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本のカフェ・ラテ『知性は死なない』【最終回】

2020.03.03 Tuesday

第111号  2019年10月29日配信号

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 本のカフェ・ラテ
「本のエスプレッソショット」というこのメルマガの、
開始当初からの人気コーナーでは、
一冊の本を約5分で読める量(3,000〜10,000字)で、
圧縮し、「要約」して皆さんにお伝えしてきました。
忙しい読者の皆さんが一冊の本の内容を、
短時間で上っ面をなぞるだけではなく「理解する」ために、
「圧縮抽出」するというイメージです。
この「本のカフェラテ」はセルフパロディで、
本のエスプレッソショットほどは、網羅的ではないけれど、
私が興味をもった本(1冊〜2冊)について、
「先週読んだ本」の140文字(ルール破綻していますが)では、
語りきれないが、その本を「おかず」にいろんなことを語る、
というコーナーです。
「カフェ・ラテ」のルールとして、私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメントしていく、という形を取りたいと思っています。
「体系化」まではいかないにしても、
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。
密度の高い「本のエスプレッソショット」を牛乳で薄めた、
いわば「カフェ・ラテ」のような感じで楽しんでいただければ幸いです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

先週完結編にしようとしたけど、
文字数オーバーで完結しなかった、
『知性は死なない』の続きを、
今回もお送りします。


『知性は死なない 平成の鬱を超えて』
著者:與那覇潤
出版年:2018年
出版社:文藝春秋
リンク:
https://amzn.to/2U6o988


▼▼▼ボードゲーム「カルカソンヌ」とアフォーダンス
→P248〜251 
(病棟の談話室に「UNOが出来ない」という仲間がいたことをうけ)
『カルカソンヌ』という、
世界遺産になっている
南フランスの城郭都市をテーマにしたゲームがあります。
(中略)
このゲームの特徴は「手札」に相当する、
「プレイヤー本人にしか見えない情報」が、
いっさい存在しないことです。
(中略)
ひとりでぜんぶ判断して決められるような「能力」がなくても、
大丈夫なように、きちんとゲームがデザインされているのです。
じっさい、アドバイスされながら
半信半疑でプレイした人のほうが、
結果的に勝つこともあります。
ゲームが終わったときに出来る盤面がきれいなこともあって、
UNOが苦手だった患者さんも、楽しんでくれました。
うまく遊べない人に
「おまえは能力が低いなあ。もっと勉強しろよ」なんて、
言わなくても良い。
むしろ「能力が低い」プレイヤーがまじっても、
みんなが最後まで楽しめるようなデザインのゲームを、
みつけてくればいいのです。

このとき私が思い出したのは、
アフォーダンス(affordance)という概念でした。
もともとはギブソンという米国の心理学者が提唱したのですが、
その射程の広さから、
教育学や人類学でも使われることがあります。
私なりにまとめると、
「提供する」という意味のaffordを名詞化したアフォーダンスとは、
「能力」の主語を、人からものへと移しかえるための概念です。

たとえば、
健常者の人間には走るという能力がある、とは考えない。
逆に「平らな道」というものが、
走るという行為を健常者の人にアフォードしている、
つまり道と人間との間に走るというアフォーダンスが存在する、
というふうにとらえます。
 (中略)
私が言いたいのは、
社会主義の衰退と共に
平成の日本ですっかり色あせた「平等主義」ではありません。
人によって「能力の差」がある事実を、
否定する気持ちはまったくなく、
「能力が最低のものに、最大の分配をしろ」
と主張しているのでもありません。

そうではなく
「どれだけ大きな能力の差をカバーできるかで、
そのものの価値をはかってみよう」と提案しているのです。
そうした思考法は、
退院した後も趣味としてゲームをつづけるなかで、
徐々に明確になってきました。
 (中略)
将棋や囲碁のような完全実力のゲームや、
スポーツ競技一般は、
プレイヤー同士の能力が均衡していないと、
楽しめない場合があります。
それにたいして、不慣れな人が混じっても
「その人のチョンボをどう防ぐか」までが込みで、
あたらしいゲームになったのだと
考え直せるデザインになっているのが、
このゲーム(マスカレイドという仮面舞踏会のゲーム)の魅力です。
そしてそれはまさに、はたらくということ、
よりひろくいって社会的に生きるということのモデルでもあります。〉


、、、鬱病になった学者の著者(與那覇さん)は、
病室でボードゲームに出会います。
鬱病は「脳にダメージを受ける」病気ですが、
そのダメージの受け方は、
人によって様々です。

社交的だった人が、
対人関係が極端に苦手になる場合もあるし、
数学者が四則演算すら出来なくなることもある。
與那覇さんの場合、
「言語運用」がダメージを受けました。
文章を書くどころか読むことも出来ず、
うまく話す事も出来ない。

お医者さんに自分の症状を話す言葉が、
支離滅裂でまったく論理的でないことに、
いちばんショックを受けた、
と與那覇さんは別の箇所で語っています。

右利きの人の「言語野」は、
大脳新皮質の左側にあります。
この部分が「ダメージを受ける」と、
與那覇さんのようになるし、
2013年に発症したとき、
私も同じでした。

私の場合、
文字が神経に直接「刺さる」ように感じ、
痛くて文字が読めなくなりました。
この症状が出たとき、
「これは病気だから、
 病院に行こう」とやっと決断できたのですが。

それで、
精神疾患で入院している人たちにとって、
「ただこの時間に耐える」というのは、
拷問のようなものです。

だから本を読んだり映画を見たり、、、
ということが出来るのは健康な人です。

言語活動が働いていないので、
本読んでも映画を見ても、
それが「意味」として脳に取り込めない。
だから敗北感だけが積み重なる。

「ゲーム」はそんなとき、
「時間をやり過ごす」ための便利な道具です。
言語野が働いていないとき、
「非言語」の部分に逃げ場を作るイメージですね。
だから自然の風景を見たり、
積み木をしたり、
絵を描いたり、
ゲームをしたり、
というのは鬱病療養・リハビリの定番なのです。

著者の與那覇さんも、
病室で同病者とボードゲームをした、
その経験がここに書かれています。

その際、UNOのような、
戦略性の高いゲームだと、
ついていけない人もいるわけです。
鬱病で脳がダメージを受けているのですから、
そういった思考をすることが負担になるということもあるし、
「腕がものをいう」という要素が、
実社会に似ているので、
心理的に辛いということもあるのでしょう。

そんななか著者は、
『カルカソンヌ』というゲームに出会います。
このフランスのゲームは、
初心者が混ざっても、
ちゃんとゲームとして面白さが減らない、
そういう「ゲームデザイン」になっている。
このゲームは社会の縮図なんじゃないか、
と著者は気づくわけです。

UNOや「大富豪」って、
(多少運が関係あるということを含めて)
実力社会そのものなので、
先週紹介した「メリトクラシー」なゲームなんです。

しかし、『カルカソンヌ』はそうではなかった。
どんなステージの人が参加しても、
どんなに参加者同士の経験に差があっても、
ゲームとしての面白さが失われることがない。
そういうゲームのデザインになっている。

これって、
社会学の「アフォーダンス」そのものじゃないか、
と著者は気づくのです。
引用部分にも説明されているとおり、
アフォーダンスとは、
「陣内にはこの歩道を歩く能力がある」と、
行為主体の能力にものさしを置くのではなく、
「この歩道には陣内を歩かせる能力がある」と、
その「もの」が、行為主体に、
能力を付与している、と捉える考え方です。

著者は鬱病によって、
「メリトクラシー的」な、
能力によって人を格付けする社会の限界を、
体験的に知るわけです。

じゃあ、共産主義的に、
すべての人が平等に分配される社会が良いのか?
悪しき平等主義みたいに、
能力の差がないかのように振る舞うのが良いのか?

それは社会の後退であって、
著者が目指すところではない。

実力主義でも共産主義でもなく、
「アフォーダンス」にあふれた社会こそ、
私たちが今後築いていくべき社会なんじゃないか、
著者はゲームを通してそういうことを学んだわけです。

つまりそれは、
能力がない人に能力を付与したり、
障害者の障害を「取り除く」というのではなく、
実力がある人もない人も、
能力がある人もない人も、
「健常者」も障害を持つ人も、
みなが活躍することを、
「アフォード」することが出来るような社会です。

こういう方向性が、
私たちの未来を考える上で、
ヒントになるのではないか、
ということですね。

新約聖書は、
「アフォーダンス」を補助線に読むことも出来ます。
『結婚の意味』という本の中で、
著者のティモシー・ケラー氏は、
「キリスト教は独身者に積極的な価値を認めた、
 世界で最初の宗教」と書いています。
じっさい新約聖書には「やもめ」を、
教会の宝として扱うように勧める箇所がありますし、
パウロは独身であることを「賜物」と言っています。

また、奴隷や貧乏な人、
社会のなかで虐げられた人々を、
初代の教会は受け入れ、
彼らに居場所を提供するだけでなく、
彼らを「なくてはならない身体の器官」と考えました。
パウロは「目立たない器官ほどことさら尊ばれる」
と言っています。

教会はローマ帝国の価値観では、
辺縁に追いやられる「プレイヤー」たちを、
「アフォード」したわけです。
教会で、能力の高い人が活躍するのは当たり前です。
それは教会の外と同じです。
それが別に悪いことでもありません。
しかし、教会の真価は、
「アフォーダンスの高い教会かどうか」
というあたりに私はあると思っています。

次に進みましょう。


▼▼▼コミュニズムを「共存主義」と訳し直し、
資本を「能力」と捉え直すという提案

→P253〜256 
〈その網野(善彦)が最晩年の2001年、
「『コミュニズム』を『共産主義』と訳したのは、
歴史上、最大の誤訳の一つではないか」とのべたことがあります。
もっとも、ではどう訳すべきなのかについては語っていないため、
真意は判然としません。
 (中略)
私は、保持する能力の高低が異なる人どうしの
「共存主義」として解釈しない限り、
コミュニズムというものの再生は、ないと考えます。
 (中略)
最近は左翼の人の方が勘違いしているようなのですが、
資本家は単なる「お金持ち」とは違います。
たんに、自宅のタンスに札束を溜め込んで死蔵している人は、
お金持ちではあっても資本家ではありません。

自分のお金を、
本人が直接お店や工場を経営する資金として活用するか、
株券などを投資のために購入するかして、
様々な人々の間を環流させることで、
その総額を増やそうとしている人。
それが、資本家の正しい定義です。

マルクスやエンゲルスは、
「だったら、資本が『個人の財産』である必要はないじゃないか。
私有財産を廃止して、
社会全体で資本を共有しても良いじゃないか」と考えました。
5章で触れたようにこれはまちがいで、
資本を社会的に共有しようとすると、
その運用者としての国家と官僚の権力が極大化し、
人々は自由を失いました。

しかしこの箇所を
「能力」についての記述として解釈し直すと、どうでしょうか。
たとえば大学の先生に「能力」があるとみなされるのは、
その先生の話すことや書くものを、
「おもしろい。お金や時間を出す価値がある」
として受け止めてくれる、学生や読者がいるからです。
その意味では、大学の先生の能力とは、
タンス預金のようにその人の脳内に詰まっているわけではない。
それはまさしく、
「共同活動によってのみ動かされる」
「個人的な力ではない・・・社会的な力」です。
 (中略)
その意味で、あらゆる能力は、究極的には「私有」できません。
くりかえしますが、能力はけっして平等ではない。
そこには格差があるし、いかに教育に予算をつぎ込み、
学校間での実績競争をあおろうと、それはなくなりません。

しかし、いかに能力の高い人であれ、
その能力は私有財産のように、
その人だけで処分できるものではないのです。

コミュニズムが昭和の遺物で終わるのか、
平成の次なる時代にもよみがえるのかは、
むろん左翼でなかった人には、どうでもいいことです。
しかし能力差という、
けっして解消されることのない格差と付き合いながら生きる上で、
コミュニズムを共存主義として読み換えていくことは、
全ての人のヒントになると私は感じています。〉


、、、歴史家の網野善彦は、
コミュニズムを共産主義と訳したのは誤訳だと指摘しましたが、
では何と訳すべきだったかについては何も語りませんでした。

著者は「共存主義」と訳すべきだったんじゃないか、
と立論します。
著者の言い回しは若干難しくなりますが、
マルクスやエンゲルスが指摘した、
「資本家による資本の独占」を、
「カネをがめている奴から、
 庶民に分配せぇや!!」
という革命だというのは読み違えだと主張しているのです。

むしろ、資本家が社会に還元して、
「共存」を目指すべきは「能力」なのではないか、
ということです。

誰も「能力」を自分だけのために独占することのない社会、
つまり能力のある者が、
その能力を使って社会に価値を還元していく社会、
それこそが「共存主義」であり、
「共産主義の挫折→新自由主義の勃興
 →新自由主義の終わりの始まり」
にさしかかっている我々先進諸国の市民が、
描くべき未来なんじゃないの?
と著者は言ってるわけですね。

次に進みましょう。


▼▼▼赤い新自由主義
→P274〜275 
〈そのためには
「生き方は個人の自由であるべきだ」という価値観を、
国民の共通認識にすることから、はじめなくてはいけません。
保守主義が標榜する特定の家族観やライフコースには、
しばられない社会像を提示して、
はじめてリベラルの意義が生まれます。

「正社員である」「入籍している」「子どもがいる」。
それぞれに、すばらしいことです。
しかしそれは、他の生き方を否定する理由にならないし、
だからそういう特定の人生設計だけを、
国家や資本が支援するような諸制度は、改定が必要だ。

同一労働同一賃金とは、
「こっちにも金よこせ」という分配の問題である前に、
自由な生き方の問題なのだ。
そういう認識に立てるかが、
多数派形成の鍵になるのではないでしょうか。

すでにのべたとおり、そうした発想は、
終身雇用・年功賃金といった
「日本型雇用慣行」を解体させてゆくので、
平成に展開した以上の「新自由主義」になります。
しかし、伝統的な家族像に依拠する生き方の強要をも、
否定する点で、レーガン=サッチャー式の英米のそれとも異なります。

だれもが自由に生き方を選べる社会を、
目指す上で提携すべきは、
弱肉強食を説いていたこれまでの新自由主義ではないのです。
「能力があるなら」自由になれると主張して、
ごく一部の「有能な個人」をシンボルに立てて多数派を失った、
平成の書物群が取った戦略の失敗を、繰り返してはいけません。

むしろこれから必要なのは、
日本では同一企業の内側のみにとどめられてきた
コミュニズム(共存主義)の原理を、
その外に広がる社会へと、解き放っていくことです。

そのために必要とされるのが、
たとえばアフォーダンス的な方向での、能力観の刷新であり、
社会的に能力を「共有」しつつも、
自由や競争を損なわない制度の検討です。
心理学から経済学まで、
さまざまな学問の知見が求められます。

冷戦下では両極端にあるとされてきた、
コミュニズムとネオリベラリズムの統一戦線
――いわば「赤い新自由主義」(red neo-liberalism)だけが、
真に冷戦が終わった後、
きたるべき時代における保守政治の対抗軸たり得ると、
私は信じています。〉


、、、現在の世界の政治は二極化しています。
2016年のアメリカ大統領選で、
ドナルド・トランプと、
ヒラリー・クリントンの他に、
もうひとり脚光を浴びた人物がいます。
民主党の代表候補になりかけた、
バーニー・サンダースがその人です。

この人は「大学無償化」などの政策を掲げ、
若者の無党派層から熱狂的に支持されました。
彼は自分はコミュニストだと公言するほど、
「左寄り」の人で、
トランプの「新自由主義的な右」と比べると、
真逆に位置する人です。
トランプが「右のポピュリズム」だとしたら、
サンダースは「左のポピュリズム」なのです。

「政治の物差し」というものがあったとしましょう。
1メートルの物差しで、
右に50センチ、左に50センチあるとする。

かつての政治というのは、
右10センチ、左10センチぐらいのところで、
侃々諤々やっていた。
つまり中道右派VS中道左派の戦いだった。

しかしトランプ氏ならば、
「右に48センチ行ったところ」にいるし、
サンダース氏ならば、
「左に48センチ行ったところにいる」みたいに、
極端VS極端の戦いになってきている。
この流れは日本も例外ではありません。

それだけ社会が行き詰まっている証拠なのですが、
これをどう「超克」していくのか、
というのは、実は現代思想の、
最もホットな課題なのです。

著者は鬱病の経験によって、
新しい視座らしきものを見つけつつあるのが分かります。
それが著者の言う「赤い新自由主義」です。

「伝統的家族像」とか、
「終身雇用」とか、
保守が掲げる「理想」から、
人々を自由にしていくという意味では新自由主義的でありながら、
「能力の差」は許容しつつ、
その競争が万人の疲弊のためではなく、
万人の相互利益のために働くような、
「コミュニズム(共存主義)」の社会、
そういったグランドデザインを、
私たちはそろそろ描き始めるべきなのではないか。

極右VS極左の、
終わりなき不毛な消耗戦を、
私たちはやめるべきなのではないか、
という提示です。


先に進みます。


▼▼▼知性のほんとうの意味を取り戻した著者

→P276〜279 
〈私が通ったデイケアには、月に2回ずつ、
患者同士でテーマを決めて話し合う時間がありました。
 (中略)
発病から休職、人によっては離職という経緯を経て、
いやおうなく、自分が想定していたのとは
違う人生を歩まざるを得ない。
そのなかでみな、
「そもそもこれまで自分が前提にしていたことは、
正しかったのか」を悩んでいました。

これはほんらい、
「知性」に求めれてきた働きと、
同じものだといえます。
4章で、一般的には反知性主義と訳されている
「反正統主義」についてのべました。
従来の社会でオーソドックスだとされてきた考え方が、
本当に正しいのかを再検討した結果、
既存の権威を否定していく。
それじたいは、反知性として貶められるべきものではなく、
知性の働きそのものです。
 (中略)
(学問的正統主義に引きこもりつつ
実用主義的にTOEICなどを採り入れる日本のアカデミズムの)
そういうライフハックのような知性の売り方を、
もうやめようではないか。
既存の社会に「いかに適応するか」ではなく、
「いかに疑うか・変えていくか」という、
知性が本来持っていたはずの輝きを、取り戻そうではないか。

結局はそれが、
いまいちばん伝えたいことなのだと再認識させられたのが、
私にとっての療養生活だったのだと思います。
入院中からデイケアへと続いた、
自身の人生観自体を考え直すピア・サポートのなかで、
私は自分のやりたかったことを、
もういちどみつけることができました。

もし、自分の能力について悩む人がいるなら
「こうすれば能力が上がる」ではなく、
「能力は私有物ではない」と伝えたいと思います。〉


、、、この部分は深すぎて、
私自身性格に読めているかどうか自信がないのですが、
私なりに理解したことに基づき解説するとこうなります。

著者は鬱病を患い、
病室で同病者たちと語り合った。
その対話の中から浮かび上がったのは、
「自分の前提を疑わざるを得ない」という共通経験だった。

著者はしかし、そこで「知性」の本当の意味に出会った。
つまり「知性」とは、
既存のルールのなかで、
自分に有利に事を進めるための便利なエンジンではない。
既存のルールそのものを疑い、
ルールそのものを「解体と再創造」に導くことこそ、
知性の本当の役割なのではないか?と。

自分の能力が低いことをコンプレックスに感じる。
自分の能力が高いことで思い上がっている。
このどちらも、最初のボタンを掛け違えている。

そもそも能力は、
自分のものではない。

それは私有物ではなく、
社会の共有財だ。
その前提に立つときに、
あなたの能力が高くても低くても、
新しい視座を得られる。

そういうようなことを、
著者は言っているのだと思います。

聖書に、こういう箇所があります。

「実際、からだはただ一つの部分からではなく、
多くの部分から成っています。
たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」
と言ったとしても、
それで、からだに属さなくなるわけではありません。
たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」
と言ったとしても、
それで、からだに属さなくなるわけではありません。
もし、からだ全体が目であったら、
どこで聞くのでしょうか。
もし、からだ全体が耳であったら、
どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。

しかし実際、神はみこころにしたがって、
からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。
もし全体がただ一つの部分だとしたら、
からだはどこにあるのでしょうか。
しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。
目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、
頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。

それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、
かえってなくてはならないのです。
また私たちは、
からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、
見栄えをよくするものでおおいます。
こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、
格好の良い部分はその必要がありません。

神は、劣ったところには、
見栄えをよくするものを与えて、
からだを組み合わせられました。
それは、からだの中に分裂がなく、
各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。
一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、
一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
なたがたはキリストのからだであって、
一人ひとりはその部分です。」

第一コリント人への手紙12章14〜27節


、、、これは教会について、
使徒パウロが書いた指針ですが、
與那覇さんが「赤い共産主義」とか、
「能力は私有物ではなく共有財だ」
というとき、
パウロのこの概念とかなり近い社会像を描いていると、
私は解釈しています。



▼▼▼言語と身体を駆動して疑え

→P279〜280 
〈あなたがもし、
今の社会で傷ついていると感じているなら、
それはあなたにいま、
知性を働かせる最大のチャンスが訪れているのだと、
伝えたいと思います。

あなたにはいま、
これまであたりまえだと思ってきたことが
「なぜこうなっているのだろう」というふうに見えています。
これまで存在を意識すらしなかった物事が、
「なぜ存在するのだろう」と感じられているし、
逆に思いつきもしなかったアイデアについて、
「なぜ実現しないのだろう」という気持ちがしています。

3章のことばをつかえば、
この「なぜ」という疑問を駆動させるのが、
身体的な違和感。
そしてその「なぜ」という問いを深め、
そんな問いをはじめて聞いた人にも
伝わるような説明へと導くのが、
言語による思索です。

言語ばかりに偏っては、
せっかくの知性がもういちど、
せまい大学や書物の世界に閉じてしまうと、
かつての私自身に対する反省として、
お伝えしたいと思います。

いっぽうで身体にのみ偏るなら、
そのゆくえはけっして実りあるものにはならないと、
やはり伝えなくてはならないと思います。
「ことばできちんと理解してはいないけど、
間違っていることだけは分かるんだ!」と称して、
ただ空気にあおられるように街頭に出て行った先に待つのは、
昭和にも平成にも繰り返された、幻滅と虚無だけです。〉


、、、ほとんどの人が忘れていると思いますが、
(なんせ書いた私ですらうろ覚えですから)
このカフェラテシリーズの第一回で、
與那覇さんが鬱病になった経験を、
彼は「身体による逆襲」と呼んでいました。

つまり、言語活動・意識活動に対する、
身体側の逆襲のように、
鬱病は襲ってきた、と。

ちょうど、都市生活・文明生活を享受する我々に、
自然災害が逆襲し、「自然が足場だよ!」と、
私たちに時々思い出させるように、
鬱によって暴力的に「身体レベルで脳が起動しなくなる」
ことによって、與那覇さんは、
「身体と言語(思考)」の調和について考えざるを得なくなった。

その結論部にあたるのが引用箇所です。

つまり與那覇さんは「身体的な違和感」こそが、
根源的な「なぜ」を与えることに気づいた。
そして、その根源的な「なぜ」を前に進め、
他者に共有可能な形に結晶化させるのが、
「言語活動」なのだ、ということを発見したのです。

言語活動(抽象思考)が、
言語活動の世界だけで閉じてしまうなら、
それは学者の「象牙の塔」と言われるような、
インナーサークルにしか通じないたこつぼ化し、
専門分野に引きこもる「悪い意味でのアカデミズム」を生みます。

かといって思考を捨て、
身体的な違和感だけに訴え、
身体的な行動だけに頼るなら、
70年代の安保運動の失望を繰り返すだけになる。

「身体と言語を橋渡しする」のが、
知性の本当の役割なのではないか、
これが與那覇さんが病気の中で発見した宝でした。

続いて、本書の「結語」に進みます。



▼▼▼本書の結語
→P281 
〈しかしいま、私は悲観していません。
なぜなら、病気によって強制的に大学の外へと追いやられても、
いくらでも知性に基づいて、
対話が出来る人々がいることを知っているから。

そして世界が混迷を深める中での、
あたらしい時代の到来によって、
平成の30年間を経ても生産できなかった
私たちの思考の前提が揺らぐときこそ、
知性がもういちど輝き始める時だと、信じているからです。

すこし気恥ずかしいのですが、
マルクスとエンゲルスによる1848年の
「マニフェスト」に沿ってしめくくるなら、
本書のメッセージはこうなると思います。

「知性ある人は、その発動において、
くさりのほか失うべきものをもたない。
かれらが獲得するものは、あたらしい世界である。
万国の知性ある人々の団結を!」〉


、、、病気を経て知性を「再定義」した著者は、
「知性を働かせる場所」であると一般には信じられている、
大学の現場を去らなければならなくなりました。
しかし、著者はむしろ希望にあふれてこう言います。

私(と知性ある同志たち)の戦いは終わったのではない。
今、始まったばかりなのだ、と。

デリーのゲストハウスで読みながら、
ここで私は落涙してしまいました。

、、、この本、
「おわりに」もめちゃくちゃ良いので、
あと1箇所だけ、紹介します。



▼▼▼「おわりに」より、知性とは旅のしかた
→P282〜284 
〈もういちど自分が本を書けるようになるとは、
思いもしませんでした。
はげしいうつ状態のために、
会話も困難になっていた時期には、
出版社からきた
「1行程度で推薦書籍のコメントをください」
といった依頼すら、
こたえることができませんでした。

まとまりのある文章を書く、
まして本を出版するなどと言うのは、
想像もし得ないことだったというのが、
いつわらざる事実です。
 (中略)
結果、このような書籍をつくることが
出来るまでに回復したものの、
かつて自分自身がものしたような、
学術的な専門書を読み/書きする段階には、
残念ながら到達出来ない。

そのような状態では、
大学教員としての職責を果たすことが出来ないと考えて、
離職を決意しました。
もちろん最初は、悔しくて泣きました。
しかしいま、後悔する気持ちは、まったくありません。
まだ自分が再び本を書けるとは信じられなかった頃の、
読書遍歴の過程でめぐりあったことばに、
こんなものがあります。

「しあわせとは旅のしかたであって、
 行き先のことではない」。

ロイ・M・グッドマンという米国の政治家のことばで、
箴言集などによくとられるものだそうです。
私にはその伝えたいことが、
とてもよくわかる気がします。

「知性とは学ぶ方法のことであって、
 学ぶ対象を指すものではない」。

それは、教員として大学の教壇に立つ以前から、
変わらぬ私の信条でもありました。
 (中略)
知性を失ってその場所にとどまるくらいなら、
知性と共に別の場所へ旅に出る方がずっとよい。
そうする勇気がもてなかったために、
病気という体験を必要としてしまったのだろうと、
いま私は思っています。

それでは、かつて知性が輝いていた場所よ、さようなら。
もしまた訪れることがあるなら、いつかその日まで。〉


、、、著者の「知性を巡る旅」は、
アカデミズムの世界で始まり、
大学准教授として活躍するところまでは順調でした。
ところが二つの事実が、著者の旅を阻みます。

ひとつは、
「平成の30年」を経て、
日本の「知性」が、
まったく社会とかみ合っても来なかったし、
「知性になせるはず」と夢見たものが、
むしろ体制の論理に巻き取られたり、
富や地位の獲得に利用されたり、
社会と関係ないところで空転してきたのを見たこと。
これは著者を深い迷路に迷い込ませました。

「いったい私の職業は、
 社会にとって意味があるのか?」

もう一つは「自身の鬱病罹患」でした。
これによって「知性」はメルトダウンし、
「1行の文章を書くことすら困難」な状況になり、
学者としてのキャリアを一旦諦めなければならなくなった。

しかしこの二つの「挫折」こそが、
著者が知性を「再定義」し、
「知性を再起動する」ことへの糸口となります。
著者曰く、「知性とは学ぶ方法であって、
学ぶ対象のことではない。」

これがほんとうに見えたとき、
「●●の専門家」という意味での、
アカデミックな分類はもはや意味をなさなくなりました。

そうではない。

身体的違和感に契機を発する「問題」について、
もがきながら言語化し、
誰かとつながろうとする。
そのような「知性」が駆動するなら、
それがアカデミズムの中であろうが外であろうが、
まったくかまわない。

著者はそういうところに至ったわけです。

この「知性の再定義・再発見」は、
病気により「信仰の再定義」と、
「信仰の再起動」を行った私と、
完全にシンクロしているのです。

私はこの本を読み終わり、
鬱病療養の「孤独な暗闇の旅路」を、
自分はひとりで歩いていたわけではないと知りました。

與那覇さんに私は会ったことがないけれど、
私と同じ道を歩いた人が、
他にもいたことを知ったのです。

歴史の中には、
パウロ、ヨブ、ヨナ、エレミヤなど、
與那覇さんや私と同じような、
魂の暗闇の旅を歩いた人々がいます。

「信仰の再定義」をした私は、
病気になる以前よりも、
はるかに自由に、
信仰の旅路を歩けるようになりました。
空も飛べるぐらいに。

だからといって、
かつて自分がいた場所を否定するつもりもありません。
私も、たぶん與那覇さんも、
「あいつは鬱になった。
 終わったな」と思い、
離れていった人もいる気がなんとなくするし、
自分の指からすり抜けていったチャンスもたくさんある。
そんなことそもそも、「病気のどさくさ」で覚えてません。
病者には他人を気にしてる余裕なんてないんです。

でも、笑ってこう言いたいと思います。
「また訪れる日があるなら、
 いつかまた、その日まで。」