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陣内が先週読んだ本 2018年1月第三週 『より少ない生き方』ジョシュア・ベッカー 他8冊

2018.07.11 Wednesday

+++vol.048 2018年1月23日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■4 陣内が先週読んだ本 
期間:2018年1月第三週 1月14日〜20日
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

先週私が読んだ本(読み終わった本)を紹介していきます。
一週間に一冊も本を読まない、
ということは、病気で文字が読めなかった数ヶ月を除くと、
ここ数年あまり記憶にないですから、
このコーナーは、当メルマガの
レギュラーコーナー的にしていきたいと思っています。
何も読まなかった、という週は、、、
まぁ、そのとき考えます笑。

ただ紹介するのも面白みがないので、
twitterに準じて、
140文字で「ブリーフィング」します。
「超要約」ですね。
(どうしても140字を超えちゃうこともあります。
 140文字はあくまで「努力目標」と捉えてください笑。)

忙しい皆さんになり代わって、
私が読んだ本の内容を圧縮して紹介できればと思います。
ここで紹介した本や著者、テーマなどについて、
Q&Aコーナーにて質問くださったりしたら、
とても嬉しいです。


●アーティストのためのハンドブック

読了した日:2018年1月14日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:ディヴィッド・ベイルズ、テッド・オーランド
出版年:2011年
出版社:フィルムアート社

リンク:
http://amzn.asia/a8FXD8V

▼140文字ブリーフィング:

この本は、アメリカでロングセラーになった、
「古典的なハンドブック」だそうです。
アーティストというのは右脳優位の人が多いので、
ロジカル(論理的)な話が展開されるわけではないのですが、
その分心にひっかかりを覚えるフレーズが散見され、
そっと背中を押されたような気持ちになります。

訳者後書きには、この本が出来た背景が説明されています。
この本の著者の二人は副業をしながら写真家として活動し、
アーティストのコミュニティのなかで、
お互いの不安や製作状況を分かち合い、
そして「明日も食えるか」という話をしながら、
アーティストであり続けるとは何かというテーマについて
共同執筆したそうです。
その生身を削ったような言葉だからこそ、
多くの人に届いたのでしょう。

この本はミュージシャンや画家という意味のアーティストのみならず、
すべての「自分で自分の仕事を創り出す創造的な人々」へのエールです。
私も「自分の仕事を自分で創り出す」業種ですから、
「あー、分かる分かる」と感じる部分は多かったです。

いくつか引用します。

→P208 
《最終的に、すべては次のことに帰結します。
あなたには選択肢が与えられています。
より正確には、それは複雑に絡まり合った選択肢です。
自分の仕事に全力を打ち込んだとしても幸せになれないか、
あるいは全力を打ち込まないために
幸せになれないことが約束されているか、その二つなのです。
つまり不確実性をとるか、確実性をとるかの選択肢です。
興味深いことに、不確実性を選択することは、心地よいことなのです。》

、、、アーティストとして生きるというのは、
「不確実性」に留まることです。
不確実性に耐えられない人は、
「アーティストであり続ける」ことは出来ません。

その中で大切なのは、
「不確実性」の中に身を置きつつ、
バランスを取るようにして、
「自分のルーティーン」を見つけ出すことです。
私も10年をかけて、これを自分なりに作ってきました。
やっと、人様に紹介できるようなルーティーンが、
自分の中で固まってきたわけです。

組織で働く人は、
「外部」に構造があります。
それに対してアーティストなどの、
クリエイティブな仕事をするフリーランサーは、
「外部」に構造がありません。
だから自分の内部に構造を作らなければならない。
外側の殻が形を保つ甲殻類と、
内側の骨格が形を保つほ乳類の違いですね。

繰り返しますが市役所職員という
「甲殻類の中身」だった私が、
その殻を出てからこの「骨」を作るまでに、
10年間かかりました。

フリーランスというのは、
まったく「お気軽」ではありません。
「お気軽」でもいいけど、
そういう人は淘汰されるだけですから。
これがサラリーマンと違うところです。
私はトップユーチューバーのヒカキンを、
心から尊敬しています。

組織の中にいる人にはあまり理解できないのですが、
彼がイチローにも劣らぬ克己の人だというのは、
フリーランサーならだれでも分かります。

→P115〜116 
《最初の一筆を真新しいキャンバスに描き始めるための工夫があるのであれば、
それはどんなものであっても実践する価値があります。
 時間はかかりますが、作品制作をする人だけが、
制作にじっくり向き合うことによって、
このような小さな習慣や儀式が
どれほど大切なことかを知る機会に恵まれます。
観客は作品を制作する際の詳しい過程などに関心がないかもしれません。
それは多くの場合、教師にとっても同じです。
なぜなら、その詳細が見えないからです。
あるいは知ることが出来たとしても、
仕上がった制作物を吟味することからかけ離れているからです。
作家のヘミングウェイは、タイプライターをカウンターの高さにおいて、
立ったままの状態ですべての原稿を書いていたそうです。
もちろんこの奇妙な習慣は、彼の作品の中に見つけることは出来ません。
しかしこの習慣が否定されてしまっていたら、
たぶんヘミングウェイの物語は
この世に一編も存在していなかったでしょう。》
(1,600文字)



●宗教的経験の諸相 上

読了した日:2018年1月14日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:ウィリアム・ジェームズ
出版年:1969年
出版社:岩波書店

リンク:
http://amzn.asia/cCMXUr2

▼140文字ブリーフィング:

心理学者のウィリアム・ジェームズのこの著作は、
「古典」のひとつに数えられます。
私はいろんな本で引用されていたこの本を、
いつか読みたいなぁと思い続けて約3年、
やっと手に取りました。
決め手は神谷美恵子が引用していた、
彼の「二度生まれの人」という概念について、
もっと知りたいと思ったからです。
引用します。

→P251〜252 
《その(前回の講義の)終わりのところで、
私達は二つの人生観の対照を完全に看取するに至った。
一つは私達が「健全な心」の人生観と呼ぶものであって、
それは幸福になるためにただ一回の誕生だけで足りる人間に特有なものであり、
もう一つは「病める魂」の人生観であって、
幸福になるためには二回の生誕を必要とする人間に特有なものである。
その結果として、私達の経験の世界について
二つの違った考え方が生じてくる。
一度生まれの人の宗教では、世界は一種の直線的なもの、
あるいは一階建てのものであって、その勘定は一つの単位で行われ、
その部分部分はきっかりそれらが
自然に持っているように見えるだけの価値を持っており、
単に代数的にプラスとマイナスとを合計するだけで
価値の総和が出てくると言ったようなものである。
幸福と宗教的平安とは、
その差引勘定のプラスの側で生活するところにある。

これに反して、二度生まれのものの宗教にあっては、
世界は二階建ての神秘である。
平安は、ただプラスのものを加え、
マイナスのものを生活から消去するだけでは達せられない。
自然的な善は、ただ量的に不十分で移ろいやすいと言うばかりではなく、
その存在自体の中に、ある虚偽が潜んでいるのである。
自然的な善はすべて、たとい死の前に現れる
いろいろな敵によって抹殺されることがなくても、
結局は死によって抹殺されてしまうのであるから、
最後の差し引きで残高ができることなどないし、
私達の永久的な崇拝を受けるべきものでは決してあり得ない。
むしろ、それは私達を私達の真の善から遠ざけるもので、
そのような自然的な善を放棄し、それに絶望することこそ、
私達が真理の方向へ向かって踏み出すべき第一歩なのである。

要するに、
自然的な生命と霊的な生命との二つの生命があるのであって、
私達はその一つに預かりうるためには、
まず他方を失わなければならない。》

、、、ここでジェームズが、
「二度生まれ」とか、
「世界が二階建てであるような人」というのは、
宗教的な、あるいは哲学的なセンスを持ち合わせた人間のことです。
タイプA(一度生まれ)の人間にとって世界はシンプルです。
幸せとは「良い出来事」−「悪い出来事」という世界です。
タイプB(二度生まれ)の人間にはもっと複雑で、
悪い出来事が必ずしも不幸ではないし、
良い出来事が必ずしも幸福ではない、と考える。
物事の向こう側にあるもう一層深い「真相」を、
彼らはいつも捉えようとする。

タイプBの人は得てして、
「一度この世に生まれた後、
 二度目の誕生をする」というような、
実存的な生まれ変わり体験をする、
とジェームズは指摘しています。

歴史の中でその代表例として、
「天路歴程」の著者のジャン・バニヤン、
それからひどいうつ病を患ったトルストイを挙げています。

→P284〜285 
《バニヤンは福音の使者になった。
そして彼が神経病的な素質の持ち主であったにもかかわらず、
また、彼が国境を信じないという理由から
12年間も獄中で過ごさねばならなかったにもかかわらず、
彼はきわめて活動的な生涯を送った。
彼は平和ならしむる人であり、善を行う人であった。
そして彼の書いた不朽の寓意物語は
イギリス人の心に宗教的忍耐の精神をしみじみ浸透させたのであった。

しかし、バニヤンもトルストイも、
私達が「健全な心」と呼んだようなものにはなれなかった。
彼らは苦い酒杯をあまりにもしたたか飲んでしまったので、
その味を忘れ去ることが出来なかった。
そして彼らの贖いは二階建ての宇宙へ入っていくことであった。
二人はそれぞれその悲しみの鋭い刃をなまらせるような善を実現した。
けれどもその悲しみは、それを克服した信仰の心の中に
一つの小さな要素として保存されていた。

私達にとって重要なことは、事実において、
彼らが、彼らをしてそういう極度の悲しみを
克服させることの出来たようななにものかが
彼らの意識の内部にわき出ているのを見つけることが出来たし、
また見つけた、ということである。

トルストイがそれを
「人々がそれによって生きるところのもの」と言っているのは正しい。
なぜなら、それはまさしくそのとおりだからである。
それは一つの刺激であり、興奮であり、信仰であり、
以前には人生を耐えがたいものと思わしめたような悪が
眼前に充満していることが認められるにもかかわらず、
生きようとする積極的な意欲を再び注入する力なのである。

トルストイが悪を認める態度は、その範囲内では、
変わることなく残っていたように思われる。
彼の晩年の著作は、彼が公定の全価値体系と
あくまでも和解しなかったことを示している。
つまり、上流社会の生活の下劣さ、統治者の破廉恥な行為、
教会の偽善、役人の空威張り、大成功につきものの卑劣で残酷な行動、
そのほか、この世間の華やかな犯罪と偽りの制度、
これらのものと彼は和解しなかった。
すべてこのようなことを許容することは、
彼の体験によれば、自らを永遠に死の手に委ねることであった。》

、、、二度生まれの人はしばしば、
歴史に残るような著作を記したり、
歴史を変えるような偉業をなしたりします。
アブラハム・リンカーン大統領は、
生涯にわたり重いうつ病を患った、
「二度生まれ」の典型のような人ですが、
彼の葛藤は人類を一歩前に進めました。
本人たちは本当にたいへんですが、
世界の発展は「二度生まれ」の人々に、
多くを負っています。
(2,344文字)



●人間の本性を考える 心は「空白の石版」か (下)

読了した日:2018年1月14日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:スティーブン・ピンカー
出版年:2004年
出版社:NHKブックス

リンク:
http://amzn.asia/fiZlc4q

▼140文字ブリーフィング:

上・中・下巻からなる大作です。
全部で1,000ページぐらいありました。

「生まれか育ちか(nature or nurture)論争」において、
「ブランクスレート仮説」とよばれる、
「育ちがすべてだ。遺伝子の影響は小さい。」
という人気のある仮説への著者の反論です。

私は著者の遺伝子決定論的な立場と、
ブランクステート説の「心は空白の石版」説、
どちらに立つかと言われれば、
真ん中ぐらいかなと自分では思います。
心は空白の石版、は言い過ぎだし、
すべては遺伝子によって決定されているとも思いません。
(*著者がそういっているわけではありません。
 著者は環境要因もあると言っていますが、
 それでも私は著者が言う以上に「環境も重要」だと思います。)

いずれにせよ、
ブランクスレート説に立つ人の「逆説的な盲点」を、
著者はたくさん指摘していて、それは納得しました。
前提が違うと教育の方向は逆になります。
「暴力は学ばれるもの」ならば、
暴力をテレビで見せなければ自動的に平和な子どもになる、
という教育方針になります。
しかし、(特に男の子は)「生まれつき暴力的だ」
という前提に立つならば、
「暴力はいけませんよ」と教えなければ、
自動的に暴力的な子どもになる、ということになります。
私は自分の経験からも、後者を支持します。
小学生低学年のときなどは、
理由もなく無性に弟を殴りたくなるときがあります。
そのとき「いや、殴られたら痛いもんな」
と思うのは、親が苦労してそれを教えてくれたからです。

子どもに将来刑務所に入ってもらいたくなければ、
「仮面ライダー」を禁止するだけでは十分ではなく、
「暴力を振るうことで自分と他人にどんな悪いことが起きるか」
を教育する必要があるのです。

聖書は別の言葉でこれを表現しています。
そう。「人間は生まれながらに罪人だ」と。
東洋ではこれを「性悪説」と言います。

→P71 
《それに子どもは、戦争ごっこのおもちゃや
文化のステレオタイプの影響を受け始めるずっと前から暴力的である。
もっとも暴力的なのは、青春時代ではなくよちよち歩きの頃なのだ。
近年の大規模な研究によれば、
2歳を過ぎたばかりの子どものうち、
叩いたり噛みついたり蹴ったりする子どもは、
男児で半分近くもおり、女児もそれをわずかに下回るだけである。
つまりこの著者が指摘しているとおり、
「赤ん坊が殺しあいをしないのは、
私たちがナイフや銃を使う機会を与えないからだ。
私たちは過去30年間、
子どもはいかにして攻撃することを学ぶのかという問いに
答えを出そうとしてきた。
しかし、その設問は間違っていた。
正しいのは、子どもはいかにして攻撃しないことを学ぶのかという設問だ。」
という状況なのである。》

さらに著者は、多くの教育学者から、
石を投げつけられるようなこんな発言をします。
「子育ては子どもに影響しない」。

マジか?

先ほども言ったように、
私は彼を全面的に支持するわけではありません。
教育は大切だと思います。
しかし、「育って欲しいと思ったように子どもは育たない」
という意見には同意します。

これは私が「生物系」だからこう考えるのだと思います。
この「ああすればこうなる」という子育て論は、
多分に「エンジニアリング(工学)」の考え方に近いです。
しかし人間は機械や装置ではなく、生物なのです。
生物と装置の一番の違いは、
「複雑系かどうか」です。
複雑系は「インプットに対するアウトプットが読めない」
というところに、一番の特徴があります。
「ああしたのにこうならない」
のが複雑系であり、そして何度も言いますが、
子どもは複雑系なのです。

「子どもを優秀にするアルゴリズムなどない」
と著者は言います。
私もまったく同じ意見です。
じゃあ、子育てには意味がないのか?

あるに決まってるじゃないですか。
二度と戻ってこない子どもとの時間を、
神に感謝しながら過ごす。
これ以上の「意味」があるでしょうか?
著者もそこを指摘しています。

→P225 
《ハリスは、親が子どもの人格を形成できるという信念が
どれほど歴史の浅い偏狭な考え方であるかを指摘して、
1950年代にインドの僻地の村に住んでいたある女性のことばを引用している。
子どもにどんな人間になってもらいたいと思っているかと聞かれた彼女は、
肩をすくめて「それはこの子の運命で、
私が望むことではありません」と答えたのである。

だれもがこのように運命や、あるいは遺伝子や仲間といった
親のコントロールの及ばないそのほかの力を受け入れているわけではない。
「これが本当ではないことを神に祈っています」と、
ある母親は『シカゴトリビューン』紙に語った。
「子どもに注ぎ込んでいるこの愛情がすべて無意味だなんて、
恐ろしくてとても考えられません。」
人間の本性に関するそのほかの発見についてと同様に、
本当ではありませんようにと人々は神に願う。
しかし真理は私達の願いなどは気にかけない。
そうした願いを解放的な方法で再び取り上げることを余儀なくさせる。

たしかに、子どもを幸福な成功する人間に育てるための
アルゴリズムがないというのは、残念なことである。
しかし私達は本当に、子どもの特性を先に決めてしまいたいと願い、
それぞれの子どもが世界にもたらす予測できない天分や奇抜さに
喜びを感じないのだろうか?
人々は人間のクローンや、遺伝子操作によって
親が子どもをデザインできるようになるかもしれないという
怪しげな見通しにぞっとするような驚きを感じる。
しかしそれは、親の育て方によって
子どもをデザインできるという夢想といったいどれだけ違うのだろうか?

たぶん現実的な親のほうが、
あれこれと気に病む親にならなくて済むだろう。
そういう親は、たえず子どもに刺激を与え、社会化し、
性格を改善しようと試みないで、
子どもと過ごす時間を楽しむことが出来る。
子どもの脳細胞に良いという理由からではなく、
楽しんで本を読み聞かせることが出来る。》

、、「子どもの脳細胞に良いと言う理由からではなく、
楽しんで本を読み聞かせすることが出来る。」
良い言葉です。

「この子の将来のためにぃぃぃいぃ!!」
という「力んだ親」が世の中にたくさんいますが、
自分が子どもだったら思いますもん。
「重いっす!」

私は、将来秀才になって欲しいからではなく、
今楽しいから一緒にジャングルジムで遊ぶ親でありたいです。
(2,568文字)



●アメリカのデモクラシー 第一巻(下)

2018年1月14日読了
読んだ方法:図書館で借りる

著者:トクヴィル
出版年:1835年
出版社:岩波文庫

リンク:
http://amzn.asia/cY4FQRE

▼140文字ブリーフィング:

もうこれは、「古典中の古典」ですね。
あり得ないぐらい、めちゃくちゃ引用されています。
「またトクヴィルかよ!」と思った時期があります。

なぜ本書がこれほど引用されるかというと、
これが非常に珍しく詳細な「一次資料」だからです。
1800年代、まだアメリカの人口が1,200万人だったとき、
フランス人のトクヴィルはアメリカを旅して、
その「見聞録」を記しました。

そしてこの「新大陸(アメリカ)」は、
旧大陸(ヨーロッパ)と、何が違うのかと言うことを、
彼は克明に書き記したのです。
当時のアメリカは今のような「超大国」ではありません。
世界のスーパーパワーは大英帝国であって、
アメリカやロシアではありませんでした。
しかしトクヴィルは、100年後、
世界はアメリカとロシアが二分するだろう、と「予言」します。
それは見事に的中します。

日本人論の名著ならルース・ベネディクトの「菊と刀」であるように、
アメリカ論の古典はフランス人トクヴィルの「アメリカのデモクラシー」です。
そして、トクヴィルの観察眼には本当に舌を巻きます。
彼が、100年後の東西冷戦を「予言」した箇所を抜粋します。

→P418〜419 
《今日、地球上に、異なる点から出発しながら
同じゴールを目指して進んでいるように見える二大国民がある。
それはロシア人とイギリス系アメリカ人である。
どちらも人の知らぬ間に大きくなった。
人々の目が他に注がれているうちに、
突如として第一級の国家の列に加わり、
世界はほぼ同じ時期に両者の誕生と大きさを認識した。

他のあらゆる国民は既に自然の引いた限界にほぼ達しており、
あとは守るだけであるが、両者は成長の途上にある。
他のあらゆる国民は引き留められ、
多大の努力を払わなければ前に進めないが、
両者だけは軽やかにして速やかな足取りで行くべき道を歩き、
その道がどこで終わるのか、いまだに目に見えない。

アメリカ人は自然が置いた障害と闘い、ロシア人は人間と戦う。
一方は荒野と野蛮に挑み、他方はあらゆる武器を備えた文明と争う。
それゆえ、アメリカ人の征服は農夫の鋤でなされ、
ロシア人のそれは兵士の剣で行われる。

目的の達成のために、前者は私人の利害に訴え、
個人が力を揮(ふる)い、理性を働かせるのに任せ、命令はしない。
後者は、いわば社会の全権を一人の男に集中させる。
一方の主な行動手段は自由であり、他方のそれは隷従である。
両者の出発点は異なり、たどる道筋も分かれる。
にもかかわらず、どちらも神の隠された計画に召されて、
いつの日か世界の半分の運命を手中に収めることになるように思われる。》
(1,063文字)



●アインシュタイン その生涯と宇宙 上

読了した日:2018年1月17日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:ウォルター・アイザックソン
出版年:2011年
出版社:ランダムハウスジャパン

リンク:
http://amzn.asia/7S95mh2

▼140文字ブリーフィング:

去年読んだ伝記、「スティーブ・ジョブズ」が面白すぎて、
その著者、ウォルター・アイザックソンの書いた、
そのほかの伝記も読んでみたくなりました。

私はアインシュタインにミーハー的関心を寄せる「ファン」です。
小学生のころから「漫画で分かる相対性理論」とか、
児童用のアインシュタインの伝記を読むなど、
アインシュタインに並々ならぬ関心を寄せていました。
今、私がパジャマにしているスウェットのプリントは、
アインシュタインです。

、、、で、ウォルター・アイザックソンが、
アインシュタインの伝記を書いているというのを知り、
「これは読まねば」と思って手に取りました。

「天才」の定義は様々ですが、
私の「天才」の定義は「論理を飛び越えること」です。
天才は直観的に何が正しいかを捉えるので、
一見、論理に飛躍があるように見えます。

私はちなみに、天才ではありません。
(言うまでもありませんが笑)
私は抽象思考は得意で、
論理を緻密に組み立てていくことは得意ですが、
飛躍することは苦手ですから。
ある人の論理が飛躍している場合、
99%は「ただのバカ」なのですが、
1%は「天才」です。
前者と後者の見分け方は簡単です。
前者はそもそも論理が分かっていないから、
無自覚に飛躍し論理が破綻しているだけですが、
後者は「破綻しない論理」を自在に操った上で、
なおかつ「意識的に飛躍」できています。

アインシュタインは、
自分が意識的に飛躍している、
ということそれ自体にも意識的な、
「天才のなかの天才」でした。
それを彼は「帰納より演繹が大事」と、
自分で表現しています。

→P187〜188 
《実際1905年の三編の画期的な論文において、
演繹的アプローチを取る意図を始めに述べている。
彼は説明の付かない実験結果ではなく、
さまざまな理論がもたらす矛盾を指摘する所から論文を書き始めている。
それから実験データの役割を過小評価しつつ基本原理を持ち出している。
ブラウン運動の理論も、黒体放射の理論も、光速に関しても同じ事である。

『物理学における帰納と演繹』という1919年の本の中で
彼は後者のアプローチ、つまり演繹法の方を好むことを述べている。
「経験科学の創造について最も簡単な描像は
一連の帰納的手法である。ここの事実が結ばれ、
まとめられ、それらをつなぐ法則が明らかになる。
・・・しかしこのような方法で得られる大きな科学的知識の進歩は少ない。
・・・自然の理解における真に偉大な進歩は
帰納的手法とほとんど正反対の所にある。
事実の複雑な集大成から直感的に本質をつかみ出すことで
科学者は仮説的な法則を導き出す。
これらの法則から科学者は結論を引き出す。」》

、、、アインシュタインの相対性理論は、
実は「神学的なブレークスルー」でもありました。
もっと大胆な言葉を使えばそれは「神殺し」だった。

なぜか。

ニュートンの古典力学における、
「絶対空間・絶対時間」は、
神によって担保されている、とニュートンは言ったが、
アインシュタインはそれを「相対化」してしまったからです。
時間や空間さえも「ゆがむ」としたら、
もはや「神が書きたもうた」物理法則のなかに、
「絶対的な座標軸」は存在しないことになってしまう。
「聖なる天蓋」を突き崩し、転覆させ、
古典的な世界観に依って立っていた宗教観を、
がらがらと音を立てて崩れさせた原因は、
ひとつはダーウィンの「種の起源」、
そしてアインシュタインの「相対性理論」だったのです。

→P197 
《絶対時間の概念――「実際に」存在して、
測定とは同時に時を刻むという意味での時間――は、
ニュートンが216年前に著書『プリンキピア』で仮定して以来、
物理学の支えであった。
同じ事は絶対空間と距離に関しても言える。
「絶対的な真の数学的な時間は、他の何者にもよらず、
それ自体それ自身の性質として、一様に流れる。」
とニュートンが『プリンキピア』の第一巻で書いていることは有名だ。
「絶対空間は、他の何者にもよらず、
それ自身の性質として常に同一であり動かない。」

しかしこれらの概念が直接に観測できないことに、
ニュートンでさえ不満であった。
「絶対時間は理解の対象ではない」と彼は認めている。
このジレンマから逃れるのに彼は神の存在に頼った。
「神は永遠にどこにでも存在して、
時間の経過と空間を定める。」》

、、、神の支配する時間と空間が、絶対ではない?
では、「神の居場所」はどこにもないのか?

ないはずがないじゃないですか。
神学はそんなにヤワなものではありません。

自分たちの古い世界観に引きこもり、
世間から隔絶され、明白な科学的知見を「否定」し、
物理学や生物学や社会学「批判」をくりかえす宗教者は、
「ヤワ」だなぁと私は個人的に思いますが。
(1,887文字)



●やさしいライオン

読了した日:2018年1月17日
読んだ方法:Amazonで書籍購入(中古)

著者:やなせたかし
出版年:1975年
出版社:フレーベル館

リンク:
http://amzn.asia/4AtIjsl

やなせたかしが初めて描いた絵本です。
犬に育てられたライオンの話。
悲しいけれど、心に残る話でした。
Amazonで古本を買いましたが、
裏表紙に「××さんへ、お世話になりました。
心をこめて云々、、、●●より」というメッセージが。

、、、売るなよ泣。
(120文字)



●知性の顛覆 日本人がバカになってしまう構造 

読了した日:2018年1月17日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:橋本治
出版年:2017年
出版社:朝日新聞出版

リンク:
http://amzn.asia/cvBDkPg

タイトルに期待して読みましたが、
正直、内容が散漫で、あまり面白くはありませんでした。
「不機嫌」と、「反知性主義」が結びついている、
という部分だけは、なるほど、と思いました。

→P206
《トランプ新大統領が主要メディアを「敵」と言ったり、
ワシントンの既成政治を「だめだ」と言っているのは、
その相手が、「複数の問題の整合性」を考えようとしているからで、
単純な多くの人と同じように「よく分からない複雑な問題」を
突きつけられた大統領が腹を立てて、
「そういうものはみんなナシ!」と言ってしまったのに等しい。
がしかし、「複雑な問題」は、やはり考えなければ答えがでないものだ。

もう一度「反知性主義」に戻ってしまえば、
「世の中には面倒なことを考えさせられると、
それだけで腹が立ってしまう人たちは多い」―――そのことが、
「反知性主義の高まり」なのだ。
私にはそうとしか思えない。
理性をはねつけてしまった不機嫌は強い。》
(398文字)



●より少ない生き方 ものを手放して豊かになる

読了した日:2018年1月17日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:ジョシュア・ベッカー
出版年:2016年
出版社:かんぎ出版

リンク:
http://amzn.asia/0XCfo6v

▼140文字ブリーフィング:

1年ぶりぐらいに「ミニマリズム本」を読みました。
あまり期待はしていませんでしたが、
これが思いの外面白かったのです。

それは、この著者が「牧師」だからです。
ミニマリズムって、「禅」とか「ニューエイジ」とか、
「スピリチュアル」となぜか相性が良いので、
キリスト教徒である私からすると、
「ここまでは共感できるけど、
 ここから先はついて行けない」
というラインがあるのですよね。

しかし、この著者は牧師なので、
「ミニマリズム」を「聖書的」に理解している。
「最後まで納得のいくミニマリズム論」として、
一押しの本です。

たとえば著者は、福音書に出てくる有名な、
「金持ちの青年」をミニマリズム的に解釈します。
引用します。

→P46〜48 
《前の章でも述べたように、私のミニマリズム哲学は、
イエスの教えから大きな影響を受けている。
とはいえ、ミニマリズムに興味を持つようになったおかげで、
前から知っていたイエスの教えを、
新しい角度から眺められるようになったのも事実だ。

このイエスと役人の物語は、その典型的な例だろう。
昔の私は、イエスと役人の物語を読むたびにこう考えた。
「自分の持ち物とお金をすべて上げてしまったら、
惨めな人生になるに決まっている。
イエスは本当にそういう意味で言ったのだろうか?」

持っているものの数で幸せを図るような世界で暮らしていると、
イエスの言葉はまるでピンとこない。
機嫌の良い日だったら、こんな風に考えて自分を納得させていたものだ。
「たぶん現世で物質欲を手放せば、
天国に行ったときに報われるのだろう。
きっとイエスは、そういう取引のことを言っていたのだ」

ところがこの理屈では、他のイエスの言葉とかみ合わなくなる。
たとえばイエスは、別のところで、
「私が来たのは、あなたが本物の人生を手に入れるためだ。
それは、あなたが夢に見たよりも豊かで素晴らしい人生だ。」
ということも言っている。

イエスの教えはいつだってそうだった。
天国に行ってからだけでなく、
この地球上での日常生活を最大限に生きる方法を説いている。

ミニマリスト生活を実際に始めて、
これまで紹介したような利点をすべて経験すると、
イエスがお金持ちの若い役人に投げかけた言葉が、
新しい意味を持つようになった。

イエスが本当に言いたかったのは、
「持ち物をすべて売り、そのお金を貧しい人に与えれば、
自分も不要な荷物から解放されるだろう」ということだったのだ。

ものに執着していると、
本当に豊かな人生からはむしろ遠ざかる。
ものを減らしなさい。
物質欲の重荷から解放されれば、
目指しているものには何でもなれるだろう。
これが、イエスの答えの本当の意味だ。

イエスの答えは、若い役人の信仰心を試しているのではない。
信仰が真実であることを証明するために、
究極の犠牲を払うことを求めているのでもない。
むしろ、より豊かな人生への招待状だったのだ。
あの若い役人は、自分の所有物のせいで、
真の意味では生きていなかったのだ。
このイエスの教えは、どんな宗教を信じる人にも共感できるだろう。》

、、、また、著者は牧師として、
ミニマリズム本に時々出てくる、
「人間関係も整理しましょう」という教えに、
疑義を呈しています。
引用します。

→P286〜289 
《ミニマリストの中には、
「自分の人生に利益をもたらさない人とはさよならしよう」
というアドバイスをする人がたくさんいる。
つまり、クローゼットや引き出しのガラクタだけでなく、
人間関係のガラクタも処分しようというのだ。
彼らの言いたいことは理解できるが、同意できるわけではない。
 (中略)
自分に利益のある関係だけを大切にするのなら、
それは愛ではない。利己主義だ。
 (中略)
ジョンの人生は平坦ではなかった。
親からは育児放棄され、ドラッグとアルコールの問題を抱え、
ホームレスになったこともある。自分の失敗のことも平気で話す。
彼が苦労をしたのは、もちろん育った環境も原因になっているが、
自業自得の面もあることは否定できない。
実際に会うときは、彼はいつもひげを剃らず、だらしない格好で現れる。
しかし、表情は明るく、今度こそ立ち直って神の道を進むと誓い、
参加している後世のための集まりについて話してくれる。
私はいつも、彼を応援している人がいることを伝え、
自分でもできる限り力になると約束する。
そして最後に、私はたいてい「来週もまた会えるかな」と言うのだが、
次に彼が連絡してくるのは数ヶ月後だ。

正直にいえば、ジョンとの関係で私が得るものは特にない。

ジョンから何らかのアドバイスがもらえるわけでもないし、
私が助けてもらえるような仕事をしていたり、
特技があったりするわけでもない。
有名人や偉い人の知り合いがいて、私に紹介してくれるわけでもない。
私のことは人として大切に思ってくれているのかもしれないが、
たとえそうだとしても、その気持ちを表現する方法は
少々変わっていると言わざるを得ないだろう。

それでも、彼がいつも与えているものが一つある。

それは、誰かを愛するチャンスだ。
それも、見返りを期待する愛ではなく、無条件の純粋な愛だ。
忍耐力、慈悲の心、責任、犠牲が必要な愛だ。
つまり、本物の愛ということだ。
ジョンとの関係は、私が本物の愛を示すチャンスだ。
彼がどこに行こうと、どんなに長い間音信不通でも、
いつでも待っていると伝えることが出来る。》

、、、メールをしても返信せず、
電話をしても出ず、人生がめちゃくちゃになったときだけ、
SOSの連絡をして「逢いたい」と言ってくる、
著者の友人の「ジョン」は、
他のミニマリストなら「処分ボックス行き」と言うでしょう。
しかし彼は言います。
「ジョンは、私に無条件で人を愛するチャンスをくれている」。

シビれますね。

さらに、彼は、ミニマリズムの最大の益は、
「より多くを与えられるようになること」と言います。
これは「こんまり先生」を含む、
多くのミニマリストがだれも、一言も言っていないことです。
彼らは「減らすことが自己目的化」していますが、
本書の著者は、「与えること」が目的です。
私はこちらのミニマリズムを支持します。
引用します。

→P302〜303 
《たしかに矛盾して聞こえるかもしれない。
それでも、本物の幸せと満足感を手に入れる一番の近道は、
自分の利益を追求することではなく、人のためになることだ。

ここで、人のために生きる道を選んだらどうなるのか考えてみよう。
まず、自由が増える。ストレスが減り、不安が減り、不満が減る。
満足感が大きくなり、生きている実感が持てる。
人のために生きていると、人と比べる必要がなくなる。
人の上に立ちたいという気持ちがなくなるので、肩の荷が下りる。
自分のしていることがよく分かっていて、
それが大切なことだということも知っている。
人生に満足し、目的意識を持って生きることが出来る。
 (中略)
あなたには大きな夢を持ってもらいたい。
そしてその夢から、大きな満足感を手に入れてもらいたい。
人のためになることがあなたの夢なら、それは実現するだろう。
インドの詩人のラビンドラナート・タゴールは、こんな言葉を残している。
「私は眠り、人生は喜びだという夢を見た。
私は目を覚まし、そして人生は他者に仕えることだと悟った。
私は実行し、そして目撃する。人に仕えることは喜びだった。」》
(2,957文字)



▼▼▼リコメンド本「今週の一冊」▼▼▼

陣内が過去一週間に読んだ本の中から、
「いちばんオススメだったのは?」という基準でリコメンドします。
「いちばん優れていた本」というよりも、
「いちばんインパクトの大きかった本」という選考基準です。
皆さんの書籍選びの参考にしていただけたら幸いです。


▼今週の一冊:より少ない生き方

コメント:
ほとんど期待せずに読んだ分、
カウンターで右フックを食らった感じです笑。
ミニマリズムやシンプルライフの本は
今まで結構たくさん読んで来ましたし、
それらに啓発され教えられてきました。
私もシンプルに生きたいと思っていますので、
真似できると思うことは真似してもきました。

しかし、そこに「何かが足りない」と感じてきた、
「何か」が何だったのかに、
この本は気づかせてくれました。

それは「与えること」「他者のために生きること」でした。
ミニマリズムという哲学に、
キリストの光を当ててくれた著者に、
感謝の意を表します。




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続・続・美術館で観た芸術作品

2018.07.11 Wednesday

+++vol.048 2018年1月23日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■2 オープニングトークのおこぼれ

オープニングトークがあまりに広がってしまった場合、
ここで「続き」を語ります。
延長戦、「おかわり」ですね。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

▼▼▼先週からの続き▼▼▼

先週急ごしらえで作った「新コーナー」、
「オープニングトークのおこぼれ」です。
それですら収まらなかったので、
「オープニングトークのおこぼれのおこぼれ」ですね笑。
、、、先週の質問は何だったかというと、これです。

▼質問:
「美術館などで観た芸術作品で、
 最も印象に残っているのは?」

オープニングトークで私は、
大原美術館の大原孫三郎について語りました。
彼はキリスト教徒で日本の「児童福祉の父」とも言われる、
石井十次の影響でクリスチャンになり、
自分がもうけたお金は、社会に還元せねばならない、
と気づきます。

その大原さんが後世に残したプレゼントのひとつが、
倉敷にある「大原美術館」です。
大原美術館は「西の大原、東のブリヂストン」と言われ、
長いこと日本の二大美術館に数えられるまでになりました。

また彼は、教育機関なども創立していますから、
まさに内村鑑三の「後世への最大遺物」のうち、
「財産・事業・思想・教育・そして高潔な人生」という、
5つのすべてを遺した「偉人」です。

でも、あんまり大原孫三郎のことを知ってる人って、
いないのですよね。
岡山県民以外で。

なぜだろう?

もっと知られてもいい人なのに。
財を社会に還元した篤志家という意味では、
日本のアンドリュー・カーネギー、
日本のロックフェラーなのに。

文字数が足りなくなったので、
さらに私は「おこぼれ」のコーナーをもうけ、
そこで、井上雄彦の「最後のマンガ展」について語りました。
大阪の「最後のマンガ展」で観た「宮本武蔵」に、
私は圧倒された、という話をしたのです。

ここでさらに文字数オーバー。
よって、来週に持ち越し、
というわけで、
最後の「印象に残っている美術品」を、
今日はご紹介いたします。



▼▼▼インドのREFLECTIONアートギャラリー▼▼▼

あれは2008年のこと、
今から10年前の話です。
私は暑い暑いインドにいました。
2ヶ月間を首都のデリーで、
2ヶ月間をバラナシから車で2時間の田舎で過ごしました。

インドではトイレットペーパーを使うという習慣がないので、
コンクリで固められたトイレの脇を這うムカデを見ながら、
トイレの穴の横に置いてあるプラスティックの手酌に入っている水に、
「不浄の手」である左手をつけ、
その手ですくった水でおしりを「えいやっ」と拭いたときには、
なんていうんだろう、
世界が違って見えましたね。

それはもう、世界で最も高いバンジージャンプを飛んだ人や、
日本で最も高級な寿司を食べた人や、
一番チケットが取りにくいブロードウェイのミュージカルを観た人や、
エベレストやモンブランを踏破した人と同じで、
自分が英雄になった気がしました。

素手でおしりを拭くと、
人生は変わります。
「世界は広い」というのは、
DVD「世界遺産」を家で1,000時間観ても分かりません。

素手でおしりを拭いたとき、
人は思うのです。
「世界は広い」と。

そして、こうも思います。
「俺は、俺を超えていける」と笑。



▼▼▼ステファン・エイカー氏との出会い▼▼▼

そんなインド滞在中に、
私は生涯忘れることの出来ない様々な人に出会い、
生涯忘れることの出来ない様々な体験をしました。

デリーでは、
今FVIで私がしているような働きを、
インドでしているラージさん、
自閉症の子どもを持ち、
自閉症の子どもたちのための学校を開校した、
ラージさんの奥さんのギタさん、
デリーで包括的宣教の様々な取り組みをしている、
サンジブ牧師、
今もFVIで関わりを持ち続けている、
不可触民(ダリット)出身のラムスラットさんらに会いました。

また、サンジブ牧師に誘われ、
政府の建物の前でデモ行進にも参加しました。
オリッサ州というところで、
ヒンズー過激派による教会の焼き討ちや襲撃事件が多発し、
それに対する抗議を行うために。

逮捕されなくて良かったです。
強制送還は嫌ですから。
その後海外渡航しづらくなるし。

そんなデリー滞在中に、
非常に印象的な働きをしている、
ステファン・エイカーという方にも私は出会いました。
この人です。

▼参考画像:ステファン・エイカー氏(左から二番目)
https://goo.gl/HNwwUf

彼のお父さんはドイツ系の宣教師ですから、
彼は宣教師二世です。
彼もまた宣教師なのですが、
彼の働きは非常にユニークです。

彼は宣教師であると同時に、
アーティストでもあります。
アーティストというのは、
「そう生まれついた」人が一定数います。
それらの人々は、アートを職業にしようがしまいが、
人生のなかでどうしてもアートを辞められません。
DNAに織り込まれているかのように、
アーティストとしての「血が騒ぐ」からです。

ちなみに私はそのような意味で、
「哲学者のDNA」を持っていると自認しています。
私はナチュラルボーンな哲学者なので、
私の仕事がたとえスーパーのレジ打ちだったとしても、
「それを哲学する」ことを辞められないでしょう。

話がそれました。

アーティストの中にはそれを職業にする人と、
そうでない人がいますが、
職業としなかった人の中には、
趣味としてひっそり楽しむ人もいれば、
自分の本業をアートと融合させてしまう人もいます。

ステファンさんはそのような人でした。

彼はあるとき考えます。
「芸術と宣教」を融合できないだろうか?
そして、彼は「インドのFVI」、
つまり包括的な宣教について啓発する、
ソルト・イニシアティブという、
ラージ・モンドールさんらの働きに出会い、
インドの社会が抱える問題に取り組むのに、
芸術が使えるのではないか、と思うようになります。

外は気温45度、
音が爆音な割にはあまり効かないエアコンが鳴り響く中、
デリーの一角にあるオフィスで、ステファン氏が私に言いました。
ちなみに彼の英語はいわゆる「インド英語(ヒングリッシュ)」ではなく、
欧米の英語に近いので、非常に聞き取りやすいのです。
彼はデンマークの思想家、キルケゴールの言葉を、
私に教えてくれました。

「あなたの国で歌われている歌を聴かせて下さい。
 そうすればあなたの国の未来を私は予言しましょう。
 あなたの国の法律家や政治家の言葉は、
 聞く必要がありません。」

この言葉が意味しているのはこういうことです。
その国を導く「思想・哲学」というのは、
学者たちによって言語化・体系化される前に、
感度の高い芸術家たちによってキャッチされ、
それが表現される。
それから学問の世界の人たちが遅れてそれを体系化し、
さらにそれを読んだ感度の高いビジネスマン、政治家、教育者らが、
それぞれの世界において実践に移す。
そのようにして、その思想の影響は私たちに可視化される。
さらに言えば、様々な領域でその思想が実践されて何十年か後、
一般大衆は完全にその思想に染まる。
しかし、彼らは「自分がその思想に影響されている」
という意識すらない、ということです。

これを「思想のピラミッド」と言います。
これは別にピラミッドの頂点に立つ人が偉いとか、
一般大衆が偉くないとか言ってるわけではありません。
そうではなく、思想というのは、
そのような順番で世の中に浸透してきたし、
それはこれからも変わらないだろう、ということです。

ちょっと難しいことを言いますと、
「価値相対主義」とか「多元主義」といった思想があります。
現代を生きるどんな人も、この影響から無縁ではいられません。
日本の田舎に住む、高卒の親に育てられた小学生ですら、
それに影響されているとは知らずに、
「価値相対主義」に影響されて生きています。

「価値相対主義」というのは、
「絶対的な真理なんてない。」
「真実は人間の数だけある。」
といった考え方です。
価値相対主義ということについて語ったり、
体系化した本が世の中にはたくさんありますが、
それより遙か以前に、
ジョン・レノンが「イマジン」という歌でそれを歌いました。

「イマジン」はあまりに有名でもはや「常識」なので、
ここでその歌詞を紹介するのは、
もはや野暮というものですが、
もしかしたら知らない人のために、
その歌詞と和訳を部分的に紹介します。

「Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion too
Imagine all the people
Living life in peace

想像してごらん 国なんて無いんだと
そんなに難しくないでしょう?
殺す理由も死ぬ理由も無く
そして宗教も無い
さあ想像してごらん みんなが
ただ平和に生きているって...

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will be as one

僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
きっと世界はひとつになるんだ」

これは「価値相対主義」そのものです。
彼は「まだ言語化されていない思想を、
彼にしかない感度でキャッチし、
そしてそれを歌にした」のです。
ジョン・レノン自身は、
「価値相対主義」という言葉すら知らなかったかもしれません。
しかし彼はそれを芸術の言葉で語り、
この歌はじっさい、「世界を変えました」。



▼▼▼弟子とするか、弟子とされるか▼▼▼

ステファン・エイカー氏の話に戻りましょう。
彼はキュルケゴールの言葉を紹介し、
「思想のピラミッドの話」を私に教えてくれました。
そして言いました。

「教会は、このプラミッドの頂点にいるべきだと僕は思う。
 しかし現実には残念なことに、
 教会は最下層の一般大衆とさほど変わらない。
 つまり自覚することすらなしに、
 教会は世の中の価値観に影響を受けてしまっている。」

FVIの働きのアメリカにおけるネットワークである、
DNA(Disciple Nations Allience)という団体があります。
私の人生のメンターであるボブ・モフィット氏は、
この団体に属しています。
ボブと一緒にこの団体を立ち上げた、
ダロ―・ミラーという人がいますが、
彼がこんなことを言っています。

「もし教会が世界を弟子化していないとすれば、
 そのときは世界が教会を弟子化しているのだ。」

教会は影響を与えるか、
もしくはゼロか、ではありません。
影響を与えていないとしたら、
そのときは(自覚の有無にかかわらず)、
影響を受けているのです。

物理化学の用語を使えば、
世の中と教会の影響力は、
浸透圧の関係にあります。

もし教会が影響を受けるだけの存在となり、
この世の中とまったく区別が付かないとしたら、、、、
イエスは言われました。
「塩気をなくした塩は、
 役に立たず外に放り出され、
 人々に踏みつけられるだけです。」

、、、というわけで、
ステファン氏は、インドの社会において、
教会(の一部)である自身が、
影響を与える芸術家でありたいと願いました。

彼が始めた働きはユニークです。
アーティストのためのワークショップを始めたのです。
まずは10名前後のアーティストを集めます。
(ステファン氏は第一回、画家として参加者も兼務しました。)
宗教的背景は問いません。
ステファン氏がキリスト教徒なので、
キリスト教徒が当然多いのですが、
ヒンズー教徒でもイスラム教徒でもかまいません。

そしてそのメンバーで、
1週間とか2週間、合宿をします。
毎回「テーマ」が決められています。
「命の尊厳」とか、「平和」とか、「社会の分断と一致」とか、
そういったテーマです。
基本的にはアトリエの中で、
決められた期間、アーティストたちは、
だれにも邪魔されずに制作活動をします。

一つだけルールがあります。
毎朝1時間ほど時間をとり、
聖書からそのテーマについて学びます。
そして一緒に祈ります。
それから制作活動をするのです。

ワークショップが終わると、
たくさんの作品が生み出されます。
それらを集めて、「展覧会」を開きます。

それが、ステファン氏が始めた活動でした。
面白そうでしょ?



▼▼▼インドにおける女の子の堕胎▼▼▼

私が訪問した2008年には、彼らの働きは、
そういった作品を常設展示したり、
希望する人に売ったりするための、
アートギャラリーをデリー市内に持っていました。
(デリーの家賃高騰のため、現在はギャラリーは引き払っています)
私は滞在中何度もこのギャラリーを訪れました。

▼参考画像:REFLECTIONアートギャラリー
https://goo.gl/crdGxn

訪問するたびに「テーマ」が違っていました。
つまり、別のワークショップで生み出された作品が、
展示されていたわけです。

あるときのテーマは、
「女の子の堕胎」でした。
インドには「ダウリー」と呼ばれる非常に高額な結納金を、
女の子の親が婿に支払うという慣習があります。
それだけでなく、ヒンズー教の世界観では、
「女に生まれる」というのは、
前世の悪いカルマの「罰」だという考え方があります。
ですから親は、あまり女の子が生まれることを喜びません。

あまりにも女の子の堕胎や間引きが多いので、
インド政府は、性別が判明してからの堕胎を禁止しています。
しかし医者の中には、
「女の子ならカルテに赤いボールペンで、
男の子なら青いボールペンで書く」などの「隠語」を使って、
親たちに性別を教え、堕胎するということで金を稼ぐ人もおり、
法律の抜け穴をくぐる女の子の堕胎は後を絶ちません。

その結果、インドの男性と女性の比率は、
自然状態ではあり得ない状態になっています。
自然状態ではどんな人種でもだいたい男女は、
51%対49%で生まれます。
男の方が身体が弱いので、
成人になると半々に近づきます。
ところがインドでは優位に女の子が少ない。

なぜか?

、、、そういうことです。
イギリスの医師会が「これは放置できない」と、
調査を行いました。
その結果、これまでに1,000万人以上の女の子が、
何らかの形で「消されて」いる、
ということがわかり、世界に発表されました。
インド政府はそんな不名誉なことは国益を損じるので、
いろんな法律で是正しようとするのですが、
人々の世界観や宗教観、そして因習というのは、
なかなかすぐには変わらないものです。

、、、そのような社会に生きている信仰者だとしたら、
あなたなら何をするでしょうか?

政府の前でデモ行進をするのも一つ。
本を書くのも一つ。
不正な堕胎を行う医師がいる病院を、
爆破するのも一つ(オススメしません)。

ステファン氏は絵を描いたのです。

なぜ「絵」なのか?

それは、「言葉」というのはいつも、
「壁」を作るからです。
「言語」は物事を「分ける」性質があります。
この話題について言葉で戦争をしかけると、
ヒンズー教徒の人は、
自分の信じている神を否定されたように感じます。
しかし、「絵で語る」ときに、
そこに言語が介在しませんから、
その人の良心、あるいは心の深い部分に、
直接に語りかける事が出来るのです。

そうです。

先週のメルマガの「Q&Aコーナー」で語った、
「社会はなぜ右と左に分かれるのか?」
のテーマと、まったく同じですね。
言語は「象使い」(理性)に語りかけます。
絵は「象」(情動)に語りかけるのです。
ヒュームが言ったように、
「情動に語りかけない説得が人を動かすことは少ない」のです。

そろそろ文字数オーバーですので、
「女の子の堕胎」がテーマだったときの、
ギャラリーに飾られていた絵を2枚だけ紹介して、
この記事を閉じたいと思います。

▼参考画像:「虎は守るが、女の子は殺す」
https://goo.gl/VkF1in

、、、この絵は少し説明が必要です。
インド政府は一時期、絶滅危惧種だった、
ベンガルトラを国を挙げて保護しました。
その活動は実り、数は増えました。
しかし、数百頭のベンガルトラを国を挙げて守った政府が、
一千万の女の子の命を守れないというのは、
いったい何なんだろうね?という問いかけです。

▼参考画像:「神の傑作」
https://goo.gl/qjeKYx

、、、こちらは説明不要ですね。
胎児を描いている手は、
神様の手です。
軽率な堕胎というのは、
「神の傑作」を闇に葬ることになるんですよ、
という「言葉」以上に、絵は雄弁です。

ステファン・エイカー氏が言うには、
これらの作品をギャラリーの展示会で観た、
あるヒンズー教徒の弁護士はこう言ったそうです。
「私はヒンズー教徒ですが、
 これらの絵を見て魂を揺さぶられました。
 このような問題を放置しておくのは、
 社会的に正しくありません。
 私は弁護士として何らかのアクションを起こすつもりです。」



▼▼▼そして福島へ、、、▼▼▼

2011年3月11日の東日本大震災以降、
FVIは福島での支援活動に従事しました。
2011年に開催した「福島未来会議」はシリーズ化し、
第四回の「福島未来会議4 全国聞き屋サミット」を、
行った後の2013年に私たちは話し合いました。
今度は「原発」「エネルギー」「環境」をテーマにしないと、
この活動は嘘になるだろう、と。
そして、「福島未来会議5」は、
そういったテーマに切り込もう、と。

ところがこの話題というのは、
今でもある程度そうですが、
けっこう国論を二分する議論になっていて、
さらにそれが生理的な感情と結びついているので、
言葉で何かをしようとしても、
「泥仕合」になってしまう可能性が高い。

どうしよう、、、。

そこで、私は2008年に観た、
ステファン・エイカー氏の働きを思い出したのです。
あれを原発問題でやってみたらどうだろう?
という発想で行ったのが、
「福島未来会議5」でした。
私は2013年11月の導入のときにだけ、
参加アーティストの方々に、
ステファン氏の働きを紹介しただけです。
その翌月に私は燃え尽き症候群に陥り、
2年間休職しましたから。

その間、アーティストの方々は作品を生み出し、
福島県内で展覧会が開催されただけでなく、
カナダでも展覧会が開かれました。
さらに参加されたアーティストの方々は、
FVIの働きとは関係なく、今も交流を続けています。

▼参考リンク:福島未来会議5
http://karashi.net/project/fukushima/future_forum05.html

人生というのは冒険です。
何と何がつながるか分かりませんね。

、、、で、何の話だっけ?

そう!忘れられない美術品でした!
私にとっては、インドで観た作品群も、
その一つです。



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陣内が先週読んだ本 2018年1月第二週 『アンパンマンの遺書』やなせたかし 他5冊

2018.07.04 Wednesday

+++vol.047 2018年1月16日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■4 陣内が先週読んだ本 
期間:2018年1月第二週 1月7日〜13日
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

先週私が読んだ本(読み終わった本)を紹介していきます。
一週間に一冊も本を読まない、
ということは、病気で文字が読めなかった数ヶ月を除くと、
ここ数年あまり記憶にないですから、
このコーナーは、当メルマガの
レギュラーコーナー的にしていきたいと思っています。
何も読まなかった、という週は、、、
まぁ、そのとき考えます笑。

ただ紹介するのも面白みがないので、
twitterに準じて、
140文字で「ブリーフィング」します。
「超要約」ですね。
(どうしても140字を超えちゃうこともあります。
 140文字はあくまで「努力目標」と捉えてください笑。)

忙しい皆さんになり代わって、
私が読んだ本の内容を圧縮して紹介できればと思います。
ここで紹介した本や著者、テーマなどについて、
Q&Aコーナーにて質問くださったりしたら、
とても嬉しいです。


●アンパンマンの遺書

読了した日:2017年1月10日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:やなせたかし
出版年:1995年
出版社:岩波書店

リンク:
http://amzn.asia/980akdF

▼140文字ブリーフィング:

昨年末、教会の子どもクリスマス会で、
メッセージをしたときに、
「アンパンマン」の話と、
作者のやなせたかしさんの話をしました。
私はやなせたかしさんの著書、
「わたしが正義について語るなら」から引用しました。

やなせさんは兵隊として太平洋戦争に行きましたから、
「戦争は心底くだらない。
 そこに正義などない。」
ということを骨身にしみて味わったわけです。
そして彼がたどり着いた「正義の定義」は、
「正義とは、飢えた人にパンを与えることだ」
というものでした。
アンパンマンの物語にはその思想が入っているわけです。
「わたしが正義について・・・」から引用します。

→P20
〈正義のための戦いなんてどこにもないのです。
正義はある日突然逆転する。
逆転しない正義は献身と愛です。
それは言葉としては難しいかもしれないけれど、
たとえばもしも目の前で飢えている人がいれば
一切れのパンを差し出すこと。
それは戦争から戻った後、
ぼくの基本的な考えの中心になりました。〉

、、、で、引用しながら、
そういえばもっとやなせさんについて知りたいなぁ、
と思ってこの本を図書館で予約していましたので、
やっとそれを読み終わった、ということです。

二つのことが特に心に残りました。
やなせさんが「遅咲きの人」だったということ。
やなせさんは手塚治虫や赤塚不二夫や石ノ森章太郎らと共に、
戦後の「日本漫画史」の「創世記」に名を連ねる人でしたが、
彼が頭角を現したのは非常に遅く、
世の中に名前を知られるようになったのは50代以降です。
34歳のときにつとめていた三越デパートを退職し、
漫画家の道を志します。
何の後ろ盾もなく。

退職した次の日、縁側でやることがなくて途方に暮れた、
と「アンパンマンの遺書」には書かれています。
その後、40歳を過ぎてもろくな仕事はありません。
ちょうど、今の「売れない中堅芸人」みたいなものです。
これもちょうど今の売れない芸人が、
同期の人気芸人たちがテレビに出ているのを見るのが辛いのと同じで、
やなせさんも華々しく活躍する手塚治虫らを、
なかなかにビタースイートな感情で、
眺めていたという告白が素直に書かれています。
引用します。

→P155 
〈嵐が過ぎて、ぼくのまわりには平和が戻ってきた。
中途半端だが、まずおだやかなC級漫画家の生活にかえった。
四十歳の後半になっていたから、
漫画家としては年貢の納め時で、
「さしたることはできなかったが、ま、いいか」と思った。
漫画家の主流は劇画になり、立場は逆転していた。
ぼくはとにかく自分の仕事の方向を決めなければならなかった。
虫プロの方はこの数年後に倒産という最大のピンチを迎えるが、
僕の方は、ほめられもせず、けなされもせずというところで、
人生の二コマ目の「承」が無風のまま終わる。
果たしてこの先面白くなるかどうか、
ぼくの人生はなすこともなくだらだらと
晩年に向かって傾斜を転げていくのだろうか。
たいして期待も持てないまま暗夜はまだ明けず、
地平線は深い霧の底に沈んで見えなかった。
そして「転」、三コマ目は意外な展開となる。〉

、、、彼が「アンパンマン」を初めて出版したのは1973年、
なんと52歳のときです。
そしてテレビ放送されたのが1988年、
このときやなせさんは69歳になっています。

私も人間として、「まだ咲いていない」ですし、
それどころか「舞台にも立ててない」です。
いや、ホントに。
何かの組織に属したり、プロパーな学位だったり立場だったり、
そういったシナリオのある人生の「アウトサイド」で生きる、
というのは、そういうものなのです。

40になってもまだ他人に「自分の仕事はこれです」と、
一言で納得してもらえないのは、結構辛いこともあるのです。
だから私は「売れない芸人」にこれほど共感するのです。
「もう40だけど、このまま咲かずに終わっていくのかなぁ。」
という気持ちが私にも少なからずありますから笑、
やなせさんの話に非常に励まされました。
当時のやなせさんと一杯飲みに行きたいです笑。
朝まで語り明かしたい。

もうひとつヒットしたのは、
アンパンマンが「傷つく正義」という概念を提示していることです。
やなせさんは聖公会のクリスチャンでもありましたから、
「傷つく正義」とはイエス・キリストの姿も、
意識していたのかもしれません。

→P170 
〈『あんぱんまん』はだれにも期待されないで出版した。
本のあとがきにはこう書いてある。
「子ども達とおんなじに、
ぼくもスーパーマンや仮面ものが大好きなのですが、
いつもふしぎにおもうのは、
大格闘しても着ているものが破れないし汚れない、
だれのためにたたかっているのか、よくわからないということです。
ほんとうの正義というものは、
けっしてかっこうのいいものではないし、
そして、そのためにかならず自分も深く傷つくものです。
そしてそういう捨て身、献身の心なくして正義は行えませんし、
また、私達が現在、ほんとうに困っていることと言えば物価高や、
公害、飢えということで、正義の超人はそのためにこそ、
たたかわねばならないのです。
あんぱんまんは、やけこげだらかのボロボロの、
焦げ茶色のマントを着て、ひっそりと、はずかしそうに登場します。
自分を食べさせることによって、
飢える人を救います。
それでも顔は、気楽そうに笑っているのです。
さて、こんな、あんぱんまんを子どもたちは、
好きになってくれるでしょうか。
それとも、やはり、テレビの人気者の方が良いですか?」〉
(2,125文字)

▼参考リンク:『わたしが正義について語るなら』やなせたかし
http://amzn.asia/68sGbGG



●聖書と歎異抄

読了した日:2017年1月9日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:五木寛之 本田哲朗
出版年:2017年
出版社:東京書籍

リンク:
http://amzn.asia/8Hitjj8

▼140文字ブリーフィング:

「歎異抄(たんにしょう)」というのは、
親鸞の弟子が、「親鸞聖人はこうおっしゃった」という形で、
親鸞の口伝の教えを文字化したものです。
イエスの教えを文字化した「福音書」や、
孔子の教えを「師曰く・・・」という形で文字化した「論語」と同じです。
五木寛之さんは50歳になって大学に入り直して仏教を学びました。
その後「親鸞」という小説を書いたり、
歎異抄の「私訳」を出したりしています。

本田哲朗さんはカトリックの神父で、
総本山のバチカンでも教育を受けた神学的エリートですが、
釜ヶ崎というホームレス居住区での支援活動を通して、
「私が頭で知っていたと思っていた神はまったく違っていた。
 いままでの『神学』が覆された。
 私の神学の師はホームレスのおじさんたちだ」
と公言してはばからない、
現代の「アッシジの聖フランシスコ」みたいな人です。

そんな二人の対談ですから、
まぁ、当然面白いわけです。
二人はお互いの専門分野に引きこもるのではなく、
そこに生まれる対話を楽しんでいます。
イエスと親鸞には、その生き方にも教えにも、
あまりにも共通するものが多い。
中国で流行していた景教を経由して、
親鸞が聖書の教えに何らかの形で触れていたという有力な仮説がありますが、
歴史は「物証主義」ですから、それを実証することは困難です。

この本の中に、世界的に有名な日本の神学者、
北森嘉蔵の「神の傷みの神学」が登場していて、
それが興味深かったので引用します。

〈五木:先日たまたま、彌生(やよい)書房から出ている
 『曽我量深対話集』という本を読んでいたら、
 対話者の北森嘉蔵さん・・・”神の傷みの神学”ですね。
本田:”神の傷みの神学”の提唱者です。
五木:北森さんが台湾を旅行されたのだそうです。
 帰ってきて、一番大きな収穫は、
 台湾の人たちが使っている福建語ですか、
 「チャンタン」ということばを得たことだと語っておられます。
 「チャン」は「痛」という字なんです。
 タンは「疼」なんですね。
 痛と疼の字が重なった「痛疼(チャンタン)」ということばは、
 とげが刺さって痛いという時と、
 赤子を抱いた母親が子どもを愛しく思う時の気持ちと、
 同じことばを使う、と。
 つまり、痛いという気持ちと、
 切ないという気持ちと、
 愛しいという気持ちが、
 「痛疼」ということばにひとつになっていることを知って、
 自分は非常に感動したとおっしゃっていた。
 西田幾多郎さんが、
 西欧には日本的な「悲しみ」の感覚がないと言うことを
 言っているらしいのですが、それは違う、と。
 つまり、本田さんがよくお書きになっている、
 「はらわたにしみる」とか「肺腑をえぐる」というような、
 そういう痛みの感覚が、たとえば聖書の中には表れている。〉

台湾語の「チャンタン」は、針で自分を刺したときにも、
赤ちゃんがかわいくて仕方ないときにも使う。
「本当の愛は傷つく」とやなせたかしさんは、
アンパンマンを通じて言いたかったわけですが、
それと通じるものがあります。
(1,203文字)



●カムイ伝 第一部(1)誕生の巻

読了した日:2018年1月9日
読んだ方法:Kindleで無料購読キャンペーン

著者:白土三平
出版年:1967年
出版社:小学館

リンク:
http://amzn.asia/bluiVsM

▼140文字ブリーフィング:

友人の勧めで読み始めました。
ちょうどキャンペーン中で、
Kindleで無料試し読み期間中だったので急いで読みました。
2巻目以降は図書館で借りて読み進めようと思います。

「カムイ伝」、名前ぐらいは知っていましたが、
まったく無知でした。こんなすごい漫画が日本にあったとは。
漫画のすごいところは、物語を通して、
説教臭くならずに大切なことを伝えられるところです。
「カムイ伝」の場合、そのテーマは「差別」「搾取」、
「人間社会に不可避な矛盾」などです。
江戸時代の「人間群像」「青春群像」を通じて、
その社会が構造的に抱える矛盾や抑圧をあぶり出します。
時々作者の「語り」として文章が挿入されますが、
それがまた深い。
引用します。

→P397 
〈免五つといえば、五公五民・・・百姓が生産した米の半分を、
人口の一割にも満たない武士達が取ったわけである。
しかも、場合によっては、免が七〜八つというときもあったのだ。
支配者は、こういった関係を出来るだけ長く保つために、
さまざまな制作や制度をこしらえ、
人々を統制の枠の中に押し込め従わせていたわけである。
こういったものは、人々の少しでも良い生活という夢や努力と、
真っ向から対立していた。
身分的にも経済的にも、前に進もうとすれば、
直ぐに大きな壁に突き当たらねばならなかった。
強くなりたい非人カムイ、本百姓になって己の畑を作りたい下人正助、
オミネの恋・・・すべて個人的ではあるが、
前進しようとするもののその行動は、
いずれ大きな壁にぶつかることになるだろう。
また、百姓だけでなく、藩のために働く家老草加、
その子竜之進、やっとあだうちをとげ断絶をまぬがれた馬場平八郎、
それら武士を監視する目付橘軍太夫、
そして、そのうえにたつ領主にしても、
そのゆくてには、封建制という大きな壁が、立ちふさがっていた・・・。〉
(757文字)



●からだを読む

読了した日:2018年1月8日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:養老孟司
出版年:2002年
出版社:ちくま新書

リンク:
http://amzn.asia/i1t05M0

▼140文字ブリーフィング:

先日読んだ「身体知性」という本が非常に面白く、
その中で紹介されていて興味を持ちました。
「え?養老孟司の本でまだ未読のものが?」
というそれだけの理由です。
私はそれぐらい養老孟司のファンです。

この本は東大医学部解剖学教室を退官して10年目の、
養老孟司の「解剖学講義」です。「バカの壁」執筆前です。
私は獣医学部で比較解剖学や組織解剖学を履修していますから、
やることはほとんど医学部と同じです。
なので、非常に懐かしかったです。
肝臓の小葉、門脈、静脈、動脈の「三つ組み構造」、
「小葉間胆管」など、本当に、20年ぶりぐらいに思い出しました。
また、養老さんが、「解剖学」という方法を用いて、
森羅万象を語るということを
退官後の仕事にしているという構図もよく分かりました。

おそらく養老孟司の本を読む読者の99%は、
それが「解剖学」だと思っていません。
しかし彼も自分で言っていますが、
彼は「解剖学」をずっとしているのです。

どういうことか。

解剖学とはつまるところ「言語化」なのです。
まだ言語化されていない、目の前にある骨や関節や組織や細胞に、
「名前をつける」という人間にとって根源的な作業をするのが、
解剖学の本質です。

それは人体のみならず、
地球環境や政治問題、人間社会や「生きる」ということにも、
応用可能です。
要するに彼は、「言語化」を、退職後もし続けているわけです。


→P105〜107 
〈これ(食道と胃の境界が定義しづらいこと)が、
すでに述べた「境界問題」の一例であることは、
おわかりいただけるであろう。
言語は存在を「切る」が、存在自体は、切れるとは限らない。
われわれは日常、むしろ言語世界に埋没していることが多いので、
こうした自然の「切れなさ」を無視することが多い。
この問題は、解剖学というものの発生と、実は根本的に関連している。
(中略)
では逆に、正常の人体を解剖しようなどと、なぜヒトは考えたのか。
その理由はすなわち言語である。
ヒトは世界をことばで埋め尽くした。
この作業は、ほとんど偏執狂としか言いようがない。
ところが、ある日突然、だれかが気づく。
「からだの内部が、まだことばで埋め尽くされていないではないか」。
ここで大宇宙に対して、小宇宙が出現する。
小宇宙とは、つまり人間のことである。
(中略)
言語を創り出す行為は、われわれがもうほとんど忘れてしまったが、
しかし間違いなく存在した古い時代のヒトの行為に属する。
現在でも言語はごく部分的には生じているが、
それはすでに存在する言語の部分的な修正にほとんど限られている。
今ではわれわれは、規制の言語をただ運転しているのである。
しかし、歴史上、人体の内部はおそらく、
もっとも言語化の遅れた領域だったのである。
その領域までも、なんとか言語化しようとしたのが、実は解剖学である。
だから解剖学は「ことば」にこだわる。
医学生は数千の解剖学用語を最初に習わされて往生するが、
こうした用語が解剖学でとくに大切にされる理由は、おそらくここにある。〉
(1,231文字)



●なぜ、世界は”右傾化”するのか?

読了した日:2017年1月11日
読んだ方法:図書館で借りる

著者:池上彰、増田ユリヤ
出版年:2017年
出版社:ポプラ新書

リンク:
http://amzn.asia/6Ih4cZT

▼140文字ブリーフィング:

アメリカのトランプ政権、
ロシアのプーチン政権、
日本の安倍政権、
中国の習近平政権、
トルコのエルドアン政権、
フランスのマリーヌ・ルペンの躍進、
イギリスのEU脱退、
フィリピンのドゥテルテ政権など、
世界を見渡すと保守的で右派的でナショナリズム的な、
「自国第一」を目指す保護主義・排外的な政権「だらけ」です。
5年前、第二次安倍政権は海外メディアから、
「極右」や「超国家主義」などと警戒されていましたが、
この5年間で世界が安倍さんを追い抜いていきましたので、
皮肉なことに安倍政権は今、
「世界で最も穏健な政権のひとつ」です。
クラスで一番の太ってる男子が相撲部屋に入ったらスリムに感じた、
というような話なので、
「あぁ、良かった」と言えるのかどうかは不明ですが笑。

なぜこれほど世界は「右傾化」するのか。
その答えは出ています。
「グローバリズムへのキックバック(反作用)」です。
長くなるのでその説明はしません。
本書を読んで下さい。

池上さんの良い所は、
今更聞けないような「右派ってそもそも何?」
という言葉の定義を根っこから分かり易く教えてくれるところですね。
右派、左派というのはフランス革命がきっかけで出来た言葉です。
引用します。

→P193 
〈そもそも「右翼」「左翼」といった言葉が生まれたのは
フランス革命がきっかけです。フランス生まれなのですね。
18世紀、フランスの絶対王政のシンボルだった
パリのバスティーユ監獄が襲撃され、フランス革命が勃発すると、
1789年に国民議会が開かれます。
このとき、国王ルイ十六世の権利を認めるべきだと主張する王党派は、
議長席から見て右側に陣取りました。
これに対して国王の権利を認めない勢力は左側に座りました。
これ以降、伝統を守る保守派のことを右翼、
改革を求める勢力を左翼と呼ぶようになりました。
「右翼」とは「古き良き伝統」を守ろうとする勢力であり、
伝統的な身分制度の存続を求めたり、
時代の変化や外来思想の流入を快く思わなかったりする人が多いのです。
一方、左翼は、封建的な身分制度を否定し、
「自由で平等な社会」の実現を目指す人たちです。
しかし、やがて言葉の意味が変質してきます。〉
(881文字)



▼▼▼リコメンド本「今週の一冊」▼▼▼

陣内が過去一週間に読んだ本の中から、
「いちばんオススメだったのは?」という基準でリコメンドします。
「いちばん優れていた本」というよりも、
「いちばんインパクトの大きかった本」という選考基準です。
皆さんの書籍選びの参考にしていただけたら幸いです。


▼今週の一冊:アンパンマンの遺書

コメント:

やなせたかしさんの生き様に心底、
「かっこいいなぁ」と思いました。
やなせさんにはどこか、タモリや所ジョージなどにも通ずる、
「才能があるのにガツガツしてない達観した所」があります。
その秘密は彼が自分の人生を「おまけ」だと思っているからだ、
というのがこの伝記を読むと分かります。

→P2 
〈戦後も50年を経たが、
ぼくの人生はまさに戦前、戦中、戦後を通過してきた。
いつ死んでもおかしくない激動の時代だった。
ぼくはなんとか生き延びてきた。
今は人生のオツリか、附録のようなものだ。
しかし附録が本誌より豪華と言うこともある。
ぼくの附録は意外と良かった。
高位高官というのは望まないし、似合わない。雑草の暮らしが良い。
それにしては恵まれていたと思う。
日陰の細道の名もない雑草としては、
ちいさな花を咲かせることができただけで望外である。
すべての点で人後に落ちるぼくにしては上出来と、
自分で拍手している。〉

、、、私も2年間うつ病で療養しました。
死んでもまったくおかしくなかったですから、
私が今生きているのはもう「おまけ」だと思ってます。
けっこうそう思いながら生きるのって、楽です。
「欠乏感」から自由ですから。
最初から「本来ゼロだった」のだから、
あとは何をしても「プラス」しかありません。

死ぬほどの病気療養をしたことの益のひとつは、
人生が「加点評価」に変わったことです。
「今日も生きていて仕事が出来る」というのが、
毎日人生に「加点」されていきます。
それ自体成功なのですから、
仕事の結果まで成功を求めるのは「欲張り」というものです。
あー、ありがたい。

私にとって人生が「附録」となったのは病気でしたが、
やなせさんにとってはそれが「戦争」だったわけですね。



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  • 2018.07.04 Wednesday
  • -
  • -

【Q】政治に関する話題を建設的に話すにはどうすれば良い?

2018.07.04 Wednesday

+++vol.047 2018年1月16日配信号+++

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■3 Q&Aコーナー

皆さんからお寄せ頂いた質問にお答えするコーナーです。

日頃の悩み、疑問、今更誰かに聞けないギモン、、、、
質問の種類は問いません。お気兼ねなくご質問をお寄せください。
ご利用は下記に基づいてご利用いただけると幸いです。

【Q&Aについて】
▼全てのご質問にお答えすることはできません。予めご了承ください
▼いただいたご質問は、ブログ・FVIメディアルームに掲載される可能性があります
▼本名での投稿の場合は「ペンネーム:無し」となります
▼必ず下記フォームからご質問を送信ください

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

【Q&Aコーナー専用フォーム】

▼URL
https://www.secure-cloud.jp/sf/1484051839NyovBkYI

※大変お手数ですが一つの1メール1質問を原則とさせてください。
ご協力宜しく御願い致します。

※頂いたメールはすべて目を通しております。
陣内俊への要望やメルマガの感想、激励などももちろん大歓迎です!

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

●【Q】政治的な話題はどのように話す?

ラジオネーム:ラス・コリナス(男性)
お住いの地域:海外

Q.

陣内さんに質問です。
私はテキサスに住んでいます。
関連する二つの質問があります。

1.アメリカはいま日本以上に、
右翼(共和党・トランプ支持者)と、
左翼(民主党)の二極化が進んで分裂しています。
そのようななかで、
日常のなかでどんなふうに、
市民として建設的に政治的な会話をすることができるか、
いつも思い悩んでいます。
陣内さんに是非意見を聞いてみたいです。

2.メルマガを読んでいますと、
陣内さんはどちらかというとリベラルな立場と思われますが、
陣内さんならどのようにして
右派の人に自分の立場を説明しますか?
たとえば「トランプ大統領に関してどのように思いますか?」
という質問をされた場合、
どんなふうに相手を怒らせることなく、
自分の意見を相手に説明しますか?


A.

ラス・コリナスさん、ご質問ありがとうございます。
関連する二つの質問なので、
ひとつの質問として扱わせていただきます。

アメリカの右派と左派の分断が深くなっているのは、
日本から見ていてもよく分かります。
日本もまた、この10年ほど特に、
右派と左派の分断は深まり、
その対話は難しくなってきていると、
私は認識しています。

ですからこの話題については私はこの5年間ぐらい、
自分なりに考え続けてきました。
たぶん50冊ぐらいの関連書を読んできました。
その中には保守派の本もありましたし、
リベラル派の本もありました。
保守とかリベラルを包摂する「広く政治とは」を語る本もありました。
そのような数多くの書籍のなかで、
最もためになるヒントを与えてくれた一冊ありますので、
まずはそちらをご紹介します。

▼参考リンク:『なぜ社会は右と左に分かれるのか』ジョナサン・ハイト
http://amzn.asia/0jvPbWA

この本のサブタイトルは、
「対立を超えるための道徳心理学」です。

タイトルの「なぜ社会は右と左に分かれるのか?」
その答えは、政治信条というものが、
論理ではなく感情により強く結びついているからです。
自分はトランプ支持者だ、とか、
自分はトランプ不支持だ、という場合、
それは本人は「論理的に導き出した答え」と、
主観的には思っているかもしれないが、
実はそこには感情が結びついている。
だから政治の議論はこんなに紛糾するのだ、
と著者は指摘しています。

折しも「ダボス会議」を前に、
反トランプのデモが行われていますが、
ああいうのは「感情」でしか説明できません。

政治に関する議論は感情と結びつくため、
相互理解が難しい。
これは音楽や食べ物の趣味嗜好にも似ていて、
つまり、生理的にレゲエ音楽が嫌いな人と、
生理的にレゲエ音楽が大好きな人とで、
コミュニケーションを取るのはとても難しいよ、
ということです。

そこで終わってしまってはこんな本を書く意味がないので、
著者はそこからさらに話を進めます。
「政治の話は感情と結びついているので難しい」
という前提をまずは認めた上で、
「それでも相互に理解し尊重し合う道はないだろうか?」
と問うたわけです。

池上彰風に言えば、
ラス・コリナスさんの質問同様、
「良い質問でです」。

著者は本来リベラル派の人です。
彼は研究のためにインドに3ヶ月滞在しました。
彼はインドにいる3ヶ月の間に、
「世界が変わる」体験をしました。
それは自らの存在を揺さぶるような出来事でした。
インド滞在後の彼は、リベラルであることには変わらないが、
保守主義者もまた、自分と同じぐらい真摯なのだということを、
心から受け入れられるようになった、というのです。

その経験を元に、
自分の中で何が起きたのか、
ということを探るのがこの本です。

この本からの学びを体系化して、
ラス・コリナスさんの質問に即して解説する知的力量が、
いまの私にはないように思われますので、
私がこの本に書いた「メモ書き」に解説を加える形で、
このメルマガの「本のカフェ・ラテ」形式に近い形で、
ご紹介していきたいと思います。
では始めます。

→P66 
〈さて、いまや私たちは三つの「心のモデル」を手にしている。
プラトンは「たとえ哲学者だけがそれに値するのだとしても、
理性が主人たるべきだ」と言った。
ヒュームは、「理性は情熱の召使いたるべきだ」と主張した。
そしてジェファーソンは、
「理性と感情は、帝国を東西に分割して統治したローマ皇帝のように、
おのおのが独立した共同支配者であり、そうあるべきだ。」
という第三のオプションを提示した。
では、いったい誰が正しいのだろうか?〉

理性>感情(プラトン)なのか?
理性<感情(ヒューム)なのか?
理性+感情(ジェファーソン)なのか?

いずれなのか?

この本を最後まで読むと、
著者の結論はヒューム及びジェファーソンと、
一致していることが分かります。
つまり著者は感情の方が理性より優位だと言っている。
だからといって理性は感情の奴隷ではない。
感情と理性は互いに協力し合い、
「象の乗り手」と「象」のように人間を導くのだ、と。

、、、そうです。

「象の乗り手と象」。
これがこの本の最大のキーワードです。
続けます。

→P85 
〈マーゴリス(「パターン・思考・認知」の著者で公共政策学者)は
それ(判断と理由付けは別のプロセスであるというウェインの結論)に同意し、
次のように述べる。
人は何らかの判断
(それ自身、脳の無意識な認知作用によって生み出されたもので、
正しいときもあれば、そうでない場合もある)を行うと、
その正当性を説明すると自分が信じられる理由を作り出す。
だが、この理由付けは、後から考えられた合理化にすぎない。〉

、、、著者は、判断を行う情動が巨大な象(巨大で直観的)で、
理性が象の乗り手(象よりも遙かに小さいが、
象を助けるために進化した)という比喩を使って説明しています。
脳科学の研究では情動(感情)の方が、
脳の領野でいうと「古い脳」に属することが分かっています。
いっぽう理性の方は「新皮質」という新しい領域です。
古い脳のほうが、新しい脳よりも、
人間を引っ張る力は圧倒的に強いのです。
続けます。

→P90 
〈〈乗り手〉は、いくつか有用なことが出来る。
さまざまなシナリオを思い浮かべながら未来に目を向けられるので、
現時点での〈象〉の決定をよりよい方向に導ける。
新しいスキルを学び、新技術に習熟し、その知識を用いて、
災厄を回避しながら目標に到達できるよう〈象〉を誘導できる。
しかしもっと重要なこととして、
〈象〉がじっさいに何を考えているのかを知らずとも、
〈乗り手〉は〈象〉の代弁者としての役割を果たせる。
というのも、〈象〉がたった今したことの根拠を後から考え出し、
これからしたがっていることを正当化する理由を見つけるのに、
〈乗り手〉は非常に長けているからだ。
ひとたび人間が言語を発達させ、
それを使って噂話をするようになると、
常勤の広報担当を背負うことは、
〈象〉に計り知れない価値をもたらす。〉

、、、「乗り手」は理性、
「象」は情動でしたね。
人はいつも、情動的になした決定や感情を、
「合理化」します。
決定は本当は情動が行っているのですが、
後付けで「私はこれこれこういう合理的な理由で、
これを選択した」というのです。
これは結婚相手の選択から食べるもの、買い物、
仕事の選び方、友人の選び方など、
私達の日常のあらゆる行動にかなりの程度あてはまります。
そしてその最たるものが、
「どの政党を支持するか」などの政治的な立ち位置なのです。

続けます。

→P94 
〈社会的直感モデルは、道徳や政治の論争をすると
ひどくフラストレーションが溜まる理由を説明してくれる。
なぜなら、「道徳的な思考は、直感的な犬によって降られる尻尾」だからだ。
犬はコミュニケーションを図るために尻尾を振る。
尻尾をつかんで無理矢理振っても、犬を満足させることは出来ない。
それと同様、誰かの議論を言下に否定しても、
その人の考えを変えることは出来ない。
はるか昔に、ヒュームはこの問題を次のように述べている。
「思考は、論争する者がそこから自らの主張を引き出す源泉ではない。
よって、感情に訴えかけることのない論理が、
論争する者をしてより確たる原理を受け入れられるよう、
いつかは導いてくれるだろうと期待しても、
その希望は無駄に終わるだろう。」
誰かの考えを変えたいのなら、
その人の〈象〉に語りかけなければならない。〉

、、、この文章が本書の「キモ」です。
ここで著者が何を言っているかと申しますと、
つまり「乗り手」を説得しても、
その人の政治的スタンスは変わらない、というのです。
むしろ「象」に語りかけなければならない。

やっと議論の核心に近づいていきました。
著者はさらに、「象」に語りかけることにおいて、
「保守」のほうが「リベラル」より長けている、
と言っているのです。

→P247〜249 
〈次に、左派と右派は、おのおの異なる方法、過程によって、
各基盤に依存していると言うことを述べた。
つまり、左派は主に〈ケア〉〈公正〉を基盤に、
また右派は五つの基盤(加えて〈忠誠〉〈権威〉〈神聖〉)に依存している。
だとすると、左派の道徳は
「真の味覚レストラン(甘みだけを提供するような架空のレストラン)」
のメニューのようなものなのか?
もしそうなら、保守主義の政治家は、
有権者に訴える、より多くの手段を持っていることになるのだろうか?
(中略)
シャーロッツビル民主党支部のメンバーへの私のメッセージは、
「共和党は道徳心理学を理解しているが、民主党員はできていない」
というとてもシンプルなものだった。
共和党員はこれままで長く〈乗り手〉ではなく、
〈象〉が政治的な態度を決定すると言うことを、
また、〈象〉がどのように機能するかをよく心得ていた。
共和党のスローガン、スピーチ、政治宣伝は、
単刀直入に直観に訴える。
(中略)
それに対して民主党は、〈乗り手〉に訴えようとする傾向が強く、
特定の政策やその恩恵を強調することが多い。〉

、、、作家の村上春樹はトランプ大統領が選挙に勝った理由を、
「ヒラリーは人々の心の『地下一階』に語りかけたが、
 トランプは心の『地下二階』に届く言葉を使った。」
と表現しています。
村上春樹の言っている「地下一階」とは理性のこと、
そして「地下二階」とは情動のことです。

著者のハイト氏は、政治的なアピールを、
5つの「味覚」にたとえています。
〈ケア〉〈公正〉〈忠誠〉〈権威〉〈神聖〉です。
民主党は最初の二つ「ケア・公正」を語ります。
差別のない多様性を認める公正な社会を構成しましょう!と。
一方の共和党は「ケア・公正」を別の言葉で語りつつ、
「忠誠・権威・神聖」についても語っている、というのです。
アメリカなら「アメリカ・ファースト」だとか、
「白人国家のルーツに帰る」とか、
「公の場でメリー・クリスマスと言えるアメリカよ再び!」
などです。

日本もまったく同じですね。
リベラルは「公正・ケア」を語ります。
自民党もそれらを別の言語で語り、
さらに彼らは「忠誠・権威・神聖」を語ります。
「ニッポンを取り戻す!」」
「万世一系の天皇神話」
「神の国・ニッポン」などですね。

ポイントはそれらが正しいか間違っているか、
ではなくて、「より味の種類が多い保守」のほうが、
いまのところ有利だ、という冷徹な事実です。

続けます。

→P449〜450 
〈道徳資本とは、進化のプロセスを通して獲得された
諸々の心理的なメカニズムとうまく調和し、
利己主義を抑制もしくは統制して協力関係の構築を可能にする、
一連の価値観、美徳、規範、実践、アイデンティティ、
制度、テクノロジーの組み合わせを、
一つの共同体が保持する程度のことである。
(中略)
これこそまさに、リベラルの抱える根本的な盲点だとわたしは考えている。
(中略)
つまりリベラリズムは、ときに行きすぎて
あまりに性急に多くの物事を変えようとし、
気づかぬうちに道徳資本の蓄えを食いつぶしてしまうのだ。
それに対し、保守主義者は道徳資本の維持には長けているが、
ある種の犠牲者の存在に気づかず、
大企業や権力者による搾取に歯止めをかけようとしない。
また、制度は時の経過につれて更新する必要が
あることに気づかない場合が多い。〉

、、、保守はなぜ「保守」と呼ばれるかというと、
制度の現状維持を望む派閥だからです。
これは「右派・左派」の語源である、
フランス革命後のフランス議会のころにさかのぼる伝統です。
トランプ大統領の場合「革新的」に見えますが、
「WASP 白人アングロサクソン南部プロテスタント」の、
「伝統的アメリカ人」からすると、
彼らの既得権を守りますよとトランプは言っているわけですから、
やはり「保守」なのです。

いっぽうリベラルは、
「もはや白人国家ではなくなっているアメリカ」を見据え、
それに対応するように平等な社会を実現しましょうよ、と言う。
しかしそこには「道徳資本の食いつぶし」に無頓着だという問題がある、
とハイト氏は言っています。
つまり、「社会を社会として維持しておくための糊」みたいなものが、
もしリベラルの理想を追求すると枯渇して、
社会がばらばらになっちゃう(少なくとも人々はそれを恐れる)
というのです。

一方の右派の盲点は、「現状維持」というのは、
既得権の温存を生み、利権を肥大化させる。
もし「声なき者たち」の抑圧が行き着く所まで行けば、
右派が求めている現状の維持すらままならない、
「革命」(または戦争)に近づいちゃうよ、ということです。

続けます。

→P451 
〈中国哲学における陰と陽は、
外部からは対立しているように見えるが、
じっさいには相互に依存し合う、補完的な二つの事象を指す。
夜と昼、寒と暖、夏と冬、男性と女性は敵同士ではない。
どちらも必要なものであり、
両者のバランスや出現のタイミングは様々に変化する。

ジョン・スチュアート・ミルは、リベラルと保守主義について
「健全な政治を行うためには、秩序や安定性を標榜する政党と、
進歩や改革を説く政党の両方が必要だ」と述べている。

「紀元前600年から現在に至るまで、
哲学者は、社会的な絆を強化したいと考える者と、
緩めたいと考える者の二派に分れてきた。」
と述べる哲学者バートランド・ラッセルは、
西洋哲学の歴史を通じて、
同じダイナミズムが働いてきたことを確認している。

ラッセルは、道徳資本という用語に考え得る限り最も近い言葉を用いて、
両者のいずれも部分的に正しいことを次のように説明する。
「長い歴史を通じて戦わされてきたこれらすべての議論において、
どちらの側にも、正しい面もあれば間違っている面もあることは明らかだ。
社会的な結束は必須の要素であり、人類の歴史の中で、
議論のみによって人々に結束を強いる試みはことごとく失敗してきた。
いかなる共同体も、一方では厳しすぎる規律や、
伝統に対する過剰な尊重によって生じる硬直化の可能性、
他方では相互協力を疎外する利己主義や
個人主義の発達によって起こる社会の解体や、
侵略主義的な他国への服従の可能性という
二つの相反する危険にさらされている。」〉

、、、ここでハイト氏は突然、
「東洋の話」をはじめます。
これは偶然ではありません。
西洋思想全体には、実は「アリストテレス論理学」の影響があります。
これは西洋人のものの考え方の基礎をなします。
そのなかに「排中律」とか「矛盾律」と呼ばれる概念があります。
「Aは同時に非Aではあり得ない」と表現されます。
石が石であるというのは、同時に火であることはあり得ない、
陣内俊がインドにいて、同時に日本にいるといことはあり得ない、
などの命題です。

この土台の上に西洋思想は依って立ちます。
そこに西洋思想の強さもあり、同時に弱さもあることを、
ハイト氏は自覚しているわけです。

どういうことか。

排中律の命題に基づけば、
「保守は同時にリベラルではあり得ない」
という二者択一になります。
「今のアメリカの政治において、
 保守が正しいということは、
 自動的にリベラルは間違っているということだ。
 (逆も真なり)」となります。

この前提で話し合いをすると、
必ずけんかになります。

ところが東洋の考え方は違う。
東洋にはなんと、厳密な「排中律」がないのです。
「AがAであって同時にBである」ということが成り立つ、
(西洋人にとっては)驚くべき世界が東洋なのです。
老荘思想などに顕著ですが、
「死ぬことはつまり生きること、
 生きることはつまり死ぬこと」とか、
「あなたは宇宙であって、宇宙はあなただ」とか、
アリストテレスが口の中のご飯を吐き出してしまうような、
驚愕の論理が展開されます。

ところがそれらはあながち荒唐無稽な話ではありません。
コインには裏と表があります。
コインの裏も、コインの表も、両方コインです。
H2Oは水でもあり同時に氷でもあり、そして気体でもあります。
生きているということは死にゆくプロセスですし、
ある生物の死は、それを糧とする別の生物の「生」でもありえます。
これらの関係を「補完的」と言いますが、
東洋は「補完性」を見つけるのが得意です。

これは中国だけでなく日本もそうです。
「売り手良し・買い手良し・世間良し」
の近江商人の理念もそうですが、
そこには「補完性」あるいは、
「ノン・ゼロサム・ゲーム」の原則が見受けられます。
「ゼロサム・ゲーム」の場合、
売り手が得をすれば、買い手は損する、
買い手が徳をするというのは売り手は損する、
という理論ですが、
「ノン・ゼロサム・ゲーム」の場合はそうではありません。
ハイト氏は、「右と左に分かれた社会の行き詰まり」を、
「東洋的な発想で前に進めることが出来るかもしれない」
と言っているわけです。

「Aか、もしくはBか」ではなく、
「Aも、Bも両方必要」というわけです。

リック・ウォレン牧師の説教を、
私はいつもポッドキャストで聴いています。
彼はアメリカの福音派の教会の牧師ですから、
どちらかというと「保守」のポジションを期待された人です。
しかし(記憶が確かなら)彼はオバマ大統領主催の朝祷会でも、
「国家の祭司」として祈りを捧げた人でもあるので、
保守やリベラルやキリスト教という枠すら超えて、
「アメリカの宗教者」を代表するひとりです。

あるメッセージのなかで彼はこんなことを言っていました。
「私は同じ一週間の別の曜日に、
 一度は最も保守的な雑誌、
 もう一度は最もリベラルな雑誌の取材を受けた。
 ある人々はイライラしながら私に、
 『あなたは右翼(right wing)なのか、
 左翼(left wing)なのか、
 いったいどちらなんだ』と迫ってくる。
 私はいつもこう答える。
 『私は右翼でも左翼でもない。
 一羽の鳥だ
 I'm neither left wing nor right wing,
I'm a whole bird.』と。」

リックの立場も「補完的」ですね。
右派も左派も両方アメリカをよくするために必要なんだ、
というわけです。

私もそう思います。
日本には自民党も必要だし、
立憲民主党も必要なのです。
そのうえで日本を(神の視点で)良くする政策は支持し、
良くしないと思う政策には反対する。
その発言者の派閥は問わない、
という「是々非々」のスタンスが、
私が自らの信仰から導き出す、
自分の政治スタンスのあり方でもあります。

最後の引用に行きます。

→P477 
〈道徳は、人々を結びつけると同時に盲目にする。
「それは反対陣営に属する人々のことだ」
と思う人もいるだろうが、そうではない。
私たちは皆、部族的な道徳共同体に取り込まれてしまうのだ。
一つの神聖な価値観の回りに肩を組んで集い、
なぜ自分たちはかくも正しく、
彼らはいかに間違っているかを説明し、
合理化する議論を繰り返す。
私たちは、異なる見解を持つ人々が真理、理性、科学、
常識に対して盲目だと考えたがるが、実のところ、
自分たちが神聖とみなす何かに話が及ぶと、
誰であれ目がくらんでしまうものなのだ。
(中略)
道徳は、人々を結びつけると同時に盲目にする。
それは、自陣営があらゆる戦いに勝利することに
世界の運命がかかっているかのごとく争うイデオロギー集団に、
私たちを結びつけてしまう。
そして、どの集団も、とても重要なことを言わんとしている
善き人々によって構成されるという事実を、
私たちの目から覆い隠してしまうのだ。〉

最後に著者は、「道徳は人々を盲目にする」と警告します。
「道徳」を、「自らが感情的に結びついた政治派閥」と言い換えても、
だいたい同じ事です。

同じ政治的意見を持った人は、
簡単に「クラスター化」します。
「玉(ダマ)」になって殻に閉じこもり、
その殻の中から別の殻の人々を、
「あいつらは頭がおかしい」と攻撃しあうのです。

日本の(たぶんアメリカでも)ネット掲示板で、
まさに起きていることですね。
右派は左派を「パヨク」とののしり、
左派は右派を「ネトウヨ」と悪口を言う。

しかし先ほどの「whole bird」を思い出してください。
左右の両極端に分かれてお互いにののしり合っている集団が、
果たしてよりよい国として前進できるでしょうか?
右の翼と左の翼が互いにけんかしている一羽の鳥は、
果たして大空に羽ばたけるでしょうか?
望みは「薄」です。

私達はお互いの「象」に影響を与え合う必要があります。

著者のハイト氏たとえば、
ワシントンDCでの政治対立の深刻さと、
その「没交渉」が全米に行き渡ってしまっている事実を指摘し、
首都において議員が家族ごと一緒の居住区に住むなどの
工夫が必要だと説きます。
「お互いに顔を合わせる必要がある。
 そうすれば反対陣営の人も、
 『自分と同じぐらいアメリカを愛している人間なのだ』
 という当たり前のことが分かる。
 それがとても重要なのだ。」と。

別にワシントンDCでなくても、
もっと卑近な例に引きつけるなら、
「自分と反対の政治的立場を持った人とご飯を食べ、
 語り合う」ことが大切です。
それは怖い体験かもしれません。
しかし「相手は自分と同じぐらい真摯な気持ちで、
自分と反対のことを信じているのだ」という認識のもとに、
相手の意見を聞いてみることが大切です。
その場合、自分の「象の乗り手」(理性)から、
相手の「象の乗り手」(理性)への、
コミュニケーションにならないことが大切です。
その逆もまたしかりです。
デイヴィッド・ヒュームが指摘したとおり、
「相手の感情に訴えかけない説得は相手を変えない」のです。

相手の内在的論理について勉強したうえで、
相手の感情の何がそれを支持させているのか?
「象の声」を聴くことが大切です。

これは二つ目の質問の答えになりますが、
だから私がもしアメリカに住んでいて、
トランプ大統領の熱狂的支持者と対峙したらまずは、
「同意を得られるか分かりませんが、
 私は右派も左派も両方アメリカに必要だと思っています。
 あなたはトランプ大統領はどんな点で、
 アメリカをよくしてくれると考えていますか?」
と聴くと思います。

その上で、
「メキシコ人を追い出してくれることだぜ!」
と彼が言ったとしたら、
「メキシコ人がいないほうが、
 アメリカは住みよくなるということですね。
 ということはアジア人の私も出て行ったほうが良いのでしょうか、、、」
みたいに会話が進むかもしれません。

ここまで読んできておわかりのように、
私は相手を「説得」することは出来ないでしょうし、
(そもそも最初からそんなことは望んでいません)
相手に何の影響を与えることも出来ないかもしれません。
きっと、「合意形成」は難しいでしょう。
というよりこの手の会話の目的は合意形成ではありません。
最後に「我々は違う。」という相違の確認になる会話、
というのも世の中にはあり、それも大切な対話です。

しかしその会話のなかで、
「自分の象(象の乗り手ではない)」も開示する勇気をもって、
正直に真摯に相手に向き合うなら、少なくとも、
相手に「メタメッセージ(言外の情報)」が伝わります。
それは「リベラル派のコイツも、
一応真摯にそれを支持しているのだな」ということです。
私も彼との会話の結果、
「彼と私の意見は違うが、
 彼が真摯だということは分かった」
となります。

これが最も大切です。

ネットでは絶対にこれは起きません。
ネットは「乗り手」と「乗り手」の会話だからです。
そこには情動のやりとりはなく、「象」の出会いは起きません。
リアルな立ち話やコーヒーショップでのみ、
お互いの「象」がふれあうことが出来るのです。

そしてそのふれあいは、
「社会の分断」に小さくても一石を投じるものになります。

ハイト氏は本書の最後に、
自由民権運動のときキング牧師らと共に運動に関わった、
ロドニー・キングの言葉を引用しています。
「黒人と白人が一緒に手を取り合って生きていくのは、
確かに非常に困難かもしれない。」
しかし、それでも、、、とロドニー・キング氏は言いました。
「誰もが、ここでしばらく生きていかなければならないのだから、
やってみようではないか。」

私達はいくら右派が嫌いでも、
右派のいない世界に脱出することは出来ませんし、
いくらリベラルが嫌いでも、
リベラルのいない世界に脱出することは出来ません。
「だれもが、ここでしばらく生きていかなければならない」のです。
だとしたら、一緒にやっていこうではないか、ということです。

あと、最後の最後にちゃぶ台返しのような話を一つ。
「男と女の違い」は、「保守とリベラルの違い」よりも、
もっともっと、もっと大きなものです。
多くの夫婦がそれを乗り越えて手をつなぎ合っているのだから、
私達が社会で「右派と左派の違い」を乗り越えて、
協力できない理由はありません。
希望を持ちましょう。



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