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本のカフェ・ラテ『知性は死なない』【第三回】

2020.02.25 Tuesday

第110号  2019年10月22日配信号

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 本のカフェ・ラテ
「本のエスプレッソショット」というこのメルマガの、
開始当初からの人気コーナーでは、
一冊の本を約5分で読める量(3,000〜10,000字)で、
圧縮し、「要約」して皆さんにお伝えしてきました。
忙しい読者の皆さんが一冊の本の内容を、
短時間で上っ面をなぞるだけではなく「理解する」ために、
「圧縮抽出」するというイメージです。
この「本のカフェラテ」はセルフパロディで、
本のエスプレッソショットほどは、網羅的ではないけれど、
私が興味をもった本(1冊〜2冊)について、
「先週読んだ本」の140文字(ルール破綻していますが)では、
語りきれないが、その本を「おかず」にいろんなことを語る、
というコーナーです。
「カフェ・ラテ」のルールとして、私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメントしていく、という形を取りたいと思っています。
「体系化」まではいかないにしても、
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。
密度の高い「本のエスプレッソショット」を牛乳で薄めた、
いわば「カフェ・ラテ」のような感じで楽しんでいただければ幸いです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

『知性は死なない 平成の鬱を超えて』
著者:與那覇潤
出版年:2018年
出版社:文藝春秋
リンク:
https://amzn.to/2U6o988


今回の『本のカフェラテ』のコーナーは、
『知性は死なない』の完結編です。

まぁ、ほとんど忘れている人が多いとは思いますが。
なんせ、私ですら前回何書いたか、
あんまり覚えてないですから笑。

ちなみに前回、
7月16日配信号(vol.100)で、
この本を解説しています。

その後、自分自身が、
鬱症状の再来を経て、
現在は寛解に至るので、
まぁ内容的にはタイムリーなのかなと。

文字数も、執筆時間もあまりないので、
早速本題に入りましょう。


▼▼▼能力信仰が強い著者だからこそ
能力が奪われるうつ病になった。
私もまったく同じだった。

→P242〜243 
〈ですが、たとえばこういうふうに、考えてみてください。
あなたには、あなたの「属性」も「能力」も問わずに、
あなたを評価してくれる人がいますか、と。

仕事を持っている人なら、
かならず名刺に会社の部署や、
保有する資格を入れるでしょう。
そうした「属性」についての情報抜きで人付き合いをするのは、
こんにちのビジネス社会では不可能です。

働ける時間は有限なので、
「あの会社の人なら、顔を繋ぐ価値がある」
「この資格を持っている人なら、信頼出来そうだ」
というかたちで、属性によって対応すべき相手を絞らないと、
業務がパンクしてしまうからです。

私は学問という、
すこし特殊な業界で働いていたので、
相対的には属性についてルーズだったと思います。
資格のないフリーの文筆家に頭脳明晰な人がいて、
博士号を持つ東大の教授に
支離滅裂な人がいることを知っていたので、
属性で相手を評価することには、
慎重にならざるを得ませんでした。

しかしその分、「能力」で他人を評価することについては、
おそらくふつうのビジネスマンよりもシビアだったと思います。
能力がある人の声なら、相手の属性を問わずに、
耳を貸すべきだ。
逆に能力もない人間が、
属性が立派だからと言ってえばり散らしているのは、
良くない。

そう信じていたかっらこそ、
「病気によって能力を失う」
という想定外の体験をしたことが、衝撃でした。
能力のなくなった自分なんて、
この世に存在する価値はないじゃないか。
そう考えていました。

入院時に、病棟で共に過ごした仲間が教えてくれたのは、
そうではない、ということです。
彼らの多くもまた、病気によって能力を失っていました。〉


、、、「メリトクラシー」という言葉を、
みなさんは聞いたことがあるでしょうか。

Wikipediaによると、こうあります。

《メリトクラシー (meritocracy) とは、
メリット(merit、「業績、功績」)と
クラシー(cracy、ギリシャ語で「支配、統治」を意味するクラトスより)
を組み合わせた造語。
イギリスの社会学者マイケル・ヤングによる
1958年の著書『Rise of the Meritocracy』にて初出した。
個人の持っている能力によってその地位が決まり、
能力の高い者が統治する社会を指す。》


、、、「デモクラシー(民主主義)」は、
「大衆=デモ」による「統治」なので、
「大衆による独裁」と言い換えられます。

独裁政権は、
「オートクラシー」ですね。
オート=独り
クラシー=独裁
ですから。

神権政治は、
「テオクラシー」です。
「テオ(神)」による独裁だからです。

同じように、官僚統治は、
「ビュロクラシー」です。

このようにいろんな統治形態があります。
みなさんもご存じのように、
日本は外向きにはデモクラシー(民主主義)の国ですが、
官僚が強い権力を持っているという点で、
ビュロクラシー的なところもあり、
天皇に「神的な権威」があるという点で、
テオクラシーっぽいところもある。

このように統治形態というのは、
切り口や角度によって、
ひとつの国でもいろんな側面があるのです。

では、
「メリトクラシー」とはいかなるものか?

一番わかりやすいのが、
一部の「リバタリアニズム」を標榜する人々の考え方です。
日本だと、ホリエモンとかがそうですし、
あと、松本人志も典型的なメリトクラシー的思想の持ち主です。

簡単にいうとこういうことです。
「生まれが良い人」や、
「学歴が高い人」や、
「肩書きが立派な人」や、
「世論を味方に付けたポピュリスト」が、
この世の富や権力を持つのはおかしい。

「能力が高い人」こそが、
権力や富を持ち、
社会を運営していくべきだ、
という考え方が、
「メリトクラシー」の特徴です。

メリトクラシーを標榜する人は、
「能力が高い人」に多い。
堀江貴文氏は東大にいたころから、
ライブドアを創業し、
今もロケットを飛ばしたり、
様々な事業を展開しています。
松本人志は言わずと知れた天才です。

これは簡単な理由で、
「人は、自分が有利になるルールを採用したがる」
からです。

さて。

著者の與那覇さんは自分のことを、
「メリトクラシー的な思想に傾いた人間だった」
と告白しているわけです。
彼もまた東大を出て、
東大の中でも「こいつバカだな」と思うやつに出会い、
そして研究者となり、若くして大学の准教授となった。
彼の書いた「中国化する日本」なんか読むと、
まぁ、べらぼうに頭良い人であることが分かるんですよ。

一方で社会というのは、
「能力が高ければ評価される」わけでもなければ、
「頭が良ければ成功する」わけでもありません。
能力が低い人が出世したり、
仕事を怠けている人が上司に評価されたり、
頭が悪い人が成功したりします。

能力が高い人、
頭が良い人、
仕事が出来る人としては、
これが「面白くない」わけです。

私は與那覇さんの足下にも及ばないですが、
彼がそう考える理由は分かります。
私も腹の底では、
メリトクラシー的な考え方に寄っているからです。
仕事が出来ない人が評価されたり、
能力が低い人が出世したり、
逆に仕事が出来る人、
能力が高い人が評価されず、
成功もしていない状況を見るのは、
私にとっては耐えがたい苦痛です。

私が当事者だろうがそうでなかろうが。

じっさいに能力が高い與那覇さんとは違い、
私の場合、客観的に私の能力が高いからではなく、
たぶん「うぬぼれている」だけ思うんですが。
いずれにせよ、
「能力が高い人ほど評価も高いべきだ」
と考える人は、
たいてい能力が高い傾向にある、
というのは事実です。

先に進みましょう。

じっさいにそうなのか、
「うぬぼれているだけか」の違いはあれど、
「生まれや肩書きや世渡りではなく、
 能力で勝負したい」と考える與那覇さんと私は、
「地位や肩書きとか、
 有名か無名かとか、
 世間的に評価が高いかどうか」よりも、
「その人が本当に有能かどうか」
だけで人を評価したいし、
自分もまたそのように評価されたい、
という、かなり強い認知的傾向を持っている、
という点で共通しているわけです。

さて。

ここで鬱病です。

たしかこのシリーズの、
前編か中編で説明したのですが、
鬱病というのは、
「能力を失っていく病気」でもあります。

「出来たことが、
 ひとつずつ出来なくなっていく病気」なのです。

ドラクエでレベル50まで成長してたとしましょう。
最強装備をそろえ、全部の魔法を覚えていたとしましょう。
鬱病って、毎日レベルが一つずつ下がっていく、
そういう感じです。

1ヶ月もすると、
レベルは1桁になる。
装備は、盾も剣も鎧も、なんにもなくなる。
魔法は毎日一つずつ忘れていって、
最後には「ホイミ」すら仕えなくなる。

鬱病ってそんな感じです。
最初は高度な決断が出来なくなり、
複雑な思考が出来なくなる。
エネルギーを要するようなイベントに尻込みする。
さらに進むと、
文字が読めなくなる。
朝布団から起きるエネルギーがなくなる。
最終的に、
「今日朝ご飯を食べるかどうか」
という二択が選べなくなり、
パニックになって、
私は机の下で震えていましたから。

そうすると邪魔になるのは、
「メリトクラシー」です。

この考え方は、
能力が高い人にとって、
通常時は自分を守ってくれる盾にもなります。
「世間は自分を評価しないけど、
 俺は良い仕事をしていることを、
 自分でよく分かってる。
 だから、大丈夫」と、
毀誉褒貶に動じなくなるし、
変な功名心に足をすくわれることからも、
自分を守ってくれます。

しかし鬱を煩い、
能力をむしり取られていくと、
「メリトクラシー」は逆に、
自分の首を絞める殺人装置になります。

だってその基準だと、
「毎日自分の価値が減退していく」わけですから。
最後は価値が「無」になります。

著者は
「肩書きや外的な評価ではなく、
 能力と価値を結びつける」
という思考の習慣を持っていた、
そんな自分が鬱病を患った、
ということに、
とても大切な意味があるのではないか、
とここで自己分析しているわけです。

先月だったか、
私はヤコブが神と格闘した、
「ヤボクの渡し」の事件について、
メルマガに書きました。

ヤコブは自分の最大の強みであり、
最大の欠点でもあった、
「謀略としたたかさ」という、
「自己アイデンティティ」を、
あの格闘で「打ち砕かれる」わけです。
その象徴が、「もものつがいが打たれた」ことと、
「ヤコブ(かかとを掴む者)」から、
「イスラエル(神は戦う)」に、
名前が変わったことだ、と言いました。

私もまた、
自分の最大の強みは、
論理的思考力だったりとか、
知的生産力だと思っています。
鬱病ってまさにその部分が壊滅的に、
「やられる」病気なので、
これって、
サッカー選手にとっての前十字靱帯断裂とか、
音楽家にとっての難聴とか、
料理人にとっての味覚異常とか、
パイロットにとっての視覚障害とか、
そんな感じのダメージなんです。

そうすると、
「自分がよって立つ足場」
が、崩れていく感覚に陥ります。
自分がそこに立っていた世界が、
足下から崩落していく感じというか。

著者がここで続けている話というのは、
「そこから先」の話です。
著者はそこで「友」に出会った、
と言っています。

それは病室の同病者たちだった、と。

つまり、
足場が崩落した先に、
「能力を奪われた無価値な自分」しか、
残らないと思っていた。
ところがそうでないことを、
同病者たちから教えられた、
と著者は言っているんです。

再度引用します。


〈そう信じていたかっらこそ、
「病気によって能力を失う」
という想定外の体験をしたことが、衝撃でした。
能力のなくなった自分なんて、
この世に存在する価値はないじゃないか。
そう考えていました。

入院時に、病棟で共に過ごした仲間が教えてくれたのは、
そうではない、ということです。
彼らの多くもまた、病気によって能力を失っていました。〉


、、、同病者のなかには、
大学のインカレで戦うほどの、
屈強なラグビー選手がいたそうですが、
彼は「トイレに行くエネルギー」がなくなり、
尿瓶を買おうか悩んでいた、
と著者は別の箇所で書いています。

精神病院の入院患者たちは、
著者と同じように、
「よって立つ能力を剥奪された人々」でした。
全員が人生の半ばにして、
装備を外され、
魔法を全部忘れ、
レベル1に戻っていました。

著者は、「能力=価値」だと思ってるから、
能力がゼロになった自分は、
価値がゼロになるはずだ、
と考えていた。

ところがそうでない、
ということを、
病室で発見するのです。

この発見こそ、
著者にとっての「天啓」だった、
ということが後々分かってくるわけです。

次のくだりに続きます。



▼▼▼友だちの定義と、社会の在り方

→P244〜245 
〈かつて博士号を持つ大学の教員として、
当時の自分の能力をフルに回転させた授業や言論活動をしても、
「おまえは、大学に皇太子を呼べないだろ」(1章)、
「副総理よりはえらくないだろ」(4章)
としか評価されなかった。

それがどうして、属性も知られず、
能力を失った今の方が、
はるかに敬意を持って扱ってもらえるのだろう。

たとえば平成の半ばにインターネットが普及し始めたとき、
人々が夢見ていたのは、そういう関係ではなかったかと思います。
これからは、属性を問わずにいろんな人とつきあえる。
もちろん能力が不要とまでは思わなかったでしょうが、
すくなくとも成績・業績競争に勤しむ日常の世界とは、
ちょっとちがった、
学校や職場に閉ざされていては得られない、
ゆたかな関係が手に入ると。

実際に起こったことは、逆でした。
「属性・能力抜き」で言いたい放題書き散らす空間は、
2ちゃんねるの一部のような誹謗中傷の温床となり、
反対にフェイスブックやインスタグラムは
「お洒落なオフィス街にさっそうと通勤し、
余暇の過ごし方も一流の私」をアピールする、
「属性・能力顕示」の場所になりました。

退院した後も、彼らのうち何人かとは交流を続けています。
そうした関係をどう呼ぶかといえば、
月並みですが「友だち」になるでしょう。
しかし、友だちを「属性や能力に関わりなく、
あなたとつきあってくれる人」と定義している人は、
どれほどいるでしょうか。
 (中略)
だから属性や能力を失っただけ、
人は発病や休職によって、
「うしなう可能性」が出てきただけで、
自分の人格を全否定してしまう。

うしなったって別にいいよ。
それでものこるのが本来の意味での「友だち」だから。
――そういう認識が広まるだけで、
どれだけ多くの人が救われるだろうかと、
いま私は感じざるを得ません。

そんな極論めいた定義の友だちなんて、
ふつういないだろ、と感じた方もいるでしょう。
ええ、いなくてもかまいません。
じっさいに私も、たまたま入院時に運良く得られただけのことで、
そうでなければきっと、いなかったろうと思います。
 (中略)
あなたがそれを必要とする日が来るまでは
「人付き合いは苦手じゃないんですけど、
ほんとうの友だちとなると、なかなかできなくて」で、
かまわないのです。

属性や能力が全てではないということ。
それをうしなってなお、残る人との関係という概念があり、
自分が今まだそれにアクセスできていなかったとしても、
やがてつながる可能性はだれにも否定できないと言うこと。
そういう発想を社会的に育んでいくことが、
だれにとってもいまより過ごしやすい世界を、
長期的にはつくるのだと考えています。〉


、、、著者は「能力を失った果て」に、
なお友達でいてくれる人間を、
友達と呼ぶのだ、という「真理」を、
病室で発見したのです。

なぜ、ほとんどの人にとって、
「親友」は、学生時代の友人なのか、
という答えもここにあります。

学生時代は極論すると、
全員が「レベル1」だからです。
社会で何者にもなっていない人の集まりが学校ですから。
成功者もいない代わりに失敗者もいない。
そのような時期に「友達」だったということは、
自分の「芯」の部分で共鳴し合っていた可能性が高い、
というのが、親友が多くの場合学生時代に作られる理由です。

社会に出ると、
「肩書き・学歴・収入・住んでいる場所や家・
 乗っている車・業界内での評価」などなど、
いろんな「装備品」が出てくる。

そうすると目の前の人が、
自分の装備品に惹かれて付き合ってくれているのか、
本当に自分に興味があるのか、
分からなくなってくる。

いつしか次第に、
「装備品同士で会話する」
という器用な芸当を身につける。

そうして人間は、
10代より20代、
20代より30代、
40代より50代、、、、
という風に、
友人が減っていき、
「孤独で不機嫌な高齢者」が完成するのです。

この力にあらがうことはとても難しい。

まして今の世界は、
著者が指摘するように、
「肩書きや能力にしばられない付き合いが出来る場」
になると期待したインターネットが、
SNSなどによって、
逆に「いかに自分が幸せか」という、
承認欲求を競う闘技場になり、
学生ですらそのような「装備品」を、
ひとつ背負うことになってしまった。

著者の友人の定義、
すなわち、「属性や能力に関わりなく、
あなたとつきあってくれる人」が、
友人なのだとすれば、
SNSは「友だち」を得ることにおいて、
逆にノイズ、あるいは障壁になってしまっている。
この現状を考えると、
「友だち機能」によってSNSが広がった、
というのはなんとも皮肉にあふれた事実です。

さて。

著者は病室で「友だち」を発見しました。
正確には「友だちの本当の定義」を発見し、
それによって目の前の人が友だちだと分かった、
ということなのですが、
私もまた、病気によって、
「友だち」を得たので、
この感覚は非常によく分かります。

自分に付随する価値ではなく、
私という人間に価値をおいてくれる人間が、
この世界にいるんだ、
ということを、理屈でなく体験的に知ることが出来たことは、
私の「世界観」をも変えました。

作家の佐藤優氏がラジオにゲスト出演した際、
かつて政治がらみの疑惑で東京地検特捜部に拘留された経験について、
パーソナリティからインタビューされるのを、
聞いたことがあります。
「拘置所の独房で512日過ごしたことによって、 
 良かったことは?」と問われて、
「友だちが誰か分かったことです。
 あれによって生涯の友を得ました。」
と即答で答えていました。

彼はやり手の外交官でした。
マスコミ関係や、官僚、政治家、実業家、、、
そういった人々は、
彼の肩書きと能力と影響力に惹かれて、
食事にさそったり、
手をスリスリしながら近づいてきたり、
甘言を投げかけたりしました。

霞ヶ関の官僚って、
それだけで「殿様気分」を味わえます。
じっさい、30代とかで、
自分の裁量で100億規模の予算が動いたりしますから。

しかし、彼が拘留された瞬間、
潮が引くように人間がコンタクトを取らなくなったそうです。
佐藤優とのつながりが「黒歴史」になるということで、
切られたんでしょうね。
彼がSNSをもしやってたら、
1,000人いた「友だち」が、
一気に10人以下になる感じでしょうか。

それとは逆に、
外交官だったときには積極的に連絡を取ってこなかったが、
拘留されたというニュースを聞き、
近づいてきて支援を申し出る人が、
本当に少数だがいた。

佐藤さんはそのとき、
「あぁ、この人が本当の友だちだったんだ」
と分かった、と言います。

現在も彼らとは親密な関係を続けているし、
彼らは一生涯親友だと思う。
だから、小菅の拘置所で得たものは「親友」なのだ、
ということです。

『夜と霧』を書いた、
ヴィクトール・フランクルは、
『人間とは何か』という本のなかで、
人間には3つの「価値」がある、
と言っています。

ひとつめは、
「創造価値」、
これはその人が社会にどのような価値を付け加えるか、
ということで測られる価値です。
メリトクラシーの考え方に近いですね。

ふたつめが、「経験価値」。
これは、
「その人がこの世界を経験する」
それ自体に価値がある、ということです。

みっつめが、「態度価値」
これは病気などの理由により、
「経験価値」すら奪われたときに、
その「運命」自体を、
その人がどのように解釈し、受容するか、
という「選択」をすることが出来る。
その受け取り方に価値があるのだ、
とフランクルは言います。

私たちの社会は、
最初の「創造価値」に、
ウェイトの95%ぐらいをおいている社会、
と言って良いんじゃないでしょうか。

SNSでの「幸せ自慢大会」、
学歴のレース、
出世のレース、
収入や暮らし向きの比較、、、
そういった「外的な価値」に私たちは縛られています。

しかし、
それらを奪われたときに、
残りの二つの価値が重要になってくる。
この二つの価値が分かると、
「友人」の意味も分かってくる。
「友人」というのはなぜなら、
後者の二つの価値において、
共鳴し合う存在だからです。

そういった世界観が社会に広がると、
日本はもうすこし、
万人にとって生きやすい社会になるのではないか、
鬱病を患った社会学者の與那覇さんは、
そう主張しているわけです。


、、、とここまで書いて、
ごめんなさい。
文字数と執筆時間が足りなくなりました。

最後まで解説出来ませんでしたので、
来週、もう一回だけ、
この本の最後の部分を解説したいと思います。
4回にまたがるとは当初思ってませんでしたが、
まぁ、半年かけた読書会だと思って、
お付き合いくだされば幸いです。

それではまた来週!