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陣内が先週読んだ本 2019年 10月30日〜11月10日『勝利者キリスト』他

2020.03.31 Tuesday

第115号 2019年11月26日配信号

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 陣内が先週読んだ本 
期間:2019年 10月30日〜11月10日
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

先週私が読んだ本(読み終わった本)を紹介していきます。
一週間に一冊も本を読まない、
ということは、病気で文字が読めなかった数ヶ月を除くと、
ここ数年あまり記憶にないですから、
このコーナーは、当メルマガの
レギュラーコーナー的にしていきたいと思っています。
何も読まなかった、という週は、、、
まぁ、そのとき考えます笑。

ただ紹介するのも面白みがないので、
twitterに準じて、
140文字で「ブリーフィング」します。
「超要約」ですね。
(どうしても140字を超えちゃうこともあります。
 140文字はあくまで「努力目標」と捉えてください笑。)

忙しい皆さんになり代わって、
私が読んだ本の内容を圧縮して紹介できればと思います。
ここで紹介した本や著者、テーマなどについて、
Q&Aコーナーにて質問くださったりしたら、
とても嬉しいです。


●勝利者キリスト

読了した日:2019年10月30日
読んだ方法:山田和音君に借りる

著者:グスタフ・アウレン
出版年:1982年(原著初版1930年)
出版社:教文館

リンク:
https://bre.is/u2ubhgZb

▼140文字ブリーフィング:

「よにでしセミナー」の第一期修了生でもあり、
それ以来の友人でもある山田和音くんとは、
時々話しては「最近面白かった本は?」と教えてもらってます。
「良い本を紹介してくれる友人」は、
人生を確実に豊かにしてくれます。

『勝利者キリスト』は、
今年の春に彼から紹介してもらって、
読みたかったんだけど、
もう絶版になってて、
Amazonで古本を買うと、
なんと2万円オーバー!!
ということで、
山田君に夏に会ったときに貸してもらいました。

そんで読んだわけですけど、
確かにすごく面白かったです。

著者のスウェーデンの神学者、
グスタフ・アウレンは、
ディートリッヒ・ボンヘッファーとかと同じ世代です。
本書は、キリスト教の歴史を通して、
「贖罪(救済)」というものが、
どのように変遷してきたかをなぞる、
という内容の書籍です。
神学の世界ではこれを「贖罪論」と呼ぶので、
「贖罪論の歴史」が本書のテーマです。

著者は、プロテスタント神学では主流の、
「ラテン型」救済論の陰に隠れてきたが、
確実に同じぐらい重要であるはずなのに、
長らく忘れられてきた「古典型」贖罪論が存在するのだ、
と指摘します。

→P11 
〈それゆえ、
私は普通客観説と呼ばれる類型の贖罪説を「ラテン」型と呼ぼう。
なぜなら、それは西方のラテン的土壌で埋まれ、
発展したからである。

そして、二元論的な
ドラマティックな見解を贖罪の「古典的思想」と呼ぼう。
古典的思想は、実のところ、
その重要性を誇張してもしすぎることがないほどの位置を、
キリスト教教理史の中で占めてきた。
それは種々な形態において表現されており、
そのすべてが同じような実りをもたらしたわけではないけれども、
初期の教会においては
ずっと支配的な贖罪思想であったことは議論の余地がない。
それはまた実際新約聖書における支配的な思想でもある。
そのことを私は示したいと思う。〉


、、、クリスチャンの中に、
「神学なんて必要ない」
という人が時々いますが、
それは暴論というものです。
もっと言えば「あさはか」です。

もし神学というものがなければ、
我々はそもそも、
いまだに日本語で聖書を読んでいないでしょうし、
「祭司を通してしか祈れない」ため、
日々神に祈る、という私たちの、
当たり前の信仰の形も存在しません。

神学は私たち「信仰の呼吸をする環境」
を整えているようなものなので、
「神学が必要ない」と言っている人は、
水や空気が当たり前にありすぎて、
その恩恵を意識できていない人と同じです。
「上下水道局など必要ない」と言うのは自由ですが、
本当になくなればその人は「万年下痢確定」です。

ではたとえば「贖罪論」は、
どのような影響を、
我々の信仰に及ぼすか?

めちゃくちゃ及ぼします。

キリストは「罪の罰」を、
その十字架で担ってくれた。
それは裁判で有罪になったあなたの、
「保釈金」を払ってくれたようなものだ。
だからあなたは自由の身になれる、
っていう説明ってあるじゃないですか。

あるいはこういうのもあります。

あなたはおもちゃ職人が作ったおもちゃで、
めちゃくちゃ高価なものだった。
しかしそれがある日盗まれてしまった。
そのおもちゃ職人が、
ある日旅先で訪れた古美術屋で、
「あなた」が1000万円で売られているのを見つけた。
おもちゃ職人は、それが本当は自分のものだと知りながら、
1000万円を支払い、あなたを「再度買い取った」。
これがあなたと神の間に起きたことです。

こういった「比喩」の背後には、
「贖罪論」があります。
どのような「贖罪論」をとるかによって、
私たちの「救済の意味」すら変わるのです。

ひとつ忘れてはならないのは、
それらの贖罪論は互いに排他的なものではなく、
複数の贖罪論(救済観)は共存可能だということです。
なぜなら神学の究極のテキストは聖書であり、
その聖書というテキストをもとに、
神学者は「贖罪論」を構成していくからです。

さて。

アウレンは「主観論」と「客観論(=ラテン型)」が、
現在の西方キリスト教会、
つまりプロテスタントとカトリックでは主流であり、
それによって「古典型贖罪論」のもつ豊かさが、
隅に追いやられている、と論ずるわけです。

ちなみに私が先ほど挙げた二つの例、
「裁判で有罪になったあなたの罪の保釈金」
「おもちゃ職人がおもちゃを再度買い取る」
これは両方とも「ラテン型」贖罪観に基づきます。

「ラテン型」の顕著な特徴は、
それが「法律」の類比で理解されることです。
そしてこの立場を取ると便利なのは、
「神義論」と呼ばれる、
「神の正しさと不変性」を論証する神学の分野と、
矛盾が生じないことです。

この「論理的なわかりやすさ」
こそが、特に近世以降の、
「合理主義・啓蒙主義」の流れのなかで、
多くの神学者たちの心を捉えたから、
「ラテン型贖罪論」はこれほど支配的になったんだよ、
とアウレンは言うのです。

→P184 
〈以上の考察は、古典的贖罪思想が抑圧され、
軽蔑をもって扱われてきた
一つの究極的理由を
我々に明らかにするのに役立つであろう。
神学があらゆるものを十分に
合理的に説明しようと思い始めるとき
あらゆる矛盾を含む古典的思想を
排除しなければならないのは余りに明らかである。
それは真理を表現する企てにおける粗野で原始的な段階であり、
もっと正確で適切な定式に
取って代わられなければならないからである。〉


、、、しかし、
神は果たして「合理的」なのだろうか?
というのがアウレンの問いです。
じっさい、宗教改革者マルティン・ルターのテキストは、
「ラテン的」というよりも「古典的」贖罪論に近い、
救済観を彼が持っていたことを示しています。

ところが「合理的説明」を求める近代啓蒙思想に、
無意識の影響を受けた中世以降の神学者たちは、
ルターの救済論に明らかに含まれている、
「古典型贖罪論」の匂いを排除していきます。
もしくはそれが彼らの「盲点」となった。
じっさいルターの弟子のメランヒトンの時点で、
すでに「古典型」の匂いは「脱臭」され、
「ラテン型」の「法律的・合理的」な、
贖罪論としてプロテスタント神学は体系化されていきます。

では、「古典型」が失われ、
「ラテン型」が支配することによって、
我々はどんな不利益を被るのか?
それは「神の業の一貫性」と、
「神と人間の距離」の疎外です。

引用します。

→P106〜107 
〈法律的思想はかくて
古典的教説において占めていた
限定された場所とは全く異なる位置を占める。
神と人との関係はアンセルムスによって
本質的に法律的関係として取り扱われる。
というのは、彼の努力全体は贖罪の業が
正義と一致することを証明することである。
ブルンナーの言葉を使えば、
この図式においては、
法律は実際に精神的世界の花崗岩的土台としてあらわされる。

他方、古典的思想にとって本質的であるのは、
神がキリストにおいて達成する贖罪の業は、
法的秩序とは全く異なる神的秩序を反映するということである。
贖罪は正義の欲求の厳格な成就によって達成されるのではなくて、
正義の欲求にもかかわらず達成されるのである。
神はなるほど不義ではないが、
彼は正義の秩序を超越する。

ラテン的理論の法律的性格と
密接に結びついているのはその合理的性格である。
アンセルムスの連続的な折り返し
(リフレイン)はnihili rationabilius
(・・・ほど理にかなっているものはない)である。
すなわち贖いへの要求と、
その要求が満たされる仕方ほど
理にかなっているものはないというのである。
Lex etratioすなわち方と合理性は、
ルターが倦むことなくいうように、分かちがたい仲間である。

しかし古典的贖罪思想は合理的体系化を無視する。
神は和解させる方であると同時に
和解させられる方でもあるという
その本質的な二面性は、
合理的記述によって解決され得ない二律背反を構成する。

以上は古典的贖罪思想とアンセルムスによって代表される
ラテン型との対照の概観として十分であろう。
それは次のように要約されるであろう。
古典的思想は神の行為における連続性と
正義の秩序における非連続性を示す。
ラテン型は神の働きにおける法的一貫性と
神の働きにおける非一貫性を示す。〉


、、、なぜ「合理的に完全」な、
法的モデルであるラテン型贖罪論だけでなく、
神が合理性・合法性を「超越」されて人を愛す、
という物語性を重視する「古典型」贖罪論を、
見直すべきだとアウレンは考えるのか?

それは「近代の限界」に時代は来ており、
それはとりもなおさず「合理性の限界」でもある。
これがポストモダンの社会の特徴です。
その社会のなかで、本当に有効な物語とは、
実は長いこと教会の伝統的な贖罪観であった、
「古典的贖罪論」という埋もれた宝にあるのではないか、
そういう「再発見・再評価」を、
アウレンは20世紀前半にすでにしていたのです。

驚くべき慧眼と言わざるを得ません。

、、、という私の解説より、
こちらの山田君の解説の方が、
もっと簡潔でわかりやすいかも知れません笑。

▼参考リンク:山田和音君のブログ
https://bre.is/LYXzJQAv
(3,649文字)



●神の物語(上)

読了した日:2019年11月5日
読んだ方法:Amazonで書籍購入

著者:マイケル・ロダール
出版年:2017年
出版社:ヨベル新書

リンク:
https://goo.gl/6oawTT

▼140文字ブリーフィング:

これも確か、
山田君のブログで見て興味を持ち、
購入してた本です。
やっと最近読みました。

こちらも「神学」がテーマですが、
特に「ウェスレアン神学」と呼ばれるものです。
そしてその「ウェスレアン神学」を、
「物語」として語ることを主眼にしているのが、
この書籍のユニークなところです。

アウレンの書籍で解説したように、
近代合理性の限界と、
ポストモダン時代の到来が、
こういった書籍が書かれる背景にあります。
「近代(合理性を無邪気に信じられた時代)」から、
「ポストモダン(後近代)」になった、
というのは「論理的整合性」への疑いでもあります。
それが「合理的説明から物語へ」のシフトをもたらしていて、
神学の世界では「組織神学」から、
「聖書神学(物語の神学)」へと、
多くの人々の関心がシフトしていることと、
じつは関係があります。

、、、で、本書の著者はそのようなことを踏まえ、
神学を「物語る」という形式に落とし込もうとしている、
とても野心的な試みなわけです。
さらに著者は「ウェスレアン神学」を、
そのような語り口で語ろうとしている。

何を隠そう私が所属している練馬グレースチャペルは、
「ホーリネス系」と呼ばれるプロテスタントの一派ですので、
まさに「ウェスレアン神学」の伝統を受け継いでいるのです。
自分が所属する教会の神学を知っておくことは、
自分の足下を知ることになりますので、
とても有意義に違いない、
と思い、Amazonで購入した次第です。

上下巻のうち「上」を読了しましたが、
めっちゃくちゃ良かったです。
いろいろありすぎて書き切れないのですが、
まず「ホーリネスといえばコレ」というものの一つに、
「聖め」があります。
「聖化」と言われたりもします。
だからホーリネスは別名「聖め派」と呼ばれていた頃もあるぐらい。

だから練馬グレースチャペルでも、
「聖め」っていう言葉は、
他の教会に比較すればかなり多い頻度で、
使われたりするわけです。

その「ルーツ」である、
ジョン・ウェスレーは、
「聖め」をどう定義していたのか?

これが、私にとっては目から鱗でした。

引用します。

→P46 
〈ウェスレーにとって、
この「聖書的聖め」または「キリスト者の完全」の本質は、
全存在をもって神を愛し、
自分自身を愛するように他人を愛することである。
それは「愛における」完全である。

律法主義的な空想上の絶対的完全とは全く関係がない。
またそれは神との関係、
隣人との関係における完全であって、
愛によって「完成される」ものである。
ウェスレーはこう表現する。

「キリスト者の完全はこれ以上のものでもなく、
これ以下のものでもない。
すなわち、神と一への純粋な愛、
心と精神を尽くして神を愛し、
自分自身のように隣人を愛することがそれだ。
この愛が心と生活を治め、
気質(すなわち思いと感情の習慣)と言葉と行いを支配すること。
私はこれ以外のことを求めていない。
私が意図する完全あるいは聖めとはただこのことである」〉


、、、「聖め」「聖化」という言葉が、
最初に人々に呼び起こす印象は、
多分「きよめられたクリスチャン」みたいなステレオタイプで、
たとえばロック音楽を聴かない、
映画は観ない、
世俗的なテレビ番組は見ない、
酒場に行かない、
ゲームセンターに近づかない、
「世俗的な」書籍は読まない。
「世俗的な」趣味も持たない。
、、、読むのはただ聖書だけ。
、、、趣味は「祈ること」。

こういう、
「足が地上から1センチ浮いた状態で生活してる」
みたいな、中世の修道僧が、
そのまま世俗界で生活してるみたいなイメージだったりします。
「汚れたこの世界」の汚染から、
ひたすら自分たちを守っている人、
っていうのが案外「聖められた人」の、
ステレオタイプだったりします。

しかし、ウェスレーまで遡ると、
なんとウェスレーは、
一言もそんなことは言ってない(驚愕!)。

そうじゃない。
聖められた人とは、
「神を愛し、
 隣人を愛する人」のこと。
これ以外に何も求めてない、
っていうんです。

逆に「汚れたこの世の中」と無縁に、
『霊的無菌状態』で生きるというのは、
隣人愛を不可能にします。
だって愛すべき隣人は、
この世の中にいるんですから。

だからイエスは、
「食いしん坊の大酒飲み」と、
宗教的な人々から中傷されたんですし。

時々ルーツに帰らないと、
私たちの「伝統」は、
簡単に道を誤るんだなぁ、
と思いながらこの箇所を読みました。

、、、「伝統」といえば、
ウェスレーは「伝統」を軽視した訳ではありません。
「それがすべてじゃない」って言ったんです。

引用します。

→P78 
〈個人的な経験に訴えることは、
ウェスレアン神学の大きな特徴の一つである。
ジョン・ウェスレーの時代、
大部分の英国国教会の神学者は、
聖書がクリスチャンの信仰と礼拝の
主要な権威ある源であることを語り、
また伝統と理性がその大切な支えであることを理解していた。

けれどもウェスレーはそれらに、
宗教的真理を確認する役割を果たす個人的な経験を加えた。
著名なメソジスト神学者アルバート・アウトラー(1908〜1989)にならって、
ウェスレアン神学に立つクリスチャンたちは、
聖書・伝統・理性・経験という
「ウェスレアン神学の四辺形」に注目し、
神の物語を聞き、語る際に、その重要性を認めている。〉


・聖書
・伝統
・理性
・経験

この四つが大切だよ、
ってウェスレーは語ったわけです。
このうちのどれかが欠けると、
私たちはバランスを崩します。
四輪車が、三輪車になるのです。

だから「聖書の身勝手な解釈」はダメだし、
「伝統の軽視」もダメです。
伝統を軽視するのは、先人の知恵をゼロ査定することであり、
愚かとしか言いようがありません。
「反知性主義」もダメです。
神は人間に知性・理性を与えました。
それを放棄するというのは、
神を知ることをあきらめるのに似ています。
最後に経験を軽視するのもダメです。
実体験・実生活での神との個々の出会いの経験を軽視すると、
私たちは「過去と理性」のみに軸足を置くことになり、
信仰はダイナミズムを失うからです。
躍動感は失われ、冷たい前例主義だけが幅を効かせます。

凡庸な表現ですが、
「温故知新」というのは、
こういうことをいうなぁ、
と思いながら読みました。
自分の属する教会の、
依拠している神学を学べる有意義な書籍でした。

あと、私の長たらしい説明よりも、
こっちのほうがわかりやすいかも知れません(二回目)。

▼参考ブログ:ちょうをゆめみるいもむし
https://bre.is/FegzaSza
(2,613文字)



●予言の島

読了した日:2019年11月8日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:澤村伊智
出版年:2019年
出版社:角川書店

リンク:
https://bre.is/NzFr3zCQ

▼140文字ブリーフィング:

映画化された
「ぼぎわんが、来る。」を読んでから、
新進気鋭のホラー作家、
澤村伊智の本を、わりと立て続けに読んできました。
彼の最新作『予言の島』は、
ちょっとこれまでと違う感じの作風で、
ホラーとみせてミステリーであり、
環境問題だとかの要素も含んでいる、、、
という多義的な作品です。
結果的に「母という病」の路線の恐怖に着地する、
という結末は意外でした。
彼はやはり「家族という病」とか、
「機能不全家族」を描きたい人なんだと、
この作品で確信しました。
(219文字)



●節英のすすめ

読了した日:2019年11月9日
読んだ方法:山田和音君に借りる

著者:木村護クリストフ
出版年:2016年
出版社:萬書房

リンク:
https://bre.is/4pex6H76

▼140文字ブリーフィング:

こちらも山田和音君に借りました。
現在の「ユニバーサル言語」である英語を、
便利だからという理由で使いまくることが、
じつは結構いろんな意味でヤバイかもよ、
というような本です。
著者はドイツ人と日本人のダブルの言語学者です。
ドイツ語・日本語を話し、
なおかつ英語の他に多言語を操りますが、
国際社会における「英語の便利さ」が、
じつは多様性を奪ったり、
深い思考を妨げたりするという弊害をもたらしている、
という警鐘を鳴らします。

「英語万能主義」に疑問を持たない日本の英語信仰は、
ちょっと異常な領域に達していると私も思います。
電気は確かに便利ですが、
「オール電化」にリスクがあることは、
あの震災で私たちは学んだはずです。
と同じようなリスクが、
「オール英語化」にもつきまとうのだから、
「節電」と同じく「節英」も必要なのではないか、
というのが著者の主張です。
私もそう思います。

まずは日本語運用能力を高めましょう。
日本語って、多くの人は「使えている」
と思っていますが、
使いこなせていない人が相当数いる、
というのが私の見立てです。
「炊飯器で米を炊けて、目玉焼きを作れる」
ことをもって「料理ができる」って言ってるようなもので、
日本で生活できているからといって、
「日本語が使えている」とは言えないのです。
「任意の本を一冊読んで、
 その内容を自分の言葉で、
 他者に簡潔に説明できる」
ということが、「料理が出来る」最低レベルだと、
私は思っています。
そう考えると、
このレベルで日本語を使える人は、
人口の5割以下だと私は思います。
下手すると2割を切るかもしれない。

その人が英語を学んでも、
その英語を使って成し遂げられることは、
AI時代にはほとんど何もないでしょう。
(647文字)



●読書会入門 人が本で交わる場所

読了した日:2019年11月10日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:山本多津也
出版年:2019年
出版社:幻冬舎新書

リンク:
https://bre.is/UBrHZ72V

▼140文字ブリーフィング:

猫町倶楽部という、
日本最大の読書会を主催するビジネスマンである山本さんが、
名古屋で発足した読書会が、
どのように成長してきたかを語ります。
このメルマガ主催の「オフ会」を、
来年はやりたいなーと思ってるのですが、
それを『読書会』という形にしようかな、
と本書を読んで思いました。
(135文字)



▼▼▼リコメンド本「今週の一冊」▼▼▼

ご紹介した本の中から、
「いちばんオススメだったのは?」という基準でリコメンドします。
「いちばん優れていた本」というよりも、
「いちばんインパクトの大きかった本」という選考基準です。
皆さんの書籍選びの参考にしていただけたら幸いです。


▼今週の一冊:『勝利者キリスト』

コメント:

贖罪論に関する本書は、
とても有意義でした。
あとでじわじわ効いてくる系の本です。



▼▼▼部門賞▼▼▼

ご紹介した書籍の中から、
陣内の独断と偏見で、
「○○賞」という形で、
特筆すべき本をピックアップします。
こちらも何かのご参考にしてくだされば幸いです。

▼「温故知新賞」
『神の物語』(上)

コメント:

これも素晴らしかったですね。
自らのルーツをちゃんと勉強する、
ということの実り多さを体験しました。