文字で「ブリーフィング」します。
「超要約」ですね。
(どうしても140字を超えちゃうこともあります。
 140文字はあくまで「努力目標」と捉えてください笑。)

忙しい皆さんになり代わって、
私が読んだ本の内容を圧縮して紹介できればと思います。
ここで紹介した本や著者、テーマなどについて、
Q&Aコーナーにて質問くださったりしたら、
とても嬉しいです。



●ユダヤ人の贈り物 文明をつくりだした砂漠の遊牧民

読了した日:2018年10月12日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:トマス・ケイヒル
出版年:1999年
出版社:青土社

リンク:
http://amzn.asia/d/2L2xBHa

▼140文字ブリーフィング:

この本は、先日タイのチェンマイに行き、
Disciple Nations Allianceのアジアフォーラムに参加したとき、
創始者のひとりダロー・ミラー師が、
基調講演的な分かち合いのなかで引用していて興味を持ちました。
「西洋の思考の枠組み」は、ユダヤ人が作った、
ということを論証している本です。

「西洋の思考の枠組み」とはとりもなおさず、
近代以降の日本の思考の枠組みのことでもあります。
民主主義、資本主義、法治主義、契約の概念など、
近代社会の制度を利用しているという意味で、
日本人もまた西洋人の、
「無意識の思想的奴隷(by ジョン・メイナード・ケインズ)」
なのです。
その西洋人がユダヤ人の
「無意識の思想的奴隷」だよ、
と言っているのがこの本です。

一箇所だけ引用します。

→P260〜261 
〈ユダヤ人はまったく新しい「語彙」をつくった。
まったく新しい「心の伽藍」、
これまでになかった認識と感情の内面風景である。
長い世紀にわたる痛みと受苦を経て、
彼らは唯一の神を信ずるに至る。

この唯一神は宇宙の創造主で、
その意味は神のあらゆる被創造物の土台を形成し、
人間の歴史に介入してその目的を成就しようとする。
この独特の信仰――「一神教」――により、
ユダヤ人は「大いなる全体」を世に提示した。

それは理に適った宇宙観で、他の宇宙観より明らかに優れている。
それゆえ、様々な矛盾を伴う多神教を完全に圧倒した。
ユダヤ人は西欧の良心を世に提示した。
唯一であるこの神は、外面の見せかけの神ではなく、
良心の「静かで小さな声」である。
憐れみの神、「そこにある」神、
特に「自らにかたどって」造った人間を中心に、
被創造物の各自を思いやり、
同じ事を行うように人間にも求める神である。
 (中略)
ユダヤ人は「外面」と「内面」を世に提示した。
私たちの外部に対する見方と私たちの心の中の生き方である。
私たちは、ユダヤ人であることなしでは、
朝起きることも通りを横切ることも出来ない。
私たちはユダヤ人の夢を見、ユダヤ人の希望を希望する。
私たちの最良の語彙の大部分
――たとえば、新しい、冒険、
おどろき、独自の、個人の、人柄、使命、
時間、歴史、未来、進歩、精神、
信仰、希望、正義――はユダヤ人の贈り物である。〉


、、、創世記12章で、
ウルの地にいたアブラムに、
神が「旅に出よ」と呼びかけ、
アブラムが、どこへ行くのかさえ分からないまま、
その声に応答したとき、「人類史は変わった」
と著者は言います。

創世記12章以前、
人類にとって「時間」「歴史」とは、
「無目的で無意味な永遠の繰り返しのループ」でした。
アブラハムの応答以降、
歴史はゴールのない反復であることをやめ、
人間の人生は運命によって決定されている現象であることをやめました。
歴史には目的があり、人生には意味があり、
そして人は自らの将来を変えることができる、
という、「歴史観・人間観」が生まれたのです。

近代科学や民主主義や資本主義は、
この「歴史観・人間観」がなければ生まれ得なかった、
と断言できます。
自覚しようとそうでなかろうと、
私たちは「無意識のユダヤ人」なわけです。
これを踏まえるとき、
神がアブラハムに「あなたの名は祝福となる」
と言われたのは、決して大げさではなかった、
ということがおわかりいただけると思います。
(1,344文字)




●ユートピア

読了した日:2018年10月14日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:湊かなえ
出版年:2018年
出版社:集英社文庫

リンク:
https://amzn.to/2A6VNnE

▼140文字ブリーフィング:

湊かなえの小説は、ときどき読みたくなります。
読書ログを調べると、過去3年間で8冊読んでました。
やはり最高傑作は映画化もされた「告白」ですね。
これは映画もスゴイです。
映画のほうがスゴイかもしれない。
今Amazonプライムで見られますから、
興味ある方は是非。

湊かなえの魅力は、
「(特に女性同士の)エゴとエゴの殴り合い」
みたいなものを、リアルに描写出来るところですね。
例えばタワーマンションのセレブママ友同士の、
「ママカースト」の在り方、
そこにある「マウンティング」や、
権力のしのぎあいを描かせたりしたら、
もうヒリヒリするような描写をするわけです。
絶対近寄りたくないですが、怖いもの見たさで、
読み始めると止まらなくなります。
これは小説を読むというより、
総合格闘技を観戦する気持ちに近いですね。
「怖いけど見ちゃう」っていう笑。
(359文字)




●子育ての大誤解(上) 〜重要なのは親じゃない〜

読了した日:2018年10月9日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:ジュディス・リッチ・ハリス
出版年:2017年
出版社:早川書房

リンク:
http://amzn.asia/d/4HvFJ1M

▼140文字ブリーフィング:

この本は面白すぎて、上下巻、一気に読んでしまいました。
べらぼうに面白かったのですが、
多分まだ上手に説明できません。
なぜならこの本は、
私たち近代社会に暮らす人間にとって、
当たり前に染みついている価値観である、
「親の育て方が子どもの運命を決める」
という前提自体に疑問を投げかける「問題作」だからです。

著者は親の育て方が子どもの将来を決める、
という「子育て神話」という洗脳を解こうとしているのです。
結果だけを申し上げるなら、
私自身は大いに説得され、
かなり「子育て神話」が「神話」に過ぎず、
根拠薄弱なものであると理解するようになりました。
さしあたり「とびら」にある、
ジブラーンの詩を引用します。

→P5 
〈あなたの子は、あなたの子ではなく、
大いなる生命(いのち)の希求(あこがれ)の息子であり、娘である。
あなたを経て現れてきても、あなたから生まれたのではない。
あなたとともにいても、あなたに属するものではない。
あなたの愛を与えることはできても、
あなたの考えを与えることはできない。
子どもは自らの考えを持つのだから。
その身体(からだ)を住まわすことはあっても、
その魂(こころ)までも住まわすことはできない。
子どもの魂は、あなたが夢にも訪れることのできない、
明日の館に住んでいるのだから。
子どもらのようになろうと努めるのはいいとしても、
子どもらをあなたのようにしようとしてはならない。
生は後ろには歩まず、昨日を待つことはないのだから。

――ジブラーン(小林薫訳『プロフェット(預言者)』ごま書房)〉
(640文字)



●子育ての大誤解(下) 〜重要なのは親じゃない〜

読了した日:2018年10月19日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:ジュディス・リッチ・ハリス
出版年:2017年
出版社:早川書房

リンク:
http://amzn.asia/d/bccw2rD

▼140文字ブリーフィング:

先ほどの「上巻」では、
内容について何も説明していませんから笑、
こちらでは多少内容にも立ち入ります。
著者が「親の育て方が子どもの将来を決定する」
という子育て神話を否定し、
「では何が子どもの性格を決めるのか?」
という問いへの代替案として提唱するのが、
「集団社会化説」という著者の理論です。

簡単に言いますと、
著者が主張しているのは、
子どもは、親の育て方によってよりも、
子ども同士の付き合いによって、
より大きな影響を受け、
彼ら自身の性格を形成していく、
というものです。

この本は米国でものすごい議論を生んだそうです。
めちゃくちゃ怒る人と、
めちゃくちゃ慰められた、と絶賛する人がいた。
なぜ怒る人がいるかというと、それは、
「全人生をかけて子育てにかけてきたのに、
 それはさほど意味がないというのですか!!!」
という憤りに基づく批判です。

著者の答は、
「はい、そうです。」というものです。
「残念ながら、様々な調査研究がそう言っています。
 でもお母さん、お父さん、
 『子どもが将来賢くなって欲しいから』
 絵本を読み聞かせるのと、
 二度と戻ってこないこのいとおしい時間を子どもと過ごすために、
 絵本を読み聞かせるのでは、どちらが豊かなんでしょう?
 『子どもが将来自信に満ちあふれ有能な人材になって欲しいから』
 サッカーチームに入らせるのと、
 子どもがサッカーをするのを喜んでいるから、
 サッカーを一緒に楽しむのとでは、
 どちらが『有史以来人間が営んできた本来の子育て』
 に近いんでしょうね?
 子どもは「機械」ではないので、
 『ああすればこうなる』式には動きません。
 『ああしてもこうならない』のが子どもです。
 だとしたら、今与えられている、
 子どもとの時間を楽しみましょう。
 そして、天がその子に与えた将来を、
 あなたも楽しみに心待ちにしたら良いじゃないですか?」

著者はどのように「子育て神話」を否定し、
「集団社会化説」を支持するようになったか?
その主張の根拠は膨大な「双子の研究」から来ています。
「異なる家庭で育てられた一卵性双生児」と、
「同じ家庭で育てられた血のつながっていないきょうだい」、
どちらが「似るか」?
答は圧倒的に「前者」です。
つまり遺伝子の影響は私たちが思っている以上に強く、
子育ての影響は私たちが思っている以上に弱いのです。
さらに、様々な子どもに関する調査が、
各子どもは家庭の中と家庭の外(学校)では、
別の人格を持つかのように行動することが分かってきています。
そして、子どもの将来の性格を決定するのは後者だ、
ということも。

19世紀まで、イギリスの上流階級では、
「子育ての理想は、
 なるべく子どもと関わらないことだ」
と言われていました。
「できれば子どもと目を合わせない方が良い。」
そして6歳になるとイートン校という、
全寮制のエリート養成学校に行きます。
不思議なことに、ほとんど接触のない父子が、
そっくりの性質の大人になります。
理由が2つあります。
ひとつは遺伝子。
もうひとつが「イートン校」です。
父子は同じ学校を卒業したから、
同じような性格になったのです。
父子が似たことに関して、
「家庭内の環境」はいっさい介在していません。

著者は批判者から
「では、親は子育てに責任を持たなくて良いんですか!」
「じゃあ、虐待してもいいっていうんですか?」
などと詰め寄られることも多いそうですが、
そんなことはまったく言っていません。
親は子どもの性格に影響を及ぼせないとしても、
人生の最初の十数年を過ごす、
家庭内での時間が幸せになるかどうかについては、
親は絶大な影響を及ぼせる。
それをサボって良いなどと一言も言っていない、と。

本書の要約的一節をご紹介します。

→P303 
〈私たちの思い通りに子どもを育て上げることが出来る
という考えは幻想に過ぎない。
あきらめるべきだ。
子どもとは親が夢を描くための真っ白なキャンパスではない。

育児アドバイザーの言葉に気をもむことはない。
子どもには愛情が必要だからと子どもを愛するのではなくて、
いとおしいから愛するのだ。
彼らと共に過ごせることを楽しもう。
自分が教えられることを教えてあげれば良いのだ。
気を楽に持って。

彼らがどう育つかは、あなたの育て方を反映したものではない。
彼らを完璧な人間に育て上げることも出来なければ、
堕落させることも出来ない。
それはあなたが決めることではない。
子どもたちは「明日の館」に住んでいるのだから。〉


、、、さらに、本書の最後の一文に、
すべてが込められています。
これが先ほど、「大いに慰められる人も多い」
と言った理由です。


→P325 
〈あなたに悪いところがあるとしても、
決してそれを親のせいにしてはならない。〉


「子育て神話」を放棄しますと、
これまで「自分が不幸なのは親のせいだ」
と思ってきた人は拠り所を失います。
しかし、そんなものは失うべきなのです。
だってその「杖」がある以上、
永遠にその人は前進できませんから。
ビートたけしは、「30過ぎて親を許せない奴はバカ」
と言っています。
また、
「私の育て方が悪かったから子どもが不幸になっている」
と自分を責め続ける親には、慰めを与えます。
子どもの人生はあなたのせいではありません。
だって、子どもはあなたのものではないのですから。
(2,015文字)




●とんねるずと『めちゃイケ』の終わり 〈ポスト平成〉のテレビバラエティ論

読了した日:2018年10月16日
読んだ方法:

著者:ラリー遠田
出版年:2018年
出版社:イースト新書

リンク:
http://amzn.asia/d/1k5I3e7

▼140文字ブリーフィング:

結構面白かったです。
現代のテレビの状況を語ることで、
時代そのものを語ることに成功している。
目次を掲載します。

第一章 なぜ『みなさん』『めちゃイケ』の時代は終わったのか
第二章 なぜ、フジテレビは低迷しているのか
第三章 なぜ、ダウンタウンはひとり勝ちしているのか
第四章 なぜ、『アメトーーク!』『ゴッドタン』『水ダウ』はウケているのか
第五章 なぜ、視聴者は有吉とマツコから目を離せないのか
第六章 なぜ、大物芸人はネットで番組を始めるのか


、、、著者は、今の時代、
「めちゃイケ」や「みなさん」のような、
「王道バラエティ番組」が衰退し、
時事問題についてタレントがコメントする、
「情報バラエティ番組」が増える理由を、こう説明しています。

→P91〜92 
〈そもそも時事問題を扱う情報番組がこれほど増えているのは、
それが手堅く視聴率を取りやすいコンテンツだからだ。
なぜ、時事問題が良いのかというと、
価値観が多様化している現在では、
人々の間に共通する関心事がニュースぐらいしかないからだ。

芸能を含む時事ネタは新聞や雑誌でも大きく扱われるし、
ウェブでも話題になりやすい。
ネット上のSNSなどでは、
世間で話題になっていることに関して、
個人が好き勝手に意見を言う。

いわば、「一億総コメンテーター化」とでも
いうべき状況になっているのだ。
情報バラエティ番組がやたらと増えているのには、
そういう背景がある。〉


、、、非常に説得力がありますね。
王道バラエティ番組の衰退と入れ替わるように、
「最強テレビスター」として台頭したのが、
マツコ・デラックスと有吉弘行です。
彼らの人気も「一億総コメンテーター化」で説明できます。

私の好きなラジオ番組「東京ポッド許可局」の、
パーソナリティのひとり、マキタスポーツは、
「一億総ツッコミ時代」という本を書いており、
そのなかで平成以降の日本は、
「西高東低」などの気圧配置の表現を借りれば、
「ツッコミ高・ボケ低」が進み続けている、と分析しています。

一億人がみんな「ツッコミ目線」なのです。
SNSの炎上、モンスターカスタマー、
クレーマー問題などを考えれば分かるかと思います。
ネットの普及に伴い、
全員が「批評的に何かを見る」ようになり、
「ツッコミ目線」になったわけです。

めちゃイケやとんねるずは「ボケ番組」です。
テレビという装置を使って、
「思い切りボケて」くれているわけです。
それを「わはは」と笑うだけの幸せな時代は終わったのだ、と。
今のテレビスターは全員「ツッコミ要素」を持ちます。
ダウンタウンは二人ともツッコミ能力があります。
上田晋也はツッコミの天才ですし、
マツコ・有吉は、テレビスターでありながら、
テレビの中からテレビ自体を批判する、
という革命的な手法を確立した二人です。

、、、ここまでが現状分析。

では、テレビの未来はどうなるのか?
私は正直あんまり興味がないので笑、
興味ある人は本書を読んで下さい。
私が興味があるのはむしろ、
マキタスポーツが指摘している、
「ツッコミ高社会」のほうです。
マキタスポーツは、「ツッコミは楽だ」と言います。
SNSで他人の揚げ足を取っている人を考えれば分かります。
(注:上田晋也や有吉のやってるそれは、
 一般人のツッコミとは次元が違いますので、
 あれは「楽」ではありません。
 彼らの技術は国宝職人やトップアスリートのそれです。)

対して「ボケ」は楽じゃない。
社会における「ボケ」とは何か。
自分が自ら何かに没頭し、ガムシャラにやることです。

文化祭のメタファーを使うなら、
クラスが演劇を作っているのを横目に、
隅っこで固まって「音楽、センスないよね」
「よくこの暑いのに青春してられるよね」
と、冷ややかに批判を加えるのが「ツッコミ」です。
文化委員に立候補し、汗をかきながら、
みんなで1つのものを造り上げるのが「ボケ」です。

今の時代はみんな「ツッコミに引きこもり」ますから、
「ボケ」の希少価値が高まっている、
とマキタスポーツは語るわけです。
今の時代、「ボケ」は大変だし、割に合わないぞ!
だからこそ、ボケろ!!!
というのがマキタスポーツの熱いメッセージであり、
私もそう思います。

経済学の基本なのですが、
「過剰なものの価値は下がり、
 稀少なものの価値は上がり」ます。
現代の日本で過剰なのは「ツッコミ」で、
稀少なのは「ボケ」です。
みなさん、社会で重宝される人材になりたければ、
おおいに汗かいて、「ボケ」ましょう!!!
冷ややかな批判者には、
「うるせえ、バーカ」どでも返せば良いのです。
(1,829文字)




●生命の現象 ザ・ネイチャー・オブ・オーダー 建築の美学と生命の本質

読了した日:2018年10月18日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:クリストファー・アレグザンダー
出版年:2013年
出版社:鹿島出版社

リンク:
http://amzn.asia/d/1rSTyGV

▼140文字ブリーフィング:

定価9500円、B4の電話帳サイズで500ページ弱の大著です。
重さは3キロ以上あったんじゃないかな。
いろんな意味で疲れました笑。

こんな重くて分厚い本を読んだのは、
大学の時の「獣医解剖学図説」以来かもしれません笑。
たぶんこの本って、建築学部とかの教科書として使われてます。
本来、一般の人が読むような本ではない笑。

でも、何かのきっかけでこの本の存在を知り、
大変興味を引かれたので読んでみました。
結果、めちゃくちゃ面白かったです。
疲れた甲斐があった。

一言で説明するのが非常に難しい本なのですが、
著者は「デカルト的な近代思想が建築を醜くした」
という前提から話しを進めていきます。
そして、「生命」という尺度を持つことで、
「そこにいることで人が生き生きするような」建築を目指す、
ということを提唱していくわけです。

私は以前から建築には興味がありました。
じっさい中学生のときは、
「将来の夢は建築家」って言ってましたから。
大人になってからも建築には興味があり、
安藤忠雄、隈研吾、ル・コルビュジエらの本を読んだりしました。
数年前に漫画家の井上雄彦を通して、
アントニオ・ガウディに興味を抱くようになりました。
サクラダ・ファミリアを設計した人ね。

アレグザンダー氏のこの大著の主張を、
かなり私の主観を交えて「要約」しますと、こうなります。
「コルビュジエ的な「近代建築」は世界から生命を奪い醜くした。
京都の寺やタージマハール、トプカプ宮殿などが、
並外れて美しいのはそこに「生命」があり、
それは「自然の秩序」が建築に反映されているからだ。
ガウディ的な「自然の秩序」を背景とする建築を取り戻すことが、
21世紀的な課題なのである。」

冒頭部分の二箇所を引用します。
忍耐強く読んでいただければ分かっていただけると思うのですが、
実は著者のアレグザンダー氏が言っていることは、
先週「本のカフェ・ラテ」で私が解説した、
「西洋と東洋の思想」とテーマが重なっています。
西洋人は分析的に物事を考えます。
デカルト以降それが近代の機械論的世界観を生みました。
しかし、東洋の「統合的思考」は「全体性」を志向します。
「全体性」を再獲得することこそ、
未来の建築に必要なことだ、と著者は言っているわけで、
それはとりもなおさず、東洋の再評価に他なりません。
この本に無数に出てくる建築物の写真には、
数多くの東洋の伝統的な建築物が出てきますが、
それは偶然ではありません。


→P16〜17 
〈この深い「秩序」の本質は、
単純で基本的な疑問に関わっています。
「真偽はどのように説明できるのか」。
これがデカルトによって構築された機械論的世界観と
私が本書で説明する世界観とを分ける問題なのです。

デカルトにより始まり、
20世紀の科学者に広く受け入れられた世界観の中では、
真実か偽りかはメカニズムだけでしか
説明できないものと信じられています。
20世紀の誰にとっても馴染みのある、
いわゆる「事実」という指標です。

私が示している世界観の中では、
真偽を説明できるものとして、2つ目の指標が考えられます。
それらは、「生命」「調和」「全体性」の相対的尺度、
簡単に言うと価値の指標です。
私の視点では、相対的な「全体性」に関するこれらの指標は、
いずれも事実に基づくものであり、根本的なものです。
そして機械的な指標よりもより根本的な役割を担っています。
だからこそ、私が本書で説明している「秩序」の視点によって、
私たちは世界観を変えて行かざるを得ないのです。〉


→P21 
〈「生命」と完全な「秩序」を有する建築をつくるためには、
機械論的な罠から抜け出して、
建築に目に見える形で備わっている
「生命」や「秩序」そのものに注目することが必要です。
そのような形は、新しい世界観からのみ可能であると信じています。
それは、ものごとを部分や断片として捉えるのではなく、
「全体性」の中のものとして意識的に見ることであり、
建築のような無生物であるとされるものの中にさえ、
「生命」を実際にリアルなものとして認識するというものです。

「秩序」に関するこの新しい視点から、私たちは必然的に、
どのような説明が正しいと言えるのかを見出すための
ポスト・デカルト的・非機械論的思考を発見することでしょう。
それは、「秩序」の基本的特徴を示す「調和」や「生命」、
「全体性」の相対的指標であり、
それによって潜在的な真偽を理解出来るのです。

これは、異なる「全体」同士に当てはめる「生命」の相対的指標が、
ものごとを語る上でごく当たり前で
かつ必須の方法であるという世界観を持つ、
ということを意味します。

そのような新しい「秩序」の視点は、
装飾や機能に関する考えについて新しい関係を創造することでしょう。
現在の建築における秩序の考え方では、
機能は頭で理解出来るものであり、
デカルト的機械論的基準によって分析することが出来ます。
一方、装飾は嗜好的なものであり、
知的に理解されるものではありません。
一方は厳粛で、もう一方は面白半分のようなものとされています。
それゆえ装飾と機能は、切り離されたものとなっているのです。
建築の機能面と装飾面とを
同時に私たちに見せてくれるような「秩序」の概念はありません。

私が本書で説明している「秩序」の視点は、とても異なっています。
装飾と機能に関して公平の立場を取っています。
「秩序」はおおいに機能的であり、おおいに装飾的です。
装飾の「秩序」と機能の「秩序」に違いはありません。
それらが異なるように見えるときは、
それらは単に一種類の「秩序」の
異なった一面を見ているに過ぎないということなのです。〉
(2,239文字)




●応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱

読了した日:2018年10月19日 ほぼ飛ばし読み
読んだ方法:図書館で借りる

著者:呉座勇一
出版年:2016年
出版社:中公新書

リンク:
http://amzn.asia/d/9iP41I7

▼140文字ブリーフィング:

アメトーーク!の、「読書芸人」の回で、
たしかカズレーザーがお勧めしていて興味を持ちました。
「応仁の乱」は日本で最も有名な内戦のひとつですが、
じっさいに何が起きたのかほとんど誰も説明できない。
これを分かりやすく説明したことでこの本は注目され、
じわじわ売れ続けているんだ、というのを、
カズレーザーが熱く語っていたので、読みたくなりました。

結果、私には読みこなせませんでした(爆死)。
私は早々に理系を選択し、高校2年以降は、
リソースの8割を英語と数学に突っ込んだので、
高校レベルの歴史の知識が欠落しています。
基礎知識が欠けているので、
まだこの本は私には早かった。
まずは高校の教科書を読まねば、ということですね笑。

ただ、あとがきで著者が書いている、
応仁の乱と第一次世界大戦の類似性については、
「なるほどねー」とうなずきましたので引用します。


→P284〜286 
〈2014年は第一次世界大戦開戦から100年と言うことで、
同大戦に関する書籍・雑誌特集などが散見された。
そういったものにぱらぱらと目を通していると、
応仁の乱は第一次世界大戦と似た構図を持つのではないか、と思い至った。

第一次世界大戦は様々な要因が絡み合って生じた戦争だが、
一言で述べるならば、新興の帝国であるドイツが、
覇権国家イギリスを中心とする国際秩序に挑戦した戦争であろう。
だがサラエボ事件を受けてオーストリア支持を打ち出し、
セルビアへの開戦をうながしたドイツにしても、
セルビアを支持するロシアやフランスとの全面戦争を
最初から望んでいたわけではなく、
ましてイギリスとの激突など想定していなかった。

これは英仏露など他の列強にも言えることで、
各国の指導層は必ずしも好戦的ではなく、
むしろ誰も意図しないまま世界大戦に突入していった。
しかもすべての参加国が短期決戦を志向したにもかかわらず、
戦争は長期化し総力戦の様相を呈した。
結局、イギリス海軍の海上封鎖によって
補給路を断たれたドイツが屈服する形での終戦となったが、
勝者である英仏も甚だしく疲弊し、
ヨーロッパ世界全体の没落を招いたのである。

応仁の乱も、新興勢力たる山名氏が
覇権勢力たる細川氏を中心とした幕府秩序に
挑戦した戦争という性格を持つ。
だが山名宗全は最初から細川勝元との全面戦争を望んだわけではなく、
畠山義就(よしなり)と政長との間の局地戦である御陵合戦に軍事介入し、
義就を勝たせるという以上の目的を持っていなかった。
勝元の反撃にしても、
山名氏の打倒という積極的・攻撃的なものと言うより、
同盟者である政長を見捨てたままでは
大名としての面目を失うという危機感からやむなく報復に出た、
と見るべきである。

東西両軍は共に短期決戦を志向したが、
戦争は長期化し足軽や郷民を動員する総力戦の様相を呈した。
結局、東軍に補給路を断たれた西軍が屈服する形で終戦となったが、
東軍諸将も大きく傷つき、
鉄の結束を誇った細川一族でさえ今後は内紛を繰り返すようになる。
参戦大名たちの没落を尻目に、
いわゆる「戦国大名」が台頭してくるのである。
古今東西を問わず、人類は同じような過ちを繰り返すのかもしれない。〉
(1,288文字)



●イエス像の二千年

読了した日:2018年10月19日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:ヤロスラフ・ペリカン
出版年:1998年
出版社:講談社学術文庫

リンク:
http://amzn.asia/d/0FT07id

▼140文字ブリーフィング:

先月、愛知で山田風音くんと話しているなかで、
会話に登場して「面白そうだ」と思ったので手に取りました。
目次のなかに、本書のユニーク性が現れています。

〈本書の性格と目的:
イエス伝でも、キリスト教史でもなく、
イエスについての神学的教理史ですらなく、
文化史の中のイエスの位置を描写している彼の様々な像の通観〉


、、、つまり、この本は、各時代が、
どのような「イエス像」をもっていたかを探ることで、
その時代(およびイエス)を知ろうという試みです。
私たちがイエスを語るということは、
私たち自身について物語っていることに他ならないのだ、
と著者は言います。


→P22 
〈この一世紀の
「きのうも今日も、また永遠に変わることのない(ヘブル書)」
という言い方は、
20世紀のアルベルト・シュヴァイツァーの言葉に
替えた方が正確ではないだろうか。

シュヴァイツァーは次のように言っている。
「それぞれの時代が、イエスのなかに自分自身の思想を見出した。
実際、それこそがイエスを生かしうる唯一の道だったのである」。
というのは、類型化して言えば、
人は「自分の性格に応じてイエスを造り上げたのである」。
そして、彼は次のように結論づけている。
「イエス伝を書くことほど、
ある人の本当の自己をあらわす史的作業はない」。〉
(530文字)




▼▼▼リコメンド本「今週の一冊」▼▼▼

ご紹介した本の中から、
「いちばんオススメだったのは?」という基準でリコメンドします。
「いちばん優れていた本」というよりも、
「いちばんインパクトの大きかった本」という選考基準です。
皆さんの書籍選びの参考にしていただけたら幸いです。


▼今週の一冊:「子育ての大誤解」(上・下)

コメント:

いろんなところで引用されているので、
前から気になっていたこの本は、
確かに「衝撃の内容」でした。
一卵性双生児のコホート研究は、
「大事なのは親の育て方ではなく子ども同士の社会」
であるという数多くの証拠を私たちに突きつけます。

子育ての「地動説」が、
「天動説」に変わるようなパラダイムシフト。

、、、では、(親として私たちは)どうするか?

「子育て神話」崩壊前後で、
じつはまったく変わりません。
子どもを愛し、子どもを躾け、
子どもに教育を施し、
子どもとの時間を楽しむのです。
ただ、神話崩壊の前後でその「動機」と、
「強迫観念および事後の強い罪責感と後悔の有無」が違います。
子育て神話に基づく親は、
「子どもが人生を有利に進めるために」
「子どもを天才にするために」そうします。

神話崩壊後は、
「子どもが可愛くて仕方ないから」
「子どもだって(将来ではなく)現在幸せになる
 権利はあるので、ひとりの人間として、
 親としてそれを邪魔する権利はないので」
そうします。

子育て神話に基づく親は、
子どもが問題を抱えたらどうしよう、
学習に遅れをとったらどうしよう、
落伍者になったらどうしよう、
という不安と恐怖を抱え、
もし自分が考えたように子どもが育たなかった場合、
強い罪責感と後悔を一生涯背負わされることになります

子育て神話崩壊後の親は、
自分はベストを尽くしたが、
子どもは自分とは違う生き物であり、
自分とは違う運命を神から与えられているので、
あとは「未来の館」に住む子どもたちを信頼して、
自分は自分の務めを果たし続ける、
という態度で安心していられます。

著者曰く「子育て神話に洗脳された西洋の教育学者」が、
インドに行き、農村の母親に、
「この子に将来どうなって欲しいですか?」
と聞いたときの応答のくだりが私は好きです。
引用します。

〈子どもにどんな人間になってもらいたいと
思っているかと聞かれた彼女は、
肩をすくめて「それはこの子の運命で、
私が望むことではありません」と答えたのである。〉



▼▼▼部門賞▼▼▼

ご紹介した書籍の中から、
陣内の独断と偏見で、
「○○賞」という形で、
特筆すべき本をピックアップします。
こちらも何かのご参考にしてくだされば幸いです。

▼「世界観変わるで賞」:「生命の現象 ザ・ネイチャー・オブ・オーダー」

コメント:

この本は私の「世界観」を変えました。
本書には膨大な数の建築や家具や器や風景の写真があり、
そのほとんどが二枚ひと組の一対になっています。
著者は読者に問い続けます。
「この2つのうち、
 どちらがより『生命』があるか?」
この質問自体が、著者の言うところの
「ポスト・デカルト的な世界観」を現しています。

この本を読み終えてからと言うもの、
街を歩いていて、あるいは電車の車窓から、
風景のなかにある建物、
あるいは雑誌の家具などのデザインを見ては、
「これは生命があるなぁ」とか、
「これは生命がないなぁ」と思うようになりました。
デカルト的機械論的な世界観から、
全体性と調和を志向する、
「生命の強弱」をめざす世界観へ。

建築はその時代の思想を反映しますので、
現在の世界で「脱・近代合理主義」が進んでいるとしますと、
22世紀の世界の風景は、
私たちが想像したものとは、
まったく別のものになるかもしれません。
無機的な直線や直角や幾何学模様は姿を消し、
生命がもつぬくもり、曲線、躍動感にあふれた構造物が、
もしかしたら世界を満たしていくかもしれません。
悪くない世の中だと思います。

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