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つらいときにかけてもらいたい言葉

2019.03.26 Tuesday

+++vol.066 2018年11月20日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■1 今週のオープニングトーク
恒例の質問カード
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼辛いときにかけてもらいたい言葉▼▼▼

メルマガ読者の皆様、こんにちは。
今週も質問カードから、行ってみましょう。

▼質問:
最もつらいときにかけてもらいたい言葉は何ですか?
どう接して欲しい?


、、、なかなかディープな話題ですねー。
ここ最近はポップというか、軽めの話題が続いていました。
輸入お菓子とか、寝る前のルーティーンとか。

なので今回は、
こちらをやってみましょう。

、、、あまり気乗りはしませんが笑。

(なるべく避けているわけではありません。
 でも、辛いときの話しをすると、
 少なからず自分もダメージを受けるのです。
 金網デスマッチの大仁田厚みたいなもので、
 仕事とはいえ、なかなか過酷なのです。
 でもこのことを話し続けるというのは、
 2年前に病気から復帰してから、
 「やる」と決めているので、やります。)


、、、さて。
何から話しましょうか。

これはなかなかに深いテーマなので、
どこから手をつけて良いか悩みます。

まず、「辛いとき」の定義ですね。
病院に行くほどの鬱状態のときと、
仕事でへまをして落ち込んでいるときと、
インフルエンザで辛いときとで、
辛さの種類や程度は異なるわけです。

質問に「最も」とありますから、
まあこれは、電車に乗り遅れたとか、
そういったレベルではなさそうです。
さしあたり、鬱状態に近いような辛さ、
ということにしましょう。

このときにどうして欲しいか?

これは本当にいろいろあるでしょうね。

私は鬱病から仕事に復帰してから、
様々な場所で鬱病の闘病体験を交えて、
メンタルヘルスに関する講演会、勉強会でお話ししてきました。
その半数ぐらいは、私の体験談のあとに、
「質疑応答」の時間を取りました。
30分から60分ぐらい、たっぷりと。

多くの場合、あらかじめ白紙の質問用紙を手渡しておき、
私の体験談を聞く間に、具体的に聞いてみたいことを、
その紙に書いていただいて回収し、
10分間のトイレ休憩のあいだに、
私がそれに目を通し、ジャンル分けをし、
優先順位をつけ、60分間で答えていく、
という方法をとりました。

そのなかで、
「毎回複数人から挙がる質問」というのが、
いくつかあります。
そのひとつが今日の、
「周囲に鬱病で苦しむ当事者がいる場合、
 どのように接したら良いか?
 何と声をかけたら良いか?」
というものでした。

これに関しては私は本が一冊書けるぐらい、
知識と経験のストックがあります。
私は「向こう側の世界」で、
「鬱病の博士課程」を修了したと、
自分で思っていますから笑。
私は「月の裏側に行って返ってきた人」なのです。
そのなかから重要な部分を、
なるべく簡潔に書いてみたいと思います。

まず、鬱病の人に、
「頑張れ」というのは禁句、
というのはかなり世間的にも認知されてきました。

しかしこういうのって、
マニュアルとは違うので、
「頑張れ」という言葉自体を避ければ、
それで良いわけではありません。

「頑張れ」がダメなのね、
なるほど、じゃあ、
「前向きになろうよ」
なら良いって事か。

これは日本政府が戦後、
「敗戦」を「終戦」と言い換えたのと同じで、
物事の本質をはぐらかしているだけで、
まったく意味がありません。
この場合の「前向きになろうよ」が、
「頑張れ」の言い換えである以上、
それは「頑張れ」と言っているのとまったく変わりません。

まったく変わらないどころか、
それによって伝わっている、
「メタメッセージ(言外のメッセージ)」と、
メッセージの内容に乖離が生じますから、
落ち込んでいる人は圧力だけでなく混乱も感じることでしょう。
事態をより悪化させることになります。

「今はしっかり休んで!」
という言葉も、本当にそう思っている人と、
「頑張れ」の言い換えとして言っている人がいるわけです。
落ち込んでいる人というのは敏感ですから、
「メタメッセージ」のほうを正確にくみ取ります。

「頑張らないで良いよ!」
と口では言っている人の目を見て、
「頑張れ」ってことね、
と当事者が感じることだってあるわけです。

逆にこの人からなら「頑張れ」と言って貰っても、
それが本当に慰めになり、
救いを与える言葉となる、
ということだってあります。

では、両者の違いを分けるものは何なのか?

それは、
「コンパッション」の有無だと思います。
コンパッションというのは、語源が神学的です。
「パッション passion」を辞書で引きますと、
「情熱」の次に「キリストの受難」が出てきます。
コン con- という接頭語は、
「共に」という意味があります。

つまりコンパッションというのは、
日本語の「同情」よりもさらに意味が深く、
「その人が受難しているのと同じ苦しみを、
 キリストが十字架を背負われたそのように、
 自分も一緒に苦しむ」ということですから。

鬱病などの当事者にとって、
「頑張れないこと」が目下の悩みなので、
「頑張れ」「前向きに考えろ」と言われるというのは、
ぜんそくの人に「もっと深く息をしろ!」
と言ってるのとまったく同じで、
その苦しみを軽減するどころか、
苦しみを増大させます。

頑張ってなんとかならないからこそ、
本人は苦しんでいるんですから。

この世のほとんどの悩み・苦しみというのはそもそも、
がんばってもなんとかならない事ばかりです。
「努力は必ず報われる」というのはフィクションで、
努力してもどうにもならないのが世の中なのです。
では、「どうしようもならない苦しみ」を前に、
私たちは何が出来るのか?

ただ、「共に苦しむ」ことぐらいしか出来ないのです。
泣いている人がいたら、一緒に泣くことぐらいしかできない。
痛んでいる人がいたら、自分も痛いような気持ちになり、
傍にいることぐらいしか出来ない。
鬱病で苦しむ人がいたら、「苦しいだろうなぁ」と、
うなり声を上げることぐらいしかできないわけです。
「いや、苦しみを和らげるどころか、
 そもそも俺は、
 この人の苦しみを理解することすら出来ないじゃないか。」
と、自らの想像力や共感力のなさに肩を落とします。

そうするときに、鬱病当事者の傍にいる介助者は、
「自分自らの非力さ」を感じ、
「自分自らの限界」に打ち震え、
「自分自らの無力さ」に直面します。

はい、来ました。

ここまで来たとき、
それは「鬱病の人の無力感」と、
その人は「同じ」になることができます。
「同情すら出来ない」という無力感に直面して初めて、
逆説的ですがその人は、
「コンパッション」の状況に最も近づきます。

この「降りていく人」の在り方が、
最も落ち込んでいる人に接する介助者の在り方の、
ひとつのあり得べき正解なのではないかと、
私は思っています。

「自分は上いて、
 その人を引っ張り上げる」
という心理的な立ち位置から発せられる、
「もっと休んでいいからね!」
よりも、
「その人の痛みを理解すら出来ない自分に打ち震える」
というところまで降りた人の発する、
「・・・・頑張れ・・・」
のほうが、当事者にとってどれだけ救いになるか。

「古くて新しい」、新約聖書の言葉はこう言っています。
「喜んでいる者たちとともに喜び、
泣いている者たちとともに泣きなさい。」
(ローマ書12章15節)

「牢につながれている人々を、
自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい。
また、自分も肉体を持っているのですから、
虐げられている人々を思いやりなさい。」
(ヘブル書13章3節)


、、、現代において「牢につながれている」人とは、
文字通り拘置所や刑務所にいる人もそうかもしれませんが、
現代社会の困難のなかで一歩も動けなくなってしまった、
きっとあなたの職場にもいる誰かかもしれません。
「自分もそうなった気持ちで、、」
というのは簡単ですが、そんなことは出来ないのです。
だって、私はその人じゃないんですから。

そのとき、
「あぁ、俺は人の気持ちが分からないなぁ。
 想像すらできないなぁ。
 無力だなぁ。」と思う。

そのとき、あなたは「牢につながれた誰か」に、
最も肉薄しているのです。


、、、質問、何だっけ笑?

そうです。
最も落ち込んでいる時に、
どんな言葉をかけて欲しいか?
どう接して欲しいか?

この質問に「唯一の正解」はありません。

なぜならその言葉や行動の背後にある、
「メタメッセージ」こそが大事であり、
その「メタメッセージ」を決めるのは、
実際に接していないときのその人の態度だからです。

たとえ「何もしない」が答えだったとしても、
その背後にあるのが「負け犬を見下す」なのか、
「単に無関心」なのか、
「下手に何か言って後で責められたくないから」なのか、
「本物のコンパッションを通過した結果、
 祈るような気持ちで『何もしない』」なのかによって、
その人は絶望のどん底にも突き落とされるし、
あるいは地獄のなかで清涼なコップ一杯の水を飲むような、
救いを感じることだってあるのです。

鬱病闘病中の2年間、
私のある友人は「大丈夫や!」と言ってくれました。
ある友人は、いっさい何もなかったかのように、
普通に接してくれました。
そして多くの友人は、「何も出来ないなぁ・・」
という無力感を感じながら、連絡をとらず、
そっとしておいてくれました。
何よりも、私はそれを月の裏側で見てきたかのように、
「知っている」のですが、彼らは、
無力さに打ち震えながら、
「無力な私と同じになって」祈ってくれました。
それぞれに接し方は違ったわけですが、
彼らは深く自分も傷つき、
ある人は目に涙をため、ある人は泣いてくれました。
彼らの「コンパッション」にどれだけ救われたか。
今自分が生きているのは彼らのおかげだと思っています。

だから自分は世の中に「返すべき恩」がある。
私にもう一度与えられたこの人生は、
「オマケの人生」であり「ボーナスステージ」です。
だからこの一生は自分のためにあるのでなく、
「報恩の一生」と思っています。
この点において私は使徒パウロに同意します。
自分の人生はもはや、自分のためにあるのではない、と。

あなたの周りに、
「コンパッション」を必要とする人がいるのなら、
是非そうしてあげてください。
その人はもしかしたら「未来のパウロ」かもしれず、
あなたが「コンパッションする(共に十字架を負う)」とき、
それはこの世界を祝福しているのですから。
たとえ今はあまりに無力に思えたとしても。

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