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陣内が先週読んだ本 2018年8月12日〜25日

2019.01.01 Tuesday

+++vol.054 2018年8月28日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 陣内が先週読んだ本 
期間:2018年 8月第三〜四週 8月12日〜25日
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

先週私が読んだ本(読み終わった本)を紹介していきます。
一週間に一冊も本を読まない、
ということは、病気で文字が読めなかった数ヶ月を除くと、
ここ数年あまり記憶にないですから、
このコーナーは、当メルマガの
レギュラーコーナー的にしていきたいと思っています。
何も読まなかった、という週は、、、
まぁ、そのとき考えます笑。

ただ紹介するのも面白みがないので、
twitterに準じて、
140文字で「ブリーフィング」します。
「超要約」ですね。
(どうしても140字を超えちゃうこともあります。
 140文字はあくまで「努力目標」と捉えてください笑。)

忙しい皆さんになり代わって、
私が読んだ本の内容を圧縮して紹介できればと思います。
ここで紹介した本や著者、テーマなどについて、
Q&Aコーナーにて質問くださったりしたら、
とても嬉しいです。


●僕に踏まれた町と僕が踏まれた町

読了した日:2018年8月13日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:中島らも
出版年:1997年
出版社:集英社文庫

リンク:
http://amzn.asia/3oWq4jR

▼140文字ブリーフィング:

私の弟のオススメで読んだ本です。
中島らもという人は、
めちゃ頭が良く、文章が上手です。
彼は「文章を書く天才」の部類でしょう。
彼は「文章を書くのが面倒だった」と書いています。
それは文章が出てこないのではなく、
文章は常に脳内で完成しているのだそうです。
供給過剰なほどに。

それを、手を動かして、
「具現化するという単純作業」が、
たまらなく面倒くさくて、
だから酒を飲まなければ文章を書けなかった、
と書いています。

私は天才ではないので、
文章を書くのは苦労します。
文章を書くという創造的な行為は、
私にとっては、脳が最も良い状態のとき、
1日2時間が限度です。

でも、天才には天才なりの苦労があるのでしょう。
彼はアル中と躁鬱病を煩い、
52歳で夭折してしまいました。
惜しい才能です。

ふたつ、彼の文章が上手だ、
ということを示す文章をご紹介します。


→P73 
〈僕のいた高校は一学年がだいたい百四、五十人いる。
そのうち百人ぐらいが東大に行き、三、四十人が京大に行く。
考えてみれば化け物みたいな学校だ。

そしてそのすみっこのほうに、十人ぐらいの「落ちこぼれ」がいる。
この連中はとうに受験をあきらめて、
某部室にたれこめてはたばこを吸ったり酒を飲んだり、
シンナーを吸ったりマルキシズムについて議論したり、
セックスについて見栄の張り合いをしたりしていたのだ。

そのようすはちょうど高価なワインのびんの透明な底に沈んでいる、
ほんのすこしの澱(おり)を思い出させた。〉



「灘校という高級ワイン」の澱(おり)という譬えは秀逸です。

もう一箇所を引用します。
これは彼の予備校時代の友人が、
自殺したことを懐古して書いているものです。

→P193 
〈そしてある日、彼はタヌキを見たというその田舎の家で、
自分の命を絶った。
致死量の睡眠薬を飲んでガスを放ったうえに手首を切る、
という覚悟の自殺だった。

あれから18年が過ぎて、
僕たちはちょうど彼が亡くなった歳の倍の年月を生きたことになる。
かつてのロック少年たちも今では、
喫茶店のおしぼりで耳の穴をふいたりするような「おっさん」になった。
そうした軌跡は、かっこうの悪いこと、
みっともないことの連続で、
それに比べて18で死んでしまった彼のイメージは、
いつまでも18のすがすがしい少年のままである。

自分だけすっぽり夭折するとはずるいやつだ、と僕は思う。
薄汚れたこの世界に住み暮らして、
年々薄汚れて行く身としては、
先に死んでしまった人間から嘲笑されているような気になることもある。

ただ、こうして生きてきてみると分かるのだが、
めったにはない、何十年に一回くらいかもしれないが、
「生きていて良かった」と思う夜がある。
一度でもそういうことがあれば、その思いだけがあれば、
あとはゴミクズみたいな日々であっても生きていける。

だから「あいつも生きてりゃよかったのに」と思う。

生きていて、バカをやって、
アル中になって、醜く老いていって、
それでも「まんざらでもない」瞬間を額に入れてときどき眺めたりして、
そうやって生きていれば良かったのに、と思う。
あんまりあわてるから損をするんだ、わかったか、とそう思うのだ。〉




、、、おい、聞いてるか。
おっさんになると分かるぞ。
ゴミクズみたいなこの世界で、
醜く老いていくばかりの我が身だが、
めったにはないけれど、
それでも何十年かに一回くらい、
「生きていて良かった」と思う夜があるぞ。
そんな瞬間を額縁に入れてときどき眺めたりして、
生きていれば良かったのに、、、。

これを弔辞かなんかで読まれたら泣いちゃいますね。
「世界は素晴らしい!
 あなたは価値がある!!
 死んじゃだめだ!!」
といった、押しつけがましく薄っぺらなメッセージにはない、
哀愁と深みがあります。
(1,510文字)



●歳を取るのも悪くない

読了した日:2018年8月14日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:養老孟司 小島慶子
出版年:2018年
出版社:中公新書ラクレ

リンク:
http://amzn.asia/00CIEC5

▼140文字ブリーフィング:

養老さんの本は、新刊が出るとほぼ必ず読みます。
こちらは元TBSアナウンサーの小島慶子さんとの対談本。
小島さんは30代でTBSを退社して、
無職の夫と共にオーストラリアに移住しました。
養老さんは57歳で東京大学の教授を早期退職し、
その次の日、何の収入を得る手段もなかったそうです。
でも、二人ともちゃんと生きてますし、
むしろ彼らがそういった選択をしたことで、
人生は豊かにされ、世の中を益しているようにも見える。

「不確実性の中に飛び込む勇気」を持つ二人の話しからは、
日本の組織と個人のほどよい関係性とはどんなものか、
みたいな話しが透けて見えます。

2箇所引用します。

まずは、年寄りの「世の中への怒り」と「生への執着」は、
ちゃんと生きてこなかったこのとの結果だ、
という養老さんの指摘から。


→P22 
〈養老:年寄りが世の中に八つ当たりしたくなるのは、よく分かります。
もう、自分はどうでも良くなっちゃっているからね。
だから、どんな人間だと思われようがかまわなくなる。
そうすると、自分の事より怒りの方が大きくなるのでしょう。
世の中、なんとなく気にくわない。
いらいらして、毎日を暮らす。
何に向かって怒っているのか、
たぶん自分でもわかっていないんじゃないかな。
そういう人たちを見ると、僕は、生きそこなっているなあと思います。

小島:生き損なっている?

養老:そう、生き損ない。
これまできちんと生きてこなかった人、
一生懸命、真剣に生きてこなかった人のことです。
何かにつけて文句ばかり言っている人は、
こんなはずじゃなかったっていう気持ちを常に抱えていて、
それを人のせいにする。
そういう性質の人が、現代社会ではますます増えていると思う。

小島:自分は誰かのために、
長年我慢させられてきたという気持ちがあるのかも知れません。
じっと耐えてきたのに報われないというやるせなさが、
世間への八つ当たりになってしまうのかも。

養老:それもあるでしょう。
だから、あまり我慢はしちゃいけない(笑)。
まあ、自分が上手く行かないのは人のせい、
会社のせい、世の中のせい、で片付けちゃう方が楽だからね。
いまいる環境の中できちんと生きていれば、
自分一人で生きているわけじゃないことなんか、すぐわかるはずです。
そうしたら、なんでもかんでも世の中のせいにして、
当たり散らすような年寄りにはならないですよ。
それに、本気で生きていれば、
「死にたくない」って繰り返すようなこともない。
その場その場を一生懸命生きてきた人は、
死ぬことが怖くないからね。
自分の人生を先送りしてきた人は、
いつまでたってもこの世に未練がある。

小島:周囲への感謝があれば、寛容になれるんですね。
それにしても、そのときそのときを本気で生きるというのは、
意識しないと難しいですね。
いくつになっても将来設計にばかり気を取られて、
肝心の”今この瞬間”はないがしろにしてしまう。

養老:明日のために今日を犠牲にして、
将来のために現在を犠牲にしていたら、
保険をかけているような毎日しか送れないでしょう。
その途中で死んだら、どうすの?

小島:ああ、それが生き損なうということですね。

養老:この歳になるとよくわかりますが、
人間は必死で生きているときが一番幸せですよ。
毎日がつまらない人は、
他でもない自分自身が
退屈に暮らすことを選んでいるのだと思った方が良い。〉



、、、私は今でも、
「10年前、公務員を辞めていなかったらどうなっていただろう、、、」
とときどき夢想することがあります。
確言はできませんが、
多分養老さんの言うところの「生き損なって」いたと思います笑。

きっと今の10分の1も努力してないし、
(だって努力する必要ないですから)
その結果、肉体も精神も中年太りをし、
いつも(自分がぶらさがっているところの)、
市役所という組織の悪口を言い、
社会に不満を言い、政治に文句を言い、
教会の文句を言い、他人の文句を言っていた気がする。

いや、本当に。

それだけこの10年は必死で生きてきたし、
今も、この瞬間も、「生きるのに必死」です。
誰かに文句を言う余裕などないし、
養老さんの言うように、
思い残しはいつもありませんので、
いつ死んでも本望です。

良い人生を生きてるなぁ、
いや、生かされてるなぁ、
と、最近思うことが多くなりました。

次にもう一箇所。
組織に守られると「安全、安心」を得ますが、
それと引き換えに「学習と成長」を失う、
と養老さんが指摘しているところを引用します。


→P29〜30 
〈小島:、、、それにしても、
かつては若者の悩みだった”どう生きるか”という問題について、
なぜ現代は中年が悩むようになってしまったのでしょうか?

養老:それだけみんなが不安を抱えるようになったと言うことでしょう。
必死で生きている時は、その過程でいろいろなことを覚えるでしょ。
覚えなきゃ生きていけないから。
でも、安心、安全で安定した状況に置かれると、人は学習しない。

現代は、都市化されていく中で、安全に安心に暮らすことを基準にして、
同じ事の繰り返しをよしとしてきた。
そうすると、歳を重ねても人間が育っていかない。
だから、人生をいかに生きるべきか、とか、
人類の将来はどうなるのか、とか、
いつまでたっても自分なりに考えることができない。
ずっと人々が考え続けていたことが、
表面に出てきちゃったって事じゃないでしょうか。

でも、ここであらためて考えてみるのもいいですよ。
人生とは何か、生きるとはどういうことか、考えてみるのは楽しいですから。
人間は、考えたくないことは考えなくなりがちで、
東京って、その典型だと思う。
僕は、だいぶ前から東京という都市は健康じゃないと思っているの。
それが会社を辞めたら不安だ、老後が不安だ、
という話しにつながっていくのかな、と。
そりゃあ、不安でしょ。
どう生きれば良いのか、わからないわけだから。〉



、、、「安全・安心」と、
「成長・学習」はトレードオフです。
動物園の檻の中で餌を与えられるだけの動物は、
サーカスで「働いている」動物より平均余命は短いそうです。
大きな組織に守られて「一生安泰」な人って、
動物園的な人生を自ら選んでいる。
それが悪いとか良いとかいう価値判断はできません。
しかし、「トレードオフだ」ということは知った方が良い。

私は市役所を辞めなければ、
それを知るのが60歳を過ぎてからだった気がします。
今考えるとぞっとします。
早いところジャングルに飛び出し、
野生動物になっていて良かった。
もちろん「ここ」には、予期せぬ危険もあるわけですが、
「緩慢な死」よりは「リスクと隣り合わせの生きる実感」を、
私は貴重だと思うので。

繰り返しますがどちらが良いと考えるかは、
その人によりますし、
私は「安全で緩慢な死」を選択することを、
まったく悪いこととは思いません。
ただ、「トレードオフの事実」だけは知っておいたほうが良い、
という話しです。
そうしないと、「不機嫌な老人」になっちゃうから。
(2,802文字)



●多動力

読了した日:2018年8月16日
読んだ方法:央君から引き受ける

著者:堀江貴文
出版年:2017年
出版社:幻冬舎

リンク:
http://amzn.asia/9rtNbuZ

▼140文字ブリーフィング:

「究極の合理主義者」の話しです。
論理的で明晰な言葉で語られていて、すべて納得できます。
完璧な論理体系であり人生論・仕事論です。

、、、しかし、ひとつ問題があります。

まったく羨ましくないことです。
彼は毎日、美味しいものだけを食べ、
1ミリも「我慢」をせず、
ホテル暮らしだから掃除や洗濯といった無駄な時間がないと言います。
着た服は毎日捨てていくので洗濯しない。
ファーストクラスで海外に行って美味しいものを食べ、
日本に帰ってきたその日にフルバンドで演奏してもらうカラオケ屋さんで、
カラオケを歌い、そのあと高級寿司店などをはしごして、
4次会ぐらいまで飲む。
毎日がそんな調子で「楽しいこと」以外何もなくなる。
みんなが楽しくないのは、「我慢教」に洗脳されているからだ、
というような話しです。

すばらしい!
御意!

でも、問題は、不思議なことに、
「彼になりたい」と1ミリも思わないことです。
何一つ羨ましくない。

いや、マジで。

「完璧な肉体理論をもつ、
超絶筋肉のボディビルダーの、
非常に勉強になるトレーニングや栄養の話を、
納得し、うなずきながら聞いたが、
では最後に、自分があの体型になりたいかと聞かれれば、
できればなりたくない。」
と思うのとちょっと似ています笑。

一つだけ、彼が「教養が大事だ」
と力説しているところがあり、
そこだけはとても納得しましたので引用します。

→P117 
〈原液*を作るようになれと言ったはいいが、
やみくもに走り回っても「原液」になるものは作れない。
 では、いかにしたら原液を作れるようになるか。

 それは「教養」を身につけることだ。

 教養とは、表面的な知識やノウハウとは違い、
 時代が変化しても変わらない本質的なことを言う。
 僕は疑問に思うことは、とことんまで徹底的に掘り下げる。
 (中略)
 「教養」という幹なるものがあれば、
 枝葉となるさまざまな事象はすべて理解できる。
 2016年の9月に発刊された『サピエンス全史』は上下巻で分厚いが、
 教養を体系的に身につけるための格好の良書だ。
 現在人類であるホモ・サピエンスが、なぜホモ属の中で唯一生き残り、
 繁栄することができたのか。
 本書ではその疑問に対して丁寧に解説している。
 (中略)
 僕は「原液」となる、
 時代の一歩も二歩も先のビジョンを提示しているが、
 それはシステムの本質と歴史の変遷を追った
 深い教養を身につけているからできることなのだ。
 教養なき者は「今」という時代の変化に振り回され、
 目の前の仕事をこなす歯車で終わってしまう。
 反対に「教養」があれば、
 ジャンルを横断する「原液」となるものを生み出すことができる。
 
 急がば回れ。
 
 表面的な情報やノウハウだけを身につけるのではなく、
 気になった物事があれば歴史の奥まで深く掘って、
 本質を理解しよう。〉

*彼が「原液」と呼んでいるのは、「情報の原液」のことです。
カルピスの原液のような。
前章で彼は、人間には情報の原液を作る小数の人間と、
他人の原液を薄めて売る多数の人間の二種類がいる。
前者になれ、ということを書いています。

、、、彼が考える教養と、
私が考える教養がまったく同じものかどうかは不明ですが、
「教養が大事だ」という意見には同意します。
「面白いコンテンツ」を作るには、
最新のものを追いかけたらダメです。
必ず二番煎じになりますから。
そうじゃなく、「古典」を読むのが最短ルートです。
(1,368文字)



●さらば、GG資本主義

読了した日:2018年8月17日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:藤野英人
出版年:2018年
出版社:光文社新書

リンク:
http://amzn.asia/3ySIqpX

▼140文字ブリーフィング:

著者の言う「GG」とは、
「ジージー」つまり、「ジジィ」、
要は「高齢者」のことです。

高齢者を「ジジィ」と呼んだら、
ポリティカリーにコレクトではない、
と彼は判断したのでしょう笑。

彼の判断は正しい。

要するにこの本は、
ますます高齢化する日本の社会が、
若い人々の活躍を妨げている、ということを指摘しています。
日大アメフト部問題で注目された田中英寿理事長なんかは、
まさに「そういうこと」ですよね。

この本、最初のほうと最後のほうは面白かったのですが、
真ん中あたりは著者の投資会社の宣伝みたいになっていて、
正直トーンダウンしてます。
最初は日本社会を論じている本かと思ったら、
会社のミッションステートメントのコマーシャルを見せられたような、
複雑な気分になりました。

「プロフェッショナル 仕事の流儀」みたいな、
ドキュメンタリー番組かと思ったら、
最後まで観ると青汁の宣伝だった、
みたいなパターンと似ています。

、、、というわけで、
この本、最初の章はとても面白いです。

二つ引用します。

「待っていても順番は来ない」話しと、
統計から観る「GG資本主義」。


→P10〜11 
〈高齢化社会と成長との関係性について考える上で、
非常に示唆的だなと思ったエピソードがあります。

私のベンチャーファイナンスの先生である、
斉藤惇さんとお話ししたときに、聞いた話です。
斉藤さんは野村證券の副社長、
東京証券取引所グループの社長などを歴任された
辣腕の実業家で、年齢は70代後半。

彼は、こんなふうにいっていました。
「私は40代のころ、自分が前に出ようとしたら先輩たちから止められた。
『君はまだ若いから、年長者を立てなさい。
そのうち順番が回ってきたら、主導権を握れるから。』
というのが、先輩たちの言い分でした。
そういうものかと思って順番を譲り、待っていてどうなったか。
いま私は70代ですが、
まだ80代のみなさんがお元気で現役として残っています(笑)。
藤野君、これが高齢化社会というものですよ。
待っていても順番は回ってこない。
だから、チャンスがあれば主導権を奪取しなさい。」

70代になってなお先輩が君臨する社会。
考えただけでぞっとしますね。
言ってみれば体育会系の部活で先輩にしごかれて
「1年我慢すれば3年生が出て行く」と思ってがんばったのに、
何年経っても先輩たちは出て行かない――そんな状況です。〉



→P18〜19 
〈高齢者が経済の真ん中に居座り、
牛耳り続ける「GG資本主義」。
データをひもとくと、至る所にその影響力が見て取れます。

例えば、会社を動かすトップ。
日本企業の社長の平均年齢は近年上がり続けていて、
2017年時点で、59.5歳。
調査を始めてから最も高い数字で、
90年以降に比べて平均年齢は5歳も高くなっています。
さらに年齢構成を見ると、60歳以上が全体の約半数を占めています。
日本における女性社長の割合はわずか7.69%ですから、
日本の会社の半分近くが「還暦を過ぎた男性」によって
動かされていることが分かります。

経済の主体は、会社だけではありません。

われわれ個人が生活の中で行う「消費活動」も
大きなインパクトを与えます。
会社とは詰まるところ、モノ・サービスを提供して、
顧客に買って貰うことで成り立っている。
消費者がお金を使わなければ、事業活動は回っていきません。

実は、消費で存在感を放っているのも、60歳以上です。
結婚して家を構えたり、交際費に使ったりする
働き盛りの人々が一番消費していそうですが、
2015年の消費シェアに占める30〜39歳の割合は、わずかに9.9%。
40〜49歳ですら、19.8%でしかありません。
29歳以下となると1.5%で、統計上の存在感はほとんどありません。

一方、60歳以上は47.8%にも上ります。
世の中の消費の約半分が60歳以上によって行われているって、
少し意外な結果ではないでしょうか。

調べていくと、それもそのはず、と思わせるデータがありました。
各資産の保有者の割合を年代別に見ると、
60歳以上の保有率が金融資産で68.8%、
土地保有で56.4%という、非常に高い数値です。〉



、、、凄いデータ&凄い話しですよね。
先ほどの日大の田中理事長の話ですと、
あれはアメフト部の内田前監督が、
「待っていれば順番が回ってくる」と思ったら、
途中でポカをして「トカゲのしっぽ切り」にあったという話しですね。
田中理事長は安泰(!!)という。
ホラーのような話しです。
この「出世の椅子取りゲーム」は、
人口減少社会では、悪いことは言わないので、
始めから参加しないのが「吉」です。
現在の70代、80代までが、
「ネズミ講で本当に儲けられる最後の世代」であり、
60代以下は「カモ」と思ったほうが良い。
早く「野生動物」になりましょう笑。

終盤で著者は自らが投資している企業の中で、
若い経営者が成功している場合、
それは「仕事とは穴を埋めること」という概念を持つ人に多い、
と指摘しています。
これは養老孟司が別の本でまったく同じ事を言っていました。
「仕事とは、山をつくることだと思っている人が多いが違う。
 仕事というのは、穴を埋めることなんだ」と。
私も本当にそう思います。
仕事というのは基本的に「社会の雪かき」なのです。


→P166〜167 
〈これまで多くの成長企業の経営者を見てきましたが、
塔を建てたと言うより、
「穴を見つけて、穴を埋めた」人のほうが多いのです。

「なんでこんなところに穴があるんだろう?
これを埋めたらもっとスムーズに通れるのにな。
それならいっそ、自分で埋めちゃおうか」といった感じです。

余っているところから砂を持ってきて、
スコップを入れてガサッと入れていく。
それがビジネスというものの本質です。
まずは気づいた穴から埋めていって、
そのうち世界中に空いているたくさんの穴を埋めて、
世の中のためになっていく。
それが私のイメージする成長企業です。〉
(2,388文字)



●フィルターバブル インターネットが隠していること

読了した日:2018年8月21日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:イーライ・パリサー
出版年:2016年
出版社:ハヤカワ文庫NF

リンク:
http://amzn.asia/gv3u0x3

▼140文字ブリーフィング:

この本は、くっそ面白かったです。
ネット社会の本をこの数年わりと読み漁っていますが、
けっこう毎回引用されるので、
興味をもって手に取りました。

内容が豊富すぎてここで全部解説できませんが、
著者の言う「フィルターバブル」とは何か、
ということだけ解説しておきます。

それは、私たちの日々観ているインターネットというのは、
2009年を境にその性質が変わった、というところから始まります。
この年の12月にグーグルがポリシー変更をしました。
多くの人はそれを見逃しましたが、
これはインターネットの在り方を本質的に変えてしまうほどのものだった。
私たちが検索した単語、クリックした履歴、
閲覧したページやそのページに留まった時間、、、
そういったものがすべて検索サイト(やAmazon、楽天)
に「フィードバック」されるようになった。

これを「フィルター」と呼びます。
そしてフィルターは私たちがインターネットを使えば使うほど、
「私たちに最適化されたフィルター」となる。
つまり、インターネットが、
「私たちが見たいものを先回りして、
 それを見せてくるようになる」わけです。

このプロセスは「再帰的」と言いまして、
無限のポジティブフィードバックのループをもたらします。
そうすると私たちは、
「自らの価値観という泡」の中に閉じ込められてしまう。

これが「フィルターバブル」です。

この「フィルター」から自由でいられる個人は、
たぶんこのメルマガ読者のなかにはいません。
パソコンを一からプログラムできるぐらいの知識があれば、
私たちの行動を追跡し、情報を吸い上げるシステムから、
「脱獄」できますが、そんな人はとっくに、
インターネットの中の世界で働いていますから。

私がかなりショックを受けたのは、
「グーグル検索の結果は、
 検索者によって異なる」ということです。

知ってました??

ヒット件数すら異なるのです。
保守派の思想を持つAさんと、
朝日新聞を購読するBさんとで、
「安倍晋三」を検索した場合、
最初に出てくるページが違うのはもちろんのこと、
「ヒット件数」にまで差が出てくるのです。
これは、かなりショックです。

インターネットは「世の中を見ている」のではなく、
「世の中を見る自分のメガネ」を観ている、
と考えた方が、これからは良さそうです。

以上説明したようなことが、
以下の引用に書かれています。

→P13〜15 
〈2009年12月4日、
グーグルの公式ブログに登場した一文に
注目した人はほとんどいなかった。
 (中略)
この日の朝から、
グーグルは57種類もの「信号(シグナル)」
――ログインの場所や使っているブラウザーから
過去に検索した言葉まで――を使い、
各ユーザーがどういう人物で
どういうサイトを好むのかを推測するようになった。
ログアウトしても検索結果のカスタマイズが行われ、
そのユーザーがクリックする可能性が高いと
推測したページが表示されるのだ。

グーグルの検索は誰に対しても同じ結果を返してくると思う人が多い。
つまり、グーグルの有名なページランクアルゴリズムによる結果
――他ページからのリンクを基準にした権威ある検索結果だ。

2009年12月以降は違う。

いま、返ってくる検索結果はあなたにぴったりだと
グーグルのアルゴリズムが推測したものであり、
他の人はまったく違う結果となっている可能性がある。

規格品のグーグルというものはなくなったのだ。

この結果、大きな違いが生じていることは簡単に確認出来る。
2010年春、メキシコ湾原油流出事故まだ収まっていない頃、
友人二人に「BP」の検索をして貰った。
ふたりは似たようなレベルの教育を受けた左寄りの白人女性で、
米国北東部に住んでいる。

だが、検索結果は大きく異なっていた。
片方が見たのはBPの投資情報、もう片方はニュースだった。
片方は1ページ目に流出事故に関するページへのリンクが含まれていたが、
もう片方はBPの広告以外関連する情報はなかったのだ。

ヒット数さえも大きく異なっていた。

片方は1億8000万、もう片方は1億3900万。

東海岸に住む革新的な女性同士でもこれほど結果が違うのなら、
テキサス州に住み共和党を支持する老人や、
それこそ、日本の会社員とではすさまじい違いになるはずだ。

パーソナライズされたグーグルで「幹細胞」を検索した場合、
幹細胞研究を支持する研究者と
反対する活動家では正反対の結果になるかもしれない。
「気候変動の証拠」でも、環境運動家と石油会社役員では
まったく違う結果になるかもしれない。

調べ物をするとき、
ほとんどの人は検索エンジンを不偏だと考える。
でも、そう思うのは、自分の主義主張へと
少しずつ検索エンジンがすり寄っているからなのかもしれない。
あなたのコンピューターのモニターは
マジックミラーのようなものになりつつある。
あなたがなにをクリックするのかが
鏡の向こうからアルゴリズムに観測され、
自分の興味関心を映すようになっているのだ。

前述したグーグルの発表は、
情報を消費する方法について
水面下で大きな変化が始まったことを意味している。
パーソナライゼーションの時代は
2009年12月4日に幕を開けたと言えるだろう。〉



、、、いかがでしょう?
ぞっとしませんか?

私はぞっとします。
情報源がインターネットだけになったとき、
私たちはどうやって「公正な議論」をするのでしょう?
ある人の検索結果では、
「南京虐殺はひどかった」となっており、
ある人の結果では、
「あれは史実ではない」となっている場合、
その二人はどうやって議論すれば良いのでしょう?

アメリカには未だに、
「オバマがイスラム国の創始者だ」
というトランプが言ったデマを、
信じている人が一定数いるそうですが、
インターネットだけが情報源の場合、
彼らがその事実誤認を訂正する機会は永遠に訪れません。
(2,349文字)



●貧乏も宝物

読了した日:2018年8月22日
読んだ方法:山田風音くんにいただく

著者:ライフストーラー企画(山田シマ子)
出版年:2018年
出版社:ライフストーラー企画

リンク:
https://life-storier.com/

▼140文字ブリーフィング:

先週、私の家に山田風音くんという青年が宿泊してくれました。
彼と最初に出会ったのは去年、伊勢志摩で開催された、
「よにでしセミナー 第一回」においてでした。
彼は「ライフストーラー企画」という会社を立ち上げた、
若手起業家(アントレプレナー)です。
上記リンクのホームページを観ていただければ分かりますが、
この会社は、人の人生のストーリーを聞いて、
それを本にして出版するというサービスを提供しています。
特にクリスチャンの場合、
それこそが「福音の物語」になります。
私もこの会社を応援していますので、
ちょっとでも力になれればいいなーと思っています。

3月に名古屋に立ち寄ったときに、
一冊目の「本」のサンプル(試作品)をいただいていて、
彼が泊まりにくるので読んでおこう、と思い読みました。
(ちなみにこの本、非売品です。
 依頼者によって冊数は異なるのですが、
 依頼者が周囲の人に配ったり売ったりするのは、
 依頼者にお任せし、
 本を指定冊数納品するのがライフストーラー企画の仕事です)

この本の「著者」は山田シマ子さんという女性ですが、
戦後の物のない時代のリアルな生活の様子だとか、
当時の結婚の在り方とか、
日本が右肩上がりに成長していく時代の空気感だとか、
あまり他では聞けない話がたくさんあります。
しかし、もっとも強く感じたのは、
「普通の人生」などない、ということです。

街行く人、人、人は、
記号のように私たちの前を通り過ぎていきますが、
どの一人をピックアップしても、
もし私たちが時間をとって耳を傾け、
山田君がしているようにストーリーに起こすなら、
きっと「特別で唯一の、他にはない人生」に、
私たちは驚くんじゃないか、そう思わされました。

この仕事をするとそういう意味で、
「世界観」が変わりそうです。
終盤の、著者が自分の人生を振り返っている一節を引用します。

→P55〜57 
〈神様を信じていてよかったことは、
頼れるお方がいるっていうことかな。
安心できるっていうか、平安を与えてくれるお方。
不安がないわけじゃないけど、
でも祈ることができるっていう安心感、
神様にいつも守られているっていう安心感。

あと信仰を通して家族がひとつにまとまってきたかなとも思う。
それも、信じて生きることの大きな祝福だと思う。
子どもたちとの関係にしても夫婦の間にしても、
共通のものをもっているわけでしょう、
教会へ行くとか神様との関係を持つとか。
孫たちもそうやって教会につながっていてくれるから、
暗黙の家に共通のものがあるなあっていう安心感があるよね、
別に家で聖書の話しをするわけじゃないけれどもね。

生活の中でイエス様が一緒にいてくれるっていうか、
まぁ、家庭が幸せって言うことよ。
今のところ健康の心配もなくて、
お金の心配もせずにいい家に住ませて貰っているし。
私の子どもの頃は貧乏でいつもお金がなくって、
住む家もおんぼろで冬は寒くて夏は暑くて凄く大変だった。
それを思えば今は天国だよね。

こうやってインタビューして下さって
子ども時代のことをたくさん聞き出してくれたでしょ。
だから最近、自分の子どもの頃住んでいた家なんかを思い出すと、
よくもまあこんなところに住んでたなぁと思うんだわね。
同時にそういう子ども時代のことを思えば、
今はなんて幸せなんだろうと思うわけ。〉
(1,342文字)



▼▼▼リコメンド本「今週の一冊」▼▼▼

紹介した本の中から、
「いちばんオススメだったのは?」という基準でリコメンドします。
「いちばん優れていた本」というよりも、
「いちばんインパクトの大きかった本」という選考基準です。
皆さんの書籍選びの参考にしていただけたら幸いです。


▼今週の一冊:『フィルターバブル インターネットが隠していること』イーライ・パリサー

コメント:

この本は抜群に面白かったです。
先ほどのブリーフィングで、
「見たい世界しか観られなくなる」ことによる、
「民主主義の土台となる公正な議論」が不可能になる、
というリスクを挙げましたが、
他にもたくさんの「フィルターによる障害」が指摘されています。

二つ、ピックアップします。

一つ目は、「思いもよらぬアイディアとの遭遇がなくなる」ことです。

→P126〜127 
〈バージニア大学メディア学科の教授で
グーグルを専門に研究しているシヴァ・ヴァイディアナサンは、
『グーグル化の見えざる代償――ウェブ・書籍・知識・記憶の変容』
にこう書いている。
「学びというのは、その定義から、
自分が知らないこととの遭遇となる。
考えもしなかったこととの遭遇、想像もできないこととの遭遇、
理解などできないこと、とても楽しめないこととの遭遇となる。
なにか別のものとの遭遇――そのような異なるものとの遭遇となる。
インターネットを検索する人と検索結果との間に
グーグルが置こうとしているようなフィルターは、
そのような根源的な遭遇を検索者から隠してしまう」。〉


、、、もう一つは、
「問い」を生み出す能力の退化です。
これは先週のメルマガのQ&Aでも引用した箇所ですね。

→P127 
〈パーソナライズされた環境は
自分が抱いている疑問の解答を探すには便利だが、
視野に入ってもいない疑問や課題を提示してはくれない。
ここからは、パブロ・ピカソの有名な言葉が思い出される
――「コンピューターは役立たずだ。答しか与えてくれない。」〉


、、、最後に、本書の要約的なセンテンスを紹介します。

→P296 
〈本書で私は、あらゆるところにフィルタリングが
組み込まれるようになりつつあり、その結果、
インターネットにおける体験が変わりつつある、
また、最終的に世界自体が変わりつつあると訴えてきた。

その原因は、ユーザーがだれで、なにを好み、
なにを望むのかを判断する力を媒体が初めて持ったからだ。
コードによるパーソナライゼーションは
常にジャストフィットとは限らないが、
適切な広告を提示し、また、我々が読み、
閲覧し、聞く内容を調整して利益を持たせる程度には正確である

その結果、インターネットは圧倒されるほど
豊富な情報源や選択肢を提供してくれているというのに、
我々はフィルターバブルに包まれ、
その大半を気づかずに過ごしてしまう。

インターネットは自らのアイデンティティを育て、
さまざまなことをトライするチャンスを提供してくれているというのに、
パーソナライゼーションという経済性の追求は
個性を不変なものにさせようとする。

インターネットによって知識やコントロールが
分散する可能性があるというのに、実際には、
我々が何を見てどういうチャンスを手にできるのかといった選択が
かつてないほど小数の人の手に集中しつつある。〉



▼▼▼部門賞▼▼▼

ご紹介した書籍の中から、
陣内の独断と偏見で、
「○○賞」という形で、
特筆すべき本をピックアップします。
こちらも何かのご参考にしてくだされば幸いです。

▼「ライフストーラー賞」:『貧乏も宝物』山田シマ子

コメント:

山田シマ子さんの人生に触れ、
じんわりと心温まりました。
風音くんはいま、
広島の被爆者の方のお話を聞いているそうです。
日本における「世代から世代への精神的な遺産の継承」という意味で、
ライフストーラー企画のような働きはとても大きな意味を持ちます。

とかく、土地や金融資産の遺産相続ばかりがビジネスになりますが、
「精神的な遺産相続」は本当はもっと大切なはずです。
お近くに本を出版してみたい方がいらっしゃいましたら、
ライフストーラー企画にご一報を。
一回目のインタビューのための、
インタビュアーの交通費は無料です(宣伝)。

三度の飯より●●

2018.12.31 Monday

+++vol.054 2018年8月28日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■1 今週のオープニングトーク
今週も「質問カード」です。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼三度の飯より、、、▼▼▼

今回は(というか最近毎回ですが)、
文字数が逼迫しているので、
さっそく行きます。

▼質問:「三度の飯より●●」。
    あなたにとって●●とは?

この質問は難しいですねぇ。
そもそも、「三度の飯より●●」というときそれは、
あくまで仮定の話です。

本当に三度の飯が食えなくなったら、
三度の飯よりも大切なものなどないのです。
これは心理学者のアブラハム・マズローが、
「五段階欲求説」で看破しています。
「低次の欲求が満たされるまでは、
 高次の欲求へと人は向かわない」と。

、、という理屈は置いておくとして、
あくまでレトリック、つまり「言葉のあや」として、
三度の飯よりも大切かもしれない、
と思うような、自分にとって大切なものは何か?

皆さんはいかがでしょう?

これはね、私はもう決まってるのです。

それは「睡眠」です。

私にとって睡眠より大切なものは、
あまりなんじゃないかと言うぐらい、
睡眠を大切にしています。

病気になってから、
これはもう確信に近いのですが、
私という人間にとって、
一番大切なのは「長い睡眠」です。
「睡眠負債」とか言われる前から、
もう私はずっとそうなのです。

私は環境が許す限り、
毎日8時間〜9時間、
長いときは10時間とか11時間寝ます。
うつ病療養を経て、
その前後を比べると、
1時間〜2時間ほど、睡眠時間が長くなりました。

これは、たぶん、「体が変わった」のだと思います。
大きな病気をすると、
その後にがくっと体力が落ちることがありますが、
私の脳は大きな病気をしましたので、
「脳の体力」ががくっと落ちたのです。

私がここで言う「脳の体力」とはつまり、
「一回の睡眠によって回復した思考力が、
 持続する時間と、それが回復するまでに要する、
 睡眠時間の長さ」という風に定義したいと思います。

そうしますと、私の場合、
普通の一日の場合、
朝の時点で「10」あった思考力が、
午前中にもう「5」ぐらい使い尽くされ、
そして午後はさらに「4」ぐらい使うので、
夜はもう「1」ぐらいしか残っていない。

うつ病になる前は、
朝「15〜20」ぐらいあった感じですね。
なので夜になってもまだ何かを考える余裕があった。

今はそんな感じなので、
夜は何も考えない、
もしくは本を2時間ぐらい読んだ後、
9時台には布団を引いて寝る用意をします。
テレビなんていっさい観ません。
そもそも最近のテレビは絶望的につまらないですし。
テレビより寝るほうが絶対大事ですから。

たくさん寝て思考力を回復しなければ、
私の脳は使い物になりませんから。
「寝るのは仕事のうち」なのです。

本当に私はテレビを見ません。
お笑い番組は全部録画して、
見識のために「勉強」しています。
誇りをもって言いますが、
私はお笑い知識人ですから笑。
お笑いの見識で他者に負けるわけにはいかない。
それは恥ずかしいことです。

よってテレビは私は、
アクティブ・ウォッチング(能動的視聴)はしますが、
パッシブウォッチング(受動的視聴)は、「ゼロ」です。
そんな時間の無駄をするぐらいなら、

寝ます。

圧倒的に、寝ます。

「睡眠は金(きん)」なのです。
「勉強は銀」です。

それほどに私は睡眠を大切にしています。
これは、体質ということもありますから、
万人にお勧めするようなものではないですが。

「運動は金」という人もいれば、
「食欲は金」という人もいるでしょう。
「テレビは金」という人もいるかもしれないし、
「おしゃべりは金」という人もいるでしょう。

大切なのは、
何が一番、自分の回復にとって必要なのかということを、
よーく知ることです。
2年間の療養の大きな収穫の一つは、
「自分は睡眠が一番大事なのだ」
と深く知ったことでしょう。
どんな高価な薬よりも、
私にとっては睡眠が最善の万能薬なのです。

万能薬とは、中国の谷底深くに眠る燕の巣や、
深海に眠るという幻の一角獣の角から作るのではありません。
また、シリコンバレーのマネーで作られた、
巨大な宇宙基地のような医療研究所の研究から作られるのでもない。

「最強の万能薬」は、
自分で見つけるものなのです。

私の場合それを見つけるのに、
愚かにも37年の年月と、
2年間の生死の境をさまよう闘病を必要としました。

もっと簡単に見つける人もいますが、
私以上に苦労して見つける人も多いです。
それほど「自分の身体」って、
分かったようで分からないものなのですね。

そりゃそうです。

人間の身体は、70兆個の細胞と、
100兆個以上と言われる微生物が共生する、
いわば「小宇宙」なのですから、
探索には一生という時間がかかるのです。

しかも悪いことに、
今の時代は「情報過多」ですから、
健康に関する情報が、気が遠くなるほど数多くあふれています。
健康に関する情報収集を本気ですると、
副作用でノイローゼになります。

ある本は「納豆を食べればすべて解決!」
と言い、あるサイトは「納豆は絶対食べるな!」
という。
ある医者は「牛乳は万能食」といい、
あるヨガ講師は「牛乳は絶対に口にするな」という。
「3時間睡眠でぴんぴんしています」という医者がいるかと思えば、
毎日8〜11時間は寝ますね、というメルマガ著者もいる(笑)。

もうね。
「健康に関する正解」を追いかけるのは、
健康のために辞めた方がいいですよ、
と私はアドバイスしたい。

いや、マジで。

それよりも、
自分の身体に耳を澄ました方が良い。
身体は正直ですから、
「打てば響く」のです。
スマホやテレビや雑誌やインターネットにあふれる、
いろんなノイズが邪魔になって聞こえないだけで、
ちゃんと耳をすませば、身体は語ってくれるのです。

何を食べたときに調子が良いのか。
どれぐらい運動したら翌週どれぐらい疲れ、
その翌週どれぐらい超回復しているのか。
酒はどれぐらい飲んだら良いのか。
ある種の友達と談笑したあとは気分も体調も良いのに、
ある種の人と会話をした日は、夜にぐったり疲れるのはなぜか。
人の悪口を言った後は、なぜ気分だけでなく体調も悪くなるのか。
日光を浴びると睡眠の質はどう変わるか?
いろんなことを面倒がらずにしゃきしゃきと身体を動かすと、
どれぐらい体調は上向くのか。

身体に対して何か「コール」をすると、
身体はちゃんと「レスポンス」してくれています。
それに従うと、「自分にとっての最強の万能薬」が何か分かる。

ある人は年に一回の旅行かもしれない。
ある人はボーナスの後の買い物かもしれない。
ある人は逆に、買い物をやめることかもしれない。
ある人は適度な飲酒かもしれないし、
ある人は酒を完全にやめることかもしれない。
ある人はジョギングかもしれないし、
ある人はゆっくり近所を歩くことかもしれない。
ある人はテレビゲームを死ぬほどすることかもしれないし、
ある人はゲーム機を捨てて太陽の下運動することかもしれない。

全員、違うのです。

「定型的な健康法」は疑った方が良い。

自分の身体が一番正直です。

「イタリアの小さな離島では100歳以上の人口が世界最高」
ということで、それが論文になったことがあります。
彼らの食生活を調べた結果、
大量のオリーブオイルとか、
赤ワインとか、
クスクスとかを食べていた。
ということは、
そういった「地中海食」というのが、
どうやら長寿の秘訣らしい!
と世界の様々なメディアが報じました。
日本でもいまだに地中海食が
長寿の秘訣と紹介されることがあります。

しかし、この話しには、
「アフターストーリー(後日談)」がある。
その後の詳細な調査研究の結果、
二つの「盲点」が明らかになりました。

ひとつめは、地中海の人々が、
オリーブオイルなどによって健康なのは、
彼らの「腸内細菌叢」とセットなのであって、
もし日本人やアメリカ人のような、
彼らとまったく違う腸内細菌叢を持つ人が食べても、
「同じものを食べたことにはならない」のです。
これが、身体が小宇宙である、
ということの意味です。
「複雑系では入力と出力の因果関係が分からなくなる」というのは、
「ブラジルで蝶が羽ばたくとテキサスで竜巻が起きる」
というメタファーで有名ですが、
人体もまた複雑系なので、
あさはかな「ああすればこうなる」
という機械論的なアプローチが多くの場合間違います。

もうひとつは、
その地中海の島は、
ギリシャ正教のしきたりで、
年に何度か断食をするという習慣があります。
じつは長生きの秘訣はオリーブ油とかワインではなく、
この「断食」なのではないか、ということを言う学者が現れまして、
今はそちらのほうがどうやら本当なようだ、
と支持する人が多くなっています。

しかし、これは「拡散」しません。
メディアがそれを報道しないからです。

なぜか?

断食は「売れない」からです。
お金にならない。
オリーブ油やカッテージチーズやワインは売れます。
お金になる。
だからスポンサーが付くので、
雑誌やテレビやメディアで取り上げられる。
しかし、断食が流行しても、
だれも儲かりません。
だからこの調査研究は報道されません。

健康に関する情報というのは、
ことほどさように、
かなり歪められていると考えた方が良いでしょう。

そんなものを収集するよりは、
テレビを消し、ネットを遮断し、
「情報断食」をして、
自分の身体に耳を澄ます訓練をしたほうが、
1000倍健康に良いのです。

、、、


、、、


、、、


、、、


っていうか、
なんだこの「健康メルマガ」!!!!!

こんな話しをするつもりではなかったのですが、、、。

今日のレッスン:
「三度の飯より○○」
の質問への答というのは、
あなたにとっての「最強の万能薬」を見つける、
ヒントになる質問かもしれない。


あなたの○○は何ですか?

【質問】世代間ギャップについて

2018.12.24 Monday

+++vol.053 2018年8月21日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 Q&Aコーナー

皆さんからお寄せ頂いた質問にお答えするコーナーです。

日頃の悩み、疑問、今更誰かに聞けないギモン、、、、
質問の種類は問いません。お気兼ねなくご質問をお寄せください。
ご利用は下記に基づいてご利用いただけると幸いです。

【Q&Aについて】
▼全てのご質問にお答えすることはできません。予めご了承ください
▼いただいたご質問は、ブログ・FVIメディアルームに掲載される可能性があります
▼本名での投稿の場合は「ペンネーム:無し」となります
▼必ず下記フォームからご質問を送信ください

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

【Q&Aコーナー専用フォーム】

▼URL
https://www.secure-cloud.jp/sf/1484051839NyovBkYI

※大変お手数ですが一つの1メール1質問を原則とさせてください。
ご協力宜しく御願い致します。

※頂いたメールはすべて目を通しております。
陣内俊への要望やメルマガの感想、激励などももちろん大歓迎です!

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

●【Q】世代間ギャップについて

ラジオネーム:ラス・コリナス(男性)
お住いの地域:海外

Q.

テキサス在住のラス・コリナスです。
アメリカでは今、ミレニアルズと呼ばれる世代が、
社会人になり、社会の仕組みの中で浮いている、
という問題があります。

権利ばかり主張し、年上を尊重せず、
わがままで、我慢強くない、といった評判。
テクノロジーに囲まれて育った世代だから、
便利さを享受し、即座に自分の欲求を満たすことができるため、
忍耐力が培われていないのではないか、
などの分析があります。

子育ても、「ヘリコプターペアレンツ」と言われ、
いつも子どもを監視し、
子どもが何か困ったことがあるとすぐに助ける、
という育て方をされてきた世代です。
(忘れ物を届けにいったり、
 子どもの障害を先回って取り除く)
SNSによって、人をうらやむようになり、
アメリカでは鬱などの精神疾患が過去最高に増えている、
(ドーパミンが分泌される中毒)
という現状もあります。

ある会社で、会社に内定した若者が、
上司に電話を渡し、
「あなたが私の上司にふさわしいか、
 親に判断してもらいますから」
という新入社員が6回続いたこともあるそうです。
自分の働いている職場でも、
同じようなことを感じています。

日本でもそのような世代間ギャップはあるのでしょうか?
私たちはどのように世代間ギャップを超えて、
つきあっていけば良いのか、
何か知恵がありますでしょうか?


A.

ラス・コリナスさんからのこの質問は、
実は2017年12月にいただいて、
それから半年以上「寝かせて」いた質問です。
「メルマガのネタないかなー」と、
Evernoteを情報散策していたら、
「死海文書」のようにこの質問が発掘されました。

「おぉ、こんな未回答の質問がまだあった!!」
と、8ヶ月前の地層からこの質問をとりあげ、
埃や汚れを注意深く取り除き、
よーく読んでみました。
結果、頭を抱えました。

「うーん、今の私の力量で
 答えられる質問ではないかもしれない」
と思ったからです笑。
回答が遅れていたのには、
それなりの理由があったのです笑。

しかし、命知らずにも、
この「大きな質問」に回答を試みています。
最初から言い訳するみたいで恐縮ですが、
これから私が語ることは
「回答」であって「解答」ではありません。
ましてや「正答」であるはずがない。

あくまで私の個人としての一見解として
聞いてくだされば幸いです。



▼▼▼普遍的問題としての「世代間ギャップ」▼▼▼

ラス・コリナスさんからのこの質問を
まずは「因数分解」しましょう。
大きな問題というのは、小さな問題に分解して、
ひとつずつ解決するというのが、
人生でも仕事でも世界平和でも「問題解決の定石」ですので。

ラス・コリナスさんはまず、
アメリカにおける近年の世代間ギャップの状況を指摘し、
そして二つの質問をなさっています。

1.これはアメリカだけのことなのか、
 それとも日本でも同じなのか?

2.私たちはどのように、世代間ギャップを超えて、
 付き合っていけばいいのか?

という二つですね。

まず、答えるのが比較的容易な質問、つまり「1」から。
端的に言いまして、私はこれはアメリカのみならず、
世界的な現象だと考えてます。

さらに踏み込むと、
時空すら超えて普遍的な現象とも言えます。
古代エジプトの壁画に、
「最近の若い者は、、、」
という老人の若者への不満が書かれていた、
という有名な逸話が示すように、
いつも「新しい世代」は既存の社会からは、
眉をひそめられるものなのです。

でも、大丈夫。

それから40年ぐらい経ちますと、
「新しい世代」が今度は、
「さらに新しい世代」に、
眉をひそめるようになるわけですから。

今から40年後、60代になった現在の「ゆとり世代」は、
未来の20代に、
「俺の若い頃はあんな奴はいなかった。
 もっとちゃんとしていた。」
と言います。
これは、必ず言います。
断言しても良い笑。

しかしながら気をつけなければいけないのは、
だからといって、「世代による傾向」が、
普遍性の中に吸収されて消失するわけでもなければ、
アメリカの「ミレニアルズ」や、
日本の「ゆとり世代(やそれよりも若い世代)」に特有の、
ある主の問題が「問題ではない」ということになるわけでもないし、
それらの問題が放置されて良いというわけでもないということです。

なぜか?

エジプトの壁画の逸話が示すように、
社会というのはいつの時代も、
複数の世代を超えて存在するからです。
社会にはいろんな世代の人がおり、
各世代がお互いに折り合って生きていかなければ、
その社会にいる人々は暮らしづらくなる、
ということです。

「若い人の意味不明な素行や行動原理」によって、
困っているのは年上の世代だけではありません。
若い人々自身も、「生きづらさ」を抱えることになります。
だって、自分が「自然にしたことや言ったこと」が、
社会の側を戸惑わせているという状態は、
戸惑っている側よりも、自分自身のほうが、
実はダメージを受けるものですから。

現代の世界はグローバル化が進み、
アジア人と欧米人
アフリカ人とラテン人、
ヒンズー教徒とキリスト教徒、
ユダヤ教徒と仏教徒、
イスラム教徒と無神論者というように、
あらゆる文化・宗教的背景を持った人が、
同じ学校、同じ職場、同じ地域社会で暮らすようになってきています。

そこには必ず「文化的な衝突」が生まれます。
この「文化的な衝突」によって苦しむのは、
どちらか一方ではありません。
必ず双方が「生きづらさ」を抱えることになります。

その「生きづらさ」をプラスに転じるものは何か?

互いに謙虚になり、相互に理解することだと思います。
お互いに耳を傾ける、ということです。
そうすると、「文化的な衝突」は、
「文化的な学び合い」に変わるのです。
双方の「世界が広がる」わけですね。



▼▼▼アメリカと日本▼▼▼

さて、ラス・コリナスさんは、
現代のアメリカの若者について書いて下さっています。
新入社員が上司に「自分の親と面接するように要求する」
というのは凄いですね。
日本ではあまり聞いたことがありませんが、
「企業の入社式に親が同伴する」というのは、
少し前に話題になりました。

いずれにしても、
どちらも、少なくとも私の手持ちの常識から考えますと、
「マジか。コイツら。」
というのが本音です。

「入社式に親同伴」にしても、
「上司を親に面接」にしても、
子どももハンパないけど、
親もハンパないですよね。

だって、親に「上司と面接してもらうから」、
という会話をしてるってことでしょ。

「お前、落ちるって! 
 それやったら面接落ちるって!
 会社の人全員引くって(泣)!」
っていうレスポンスじゃなかったってことでしょ。

「あー、上司を見極めるってことね。
 OK、ママがしっかり品定めしてあげるから。」
って言っちゃってるってことでしょ。

怖い怖い怖い。

親が「明日は入社式よね。
お母さん、スーツをクリーニングに出して、
美容院にも行ったわ。
いよいよあなたも社会人ね。」
という会話をしてるってことでしょ。

「お母さん、マジ無理無理無理。
 ダメだよ。
 会社の人引くから。
 出社一日目から、
 俺の会社でのあだ名『マザコン』になるから。
 マズいからそれは。」
じゃなかったってことでしょ。

「ありがとう。
 小学校も高校も大学も、
 ママと一緒に入学式行ったよね。
 桜の下で写真撮ったよね。
 明日も一緒に撮ろうね。
 俺の門出を、見届けてね。」
って言っちゃってるってことでしょ。

怖い怖い怖い。

コメディというより、
これはもうホラーだと私は思います。
脳内では「トワイライトゾーン」の音楽が流れています。

▼参考リンク:トワイライトゾーン
https://youtu.be/EVm6ZEQt71c

私にとっては最怖のホラーなのですが、
たぶん「そうでもない」親子がこの世には一定数いるから、
実際このような事象が起きているわけですよね。
これは「世代間ギャップ」と呼ぶ以外ないですね。



▼▼▼日本での私の世代間ギャップに関する知見▼▼▼

ラス・コリナスさんはアメリカのミレニアルズについて、
ご紹介してくださっていますが、
日本とアメリカの世代って、
10年ぐらい「後ろにずれる」と言われています。

日本のベビーブーマーとアメリカのベビーブーマー、
日本のジェネレーションXとアメリカのジェネレーションX、
日本の団塊ジュニアとアメリカの団塊ジュニア、
傾向は似ていたりするのですが、
年月がちょっと日本の場合後ろにずれる傾向がある、
というのをどこかで読んだことがあります。
実際、人口のグラフを見ても、
日本とアメリカでは「膨らみ」がズレます。

、、、で、アメリカの「ミレニアルズ」にあたる世代が、
日本でいうとどのへんにあたるのか、
多分これには定説はありません。
定義が曖昧ですから。

しかし私が類推するに、
ラス・コリナスさんのおっしゃっている世代というのは、
日本でいうと「ゆとり世代」および、
「平成生まれ世代」ぐらいがそれに該当すると思われます。

、、で、日本とアメリカは、
文化も教育も違いますから、
世代に特徴的なことについては、
似ていることもあれば違うこともあるわけです。

私が感じる「日本に特有かもしれない」
新しい世代の「問題点」を挙げたいと思います。
(もしかしたらアメリカにも共通かもしれない。
 もしそうだったら教えてください。)
細かいところは他にもありますが、
大きなところだけ2つ挙げたいと思います。
これは完全に私の「私見」であり、
個人的な経験と知識に基づくものです。

ひとつめは、
「空気を過剰に読む」傾向。
ふたつめは
「正解主義」です。

順番に、簡潔に説明していきます。

空気を過剰に読む、
というのは「いや、逆じゃないの?」
って思っている人も一定数いると思います。
つまり、上の世代は空気を読むけど、
若い子は空気読まず「自由人」として生きてるんじゃないの?と。

しかし、私の見聞きしたことによると、
現状は逆になっています。
現在の20代や30代は、40代以上と比較して、
「空気を過剰に読む」という、
「忖度」が内面化している、というのが私の現状認識です。

佐藤優さんが著書の中でこんなことを言っています。
引用します。


→位置No.787 
〈今の40代は右肩下がりの時代を生き抜く冷めた視点を持っています。
私の感覚としては、この世代は個人主義的な傾向が強い。
部下の教育に対してもバブル以前の上司のように、熱くのめり込みません。
 (中略)
反面、今の20代、30代は全体の空気を敏感に読み取って、
組織や集団に順応するのが得意です。
しかも40代に比べるとの社内の人間関係を求めたり、
心のつながりなどを重視したりする傾向があるようです。
上司の評価を過敏なまでに気にする若者が多いのも、
その傾向の一つとみることもできるでしょう。
40代と今の20代、30代は、
意外に大きなジェネレーションギャップがあるというのが私の見立てです。
個人主義的でクールな40代と、場の空気を重んじる20代、30代。
そんな人たちが一つのチームでいい関係を築くのは、
それほど簡単ではないかも知れません。〉

▼参考リンク:『40代からシフトする働き方の極意』佐藤優
http://amzn.asia/cDq6aGg



いかがでしょう。
私には思い当たる節がたくさんあります。
いまのサッカー日本代表は「仲良し」です。
20代、30代ですね。
佐藤さんのいう40代以上といえば、
中田英寿です。
あのイメージの人は、今の若い人の中では、
完全に浮くだろうなと思います。

なぜ若い人が過剰に空気を読むのか?
それはスマホとSNSの普及が一枚噛んでいるというのが、
私の見立てです。

社会学者でネットネイティブ世代の子どもの親でもある宮台真司が、
ネットの本当の弊害は匿名性によるリスクではなく、
親しい間柄の人間関係を変質させることだ、と指摘しています。
引用します。


→位置No.1783 
〈宮台:ネットのネガティブ面というと
「匿名性を利用した誹謗中傷」や、
「匿名性を利用した犯罪」が語られがちだけど、
「親しい間柄での疑心暗鬼」のほうが重大です。

子どもに携帯電話を持たせない方がいい理由として、
いまでも「匿名性を利用した犯罪」に
巻き込まれることを危惧する向きがありますが、トンチンカンです。
数的に圧倒的に問題なのは、
「親しい間柄での疑心暗鬼」のせいで、
コミュニケーション一般において過剰に防衛的になったり、
親友にさえ腹を割れなくなってしまうことです。〉

▼参考リンク:『父として考える』宮台真司 東浩紀共著
http://amzn.asia/6DWThEc



スマホとSNSは、
リアルな人間関係にある「遊び」を消失させます。

Bちゃんのいないところで、
AちゃんがCちゃんに、
「Bちゃんのああいうところ、
 私実は苦手なのよね」
とつぶやいたことの多くは、
リアルな対人関係のみ場合は、
通常はBちゃんに伝わりません。

つまり、ある閾値に達するまでは、
「安全なガス抜き」ができる。
誰でも人に文句を言いたいことはあるものです。

これがSNSだとどうなるか?
Cちゃんはその「ぼやき」をスクショ(スクリーンショット)として、
アーカイブできてしまいます。

平和な間はいいですが、
CちゃんにとってAちゃんが気にくわない行動をしたとき、
そのスクショは威力を発揮します。
CちゃんはBちゃんにそれを送信して自分のグループに取り込んだり、
スクショを学校の裏サイトの掲示板に貼り付けて、
Aちゃんを「公開処刑」することも可能です。

このような社会で子どもたちは、
「他者の機嫌を損ねないように、
 空気を読みまくって生きる」
ということを強く内面化していく、
ということが起きています。
SNSは、「同調圧力強化装置」にもなり得るのです。
なので、「ネットによる匿名の犯罪」とかよりも、
「顔の見える人間関係がネットにより変質してしまうこと」
のほうがよっぽど怖いよ、
と宮台さんは警告しているわけです。


ふたつめの「正解主義」。
これもまた、新しい世代がネットネイティブ世代であることと、
無縁ではありません。
先ほどの「過剰な空気の読み合い」がSNSの影響だとするなら、
「正解主義」は「検索知」の影響です。
つまり、「グーグル先生」の影響と言うことです。

いまや「情報」は誰にでも入手可能です。
検索知がありますので、
「第10代アメリカ大統領は??」
「世界で三番目に高い山は?」
「日本で初めてノーベル賞を受賞したのは?」
などの質問の「解答」を暗記することに、
何の意味もなくなりました。
多くの人は自分の電話番号すら記憶しなくなってきました。

これまで記憶に依存してきた多くの情報は、
「ググれば良い」ことになったのです。
そうなると、学校に行くことに意味はあるのか?
大学の講義を受けることに意味はあるのか?
という問題が生じます。

全部「ググれば解決」することを、
わざわざ高い授業料を払い、
印刷された重く高価な教会書を買い、
眠くなるような90分の講義を聴くことに、
果たして意味はあるのか、と。

ホリエモンのような筋金入りの合理主義者に言わせれば、
「意味ない」となるでしょう。
だって、ググれば分かるのですから。
「ググれカス」というネットスラングが表すように、
「検索知」は、誰もが「自分は全知である」と、
錯覚させるようになりました。

インターネット上に存在する、
森羅万象に関する情報が、
すべて自らの脳内にあるかのように錯覚する。
(精確には手のひらの中のiPhoneに、なのですが)

しかし、これは「錯覚」であり、
事実ではありません。
そして、合理主義者の主張とは逆に、
検索知が普及した今は、
「リアルな大学の講義や高校の授業」
「わざわざ印刷された重くて高価な本」
の価値は、逆に高まっているというのが、
私の見立てです。

しかし、「ネットネイティブ世代」に、
これが常識になっているようには私には思われません。

私の個人的な体験をお話しします。
数年前に、平成生まれの若者(男性)と話しました。
「陣内さんから学びたい」というので、
時間を取って。

彼の質問に私が答えている間、
私はその場で自分の意見を構築し、
自らの知識と経験を総動員し、
自分の体験や書籍などを交えながら、
一生懸命、説明しました。

それを聞く彼は、
ずーっとスマホをいじっていました。

「メールでもしてるのかな??」
と思ったらそうじゃないのです。

検索しているのです。

彼は私の話す中で知らない単語を、
リアルタイムで「ググって」いたのです。
私の顔を見ずに。

一応申し添えておきますと、
私も話しながらタブレットで検索することはあります。
それは相手が言った書籍を検索バーに入力して、
「あとで買おう(図書館で借りよう)」とか、
相手が言った「オススメの店」を検索バーに入力して、
「あとで調べて行ってみよう」と思っているからであって、
5秒とか10秒ぐらいのものです。

ただ、彼は尋常じゃなかったのです。

検索が。

ほぼずーっと検索していて、
1分に1度ぐらい、数秒間私の顔を見て、
また検索する、という感じ。
「自分の」知識、つまりGoogleの検索知によって、
たった今目の前の私が口にした「未知」を、
「既知(ネットで確認済み)」に、
置き換えていこうと必死であるかのようにすら感じました。

彼が失礼だとか、
そういうことを言いたいのではありません。

そうではなく、
彼が「情報」と考えるものと、
私が「情報」と思って伝えようとしているものの差に、
私は愕然としたのです。

彼がしているのは別に失礼なことではありません。
誰かと話していて知らない言葉があったら、
知ったかぶりをして受け流すより、
それについて辞書などを引いて調べる、
というのはむしろ歓迎されることでしょう。

しかし、私が問題だと思うのは、
ググることによって、
彼は私の言葉の断片を把握(ネット上で確認)
することはできたのかもしれませんが、
私の話の「流れ」や「構造」や、「声のトーン」や、
言葉と言葉の間にある「クオリア(質的な情報)」について、
実はほとんど受け取ることができなくなっているはずだからです。

ググって手に入る情報は、
すべてコンピューター上で処理可能な情報ですから、
「0と1」の二進法に還元可能です。

「数量的な情報」と言い換えても良い。
しかし、目の前の人が口角泡を飛ばして語っているのは、
単なる数量的な情報ではない。
そこには「質的な情報」とでも言うべき、
「0と1の間のニュアンス」が含まれる。

実は、AI時代に「生き残れる」のは、
後者の情報を多く持つ人です。
しかしネットネイティブ世代の若者は、
「大学のレポートが全部コピペだった」とか、
「先生、さっきの内容は間違ってると思います、
 Wikipediaと違いますから。」と指摘する大学生などの、
嘘みたいな逸話が示すように、
「より淘汰されやすい人間」に、
みずからなりにいっているような節がある。
このへんは「AI VS 教科書が読めない子どもたち」という、
新井紀子さんの本に詳しいです。

、、、話しを戻します。

そのような「検索知」を「知のすべて」と勘違いすると、
何が起きるか?

「正解主義」です。

何にでも、「正解」があると思い込む。
コンピューター上の情報は二進法に還元されるのですから、
当然そうなるのです。

「0」か「1」。

「正解」か「不正解」。

この「正解主義」に支配される人生観は不幸です。
「この結婚は正解だったのか?」
「この大学を受験することは正解か?」
「この商品を買うことは正解か?」
「夏休みに海外旅行が正解か?
 それとも国内旅行が正解か?」
「家を建てるのが正解か??
 賃貸で生活するのが正解か??」
「子どもを作るのが正解か?
 作らないのが正解か??」

何かを買うときに延々とAmazonのレビューを見るのは、
ほどほどの範囲ならば楽しいですが、
「正解主義の呪縛」に基づき延々をそのループを辿るのは、
不幸な経験です。
だって、正解なんてあるわけないんだもの。

その掃除機を買って幸せになった人もいれば、
不幸になった人もいるに決まっている。
家を買って正解だったと思う人もいれば、
買わなきゃ良かったと思う人もいる。

当たり前の事です。

そして、もっと踏み込んで言うならば、
世の中のあらゆる「選択」は、
それ自体が正解だったり、
不正解だったりするのではありません。

そうではなく「自分がした選択を正解たらしめる」、
という、絶え間ないプロセスの中にこそ、
人生の真価が現れるのです。
ヴィクトール・フランクル風に言うのなら、
私たちは「正解を問うている」のではありません。
「問われている」側なのです。
「自分の過去の選択を正解たらしめることができるかどうか」
人生の側から、生きる力が試されているのです。

パブロ・ピカソは有名な言葉を残しています。
「コンピューターは役立たずだ。答しか与えてくれない。」

そうなのです。

人生で大切なのは、「答え」を見つけることではなく、
「問い」を見つけることです。
そしてその問いに向き合い、
真摯に生きるというその「過程」こそが、
「人生そのもの」とも言えます。

ネットネイティブ世代は、
そのあたりの認識と言いますか、
人生や世界に対する基本姿勢が、
「デジタルに還元可能な情報に過剰に接すること」によって、
脆弱にされてしまっていると私には思われます。



▼▼▼柔軟であること▼▼▼

さて、話しが長くなってしまいましたが、
ラス・コリナスさんの質問に戻りたいと思います。
説明してきたように、
世代間ギャップというのは「あります」。

それは「若い人に年寄りが顔をしかめる」
という形を取ることもありますし、
逆に「柔軟な若い人を頑固な年寄りが邪魔する」
という構図を取ることもあります。

あらゆる「短所」は長所の裏返しですので、
今年寄りが顔をしかめているまさにその傾向こそが、
来たるべき世において世界を救う種なのかもしれない。

「世代間ギャップ」に関して、
聖書から学べる箇所を2つ引用します。

「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、
へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」
ピリピ人への手紙2章3節

「子どもたちよ、すべてのことについて両親に従いなさい。
それは主に喜ばれることなのです。
父たちよ、子どもたちを苛立たせてはいけません。
その子たちが意欲を失わないようにするためです。

奴隷たちよ、すべてのことについて地上の主人に従いなさい。
人のご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、
主を恐れつつ、真心から従いなさい。
何をするにも、人に対してではなく、
主に対してするように、心から行いなさい。」
コロサイ3章20〜23節


父たち、子どもたち、
主人たち、奴隷たちを、
「先輩世代」「若い世代」
「上司」「新人社員」と読み替えても、
現代で意味が通ります。

社会は「謙虚で柔軟な人同士」だと上手く回るようにできています。
謙虚で柔軟な若者と、
謙虚で柔軟な年寄りが出会ったときに、
社会は美しい協業関係を生み、
それは同じ世代同士で働くよりも、
はるかに大きなシナジー(相乗効果)を生みます。

これを、順列組み合わせで考えてみましょう。

 自分  相手
・柔軟  頑固 →上手く行かない
・柔軟  柔軟 →上手く行く
・頑固  柔軟 →上手く行かない
・頑固  頑固 →地獄

こうなります。
自分が若い世代と考える人も、
自分が年寄りと考える人も、
自分が新人社員でも、
自分が管理職でも、
上記の組み合わせは真実です。

どんな世の中でも最善の策は、
相手がどうかにかかわらず、
自分が柔軟でいることです。
その場合、柔軟な相手に出会ったときに、
素晴らしい体験をすることができますから。

ひとつだけ補足を。

この「柔軟」「頑固」というとき、
自らの確固たる信念が深い人ほど柔軟に、
自らの信念があまりない人ほど頑固になります。
「逆だ」と考えている人が多いのですが。
ハードコアなクリスチャンは柔軟であり、
信仰が浅薄だと頑固(教条主義)になります。

世代間で言いますと、
たとえば「会社の有給連絡をLINEでするかどうか問題」
みたいのがありますよね。
「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)が大切」という深い信念を持つ人は、
手段は「どちらでもいい」のです。
なんでもいい。
ちゃんと情報が共有されていれば。

だから先輩世代なら、
「若い世代がLINEしか使わないというのなら
 じゃあ社員のLINEグループを作ろうか」となる。
「俺もLINEを学んでみよう。
 何か良いことがあるかもしれない。」

若い世代で「ホウレンソウの重要さ」、
という本質を抑えている人は、
「自分はLINEが一番楽だし合理的だと思うけど、
 スマホに慣れていない上司が連絡を取るのに、
 電話や電子メールのほうがやりやすいと言うのなら、
 特にLINEにこだわる理由はない。
 だって『連絡する』ということが大事なのだから。」
となる。

信念が浅い人は、
「電話で連絡しないなんて失礼だ。
 俺の若い頃はあり得なかった!」
となったり、
「ジジイはLINEすら使えない。
 終わってる。」
となる。

この両者とも、残念ながら一生、うだつが上がらないでしょう。
起きている現象だけを見てはいけません。
「深い部分で信念が強い」人の方が柔軟なのです。
「抽象度の高いところで譲らない」から、
「抽象度の低い、具体的なディテールはいくらでも譲れる」のです。

質問に答えたような答えてないような話しになっちゃいましたが、
ご参考に。


これまでで最高のラーメンは、、、

2018.12.24 Monday

+++vol.053 2018年8月21日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■1 今週のオープニングトーク
久々のオープニングトーク
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼最高のラーメンは、、、▼▼▼

今週は久しぶりに、
「質問カード」やりたいと思います。
では、はい、引きます。

▼質問:
「生涯に食べた中で最高のラーメンを教えて下さい。」



、、、最高のラーメン。

、、、皆さんはいかがでしょうか?

この種の質問は、
「現在最高だと考えるラーメン」を問われているか、
それとも「生涯最高のラーメン」を問われているか、
によって、大きく答えは変わってきます。

前者は純粋に、味の話をしているのですが、
後者は「思い出補正」が入ってくるからです。
「思い出バイアス」と言っても良い。

人間というのは、過去の自分の感情と共に、
味覚を覚えていますから、
「学校の購買で買った、
 焼きそばパンほど美味いものはこの世にない。」
などというとき、
それは純粋に「味の話」ではなく、
そのときの思い出によるバイアスが強くかかっているので、
「トータルな経験」の話をしているわけです。

部活の仲間との内容のない馬鹿話、
好きだった女の子の後ろ姿、
輝いていた文化祭の準備、
思春期の底なしの食欲と空腹感、
黒々と抜けるような青い空、
そういったものがいろいろミックスされて、
「購買の焼きそばパン」は最高なのです。

30代や40代になった現在のあなたが、
気が重くなる会議の前に、
会議室で当時の購買とまったく同じ、
焼きそばパン(×3個)を提供されても、
「もっと腹の足しになるものもってこいよなー」
「幕の内弁当とかだろうが普通はー。
 パサパサじゃんよこのパン。
 三つも食えねーよ。」
「チッ」
「牛乳はねーのかよ」
「っていうか、早く会議終われよ」
などと、内心毒づくだけです。

、、、という「思い出補正」の話しをした上で、
今回聞かれている質問はあくまで、
「生涯最高のラーメン」ということなので、
「思い出補正込みの最高」を聞かれている、
という認識で回答していきたいと思います。



▼▼▼ラーメン・生涯ベスト5▼▼▼

、、、最高、と言いつつ複数挙げるのはルール違反ですが、
オープニングトークの尺を埋めるために、
つまり文字数を稼ぐために、
ベスト5(多!)で紹介していきたいと思います。


▼第5位:倉敷「喜楽園」
https://tabelog.com/okayama/A3302/A330201/33000767/

これはもう、完全なる「思い出補正」です。
私は小学校5年生から高校3年生までの7年間、
倉敷市の連島という地区に住んでいました。
ここは水島という、
全国有数のガラの悪い地区と隣り合わせで、
小中校生が外出するとき、
もっとも気をつけるべきは、
交通事故でも変質者でも毒蛇でもなく、
「ヤンキーによるかつあげ」でした。

いや、マジで。

水島周辺在住の中高生で、
過去に一度も喝上げにあっていない人は
珍しいんじゃないでしょうか。

日本にそんな場所あるの?
って思うでしょ。
あるんです、それが笑。

中学生のころはだから、
お金を持ち歩くときは、
小銭は財布のなか、
お札は靴下の中と決まっていましたから。

「金出せやコラ!
 ぶちくらわすぞ(和訳:思い切りぶんなぐるぞ)!!」

「え、、、持ってないです。」

「ワシのことナメとんのかコラ?
 ジャンプしてみぃ。」

「え?」

「ジャンプしてみぃゆーとんじゃコラ!!
 張り回すぞ(和訳:殴ったすえにその辺を引きずりまわすぞ)!!」

(ジャンプする)
(ポケットの中の小銭がジャラ・ジャラ)

「やっぱ金もっとんじゃろが!!」
(ボコッ!)

(殴られた上に金を取られる)
(泣きながら帰宅)

みたいなことが、
結構「日常」です。

嘘ついてると思うでしょ?

これ、ホントなんです。
お笑い芸人「千鳥」の二人に聞いてみてください。
本当だと証言してくれますから。

大悟「それ、ホンマなんかノブ??」
ノブ「そりゃホンマじゃぁぁ〜!!
「むしろお前ははりまわす側じゃぁ〜!」

(↑これは私の脳内創作です)


、、、あれ??

何の話し?

あ、ラーメンです。
あまりにも遠い思い出すぎて、
この店が「あの店」だったのかどうか、
正直自信がありません。
2割の確率で別の店と勘違いしています。

しかし、食べログのマップの位置関係と、
私のおぼろげな記憶によると、
私が中学生のときに良く通ったラーメン屋は、
「これ」です。
探偵ナイトスクープに確認を依頼したいぐらいです。

仮に正しかったとして、この「喜楽園」は、
今思い出しても、ちょっぴり涙が出ちゃうぐらい、
思い出が濃いラーメン屋ですね。

このラーメン屋、当時、
ラーメンがたしか350円、
餃子も200円以下という感じの低価格で、
中学生の私と弟が月1,500円とかの小遣いで行ける、
唯一の「外食店」でした。

弟を連れて、良くここに行ったのを思い出します。
なんだろうなぁ。
弟と二人、「外食」している。
その「背伸び感」とか、
大人への階段を上っている感とか、
わくわく感とか、
あと、中高生のときの、
上手く社会と付き合っていくことのできない、
鬱屈とした青臭さとか、
そういう感情が濃密に詰まっていて、
もはや咀嚼不能、分析不能になり、
思い出すと泣けてくるのです。

ここのラーメン、美味かったなぁ。
チャーハンをひとつ、
ラーメンを二つ頼んで、
弟とチャーハンをシェアしたなぁ。

書きながら泣きそうです。



▼第4位:帯広「ロッキー」
https://tabelog.com/chiba/A1205/A120503/12000770/

やばい。
もう泣いています。

涙でスクリーンが見えなくなってきました笑。

、、、というわけで続いての第四位は、
帯広「ロッキー」です。

「喜楽園」が中高生のときの思い出補正だとしたら、
「ロッキー」は明らかに大学生のときの思い出補正です。
北海道はラーメンのレベルが異常に高いですから、
そのなかでチェーン店であるロッキーは、
見下されている部類です。

道産子(北海道生まれ)の人に、
「好きなラーメン屋はロッキー」と言えば、
「あぁ、ロッキーね(笑)」という、
半ば見下したリアクションが返ってくるでしょう。

なんていうのかな。

東京で言うと、
「好きなラーメンは幸楽苑です」、とか、
「好きなピザ屋はサイゼリヤです」、とか、
大阪で言うと、
「好きなお好み焼き屋は風月です」とか、
博多で、
「好きなラーメン屋は一風堂です」とか言うと、

「ああ、そういう類いの人ね(笑)」
というリアクションが返ってくることでしょう。
アンジャッシュの渡部的な食通からは、
多分ゴミクズを見るような目で見られると思います。

私もじっさい、
6年間帯広にいたころは、
「好きなラーメン屋はロッキー」なんて、
一度も言ったことがありませんし、
そんなこと思ったこともありませんでした。
もっと帯広の人が好むコアな店を挙げていたし、
そちらのほうが美味しいと思っていました。
そして、じっさいそちらのほうが美味しいのでしょう。

しかし、しかしです。

帯広を離れて10年以上が経ち、
なぜかいつも思い出すのは、
「ロッキー」なのです。

あの、大味というか、
やぶれかぶれの濃い味付け、
ヘタすると甘いだけの北海道味噌、
バターとコーン、
洗面器のような器のデカさ、
謎の肩幅の広いクマ(?)のロゴマーク、
人口調味料やケミカルな材料をふんだんに練り込んだ、
やたらと黄色くて太い縮れ麺、
そのすべてが、北海道への郷愁を誘うのです。

「北の国から」に、
「子どもがまだ食ってる途中でしょうが!!」
という、日本ドラマ史に残る名シーンがあります。
純が泣きながらすするあの味噌ラーメンが、
「やたらと美味そうで、
 同時に不味そう」という、
奇跡的なバランスの上に成り立っているのですが、
あの味は私の脳内では「ロッキー」ということになっています笑。

なんと、ロッキーは、関東にも進出しています。
私の家から自転車でも行ける「大泉学園」という場所に。
私の通う教会の横田牧師も「帯広経験者」ですので、
何度か一緒に「ロッキー大泉学園店」に行きました。
「懐かしいなぁ」「美味いなぁ」と言いながら。
しかしやはり、大泉学園店と帯広店は違います。
窓から白樺の木が見えているかどうか、とか、
外の気温とか、店内にいる人の中に、
つなぎを着た酪農家がいるかどうか、とか、
そういったディテールが違いますから。

ちなみに、
「子どもがまだ食ってる途中でしょうが!」
について調べてたら、こんなの出てきました。
北海道の読者で食べた人いるんでしょうか?
興味深いです。

▼参考リンク:
https://stat.ameba.jp/user_images/20160607/12/hiro-speech-coach/87/94/g/o0550038613666549867.gif



▼第3位:新宿西口「麺屋武蔵」
https://tabelog.com/tokyo/A1304/A130401/13001013/

やばい。
四位、五位で飛ばしすぎて、
文字数が足りなくなってきました。
悪い癖です。

こちらは新宿「麺屋武蔵」。
たしか行ったのは、
2002年か2003年ぐらいだったと思います。
当時私は社会人になったばかりで、
テレビで「ガチンコラーメン道」という、
クソほど面白い番組をやっていました。
(なんでああいう面白い番組が今はなくなっちゃったんだろ)

ラーメンの鬼・佐野さんが、
(確か)今泉さんとう脱サラした
うだつの上がらないおじさんの頭の上で、
ぞうきんを絞るシーンは記憶に焼き付いています。

そんな番組に象徴されるように、
当時、世の中は空前のラーメンブームでした。
テレビではラーメン屋ランキングがゴールデンタイムで放送され、
ラーメン関連の本や雑誌が書店には平積みされていました。
そんな雑誌やテレビのランキングで、
いつもトップ3に君臨していた、
「ラーメンブームの火付け役の一端を担った名店」が、
この「麺屋武蔵」です。

当時愛知県に住んでいた私は、
「麺屋武蔵」なんていうのは、
雲の上の世界の話し、というか、
別世界の話しで、
たとえばイスラム教徒がメッカについて考えるような、
あるいはキリスト教徒がイスラエルについて考えるような、
そんな「良く話題には上るけど実物を見たことはない」
という、神話のような存在でした。

あるとき何かの用事で東京を訪れたときに、
「麺屋武蔵に行こう!!」と、
友達と計画をして入った記憶があります。

聖地巡礼です。

当時のブームの影響で、
ラーメン屋の人気店の行列は2時間待ちなんていうのもザラで、
たしかそのときも、1時間以上並びました。

で、噂に聞いていた「麺屋武蔵」のラーメンを食しました。
うまいんだ、これが。
地方のラーメン屋にはない「洗練」というか、
「完成度の高さ」「調和」がそこにはありました。
鰹、にぼしの魚介系スープと、
鶏ガラ、豚骨の動物系スープの、
「二刀流スープ」。
(ん?だから武蔵なの?今更だけど。)
感動しました。

そもそも地方のラーメン屋というのは、
東京のトップの店を味見した地方の店主が、
それになるべく近づけるようにして作っています。
これが有名な「ラーメントリクルダウン」です。
(嘘です。今私が作った造語です。)
なんにせよ、ファッションで言いますと、
東京のラーメン屋のトップの店というのは、
「パリコレクション」とか、
「ミラノコレクション」なわけです。

それを模倣したのをさらに模倣した、
「地方のジャスコのファッション」しか知らなかった田舎者が、
パリコレクションを見たようなものです。
感動しますよ、そりゃ。

、、、そんな私も、
「今、麺屋武蔵のラーメンが食べたい」
と思ったら、
運が良ければ電車と徒歩で、
1時間以内に食べられる環境に住んでいます。

こういう環境にいると、
案外行かなくなりますね笑。

最後に食べたのは10年近く前だから、
また行ってみよっかな、麺屋武蔵。



▼第2位:札幌「信玄」
https://tabelog.com/hokkaido/A0107/A010702/1006208/

記憶によれば「信玄」にはじめて行ったのは、
たしか2010年のことだったと思います。
北海道のJECAという教会連合があり、
夏に中高生のキャンプの講師として呼んでいただき、
3日間の奉仕をしました。

その札幌滞在の時に、
キャンプのスタッフをしていた20代の青年たちが、
「俊兄さん、美味いラーメン屋ありますよ。」
みたいな形で連れて行ってくれたのが、
この「信玄」でした。

5位〜3位は、かなり「思い出補正」が入ってますが、
「信玄」に関しては2年ほど前にも行っていますので、
自信を持って「美味い!」と言えます。
思い出補正なしに。

普通に、美味いです。

味噌ラーメンの完成形のひとつだと思いますね。
味噌ラーメンは東京だと、
池袋の「花田」がかなりレベル高いですが、
やはり札幌は発祥の地だけあり、
本当に美味しい味噌ラーメン屋さんがいっぱいあります。
「すみれ」という名店もありますし。

「信玄」もそのひとつ。
上品なラーメンというよりは、
野性味あふれる、勢いのある味噌味という感じです。
コクが強く、深みがあります。
「信玄」と比べると、
「ロッキー」はずいぶん恥ずかしいですね笑。
「デパートのフードコート感」がありますから。



▼第1位:江古田「天下一品」
https://tabelog.com/tokyo/A1321/A132101/13002405/

これは、思い出補正の部類ですね笑。
みんな大好き、天下一品。

10年前に東京に住むようになってから、
常に私の視界には「江古田の天下一品」がありました。
というのは、私が所属する練馬グレースチャペルの目の前に、
この天下一品はあるからです。

10年間の節目、節目で、
この天下一品は登場します。
弟と行ったこともあるし、
牧師と行ったこともあるし、
友達と行ったこともあるし、
妻と行ったこともあるし、
ひとりで行ったこともある。

いつも「こってり+ランチ半ライスサービス」を頼みます。

店の雰囲気も、ラーメンの味も、
床やイスのヌルヌル感も、
テーブルに置かれた「たくあん」と「辛子にんにく」も、
バンダナを巻いたおばちゃんも、
なぜかジャージを着ている常連客も、
すべて、時が止まったかのように、
「同じ」です。

関西人にとっての「吉本新喜劇」のように、
愛知県民にとっての「喫茶店のモーニング」のように、
古代エジプトを旅するノマドのにとっての、
夜の北極星のように、
時が経ってもそこだけは変わらず存在してくれるものというのは、
人生の羅針盤となってくれます。

東京というのは特に変化のスピードが速く、
町並みも人間模様も風景も、
すべてが流転していきますから、
「変わらないもの」は貴重なのです。
「江古田の天下一品」は、
東京のなかで変わらないもののひとつです。

ヘラクレイトスは「万物流転」といいました。
彼は言外に「真理は不変」と言っているわけですが、
ヘラクレイトス流に言えば、
「万物流転・天一不変」なのです。

私の「ベスト天一」はと言いますと、
2009年、2ヶ月間エチオピアに行っていて、
帰ってきた日に食べたときの江古田の天一が、
「ベスト天一」です。
その後8時間寝たと思ったら16時間寝ていたほどに、
内臓も筋肉も脳も、すべてが疲労困憊していたわけですが、
その「寝落ちの寸前」に食べた、
2ヶ月ぶりの日本の食べ物が、天下一品でした。

あのときの天下一品は天下一品でした。

「南極料理人」という映画が私は好きです。
南極に1年間住み込んで調査研究をする、
という仕事があります。
主人公の堺雅人はそれに抜擢され、
1年間日本を離れます。

この映画は料理がやたらと美味そうです。
映画館では生唾を飲む音が聞こえていたことでしょう。

映画の最後の最後に、
堺雅人は家に帰り家族と再会し、
上野動物園だかどこかに妻と息子を連れて行きます。
そこで、フードコートの不味そうなハンバーガーを買います。
それを一口食べたとき「美味っ」と彼は呟きます。

実はこの「美味そうな食べ物のオンパレードの映画」
のなかで、登場人物が「美味い」と口にするのは、
その最後の最後の一度だけなのです。

これが、食事の本質ではないでしょうか??
本当の食通とは、
「一緒に食べられる愛する人」を持っている人です。
それがたとえ、サービスエリアの不味いラーメンだったとしても。

、、、という、なんか綺麗に着地した風になってしまいましたが、
以上が私の「過去に食べた最高のラーメンの話し」でした。
なんか、「半生記」みたいでしたね。
駄話にお付き合いくださりありがとうございました。