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本のカフェ・ラテ 『知性は死なない』【1】

2019.11.12 Tuesday

第095号   2019年6月11日配信号

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 本のカフェ・ラテ
「本のエスプレッソショット」というこのメルマガの、
開始当初からの人気コーナーでは、
一冊の本を約5分で読める量(3,000〜10,000字)で、
圧縮し、「要約」して皆さんにお伝えしてきました。
忙しい読者の皆さんが一冊の本の内容を、
短時間で上っ面をなぞるだけではなく「理解する」ために、
「圧縮抽出」するというイメージです。
この「本のカフェラテ」はセルフパロディで、
本のエスプレッソショットほどは、網羅的ではないけれど、
私が興味をもった本(1冊〜2冊)について、
「先週読んだ本」の140文字(ルール破綻していますが)では、
語りきれないが、その本を「おかず」にいろんなことを語る、
というコーナーです。
「カフェ・ラテ」のルールとして、私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメントしていく、という形を取りたいと思っています。
「体系化」まではいかないにしても、
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。
密度の高い「本のエスプレッソショット」を牛乳で薄めた、
いわば「カフェ・ラテ」のような感じで楽しんでいただければ幸いです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼久々の「本のカフェ・ラテ」▼▼▼

久しぶりの「本のカフェ・ラテ」コーナーです。
一冊の本の私のEvernoteメモに、
私がコメントを連ねていくコーナー。

前回はチクセントミハイの、
『フロー体験 喜びの現象学』
を解説しました。

今回はインドにいる間に読んだ、
『知性は死なない 平成の鬱をこえて』を解説します。
動画でも絶賛したのですが、
いつかカフェラテ形式で紹介したいと思っていたので、
今回、やることにしました。

與那覇潤という人は、
私の弟と同じ学年で、
しかも同じ年に東京大学に入学してるので、
「弟の大学の同級生」なんですよね。
東大は学生数が多いので、
弟に聞いても「知らない」って言ってましたが、
私は彼の『中国化する日本』という本を、
数年前に読んで感銘を受けていました。
同世代に凄い人がいるんだなぁ、
という認識でした。

3月に札幌に行ったとき、
ブックオフに立ち寄り、
たまたま目に「飛び込んできた」のがこの本でした。
重要な本の背表紙が、「目に飛び込んでくる」
ということって、何年かに一度経験します。
「本読み」にとって至福の経験のひとつです。

そんで、ブックオフでぱらぱらとページをめくって驚いた。
彼は鬱病を患い、
休職の後、務めていた大学を退職し、
この本は復帰第一作だということを知ったのです。
それで、ブックオフで買ったというわけ。
そして、インドで「半日、人を待つ」という、
けっこう頻繁に訪れる待ち時間に、
一気に読んだのがこの本です。

與那覇さんは私と約1年遅れて、
だいたい私と同じ期間、闘病しています。
そして彼がその闘病の中で発見したものというのが、
私が闘病を通して発見したものと、
とてもよく似ていたのに驚きました。

それでは早速、
カフェラテ形式で解説していきます。


▼▼▼『知性は死なない 平成の鬱をこえて』

読了した日:2019年4月13日
読んだ方法:札幌のブックオフで購入(889円)

著者:與那覇潤
出版年:2018年
出版社:文藝春秋

リンク:
https://amzn.to/2U6o988

▼▼▼とびらの言葉:パスカルのパンセから

→P6 
〈人間は否応なしに狂っているので、
狂わずにいることが、
他の狂気の在り方からすれば狂っていることになる。
私は、人間をほめると決めた人たちも、
人間を非難すると決めた人たちも、
気を紛らすと決めた人たちも、みな等しく咎める。
私が認めることの出来るのは、
うめきながら探し求める人々だけだ。〉


、、、本の「とびら」に、
過去の作家のことばがアーカイブされているのって、
好きなんですよね。
あと、映画の冒頭で、
歴史上の人物の「名言」がテロップで出る、
というのも好きです。

あまりにもあざといと鼻につきますが、
その「冒頭の引用」が、
本を読み進め、映画を後半まで観ると、
「ああ、つまりあの言葉はこういう意味だったのか」
という「再定義」されるような構成になっていると、
なんとも言えないカタルシスを私は味わいます。

本書の冒頭にも、
かのパスカルの引用があります。
パスカルのパンセは以前読んだことがあります。
読むと分かるんですが、
あの本って、数学者のパスカルが、
他者をキリスト教徒にしようとして書いた、
「伝道のためのハンドブック」みたいなものなんですよね。

「人間は考える葦である」
というあまりにも有名なフレーズは、
この『パンセ』に出てきます。

2016年の私の読書メモに、
『パンセ』からこんな言葉が書き出されていました。

→P112 
〈この世のむなしさを悟らない人は、
 その人自身がまさにむなしいのだ。〉

冒頭の言葉とよく似た趣旨ですね。

〈私は、人間をほめると決めた人たちも、
人間を非難すると決めた人たちも、
気を紛らすと決めた人たちも、みな等しく咎める。
私が認めることの出来るのは、
うめきながら探し求める人々だけだ。〉

とパスカルは言っています。
楽観主義者=オプティミストも、
悲観論者=ペシミストも、
享楽主義者=ヒードゥニストも、
パスカルは認めない、と言っているのです。
この世の中を肯定するのも、
否定するのも、
肯定も否定もせず、
「とにかく楽しむ」のも、
全部現実から逃げてるだけだ、と。

パスカルが認めるのは、
「うめきながら探し求める人々」だけだと彼は言います。
本書を読むと分かりますが、
與那覇潤さんにとって鬱病になった体験というのは、
「うめきながら探し求める旅路」だったというのが分かります。
私にとっても、まったくもってそうでした。
100%同意します。


▼▼▼與那覇潤の「平成とは?」

→P8 
〈それでは「平成時代」とは、
どんな時代として振り返られるのでしょうか。
ひとことでいえば、「戦後日本の長い黄昏」
ということになるのではないかと、私は思います。
この30年間に、戦後日本の個性とされたあらゆる特徴が、
限界を露呈し、あるいは批判にさらされ、
自明のものではなくなりました。

・海外への派兵を禁じているとされた、平和憲法の理想
・けっしてゆらぐことはないといわれた、自民党の単独一党支配
・つねに右肩上がりだと信じられてきた、経済成長
・いちど正社員になれば安泰だと思われた、日本型雇用慣行
・その地位は盤石のはずだった、「アジアの最先進国」という誇り

平成の幕引きを担おうとする安倍晋三首相は、
「戦後レジームからの脱却」が持論で、
憲法改正の発議を目標としています。
その成否や賛否は、しばらくおきましょう。

すくなくとも平成という時代が、
戦後日本に対する再検討と共にあり、
最後の総仕上げとしての改憲問題を積み残しつつ、
閉じられようとしていることについては、
多くの読者の同意を得られるものと思います。〉


、、、本書タイトルからも分かるように、
本書のユニークさは、
うつ病体験というきわめて個人的な出来事を補助線にして、
「平成とはなんだったのか?」という、
きわめて普遍的な社会的問題に取り組もうとしているところです。

與那覇さんは平成とは、
「戦後日本の長い黄昏」だったと分析します。
「戦後日本」という「神話」が、
制度疲労を起こしているのが顕在化したのが、
平成という時代だったのだ、
と彼は言っています。

終身雇用制、
右肩上がりの経済成長、
自民党の一極支配、
官民複合型の護送船団方式、
「平和憲法」の自明性、
アジアの最先進国、という地位

これらが自明でなくなったのが、
平成という時代でした。

最近私は衝撃の統計データを見ました。
デイヴィッド・アトキンソンの著作のなかに、
「最低賃金」の各国比較が載せられているのですが、
日本の最低賃金は今や台湾より下です。
「アジアの一等国」というのは、
90年代までの話しであり、
その感覚をいまだに引きずっているのは、
時代錯誤もはなはだしい。

日本はもはや、
よく言って「普通の国」、
悪くすれば「二流国に足を踏み入れている」
というのがデータが物語る現実です。

「世界が驚いた凄いニッポン」
などという番組やコンテンツや書籍で、
「文化的自慰行為」にふけるというのは、
二流国からなんとかして這い上がるための、
ガッツを与えてくれません。
逆に「自国中心主義に引きこもる三流国」に、
スベり落ちる現象ですので、
みなさん、注意が必要です。
ああいったものから遠ざかりましょう。

話しがそれました。
世間にはあらゆる分野において、
「90年代のまま時計が止まっている人」が多いのですが、
それは「平成の黄昏」を、
しっかりと咀嚼していない証拠です。

話しを先に進めましょう。


▼▼▼本書の性格・闘病体験ではなく、
自身の病気という内的危機を
日本の現状という外的危機と共鳴させようという試み

→P13〜14 
〈平成の30年間に知識人が試みたのは、
戦後という「パンドラの箱」の封印を解くことでもありました。
たとえば憲法や軍事に関しては、
かつてよりもタブーが少なく議論できるようになり、
一般国民を先の大戦における軍国主義の
「犠牲者・被害者」と位置づけてきた昭和の自画像にも、
するどいメスが入れられました。

しかし、その開けてしまった箱の中に、
いまもまだ希望は残っているでしょか。
もういちど日本が「戦争」にまきこまれるというかたちで、
「戦後」が完全に終わりを告げるのなら、
平成という長い黄昏の果てに待っていたのは、
夜であり闇であったということになるのでしょうか。

この本は、そういう平成の時代に自我を形成し、
ごく短い期間だけ学者(大学准教授)として
現実にコミットしようとした私の、
挫折と自己反省の手記です。

私もまた、学問に基づき
自身の望むところを社会で実現したいと願っていましたが、
かたちにできたことは、なにもありません。
そして、その過程で躁鬱病(双極性障害)という精神の病を患い、
教育・研究という任務を担うことが出来なくなったために、
大学を離職することにもなりました。

しかしながら、本書は決して、
目下の世の中に対する恨みごとや、
病気に伴う苦労をつづった「お涙頂戴」の書物ではありません。

当初は知識人の好機ともみられていた、
世界秩序の転換点でもある平成という時代に、
どうして「知性」は社会を変えられず、
むしろないがしろにされ敗北していったのか。

精神病という、
まさに知性そのものを蝕む病気と付き合いながら、私なりに
その理由をかつての自分自身に対する批判も含めて探った記録が、
本書になります。〉


、、、本書の性格は、
「カテゴライズ不能」です。
著者も言っているように、
「よくある闘病記」とはまったく性質が違う。
かといって「社会批評」の本でもない。

うつ病という、
「自らの知性そのものがダメージを受ける病気」によって、
著者の「世界観」が変わる事を通して、
「この平成とは何だったのか?」
という問いに対する、
新しい切り口を発見していく、
著者の魂の旅路を、
一緒に疑似的に旅する、
というような体験が、
本書を読んだ私の感想になります。



▼▼▼病によってナラティブが変わり、
「知性は移ろうがそれでも知性は死なない」ことを体験した著者。
病によって「近代とは別の物語を語る」
「世界観を語る」ことを体得した私とよく似ている。

→P14〜15 
〈知識人とされる人には往々にして
「世の中は移り変わるけれども、知性は変わらない」
という信仰があります。
知性を不動の価値基準として固定した上で、
目の前を移ろう諸現象の「問題点」や「限界」に筆誅を加える。
そうしたスタンスを取りがちなのです。

しかし知性の方こそが、
うつろいやすく限界付けられたものだとしたらどうか。
そのような観点に立たなければ、
日本のみならず世界的な、
知性の退潮を正しく分析できないのではないか。

いちどは知的能力そのものを完全に失い、
日常会話すら不自由になる体験をした私が、
そのような思考の転回を経験することで、
もういちどものごとを分析し語ることが出来るようになった。
その意味では本書もまた闘病記ではありますが、
それはけっして、読者の同情を惹くことが目的ではありません。

読んで下さる皆さんにお願いしたいのは、
本書を感情的に没入するための書物に、
してほしくないということ。
むしろ、ご自身がお持ちの知性を
「再起動」するためのきっかけにしてほしいと、
つよく願っています。

なぜなら、知性は移ろうかもしれないけれども、
病によってすら殺すことは出来ない。
知性は死なないのだから。〉


、、、東京大学を卒業し博士となり、
大学で教鞭をとり著作を執筆していた著者は、
あきらかに「知識人」です。
英語では「インテレクチュアル」といいます。

ところがこの「インテレクチュアル」は、
世界中で今、苦境に立たされています。
「彼らは人より物事を知っていて、
 人よりも物事を深く考えているのだから、
 きっと彼らの言うことには道理があるはずだ。
 もし彼らの言うことが分からないとしたら、
 こちらの基礎的な知識や理解力が不足しているだけだろう」
などと思ってくれる人は、
20世紀の後半から21世紀の初頭にかけて、
ビールの泡のように減っていき、
もはやそのように考える人はほとんどいません。

専門的な用語でこの現象を、
「反知性主義」と言います。
英語だとアンチ・インテレクチュアリズム。
そのままですね。

「知識などたいしたことはない。」
「大学の先生はバカばっかり」
「官僚は世の中を知らない」
「政治屋のいうことに騙されるな」
「御用学者に耳をふさげ」
「主要メディアは嘘ばかり」

こういった言説の方が今は人気があります。
まさに「反知性主義」という概念が、
人間のかたちに受肉したような存在である、
ドナルド・トランプが世界最強国のリーダーに選ばれた、
というのはまさしく象徴的なことです。

著者はそれでも、
「知性には世の中を変えていく可能性があるはず」
と、その可能性に賭けたのです。

しかし、著者自身の「知性」が、
病気によって蝕まれるという体験をしたことにより、
著者は違った風景を見るようになります。

「知性主義」の依って立つ前提は、
「知識(知性)は不変だ」
というものだ、とここで著者は言っています。
つまり、「天動説」なわけです。
「知性という地面」を堅く踏みしめていれば、
天の万象を正しく解釈し、説明できるはずだ、と。

ところがうつ病により、
「地が動く」経験をした。
「足下の地面が二つに裂け、
 そこに呑み込まれるような経験」を、
著者はしたのです。

私も同じ体験をしたから、
リアルに思い出されます。
「自分の立っていた足下が崩壊する」というその経験は、
控えめに言っても怖ろしいものです。
この経験をした後は、
この世の中の他のすべてのことが、
たいして怖くなくなるほどです。

その結果著者は、
「地動説」になったわけです。
そうならざるを得ない。
自分の知性がぐらぐらと揺れるわけですから。
「あれ、俺の前提は逆だったんじゃないか?」
と認めざるを得ないわけです。

堅い足場から天の万象を説明していたのではない。
自分自身の知性という足場は揺らぐのだ。
動いているのは自分のほうだ、と分かった。
それが分かると、不思議なことに気づいた。
知性というのは、それでもまだ「死なない」のだということに。
身を投げてこそ浮かぶ瀬があるように、
私たちの知性は絶対ではないと知ったとき、
はじめて「知性」に希望を持てるようになったのです。
「反知性主義という怪物」に、
立ち向かっていけるのはこういう知性です。

「動かぬ土台」に立って、
ドナルド・トランプとその支持者を、
「高所から」批判しても世の中は変わりません。
足下が揺らぐ世界で、
自分自身が揺らぎながら、
トランプを支持せざるを得ないほど追い込まれた人々と、
一緒にうめきながら探し求める(byパスカル)と決めたとき、
知性はまた「再起動」するのです。


▼▼▼うつ病と世界観

→P26 
〈うつ病を始めとする精神の病を患った人は、
どなたも自分自身の「世界観」が
打ち砕かれてしまう体験をされたと思います。
いままであたりまえに出来ていたことが、できない。
自分がずっと信じてきたものが、信じられない。〉


、、、うつ病の本質のひとつは、
この「世界観の崩壊」だと思います。
うつ病ってその「位相」によって、
レイヤーになっていると私は思います。

まず、生物学的な位相としては、
脳に器質的な変化が起きています。
セロトニンが関係しているらしい、
ということは分かってきていますが、
その全貌はまだ明らかになっていません。
ただし、間違いなく言えるのは、
うつ病は「気の持ちよう」で治るものではありません。
「気の持ちよう」でガンが消滅しないのと同じです。
なぜなら脳が器質的にダメージを受けているのは、
間違いない事実だからです。

次に、精神医学的な位相として、
うつ病は「意欲の低下」「希死念慮」、
「不安愁訴」「食欲の低下」などを引き起こします。
端的にいって24時間続く「絶望地獄」から出られなくなります。
真っ暗なコンタクトレンズを眼球に縫い付けたみたいな感じで、
何を見ても絶望しか感じなくなります。

最後に、実存的な位相として、
「世界観が崩壊」します。
「私にとって世界とはこういうものだ」
という安定が完全に崩壊するのです。
「世界は私が考えてきたものとは違う」
という、存在がバラバラになるような経験をします。
「自我」が散り散りになり、
この世の中にバラバラに漂うような、
主観的にはそのような状態になります。

このような人に、
「あなたはどう感じますか」
みたいな質問って実はナンセンスなのです。
「あなた」と言われても、
「破片となって散らばった自我の、
 いったいどの部分が自分なのかも分からない」
というのが多分本人の主観ですから。

闘病中、「あなたは、、、ですか?」
という質問を投げかけられたときに、
私はパニックになり髪の毛をかきむしり、
テーブルの下に隠れて震えたくなるぐらい怖くなりました。
今思い出せば、「わたし」がなくなってるので、
その質問が「自我の崩壊」を、
改めて突きつけるものだったからでしょう。


▼▼▼どこまで自分は何も出来なくなるのだろうという恐怖心と、
どこまで社会の底が抜けるのだろうという不安の共鳴

→P27〜28 
〈(自社さ連立政権のもとで
野党が自民党の憲法や安保に関する立場を受け入れていった
転回を思春期にみながら)違憲が合憲とか、
「なし」なものが「あり」とか、180度正反対じゃないか。
この調子でいったら、文字通り将来、
日本がどうなっていくかも「なんでもあり」じゃないのか。

現実に合わせて考え方を変えるのは、
そこまで悪くないのかもしれない。
だけど「ここまでは変わるけど、
これ以上は変わりません」として、
どこかにきちんと線を引かないと、
いつか困るんじゃないか
――特に政治的な生徒ではなかったと思いますが、
つづく高校時代の間、ずっとそんなことを考えていました。

いまにして思うと、
発病して以降に感じた
「どれだけ能力を失えば止まるのだろう」
「自分はどこまで、なにもできなくなっていくのだろう」
という恐怖心は、
この時の不安を濃縮して煮詰めたようなものでした。〉


、、、著者が高校生のころ、
それはつまり私が高校生のころ、ということですが、
自社さ連立政権のもと、
野党は自分たちが依拠していた平和憲法に対する確信を投げ出し、
自民党に寄り添うようになります。

昨日までAと言っていたものが、
今日はBとなる。
大人が「プリンシプル(原則)」を持っていない、
ということを子ども(や青少年)が知る、
というのはショックなことです。
それが、うつ病の、
「自分はどこまで何もできなくなっていくのだろう」
という不安と、とてもよく似ていた、
と與那覇さんは言っています。

古くは「墨塗りの教科書」というものがありました。
終戦までの日本では「愛国教育」が熱心になされていた。
「国民は天皇陛下の赤子だ!
 鬼畜米英!
 一億総玉砕!
 お国のために戦え!」
ということが教育されていた。
森友学園で有名になった「教育勅語」の精神ですね。

敗戦後、GHQの占領下になり、
「主権」を一時的に失った日本では、
GHQの指導の下、
「民主的な教育」を推進した。
教科書を全部つくり直すお金もなかったので、
当時の学校で何がなされたかというと、
今使っている教科書の、
「国家主義的な部分」に墨を塗った。

これをされた子どもたちは、
控えめに言っても「衝撃」を受けたことでしょう。
たとえば昨日まで、
「教育勅語の精神」を、
竹刀を持ってたたき込んできた先生がいたとします。
「政府や陸軍に疑問を持つなんて言語道断」で、
ちょっとでもダラダラすると、
「この売国奴がぁ、非国民がぁ!」
と言っていた教師がいたとしましょう。

この先生から、
その舌の根も乾かぬうちに、
「みなさん、今日からは民主主義の時代であります。
 国家主義の精神は間違っていました。
 天皇陛下は現人神だと思ってましたが、
 陛下もおっしゃっていた通り、
 あれは人間であります(キリッ)。
 アメリカなどの先進諸国を見ならい、
 マッカーサー閣下の公正たる指導のもと、
 自由と民主主義の精神で、
 明るく生きていきましょう!」
とさわやかな笑顔で言われても、
「はい、先生!」
とは飲み込めないわけですよ。

いやいやいやいや、、、。


、、、


、、、


いやいやいやいや、、、


ってなるでしょ。


青少年にとって、
「大人がプリンシプルを欠く」
というのは「世界の底が抜ける」ような体験なのです。
「じゃあ、何を信じればいいの?」
という風になってくる。

墨塗の教科書を体験した世代の代表的な人物に、
三浦綾子さんと養老孟司さんがいます。
三浦綾子さんは「生徒に墨を塗らせた側」です。
彼女はたしかまだ20歳未満だったけれど、
敗戦のとき、「教師」だったのです。

GHQ→文部省というルートで下りてきた
「教科書に墨を塗る」という指示に、
従わざるを得ないわけですが、
まだ若かった三浦綾子さんはまさに、
「世界の底が抜ける」経験をしました。

その経験が彼女を後にキリスト教信仰に導きます。
「この世界の底が抜けた」とき、
「この世界を超えた真理」を求める心が、
彼女の中に生まれたのです。
「道ありき」に書いてあります。

養老孟司さんは当時たしか小学生でした。
あの出来事は80歳になっても忘れられない、
と養老さんは言っています。
あの経験によって彼は、
「徹底的にすべてを疑う」ようになった。
特に「ことば」を疑うようになった。
では何が信じられるか?
「もの」ならば信じられる。
それで彼は解剖学者になったのだ、
と著書に書いています。

大人がプリンシプルを欠くとき、
子どもは「世界の底が抜け」ます。
與那覇さんは自社さ連立政権のとき、
大人がプリンシプルを欠くのを見て、
衝撃を受けました。
その「世界の底の抜け方」と、
うつ病になったときに、
できていたことがひとつずつ出来なくなる、
という「世界の底の抜け方」が、
似ていることに気づいた、とここで指摘しています。
私の経験もまったくそれを裏付けるものです。

、、、さて。

昨今の森友・加計学園問題、
日大ラグビー部のタックル問題、
少し古いですが、
「都議会の『オマエが産め』という野次問題」
などに共通するのは、
「プリンシプルのなさ」です。

大人が、「言った」「言わない」
の水掛け論をしている。
確かに記録が残っているはずのことを、
悪びれることもなく大人が、
「言ったことがない」と言う。
あったはずの記録が「破棄」されている。
都議会の野次問題に関しては、
衝撃的な結末を迎えます。
確かに録音され、
国民全員が視聴可能なはずの、
「声の主」が、「確認されなかった」のです。
心霊現象でなければ、
誰かが言ったはずなのに、
「だれも言っていないことになった」のです。

まさに「世界の底が抜ける」出来事です。
この数年、「謝ったら負け」
「謝らないほうが得」という処世術を、
政治家が身に着けるようになってから、
この理不尽な風潮は続いている。
公正な社会を望む私は憤慨するわけですが、
もっと心配なのは、これを見て育つ子どもたちへの影響です。
彼らはこのような報道を見るときに、
「大人のプリンシプルのなさ」を、
「プリンシプル」という単語を知らなくても、
敏感に、しかも驚くほど正確にキャッチします。

彼らは「底の抜けた世界」で生きることになります。
それが彼らの「世界はフェアである」という前提を傷つけます。
「世界はフェアである」という前提は、
彼らが希望を持つための条件です。

養老さんや三浦綾子さんは例外的に優秀なので、
そのトラウマ体験をプラスに転じましたが、
普通の子どもたちが、
モリカケ問題のような報道に接しながら大人になったとき、
「正直であることの価値」
「真正面から努力することの意味」
「この世界に対する希望」を、
果たして持っていられるんだろうか、、、
という、数十年単位の不安を私は覚えるのです。

次に行きましょう。


▼▼▼気分の落ち込みは「能力の低下」の結果である。
脳にサランラップがまかれる、、、

→P58〜60 
〈しかし私は病気を経験して、
意欲や気持ちの問題に特化したうつ病の語られ方には、
非常に大きな副作用があると感じるようになりました。
病気の内実を「気持ちの問題」に還元することは、
「結局は気の持ちようじゃないか。やる気次第じゃないか」
「だれだって、
朝からラッシュの電車に揺られて会社になんて行きたくない。
それでもみんな頑張ってるじゃないか」といった、
病者に対する周囲のネガティヴな感情を、
かえってあおる結果につながったと思うからです。

意欲の低下は病気の主症状と言うよりは、
結果だと感じています。
うつ病に伴って発生する能力の低下のことを、
医学的には精神運動障害(PMD, Psycho-Motor Disturbance)と呼びます。
具体的には、他人と会話している際に
反応するスピードが落ちたり(動作の緩慢化)、
じっと座っていられず
そわそわしておなじ話しを繰り返したり(集中力の喪失)、
健康時にはすらすら喋れた言葉が口から出てこなくなったり、
そもそも頭に浮かばなくなったりします(思考の鈍化)。

結果として回復した後ですら、
記憶に欠落が生じることもあります。
私自身、病気をする前には愛読書だったにもかかわらず、
内容を思い出せない本がいくつもありますし、
おなじ病気の知人にも、奥さんと一緒に旅行に行ったことすら、
完全に脳内から記憶が落ちてしまい、
思い出すことが出来ないと打ち明けてくれた方もいます。
 (中略)
じっさい、そもそもこの検査入院の際には、
「いつから苦しんでいますか」
「いまどんな状態ですか」といった標準的な質問にも、
「あー、うー」のようなことばならざることばでしか、
答えられないようになっていました。

治療入院中に知り合った友人は、
この精神運動障害のさまを
「脳にサランラップをかけられたようだ」と表現しましたが、
おなじ体験をしたものとして、
ほんとうに卓抜な比喩だと思います。〉


、、、この本の面白いのは、
「お涙頂戴の闘病記ではない」と、
宣言しておきながら、
下手な闘病記よりも、
病気に対する知識や理解が深まるという、
その情報密度です。

これも著者がもともと持っている、
卓抜した言語操作能力のなせるわざなのでしょう。
自分を突き放し、客体的に、
「鬱になった自分」というものを分析し、
自己解剖し、そして言語化することに成功している。
こういう当事者のテキストは本当に少ないので、
それだけでも読む価値があります。

さて。

ここで著者が語っているのは、
世間における鬱の理解のされ方に、
「気分の落ち込み・意欲の低下」
といったステレオタイプの理解があり、
それらが弊害をもたらしているのではないか、
ということです。

そういった理解というのは、
「つまり気の持ちようなんだから、
 甘えてるんじゃない。
 みんな辛いのに頑張ってる。
 オマエも頑張れるはずだ」
という、完全にスベった励ましをする人を生み出し、
そしてそういうスベった励ましというのは、
鬱の当事者からすると、
骨折した部分をさらに殴られるとか、
「腸捻転は思い切り踏ん張れば元に戻る」
みたいな処方箋に近く、
「当事者がいない場所で放言する」のはまぁ自由ですが、
医学的にはまったく役に立たないどころか、
患者を死に至らしめるほどに危険なわけです。

與那覇さんは、「意欲の低下」というのは、
鬱の「症状」ではなく「結果」なのでは?
と分析しています。
つまり、意欲が低下したから、
仕事だとかいろんなことができなくなるのではない。

まず、脳の器質的ダメージにより、
最初にいろんなことができなくなる。

話せなくなる。
思考できなくなる。
考えられなくなる。
記憶できなくなる。
身体が言うことをきかなくなる。

それが続いた結果、
「意志ややる気」が、
完全に折れてしまう。
そういったプロセスだと理解したほうが良いのでは?
と言っているわけです。
「脳にサランラップがまかれた状態」
といういうのは本当に秀逸な表現です。

私自身も鬱病闘病当時のことを思い出すと、
ゴーグルも酸素ボンベもつけず、
海の深いところで会話しているような、
そういう「感覚の鈍化」と共に回想するからです。
相手が話していることが、
遠く聞こえ、くぐもって聞こえます。
視界はつねにぼやけていてクリアに見えない。
記憶は混濁していて、
考えることも「強力な重力」によって、
「絶望や希死念慮」のほうに引っ張られます。
思考が羽ばたくことができない。
どうしてもできない。

身体が動かない。
思考が動かない。
感情が動かない。

心と頭と身体に、
重い重い鎖をつけて、
がんじがらめにされているような、
そんな状態が24時間続きます。

明らかに「気分の落ち込み」
という次元で語れるレベルではありません。
こういったことって、
経験した人にしか分からない感覚ですし、
経験しない方が絶対いいわけなので、
当事者とそれを取り巻く人の、
「意識の溝」はけっこう深いのです。

当事者は永遠に理解してもらえないし、
周囲の人は永遠に理解できない。

しかし、
與那覇さんのような言語能力を持つ人のことばによって、
その意識の溝が、ちょっとでも埋まる、
ということは起こりうるわけです。
うつ病になったことのない人が、
真摯に耳を傾け、
想像力を働かせ、
その辛さに思いをいたすことはできる。
そして、
「あぁ、きっと想像を絶するほど辛いんだろうなぁ。」
と思う。

それだけで、
当事者にとってどれだけ救いになるか。

「俺だって辛いのに頑張ってる。
 オマエも頑張れるはずだ」
みたいな水深1ミリの励ましよりも、
「無言の共感(の試み)」が、
どれだけ励ましを与えるか。

與那覇さん自身のことばではないですが、
脳にサランラップがまかれた状態。
本当に秀逸なたとえです。

、、、さて。

まだ3分の1も消化できてないですが、
文字数制限になりました。
この続きは、再来週以降にお送りします。
お楽しみに!

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