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本のカフェ・ラテ『フロー体験 喜びの現象学』(中篇)

2019.08.01 Thursday

第083号   2019年3月19日配信号

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 本のカフェ・ラテ
「本のエスプレッソショット」というこのメルマガの、
開始当初からの人気コーナーでは、
一冊の本を約5分で読める量(3,000〜10,000字)で、
圧縮し、「要約」して皆さんにお伝えしてきました。
忙しい読者の皆さんが一冊の本の内容を、
短時間で上っ面をなぞるだけではなく「理解する」ために、
「圧縮抽出」するというイメージです。
この「本のカフェラテ」はセルフパロディで、
本のエスプレッソショットほどは、網羅的ではないけれど、
私が興味をもった本(1冊〜2冊)について、
「先週読んだ本」の140文字(ルール破綻していますが)では、
語りきれないが、その本を「おかず」にいろんなことを語る、
というコーナーです。
「カフェ・ラテ」のルールとして、私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメントしていく、という形を取りたいと思っています。
「体系化」まではいかないにしても、
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。
密度の高い「本のエスプレッソショット」を牛乳で薄めた、
いわば「カフェ・ラテ」のような感じで楽しんでいただければ幸いです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

『フロー体験 喜びの現象学』

読了した日:2018年8月9日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:M.チクセントミハイ
出版年:1996年
出版社:世界思想社

リンク:
http://amzn.asia/cISEtv2


▼▼▼目次▼▼▼

【目次】
第一章:幸福の再来
第二章:意識の分析
第三章:楽しさと生活の質
第四章:フローの条件
第五章:身体のフロー
第六章:思考のフロー
第七章:フローとしての仕事
第八章:孤独と人間関係の楽しさ
第九章:カオスへの対応
第十章:意味の構成


、、、前回紹介した内容を忘れている人は、
是非2月19日配信号のメルマガを読み返して下さい。
「フロー」という状態(自己目的的体験)を、
私たちはどのように味わうことが出来るのか?
というのがこの本のテーマでしたね。

前回の引用以降の、
私の読書メモの抜粋に、
解説を加える形式で紹介していきます。


▼▼▼先天的な要因(精神分裂症)以外で
フローを疎外するのは二つ。
自意識の過剰と自己中心な性格

→P107〜108 
〈フローを体験する上での次の障害は、
遺伝的障害ほど大きくはないが、自意識の過剰である。
人に悪い印象を与えはしないか、
何かまずいことをしたのではないかなど、
たえず他者が自分をどのように感じているかを気に病む人も、
楽しさから永遠に見放されるよう運命付けられている。

極端に自己中心的な人も同様である。
自己中心的な人は一般に、自意識を持たない代わりに、
どんな些細な情報でも自分の欲望に関してのみ評価する。
このような人にとって、
すべてのものはそれ自身としては無価値である。

花も、それが利用できなければ何の価値もなく、
自分の利益にならない人は、深い注意を払うに値しない。
意識は完全にそれ自身の目的に関してのみ構造化され、
その目的に合致しないものの存在を認めない。

自意識の強い人は多くの点で自己中心的な人とは異なるが、
いずれもフロー体験に容易に入り込めるほど
心理的エネルギーが統制されていない。
双方とも、活動それ自体に関連づけるのに
必要な注意の柔軟性が欠落している。

あまりにも多くの注意が自己に閉じ込められており、
自由な注意が自己の欲求によって強く方向付けられている。
これらの状況の下では内発的な目標に関心を持つようになることや、
対象との相互作用自体以外の
報酬をもたらさない活動に我を忘れることは困難である。

(遺伝的素因による)注意の混乱や刺激への過剰関与は、
心理的エネルギーがあまりにも流動的で
不安定であるためにフローを妨害するが、
過剰な自意識と自己中心主義は逆の理由、
つまり注意が硬直し固定しているためにフローを妨げるのである。
(中略)
これらの両極端に傾く人は楽しむことができず、
ものを学ぶことが困難であり、自己の成長の機会を奪われる。〉


、、、、フロー体験(自己目的経験)は、
仕事の理想状態です。
その人は「卓越した技術」に到達し、
しかも仕事そのものを楽しむことが出来ます。

ところが、遺伝的な原因でフロー体験を経験しづらい、
という人々もいる。
注意欠陥多動性障害(ADHD)などがそうだ、
と著者は言います。
この人々は心理的エネルギーが流動的すぎて、
行為そのものに没入することが難しい、と。

しかしこれらの人は後天的に、
その注意をうまく仕事に活かすことが出来ます。
じっさい、テスラモーターズの創業者、
イーロン・マスクは極度のADHDで、
他のことに集中してしまうので、
「服を着ることが出来ない」ほどだと言います。
しかし彼はビジネスにおいて成功している。

もっとやっかいなのは、
遺伝的なものよりも「性格的」なものだ、
と著者は指摘します。
その性格とはずばり2つ。
「自意識過剰」と「自己中心」です。

これら2つの人は、
遺伝的注意欠陥症とは逆に、
意識が流動的すぎるからではなく、
意識が固着しすぎているから、
フロー体験に入ることが出来ず、
結局「卓越」に至ることが出来ないし、
仕事から喜びを引き出すことが出来ない、と。

彼らは何に固着しているのか?

自意識過剰の人は、
「他者からどうみられるか?」に、
自己中心の人は、
「自分の損得」に、
過剰に固着しているゆえに、
仕事そのものの喜びを味わうことが出来ないのです。



▼▼▼「自己目的的家庭環境」の五つの要素

→P112〜113 
〈たとえば、シカゴ大学で行われた我々の研究の一つで、
ケービン・ラサンドはティーンエイジャーのうち
両親とある方の関係を持つ者は、
そのような関係を持たない者と比較して、
明らかにほとんどの生活状況においてより幸福で満ち足りており、
強靱であることを観察した。

最適経験を促進するこの家庭状況は、
五つの特徴を持つ者として記述することができる。

第一は明快さである。
ティーンエイジャーは両親が
自分に何を期待しているかが分かっていると感じており
――過程の相互作用において目標、フィードバックは明瞭である。

第二は中心化である。
つまり両親は自分が良い大学に入るか、
良い職業に就くかと言うことを先取りするよりも、
自分が現在していることや具体的な感情・経験に
関心を持っているという子どもの認識である。

第三は選択の幅である。
子どもは結果に対して自分が責任を負うという覚悟がついている限り、
両親の課した規則の破棄を含めて、
幅広い選択の可能性を持っていると感じている。

特徴の第四は信頼、
つまり子どもが自己の防壁を安心して取り除くことができ、
何であれ自分が関心を持つことに
人の目を気にすることなしに没入することになることを認める、
子どもへの親の信頼である。

そして第五は挑戦、
すなわち複雑な挑戦の機会を
子どもに徐々に課していくという親の働きかけである。

この五つの条件の存在は、
生活を楽しむための理想的な訓練を提供するところから
「自己目的的家庭環境」と呼ぶことができる。
これら五つの特徴は明らかにフロー体験の各構成要素と対応している。
目標の明確さ、フィードバック、統制感覚、
現在行っている作業への注意集中、内発的動機付け、
挑戦を容易にする家庭環境の中で成長する子どもは一般に、
フローを生み出すように自分の生活を秩序づける。
より豊かな挑戦の機会を持つことになろう。〉


、、、将来子どもが、
「フロー体験=自己目的的体験」を、
身に着けることが出来たなら、
その子はどんな分野でも成功を
約束されていると考えて間違いありません。
仕事においてフローに到達出来る人は、

1.卓越に到達するため、業績において成功する。
2.仕事自体が幸福を与えるため、
 人生の大半を過ごす「仕事領域」が喜びになる。

この2つの理由で幸福になる可能性が飛躍的にあがります。

逆に、フローに到達出来ない人は、

1.仕事の能力が頭打ちになり業績において成功しづらい。
2.人生の大半を過ごす「仕事領域」が苦痛になる。

この2つの理由で不幸になる可能性が飛躍的に高まるのです。

では、将来子どもがフロー体験を、
経験しやすくする家庭環境などというものがあるのか?
シカゴ大学のケービン・ラサンドらの研究は、
「そのような家庭環境は存在する」と言います。
大部分、引用の繰り返しになりますが、
大切なところなので解説します。

1.明快さ
2.中心化
3.選択の幅
4.信頼
5.挑戦

これら5つが揃っている家庭の子どもは、
将来フロー体験を経験しやすく、
従って社会的に成功しやすく、
さらに幸福である可能性が非常に高いことが、
シカゴ大学の調査で明らかになりました。

1の明快さとは、
「親が子どもに何を期待しているのか?」
その規範が明確であるということです。
そしてフィードバックがしっかりしている。
出来た場合は誉め、出来なかった場合は指摘する。
その基準が一貫している。
これは親ならば誰でも分かりますが、
口で言うほど簡単なことではありません。
親自身が人生に一貫性を持たなければ、
出来ないことだからです。

2の中心化は説明が必要です。
これは「その行為をした結果何が得られるか」ではなく、
その行為そのものに親が注目している、ということです。
子どもが数学の問題を解いていたとします。
この問題を解いた先に有名大学への進学があり、
有名企業への就職があり、
高額の金銭的報酬が待っている、というのは、
「中心化の逆」ですね。
中心化というのは、その数学の問題それ自体にある面白さ、
興味深さ、それが解けたときの気持ちよさ、
アイディアが浮かんだならその独創性に注目することです。

3の選択の幅も説明が必要です。
これはつまり、
「原則」が提供されていて、
「それをどう達成するか」は裁量に任されている、
ということです。
たとえば、
「テスト前の一週間は2時間は机に座り、
 テレビは30分しか観てはいけない。」
みたいな事細かなルールを与えるのは、
裁量権がいっさいありませんから選択の幅はありません。
子どもは思考停止して机に座るかもしれませんが、
それでテストの点が上がるかどうかははなはだ疑問です。
「テスト範囲を理解すること」という指針を与え、
あとは自分の裁量に任せる、というのが選択の幅です。
テレビを観てもいい、友だちと遊んでもいい、
ゲームをしたければしてもいい、
でも、テスト範囲をしっかり理解するように、
という指針を与えれば、
彼は本来3時間かかる勉強を、
30分に圧縮するようなアイディアを思いつくかもしれない。
将来その圧縮技術は仕事に活かされるでしょう。

4の信頼はそのままですね。
子どもは、親から観たらよく分からないことに集中し、
親からしたら何をしているのか分からないことに没頭します。
その没入や集中に「信頼」することです。
私は小さい頃、2時間でも3時間でもアリを追いかけていたそうです。
それを母親が面白がってくれて、
「ファーブル昆虫記」を買って、
「あなたに似た大人が昔いたのよ」
と教えてくれたりしました。

もしあのとき母親が、
アリを追いかけることよりも
塾や習い事のほうが重要だと考える人なら、
私はいまよりもはるかに頭が悪く、
いまよりも集中力や主体性を欠く、
「うだつのあがらない大人」になっていたことでしょう。

5の挑戦もそのままですね。
脳というのは「適度のストレス状態」でこそ、
飛躍的に向上することが分かっています。
つまり、算数の問題が簡単すぎる子どもには、
次のレベルに挑戦させることが望ましい。
日本の学校教育は「みんな一緒に平均的に」
という悪しき平等主義があるので、
能力が高い子どもが羽ばたくことが出来ないという弊害を抱えています。
親は子どもが能力高い分野に関して、
「次のステージに行ける」環境を、
さりげなく用意しましょう、ということです。
脳は挑戦を喜ぶのです。
それはとりもなおさず、
「失敗するチャンスを与える」ことでもあります。
失敗を先回って消去していくような親は、
子どもから挑戦を奪い、
学習機会を打ち消して歩いているようなものです。



▼▼▼自己目的的な生き方に必要な個人的資質:
「自意識のない個人主義」

→P117〜118 
〈リチャード・ローガンは、
極端な逆境の元での力の源泉についての
ビクター・フランクルやブルノー・ベッテルハイムの回顧を含む、
多くの生存者の手記に基づき、一つの解答を提出している。
彼は生存者に見られる最も重要な特徴は「自意識のない個人主義」、
つまり利己的ではない目的への強い志向性であると結論している。

この資質を備えた人々は、
あらゆる環境の中で最善を尽くす傾向があるが、
基本的には自分自身の利益の追求に関心を持っていない。
それは彼らの行為が内発的に動機付けられているからであり、
彼らは外部からの脅威によって簡単に不安になったりしないのである。

自分の周囲のものを客観的に観察し分析するための
心理的エネルギーを充分持つことによって、
彼らはその中により多くの新しい挑戦の機会を
発見するチャンスがあるのである。
もし自己目的的なパーソナリティの中心的要素を
ひとつだけあげるとすれば、これである。

自己愛に陥る人は、
主に自分の自己を守ることに関心を示すので
外的状況が脅迫的になると破滅してしまう。
続いて起こるパニックが彼がしなければならないことを妨害し、
彼の注意は意識の秩序を回復する努力へと内向し、
外の現実と交渉するに十分なエネルギーを残さない。

外界への関心、
つまり外界と積極的な関係を持とうとするとする願望がないと、
人は自分自身の中に孤立してしまう。
今世紀最大の哲学者の一人バートランド・ラッセルは、
彼がどのようにして個人的幸福を達成したかについて述べている。
「私は徐々に自分自身や自分の欠点に無関心になった。
私は次第に注意を世界の状態、
さまざまな分野の知識、愛着を感じる人など、
外部の対象に置くようになった。」
自己の内部に自己目的的なパーソナリティを確立する方法について、
これ以上優れた短い記述はない。〉


、、、自己目的的なパーソナリティは、
ナチスによるホロコーストの生存者に、
共通して観られる性質でした。
ヴィクトール・フランクルの名著「夜と霧」を読むと分かるのですが、
ホロコーストを生き残った人々は、
単に運が良かったから生き残ったのではありません。

もちろん運もあります。

しかし、極限状態になってもパニックを起こさない、
仲間と連体することが出来る、
自分自身の弱さを超克することが出来る、
何よりも絶望的な状況になっても希望を失わない、
などの資質が、「生と死」を分ける要因になったのです。

リチャード・ローガンが生存者たちを調査した結果、
彼らの自己目的的なパーソナリティには、
「非利己的な個人主義」があった、というのです。

どういうことか?

究極の思考実験を考えましょう。
「世界が滅亡した日」に、
最後に地上に立っている人はどんな人か?
他人を利用することを厭わず、
自分さえ生き残れば良いと考え、
苦しむ他者から奪うことの出来るエゴイストでしょうか?

ホロコーストの生存者の例が示すのは、
「それとは逆の人物」こそ、
生き残る可能性が最も高い人だ、
ということです。

その人には「利己心」がほとんどありません。
「自分に関心がない」のです。
だからこそ、状況を冷静に把握することが出来る。
逆説的ですが、自意識が自己に捕らわれていないからこそ、
「生き残る」ことに集中することが出来る。

地球最後の日に地上に生き残るのは、
意外にも「利他的な人」です。
聖書に、
「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、
 命を捨てる者はそれを得る」
という逆説が出てきますが、
まさにこの状況を言い得ています。



▼▼▼アマチュア/ディレッタントという言葉は
侮蔑的に用いられることが多いが、本来の語源を考えると、
それらは外的誘因に認知のエントロピーが増大しがちな
専門家以上に効果的になる可能性をもたらす
内発的動機付けを示唆する「肯定的な言葉」だった。

→P175 
〈身体的または知的活動への傾注の程度に関して、
やや歪められた態度を表す二つの言葉がある。
アマチュアとディレッタントである。
今日では、これらのレッテルは若干軽蔑的に用いられる。
アマチュアとディレッタントは、平均に満たない人、
あまり真剣には相手にされない人、
業績がプロの標準に及ばない人とされる。

しかし元来、
ラテン語の動詞 amore「愛する」に由来する「アマチュア」は、
自分のなすことを愛する人を意味していた。
同様にラテン語の delectare「・・・に喜びを見出す」に由来する
「ディレッタント」は与えられた仕事を楽しむ人を意味した。

従って、これらの言葉の初期の意味は、
業績よりもむしろ経験への関心を描写するものであった。
それらは、どれだけ巧みに成し遂げるかに焦点をおくのではなく、
ものごとをなすことから人が得られる
主観的な報酬を記述するものであった。
これら二つの言葉の運命以上に、
経験の価値に対する我々の態度の変化を明瞭に示すものはない。

アマチュアの詩人であること、
ディレッタントな科学者であることが尊敬された時代があった。
それはこのような活動に従事することによって
生活の質が向上することを意味していたからである。

しかししだいに、
主観的状態よりも行為への評価が強調されるようになった。
尊敬されるものは経験の質より成功であり、
達成され、成就されたものの質である。
その結果、ディレッタントになることは最も意味のあること
――自分の行為がもたらす楽しみ――を
達成することであるのにもかかわらず、
ディレッタントと呼ばれることに羞恥が
感じられるようになったのである。〉


、、、「お前はまだまだアマチュアだな」
と誰かが言うなら、それは現代世界では「悪口」です。
しかし、その語源とルーツを考えるとき、
本来は「褒め言葉」であり、
アマチュアであるということは、
尊敬されることだったのです。

アマチュアというのは、
「プロの技術に到達していない」
という意味で現代では用いられますが、
本来はそうではなかった。

アモーレ(愛する)というラテン語が、
アマチュアの語源です。

なので、アマチュアである、
というのは、「それをすることが大好きだ」
ということであり、尊敬の対象だったのです。

本来の語源に立ち戻るならばですから、
「イチローは野球のアマチュアだ」
「羽生善治は将棋のアマチュアだ」
「さかなクンは魚の大のアマチュアだ」
という言葉は間違いではありません。

なぜ「プロ(金銭的報酬を得る者)」
「アマチュア(プロの技術に満たない者)」
と言う風に言葉の意味が変わってきたのか?

その背後には、近代合理主義と、
貨幣経済の隅々に至るまでの浸透があります。
あらゆる「価値」が貨幣に換算される世の中では、
「能力がある=貨幣価値がある」ということになる。
しかし、必ずしもそうでないことは、
無数にある例外を考えれば分かる。

現代世界でも、
「プロではない人間」が、
偉大な功績を残すことがあります。
オリンピックのマイナー競技にプロはいませんし、
ハリー・ポッターの作者はただの専業主婦でした。
「きかんしゃトーマス」の作者は、
鉄道マニアのイギリスの牧師ですし、
作家のカフカは税務署の公務員でした。

当たり前です。

日本のことわざに、
「好きこそものの上手なれ」というのがあります。
「それをするのが好きで好きでしょうがない」
と言う人は、長期的には無敵です。
そんな人に「金を得るために嫌々している人」が、
勝てるはずがないのです。

、、、でも、仕事好きじゃないんですけど。
という人もいるかもしれませんが、
失望する必要はありません。

「好きなことを仕事にする」のには2つのルートがあります。
第一のルートは、
「いまやっている仕事を好きになる」ことです。
これは、どんな仕事でも必ず可能だと私は思います。
ベルトコンベアで豚の内臓をチェックし続ける仕事を、
6年間、この上なく愛するようになった私が言うのだから間違いない。

第二のルートは、
「今すでに好きなことを換金する」ことです。
しかし、物事には換金しやすいものとしにくいものがある。
飛び抜けた野球の技術なら換金しやすいでしょうが、
「めちゃくちゃ魚が好き」という「技術」は換金が難しい。
さかなクンのような1億人にひとりの天才以外は、
それで食っていくことは出来ません。

しかし、

換金できなかったからといって何なんでしょう?
それが好きだからやっている。
それで良いんじゃないでしょうか?
運が良ければ換金される時が来るかもしれないし、
自分が生きている間にされないかもしれない。

だって、好きなことが出来ている、
と言う時点で、それ自体が大きな報酬じゃないでしょうか?
それじゃ報酬が足りない、金が儲からないと損だ、
と言う人は、
きっと「さほどそれが好きではない」のです。

人の幸せというのは、
金融資産では決まりません。
「クオリティ・オブ・ライフ(人生の質)」で決まると、
私は思っています。
それを上げるひとつの補助線は、
「アマチュア(それが好きだからしている)」
の比率を上げ、「プロ(好きじゃないのに仕方なくする)」
を減らす、という考え方です。

方法は2つあります。
・今していることを好きになる。
・好きなことを続ける。

仕事だけではありません。
「子育てのアマチュア(子育てが好きな人)」は、
「子育てのプロ(仕方なく子育てする人)」より幸せです。
「料理のアマチュア(好きで料理している人)」は、
「料理のプロ(義務的に料理している人)」より幸せです。
「キリスト教のアマチュア(キリスト者であることが喜びの人)」は、
「キリスト教のプロ(苦虫をかみつぶしたように信仰する人)」
よりも、はるかに幸せなのです。

アマチュアであることに胸をはりましょう。



▼▼▼ジークムント・フロイトの「仕事と愛」

→P180 
〈仕事はきわめて普遍的なものである一方で多様であるため、
生活のためにする仕事が楽しいかどうかによって、
人々の包括的な満足度が大きく異なる。

「自分の仕事を見いだした者は幸いである。
それ以外の祝福を求めさせてはならない」
と書いたトーマス・カーライルはそれほど間違っていなかった。

ジークムント・フロイトは、
この単純な忠告を少しばかり拡大した。
幸福の処方について尋ねられた時、
彼は「仕事と愛」ときわめて短いが明確な答えをしている。
仕事や他者との関係のなかにフローを見出すことができれば、
その人は生活の質全体を順調に高めることができると言うことは正しい。

この章では仕事はどのようにしてフローをもたらすかを研究し、
次章ではフロイトのもう一つの主要テーマ
――他者との交際の楽しさ――を取り上げる。〉


、、、「クオリティ・オブ・ライフ」
という考え方があります。
「人生の質」ということですね。
頭文字を取って「QOL」とか言われます。
このQOLは医療の現場から使われ始めましたが、
今は人生一般について語るときも使われるようになっています。

QOLを考えるとき、
「仕事」というのは健康、
結婚(の有無)、子ども(の有無)とならび、
トップ3に入ってくる最重要要素です。

断っておきますと、
「結婚したからQOLが高い」
「子どもがいるからQOLが高い」
というようなものとは違います。
逆だと考える人もいるわけなので。
また「健康なほうが幸せ」というのもそうです。
病気をしたからこその幸せというのもありますから。

そういう意味でQOLは価値中立ですが、
「QOLが高くないほうが良い」
という考え方はありません。
QOLとはつまり「人生の質」のことであり、
自分の人生にどれだけ満足できるか、ということですから。

さて、「仕事」です。
仕事がなぜそんなに重要か?
人間は人生の3分の1前後を「寝て」過ごします。
残りの3分の1(毎日8時間)前後を、
働いて過ごし、
最後の3分の1の時間に、
ご飯を食べたり風呂に入ったり、
友だちと遊んだり旅行をしたりします。

「仕事」に対して満足しているかどうかは、
つまり人生の3分の1の時間の満足度を決めるのです。
重要じゃないわけがありません。
仕事が退屈でつまらない、
あるいは苦痛だという人は、
人生の3分の1が退屈でつまらなく苦痛です。
仕事が楽しい、そこから満足を引き出せるという人は、
人生の3分の1が楽しく満足なのです。

フロイトは「仕事と愛」、
この2つが幸せの処方だと看破しています。
仕事でフローを体験すること、
そして人間関係で喜びを見出すことが、
人生の幸せのすべてだと言って良い、ということです。



▼▼▼余暇を意義深くするための教育

→P203〜204 
〈しかし他のすべての場合と同様、
仕事と余暇は我々の欲求に適合させることができる。
仕事を楽しむことを学び、自由時間を浪費しない人々は、
自分の生活全体がより張り合いのあるものになったと感じるようになる。
「未来は」とC.K.ブライトビルは言う。
「教育を受けた者だけではなく、
自分の余暇を賢明に用いるよう教育された者に開かれる。」〉


、、、QOLの話しの続きですね。
先ほど、人生の3分の1は睡眠、
のこりの3分の1は仕事だと言いました。
「最後の3分の1の充実」に関して、
私たちは学校で習うことがありません。
少なくとも明示的に学習することは少ない。

しかし、「メタ的」には学習機会が提供されています。
児童精神科医の佐々木正美さんは、
学校で最も重要な時間は授業中ではなく、
「休み時間と放課後」だと言います。
その時間に子どもたちは、
他の人間と関わり合うことを学び、
他の人々と協力することを体験し、
創造的に時間を楽しむことを体得するからです。

私は今41歳で、人生の折り返しにさしかかっていますが、
小学校、中学校、高校時代の同級生や、
自分に近しい同世代を定点観測してきて、
ひとつ言えることがあります。

「休み時間が楽しみでならない」
というタイプだった人は、
社会人として必ず成功しています。
彼らは幸せな家庭を築く可能性が高く、
会社での仕事に満足する可能性が高く、
社会で成功する可能性が高い。

一方で、勉強が出来たかどうかと、
41歳時点での「成功・幸せ」には、
優位な相関関係はありません。
勉強がめちゃくちゃ出来た絶望的に不幸な人を知っているし、
勉強がまったく出来なかったが成功し幸せになっている人を、
私は何人も知っている。
勉強できた幸せな人も、
勉強できかった不幸な人も知っている。

「大人として幸せになれるかどうか」は、
勉強が出来るかどうかよりも、
上手に遊ぶことが出来るかどうかのほうに、
より依存しています。

誰もこの「不都合な真実」を言いません。
なぜか?

誰も儲からないからです。
学習塾がそんなこと言うわけないじゃないですか。
有名私立学校がそんな宣伝するわけないじゃないですか。
いろんな習い事をさせ、
学習塾に通わせ、
親にはお金を落としてもらわないと困るのです。

ただ「不都合な真実」はこうです。
それらと「子どもの将来の幸せ」は、
いっさい関係がない、ということです。

「休み時間を楽しむ能力」の方が関係がある。

なぜか?

休み時間を楽しむ能力は「総合力」だからです。
他者への共感性、協調性が必要です。
他人の気持ちをおもんぱかる想像力が必要です。
独創的な遊びを生み出す創造力が必要です。
何より「今、自分たちは楽しい」という状態を、
感覚的に知っている必要があります。

これらは、「偏差値秀才的な能力」以上に、
社会人としての仕事生活に必要な能力だ、
というのは3年以上社会人として働いた人なら、
100人が100人、同意してくれるでしょう。

それだけではありません。

これが出来る人は、
仕事を離れたときも、
その時間を楽しむことが出来ます。
「上手に働く人は、
 上手に遊ぶ」のです。

この命題は「逆もしかり」です。

「上手に遊ぶ人は、
 上手に働き」ます。

いやいや、パチンコばかりしていて、
仕事がまったく出来ない同僚を知っている、
という反論をするかもしれません。

違います。

そのパチンコをしている人は、
遊びが下手です。
上手に遊ぶというのは、
その遊びから必ず長期的には仕事の滋養が得られます。
仕事と遊びは地続きです。
先ほどの「アマチュア(行為を愛する)」という補助線を引けば、
分かっていただけると思います。


、、、ここまでで文字数オーバー!!

なので、本のカフェラテ、
初の3回分割になります。
次回(たぶん来月)、
完結編(後篇)をお送りしたいと思います。
お楽しみに!



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