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紀行文「ロスバニョスからの手紙」

2019.12.09 Monday

第99号   2019年7月3日配信号

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 紀行文「ロスバニョスからの手紙」

仕事柄、私はけっこう、
さまざまな土地を訪れることが多いです。

紀行文「○○からの手紙」は、
私が自宅を離れて、全国津々浦々、
あるいは海外の各地を訪問したときに、
そこで体験し、考え、触れ、見たことを、
報告するという、そのままの内容。

離れたところから絵はがきを送るように、
海外や国内各地から皆様に、
お手紙を送らせていただきます。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼ロスバニョス奇行▼▼▼

先週の火曜日の夜に、
マニラから日本に戻りました。
戻ってきて1週間が経つわけですが、
記憶の新しいうちに、
フィリピン滞在の記録を残す意味もこめて、
今回はフィリピンのことを書きました。
体系化されてないし、
思いつくままに書いてるので、
乱筆だとは思いますがご容赦ください。

先週も申し上げたように、
6月24〜29日は、
マニラ市内で開催された、
Global Workplace Forum(GWF)というイベントに参加してました。
ローザンヌ運動が主催しています。
彼らが「カタリスト(触媒)」という言葉を、
結構多用していて安心しました。

FVIは3人の執行役員のことを、
「カタリスト(触媒)」と呼び続けてきました。
「スタッフ」だと、なんか、
団体のために雇用されているような呼称だし、
アンバサダーみたいのも偉そうだし。
むしろ私たちは、
あくまで地域教会が主体で主役なのだが、
その「化学変化」を「触媒する」存在でありたい、
という願いから、
自分たちを「カタリスト」と呼び続けてきた。

しかし、当然といえば当然ですが、
日本で働き人のことを「カタリスト」と呼ぶ団体は少なく、
私が知る限り他に誰もそんなことはしていない。
カタリスト、と名乗っても、
誰もぴんとこない。
「あ、スタッフのことですね。」
面倒くさいから、
「まぁ、そんなようなものです」
みたいなやりとりをする。
もちろん「触媒っていう言葉に込めた意味は、、、」
と説明して理解していただき、
賛同していただけることもありますが、
わりと「通らない名前」を抱えて生きてきたわけです。

ところがローザンヌ運動では、
その働きにコミットする人のことを、
「カタリスト」と呼びます。
「私はアメリカに住む、
 ローザンヌ運動のカタリストで、、」
みたいな自己紹介が、普通に飛び交っている。
なんか嬉しかったですね。


▼▼▼ロスバニョスへ、、、

GWFで学んだ詳細は、
また別の機会に譲るとして、
今日はロスバニョスのことを話したいと思います。

土曜日にGWFが終わると、
私は会場のオルティガスという場所で、
ベガさんと落ち合いました。

ベガさんというのは、
私の20年来の友人です。

どこから話して良いのか分かりませんが、
とりあえずその出会いから。
私がベガさんと出会ったのは、
1997年のことでした。
大学二年生だったころです。
ベガさんはフィリピン大学ロスバニョス校を卒業し、
研究者として勤めた後、
31歳のときに日本に「国費留学」します。
博士号を修了するために。
ベガさんはフィリピンのエリートなのです。

彼は、
「なぜ離島の学のない米農家の息子の私が、
フィリピン大学の教授になり、
世界のいろんな場所にまで招かれるようになったか分からない。
ただただ、神の恵みだ、、、」
と、先週の日曜日の夜、
私と大学のキャンパスを散歩しながらしみじみ言いました。
ベガさんのいうところの、
「学のない農家の息子」が、
なぜ成功した学者になれたか?
それは、フィリピン大学の学費が「無料」だからです。
じっさいに無料になったのは最近のことですが、
ベガさんの時代から国立大学の費用は、
フィリピンでは極端に低く抑えられています。

日本では国立大学の費用は年々上がり、
私の父が東大に入ったとき、
半期の学費は8,000円(!)でしたが、
今は30万に迫ろうとしています。
大学教育に関わる人々が口をそろえることですが、
東大の入学生が、この30年で、
ますます「均質」になっています。
つまり、貧乏な母子家庭の子どもが、
学力一本でここに入った、
というようなストーリーはますます少なくなり、
「金持ちのご子息」ばかりになっている。
つまり大学教育が機会の平等を促進するのではなく、
逆に「格差の増幅・再生産の装置」になってしまっている。
フィリピン大学のベガさんと、
日本の東大の状況を比べるとき、
日本はどこで道を間違ってしまったのだろうか、、、
と私は切ない気持ちになります。
安倍さん(または次に政権に就く人)には是非、
このような富の不均衡を是正し、
あらゆる人間にチャンスがある社会を、
推し進めてもらいたいものです。

話しを戻しましょう。

私が国立帯広畜産大学で、
ベガさんと会ったとき、
私はまだ19歳か20歳でした。
12か13歳の年齢差があったので、
当時すでに子どもが2人いて、
家族を連れて帯広で勉強しているベガさんは、
私には「身近な大人」のひとりでした。

私は当時、
「聖書研究サークル」
「クリスチャン・サークル」
何と呼んでも良いのですが、
いわゆるキリスト者の同好会のようなものがなかった、
帯広畜産大学において、
その「創始者」になりました。

ない?

じゃあ作ればいい。

このマインドセットは、
私の中で今も昔も変わりません。

ないことに不平を言う時間ほど、
無駄な時間はありませんから。
自分が作ればいいのです。

「ひとりでもやる」
こういう気概が大切です。
逆説的に聞こえますが、
「仲間がいればやる」
という程度の気概の人間には、
仲間もついてきません。

「誰もやらなくても、
 俺一人でもやる」
という人間だからこそ、
仲間がついてくるのです。

さて。

私は誰一人仲間がいない状態で、
「インターナショナル・クリスチャン・クラブ(ICC)」
というサークルを、帯広畜産大学で立ち上げました。
大和田先生という、
クリスチャンの助教授(現教授)の先生がいまして、
その方に「顧問」になってもらって、
学生課に申請しました。
それがないと、ポスターを学内に貼ることもできないので、
まずはそこから。
当時はわりとそういうのはユルかったので、
あっさりと申請は通り、
正式にサークル(同好会)として、
活動を開始しました。

その後半年間は、
マジで一人でした笑。
気概があっても、
人がついてこないこともあるのです笑。
前言を撤回します笑。

毎週「学生会館」という、
サークル棟の一室を借りていましたが、
ポスターを貼り、友人を誘い、
「木曜日の17時から、
 学生会館の○○室で、
 聖書研究サークルやるから、
 来てよ!」
って言ってまわりましたが、
友人が「ご祝儀」みたいに来てくれた数回を除くと、
学生課に鍵を借りにいき、
17時から1時間半ぐらい、
ひとりでその部屋で聖書を読み、
18時半に学生課に鍵を返し、
家に帰る、、、。

そんな日々が、
半年ほど続きました。

潮目が変わったのは、
2年生のときに、
ベガさんとダニエルさんという、
フィリピンからの留学生に出会ってからでした。
当時ベガさんは32歳、ダニエルさんは35歳でした。
だいたい、たぶんそれぐらい。
そして、私は20歳でした。

彼らと出会い、
つたない英語で私は、
この大学で伝道をしたいと思っていること、
そして「ICC」というサークルを立ち上げたことを語りました。
すると彼らは、
「自分たちは日本で勉強をするために来た。
 それは一つの側面なのだけど、
 神様の目から見たとき、
 私たちは神様から遣わされ、
 日本の人たちに神の愛を伝える、
 宣教師のようなものだと思っている。
 喜んで協力したい。」
と言ってくれました。

それからというもの、
彼らと毎週、最低1回は会うようになりました。
多いときはほぼ平日毎日会っていたのではないでしょうか。
最初は「大学のために祈る祈り会」に始まり、
だんだんと、
「どうやって帯広畜産大学の学生に、
 神の愛を伝えるか」
という作戦会議になっていきました。

私は2歳のときにアメリカにいて、
そのときは英語を自由に話していましたが、
そのあとは英語は完全に忘れていました。
ダニエルさんとベガさんと私で、
留学生会館の一室で、
3人で祈ったときのことを私は忘れられません。
二人が英語で祈ります。
私の番が回ってきます。

「アー、ガッド、サンキュー、
 フォー、ディス、プレヤーミーティング、 
 フォー、オビヒロユニバーシティ。
 アーン、アイ、プレイ、
 ユー、ブレス、ディス、ユニバーシティ。」

、、、

、、、

、、、

(ん?)

(英語で祈るときって、
 どうやって終われば良いんだ?)

(分からん)

(習ったことない!!)

、、、ってなって、
私がひねり出した答えはこれでした。

「アーン、ガッド、
 グッバイ。」

二人は爆笑していました。

そんなわけで、
高校卒業時の私の英語はまぁ、
使い物にならなかったわけですよ。
高校の英語は相当に頑張り、
センター試験で満点を取るほど得意でしたが、
それと「話せるかどうか」は、
皆さんもご存じのとおり別の次元に属します。

ところが半年間、
彼らと英語で濃密な交わりをしていると、
2年生の夏頃でしょうか。
私は自分が流ちょうな英語を話していることに気づきました。
あるときは夢でも英語で話していました。
そしてその発音はフィリピンやアジアのではなく、
2歳のときに住んでいたシカゴのものだったのです。
不思議な事ってあるものです。
人間の脳の格納庫には、
消えたと思ったけど消えていないものがある、
というのを私はそのときに体験したわけです。

、、、彼らと深いコミュニケーションができるようになると、
彼らのバランスの取れていて、
なおかつ熱い信仰の姿勢に、
私は大いに影響されました。

私たちはその後の4年間ぐらいの間、
ICCの主催で、
学内ゴスペルコンサートをしたり、
英会話教室を開催したり、
ピクニックに行ったり、
フィリピン料理を食べる会を開催したり、
いろんなことをしました。

小さな大学(学生数1,000人ぐらい)にも関わらず、
コンサートには100人以上が集まってくれましたし、
英会話教室に30名もの参加者があったこともあった。
加えて大和田先生のお宅や、
学生会館で行う「聖書研究会」も継続していました。
帯広にあるプロテスタント教会の牧師にお願いして、
先生方に週替わりで来ていただいたりもしました。
その結果、6年間の学生生活のなかで、
10名ぐらいの学生が信仰を持ちました。
在学中にもう教会に行かなくなった人も、
もちろんいましたが、
今も信仰を持っていて、
なんと牧師になっている人までいます。

これらすべてを、
私は「日本人のフロントマン」として、
学内で精力的に活動していたわけですが、
じっさいのところ、
ベガさんやダニエルさんの、
経験やアドバイスやモデルがなければ、
私は6年間、誰もいない学生会館の北側の一室で、
ひとりで聖書研究を続けていたでしょう。
(それはそれで、
 興味深いパラレルストーリーではありますが笑)

彼らの何が凄いかというと、
なんていうのかな。
信仰におけるバランス感覚なんですよね。
これは私が大学を卒業し、
いろんな教会にいったり信仰者に触れ、
人生経験を経てから、
じんわりそのすごさに気づいたわけで、
当時はそこまで凄いことと分かってなかったのですが。

彼らはフィリピンで、
「ナビゲーター」という大学伝道の働きの、
中心的役割を10年以上も担ってきた経験を持ちます。
「ナビゲーター」は日本にも支部がある国際的な働きで、
「聖書に根ざすこと」を大切にする、
バランスの取れた学生宣教団体です。
彼らはその教えをしっかり守りつつ、
聖書に根ざし、それを、
仕事、学業、家族、社会との接続、政治との関わり、
そういったあらゆる領域に、
私の言葉で言う「包括的に」適用し、
そして実践していました。

彼らの当時のライフスタイルは、
40歳になった私が、
いま「目指している」ほぼそのものでした。

そんな彼らに私は、
「無意識に弟子化」されていたのだと思います。
その後様々な信仰の変遷を経て、
人生のいくつかのポイントで、
私が、
「自己を特別なポジションにおき、
 他教会と距離を置く、
 選民主義的なセクト」
に陥ってもおかしくない状況におかれました。
私のかなり近しい信仰の友にも、
そういった方向に進んでしまった人々がいますから。

それでもなお、
私が今こうして教会につながり、
教会に仕えるという立場を崩さず、
「極端に走るという安き道」を選ばないでいられているのは、
妻のサポートももちろんありますし、
神田先生という良きモデルがいるのもありますが、
しかし、信仰の最初の6年間を、
ベガさんやダニエルさんと過ごせたことが、
非常に大きかったんだなぁ、
と今になって思うのです。


▼▼▼17年ぶりの再会

そして先週、
ロスバニョスにて17年ぶりの再会をしたとき、
私は今申し上げたようなことを、
さらに深く確信しました。

どこから話しましょうか。

GWFの話しに戻りましょう。
5日間のGWFの学びは、
非常に有意義なものでした。
しかしながら、
うつ病から復帰してから、
「人との会話が非常に消耗する」私にとっては、
「人とつながることがこの集まりの意義!」
と宣言されている5日間は正直に申し上げて、
かなり疲れるものでもありました笑。

だって、「つながりたくない」んだもん笑。
人が嫌いなわけじゃありません。
誤解しないでいただきたいのですが、
人が嫌いなわけじゃないんです(2回言った)。
むしろ、人は好きです。
みんなのことは大好きです。
「恥ずかしがり屋」なわけでもない。

そうではなく、
「刺激の許容量」の問題なのです。
私は人口の1割いるという、
HSP(非常に繊細な人)なので、
「人と接するためのエネルギー」が、
他者よりも多く必要とされるのです。
「人間という情報」が、
私にとっては非常に大きいので、
1人の人と知り合うのに、
非常に多くのエネルギーを使う。
1日に2人と知り合うころには、
もう、「情報過多」で、
くたくたになってしまうのです。

そんなんで社会を生き抜けると思うか!

という体育会系的な叱責は、
まぁご自由にしていただけば良いのですが。
正直「うるせぇ、バーカ」としか思いませんね。
「致死性の余計なアドバイス」は無視するのが一番です。
私は死にたくないのです。
エネルギーが枯渇した状態で無理をして、
次にうつ病を患ったら、
そのときは死んでしまうかもしれないので。

命が一番大事です。

根性と命なら、命を取ります。

なので私は、
グループディスカッションの最初に、
自己紹介と一緒に言いました。
「僕はこうして少人数で、
 あるトピックに関して深く話すのは得意ですが、
 極度に内向的な性格のため、
 大人数が集まるこういった場所は正直苦手です。
 気分が悪くなったり消耗して、
 途中で退席するかもしれませんが、
 気にせずに話しを続けてください。」

こういう集まりに参加する人って、
今何かと話題の芸人の入江さんみたいに、
「ハイパーコネクター」みたいな人が多いので、
私みたいな人間は、
廊下に落ちているホコリほどの価値しかありません。
「ネットワークを築く」ための集まりで、
「できるだけ出会いたくない」って言ってるんですから。
「じゃあ、なんで来たの?」って話しですよ笑。
「お見合いパーティに来た既婚者」みたいに場違いです。

ただ、グループディスカッションは豊かでした。
コンゴ人、アメリカ系韓国人、
カナダ人、アメリカ人、日本人(私)からなる、
5人のグループのなかで、
くだんの「内向的宣言」により、
最初は「廊下のホコリ」みたいに思われていましたが、
ディスカッションを重ねるごとに、
私はテーブルで最も重要な発言をする人間になっていました。
私が何かを話そうとすると皆、耳を傾けるようになりました。
私が何かをいうときは、
必ず面白い内容が含まれている、
という信頼を勝ち取るようになった。
テーブルリーダーはカナダ人の女性だったのだけど、
その人の隠れた補佐をする「裏回し」もするようになった。
「コンテンツ力」では私は誰にも負けないのです。

どんな切り口からでも、
内容のある面白い話しをすることができるし、
他の人がしたどんな発言も、
その言いたかった真意をくみ取り、
「意味」や「文脈」につなげることができる。

最終日にカナダ人のテーブルリーダーが、
「私の5日間のハイライトは、
 このテーブル―グループだったわ」
と言いました。

私は、スーパーコネクターではありませんが、
こういう貢献ができるのです。
私は社交性とトレードオフで、
こういう才能を獲得している、
という側面もある。
長所は短所、短所は長所なのです。


、、、とはいえ、5日間のGWFが終わったとき、
私はなんともいえない、
複雑で、ちょっと惨めなというか、
情けないなぁ、自分は、
というような感情を抱いていました。

700人が集まるこの集まりで、
私はほとんど誰とも「新たな繋がり」
を生まなかった。
自分を守るための自分の意志とはいえ、
一枚の名刺も渡さず、
一枚の名刺ももらわなかった。

そもそもこの集まりは、
「ビジネスパーソン」の集まりで、
私は「メインストリーム」ではなく、
「サブストリーム」です。
神学校→按手礼という、
通過儀礼を経ていない私は、
逆に牧師の集まりにいっても、
「サブストリーム」です。

「あぁ、俺はどこに行ってもサブストリームだなぁ。」
「あぁ、俺は本当に何しにここに来たのだろう、、。」
周囲の異様に高いテンションについて行けず、
なんていうんだろうなぁ。
文化祭とかで、みんなの「熱気」に飛び込むのに失敗して、
打ち上げのときに教室の隅で、
ひとり缶ジュースを飲んでる気持ち、
っていったら良いんでしょうか。
なんとも言えない「疎外感」に、
私は打ちひしがれ、ちょっとだけ、
涙が出そうにすらなりました。

誰も私を疎外したわけではないし、
私が勝手に感じているだけなのは、
百も承知なのだけど。

そんなときでした。

私がベガさんに会ったのは。
「祭り」が終わり、
もぬけの殻になった会場の教会の、
地下駐車場に車をパーキングしたから、
一階で待ってるよ、
とベガさんからFacebookメッセンジャーに、
テキストメッセージが入りました。

最後のプログラムであった、
午後のマニラのシティツアーが終わり、
バスから降りて、教会の1階ロビーにいくと、
そこには、17年前とまったく変わらぬ、
ベガさんが座っていました。

「ハイ、ジンジン!!」

私の大学時代の友人は、
私のことを今でも「じんじん」と呼びます。
フィリピンの友人たちも、
「JinJin」と私のことを当時呼んでいました。
17年ぶりに聞いた「JinJin」でした。

「久シブリデショネ!」
という、めっちゃくちゃ懐かしい、
フィリピンなまりの日本語を聞いたとき、
さっきまで感じていた疎外感は、
一瞬でどこかに吹っ飛び、
17年前に「タイムスリップ」したかのように、
堰を切ったように話し続けました。

私とベガさんは、
95%英語、5%日本語で話します。
ベガさんの第一言語はタガログ語、
私の第一言語は日本語。
お互いの第二言語が英語で、
しかもだいたいそのレベルが一緒。

こういう人と英語で話すときが、
もっとも「アクセル全開」で話せます。
サーフィンで上手く波に乗れたときのように
(乗ったことないですが笑)、
私の英語は絶好調で、
次から次へと口から英語が出てくる。
ほぼ自由自在に話したいことを話せる。
こういう「英語ゾーン体験」を経験するのはたいてい、
「ネイティブじゃないけどかなり英語能力が高い人」と
話しているときです。
私の場合。

そしてベガさんは、
私の「英語組み手」の相手として、
理想的な相手なのです。

三菱自動車製のベガさんの自家用車に乗り込み、
そこから3時間半、
マニラ都心部からロスバニョスまでの、
渋滞する道のりを、
私たち2人は、休むことなく話し続けました。

お互いの17年間のアップデートについて。
ベガさんの子どもの成長について。
私の結婚と、私の子どもについて。
帯広畜産大学でのICCの思い出について。
帯広畜産大学の現在について。
フィリピンの過去と現在、
日本の過去と現在について。

本当に「先週会ったかのように」、
いきなりトップスピードで語り合いました。
夜のフィリピン大学ロスバニョス校に到着し、
大学内にある、客人が泊まるホステルに到着しても、
まだ話しが終わらない。

「続きは明日話そう」
といって、その日は寝ました。

そこから日曜日、月曜日、火曜日(の朝)と、
2日半、ベガさんと過ごしたのですが、
それはそれは幸せな2日半でした。


▼▼▼ロスバニョスの自然

いろいろ話せることはあるのだけど、
二つの切り口から話します。
ロスバニョスの素晴らしい自然と、
ベガさんとそのアルムナイ(フィリピンの帯広同窓生)の、
「仕事と宣教の融合感」、生き方です。

まずはロスバニョスの自然から。

フィリピンの最初の7日間は、
私はマニラで過ごしました。
5日間のGWFにも参加しました。

前日に新潟で奉仕があったため、
東京経由でそのまま成田のビジネスホテルに一泊し、
朝7時に友人の土畠君と合流。

あ、そうだ。

大切なことを言い忘れていましたが、
私がGWFに参加しようと思ったのは、
北海道在住のお医者さんで、
私の親友である土畠くんが声をかけてくれたからです。
3年前から毎年開催している、
「よにでしセミナー」を、
「やってみない?」と誘ってくれたのも彼です。
今から考えますと彼のあの誘いは、
うつ病療養から仕事に復帰した私に、
一定の方向付けを与えてくれるものとなりました。

実はメルマガ配信やYouTube放送も、
「働いている信仰者に奉仕する」
という意味で、よにでしセミナーと地続きですから。

あ、ここでいう「働いている」というのは、
ビジネスパーソンだけを指すのではありません。
キリスト教のフルタイムの奉仕者も、
「教会という職場」で働いています。
「教会」は社会の一部ですから、
牧師は社会のために働いているとも言えます。
(「フルタイムの牧師こそが偉いのだ」、
 というのはナンセンスとして、
 逆にビジネスマンこそが偉いのだ、
 キリスト教の牧師は「働いていない」!
 っていう、「逆マウンティング」の言説って、
 私は加担しません。
 「聖俗二元論」という意味で、
 両方とも同じ穴の狢でああり、
 非常に次元の低い話しです。)
専業主婦も「家庭という職場」で毎日働いています。
病気療養中の人も、何らかの健康上の理由で、
働くことができない人も、
神の視点から見たとき、深い位層で、
「働いて」います。

私はつまり、
あらゆる人々に向けて、
聖書的世界観をメタ的に伝えるために、
メルマガを書き、YouTubeで発信しています。

話しがそれました。

土畠君と私は、
そんなわけで、
「よにでしセミナー」のパートナーです。
GWFに土畠君が私を誘ってくれたのは、
よにでしセミナーのヒントになる何かを、
得られるかも、と思ったからでしょう。

FVIの柳沢美登里さんが、
日本ローザンヌ運動に加わっている事もあり、
GWFは理念的に非常に親和性が高いことが分かっていたので、
迷わず申し込みました。

その後いろいろありましたが、
4000人の申込のうち、
選ばれたのは700名でしたが、
結論から言うと2人とも選ばれ、
参加することとなりました。

極度に内向的な人間にとって、
あまりメリットがなさそうな集まりと分かっていましたが、
それでも参加しようと思ったのは、
土畠君と一緒に行くと分かっていたからです。
今回の5日間、土畠君は、
世界レベルで働ける人なので、
「障害者医療に関わる医療関係者のワーキンググループ」
の核となり、連日引っ張りだこでした。
グローバルなありとあらゆる人々と繋がり、
GWFの良さを最大限に引き出していました。
こういう集まりは土畠君のような人のためにあるのでしょう。

ハタから観ながら、
すげーな、この人は、
とただただ尊敬したわけです。
しかしながら今回のGWFはホテルが指定されていて、
しかも2人一部屋が基本だったので、
私と土畠君は同じ部屋に泊まりました。
なので部屋では毎日顔を合わせますし、
夜ご飯とかは一緒に食べに行くわけです。

アメリカで言うと、
アメフト部の主将と、
目立たない陰キャのギーク(オタク)が同室、
みたいな感じで「話、かみ合うの、それ?」
って思うでしょ。
それが合うんだな笑。
土畠君は「二刀流」なので、
いろんな人とスーパーコネクターになれる一方、
私のような「少人数での深い話ししか興味ない」人とも、
ちゃんと深い話しができる。
あんまり彼のような人を、
私は他に知りません。

そんなわけで5日間、
私はテーブルグループの4人と土畠君の、
合計5人以外とは、ほぼ言葉を交わしませんでした笑。
スーパー陰キャですね笑。

でも、11月に開催される、
「よにでしセミナー」について、
土畠君と話し合うことができたし、
いろんなヒントももらえたのでそれで十分です。

、、、なんの話しをしようとしてたんだっけ?

そうです。

ロスバニョスの自然の話しです。

そのために、
マニラの話しをしたかったんでした。
そうしたら土畠君の話になり、
ここまで来てしまった。
話を元に戻しましょう。

マニラで最初の一週間を過ごしたわけですが、
私はほとんど写真を撮りませんでした。

例外的に面白い建物とかそういうのはありましたが、
基本的にマニラって、東京とそう変わりません。
マニラもジャカルタもデリーも東京もロンドンも、
現代世界では、特に都心部は、
「ほぼ同じ」です。
ショッピングモールに至っては、
従業員と話しをするまで、
ここがどこの国か当てるのは至難の業じゃないでしょうか。
ビルがあり、道があり、車が走ってて、
またビルがあり、、、、。

モールにもフィリピンの料理出す店があったり、
日本と違ってやたらと「働く人の数が過剰」だったり、
それはそれで面白いことはあるのですが、
多少の例外を除きますと、
基本的に私を興奮させるような風景はなく、
私が写真を撮ることはほとんどなかった。

ところがベガさんと一緒にロスバニョスに行き、
そこで過ごした3日間、
私は写真を撮りっぱなしでした。
私はスマホ持ってないので、
もはや時代の遺物となったデジカメで、
バシャバシャと写真撮りっぱなしです。

ロスバニョスには何があるのか?

山です。
牧場です。
牛や馬。
熱帯植物。
バナナの木、
ココナッツの木、
ジャックフルーツの木、
アボカドの木、
多種多様の水田。
山から見下ろす湖。
「熱帯にある大学」のキャンパス。
野生の鶏。
様々なものを売る露店。
農業を営む地元の人々の生活。

目に映るすべてが新鮮で、
そして「これこれ!!!」
「これでしょ!!
 海外の面白さは!!」
「フォーーー!!」
ってなりました。

まぁ興奮しましたね。

ロスバニョスはまずどこにあるか。
そこから行きましょうか。

▼ロスバニョスの位置
https://bit.ly/2FYF2O2

こんな感じで、
マニラから車で2時間ほど南下したところにあります。
20年前にベガさんと会ったとき、
ベガさんとその仲間たちが、
「ロスバニョス、ロスバニョス」って言っていて、
「マニラ」以上に私には親しみのある地名なのですよね。
ちなみにベガさんが教えてくれたのは、
ロスバニョスというのは、
「ロス・バニョス」で、
ロスはスペイン語の定冠詞。
ちなみにロサンゼルスつまりロス・エンジェルスは、
英語でthe Angel、「天使の街」ってことですね。
これに従うと、
「バニョス」は「温泉につかる」という意味。
つまり「the Spring」、
「温泉街」というのが地名の語源です。
フィリピンは長らくスペイン領だったので、
こういうスペインの足跡が、
文化や地名や宗教や言葉の端々に残ってます。

そんなわけで、ロスバニョスには温泉があります。
火山に近いのです。
火山が多く、地震もあるフィリピンは、
意外と日本と共通点が多いのです。
精神分析の泰斗・河合隼雄先生も、
「アジアで母性社会」という共通項で、
フィリピンと日本は特異点だ、
という内容の本を出しています。

そんなロスバニョスで(どんな?)、
私はその自然に魅了されました。
ベガさんが教えてくれたのだけど、
実は私が滞在した、
フィリピン大学ロスバニョス校(UPLB)の周辺は、
「人工的に人の手から自然が守られている」
特別な場所なのだそうです。

たとえばUPLBを見下ろす美しい山があります。
実はその山の自然が保護されているのは、
「大学の側」だけで、
裏側は「はげ山」になっているそうです。

なぜか?

大学には森林学部があります。
農林学部と言った方がいいのか??
とにかく「forest faculty」がありますので、
その研究のために、裏山の森林は保護されている。

ところが裏側に国立大学の管理は及んでいないので、
地主はそれを資本家たちの手に渡す。
すると資本家たちは、
「手っ取り早く現金が手に入る」という理由で、
森林伐採をします。
木材として建築業界に売却するために。
その結果山の裏側は荒廃しているそうです。
「キャピタリズム」が山の半分をダメにしたのです。

山から見下ろす湖は美しいですが、
そこの魚はベガさんは個人的には食べないようにしているそうです。
街からの汚水で魚は重金属に汚染されているからです。
都市化によって湖がダメになっています。

大学の周囲には緑がいっぱいあります。
なぜならIRRI(国際稲研究所)が、
大学と併設されていて、
世界中の品種の水田が広がっていること。
農学部・獣医学部が酪農農園をもっていて、
馬や牛を飼育していること。
あらゆる品種の作物のために、
広大な実験農場が広がっていること。

これらが、
UPLBのキャンパスの、
「ユートピア的な美しさ」を担保しています。

そこから一歩外に出ると、
実はマニラまで交通の便が良いこの土地は、
都市化とキャピタリズムによる、
「自然からの搾取と土地の荒廃」の影響を受けています。

キャンパスの敷地内にある、
大学の「官舎」のひとつの、
ベガさんの家を訪れ、
私は「彼は帯広を離れて17年、
こんなユートピアみたいな場所で生活してきたのか!!」
と、心から羨ましい気持ちになりました。

しかしそれは皮肉にも、
「学術研究という理由から、
 人工的に保護されたエデンの園」
だからそうだったのであり、
フィリピン全土がそうではない、
という現実の一側面だったわけです。

ちなみにベガさんの家の裏庭は広大で、
なんていうのかな。
「植物園」ってあるじゃないですか。
特に、ビニールハウス的になってて、
全季節に熱帯植物とかが見れるやつ。
ベガさんの裏庭は、「あれ」です。

写真をいくつか。

▼ベガさんの裏庭
https://bit.ly/32qwGIy

▼ベガさんの裏庭のココナッツの木から、
ココナッツを落とすベガさん
https://bit.ly/2LGa0xX

▼落ちたココナッツ
https://bit.ly/2xEl8Dm

▼ココナッツをナタで開けるベガさん
https://bit.ly/2XW3Ekk


よく南国のリゾートとかで、
「ココナッツドリンク」ってあるじゃないですか。
ココナッツの実から直接飲むヤツ。
買うとけっこう高くて、
500円ぐらいしたりするのですが、
ベガさん宅では、あれは庭で取り放題です。

あと、アボカドも死ぬほど取れます。
コンデンスミルクとホイップクリームによる、
自家製アボカドアイスクリームを、
ベガさんが作ってくれました。
4リットルぐらい(!)。
めちゃくちゃ美味かった。

あと、バナナも何種類も採れます。
食べ放題です。
それからジャックフルーツも。
めちゃくちゃ美味いです。

端的に言って、
「エデンの園」のような生活です。
「園どの木からでも、
 その実を取って食べても良い。」
っていう。

また大学のキャンパスが美しいんだ。
トロピカルな木々が、
よく考えられて配置されていて、
芝生は丁寧に刈り込まれていて、
様々な花が咲き乱れている。
山がその美しいキャンパスを見下ろす。

「ここって家族でも来れるの?」
と聞くと、大学関係者のゲストが、
家族で泊まれる場所もあるとのことなので、
本気で近年中に、家族の夏休みに、
ベガさんたちを尋ねることを考え始めています。
時期によっては「飛行機の国内旅行」より、
安くつくかもしれないし。


▼▼▼ベガさんたちの、「GWF性」

ちょっと文字数がヤバくなってきました笑。
あと、執筆時間も。
ちょっと疲れてきた笑。

そんなわけで、
ベガさんと過ごした3日間は「最高」だったわけですが、
それはトロピカルな意味だけではありません。
もちろん古い友情を温めた、
という意味でも、私にとって特別な時間でした。
早くも「2019年の陣内俊の個人的ハイライトのひとつ」
になりそうな予感がします。

しかし、GWFという、
「仕事と宣教」に関する集まりに、
5日間出席した後の「実地研修」みたいな意味合いでも、
ベガさんたちの歩みは私に霊感と刺激を与えてくれました。

ベガさんたちは「ナビゲーター」という国際団体の、
リーダーをしています。
地域教会とも良い関係を持ちながら、
そこを「地域教会的に」考えていて、
大学キャンパスのクリスチャン同士(10〜20名)で、
学生時代から数えたら30年以上、
共に歩んで来ました。

そんなベガさんの「親友」に、
デイブさんとその家族がいます。
デイブさんは帯広にも来てましたので、
私も面識があったのですが、
今回、彼らから話しを聞き、
彼らが学生の頃から特別な友情で結ばれてきたことを、
改めて知ることとなりました。

彼らがこの17年間してきたことは、
本当に素晴らしいので紹介させてもらいます。
文字数も制限されてきましたので、
下手に解説を加えるのではなく、
ただ、私がベガさんから聞いた話を収録します。

彼らはキャンパスで会合を持ち、
聖書研究会を通して、
大学生に伝道するのみならず、
地域の貧しい子どもたちにも目を向けるようになりました。
毎週土曜日に彼らは、
公立の高校体育館をレンタルし、
4家族ぐらいで当番制にして、
地元の貧困家庭の子どもたちに、
無料の昼ご飯を作って配布し始めました。
毎回50人ほど集まります。

そういった「フリーランチ」がもたらす、
「依存性」の問題も当然知っていますので、
フリーランチとセットで、
「勉強して、仕事をして、
 そして立派な大人になることの価値」
を聖書に基づいて教育するという、
「知識のワクチン接種」とセットでそれをしました。
そのような働きを10年間続けた結果、
何人かの親たちがキリストを信じ、
その家庭の生き方が変えられていくようになりました。

最近はその働きは、
「聖書的子育て講座」
「聖書的夫婦関係講座」へと、
シフトしていきました。
親がその生き方を変えるとき、
子どもの運命も変わることが、
10年間の実践で分かったから、
そちらに集中することにしたのです。

さらにベガさんたちは、
週末にはそのような活動をしながら、
仕事もまた神に捧げています。

ベガさんが、
「マンチェスターユナイテッド」のTシャツを着てたので、
「サッカーやるんですか?」と聞くと、
そうじゃなく、数年前にイギリスにいったときの土産なんだそう。
さらに聞いてみると、
それは「学術研究のコンペティション」で、
イギリスまで招かれたのだそう。

ヨーロッパの財団が主催するそのコンペティションには、
毎回2000を超える論文が全世界から集まります。
ファイナリストの3名は、
ヨーロッパに招かれそこで発表をします。
ベガさんはそのファイナリストに選ばれたのです。

コンペティションのテーマは、
「貧困と環境問題を解決するイノベーション」で、
ベガさんの論文は、
「小型の養殖用の水槽の水を環流させ、
 上で農作物を育てる。」
という、野菜と魚の二毛作的なアイディアで、
これがあると世界の貧しい村々の家庭が、
食っていけるようになる。

惜しくも優勝を逃しましたが、
この発明は高く評価されました。
「特許を取ったりしないんですか?」
と聞くと、
「しないよ。
 だって、この貧しい人たちのための発明は、
 神様が僕に無料で与えてくれたんだ。
 だからこれを無料で与えるのは当たり前でしょ。」
とのこと。
神の栄光のために仕事をする姿に私は感動したのでした。

実はさらに話しがあって、
ベガさんの親友デイブさんは、
このコンペでファイナリストに選ばれただけでなく、
優勝しています。
たしか2006年のことです。
発明の内容は、
山村部の小さな川から小規模の発電をする、
というアイディアです。

この発明により、
デイブさんはなんと、
TEDカンファレンスで発表もしたそうです。
これも、神の栄光のため。

彼らにとって仕事は神の栄光のため。
生活も神の栄光のため。
余暇も神の栄光のため。

GWFには、
世界的に有名な企業のCEOなども、
スピーカーとして登壇していました。
彼らから励ましを受けたのはいうまでもありませんが、
正直、私はどんなスピーカーよりも、
ベガさんやデイブさんから、
インスピレーションを受けましたし、
それから同室の土畠君からも、
いつもそれらをもらっています。

GWFの価値が相対的に低くなっちゃうような着地になっちゃいましたが、
まったくそんなことはなく、
ローザンヌ運動の働きは素晴らしいものです、
事実、ベガさんたちもローザンヌ運動のことは知っていて、
「包括的な福音理解」に関することを、
私が今の仕事にしていることを話すと、
ベガさんは、
「そうか、それは良い働きを選んだね。
僕達も同じ事を考えている。
世界中でそういうことが強調されるようになったのは、
本当に良いことだと思う」と言っていました。

実践家と理論家(啓発者)のどちらが偉いか?

というマウンティングの取り合いも、
最初に言った「聖俗二元論」に基づく、
「ナンセンスな二分法」ですよね。
理論家も実践家も、一緒に手を取り合って進むのです。
そう、神の栄光のために。

▼写真:ベガさんと私
https://bit.ly/2XVYkgZ

▼写真:フィリピンの帯広同窓生のリユニオン
(この夜、私は親子丼とカレーを作りました。
 日本経験があるので、皆さん、
 めちゃくちゃ喜んでくれました。)
https://bit.ly/2FXcLY3


【Q】面白いと思う人

2019.12.03 Tuesday

第092号   2019年5月21日配信号

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 Q&Aコーナー

皆さんからお寄せ頂いた質問にお答えするコーナーです。

日頃の悩み、疑問、今更誰かに聞けないギモン、、、、
質問の種類は問いません。お気兼ねなくご質問をお寄せください。
ご利用は下記に基づいてご利用いただけると幸いです。

【Q&Aについて】
▼全てのご質問にお答えすることはできません。予めご了承ください
▼いただいたご質問は、ブログ・FVIメディアルームに掲載される可能性があります
▼本名での投稿の場合は「ペンネーム:無し」となります
▼必ず下記フォームからご質問を送信ください

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

【Q&Aコーナー専用フォーム】

▼URL
https://www.secure-cloud.jp/sf/1484051839NyovBkYI

※大変お手数ですが一つの1メール1質問を原則とさせてください。
ご協力宜しく御願い致します。

※頂いたメールはすべて目を通しております。
陣内俊への要望やメルマガの感想、激励などももちろん大歓迎です!

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


●【Q】面白いと思う人について

・ペンネーム:サザエ(女性)
・お住いの地域:千葉県

Q.

陣内さん、こんにちは。
いつも為になる本のダイジェストや、
なるほど面白いコメント満載の
メルマガをありがとうございます。

質問です。

惹かれる人、魅力的だなぁ、
なんかこの人いいなぁってと思う人を3人くらい教えてください。

何でかというと、友達や同僚や親戚が、
すごく優しく親切だけど、
教会に対しては分厚い壁を持っているのを感じるとき、
クリスチャンである自分や伝統的な教会に、
引きがないのかなぁと思ってしまいます。
ほとばしるキリストの魅力や、
造られたその人らしい良さがあんまり現れてないからなのかなと。
クリスチャンで、広い視野と社会とのバランスを持ってる
(と、思ってます)陣内さんの
個人的な意見を聞いてみたいなと思いました。

よろしくお願いします。


A.

サザエさん、
ご質問ありがとうございます。

まず「3人の面白い人」を、
とのことですが、
知り合いだとちょっと許諾が必要なのと、
「みんな面白いし魅力的です」
という模範解答になってしまうので笑、
かなり難しいですね。

一般論から言って私の場合、
「この人と友だちになりたい」
と思うタイプの人というのは、
けっこう他の人と違い偏りがあります。

私は「思索的」な人と波長が合うので、
その人がキリスト教徒だろうが仏教徒だろうが、
ヒンズー教とだろうが無神論者だろうが、
「そもそも自分の考えていることとは、、、」
というメタ的な内容を話せる人と出会うと、
「この人とアポイントを取ってまた語り合いたい」
と思います。

これは「どれだけ本を読んでいるか」
とは無関係です。
まぁ、そういった人は、
たいてい本を読んでるんですが。

ただ、本をたくさん読んでるけど、
思索的ではない人もいます。
特定のジャンルの信仰書以外読まないとか、
自己啓発的ビジネス書ばっかり読む、
といったタイプがそれで、
「自分の思考を追認する言説による自慰行為」は、
思考を深めませんので、
こういった人は、年間100冊読もうが、
私の定義する「面白い人」にはなりません。


▼▼▼有名人だと、、、

今度は有名人で考えてみましょう。
ぱっと思いつく魅力的な人は、

1.佐藤優(作家)
2.レブロン・ジェームズ(バスケ選手)
3.若林正恭(お笑い芸人)

ですかね。
来月聞かれたら、
全員入れ替わってるかもしれませんが笑。
この中で明確にクリスチャンと分かってるのは、
佐藤優氏だけです。

しかし、
ベルジャーエフがドストエフスキーについて、
「ドストエフスキーは、
言葉の最も深い意味におけるキリスト教的作家であった」。
と言っています。
彼の表現を借りますと私が惹かれるのは、
「言葉の最も深い意味における、
 キリスト教的な人間」です。
その人に「キリスト教徒」という、
ラベルが貼られているかどうか、
というのはあまり重要ではない。

佐藤優は、その教養の深さと知識の厚みが凄い。
私があと3回人生を生きても到達出来ないでしょう。
なおかつ「この世界のことをキリスト教の観点で語る」
という「働き」において、
私が「モデル」としている人物だからです。
あまり誰もそう思ってないでしょうが、
私がこのメルマガやYouTubeでしていることと、
佐藤優さんが年間何十冊も本を書いてしていることは、
かなり近いと自分では思っています。

レブロン・ジェームズは、
クリーブランドのアクロンという、
スラム街で16歳のシングルマザーから生まれました。
彼は10億に一つというぐらい恵まれた身体能力を用い、
バスケ選手として「地上最強」の地位を手にしました。
その富と名声を彼は「利他的に」使っています。
アクロンに学校を設立し、
貧しい子どもたちの財団を運営しています。
また、人種差別撤廃のために、
発言するべき時にはしっかり発言し、
トランプ大統領からは毛嫌いされています笑。
レブロン、大ファンです。
彼の利他的で公益に資する生き方が、
「言葉の深い意味におけるキリスト教徒」だからです。

若林正恭は、
彼の本を読むと分かりますが、
非常に思索的です。
私と同世代なので、
その悩み方も私と似ている。
「深い部分で物事を疑い、
 批判的・複眼的に世の中を眺める。
 そしてそれを言語化し他者に伝達する」
という営みにおいて、
現代世界では芸人は他の業種を引き離している。
そんな「世の中のアウトサイダーとしての芸人が、
この世の中をシニカルに語りつつ、
自我の煩悶を言葉にする」とうような、
かつてビートたけしとかがしていたことを、
今は若林世代が上手にしています。

その意味では又吉直樹や山里亮太も、
このジャンルに入ります。
キリスト者というのは、
「世の中のあたりまえ」を疑う人です。
根源的に物事を考え、
批評的に洞察し、それを言語化します。
「預言的な生き方」とはそういうことです。
その意味で彼らもまた、
「言葉の深い意味におけるキリスト教徒」なのです。


▼▼▼因数分解すると、、、

さて。
今申し上げたようなことを踏まえながら、
自分の経験に照らし合わせ、
敢えて「私の考える面白い(魅力的だ)と思う人」を、
定式化してみますと、
以下の3つになるかと思います。

1.自己開示出来る人→自己受容できる人
2.影響される人
3.愛する人(与える人)

まず1の自己開示。
これはねぇ。
けっこう人間関係の「核」にあると思います。
人は、「相手が自己開示した度合いに応じて」
自分も自己開示する生き物です。

自分の心の中の最も柔らかく傷つきやすい部分や、
自分の過去の経験の最も深く暗い闇を、
他者に開示出来る人は、
他者もまたその人に、
自分の心の中の最も深くまで分かち合っても大丈夫だ、
という安心を与えます。

ショウさんの質問への回答で、
最後に引用した、
ヘンリ・ナウエンの文章の、
「自らの弱さを癒しの源泉とする」
というのは、今言ったようなことも含みます。

「深い絆で結ばれた親友がほしい」
と誰しも思います。
それには実は条件があって、
自分自身が「勇気を振り絞り自己開示する」
ということによってしか出来ません。
自分の心のバリアを解いた度合いに応じて、
他者も自分に対し、心のバリアを解いてくれるからです。

それを「弱さの証拠」と見る人もいるでしょう。
アメリカのような「勝利主義的社会」ではなおさらだし、
日本でも、特に昭和世代の男は、
そういったことをしないのが男らしさだ、
と教えられてきました。
弱さを開示すれば、
あざ笑われることもあった。

今でもある。

でも、「そんなのはどうでもいい」と、
自己開示出来る勇気を持つ人は最強です。
必ず親友が出来ます。
100人があざ笑っても、
必ず1人親友が出来ます。
1人親友がいる、
というのは金融資産に換算すると、
1000万円ぐらいになるという学者もいます。

では、どうすれば自己開示出来るのか?

それは、「自己受容」出来ている必要があります。
弱い自分や暗い過去を自己受容できている度合いに応じ、
人は自己開示出来ます。

(もちろん常識的な社会的コードに従って)
自己開示出来る人を、人はバカにしながらも、
心の底では実は尊敬しています。
なぜか?
それはその人が弱さや傷やトラウマにもかかわらず、
自己受容に至った、という、
「魂の旅路における勇者だ」
ということが無意識に分かるからです。

次行きましょう。

2の「影響される人」
人は、影響される度合いに応じて人に影響を与えます。
影響は「フロー」であってストックではありません。
「ものすごい影響力がある人」がいて、
その人から影響力の波動が同心円状に広がる、、、
というのは正しいイメージではない。

影響力は「川の流れ」に似ています。
自分が影響を与えられた、
と思う人(Aさん)がいたら、
必ずAさんの上流には、
Aさんに影響を与えた誰かがいるのです。

私たちが影響力ある人間になりたいと願うなら、
私たちは「大いに影響を受ける」人間である必要があります。
これは実は怖いことで、
「自分の核まで揺らいでしまうのでは?」
という恐れを持っていると、
影響される渦の中に、
自分を投じることが出来ません。

たとえば自分とまったく違う意見を持っている人と、
面と向かって話し合ったり、
自分が信じているのとは
真逆の主張をしていることが分かっている本を、
手にとって読んだりすることが出来ないのです。

だって、読んだり話したりしたら、
その後で自分の意見が変わっちゃうかもしれないから笑。

私は、それでいいと思います。
いや、それこそがいい、と思う。

自分の意見がちょっとでも変わらないような本を読んだり、
その後に自分が影響を受けないような話し合いをしたりして、
逆にどこが面白いんだろう、
と私なんかは思うわけですよ。

では、私はアメーバのように「かたちがない」ものなのか?

違います。

私は自分の最もコアな部分、
つまり「言葉の深い意味におけるキリスト教性」について、
揺らがぬ信念を持っています。
それは自分が握っている必要すらなく、
神が握っていてくれている。
その部分が確かだから、
それ以外の部分については、
どれだけでも柔軟に考えることが出来る。

逆だと思っている人が多いですが、
頑固な人って、信念が強い人ではありません。
頑固な人は信念に自信がないから頑固なのです。
信念が強い人は今申し上げた理由により、
逆に柔軟になります。

その柔軟さは「影響される」につながり、
それが影響力になります。

これに若林正恭的な、
「根源から問う」が加わると、
根源にすら影響を受けるため、
人の根源に影響を与えることが出来るわけです。


3の愛する人(与える人)、
というのはもう、そのままですね。
なぜ「与える」なのか?
与えるという行為は、
言葉ではごまかしが利かないし、
雰囲気とかの話しではないからです。

リック・ウォレン牧師は、
「愛することなしに与えることは可能だが、
 与えることなしに愛することは不可能だ」
と言っています。
ショウさんの質問への回答で、
「什一献金」の話しをしましたが、
他者に寄付、献金、贈与する、
ということを有形無形にしている人は、
「愛する人」です。

私は愛する人に、
これ以上ない魅力を感じます。
その人はイエスに似ているからです。



▼▼▼非キリスト教徒が何に魅力を感じるか

サザエさんの質問の意図は、
「キリスト者が、
 宗教アレルギーの壁を乗り越えるほどに、
 魅力的であるためにはどうすれば良いか」
というような問題意識があると思われます。

この問題意識は正しい。

私は自分の職業人生の大半を、
「いわゆる伝道(宣教)」に捧げてきたわけですが、
その暫定的な結論は意外なものでした。

それは「伝道」しないほど伝道は上手く行く。
というものです。

今回は各方面から怒られそうなことばかり言ってますが、
私は「業界としてのキリスト教会」の、
利害を最優先とする立場にありませんので笑、
大切なことはトラの尾を踏んでもやはり言います。
私の利害は「神の国」にのみあります。
その前進のためならキリスト業界が怒ろうが、
気にせず言います。
キリスト業界が頑張ってることでも、
神の国と関係なければ、
顔に笑顔を貼り付けて全力でスルーします笑。

私の知る、ある海外の牧師は、
「業界としての教会」よりも、
「神の国」に感心がある人ですが、
「クリスチャンはヒモつきで愛すな」と言っています。
私のメンターのボブ・モフィットは、
「愛で操作してはいけない」と、
同じ意味のことを言っています。

どういうことか?

私たちが愛するとき、その愛が、
「教会に誘うための」
「その人をキリスト教徒にするための」
エサだったと分かったら、
愛された人はどう思うでしょうか?

私たちの誰も、
「操作(マニュピレーション)」されたい人はいません。
自分がされたくないことを、
他者にしたらダメです。

もっと言えば私は、
「伝道」されたくありません。
「伝道」ってだって、
「私は救いの道を知っている。
 無知蒙昧なあなたはそれを知らない。
 だからそれを教えて上げましょう」
ってことでしょ。

私は他宗教の人から自分がそうされたら、
ちょっと傷つきますし、さらに言えば困惑します

だから私は「伝道」しません。
これもめちゃくちゃ怒られそうですけど笑。

じゃあ、
「宣教という神の働きはどうなるのだ!」
というお叱りが当然予測されます。

でも、経験と直感から、
「伝道しない方が伝道は上手く行く」
という逆説的な答えが正しいのでは?
とうい手応えを私は得ていました。
じっさい、20年余の私のキリスト者としての歩みを通し、
「私を通してキリスト教徒になった15名ぐらいの人」
の誰一人として、私は「伝道」しませんでしたから。
*この15名というのは直接の影響によって、
という意味です。
間接にはもうちょっといると思います。

彼らは私と友人となり、知り合いになり、
一緒に時間を過ごし、一緒にご飯を食べ、
互いの人生の話しをし、
互いに影響を与え合いました。
あるとき彼らは教会に来るようになり、
そしてあるとき信じており、あるとき洗礼を受け、
あるとき一緒に祈るようになっていました。

そうとしか言いようがない。
「救いの道を教えましょうか?」
みたいなやりとりをしたことは一度もない。
逆にそっちのアプローチをした人で、
信仰を持った知人は一人もいません。
彼らは私から離れていきました。
きっと傷つき、困惑したのでしょう。
悪いことをしたと思っています。

でもね。

やっぱり「言葉による伝道=宣教」という、
広く信じられている定説に逆らうというのは、
ちょっとした罪悪感を伴いますし、
「自分は重大な神学的な誤りをしているのだろうか?」
と思ったりもするわけですよ。

こう見えて、けっこう真面目なので。

その罪悪感や逡巡が吹っ切れたのは、
『宣教のパラダイム転換』デイヴィッド・ボッシュ
『キリスト教とローマ帝国』ロドニー・スターク
という2冊の本を読んだのが大きかったです。

詳しく説明する時間はありませんが、
この2冊が言っていることを要約して統合すると、
こうなります。

1.「救いの道をあなたに教えて上げましょう」
式の「伝道(宣教)」というのは、
2000年間の宣教の歴史の中の、
「近代以降」というごく一時期に台頭してきた。

2.宣教というのはその時代に支配的な思想に影響を受ける。
19〜20世紀の「近代」というのは「大きな物語」が信じられ、
「正しい合理的な価値体系」がまだあると思われていた。
その時代に「キリスト教を合理的に説明する」
という「伝道」によるスタイルは有効だった。

3.近代が終わり「後近代」あるいは「ポスト近代」
と呼ばれる21世紀の世界で、
「合理的な説明・説得という伝道スタイル」が、
人々に訴求する力はますます失われてきている。

4.21世紀には「宣教」の在り方はこれまでとは、
違ったものになるだろう。

5.初代教会がなぜ、
200年の間に、数百名からローマ帝国の人口の12%にまで、
数を増やしたのか?
当時、「20世紀的な意味の伝道」という概念はなかった。

6.考古学的資料から分かるのは、
彼らは「伝道」によって増えたのではない。
彼らの「この世とまったく違う生き方」が、
あまりにも際立っていたため、
9割のそれをバカにする人と、
1割のそれに魅力を感じる人がいた。
その1割のなかには群れに加わる人もいた。
その積み重ねが100年で10000%、
という成長率につながった。

7.ちなみに「まったく違う生き方」とは、
・利他的で自己犠牲的な生き方
・夫が妻を大切にする(当時の常識では妻は所有物だった)
・雇用人が奴隷を大切にする(当時の常識ではあり得なかった)
などだった。


、、、これらを材料として考えた場合、
「欧米などのキリスト教圏」ではいざ知らず、
21世紀の日本は、
「多元主義的な異教世界だったローマ帝国」に、
文脈的共通性が大きいと考えます。

とすると、
ロドニー・スタークが書いた、
ローマ帝国における初代教会的なアプローチのほうが、
20世紀アメリカで発展した、
「言葉による伝道」のスタイルより、
端的にいって「ハマる」のではないかと私は考えます。

私の経験もそれを裏付けている。

ロドニー・スタークは宣教学者ではなく、
宗教社会学者です。
彼はモルモン教などの研究と、
初代教会の研究を総合して、
「改宗」は、改宗者が、
「合理的に納得したとき」に起きるのではない。
と結論します。

では、いつ起きるのか?

引用します。

→P33 
〈実際、改宗プロセスには他の要素も関係するが、
改宗における中心的社会学的命題は以下の通りである。
すなわち、逸脱的な新宗教への改宗は、
他の条件が同じであれば、人がそのグループの成員に対し、
グループ外の人々よりも強い愛着を持っているか、
持つようになったときに起こる。(Stark1992)〉


、、、サザエさんも指摘しているとおり、
標準的な日本人にとって「教会」という場所は、
分厚い心理的な壁を感じる場所です。
スタークの言葉で言えば、
日本人にとってキリスト教とは、
「逸脱的な新宗教」なのです。

これは事実です。
少なくともあと100年ぐらいは、
事実であり続けるでしょう。

ローマ帝国にとって、
キリスト教徒たちが、
「逸脱的な新宗教」だったのと同じです。


▼▼▼分厚い心理的な壁に関する考察

、、、では、この「分厚い心理的な壁」を、
どうすれば私やサザエさんは打ち壊せるのか?
あるいは乗り越えられるのか?
もしくは壁を「融解」するのか?
地面を掘って、壁をくぐるのか?

いろんな考え方があります。

スタークが指摘しているのは、
「逸脱的な新宗教」に属する人への愛着、
つまりクリスチャンの友人(知人・親族)との絆が、
非キリスト教徒の人々の「絆の総和」を超えたときに、
「改宗」が起きるということです。

サザエさんのご質問の本文にある、
「すごく優しく親切だけど、
教会に対しては分厚い壁を持っているのを感じる」
という所感はだから、
すごく優しく親切なひと「だからこそ」、
教会に対しては分厚い壁を持つ、
というほうが正確だと私は考えます。

どういうことか?

優しく親切で常識的で仕事が出来て、、、
という人というのは、
「日本」という社会コードに自分を上手に適合させている人であり、
それは「信頼と愛情と絆の総和」が高い人である可能性が高い。
家族にも近所にも親戚にも職場にも愛されている人です。
スタークの言う「グループ外の人の愛着の総和」が大きい。
そうすると、「逸脱的な新宗教のメンバー」である、
私やサザエさんのような人との絆を結んだとしても、
後者が前者を超えることはほとんどない。

その結果として、
「教会に対しては距離を置く」
ということになります。

これが、
「クリスチャンのように素晴らしい、
非キリスト教徒のほうが、
クリスチャンになりづらい」
という逆説的な現象の理由だと私は考えています。

では、サザエさんや私が、
そのような素晴らしい人たちを愛し、
彼らと絆を結ぶことは無意味なのか?

まったくそんなことはない、と私は思います。

スタークの論理を聞いてローマ帝国で起きたことは、
「キリスト者との絆」VS「非キリスト者との絆」
の「綱引き」であった、と解釈しがちですが、
私はそれは違うと思う。

そうではありません。
綱引きのメタファーは「ゼロサム」です。
全体の総和が常に等しい。
しかし本当は「プラスサム」で見るべきです。
全体の総和はふくらんで良いのです。

つまり、
非キリスト教徒の人を愛し、
彼らとの心理的絆を構築することの目的は、
綱引きに勝ち、彼らを教会に引っ張り込むことではない、
というのが私が強く主張したいことです。

私たちは社会と綱引きをしているのではありません。
私たちは社会に「価値」を加えているのです。
その「価値」の中身は何か?
無償の愛、絆、信頼、その他諸々です。

スタークは、
ローマ帝国でキリスト者が増えたのは、
「非常に異なった生き方が持つ魅力」だったが、
それが数的増加にまでつながったのには、
「きっかけ」があったと語っています。

その「きっかけ」とは何か?

それは「ペストの流行」でした。
当時のペストの流行は猖獗(しょうけつ)を極め、
町の人口の半分が死んだりしました。
そのとき、医者ですら町から逃げました。
ところがキリスト者は死を恐れていなかったので、
ペスト患者たちを最後まで看病しました。
逃げた医者の親戚がキリスト者に看病され、
親戚やその友人たちの一部は回復後キリスト者になりました。

全員ではありません。
しかし、ペストの流行のたびに、
確実にキリスト者の割合は増えました。
ロドニー・スタークは一次資料から、
そのようなことが無数に起きたことを実証します。

何が言いたいのか?

当時のローマ帝国には、
今の日本社会と同じで、
「良い人、素晴らしい人」もいっぱいいたでしょう。
彼らは良い人であるゆえに、
「ローマ社会」にたくさんの信頼関係を構築していた。
つまり「キリスト教外の社会」に大きな愛着を持っていた。
ところが「ペストの流行」により、
親しい人まで逃げてしまったりしたとき、
一気に「キリスト教外の社会との愛着」が目減りした。
逆に看病するキリスト者たちを見て、
「逸脱的な新宗教のメンバーとの愛着」が増大した。
「愛着の逆転」が起きたことにより、
彼らはキリスト者になりました。

やっぱ綱引きじゃん。

違います。
そうじゃない。
私たちは「操作」をしてはいけません。
「伝道のために愛する」というのは、
その実、まったく愛していないのと同じです。
だって、伝道のために愛されたい人、いますか?

私は嫌です。

そうじゃないんです。
「愛される側」から物事を見るのが大事です。
そうするとまったく違う風景が見える。
「綱引きの対象」になんて誰もされたくありません。
しかし、誰もが「セーフティネット」としての、
人との絆を求めています。
「信頼に足る誰かとの愛着」を、
たくさん持っていれば持っているほど、
この不確かな世界で、
生き残れる可能性が高まるからです。
「信頼の総和」が生きる上で大事であり、
キリスト者は愛することによって、
他者の「信頼の総和を増大させる」ことが出来る。
プラスサムなのです。

「ペストのようなこと」が起きて、
いつかその人はキリスト教徒になるかもしれない。
そんなことはついぞ起きないかもしれない。

どっちでもいい、
と私は思います。
それは神の主権のなかにあることであり、
私たちのなすべきは「愛せよ」という、
神の命令に忠実であることです。

親友の価値は金融資産にすると、
1000万円ぐらいだ、
という学術研究があります。
イスラエルの伝説的なスパイは、
親友の価値は体重分の金の重さと同じ、
と言っています。(3億円ぐらい)

どちらの試算を採用したとしても、
誰かがあなたのことを「親友」と思ってくれるほどに、
その人の信頼を勝ち取り愛着を形成できたなら、
それは1000万円以上のプレゼントをしているのと同じです。

その結果その人はキリスト教徒になるかもしれないし、
ならないかもしれない。

何度も言いますが、
それはどっちでもいいのです。

イエスが重い皮膚病患者の10人を癒した、
という記事がルカによる福音書に出てきます。
10人をイエスは癒されました。
不治の病が癒されるというのは、
少なくとも金融資産で1000万を超えるでしょう。

ところが、
キリストを讃えに帰ってきたのは、
10人のうち1人だけでした。
つまり、9人は「キリスト者」にならず、
1人だけがキリスト者になりました。

イエスは神ですから、
癒す前に「この1人以外は信じない」
と分かったはずです。

ならば、その一人だけを癒せば良かったのではないか?

しかしイエスはそうしなかった。
イエスの世界観は「プラスサム」だったからです。
10人の人生に「価値」を加えることをイエスはしました。
そのうちの1人は「永遠の価値」をも加えました。
イエスですら残りの9人について、
癒す以上のことは出来ませんでした。

誰かが救われるかどうかは、
神の主権のなかにあるからです。

サザエさんが同僚を愛し、
その人のために祈り、
信頼を構築し、愛着を形成するなら、
それはこの社会への「プレゼント」になります。
その結果、誰かは「分厚い壁」を乗り越え、
キリスト教徒になるかもしれないし、
誰かはならないかもしれない。

しかし、大事なのは前半だけです。
後半は神の主権のなかにあります。
前半をちゃんとしてなお教会に壁を持つ人は、
イエスご自身がそうしたとしても、
状況はきっと変わりません。
(戻ってこなかった9人を思い出しましょう)

ただ、愛していきましょう。
それで大丈夫です。

【Q】献身について

2019.12.02 Monday

第092号   2019年5月21日配信号

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 Q&Aコーナー

皆さんからお寄せ頂いた質問にお答えするコーナーです。

日頃の悩み、疑問、今更誰かに聞けないギモン、、、、
質問の種類は問いません。お気兼ねなくご質問をお寄せください。
ご利用は下記に基づいてご利用いただけると幸いです。

【Q&Aについて】
▼全てのご質問にお答えすることはできません。予めご了承ください
▼いただいたご質問は、ブログ・FVIメディアルームに掲載される可能性があります
▼本名での投稿の場合は「ペンネーム:無し」となります
▼必ず下記フォームからご質問を送信ください

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

【Q&Aコーナー専用フォーム】

▼URL
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※大変お手数ですが一つの1メール1質問を原則とさせてください。
ご協力宜しく御願い致します。

※頂いたメールはすべて目を通しております。
陣内俊への要望やメルマガの感想、激励などももちろん大歓迎です!

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

●【Q】献身について

・ペンネーム:ショウ(男性)
・お住いの地域:愛知県

Q.

俊さん

いつも楽しく 考えさせられながら読んでます
メルマガ ありがとうございます

いま私は仕事を辞め牧師になるために
神学校へ行くかどうか 悩んでいます
俊さんは獣医の仕事を辞める決断に
至った経緯はどのようなことだったんですか?
また 100%大丈夫と言う自信はないと思いますが、
その中で踏み出せた経験などを教えていただけると嬉しいです

私は学びたいと言う思いはあるものの、
本当にそれで良いのか?
卒業後牧師としてやって行けるのか、不安を覚えています。
アドバイス頂けると嬉しいです


A.

ショウさん、ご質問ありがとうございます。

これはねぇ。

どこから話しましょうか。

こういうトピックというのは、
相談する人によってアドバイスが変わるでしょうから、
あまり「人に相談することのメリット」というのは、
大きくはないかもしれません。

なぜか?

こういった「答えが決まっていない問い」に関して、
誰かに相談すると、出てくる答えは、
「その人自身の人生観や哲学」の反映になるからです。

たとえば今の会社の上司や同僚に相談したとして、
「それはやめておいた方が良い。
 まずは自分の経済基盤をしっかりさせ、
 それから本当にしたいことをするのがベストだ」
というかもしれません。
じっさい私は市役所を辞めて宣教の仕事を始めるとき、
上司には「社会的な自殺みたいなもんだぞ」
という意味のことを言われました笑。
その上司は大学を卒業してから、
「公務員であること以外の人生」を、
一度も歩んだことがないのですから、
そういうのは当然と言えば当然です。

しかし、それは、
「その上司(同僚)にとっての現実」なのです。

現実は複数あります。
そしてここからが多くの人が誤解しているのですが、
真実も複数あります。
内村鑑三が「真理は楕円」と言ったのは、
実は深い話しなのです。

ちょっと平たく実生活に引きつけると、
「正解は複数ある」と言えます。

逆のケースを考えましょう。

私がショウさんの今の状況を知っていれば、
もうちょっと的確なことが言えるとは思うのですが、
あくまで思考実験としての話しをします。

仮にショウさんが福音主義の教会に通っているとしましょう。
そして牧師は教団の神学校で
重要な役割を担っているとしましょう。
その牧師に相談すれば、かなりの高確率で、
「献身とは素晴らしい」
という肯定的な答えが返ってくるでしょう。

それもまた一つの真実です。

しかし忘れてはいけないのは、
それが「その牧師にとっての真実」であるということでしょう。
もし「これが(普遍的な)神の御心だ」
と言い切るような牧師ならば、
悪いことは言わないので別の教会に移ることをオススメします。

他者の人生に対し、神が何かを示されるとき、
その示され方は「責任の同心円状」に重要度が増します。
その選択のリスクを負う人間から順に、
神から語られたことの重みが決まる、ということです。
これは大原則として覚えておいた方が良い。
あんまり親しくもない人から、
「あなたはこれをした方が良いと思う。
 神が語っているように感じる」
と言われるようなときは、
眉毛に唾を厚ーく塗りましょう笑。

ショウさんのケースですと、
ショウさん自身が最大のリスクテイカーです。
だとしたら、神が語られる重要度は、
ショウさん自身が最大になります。
もしショウさんが結婚していたら、
間違いなく次は奥さんでしょう。
次に子どもたち。
結婚していなければ家族、、、
という風に、責任の同心円は広がります。

牧師はその責任の同心円において、
重く見ても会社の上司と同じぐらいでしょう。
だとしたらそのアドバイスは、
断定的なものであろうはずがありません。



▼▼▼自己肯定バイアス

話しを戻します。
この手の事に関しては、
誰に相談したとしても、
出てくる意見は、
「その人自身の現実」である。

人は何かを語るとき、
「何か」についてではなく、
実はその人自身について語るからです。

では、「その人自身の現実」とは何か?

もう一つ覚えておくと良いのは、
年を重ねるほど、
人は「自分の選んだ人生は正しかった」と思いたいのです。
そうしないと、「やってられない」じゃないですか笑。

「サンクコスト問題」といいまして、
これまでの投資が台なしになるという事を人は受け入れられないので、
「今までやってきた努力や投資を肯定するという結論」が、
考える前に「右脳」で決定されているのです。

DVを受けながらも「この結婚が正しかった」と思い込む人、
ブラック企業に勤めながらも、
「この会社に入ったのは間違っていなかった」
と、無理な労働を続ける人、
ちょっとカルト的で独裁的な教会で、
「信仰という名のハラスメント」を受けながらも、
「神がここに私を置かれたのだから、、、」
と歯を食いしばる人。

これらの人々の背後にあるのが、
「サンクコスト問題」です。
それによって「自己肯定バイアス」が働き、
自分の人生を肯定するという決断が、
右脳でなされます。
左脳はそれに「理由付け」するだけです。
左脳はかなりアクロバティックな理論を駆使してでも、
それを肯定しようとします。
その能力は驚くばかりです。

何を言いたいのか?

信仰者でもそうでなくても良いのですが、
「会社にとどまる」という決断をした年配者は、
若年の「会社から離れる」という人間に向かい、
自分の自己肯定バイアスに基づき、
「とどまった方が得だぞ」
「とどまった方が正義だぞ」
「とどまった方が幸せだぞ」
というアドバイスをするでしょう。

「会社を離れる」という決断をした年配者、
たとえば脱サラをして今は会社を経営している人や、
かつてサラリーマンをしていたが神学校に行き牧師をしている人、
こういった人を考えましょう。
そういった人は、同じ人間に向かい、
自身の自己肯定バイアスに基づき、
「チャレンジした方が良いぞ」
「後悔が一番ダメだぞ」
「会社という鎖から自由になるのは良いぞ」
というようなアドバイスをするでしょう。

なので、
「答え」を求めているなら、
この手のことは、
人に相談することで得られないと思うのがまず大切です。
しかし、人に相談することで、
「自分には気づかなかった視座」を得られることはあります。
「盲点を埋めていく」ことが出来る。
それによって、より多角的に物事を見た上で、
なおかつ決断するのであれば、
その決断は「どちらを選んだとしても正解」と言えると思います。
だって、それによって世界が広がり、
悩まなかった人より、悩んだ後の方が、
「賢くなった」のですから。



▼▼▼私の意見は?

前置きが非常に長くなりましたが、
私の意見はどうか?

私は特殊な人間で、
私は自らの自己肯定バイアスを、
「割り引いて」考えることが出来ますから笑、
「分からない」が答えです。

あのとき、市役所を辞めて良かったなぁ、
と思うこともあれば、
やめなきゃ良かったなぁ、と思うこともある笑。

やめなきゃ良かったなぁ、
と思うのは、やはり節約してても、
「今月の生活費」が苦しいときや、
団体運営が先行き不透明なときでしょうか笑。
あるいは不動産屋や銀行で、
「社会的信頼が低い人」だと判断されたり、
面と向かって「公務員やめるなんてもったいない」
と言われるときでしょうか。
相手が年配者だったりすれば、
なおさら揺れますよ。

西野カナよりも震えますよ、そりゃ。

市役所の職員というのは、
当事者たちはそう思ってないでしょうが、
「現代の貴族」です。
「人生のリスク」をすべて外部に押しやり、
自分たちの安泰を「至高の価値」として守っているのが、
公務員や官僚や巨大企業の在り方ですから。
ナシーム・ニコラス・タレブは、
この人たちのことを「フラジリスタ」と呼んでいます。
(詳しくは『反脆弱性』を読んで下さい。
 くっそ面白いですから、この本)

深ーい堀に囲われた城に住んでいるようなものです。

私のようなフリーランサーというのは、
城の周りに広がる城下町の、
さらに周囲に流れる川の河岸で、
鴨長明よろしく、掘っ立て小屋を建てて、
そこに生息するような「河原者」です。

ちなみに私が芸人にこんなにも共感するのは、
彼らもまた「河原者」だからです。
彼らもまた、かなり売れた人ですら、
住宅ローンは組めず、マンションも借りられないことも多い。
日本の「信用システム」は、
「官庁と大企業という名前」しか信頼しません。

個人の信用というのは非常に低い。
芸人やミュージシャンが同じマンションに固まって住む、
というのは、彼らが世間を見下しているからではありません。
世間が彼らを「信用」しないから、
彼らは自分たちのような人でも受け入れてくれる物件に、
固まって住むのです。
多くの場合そのマンションのオーナーは、
芸能人だったりします。

ビートたけしは、
「自分たちの職業は、江戸時代で言えば河原者」
とはっきり言っていますが、
彼には物事の本質が見えているのです。

「構造的に」世の中を見るならば、
フリーランスで生活する人というのは、
その人がどれだけ稼いでいるか、
どれだけ有能か、
どれだけ有名かにかかわらず、
日本という身分社会のピラミッドにおける、
「最下層」に位置します。
最上層は東電クラスの巨大企業と、
中央官庁と地方公務員です。

コレホント。
なので私が今の働きをするために、
「失ったもの」「賭けたもの」は、
決して小さくはない。

そんなことは言われなくても分かってるんで、
年配者などから「あなたは大きなものを失ったんだよ」
と改めて言われると、
けっこうみぞおちにダメージを受けるわけですよ。

では、今の仕事を選んで良かったなぁ、
一般に言われる「献身」して良かったなぁ、
と思うのはどんなときか?

そりゃ無数にあります。

まず、毎朝妻の顔を見るたびに思います。
私は公務員をしていたら、
妻のような「献身者」と結婚できなかった。

これって、自己言及のパラドックスを含むから、
自覚しづらいのですが、
あるとき私は「はた」と気づいたのです。
20代の間、ずーっと結婚相手のために祈ってきて、
「自分自身が宣教師になっても良いと思っているような、
 献身した女性」と結婚したいと思っていました。
でも、待ってください。
仮にそうだとするなら、
その女性は「安定を求めて公務員と結婚するような女性」
でしょうか?

きっと違います。
その女性は「宣教の働きに人生を投じている男性」
と結婚したいような女性であるはずです。

、、、という論理を逆に辿ると、
私が公務員であり続けている以上、
私は自分が結婚したいような女性とは、
永遠に結婚できないことに気づいたのです。

私は川にカレイを釣りに行く愚を犯していました。

今だから言えるのですが、
私が宣教の世界に身を投じた、
半分ぐらいはこれが理由でした。

そして、毎朝思います。
豊かではない収入の中、
妻がこつこつと献金を貯めて、
誰かに施しをするのを喜んでいる時。
人々への奉仕に喜んで時間とエネルギーを使っているとき。
子どもに、「神を第一にする教育」をしているのを見るとき。
私が教会に仕えるために出張するのを、
自分も行くような気持ちで送り出してくれるとき、
「あぁ、私が選んだ人生は間違っていなかった」
と思います。

ぶっちゃけて言うと、
私が公務員を続けていたならば、
私はクリスチャンじゃない人と結婚していた可能性も高かった。
当時の状況を鑑みるとそれは、
「あり得た人生」です。

その場合、41歳の私は、
離婚していない自信がありません。
あらゆる意味で価値観が違うでしょうから。
特に教育とお金の使い方、時間の使い方で、
決定的な亀裂が生じていたでしょう。

あー怖ろしい、と思います。

それから、これもよく似ているのですが、
自分の友人たちを見て、
「あぁ、彼らは本当に、
 神の前に自分を捧げた、
 尊敬すべき人たちだなぁ」
としみじみ思うときですね。

これも同じです。
私が先に行動したから、
彼らに出会ったのです。
「こんな友だち(伴侶)に出会いたい」
と思う人は、自分が「そんな人間」に、
先になることでしか目的を達成できません。

スコット・ペックという人が書いた、
「The Road Less Traveled」
という本があります。
邦訳タイトルがひどくて、
「愛と心理療法」という謎の「超訳」なのですが、
原題の直訳は「歩く人の少ない道」といいます。
ちなみにこの本、内容は素晴らしいです。

、、、で、
私は「歩く人の少ない道」を歩いたのです。
そうするとその道で出会う人は、
「歩く人の少ない道を歩くような人たち」です。
その人たちは本当に「献身」しています。
自分にはもったいないと思うような友人たちに、
私は人生で出会い続けていますが、
それは私が「こういう道」を歩んでいるからです。

モーセはエジプトで王子でしたが、
イスラエルの民と苦しむ方を選びました。
私も「貴族(公務員)と戯れる」
よりも、この世の中で弟子として生きている、
無数の仲間たちと茨の道を旅することを選んだのです。

あ、これ、公務員とは付き合わない、
という意味じゃないですからね。
もっと「生き方」の問題です。
公務員のなかにも弟子として生きている本物の献身者がおり、
牧師のなかにもリスクを外部に押しつけ、
城壁に囲まれた城に住む「フラジリスタ」がいます。

コレホント。

フラジリスタ(リスクを負わない人)の象徴として、
私は公務員のメタファーを使っただけです。
誤解なきよう。



▼▼▼献金の話し

、、、あと、もし私が身近な誰かから、
ショウさんの質問と同じような相談を受けたら、
絶対に聞くだろうことがあります。

それは意外かもしれませんが、これです。

「ところで、
 什一献金はしている?」

ですね。

あまり「献身」する人に、
この質問する人はいないかもしれませんが、
私は絶対にします。

なぜか?

「献金」というのは、
言葉や気持ちの高ぶり以上に、
その人の「神への献身」を、
正確に表す指標だと思うからです。
賛美集会で涙を流しながら歌うことよりも、
忠実に献金をしているかどうかのほうが、
「正確な献身の指標」になります。

マジで。
これは自信がある。
イエスも言ってます。
「あなたの宝(=お金)があるところに、
 あなたの心がある」って。

「神の為に人生を捧げます!」
「ただ、什一献金はちょっと待って下さい。」
これって悪質なジョークでしょ笑。

「神のためなら死ねます!」
「、、、でも、什一献金は、ちょっと私には無理です。」
言っていることが破綻しているでしょ。

私自身は「牧師」ではありませんが、
フルタイムで教会のために働く人間、
という意味では彼らと召しを共有していますし、
牧師の友人・知人がたくさんいますから、
彼らの生活や人生がどんなものかも知っています。

それを踏まえますと、
牧師である(献身する)というのは、
一回の決断ではありません。
牧師であり続けるという献身を、
一生し続けるような、
死ぬまで続く「選択の過程」だと私は思います。
そしてその「断続的な選択」は、
非常に難しい選択です。
急な勾配の上り坂を、
生涯登り続ける、
というような人生を覚悟しなければならない。

どういうことか?

いのちのことば社が出している、
データブックによりますと、
日本のキリスト教会の教職者の平均年齢は、
2009年の時点で61.6歳、
2015年には67.8歳だそうです。
当該書には信徒の年齢構成も、
これと大差ないと予測されています。

▼参考リンク:データブック 日本宣教のこれからが見えてくる キリスト教の30年後を読む 
http://amzn.asia/b5tFRpv

以来「教会が劇的に若返った」
という話しは寡聞にして聞いていないので、
おそらく2019年の教職者および信徒の平均年齢は、
70歳代に足を踏み入れるぐらいのところまで行っているでしょう。

何が言いたいのか?

教会の「業界」というのは、
老いていく日本にあって、
さらに老いていく業界です。
この趨勢は止まらないでしょう。

「俺が止めてやる」
という気概はあっていいのです。
いや、むしろあるべきです。

しかしこれまで当メルマガで繰り返してきたように、
止めるのは人間ではなく神様です。
そして神様のタイミングは人間と違うので、
そのタイミングが生きているうちに訪れるとは限りません。
50年後かもしれないし、
100年後かもしれないし、
200年後かもしれない。
、、、
あるいは5日後かもしれない。

とにかく、
「神様のアジェンダ」というのがありまして、
それは人間の計画する時間=クロノスとは一線を画する、
神の介入するタイミング=カイロスで決まります。

こういうことを言うと、
めちゃくちゃ怒る人がいるのを承知で言いますが、
上記の理由により、
(神の計画を計算に入れず)普通に考えれば、
教会は「斜陽産業」であり、
「撤退戦を戦う覚悟」が必要です。

金銭的な見返りはほとんどない
(経済的な危機に陥るリスクが逆に高まる)し、
牧師はうつ病になるリスクが他の職業に比較して、
非常に高い職業のひとつであることも分かってきています。
(『Pastors At Risk(未邦訳)』という本に詳しい。)

近くで牧師を見ていて思います。
そりゃそうだよ、と。
生身の人間が持ちこたえられるレベルを超えています。
若いうちから「平均年齢70歳」の信徒に、
「先生、先生」と呼ばれ、
その人たちを教え導くことを期待される。
そして、批判の矢面に立たされる。
模範的な信仰者でなければならない、
というプレッシャーを内外から感じる。
スーパーマンでもぶっつぶれますよ、そりゃ。

「什一献金すら躊躇する人」に、
これが果たせるとはとうてい思えません。

だから「芸人に引導を渡すため」に、
島田紳助が「M-1グランプリ」を始めたように、
将来人生が破綻してしまわないために、
私の知人が「献身したい」と言ったら、
まず私は聞くでしょう。
「ところで、什一献金はしてる?」と。

、、、というようなことを踏まえ、
「キリスト教会という業界への献身」は、
前途有望な若者が、
進んで身を投じるような業界ではありません。
私が信仰者でなければ、
間違いなくそうアドバイスするでしょう。

、、、しかし、私は信仰者です。

なので、まったく別の切り口から話しましょう。
今までの話しは「此岸(こちら側)」からの話しです。
これからする話しは「彼岸(あちら側)」からの視点です。
今までの話しは大金持ちの門の前で、
ひもじい思いをしていたラザロの話し、
これからする話しは、
アブラハムの懐に抱かれたラザロと、
ラザロに水を一杯分けてくれるよう、
アブラハムに頼む大金持ちの話です。
「こちら側(この世の報酬や評価)」と、
「あちら側(天における報いと評価)」は、
しばしば180度逆転するのです。

何から話しましょう?

人間には、「召命」というものがあります。
マルティン・ルターは職業を、
「ベルーフ」と呼びましたが、
これは「calling(召命)」という概念です。

「すべての人は神から、
 『何かしらの役割を果たすために』造られたのだ」
という考え方です。
エペソ人への手紙2章10節がこれをサポートしています。
私たちは良い行いをするために神によって造られたのです。

この御言葉の後半がもっと大事です。
「神はその良い行いをも、
あらかじめ備えて下さっているのです。」

どういうことか?

ある人の「ベルーフ」は医者です。
医者として患者を治すことが、
その人の召命です。
ある人にとってそれは教師、
ある人にとっては行政官、
ある人にとっては主婦、
ある人にとっては作家、
ある人にとっては美容師、、、

というように、
「神があらかじめ備えて下さったベルーフ」
に、私たちは導かれていくのです。

そして、
ある人にとってはそれが牧師であり、
ある人にとっては、
(私がそうであるように)、
超教派のキリスト教の働き人なのです。

このとき、
「備えたのが神」というのが大切です。
この世の教育は、
「職業は選ぶもの」と教えます。
日本国憲法第22条にも書かれています。
「職業選択の自由」ですね。

しかし信仰者にとっては、
職業は選ぶものであはりません。
主観的にはそうかもしれませんが、
信仰者にとって職業とは「神が選ぶもの」なのです。

私たちはそれを自分で選んだと思っているかもしれませんが、
実のところ、神が私たちを選んだのです。
ヨハネの福音書に書かれているとおりです。

つまり信仰者には、
「職業選択の自由」は実はない。
私たちはすべて「神に召されて」おり、
私たちが選んだのではないからです。
主観的には自分で選んだと思っていても、
やはり神が選んだのです。

これは結婚にも同じことが言えます。
主観的には「この人と結婚する」と選んだのですが、
じっさいのところ、神が選んで結び合わせたのです。
だから結婚は「それ自体召命」なのです。

佐藤優氏の
『人をつくる読書術』という本に、
チェコの神学者ヨーゼフ・フロマートカの言葉が引用されています。

→位置No.627 
〈フロマートカによれば、「召命」とは呼びかけであるといいます。
「召命は個人的な呼びかけである。
人間は自分の名が呼ばれているのを聞き、
それがまさに自分に向けられていると自分で認識する。
召命は神と人間との間の出来事である。
神は自ら人間に語りかけ、相手の人間を個人的に名前で呼ぶ」
『人間の途上にある福音――キリスト教信仰論』新教出版社
 (中略)
「使命は無条件である。
召命を受けた者は、
託された使命を進んで行うための条件を設けてはならない。
自分の使命にいついつまで、という期限も設けてはならない。
使命は生涯続くもので引退も休暇もない。
つまり、信徒は使命を人生のあらゆる状況で果たす。
・・・(中略)・・・
召命を受けた者は、
いかなる制限も条件もつけずに主に献身する。」(前掲書より)


、、、献身するというのは、
徹底した営みです。
モーセが靴を脱いだように、
「主権を明け渡す」のが献身です。

これって、
昭和の伝道者が、
「自分の靴も買えず、
 四畳一間に住み、
 路傍伝道に明け暮れた。
 休みもなく、
 寝る間も惜しんだ」
みたいな「武勇伝」を語りますが、
そういった分かりやすい図式の徹底のみを指すのではありません。

ポストモダンの現代社会で、
「この世の価値観ではまったく理解できない、
 暴挙としか思えないような選択をし続けること。」

「斜陽産業であることが目に見えている、
 キリスト業界に前途有望な若者が身を投じること。
 社会的評価もされず、金銭的な見返りもなく、
 途中で燃え尽きてうつ病になったりしながらも、
 それでも『教会を愛するゆえ』とかいって、
 周囲の同世代や自分より若い人々、
 自分より年上の人、
 つまりあらゆる世代から白眼視され、
 いぶかしがられながら、
 それでも神からの召しを確信し、
 人生を捧げ続けていること。」

「『才能の無駄使い』とか言われても関係なく、
 誰一人理解せず、褒めてくれなくても、
 そのように召されたのだからと、
 結果が伴わおうとそうでなかろうと、
 ただ一途に神が託された働きに打ち込むこと。」
ということも、
昭和の伝道者とおんなじぐらい、
もしかしたら精神的には、
それよりもキツイ道を歩むことになる。

それでも、献身する、というのが献身です。
でも、「選ばれた」のだから仕方ない。

選んだのなら話しは違う。
でも選ばれたのだから仕方ない。

選んで下さった方を信頼するしかない。
そういう営みが「献身」です。
そしてその報いは大きい。
控えめに言っても大きい。

それはこの世での成功とはまったく性質を異にします。
巨大な教会を建て上げた人や、
事業を立ち上げ成功した信仰者のビジネスマンが、
天ではまったく評価されず、
離島で5人の集会を導き続けた牧師や、
ビジネスに失敗し、
道路警備員をしながら死ぬまで借金を返し続けた男が、
天国で高い評価を受けている、
ということが起きる。

彼岸と此岸では評価軸が違うのです。
その評価軸とは何か?
一番の違いは此岸(この世)は結果を見、
彼岸(天国)は「忠実だったかどうか」、
だけを問題にするということです。

本当に、それだけなんです。

だから私は自分が人から評価されるかどうかについて、
本当に心の底から「どうでもいい」と思っている。
そこは私の主戦場ではないから。

話しを戻すと、
忠実に献身し続けた人の、
天での報いは大きいです。
だから、前途有望な若者が、
神の為に犠牲を払うという決断を、
私は心から祝福します。

これが先ほどの、
「常識的な自分」としての私の意見とは違う、
信仰者としての意見です。


▼▼▼成功するわけではない、という話し

あと、けっこう誤解されやすいのが、
「献身すれば成功する」という偽りの物語です。
「勧善懲悪的世界観」と言っても良い。
心理学用語で「公正世界信念」というのですが、
「正しいことを行えば上手く行くはず」
という「世界観」を、人間は深層心理の中に堅く持っています。

そうするとどうなるか?
信仰者の場合、このバイアスはこう働きます。
失敗した人、苦しむ人を見て、
「その人はきっと神に従わなかったに違いない。」と。
開拓伝道をして、それが上手く行かなかった場合、
「あれはきっと神に聞き間違えたのに違いない。」と。

この過ちを犯したのが、
ヨブの3人の友人たちです。
「正しい人が苦しむ」のを見ることに、
彼らは耐えられなくなったのです。
「世界は公正でなければならない」というバイアスが、
「ヨブは神に逆らったに違いない」
という結論に彼らを飛びつかせました。

結果、この3人の友人は、
後でこっぴどく神に怒られることになります。
ヨブは正しかったのですから。
正しかったが、なお苦しんだのです。

、、、何を言おうとしているのか?

神に忠実に従う決断をしたからといって、
「成功や幸せ」が用意されていると思わないほうが良い、
ということです。
運良くそうなることもあるでしょう。
しかし、「従順だったこと」と、
「幸せで成功していること」は、
まったく関係ありません。

ダニエルの友人たちは火の中に入る前に、
「たとえそうでなくても」と言いました。
「きっと神は護って下さるだろう。
 しかし、たとえそうでなくても私は神に従う」
と彼らは考えました。

それがとても大切です。

私は神に従ってきた(と自分では思っている)けれど、
燃え尽きてうつ病を患いました。
あのときに死んでいたかもしれない。
うつ病の致死率は心筋梗塞とかと同じぐらい高いので、
死んでても全然不思議ではない。

ただの悲劇です。

でも、それでも従うということに価値があると思えるかどうか、
というのが大切です。
超教派の団体で働くセルフサポートの働き人の中には、
献身し続けたいけれど、
資金的に行き詰まって、
もうこれ以上働くことが出来なくなる、
ということも起きます。
牧師にも同じようなことは起きます。
なんたって「斜陽産業」ですから。

私も将来そうなってもまったく不思議じゃない。
きっと悔しいし、無念だろうなぁ、と思います。

でも、「それは失敗だったのか?」

そうじゃないんです。

「従った」ことが大事なんです。
天ではそれだけが問題になるのです。

あるいはもちろん、
とっても幸せになるかもしれない。
でもそれは「二次的な問題」です。

一つだけ確かなのは、
「従った結果としての幸せ」を問題にする態度だと、
相当に危うい土台の上に、
献身という建物を建てることになりますので、
「神を恨んで終わる」みたいな、
最悪の結果を招きかねません。



▼▼▼「牧会者」のなすべきこと。

、、、あとひとつ。

一応付言しておきますと、
先ほど引用したフロマートカが語った社会状況と、
21世紀の職業を巡る状況は違います。

人生100年時代に、
あらゆる人は人生で複数の職業を渡り歩くことになる。
「講壇で死ぬことが美学」みたいな意味で、
「定年も休息もない」というように解釈するのは、
私は無理があると思います。

たとえば90歳の牧師が現役で、
「講壇で死ぬ」みたいな態度でいると、
大変申し上げづらいのですが、
若い人々にとっては、
「迷惑」ですらある。
「引退してもらう」ために、
「誰が猫に鈴をつけるか」みたいな話しを、
役員会にさせている高齢の牧師を生む、
という意味で、
「死ぬまで現役」
「伝道者に休日はない」
みたいな前時代的な「献身観」は、
アップデートされねばならない、
と私は考えています。

サラリーマンが牧師になって、
そしてもういちど会社員に戻ってもいい、
と私は思います。
それでも「神の普遍的な召し」は変わりません。
「召し」というのは牧師という固有の職業に付随するのでなく、
その人の「生き方」に付随するからです。

その「生き方」とは何か?
それは「牧会的な生き方」です。
ペテロにイエスが「私の羊を飼いなさい」
と3度念を押しました、
その呼びかけにYESという生き方です。

(人間から)誰にも頼まれていないのに、
勝手に群れ(教会)に、責任をもっちゃう人のことを、
「牧者の心を持つ人」と定義しますと、
これは職業と関係ないことが分かります。

職業的な牧師でありながら牧者の心がない人がおり、
牧師という職業ではないが、
牧者の心を持つ人がいる。

神の目から見た「牧師」は後者です。

そう考えますと、
ショウさんは、
現在の仕事をしながら、
「同僚を牧会する」という生き方を選ぶことも出来る。
職業的な牧師になってみることも出来る。
一定期間牧師と働き、
そのあとでまた別の領域で、
牧会的な生き方をすることも出来る。

「職業選択が一回性のもの」
というのは20世紀までの考え方ですから、
自分のキャリアを考えつつ、
神学を学ぶことや、
職業牧師を(少なくとも一度)経験することが、
自分の「ベルーフ」を織りなす上で、
「投資に見合うメリットがあるかどうか」
というドライな視点を持つことも大切になります。

繰り返しますが
「講壇で死ぬ!」
というのは言葉としては、
「献身している風」でかっこよいですが、
「死ぬまで経済的に教会のお世話になる!」
という宣言とも解釈できますので笑、
ちょっと危険でもあるわけです。

多分誰も言わないだろうから私が言うのですが。
こういう「虎の尾を踏む」のが得意なので笑。

でも、これを言っておかないと、
「若い献身者」の将来が尻すぼみになったり、
デッドエンドになったりすると危惧しますから、
彼らの利益のために私は言います。
上の世代からカンカンに怒られても言います。

関係あらへん。
私はそのあたりの利害関係者じゃないので笑。

どちらを選んだとしても、
ショウさんの心の中に、
「神学校に行って牧師になることを検討する」
という思いがあるということは、
ショウさんに「牧者の心」があることの証左だと、
私は考えます。

そうしますと、
それを社会のなかで、
「在野の牧師」として実践するのか、
職業的な牧師としてするのか、
はたまた別のクリエイティブな方法を、
ショウさんが編み出すのかは分かりません。

無責任に聞こえるかもしれませんが、
私の知ったことではありません笑。
そしてなんと、
ショウさんの知ったことでもないのです。

だって言ったでしょ。
選ぶのではなく、
選ばれるのですから。
神が選んだものを、
人間がとやかく言うものではありません。

、、、で、
神にどのように「選ばれた」としても、
「牧者の心を持つ者たち」に、
有効であろうアドバイスを、
最後に私は送ろうと思います。

ヘンリ・ナウエンの『イエスの御名で』という書籍があります。
これは、現代のキリスト者のリーダーが、
いかに生きるべきか、ということについての思索です。

引用します。

〈こういうことを申しますのは、
これからの時代のクリスチャンの指導者は、
まったく力なき者として、つまり、
この世において、弱く傷つきやすい自分以外に、
何も差し出すものがない者になるように召されている、
ということを言いたいのです。

・・・クリスチャン指導者の辿る道は、
この世が多大な精力を費やして求める上昇の道ではなく、
十字架にたどり着く下降の道です。

・・・私は、皆さんの心にあるイメージを残して、
ここを去りたいと思います。
それは、手を伸ばし、
あえて下降する生涯を選び取る指導者のイメージです。
・・・祈る指導者、傷つきやすい弱さをもった指導者、
主に信頼を置く指導者、という事も出来ます。

・・・自分の能力を示そうとする関心から祈りの生活へ、
人気を得ようとする気遣いから、
相互になされる共同の働きへ、
権力を盾にしたリーダーシップから、
神は私たちをどこに導いておられるかを
批判的に識別するリーダーシップへと、
私たちが移行することをイエスは求めておられます。〉


、、、「降りていく生き方」をすること。
「自分の傷をさらけだし、
 それによって社会の癒しの源泉とすること」
「自分の弱さ以外に何も差し出すもののない、
 傷つくリーダーになること」
こういったことを覚悟出来るのなら、
その人はすでに「現在いる職場において牧師」ですし、
その人が職業牧師になったとしても、
本当の牧者となっていかれるでしょう。


、、、私の個別の話しを今回しなかったのは、
たぶんまったく参考にならないだろうからです。
神の召しは「個別なもの」なので、
これを話してもあまり意味はありません。

あと、この「問題」に、
答えはありません。
「答えがないというのが答え」
っていう問題が人生にはいくつかあります。

その場合、
「それを考え抜き、祈り抜き、
 他者と語り合う過程を通して自らの内面が変化し、
 キリストの弟子としての新しい風景が見えてくる」
というような「弁証法的成長」を体験出来るかどうか。

これが唯一の正しい対処になります。

FVI主催の「よにでしセミナー」はそういう、
「弟子としての思考のスキル」を養う場所です。
今年の「よにでしセミナー」は、
淡路島で開催予定です。
愛知からだとそんなに遠くないので、
ぜひショウさんも参加してみては??

という宣伝で終わりました笑。
ステマかよ、っていうね笑。

、、、多分過去最高に、
長く質問に答えましたね。

肝心のショウさんさえも、
長い話しに飽きてもう寝てるかもしれませんが笑、
最後まで読んで下さった方、
ありがとうございました。

この話題は、
11年間ずっと考え続けてきたので、
どうしても熱量が高くなっちゃうんですよね。
調節出来ない。
熱く語る以外できなくなってる笑。

もう飽きたよ、
という方はすみませんでした。
次の質問に行きます。

陣内が先月観た映画 2019年6月 『教誨師』他

2019.11.25 Monday

第98号   2019年7月2日配信号

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■2 陣内が先月観た映画 2019年6月

月に一度のお楽しみ、
「陣内が先月観た映画」のコーナー。

タイトルそのまんまの企画です。
先月私がいろんなかたちで観た映画を、
一挙に紹介しちゃうというコーナー。

5本以上観た月だけの限定コーナーとなります。
先月はけっこう観たので、
けっこう紹介できます。

もともと映画を観るほうではありますが、
Amazonプライムのストリーミングで観るようになって、
観る本数が3倍ぐらいに増加しました。
移動中に観れるというのが大きいです。
電車の中やバスの中で本を読むのは少し疲れますが、
映画はノーストレスです。
長時間移動がある月なんかは、
往復の移動だけで4、5本観れたりします。

観るだけではもったいないので、
皆様に紹介しちゃおう、
というのがこのコーナー。

世界一小規模の映画賞、
「月間陣内アカデミー賞」もやります(笑)。

「おもしろそうだな」と思うやつがあったら、
それをレンタルして観てみる、とか、
あとこれを読んで、観たつもりになって、
誰かに知ったかぶりする(笑)などの
使い方をしていただければ、これ幸いです。

「陣内が先週読んだ本」の
140文字ブリーフィングが好評なので、
映画評論も140文字で試みます。

時短は正義(!)ですから笑。

「読んだ本」コーナーと同じで、
140文字はあくまで「努力目標」です。

*どうしても「ネタバレ」要素をいくらか含みますので、
絶対にネタバレしたくない作品がありましたら、
器用に読み飛ばしてくだされば幸いです。
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

●リアル鬼ごっこ 2015劇場版

鑑賞した日:2019年6月2日
鑑賞した方法:Amazonプライム特典

監督:園子温
主演:トリンドル玲奈
公開年・国:2015年(日本)
リンク:
https://bre.is/gOaTX4_4i

▼140文字ブリーフィング:

端的に言ってひどかったです。
園子温監督は嫌いじゃないですが、
この映画は酷かった。
ただのグロ。
グロいことに目的がない。
メッセージ性もないし、「オチ」も陳腐です。
何のために作ったのか分からない映画でした。
(100文字)



●キングス・オブ・サマー

鑑賞した日:2019年6月2日
鑑賞した方法:Amazonプライム特典

監督:ジョーダン・ヴォート=ロバート
主演:ニック・ロビンソン
公開年・国:2017年(アメリカ)
リンク:
https://bre.is/XoJPYyb9Q

▼140文字ブリーフィング:

まずまず面白いのだけど、
特に何も心には残りませんでした。
10代の3人が家出をして秘密基地に生活する、
という筋書きで、
スタンド・バイ・ミーが好きな私は、
ああいったものを期待したのですが、
「何か」が決定的に足りない感じでした。
家出をして森で生活するというモチーフも好きですし、
ストーリー自体は友情や親子の確執の話しで、
嫌いじゃないんですが、
何が足りないんだろう??
意外性が何もないというつまらなさなのかな?
とにかく、印章が薄い映画でした。
(217文字)



●うる星やつら2 ビューティフルドリーマー

鑑賞した日:2019年6月1日
鑑賞した方法:Amazonビデオでレンタル(400円)

監督:押井守(原作:高橋留美子)
主演:平野文
公開年・国:1984年(日本)
リンク:
https://bre.is/L4GmxwRr_

▼140文字ブリーフィング:

1984年の作品ですが、
いまだに語り継がれる、
カルト的な人気がある作品です。
「攻殻機動隊」だとか、
「機動戦士ガンダム」とか、
「エヴァンゲリオン」とか、
そういうのと同じで、
「その後のアニメや、
 ひいては映画の在り方までも変えてしまったような、
 影響力のある作品」のひとつです。

そもそもの話しをしますと、
私は高橋瑠美子的なアニメは苦手でして、
たぶん直撃世代にあたるにも関わらず、
「うる星やつら」も、
「らんま1/2」も、
まったく子どものころに見た記憶がありません。
私は「バカ子ども」だったので笑、
「キン肉マン」「おぼっちゃまくん」「珍★遊★記」
などを見て「チンコ、チンコ!ウンコ、ウンコ!」
っつって、バカみたいに騒いでいました。
紙粘土でチンコやウンコの形を作って、
ゲラゲラ笑っていました。
今考えると、あれって、何が面白かったのでしょう笑。
少女マンガの匂いがちょっとでもすると、
あんまり受け付けない感じなので、
「タッチ」などのあだち充作品すら、
まったく経由していません。

そんな私ですが、
『ビューティフルドリーマー』の噂は聞いてたんですよね。
いろんな批評家が引用していて、
「これは見なきゃダメだなぁ」とこの数年思っていた。
そんで、見た、というわけ。

『ビューティフルドリーマー』は、
「うる星」であって「うる星」ではない、
というのは皆が言っていることです。
「シン・ゴジラ」が、
ゴジラであってゴジラでないのと同じように。
私は「うる星」が何かが分かってないので、
「これはうる星ではない」とも言えないのですが笑、
他のどのアニメーション作品とも違う、
というのは分かります。

押井守の最高傑作は、
「ビューティフルドリーマー」だ、
と主張する人が多いのも納得です。
先週のメルマガで語ったように、
「終わりなき日常を生きる」という、
シュシポスの神話の話しでもありますし、
中国の故事「胡蝶の夢」の要素もある。
また、エッシャーの絵のトリックが組み込まれているのと、
物語そのもののループ構造がオーバーラップしているのも、
非常によく考えられている。
語りたくなる要素がたくさんある作品です。
さすがに2019年に見ると「古いな」と思いますが、
テーマはまったく古くない。
確かに名作だと思います。
(921文字)



●インクレディブル・ファミリー

鑑賞した日:2019年6月2日
鑑賞した方法:Amazonビデオでレンタル(100円)

監督:ブラッド・バード(制作:ジョン・ラセター)
主演:クレイグ・T・ネルソン
公開年・国:2018年(アメリカ)
リンク:
https://bre.is/VzwAN-udy

▼140文字ブリーフィング:

ミスター・インクレディブルは、
たしか2006年ぐらいでしたっけ?
あれは映画館で観ました。
さすがに今はまったくキャッチアップできてませんが、
私は一時期までは「ピクサーが公開されたら、
必ず映画館に行って観る」というほど、
ピクサーが好きでした。

「好き」というのともちょっと違うんだよな。
「信頼していた」といった方が良いかな。
この店に入れば、どの料理をオーダーしても、
必ず80点以上を出してくる、という料理店のようなもので、
ピクサーは「打率の高さ」が異常なので、
観に行っていたのです。

そんな私も、
最後に映画館で観たピクサーは、
「トイ・ストーリー3」で、
たしか2010年ぐらい?ですから、
ずいぶんと足が遠のいたものです。

ちなみに私の、
「ベスト・ピクサー」は、
『ウォーリー』で、
「ワースト・ピクサー」は、
『ファインディング・ニモ2』です。

ミスター・インクレディブルの最新作、
インクレディブルファミリーはどうだったか。

80点以上だったか?

もちろんです。

それどころか、95点ぐらい行ってるんじゃないでしょうか。
「世界を救った家族」が、
ぼろぼろのモーテルに住み、
宅配の中華料理を食べる貧困生活をしているという、
オープニングから衝撃を受けます。

なぜか。

「ヒーロー禁止法」という法律によって、
彼らは飯の種を失ってしまったからです。
これは、実は日本人には理解しづらいのですよね。
アメリカには「自警団(ビジランテ)」という文化があります。
連邦政府の警察権力や軍隊の支配が届かない領域において、
アメリカではながらく「自警団」が治安を守っていました。
西部劇に出てくる「保安官」がそれです。

この「自警団」が、
じつはアメリカンヒーローの起源なのです。
スーパーマンにしてもスパイダーマンにしても、
アベンジャーズにしても、
彼らは連邦政府から派遣されたわけでも、
税金で雇われているわけでも、
法律に基づいて行政をしているわけでもない。

市民を脅かす危機に対して、
「自発的に立ち向かう市民」が、
自警団であり、アメリカンヒーローの起源です。

自警団って実は、
「テロリスト」と紙一重なんですよね。
なんら合法的な裏付けを持たない暴力によって、
「問題を解決」するわけですから。

「ヒーロー禁止法」というのは、
連邦政府の警察が治安を守るようになり、
自警団的なものが衰退したアメリカ社会への風刺であり、
「ノスタルジー」でもあるわけです。

そのようななかで、
人々は「自警団性」を回復させるべきなのか?
そんなものは葬り去るべきなのか?
そういった社会のグランドデザインに関わる話しを、
『インクレディブル・ファミリー』はしています。

またこの映画、
ほとんどの家族が共働きになったアメリカにおける、
夫婦での家事と仕事の分担の問題や、
インターネット、SNS時代における、
「ガリバー企業による新しい独裁」の話しなど、
めちゃくちゃ複雑なテーマを扱っています。

そして、ここが何よりも重要なのですが、
それでいて、全然小難しくなく、
上映時間中、ずーっと、楽しい。
面白い。
わくわくする。

ピクサーはとんでもないところまで行っています。
毎回、度肝を抜かれますね。ピクサーには。

あと、先日メルマガでも論じた、
M・ナイト・シャマランの、
「ミスター・ガラス」と本作は、
テーマにおいて完全に重なっています。
2本続けて観ると、考えが深まるでしょう。

2作とも、
ヒーローをメタ的に論じ、
「社会のグランドデザイン」を考えるつくりになっています。
オススメです。
(1,403文字)



●フロリダ・プロジェクト 真夏の奇跡

鑑賞した日:2019年6月8日
鑑賞した方法:Amazonビデオでレンタル(500円)

監督:ショーン・ベイカー
主演:ウィレム・デフォー
公開年・国:2018年(アメリカ)
リンク:
https://bre.is/7zWSPUFmd

▼140文字ブリーフィング:

アメリカ版の是枝映画のような感じでした。
是枝監督の「だれも知らない」や「万引き家族」が好きなら、
本作は非常に面白いはずです。
「プロジェクト」っていうのは、
アメリカでは「貧困層の住む公共住宅エリア」
という意味があるそうです。
「あそこはプロジェクトだから、
 近づいちゃダメよ」
っていうのは、
その界隈は貧困層が住んでいて、
犯罪やドラッグが蔓延していたりするからです。
(もちろん、そうでない地区もあります。
 あくまでそういう「偏見」があるという話しです)

、、、で本作の主人公の母子家庭の母と娘は、
そんな「プロジェクト」にも暮らせない貧困層です。
月々の家賃や頭金が払えないので、
プロジェクトにすら入れない人々はどこに暮らしているか?

1泊30ドルとかのモーテルに住みます。
モーテルに「住む」ことはルールでは禁止されていますが、
「1週間連泊する」っていうのを、
何ヶ月、ときには何年も繰り返すことで、
事実上そこに住んでいる人々がアメリカにはいるのです。
彼らは「日銭」を稼ぎながら生活しています。

この母子の場合、
市場で買った香水を、
高級ホテルの前で、
高級ホテルで買うよりはちょっと安く売って、
わずかな利ざやを稼ぐ、ということをしています。

*****ネタバレ注意*****

*****ネタバレ注意*****

*****ネタバレ注意*****


さらに、物語の後半に分かるのですが、
お母さんはいわゆる「身体を売る」という商売もしています。
そのようにして日銭を稼ぎながら、
滞納気味のモーテルの家賃を払う、
という生活をしている母子家庭の話しです。

最初に「アメリカの是枝映画」と言いましたが、
じっさい監督のショーン・ベイカーは、
是枝監督を尊敬していて、
映画作りの参考にした、と発言しているそうです。
子役の自然な演技やドキュメンタリータッチの映像、
そして、「子どもの目線」を意識した、
徹底したローアングルは、
完全に『誰も知らない』オマージュと言って良いでしょう。

この映画、モーテルの管理人が素晴らしいです。
演技も、役どころも。
最貧困層の子どもを、
暖かく見守る視線が、彼らの最後の砦になっています。
(本人たちはそれに気づいていないのがまた泣ける)
このモーテルはハイウェイを隔てて、
ディズニーワールドのすぐそばにありますが、
この子どもたちはディズニーワールドなんていうものから、
最も遠い場所にいます。
映画の最後の最後に、
ディズニーワールドを私たちは子どもと一緒に観ることになるのですが、
それがあまりにも切ない。
あんなにも泣けるシンデレラ城は世界初でしょう。
(1,055文字)



●ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ

鑑賞した日:2019年6月8日
鑑賞した方法:Amazonビデオでレンタル(100円)

監督:ジョン・リー・ハンコック
主演:マイケル・キートン
公開年・国:2017年(アメリカ)
リンク:
https://bre.is/ggeokK5jf

▼140文字ブリーフィング:

これもめちゃくちゃ面白かったです。
タイトルのとおり、
マクドナルドの「創業者」、
レイ・クロックの自伝小説が原作です。

マクドナルドを「宗教」と考えると、
とてもうまく理解出来ます。
なので、この本(映画)は、
「マクドナルド教の使徒行伝」
として読む(観る)ことができます。

今や世界宗教となったマクドナルド教が、
誕生から初期の拡大にかけて、
どんな道筋を歩んだのか?という物語なのです。

レイ・クロックはじつは、
キリスト教で言うとイエス・キリストではないし、
ギリシャ哲学でいうとソクラテスではありません。
彼はキリスト教でいうと使徒パウロであり、
ギリシャ哲学で言うとプラトンの役割を果たしました。
つまり「教祖」ではなく「開祖」なのです。

では、マクドナルド教の「教祖」は誰か?
カリフォルニアの片田舎で、
世界で初めてフォード式の流れ作業を、
食品業界に持ち込み、
驚くべき人気を誇ったハンバーガー屋の創業者、
マクドナルド兄弟です。

彼らは他にも店舗を持っていましたが、
「3店舗が限界」というのが結論でした。
それ以上に展開すると、
クオリティーコントロール(品質管理)ができず、
4店舗目以降は、店の評判をかえって落とすことを、
経験的に知っていたからです。

そこへ、巡回セールスマンとして全米の街をまわっていた、
レイ・クロックが訪れます。
そして、レイ・クロックは思います。
「これは、世界を支配できるビジネスだ」
レイ・クロックは、ひいき目に見ても、
汚いやり方でマクドナルド兄弟を騙し、
そして彼らのビジネスを「乗っ取って」しまいます。

レイ・クロックがまだマクドナルド兄弟と仲良かった頃、
マクドナルド兄弟に語った彼の「夢」は、
皆様も知っている通り、実現します。

その夢とは何か?
その大意を引用します。

「アメリカのあらゆる街を車で巡回して気づいた。
 アメリカにはどの街にも二つのものがある。
 教会と、裁判所。
 つまり十字架と、星条旗だ。
 私は『アメリカの街の3つめのシンボル』が、
 あなたがたのゴールデンアーチ(マクドナルドのマーク)
 になるという考えが頭を離れない。
 つまり、マクドナルドは新しいアメリカの教会になるんだ!!」

じっさい、それは実現しました。
アメリカ人は世界のどこに行っても、
あのゴールデンアーチを見ると、
大使館を見つけたような安心感に包まれると聞いたことがあります。
いまや教会の十字架よりも、
パワフルなシンボルになった、
マクドナルドのシンボル。

それを成し遂げた要因は、
レイ・クロックの強引とも言える、
強硬なビジネス手腕でした。
マクドナルド兄弟(創造者)と、
レイ・クロック(拡散者)は違います。
ソクラテスとプラトンの関係であり、
スティーブ・ウォズニアックとスティーブ・ジョブズの関係です。

私の特性は明らかに前者で、
後者の在り方に何の魅力も感じませんが、
レイ・クロックのような後者の生き方は、
自分とは真逆だという意味で、
人物としては非常に面白いし、
彼らがいなければ素晴らしいアイディアも、
世界に拡散することがないのも事実です。

創造者と拡散者。
この二つがいつも必要です。
私に拡散者の才能はゼロで、
創造者の才能は有り余っています。
拡散者とタッグを組むのが、
私の生き方において大切なことなんだろうなぁ、と思います。
願わくばウォズニアックやマクドナルド兄弟のように、
うまみを全部横取りされないように気をつけながら笑。

何より、この映画は映画として非常に良く出来ています。
素晴らしい。オススメです。
(1,397文字)



●教誨師

鑑賞した日:2019年6月15日
鑑賞した方法:Amazonビデオでレンタル(399円)

監督:佐向大
主演:大杉漣
公開年・国:2018年(日本)
リンク:
https://bre.is/IdevW_Eu6

▼140文字ブリーフィング:

これもめちゃくちゃ面白かったですね。
日本は死刑制度が残っている数少ない先進国のひとつです。
死刑制度の是非はさておき、
死刑判決を受けた人が、
じっさいに死刑に処せられるまで、
長い時は10年以上も待ちます。
法務大臣の任期だとか、
時の政権の支持率などを鑑みながら、
かなり恣意的に死刑の執行は決められているからです。
さて。
この「待つ」間というのは、
彼らはもはや「懲役刑」に服しているわけではないので、
かなりの自由が与えられています。
服装も自由ですし、労働義務はなく、
本を読むことも無制限に認められています。
(ちなみに私は死刑制度撤廃派です。
 死刑制度に犯罪の抑止力はまったくないことを、
 多くの調査結果が示しているし、
 人間のやることなので「誤審」もゼロにはなりませんから。
 死んだ後に誤審と分かった場合、
 取り返しがつかないことになります)

教誨師っていうのは、
そのような死刑囚に面会して、
彼らの不安を和らげ、
魂に慰めを与えるための牧師です。
普段は普通に牧師をしている人が、
この仕事を役所から請け負ってやっているのですね。
この映画で初めて知りましたが。

映画に「牧師」が出てくる時、
本当の牧師に監修されていないな、
っていうのは、私はすぐに分かります。
細かいところに嘘が入り込みますから。
しかしこの映画は、
そのあたりの考証が完璧だった。
牧師が言いそうにないことは絶対に言わないし、
牧師が言いそうなことを言う。
行動も、服装も、持ち物も、雰囲気も、
完全に「プロテスタントの牧師」でした。
これだけで80点ぐらいあげても良いぐらい。

基本的に本作は「会話劇」で、
ずーっとひとつの部屋で物語が展開します。
教誨師の主人公が5人(だったかな?)の死刑囚と話す、
会話だけが本作の内容です。
なので、映画と言うより舞台劇を見ている感覚に近い。

いくつか感動的だった会話を紹介します。
死刑囚のひとりが言います。
「(自分は仏さんも拝んでいるから)
 あっちもこっちも手を出して怒りませんかね?」
「何がですか?」
「いや、神様がですよ」
「大丈夫ですよ。
みんな初詣にも行けばお墓にも行く。
そしてクリスマスも祝う。それでいいんです。
そんなのにいちいち怒ってたら
神様も身が持ちませんよ」

この会話の後で、
囚人は信仰を持ち洗礼を受けます。
牧師が「怒りますよ、神様は。
偶像崇拝は禁止されていますから。」
という薄っぺらな教条主義を振り回していたら、
囚人は永遠に神に近づくことはなかったというのは自明です。
教条主義がいかに人を信仰から遠ざけるかがよく分かります。

他にもこんな会話がありました。
頭でっかちになり人を見下している、
衒学的な若者死刑囚が言います。
「牧師さん、虚しくないですか?
 こんなことしてて。」
「私は虚しい。
 何度もやめたいと思った。
 でも、この仕事は、社会の穴を埋めるとか、
 穴を開けないようにするとかじゃなく、
 空いてしまった穴を『見つめる』仕事だと思った。」
さらに挑発する彼に牧師は言います。
「悔い改めとか神様とか、
 もうこの際どうでも良いじゃないか、
 私はあなたの隣にいる!
 だからあなたも自分が殺した人々と向き合ってくれ!」
このシーンはグッときました。

先ほどの「あっちもこっちも手を出して」のおじさんは、
文字を読めなかったので、
他人に騙されて殺人を犯すことになってしまった死刑囚です。
教誨師は途中から、聖書の話しはやめて、
「あいうえお」を教える事に切り替えます。
おじさんは拘置所で洗礼を受けます。
最後のシーンでそのおじさんは、
「牧師さん、ありがとう」といって、
彼のいちばんの宝ものである、
「水着グラビアの切り取り」を牧師にプレゼントします。
「いいんですか?
 こんな大切なものを下さって。」
「牧師さんには本当にお世話になりましたから。
 洗礼を受けられて私は幸せです。」

ここではじめて、映画の中で、
拘置所外が映されるのですが、
家への帰路で牧師がその水着グラビアの切り抜きを開くと、
間違いだらけのひらがなで、
こう書かれていました。

「あなたがたのうち、
つみのないものが
いしをなげよ」

最後の最後に牧師自身がこの言葉に救われるとともに、
これはこの映画のすべての鑑賞者への、
映画からのメッセージになっている。
非常に良く出来た映画でした。
(1,726文字)



●ジョナス・ブラザーズ 復活への旅

鑑賞した日:2019年6月22日
鑑賞した方法:Amazonプライム特典

監督:ジョン・ロイド・テイラー
主演:ジョナス・ブラザーズ
公開年・国:2019年(アメリカ)
リンク:
https://bre.is/cSIqRUsGM

▼140文字ブリーフィング:

この映画、Amazonオリジナルコンテンツなんですよね。
つまりAmazonがお金を出して製作している。
こういう配信サービスの自社コンテンツの映画を、
今回初めて見ました。

めちゃくちゃクオリティが高くてびっくりしました。
これからの世界では、最大の映画会社はもはや、
パラマウントとかユニバーサルとかディズニーじゃなく、
AmazonとかNetflixとかになっていくかもしれません。
ドキュメンタリー映画なのですが、
非常に興味深かった。

「ジョナス・ブラザーズ」というロックバンドがあります。
2000年代後半に絶大な人気を誇り、
ビルボードに同時に3枚のアルバムがベスト10入りしたこともある。

最近の洋楽にはめっぽう疎いので、
私はこの映画で初めてジョナス・ブラザーズを知りました。
この三人組のバンドは本当の兄弟で、
なんと牧師の息子(4兄弟の上の3人)です。
それぞれにずば抜けた音楽の才能を持っていた彼らが、
ロックバンドを組み、レコード会社に見出され、
スターダムにのし上がっていきますが、
現在30代になる彼らは「解散」しており、
もう何年も顔を合わせず、口を聞いていません。

どうしてそれが起きたのか、、、
という謎を解くような形で、
ドキュメンタリーが進んで行きます。

タイトルを見ればわかりますが、
彼らは冷え切った年月を経て、
お互いの生き方を探り、
そしてお互いの本音をぶつけ合い、
和解し、「再結成」を遂げるのです。

めちゃくちゃ面白かったのが、
ニュージャージー州の田舎で牧師をしていた父は、
息子たちが「世俗的なバンド」を組んだと言うことで、
教会員から批判され、教会を追い出され失業した、
というくだりです。
30代になった彼ら3兄弟は、
いまだに教会に対して、
愛憎入り交じった複雑な感情を抱いています。
自分たちが音楽の才能を開花させたのは、
間違いなく教会があったからだし、
自分たちの父親を地獄の縁に落としたのも、
教会だったからです。

また、彼らが牧師の息子だったことにより、
「バージンリング」という指輪を彼らはするようになります。
これは、「結婚まで貞操を守る」という、
教会が若者の貞操教育キャンペーンに使っていた指輪です。
最初はそれが褒めそやされますが、
実際には彼らはそんな生活はしていませんでした。
しかし世間の目があったので、
彼らはその指輪を今更外せない。
それが「ゴシップ」として報道され、
彼らを精神的に追い詰めていきます。

彼らのすれ違いが起こった経緯も、
兄弟バンドであるゆえの、
ライフステージの違いや、
家庭に対する考え方などの違いが露呈し、、、
というのが理由でした。
そんな彼らが30代になり、
成熟して、より深められた関係を構築し、
そして「再起」します。
胸が熱くなりました。
(1,109文字)



●運び屋

鑑賞した日:2019年6月20日
鑑賞した方法:Amazonビデオでレンタル(399円)

監督:クリント・イーストウッド
主演:クリント・イーストウッド
公開年・国:2019年(アメリカ)
リンク:
https://bre.is/ZtWqaPkQo

▼140文字ブリーフィング:

イーストウッドが新しい映画を撮った?

見るでしょ!

という、もう「思考停止」
もしくは「脊髄反射」のようになっています。
それだけイーストウッドを私は信頼しています。
彼が撮った映画は必ず面白い、と。

この映画撮影時に87歳のイーストウッドの、
「遺作」になるかもしれないと思いながら見ました。
最近はもう、ずっとそうですけどね笑。

改めて思いましたが、
彼の「話し運びの手際の良さ」は異常です。
「体脂肪率一桁」の編集をします。
バッキバキです。キレてる、キレてる。
筋繊維の一つ一つまでハッキリ見える。
とにかく手際が良い。
編集の手際の良さは、
西のイーストウッド、東の北野武ですね。

仕事一筋に生きてきた老人が、
その悔恨をメキシコの麻薬売人たちに利用される、
という実話に基づく話しです。
ちなみにイーストウッドと北野武が似ていると思うのは、
編集の手際だけではなく、
2人の映画の隠れたテーマがいつも、
「死に場所を求める男の話」だからです。
(404文字)



●悪魔を憐れむ歌

鑑賞した日:2019年6月20日
鑑賞した方法:Amazonビデオでレンタル(100円)

監督:グレゴリー・ホブリット
主演:デンゼル・ワシントン
公開年・国:1998年(アメリカ)
リンク:
https://bre.is/VisBMuym7

▼140文字ブリーフィング:

メルマガ読者の福嶋さんという方に勧めていただきました。
『フライト』と『悪魔を憐れむ歌』を見てみてほしい、と。
『フライト』に関しては、
2年前に見てレビューしていました。
こちらの記事になります。

▼陣内が先月観た映画 2017年6月 フライト 他14本
http://blog.karashi.net/?eid=228

福嶋さんはデンゼル・ワシントンが好きなんですね。
私も大好きです。
『イコライザー』は最高でしたし、
『フライト』のラスト5分のカタルシスは凄かった。

『悪魔を憐れむ歌』も、
デンゼル・ワシントンの演技が良かったです。
脚本も秀逸です。
タイトルから受ける印象とは違い、
ホラーやオカルトの類いではなく、
サスペンス要素が強いです。
ローリング・ストーンズの「Time is on my side」が印象的でした。
「悪魔」が人間に乗り移ることにより、
彼の目的を達成しようとする。
その存在に気づいたジョン・ホブス警部(デンゼル・ワシントン)は、
悪魔を止めようとして、、、という筋書きです。
雰囲気としては浦沢直樹のマンガ「MONSTER」と似ています。
あとこの映画が撮られた時点で、
SNSは普及していないわけですが、
この「悪魔」って、SNS時代の、
「ミーム」のメタファーとしても観賞可能です。
ゾンビ映画もそうですが、
「現実世界の映し鏡」と考えたとき、
「悪魔」は、SNS時代に人々を衝き動かす、
報復感情の増幅の比喩にも見えます。
それが「決して捉えられず、抑えられない」
ところも似ている。
(628文字)



●トランス・ワールド

鑑賞した日:2019年6月22日
鑑賞した方法:Amazonプライム特典

監督:ジャック・ヘラー
主演:サラ・パクストン
公開年・国:2013年(アメリカ)
リンク:
https://bre.is/JyjTF-9UE

▼140文字ブリーフィング:

超低予算映画です。
大学生でも作ろうと思えば作れる感じ笑。
でも脚本はまずまず良かった。
だた、「平均よりは面白くない」かな。
あんまりオススメしません。
(73文字)



●翔んで埼玉

鑑賞した日:2019年6月23日
鑑賞した方法:マニラに向かう飛行機の中で観賞

監督:武内英樹
主演:GACKT、二階堂ふみ
公開年・国:2019年(日本)
リンク:
http://www.tondesaitama.com/

▼140文字ブリーフィング:

ちょっと気になってた映画なのですが、
マニラに向かう飛行機の機内動画サービスに入ってて、
「ラッキー」と思い観賞。

思ってたのの2.5倍ぐらい面白かったです。

マジでくだらないですけど笑。

栄養素がまったく含まれていない、
スナック菓子のような映画です。
まったく後に何も残らない娯楽映画としては、
最高峰の部類じゃないでしょうか。

「なんでこの人たち(制作者)は、
 こんなくだらないことに、
 こんなにもお金と時間と、
 汗と涙を使っているんだろう」
とか考えると、
それも含めて笑えてくるという笑。

ヤバいです、この映画。
マジでくだらない(←褒め言葉)ですから、
騙されたと思って見てください。
オススメします(笑)。

これは関東に住んでいる人のほうがよく分かるのですが、
関東には独特な「都会・田舎ヒエラルキー」が存在します。
どんな条例にも書かれていない不文律ですが、
そういう「都会カースト」が、関東には存在するのです。

港区・中央区>世田谷区・目黒区>渋谷区>新宿区
>杉並区・武蔵野市>、、、、、、、、>練馬区・板橋区>
、、、、>立川市>八王子市、、、、、
、、、ってやっていくと、
「埼玉」「サ・イ・タ・マ」
みたいになって、
田舎の代名詞みたいに言われてるわけですよ。
(もちろん私はそう思いませんが。
 あと、田舎より都会のほうが良いとすら、
 そもそも思ってませんし。)

でも、そういうのって、
私の意見とは別の所で、
存在するじゃないですか。
面白いのは、
そういうコンプレックスが強い人って、
たいてい地方から移住してきた人たちであり、
本当の本当の真正の都心部出身者、
たとえばそうですねぇ。
天皇家とかは(←極端か?)、
「都心に住んでいる優越感」もなければ、
「田舎を見下すというとう概念」もないはずです。

優越感はいつも劣等感とセットですから、
「自分が都会に住んでいることを鼻にかけている人間」は、
100%の確率で「その本質において田舎者」です。
もしくは「つまらないコンプレックスの保持者」です。
「青山に児童相談所を作るな」と抗議するタイプの、
イタい人々ですね。

、、、という私の意見とは別なところに、
やっぱりそういうのって存在するじゃないですか。
あ、話しがループした笑。

、、、でこの映画は、
そういう「目に見えないヒエラルキー」が、
可視化された架空の世界の物語です。

さっきのやつでいうと、
港区・中央区>、、、、、
八王子市>、、、、、
、、、、>さいたま>、、、

ってなるわけですが、
この世界における中央区出身の、
「(なぜか)ベルバラ風の貴族」たちは、
「さいたま」って発音しようとするだけで、
眩暈・立ちくらみがして、
体調が悪くなります。
「ぐんま」に至っては、
失神します笑。

埼玉出身であることを隠して、
都心部に住む人々は、それがバレると、
「草加せんべいの踏み絵」を踏まされます。
「隠れキリシタン」ならぬ「隠れ埼玉人」です。
本作の主人公は埼玉出身でありながら、
都心のエリート校に進んでいる「出身地詐称者」です。
彼はしかし、都心の貴族たちよりも貴族っぽい。
(なんせGACKTですから笑)
彼は将来、東京都知事になって、
埼玉と東京の「関所」を撤廃しようとしている、
「埼玉解放戦線」の御曹司なのです。
「埼玉解放戦線」っていったい何なの?
とかは、この際聞きっこなしにしましょう笑。
それは野暮というものです。

「池袋には同胞がたくさんいる」とか笑、
敵対している千葉の領地で捕まると、
体中の穴という穴にピーナッツを詰め込まれ、
九十九里浜で地引き網漁を手伝わされる
、、、みたいなのも面白いです。

都心の住人が埼玉に脚を踏み入れると、
「さいたマラリア」という、
「小型カスカベ蚊」が媒介する伝染病にかかったりします笑。
エンドロールで流れる、
芸人のはなわのテーマ曲も最高でした。
とにかくバカバカしくて最高なので、
案外、かなりオススメです。
マジで、心底、120%、
くっだらないですから(←褒め言葉)。
(1,459文字)



▼▼▼月間陣内アカデミー賞▼▼▼

世界一小さな映画賞、
「月間陣内アカデミー賞」を、開催いたします。
主催者、プレゼンターは陣内がつとめます。

作品賞、主演(助演)俳優賞、そしてもうひとつ、
という感じで、ぬるーくやります。
皆さんの映画選考の参考にしていただければ幸いです。


▼作品賞
「教誨師」

コメント:

これは間違いないですね。
大杉連の「遺作」が本作だったというのも、
なんというか、じーんとします。
下手な「キリスト教伝道映画」を見るよりも、
キリスト教徒じゃない人に、
響く映画なんじゃないでしょうか。
あんまりそういう目で映画を観ることがない私ですが、
「クリスチャンじゃない人に見せたい映画」として、
過去No.1かもしれません。


▼主演(助演)男優賞
クリント・イーストウッド(運び屋)

コメント:

もうねぇ。
87歳のイーストウッドが画面に映ってるだけで、
こっちは幸せなわけですよ。
「拝むように」見ています笑。


▼主演(助演)女優賞
ブルックリン・プリンス(フロリダ・プロジェクト)

コメント:

この子役はとてつもなかったです。
「上手い」なんてもんじゃない。
自然な演技というか、
「自然よりも自然」な存在感が凄かった。
是枝監督の映画以外で、
子役がここまで凄いと思うことは珍しいです。


▼その他部門賞「世界一くだらないで賞」
「翔んで埼玉」

コメント:

マジでくだらなかったー。
「下妻物語」とか、
「キサラギ」とかの感じと似てるかな。
でも、あの段階をはるかに超えてくだらないんだよな。
ちょっと日本映画を新しいステージに押し上げた、
記念碑的な映画になる予感がします。

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