カテゴリー

検索

便利な「検索」機能の使い方

上の検索バーに、「vol.○○」あるいは、「●年●月●日配信号」などと入力していただきますと、カテゴリ別だけでなく配信号ごとにお読みいただけます。

また、ブログ記事のアップロードは時系列で逐次していきますが、「カテゴリ別」表示をしますと、「Q&Aコーナー」だけを読む、あるいは「先月観た映画」のコーナーだけを読む、などの読み方が可能です。

スマートフォン

この他の活動媒体

●9年間続くブログです。↓
陣内俊 Prayer Letter ONLINE

●支援者の方々への紙媒体の活動報告のPDF版はこちらです↓
「陣内俊Prayer Letter」 PDF版

【Q】面白いと思う人

2019.12.03 Tuesday

第092号   2019年5月21日配信号

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 Q&Aコーナー

皆さんからお寄せ頂いた質問にお答えするコーナーです。

日頃の悩み、疑問、今更誰かに聞けないギモン、、、、
質問の種類は問いません。お気兼ねなくご質問をお寄せください。
ご利用は下記に基づいてご利用いただけると幸いです。

【Q&Aについて】
▼全てのご質問にお答えすることはできません。予めご了承ください
▼いただいたご質問は、ブログ・FVIメディアルームに掲載される可能性があります
▼本名での投稿の場合は「ペンネーム:無し」となります
▼必ず下記フォームからご質問を送信ください

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

【Q&Aコーナー専用フォーム】

▼URL
https://www.secure-cloud.jp/sf/1484051839NyovBkYI

※大変お手数ですが一つの1メール1質問を原則とさせてください。
ご協力宜しく御願い致します。

※頂いたメールはすべて目を通しております。
陣内俊への要望やメルマガの感想、激励などももちろん大歓迎です!

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


●【Q】面白いと思う人について

・ペンネーム:サザエ(女性)
・お住いの地域:千葉県

Q.

陣内さん、こんにちは。
いつも為になる本のダイジェストや、
なるほど面白いコメント満載の
メルマガをありがとうございます。

質問です。

惹かれる人、魅力的だなぁ、
なんかこの人いいなぁってと思う人を3人くらい教えてください。

何でかというと、友達や同僚や親戚が、
すごく優しく親切だけど、
教会に対しては分厚い壁を持っているのを感じるとき、
クリスチャンである自分や伝統的な教会に、
引きがないのかなぁと思ってしまいます。
ほとばしるキリストの魅力や、
造られたその人らしい良さがあんまり現れてないからなのかなと。
クリスチャンで、広い視野と社会とのバランスを持ってる
(と、思ってます)陣内さんの
個人的な意見を聞いてみたいなと思いました。

よろしくお願いします。


A.

サザエさん、
ご質問ありがとうございます。

まず「3人の面白い人」を、
とのことですが、
知り合いだとちょっと許諾が必要なのと、
「みんな面白いし魅力的です」
という模範解答になってしまうので笑、
かなり難しいですね。

一般論から言って私の場合、
「この人と友だちになりたい」
と思うタイプの人というのは、
けっこう他の人と違い偏りがあります。

私は「思索的」な人と波長が合うので、
その人がキリスト教徒だろうが仏教徒だろうが、
ヒンズー教とだろうが無神論者だろうが、
「そもそも自分の考えていることとは、、、」
というメタ的な内容を話せる人と出会うと、
「この人とアポイントを取ってまた語り合いたい」
と思います。

これは「どれだけ本を読んでいるか」
とは無関係です。
まぁ、そういった人は、
たいてい本を読んでるんですが。

ただ、本をたくさん読んでるけど、
思索的ではない人もいます。
特定のジャンルの信仰書以外読まないとか、
自己啓発的ビジネス書ばっかり読む、
といったタイプがそれで、
「自分の思考を追認する言説による自慰行為」は、
思考を深めませんので、
こういった人は、年間100冊読もうが、
私の定義する「面白い人」にはなりません。


▼▼▼有名人だと、、、

今度は有名人で考えてみましょう。
ぱっと思いつく魅力的な人は、

1.佐藤優(作家)
2.レブロン・ジェームズ(バスケ選手)
3.若林正恭(お笑い芸人)

ですかね。
来月聞かれたら、
全員入れ替わってるかもしれませんが笑。
この中で明確にクリスチャンと分かってるのは、
佐藤優氏だけです。

しかし、
ベルジャーエフがドストエフスキーについて、
「ドストエフスキーは、
言葉の最も深い意味におけるキリスト教的作家であった」。
と言っています。
彼の表現を借りますと私が惹かれるのは、
「言葉の最も深い意味における、
 キリスト教的な人間」です。
その人に「キリスト教徒」という、
ラベルが貼られているかどうか、
というのはあまり重要ではない。

佐藤優は、その教養の深さと知識の厚みが凄い。
私があと3回人生を生きても到達出来ないでしょう。
なおかつ「この世界のことをキリスト教の観点で語る」
という「働き」において、
私が「モデル」としている人物だからです。
あまり誰もそう思ってないでしょうが、
私がこのメルマガやYouTubeでしていることと、
佐藤優さんが年間何十冊も本を書いてしていることは、
かなり近いと自分では思っています。

レブロン・ジェームズは、
クリーブランドのアクロンという、
スラム街で16歳のシングルマザーから生まれました。
彼は10億に一つというぐらい恵まれた身体能力を用い、
バスケ選手として「地上最強」の地位を手にしました。
その富と名声を彼は「利他的に」使っています。
アクロンに学校を設立し、
貧しい子どもたちの財団を運営しています。
また、人種差別撤廃のために、
発言するべき時にはしっかり発言し、
トランプ大統領からは毛嫌いされています笑。
レブロン、大ファンです。
彼の利他的で公益に資する生き方が、
「言葉の深い意味におけるキリスト教徒」だからです。

若林正恭は、
彼の本を読むと分かりますが、
非常に思索的です。
私と同世代なので、
その悩み方も私と似ている。
「深い部分で物事を疑い、
 批判的・複眼的に世の中を眺める。
 そしてそれを言語化し他者に伝達する」
という営みにおいて、
現代世界では芸人は他の業種を引き離している。
そんな「世の中のアウトサイダーとしての芸人が、
この世の中をシニカルに語りつつ、
自我の煩悶を言葉にする」とうような、
かつてビートたけしとかがしていたことを、
今は若林世代が上手にしています。

その意味では又吉直樹や山里亮太も、
このジャンルに入ります。
キリスト者というのは、
「世の中のあたりまえ」を疑う人です。
根源的に物事を考え、
批評的に洞察し、それを言語化します。
「預言的な生き方」とはそういうことです。
その意味で彼らもまた、
「言葉の深い意味におけるキリスト教徒」なのです。


▼▼▼因数分解すると、、、

さて。
今申し上げたようなことを踏まえながら、
自分の経験に照らし合わせ、
敢えて「私の考える面白い(魅力的だ)と思う人」を、
定式化してみますと、
以下の3つになるかと思います。

1.自己開示出来る人→自己受容できる人
2.影響される人
3.愛する人(与える人)

まず1の自己開示。
これはねぇ。
けっこう人間関係の「核」にあると思います。
人は、「相手が自己開示した度合いに応じて」
自分も自己開示する生き物です。

自分の心の中の最も柔らかく傷つきやすい部分や、
自分の過去の経験の最も深く暗い闇を、
他者に開示出来る人は、
他者もまたその人に、
自分の心の中の最も深くまで分かち合っても大丈夫だ、
という安心を与えます。

ショウさんの質問への回答で、
最後に引用した、
ヘンリ・ナウエンの文章の、
「自らの弱さを癒しの源泉とする」
というのは、今言ったようなことも含みます。

「深い絆で結ばれた親友がほしい」
と誰しも思います。
それには実は条件があって、
自分自身が「勇気を振り絞り自己開示する」
ということによってしか出来ません。
自分の心のバリアを解いた度合いに応じて、
他者も自分に対し、心のバリアを解いてくれるからです。

それを「弱さの証拠」と見る人もいるでしょう。
アメリカのような「勝利主義的社会」ではなおさらだし、
日本でも、特に昭和世代の男は、
そういったことをしないのが男らしさだ、
と教えられてきました。
弱さを開示すれば、
あざ笑われることもあった。

今でもある。

でも、「そんなのはどうでもいい」と、
自己開示出来る勇気を持つ人は最強です。
必ず親友が出来ます。
100人があざ笑っても、
必ず1人親友が出来ます。
1人親友がいる、
というのは金融資産に換算すると、
1000万円ぐらいになるという学者もいます。

では、どうすれば自己開示出来るのか?

それは、「自己受容」出来ている必要があります。
弱い自分や暗い過去を自己受容できている度合いに応じ、
人は自己開示出来ます。

(もちろん常識的な社会的コードに従って)
自己開示出来る人を、人はバカにしながらも、
心の底では実は尊敬しています。
なぜか?
それはその人が弱さや傷やトラウマにもかかわらず、
自己受容に至った、という、
「魂の旅路における勇者だ」
ということが無意識に分かるからです。

次行きましょう。

2の「影響される人」
人は、影響される度合いに応じて人に影響を与えます。
影響は「フロー」であってストックではありません。
「ものすごい影響力がある人」がいて、
その人から影響力の波動が同心円状に広がる、、、
というのは正しいイメージではない。

影響力は「川の流れ」に似ています。
自分が影響を与えられた、
と思う人(Aさん)がいたら、
必ずAさんの上流には、
Aさんに影響を与えた誰かがいるのです。

私たちが影響力ある人間になりたいと願うなら、
私たちは「大いに影響を受ける」人間である必要があります。
これは実は怖いことで、
「自分の核まで揺らいでしまうのでは?」
という恐れを持っていると、
影響される渦の中に、
自分を投じることが出来ません。

たとえば自分とまったく違う意見を持っている人と、
面と向かって話し合ったり、
自分が信じているのとは
真逆の主張をしていることが分かっている本を、
手にとって読んだりすることが出来ないのです。

だって、読んだり話したりしたら、
その後で自分の意見が変わっちゃうかもしれないから笑。

私は、それでいいと思います。
いや、それこそがいい、と思う。

自分の意見がちょっとでも変わらないような本を読んだり、
その後に自分が影響を受けないような話し合いをしたりして、
逆にどこが面白いんだろう、
と私なんかは思うわけですよ。

では、私はアメーバのように「かたちがない」ものなのか?

違います。

私は自分の最もコアな部分、
つまり「言葉の深い意味におけるキリスト教性」について、
揺らがぬ信念を持っています。
それは自分が握っている必要すらなく、
神が握っていてくれている。
その部分が確かだから、
それ以外の部分については、
どれだけでも柔軟に考えることが出来る。

逆だと思っている人が多いですが、
頑固な人って、信念が強い人ではありません。
頑固な人は信念に自信がないから頑固なのです。
信念が強い人は今申し上げた理由により、
逆に柔軟になります。

その柔軟さは「影響される」につながり、
それが影響力になります。

これに若林正恭的な、
「根源から問う」が加わると、
根源にすら影響を受けるため、
人の根源に影響を与えることが出来るわけです。


3の愛する人(与える人)、
というのはもう、そのままですね。
なぜ「与える」なのか?
与えるという行為は、
言葉ではごまかしが利かないし、
雰囲気とかの話しではないからです。

リック・ウォレン牧師は、
「愛することなしに与えることは可能だが、
 与えることなしに愛することは不可能だ」
と言っています。
ショウさんの質問への回答で、
「什一献金」の話しをしましたが、
他者に寄付、献金、贈与する、
ということを有形無形にしている人は、
「愛する人」です。

私は愛する人に、
これ以上ない魅力を感じます。
その人はイエスに似ているからです。



▼▼▼非キリスト教徒が何に魅力を感じるか

サザエさんの質問の意図は、
「キリスト者が、
 宗教アレルギーの壁を乗り越えるほどに、
 魅力的であるためにはどうすれば良いか」
というような問題意識があると思われます。

この問題意識は正しい。

私は自分の職業人生の大半を、
「いわゆる伝道(宣教)」に捧げてきたわけですが、
その暫定的な結論は意外なものでした。

それは「伝道」しないほど伝道は上手く行く。
というものです。

今回は各方面から怒られそうなことばかり言ってますが、
私は「業界としてのキリスト教会」の、
利害を最優先とする立場にありませんので笑、
大切なことはトラの尾を踏んでもやはり言います。
私の利害は「神の国」にのみあります。
その前進のためならキリスト業界が怒ろうが、
気にせず言います。
キリスト業界が頑張ってることでも、
神の国と関係なければ、
顔に笑顔を貼り付けて全力でスルーします笑。

私の知る、ある海外の牧師は、
「業界としての教会」よりも、
「神の国」に感心がある人ですが、
「クリスチャンはヒモつきで愛すな」と言っています。
私のメンターのボブ・モフィットは、
「愛で操作してはいけない」と、
同じ意味のことを言っています。

どういうことか?

私たちが愛するとき、その愛が、
「教会に誘うための」
「その人をキリスト教徒にするための」
エサだったと分かったら、
愛された人はどう思うでしょうか?

私たちの誰も、
「操作(マニュピレーション)」されたい人はいません。
自分がされたくないことを、
他者にしたらダメです。

もっと言えば私は、
「伝道」されたくありません。
「伝道」ってだって、
「私は救いの道を知っている。
 無知蒙昧なあなたはそれを知らない。
 だからそれを教えて上げましょう」
ってことでしょ。

私は他宗教の人から自分がそうされたら、
ちょっと傷つきますし、さらに言えば困惑します

だから私は「伝道」しません。
これもめちゃくちゃ怒られそうですけど笑。

じゃあ、
「宣教という神の働きはどうなるのだ!」
というお叱りが当然予測されます。

でも、経験と直感から、
「伝道しない方が伝道は上手く行く」
という逆説的な答えが正しいのでは?
とうい手応えを私は得ていました。
じっさい、20年余の私のキリスト者としての歩みを通し、
「私を通してキリスト教徒になった15名ぐらいの人」
の誰一人として、私は「伝道」しませんでしたから。
*この15名というのは直接の影響によって、
という意味です。
間接にはもうちょっといると思います。

彼らは私と友人となり、知り合いになり、
一緒に時間を過ごし、一緒にご飯を食べ、
互いの人生の話しをし、
互いに影響を与え合いました。
あるとき彼らは教会に来るようになり、
そしてあるとき信じており、あるとき洗礼を受け、
あるとき一緒に祈るようになっていました。

そうとしか言いようがない。
「救いの道を教えましょうか?」
みたいなやりとりをしたことは一度もない。
逆にそっちのアプローチをした人で、
信仰を持った知人は一人もいません。
彼らは私から離れていきました。
きっと傷つき、困惑したのでしょう。
悪いことをしたと思っています。

でもね。

やっぱり「言葉による伝道=宣教」という、
広く信じられている定説に逆らうというのは、
ちょっとした罪悪感を伴いますし、
「自分は重大な神学的な誤りをしているのだろうか?」
と思ったりもするわけですよ。

こう見えて、けっこう真面目なので。

その罪悪感や逡巡が吹っ切れたのは、
『宣教のパラダイム転換』デイヴィッド・ボッシュ
『キリスト教とローマ帝国』ロドニー・スターク
という2冊の本を読んだのが大きかったです。

詳しく説明する時間はありませんが、
この2冊が言っていることを要約して統合すると、
こうなります。

1.「救いの道をあなたに教えて上げましょう」
式の「伝道(宣教)」というのは、
2000年間の宣教の歴史の中の、
「近代以降」というごく一時期に台頭してきた。

2.宣教というのはその時代に支配的な思想に影響を受ける。
19〜20世紀の「近代」というのは「大きな物語」が信じられ、
「正しい合理的な価値体系」がまだあると思われていた。
その時代に「キリスト教を合理的に説明する」
という「伝道」によるスタイルは有効だった。

3.近代が終わり「後近代」あるいは「ポスト近代」
と呼ばれる21世紀の世界で、
「合理的な説明・説得という伝道スタイル」が、
人々に訴求する力はますます失われてきている。

4.21世紀には「宣教」の在り方はこれまでとは、
違ったものになるだろう。

5.初代教会がなぜ、
200年の間に、数百名からローマ帝国の人口の12%にまで、
数を増やしたのか?
当時、「20世紀的な意味の伝道」という概念はなかった。

6.考古学的資料から分かるのは、
彼らは「伝道」によって増えたのではない。
彼らの「この世とまったく違う生き方」が、
あまりにも際立っていたため、
9割のそれをバカにする人と、
1割のそれに魅力を感じる人がいた。
その1割のなかには群れに加わる人もいた。
その積み重ねが100年で10000%、
という成長率につながった。

7.ちなみに「まったく違う生き方」とは、
・利他的で自己犠牲的な生き方
・夫が妻を大切にする(当時の常識では妻は所有物だった)
・雇用人が奴隷を大切にする(当時の常識ではあり得なかった)
などだった。


、、、これらを材料として考えた場合、
「欧米などのキリスト教圏」ではいざ知らず、
21世紀の日本は、
「多元主義的な異教世界だったローマ帝国」に、
文脈的共通性が大きいと考えます。

とすると、
ロドニー・スタークが書いた、
ローマ帝国における初代教会的なアプローチのほうが、
20世紀アメリカで発展した、
「言葉による伝道」のスタイルより、
端的にいって「ハマる」のではないかと私は考えます。

私の経験もそれを裏付けている。

ロドニー・スタークは宣教学者ではなく、
宗教社会学者です。
彼はモルモン教などの研究と、
初代教会の研究を総合して、
「改宗」は、改宗者が、
「合理的に納得したとき」に起きるのではない。
と結論します。

では、いつ起きるのか?

引用します。

→P33 
〈実際、改宗プロセスには他の要素も関係するが、
改宗における中心的社会学的命題は以下の通りである。
すなわち、逸脱的な新宗教への改宗は、
他の条件が同じであれば、人がそのグループの成員に対し、
グループ外の人々よりも強い愛着を持っているか、
持つようになったときに起こる。(Stark1992)〉


、、、サザエさんも指摘しているとおり、
標準的な日本人にとって「教会」という場所は、
分厚い心理的な壁を感じる場所です。
スタークの言葉で言えば、
日本人にとってキリスト教とは、
「逸脱的な新宗教」なのです。

これは事実です。
少なくともあと100年ぐらいは、
事実であり続けるでしょう。

ローマ帝国にとって、
キリスト教徒たちが、
「逸脱的な新宗教」だったのと同じです。


▼▼▼分厚い心理的な壁に関する考察

、、、では、この「分厚い心理的な壁」を、
どうすれば私やサザエさんは打ち壊せるのか?
あるいは乗り越えられるのか?
もしくは壁を「融解」するのか?
地面を掘って、壁をくぐるのか?

いろんな考え方があります。

スタークが指摘しているのは、
「逸脱的な新宗教」に属する人への愛着、
つまりクリスチャンの友人(知人・親族)との絆が、
非キリスト教徒の人々の「絆の総和」を超えたときに、
「改宗」が起きるということです。

サザエさんのご質問の本文にある、
「すごく優しく親切だけど、
教会に対しては分厚い壁を持っているのを感じる」
という所感はだから、
すごく優しく親切なひと「だからこそ」、
教会に対しては分厚い壁を持つ、
というほうが正確だと私は考えます。

どういうことか?

優しく親切で常識的で仕事が出来て、、、
という人というのは、
「日本」という社会コードに自分を上手に適合させている人であり、
それは「信頼と愛情と絆の総和」が高い人である可能性が高い。
家族にも近所にも親戚にも職場にも愛されている人です。
スタークの言う「グループ外の人の愛着の総和」が大きい。
そうすると、「逸脱的な新宗教のメンバー」である、
私やサザエさんのような人との絆を結んだとしても、
後者が前者を超えることはほとんどない。

その結果として、
「教会に対しては距離を置く」
ということになります。

これが、
「クリスチャンのように素晴らしい、
非キリスト教徒のほうが、
クリスチャンになりづらい」
という逆説的な現象の理由だと私は考えています。

では、サザエさんや私が、
そのような素晴らしい人たちを愛し、
彼らと絆を結ぶことは無意味なのか?

まったくそんなことはない、と私は思います。

スタークの論理を聞いてローマ帝国で起きたことは、
「キリスト者との絆」VS「非キリスト者との絆」
の「綱引き」であった、と解釈しがちですが、
私はそれは違うと思う。

そうではありません。
綱引きのメタファーは「ゼロサム」です。
全体の総和が常に等しい。
しかし本当は「プラスサム」で見るべきです。
全体の総和はふくらんで良いのです。

つまり、
非キリスト教徒の人を愛し、
彼らとの心理的絆を構築することの目的は、
綱引きに勝ち、彼らを教会に引っ張り込むことではない、
というのが私が強く主張したいことです。

私たちは社会と綱引きをしているのではありません。
私たちは社会に「価値」を加えているのです。
その「価値」の中身は何か?
無償の愛、絆、信頼、その他諸々です。

スタークは、
ローマ帝国でキリスト者が増えたのは、
「非常に異なった生き方が持つ魅力」だったが、
それが数的増加にまでつながったのには、
「きっかけ」があったと語っています。

その「きっかけ」とは何か?

それは「ペストの流行」でした。
当時のペストの流行は猖獗(しょうけつ)を極め、
町の人口の半分が死んだりしました。
そのとき、医者ですら町から逃げました。
ところがキリスト者は死を恐れていなかったので、
ペスト患者たちを最後まで看病しました。
逃げた医者の親戚がキリスト者に看病され、
親戚やその友人たちの一部は回復後キリスト者になりました。

全員ではありません。
しかし、ペストの流行のたびに、
確実にキリスト者の割合は増えました。
ロドニー・スタークは一次資料から、
そのようなことが無数に起きたことを実証します。

何が言いたいのか?

当時のローマ帝国には、
今の日本社会と同じで、
「良い人、素晴らしい人」もいっぱいいたでしょう。
彼らは良い人であるゆえに、
「ローマ社会」にたくさんの信頼関係を構築していた。
つまり「キリスト教外の社会」に大きな愛着を持っていた。
ところが「ペストの流行」により、
親しい人まで逃げてしまったりしたとき、
一気に「キリスト教外の社会との愛着」が目減りした。
逆に看病するキリスト者たちを見て、
「逸脱的な新宗教のメンバーとの愛着」が増大した。
「愛着の逆転」が起きたことにより、
彼らはキリスト者になりました。

やっぱ綱引きじゃん。

違います。
そうじゃない。
私たちは「操作」をしてはいけません。
「伝道のために愛する」というのは、
その実、まったく愛していないのと同じです。
だって、伝道のために愛されたい人、いますか?

私は嫌です。

そうじゃないんです。
「愛される側」から物事を見るのが大事です。
そうするとまったく違う風景が見える。
「綱引きの対象」になんて誰もされたくありません。
しかし、誰もが「セーフティネット」としての、
人との絆を求めています。
「信頼に足る誰かとの愛着」を、
たくさん持っていれば持っているほど、
この不確かな世界で、
生き残れる可能性が高まるからです。
「信頼の総和」が生きる上で大事であり、
キリスト者は愛することによって、
他者の「信頼の総和を増大させる」ことが出来る。
プラスサムなのです。

「ペストのようなこと」が起きて、
いつかその人はキリスト教徒になるかもしれない。
そんなことはついぞ起きないかもしれない。

どっちでもいい、
と私は思います。
それは神の主権のなかにあることであり、
私たちのなすべきは「愛せよ」という、
神の命令に忠実であることです。

親友の価値は金融資産にすると、
1000万円ぐらいだ、
という学術研究があります。
イスラエルの伝説的なスパイは、
親友の価値は体重分の金の重さと同じ、
と言っています。(3億円ぐらい)

どちらの試算を採用したとしても、
誰かがあなたのことを「親友」と思ってくれるほどに、
その人の信頼を勝ち取り愛着を形成できたなら、
それは1000万円以上のプレゼントをしているのと同じです。

その結果その人はキリスト教徒になるかもしれないし、
ならないかもしれない。

何度も言いますが、
それはどっちでもいいのです。

イエスが重い皮膚病患者の10人を癒した、
という記事がルカによる福音書に出てきます。
10人をイエスは癒されました。
不治の病が癒されるというのは、
少なくとも金融資産で1000万を超えるでしょう。

ところが、
キリストを讃えに帰ってきたのは、
10人のうち1人だけでした。
つまり、9人は「キリスト者」にならず、
1人だけがキリスト者になりました。

イエスは神ですから、
癒す前に「この1人以外は信じない」
と分かったはずです。

ならば、その一人だけを癒せば良かったのではないか?

しかしイエスはそうしなかった。
イエスの世界観は「プラスサム」だったからです。
10人の人生に「価値」を加えることをイエスはしました。
そのうちの1人は「永遠の価値」をも加えました。
イエスですら残りの9人について、
癒す以上のことは出来ませんでした。

誰かが救われるかどうかは、
神の主権のなかにあるからです。

サザエさんが同僚を愛し、
その人のために祈り、
信頼を構築し、愛着を形成するなら、
それはこの社会への「プレゼント」になります。
その結果、誰かは「分厚い壁」を乗り越え、
キリスト教徒になるかもしれないし、
誰かはならないかもしれない。

しかし、大事なのは前半だけです。
後半は神の主権のなかにあります。
前半をちゃんとしてなお教会に壁を持つ人は、
イエスご自身がそうしたとしても、
状況はきっと変わりません。
(戻ってこなかった9人を思い出しましょう)

ただ、愛していきましょう。
それで大丈夫です。

この記事のトラックバックURL
トラックバック