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本のカフェ・ラテ『フロー体験 喜びの現象学』(前編)

2019.07.04 Thursday

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 本のカフェ・ラテ
「本のエスプレッソショット」というこのメルマガの、
開始当初からの人気コーナーでは、
一冊の本を約5分で読める量(3,000〜10,000字)で、
圧縮し、「要約」して皆さんにお伝えしてきました。
忙しい読者の皆さんが一冊の本の内容を、
短時間で上っ面をなぞるだけではなく「理解する」ために、
「圧縮抽出」するというイメージです。
この「本のカフェラテ」はセルフパロディで、
本のエスプレッソショットほどは、網羅的ではないけれど、
私が興味をもった本(1冊〜2冊)について、
「先週読んだ本」の140文字(ルール破綻していますが)では、
語りきれないが、その本を「おかず」にいろんなことを語る、
というコーナーです。
「カフェ・ラテ」のルールとして、私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメントしていく、という形を取りたいと思っています。
「体系化」まではいかないにしても、
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。
密度の高い「本のエスプレッソショット」を牛乳で薄めた、
いわば「カフェ・ラテ」のような感じで楽しんでいただければ幸いです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

『フロー体験 喜びの現象学』

読了した日:2018年8月9日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:M.チクセントミハイ
出版年:1996年
出版社:世界思想社

リンク:
http://amzn.asia/cISEtv2


▼▼▼目次▼▼▼

【目次】
第一章:幸福の再来
第二章:意識の分析
第三章:楽しさと生活の質
第四章:フローの条件
第五章:身体のフロー
第六章:思考のフロー
第七章:フローとしての仕事
第八章:孤独と人間関係の楽しさ
第九章:カオスへの対応
第十章:意味の構成


、、、本書の目次はこのようになっています。
面白そうでしょ。
この本はいわゆる「定本」です。
ダニエル・ピンクの『モチベーション3.0』という本など、
ポスト工業化社会における動機付けの在り方について語る本は、
たくさんありますが、ほぼすべて「ここ」に行き着きます。
こういった本を「定本」と言います。

スポーツの世界などで「ゾーンに入る」
という集中状態を表す言葉はもう一般化していますが、
この言葉の元ネタもチクセントミハイに行き着きます。
これを読んだかどうかで、
この分野に対する理解は雲泥の差が出ます。

読書におけるコスパというのは、
「定本」「古典」を読むのが最も高い、
というのは常日頃から私が言っていることですが、
チクセントミハイ『フロー体験』もまた、
そのようなマスターピースのひとつです。

では、私の読書メモを引用し、
それに解説を加えていく、
というカフェ・ラテ形式で、
内容に立ち入って行きたいと思います。



▼▼▼成功は目的化した時点で遠ざかるという逆説。
ヴィクトール・フランクルの指摘

→P3 
〈オーストリアの心理学者ビクター・フランクルは
彼の著書『意味の探求』(Man's Search for Meaning)の序文で、
このことを見事に言い表している。
「成功を目指してはならない
――成功はそれを目指し目標にすればするほど、遠ざかる。
幸福と同じく、成功は追求できるものではない。
それは自分個人より重要な何ものかへの
個人の献身の果てに生じた予期しない副産物のように
・・・結果として生じるものだからである。」〉


、、、さっそく本書の核心に迫る議論が登場します。
ヴィクトール・フランクルは、
20世紀最大の名著のひとつ『夜と霧』を書いた精神科医で、
ナチの収容所を生き残った後、アドラー心理学を発展させ、
「ロゴセラピー(意味による癒し)」を提唱した、
現代思想を語る上での最重要人物のひとりです。
スティーブン・コヴィーの『7つの習慣』も、
ヴィクトール・フランクルを「論理的下敷き」にしています。

、、、で、フランクルは大胆な指摘をします。
「成功」や「幸福」は、それ自体を目指しても得られない、
というのです。

つまり、
「成功するにはどうすれば良い?」
「幸福になるにはどうすれば良い?」
というのは問いの立て方そのものが間違っている、というのです。
それは因果関係が逆だよ、と。

私たちは何かをしたときに、
その過程において事後的に、
「ああ、成功だった」「ああ、あのときは幸せだった」
と感じるのであって、
幸福や成功それ自体を追求する人は、
決して成功できず幸せを感じることも出来ない、
というパラドックスをフランクルは語っています。

では、その、
「それを求めたときに副産物として幸福が得られる何か」
とは何か?

それは「自分より大切なものへの献身」だと言います。
聖書に「受けるより与える方が幸い」
という言葉がありますが、
フランクルのこの言葉は、それの「言い換え」ですね。



▼▼▼意識の無秩序=心理的エントロピーと、意識の秩序=フロー

→P46〜51 
〈意識にマイナスに働く主な力の一つは心理的無秩序
――すなわち現在の意図と葛藤し合う情報、
または意図の遂行から我々をそらしてしまう情報である。
この状態をどのように経験したかによって、
それは苦痛・恐れ・激怒・不安・嫉妬などさまざまに呼ばれる。
これらすべての無秩序は、
我々が自分の好みに従って物事に注意を向ける自由を拘束し、
注意を望ましくない対象にねじ曲げる。
心理的エネルギーは扱いにくく、役に立たないものになってしまう。
 (中略)
心理的エントロピーの反対が最適経験と呼ばれる状態である。
意識の中に入り続ける情報が目標と一致しているとき、
心理的エネルギーは労せずに流れる。
心配する必要はなく自分が適切に行動していることに疑問を抱く理由もない。
自分自身について考えるために立ち止まるときでも、
万事上手く行っている証拠に常に励まされる。
「なかなかいいじゃないか。」肯定的なフィードバックが自己を強化し、
より多くの注意が内外環境を処理するために解放される。
 (中略)
これらの例は最適経験という言葉で、
我々が何を意味しているかを説明している。
それらは、正さねばならない無秩序や防ぐべき自己への脅迫もないので、
注意が自由に個人の目標達成のために投射されている状態である。
我々はこの状態をフロー体験と呼んできたが、
それは調査面接した人々の多くが、
自分の最高の状態の時に
どのように感じたかについて説明する中で用いた語である。
「流れている(flowing)ような感じだった」
「わたしは流れ(flow)に運ばれたのです」。
それは心理的エントロピーの反対
――事実それはネゲントロピー(negentropy)と
呼ばれることが多い――であり、
その状態を達成している人々は、
より多くの心理的エネルギーを
彼ら自身が選んだ追求目標に上手く投射してきたので、
より強い自信のある自己を発達させているのである。〉


、、、心理的エントロピーと、最適経験。
聞き慣れない二つの単語が登場します。
心理的エントロピーというのは、
「脳内(心の中)が散らかった状態」
と言い換えても良いでしょう。
最適経験はその逆に、
「脳内がある目的に向かって秩序だって整理された状態」
と定義できます。

「自分の後ろの風景」まで見えているかのような状態に入った、
剣豪宮本武蔵や、NBAのマジック・ジョンソン、
あるいはサッカーのジネディーヌ・ジダンは、
「最適経験」にいると思われます。
その瞬間、どんな感じがしましたか?
と研究者が聞くと口をそろえ、
彼らは「流れているようだった」
(flow)という言葉を使いました。
これが「フロー体験」の語源です。

これが「ゾーン」と言い換えられ、
日本ではこちらがマス層に広がりましたが、
どちらも同じ「最適経験」を表しています。

チクセントミハイのこの研究は1990年代ですが、
2019年の私たちには、
「心理的エントロピー問題」は、
当時よりはるかに深刻で切実になっています。

なぜか?

SNSは、心理的エントロピ−状態、
つまり「最適経験の逆」に、
人間の状態を持って行くのに、
最も「効果的」であるということを、
膨大な調査結果が示しているからです。

もう一度引用します。
「意識にマイナスに働く主な力の一つは心理的無秩序
――すなわち現在の意図と葛藤し合う情報、
または意図の遂行から我々をそらしてしまう情報である。
この状態をどのように経験したかによって、
それは苦痛・恐れ・激怒・不安・嫉妬などさまざまに呼ばれる。」


、、、SNSがこのような状態を喚起する、
というのは反証不能なほど、
数多くの実証的な研究結果があります。
仕事で良いパフォーマンスを出したい人は、
SNSは「ほどほど」にするのが良いでしょう。
(私はあるときから事実上SNSから足を洗いましたし、
 私がスマホを持たないのもこの理由です。
 SNSを使うのは発信するときだけで、
 受信は常に「ミュート」です。
 SNSやスマホの利便性より、
 良い仕事をすることのほうが大切ですから。)



▼▼▼フロー体験によって自己は複雑になる。
差異化と統合化の二つの意味で。

→P52〜53 
〈フロー体験によって自己の構成はそれまでよりも複雑になる。
しだいに複雑になることによって自己は成長すると言えるだろう。
複雑さは二つの大きな心理学的過程、差異化と統合化の結果である。

差異化とは独自性や、他者から自分自身を区別する傾向を意味している。
統合化はその逆であり、他者との結合であり、
自己を超えた思想や実体との結合である。
複雑な自己とは、これらの相反する傾向を
結びつけることに成功した自己を言う。

挑戦目標の達成は必然的に、
より有能になった、より熟達した、という感覚を残すので、
フローの結果自己はさらに差異化される。
ロッククライマーの言うように、
「自分を、自分のやったことを畏敬の気持ちで振り返り、
それはまさに心を膨らませる」のである。

一つ一つのフローのエピソードを重ねるにつれて、
人はより独自性を持ち、ありふれた型から抜け出して、
より稀少な価値を持つ能力の獲得に夢中になる。

複雑さはしばしば困難や混乱など
否定的な意味を持つものと考えられる。
我々が複雑さを差異化とだけ対応させるならばそれは正しいだろう。
しかし複雑さはまた、第二の次元
――自律的な部分の統合――を含んでいる。
たとえば複雑なエンジンは、
それぞれが個別の働きをする
数多くの個々の部品から成り立っているだけではなく、
部品のそれぞれが他のすべての部品と関連しているので優れた性能を発揮する。
統合なしには差異化されたシステムは混乱した寄せ集めとなるだろう。

フローは自己の統合を促進する。
注意が深く集中している状態では、
意識は格別良い状態に秩序化されているからである。
思考・意図・感情そしてすべての感覚が同一目標に集中している。
体験は調和の状態にある。
そしてフロー状態が終わったとき、人は内的にだけではなく、
他者や世界一般に対しても「ともにいる」という感じを、
それまでよりも強く持つようになる。

前に引用したクライマーの言葉によれば
「山に登るときの状況・・・(これ以上に)
人間から最上のものを引き出す場所はありません。
頂上へ着くまでのものすごい緊張に耐えていく心身を支えるのは自分だけです。
・・・仲間はすぐそこにいますが、皆同じように感じています。
とにかく皆一緒にその中にいるのです。
この20世紀にこれらの人々以上に信頼できる人がいるでしょうか。
私と同じように自分を鍛え、
深く物事に関わっている人々より信頼できる人が。
・・・このような人々との連帯はそれ自体がエクスタシーです。」

統合化されずに差異化されただけの自己は
大きな個人的業績を上げるかもしれないが、
自己中心的な利己主義にはまり込む危険がある。
同様に自己が差異化されずに統合化されている人は他者と結びつけられ、
安全ではあるが自律的個性に欠ける。
等量の心理的エネルギーをこれら二つの過程に投射し、
わがままと付和雷同を避けて初めて、
自己は複雑さを映し出すだろう。〉


、、、差異化と統合化、
という新しい概念がまた登場しましたね。
この二つが揃ってこそ「自己の複雑化」という、
著者のいう「人間的成長」の側面に到達する、
ということがここでのポイントです。

差異化というのは、
先ほどの剣豪宮本武蔵ならば、
人里離れて剣の腕を磨き、
「もう誰も到達できないほどの高み」
に到達し、それゆえ「剣で語り合える人」が、
誰もいなくなってしまった孤高の状態、
というようなことに近いかもしれません。
彼はその孤独を埋めるために佐々木小次郎と、
「剣で語り合う」ことを求めた、
というのが吉川英治や井上雄彦が描く武蔵像です。

しかし武蔵は孤独なだけではありません。
彼は「ある時期」を越えると、
孤独な少年や貧しい村人など、
「民衆」に対する暖かいまなざしを獲得し、
彼らに畏敬の念を覚え、
彼らと連帯することすら出来るようになります。
さらに武蔵は「この天地とひとつ」という、
「自然との一体感」を得るようになる。
これが武蔵の文脈で言う「統合化」です。

私たちもまた、規模は違うにしても、
日常生活でこのような事象に出会います。
「差異化だけがある状態」というのは、
めちゃくちゃ仕事が出来るが、
それ故に「孤高の存在」になり、
周囲との間に壁が出来てしまうような人のことです。

「統合だけがある状態」というのは、
みんなと歩調を合わせることだけを求め、
自らの到達できるはずの高みに行けないし、
行こうともしない人のことです。
校内マラソン大会ならば
「みんなで一緒に走ろうね」というやつです。

このどちらの人も、
「自己の複雑化」という人間的成長には不十分だ、
というのがここでの論点です。
私たちは誰も到達できないような高みを目指しつつ、
周囲との共感や連帯も失わない、
そういう存在になれるのであり、
是非目指すべきなのだ、ということです。



▼▼▼「フロー体験」とは、
行為それ自体のために行為することがもたらす喜びである

→P53〜54 
〈自己はフローを体験する結果、複雑になる。
逆説的に言えば、我々がこれまで以上の複雑さを身につけるのは、
行為に現れない動機のためにではなく、
むしろ行為それ自体のために自由に行為する時である。

目標を選び、注意集中の限界にまで自分自身を投射する時、
我々が行うことはすべて楽しいものになる。
そしてひとたびこの喜びを味わうと、
我々はその喜びを再度味わうための努力を倍増させる。
これが自己が成長する道筋である。

それはリコがベルトコンベアーでの表面上は退屈な仕事から、
R氏が詩から、多くのものを引き出し得た方法である。
それはEさんが病気を克服して著名な学者になり、
有能な経営者になった方法である。

フローは今という瞬間をより楽しいものにし、
能力をさらに発展させて
人類への重要な寄与を可能にする自信を築きあげる、
という二つの理由で重要である。〉


、、、これは説明不要でしょう。
フロー体験というのは、
「何かのためにそれを頑張っている状態」ではない、
というのがこの本の核心的主張です。
お母さんに誉められたいから塾で勉強している中学生は、
決してフロー体験を味わうことはないでしょう。
上司に認められたいから仕事をする職員は、
その定義からして仕事がフロー体験になっていません。

お金のために行為する人の中に、
一流はいるが超一流は見つけられない、
と著者が言っているのはこのことです。
イチロー選手でも、羽生善治でも、
宮本武蔵でも、リオネル・メッシでもいいのですが、
「お金のために」「名声のために」している人はいません。
莫大なお金と名声は「あとからついてきます」が、
彼らは「それをすることそれ自体が目的だから」
それをしています。
その自己没入的なフロー体験が、
彼らを「高み」へと連れて行くのです。

驚くべきなのは、
ベルトコンベアで働く作業員の中にさえ、
この「高み」に到達する人がいるということです。
本書で出てくるリオという作業員は、
工場の誰もが尊敬し、困った案件は上司ですら彼に相談する、
というほどの熟練工です。
彼にインタビューするとこう言います。
「もちろんこの仕事で生計を立てられることは大事だよ。
 でも、僕が仕事に打ち込むのはお金のためじゃない。
 純粋にそれをするのが楽しいからだ」と。

私はかつて食肉処理場で働いていましたが、
その経験からも「そういう人」って、必ずいます。
その人たちの汗は輝いていたし、
身のこなしには「神々しさ」すら漂っていました。
「高給のホワイトカラー以外、仕事じゃない」
と思い込んでいる、
塾通いの偏差値至上主義の高校生たちに、
あの光景を見せて上げたい。



▼▼▼楽しさの現象学の八つの構成要素

→P62〜63 
〈我々の研究が示唆してきたように、
楽しさの現象学は八つの主要な構成要素をもっている。
被験者たちは、
最も生き生きした経験をしている時の感じについて訪ねられた時、
少なくとも次のうちの一つ、しばしば全部を挙げたのである。

第一に、通常その経験は、
達成できる見通しのある課題と取り組んでいる時に生じる。
第二に、自分のしていることに集中できていなければならない。
第三、および第四として、その集中ができるのは一般に、
行われている作業に明瞭な目標があり、
直接的なフィードバックがあるからである。
第五に、意識から日々の生活の気苦労や欲求不満を取り除く、
深いけれども無理のない没入状態で行為している。
第六に、楽しい経験は自分の行為を統制しているという感覚を伴う。
第七に、自己についての意識は消失するが、
これに反してフロー体験の後では自己感覚はより強く表れる。
最後に、時間の経過の感覚が変わる。
数時間は数分のうちに過ぎ、
数分は数時間に伸びるように感じられることがある。

これらすべての要素の組み合わせが深い楽しさ感覚を生む。
それは非常にやりがいがあるので、
大量のエネルギーをそれを感じるためにのみ
消費するに値すると感じるのである。〉


、、、ダニエル・ピンクは、
著書『モチベーション3.0』のなかで、
想像力と創造力が富の源泉となる21世紀的な仕事において、
チクセントミハイの『フロー体験』的な、
「労働の喜び(動機付け)」を提供できない組織や企業は、
良い人材を集められず、引き留めてもおけないため、
必ず挫折するだろう、と指摘します。

そして、「では、そのような労働を提供するために、
管理者(経営者)が行うべき、
21世紀的な動機付けは何か」
ということを、この箇所から解説しています。
つまり、上記8個の条件を満たせるようなやり方で、
働く人に仕事や責任を割り振ることが、
非常に大切になってくるのだ。

つまりこういうことです。

・達成できる見通しのある課題を与えること
・集中出来る環境を用意すること
・明確な目標が定義されていること
・自分の仕事に直接的なフィードバックがあること
・自分を統制している感覚を提供すること
(裁量権を与えることを意味する)


、、、こういった条件を与えるときに、
仕事をしている人は、
「自己を忘れるほどその課題に没入し」
「1時間が1分のように感じ、
 逆に重要な数秒が1時間に引き延ばされる」
といったような集中状態を味わうことができるというのです。

これは、たとえば中間管理職として部下の指導をするときや、
子どもたちに勉強を指導するときや、
少年野球のコーチをするとき、
あるいは教会で信徒を訓練するときにも、
適用可能な原則です。

あまりにも多くの世の中の「指導」が、
「具体的な目標設定も、
 直接的なフィードバックも、
 裁量権もなく、
 ただ精神論を振り回す」
というようなものが多すぎる。

「とにかく勉強しろ」
「とにかく頑張れ」
「とにかく素振りしろ」
「とにかく聖書を読め、祈れ」
は、指導として最低の部類だ、ということですね。



▼▼▼自己目的的経験と、内発的報酬

→P85〜86 
〈最適経験の基本要素は、
それ自体が目的であるということである。
たとえ初めは他の理由で企てられたとしても、
我々を夢中にさせる活動は内発的報酬をもたらすようになる。
外科医は、「手術がとても楽しいので、
私がやる必要のない手術でも引き受けるだろうね」と言い、
航海者は「このヨットのために多くのお金と時間を費やしますが、
それだけの価値があります。
帆走している時に感じることと比べられるものなどありません」
と言う。

「自己目的的」(autotelic)という言葉は、
ギリシャ語の自己を意味するautoと目的を意味するtelosからきている。
それは自己充足的な活動、つまり将来での利益を期待しない、
することそれ自体が報酬をもたらす活動を言う。

儲けるために株の売買をすることは自己目的的な経験とはならないが、
将来の動向を予見する能力を証明するためにする売買は
――結果として手に入るドルやセントが全く同一だとしても――
自己目的的な経験となる。
子どもを良き市民に仕立てるための教育は自己目的的ではないが、
子どもたちとの相互作用を楽しむための指導は自己目的的である。

この二つの状況で生じるものは、表面上は同一である。
違いはその経験が自己目的的である時、
人はその活動それ自体に注意を払うが、
そうでない場合にはその結果に注意の焦点を置くところにある。

我々が行うことのほとんどは、
純粋に自己目的的でもなければ外発的
(以下、外的な理由によってのみ行われる活動を指す)でもなく、
両者が混ざり合っている。

外科医は通常、人を助けること、
金を稼ぐこと、権威を得ることなどの
外発的な期待から長い訓練に入る。
もし幸運に恵まれるなら、
まもなく彼らは自分の仕事を楽しみ始め、
手術はきわめて自己目的的なものになる。〉


、、、「自己目的的」(autotelic)という言葉が出てきました。
「フロー体験」を一言で言い換えるなら、
この「自己目的的体験」になるでしょう。
「それをすることで将来何か利益が得られるから」
それをするのではなく、
「それをすることが楽しくて仕方がないから」
それをするようになる。
そのときに、その人は活動の結果ではなく、
活動そのものに没入するようになる。
これが「自己目的的経験」です。
私も今の仕事は、「自己目的的経験」の部分が、
きわめて大きいです。
そうでなければ、
経済的・社会的報酬が少なく、安定もしてない仕事を、
10年も続けられません。

脳研修者の池谷裕二さんが、
『自分では気づかないココロの盲点』という本に、
こんな事例(クイズ)を紹介していますので、
当該箇所を引用します。


→P32〜34 
〈陸軍士官学校に所属する候補生に、志望動機を訊きました。
10年後に、より出世していたのは、どちらの理由を挙げた人でしょか。

1.技能や素養を身につけ、将来は将校になって国のために貢献したい。
2.軍隊そのものが楽しそうだから。

(次ページ)

答え:2


将来の明確な目標やビジョンがあった方が、
モチベーションが高まるように思います。
また、目標は一つよりも、多数あった方が良いようにも思います。
ところが、夢や目標をたくさん持っている指揮官候補生に比べて、
単に好きだからやっている候補生の方が、
将校に出世する率が15%ほど高かったのです。
興味があるからやっている人の方が、やる気が長期的に継続するのです。
愛する人のため、出世のため、
お金のため、教養のため、仕返しのため――。
自分の行動に、目的や理念などを添えて理論武装する人ほど、
長期的な結末は良くないものです。
理由は一つ。
好きだからやっている。
これでいいのです。好きに理由などないのです。〉


、、、かつてこのメルマガの中で、
『桐島、部活やめるってよ』の解説をしました。
その中に出てくる人気生徒の宏樹君は、
「他の生徒にどう見られているか」が人生の軸になっていました。
オタクの前田君は、
「ゾンビ映画を撮る」ということが、
好きで好きでたまらなくて、
映画同好会を主催していました。

多くの人が思っているのとは逆で、
前田君の方が「圧倒的に強い」のです。
もっと言えば「最強」です。
「それをすることが楽しく、それが好き」
であるという人は、世間の評価とか金銭的報酬とか、
まったく関係ありません。
そういうものを何かひとつでも持っている人は、
この残酷な世の中を生き抜く武器を持つ人です。



▼▼▼ロジェ・カイヨワによるゲームの4分類

→P92〜93 
〈フランスの心理人類学者ロジェ・カイヨワは世界中のゲーム
(あらゆる楽しい活動を含めるために、
この言葉を最も広い意味で用いている)を、
それが生み出す経験の種類に従って大きく四種に分類した。

アゴーン(agon)はほとんどのスポーツや競技のように、
競争を主な特徴とするゲームを含んでいる。
アレア(alea)はさいころ遊びからビンゴにいたる、
すべての運試しのゲームに、
イリンクス(ilinx)つまり眩暈は、
メリーゴーラウンドやスカイダイビングのような、
通常の感覚を錯乱することによって
意識を変えてしまう活動に与えられた名称であり、
ミミクリー(mimicry)は、ダンスや演劇、芸術一般のように、
代理の現実が創り出される一群の活動である。〉


▼▼▼ゲームの語源は「ノンゼロサム」である。
「共に追求する」

→P93 
〈競争的なゲームでは、
参加者は相手の能力によって与えられる挑戦に
適合するように自分の能力を伸ばさねばならない。
「競う」(compete)の語源はラテン語のcon petire、
つまれ、「ともに追求する」である。
それぞれが自分の可能性の実現を追求するが、
これは自分がベストを尽くすよう他者に強く迫られる時、
より容易なものになる。〉


、、、「夢中になれるのが最強」と先ほど言いましたが、
すべての人が「わかりやすく夢中になれるようなこと」を
仕事にしているわけではありません。
もしそうならば、
世の中にはアニメーターと声優と、
野球選手とプロゲーマーと、
映画監督とユーチューバーと、
アイドルとパティシエぐらいしか、
仕事がなくなってしまうでしょう。
(その仕事の実相が、「子どもたちの脳内の憧れ」と、
 どれぐらい乖離しているかという話しは脇に置くと)

「華やかなあこがれの仕事」は、
子どもと世間知らずな人の脳内にしか存在しません。
現実はこうです。
仕事というのは人様からお金をもらってするわけですから、
基本的に「人がやりたくない面倒なこと」を、
引き受けることに他なりません。

「自分に合った仕事がない」
という若者がいることを養老孟司さんがあるとき嘆いていました。
「俺は35年間、死体を解剖してきた。
 葬式に行っては遺族に頭を下げ、
 ご遺体を引き取ってきた。
 それに『向いている』人って、
 どんな人なんでしょう?」と。

私は食肉処理場で6年間働きました。
おびただしい数の豚や牛を屠殺し、
皮を剥ぎ、内臓を取り出し、
腸の内容物を洗い、
膿があったら摘出し、
肉や内臓として食用に供する準備をする。

こういうのに「向いている人」って、
いったいどういう人なんでしょう?

あなたの仕事がなんなのかは分かりませんが、
きっと「やりたいこと」を仕事にしている人は、
圧倒的に少数派でしょうし、
仮に「やりたいこと」が仕事だったとしても、
その多くの部分は退屈な繰り返しです。
アイドルですら、じっさいにやってみれば、
その仕事のほとんどが嫌なことだ、
というのが本音じゃないでしょうか?

でも「福音」があります。
たとえどんな仕事だったとしても、
それを「好きになる」ことが可能だ、
というのが福音です。
食肉処理場の経験を何度も引き合いに出しますが、
私はその仕事をこれ以上ないぐらい楽しんでいました。
下手なテレビゲームより何百倍も楽しい。
ゲームは二次元ですが、
食肉処理場の仕事は3次元どころか、
人間関係、動物や解剖の知識、
事務処理能力、包丁さばきなどの手際、
あらゆる要素が重なり合って、8次元ぐらいの「ゲーム」です。
昨日より2秒検査が早く、しかも正確になった。
去年よりも的確な指示が、作業員に出せるようになった。
そういった上達の手応えは、
それ自体が報酬で、給料は副産物と感じていたぐらいです。

チクセントミハイがなぜゲームの話をここでしているのか?

それは「つまらない仕事を楽しくする」には、
「ゲーム」という概念を導入する必要がある、
というのが彼の仮説だからです。
ある仕事をめちゃくちゃつまらないと感じる人と、
同じ仕事をめちゃくちゃ面白いと感じる人がいる。

後者は、その仕事の中に、
「ゲーム性」を見出し、
そこに自己を向上させるという要素を発見している、
というのです。

そして著者が指摘しているように、
競争(compete)の語源は、
「共に追求する」ことです。

出世レースという「ゲーム性」は、
「フロー体験=自己目的的体験」と縁遠い、
というのがここから分かります。
同僚を出し抜いてでも成功しようとする社員は、
同じ「ゲーム性」を仕事に見出していても、
そのゲーム性の中に喜びはありません。
そうではなく、「昨日の自分より上達する」
「昨日の自分よりお客さんに喜んでもらう」
「昨日の自分よりチームをまとめる」
といった本来のゲーム性を見出すとき、
「誰もがつまらないと思うだろう仕事」が、
無上の喜びに変わります。

これは空論ではなく、
私自身が自分の仕事人生の中で、
何度も体験してきたことです。


、、、後篇へ続く

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