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本のカフェ・ラテ『木を見る西洋人、森を見る東洋人』後編

2019.03.06 Wednesday

+++vol.063 2018年10月30日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 本のカフェ・ラテ
「本のエスプレッソショット」というこのメルマガの、
開始当初からの人気コーナーでは、
一冊の本を約5分で読める量(3,000〜10,000字)で、
圧縮し、「要約」して皆さんにお伝えしてきました。
忙しい読者の皆さんが一冊の本の内容を、
短時間で上っ面をなぞるだけではなく「理解する」ために、
「圧縮抽出」するというイメージです。
この「本のカフェラテ」はセルフパロディで、
本のエスプレッソショットほどは、網羅的ではないけれど、
私が興味をもった本(1冊〜2冊)について、
「先週読んだ本」の140文字(ルール破綻していますが)では、
語りきれないが、その本を「おかず」にいろんなことを語る、
というコーナーです。
「カフェ・ラテ」のルールとして、私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメントしていく、という形を取りたいと思っています。
「体系化」まではいかないにしても、
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。
密度の高い「本のエスプレッソショット」を牛乳で薄めた、
いわば「カフェ・ラテ」のような感じで楽しんでいただければ幸いです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼先々週の「続き」▼▼▼

さて。
先々週、こちらの本をご紹介したのは良いのですが、
文字数オーバーになり、
前編・後編に分割することにしました。
今回で終われば良いんだけど、、、。

いや。

終わらせます。

さすがに3回にわたるのは長過ぎなので。
他にもカフェラテ方式で紹介したい本、
たくさんあるので。

ではさっそく始めて行きましょう。



●木を見る西洋人、森を見る東洋人

読了した日:2018年1月31日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:リチャード・E・ニズベット
出版年:2004年
出版社:ダイヤモンド社

リンク:
http://amzn.asia/cJx57Lj



▼▼▼エドワード・ホールの低コンテクスト社会、高コンテクスト社会

→P64〜65 
〈文化人類学者のエドワード・H・ホールは、
自己理解の仕方の違いを把握するために、
「低コンテクスト社会」、
「高コンテクスト社会」という概念を提起した。
西洋人がある人について話す場合、
その人が状況や人間関係に
左右されない属性をもっていると考えることは理にかなっている。
自己とは、周囲と切り離された不可侵の自由な主体であって、
集団から集団へ、ひとつの環境から他の環境へと移っても
著しく変化することはない。

しかし、東洋人にとっては
(また、程度の差こそあれ、その他の地域の人々にとっても)、
人は他者とつながっており、変わりやすく、状況依存的な存在である。
哲学者のドナルド・ムンロによれば、
東アジア人は「家族、社会、道教、儒教など、
自らを取り巻く全てのものとの関係の中で」自分自身を理解する。
人は多くの関係に参加しており、
そうした関係があって初めて行動することが出来る。
純粋に周囲から独立した行動を取ることはたいていの場合不可能だし、
実際のところ望まれてもいない。〉



、、、「高コンテクスト社会」「低コンテクスト社会」
という耳慣れない(かもしれない)単語が出てきました。
コンテクストとは「文脈」を意味する英語です。
ですから、「文脈依存性が高い社会」「文脈依存性が低い社会」
と言い換えても良いわけですね。

日本や韓国などの東アジアの国々は、
「高コンテクスト社会」、
西洋社会は逆に「低コンテクスト社会」なのだ、
というのが著者がここで言っていることです。

日本は特に、数千年もの間、
実質的には単一民族、
単一言語で生活してきましたから、
それも「高コンテクスト社会」に一枚噛んでいます。
「高コンテクスト社会」では、
話した言葉の内容(テキスト)よりも、
その言葉が発せられた「場」が公的だったか私的だったか、
発言した人物の立場が、権力者なのかそうでないのか、
声のトーンがきつかったのか優しかったのか、
表情は無表情だったのか笑っていたのか、
などの文脈(コンテキスト)のほうが、
情報のウェイトとして占める割合が高い、ということです。
「腹を読む」とか「ツーカーの関係」とか、
「察する」とか、「以心伝心」とか、「あうんの呼吸」などは、
すべて「高コンテクスト社会」であることの証左です。
「忖度」はだから、日本だからこその現象なわけですね。

上司や政治家が、
部下や民間人に、
「手を汚す」ような仕事をさせる場合、
「法的にグレーなことをしておいてくれ」
とは決して言いません。
「まぁ、上手くやっておいてくれよ」
と言います。
(分かるよな、俺の言ってること)
という意味です。
日大タックル問題ならば、
「やらなきゃ意味ないよ」
ってことですね。
部下が手を汚したとき、
「指示したわけじゃない」と居直れるのが、
このタイプの指示の怖いところです。

対する欧米社会は、
多文化・多言語・他民族な状況を、
数千年間経験してきていますから、
「コンテキスト」に依存したくても、
それが出来ないのです。
イギリス人とフランス人とイタリア人とドイツ人、
それぞれが、
「うまくやっておいてくれよ」
と言ったとしても、
「あうんの呼吸」が成り立たない。
日大アメフト部の宮川君の立場におかれた人は、
「えっと、それってどういうことですか?
 具体的に指示していただかないと分からないんですけど。
 開始何分で、誰に対して、
 どういったタックルで怪我をさせろってことですか?」
となる。
「コンテキスト」に依存できないから、
「テキスト(会話の内容)」で、
具体的に伝えないといけない。

これはけっこう大変です。
大変ですが、自分が実際に何を考えているかを、
他者に明確に表現するという訓練になります。

今後日本は文明史で始めて、
「多文化・他民族・多言語共生社会」に近づきます。
自民党がいくら抵抗しても、
この潮流は逆行不能です。
グローバリズムはハワイの溶岩流と同じで、
泣いても笑っても止めることが不可能なのです。
燃えたくなければ移住するしかない。
私たちは「コンテクスト」に、
かつてのように高度に依存できない社会に、
暮らすようになる。

「あうんの呼吸」はもはや通用しない。
A「あれ、適当にやっといて。」
B「はい。」
という会話が、
低コンテキスト社会では、
こうなります。

A「私はこういう考えをもっていて、
 だからこうして欲しいのです。
 そうするとあなたにもこういうメリットがありますが、
 こういったリスクもあります。
 だから、一緒にこうしませんか?」
B「あなたの意図は伝わりました。
 一点だけ不明なところがあります。
 リスクをどう分担しあいましょう?」
A「●●●」
B「×××」
A、B、A、
、、、、「じゃ、やりましょっか。」

多分会話は10倍ぐらい長くなる。
これは不便です。
しかし、不便ですが、
私はフェアだとも思います。
高コンテキストを悪用し、
責任の所在が曖昧になるようなことは理不尽だと思うので。
日大アメフト部の宮川君は、
「ガバナンス問題」の被害者であると同時に、
「高コンテクスト社会」の被害者でもあります。
私はこの種の「アンフェアさ」に耐えるよりは、
「説明が大変なこと」に耐える方がまだマシと考えます。



▼▼▼自己肯定を学ぶアメリカ人、自己批判を学ぶ日本人。
ムラのあるアメリカ人と完璧主義の呪縛に陥る日本人

→P70〜71 
〈スティーブン・ハイネと共同研究者たちが行った実験は、
自己がすぐれていることを実感していたいという西洋人的な心理と、
精進して自己を向上させたいというアジア人的な心理の違いを
明らかにするためのものだった。

実験に参加したカナダ人と日本人の学生は、
「創造性テスト」と称する架空の試験を受け、
その採点結果として
「非常に良い成績」または「非常に悪い成績」を
受け取った(ただしこれらは架空の成績だった)。
その後で実験者は、
参加者がテスト課題とよく似た練習課題に
どのくらいの時間にわたって取り組むかを密かに計測した。

カナダ人は自分が成功したとき(良い成績を取ったとき)に、
類似の課題により長い時間取り組んだ。
一方、日本人は失敗したとき(悪い成績を取ったとき)に、
より長い時間取り組んだ。

日本人は別に自虐的になっていたわけではない。
彼らはただ、与えられた自己向上のチャンスを実践したのである。
この研究の結果から、東洋と西洋における
スキル発達について考えることは興味深い。
西洋人は、取りかかって直ぐに上手く出来た事項については
かなり上達しやすいと思われるが、
逆に東洋人は、いわゆる器用貧乏になりやすい可能性がある。〉


、、、これは説明不要ですね。
「平均病」という言葉があります。
これは日本の学校教育や家庭教育が、
「弱点を克服する」という「思想」を持つからです。
突出した才能を持つ人は、
たいてい代償的に、どこかが突出的に抜けています。
脳の構造というのはそうなっているのです。
たとえばサヴァン症候群という、
社会脳に問題を抱える障害がありますが、
この人々は、「1444年6月9日は何曜日?」
といった質問に即座に答えられたりする能力を持っていたりします。
私の脳はちなみに、傾向で言うとサヴァン傾向があると、
自分では分析しています。
抽象思考や論理思考は長けていますが、
社会脳は非常に脆弱ですので。

話しを戻しますと、
日本は「平均病」の社会ですので、
弱点を克服することにリソースを投入しがちです。
そうすうると、「成績オール4」の人材が量産され、
そのような人が評価される。

しかしこれは、ちょっと良くないこともある。
経済学者ヨーゼフ・シュンペーターは、
「資本主義経済は定期的に不況と好況を繰り返す。
不況はイノベーションの契機となるので必要悪だ。」
という旨のことを言っています。
シュンペーターは「創造的破壊」という言葉の生みの親です。

現代の世界が「創造的破壊」の段階にあるのは、
論を待ちません。
20世紀に安定的な産業だった二次産業や、
労働集約的な三次産業の姿が、
インターネットやAI、3Dプリンタなどのの出現によって、
大きく変革しようとしている。
現在主流のビジネスモデルはどんどん過去のものになり、
「新しい産業革命が進行中だ」という論者も多い。

そのような時代には、
「イノベーションを起こせる人材」が必要になります。
ところが、「オール4」が10000人いても、
イノベーションは起きません。
10000人のなかに「他は1以下だけど、
ひとつの分野で異様なほどに突出している」
という、標準偏差から大きく離れた人材が数人いて、
得てして彼らこそがイノベーションの担い手となります。

本田宗一郎や、
スティーブ・ジョブズや、
イーロン・マスクを考えて下さい。
彼らは「天才」ですが、
3人とも共通の「別名」を持ちます。

「変人」です。

本田宗一郎は自転車にエンジンをつけたやつで、
浜松市内を走り回り、
奥さんはノイローゼになるほど追い詰められたし、
スティーブ・ジョブズは「サイコパス」
と言われるほど冷血です。
イーロン・マスクは、
途中で他のことに集中し始めてしまうため、
「服を着ることが出来ない」という悩みをもつほど、
完全なADHDです。

日本の教育はこういった突出の尖った角を丸めて、
まるでJAのコンベアーのジャガイモの出荷のように、
変な形の奴を弾いていき、
そして晴れて「社会に出荷されるオール4の人材」
を作る。

「いやいや、東大に入り官僚になる天才もいるじゃないか!」

違います。
彼らは単に「オール5」なだけです。
平均病という意味では、
さほど変わらない。

何の話し?

現代の日本の課題は、
いかに平均病を脱するか、でしょう。
「ゆとり教育」、
もっと続けたら良かったのに。
教育の結果は、
それが出るのに30年かかります。
もやしの生産とは違い、
人は「木」に近いのですから。
文部科学省の悪いところは、
結果が出る前に結論をだす、
ということです。

ゆとり教育の結果を待つゆとりが、
彼らにはなかった、ということでしょう。

残念です。



▼▼▼相互協調的な社会か、相互独立的な社会、
どちらに暮らすかで人のアイデンティティは変化する

→P83〜84 
〈言うまでもなく、
東洋人は日常的に相互協調的なプライミングを受け、
西洋人たちは相互独立的なプライミングを受けている。
たとえ彼らの受けたしつけが
どちらか一方に偏ったものではなかったとしても、
周囲の様々な手がかりのおかげで、
相互協調的な社会に生きる人は
概して相互協調的な行動を取るようになり、
相互独立的な社会に生きる人は
概して相互独立的な行動を取るようになるだろう。

実際、一時的に別の文化への移住を経験した人からは、
良くその手の話を聞く。
私が気に入っている事例は、
日本に数年間住んだ若いカナダ人心理学者の話である。
彼はその後、北アメリカの大学に職を求めて志願したが、
彼の指導教官は、願書に付された手紙を読んでひどく驚いた。
その仕事に自分がふさわしくないことについての
謝罪文から始まっていたからである。
また、自尊心とはきわめて柔軟性の高いものだと言うことも分かっている。
日本人の自尊心は、しばらくの間欧米に暮らすことによって
飛躍的に高まるという。

これはおそらく、日本にいるときと比べて、
日々、より自尊心の高まりやすい状況に
接していたためであると思われる。
このように、複数の異文化に育った人々の心理的特徴は、
おおいに変化しやすいものなのである。〉


、、、これはめちゃ面白いですね。
カナダに長く住んだ研究者が、
「日本人みたいになっちゃった」という話しです。
逆に欧米に住むと日本人の性格が変わる、
ということもよく言われます。

私の父はまさにその典型でした。
父は30代前半で、勤めていた会社の、
留学制度を使って、
イリノイ工科大学でふたつめの修士課程を収めました。
その2年半のあいだに、父は性格が変わった、
と母は証言しています。

大学時代および社会人初期の父は、
めちゃくちゃ「ネクラ人間」で、
いつも彼の周りには暗黒の影が立ちこめているような、
そんな存在だったそうです。
アメリカに行き本当に性格が変わった。
私の知る父は「ネアカ人間」です。
ちょっと変人要素もありましたので笑、
「フーテンの寅さん」とか、こち亀の両津勘吉とか、
そういったタイプの、なんだか周りがにぎやかになる、
ネアカ人間になりました。
私の知っている父は後者なので、
父がアメリカに行っていなければ、
私の現在の性格も変わっていたかも。

「自信がない人の心理学」みたいな本は、
途方もない数発刊されていますが、
実は「転地療法」が最強だというのが私の考えです。
自信のない性格を変えたい人は、移住しましょう笑。
あまり聞いたことない処方箋ですが、
効果は実証されています。



▼▼▼社会を分析的世界観から原子論的に見る西洋人、
社会を包括的世界観から関係論的に見る東洋人

→P99〜100 
〈西洋人のこうした原子論的な考え方は、
社会制度の性質をどのように理解するかと言うことにも表れている。
ハムデン=ターナーとトロンペナールスは、
中間管理職に対する調査の中で、
企業は仕事を組織的にこなすシステムか、
または一緒に働く人々をとりまとめる有機体かと言うことについて、
参加者の考えを尋ねた。

(a)企業とは、様々な職務や仕事を
効率的にこなすために作られたシステムである。
従業員は、機械や設備の助けを借りながら、
これらの仕事を成し遂げるために雇われている。
彼らは自分が行った仕事に応じた賃金の支払いを受ける。

(b)企業とは、人々が集まって共に働く集団である。
従業員は、仲間や組織そのものとの間に社会関係を築いている。
企業の仕事はそれらの社会関係に依存している。

その結果、アメリカ人のおよそ75%、
カナダ人、オーストラリア人、イギリス人、オランダ人、
スイス人の50%以上が(a)を選択したのに対し、
日本人とシンガポール人で(a)を選択した人は約三分の一に過ぎなかった。

ドイツ人、フランス人、イタリア人は、
アジア人とイギリス系および来たヨーロッパ系の人々との
中間に位置していた。
つまり、西洋人、とくにアメリカ人や北ヨーロッパ系の人々にとって、
企業とは、別々の職能を発揮する人々が
寄り集まった原子論的なモジュールの社会である。

一方、東アジアの人々にとっては、
企業とはそれ自体一つの有機体である。
企業における人間関係は、
物事を一つに束ねる上でなくてはならない要素と考えられている。
東ヨーロッパや南ヨーロッパの人々も、
程度の差はあれ、ある程度東アジア人的な考え方を有している。〉



、、、これはかなり示唆に富む洞察です。
組織とは別々の個人の集まりだ、という世界観と、
個人とは組織とは不可分な「構成要素」だという世界観。
どちらを取るかで、組織論は天と地ほども変わるはずです。
よく言われることですが、
日本では名詞の肩書きこそが名詞の内容です。
「●●株式会社 営業本部長 山田太郎」
という名詞があったとき、
「山田太郎」という部分は実は重要ではない。

養老孟司がいつかの講演でこう言っていました。
「名詞を印刷するとき、
肩書きだけの名詞を作れば良いのに。
名前のところは空白にしておいて、
担当者が変わる度にゴム印で押せばいい」って笑。

アメリカではこれが逆になります。
「私はジョン・スミスと言います。
 3年前は●●株式会社の営業部長をしていましたが、
 現在は転職して●●コーポレーションのマネジャーをやってます」
となる。

つまり、養老孟司のメタファーで言うなら、
名前だけの名詞を作り、
あとは空白にしておく。
転職する度に肩書きをゴム印で押せば良い、
ということになる。

日本とアメリカで、
組織と個人の、「地と絵柄」が逆転するわけです。

これ自体は「違い」なのでどうしようもありません。
著者も説明していますが、これは遺伝子と言うより、
「言語」に構造的に組み込まれています。
くだんのカナダ人研究者は遺伝子によってではなく、
日本語を長期間話したことによって、
「自分を低く見積もる癖がついた」のです。

問題なのは、こういう「組織に関する世界観」の違いを無視して、
アメリカで作られた組織論を、
日本の会社や教会がそのまま使おうとすることです。
日本の神学校で習う教会政治に関する組織論は欧米製ですし、
評判悪い「MBA」も完全に欧米スタイルです。

日本の組織を欧米のスタイルで運用するとどうなるか?

正直言って、そんなの上手く行くわけがない。
だって、前提が違うんだから。
サッカーのルールブックで野球をしようとしているようなもので、
その試みは必ず破綻します。
たいせつなのは、日本の前提がちゃんと前提されている、
新しい組織論を構築することです。
これは社会一般でもキリスト教会でも、
ほとんど誰も手をつけていない分野ですので、
今後取り組むに値することだと私は思っています。

今回の「よにでしセミナー in 札幌」では、
その辺の洞察も得られるようにセミナーデザインをしました。

恒例の宣伝を。
これは「ファイナルコール」です。
本当はもう申し込み締め切り過ぎてますが、
あと2人ぐらいなら入れるので。
参加希望者はこちらから。

▼参考リンク:よにでしセミナー 第二期 in札幌
http://karashi.net/project/yonideshi/index.html



▼▼▼大陸系のヨーロッパ人はビッグ・ピクチャーを描くが、
アングロアメリカ人はそうではない

→P101〜102 
〈ヨーロッパ大陸の人々の社会的態度や価値観が
東アジア人とアングロ・アメリカ人の中間であったことにも見られるように、
大陸の知の歴史はアメリカや英連邦に比べれば全体論的である。

アメリカは、大陸よりも遙かに「ビッグ・ピクチャー」
(将来を見据えた大きな展望)の感覚が乏しい。
アングロ・アメリカ人の哲学者は何十年もの間、
原子論的な日常言語分析に取り組んできたが、
その間、ヨーロッパの哲学者は、現象学や実存主義、
ポスト構造主義、ポストモダニズムなどを生み出していた。

政治、経済、社会に関する大きな思想体系は、
主としてヨーロッパ大陸から生まれた。
マルクス主義はドイツ生まれだし、
社会学はフランスのオーギュスト・コントが生み出し、
ドイツのマックス・ヴェーバーが最高水準まで高めた。
心理学に関しても、ビッグ・ピクチャーと呼べる理論を
打ち立てたのはやはり大陸の人々だった。
おそらく二十世紀における最も影響力のある心理学者は、
オーストリアのフロイトとスイスのピアジェだろう。

私が専門とする心理学の一分や、
社会心理学では、クルト・レヴィンと
フリッツ・ハイダーという二人のドイツ人が、
非常に守備範囲の広い包括的な理論を作り上げた。
そして、私自身も遅まきながら仲間入りすることになったのが、
ロシア人心理学者のレフ・ヴィゴツキーと
アレクサンダー・ルリアがつくり出した心理学の歴史文化学派だった。〉


、、、東洋人である私たち日本人からすると、
欧米人ってみんな欧米人で、一緒なんじゃないの?
と思うかもしれませんが、それはあまりにも乱暴です。
だって逆の立場で考えてみて下さいよ。
「日本人も中国人も韓国人も、
みんな東アジア人で、結局一緒でしょ?」
って言われてるのと同じ事ですからね。
私たちはそれに激しく反論するはずです。
「かなり違うぞ!」と。
「肌の色以外何もかも違う!!」

欧米人も同じです。
大別すると、大陸系(ドイツ・フランスなど)と、
アングロアメリカ系(イギリス→アメリカ系)で、
大きく違うわけです。

著者がここで指摘しているのは、
大陸系は「ビッグ・ピクチャー」を見たがるが、
アングロアメリカ系はとことん分析的で細部に入り込む、
ということです。
かみ砕いて言いますと、
大陸系のヨーロッパ人(ドイツ人、フランス人ら)は、
「この世界全体を説明する大きな論理」を志向するということです。
ドイツ人カール・マルクスの生んだ資本論などはまさにそれですね。
アメリカ人は「大きな論理」にあまり興味がない。
なので、スケールの大きな哲学や論理が生まれにくい、
というのです。

これは、いろんな神学者の本を読んでてもそう思います。
アメリカの神学者の論理と、
ドイツの神学者の論理って、
かなり違う。
直観的に言いますと、
アメリカはかなり機械論的で合理主義的です。
ドイツは「合理主義を超える物語」を生もうとしています。

これはリベラルかコンサバティブか、
という話しではありません。
それとは位相が違う、ダイナミズムのレベルの話しです。
ちなみに私は後者に惹かれます。



▼▼▼東洋人の弁証法的な解と、西洋人の非弁証法的な解

→P198 
〈ペンと私は、ミシガン大学の中国人とアメリカ人の学生に、
人と人との葛藤や一人の人間の中の葛藤を描いた物語を読んでもらった。
ある物語では母と娘の価値観の違いによる葛藤、
別の物語では遊びたいという気持ちと学校で
勉強しなければならないという気持ちの葛藤が描かれていた。
われわれは参加者に対して、
これらの葛藤についてどう考えるかを尋ね、
参加者の答えが「中庸」すなわち弁証的な解、
非弁証法的な解のいずれに当てはまるかを分類した。

弁証法的な回答にはたいていの場合、
問題の原因を両方の側に求め、
対立する二つの見方を妥協や超越によって
調停しようという内容が含まれていた。
「母親も娘もお互いを理解していなかった」という回答は、
遠くない将来に二人が
互いに目を向け合うだろうという指摘を含んでいると判断し、
弁証法的な解として分類した。

これに対して非弁証法的な回答では、
いずれか一方の側に問題があるという指摘がなされていた。

母と娘の葛藤については、
中国人の回答の72%が弁証法的な解として分類されたのに対し、
アメリカ人の回答には26%しか弁証法的なものはなかった。
学校か遊びかという葛藤については、
中国人おおよそ半数が弁証法的な解を示したが、
アメリカ人の場合はそうした回答は12%しかなかった。
要するに、中国人のほとんどは「中庸」を見いだそうとし、
アメリカ人のほとんどは一方向的な変化を求めていた。〉


、、、何か葛藤がある際、
中国人(東洋人)とアメリカ人(西洋人)とで、
解決のスタイルが違っていた、という話しです。

タイのチェンマイで私がこの本を引用しようと思ったのは、
この箇所を読んだからです。
先々週書いた、「排中律」の問題がここで再び出てきます。
西洋の分析思考の根底にある「アリストテレス論理学」の、
「いろは」の「い」が、「排中律」です。
「矛盾律」とも言う。

「AはAであると同時に、
 非Aであることはありえない。」
と表現されます。
だからこそ、西洋の神学で、
「三位一体論」や「キリストの神性」が、
あれほど問題になったわけです。

ところが、東洋には驚く事に、「排中律」がない。
陰陽思想や道教などに代表されるように、
東洋では、
「光と闇」
「病気と健康」
「自然と人間」
「宗教と世俗」
こういったものを、
「対立概念」と捕らえません。
互いに補完する概念と捉え得ます。

「死は生に含まれ、生は死に含まれる」
というような考え方ですね。

西洋と東洋の思考の違いが、
問題解決にどういった違いをもたらすか?
西洋は「排中律」がありますので、
「Aが悪いか、Bが悪いか?」
といった二項対立の図式を取りやすく、
「排中律」のない東洋は、
「AもBも両方とも正しいし、
 両方とも悪い」
といった弁証法的な解を思考します。

「大岡裁き」とか、
「三方一両損」とかっていうのは、
その典型です。
辞書にはこうあります。

三方一両損:
「左官金太郎が3両拾い、
落とし主の大工吉五郎に届けるが、
吉五郎はいったん落とした以上、
自分のものではないと受け取らない。
大岡越前守は1両足して、2両ずつ両人に渡し、
三方1両損にして解決する。」

こういった解決法は、
おそらく西洋的な思想からは出てきません。
先々週の繰り返しになりますが、
現代世界は「近代合理主義の行き詰まり」に来ていると、
多くの人は思っています。
そのような時代に、「東洋的弁証法的な解」
というのは、実は世界を益することになるのではないか、
というのが著者の指摘であり、
私もそう思います。

著者は「プロローグ」の結語で、
今後の文化は「歴史の終わり」でフランシス・フクヤマが言ったように、
世界が全部アメリカになるのでもなく、
サミュエル・ハンティントンが「文明の衝突」で言ったように、
西洋化は挫折し多元主義の世界が訪れることもない、と語ります。
そうではなく東洋と西洋は互いに「出会い」、
侵襲し合い、相互に影響し合い、
溶け合っていく未来を彼は描きたい、と。

曰く、「シチューの具は具のままだが全部変化する。
そしてそのシチューにはそれぞれの具の
一番おいしいところが含まれている」というように。
私も著者の意見に同意します。

臨床心理学の泰斗カール・ユングは、
ドイツの牧師の息子という、「典型的な西洋人」でしたが、
彼の「全体性の心理学」は、彼が父への反発から、
東洋思想に傾倒したことから生まれました。
そのユングが「東西の思想の出会い」をコンセプトとした、
「エラノス会議」を主催しますが、
ここに参加した日本人が河合隼雄、鈴木大拙らです。

21世紀は西洋と東洋が互いに出会う時代になるだろう、
と著者は言っています。
東洋は西洋に出会うことでより豊かにされ、
西洋もまた東洋に感化されることで深みを増す、
21世紀はそういう時代だ、と。
実はみなさんの多くが使っているiPhoneは、
まさに「西洋が東洋に出会って出来た製品」です。
スティーブ・ジョブズはかつてソニーに学びにきたとき、
日本の禅寺の美しさに、雷に打たれたような衝撃を受けます。
そして彼は禅宗に感化される。
それが「引き算のデザイン」を生んだのです。
当初アメリカではブラックベリーのような、
ボタンがたくさんついたスマホが流行りましたが、
ジョブズは「ボタンは醜い」といって、
あらゆる装飾を取り除いたのがiPhoneです。
つまりあれは「日本の禅寺の思想を、
を西洋のガジェット屋が商品化した」商品と言えます。
詳しくはジョブズの公式伝記に書いてありますので、
興味ある人は読んでみて下さい。

神学の歴史を考えますと、
「西洋的な聖書の読み方」こそ正統とされます。
今後もそれは変わらないでしょう。
しかし、キリスト教をより芳醇にするには、
「東洋的に聖書を読む」ことも、
大いに貢献すると私は確信しています。

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