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本のカフェ・ラテ 『知性は死なない』(第二回)

2019.12.17 Tuesday

第100号   2019年7月16日配信号

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 本のカフェ・ラテ
「本のエスプレッソショット」というこのメルマガの、
開始当初からの人気コーナーでは、
一冊の本を約5分で読める量(3,000〜10,000字)で、
圧縮し、「要約」して皆さんにお伝えしてきました。
忙しい読者の皆さんが一冊の本の内容を、
短時間で上っ面をなぞるだけではなく「理解する」ために、
「圧縮抽出」するというイメージです。
この「本のカフェラテ」はセルフパロディで、
本のエスプレッソショットほどは、網羅的ではないけれど、
私が興味をもった本(1冊〜2冊)について、
「先週読んだ本」の140文字(ルール破綻していますが)では、
語りきれないが、その本を「おかず」にいろんなことを語る、
というコーナーです。
「カフェ・ラテ」のルールとして、私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメントしていく、という形を取りたいと思っています。
「体系化」まではいかないにしても、
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。
密度の高い「本のエスプレッソショット」を牛乳で薄めた、
いわば「カフェ・ラテ」のような感じで楽しんでいただければ幸いです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

前回、6月11日に、
第一回をお送りした、
『知性は死なない』の本のカフェ・ラテですが、
今回は「第二回」をお送りします。
多分今回では最後まで行けないので。

この本は4月にインドで夢中で読みました。
かつてないほど読書メモを一杯書いたので、
語る事がいっぱいあるのです。

では行ってみます。

『知性は死なない 平成の鬱をこえて』

読了した日:2019年4月13日
読んだ方法:札幌のブックオフで購入(889円)
著者:與那覇潤
出版年:2018年
出版社:文藝春秋
リンク:
https://amzn.to/2U6o988


▼▼▼鉛様(えんよう)の麻痺は、単なる疲労とは質的に異なる

→P61〜62 
〈付言すると、鬱状態で生じる「からだの重さやつらさ」もまた、
「毎朝、出勤の足が重い」といった
「嫌な行動に乗り出す意欲が起きない」事態を指す
ふつうの語法とは、まったく意味が違います。

医療現場では「鉛様の麻痺」ということばで形容されるように、
本人の主観では自分の体がなまりになったかのように重くなり、
自分の意志ではどうしても動かせない。
動かないから仕事は愚か、
食事にも洗顔・入浴にも行きたくない、
という状態がうつ病における「からだの重さ」です。

「そんなのは体を鍛えていないからだ」
「そうはいってもトイレには行くじゃないか」という人には、
私が病棟で同室だったラグビー部の男子大学生の
「鬱状態が激しいときに、
 尿瓶(しびん)を買おうか本気で悩みました」
ということばを紹介しておきたいと思います。〉


、、、「本のカフェ・ラテ」コーナーで、
これまで取り上げてきた本といえば、
『リンカーン うつ病を糧に偉大さを鍛え上げた大統領』
『フロー体験 喜びの現象学』
『木を見る西洋人 森を見る東洋人』
『AI VS 教科書を読めない子どもたち』
など、テーマが多岐にわたるのですが、
なぜ「うつ病」に関するテーマを、
繰り返し扱うのか?

たいていの「精神疾患サバイバー」は、
過去の自分の病気について積極的には語りたがりません。
そもそも自分がうつ病を患った経験があることを、
ひた隠しにする人もいる。
いや、そのほうが多いでしょう。

当たり前です。
そのことで周りから偏見の目で見られるのも嫌だし。
保険に入るときに保険料が高くなったりするし、
就職の際には「履歴書汚し」だし、
結婚を望む独身者なら「経歴汚し」です。
うつ病を患った経験のある人を、
社員として雇ったり、
結婚して伴侶としたりしたいと、
誰も積極的には思わないでしょうから。
そしてうつ病を患うほど優しい人というのは、
「きっとそうだろうな」とひっそりと思うでしょうから。
周囲に気を遣わせるのも嫌だし、
自分にもひとつも良いことはないから、
黙っておこう。

あと、精神疾患の古傷って、
肉体的な古傷以上に、
「痛みが残る」んですよね。
そのことを語るだけで、
その当時の痛みが生々しく思い出されて、
「身が削られる」わけです。
だから、なるべくなら思い出したくない。

そんな諸々の理由から、
多くのうつ病経験者は、
過去の自分の病歴を秘匿します。
そのことに関して、
私はいっさいの非難を斥けます。
ぜったいにそうしたほうが良いし、
是非そうしてください、と思う。
法的に問題がある場合を除いて、
是非過去のことは忘れて、
前に進んでください、と。

私はですから、
自分の病歴を積極的に語る、
という意味で、
「うつ病サバイバー」の中の、
かなり珍しい部類に属します。

それには理由があります。

うつ病療養の2年間は、
マジで「生きた地獄」だったわけですが、
そのなかで、漆黒の暗闇の中の、
遠くに見える蛍の光のような、
ほんのわずかな希望の灯火のひとつが、
「この地獄から出たときに、
 同じように地獄にいる人に、
 声を届ける人間になる。
 そのための準備期間として、
 神様が私を特別に選んで、
 この病気を授けてくれたのだ。」
という確信にも似た思いでした。

療養中の最も病状が悪いとき、
私は文字がまったく読めませんでした。
少し本が読めるようになったとき、
唯一読むことのできた本のジャンルは、
「うつ病闘病体験をした人の手記・あるいは回顧録」
だったのです。

つまり今紹介している『知性は死なない』
のような本だけは、心にしみいりました。
そして今思えば、それが、
ギリギリのところで、
「この深い暗闇を歩んだ人が、
 自分以外にもいる」
という超越的な連帯を与え、
地獄を味わい尽くす覚悟を与えてくれました。

イエスは「裏切りの試練」を経験するペテロに向かい、
「あなたは、立ち直ったら、
 兄弟たちを力づけてやりなさい」
と命じましたが、私はそれらの手記を読みながら、
私が次に何か文章を書くことができるようになったときは、
今の私のように漆黒の暗闇の中にいる誰かのために、
言葉を紡ぐのだ、と決意したのです。

その決意を私は今も実行しています。
だから当メルマガでも、
私は定期的に精神疾患を扱い、
そして自分の体験談をその都度語ります。
身を削ることになったとしても、
そのためにある「この身」だと思いますので。

前置きが長くなりました。

引用箇所で「鉛様の麻痺」という言葉が出てきます。
うつ病というのは、
精神と肉体をこの地上に縛り付ける重力が、
健康時の10倍ぐらいになるようなものです。
自分の身体と精神が、鉛のように重くなる。
動きたくても動けない。
朝、布団から出られない。
身体が言うことを聞かない。
コーヒーを入れることも苦行のように辛く、
トイレに行くことも至難の業になる。

「身体を鍛えてないからだ」
「俺だって朝仕事に行きたくねーよ。
 だからオマエも頑張れ」的な、
完全にスベったアドバイスは、
本質においてこの症状を理解していません。
著者が指摘するように、
大学ラグビー部で鍛えた身体を持ってしても、
うつ病の症状によって、
「しびん」が必要になるほど、
身体が動かなくなるのです。
だって、脳が器質的に変化してるんだもん。
根性でどうにかなるレベルを超えています。
「根性で腸捻転を治せ」
「気合いがあれば骨折した大腿骨でも、
 走れるはずだ!」
って誰も言わないじゃないですか。
「根性(信仰)でうつ病を吹っ飛ばす」
みたいのって、そういったアドバイスに近い、
ナンセンスな言葉です。



▼▼▼木村敏氏の統合失調症の「つつぬけ感覚」と
「中動態の世界」をつなぐ補助線

→P99〜102 
〈2ヶ月間の入院生活を過ごした私には、
統合失調症の友人がいます。
彼らに世界がどう見えているのかを理解したいと思って、
手に取った一冊の本から、
私は精神病理学という学問を知ることになりました。
日本でのこの分野の碩学である木村敏氏が、
京都の日独文化研究所で行った講演をまとめた
「臨床哲学講義」という本です。
この本で木村氏は、教え子だった長井真理氏の研究を引きながら、
統合失調症の患者がしばしば訴える
「つつぬけ感覚」について語っています。

統合失調症の人というと、どんなイメージでしょうか。
「わけがわからない妄想を、
誰も聞いていないのに大声でわめき散らす、攻撃的で怖い人」
といった、ネガティヴなものでしょうか。
そういう患者さんが、いないというのではありません。
しかし、じっさいには統合失調症になる人の病前性格をみると、
小さい頃は育てやすく、裏表がなくて嘘がつけない、
すなおな子どもだった人が多いそうです。
それではなぜ、そういうことになるのか。
つつぬけ体験とは
「自分の頭の中の考えが全て、
周囲の人々につつぬけになっている」とうったえる、
統合失調症の症状のひとつですが、
どうして患者はそのように感じてしまうのか。

じつは、これは必ずしも、
ふつうの人とも無縁の現象ではないのです。
職場の会議などへ「今日は絶対に反対してやるぞ」
と意気込んで出席したのに、
周囲の空気に飲まれて気がついたら賛成していた、
といった経験はありませんか。
 (中略)
そんな経験をしたとき、
多くの人は「自分が自分でないような感じ」をもつのでしょう。
外見上は、確かに自分自身が議案に賛成したり、
その人を誉める言葉を口にしているのだけど、
それがいつもの「この自分」が行った行為だとは、とても思えない。

むしろ自分と周囲の人を包括した、
なにか大きな集団の無意識のようなものがあって、
それが一時的に自分の体をジャックして
そういう行動を取らせたという方が、本人の実感に近い。
一時的にではなく、自分がなす行為のほぼ全てについて、
このようにしか感じられなくなってしまった状態が、
統合失調症だというのです。

木村氏の表現を引くと
「だれのものでもない『非人称』の生命の躍動が、
『自己』の主導権の元では体験出来なくなり
・・・誰とははっきり限定できない、
自分以外の力の主導権の元で体験されるようになります」。

まさしく、あたかも親の言うことをいつも額面通り全て受け入れて、
他人と自分の意志とが一つに融合している、
素直な子どものような状態です。
しかし成長して自我がつくられてゆくにつれて、
この「自分が自分でないような感じ」に埋没しているわけにはいかず、
むしろ苦痛を覚えるようになります。

その感じを言語や論理でとらえようとすると、
「なぜか『この自分』が考えたり、しようとすることが、
口にする前からまわりの人に先取りされている」
→「そんなことがあるはずがない、でも現に起きている」
→「もうスパイ組織が盗聴しているとしか、説明のしようがない」
→「いやそんな技術を持つのは、
  人体をハッキングできる宇宙人かも」となっていくのです。

「自己とは何か」とはしばしば、
哲学者が暇つぶしに考える浮き世離れした命題だと思われています。
しかしじっさいには、まさにそのことで
体や生命が危機に揺るがされている人たちがいる。
それが精神病を病むと言うことなのだ。
そういう精神病理学のメッセージは、
自身の病気の意味が見えずにもがいていた私にも、
もういちど思考するヒントをくれました。〉


、、、「自己とは何か」というテーマと、
精神疾患との関連を扱った良書に、
『中動態の世界』という書物があります。
この本で書かれていたことと、
今引用した内容は非常によく似ている。

統合失調症の人の「幻聴」っていうのは、
実は健常者でも体験することのある現象と地続きだ、
ということを、著者は精神病理学の木村さんの本で気づきます。

私たちは「自己」を持っていると思ってるんだけど、
それは主観的にそうだというだけであって、
実はそれほど「自己」は確たる概念ではありません。
特に東洋の言語を使っている以上、
私たちの自己は「強く文脈に依存」します。

「俺は独立独歩、自分の自己を持ってる」、
と胸を張るのは自由ですが、
それを「日本語で」言っている以上、
多分その人もこの例に漏れません。
ニズベットの『木を見る西洋人、森を見る東洋人』
で面白い調査結果が紹介されていて、
それによると、
同じアメリカに住む東洋系アメリカ人でも、
英語を家庭内の言語にしていると、
「はっきりした自己」を持ち、
中国語や日本語を家庭内の言語にすると、
「文脈依存性の高い自己」を
持つようになることが紹介されています。
逆に遺伝的には西洋人でも、
長い間東洋で生活し、
たとえば日本語がぺらぺらになると、
「文脈依存性の高い自己」の振る舞いをするようになり、
性格が変わっちゃうことが分かっています。

、、、で、著者が例に出すのは、
「自分ではAと思っていたのに、
 その場の雰囲気に流されてBと言っていた。」
それをしたのが自分だとは思えない、
というような状況です。

「空気に流される」というような状況ですね。
これも日本語に特有の現象の1つで、
「場の空気」が何か主体を持っているかのように振る舞う。
日本語には「主語が不要」であることと、
私は関係があると思っている。
「不要な主語」が、「空気」という形を取って、
そこにいる個人の「意識をジャック」したかのように振る舞う、
というのが空気の正体ではないかと思っています。

クリスチャンだとそうではない、
ということもありません。
クリスチャンの人が頻繁に、
「そのように祈らされています」
「そのようにさせられてきました。」
っていう不思議な言葉遣いするじゃないですか。
あれって私は「空気」が別の形に姿を変えたものに、
なり得る表現だと思っています。
もちろん実際に神が導き、
神が「祈るように促す」ということもあるでしょう。
しかし、「主語を欠いたクリスチャン用語」というのは、
実は「神の名における他者へのゆるやかな強制了解」
それが悪化すると「信仰虐待」につながると思うので、
私は意図的に、
「そのように私は祈っています。」
「そのように神が導いているように私は考えたので、
 私の判断でそういう行動をしました。」
という風に、主語を省略しないように、
意識して表現するようにしています。
あんまり「霊的」に見えないというデメリットはありますが笑、
ハッキリ言って「人から霊的に見られる」なんて、
鼻くそ以下の「どうでもいいこと」ですから。
そんなの「いくらでもくれてやる」と思ってます。
自分が主体を失わないことのほうが大事です。
自分がしたことの責任を、
神になすりつけてはいけません。

さて。

そんなわけで、
「主体が何者かにジャックされたかに思える経験」
というのは、健常者でも経験する、と著者は言います。
統合失調症の患者は、
病前性格が「非常に真面目な優等生」
であることが多いと著者は指摘しますが、
彼ら、彼女らがその優等生性ゆえに、
「自らの意志」を親や先生や社会規範と、
過剰に「同化」させ、
その結果、主観的には、
「周囲があらかじめ私の意志を知っているとしか思えない」
という「筒抜け感覚」をもつようになる。

自分の脳内は他者に閲覧されている、と。
それが「盗聴妄想」などにつながる、
と指摘しているわけです。

精神病理って、理系と文系の交わるところなのですよね。
統合失調症やうつ病に、
ケミカルな薬が「効く」ということは、
脳の器質的な変化があることの証左ですが、
精神病理は必ずしも脳内物質だけに還元できない。
「中動態の世界」で論証されているように、
それは「言語」や「自己」などといった、
哲学的な問題とも地続きなのです。


▼▼▼言語に対する身体の逆襲、という鬱観

→P128〜130 
〈十何巻にも及ぶ大長編小説や、
漬け物石のように重たい研究書を書き上げる著者がいるように、
言語というのは原理的には、
無限に駆動し続けることが出来ます。
さらにはその読者も、理念上はいくらでもより多く、
より広く拡大させることが可能です。
エクリチュールによって引き裂かれていく自己には、
際限というものがないのです。
こうして、身体を離れて無限に広がっていくかに見えた
「自分」というものの輪郭が、
あるとき、引っ張りすぎたゴム紐が切れたかのように、
いきなり破綻して元の身体の大きさにまで縮んでしまう
――それが、おそらくは「うつ転」(躁状態から鬱状態への急変)
なのではないかというのが、私の実感です。

じっさい、鬱状態になると、
いわば言語で動いている自分の意識に対する
「身体の自己主張」とでもいうべきものが起こります。
頭では「起き上がろう、起き上がれ!」と指令を出しているのに、
手足が持ち上がらず、布団から出られない。
2章で見たような、鉛様疲労感をともなう麻痺症状です。 
無理矢理起き上がっても、
重力が狂ったかのような重さを感じて、
家の中では這って動かなくてはいけなかったり、
「前へ進め!」といくら念じても、
路上でうずくまってしまったりします。
 (中略)
また、身体自体はどうにか動かせる場合でも、
うつになると人は布団をかぶって閉じこもりたくなるようです。
映画では堺雅人さんが演じていましたが、
『ツレがうつになりまして。』では「カメフトン」と形容されている、
文字通り亀の甲羅のように掛け布団にこもって、
出てこなくなる状態です。
私の場合はむしろ、
ミイラのように布団を身体に巻き付けて、
その中でふるえていました。

はたからみると、それだけ悪寒がしているのか、
あるいはたんに意欲をなくして
引きこもりになったのかと判断されそうですが、
どちらもちがうのだと思います。
むしろ、いまある自分の身体というかたちの、
自己の輪郭をもう一度はっきりさせようという衝動が、
そういう行為を取らせたのではないかと、私は思っています。
鬱に転じてから2年以上の後、
ようやっと身体の面では従来の状態に戻ったかなと思えたとき、
失った体力の回復をかねて、水泳を始めました。
 (中略)
水の中にいることで、
身体の輪郭というものをいちばん実感できるからです。
その意味では、泳ぐよりも水中でウォーキングをするときが、
身体を動かすごとに自分の輪郭が生き生きと感じられて、
今の自分にはいちばん心が落ち着く時間になっています。
そうやって身体としての自己の輪郭を陶冶(とうや)することで、
ようやっと言語で自分の体験を表現しようとする能力と意欲もまた、
完全な喪失から回復してきたという気がします。


、、、「言語(意識)」VS「身体」
という対立軸で、うつ病(双極性障害で言う「うつ転」)を、
説明できるのではないかと、ここで著者は言っています。

意識と身体というのは、
調和が取れているうちは良いのですが、
そのバランスが崩れると、
身体が意識に対して「ストライキ」を起こす。
それがうつ病の状態なのではないか、と。
意識が「布団から起き上がれ!」
と命じても、身体がストライキを起こし、
その命令を聞かなくなる、ということです。

養老孟司さんがいつも言っていることに、
都市=脳(意識)であり、
農村=身体(自然)だ、ということがあります。

現代世界(20世紀以降の世界)というのは、
自然が都市によって呑み込まれて行く、
一方通行の過程だったと養老さんは総括しています。

「都市化」が世界規模で起き、
それは進むことはあっても戻ることがなかった。
実は「都市化指数」と「うつ病の罹患率」は、
正の相関関係にあります。
開発途上国や戦争中の国に、
うつ病や自殺が極端に少ないことは知られています。
その国が豊かで平和になり、
都市化がある程度まで進むと、
「自殺とうつ病」が社会問題になる。
現代世界の新興国ではそのような事態がまさに進行中です。
4月にインドに言ったとき、
私はまさにこれを現地で耳にしました。
現在、インドの都市部の問題の1つは、
精神疾患と自殺です。
10年前、日本で毎年2万人以上自殺する、
ということを「信じられない」と言っていた彼らは、
もはやそれに驚かなくなったのです。
インドが「都市化」したことの証左ですね。

なぜ、都市化(意識の優位・脳の優位)が、
うつ病を引き起こすのか?

與那覇さんの論に従えば、
それは「意識に対する身体の反逆である」
と解釈することができる。

「都市化・意識化・脳化」を、
養老孟司さんは、
「予測と統御」と呼んでいました。
「ああすればこうなる」と言い換えても良い。

つまり「先が読めること」が、
「都市」の条件なのです。
「ああすればこうなる」が支配する世界が、
「都市」です。
エレベーターのボタンを押したらエレベーターは降りてくる。
ボタンを押したら炊飯器は米を炊いてくれる。
アプリでタップしたらタクシーが来てくれる。
ホームで待っていれば電車が来る。
ある時間になると仕事が始まり、
ある時間になると仕事が終わる。

そうった「予測と統御」が成り立つ、
というのが都市です。

自然(農村)はその逆ですね。
「ああしてもこうならない」ことが多い。
豊作を願っても天気が優れない。
望まない台風がやってくる。
害虫が作物を食べてしまう。
山から野生動物がやってきて、
飼っていた鶏が殺される。
よかれと思って肥料をやったが、
それが根腐れにつながってしまった。

「自然」は、「予測と統御」が成り立ちません。
私たちの「ああすればこうなる」を、
遙かに超えて複雑なのが自然であり、
その差が「都市と農村」の違いだよ、
と養老さんは指摘します。

20世紀以降、人類は徹底的に、
「ああしてもこうならない」ものを生活から排除し、
「ああしたらこうなる」に囲まれて生きることを望んだ。
そして、それを実現した。
その結果、国連によると、
1950年には世界人口の30%だった都市人口が、
2050年には70%になると予測している。
100年の間に、
7割が農村人口から、
3割が農村人口へ、逆転しようとしている。

ところがひとつ問題がある。
人間というのは、
「意識=脳」だけではなく、
「身体=自然」からなる存在だということ。

あらゆることを、
「ああすればこうなる(意識)」で満たしていったとき、
「身体」は無視される。
脳は「都市」に属しますが、
都会人だったとしても身体は「自然」に属します。
「いや、俺は身体も都会人だ!!」と言い張る人は、
自分の意志で髪の毛を伸ばせるかどうかやってみてください。
あるいは、自分の意志でツメを伸ばせるでしょうか?
自分の意志でしゃっくりを止められるでしょうか?
まばたきを1時間せずにいられるでしょうか?

できませんよね。

だとしたら、身体はやはり「自然」に属します。
都市化した生活をするとしかし、
身体は意識に従うことを強制されます。
農村生活よりもはるかに強く、
都市生活は「意識」が身体を支配します。
決められた時間に起き、
決められた時間に仕事をし、
もう疲弊しきっているのに働きます。
本当は動きたいのに椅子に長時間座り、
本当は太陽の光を浴びたいのにオフィスに閉じ込められます。
都会生活というのは実は、
「意識による身体の支配」であり、
身体は「意識という独裁政権」に、
服従することを強制される。

それに対し、身体が、
「もういやだ!」と、
ストライキを起こした状態、
これがうつ病なのではないか、
と與那覇さんはここで言っているわけです。

自然環境を人間が圧迫し続けた結果、
地球温暖化や気候変動により、
大洪水、ハリケーン、雪崩などが引き起こされ、
自然が「都市化」に反逆するかのように。

「ツレがウツになりまして」
に出てくる「カメフトン」の話も面白い。
あれは、身体の輪郭を確認することで、
「身体の輪郭を取り戻し、
再び言語(意識)と身体(自然)の、
調和を取り戻そうとするプロセス」
という説明もなんとなくしっくり来ます。



▼▼▼身体的なキリスト教の最右翼のロシア正教、
言語的なキリスト教の最右翼のピューリタンを
東西の地理的な両極でとらえるというのは面白い

→P141 
〈ちなみに東方キリスト教を代表するロシア正教の場合は、
イコン(キリストの肖像などの宗教画)とのふれあいを重んじるなど、
カトリックよりもさらに身体への傾斜が強いキリスト教になります。
じっさい、ロシアの宗教論争は
「十字を三本指で切るか、二本指の慣行を守るか」
といったトピックを巡って展開し、
それらがツァーリ(皇帝)の王権と結びついて、
政祭一致的な専制権力をかたちづくりました。

ヨーロッパの東端であるロシアに、
徹底して身体を重んずるキリスト教社会があったとすると、
逆に言語に軸足を置くプロテスタントの中でも
さらなる過激派(ピューリタン)が、
イギリスから西へ出航してつくりあげた国がアメリカです。〉


、、、キリスト教は歴史のあるときに、
「西方教会」と「東方教会」に別れました。
西方教会はその後さらに、
「ローマカトリック」と「プロテスタント」に別れます。
ヨーロッパを中心とする世界地図を頭に思い浮かべて下さい。

そうすると、
アメリカが最も西にあり、
日本が最も東にありますね。
日本が「極東」と呼ばれるのはこのためです。

この地図における、
コルプスクリスティアヌム(キリスト教世界)の勢力図は、
だいたいこうなります。
最西端のアメリカがプロテスタント(ピューリタン)
真ん中のヨーロッパ(イタリア)にカトリック
そして東のロシアが「東方教会(ロシア正教)」となります。

西から東につれて、
プロテスタント→カトリック→ロシア正教となるのですが、
「言語を重視」「身体性(感覚)を重視」という軸を取ると、
プロテスタント>カトリック>ロシア正教の順番で、
「言語を重視する宗教」という特徴があります。

日本は明治維新以来、
徹底的に「日本製ピューリタニズム」
ともいえる思想が支配するようになりました。
このへんは山本七平が詳しく論じています。
この「日本製ピューリタニズム」により、
もともと東洋的で「身体性に重きを置く」国民性は、
なかば強引に「意識優位・言語優位」に変化した。
脳の中身は数世代で変わるはずもないので、
社会が要請する「言語による独裁」は、
日本人の生き方に「無理を強いた」に違いないのです。

日本にうつ病が多いのは、
ブラック企業や真面目すぎる国民性の影響もあるでしょうが、
じつは「言語VS身体」という補助線を引くと、
ちょっと新しい風景が見えてきたりします。


、、、というわけで、
今回は文字数がオーバーしたのでここまで。
次回に続きます。
3回で終わらないかもしれないですが、
なんとか「シーズン2」のうちに終わらせたいと思っています。
では、お楽しみに。

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