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若かった両親にアドバイスできるとしたら?

2019.09.04 Wednesday

★第88号 2019年4月23日配信号

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■1 今週のオープニングトーク
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼若かった両親に、何かアドバイス出来るとしたら?▼▼▼

▼自分を育ている若かった両親に、
何かアドバイス出来るとしたら何と言いますか?


、、、これはねぇ。
わりと深いテーマですよね。

40歳にもなると、
「やっと自分のことが分かってくる」。
多くの人はそんなに時間はかからないのかもしれないけれど、
私の場合、自分が分かるのに40年かかりました。
それでもまぁ、分からないこともあるのだけど。

そうすると、
「あぁ、あのとき自分はこうだったんだ。」
ということが、事後的に解明出来たりする。

私の場合、今考えると、
おそらくある種の発達障害を抱えていたと思います。
その言葉が重いというのなら、
発達に大きな偏りがあった。

これは間違いない。

だから、相当に育てにくい子どもだったはずです。
「良い子」ではない。絶対に。
「問題のある子ども」の部類でしたね。

、、、で、私の母親は、
(当然といえば当然だけど)私と似ていて
「真面目だがキャパシティが狭い」タイプなので、
問題児を軽くあしらうこともできない。
鷹揚に構えて適当に扱う事も出来ない。
「ま、なんとかなるでしょう!」
という楽観もできない。

だから一時期母親は育児ノイローゼのようになり、
私は包丁を突きつけられたりしました。
わりと精神的にキツイ追い込まれ方を、
日常的にしていました。
今になって思えば、
追い込まれていたのは母親のほうであり、
その「追い込まれ」が、
私を追い込むという入れ子構造になっていたのですが。

今の基準で言うと虐待に属するかもしれない。
当時は「なぜ兄弟のなかで自分だけが、
こんなにも母親を苦しめるのだろう?」
というどこか他人事のような疑問を抱いていて、
それはちょっと「離人症」に似た状態だったと思います。
母親がハサミをもって自分を追い詰めている、
その後ろ姿を、部屋の天井から、
冷静に見ているような感じ。

まぁ「離人症」ですね、多分。
自分を守るために必要なことだったのです。

「でも、何で僕だけが、、、、」
というのはやっぱり思うわけですよ。

発達に偏りがある子どもというのは、
主観的には発達に偏りがあると思ってないですから。

セクハラ上司が主観的にはセクハラしてないのと同じです笑。
「病識がないのが病理」なのです。
まぁ、今になって思えば、
それは私が発達に偏りがあるゆえに、
「この子どもがこのまま大人になったら絶対マズい!」
と周囲の大人に思わせる何かが、
私にあったからなのでしょう。
じっさいそうだったと思うし。

でも、それはそれとして、
母親に包丁を突きつけられ、
「一緒に死のう」みたいなことを言われるのって、
けっこうキツイ体験だったし、
その後の私の「生きづらさ」を形成しました。
しかし、そんなことは今では「どうでもいい」のです。
それもまた母親が私を愛してくれていた、
何よりの証拠だと思うようになりましたし、
その「生きづらさ」こそが、
私に「ユーモア」を与えました。
映画ライフ・イズ・ビューティフルの父親が、
ナチス収容所だからこそ道化になれたり、
尼崎の長屋極貧生活をしたからこその、
ダウンタウンのお笑いがあるのと同じように。

また、その「生きづらさ」こそが、
私を「思想家」にしました。
森羅万象の「理由」を、
普通の人はそんなに深く考えません。
考えたとしても、
「まぁ、そういうものだろう」と、
そのまま「呑み込み」ます。

私は絶対にそれが出来ない。
今分からなかったとしても、
10年後に分かるかもしれない。
そうやってしつこく考え続ける。
「なぜ」を問い続ける。
「水脈」に当たるまで、
地面を掘り続ける。

単純な頭の良さでは、
私より頭の回転が速く、
キレる人が数多くいますが、
その「しつこさ」では、
私は同世代のほとんど誰にも負けないと思っている。

水脈が見つからなければ、
マントルを突き抜けて地球の裏側まで掘る。
それぐらい私の「なぜ」という掘削機のツメは力強いのです。

「呑み込んだ」ほうが、世の中に適応しやすいし、
お金は儲かりやすいでしょう。
だから多くの人は「呑み込み」ます。
「世の中はこういうものだ」と受け入れ、
そのなかで上手くやっていくことを考える。

しかし私は違う。
「なぜそうなのか」ということが腑に落ちるまで、
決して諦めない。
それってもう「こだわり」というより、
「Way of Life(生き方)」の問題です。
こういうレベルのことは、
変えようがない。
そういう風に創られていると、
受け入れてそれをどう生かすかを考えるしかない。

それを「どう生かす」か?

これが「生きる」んだな。

社会が安定した時代には、
「なぜ」を問うこと、
つまり高度に抽象的なことというのは、
あまり役に立ちません。
むしろ具体的・即物的なことが重要になる。
しかし、社会が不安定で大きく変わる時代には、
高度に抽象的な思考が出来ることが、
非常に大切になります。

誰も思ってくれないからせめて自分で思ってるのですが笑、
私はその意味で自分のことを「時代の宝」だと思っています。
私は今の時代に産まれるべくして生まれたのです。

多分。

おそらく。

、、、で、「抽象思考のツメ」は、
どこから来たのか?
それは間違いなく幼少期の母親との葛藤から来ています。
あのときに「存在論的な不安」を抱えなかったら、
私は、
「世の中に適応するに速く、
生き抜くのに狡猾で、
ひょうひょうと要領よく世渡りする現実主義者」
となっていたことでしょう。

つまり、その定義からして、
私はキリスト者にはなっていなかった。
キリスト者は上のような人物の「逆」の人ですから。

そういうことも含め、
私は自分の過去を愛おしいものとして、
今は温かい気持ちで抱きしめています。
抱きしめれば抱きしめるほど、
自分と母親と世界に対して、
温かい気持ちが溢れてきます。

そして思います。

こんなに恵まれた私は、
世の中にその恵みを還元しなければ、
絶対にダメだ、と。

パウロの言う、
「世界に対する負債」の概念ですね。

私たちが大人になり、
親になると、
「両親が親だったとき、
 こんなに若かったんだ!」
と驚く事があります。

私はいま41歳ですが、
私の両親が41歳のときというのは、
私は小学校3年生ぐらいだったわけで、
そりゃ、パニックにもなるわな、と思います。
転勤族で周囲に助けを求める親族もおらず、
子どもを3人抱え、その一人(私)は、
明らかに「様子がおかしい」わけですから笑。
「ヤバい、なんとかしなきゃ!」
と追い詰められることでしょう。

そんな私も、
40年ぐらいかけて、
人々に迷惑をかけながらではありますが、
ちゃんと「発達」したのです。
「なんとかなった」のです。

私は学校の友人、先生、
大学の友人や知人や教会、
社会人になってからの同僚、友人、教会、組織、、、
さまざまな人々に迷惑をかけることで、
いろんなところに頭をぶつけながら、
その「いびつな発達の角」が取れ、
なんとか常識的に振る舞う事が出来るまでに、
「社会によって成長させてもらった」わけです。

そう考えますと、
親の役割というのは案外大きくはなく、
一人の人間が一人前の大人になるまでに、
「この社会」が果たす役割というのは、
考えている以上に大きい。
ジュディス・リッチ・ハリスの、
『子育ての大誤解』を読んでから、
私はますます確信するようになりました。

国際的な学力検査の結果を見ますと、
日本の教育レベルは世界トップクラスですが、
日本のGDPに対する教育の公的支出は先進国最下位です。

なぜか?

親がめちゃくちゃ私財を投じて、
子どもを教育しているからです。

国家が教育において、
これほど「国民に甘えている」国は、
諸外国のなかに他に類を見ない。

でも、その背後にあるのは、
政治家の陰謀でもなければ、
シルバー民主主義でもない。
政治というのは原因ではなく「結果」です。

つまり、
日本人の大多数が、
「子どもを大人にするのは親だ」
と思いすぎている。

遺伝:?%
親:90%
社会:10%

ぐらいに思ってるんじゃないでしょうか?
そう思っていたからこそ、
若き日の私の母親は、
あれだけ追い込まれたのです。

でも、ハリス氏が論証しているとおり、
真実はこうです。

遺伝:40〜50%
親(家庭):10%
社会(友人):40%

これはでたらめな話ではなく、
膨大の「異なる環境で育った双子」の研究から実証されています。
「子育て神話」の崩壊を意味しますから、
この説は人気がないですが、
科学的にはこちらが真実らしい、
というのが最近になってやっと受け入れられるようになってきました。

*参考文献:
『人間の本性を考える』スティーブン・ピンカー
『子育ての大誤解』ジュディス・リッチ・ハリス


、、、何が言いたいのか?
私が若い母親に言いたいのはこうです。
「彼は多分発達障害だけど、
 心配することはないよ。
 社会が彼を育ててくれるよ。」

そして父親に言いたいことはこうです。
「もうちょっと精神的に、
 子育てをフォローして上げて」と。
昭和のモーレツサラリーマンだった父親は、
典型的な昭和の父親のご多分にもれず、
家事や子育ては「ゼロ・コミットメント」でした。
会社の接待で、毎日帰ってくるのは12時過ぎていたし、
土日はゴルフ。
たまに何もない休日には、
ゴルフのスイングか野球中継を見るぐらい。

子どもと家事は「あとは任せた」状態。
もし父親が母親に対して、
家事を手伝わないまでも、
子育てについてねぎらいの言葉をかけたり、
心配を示したりしていれば、
私はハサミをもった母親の前で、
「地獄の圧迫面接」を、
週に数回、2時間以上受ける必要はなかったかもしれない。

、、でも、もしそうなっていたら、
先ほど申し上げた理由により、
私はクリスチャンではなかった。

子どもというのは、
「複雑系」です。
複雑系と非・複雑系の違いは何か?

非・複雑系は、
「ああすればこうなる」が成り立ちます。
自動車のような機械を考えたら分かりやすい。

複雑系は、
「ああしてもこうならない」のです。
有機体としての生物を考えてください。
生物学者の福岡伸一氏が、
「生命工学」という概念自体に異を唱えるのは、
「生命=複雑系」「工学=非・複雑系」という、
二つの「系」の違うものの組み合わせに、
無理があるからというのが氏の主張ですが、
私も彼に賛同します。

「ああすればこうなる」か、
「ああしてもこうならない」か。
これが一番の違いです。
詳しくは「複雑系の科学」に関する文献を参照ください。

とにかく「一人の人間が大人になる」
というのは、関与する要素があまりに多すぎて、
「よかれとおもったことが悪い結果をもたらす」ことや、
「失敗したとおもったことが実は良い結果の原因になっていた」
というようなことに溢れています。

だから、「コントロール不能」なのです。


、、、といったことを踏まえ、
現在父親になった私が子どもに出来ること、
それは何か?

「鷹揚に構える」?
「社会が子どもを育ててくれると信頼する」?
「妻にねぎらいの言葉をかける」?
全部正解ですし、心掛けています。

しかし、このすべてを完璧にしたとしても、
「ああしてもこうならない」のが子育てなのでしょう。
これらを全部したとして、
子どもが将来シンナーを吸い、
髪の毛を染め、タトゥーを入れ、
木刀をかつぎ、原付を改造し、
コンビニの前でたむろするようになったとしても、
私はまったく驚きません。
その前時代性には驚くかもしれませんが笑。

なんせ、複雑系なのですから。

ジュディス・リッチ・ハリスが言っているように、
「お父さん、お母さんといたあの時間は楽しかったなぁ」
と、将来子どもが回想してくれるように、
私もまた二度と戻らないこの時間を、
「楽しんで過ごす」。
これぐらいしか私に出来ることはないんじゃないか。
これが私の「暫定的な答え」です。

私は子どもの将来をコントロール出来ない。
しかし、子どもが
「現在、楽しいかどうか」に関しては、
けっこう私はいろいろなことが出来る。
それで良いじゃないですか。

だって、子ども期間って、
「大人になるための準備期間」じゃないでしょ。
私の見るところ、みんなそう思いすぎてます。
だとしたら、大人の期間って、
老人になるための準備期間なんでしょうか?
老人期間はじゃあ、何の準備期間なんですか?

違うでしょ。

子ども時代も人生です。
大人時代も人生です。
老人時代も人生です。

「生きる」ことは何かの目的に奉仕するのでなく、
それ自体が尊いのです。

だから、子ども時代という「生」が、
豊かになるように、親は全力を尽くす。
それは大人になって有利に人生を進めるための、
投資期間では決してない。

日本の社会が、
両親にすべての十字架を負わせるのではなく、
もっと社会全体で子育てに投資していこうよ、
という風に変わるのには、
上記のような前提が共有される必要があると、
私はけっこう本気で思っています。


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