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【Q】献身について

2019.12.02 Monday

第092号   2019年5月21日配信号

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 Q&Aコーナー

皆さんからお寄せ頂いた質問にお答えするコーナーです。

日頃の悩み、疑問、今更誰かに聞けないギモン、、、、
質問の種類は問いません。お気兼ねなくご質問をお寄せください。
ご利用は下記に基づいてご利用いただけると幸いです。

【Q&Aについて】
▼全てのご質問にお答えすることはできません。予めご了承ください
▼いただいたご質問は、ブログ・FVIメディアルームに掲載される可能性があります
▼本名での投稿の場合は「ペンネーム:無し」となります
▼必ず下記フォームからご質問を送信ください

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

【Q&Aコーナー専用フォーム】

▼URL
https://www.secure-cloud.jp/sf/1484051839NyovBkYI

※大変お手数ですが一つの1メール1質問を原則とさせてください。
ご協力宜しく御願い致します。

※頂いたメールはすべて目を通しております。
陣内俊への要望やメルマガの感想、激励などももちろん大歓迎です!

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

●【Q】献身について

・ペンネーム:ショウ(男性)
・お住いの地域:愛知県

Q.

俊さん

いつも楽しく 考えさせられながら読んでます
メルマガ ありがとうございます

いま私は仕事を辞め牧師になるために
神学校へ行くかどうか 悩んでいます
俊さんは獣医の仕事を辞める決断に
至った経緯はどのようなことだったんですか?
また 100%大丈夫と言う自信はないと思いますが、
その中で踏み出せた経験などを教えていただけると嬉しいです

私は学びたいと言う思いはあるものの、
本当にそれで良いのか?
卒業後牧師としてやって行けるのか、不安を覚えています。
アドバイス頂けると嬉しいです


A.

ショウさん、ご質問ありがとうございます。

これはねぇ。

どこから話しましょうか。

こういうトピックというのは、
相談する人によってアドバイスが変わるでしょうから、
あまり「人に相談することのメリット」というのは、
大きくはないかもしれません。

なぜか?

こういった「答えが決まっていない問い」に関して、
誰かに相談すると、出てくる答えは、
「その人自身の人生観や哲学」の反映になるからです。

たとえば今の会社の上司や同僚に相談したとして、
「それはやめておいた方が良い。
 まずは自分の経済基盤をしっかりさせ、
 それから本当にしたいことをするのがベストだ」
というかもしれません。
じっさい私は市役所を辞めて宣教の仕事を始めるとき、
上司には「社会的な自殺みたいなもんだぞ」
という意味のことを言われました笑。
その上司は大学を卒業してから、
「公務員であること以外の人生」を、
一度も歩んだことがないのですから、
そういうのは当然と言えば当然です。

しかし、それは、
「その上司(同僚)にとっての現実」なのです。

現実は複数あります。
そしてここからが多くの人が誤解しているのですが、
真実も複数あります。
内村鑑三が「真理は楕円」と言ったのは、
実は深い話しなのです。

ちょっと平たく実生活に引きつけると、
「正解は複数ある」と言えます。

逆のケースを考えましょう。

私がショウさんの今の状況を知っていれば、
もうちょっと的確なことが言えるとは思うのですが、
あくまで思考実験としての話しをします。

仮にショウさんが福音主義の教会に通っているとしましょう。
そして牧師は教団の神学校で
重要な役割を担っているとしましょう。
その牧師に相談すれば、かなりの高確率で、
「献身とは素晴らしい」
という肯定的な答えが返ってくるでしょう。

それもまた一つの真実です。

しかし忘れてはいけないのは、
それが「その牧師にとっての真実」であるということでしょう。
もし「これが(普遍的な)神の御心だ」
と言い切るような牧師ならば、
悪いことは言わないので別の教会に移ることをオススメします。

他者の人生に対し、神が何かを示されるとき、
その示され方は「責任の同心円状」に重要度が増します。
その選択のリスクを負う人間から順に、
神から語られたことの重みが決まる、ということです。
これは大原則として覚えておいた方が良い。
あんまり親しくもない人から、
「あなたはこれをした方が良いと思う。
 神が語っているように感じる」
と言われるようなときは、
眉毛に唾を厚ーく塗りましょう笑。

ショウさんのケースですと、
ショウさん自身が最大のリスクテイカーです。
だとしたら、神が語られる重要度は、
ショウさん自身が最大になります。
もしショウさんが結婚していたら、
間違いなく次は奥さんでしょう。
次に子どもたち。
結婚していなければ家族、、、
という風に、責任の同心円は広がります。

牧師はその責任の同心円において、
重く見ても会社の上司と同じぐらいでしょう。
だとしたらそのアドバイスは、
断定的なものであろうはずがありません。



▼▼▼自己肯定バイアス

話しを戻します。
この手の事に関しては、
誰に相談したとしても、
出てくる意見は、
「その人自身の現実」である。

人は何かを語るとき、
「何か」についてではなく、
実はその人自身について語るからです。

では、「その人自身の現実」とは何か?

もう一つ覚えておくと良いのは、
年を重ねるほど、
人は「自分の選んだ人生は正しかった」と思いたいのです。
そうしないと、「やってられない」じゃないですか笑。

「サンクコスト問題」といいまして、
これまでの投資が台なしになるという事を人は受け入れられないので、
「今までやってきた努力や投資を肯定するという結論」が、
考える前に「右脳」で決定されているのです。

DVを受けながらも「この結婚が正しかった」と思い込む人、
ブラック企業に勤めながらも、
「この会社に入ったのは間違っていなかった」
と、無理な労働を続ける人、
ちょっとカルト的で独裁的な教会で、
「信仰という名のハラスメント」を受けながらも、
「神がここに私を置かれたのだから、、、」
と歯を食いしばる人。

これらの人々の背後にあるのが、
「サンクコスト問題」です。
それによって「自己肯定バイアス」が働き、
自分の人生を肯定するという決断が、
右脳でなされます。
左脳はそれに「理由付け」するだけです。
左脳はかなりアクロバティックな理論を駆使してでも、
それを肯定しようとします。
その能力は驚くばかりです。

何を言いたいのか?

信仰者でもそうでなくても良いのですが、
「会社にとどまる」という決断をした年配者は、
若年の「会社から離れる」という人間に向かい、
自分の自己肯定バイアスに基づき、
「とどまった方が得だぞ」
「とどまった方が正義だぞ」
「とどまった方が幸せだぞ」
というアドバイスをするでしょう。

「会社を離れる」という決断をした年配者、
たとえば脱サラをして今は会社を経営している人や、
かつてサラリーマンをしていたが神学校に行き牧師をしている人、
こういった人を考えましょう。
そういった人は、同じ人間に向かい、
自身の自己肯定バイアスに基づき、
「チャレンジした方が良いぞ」
「後悔が一番ダメだぞ」
「会社という鎖から自由になるのは良いぞ」
というようなアドバイスをするでしょう。

なので、
「答え」を求めているなら、
この手のことは、
人に相談することで得られないと思うのがまず大切です。
しかし、人に相談することで、
「自分には気づかなかった視座」を得られることはあります。
「盲点を埋めていく」ことが出来る。
それによって、より多角的に物事を見た上で、
なおかつ決断するのであれば、
その決断は「どちらを選んだとしても正解」と言えると思います。
だって、それによって世界が広がり、
悩まなかった人より、悩んだ後の方が、
「賢くなった」のですから。



▼▼▼私の意見は?

前置きが非常に長くなりましたが、
私の意見はどうか?

私は特殊な人間で、
私は自らの自己肯定バイアスを、
「割り引いて」考えることが出来ますから笑、
「分からない」が答えです。

あのとき、市役所を辞めて良かったなぁ、
と思うこともあれば、
やめなきゃ良かったなぁ、と思うこともある笑。

やめなきゃ良かったなぁ、
と思うのは、やはり節約してても、
「今月の生活費」が苦しいときや、
団体運営が先行き不透明なときでしょうか笑。
あるいは不動産屋や銀行で、
「社会的信頼が低い人」だと判断されたり、
面と向かって「公務員やめるなんてもったいない」
と言われるときでしょうか。
相手が年配者だったりすれば、
なおさら揺れますよ。

西野カナよりも震えますよ、そりゃ。

市役所の職員というのは、
当事者たちはそう思ってないでしょうが、
「現代の貴族」です。
「人生のリスク」をすべて外部に押しやり、
自分たちの安泰を「至高の価値」として守っているのが、
公務員や官僚や巨大企業の在り方ですから。
ナシーム・ニコラス・タレブは、
この人たちのことを「フラジリスタ」と呼んでいます。
(詳しくは『反脆弱性』を読んで下さい。
 くっそ面白いですから、この本)

深ーい堀に囲われた城に住んでいるようなものです。

私のようなフリーランサーというのは、
城の周りに広がる城下町の、
さらに周囲に流れる川の河岸で、
鴨長明よろしく、掘っ立て小屋を建てて、
そこに生息するような「河原者」です。

ちなみに私が芸人にこんなにも共感するのは、
彼らもまた「河原者」だからです。
彼らもまた、かなり売れた人ですら、
住宅ローンは組めず、マンションも借りられないことも多い。
日本の「信用システム」は、
「官庁と大企業という名前」しか信頼しません。

個人の信用というのは非常に低い。
芸人やミュージシャンが同じマンションに固まって住む、
というのは、彼らが世間を見下しているからではありません。
世間が彼らを「信用」しないから、
彼らは自分たちのような人でも受け入れてくれる物件に、
固まって住むのです。
多くの場合そのマンションのオーナーは、
芸能人だったりします。

ビートたけしは、
「自分たちの職業は、江戸時代で言えば河原者」
とはっきり言っていますが、
彼には物事の本質が見えているのです。

「構造的に」世の中を見るならば、
フリーランスで生活する人というのは、
その人がどれだけ稼いでいるか、
どれだけ有能か、
どれだけ有名かにかかわらず、
日本という身分社会のピラミッドにおける、
「最下層」に位置します。
最上層は東電クラスの巨大企業と、
中央官庁と地方公務員です。

コレホント。
なので私が今の働きをするために、
「失ったもの」「賭けたもの」は、
決して小さくはない。

そんなことは言われなくても分かってるんで、
年配者などから「あなたは大きなものを失ったんだよ」
と改めて言われると、
けっこうみぞおちにダメージを受けるわけですよ。

では、今の仕事を選んで良かったなぁ、
一般に言われる「献身」して良かったなぁ、
と思うのはどんなときか?

そりゃ無数にあります。

まず、毎朝妻の顔を見るたびに思います。
私は公務員をしていたら、
妻のような「献身者」と結婚できなかった。

これって、自己言及のパラドックスを含むから、
自覚しづらいのですが、
あるとき私は「はた」と気づいたのです。
20代の間、ずーっと結婚相手のために祈ってきて、
「自分自身が宣教師になっても良いと思っているような、
 献身した女性」と結婚したいと思っていました。
でも、待ってください。
仮にそうだとするなら、
その女性は「安定を求めて公務員と結婚するような女性」
でしょうか?

きっと違います。
その女性は「宣教の働きに人生を投じている男性」
と結婚したいような女性であるはずです。

、、、という論理を逆に辿ると、
私が公務員であり続けている以上、
私は自分が結婚したいような女性とは、
永遠に結婚できないことに気づいたのです。

私は川にカレイを釣りに行く愚を犯していました。

今だから言えるのですが、
私が宣教の世界に身を投じた、
半分ぐらいはこれが理由でした。

そして、毎朝思います。
豊かではない収入の中、
妻がこつこつと献金を貯めて、
誰かに施しをするのを喜んでいる時。
人々への奉仕に喜んで時間とエネルギーを使っているとき。
子どもに、「神を第一にする教育」をしているのを見るとき。
私が教会に仕えるために出張するのを、
自分も行くような気持ちで送り出してくれるとき、
「あぁ、私が選んだ人生は間違っていなかった」
と思います。

ぶっちゃけて言うと、
私が公務員を続けていたならば、
私はクリスチャンじゃない人と結婚していた可能性も高かった。
当時の状況を鑑みるとそれは、
「あり得た人生」です。

その場合、41歳の私は、
離婚していない自信がありません。
あらゆる意味で価値観が違うでしょうから。
特に教育とお金の使い方、時間の使い方で、
決定的な亀裂が生じていたでしょう。

あー怖ろしい、と思います。

それから、これもよく似ているのですが、
自分の友人たちを見て、
「あぁ、彼らは本当に、
 神の前に自分を捧げた、
 尊敬すべき人たちだなぁ」
としみじみ思うときですね。

これも同じです。
私が先に行動したから、
彼らに出会ったのです。
「こんな友だち(伴侶)に出会いたい」
と思う人は、自分が「そんな人間」に、
先になることでしか目的を達成できません。

スコット・ペックという人が書いた、
「The Road Less Traveled」
という本があります。
邦訳タイトルがひどくて、
「愛と心理療法」という謎の「超訳」なのですが、
原題の直訳は「歩く人の少ない道」といいます。
ちなみにこの本、内容は素晴らしいです。

、、、で、
私は「歩く人の少ない道」を歩いたのです。
そうするとその道で出会う人は、
「歩く人の少ない道を歩くような人たち」です。
その人たちは本当に「献身」しています。
自分にはもったいないと思うような友人たちに、
私は人生で出会い続けていますが、
それは私が「こういう道」を歩んでいるからです。

モーセはエジプトで王子でしたが、
イスラエルの民と苦しむ方を選びました。
私も「貴族(公務員)と戯れる」
よりも、この世の中で弟子として生きている、
無数の仲間たちと茨の道を旅することを選んだのです。

あ、これ、公務員とは付き合わない、
という意味じゃないですからね。
もっと「生き方」の問題です。
公務員のなかにも弟子として生きている本物の献身者がおり、
牧師のなかにもリスクを外部に押しつけ、
城壁に囲まれた城に住む「フラジリスタ」がいます。

コレホント。

フラジリスタ(リスクを負わない人)の象徴として、
私は公務員のメタファーを使っただけです。
誤解なきよう。



▼▼▼献金の話し

、、、あと、もし私が身近な誰かから、
ショウさんの質問と同じような相談を受けたら、
絶対に聞くだろうことがあります。

それは意外かもしれませんが、これです。

「ところで、
 什一献金はしている?」

ですね。

あまり「献身」する人に、
この質問する人はいないかもしれませんが、
私は絶対にします。

なぜか?

「献金」というのは、
言葉や気持ちの高ぶり以上に、
その人の「神への献身」を、
正確に表す指標だと思うからです。
賛美集会で涙を流しながら歌うことよりも、
忠実に献金をしているかどうかのほうが、
「正確な献身の指標」になります。

マジで。
これは自信がある。
イエスも言ってます。
「あなたの宝(=お金)があるところに、
 あなたの心がある」って。

「神の為に人生を捧げます!」
「ただ、什一献金はちょっと待って下さい。」
これって悪質なジョークでしょ笑。

「神のためなら死ねます!」
「、、、でも、什一献金は、ちょっと私には無理です。」
言っていることが破綻しているでしょ。

私自身は「牧師」ではありませんが、
フルタイムで教会のために働く人間、
という意味では彼らと召しを共有していますし、
牧師の友人・知人がたくさんいますから、
彼らの生活や人生がどんなものかも知っています。

それを踏まえますと、
牧師である(献身する)というのは、
一回の決断ではありません。
牧師であり続けるという献身を、
一生し続けるような、
死ぬまで続く「選択の過程」だと私は思います。
そしてその「断続的な選択」は、
非常に難しい選択です。
急な勾配の上り坂を、
生涯登り続ける、
というような人生を覚悟しなければならない。

どういうことか?

いのちのことば社が出している、
データブックによりますと、
日本のキリスト教会の教職者の平均年齢は、
2009年の時点で61.6歳、
2015年には67.8歳だそうです。
当該書には信徒の年齢構成も、
これと大差ないと予測されています。

▼参考リンク:データブック 日本宣教のこれからが見えてくる キリスト教の30年後を読む 
http://amzn.asia/b5tFRpv

以来「教会が劇的に若返った」
という話しは寡聞にして聞いていないので、
おそらく2019年の教職者および信徒の平均年齢は、
70歳代に足を踏み入れるぐらいのところまで行っているでしょう。

何が言いたいのか?

教会の「業界」というのは、
老いていく日本にあって、
さらに老いていく業界です。
この趨勢は止まらないでしょう。

「俺が止めてやる」
という気概はあっていいのです。
いや、むしろあるべきです。

しかしこれまで当メルマガで繰り返してきたように、
止めるのは人間ではなく神様です。
そして神様のタイミングは人間と違うので、
そのタイミングが生きているうちに訪れるとは限りません。
50年後かもしれないし、
100年後かもしれないし、
200年後かもしれない。
、、、
あるいは5日後かもしれない。

とにかく、
「神様のアジェンダ」というのがありまして、
それは人間の計画する時間=クロノスとは一線を画する、
神の介入するタイミング=カイロスで決まります。

こういうことを言うと、
めちゃくちゃ怒る人がいるのを承知で言いますが、
上記の理由により、
(神の計画を計算に入れず)普通に考えれば、
教会は「斜陽産業」であり、
「撤退戦を戦う覚悟」が必要です。

金銭的な見返りはほとんどない
(経済的な危機に陥るリスクが逆に高まる)し、
牧師はうつ病になるリスクが他の職業に比較して、
非常に高い職業のひとつであることも分かってきています。
(『Pastors At Risk(未邦訳)』という本に詳しい。)

近くで牧師を見ていて思います。
そりゃそうだよ、と。
生身の人間が持ちこたえられるレベルを超えています。
若いうちから「平均年齢70歳」の信徒に、
「先生、先生」と呼ばれ、
その人たちを教え導くことを期待される。
そして、批判の矢面に立たされる。
模範的な信仰者でなければならない、
というプレッシャーを内外から感じる。
スーパーマンでもぶっつぶれますよ、そりゃ。

「什一献金すら躊躇する人」に、
これが果たせるとはとうてい思えません。

だから「芸人に引導を渡すため」に、
島田紳助が「M-1グランプリ」を始めたように、
将来人生が破綻してしまわないために、
私の知人が「献身したい」と言ったら、
まず私は聞くでしょう。
「ところで、什一献金はしてる?」と。

、、、というようなことを踏まえ、
「キリスト教会という業界への献身」は、
前途有望な若者が、
進んで身を投じるような業界ではありません。
私が信仰者でなければ、
間違いなくそうアドバイスするでしょう。

、、、しかし、私は信仰者です。

なので、まったく別の切り口から話しましょう。
今までの話しは「此岸(こちら側)」からの話しです。
これからする話しは「彼岸(あちら側)」からの視点です。
今までの話しは大金持ちの門の前で、
ひもじい思いをしていたラザロの話し、
これからする話しは、
アブラハムの懐に抱かれたラザロと、
ラザロに水を一杯分けてくれるよう、
アブラハムに頼む大金持ちの話です。
「こちら側(この世の報酬や評価)」と、
「あちら側(天における報いと評価)」は、
しばしば180度逆転するのです。

何から話しましょう?

人間には、「召命」というものがあります。
マルティン・ルターは職業を、
「ベルーフ」と呼びましたが、
これは「calling(召命)」という概念です。

「すべての人は神から、
 『何かしらの役割を果たすために』造られたのだ」
という考え方です。
エペソ人への手紙2章10節がこれをサポートしています。
私たちは良い行いをするために神によって造られたのです。

この御言葉の後半がもっと大事です。
「神はその良い行いをも、
あらかじめ備えて下さっているのです。」

どういうことか?

ある人の「ベルーフ」は医者です。
医者として患者を治すことが、
その人の召命です。
ある人にとってそれは教師、
ある人にとっては行政官、
ある人にとっては主婦、
ある人にとっては作家、
ある人にとっては美容師、、、

というように、
「神があらかじめ備えて下さったベルーフ」
に、私たちは導かれていくのです。

そして、
ある人にとってはそれが牧師であり、
ある人にとっては、
(私がそうであるように)、
超教派のキリスト教の働き人なのです。

このとき、
「備えたのが神」というのが大切です。
この世の教育は、
「職業は選ぶもの」と教えます。
日本国憲法第22条にも書かれています。
「職業選択の自由」ですね。

しかし信仰者にとっては、
職業は選ぶものであはりません。
主観的にはそうかもしれませんが、
信仰者にとって職業とは「神が選ぶもの」なのです。

私たちはそれを自分で選んだと思っているかもしれませんが、
実のところ、神が私たちを選んだのです。
ヨハネの福音書に書かれているとおりです。

つまり信仰者には、
「職業選択の自由」は実はない。
私たちはすべて「神に召されて」おり、
私たちが選んだのではないからです。
主観的には自分で選んだと思っていても、
やはり神が選んだのです。

これは結婚にも同じことが言えます。
主観的には「この人と結婚する」と選んだのですが、
じっさいのところ、神が選んで結び合わせたのです。
だから結婚は「それ自体召命」なのです。

佐藤優氏の
『人をつくる読書術』という本に、
チェコの神学者ヨーゼフ・フロマートカの言葉が引用されています。

→位置No.627 
〈フロマートカによれば、「召命」とは呼びかけであるといいます。
「召命は個人的な呼びかけである。
人間は自分の名が呼ばれているのを聞き、
それがまさに自分に向けられていると自分で認識する。
召命は神と人間との間の出来事である。
神は自ら人間に語りかけ、相手の人間を個人的に名前で呼ぶ」
『人間の途上にある福音――キリスト教信仰論』新教出版社
 (中略)
「使命は無条件である。
召命を受けた者は、
託された使命を進んで行うための条件を設けてはならない。
自分の使命にいついつまで、という期限も設けてはならない。
使命は生涯続くもので引退も休暇もない。
つまり、信徒は使命を人生のあらゆる状況で果たす。
・・・(中略)・・・
召命を受けた者は、
いかなる制限も条件もつけずに主に献身する。」(前掲書より)


、、、献身するというのは、
徹底した営みです。
モーセが靴を脱いだように、
「主権を明け渡す」のが献身です。

これって、
昭和の伝道者が、
「自分の靴も買えず、
 四畳一間に住み、
 路傍伝道に明け暮れた。
 休みもなく、
 寝る間も惜しんだ」
みたいな「武勇伝」を語りますが、
そういった分かりやすい図式の徹底のみを指すのではありません。

ポストモダンの現代社会で、
「この世の価値観ではまったく理解できない、
 暴挙としか思えないような選択をし続けること。」

「斜陽産業であることが目に見えている、
 キリスト業界に前途有望な若者が身を投じること。
 社会的評価もされず、金銭的な見返りもなく、
 途中で燃え尽きてうつ病になったりしながらも、
 それでも『教会を愛するゆえ』とかいって、
 周囲の同世代や自分より若い人々、
 自分より年上の人、
 つまりあらゆる世代から白眼視され、
 いぶかしがられながら、
 それでも神からの召しを確信し、
 人生を捧げ続けていること。」

「『才能の無駄使い』とか言われても関係なく、
 誰一人理解せず、褒めてくれなくても、
 そのように召されたのだからと、
 結果が伴わおうとそうでなかろうと、
 ただ一途に神が託された働きに打ち込むこと。」
ということも、
昭和の伝道者とおんなじぐらい、
もしかしたら精神的には、
それよりもキツイ道を歩むことになる。

それでも、献身する、というのが献身です。
でも、「選ばれた」のだから仕方ない。

選んだのなら話しは違う。
でも選ばれたのだから仕方ない。

選んで下さった方を信頼するしかない。
そういう営みが「献身」です。
そしてその報いは大きい。
控えめに言っても大きい。

それはこの世での成功とはまったく性質を異にします。
巨大な教会を建て上げた人や、
事業を立ち上げ成功した信仰者のビジネスマンが、
天ではまったく評価されず、
離島で5人の集会を導き続けた牧師や、
ビジネスに失敗し、
道路警備員をしながら死ぬまで借金を返し続けた男が、
天国で高い評価を受けている、
ということが起きる。

彼岸と此岸では評価軸が違うのです。
その評価軸とは何か?
一番の違いは此岸(この世)は結果を見、
彼岸(天国)は「忠実だったかどうか」、
だけを問題にするということです。

本当に、それだけなんです。

だから私は自分が人から評価されるかどうかについて、
本当に心の底から「どうでもいい」と思っている。
そこは私の主戦場ではないから。

話しを戻すと、
忠実に献身し続けた人の、
天での報いは大きいです。
だから、前途有望な若者が、
神の為に犠牲を払うという決断を、
私は心から祝福します。

これが先ほどの、
「常識的な自分」としての私の意見とは違う、
信仰者としての意見です。


▼▼▼成功するわけではない、という話し

あと、けっこう誤解されやすいのが、
「献身すれば成功する」という偽りの物語です。
「勧善懲悪的世界観」と言っても良い。
心理学用語で「公正世界信念」というのですが、
「正しいことを行えば上手く行くはず」
という「世界観」を、人間は深層心理の中に堅く持っています。

そうするとどうなるか?
信仰者の場合、このバイアスはこう働きます。
失敗した人、苦しむ人を見て、
「その人はきっと神に従わなかったに違いない。」と。
開拓伝道をして、それが上手く行かなかった場合、
「あれはきっと神に聞き間違えたのに違いない。」と。

この過ちを犯したのが、
ヨブの3人の友人たちです。
「正しい人が苦しむ」のを見ることに、
彼らは耐えられなくなったのです。
「世界は公正でなければならない」というバイアスが、
「ヨブは神に逆らったに違いない」
という結論に彼らを飛びつかせました。

結果、この3人の友人は、
後でこっぴどく神に怒られることになります。
ヨブは正しかったのですから。
正しかったが、なお苦しんだのです。

、、、何を言おうとしているのか?

神に忠実に従う決断をしたからといって、
「成功や幸せ」が用意されていると思わないほうが良い、
ということです。
運良くそうなることもあるでしょう。
しかし、「従順だったこと」と、
「幸せで成功していること」は、
まったく関係ありません。

ダニエルの友人たちは火の中に入る前に、
「たとえそうでなくても」と言いました。
「きっと神は護って下さるだろう。
 しかし、たとえそうでなくても私は神に従う」
と彼らは考えました。

それがとても大切です。

私は神に従ってきた(と自分では思っている)けれど、
燃え尽きてうつ病を患いました。
あのときに死んでいたかもしれない。
うつ病の致死率は心筋梗塞とかと同じぐらい高いので、
死んでても全然不思議ではない。

ただの悲劇です。

でも、それでも従うということに価値があると思えるかどうか、
というのが大切です。
超教派の団体で働くセルフサポートの働き人の中には、
献身し続けたいけれど、
資金的に行き詰まって、
もうこれ以上働くことが出来なくなる、
ということも起きます。
牧師にも同じようなことは起きます。
なんたって「斜陽産業」ですから。

私も将来そうなってもまったく不思議じゃない。
きっと悔しいし、無念だろうなぁ、と思います。

でも、「それは失敗だったのか?」

そうじゃないんです。

「従った」ことが大事なんです。
天ではそれだけが問題になるのです。

あるいはもちろん、
とっても幸せになるかもしれない。
でもそれは「二次的な問題」です。

一つだけ確かなのは、
「従った結果としての幸せ」を問題にする態度だと、
相当に危うい土台の上に、
献身という建物を建てることになりますので、
「神を恨んで終わる」みたいな、
最悪の結果を招きかねません。



▼▼▼「牧会者」のなすべきこと。

、、、あとひとつ。

一応付言しておきますと、
先ほど引用したフロマートカが語った社会状況と、
21世紀の職業を巡る状況は違います。

人生100年時代に、
あらゆる人は人生で複数の職業を渡り歩くことになる。
「講壇で死ぬことが美学」みたいな意味で、
「定年も休息もない」というように解釈するのは、
私は無理があると思います。

たとえば90歳の牧師が現役で、
「講壇で死ぬ」みたいな態度でいると、
大変申し上げづらいのですが、
若い人々にとっては、
「迷惑」ですらある。
「引退してもらう」ために、
「誰が猫に鈴をつけるか」みたいな話しを、
役員会にさせている高齢の牧師を生む、
という意味で、
「死ぬまで現役」
「伝道者に休日はない」
みたいな前時代的な「献身観」は、
アップデートされねばならない、
と私は考えています。

サラリーマンが牧師になって、
そしてもういちど会社員に戻ってもいい、
と私は思います。
それでも「神の普遍的な召し」は変わりません。
「召し」というのは牧師という固有の職業に付随するのでなく、
その人の「生き方」に付随するからです。

その「生き方」とは何か?
それは「牧会的な生き方」です。
ペテロにイエスが「私の羊を飼いなさい」
と3度念を押しました、
その呼びかけにYESという生き方です。

(人間から)誰にも頼まれていないのに、
勝手に群れ(教会)に、責任をもっちゃう人のことを、
「牧者の心を持つ人」と定義しますと、
これは職業と関係ないことが分かります。

職業的な牧師でありながら牧者の心がない人がおり、
牧師という職業ではないが、
牧者の心を持つ人がいる。

神の目から見た「牧師」は後者です。

そう考えますと、
ショウさんは、
現在の仕事をしながら、
「同僚を牧会する」という生き方を選ぶことも出来る。
職業的な牧師になってみることも出来る。
一定期間牧師と働き、
そのあとでまた別の領域で、
牧会的な生き方をすることも出来る。

「職業選択が一回性のもの」
というのは20世紀までの考え方ですから、
自分のキャリアを考えつつ、
神学を学ぶことや、
職業牧師を(少なくとも一度)経験することが、
自分の「ベルーフ」を織りなす上で、
「投資に見合うメリットがあるかどうか」
というドライな視点を持つことも大切になります。

繰り返しますが
「講壇で死ぬ!」
というのは言葉としては、
「献身している風」でかっこよいですが、
「死ぬまで経済的に教会のお世話になる!」
という宣言とも解釈できますので笑、
ちょっと危険でもあるわけです。

多分誰も言わないだろうから私が言うのですが。
こういう「虎の尾を踏む」のが得意なので笑。

でも、これを言っておかないと、
「若い献身者」の将来が尻すぼみになったり、
デッドエンドになったりすると危惧しますから、
彼らの利益のために私は言います。
上の世代からカンカンに怒られても言います。

関係あらへん。
私はそのあたりの利害関係者じゃないので笑。

どちらを選んだとしても、
ショウさんの心の中に、
「神学校に行って牧師になることを検討する」
という思いがあるということは、
ショウさんに「牧者の心」があることの証左だと、
私は考えます。

そうしますと、
それを社会のなかで、
「在野の牧師」として実践するのか、
職業的な牧師としてするのか、
はたまた別のクリエイティブな方法を、
ショウさんが編み出すのかは分かりません。

無責任に聞こえるかもしれませんが、
私の知ったことではありません笑。
そしてなんと、
ショウさんの知ったことでもないのです。

だって言ったでしょ。
選ぶのではなく、
選ばれるのですから。
神が選んだものを、
人間がとやかく言うものではありません。

、、、で、
神にどのように「選ばれた」としても、
「牧者の心を持つ者たち」に、
有効であろうアドバイスを、
最後に私は送ろうと思います。

ヘンリ・ナウエンの『イエスの御名で』という書籍があります。
これは、現代のキリスト者のリーダーが、
いかに生きるべきか、ということについての思索です。

引用します。

〈こういうことを申しますのは、
これからの時代のクリスチャンの指導者は、
まったく力なき者として、つまり、
この世において、弱く傷つきやすい自分以外に、
何も差し出すものがない者になるように召されている、
ということを言いたいのです。

・・・クリスチャン指導者の辿る道は、
この世が多大な精力を費やして求める上昇の道ではなく、
十字架にたどり着く下降の道です。

・・・私は、皆さんの心にあるイメージを残して、
ここを去りたいと思います。
それは、手を伸ばし、
あえて下降する生涯を選び取る指導者のイメージです。
・・・祈る指導者、傷つきやすい弱さをもった指導者、
主に信頼を置く指導者、という事も出来ます。

・・・自分の能力を示そうとする関心から祈りの生活へ、
人気を得ようとする気遣いから、
相互になされる共同の働きへ、
権力を盾にしたリーダーシップから、
神は私たちをどこに導いておられるかを
批判的に識別するリーダーシップへと、
私たちが移行することをイエスは求めておられます。〉


、、、「降りていく生き方」をすること。
「自分の傷をさらけだし、
 それによって社会の癒しの源泉とすること」
「自分の弱さ以外に何も差し出すもののない、
 傷つくリーダーになること」
こういったことを覚悟出来るのなら、
その人はすでに「現在いる職場において牧師」ですし、
その人が職業牧師になったとしても、
本当の牧者となっていかれるでしょう。


、、、私の個別の話しを今回しなかったのは、
たぶんまったく参考にならないだろうからです。
神の召しは「個別なもの」なので、
これを話してもあまり意味はありません。

あと、この「問題」に、
答えはありません。
「答えがないというのが答え」
っていう問題が人生にはいくつかあります。

その場合、
「それを考え抜き、祈り抜き、
 他者と語り合う過程を通して自らの内面が変化し、
 キリストの弟子としての新しい風景が見えてくる」
というような「弁証法的成長」を体験出来るかどうか。

これが唯一の正しい対処になります。

FVI主催の「よにでしセミナー」はそういう、
「弟子としての思考のスキル」を養う場所です。
今年の「よにでしセミナー」は、
淡路島で開催予定です。
愛知からだとそんなに遠くないので、
ぜひショウさんも参加してみては??

という宣伝で終わりました笑。
ステマかよ、っていうね笑。

、、、多分過去最高に、
長く質問に答えましたね。

肝心のショウさんさえも、
長い話しに飽きてもう寝てるかもしれませんが笑、
最後まで読んで下さった方、
ありがとうございました。

この話題は、
11年間ずっと考え続けてきたので、
どうしても熱量が高くなっちゃうんですよね。
調節出来ない。
熱く語る以外できなくなってる笑。

もう飽きたよ、
という方はすみませんでした。
次の質問に行きます。

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