カテゴリー

検索

便利な「検索」機能の使い方

上の検索バーに、「vol.○○」あるいは、「●年●月●日配信号」などと入力していただきますと、カテゴリ別だけでなく配信号ごとにお読みいただけます。

また、ブログ記事のアップロードは時系列で逐次していきますが、「カテゴリ別」表示をしますと、「Q&Aコーナー」だけを読む、あるいは「先月観た映画」のコーナーだけを読む、などの読み方が可能です。

スマートフォン

この他の活動媒体

●9年間続くブログです。↓
陣内俊 Prayer Letter ONLINE

●支援者の方々への紙媒体の活動報告のPDF版はこちらです↓
「陣内俊Prayer Letter」 PDF版

始めて行った海外

2019.07.10 Wednesday

第080号   2019年2月26日配信号

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■1 今週のオープニングトーク
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼初めて行った海外▼▼▼

メルマガ読者の皆様、こんにちは。
今週もさっそく質問カードいきましょう。

▼質問:
初めて海外に行ったのはどの国ですか?
(なければ初めて県外に出たのは??)


初めて海外に行ったのは、
アメリカですね。
あんまり覚えてないけど笑。

私の父は東京大学の工学部を卒業したあと、
「学生ローンを返さなくて良い」という条件に惹かれ、
共同石油という会社に勤めていました。

こういう「さしたる理由もない」あたりは、
けっこう私は父に似ているかもしれません。
私が大学を選んだ理由は、
「北海道の酪農地帯に六年住める国立大学だから」
でしたから笑。

でも、こういう感覚って結構大事だと思ってて、
「自分は何がやりたいんだ、
 自分には何が向いてるんだ、
 自分の才能を最大限活かせる分野は、
 自分の天職は、、、」
みたいに、突き詰めて考えるのって、
なんか「偉く」見えますが、
それって「自分は、自分は、自分は、、、」
っていう「自分地獄」でもあると思うんですよね。

そうじゃない。

二つの理由でそうじゃない。

ひとつめは、
その「自分」は変わるということを忘れている。
学生時代に悩んだ自分と、
実際に就職した自分は違います。
そういうデータがあるかどうかは不明ですが、
「突き詰め型」よりも、
「なんとなく型」のほうが、
社会人としての満足度は高い気がするんですよね。

経験的に。

それは、「なんとなく型」の方が、
柔軟性があるからではないかと私は思っています。
「好きなことを仕事にする」よりも、
「している仕事を好きになる」ほうが簡単です。
もっと言えば、後者が出来る人は「無敵」ですが、
前者は非常に脆弱な土台の上に人生を構築している。

もう一つの理由は、
「あなたが働く理由は、
 あなたの側にではなく社会の側にある」
という当然のことを「自意識の牢獄にいる人」は、
見過ごしていると思うからです。

社会が必要としているから仕事があるのです。
逆ではありません。
それを踏まえている人のほうが、
当然社会は喜びます。
つまり、成功します。

話がのっけから大きくそれました。

私の父は52歳で亡くなるまで、
共同石油に勤めていました。
父の存命中に共同石油はジャパンエナジー、
次にJOMOと社名を変え、
現在は複数企業と合併し、
ENEOSとして営業しています。

不思議なもので、
「給油」なんてどこでしても同じだと、
合理的には分かっているのに、
ENEOSがあったら必ずそこで給油してしまいます。
まぁ、24歳までの私の食費と教育費のすべては、
父が共同石油で働いた給料から出ていますので、
ENEOSのことを今でも他人とは思えないわけです。

、、、父は技術者でしたから、
「現場」を転勤します。
石油会社にとっての「現場」はどこか?
コンビナートです。
中学社会科で習った「日本四大コンビナート」ってありますよね。
ああいったコンビナートに石油会社は集中しています。
共同石油の場合、私の記憶によると、
秋田、倉敷(水島)、愛知(知多)あたりにありました。
なので私の小学生のころの友だち(同じ会社の社宅に住む)は、
「小学二年生まで秋田にいた」とか、
「今度知多に引っ越す」とか、
その三つの地点をぐるぐるしていた記憶があります。

父は共同石油社員として留学し、
イリノイ工科大学という、
シカゴ近郊にある大学で修士課程を学びました。
そのとき私は2歳。
家族5人でシカゴに住んだのは2歳〜4歳の間で、
私はその間アメリカに住んでいました。

ほとんどそのときの記憶はありません。
幼稚園(キンダガーデン)の先生が、
ミセス・タットマンさんだったとか、
隣人がクリスチャンで女の子3人姉妹だったとか、
父がボロボロのアウディに乗っていたとか、
スパイダーマンの三輪車に乗っていたとか、
そういう「情報」が私の脳内にありますが、
それが自分の記憶なのか、
写真を見て母に説明されたことで、
記憶として再構成された物語なのか、
もはや判別できません。

母の話によると、
当時の私は英語でコミュニケーションしていたそうです。
友だちや隣人と。
ホットケーキパーティなどやると、
「アイワナビッグワン!!」
と叫んでいたと母が教えてくれました。

アメリカから帰ってくると、
日本の生活が始まります。
私たちの家族は帰国してから愛知県知多市に、
そして私が小学校5年生のときに、
岡山県倉敷市に住みました。
先ほどのコンビナートをなぞっているわけですね。

コンビナート地帯というのは、
例外なく田舎です。
私はそのおかげで、
小学校の多感な時期を田舎で自然に触れて育ちました。
これは定かではないですが、
「人間の頭の良さ」って、
小さい頃に自然にどれだけ触れたかと、
かなり関係があるという持論を私は持っています。
繰り返しますが、
あくまで個人的持論であって実証的な証拠はありません。
(数学者の藤原正彦氏がにたようなことを言っています)

客観的に証明するのは不可能ですが、
「今、私が頭が良いかどうか」は置いておいて、
もし私が都会で小学校時代を過ごしていたら、
今よりもうちょっとバカだっただろうな、
と直観的に思います。

多くの人は逆に考えていますが、
都会は子どもにとって「情報の砂漠」だからです。
自然のほうが「情報の宝庫」なのです。
少なくとも思春期以前の子どもにとっては。
それがなぜか、という話は長くなるので割愛しますが。

、、、話を戻しまして、
私は小学校、中学校、高校を、
田舎で過ごしまして、
大学はさらに田舎(帯広市)に暮らしました。
その間シカゴでしゃべっていた、
「アイワナビッグワン」は忘れていたのです。
つまり、英語は話せなかった。

しかし、大学時代に聖書研究会というサークルを立ち上げ、
そのリーダーを6年間するなかで、
多くのフィリピン人留学生と交流しました。
彼らと濃密に日々を過ごす中、
ある日私は自分が英語で考え、
英語で話しているのに気づきました。

そしてその英語が「シカゴのアクセント」だと、
あるアメリカ人に指摘されたとき、
「脳の敏感期」の力を知ったのです。

2歳〜5、6歳が、
脳の敏感期であり、
その間にいろんなものに触れさせる、
という「モンテッソーリ教育」の理論ですが、
私自身にそれが起きていたのです。

なので、私は小さい頃に海外にいたこと、
そういった環境を与えてくれた両親に、
心から感謝しています。


、、、だから、
子どもに英語を浴びるほど聞かせましょう、
という話ではありません。
念のため。

自分の子どもにそんなことするか?
するわけないじゃないですか。
日本語すらおぼつかない子どもに英語を覚えさせて、
いったいどうするというのだろうと私は思ってますから。

そうじゃなくて、
将来文化が違う人に出会ったとしても、
その人の考え方を受け入れる想像力と、
自分の考え方を説明できる日本語力が先です。
それがあれば国際人になれます。
発音なんて、どうとでもなりますが、
他文化への想像力の有無と、
自国文化を言語化できる能力の有無は、
あとからはなかなか、どうにもなりません(経験的に)。

私の弟は、
アメリカにいた期間が0歳〜2歳なので、
敏感期と被っていません。
なので英語の発音は私とは違い、
脳に残っていなかったので、ゼロからの学習でした。
しかし彼はアメリカで経済学博士になり、
6年間アメリカの州立大学で准教授として働きました。
「英語」はあとからついてくるのです。

なんか、とりとめのない思い出話になりましたが、
私の初めての海外はアメリカだった、
という話でした。

終わり。

この記事のトラックバックURL
トラックバック