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本のカフェ・ラテ『木を見る西洋人、森を見る東洋人』後編

2019.03.06 Wednesday

+++vol.063 2018年10月30日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 本のカフェ・ラテ
「本のエスプレッソショット」というこのメルマガの、
開始当初からの人気コーナーでは、
一冊の本を約5分で読める量(3,000〜10,000字)で、
圧縮し、「要約」して皆さんにお伝えしてきました。
忙しい読者の皆さんが一冊の本の内容を、
短時間で上っ面をなぞるだけではなく「理解する」ために、
「圧縮抽出」するというイメージです。
この「本のカフェラテ」はセルフパロディで、
本のエスプレッソショットほどは、網羅的ではないけれど、
私が興味をもった本(1冊〜2冊)について、
「先週読んだ本」の140文字(ルール破綻していますが)では、
語りきれないが、その本を「おかず」にいろんなことを語る、
というコーナーです。
「カフェ・ラテ」のルールとして、私のEvernoteの引用メモを紹介し、
それに逐次私がコメントしていく、という形を取りたいと思っています。
「体系化」まではいかないにしても、
ちょっとした「読書会」のような感じで、、、。
密度の高い「本のエスプレッソショット」を牛乳で薄めた、
いわば「カフェ・ラテ」のような感じで楽しんでいただければ幸いです。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼先々週の「続き」▼▼▼

さて。
先々週、こちらの本をご紹介したのは良いのですが、
文字数オーバーになり、
前編・後編に分割することにしました。
今回で終われば良いんだけど、、、。

いや。

終わらせます。

さすがに3回にわたるのは長過ぎなので。
他にもカフェラテ方式で紹介したい本、
たくさんあるので。

ではさっそく始めて行きましょう。



●木を見る西洋人、森を見る東洋人

読了した日:2018年1月31日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:リチャード・E・ニズベット
出版年:2004年
出版社:ダイヤモンド社

リンク:
http://amzn.asia/cJx57Lj



▼▼▼エドワード・ホールの低コンテクスト社会、高コンテクスト社会

→P64〜65 
〈文化人類学者のエドワード・H・ホールは、
自己理解の仕方の違いを把握するために、
「低コンテクスト社会」、
「高コンテクスト社会」という概念を提起した。
西洋人がある人について話す場合、
その人が状況や人間関係に
左右されない属性をもっていると考えることは理にかなっている。
自己とは、周囲と切り離された不可侵の自由な主体であって、
集団から集団へ、ひとつの環境から他の環境へと移っても
著しく変化することはない。

しかし、東洋人にとっては
(また、程度の差こそあれ、その他の地域の人々にとっても)、
人は他者とつながっており、変わりやすく、状況依存的な存在である。
哲学者のドナルド・ムンロによれば、
東アジア人は「家族、社会、道教、儒教など、
自らを取り巻く全てのものとの関係の中で」自分自身を理解する。
人は多くの関係に参加しており、
そうした関係があって初めて行動することが出来る。
純粋に周囲から独立した行動を取ることはたいていの場合不可能だし、
実際のところ望まれてもいない。〉



、、、「高コンテクスト社会」「低コンテクスト社会」
という耳慣れない(かもしれない)単語が出てきました。
コンテクストとは「文脈」を意味する英語です。
ですから、「文脈依存性が高い社会」「文脈依存性が低い社会」
と言い換えても良いわけですね。

日本や韓国などの東アジアの国々は、
「高コンテクスト社会」、
西洋社会は逆に「低コンテクスト社会」なのだ、
というのが著者がここで言っていることです。

日本は特に、数千年もの間、
実質的には単一民族、
単一言語で生活してきましたから、
それも「高コンテクスト社会」に一枚噛んでいます。
「高コンテクスト社会」では、
話した言葉の内容(テキスト)よりも、
その言葉が発せられた「場」が公的だったか私的だったか、
発言した人物の立場が、権力者なのかそうでないのか、
声のトーンがきつかったのか優しかったのか、
表情は無表情だったのか笑っていたのか、
などの文脈(コンテキスト)のほうが、
情報のウェイトとして占める割合が高い、ということです。
「腹を読む」とか「ツーカーの関係」とか、
「察する」とか、「以心伝心」とか、「あうんの呼吸」などは、
すべて「高コンテクスト社会」であることの証左です。
「忖度」はだから、日本だからこその現象なわけですね。

上司や政治家が、
部下や民間人に、
「手を汚す」ような仕事をさせる場合、
「法的にグレーなことをしておいてくれ」
とは決して言いません。
「まぁ、上手くやっておいてくれよ」
と言います。
(分かるよな、俺の言ってること)
という意味です。
日大タックル問題ならば、
「やらなきゃ意味ないよ」
ってことですね。
部下が手を汚したとき、
「指示したわけじゃない」と居直れるのが、
このタイプの指示の怖いところです。

対する欧米社会は、
多文化・多言語・他民族な状況を、
数千年間経験してきていますから、
「コンテキスト」に依存したくても、
それが出来ないのです。
イギリス人とフランス人とイタリア人とドイツ人、
それぞれが、
「うまくやっておいてくれよ」
と言ったとしても、
「あうんの呼吸」が成り立たない。
日大アメフト部の宮川君の立場におかれた人は、
「えっと、それってどういうことですか?
 具体的に指示していただかないと分からないんですけど。
 開始何分で、誰に対して、
 どういったタックルで怪我をさせろってことですか?」
となる。
「コンテキスト」に依存できないから、
「テキスト(会話の内容)」で、
具体的に伝えないといけない。

これはけっこう大変です。
大変ですが、自分が実際に何を考えているかを、
他者に明確に表現するという訓練になります。

今後日本は文明史で始めて、
「多文化・他民族・多言語共生社会」に近づきます。
自民党がいくら抵抗しても、
この潮流は逆行不能です。
グローバリズムはハワイの溶岩流と同じで、
泣いても笑っても止めることが不可能なのです。
燃えたくなければ移住するしかない。
私たちは「コンテクスト」に、
かつてのように高度に依存できない社会に、
暮らすようになる。

「あうんの呼吸」はもはや通用しない。
A「あれ、適当にやっといて。」
B「はい。」
という会話が、
低コンテキスト社会では、
こうなります。

A「私はこういう考えをもっていて、
 だからこうして欲しいのです。
 そうするとあなたにもこういうメリットがありますが、
 こういったリスクもあります。
 だから、一緒にこうしませんか?」
B「あなたの意図は伝わりました。
 一点だけ不明なところがあります。
 リスクをどう分担しあいましょう?」
A「●●●」
B「×××」
A、B、A、
、、、、「じゃ、やりましょっか。」

多分会話は10倍ぐらい長くなる。
これは不便です。
しかし、不便ですが、
私はフェアだとも思います。
高コンテキストを悪用し、
責任の所在が曖昧になるようなことは理不尽だと思うので。
日大アメフト部の宮川君は、
「ガバナンス問題」の被害者であると同時に、
「高コンテクスト社会」の被害者でもあります。
私はこの種の「アンフェアさ」に耐えるよりは、
「説明が大変なこと」に耐える方がまだマシと考えます。



▼▼▼自己肯定を学ぶアメリカ人、自己批判を学ぶ日本人。
ムラのあるアメリカ人と完璧主義の呪縛に陥る日本人

→P70〜71 
〈スティーブン・ハイネと共同研究者たちが行った実験は、
自己がすぐれていることを実感していたいという西洋人的な心理と、
精進して自己を向上させたいというアジア人的な心理の違いを
明らかにするためのものだった。

実験に参加したカナダ人と日本人の学生は、
「創造性テスト」と称する架空の試験を受け、
その採点結果として
「非常に良い成績」または「非常に悪い成績」を
受け取った(ただしこれらは架空の成績だった)。
その後で実験者は、
参加者がテスト課題とよく似た練習課題に
どのくらいの時間にわたって取り組むかを密かに計測した。

カナダ人は自分が成功したとき(良い成績を取ったとき)に、
類似の課題により長い時間取り組んだ。
一方、日本人は失敗したとき(悪い成績を取ったとき)に、
より長い時間取り組んだ。

日本人は別に自虐的になっていたわけではない。
彼らはただ、与えられた自己向上のチャンスを実践したのである。
この研究の結果から、東洋と西洋における
スキル発達について考えることは興味深い。
西洋人は、取りかかって直ぐに上手く出来た事項については
かなり上達しやすいと思われるが、
逆に東洋人は、いわゆる器用貧乏になりやすい可能性がある。〉


、、、これは説明不要ですね。
「平均病」という言葉があります。
これは日本の学校教育や家庭教育が、
「弱点を克服する」という「思想」を持つからです。
突出した才能を持つ人は、
たいてい代償的に、どこかが突出的に抜けています。
脳の構造というのはそうなっているのです。
たとえばサヴァン症候群という、
社会脳に問題を抱える障害がありますが、
この人々は、「1444年6月9日は何曜日?」
といった質問に即座に答えられたりする能力を持っていたりします。
私の脳はちなみに、傾向で言うとサヴァン傾向があると、
自分では分析しています。
抽象思考や論理思考は長けていますが、
社会脳は非常に脆弱ですので。

話しを戻しますと、
日本は「平均病」の社会ですので、
弱点を克服することにリソースを投入しがちです。
そうすうると、「成績オール4」の人材が量産され、
そのような人が評価される。

しかしこれは、ちょっと良くないこともある。
経済学者ヨーゼフ・シュンペーターは、
「資本主義経済は定期的に不況と好況を繰り返す。
不況はイノベーションの契機となるので必要悪だ。」
という旨のことを言っています。
シュンペーターは「創造的破壊」という言葉の生みの親です。

現代の世界が「創造的破壊」の段階にあるのは、
論を待ちません。
20世紀に安定的な産業だった二次産業や、
労働集約的な三次産業の姿が、
インターネットやAI、3Dプリンタなどのの出現によって、
大きく変革しようとしている。
現在主流のビジネスモデルはどんどん過去のものになり、
「新しい産業革命が進行中だ」という論者も多い。

そのような時代には、
「イノベーションを起こせる人材」が必要になります。
ところが、「オール4」が10000人いても、
イノベーションは起きません。
10000人のなかに「他は1以下だけど、
ひとつの分野で異様なほどに突出している」
という、標準偏差から大きく離れた人材が数人いて、
得てして彼らこそがイノベーションの担い手となります。

本田宗一郎や、
スティーブ・ジョブズや、
イーロン・マスクを考えて下さい。
彼らは「天才」ですが、
3人とも共通の「別名」を持ちます。

「変人」です。

本田宗一郎は自転車にエンジンをつけたやつで、
浜松市内を走り回り、
奥さんはノイローゼになるほど追い詰められたし、
スティーブ・ジョブズは「サイコパス」
と言われるほど冷血です。
イーロン・マスクは、
途中で他のことに集中し始めてしまうため、
「服を着ることが出来ない」という悩みをもつほど、
完全なADHDです。

日本の教育はこういった突出の尖った角を丸めて、
まるでJAのコンベアーのジャガイモの出荷のように、
変な形の奴を弾いていき、
そして晴れて「社会に出荷されるオール4の人材」
を作る。

「いやいや、東大に入り官僚になる天才もいるじゃないか!」

違います。
彼らは単に「オール5」なだけです。
平均病という意味では、
さほど変わらない。

何の話し?

現代の日本の課題は、
いかに平均病を脱するか、でしょう。
「ゆとり教育」、
もっと続けたら良かったのに。
教育の結果は、
それが出るのに30年かかります。
もやしの生産とは違い、
人は「木」に近いのですから。
文部科学省の悪いところは、
結果が出る前に結論をだす、
ということです。

ゆとり教育の結果を待つゆとりが、
彼らにはなかった、ということでしょう。

残念です。



▼▼▼相互協調的な社会か、相互独立的な社会、
どちらに暮らすかで人のアイデンティティは変化する

→P83〜84 
〈言うまでもなく、
東洋人は日常的に相互協調的なプライミングを受け、
西洋人たちは相互独立的なプライミングを受けている。
たとえ彼らの受けたしつけが
どちらか一方に偏ったものではなかったとしても、
周囲の様々な手がかりのおかげで、
相互協調的な社会に生きる人は
概して相互協調的な行動を取るようになり、
相互独立的な社会に生きる人は
概して相互独立的な行動を取るようになるだろう。

実際、一時的に別の文化への移住を経験した人からは、
良くその手の話を聞く。
私が気に入っている事例は、
日本に数年間住んだ若いカナダ人心理学者の話である。
彼はその後、北アメリカの大学に職を求めて志願したが、
彼の指導教官は、願書に付された手紙を読んでひどく驚いた。
その仕事に自分がふさわしくないことについての
謝罪文から始まっていたからである。
また、自尊心とはきわめて柔軟性の高いものだと言うことも分かっている。
日本人の自尊心は、しばらくの間欧米に暮らすことによって
飛躍的に高まるという。

これはおそらく、日本にいるときと比べて、
日々、より自尊心の高まりやすい状況に
接していたためであると思われる。
このように、複数の異文化に育った人々の心理的特徴は、
おおいに変化しやすいものなのである。〉


、、、これはめちゃ面白いですね。
カナダに長く住んだ研究者が、
「日本人みたいになっちゃった」という話しです。
逆に欧米に住むと日本人の性格が変わる、
ということもよく言われます。

私の父はまさにその典型でした。
父は30代前半で、勤めていた会社の、
留学制度を使って、
イリノイ工科大学でふたつめの修士課程を収めました。
その2年半のあいだに、父は性格が変わった、
と母は証言しています。

大学時代および社会人初期の父は、
めちゃくちゃ「ネクラ人間」で、
いつも彼の周りには暗黒の影が立ちこめているような、
そんな存在だったそうです。
アメリカに行き本当に性格が変わった。
私の知る父は「ネアカ人間」です。
ちょっと変人要素もありましたので笑、
「フーテンの寅さん」とか、こち亀の両津勘吉とか、
そういったタイプの、なんだか周りがにぎやかになる、
ネアカ人間になりました。
私の知っている父は後者なので、
父がアメリカに行っていなければ、
私の現在の性格も変わっていたかも。

「自信がない人の心理学」みたいな本は、
途方もない数発刊されていますが、
実は「転地療法」が最強だというのが私の考えです。
自信のない性格を変えたい人は、移住しましょう笑。
あまり聞いたことない処方箋ですが、
効果は実証されています。



▼▼▼社会を分析的世界観から原子論的に見る西洋人、
社会を包括的世界観から関係論的に見る東洋人

→P99〜100 
〈西洋人のこうした原子論的な考え方は、
社会制度の性質をどのように理解するかと言うことにも表れている。
ハムデン=ターナーとトロンペナールスは、
中間管理職に対する調査の中で、
企業は仕事を組織的にこなすシステムか、
または一緒に働く人々をとりまとめる有機体かと言うことについて、
参加者の考えを尋ねた。

(a)企業とは、様々な職務や仕事を
効率的にこなすために作られたシステムである。
従業員は、機械や設備の助けを借りながら、
これらの仕事を成し遂げるために雇われている。
彼らは自分が行った仕事に応じた賃金の支払いを受ける。

(b)企業とは、人々が集まって共に働く集団である。
従業員は、仲間や組織そのものとの間に社会関係を築いている。
企業の仕事はそれらの社会関係に依存している。

その結果、アメリカ人のおよそ75%、
カナダ人、オーストラリア人、イギリス人、オランダ人、
スイス人の50%以上が(a)を選択したのに対し、
日本人とシンガポール人で(a)を選択した人は約三分の一に過ぎなかった。

ドイツ人、フランス人、イタリア人は、
アジア人とイギリス系および来たヨーロッパ系の人々との
中間に位置していた。
つまり、西洋人、とくにアメリカ人や北ヨーロッパ系の人々にとって、
企業とは、別々の職能を発揮する人々が
寄り集まった原子論的なモジュールの社会である。

一方、東アジアの人々にとっては、
企業とはそれ自体一つの有機体である。
企業における人間関係は、
物事を一つに束ねる上でなくてはならない要素と考えられている。
東ヨーロッパや南ヨーロッパの人々も、
程度の差はあれ、ある程度東アジア人的な考え方を有している。〉



、、、これはかなり示唆に富む洞察です。
組織とは別々の個人の集まりだ、という世界観と、
個人とは組織とは不可分な「構成要素」だという世界観。
どちらを取るかで、組織論は天と地ほども変わるはずです。
よく言われることですが、
日本では名詞の肩書きこそが名詞の内容です。
「●●株式会社 営業本部長 山田太郎」
という名詞があったとき、
「山田太郎」という部分は実は重要ではない。

養老孟司がいつかの講演でこう言っていました。
「名詞を印刷するとき、
肩書きだけの名詞を作れば良いのに。
名前のところは空白にしておいて、
担当者が変わる度にゴム印で押せばいい」って笑。

アメリカではこれが逆になります。
「私はジョン・スミスと言います。
 3年前は●●株式会社の営業部長をしていましたが、
 現在は転職して●●コーポレーションのマネジャーをやってます」
となる。

つまり、養老孟司のメタファーで言うなら、
名前だけの名詞を作り、
あとは空白にしておく。
転職する度に肩書きをゴム印で押せば良い、
ということになる。

日本とアメリカで、
組織と個人の、「地と絵柄」が逆転するわけです。

これ自体は「違い」なのでどうしようもありません。
著者も説明していますが、これは遺伝子と言うより、
「言語」に構造的に組み込まれています。
くだんのカナダ人研究者は遺伝子によってではなく、
日本語を長期間話したことによって、
「自分を低く見積もる癖がついた」のです。

問題なのは、こういう「組織に関する世界観」の違いを無視して、
アメリカで作られた組織論を、
日本の会社や教会がそのまま使おうとすることです。
日本の神学校で習う教会政治に関する組織論は欧米製ですし、
評判悪い「MBA」も完全に欧米スタイルです。

日本の組織を欧米のスタイルで運用するとどうなるか?

正直言って、そんなの上手く行くわけがない。
だって、前提が違うんだから。
サッカーのルールブックで野球をしようとしているようなもので、
その試みは必ず破綻します。
たいせつなのは、日本の前提がちゃんと前提されている、
新しい組織論を構築することです。
これは社会一般でもキリスト教会でも、
ほとんど誰も手をつけていない分野ですので、
今後取り組むに値することだと私は思っています。

今回の「よにでしセミナー in 札幌」では、
その辺の洞察も得られるようにセミナーデザインをしました。

恒例の宣伝を。
これは「ファイナルコール」です。
本当はもう申し込み締め切り過ぎてますが、
あと2人ぐらいなら入れるので。
参加希望者はこちらから。

▼参考リンク:よにでしセミナー 第二期 in札幌
http://karashi.net/project/yonideshi/index.html



▼▼▼大陸系のヨーロッパ人はビッグ・ピクチャーを描くが、
アングロアメリカ人はそうではない

→P101〜102 
〈ヨーロッパ大陸の人々の社会的態度や価値観が
東アジア人とアングロ・アメリカ人の中間であったことにも見られるように、
大陸の知の歴史はアメリカや英連邦に比べれば全体論的である。

アメリカは、大陸よりも遙かに「ビッグ・ピクチャー」
(将来を見据えた大きな展望)の感覚が乏しい。
アングロ・アメリカ人の哲学者は何十年もの間、
原子論的な日常言語分析に取り組んできたが、
その間、ヨーロッパの哲学者は、現象学や実存主義、
ポスト構造主義、ポストモダニズムなどを生み出していた。

政治、経済、社会に関する大きな思想体系は、
主としてヨーロッパ大陸から生まれた。
マルクス主義はドイツ生まれだし、
社会学はフランスのオーギュスト・コントが生み出し、
ドイツのマックス・ヴェーバーが最高水準まで高めた。
心理学に関しても、ビッグ・ピクチャーと呼べる理論を
打ち立てたのはやはり大陸の人々だった。
おそらく二十世紀における最も影響力のある心理学者は、
オーストリアのフロイトとスイスのピアジェだろう。

私が専門とする心理学の一分や、
社会心理学では、クルト・レヴィンと
フリッツ・ハイダーという二人のドイツ人が、
非常に守備範囲の広い包括的な理論を作り上げた。
そして、私自身も遅まきながら仲間入りすることになったのが、
ロシア人心理学者のレフ・ヴィゴツキーと
アレクサンダー・ルリアがつくり出した心理学の歴史文化学派だった。〉


、、、東洋人である私たち日本人からすると、
欧米人ってみんな欧米人で、一緒なんじゃないの?
と思うかもしれませんが、それはあまりにも乱暴です。
だって逆の立場で考えてみて下さいよ。
「日本人も中国人も韓国人も、
みんな東アジア人で、結局一緒でしょ?」
って言われてるのと同じ事ですからね。
私たちはそれに激しく反論するはずです。
「かなり違うぞ!」と。
「肌の色以外何もかも違う!!」

欧米人も同じです。
大別すると、大陸系(ドイツ・フランスなど)と、
アングロアメリカ系(イギリス→アメリカ系)で、
大きく違うわけです。

著者がここで指摘しているのは、
大陸系は「ビッグ・ピクチャー」を見たがるが、
アングロアメリカ系はとことん分析的で細部に入り込む、
ということです。
かみ砕いて言いますと、
大陸系のヨーロッパ人(ドイツ人、フランス人ら)は、
「この世界全体を説明する大きな論理」を志向するということです。
ドイツ人カール・マルクスの生んだ資本論などはまさにそれですね。
アメリカ人は「大きな論理」にあまり興味がない。
なので、スケールの大きな哲学や論理が生まれにくい、
というのです。

これは、いろんな神学者の本を読んでてもそう思います。
アメリカの神学者の論理と、
ドイツの神学者の論理って、
かなり違う。
直観的に言いますと、
アメリカはかなり機械論的で合理主義的です。
ドイツは「合理主義を超える物語」を生もうとしています。

これはリベラルかコンサバティブか、
という話しではありません。
それとは位相が違う、ダイナミズムのレベルの話しです。
ちなみに私は後者に惹かれます。



▼▼▼東洋人の弁証法的な解と、西洋人の非弁証法的な解

→P198 
〈ペンと私は、ミシガン大学の中国人とアメリカ人の学生に、
人と人との葛藤や一人の人間の中の葛藤を描いた物語を読んでもらった。
ある物語では母と娘の価値観の違いによる葛藤、
別の物語では遊びたいという気持ちと学校で
勉強しなければならないという気持ちの葛藤が描かれていた。
われわれは参加者に対して、
これらの葛藤についてどう考えるかを尋ね、
参加者の答えが「中庸」すなわち弁証的な解、
非弁証法的な解のいずれに当てはまるかを分類した。

弁証法的な回答にはたいていの場合、
問題の原因を両方の側に求め、
対立する二つの見方を妥協や超越によって
調停しようという内容が含まれていた。
「母親も娘もお互いを理解していなかった」という回答は、
遠くない将来に二人が
互いに目を向け合うだろうという指摘を含んでいると判断し、
弁証法的な解として分類した。

これに対して非弁証法的な回答では、
いずれか一方の側に問題があるという指摘がなされていた。

母と娘の葛藤については、
中国人の回答の72%が弁証法的な解として分類されたのに対し、
アメリカ人の回答には26%しか弁証法的なものはなかった。
学校か遊びかという葛藤については、
中国人おおよそ半数が弁証法的な解を示したが、
アメリカ人の場合はそうした回答は12%しかなかった。
要するに、中国人のほとんどは「中庸」を見いだそうとし、
アメリカ人のほとんどは一方向的な変化を求めていた。〉


、、、何か葛藤がある際、
中国人(東洋人)とアメリカ人(西洋人)とで、
解決のスタイルが違っていた、という話しです。

タイのチェンマイで私がこの本を引用しようと思ったのは、
この箇所を読んだからです。
先々週書いた、「排中律」の問題がここで再び出てきます。
西洋の分析思考の根底にある「アリストテレス論理学」の、
「いろは」の「い」が、「排中律」です。
「矛盾律」とも言う。

「AはAであると同時に、
 非Aであることはありえない。」
と表現されます。
だからこそ、西洋の神学で、
「三位一体論」や「キリストの神性」が、
あれほど問題になったわけです。

ところが、東洋には驚く事に、「排中律」がない。
陰陽思想や道教などに代表されるように、
東洋では、
「光と闇」
「病気と健康」
「自然と人間」
「宗教と世俗」
こういったものを、
「対立概念」と捕らえません。
互いに補完する概念と捉え得ます。

「死は生に含まれ、生は死に含まれる」
というような考え方ですね。

西洋と東洋の思考の違いが、
問題解決にどういった違いをもたらすか?
西洋は「排中律」がありますので、
「Aが悪いか、Bが悪いか?」
といった二項対立の図式を取りやすく、
「排中律」のない東洋は、
「AもBも両方とも正しいし、
 両方とも悪い」
といった弁証法的な解を思考します。

「大岡裁き」とか、
「三方一両損」とかっていうのは、
その典型です。
辞書にはこうあります。

三方一両損:
「左官金太郎が3両拾い、
落とし主の大工吉五郎に届けるが、
吉五郎はいったん落とした以上、
自分のものではないと受け取らない。
大岡越前守は1両足して、2両ずつ両人に渡し、
三方1両損にして解決する。」

こういった解決法は、
おそらく西洋的な思想からは出てきません。
先々週の繰り返しになりますが、
現代世界は「近代合理主義の行き詰まり」に来ていると、
多くの人は思っています。
そのような時代に、「東洋的弁証法的な解」
というのは、実は世界を益することになるのではないか、
というのが著者の指摘であり、
私もそう思います。

著者は「プロローグ」の結語で、
今後の文化は「歴史の終わり」でフランシス・フクヤマが言ったように、
世界が全部アメリカになるのでもなく、
サミュエル・ハンティントンが「文明の衝突」で言ったように、
西洋化は挫折し多元主義の世界が訪れることもない、と語ります。
そうではなく東洋と西洋は互いに「出会い」、
侵襲し合い、相互に影響し合い、
溶け合っていく未来を彼は描きたい、と。

曰く、「シチューの具は具のままだが全部変化する。
そしてそのシチューにはそれぞれの具の
一番おいしいところが含まれている」というように。
私も著者の意見に同意します。

臨床心理学の泰斗カール・ユングは、
ドイツの牧師の息子という、「典型的な西洋人」でしたが、
彼の「全体性の心理学」は、彼が父への反発から、
東洋思想に傾倒したことから生まれました。
そのユングが「東西の思想の出会い」をコンセプトとした、
「エラノス会議」を主催しますが、
ここに参加した日本人が河合隼雄、鈴木大拙らです。

21世紀は西洋と東洋が互いに出会う時代になるだろう、
と著者は言っています。
東洋は西洋に出会うことでより豊かにされ、
西洋もまた東洋に感化されることで深みを増す、
21世紀はそういう時代だ、と。
実はみなさんの多くが使っているiPhoneは、
まさに「西洋が東洋に出会って出来た製品」です。
スティーブ・ジョブズはかつてソニーに学びにきたとき、
日本の禅寺の美しさに、雷に打たれたような衝撃を受けます。
そして彼は禅宗に感化される。
それが「引き算のデザイン」を生んだのです。
当初アメリカではブラックベリーのような、
ボタンがたくさんついたスマホが流行りましたが、
ジョブズは「ボタンは醜い」といって、
あらゆる装飾を取り除いたのがiPhoneです。
つまりあれは「日本の禅寺の思想を、
を西洋のガジェット屋が商品化した」商品と言えます。
詳しくはジョブズの公式伝記に書いてありますので、
興味ある人は読んでみて下さい。

神学の歴史を考えますと、
「西洋的な聖書の読み方」こそ正統とされます。
今後もそれは変わらないでしょう。
しかし、キリスト教をより芳醇にするには、
「東洋的に聖書を読む」ことも、
大いに貢献すると私は確信しています。

自分の家でもっとも落ち着く場所

2019.03.05 Tuesday

+++vol.063 2018年10月30日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■1 今週のオープニングトーク
今週も質問カードから。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼いちばん落ち着く場所と時間帯▼▼▼

今週も「質問カード」、引いていきましょう。

▼質問:
「自分の家で、
最も落ち着く場所と時間帯を教えて下さい。」


、、、これは、簡単ですね。
私の家は全部で部屋が三つあります。
間取りでいうと「2DK」というやつです。
6畳のダイニング、6畳の寝室、
そして4.5畳の北側の部屋があり、
そして2畳ぐらいのキッチン、
浴室、トイレ、という構成。
総床面積は50平米だったと思います。
かなり良くあるタイプの賃貸マンションの1室に、
家族3人で住んでいます。

以前は1LDKでしたので、
去年引っ越しをして、一部屋増えたことで、
私は晴れて「書斎」を持つこととなりました。
これは私にとって死活的に大事なことだった、
と1年経ってしみじみと思います。
私の仕事の多くは「知的に創造的な作業」です。
そのうえで大切なのは、
「広い机」だったりします。

私たちの団体は事務所をもっていませんので、
私の主な仕事場は私の自宅です。
その環境って結構大事で、
こういった仕事にとってデスク周りの環境というのは、
靴職人にとっての金槌だったり、
大工にとってのカンナだったり、
調理師にとってのキッチンだったり、
ゴーストバスターズにとっての、
背中に背負う掃除機みたいなやつと同じぐらい、
仕事の出来を左右する大切な要素だったりします。

机で大切なのはやはり、「広さ」ですね。
デスクが狭いとなぜか、
思考も小さく縮こまるような感じがします。

まぁ、「気のせいだよ」と言われれば、
そうかもしれませんが。

カール・マルクスは『資本論』を、
移住先のイギリスで、極貧の家族が生活する、
子どもたちが騒ぎまくるキッチンテーブルで書き上げましたし、
村上春樹はデビュー作『風の歌を聴け』を、
当時彼がオーナーだったジャズバーのカウンターで、
すべての業務が終わった深夜に、
ひとりでカリカリ書き上げたそうですから。

必ずしも理想的な環境が、
理想的な作品を生むわけではありません。
しかし、なるべく理想的な環境のほうが、
日々のストレスは減らせる、というのも事実。

私は引っ越しをしてから、
かなり仕事がしやすい環境になりました。
これは喜ばしいことであり、
神に感謝しています。



▼▼▼落ち着く場所と時間帯▼▼▼

、、、話しがそれました。

家の中で私の落ち着く場所と時間帯ですが、
場所は自分の書斎です。
時間は、夜ですね。
晩ご飯を食べてから寝るまでの時間は、
たいてい「読書タイム」と決まっています。
この1時間〜3時間が、
私にとっての一日の最もリラックスしている時間です。

書斎の「読書椅子」に座り、
今読んでいる5〜10冊の本を積み上げます。

知人から1500円で買った、
「iPodとして使っているiPhone4s」に、
Amazonプライムで音楽をたくさん入れていまして、
その中からたいていジャズをかけます。
2回に一回は、ビル・エヴァンスの、
「ワルツ・フォー・デビー」で、
あとはマイルス・デイビスだったり、
アート・ブレイキーだったりのジャズ。
ジャズは読書を邪魔しない、というのが私の経験則です。
邦楽は読書と干渉してしまう。
歌詞が詩的だったりすると、
そちらに聞き入ってしまったりしますから。
気分によってボブ・ディランとか、
ブルース・スプリング・スティーンをかけることもあります。

音楽をかけたら、1章から2章ずつ、
ぐるぐる回しながら読んでいく。
ノートパソコンも横に置いておいて、
重要な箇所はEvernoteに書き写します。
そうすることで、重要箇所を熟読し、
二度読むことになる。
多読のコツのひとつは、
複数のジャンルにまたがって読むことです。
小説もあれば神学書もある。
社会学の本もあれば芸人が書いたタレント本もある。
新書もあれば学術書もある。
経済学の本もあれば童話もある。
伝記もあれば詩集もある。
政治学の本もあればSF小説もある。
古典もあればビジネス書もある。
筋トレに関する本もあれば、読書術の本もある。

こうやって読むことの二つのメリットは、
まずこれらをぐるぐる回すことで、
脳の領野が広く使われ、
疲労が抑えられる(当社比)ことです。
筋トレの「分割法」と一緒で、
脚がオールアウトしても、
肩のトレーニングはまだ出来るわけですね。
(何言ってるか分からない方、すみません)

もうひとつはやはり、
「知識というのは分野横断的に得てこそ、
 初めて活きる」からです。
いつもビジネス書ばかり読んでいる人は、
ちょっと危ういですね。
いつも神学書ばかり読んでいる人も、
その創造性の射程は限られてきます。
小説しか読まない、と言う人は、
知識が相当に偏ってくるでしょう。
あと、分野横断的な読書により、
「読書の総合力」がつきます。
筋トレのメタファーで言いますと、
大腿四頭筋だけをひたすら鍛えても、
スクワットの重量は頭打ちになります。
スクワットは背筋、腹筋、肩、腕の筋肉も関与しますから、
これらすべてを鍛えたときに、
限界を超えることが出来るわけです。
何言ってるか分からない方、すみません(無反省)。

、、、小説をたくさん読むことで、
神学書の意味がより深く分かる、
ということがあります。
社会学の本を一定量読むと、
ビジネス書を読んだときに、
より深く理解できる、ということがあります。
古典を一定数読んだときに、
初めて分かる経済学の本、というのもある。

こういう風になると、
もう、読書というのは、
「永遠に出られない沼」になります。
それも、良い沼です。
私たちの知っていることは全体の1%にも満たないわけですから、
死ぬ瞬間まで「発見の喜び」
「あたらしく理解する新鮮な喜び」
「センス・オブ・ワンダー」にあふれて、
生きることが出来ます。

ガンジーは
「明日死ぬかのように生きろ
 永遠に生きるかのように学べ」
と言いました。

本当に読書が好きな本読みは、
「何かのために読む」ということをしません。
結果として何かのためになる、ということは大いにあるでしょう。
一ヶ月に読む本の冊数と、その人の平均余命には、
正の相関関係がある、という研究結果を最近目にしました。
「本を読む人ほど長生きだ」ということですね。
「まぁ、そうでしょうね」と思います。
しかし、逆説的ですが、
本当に本が好きな人は、
本を読むことで長生きになれるからそうするのではありません。

「読むこと自体が何にも勝る快楽だから」読むのです。
お金のためにする競技者に一流はいますが、
「超一流」の競技者で、お金のためにしている人はいません。
彼らは口をそろえ、その行為をすること自体が喜びだから、
そうするのだ、といいます。
それをしない、ということは私にとって苦しみなのだ、と。
チクセントミハイという人が、
『フロー体験 喜びの心理学』で看破していることです。
読書は私たちの最も身近にある「フロー体験」です。

そんなわけで、
読書椅子に座って本を読んでいると、
気づくとすぐ2時間ぐらい経ってます。

なんか、家の話しではなく、
「読書について」の話しになっちゃいましたが、
今日はここまで。

では、コーナーに移っていきましょう。

陣内が先週読んだ本 2018年10月7日〜20日 『子育ての大誤解』(上)(下)など

2019.02.27 Wednesday

+++vol.062 2018年10月23日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 陣内が先週読んだ本 
期間:2018年 10月第二〜三週 10月7日〜20日
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

先週私が読んだ本(読み終わった本)を紹介していきます。
一週間に一冊も本を読まない、
ということは、病気で文字が読めなかった数ヶ月を除くと、
ここ数年あまり記憶にないですから、
このコーナーは、当メルマガの
レギュラーコーナー的にしていきたいと思っています。
何も読まなかった、という週は、、、
まぁ、そのとき考えます笑。

ただ紹介するのも面白みがないので、
twitterに準じて、
140文字で「ブリーフィング」します。
「超要約」ですね。
(どうしても140字を超えちゃうこともあります。
 140文字はあくまで「努力目標」と捉えてください笑。)

忙しい皆さんになり代わって、
私が読んだ本の内容を圧縮して紹介できればと思います。
ここで紹介した本や著者、テーマなどについて、
Q&Aコーナーにて質問くださったりしたら、
とても嬉しいです。



●ユダヤ人の贈り物 文明をつくりだした砂漠の遊牧民

読了した日:2018年10月12日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:トマス・ケイヒル
出版年:1999年
出版社:青土社

リンク:
http://amzn.asia/d/2L2xBHa

▼140文字ブリーフィング:

この本は、先日タイのチェンマイに行き、
Disciple Nations Allianceのアジアフォーラムに参加したとき、
創始者のひとりダロー・ミラー師が、
基調講演的な分かち合いのなかで引用していて興味を持ちました。
「西洋の思考の枠組み」は、ユダヤ人が作った、
ということを論証している本です。

「西洋の思考の枠組み」とはとりもなおさず、
近代以降の日本の思考の枠組みのことでもあります。
民主主義、資本主義、法治主義、契約の概念など、
近代社会の制度を利用しているという意味で、
日本人もまた西洋人の、
「無意識の思想的奴隷(by ジョン・メイナード・ケインズ)」
なのです。
その西洋人がユダヤ人の
「無意識の思想的奴隷」だよ、
と言っているのがこの本です。

一箇所だけ引用します。

→P260〜261 
〈ユダヤ人はまったく新しい「語彙」をつくった。
まったく新しい「心の伽藍」、
これまでになかった認識と感情の内面風景である。
長い世紀にわたる痛みと受苦を経て、
彼らは唯一の神を信ずるに至る。

この唯一神は宇宙の創造主で、
その意味は神のあらゆる被創造物の土台を形成し、
人間の歴史に介入してその目的を成就しようとする。
この独特の信仰――「一神教」――により、
ユダヤ人は「大いなる全体」を世に提示した。

それは理に適った宇宙観で、他の宇宙観より明らかに優れている。
それゆえ、様々な矛盾を伴う多神教を完全に圧倒した。
ユダヤ人は西欧の良心を世に提示した。
唯一であるこの神は、外面の見せかけの神ではなく、
良心の「静かで小さな声」である。
憐れみの神、「そこにある」神、
特に「自らにかたどって」造った人間を中心に、
被創造物の各自を思いやり、
同じ事を行うように人間にも求める神である。
 (中略)
ユダヤ人は「外面」と「内面」を世に提示した。
私たちの外部に対する見方と私たちの心の中の生き方である。
私たちは、ユダヤ人であることなしでは、
朝起きることも通りを横切ることも出来ない。
私たちはユダヤ人の夢を見、ユダヤ人の希望を希望する。
私たちの最良の語彙の大部分
――たとえば、新しい、冒険、
おどろき、独自の、個人の、人柄、使命、
時間、歴史、未来、進歩、精神、
信仰、希望、正義――はユダヤ人の贈り物である。〉


、、、創世記12章で、
ウルの地にいたアブラムに、
神が「旅に出よ」と呼びかけ、
アブラムが、どこへ行くのかさえ分からないまま、
その声に応答したとき、「人類史は変わった」
と著者は言います。

創世記12章以前、
人類にとって「時間」「歴史」とは、
「無目的で無意味な永遠の繰り返しのループ」でした。
アブラハムの応答以降、
歴史はゴールのない反復であることをやめ、
人間の人生は運命によって決定されている現象であることをやめました。
歴史には目的があり、人生には意味があり、
そして人は自らの将来を変えることができる、
という、「歴史観・人間観」が生まれたのです。

近代科学や民主主義や資本主義は、
この「歴史観・人間観」がなければ生まれ得なかった、
と断言できます。
自覚しようとそうでなかろうと、
私たちは「無意識のユダヤ人」なわけです。
これを踏まえるとき、
神がアブラハムに「あなたの名は祝福となる」
と言われたのは、決して大げさではなかった、
ということがおわかりいただけると思います。
(1,344文字)




●ユートピア

読了した日:2018年10月14日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:湊かなえ
出版年:2018年
出版社:集英社文庫

リンク:
https://amzn.to/2A6VNnE

▼140文字ブリーフィング:

湊かなえの小説は、ときどき読みたくなります。
読書ログを調べると、過去3年間で8冊読んでました。
やはり最高傑作は映画化もされた「告白」ですね。
これは映画もスゴイです。
映画のほうがスゴイかもしれない。
今Amazonプライムで見られますから、
興味ある方は是非。

湊かなえの魅力は、
「(特に女性同士の)エゴとエゴの殴り合い」
みたいなものを、リアルに描写出来るところですね。
例えばタワーマンションのセレブママ友同士の、
「ママカースト」の在り方、
そこにある「マウンティング」や、
権力のしのぎあいを描かせたりしたら、
もうヒリヒリするような描写をするわけです。
絶対近寄りたくないですが、怖いもの見たさで、
読み始めると止まらなくなります。
これは小説を読むというより、
総合格闘技を観戦する気持ちに近いですね。
「怖いけど見ちゃう」っていう笑。
(359文字)




●子育ての大誤解(上) 〜重要なのは親じゃない〜

読了した日:2018年10月9日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:ジュディス・リッチ・ハリス
出版年:2017年
出版社:早川書房

リンク:
http://amzn.asia/d/4HvFJ1M

▼140文字ブリーフィング:

この本は面白すぎて、上下巻、一気に読んでしまいました。
べらぼうに面白かったのですが、
多分まだ上手に説明できません。
なぜならこの本は、
私たち近代社会に暮らす人間にとって、
当たり前に染みついている価値観である、
「親の育て方が子どもの運命を決める」
という前提自体に疑問を投げかける「問題作」だからです。

著者は親の育て方が子どもの将来を決める、
という「子育て神話」という洗脳を解こうとしているのです。
結果だけを申し上げるなら、
私自身は大いに説得され、
かなり「子育て神話」が「神話」に過ぎず、
根拠薄弱なものであると理解するようになりました。
さしあたり「とびら」にある、
ジブラーンの詩を引用します。

→P5 
〈あなたの子は、あなたの子ではなく、
大いなる生命(いのち)の希求(あこがれ)の息子であり、娘である。
あなたを経て現れてきても、あなたから生まれたのではない。
あなたとともにいても、あなたに属するものではない。
あなたの愛を与えることはできても、
あなたの考えを与えることはできない。
子どもは自らの考えを持つのだから。
その身体(からだ)を住まわすことはあっても、
その魂(こころ)までも住まわすことはできない。
子どもの魂は、あなたが夢にも訪れることのできない、
明日の館に住んでいるのだから。
子どもらのようになろうと努めるのはいいとしても、
子どもらをあなたのようにしようとしてはならない。
生は後ろには歩まず、昨日を待つことはないのだから。

――ジブラーン(小林薫訳『プロフェット(預言者)』ごま書房)〉
(640文字)



●子育ての大誤解(下) 〜重要なのは親じゃない〜

読了した日:2018年10月19日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:ジュディス・リッチ・ハリス
出版年:2017年
出版社:早川書房

リンク:
http://amzn.asia/d/bccw2rD

▼140文字ブリーフィング:

先ほどの「上巻」では、
内容について何も説明していませんから笑、
こちらでは多少内容にも立ち入ります。
著者が「親の育て方が子どもの将来を決定する」
という子育て神話を否定し、
「では何が子どもの性格を決めるのか?」
という問いへの代替案として提唱するのが、
「集団社会化説」という著者の理論です。

簡単に言いますと、
著者が主張しているのは、
子どもは、親の育て方によってよりも、
子ども同士の付き合いによって、
より大きな影響を受け、
彼ら自身の性格を形成していく、
というものです。

この本は米国でものすごい議論を生んだそうです。
めちゃくちゃ怒る人と、
めちゃくちゃ慰められた、と絶賛する人がいた。
なぜ怒る人がいるかというと、それは、
「全人生をかけて子育てにかけてきたのに、
 それはさほど意味がないというのですか!!!」
という憤りに基づく批判です。

著者の答は、
「はい、そうです。」というものです。
「残念ながら、様々な調査研究がそう言っています。
 でもお母さん、お父さん、
 『子どもが将来賢くなって欲しいから』
 絵本を読み聞かせるのと、
 二度と戻ってこないこのいとおしい時間を子どもと過ごすために、
 絵本を読み聞かせるのでは、どちらが豊かなんでしょう?
 『子どもが将来自信に満ちあふれ有能な人材になって欲しいから』
 サッカーチームに入らせるのと、
 子どもがサッカーをするのを喜んでいるから、
 サッカーを一緒に楽しむのとでは、
 どちらが『有史以来人間が営んできた本来の子育て』
 に近いんでしょうね?
 子どもは「機械」ではないので、
 『ああすればこうなる』式には動きません。
 『ああしてもこうならない』のが子どもです。
 だとしたら、今与えられている、
 子どもとの時間を楽しみましょう。
 そして、天がその子に与えた将来を、
 あなたも楽しみに心待ちにしたら良いじゃないですか?」

著者はどのように「子育て神話」を否定し、
「集団社会化説」を支持するようになったか?
その主張の根拠は膨大な「双子の研究」から来ています。
「異なる家庭で育てられた一卵性双生児」と、
「同じ家庭で育てられた血のつながっていないきょうだい」、
どちらが「似るか」?
答は圧倒的に「前者」です。
つまり遺伝子の影響は私たちが思っている以上に強く、
子育ての影響は私たちが思っている以上に弱いのです。
さらに、様々な子どもに関する調査が、
各子どもは家庭の中と家庭の外(学校)では、
別の人格を持つかのように行動することが分かってきています。
そして、子どもの将来の性格を決定するのは後者だ、
ということも。

19世紀まで、イギリスの上流階級では、
「子育ての理想は、
 なるべく子どもと関わらないことだ」
と言われていました。
「できれば子どもと目を合わせない方が良い。」
そして6歳になるとイートン校という、
全寮制のエリート養成学校に行きます。
不思議なことに、ほとんど接触のない父子が、
そっくりの性質の大人になります。
理由が2つあります。
ひとつは遺伝子。
もうひとつが「イートン校」です。
父子は同じ学校を卒業したから、
同じような性格になったのです。
父子が似たことに関して、
「家庭内の環境」はいっさい介在していません。

著者は批判者から
「では、親は子育てに責任を持たなくて良いんですか!」
「じゃあ、虐待してもいいっていうんですか?」
などと詰め寄られることも多いそうですが、
そんなことはまったく言っていません。
親は子どもの性格に影響を及ぼせないとしても、
人生の最初の十数年を過ごす、
家庭内での時間が幸せになるかどうかについては、
親は絶大な影響を及ぼせる。
それをサボって良いなどと一言も言っていない、と。

本書の要約的一節をご紹介します。

→P303 
〈私たちの思い通りに子どもを育て上げることが出来る
という考えは幻想に過ぎない。
あきらめるべきだ。
子どもとは親が夢を描くための真っ白なキャンパスではない。

育児アドバイザーの言葉に気をもむことはない。
子どもには愛情が必要だからと子どもを愛するのではなくて、
いとおしいから愛するのだ。
彼らと共に過ごせることを楽しもう。
自分が教えられることを教えてあげれば良いのだ。
気を楽に持って。

彼らがどう育つかは、あなたの育て方を反映したものではない。
彼らを完璧な人間に育て上げることも出来なければ、
堕落させることも出来ない。
それはあなたが決めることではない。
子どもたちは「明日の館」に住んでいるのだから。〉


、、、さらに、本書の最後の一文に、
すべてが込められています。
これが先ほど、「大いに慰められる人も多い」
と言った理由です。


→P325 
〈あなたに悪いところがあるとしても、
決してそれを親のせいにしてはならない。〉


「子育て神話」を放棄しますと、
これまで「自分が不幸なのは親のせいだ」
と思ってきた人は拠り所を失います。
しかし、そんなものは失うべきなのです。
だってその「杖」がある以上、
永遠にその人は前進できませんから。
ビートたけしは、「30過ぎて親を許せない奴はバカ」
と言っています。
また、
「私の育て方が悪かったから子どもが不幸になっている」
と自分を責め続ける親には、慰めを与えます。
子どもの人生はあなたのせいではありません。
だって、子どもはあなたのものではないのですから。
(2,015文字)




●とんねるずと『めちゃイケ』の終わり 〈ポスト平成〉のテレビバラエティ論

読了した日:2018年10月16日
読んだ方法:

著者:ラリー遠田
出版年:2018年
出版社:イースト新書

リンク:
http://amzn.asia/d/1k5I3e7

▼140文字ブリーフィング:

結構面白かったです。
現代のテレビの状況を語ることで、
時代そのものを語ることに成功している。
目次を掲載します。

第一章 なぜ『みなさん』『めちゃイケ』の時代は終わったのか
第二章 なぜ、フジテレビは低迷しているのか
第三章 なぜ、ダウンタウンはひとり勝ちしているのか
第四章 なぜ、『アメトーーク!』『ゴッドタン』『水ダウ』はウケているのか
第五章 なぜ、視聴者は有吉とマツコから目を離せないのか
第六章 なぜ、大物芸人はネットで番組を始めるのか


、、、著者は、今の時代、
「めちゃイケ」や「みなさん」のような、
「王道バラエティ番組」が衰退し、
時事問題についてタレントがコメントする、
「情報バラエティ番組」が増える理由を、こう説明しています。

→P91〜92 
〈そもそも時事問題を扱う情報番組がこれほど増えているのは、
それが手堅く視聴率を取りやすいコンテンツだからだ。
なぜ、時事問題が良いのかというと、
価値観が多様化している現在では、
人々の間に共通する関心事がニュースぐらいしかないからだ。

芸能を含む時事ネタは新聞や雑誌でも大きく扱われるし、
ウェブでも話題になりやすい。
ネット上のSNSなどでは、
世間で話題になっていることに関して、
個人が好き勝手に意見を言う。

いわば、「一億総コメンテーター化」とでも
いうべき状況になっているのだ。
情報バラエティ番組がやたらと増えているのには、
そういう背景がある。〉


、、、非常に説得力がありますね。
王道バラエティ番組の衰退と入れ替わるように、
「最強テレビスター」として台頭したのが、
マツコ・デラックスと有吉弘行です。
彼らの人気も「一億総コメンテーター化」で説明できます。

私の好きなラジオ番組「東京ポッド許可局」の、
パーソナリティのひとり、マキタスポーツは、
「一億総ツッコミ時代」という本を書いており、
そのなかで平成以降の日本は、
「西高東低」などの気圧配置の表現を借りれば、
「ツッコミ高・ボケ低」が進み続けている、と分析しています。

一億人がみんな「ツッコミ目線」なのです。
SNSの炎上、モンスターカスタマー、
クレーマー問題などを考えれば分かるかと思います。
ネットの普及に伴い、
全員が「批評的に何かを見る」ようになり、
「ツッコミ目線」になったわけです。

めちゃイケやとんねるずは「ボケ番組」です。
テレビという装置を使って、
「思い切りボケて」くれているわけです。
それを「わはは」と笑うだけの幸せな時代は終わったのだ、と。
今のテレビスターは全員「ツッコミ要素」を持ちます。
ダウンタウンは二人ともツッコミ能力があります。
上田晋也はツッコミの天才ですし、
マツコ・有吉は、テレビスターでありながら、
テレビの中からテレビ自体を批判する、
という革命的な手法を確立した二人です。

、、、ここまでが現状分析。

では、テレビの未来はどうなるのか?
私は正直あんまり興味がないので笑、
興味ある人は本書を読んで下さい。
私が興味があるのはむしろ、
マキタスポーツが指摘している、
「ツッコミ高社会」のほうです。
マキタスポーツは、「ツッコミは楽だ」と言います。
SNSで他人の揚げ足を取っている人を考えれば分かります。
(注:上田晋也や有吉のやってるそれは、
 一般人のツッコミとは次元が違いますので、
 あれは「楽」ではありません。
 彼らの技術は国宝職人やトップアスリートのそれです。)

対して「ボケ」は楽じゃない。
社会における「ボケ」とは何か。
自分が自ら何かに没頭し、ガムシャラにやることです。

文化祭のメタファーを使うなら、
クラスが演劇を作っているのを横目に、
隅っこで固まって「音楽、センスないよね」
「よくこの暑いのに青春してられるよね」
と、冷ややかに批判を加えるのが「ツッコミ」です。
文化委員に立候補し、汗をかきながら、
みんなで1つのものを造り上げるのが「ボケ」です。

今の時代はみんな「ツッコミに引きこもり」ますから、
「ボケ」の希少価値が高まっている、
とマキタスポーツは語るわけです。
今の時代、「ボケ」は大変だし、割に合わないぞ!
だからこそ、ボケろ!!!
というのがマキタスポーツの熱いメッセージであり、
私もそう思います。

経済学の基本なのですが、
「過剰なものの価値は下がり、
 稀少なものの価値は上がり」ます。
現代の日本で過剰なのは「ツッコミ」で、
稀少なのは「ボケ」です。
みなさん、社会で重宝される人材になりたければ、
おおいに汗かいて、「ボケ」ましょう!!!
冷ややかな批判者には、
「うるせえ、バーカ」どでも返せば良いのです。
(1,829文字)




●生命の現象 ザ・ネイチャー・オブ・オーダー 建築の美学と生命の本質

読了した日:2018年10月18日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:クリストファー・アレグザンダー
出版年:2013年
出版社:鹿島出版社

リンク:
http://amzn.asia/d/1rSTyGV

▼140文字ブリーフィング:

定価9500円、B4の電話帳サイズで500ページ弱の大著です。
重さは3キロ以上あったんじゃないかな。
いろんな意味で疲れました笑。

こんな重くて分厚い本を読んだのは、
大学の時の「獣医解剖学図説」以来かもしれません笑。
たぶんこの本って、建築学部とかの教科書として使われてます。
本来、一般の人が読むような本ではない笑。

でも、何かのきっかけでこの本の存在を知り、
大変興味を引かれたので読んでみました。
結果、めちゃくちゃ面白かったです。
疲れた甲斐があった。

一言で説明するのが非常に難しい本なのですが、
著者は「デカルト的な近代思想が建築を醜くした」
という前提から話しを進めていきます。
そして、「生命」という尺度を持つことで、
「そこにいることで人が生き生きするような」建築を目指す、
ということを提唱していくわけです。

私は以前から建築には興味がありました。
じっさい中学生のときは、
「将来の夢は建築家」って言ってましたから。
大人になってからも建築には興味があり、
安藤忠雄、隈研吾、ル・コルビュジエらの本を読んだりしました。
数年前に漫画家の井上雄彦を通して、
アントニオ・ガウディに興味を抱くようになりました。
サクラダ・ファミリアを設計した人ね。

アレグザンダー氏のこの大著の主張を、
かなり私の主観を交えて「要約」しますと、こうなります。
「コルビュジエ的な「近代建築」は世界から生命を奪い醜くした。
京都の寺やタージマハール、トプカプ宮殿などが、
並外れて美しいのはそこに「生命」があり、
それは「自然の秩序」が建築に反映されているからだ。
ガウディ的な「自然の秩序」を背景とする建築を取り戻すことが、
21世紀的な課題なのである。」

冒頭部分の二箇所を引用します。
忍耐強く読んでいただければ分かっていただけると思うのですが、
実は著者のアレグザンダー氏が言っていることは、
先週「本のカフェ・ラテ」で私が解説した、
「西洋と東洋の思想」とテーマが重なっています。
西洋人は分析的に物事を考えます。
デカルト以降それが近代の機械論的世界観を生みました。
しかし、東洋の「統合的思考」は「全体性」を志向します。
「全体性」を再獲得することこそ、
未来の建築に必要なことだ、と著者は言っているわけで、
それはとりもなおさず、東洋の再評価に他なりません。
この本に無数に出てくる建築物の写真には、
数多くの東洋の伝統的な建築物が出てきますが、
それは偶然ではありません。


→P16〜17 
〈この深い「秩序」の本質は、
単純で基本的な疑問に関わっています。
「真偽はどのように説明できるのか」。
これがデカルトによって構築された機械論的世界観と
私が本書で説明する世界観とを分ける問題なのです。

デカルトにより始まり、
20世紀の科学者に広く受け入れられた世界観の中では、
真実か偽りかはメカニズムだけでしか
説明できないものと信じられています。
20世紀の誰にとっても馴染みのある、
いわゆる「事実」という指標です。

私が示している世界観の中では、
真偽を説明できるものとして、2つ目の指標が考えられます。
それらは、「生命」「調和」「全体性」の相対的尺度、
簡単に言うと価値の指標です。
私の視点では、相対的な「全体性」に関するこれらの指標は、
いずれも事実に基づくものであり、根本的なものです。
そして機械的な指標よりもより根本的な役割を担っています。
だからこそ、私が本書で説明している「秩序」の視点によって、
私たちは世界観を変えて行かざるを得ないのです。〉


→P21 
〈「生命」と完全な「秩序」を有する建築をつくるためには、
機械論的な罠から抜け出して、
建築に目に見える形で備わっている
「生命」や「秩序」そのものに注目することが必要です。
そのような形は、新しい世界観からのみ可能であると信じています。
それは、ものごとを部分や断片として捉えるのではなく、
「全体性」の中のものとして意識的に見ることであり、
建築のような無生物であるとされるものの中にさえ、
「生命」を実際にリアルなものとして認識するというものです。

「秩序」に関するこの新しい視点から、私たちは必然的に、
どのような説明が正しいと言えるのかを見出すための
ポスト・デカルト的・非機械論的思考を発見することでしょう。
それは、「秩序」の基本的特徴を示す「調和」や「生命」、
「全体性」の相対的指標であり、
それによって潜在的な真偽を理解出来るのです。

これは、異なる「全体」同士に当てはめる「生命」の相対的指標が、
ものごとを語る上でごく当たり前で
かつ必須の方法であるという世界観を持つ、
ということを意味します。

そのような新しい「秩序」の視点は、
装飾や機能に関する考えについて新しい関係を創造することでしょう。
現在の建築における秩序の考え方では、
機能は頭で理解出来るものであり、
デカルト的機械論的基準によって分析することが出来ます。
一方、装飾は嗜好的なものであり、
知的に理解されるものではありません。
一方は厳粛で、もう一方は面白半分のようなものとされています。
それゆえ装飾と機能は、切り離されたものとなっているのです。
建築の機能面と装飾面とを
同時に私たちに見せてくれるような「秩序」の概念はありません。

私が本書で説明している「秩序」の視点は、とても異なっています。
装飾と機能に関して公平の立場を取っています。
「秩序」はおおいに機能的であり、おおいに装飾的です。
装飾の「秩序」と機能の「秩序」に違いはありません。
それらが異なるように見えるときは、
それらは単に一種類の「秩序」の
異なった一面を見ているに過ぎないということなのです。〉
(2,239文字)




●応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱

読了した日:2018年10月19日 ほぼ飛ばし読み
読んだ方法:図書館で借りる

著者:呉座勇一
出版年:2016年
出版社:中公新書

リンク:
http://amzn.asia/d/9iP41I7

▼140文字ブリーフィング:

アメトーーク!の、「読書芸人」の回で、
たしかカズレーザーがお勧めしていて興味を持ちました。
「応仁の乱」は日本で最も有名な内戦のひとつですが、
じっさいに何が起きたのかほとんど誰も説明できない。
これを分かりやすく説明したことでこの本は注目され、
じわじわ売れ続けているんだ、というのを、
カズレーザーが熱く語っていたので、読みたくなりました。

結果、私には読みこなせませんでした(爆死)。
私は早々に理系を選択し、高校2年以降は、
リソースの8割を英語と数学に突っ込んだので、
高校レベルの歴史の知識が欠落しています。
基礎知識が欠けているので、
まだこの本は私には早かった。
まずは高校の教科書を読まねば、ということですね笑。

ただ、あとがきで著者が書いている、
応仁の乱と第一次世界大戦の類似性については、
「なるほどねー」とうなずきましたので引用します。


→P284〜286 
〈2014年は第一次世界大戦開戦から100年と言うことで、
同大戦に関する書籍・雑誌特集などが散見された。
そういったものにぱらぱらと目を通していると、
応仁の乱は第一次世界大戦と似た構図を持つのではないか、と思い至った。

第一次世界大戦は様々な要因が絡み合って生じた戦争だが、
一言で述べるならば、新興の帝国であるドイツが、
覇権国家イギリスを中心とする国際秩序に挑戦した戦争であろう。
だがサラエボ事件を受けてオーストリア支持を打ち出し、
セルビアへの開戦をうながしたドイツにしても、
セルビアを支持するロシアやフランスとの全面戦争を
最初から望んでいたわけではなく、
ましてイギリスとの激突など想定していなかった。

これは英仏露など他の列強にも言えることで、
各国の指導層は必ずしも好戦的ではなく、
むしろ誰も意図しないまま世界大戦に突入していった。
しかもすべての参加国が短期決戦を志向したにもかかわらず、
戦争は長期化し総力戦の様相を呈した。
結局、イギリス海軍の海上封鎖によって
補給路を断たれたドイツが屈服する形での終戦となったが、
勝者である英仏も甚だしく疲弊し、
ヨーロッパ世界全体の没落を招いたのである。

応仁の乱も、新興勢力たる山名氏が
覇権勢力たる細川氏を中心とした幕府秩序に
挑戦した戦争という性格を持つ。
だが山名宗全は最初から細川勝元との全面戦争を望んだわけではなく、
畠山義就(よしなり)と政長との間の局地戦である御陵合戦に軍事介入し、
義就を勝たせるという以上の目的を持っていなかった。
勝元の反撃にしても、
山名氏の打倒という積極的・攻撃的なものと言うより、
同盟者である政長を見捨てたままでは
大名としての面目を失うという危機感からやむなく報復に出た、
と見るべきである。

東西両軍は共に短期決戦を志向したが、
戦争は長期化し足軽や郷民を動員する総力戦の様相を呈した。
結局、東軍に補給路を断たれた西軍が屈服する形で終戦となったが、
東軍諸将も大きく傷つき、
鉄の結束を誇った細川一族でさえ今後は内紛を繰り返すようになる。
参戦大名たちの没落を尻目に、
いわゆる「戦国大名」が台頭してくるのである。
古今東西を問わず、人類は同じような過ちを繰り返すのかもしれない。〉
(1,288文字)



●イエス像の二千年

読了した日:2018年10月19日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:ヤロスラフ・ペリカン
出版年:1998年
出版社:講談社学術文庫

リンク:
http://amzn.asia/d/0FT07id

▼140文字ブリーフィング:

先月、愛知で山田風音くんと話しているなかで、
会話に登場して「面白そうだ」と思ったので手に取りました。
目次のなかに、本書のユニーク性が現れています。

〈本書の性格と目的:
イエス伝でも、キリスト教史でもなく、
イエスについての神学的教理史ですらなく、
文化史の中のイエスの位置を描写している彼の様々な像の通観〉


、、、つまり、この本は、各時代が、
どのような「イエス像」をもっていたかを探ることで、
その時代(およびイエス)を知ろうという試みです。
私たちがイエスを語るということは、
私たち自身について物語っていることに他ならないのだ、
と著者は言います。


→P22 
〈この一世紀の
「きのうも今日も、また永遠に変わることのない(ヘブル書)」
という言い方は、
20世紀のアルベルト・シュヴァイツァーの言葉に
替えた方が正確ではないだろうか。

シュヴァイツァーは次のように言っている。
「それぞれの時代が、イエスのなかに自分自身の思想を見出した。
実際、それこそがイエスを生かしうる唯一の道だったのである」。
というのは、類型化して言えば、
人は「自分の性格に応じてイエスを造り上げたのである」。
そして、彼は次のように結論づけている。
「イエス伝を書くことほど、
ある人の本当の自己をあらわす史的作業はない」。〉
(530文字)




▼▼▼リコメンド本「今週の一冊」▼▼▼

ご紹介した本の中から、
「いちばんオススメだったのは?」という基準でリコメンドします。
「いちばん優れていた本」というよりも、
「いちばんインパクトの大きかった本」という選考基準です。
皆さんの書籍選びの参考にしていただけたら幸いです。


▼今週の一冊:「子育ての大誤解」(上・下)

コメント:

いろんなところで引用されているので、
前から気になっていたこの本は、
確かに「衝撃の内容」でした。
一卵性双生児のコホート研究は、
「大事なのは親の育て方ではなく子ども同士の社会」
であるという数多くの証拠を私たちに突きつけます。

子育ての「地動説」が、
「天動説」に変わるようなパラダイムシフト。

、、、では、(親として私たちは)どうするか?

「子育て神話」崩壊前後で、
じつはまったく変わりません。
子どもを愛し、子どもを躾け、
子どもに教育を施し、
子どもとの時間を楽しむのです。
ただ、神話崩壊の前後でその「動機」と、
「強迫観念および事後の強い罪責感と後悔の有無」が違います。
子育て神話に基づく親は、
「子どもが人生を有利に進めるために」
「子どもを天才にするために」そうします。

神話崩壊後は、
「子どもが可愛くて仕方ないから」
「子どもだって(将来ではなく)現在幸せになる
 権利はあるので、ひとりの人間として、
 親としてそれを邪魔する権利はないので」
そうします。

子育て神話に基づく親は、
子どもが問題を抱えたらどうしよう、
学習に遅れをとったらどうしよう、
落伍者になったらどうしよう、
という不安と恐怖を抱え、
もし自分が考えたように子どもが育たなかった場合、
強い罪責感と後悔を一生涯背負わされることになります

子育て神話崩壊後の親は、
自分はベストを尽くしたが、
子どもは自分とは違う生き物であり、
自分とは違う運命を神から与えられているので、
あとは「未来の館」に住む子どもたちを信頼して、
自分は自分の務めを果たし続ける、
という態度で安心していられます。

著者曰く「子育て神話に洗脳された西洋の教育学者」が、
インドに行き、農村の母親に、
「この子に将来どうなって欲しいですか?」
と聞いたときの応答のくだりが私は好きです。
引用します。

〈子どもにどんな人間になってもらいたいと
思っているかと聞かれた彼女は、
肩をすくめて「それはこの子の運命で、
私が望むことではありません」と答えたのである。〉



▼▼▼部門賞▼▼▼

ご紹介した書籍の中から、
陣内の独断と偏見で、
「○○賞」という形で、
特筆すべき本をピックアップします。
こちらも何かのご参考にしてくだされば幸いです。

▼「世界観変わるで賞」:「生命の現象 ザ・ネイチャー・オブ・オーダー」

コメント:

この本は私の「世界観」を変えました。
本書には膨大な数の建築や家具や器や風景の写真があり、
そのほとんどが二枚ひと組の一対になっています。
著者は読者に問い続けます。
「この2つのうち、
 どちらがより『生命』があるか?」
この質問自体が、著者の言うところの
「ポスト・デカルト的な世界観」を現しています。

この本を読み終えてからと言うもの、
街を歩いていて、あるいは電車の車窓から、
風景のなかにある建物、
あるいは雑誌の家具などのデザインを見ては、
「これは生命があるなぁ」とか、
「これは生命がないなぁ」と思うようになりました。
デカルト的機械論的な世界観から、
全体性と調和を志向する、
「生命の強弱」をめざす世界観へ。

建築はその時代の思想を反映しますので、
現在の世界で「脱・近代合理主義」が進んでいるとしますと、
22世紀の世界の風景は、
私たちが想像したものとは、
まったく別のものになるかもしれません。
無機的な直線や直角や幾何学模様は姿を消し、
生命がもつぬくもり、曲線、躍動感にあふれた構造物が、
もしかしたら世界を満たしていくかもしれません。
悪くない世の中だと思います。

プレヤーレター秋号など

2019.02.26 Tuesday

+++vol.062 2018年10月23日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■1 今週のオープニングトーク
プレヤーレター秋号・質問カード
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼プレヤーレター秋号▼▼▼

メルマガ読者の皆様、こんにちは。
今週もメルマガ書いてます。
結構、やることが増えてきて忙しいのですが、
メルマガ執筆は続けます。

感覚的なことをいいますと、
定期的にこれぐらいの分量の文章を書くと、
生活(仕事)が「構造化」されるような気がします。
「骨格を与えられる」ような感じというか。
「自分が何をしているか」
という問いが日常に埋もれがちなのが、
忙しい現代人に共通する傾向だと思うのですが、
メルマガを書くようになって、
「あぁ、今、自分はこういうことをしているなぁ」
というのが意識化されるようになったと感じます。
さらにそれを後で検証する事も出来るし、
何より、記憶に焼き付きます。

メルマガ執筆中に読んだ本、観た映画のほうが、
メルマガ書いていないときに読んだ本、観た映画よりも、
確実に記憶の中に焼き印のように残っているのです。
この「残っている」という感覚がとても大事だと、
私は思っています。

私たちが何か新しいものを生み出す作業というのは、
既知の何かを、今までにない組み合わせで組み合わせることだ、
と脳科学者はいっています。
誰も「ゼロ」から何かを創造することは出来ないのです。
では、他の誰も思いつかないような、
「何かと何か」を結び合わせるためにはどうすれば良いか?
つまりそれは換言すると、
「創造的である」ために必要なことは何か?

それは、
「脳内に膨大な情報の蓄積をもっている」
ということです。

こう言っちゃうと、
身も蓋もないのであまり誰も言いませんが、
これは、そうなのです。
最も新しいアイディアを生み出す人が、
しばしば古典を研究するのは、
これが理由です。

、、、で、
この「膨大な情報の蓄積」というのは、
1.自分の血肉になっている。他人に今すぐに教えられる。
2.脳内で完全に再生可能なほど明瞭に焼き付いている
3.うつろに覚えている。きっかけがあれば思い出せる。
4.インプットしたことすら忘れそうになっている。
5.知っているが理解していない。
6.知らない。
ぐらいのレイヤーに分かれます。

「新しいシナプスの発火点」に達するのに大切なのは、
上記の「1」と「2」を増やすことです。
羽生善治名人が最強なのは、
「1」と「2」に、無限に近い将棋盤の戦局のパターンが、
インプットされているからです。
彼はそのために日々インターネット上にある差し手や、
AIの指し手すらも追いかけて、
研究に研究を重ねています。
インターネット将棋の世界で、
やたら強い人がいると思ったら羽生名人だった
(本人は言明しないが、かなり信憑性がある)
という逸話があるぐらい。

「インターネット上の知識=検索知」の問題点は、
「3」とか「4」とか、
酷い場合には「5」とか「6」のカテゴリの情報ですら、
ちょっとググって、20分ぐらいネットをうろつき、
あるテーマに関してそれらをコラージュすると、
「人に講釈をたれる」ぐらいには
「知っているポーズ」を取ることが出来る。
ネット上に掃いて捨てるほどあるフェイクニュースの類いや、
SNSで他者に「これがソースだ」「完全に論破」とかいって、
他者にマウンティングしているネトウヨの言説は、
こうして作られます。

しかしそれらは本質的に、
「創造的な行為」ではないため、
情報としての価値はゼロですし、
人を本当に動かす訴求力はありません。

、、、私はキュレーションサイト的な情報ではなく、
「本物の情報」を手作業で作っていきたいと思ってますから、
「1」と「2」を増やしたいわけです。
それも、専門分野以外にも届くような、
裾野が拾い「1」と「2」を持つことが、
他との差別化において大切です。

ひとつ問題があります。

私は、記憶力ということに関しては、
平均よりかなり低い能力しか持ち合わせていないのです。
だから、普通の人がするように普通にインプットすると、
「3」と「4」の引き出しがどんどん増えて行く。
それを「1」と「2」の引き出しに入れ替える作業のひとつが、
「アウトプット」です。

このメルマガはだから、
私自身のためにも書いています。


ん?


何の話し?


そうです。


メルマガ、今週も書きます。
時間を捻出して。

今週はまず、
私の働きを祈り支えてくださっている支援者の方々へ、
3月に一度の頻度で出している、
「プレヤーレター」を発行しましたので、
そちらのリンクをご紹介します。

メルマガ読者の中には、
レターを郵送させていただいている方も多いですが、
まだ読んだことない、という方はお読みいただけますと幸いです。
活動のために、祈り応援していただけますと、
さらに幸いです。

▼参考リンク:プレヤーレターのリンク
http://karashi.net/resource/NL/jinnai/2018_0709.pdf



▼▼▼質問カード▼▼▼

さて。
今週も「質問カード」です。

▼質問:
「今電話が来たら一番嬉しいのは誰ですか?」


、、、そうですねぇ。
私は実は、「電話は苦手」です。
というより、コミュニケーションが苦手なのかも(爆死)
「電話が得意」っていう人なんて、
本当にいるんだろうか?
と疑ってるぐらいですから。

私はスマホをもっていませんが、
スマホを持たない理由は、
もちろんお金の問題もあるのですが、
それ以外にももっと大きな理由があります。

スマホなんてもったら、
そしてLINEなどをやり始めたら、
「知り合いが増えちゃう」と思ってるからです。
私にとって、
「新しく知り合いがひとり増える」ことと、
「本を10冊読む」ことが、
だいたい同じ「認知負荷」です。

これは、マジで。

私にとってちょうど良いのは、
「なるべく知り合いが増えないように生活しても、
 それでも必然的に増えてしまった、
 ぐらいのペースで知り合いが増えて行く」ことです。

本質的なところで極度に内向的なので、
これは致し方ない。
現代世界では「外交的な人のほうが何かと得」ですので、
髪型を変えるように簡単に性格を変えられれば良いのですが、
性格は髪型とは違います。

あと、私の内向性は、
実は私がこうして長い文章を書けたり、
他者に対して「物事を分かりやすく説明する」
という能力に長けていたり、
知的に創造的な行為が(多分)他者より得意だったりすることの、
「裏返し」になっています。
私の「内向性」という角を除角しますと、
私のコアコンピテンスが失われると思います。
諺で「角を矯めて牛を殺す」というのがありますが、
そういうことが起きると思うわけです。

私が外交的なパリピになったら、
「すっからかんなパリピ」になる、
ということです。
そんな自分には出会いたくない。

自分の短所(トラウマ・スティグマ)は、
たいてい自分の「生きる力」の源泉とつながっていますから、
「短所を直す」ということに対し、
人はもっと慎重になるべきだと、
私は思います。

これは、アドラー心理学の核心です。
「活きる力の源泉は、
その人のトラウマやスティグマからやってくる」。
アドラーは小さい頃くる病で上手く歩くことが出来ず、
同級生からいじめられていましたが、
そのくる病がなければ自分は臨床心理学者になっていなかっただろう、
と彼が気づいたとき、この理論が生まれました。

、、、


、、、


あれ?


何の話し?


そう。


電話。


だから、私は電話、
得意じゃないです笑。

なるべく早く切りたい笑。

電話って、緊張するから。

なので今日の質問には、
「回答不能」です。

敢えて言えば、
ファンタジーな話しになりますが、
死んだ父(陣内学)から電話が来たら嬉しいですね。
17年前に「長いさようなら」をしてから、
私が社会人になり、結婚し、父親になった、
という人生の物語を語って聞かせたい。
それに対する父の応答を聞いてみたい。

私が23歳のときに父が死んでから、
結構、人生の折々に触れ、
「父ならどう言うかな?」
と思いながら過ごしてきたんだなーと、
書きながら思い至りました。
私は早くして父を亡くしましたが、
父がもし生きていたとしても、
これほど頻繁に、
「父ならどう言うかな?」
と思ってないかもしれない。

父は死んだからこそ私の中で生きています。

聖書の「死んでこそ生きる」っていう話しって、
こういう意味も含まれてるんじゃないかと、
私は最近思います。
遠藤周作もいつか同じ事を書いてました。

、、、


今日は「テーマ無視」で、
語りたいことを語りました。
世迷い言におつきあいいただきありがとうございました。
では、コーナーに行きましょう。
今週は隔週の「陣内が先週読んだ本」です!