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2019年版・陣内が今年読んだ本ベスト10(3〜1位)

2020.05.04 Monday

第120号(最終号)  2019年12月31日配信号

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 2019年版・陣内が今年読んだ本ベスト10(3〜1位)
お待たせしました、年末特別企画です。
普段私は読んだ本に点数をつけたりランキングしません。
ランキングすることで切り捨てられる大切なものがあるからです。
なので、この企画は「年に一度だけ」の特別企画です。
前編は10位〜8位まで、
中編は7位〜4位まで、
後編はベスト3のカウントダウン形式で、
ご紹介していきます。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

●第3位 遅刻してくれてありがとう 常識が通じない時代の生き方(上・下)

読了した日:2019年2月4日
読んだ方法:Amazonで電子書籍購入

著者:トーマス・フリードマン
出版年:2018年
出版社:日本経済新聞社

リンク:

http://amzn.asia/d/7GBnUZJ

▼140文字ブリーフィング:

本書はある方から勧めていただき、
Kindleで電子書籍を購入して読みました。
2018年にタイに行ったときに読んでた記憶があるので、
足かけ2年にわたってちびちびスルメを味わうように読んだ本です。

著者のトーマス・フリードマンは、
「フラット化する世界」を書いたことで有名な、
ピューリッツァー賞を3度も受賞している文筆家です。
知の巨人ですね。「アメリカ版・立花隆」と考えてもらって、
だいたい間違ってないんじゃないかな。

本書をひとことで定義するのは非常に難しいのですが、
「現代という時代」についての長大なエッセイ、
と考えてもらってかまわない、
と著者は本書のなかで述べています。

「今後5年から10年、
アイディアの『核』となりそうだぞ」
という着想をいくつも私は本書から得ました。
そのなかからいくつかご紹介しす。

まず前提として著者は、
現代を「加速の時代」と定義します。
そして加速の時代には、
「(これまでの)常識が通じない」と。
これが本書サブタイトルになっています。

→位置No.56 
〈かつて、ドイツの金属加工職人で
印刷業者のヨハネス・グーテンベルクは、
ヨーロッパで革命的な印刷技術を発明し、
それが宗教改革への道を拓いたが、
それ以降、現在の状況に匹敵するほどの
事態はなかったと言えるだろう。

地球上の3つの大きな力
――テクノロジー、グローバリゼーション、気候変動――が、
いまはすべて同時に加速している。
その結果、私たちの社会、職場、
地政学的要素が変容しつつあり、
新しく捉え直す必要が生じている。〉


、、、何が現代をして、
「加速の時代」たらしめているのか?
それは、
・テクノロジー
・グローバリゼーション
・気候変動
この3つが同時に加速しているからだ、
と著者は言っています。
そしてその変化というのは、
「グーテンベルク以来の衝撃」なのだと。

そのような時代にそれでは、
私たちはどのように生きれば良いのか?
まず「安定とは何か?」の、
コンセプトが変わるだろう、
と著者は言います。

→位置No.699 
〈テラーによれば、
イノベーションのサイクルがますます短くなり、
適応の時間がますます減るなかで、
私たちが今経験しているのは要するに
「絶え間ない不安定と、たまの不安定の違いだ」。
静止した安定の時代は過去のものだ、
とテラーは付け加えた。

だからといって、
新たなかたちの安定が得られないわけではないが、
「あらたなかたちの安定は、
動的な安定にならざるを得ない。
自転車に乗っているときのように、
じっと立っていることは出来ないが、
動き出せばかなり楽になる安定のかたちがいろいろある。
私たちにとって自然な状態とは言えない。
しかし、人類はそういう状態の中で存在することを、
学ばなければならない」。

私たちはみんな、
自転車に乗るコツを覚えなければならない。
テラーはいう。
それができたら
「曲がりなりにも私たちはまた平静になるだろうが、
それにはかなり再学習が必要だろう。
いまの私たちが、
子どもに動的安定の訓練を
施していないことは明らかだ」。〉


、、、「加速の時代」の安定は、
これまで私たちが考えてきた安定ではないのです。
社会全体が安定しているときの安定は、
「静的(スタティック)な安定」です。
つまり、頑丈でどでかいビルを建て、
その中に守られていることをもって、
「安定」と我々は呼んできたし、
ここでも指摘されているように、
いまだに私たちは子どもたちに、
「静的な安定こそが安定だよ」と、
教え続けているのです。
それはつまり、
「良い大学を出れば安心」
「大きな会社に入れば安心」
「公務員になれば安心」
みたいなやつです。

しかし、
社会全体が不安定な現代では、
本当の安定とは、
「動的(ダイナミック)な安定」
にならざるをえない、
とここで指摘されています。

逆に「静的安定」は「停滞という最大のリスク」になる。
「どでかいビル」はそれ自体が不良債権化するかもしれないし、
「ビルごと倒壊」するかもしれない時代なのです。

「動的安定」とはそれでは、一体何なのか?
それはつまり、自転車をこぎ続けているような安定です。
漕いで進んでいる自転車は、
「静止画では不安定だが動画では安定している」のです。
これからの時代を生きる私たちは、
「自転車のこぎ方を学ばなければならない」。
このアイディアは、
私自身の生き方にとっても、
とても大切なアイディアであり続けています。

では、そのような時代に、
「仕事」はどう変わるのか?
著者は、「仕事は探すもの」から、
「仕事は作るもの」になるだろう、
といいます。

→位置No.5423 
〈だから私はいつも娘たちに言い聞かせる。
私が大学を卒業したときには、
職を探さなければならなかった
――それをもう40年近く続けてきた。

でも、これからは、娘たちは職を作り出さなければならない。
そして、変化のサイクルのたびに、創り続けなければならない。〉


、、、オックスフォード大学の、
「消滅する仕事ランキング」の話をするまでもなく、
今後30年で、仕事を巡る環境は激変します。
今の子どもたちは、
「仕事を選べない」のです。
「仕事を選んでいられない」
という意味ではありません。
そうではなく、
別の理由で「選択」が不可能なのです。

なぜか?

彼らは、
彼らの多くが将来就く仕事の名前を、
今はまだ知らないからです。
彼らが大人になったときに就く仕事の多くは、
現在、まだ存在すらしていないのです。

30年後の彼らは、
私たちが今はまだ耳にしたことのない職業に
就いているいる可能性が高いとフリードマンは言います。
200年前の社会人が、
現代の私たちの職業を予想できなかったのと同じように。

「どんな仕事に就きたい?」
はだから、
「大人がしてはいけない子どもへの愚かな質問」
だとフリードマンは言います。

では正しい質問は何か?
「大人になったらどんなふうになるか?」
「大好きなことは何か?」
「大好きなことを生産的にするのに、
どうするつもりか?」

私たちは子どもにこう問うべきなのです。
彼らは自分たちがこれからする仕事を、
「選ぶ」のではなく「創る」必要があるからです。

本書の構成はユニークで、
上巻では今挙げたような、
激変する「加速の時代」に、
私たちはどのように生きるか、
という示唆が続きますが、
下巻の8割ぐらいは、
著者が生まれ育ったミネアポリスの、
セントルイスパークの話になります。

未来の話をしていたかと思うと、
突然「過去の話」になるのです。
そして、彼は、
「多元的共存を実現するコミュニティ」が、
どれほど大切か、という結論に着地します。

現代のアメリカは危機に立っている。
それを救済するのは、
猛々しいナショナリズムでもなければ、
ユートピア的な社会主義でもない。
そのどちらでもなく、
「足腰の強い中間共同体」が必要なのだと著者は言います。
そのような中間共同体たるコミュニティが、
「多元的共存」を実現する。
多元的共存から人は新たなアイディアを生む、
というのは歴史の必然であり、
そこから私たちは前進していくのだ、
というのが著者のメッセージです。

トランプでもサンダースでもないんだよ。
ようはコミュニティだよ、バーカ、
ってことです。
私も賛成します。
引用します。

→位置No.5075 
〈だが、トランプが就任式で述べたディストピア演説は、
そういう実像とはかけ離れていた。
トランプは、アメリカは膨大な
“大虐殺”に捕らえられた国だと表現した
――「錆び付いた工場が墓石のように散らばっている」光景が、
強権を振るう男を求め、
”アメリカ・ファースト”の方針の下、
盗まれた雇用を国際社会から取り戻せと叫んでいるのだ、と。

あまりにもショッキングな演説だったので、
就任式の舞台にいたジョージ・W・ブッシュ元大統領が
周囲の人間に「ほんとうに不気味なたわごとだ」と
ささやいたと伝えられている。

ブッシュに同感だ。

アメリカでコミュニティの没落が
蔓延しているというトランプの意見は正しい。
しかし、繁栄しているコミュニティも豊富に存在することを、
トランプは見落としている
――ワシントンDCで強権を振るう人間のおかげではなく、
地元レベルに強力な指導者がいるからだ。

それだけではなく、アメリカが、
東海岸および西海岸
(勃興し、現代化し、多元的共存を実現し、
グローバル化している)と、
そのあいだの内陸部
(雇用が消滅し、薬物中毒がはびこり、
トランプに1950年代に戻してもらうことをだれもが期待している)に
分断されている国だという突拍子もない考えは、
まったくの的外れだ。

私はアメリカ各地を旅した観点から、
大きな分断は東西海岸と内陸部の間にあるのではないと断言する。
分断は、強力なコミュニティと弱いコミュニティの間にある。
東海岸にも西海岸にも弱いコミュニティはあり、
アパラチアにも栄えているコミュニティはある。

その逆のことも言える。

大事なのはコミュニティだ、馬鹿だな
――地理じゃあない(It's the economy, stupidのもじり)。
セントルイスパークとミネアポリスは、
たまたま私が知っている場所なので、
本書で大きく取り上げた。

だが、ここ数年の旅で、
ほかにも数多くの繁栄している地方があることを、
私は知った。
だから、その裏付けを取るために、
2017年5月、私はアメリカ内陸部を4日かけて車で旅行した
――インディアナ州オースティンからはじめて、
ケンタッキー州ルイビルへと南下し、
アパラチアのくねくねとした道路を走って、
最後にはテネシー州のオークリッジ国立研究所まで行った。

この旅行をもとに、
私は《ニューヨーク・タイムズ》に長いコラムを書き、
現在のアメリカには栄えているコミュニティと
落ち目のコミュニティが、
不規則な模様をなして混在していると力説した。

*"It's the economy, stupid"
(日本語訳:ようは経済だ、バーカ)は、
アメリカ合衆国の政治において
ビル・クリントンがジョージ・H・W・ブッシュに対して
勝利を収めた1992年アメリカ合衆国大統領選挙の最中、
広く使われた言い回しである。〉
(3,917文字)



●第2位 衰退の法則 日本企業を蝕むサイレントキラーの正体

読了した日:2019年3月20日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:小城武彦
出版年:2017年
出版社:東洋経済新報社

リンク:
https://goo.gl/GwQxjK

▼140文字ブリーフィング:

産業再生機構に勤務していた著者が、
「破綻する日本企業には、類似点が多い」
という問題意識を検証するために
東大大学院に入り直して博士論文を書いたものを
一般向けにリライトしたのが本書になります。

これがすこぶる面白くって、
丸山眞男の「たこつぼ」の概念を、
さらに一歩踏み込んで、
そのメカニズムにまで立ち入り、
その自己理解を一歩進めた感じの内容です。

「組織」に興味がある人は必読です。
本書は企業に関しての分析ですが、
教会もまた組織という一面をもちますので、
教会運営にも非常に参考になるはずです。

どういうことか?

「日本人が複数集まるとこうなりがち」
という「クセ」があるんです。
それは文化的要因に根ざしているので、
一般企業でも教会でもその傾向は類似しています。
ではその「クセ」を補強し、補完し、
なるべくそのマイナス面を打ち消しつつ、
プラス面が発揮されるように、
どのような介入を行えば良いか、
というのが本書の内容になっています。

これには「事業環境の激変」という、
大きな外部要因があるんです。
日本の組織が陥りがちな「クセ」っていうのは、
「事業環境が安定した状態」では、
けっこうメリットになることも多かった。
しかし事業環境が激変するとき、
その「クセ」はマイナスにしか作用しない。
そういう感じです。

運動会の種目が「綱引き」のときは、
相撲取りは有利なのですが、
種目が変わって「平均台渡り」になると、
相撲取りは不利です。
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代の日本企業って、
相撲とりっぽいんですよね。
「やることが決まっていて、
 それをいかに効率化するか」
ということにおいて、日本は実際世界一だったのです。

ところが現代社会は、
「そもそもやることが決まっておらず、
 昨日の成功は今日、忘れなければならない。
 日々、何か新しいことを
 生み出していかなければならない」
という状況になると、
その「強み」が今度は「弱み」になる。
こういうことが同時多発的に起きているのが、
過去20年の日本の経済停滞の正体なのです。

ほら。

教会にも関係あると思うでしょ。

めちゃくちゃたくさんメモしたので、
網羅的に説明することはここではあきらめます。
たとえば「意志決定」ひとつを取り上げましょう。
日本型破綻企業の意思決定の特徴は、
それが「予定調和的」だということです。

引用します。

→P73〜74 
〈以上が破綻企業に共通する意思決定プロセスの特徴である。
破綻企業の取締役会や経営会議は、

1.侃々諤々の議論、
「ガチンコの議論」が行われることはなく、
2.役職上位者や有力者の意見に過度に同調する傾向が見られ、
3.全会一致で決議されるのが通例であり、
4.出席者間に暗黙の相互不可侵の合意が存在するため、
部分最適の議論が大半を占めている。また、
5.対立を生じさせかねないPDCAは巧みに回避されている。

破綻企業の経営陣の意思決定プロセスには、
こうした「予定調和的色彩」がきわめて強く表出している。
こうした意思決定プロセスが、
後に破綻企業にとって
致命的なダメージを与えることになるのである。〉


、、、いかがでしょう?
日本で3年以上社会人をしている人で、
上記1〜5に心当たりがない、
という人は皆無なのではないでしょうか?

そして、このような組織文化の、
「できるヤツ」は、
今の時代に本当に必要な、「できるヤツ」と、
かなり違ってくると著者は分析します。

再び引用します。

→P77〜78 
〈インタビューを通して、
浮かび上がってきた破綻企業の
「できるヤツ」の条件は、次の三つである。

1.自分の意見を控え、経営陣、
特に有力者の考えを忖度し、
その実現に向けて社内を調整する能力が高いこと
2.派閥・学閥・本流部門など、
強い政治良くを有する集団に所属すること
3.出過ぎず、気が利くこと〉


、、、どうでしょう。
「こういう人が出世する組織は破綻する」
と著者は言っています。
ではどんな組織が生き残るのか?

この逆です。
トップに対しても正論を言える人、
「波風を立てでも」必要な施策を主張できる人、
派閥、学閥などの政治に「興味ない」人、
そういったこと抜きに本当に大切なことを敢行できる人、
空気をあえて読まず、必要なことを発言できる人。

こういう人が評価される組織文化がある企業は、
不景気の中でも確実に業績を伸ばしている、
と著者は分析していきます。

そんな文化を創るにはどうすれば良いのか?
それは大企業と中小企業で違うのですが、
それぞれに具体的な提言を著者は続けます。

めちゃくちゃ面白そうでしょ?

この先が聞きたい人は、
お手数ですが私に直接聞きに来てください。
ここでは残念ながら文字数オーバーです。
(1,875文字)



●第1位 神は何のために動物を造ったのか 動物の権利の神学

読了した日:2019年3月29日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:アンドリュー・リンゼイ
出版年:2001年
出版社:教文館

リンク:
https://goo.gl/ygiKHH

▼140文字ブリーフィング:

いよいよ注目の第一です。
これは、3月に本書を読み終わった時点で、
もうすでに決まっていました。
「これが今年の本、第一位だ」と。

著者はイギリスの神学者、
アンドリュー・リンゼイという人です。
日本語の題名は「神は何のために、、、」ですが、
英語原題はズバリ、
「Animal Theology (動物神学)」です。

3年前から私は帝京科学大学の非常勤講師をしています。
とは言っても年に2度の特別講義(とレポート採点)をするだけで、
収入も単発のアルバイト程度(かそれ以下)なのですが、
私にとってその収入以上に魅力的なのが、
「教えるからには学ばねばならない」
という状況に自分が置かれ、
この分野の自分の知識の地平線が広がり続けていることです。
これは「換金不能」な価値です。

どういうことか?

私が担当している講座の名前は、
「動物国際事情」です。
私は獣医師であり、
加えてNGOの活動で海外の社会について知っている、
という二つの要素を持つ珍しい人間なので、
その私に是非、という形で、
同大学の教授をしている知り合いの方が、
私に依頼してくださったのが、
私がこの授業を担当するようになったきっかけでした。

そんで、
昨今の大学というのは、
授業の組み合わせがテトリスよりも複雑なんですよね。
授業を構成している教授陣ですら、
すべてを把握出来ないほど複雑になっている。

講師にとってそれが何を意味するかというと、
「前期と後期」および、
「去年と今年」で、
毎回、すべての学生が入れ替わるとは限らない、
ということが起きます。
そうすると講師は、「毎回違う話をする」
必要が生じる。

もちろん同じ授業なのですから、
同じことを話しても良いのですが、
私は大学生のとき、
「この先生、もう30年ぐらい、
 同じ教科書を使って、
 同じ授業用のノートを使って、
 そして90分間それを読み上げる、
 という授業をしてるんだろうなー」
という先生が何人かいて、
その授業がすこぶる退屈でした。

「これだったら自習してた方がいいわ」と。

逆に楽しい授業というのは、
その先生自身が、
その授業の内容に対して熱を帯びている授業でした。
その先生自身が「発見する喜び」に満ちていて、
知的好奇心が発露している。
そんな授業はワクワクしました。

願わくば私も、
後者でありたいわけじゃないですか。

なので毎回、
自分なりにこのテーマについて、
新しく何か発見した状態で臨みたい、
と思いまして、この三年ほど、
「動物」「世界」「思想」といったキーワードの本を、
定期的に読み続けています。

さらにこの授業は、
ほぼ100%キリスト教徒ではない学生たちに、
「聖書の言葉を使わずに、
 聖書的世界観を伝える」
というまたとないチャンスでもある。

私にとってこれらの「制約」が、
とてつもなく知的なメリットをもたらしてくれるわけです。

、、、という前置きが長くなりましたが、
先ほどと同じ理由で、
到底網羅的に説明できるボリュームではありませんので、
ここでは目次を紹介して本書の概要を、
なんとなくつかんでいただくと同時に、
特に印象的だった箇所を2箇所抜粋して解説するにとどめます。

【目次】
第一部 神学的原理の確立
第1章 畏敬、責任そして権利 P20
第2章 弱者の道徳的優先権 P64
第3章 僕の種としての人間 P93
第4章 動物のための解放の神学 P122
第5章 動物の権利と寄生的本質 P145
第二部 倫理的習慣に挑戦する
第6章 非神的犠牲としての動物実験 P174
第7章 反福音的捕食としての狩猟 P205
第8章 聖書的理想としての菜食主義 P223
第9章 動物の奴隷化としての遺伝工学 P243


、、、本書のような著作が出版されることからも分かるように、
今でこそその潮流は変わりつつありますが、
キリスト教会はその2000年の歴史のなかで、
お世辞にも「動物を大切にしてきた」とは言えません。
むしろその逆で、「聖書」を盾に、
動物を人間の意のままにするということのほうを、
むしろ推し進めてきた。

これは聖書を盾に奴隷制度を肯定してきた歴史と同じで、
聖書自体は動物は人間のために存在する、
という人間中心主義を肯定していません。
リンゼイが後に言うように、
むしろ人間は動物に奉仕する事が、
神のご性質を表すことなのに。

ではその「歪んだ人間中心主義」の、
思想的源流はどこにあるか?
3人の重要人物がいます。
アリストテレス、
アウグスティヌス、
トマス・アクィナスです。

引用しましょう。

→P37〜39 
〈もしもこの見解の哲学的基礎を求めるなら、
アリストテレスがその源であるということを発見しても
我々は驚かないかもしれない。

「ある物を、それが造られている
目的のために使うことは罪ではない」
とアクィナスは答える。
「さて、事物の秩序は、不完全なものは
完全なもののためにあるように造られている。
それは創造の過程においても、
自然は不自然から完全に進む・・・
それゆえに、動物の善のために植物を使うこと、
人間の善のために動物を使うことは律法に反することではない。
アリストテレスが言うように」。

動物に関するトマスの思想において支配的なのは、
自然の「事物の秩序」に訴えることである。
この解釈は聖書に言及することによって強化されるが、
あくまでもそれは結果論的、第二義的にでしかない。
アクィナスは、人間のために
食物を与えることに関心を持つ
創世記1:29と9:3を引用するが、
アリストテレスとアウグスティヌスにしたがって、
自然の摂理的計画であるとする。

前に挙げた三つの反対に対して、
アクィナスは次のように簡単に答える。
最初の反対――神は存在する全ての生物を
保とうとされていること――にたいして、
アクィナスは次のように主張する。
「動物と植物への神の支配は彼らのためではなく、
人間のために保持されている」。
それゆえに、
「アウグスティヌスが言っているように
・・・彼らの命も死も我々の使用の支配下にある」。

第二の反対――命は人間と動物に共通である
――という反対に対して、
アクィナスはほとんどまったくアリストテレスから
取られたような文で答える。
文全体を引用する価値がある。

「物言えぬ動物と植物は
運動を引き起こす理性的生活を欠いている。
彼らは言わば自然の衝動によって動かされている。
それは彼らが生まれながらにして奴隷化されており、
他者の使用に供されるという印なのである。」

第三番目の反対――他人の牛を殺すことは
モーセの律法に反するという反対――にたいして、
アクィナスは次のように答える。
旧約聖書において議論されているのは
人間の所有物として考えられている牛の命だけである。
他人の牛を殺す行為は
「殺害の罪の類いではなく、盗みの罪である」。

要約。

三つの要素が動物の生命の地位に対する
アクィナスの見解を特徴付ける。
第一、動物は非理性的であり、
心も精神も所有していない。

第二、彼らは彼ら自身の本質と神的摂理によって
人間の目的に仕えるべく存在する。

第三、彼らはそれ故に彼ら自身の中に
道徳的地位を持っていない。
何らかの人間的利益が関与すれば
――たとえば、人間の所有物として――別である。
 (中略)
彼は『神学大全』のなかで議論している。
「神の摂理によって、
動物は自然の秩序の中で人間の使用のために意図されている。
ゆえに、人間が動物を殺したり、
またはどんな他の方法であっても
使用するのは悪いことではない」。〉


、、、トマス・アクィナスの『神学大全』の影響力は絶大で、
西洋キリスト教社会全体が、
この「低次の被造物である動物は、
高次の被造物である人間の益のために存在する」
という思想に基づき社会を構築してきました。
私が嫌悪する「スポーツハンティング」などは、
その思想を煮染めたようなものです。

しかし、リンゼイはそのような考え方に異を唱えます。
人間には「人権」がある。
それが黒人奴隷にもあることを西洋社会が発見したのは、
ほんの200年ほど前のことです。

それから200年経ち、私たちは
その「権利の環」を動物にも広げるまでに、
成熟すべきなのではないか?
それが「僕であるキリスト」に、
似せられていく道なのではないのか?

人間でいうところの「人権」を、
著者は動物では「神ー権」と表現しました。

引用しましょう。

→P56〜57 
〈それゆえに、私は次のことを提案したい。
すなわち動物の「神ー権」(theo-rights)という
私の用語の土台となるキリスト教的基盤が存在し、
それは畏敬と責任という同じ考えに通じるものであるが、
これは伝統が今よりよい時代に結合したものである。
この提案の中心には、
我々は創造にたいする神中心の考えが必要であるという確信がある。
これには4つの側面があるが簡単な説明が必要であろう。

まず最初は、被造物は神のために存在するということである。
もし、「被造物はなんのためにあるのか」、
あるいは、「なぜ動物は存在するのか」
という質問がなされるとすれば、
満足すべき答えはたった一つだけである。
被造物はその創造者のために存在する。

人間中心主義が長い間続いたために、
この単純で、しかも根本的な点が
ほとんどまったく曖昧になってしまっているのである。

以上から帰結することは、
動物は人間の目的としてだけ
見られてはならないということである。
この神学を把握するカギは、
一般的になってしまっているが、
しかも大変間違っている見解、
すなわち、動物は人間との関係において
まったく手段的存在であるという見解を捨てることである。

人間は被造物の中では独特の重要さを持っているが、
そのことから、被造物の中の全てのものは
我々のために造られたとか、
我々を喜ばすためにあるとか、
我々の楽しみこそ
神の主要な関心事であるとかいうようなことには帰結しない。

我々は神の主要な関心について
絶対的な主張をすることに慎重である必要がある。
この点がジェイムズ・ガスタフソンによって明確に指摘されている。
「神は『人間の味方である』としても、
神は創造の主要な目的として
人間に味方しているのではないかもしれない。
神の主要な目的は人間の救いではないかもしれないのである」。〉


、、、「人間中心主義」というレンズで、
聖書を読むことを私たちはやめる時期に来ています。
そのとき、世界は本当の意味で「変わり」ます。
「白人中心主義」というレンズで聖書を読むことをやめたとき、
世界が本当に変わったように。

動物が人間のために存在するのではない、
人間は動物にむしろ仕えるべきだ、
という、著者の「仕える種」としてのビジョンに、
私も強く賛同します。

著者が引用している、
チャールズ・スポルジョンの言葉に、
本書の神学的思想が凝縮されていますので、
最後にそちらを味わってください。

→P6〜7 
〈要するに、我々は被造物の内部において、
仕える種としての新しい道徳的ヴィジョンを必要としている。
それは動物だけでなく、
我々自身をも人間の暴力から救い出すのに役立てるためである。

キリスト教信仰は、
世界の他の存在をいかに扱うかについて、
真に異なった存在――積極的相違――とならなければならない。
有名なバプテストの説教者、
チャールズ・スパージョンはかつて、
ローランド・ヒル(同時代人)の考えを
さらに説明してこう言っている。

「もし彼の犬あるいは猫が、
飼われているそのことによって幸福でないとすれば、
その人はキリスト者ではない」と。
そしてコメントした。
「信仰の真偽はそれによってわかる」〉
(4,594文字)