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【Q】放射性廃棄物の受け容れについて

2018.07.17 Tuesday

+++vol.049 2018年1月30日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■3 Q&Aコーナー

皆さんからお寄せ頂いた質問にお答えするコーナーです。

日頃の悩み、疑問、今更誰かに聞けないギモン、、、、
質問の種類は問いません。お気兼ねなくご質問をお寄せください。
ご利用は下記に基づいてご利用いただけると幸いです。

【Q&Aについて】
▼全てのご質問にお答えすることはできません。予めご了承ください
▼いただいたご質問は、ブログ・FVIメディアルームに掲載される可能性があります
▼本名での投稿の場合は「ペンネーム:無し」となります
▼必ず下記フォームからご質問を送信ください

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

【Q&Aコーナー専用フォーム】

▼URL
https://www.secure-cloud.jp/sf/1484051839NyovBkYI

※大変お手数ですが一つの1メール1質問を原則とさせてください。
ご協力宜しく御願い致します。

※頂いたメールはすべて目を通しております。
陣内俊への要望やメルマガの感想、激励などももちろん大歓迎です!

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


●【Q】放射性廃棄物について

ラジオネーム:トビー(女性)
お住いの地域:東京

Q.

このあいだ、
NHKで放射性廃棄物受け入れの問題を取り上げていたのを見ました。
どこの自治体住民も、放射性廃棄物を受け入れたくないと言っていて、
恩恵だけ受けてリスクは引き受けない態度に違和感を覚えました。
沖縄の基地問題とも重なると思いますが、
私は子どももいますが、もし自分だけで決められるなら、
放射性廃棄物を地域で受け入れることは賛成です。
便益だけ享受して危険は断る、というのはあまりに身勝手だと思うからです。
「福島の復興」というのはそういうところにこそあると思うのですが、
陣内さんはどのように考えられるでしょうか?


A.

トビーさん、ご質問ありがとうございます。
この質問の答えは簡単です。
「私もトビーさんと同じ考えです」。

以上!

というところで終わるのは不親切ですから笑、
なぜそう考えるかをご説明します。

「リベラリズム」という政治哲学があります。
私はいわゆる「憲法9条を守れ」とか、
「原発反対」とか、「SEALS」とか、
「アベ政治を許さない!」とか、
そういった現在の日本の「左翼的」とか「リベラル」とされる、
言説や政治的ポジションとは、
別の意味でこの言葉を使います。

政治的に文脈化され曲解されゆがめられる前の、
思想としての本来の意味の「リベラリズム」です。
「リベラリズム」を定義するのは、
それはそれで大きな仕事ですが、
この思想の「大家」と言われる、
ジョン・ロールズという政治哲学者に依拠して、
ここでは解説していきたいと思います。

日本におけるジョン・ロールズ研究の第一人者は、
最近ではテレビに出演することも多くなった、
井上達夫という東京大学の教授です。
この人が、
「リベラルのことは嫌いでも、
 リベラリズムは嫌いにならないでください」
という本を書いています。

前田敦子が「リベラル」(=アベ政治を許さない!)
AKB48が「リベラリズム」(=政治哲学としてのリベラリズム)
であって、両者は別物だよ、ということです。

▼参考リンク:『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』井上達夫
http://amzn.asia/2GYZbb8

この本の中でまず、
「リベラリズムの源流」といわれる、
ジョン・グレイの考え方を井上氏は紹介します。
グレイによると、リベラリズムの原理は、
「啓蒙より寛容をたいせつに」というところから出発しています。
私のEvernoteの読書ノートから引用します。

《リベラリズムの伝統とは「啓蒙」と「寛容」であり、
オックスフォードの政治思想家ジョン・グレイは
「啓蒙」よりも「寛容」を重視した。
その理由は「啓蒙」は理性の独断化、絶対化を招き、
マルクス主義やフランス革命後のロベスピエールのようになってしまう、
と考えたからだ。
(中略)
それまでの「不寛容な者には不寛容であるべき」
という寛容原理がポピュラーだったが、グレイはそれを否定し、
「不寛容な政治体制や文化に対しても、寛容であれ」
という形で寛容原理を自壊させた。
彼はリベラリズムの基礎を(いわば脱構築し)
哲学的原理から政治的妥協に移行させた。
これを「暫定協定」という。
戦い続けると相互殲滅になっちゃうかも知れないから、
まぁ、生きる知恵として「暫定協定」で共存しましょう、
これがリベラルな行き方だ、とグレイは言った。》

、、、リベラリズムとは何か、を定義するとき、
「寛容」という概念が大切になります。
アメリカでリベラルな政党である民主党が、
黒人やヒスパニックにも市民としての権利を与え、
伝統的なアメリカの宗教であるプロテスタントだけでなく、
カトリックやイスラムや仏教も共存でき、
様々な価値観を持つ人が互いを排斥しないようにしましょう、
と主張するのはこれが理由ですね。

「寛容」がひとつの礎石だとすると、
もうひとつのリベラリズムの礎石は「平等」です。
「寛容」と「平等」が、リベラリズムの基礎です。
その「リベラリズム」という道具を用いて、
ロールズの「正義論」を下敷きに、
井上達夫氏は「何が正義と言えるのか」を追求している学者です。
井上氏はちなみに、憲法9条に関しては、
「改正論者」ではなく「削除論者」です。
さらに「徴兵制を復活させるべき」と言っています。
「どこがリベラルだよ!!」
と左派の人は怒りそうですが、
井上さんが主張する「徴兵制」は、
リベラルな考え方から導き出されたものです。
引用します。

→P62 
《やはり、下手な戦争をすると、自分や、
自分の子ども達が本当に命を落とす、
あるいは人を殺さなければならない立場になる、
ということが切実に感じられて、
初めてその戦争はやるに値するのか、真剣に考えるようになる。
(中略)
そして、徴兵は、絶対に無差別公平でなければいけない。
富裕層だろうが、政治家の家族だろうが、兵役逃れは絶対に許さない。 
アメリカが大規模な徴兵制の採択を機に、
ベトナム戦争で世論が交戦から反戦に変わったことを話したけど、
「9.11」の後のアフガニスタン侵攻や2003年のイラク侵攻は
また志願制で、元の木阿弥になった。
戦場に行ったのは、ベトナム戦争の初期と同じ、
中西部の失業し続けている若者とかの貧困層が主です。
(中略)
アメリカの国会議員が上下両院で五百何人かいて、
子どもをイラクに送ったというのは、たった一人だったかな。
こうなると、民主国家でも、
やはり無責任な好戦感情に引っ張られてしまう。》

、、、同意するかは別として、
彼の主張は筋が通っているし、
一貫しているので、私は好感を抱きます。

じっさい根拠もある。

アメリカが泥沼のベトナム戦争を終わらせたのは、
「徴兵制」がその理由になった、というのは、
あながち暴論ではありません。

アメリカの両院の議員本人が軍人出身者だったり、
子どもが兵役についていたりする割合を、
過去のあらゆる時代に割り出します。
そうすると、両院の議員本人か、
もしくはその家族が軍人である(あった)比率が高いときには、
アメリカは戦争をしない、もしくは止める傾向にあり、
逆に議員の家族が兵役についていない時代に、
アメリカは戦争を継続し、もしくは始める傾向にあります。
これは統計的に証明された厳然たる事実です。

ブッシュ(子)がイラク戦争を始めたときの議員の家族の兵役率は、
たしか1%に満たないほどに下がっていました。
このような人たちにとって、
「戦争することのコスト」は外部にあり、
自分の身内にはありません。
逆に「戦争することのメリット」はある。
戦争は政権与党にとって、支持率回復の魔法の杖ですし、
軍産複合体は喜びますから、いろんな利権組織に、
便益を図ることができ、自らの政治基盤は固まります。

ところがもし議員の子どもも金持ちの子どもも、
絶対に逃れられない、「徴兵制」がアメリカにあったら、
本当にアメリカはイラク戦争を始めただろうか?
と考えてみる。

「徴兵制は戦争を抑制する」というのは、
このように、あながち無茶な話ではありません。
安倍さんや菅さんは自衛隊を海外に派兵することに積極的です。
彼らが日本の平和を願っていることを私は疑っていませんが、
しかし彼らにもし子どもがいて、
そして自衛隊員だったとしら、
同じ決断をしていただろうか?
と考えるのは無意味な思考実験ではありません。

海外派兵された自衛隊員の多くがPTSDを煩い、
自殺率が一気に上がることは公然の秘密です。
もし「それでも日本の安全のために」と、
自衛隊員の親である彼らが同じ決断をしていたら、
決断の内容は同じだったとしても、
その決断のもつ「重み」は違ってきます。

井上さんの議論で最も大切で、
そして最も私が共感を覚えた概念が、
「反転可能性」という概念です。
これは先ほどの「徴兵制による戦争の回避」にも通じるし、
そしてトビーさんのご質問にあった、
核廃棄物処理場や沖縄の米軍基地、
さらに地域に葬儀場を建てることに反対運動をする人たち、
そういった人たちに非常に関連のある概念です。
引用します。

→P22 
《ある人やある集団の行動や要求が、
この意味で正義に叶っているかどうか、
それを見分ける手段があります。
私が「反転可能性テスト」と呼んでいるものです。
これは、共通の正義概念から出てくる非常に重要な論理的帰結です。
つまり、自分の他者に対する要求や行動が、
もし自分がその他者だったとしても受け入れられるかどうか。
自分と他者が反転したとしても、
受け入れられるかどうか、考えてみよ、と。》

、、、井上氏はこの本の中で実例として、
「日照権の問題」を取り上げています。

今あなたは、二階建ての家をある土地に建てようとしている。
建設会社も決まり、ローンも組み、
いざ建てようとしたときに、
自分の土地の北側に住んでいる一階建ての家に住んでいるAさんが、
「待ってくれ」と言い出した。
曰く「あなたが二階建ての家を私の家の南側に建てたら、
私の家があなたの家の日陰になり、
日当たりが悪くなってしまう。
あなたがここに二階建ての家を建てることは、
まかりならん!」というわけです。

あなたは戸惑います。
しかし、
「もう決まったことなんだ。ローンも組んだ。
 この家は私と家族の夢の家なんだ。
 別に法令違反ではないのだし、いいだろう!」と、
Aさんの主張を圧殺して、二階建ての家を建てたとする。

二階建ての新築に住み始めたあなたと家族は、
そこでの快適な生活にとても満足しました。
それから3年後、あなたが家を建てた土地の南側に、
5階建てのマンションが建つ計画が持ち上がりました。
これが建てば、あなたの家は日陰になります。

「反転可能性」の概念に基づくと、
あなたは5階建てのマンションが建つことに、
「待った」を言う資格はありません。
自分は逆の立場のときに、
自分の主張を通して家を建てたのだから、
というわけです。

ある主張を自分が持っている場合、
立場が逆転したとしても、
その主張や権利は正当なものと言えるだろうか?
と考えるわけです。
「Aさんには日照権を主張する権利がないが、
 私には日照権を主張する権利がある」
というのは正義ではありません。
ダブルスタンダードです。

ダブルスタンダードは、
聖書の時代から明確に禁止されている、
「不正義」です。
申命記25章13〜14節にこう書いています。
「あなたは袋に大小異なる重り石を持っていてはならない。
あなたは家に大小異なる枡を持っていてはならない。」
これはダブルスタンダードを禁ずる律法です。
あなたが5階建てのマンションに反対するとしたら、
「大小異なる枡」を持つことになります。
もし5階建てのマンションに反対したいなら、
Aさんの主張を聞き入れて、
自分の家の計画を変更する必要があるのです。

これと核廃棄物や米軍基地の問題、
何の関係があるの?

大ありです。
Aさんを沖縄県民、または、
Aさんを青森県六ヶ所村と考えて下さい。
あなた(や自民党)は、
沖縄県民や六ヶ所村の人々に、
「仕方ないんだ、負担を受け入れてくれ」
と言うのは構わない。
しかしそのときは「反転可能性」を考えなければならない。
もしそう主張するなら、
あなたには、自分の家の隣に、
米軍の滑走路が作られたり、
自分の住む市内に、核廃棄物最終処理場が出来ても、
文句を言う権利はない、ということです。

私は沖縄県民や六ヶ所村の人々が、
不当に大きな負担を負っていることに、
たいへん遺憾な思いですし、
そういった負担を一部の少数の人々に、
負わせている日本という国は、
恥ずかしい国だと思っています。

しかしながら、日本は民主主義の国であり、
今私を含む国民の「民意」として選ばれた政権与党は、
(私がそれを支持したかどうかとは別にして)
沖縄や青森や福島の人々に負担を押しつけている現実があります。
その自覚や意志がなくても、
私は消極的にではあれ、「抑圧する側」にいるのです。
つまり負担の上に成り立つ便益を享受し、
自分以外の人の負担を(消極的にだったとしても)、
「良し」としている。
この現実から目をそらしてはいけない、
と思っています。

だとしたら、私は、
自分の家の隣に基地が出来ようが、
核廃棄物が来ようが、
原発が作られようが、
墓が建とうがコンサートホールが出来ようが、
文句を言う権利や正当性を持たないと考えている。
説明が回りくどく、非常に長くなりましたが、
これが私がトビーさんの意見に賛同する理由です。

現代の日本の民主主義を取り巻く状況は困難です。

その理由は分かっています。
「人口ボーナス時代」の昭和の日本の政治は、
「富の再分配」だったのに対し、
「人口オーナス時代」の現在の日本の政治は、
「負担の分配」だからです。
前者は良いが後者は地獄をもたらす、
とカール・マルクスは100年以上前に言っています。

しかし、そのような「負担の分担」の時代だからこそ、
高度な知性と清廉な人格と、
一貫した「正義論」をもったリーダーが、
必要とされていると私は思います。
ここで舵取りを誤ると、
国家存亡の危機になりますから。
ひとりの国民として、
そのような人がリーダーとして選ばれるように、
私も日々祈っています。



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私の読書論・第一回

2018.07.17 Tuesday

+++vol.049 2018年1月30日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 私の読書論

新コーナー、私の読書論のコーナーです。
本メルマガでは毎週書籍とレビューを紹介しています。
読書というものについて私が何を考えているか、
そういった「メタ」の思考を書き留めたくなることが、
年に何度か訪れます。
それを書き留めるのがこのコーナー。
「読書とは何か」について語りあいましょう。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼読書はなぜ必要か?▼▼▼

先週、『死ぬほど読書』という本を読みました。
それを読んでいたら、
無性に読書について語りたくなったので、
こんなコーナーを作ってみました。

▼参考リンク:『死ぬほど読書』丹羽宇一郎
http://amzn.asia/2Xd1Bfn

、、、で、「読書について体系的に論じる」
ということをここでしますと、
本一冊分ぐらいの情報量になってしまうし、
私が疲れてしまいますので笑、
『死ぬほど読書』の私の読書ノートを紹介し、
それに私がコメントするかたちで、
語っていきたいと思います。

そう、得意の「本のカフェラテ」形式ですね。
では始めます。
まず、著者の丹羽さんがこの本を書こうと思った動機は、
彼が朝日新聞に寄せられた大学生からの質問を読んで、
それが頭から離れなかったからだそうです。
引用します。

→P8 
《朝日新聞2017年3月8日付掲載
 「読書はしないといけないの?」(大学生21歳・男性)

「大学生の読書時間『0分』が五割に」(2月24日朝刊)という記事に、
懸念や疑問の声が上がっている。
もちろん、読書をする理由として、教養をつけ、
新しい価値観に触れるためというのはあり得るだろう。
しかし、だからといって本を読まないのは良くないと言えるのだろうか。

私は、高校生のときまで読書は全くしなかった。
それで困ったことはない。
強いて言うなら文字を追うスピードが遅く、
大学受験で苦労したぐらいだ。

大学では教養学部と言うこともあり、
教育や社会一般に関する書籍を幅広く読むようになった。
だが、読書が生きる上での糧になると感じたことはない。
役に立つかもしれないが、
読まなくても生きていく上で問題はないのではないか
というのが本音である。
読書よりもアルバイトや大学の勉強の方が必要と感じられる。

読書は楽器やスポーツと同じように趣味の範囲であり、
読んでも読まなくてもかまわないのではないか。
なぜ問題視されるのか。
もし、読書をしなくてはいけない
確固たる理由があるならば教えていただきたい。》

、、、どうでしょう?
皆さんならどうお答えになりますか?

大学生になる子どもに、
「なんで本読まなきゃいけないの?」と聞かれたら?
あるいは小学生の子どもに、
「なんで勉強しなきゃいけないの?」と聞かれたら?
これらは本質的に「同じ質問」です。
これは「なぜ教養が必要なのか?」という質問だからです。

もしくは、あなた自身がこの大学生と同じで、
「なんで本なんて読まなきゃいけないの?」
と疑問に思っている側でしょうか?

いずれにしても、この質問について考えることは、
どうやら価値がありそうです。

「本当に頭の良い人」というのは、
物事の本質を一言で言い表します。
私は「何で本を読まなければいけないのか?」
という質問にもっとも簡潔に答えた人を知っています。

芸人の東野幸治です。

これは月亭方正の書いた、
『僕が落語家になった理由』という本で読んだエピソードです。
そもそも芸人山崎方正が、落語を志し、弟子入りしたのは、
東野幸治が原因です。
あるとき今後のキャリアについて相談したところ、
東野幸治に背中を押されて方正は落語家の門を叩いたのです。

そんな東野幸治の「地頭の良さ」を現すエピソードとして、
方正はこんな話を紹介しています。
あるとき方正が東野幸治に、
「なんで勉強せなアカンのでしょうね?」
と、なんとなしに聞いた。
すると東野幸治は言った。
「そんなん決まってるやろ。
 戦争せんためや。」

すごいでしょ。

読書や教養や勉強というものの本質の全てが、
この一言に込められています。
ここまで綺麗な答えを提出されたら、
もはや何を言っても、
「屋上屋根を架す」ことになってしまうのですが、
上記の大学生への、著者の丹羽さんの答えを、
見ていきたいと思います。


▼▼▼無知の量▼▼▼

まず、著者は、
読書をする目的は「知識の量」を増やすことではない、
と言います。

逆だ、と。

「無知の量」を増やすために読書をするんだよ、と。
私も心から同意します。
引用します。

→P27 
《人間にとって一番大事なのは
「自分は何も知らない」と自覚することだと私は思います。

「無知の知」を知る。

読書はそのことを、身をもって教えてくれます。
本を読めば知識が増え、この世界のことを幾分か
分かったような気になりますが、
同時にまだまだ知らないこともたくさんあると、
それとなく気づかせてくれます。
 
何も知らないという自覚は、人を謙虚にします。
謙虚であれば、どんなことからでも何かを学ぼうという気持ちになる。
学ぶことで考えを深め、よりよい社会や人間関係を築こうとする。
たとえ自分とは違う考え方のものであっても、それを認められる。
自分が何も知らないという思いは、
その人を際限なく成長させてくれます。

反対に自分は何でも知っている、
何でも分かっていると思っている人ほど、
たちの悪いものはないかもしれません。
そうい人は傲慢で、何でも人より優位に立って、
自分の思い通りに事を進めようとしたりします。》

、、、聖書に、
「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます」
という言葉があります。
第一コリント8章1節です。

この箇所を引用して、
「だから勉強(読書)しなくて良い」
というのは明らかな誤読です。
解釈が完全に間違っています。

まったく逆なのです。

勉強すると言うことは、
「無知の量」を増やすということであり、
勉強しないというのは、
「無知の量」が増えないということなのです。
勉強している人のほうが、
勉強しない人よりも
「自分は何も知らない」
ということをよく知っているのです。

、、、ということは、
どちらが(知識によって)高ぶった人なのでしょう?

そうです。

多くの人が誤解しているのとは逆で、
高ぶっているのは、
「勉強していない人」であり、
「本を読まない人」の方なのです。

自分が無知だということを知り、
へりくだっているのは、
「勉強している人」であり、
「本を読む人」なのです。

だってそうでしょう?

本を読まない人というのは、
言外に、
「私は本を読まなくても良いぐらい、
十分物事を知っている。」
と言っているのと同じですから。

本を読む人は逆に、
「自分は何も知らないから、
 本を読んで勉強する必要がある。」
と言外に言っているのです。

引用を続けます。

→P29 
《詰まる所、人間がこの世界について分かっていることなど、
1%もないのかもしれません。
つまり、われわれが生きている世界は、
ほとんど「知らないこと」でできている。
そのことを考慮すれば、
「知っている」という驕(おご)りは生まれようがない。
「何も知らない」という前提があるから読書は出来るのだし、
いくら読書を重ねても、その前提が消えることは永遠にありません。
「何も知らない」ことを知る。
人が成長する上で、これほど大事なことはないのです。》

、、、勉強をすればするほど、
私たちは何も知らないと言うことを知ります。
現代科学で宇宙について分かっているのは、
全体の1%に満たないということを、
天体科学者たちは「知っています」。

無知の知ですね。

本を読めば読むほど、
この「残りの99%の無知」に肉薄するのです。
そうすると、宇宙の広さ、歴史の深遠さ、
哲学の深さ、自然界の美しさについて、
センス・オブ・ワンダーの気持ちが高められます。
そうすると、人は畏敬の思いでこう思います。
「私は世の中について、何も知らない」と。

これが謙虚な態度であり、
「オレ、難しいことって、よくわかんないから」と、
マンガ「ONE PIECE」だけを片手に、
全ての読書を放棄するのは謙虚などころか、
傲慢な態度と言わざるを得ません。
だって、「生きて行くにはONE PIECEで十分」
と言ってるんですから。
それは傲慢というものです。

知識というのをゼロサムで考えていると、
知識の量が増えれば無知の量は減ると直観しますが、
知識はゼロサムではありません。
知識の量が増えれば増えるほど、
無知の量はそれ以上に増えるのです。

「生まれてから一歩も家から出たことのない人にとっての宇宙」よりも、
「宇宙飛行士として月に行ったことのある人にとっての宇宙」のほうが、
圧倒的に広いのと同じです。



▼▼▼「教養というもの」について▼▼▼

続いて著者の丹羽さんは、
読書によって教養が磨かれるのだ、と語ります。
正確に言えば、読書と仕事と人によって、
教養は磨かれるのだ、と。
引用します。

→P41 
《教養というと、大前提として知識の量が
関係すると思われるのではないでしょうか。
しかし、私は知識というものは、その必要条件ではないと考えます。
 私が考える教養の条件は、
「自分が知らないと言うことを知っている」ことと
「相手の立場に立ってものごとが考えられる」ことの二つです。
 (中略)
では、教養を磨くものとは何か?
それは仕事と読書と人だと思います。
この3つは相互につながっていて、
どれか一つが独立してあるというものではない。
読書もせず仕事ばかりやっていても本当に良い仕事は出来ないだろうし、
人とつきあわず、人を知らずして仕事が上手く出来るわけはありません。

仕事は、私に言わせると、人生そのものです。
食べるためとか、お金を儲けるためとか、家族を養うためとか、
そういうたぐいのものだけではない。
人生から仕事を取ってしまえば、何も残らないと言ってもいい。
仕事をすると、喜び、悲しみ、怒り、ひがみ、やっかみなど、
さまざまな思いを味わうことになる。
こういったあらゆる感情が経験できるのは、仕事以外にありません。

仕事というのは、お金を報酬としてもらうものとは限りません。
さまざまなボランティアもそうだし、
困っている人々のために働いたり、身体を動かすこともそうです。

仕事を通して人は様々な経験を積み、
人間への理解を深めていけるのです。
仕事もせずに趣味だけに生きていても、
人としての成長はないと思います。》

、、、丹羽さんにとっての教養というのは二つある、
と彼は行っています。
1.自分が知らないと言うことを知っていること。
2.相手の立場に立ってものごとが考えられること。
この二つだと。

先ほどの「無知の知」に加えて、
もう一つの要素が加わりました。
「相手の立場に立ってものごとが考えられること」。

そうです。

英語に「他人の靴を履いて考える」という慣用句がありますが、
読書は、「他人の靴を履いて考える」行為そのものです。
様々な優れた小説を読むとき、
自分とは違う時代に生き、
自分とは違う国に生まれ、
自分とは違う家庭環境で育った誰かになりきって、
それを「追体験」することができます。
そうすることで「想像力」が養われるのです。

人間は一度しか人生を生きられませんから、
体験することで学べることの射程範囲には限界があります。
しかし読書はその限界を超えて、
私たちに追体験によって学ばせてくれるのです。

私の好きな養老孟司も同じ事を言っています。
彼はこう言いました。
「教養とは、人の気持ちが分かること」と。

東野幸治の
「勉強するのは戦争せんためや」
という言葉にもつながりますね。


▼▼▼情報と知識の違い▼▼▼

丹羽さんは続けます。
読書するのは情報を知識に変えるためだ、と。
情報は、「思考」を経ると知識に変わります。
引用します。

→P28  
《同じ事でも、本を通して知ることと、
ネットを通して知ることとは違います。
たとえば、新大陸を発見した
クリストファー・コロンブスについて
ネットで数行で紹介されているものに目を通すとのと、
コロンブス個人や大航海の背景にある当時の
ヨーロッパの地政学について記述した関連書物を読むのとでは、
同じ「知る」でも、その意味合いがかなり違います。
ネットで検索すれば、簡単に知ることは出来ます。
しかし、そこで得られるのは単なる情報に過ぎません。
細切れの断片的な情報をいくらたくさん持っていても、
それは知識とは呼べません。
なぜなら情報は「考える」作業を経ないと、知識にならないからです。
考えることによって、さまざまな情報が有機的に結合し、知識になるのです。
読書で得たものが知識になるのは、
本を読む行為が往々にして「考える」ことを伴うものだからです。》

、、、ネットで調べて「知っている」のは情報です。
しかし本で読んで「知っている」のは知識です。
二つは天と地ほども違いますが、違いはそこに「思考」や、
読書を介してなされる「著者との対話」があるかどうかです。

現代の情報技術は、
別に何かを「勉強」しなくても、
Google検索によって「正解」を導き出せる世界を実現しました。

だから勉強しなくていいや、
というのは短絡というものです。

そのような世の中で、
「正解主義」に陥っている多くの人々を見ると、
私はとても心配になります。
つまり「あらゆる物事には『正解』があり、
それはネットに載っているはずだ」
というような、恐ろしく薄っぺらな世界観です。

しかし、状況はそんなにシンプルではありません。
これは「市場の原理」「需要供給曲線」とも通じるのですが、
古今東西、どんな時代のどんな場所でも、
普遍的に成り立つ「原理」があります。
それは、
「過剰なものの価値は下がり、
 希少なものの価値は上がる」
ということです。

情報化社会によって、
「正解」は供給過剰です。
「正解を導き出すこと」は、
文字通り「サルでもできる」ことになった。

そんな時代にGoogle検索して、
「いや、検索したんだけど、
正しいのはこっちだよ(ドヤ顔)」
みたいな人種は掃いて捨てられるわけです。
供給過剰だから。

では、希少なものとは何か?

それは「正解」ではなく「良い問い」です。
「良い問いを発することの出来る人」が、
今の時代には希少です。
そのような人の価値はこれからうなぎ登りに上がっていくでしょう。
「良い問いを発すること」というのは、
「良い思考を出来ること」と同義です。
そして、「良い思考の燃料」を得る最も効率の良い手段は、
この世で読書を置いて私は他に知りません。



▼▼▼「心のシワ」の非対称性▼▼▼

著者が紹介している、
「心のシワ」という概念が気に入ったので、
引用してご紹介します。

→P147〜148 
《仕事や人とのつきあいの中で体験したことが、
記憶にある言葉と結びつき、
初めて「こういうことか」と腑に落ちることもあります。
それまでは単なる知識に過ぎなかった言葉は
そこで知恵に変わり、心のシワになるのです。
その反対に、体験していたことで言葉になっていなかったものが、
本で出会った言葉でそういうことだったのか、
と形を与えられることもあります。
すなわち、本で出会う言葉と体験は互いにキャッチボールをしながら、
その人の人生を作っていくのだと思います。
つまり本で読み、心に刻まれた内容は、必ず生き方に表れる。
そうなるためには、心に響く言葉は反芻してじっくり味わい、
さまざまな体験について、
それを洞察する視線を常に持っていないといけません。

心にシワが多い人は、人と向き合ったとき、
相手の心のシワがどのくらいあるのかが分かります。
反対にシワが少ない人は、
たとえ相手がたくさんのシワを持っていても、
それを感じることが出来ません。
 (中略)
やはりたくさんの経験を積んで、たくさんの本を読む。
時間をかけてシワをたくさんつくってきた人は、
シワの数だけ、より深い人生を生きられる。
そうやって心のシワを増やすことは
何物にも代えがたい喜びだと思います。》

、、、「心のシワ」という言葉で、
著者は情報→知識→教養という風に、
たんなる知識が体験知、経験知と織り合わさり、
そして教養とか見識と呼ばれるものとなって、
人の人生に刻み込まれていく様子を表現しています。

私が共感したのは、
「シワの多い人」は、
「シワの少ない人と多い人」を見分けられるが、
「シワの少ない人」は、
「シワの多い人」が目の前にいても、
それと気づかない、という非対称性です。

「バガボンド」でも「ドラゴンボール」でも良いのですが、
自分自身が「強い者」となった宮本武蔵や孫悟空は、
目の前にいる達人が、
たとえ普通のおじさんのような風体をしていても、
「この人は達人だ」と悟ります。
目の前にいる凡人が、
たとえ剣豪のような風体をしていても、
「この人は素人だ」と悟ります。
それは立ち姿や筋肉の付き方、
視線の動かし方や身にまとう「気」のようなものを、
これまでの人生経験から総合判断した結果、
「この人はおじさんに見えるけど達人」
「この人は剣豪のコスプレをしてるけど素人」
と区別することが出来るのです。

しかしマジックミラーのように非対称に、
素人は目の前に宮本武蔵がいたとしても、
それが達人とは気づきません。

教養においても同じです。
教養のある人は、数分間話せば、
相手が教養のある人かどうかが判断できます。
相手がサブカルやお笑いの話をしていても、
「この人は教養がある」と見抜けるし、
相手が「サルトルの実存主義が・・・」と、
背伸びした専門用語を連発していても、
「この人は教養がない」と見抜けます。

逆は起きません。

教養のない人は、
目の前にいて会話しているのが、
たとえソクラテスであっても、
その人を普通のおじさんとしか判別できないでしょう。
「心のシワ」の概念は、
「ジョハリの窓」と呼ばれる、
相互認知の非対称性にも通ずる面白い概念です。
 


▼▼▼空気を読むか?本を読むか?▼▼▼

最後に著者は、
現代日本における過剰な空気の読み合い(忖度の過剰)が、
社会全体を弱くしていると指摘します。
そして「空気を読まずに済むには、
読書によって自分の中に芯が通っている必要がある」
と指摘します。

つまり、
「本を読んで自分の確たる哲学を形成するか、
 さもなくば空気を読むことで一生を終えるか?」
ということです。
「本を読むか、それとも空気を読むか」
この二択が目の前にあるのです。
私は前者を選びたいです。

→P180〜181 
《いつも周りの空気を読んで付和雷同する人は、
自分の軸を持っていないからそうするのでしょう。
幅広くいろいろな本を日頃から読み、
仕事と真剣に向き合っている人は、
自分の考えや信念を持っているから、
安易に空気に流されるようなことはないはずです。
読書は心を自由にしてくれます。
読書によって自分の考えが練られ、軸ができれば、
空気を中心に思考したり、
行動したりすることはなくなるはずです。
世間の常識や空気に囚われない。
真の自由を読書はもたらすのです。》

、、、最初の大学生の質問への著者の答えは、
ですから「読書は人を自由にする」からだ、
ということになるでしょう。

イエスが言われた、
「真理は人を自由にする」の言い換えです。

「自由」を体験したことのない人は、
「自分が不自由である」ということにも無自覚ですから、
かの大学生は「そんなものいらない」と言うかもしれません。
「僕は今のままで十分満ち足りているから」と。
言い換えれば、
「僕は知るべき事を知っている」ということです。
現代の「正解主義」の底知れぬ傲慢がここにあります。

「マトリックス」という映画に、
「赤いカプセルと青いカプセル」が出てきます。
赤いカプセルを飲むと、
仮想現実から目を覚まし現実の戦いが始まります。
青いカプセルを飲めば、
もういちど夢の中に戻り、
仮想現実の中で一生を終えます。

▼参考画像:マトリックスのカプセル
https://goo.gl/JLyGBm

読書は「赤いカプセル」です。
最初の大学生の質問というのは、
「赤いカプセルと青いカプセル、
 どちらを飲むべきでしょう?
 赤いのを飲むのは嫌ですが、
 それは駄目でしょうか?」
という質問に置き換え可能です。

それを知った上で、
「ずっと寝ていたい」という人は、
どうぞ青いカプセルを飲んだら良い、
と私は個人的には思います。

自分は絶対に嫌ですが。

厳しいけれど本当の現実を選んだ、
かのマトリックスの主人公と同じく、
そんなの「本当に生きている」と、
言えないとすら思いますから。




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陣内が先週読んだ本 2018年1月第三週 『より少ない生き方』ジョシュア・ベッカー 他8冊

2018.07.11 Wednesday

+++vol.048 2018年1月23日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■4 陣内が先週読んだ本 
期間:2018年1月第三週 1月14日〜20日
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

先週私が読んだ本(読み終わった本)を紹介していきます。
一週間に一冊も本を読まない、
ということは、病気で文字が読めなかった数ヶ月を除くと、
ここ数年あまり記憶にないですから、
このコーナーは、当メルマガの
レギュラーコーナー的にしていきたいと思っています。
何も読まなかった、という週は、、、
まぁ、そのとき考えます笑。

ただ紹介するのも面白みがないので、
twitterに準じて、
140文字で「ブリーフィング」します。
「超要約」ですね。
(どうしても140字を超えちゃうこともあります。
 140文字はあくまで「努力目標」と捉えてください笑。)

忙しい皆さんになり代わって、
私が読んだ本の内容を圧縮して紹介できればと思います。
ここで紹介した本や著者、テーマなどについて、
Q&Aコーナーにて質問くださったりしたら、
とても嬉しいです。


●アーティストのためのハンドブック

読了した日:2018年1月14日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:ディヴィッド・ベイルズ、テッド・オーランド
出版年:2011年
出版社:フィルムアート社

リンク:
http://amzn.asia/a8FXD8V

▼140文字ブリーフィング:

この本は、アメリカでロングセラーになった、
「古典的なハンドブック」だそうです。
アーティストというのは右脳優位の人が多いので、
ロジカル(論理的)な話が展開されるわけではないのですが、
その分心にひっかかりを覚えるフレーズが散見され、
そっと背中を押されたような気持ちになります。

訳者後書きには、この本が出来た背景が説明されています。
この本の著者の二人は副業をしながら写真家として活動し、
アーティストのコミュニティのなかで、
お互いの不安や製作状況を分かち合い、
そして「明日も食えるか」という話をしながら、
アーティストであり続けるとは何かというテーマについて
共同執筆したそうです。
その生身を削ったような言葉だからこそ、
多くの人に届いたのでしょう。

この本はミュージシャンや画家という意味のアーティストのみならず、
すべての「自分で自分の仕事を創り出す創造的な人々」へのエールです。
私も「自分の仕事を自分で創り出す」業種ですから、
「あー、分かる分かる」と感じる部分は多かったです。

いくつか引用します。

→P208 
《最終的に、すべては次のことに帰結します。
あなたには選択肢が与えられています。
より正確には、それは複雑に絡まり合った選択肢です。
自分の仕事に全力を打ち込んだとしても幸せになれないか、
あるいは全力を打ち込まないために
幸せになれないことが約束されているか、その二つなのです。
つまり不確実性をとるか、確実性をとるかの選択肢です。
興味深いことに、不確実性を選択することは、心地よいことなのです。》

、、、アーティストとして生きるというのは、
「不確実性」に留まることです。
不確実性に耐えられない人は、
「アーティストであり続ける」ことは出来ません。

その中で大切なのは、
「不確実性」の中に身を置きつつ、
バランスを取るようにして、
「自分のルーティーン」を見つけ出すことです。
私も10年をかけて、これを自分なりに作ってきました。
やっと、人様に紹介できるようなルーティーンが、
自分の中で固まってきたわけです。

組織で働く人は、
「外部」に構造があります。
それに対してアーティストなどの、
クリエイティブな仕事をするフリーランサーは、
「外部」に構造がありません。
だから自分の内部に構造を作らなければならない。
外側の殻が形を保つ甲殻類と、
内側の骨格が形を保つほ乳類の違いですね。

繰り返しますが市役所職員という
「甲殻類の中身」だった私が、
その殻を出てからこの「骨」を作るまでに、
10年間かかりました。

フリーランスというのは、
まったく「お気軽」ではありません。
「お気軽」でもいいけど、
そういう人は淘汰されるだけですから。
これがサラリーマンと違うところです。
私はトップユーチューバーのヒカキンを、
心から尊敬しています。

組織の中にいる人にはあまり理解できないのですが、
彼がイチローにも劣らぬ克己の人だというのは、
フリーランサーならだれでも分かります。

→P115〜116 
《最初の一筆を真新しいキャンバスに描き始めるための工夫があるのであれば、
それはどんなものであっても実践する価値があります。
 時間はかかりますが、作品制作をする人だけが、
制作にじっくり向き合うことによって、
このような小さな習慣や儀式が
どれほど大切なことかを知る機会に恵まれます。
観客は作品を制作する際の詳しい過程などに関心がないかもしれません。
それは多くの場合、教師にとっても同じです。
なぜなら、その詳細が見えないからです。
あるいは知ることが出来たとしても、
仕上がった制作物を吟味することからかけ離れているからです。
作家のヘミングウェイは、タイプライターをカウンターの高さにおいて、
立ったままの状態ですべての原稿を書いていたそうです。
もちろんこの奇妙な習慣は、彼の作品の中に見つけることは出来ません。
しかしこの習慣が否定されてしまっていたら、
たぶんヘミングウェイの物語は
この世に一編も存在していなかったでしょう。》
(1,600文字)



●宗教的経験の諸相 上

読了した日:2018年1月14日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:ウィリアム・ジェームズ
出版年:1969年
出版社:岩波書店

リンク:
http://amzn.asia/cCMXUr2

▼140文字ブリーフィング:

心理学者のウィリアム・ジェームズのこの著作は、
「古典」のひとつに数えられます。
私はいろんな本で引用されていたこの本を、
いつか読みたいなぁと思い続けて約3年、
やっと手に取りました。
決め手は神谷美恵子が引用していた、
彼の「二度生まれの人」という概念について、
もっと知りたいと思ったからです。
引用します。

→P251〜252 
《その(前回の講義の)終わりのところで、
私達は二つの人生観の対照を完全に看取するに至った。
一つは私達が「健全な心」の人生観と呼ぶものであって、
それは幸福になるためにただ一回の誕生だけで足りる人間に特有なものであり、
もう一つは「病める魂」の人生観であって、
幸福になるためには二回の生誕を必要とする人間に特有なものである。
その結果として、私達の経験の世界について
二つの違った考え方が生じてくる。
一度生まれの人の宗教では、世界は一種の直線的なもの、
あるいは一階建てのものであって、その勘定は一つの単位で行われ、
その部分部分はきっかりそれらが
自然に持っているように見えるだけの価値を持っており、
単に代数的にプラスとマイナスとを合計するだけで
価値の総和が出てくると言ったようなものである。
幸福と宗教的平安とは、
その差引勘定のプラスの側で生活するところにある。

これに反して、二度生まれのものの宗教にあっては、
世界は二階建ての神秘である。
平安は、ただプラスのものを加え、
マイナスのものを生活から消去するだけでは達せられない。
自然的な善は、ただ量的に不十分で移ろいやすいと言うばかりではなく、
その存在自体の中に、ある虚偽が潜んでいるのである。
自然的な善はすべて、たとい死の前に現れる
いろいろな敵によって抹殺されることがなくても、
結局は死によって抹殺されてしまうのであるから、
最後の差し引きで残高ができることなどないし、
私達の永久的な崇拝を受けるべきものでは決してあり得ない。
むしろ、それは私達を私達の真の善から遠ざけるもので、
そのような自然的な善を放棄し、それに絶望することこそ、
私達が真理の方向へ向かって踏み出すべき第一歩なのである。

要するに、
自然的な生命と霊的な生命との二つの生命があるのであって、
私達はその一つに預かりうるためには、
まず他方を失わなければならない。》

、、、ここでジェームズが、
「二度生まれ」とか、
「世界が二階建てであるような人」というのは、
宗教的な、あるいは哲学的なセンスを持ち合わせた人間のことです。
タイプA(一度生まれ)の人間にとって世界はシンプルです。
幸せとは「良い出来事」−「悪い出来事」という世界です。
タイプB(二度生まれ)の人間にはもっと複雑で、
悪い出来事が必ずしも不幸ではないし、
良い出来事が必ずしも幸福ではない、と考える。
物事の向こう側にあるもう一層深い「真相」を、
彼らはいつも捉えようとする。

タイプBの人は得てして、
「一度この世に生まれた後、
 二度目の誕生をする」というような、
実存的な生まれ変わり体験をする、
とジェームズは指摘しています。

歴史の中でその代表例として、
「天路歴程」の著者のジャン・バニヤン、
それからひどいうつ病を患ったトルストイを挙げています。

→P284〜285 
《バニヤンは福音の使者になった。
そして彼が神経病的な素質の持ち主であったにもかかわらず、
また、彼が国境を信じないという理由から
12年間も獄中で過ごさねばならなかったにもかかわらず、
彼はきわめて活動的な生涯を送った。
彼は平和ならしむる人であり、善を行う人であった。
そして彼の書いた不朽の寓意物語は
イギリス人の心に宗教的忍耐の精神をしみじみ浸透させたのであった。

しかし、バニヤンもトルストイも、
私達が「健全な心」と呼んだようなものにはなれなかった。
彼らは苦い酒杯をあまりにもしたたか飲んでしまったので、
その味を忘れ去ることが出来なかった。
そして彼らの贖いは二階建ての宇宙へ入っていくことであった。
二人はそれぞれその悲しみの鋭い刃をなまらせるような善を実現した。
けれどもその悲しみは、それを克服した信仰の心の中に
一つの小さな要素として保存されていた。

私達にとって重要なことは、事実において、
彼らが、彼らをしてそういう極度の悲しみを
克服させることの出来たようななにものかが
彼らの意識の内部にわき出ているのを見つけることが出来たし、
また見つけた、ということである。

トルストイがそれを
「人々がそれによって生きるところのもの」と言っているのは正しい。
なぜなら、それはまさしくそのとおりだからである。
それは一つの刺激であり、興奮であり、信仰であり、
以前には人生を耐えがたいものと思わしめたような悪が
眼前に充満していることが認められるにもかかわらず、
生きようとする積極的な意欲を再び注入する力なのである。

トルストイが悪を認める態度は、その範囲内では、
変わることなく残っていたように思われる。
彼の晩年の著作は、彼が公定の全価値体系と
あくまでも和解しなかったことを示している。
つまり、上流社会の生活の下劣さ、統治者の破廉恥な行為、
教会の偽善、役人の空威張り、大成功につきものの卑劣で残酷な行動、
そのほか、この世間の華やかな犯罪と偽りの制度、
これらのものと彼は和解しなかった。
すべてこのようなことを許容することは、
彼の体験によれば、自らを永遠に死の手に委ねることであった。》

、、、二度生まれの人はしばしば、
歴史に残るような著作を記したり、
歴史を変えるような偉業をなしたりします。
アブラハム・リンカーン大統領は、
生涯にわたり重いうつ病を患った、
「二度生まれ」の典型のような人ですが、
彼の葛藤は人類を一歩前に進めました。
本人たちは本当にたいへんですが、
世界の発展は「二度生まれ」の人々に、
多くを負っています。
(2,344文字)



●人間の本性を考える 心は「空白の石版」か (下)

読了した日:2018年1月14日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:スティーブン・ピンカー
出版年:2004年
出版社:NHKブックス

リンク:
http://amzn.asia/fiZlc4q

▼140文字ブリーフィング:

上・中・下巻からなる大作です。
全部で1,000ページぐらいありました。

「生まれか育ちか(nature or nurture)論争」において、
「ブランクスレート仮説」とよばれる、
「育ちがすべてだ。遺伝子の影響は小さい。」
という人気のある仮説への著者の反論です。

私は著者の遺伝子決定論的な立場と、
ブランクステート説の「心は空白の石版」説、
どちらに立つかと言われれば、
真ん中ぐらいかなと自分では思います。
心は空白の石版、は言い過ぎだし、
すべては遺伝子によって決定されているとも思いません。
(*著者がそういっているわけではありません。
 著者は環境要因もあると言っていますが、
 それでも私は著者が言う以上に「環境も重要」だと思います。)

いずれにせよ、
ブランクスレート説に立つ人の「逆説的な盲点」を、
著者はたくさん指摘していて、それは納得しました。
前提が違うと教育の方向は逆になります。
「暴力は学ばれるもの」ならば、
暴力をテレビで見せなければ自動的に平和な子どもになる、
という教育方針になります。
しかし、(特に男の子は)「生まれつき暴力的だ」
という前提に立つならば、
「暴力はいけませんよ」と教えなければ、
自動的に暴力的な子どもになる、ということになります。
私は自分の経験からも、後者を支持します。
小学生低学年のときなどは、
理由もなく無性に弟を殴りたくなるときがあります。
そのとき「いや、殴られたら痛いもんな」
と思うのは、親が苦労してそれを教えてくれたからです。

子どもに将来刑務所に入ってもらいたくなければ、
「仮面ライダー」を禁止するだけでは十分ではなく、
「暴力を振るうことで自分と他人にどんな悪いことが起きるか」
を教育する必要があるのです。

聖書は別の言葉でこれを表現しています。
そう。「人間は生まれながらに罪人だ」と。
東洋ではこれを「性悪説」と言います。

→P71 
《それに子どもは、戦争ごっこのおもちゃや
文化のステレオタイプの影響を受け始めるずっと前から暴力的である。
もっとも暴力的なのは、青春時代ではなくよちよち歩きの頃なのだ。
近年の大規模な研究によれば、
2歳を過ぎたばかりの子どものうち、
叩いたり噛みついたり蹴ったりする子どもは、
男児で半分近くもおり、女児もそれをわずかに下回るだけである。
つまりこの著者が指摘しているとおり、
「赤ん坊が殺しあいをしないのは、
私たちがナイフや銃を使う機会を与えないからだ。
私たちは過去30年間、
子どもはいかにして攻撃することを学ぶのかという問いに
答えを出そうとしてきた。
しかし、その設問は間違っていた。
正しいのは、子どもはいかにして攻撃しないことを学ぶのかという設問だ。」
という状況なのである。》

さらに著者は、多くの教育学者から、
石を投げつけられるようなこんな発言をします。
「子育ては子どもに影響しない」。

マジか?

先ほども言ったように、
私は彼を全面的に支持するわけではありません。
教育は大切だと思います。
しかし、「育って欲しいと思ったように子どもは育たない」
という意見には同意します。

これは私が「生物系」だからこう考えるのだと思います。
この「ああすればこうなる」という子育て論は、
多分に「エンジニアリング(工学)」の考え方に近いです。
しかし人間は機械や装置ではなく、生物なのです。
生物と装置の一番の違いは、
「複雑系かどうか」です。
複雑系は「インプットに対するアウトプットが読めない」
というところに、一番の特徴があります。
「ああしたのにこうならない」
のが複雑系であり、そして何度も言いますが、
子どもは複雑系なのです。

「子どもを優秀にするアルゴリズムなどない」
と著者は言います。
私もまったく同じ意見です。
じゃあ、子育てには意味がないのか?

あるに決まってるじゃないですか。
二度と戻ってこない子どもとの時間を、
神に感謝しながら過ごす。
これ以上の「意味」があるでしょうか?
著者もそこを指摘しています。

→P225 
《ハリスは、親が子どもの人格を形成できるという信念が
どれほど歴史の浅い偏狭な考え方であるかを指摘して、
1950年代にインドの僻地の村に住んでいたある女性のことばを引用している。
子どもにどんな人間になってもらいたいと思っているかと聞かれた彼女は、
肩をすくめて「それはこの子の運命で、
私が望むことではありません」と答えたのである。

だれもがこのように運命や、あるいは遺伝子や仲間といった
親のコントロールの及ばないそのほかの力を受け入れているわけではない。
「これが本当ではないことを神に祈っています」と、
ある母親は『シカゴトリビューン』紙に語った。
「子どもに注ぎ込んでいるこの愛情がすべて無意味だなんて、
恐ろしくてとても考えられません。」
人間の本性に関するそのほかの発見についてと同様に、
本当ではありませんようにと人々は神に願う。
しかし真理は私達の願いなどは気にかけない。
そうした願いを解放的な方法で再び取り上げることを余儀なくさせる。

たしかに、子どもを幸福な成功する人間に育てるための
アルゴリズムがないというのは、残念なことである。
しかし私達は本当に、子どもの特性を先に決めてしまいたいと願い、
それぞれの子どもが世界にもたらす予測できない天分や奇抜さに
喜びを感じないのだろうか?
人々は人間のクローンや、遺伝子操作によって
親が子どもをデザインできるようになるかもしれないという
怪しげな見通しにぞっとするような驚きを感じる。
しかしそれは、親の育て方によって
子どもをデザインできるという夢想といったいどれだけ違うのだろうか?

たぶん現実的な親のほうが、
あれこれと気に病む親にならなくて済むだろう。
そういう親は、たえず子どもに刺激を与え、社会化し、
性格を改善しようと試みないで、
子どもと過ごす時間を楽しむことが出来る。
子どもの脳細胞に良いという理由からではなく、
楽しんで本を読み聞かせることが出来る。》

、、「子どもの脳細胞に良いと言う理由からではなく、
楽しんで本を読み聞かせすることが出来る。」
良い言葉です。

「この子の将来のためにぃぃぃいぃ!!」
という「力んだ親」が世の中にたくさんいますが、
自分が子どもだったら思いますもん。
「重いっす!」

私は、将来秀才になって欲しいからではなく、
今楽しいから一緒にジャングルジムで遊ぶ親でありたいです。
(2,568文字)



●アメリカのデモクラシー 第一巻(下)

2018年1月14日読了
読んだ方法:図書館で借りる

著者:トクヴィル
出版年:1835年
出版社:岩波文庫

リンク:
http://amzn.asia/cY4FQRE

▼140文字ブリーフィング:

もうこれは、「古典中の古典」ですね。
あり得ないぐらい、めちゃくちゃ引用されています。
「またトクヴィルかよ!」と思った時期があります。

なぜ本書がこれほど引用されるかというと、
これが非常に珍しく詳細な「一次資料」だからです。
1800年代、まだアメリカの人口が1,200万人だったとき、
フランス人のトクヴィルはアメリカを旅して、
その「見聞録」を記しました。

そしてこの「新大陸(アメリカ)」は、
旧大陸(ヨーロッパ)と、何が違うのかと言うことを、
彼は克明に書き記したのです。
当時のアメリカは今のような「超大国」ではありません。
世界のスーパーパワーは大英帝国であって、
アメリカやロシアではありませんでした。
しかしトクヴィルは、100年後、
世界はアメリカとロシアが二分するだろう、と「予言」します。
それは見事に的中します。

日本人論の名著ならルース・ベネディクトの「菊と刀」であるように、
アメリカ論の古典はフランス人トクヴィルの「アメリカのデモクラシー」です。
そして、トクヴィルの観察眼には本当に舌を巻きます。
彼が、100年後の東西冷戦を「予言」した箇所を抜粋します。

→P418〜419 
《今日、地球上に、異なる点から出発しながら
同じゴールを目指して進んでいるように見える二大国民がある。
それはロシア人とイギリス系アメリカ人である。
どちらも人の知らぬ間に大きくなった。
人々の目が他に注がれているうちに、
突如として第一級の国家の列に加わり、
世界はほぼ同じ時期に両者の誕生と大きさを認識した。

他のあらゆる国民は既に自然の引いた限界にほぼ達しており、
あとは守るだけであるが、両者は成長の途上にある。
他のあらゆる国民は引き留められ、
多大の努力を払わなければ前に進めないが、
両者だけは軽やかにして速やかな足取りで行くべき道を歩き、
その道がどこで終わるのか、いまだに目に見えない。

アメリカ人は自然が置いた障害と闘い、ロシア人は人間と戦う。
一方は荒野と野蛮に挑み、他方はあらゆる武器を備えた文明と争う。
それゆえ、アメリカ人の征服は農夫の鋤でなされ、
ロシア人のそれは兵士の剣で行われる。

目的の達成のために、前者は私人の利害に訴え、
個人が力を揮(ふる)い、理性を働かせるのに任せ、命令はしない。
後者は、いわば社会の全権を一人の男に集中させる。
一方の主な行動手段は自由であり、他方のそれは隷従である。
両者の出発点は異なり、たどる道筋も分かれる。
にもかかわらず、どちらも神の隠された計画に召されて、
いつの日か世界の半分の運命を手中に収めることになるように思われる。》
(1,063文字)



●アインシュタイン その生涯と宇宙 上

読了した日:2018年1月17日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:ウォルター・アイザックソン
出版年:2011年
出版社:ランダムハウスジャパン

リンク:
http://amzn.asia/7S95mh2

▼140文字ブリーフィング:

去年読んだ伝記、「スティーブ・ジョブズ」が面白すぎて、
その著者、ウォルター・アイザックソンの書いた、
そのほかの伝記も読んでみたくなりました。

私はアインシュタインにミーハー的関心を寄せる「ファン」です。
小学生のころから「漫画で分かる相対性理論」とか、
児童用のアインシュタインの伝記を読むなど、
アインシュタインに並々ならぬ関心を寄せていました。
今、私がパジャマにしているスウェットのプリントは、
アインシュタインです。

、、、で、ウォルター・アイザックソンが、
アインシュタインの伝記を書いているというのを知り、
「これは読まねば」と思って手に取りました。

「天才」の定義は様々ですが、
私の「天才」の定義は「論理を飛び越えること」です。
天才は直観的に何が正しいかを捉えるので、
一見、論理に飛躍があるように見えます。

私はちなみに、天才ではありません。
(言うまでもありませんが笑)
私は抽象思考は得意で、
論理を緻密に組み立てていくことは得意ですが、
飛躍することは苦手ですから。
ある人の論理が飛躍している場合、
99%は「ただのバカ」なのですが、
1%は「天才」です。
前者と後者の見分け方は簡単です。
前者はそもそも論理が分かっていないから、
無自覚に飛躍し論理が破綻しているだけですが、
後者は「破綻しない論理」を自在に操った上で、
なおかつ「意識的に飛躍」できています。

アインシュタインは、
自分が意識的に飛躍している、
ということそれ自体にも意識的な、
「天才のなかの天才」でした。
それを彼は「帰納より演繹が大事」と、
自分で表現しています。

→P187〜188 
《実際1905年の三編の画期的な論文において、
演繹的アプローチを取る意図を始めに述べている。
彼は説明の付かない実験結果ではなく、
さまざまな理論がもたらす矛盾を指摘する所から論文を書き始めている。
それから実験データの役割を過小評価しつつ基本原理を持ち出している。
ブラウン運動の理論も、黒体放射の理論も、光速に関しても同じ事である。

『物理学における帰納と演繹』という1919年の本の中で
彼は後者のアプローチ、つまり演繹法の方を好むことを述べている。
「経験科学の創造について最も簡単な描像は
一連の帰納的手法である。ここの事実が結ばれ、
まとめられ、それらをつなぐ法則が明らかになる。
・・・しかしこのような方法で得られる大きな科学的知識の進歩は少ない。
・・・自然の理解における真に偉大な進歩は
帰納的手法とほとんど正反対の所にある。
事実の複雑な集大成から直感的に本質をつかみ出すことで
科学者は仮説的な法則を導き出す。
これらの法則から科学者は結論を引き出す。」》

、、、アインシュタインの相対性理論は、
実は「神学的なブレークスルー」でもありました。
もっと大胆な言葉を使えばそれは「神殺し」だった。

なぜか。

ニュートンの古典力学における、
「絶対空間・絶対時間」は、
神によって担保されている、とニュートンは言ったが、
アインシュタインはそれを「相対化」してしまったからです。
時間や空間さえも「ゆがむ」としたら、
もはや「神が書きたもうた」物理法則のなかに、
「絶対的な座標軸」は存在しないことになってしまう。
「聖なる天蓋」を突き崩し、転覆させ、
古典的な世界観に依って立っていた宗教観を、
がらがらと音を立てて崩れさせた原因は、
ひとつはダーウィンの「種の起源」、
そしてアインシュタインの「相対性理論」だったのです。

→P197 
《絶対時間の概念――「実際に」存在して、
測定とは同時に時を刻むという意味での時間――は、
ニュートンが216年前に著書『プリンキピア』で仮定して以来、
物理学の支えであった。
同じ事は絶対空間と距離に関しても言える。
「絶対的な真の数学的な時間は、他の何者にもよらず、
それ自体それ自身の性質として、一様に流れる。」
とニュートンが『プリンキピア』の第一巻で書いていることは有名だ。
「絶対空間は、他の何者にもよらず、
それ自身の性質として常に同一であり動かない。」

しかしこれらの概念が直接に観測できないことに、
ニュートンでさえ不満であった。
「絶対時間は理解の対象ではない」と彼は認めている。
このジレンマから逃れるのに彼は神の存在に頼った。
「神は永遠にどこにでも存在して、
時間の経過と空間を定める。」》

、、、神の支配する時間と空間が、絶対ではない?
では、「神の居場所」はどこにもないのか?

ないはずがないじゃないですか。
神学はそんなにヤワなものではありません。

自分たちの古い世界観に引きこもり、
世間から隔絶され、明白な科学的知見を「否定」し、
物理学や生物学や社会学「批判」をくりかえす宗教者は、
「ヤワ」だなぁと私は個人的に思いますが。
(1,887文字)



●やさしいライオン

読了した日:2018年1月17日
読んだ方法:Amazonで書籍購入(中古)

著者:やなせたかし
出版年:1975年
出版社:フレーベル館

リンク:
http://amzn.asia/4AtIjsl

やなせたかしが初めて描いた絵本です。
犬に育てられたライオンの話。
悲しいけれど、心に残る話でした。
Amazonで古本を買いましたが、
裏表紙に「××さんへ、お世話になりました。
心をこめて云々、、、●●より」というメッセージが。

、、、売るなよ泣。
(120文字)



●知性の顛覆 日本人がバカになってしまう構造 

読了した日:2018年1月17日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:橋本治
出版年:2017年
出版社:朝日新聞出版

リンク:
http://amzn.asia/cvBDkPg

タイトルに期待して読みましたが、
正直、内容が散漫で、あまり面白くはありませんでした。
「不機嫌」と、「反知性主義」が結びついている、
という部分だけは、なるほど、と思いました。

→P206
《トランプ新大統領が主要メディアを「敵」と言ったり、
ワシントンの既成政治を「だめだ」と言っているのは、
その相手が、「複数の問題の整合性」を考えようとしているからで、
単純な多くの人と同じように「よく分からない複雑な問題」を
突きつけられた大統領が腹を立てて、
「そういうものはみんなナシ!」と言ってしまったのに等しい。
がしかし、「複雑な問題」は、やはり考えなければ答えがでないものだ。

もう一度「反知性主義」に戻ってしまえば、
「世の中には面倒なことを考えさせられると、
それだけで腹が立ってしまう人たちは多い」―――そのことが、
「反知性主義の高まり」なのだ。
私にはそうとしか思えない。
理性をはねつけてしまった不機嫌は強い。》
(398文字)



●より少ない生き方 ものを手放して豊かになる

読了した日:2018年1月17日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:ジョシュア・ベッカー
出版年:2016年
出版社:かんぎ出版

リンク:
http://amzn.asia/0XCfo6v

▼140文字ブリーフィング:

1年ぶりぐらいに「ミニマリズム本」を読みました。
あまり期待はしていませんでしたが、
これが思いの外面白かったのです。

それは、この著者が「牧師」だからです。
ミニマリズムって、「禅」とか「ニューエイジ」とか、
「スピリチュアル」となぜか相性が良いので、
キリスト教徒である私からすると、
「ここまでは共感できるけど、
 ここから先はついて行けない」
というラインがあるのですよね。

しかし、この著者は牧師なので、
「ミニマリズム」を「聖書的」に理解している。
「最後まで納得のいくミニマリズム論」として、
一押しの本です。

たとえば著者は、福音書に出てくる有名な、
「金持ちの青年」をミニマリズム的に解釈します。
引用します。

→P46〜48 
《前の章でも述べたように、私のミニマリズム哲学は、
イエスの教えから大きな影響を受けている。
とはいえ、ミニマリズムに興味を持つようになったおかげで、
前から知っていたイエスの教えを、
新しい角度から眺められるようになったのも事実だ。

このイエスと役人の物語は、その典型的な例だろう。
昔の私は、イエスと役人の物語を読むたびにこう考えた。
「自分の持ち物とお金をすべて上げてしまったら、
惨めな人生になるに決まっている。
イエスは本当にそういう意味で言ったのだろうか?」

持っているものの数で幸せを図るような世界で暮らしていると、
イエスの言葉はまるでピンとこない。
機嫌の良い日だったら、こんな風に考えて自分を納得させていたものだ。
「たぶん現世で物質欲を手放せば、
天国に行ったときに報われるのだろう。
きっとイエスは、そういう取引のことを言っていたのだ」

ところがこの理屈では、他のイエスの言葉とかみ合わなくなる。
たとえばイエスは、別のところで、
「私が来たのは、あなたが本物の人生を手に入れるためだ。
それは、あなたが夢に見たよりも豊かで素晴らしい人生だ。」
ということも言っている。

イエスの教えはいつだってそうだった。
天国に行ってからだけでなく、
この地球上での日常生活を最大限に生きる方法を説いている。

ミニマリスト生活を実際に始めて、
これまで紹介したような利点をすべて経験すると、
イエスがお金持ちの若い役人に投げかけた言葉が、
新しい意味を持つようになった。

イエスが本当に言いたかったのは、
「持ち物をすべて売り、そのお金を貧しい人に与えれば、
自分も不要な荷物から解放されるだろう」ということだったのだ。

ものに執着していると、
本当に豊かな人生からはむしろ遠ざかる。
ものを減らしなさい。
物質欲の重荷から解放されれば、
目指しているものには何でもなれるだろう。
これが、イエスの答えの本当の意味だ。

イエスの答えは、若い役人の信仰心を試しているのではない。
信仰が真実であることを証明するために、
究極の犠牲を払うことを求めているのでもない。
むしろ、より豊かな人生への招待状だったのだ。
あの若い役人は、自分の所有物のせいで、
真の意味では生きていなかったのだ。
このイエスの教えは、どんな宗教を信じる人にも共感できるだろう。》

、、、また、著者は牧師として、
ミニマリズム本に時々出てくる、
「人間関係も整理しましょう」という教えに、
疑義を呈しています。
引用します。

→P286〜289 
《ミニマリストの中には、
「自分の人生に利益をもたらさない人とはさよならしよう」
というアドバイスをする人がたくさんいる。
つまり、クローゼットや引き出しのガラクタだけでなく、
人間関係のガラクタも処分しようというのだ。
彼らの言いたいことは理解できるが、同意できるわけではない。
 (中略)
自分に利益のある関係だけを大切にするのなら、
それは愛ではない。利己主義だ。
 (中略)
ジョンの人生は平坦ではなかった。
親からは育児放棄され、ドラッグとアルコールの問題を抱え、
ホームレスになったこともある。自分の失敗のことも平気で話す。
彼が苦労をしたのは、もちろん育った環境も原因になっているが、
自業自得の面もあることは否定できない。
実際に会うときは、彼はいつもひげを剃らず、だらしない格好で現れる。
しかし、表情は明るく、今度こそ立ち直って神の道を進むと誓い、
参加している後世のための集まりについて話してくれる。
私はいつも、彼を応援している人がいることを伝え、
自分でもできる限り力になると約束する。
そして最後に、私はたいてい「来週もまた会えるかな」と言うのだが、
次に彼が連絡してくるのは数ヶ月後だ。

正直にいえば、ジョンとの関係で私が得るものは特にない。

ジョンから何らかのアドバイスがもらえるわけでもないし、
私が助けてもらえるような仕事をしていたり、
特技があったりするわけでもない。
有名人や偉い人の知り合いがいて、私に紹介してくれるわけでもない。
私のことは人として大切に思ってくれているのかもしれないが、
たとえそうだとしても、その気持ちを表現する方法は
少々変わっていると言わざるを得ないだろう。

それでも、彼がいつも与えているものが一つある。

それは、誰かを愛するチャンスだ。
それも、見返りを期待する愛ではなく、無条件の純粋な愛だ。
忍耐力、慈悲の心、責任、犠牲が必要な愛だ。
つまり、本物の愛ということだ。
ジョンとの関係は、私が本物の愛を示すチャンスだ。
彼がどこに行こうと、どんなに長い間音信不通でも、
いつでも待っていると伝えることが出来る。》

、、、メールをしても返信せず、
電話をしても出ず、人生がめちゃくちゃになったときだけ、
SOSの連絡をして「逢いたい」と言ってくる、
著者の友人の「ジョン」は、
他のミニマリストなら「処分ボックス行き」と言うでしょう。
しかし彼は言います。
「ジョンは、私に無条件で人を愛するチャンスをくれている」。

シビれますね。

さらに、彼は、ミニマリズムの最大の益は、
「より多くを与えられるようになること」と言います。
これは「こんまり先生」を含む、
多くのミニマリストがだれも、一言も言っていないことです。
彼らは「減らすことが自己目的化」していますが、
本書の著者は、「与えること」が目的です。
私はこちらのミニマリズムを支持します。
引用します。

→P302〜303 
《たしかに矛盾して聞こえるかもしれない。
それでも、本物の幸せと満足感を手に入れる一番の近道は、
自分の利益を追求することではなく、人のためになることだ。

ここで、人のために生きる道を選んだらどうなるのか考えてみよう。
まず、自由が増える。ストレスが減り、不安が減り、不満が減る。
満足感が大きくなり、生きている実感が持てる。
人のために生きていると、人と比べる必要がなくなる。
人の上に立ちたいという気持ちがなくなるので、肩の荷が下りる。
自分のしていることがよく分かっていて、
それが大切なことだということも知っている。
人生に満足し、目的意識を持って生きることが出来る。
 (中略)
あなたには大きな夢を持ってもらいたい。
そしてその夢から、大きな満足感を手に入れてもらいたい。
人のためになることがあなたの夢なら、それは実現するだろう。
インドの詩人のラビンドラナート・タゴールは、こんな言葉を残している。
「私は眠り、人生は喜びだという夢を見た。
私は目を覚まし、そして人生は他者に仕えることだと悟った。
私は実行し、そして目撃する。人に仕えることは喜びだった。」》
(2,957文字)



▼▼▼リコメンド本「今週の一冊」▼▼▼

陣内が過去一週間に読んだ本の中から、
「いちばんオススメだったのは?」という基準でリコメンドします。
「いちばん優れていた本」というよりも、
「いちばんインパクトの大きかった本」という選考基準です。
皆さんの書籍選びの参考にしていただけたら幸いです。


▼今週の一冊:より少ない生き方

コメント:
ほとんど期待せずに読んだ分、
カウンターで右フックを食らった感じです笑。
ミニマリズムやシンプルライフの本は
今まで結構たくさん読んで来ましたし、
それらに啓発され教えられてきました。
私もシンプルに生きたいと思っていますので、
真似できると思うことは真似してもきました。

しかし、そこに「何かが足りない」と感じてきた、
「何か」が何だったのかに、
この本は気づかせてくれました。

それは「与えること」「他者のために生きること」でした。
ミニマリズムという哲学に、
キリストの光を当ててくれた著者に、
感謝の意を表します。




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続・続・美術館で観た芸術作品

2018.07.11 Wednesday

+++vol.048 2018年1月23日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 オープニングトークのおこぼれ

オープニングトークがあまりに広がってしまった場合、
ここで「続き」を語ります。
延長戦、「おかわり」ですね。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼先週からの続き▼▼▼

先週急ごしらえで作った「新コーナー」、
「オープニングトークのおこぼれ」です。
それですら収まらなかったので、
「オープニングトークのおこぼれのおこぼれ」ですね笑。
、、、先週の質問は何だったかというと、これです。

▼質問:
「美術館などで観た芸術作品で、
 最も印象に残っているのは?」

オープニングトークで私は、
大原美術館の大原孫三郎について語りました。
彼はキリスト教徒で日本の「児童福祉の父」とも言われる、
石井十次の影響でクリスチャンになり、
自分がもうけたお金は、社会に還元せねばならない、
と気づきます。

その大原さんが後世に残したプレゼントのひとつが、
倉敷にある「大原美術館」です。
大原美術館は「西の大原、東のブリヂストン」と言われ、
長いこと日本の二大美術館に数えられるまでになりました。

また彼は、教育機関なども創立していますから、
まさに内村鑑三の「後世への最大遺物」のうち、
「財産・事業・思想・教育・そして高潔な人生」という、
5つのすべてを遺した「偉人」です。

でも、あんまり大原孫三郎のことを知ってる人って、
いないのですよね。
岡山県民以外で。

なぜだろう?

もっと知られてもいい人なのに。
財を社会に還元した篤志家という意味では、
日本のアンドリュー・カーネギー、
日本のロックフェラーなのに。

文字数が足りなくなったので、
さらに私は「おこぼれ」のコーナーをもうけ、
そこで、井上雄彦の「最後のマンガ展」について語りました。
大阪の「最後のマンガ展」で観た「宮本武蔵」に、
私は圧倒された、という話をしたのです。

ここでさらに文字数オーバー。
よって、来週に持ち越し、
というわけで、
最後の「印象に残っている美術品」を、
今日はご紹介いたします。



▼▼▼インドのREFLECTIONアートギャラリー▼▼▼

あれは2008年のこと、
今から10年前の話です。
私は暑い暑いインドにいました。
2ヶ月間を首都のデリーで、
2ヶ月間をバラナシから車で2時間の田舎で過ごしました。

インドではトイレットペーパーを使うという習慣がないので、
コンクリで固められたトイレの脇を這うムカデを見ながら、
トイレの穴の横に置いてあるプラスティックの手酌に入っている水に、
「不浄の手」である左手をつけ、
その手ですくった水でおしりを「えいやっ」と拭いたときには、
なんていうんだろう、
世界が違って見えましたね。

それはもう、世界で最も高いバンジージャンプを飛んだ人や、
日本で最も高級な寿司を食べた人や、
一番チケットが取りにくいブロードウェイのミュージカルを観た人や、
エベレストやモンブランを踏破した人と同じで、
自分が英雄になった気がしました。

素手でおしりを拭くと、
人生は変わります。
「世界は広い」というのは、
DVD「世界遺産」を家で1,000時間観ても分かりません。

素手でおしりを拭いたとき、
人は思うのです。
「世界は広い」と。

そして、こうも思います。
「俺は、俺を超えていける」と笑。



▼▼▼ステファン・エイカー氏との出会い▼▼▼

そんなインド滞在中に、
私は生涯忘れることの出来ない様々な人に出会い、
生涯忘れることの出来ない様々な体験をしました。

デリーでは、
今FVIで私がしているような働きを、
インドでしているラージさん、
自閉症の子どもを持ち、
自閉症の子どもたちのための学校を開校した、
ラージさんの奥さんのギタさん、
デリーで包括的宣教の様々な取り組みをしている、
サンジブ牧師、
今もFVIで関わりを持ち続けている、
不可触民(ダリット)出身のラムスラットさんらに会いました。

また、サンジブ牧師に誘われ、
政府の建物の前でデモ行進にも参加しました。
オリッサ州というところで、
ヒンズー過激派による教会の焼き討ちや襲撃事件が多発し、
それに対する抗議を行うために。

逮捕されなくて良かったです。
強制送還は嫌ですから。
その後海外渡航しづらくなるし。

そんなデリー滞在中に、
非常に印象的な働きをしている、
ステファン・エイカーという方にも私は出会いました。
この人です。

▼参考画像:ステファン・エイカー氏(左から二番目)
https://goo.gl/HNwwUf

彼のお父さんはドイツ系の宣教師ですから、
彼は宣教師二世です。
彼もまた宣教師なのですが、
彼の働きは非常にユニークです。

彼は宣教師であると同時に、
アーティストでもあります。
アーティストというのは、
「そう生まれついた」人が一定数います。
それらの人々は、アートを職業にしようがしまいが、
人生のなかでどうしてもアートを辞められません。
DNAに織り込まれているかのように、
アーティストとしての「血が騒ぐ」からです。

ちなみに私はそのような意味で、
「哲学者のDNA」を持っていると自認しています。
私はナチュラルボーンな哲学者なので、
私の仕事がたとえスーパーのレジ打ちだったとしても、
「それを哲学する」ことを辞められないでしょう。

話がそれました。

アーティストの中にはそれを職業にする人と、
そうでない人がいますが、
職業としなかった人の中には、
趣味としてひっそり楽しむ人もいれば、
自分の本業をアートと融合させてしまう人もいます。

ステファンさんはそのような人でした。

彼はあるとき考えます。
「芸術と宣教」を融合できないだろうか?
そして、彼は「インドのFVI」、
つまり包括的な宣教について啓発する、
ソルト・イニシアティブという、
ラージ・モンドールさんらの働きに出会い、
インドの社会が抱える問題に取り組むのに、
芸術が使えるのではないか、と思うようになります。

外は気温45度、
音が爆音な割にはあまり効かないエアコンが鳴り響く中、
デリーの一角にあるオフィスで、ステファン氏が私に言いました。
ちなみに彼の英語はいわゆる「インド英語(ヒングリッシュ)」ではなく、
欧米の英語に近いので、非常に聞き取りやすいのです。
彼はデンマークの思想家、キルケゴールの言葉を、
私に教えてくれました。

「あなたの国で歌われている歌を聴かせて下さい。
 そうすればあなたの国の未来を私は予言しましょう。
 あなたの国の法律家や政治家の言葉は、
 聞く必要がありません。」

この言葉が意味しているのはこういうことです。
その国を導く「思想・哲学」というのは、
学者たちによって言語化・体系化される前に、
感度の高い芸術家たちによってキャッチされ、
それが表現される。
それから学問の世界の人たちが遅れてそれを体系化し、
さらにそれを読んだ感度の高いビジネスマン、政治家、教育者らが、
それぞれの世界において実践に移す。
そのようにして、その思想の影響は私たちに可視化される。
さらに言えば、様々な領域でその思想が実践されて何十年か後、
一般大衆は完全にその思想に染まる。
しかし、彼らは「自分がその思想に影響されている」
という意識すらない、ということです。

これを「思想のピラミッド」と言います。
これは別にピラミッドの頂点に立つ人が偉いとか、
一般大衆が偉くないとか言ってるわけではありません。
そうではなく、思想というのは、
そのような順番で世の中に浸透してきたし、
それはこれからも変わらないだろう、ということです。

ちょっと難しいことを言いますと、
「価値相対主義」とか「多元主義」といった思想があります。
現代を生きるどんな人も、この影響から無縁ではいられません。
日本の田舎に住む、高卒の親に育てられた小学生ですら、
それに影響されているとは知らずに、
「価値相対主義」に影響されて生きています。

「価値相対主義」というのは、
「絶対的な真理なんてない。」
「真実は人間の数だけある。」
といった考え方です。
価値相対主義ということについて語ったり、
体系化した本が世の中にはたくさんありますが、
それより遙か以前に、
ジョン・レノンが「イマジン」という歌でそれを歌いました。

「イマジン」はあまりに有名でもはや「常識」なので、
ここでその歌詞を紹介するのは、
もはや野暮というものですが、
もしかしたら知らない人のために、
その歌詞と和訳を部分的に紹介します。

「Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion too
Imagine all the people
Living life in peace

想像してごらん 国なんて無いんだと
そんなに難しくないでしょう?
殺す理由も死ぬ理由も無く
そして宗教も無い
さあ想像してごらん みんなが
ただ平和に生きているって...

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will be as one

僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
きっと世界はひとつになるんだ」

これは「価値相対主義」そのものです。
彼は「まだ言語化されていない思想を、
彼にしかない感度でキャッチし、
そしてそれを歌にした」のです。
ジョン・レノン自身は、
「価値相対主義」という言葉すら知らなかったかもしれません。
しかし彼はそれを芸術の言葉で語り、
この歌はじっさい、「世界を変えました」。



▼▼▼弟子とするか、弟子とされるか▼▼▼

ステファン・エイカー氏の話に戻りましょう。
彼はキュルケゴールの言葉を紹介し、
「思想のピラミッドの話」を私に教えてくれました。
そして言いました。

「教会は、このプラミッドの頂点にいるべきだと僕は思う。
 しかし現実には残念なことに、
 教会は最下層の一般大衆とさほど変わらない。
 つまり自覚することすらなしに、
 教会は世の中の価値観に影響を受けてしまっている。」

FVIの働きのアメリカにおけるネットワークである、
DNA(Disciple Nations Allience)という団体があります。
私の人生のメンターであるボブ・モフィット氏は、
この団体に属しています。
ボブと一緒にこの団体を立ち上げた、
ダロ―・ミラーという人がいますが、
彼がこんなことを言っています。

「もし教会が世界を弟子化していないとすれば、
 そのときは世界が教会を弟子化しているのだ。」

教会は影響を与えるか、
もしくはゼロか、ではありません。
影響を与えていないとしたら、
そのときは(自覚の有無にかかわらず)、
影響を受けているのです。

物理化学の用語を使えば、
世の中と教会の影響力は、
浸透圧の関係にあります。

もし教会が影響を受けるだけの存在となり、
この世の中とまったく区別が付かないとしたら、、、、
イエスは言われました。
「塩気をなくした塩は、
 役に立たず外に放り出され、
 人々に踏みつけられるだけです。」

、、、というわけで、
ステファン氏は、インドの社会において、
教会(の一部)である自身が、
影響を与える芸術家でありたいと願いました。

彼が始めた働きはユニークです。
アーティストのためのワークショップを始めたのです。
まずは10名前後のアーティストを集めます。
(ステファン氏は第一回、画家として参加者も兼務しました。)
宗教的背景は問いません。
ステファン氏がキリスト教徒なので、
キリスト教徒が当然多いのですが、
ヒンズー教徒でもイスラム教徒でもかまいません。

そしてそのメンバーで、
1週間とか2週間、合宿をします。
毎回「テーマ」が決められています。
「命の尊厳」とか、「平和」とか、「社会の分断と一致」とか、
そういったテーマです。
基本的にはアトリエの中で、
決められた期間、アーティストたちは、
だれにも邪魔されずに制作活動をします。

一つだけルールがあります。
毎朝1時間ほど時間をとり、
聖書からそのテーマについて学びます。
そして一緒に祈ります。
それから制作活動をするのです。

ワークショップが終わると、
たくさんの作品が生み出されます。
それらを集めて、「展覧会」を開きます。

それが、ステファン氏が始めた活動でした。
面白そうでしょ?



▼▼▼インドにおける女の子の堕胎▼▼▼

私が訪問した2008年には、彼らの働きは、
そういった作品を常設展示したり、
希望する人に売ったりするための、
アートギャラリーをデリー市内に持っていました。
(デリーの家賃高騰のため、現在はギャラリーは引き払っています)
私は滞在中何度もこのギャラリーを訪れました。

▼参考画像:REFLECTIONアートギャラリー
https://goo.gl/crdGxn

訪問するたびに「テーマ」が違っていました。
つまり、別のワークショップで生み出された作品が、
展示されていたわけです。

あるときのテーマは、
「女の子の堕胎」でした。
インドには「ダウリー」と呼ばれる非常に高額な結納金を、
女の子の親が婿に支払うという慣習があります。
それだけでなく、ヒンズー教の世界観では、
「女に生まれる」というのは、
前世の悪いカルマの「罰」だという考え方があります。
ですから親は、あまり女の子が生まれることを喜びません。

あまりにも女の子の堕胎や間引きが多いので、
インド政府は、性別が判明してからの堕胎を禁止しています。
しかし医者の中には、
「女の子ならカルテに赤いボールペンで、
男の子なら青いボールペンで書く」などの「隠語」を使って、
親たちに性別を教え、堕胎するということで金を稼ぐ人もおり、
法律の抜け穴をくぐる女の子の堕胎は後を絶ちません。

その結果、インドの男性と女性の比率は、
自然状態ではあり得ない状態になっています。
自然状態ではどんな人種でもだいたい男女は、
51%対49%で生まれます。
男の方が身体が弱いので、
成人になると半々に近づきます。
ところがインドでは優位に女の子が少ない。

なぜか?

、、、そういうことです。
イギリスの医師会が「これは放置できない」と、
調査を行いました。
その結果、これまでに1,000万人以上の女の子が、
何らかの形で「消されて」いる、
ということがわかり、世界に発表されました。
インド政府はそんな不名誉なことは国益を損じるので、
いろんな法律で是正しようとするのですが、
人々の世界観や宗教観、そして因習というのは、
なかなかすぐには変わらないものです。

、、、そのような社会に生きている信仰者だとしたら、
あなたなら何をするでしょうか?

政府の前でデモ行進をするのも一つ。
本を書くのも一つ。
不正な堕胎を行う医師がいる病院を、
爆破するのも一つ(オススメしません)。

ステファン氏は絵を描いたのです。

なぜ「絵」なのか?

それは、「言葉」というのはいつも、
「壁」を作るからです。
「言語」は物事を「分ける」性質があります。
この話題について言葉で戦争をしかけると、
ヒンズー教徒の人は、
自分の信じている神を否定されたように感じます。
しかし、「絵で語る」ときに、
そこに言語が介在しませんから、
その人の良心、あるいは心の深い部分に、
直接に語りかける事が出来るのです。

そうです。

先週のメルマガの「Q&Aコーナー」で語った、
「社会はなぜ右と左に分かれるのか?」
のテーマと、まったく同じですね。
言語は「象使い」(理性)に語りかけます。
絵は「象」(情動)に語りかけるのです。
ヒュームが言ったように、
「情動に語りかけない説得が人を動かすことは少ない」のです。

そろそろ文字数オーバーですので、
「女の子の堕胎」がテーマだったときの、
ギャラリーに飾られていた絵を2枚だけ紹介して、
この記事を閉じたいと思います。

▼参考画像:「虎は守るが、女の子は殺す」
https://goo.gl/VkF1in

、、、この絵は少し説明が必要です。
インド政府は一時期、絶滅危惧種だった、
ベンガルトラを国を挙げて保護しました。
その活動は実り、数は増えました。
しかし、数百頭のベンガルトラを国を挙げて守った政府が、
一千万の女の子の命を守れないというのは、
いったい何なんだろうね?という問いかけです。

▼参考画像:「神の傑作」
https://goo.gl/qjeKYx

、、、こちらは説明不要ですね。
胎児を描いている手は、
神様の手です。
軽率な堕胎というのは、
「神の傑作」を闇に葬ることになるんですよ、
という「言葉」以上に、絵は雄弁です。

ステファン・エイカー氏が言うには、
これらの作品をギャラリーの展示会で観た、
あるヒンズー教徒の弁護士はこう言ったそうです。
「私はヒンズー教徒ですが、
 これらの絵を見て魂を揺さぶられました。
 このような問題を放置しておくのは、
 社会的に正しくありません。
 私は弁護士として何らかのアクションを起こすつもりです。」



▼▼▼そして福島へ、、、▼▼▼

2011年3月11日の東日本大震災以降、
FVIは福島での支援活動に従事しました。
2011年に開催した「福島未来会議」はシリーズ化し、
第四回の「福島未来会議4 全国聞き屋サミット」を、
行った後の2013年に私たちは話し合いました。
今度は「原発」「エネルギー」「環境」をテーマにしないと、
この活動は嘘になるだろう、と。
そして、「福島未来会議5」は、
そういったテーマに切り込もう、と。

ところがこの話題というのは、
今でもある程度そうですが、
けっこう国論を二分する議論になっていて、
さらにそれが生理的な感情と結びついているので、
言葉で何かをしようとしても、
「泥仕合」になってしまう可能性が高い。

どうしよう、、、。

そこで、私は2008年に観た、
ステファン・エイカー氏の働きを思い出したのです。
あれを原発問題でやってみたらどうだろう?
という発想で行ったのが、
「福島未来会議5」でした。
私は2013年11月の導入のときにだけ、
参加アーティストの方々に、
ステファン氏の働きを紹介しただけです。
その翌月に私は燃え尽き症候群に陥り、
2年間休職しましたから。

その間、アーティストの方々は作品を生み出し、
福島県内で展覧会が開催されただけでなく、
カナダでも展覧会が開かれました。
さらに参加されたアーティストの方々は、
FVIの働きとは関係なく、今も交流を続けています。

▼参考リンク:福島未来会議5
http://karashi.net/project/fukushima/future_forum05.html

人生というのは冒険です。
何と何がつながるか分かりませんね。

、、、で、何の話だっけ?

そう!忘れられない美術品でした!
私にとっては、インドで観た作品群も、
その一つです。



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