カテゴリー

検索

便利な「検索」機能の使い方

上の検索バーに、「vol.○○」あるいは、「●年●月●日配信号」などと入力していただきますと、カテゴリ別だけでなく配信号ごとにお読みいただけます。

また、ブログ記事のアップロードは時系列で逐次していきますが、「カテゴリ別」表示をしますと、「Q&Aコーナー」だけを読む、あるいは「先月観た映画」のコーナーだけを読む、などの読み方が可能です。

スマートフォン

この他の活動媒体

●9年間続くブログです。↓
陣内俊 Prayer Letter ONLINE

●支援者の方々への紙媒体の活動報告のPDF版はこちらです↓
「陣内俊Prayer Letter」 PDF版

永久保存版・陣内が読んだ本ベスト10(後半)2018年版

2019.04.30 Tuesday

+++vol.071 2018年12月25日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 2018年版・陣内が今年読んだ本ベスト10(後編)
お待たせしました、年末特別企画です。
普段私は読んだ本に点数をつけたりランキングしません。
ランキングすることで切り捨てられる大切なものがあるからです。
なので、この企画は「年に一度だけ」の特別企画です。
前編は10位〜6位まで、
後編は5位〜1位までのカウントダウン形式で、
ご紹介していきます。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

●第5位 創世記一章の再発見 古代の世界観で聖書を読む

読了した日:2018年6月25日
読んだ方法:オアシスブックセンターで書籍購入

著者:ジョン・H・ウォルトン
出版年:2018年
出版社:いのちのことば社

リンク:
http://amzn.asia/c84ymB3

▼▼▼コメント:

これはねぇ。
衝撃的でしたね。
いろいろ物議を醸すでしょうが、
著者の主張は首尾一貫しており、
めっっっっっっっちゃくちゃ腑に落ちました。
私は獣医師であり「自然科学」畑の人間ですから、
そういう人が本書を読むと、
いろんなことがすっきりして、
なんか「自由」になります。

信仰と科学は二者択一ではありません。
そもそも「論じている内容」が違うのです。
100%の科学者であり、
100%の信仰者、
ということがあり得る、ということです。
後で説明しますがそれは、
信仰の内容が100%科学的に証明出来る、
ということはまったく違います。

興奮してたしか3冊買って、
知り合いにプレゼントしたぐらい良い本でした。

創世記一章は、
「天地創造」に関する記述です。
あれを「科学的にも実証出来る事実」
という前提で読むのは、
釈義的にも正しくないし、
実は無自覚に「科学」を「真理」の上に置く行為だし、
神が本当に意図した事ともかけ離れている、
といのが本書の内容。

「創造科学」を提唱する根本主義の人は、
もしかしたらカンカンに怒るかもしれませんが、
怒る前にこの本を読んでいただきたい。

読んでもなお怒るのはかまいません。

その場合は感情的に全否定するのでなく、
実証的に、著者の論理矛盾(もしあれば)などを、
指摘する形でするべきです。
そうすることで、
「人類の創世記の読み方」が、
より豊かにされていくのですから。

なぜ著者は、
創世記一章が科学的にも実証されるはずだと信じる
「創造科学」に対して批判的なのか?
それは「コンコーティズム」という概念と関係があります。

引用します。

→P18 
〈あるキリスト者たちは、創世記一章のテクストを、
まるでその中に近代科学が組み込まれているかのように、
あるいは近代科学が発見するべき事が記録されているかのように扱おうとする。
このような創世記一章へのアプローチは、
「コンコーティズム」と呼ばれる。

それはあたかも、テクストの中に、
近代科学が考えるような詳細な説明を探し求めようとするものだ。
これはテクストや文化を近代の読者のために
「翻訳する」ことを企図する取り組みのひとつである。
まず問題になるのは、私たちが彼らの宇宙論を、
今日のものに翻訳することは出来ないし、
すべきでもないと言うことだ。

もし、私たちが創世記一章を古代の宇宙論として受け入れるならば、
それを現代宇宙論の言葉に翻訳するより、
むしろ古代の宇宙論として解釈する必要に迫られる。
もし、私たちがそれを近代科学の言葉にねじ曲げようとするなら、
私たちはテクストに、それが決して言わなかったことを、
言わせることになる。

これは単なる意味の追加
(より多くの情報が得られるようになった故に)ではなく、
意味の改変である。
私たちがテクストを権威あるものとして扱えるのであれば、
テクストを、それが決して言わんとしていない意味へと
改変するのは危険なことだ。

調和主義(コンコーティズム)のもう一つの問題は、
テクストを現代の科学的認識に基づいて
理解しなくてはならないと決めてかかることだ。
こうするなら、そこでなされる理解は、
前世紀の科学的共通認識にも、
次世紀に新たに発展するかもしれない科学的共通認識にも一致しないだろう。

もし神がご自分の啓示を
科学に調和させることを心に決めておられたのならば、
それはどの科学なのかと問わねばならない。
科学というものは、
静的なものではなく動的なものであることはよく知られている。

まさにその本質において、
科学とは絶え間なく変化するものなのである。
もし私たちは、神の啓示は「真の科学」と一致する、
というのであれば、
それは科学の根本的な性質とは正反対の考え方を受容することになる。

今日、私たちが科学的な真理であると受け入れているものは、
明日には真理ではなくなるかもしれない。
なぜなら、科学とは、
ある時点で集められたデータに対する最も適切な説明を提示するものだからだ。

この「もっとも適切な説明」というものは
共通認識によって認められるのだが、
いくらかの反対意見が見込まれるものである。
仮説が検証され、古いものが新しいものに取って代わりながら、
科学は前進する。

それゆえ、神がもし、
ある特定の科学に啓示の狙いを定めたのであれば、
啓示はその科学の時代以前に生きる人々には理解できないものになるし、
その時代以降に生きる人々にとっては無用の長物となってしまう。
神の啓示を今日の科学に調和させたところで、
私たちは何も得られない。

これとは対照的に、
神はご自分の啓示を当時の聴衆と意思疎通させるべく、
当時の人々の理解できる用語でなされたと言うことが、
全く道理に適うのだ。〉


、、、「科学は聖書の創造論を裏付ける」
ということを一生懸命している人は、
「聖書の権威」を証明しているようでいて、
自分でも気づかずに、
「科学を聖書よりも上」に置いていることになります。

なぜか?

だってそうでしょ。
たとえば、私が、
「私の主張は正しい。
 なぜならハーヴァードの論文が、
 それを裏付けているからだ!」
というなら、
私は権威という意味において、
ハーヴァードの論文と私、
どちらに重きを置いているのでしょう?

ハーヴァードの論文です。

証明する内容よりも、
証明を裏付ける根拠の方が重いときしか、
この論法は使えません。

「現代の科学が聖書の言葉に追いついてきた!」
という人々は、実は、
無自覚に聖書の権威を軽んじています。
だって聖書より科学の方が重い、
ということをその論法自体が露呈しているのですから。

あと、字義通りの解釈を主張し、
「7日間の創造」を言い張る人たちは、
聖書の言葉が本当に字義通りだとしたら、
地球は平面でなければなりませんし、
今も太陽が地球の周りを回っていなければなりません。
(そう「書いてある」箇所が聖書にはありますから)

そのことはどう説明するのでしょう?

天動説は受け入れるが、
「7日間(168時間)での天地創造」は主張する、
というのは内部矛盾です。
創造科学の分野の人で、
「今も地球は平らであり、
 太陽は地球の周りを回っている!」
という人がもしいるなら、
その人となら私は話してみたい。
私は同意しませんが、
少なくとも彼の言っていることは、
内部において一貫しているからです。

この話を始めるときりがないのでこの辺でやめますが、
著者で神学者のジョン・ウォルトンが本書で言っていることは、
「創世記一章は、
『科学的な意味でどう天地が創造されたか』
 については、何一つ言及していない。」
ということです。

では、創世記一章は何なのか?
それは「宇宙論」だというのです。
「宇宙の成り立ち」ではなく、
「宇宙の意味」について語っているのが、
創世記一章なのだ、と。

もう、めちゃくちゃ腑に落ちました。
この本は今年のベスト5ですが、
「オススメ度」で言えば、
ダントツに第一位の本です。
「進化論とキリスト教」
「科学と信仰」などのテーマで、
悩んだことのある方なら、
めちゃくちゃ有益な一冊になることを保証します。

「字義通りの解釈派」が多数を占める、
福音主義の出版社である、
「いのちのことば社」がこの本を出版した意味は甚大です。
勇気ある決断だったと思います。
敬意を表します。



●第4位 津波の霊たち 3.11 死と生の物語

読了した日:2018年3月4日
読んだ方法:Kindleで電子書籍購入

著者:リチャード・ロイド・バリー
出版年:2018年
出版社:早川書房

リンク:
http://amzn.asia/bkfJHDX

▼▼▼コメント:

あー、これはヤバい。

ヤバいとしか言えません。

これまで解説するのを拒み続けてきた本です。
それほどヤバい本です。

メルマガのシーズンオフ期間中に、
義理の兄に教えて貰って、
Kindleで購入して読みました。

日本在住のイギリス人記者の著者は、
2011年3月11日、東京にいました。
「地震」というものに慣れていない著者にとって、
その日の揺れは「この世の終わり」かと思われました。

その後、福島第一原発事故を体験し、
東北に何度も何度も、彼は取材に行くようになります。

家族、親族、友人と死別した、
被災者たちの話しを聞くうちに、
彼は面白いことに気がつきます。

あまりにも多くの被災者が口をそろえて、
「幽霊を見た」というのです。
幽霊は津波にのまれた知り合いのこともあるし、
ペットの犬や猫のこともある。
しかし、その目撃事例が膨大すぎるのです。
さらに「死んだ人(やペット)」が、
自分に乗り移りその人の言葉を語る、
という「憑依」の事例も多数報告されます。

「これは何かある」と直観した著者は、
憑依され異常行動をする人の悩みを聞き、
その「除霊」に奔走する、金田住職に出会います。

読めば分かりますが、
この本は「オカルト」の本ではありません。
そういう話しではまったくない。
だからといって、
「事実と心理学と社会学と、、、
 というドライな分析と報道」でもない。
その中間に位置する何かの話しです。

2万人の人が海にさらわれたのです。
そりゃ「幽霊」も見るわな、
とキリスト者の私も思います。
「それは悪霊だ」と言うことではもちろんないですし、
「幽霊の実在」を信じているということでもないです。

そうではないのです。

「幽霊を見る」ことぐらいでしか、
語ることの出来ない体験というものがあるのです。
引用します。

→位置No.4106 
〈「ただの偶然でした」と彼女
(父親の幽霊としての靴の中に花を見た女性)は言った。
「都合の良いように解釈しているだけだと思います。
人が幽霊を見るとき、人は物語を語っている。
途中で終わってしまった物語を語っているんです。
物語の続きや結論を知るために、
人は幽霊のことを夢見る。
それが慰めとなるのであれば、良いことだと思います。」

怪談話を書き上げ、
土方さんが出版する雑誌に掲載することは、
文音さんにとってますます大きな意味を持つようになった。
「何千もの死があり、それぞれが異なる死でした。」と彼女は語った。
「ほとんどの死については、語られることもありません。
わたしの父は須藤勉という名前でした。
父について書くことによって、
わたしはほかの人たちとその死を共有することが出来ます。
ある意味、わたしなりの父への救済であり、
私自身も救われているんだと思います。」〉


、、、東日本大震災移行、
原発がらみの本を含めて、
震災関係の本を私はかれこれ、
150冊以上読んでいると思います。

、、、その中で本書は一番でした。
最も「良かった」(良かった、というのもしっくり来ないんだけど)。

東日本大震災は、
「言葉にならない事」です。
震災を語る、ということは、
「言葉にならない事を言葉にする」
ことです。

それは「不可能の可能性に挑む」ことです。
書き手(映画なら作り手)は、
それでも書く。

なぜか?

書くことは救済だからです。
言葉にならない国家的トラウマを、
日本人は2011年3月に抱えました。
それが癒えるには、
何十年もかかることでしょう。

しかし、「それを言葉にする真摯なうめき」
の積み重ねが、その「鎮魂」ともいえる、
治癒プロセスを前に進めていくのだと思います。

最後に金田住職の印象的な言葉を引用します。

→位置No.4257 
〈大川小学校で亡くなった児童の両親のような人々に、
僧侶はどんな慰めを与えることが出来るのか?
私がそう尋ねると、金田住職は少し間を置いた。
「とても慎重にならなくてはいけません」と彼は話し出した。
「子どもを亡くした人々にそういった話をするときには、
きわめて慎重にならなくてはいけない。
慰めを得るまでには、何ヶ月も何年もかかるでしょう。
あるいは一生涯かかるかも知れません。
ややもすれば、
何か言った時点で縁が切れてしまうことさえあるかも知れない。

しかし結局のところ、私たちが彼らに伝えられるのは、
受け容れるということだけかもしれません。
受け容れるという作業には大きな困難が伴います。
人それぞれ、個人個人で受け容れ方は異なります。
宗教者に出来るのは、
それを達成するための小さな手助けだけです。
彼らには、周りのみんなの支援が必要になる。
私たちはそれを見つめ、見守るのです。
そうしながら、われわれは自分たちが
宇宙のどの場所にいるのかを確かめる。
彼らと共に寄り添い、ともに歩く。
それが、私たちに出来るすべてです。」〉



●第3位 荊冠の神学 差別部落解放とキリスト教

読了した日:2018年7月14日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:栗林輝夫
出版年:1991年
出版社:新教出版社

リンク:
http://amzn.asia/6fCq6S9

▼▼▼コメント:

この本もヤバかったです。
まずは、とびらの引用から。

→P3 
〈「いかなる文化といえども、
社会秩序の上にある人々は相応なものが備えられる。
しかし文化の試金石とは、
底辺の人がどのように扱われるかにかかる」。 
ワレス・メンデルソン『差別』

「正義はそれが底辺の人々にどのように現れるかによって計られる。
こうした見方は、貧しい人々(アウヴィム)と、
神の経綸において彼らが中心的役割を担うという聖書の主題と一致する」。
リチャード・ニューハウス〉


、、、江戸幕府は、
貧しい百姓による一揆を押さえ込むために、
百姓よりも賎しい「えた・ひにん」という身分を、
創り出しました。
この人々は江戸以前からいた人々なのですが、
彼らの構造的・組織的差別が始まったのは江戸以降です。
彼らの生業は「屠殺業」や「死体の処理」でした。

明治、大正、昭和、平成と、
日本が近代化を経た後、
組織的・法律的な差別はなくなりましたが、
実質的な「差別感情」は残っており、
彼らの職業もまたその名残があります。

その証拠に、「同和解放同盟」は、
現在も東京の芝浦にあります。
芝浦は日本最大の食肉処理場があるところです。

なぜ私がこのことに詳しいかというと、
私は食肉処理場で獣医師として6年間働いたからです。

、、、で、
この本は、そんな「被差別部落」の解放と、
出エジプトの物語、
そして、イエスの「荊の冠」、
さらにはイエスの宣言された「神の国がもたらす解放」は、
関係あるばかりか、
そもそも聖書の中心テーマはそちらにあり、
聖書は「下から読まないと分からない」
ようになっているのではないか?
という「新しい神学の提唱」です。

目の覚めるような本でした。

だってそうでしょ。
出エジプトのときの、
大国エジプトにおける少数民族イスラエルの身分は、
現代の日本における被差別部落出身者や在日朝鮮人と似ています。
ローマ帝国における、事実上の属国イスラエルの状況は、
現代世界における黒人や性的マイノリティに似ています。

それだけではない。

イエスはそのイスラエルの中でも、
特に取税人や遊女やサマリヤ人、
つまりパリサイ人たちが「罪人」と呼んだ人々と、
意図的に交わりを持ち、
「ここに神の国が来た」と宣言されました。

このように見てくると、
聖書が意図していることは、
「エリートや富者や社会的強者」つまり、
「上から」見てもわからず、
「被差別者や貧者や社会的弱者」つまり、
「下から」見ないとわからないのだ、
という栗林氏の説には説得力があります。

それを象徴するのが「荊(いばら)」なのだ、
と栗林氏は言います。
「神の座」は至高の上にではなく、
「神の座」は荊にある、と。

引用します。

→P347〜349 
〈出エジプトという、
イスラエルにとっての決定的な解放のドラマを始めるにあたって、
神ヤハウェが「炎」となりながら臨在してモーセに語りかけられた場
――それは不毛な山ホレブの、
実に地上にしがみつくように茂る荊の茂みだった。

ときに主の使いは、荊(sene'h)の中の炎のうちにモーセに現れた。
彼が見ると、荊は火に燃えているのに、その荊はなくならなかった。
モーセは言った、「行ってこの大きな見ものを見、
なぜ荊が燃えてしまわないかを知ろう」。
主は彼がきて見定めようとするのを見、
神は荊の中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。
彼は「ここにいます」と言った。
神は言われた、「ここに近づいてはいけない。
足からくつを脱ぎなさい。
あなたが立っているその場所は聖なる場所だからである」。
(出エジプト3:2〜5)

荊の茂みは「聖なる場所」、
神が顕現するような象徴的な空間であった。
ヘブル語で「荊」にあたる言葉は十一あり、
厳密に言えばそれらはおのおの異なった荊科の植物を指す。
形状の違いや関連した雑草などを加えれば、
荊に言及する言葉は旧約聖書の中で実に二十二あまりに増え、
それぞれ「荊」「おどろ」「あざみ」「荊の茂み」「茂み」
などと和訳されている。
しかしそれらを確定することに今さしたる意味はない。
意味があるのは、神がそうした「荊」の中に顕現してモーセを呼び、
エジプトの地で奴隷とされたイスラエル人の解放を
命じられたという象徴性である。

神が初めてはっきりとイスラエルの民に現れ、
エジプトから彼らを解放する意図を示されたのは、
実に荊を通してだったという記憶、
荊が神の居場所を指すものだったという神学的象徴化である。〉


→P359 
〈「神の場は卑なる者、いや最も賎しき者と共にある」
と金芝河は言い、あるラテン・アメリカの解放神学者は
「神はそこに、最底辺におられる。
神顕現の大いなる場所とは貧しき者、飢えたる者、
搾取された者、牢獄にいる者、抑圧された者、低き者の間である」と述べる。

私たちは聖書的な神が「歴史の下側にいる民」
(the people underside of the history)に降り立つ神であること、
そして共に彼らの荊冠を被る神であることを見なければならないし、
人間社会の最底辺に立って、
そのトポスにいる民の辛酸を味わうため、
下降する神であることを、聖書のなかに見出さねばならない。〉


、、、神に逢いたければ、
きらびやかな大聖堂に行くな。
そうではなく貧しい人と共に生きよ。
そう言ったのは、
日本が世界に誇る社会変革者の賀川豊彦です。
自ら結核になりながらも、
貧民窟で救済活動を続けた賀川は、
「神は荊の中におられる」ということを、
良く理解していたのです。

引用します。

→P363 
〈もしこれと同じことを日本の伝統の中に求めるとすれば、
それは賀川豊彦の神観ではなかろうか。
賀川は、神がもっとも歴史社会の底辺に顕現することを
主張したパイオニア的存在である。
彼によれば、イエス・キリストの神とは人間社会の最底辺に降りたって、
その場にいる民の辛酸を味わい尽くす神、
犠牲者のもとに立って「再微者のうちに住む」神である。

「見よ、神は再微者の中に在らす。
神は監獄の囚人の中に、ちり箱の中に座る不良の群れの中に、
門前に食を乞う乞食の中に、療養所に群がる患者の中に、
無料職業紹介所の前に立ち並ぶ失業者の中に、
誠に神はいるのではないか。

だから神に逢うと思う者は、
お寺に行く前に監房を訪問するが良い。
教会に行く前に病院に行くが良い。
聖書を読む前に門前の乞食を助けるが良い。
寺に行って監房に廻れば、それだけ神に逢う時間が遅れるではないか。
教会に行って後に病院に廻れば、
それだけ神の姿を拝することが遅れるではないか。
門前の乞食を助けないで聖書を読み耽っておれば、
最微者のうちに住みたもう神がほかの所にいってしまうおそれがある。
誠に失業者を忘れる者は神を忘れる者である。」

「底辺」とはすべてを可能にする潜在力と、
いっさいを焼き尽くす情念が同居する場所である。
それはきらびやかな支配者の統制を離れた縁であり、
そこにおいてあらゆる価値が消滅する深い淵である。
それは中心から限りなく遠くに位置することで、
逆に、もっとも中央を照らし出すものでもある。〉


、、、これだけ文字数を割いても、
豊穣な本書の魅力の1割も伝えられていません。
とにかく、目の醒めるような一冊でした。
日本人が書いた神学書のなかで、
私は今のところ「歴代No.1」ですね。
こんな人が日本にいたことを思うと、
心が温かくなり、勇気を与えられました。
日本はまだ終わってないぞ、と。



●第2位 反脆弱性 不確実な世界を生き延びる唯一の考え方(上)(下)

読了した日:2018年4月20日
読んだ方法:Kindleで電子書籍購入

著者:ナシーム・ニコラス・タレブ
出版年:2017年
出版社:ダイヤモンド社

リンク:
http://amzn.asia/cqAeyjK

▼▼▼コメント:

これも凄いんですよね。
Kindleで読み耽った本です。
ただ、こちらも「概説」は難しい。
紙の本にすると上下巻で1,000ページ近くありますから。

サブタイトルの
「不確実な世界を生き延びる唯一の考え方」が、
この本の性質を良く現しています。

今の時代というのは、
「先の読めない」時代です。
経済でも政治でも社会でも何でも良いですが、
もし、「来年世界がどうなってるか言い当てあられる」
という人がいたら、
その人は嘘つきか、
何も知らないかのどちらかです。

つまり、
「次に何が起きるかが誰にも分からない」
ということだけが分かっている世界に、
私たちは生きているのです。

そのような時代に、
「予測と統御」による計画は、
必ず挫折します。
「予測と統御」を、養老孟司は、
「ああすればこうなる」という大和言葉に言い換えました。

つまり、私たちは今、
「ああしてもこうならない」世界に生きているのです。

「55年体制」に象徴される、
「昭和の長い繁栄と平和(と平成の停滞)」が、
私たちの考え方を、
「ああすればこうなる」式に、
知らず知らずのうちに条件付けてきました。

「勉強すれば良い大学に入れる。」
「良い大学に入れば良い会社に入れる。」
「良い会社に入って努力すれば良いポストが用意されている。」
「良いポストに就けば良い給料がもらえる。」
「良い給料がもらえれば、老後も安泰である。」
、、、というように、
「昭和の人生スゴロク」は、
かくも単純な「ああすればこうなる」式の
ロジックで構築されていました。

だから、子どもには、
「勉強しなさい」なのです。

、、、しかし、
今を生きる子どもの中に、
この神話を無邪気に信じている人は少数派です。

大人がどれだけ隠蔽しても、
「努力が報われるわけではない」
「良い大学に入れば良い会社に入れるわけではない」
「良い会社に入れば安泰なわけではない」
「高い給料を貰ってさえいれば安心なわけではない」
ということを、子どもは皮膚感覚で知っています。

「昭和スゴロク」のどのパートも、
現代の子どもにとっては、
「論理的につながっていない」のです。

物理学に「古典力学」と「量子論」がありますが、
両者の違いは、前者が、
「ああすればこうなる」世界であり、
後者が、「ああしてもこうならない」世界であることです。
だからアインシュタインは、
「神はサイコロを振らない」と言って、
量子論に反論したのです(後に彼は間違っていたことが分かります)。

さて。

20世紀は古典力学的な世界でしたが、
21世紀は量子論的な世界、
ということが言えると思います。
つまり「入力に対する出力が予測不能」な世界です。

このような世界の特徴は、
「成功への方程式が存在しない」ということです。
昭和的スゴロク的な手順をすべて正しく踏んでも、
絶望的に不幸になることがあり、
それらをすべて逸脱しても、
幸福になれる可能性がある、ということです。

そのような世界で、
人はどのように生きれば良いのか?

この本にはそのヒントが載っています。
この先を知りたい人は、本を読んで下さい笑。
もしくは、Q&Aコーナーで、
質問して下さい。

複数お問い合わせが来たら、
もしかしたらいつか解説するかもしれません。



●第1位 この世界で働くということ

読了した日:2018年4月27日
読んだ方法:新宿オアシスブックセンターで書籍購入

著者:ティモシー・ケラー
出版年:2018年
出版社:いのちのことば社

リンク:
http://amzn.asia/hxKjSXC

▼▼▼コメント:

今年私は約250冊の本を読みましたが、
その中で「第一位」はこの本でした。
4冊買って、知り合いにプレゼントしました。

この本があまりに良かったので、
夏休みに和訳されているケラー師の本を、
入手できるだけして、片っ端から読みましたから。

この本は、山田風音くんに教えて貰いました。
去年の「よにでしセミナー」で、
彼がプロフィールに、座右の書は、
Timothy Kellerの「Every Good Endeavor」、
と書いているのを私は覚えていました。

その後彼と話しているときに、
「俊さん、あの本が和訳されたんですよ」
と教えてくれて、買って読んだところ、
ぶっ飛ばされましたね(良い意味で)。

まさに「神の備え」だと思いました。

FVIが主催する
「よにでしセミナー」は、
「信仰者がこの世界で働くということ」に関するセミナーです。
主催者のひとりとして、この本は、
確実に内容を豊かにする一助となりました。
それは「明確に引用する」とか、
この本をベースにセミナーを作る、
といったものではなく、
「働くとは何か」についての一連の聖書的理解の枠組みを、
この本が私に与えてくれたからです。

この本もまた、
この文字数で概説することは不能なので、
ほんのちょっとだけかいつまむだけになりますがご容赦を。
というか、私の概説で内容を知った気になるのは、
あまりにももったいない。
是非、買って読んで下さい。

マジで。

「序章」で、「指輪物語」の作者、J・R・R・トールキンの、
「ニグルの木の葉」という短編小説の話しが出てきますが、
その箇所を読んだとき、私は書斎で号泣しました。

私たちは誰しも、
自分の職業を通して神の栄光を現したい、
そう願います。
皆が理想を持っています。
自分の仕事人生を通してこんなことが成し遂げられたらいいな、と。

しかし、私たちのうち、
いったいどれぐらいの人が、
その理想を本当に達成できるのでしょう?
そんな人は「一握り、いやひとつまみの成功者」だけで、
私たちの多くは「本当はしたかったこと」の、
ほんの一部を達成しただけで、
この世を去らなければならないのではないでしょうか?

私もそのように感じる一人です。

そして、トールキンもその一人でした。

トールキンの『指輪物語』は、
あまりにも壮大な構想だったため、
その「舞台設定の下準備」をするだけで、
トールキンは10年を要しました。

彼は思いました。
「これは、生きている間には完成しないぞ」と。
彼は心折れかけていたのです。
結果から言えば親友のC・S・ルイスの激励のおかげで、
彼は書き上げることが出来たのですが、
どん底期には、彼は本当に意気消沈し、
「達成できなかった夢」に心砕かれ、
失意の沼に沈みました。

今で言うと、
「バガボンド休載中」の、
井上雄彦のような時期が、
トールキンにはあったのです。

その休載期間中に書いた短編が、
「ニグルの木の葉」でした(私は後に全集でこれを読みました)。

この話は、
「大きな木と、その向こうに広がる壮大な世界」
を、巨大なキャンパスに描こうとして、
友人たちに借金をしまくった挙げ句、
完璧主義が昂じて、「葉っぱ二枚」しか完成出来ずに死んだ、
一人の画家が登場します。

この画家はもちろん、
トールキン本人のことです。
そして「完成しなかった絵」とは、
『指輪物語』のことです。

画家が天国に行くと、
神はある場所に画家を連れて行きます。

、、、


、、、そこは、
なんと、画家が描こうとしていた世界、
そのものだったのです。

「この世(此岸)」において、
その絵は未完成でした。
しかし、「あの世(彼岸)」においては、
彼の絵が描こうとしていた世界は実在していたのです。

彼が葉っぱ二枚を描いたとき、
「この世」は、「あの世に実在する完全な世界」の片鱗を、
この世に見せることに成功していたのだ、
と画家は気づくのです。

ここで私は号泣しました。

そうです。

私たちがベストを尽くしても、
「天国の片鱗」しか、
この世にあらわすことが出来ないかもしれない。
むしろそういうことのほうが多いだろう。
でも、それで良いんだ。
大切なのは「向こう側」にはちゃんとその作品は完成していて、
私たちは人生の限り、それをちょっとでも、
この世に具体化させようとすることなのだ、
という「トールキンの自分へのエール」が、
もろに私のハートを直撃したわけです。

世の中にはいろんな仕事があります。

大工として家を作る人、
弁護士としてこの世に正義をもたらそうとする人、
教師として子どもを教える人、
介護職として高齢者のケアをする人、
医者として誰かを癒やす人、
牧師として神の御心を人々に語る人、
サラリーマンとして企業で働く人、
公務員として法律の施行に従事する人、
自営業者として商品を売る人、

、、、

私のように、
人から「何をしてるか分からない」と言われながら、
「ジャンルとしてはこの世に存在しない仕事」を、
神にうながされ、創り出しながら働く人。

それが「完成するかどうか」は、
神が決めることです。
私だって「明日死ぬかもしれない」のです。
それは自分では決められません。

でも、大切なのは、
「完成したらどうなるか」見えていることです。
画家のニグルが、「向こう側に遙かなる世界」を見たように。

引用します。

→P38〜39 
〈では、あなたはどうでしょう。
若い頃に、あなたが都市計画の仕事に就いたとしましょう。
なぜこの仕事を選んだのでしょう。
あなたは都市が大好きで、
真の都市とはこうあるべきだというビジョンを持っていたからです。
しかしあなたはおそらくがっかりするでしょう。
人生を賭けて仕事をしても、あなたは一枚の木の葉、
あるいは一本の枝程度の仕事すら出来ないからです。

しかし、新しいエルサレム、天なる都市は実在します。
そしてその都市は花婿のために着飾った花嫁のように、
この地上に舞い降りてくるのです(黙示録21〜22章)

あるいは、弁護士だったとしたらどうでしょう。
正義に対するビジョン、
社会は構成と平和によって統治されるというビジョンを持つあなたは、
法曹界に進みます。
それから十年、重大な案件に取り組もうと努力しても、
人生の仕事のほとんどがつまらないものであると気づいたあなたは、
深く幻滅することでしょう。
人生の中で一度や二度は、
結局は「一枚の葉っぱを出しただけだ」と感じたことがあるにちがいません。

どんな仕事に就いたとしても、
「木は実在する」ことを知らなければなりません。
公正と平和の町、光輝と美の世界、物語、秩序、癒し・・・。
仕事に何を求めようとも、木はそこにあるのです。
そこには神がおられ、
神がもたらそうとしとられる回復した未来の世界があり、
あなたの仕事は、その世界の存在を
(少なくともその一部を)他の人々に知らしめるのです。

最高に頑張ったとしても、
あなたはその世界のほんの一部を見せることしか出来ないでしょう。
しかし、美・平和・正義・慰め・コミュニティーなど、
あなたが探し求める一本の木は必ず生まれるでしょう。
このことを知っていれば、
人生で一枚か二枚の木の葉しか得られなかったとしても、
あなたはがっかりすることはありません。

そして充足感と喜びをもって仕事に臨めます。
成功してのぼせ上がることも、
失敗して挫折することもないのです。〉


、、、これは序章に過ぎません。
この本の本編は、「信仰者が働くこと」に関する、
豊穣な教えに満ちています。

中でも私が膝を叩き、
「そうだ!そうなんだ!」
とうなった箇所を一箇所だけご紹介します。
これは私が「よにでしセミナー」を開講しようと思った、
動機とも直接つながっています。


→P101〜102 
〈駐車利用券を発行することであれ、
ソフトウェアを開発することであれ、
本を執筆することであれ、
ただ単純に自分の仕事をすると言うこと以上に、
自分の隣人を愛する良い方法はないかもしれません。
しかし熟練の素晴らしい仕事だけが、隣人を愛することになるのです。

仕事を通じて他者を愛する主な方法に、
「適性を用いて仕えること」があります。
神があなたの仕事に、
社会全体に奉仕するという目的を与えておられるなら、
神に仕えるいちばんの方法は、
あなたの仕事でベストを尽くすことです。

ドロシー・セイヤーズは書いています。
「知的な大工に対する教会のアプローチは、
酒を過ごすなとか、暇な時間を出来るだけきちんと過ごすべきだとか、
日曜日にはなるべく教会に来るようにと言った勧めに限られています。
教会が彼に何よりも先に告げるべきなのは、
よいテーブルをつくれということでしょう。」


、、、教会が働く人に勧めるべきは、
「祈祷会に参加しましょう」よりも先に、
「良い仕事をしましょう」であるべきです!!

「良い仕事をする」ことによって、
イエスがその人の手となって、
社会に奉仕されるのですから。


この記事のトラックバックURL
トラックバック